2009年06月30日(火)

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」マタイ6:9



御名があがめられますようにとは、どういう意味だろう。
「御名」とは神ご自身の事であり、神が聖とされるように、神が神とされるようにとの意味だ。

私たちの生活を通して、神の素晴らしさが崇められ、周囲の人々に神がはっきりと表されて行くことだ。私たちは心配症であり、先は見えないので、いつも不安で、思い煩ってしまう。

くよくよする。自分で負ってしまう。そんな時、神を神として行くなら、そこに信仰が働き、神は思い煩いと心配を平安に変えて下さる。
そして、すべての必要を満たして下さる。

対人関係において、様々な悩みや問題が生じる。自分への攻撃や非難が来る時に耐え難い。
相手を責め、非難し、報復したい思いが湧き上がる。
しかし、主は「御名があがめられますように」と祈れと言われる。

そんな時に、神を神として行くなら、自分の事で一杯だった状態から、神の御前にへりくだり、神のみ思いを、神の喜ばれる事へと視点が変えられる。そして、自分が変えられ、赦し、受け入れ、愛する心が与えられる。

「御名があがめられますように」と祈る時、自己中心の自らの姿を、状態を、照らし出され、神を神として行くように正される。自らが正されて歩む時、神を知らない周囲の人々に、
私たちを通して、御名が崇められて行く。
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私達が、話す時、また何かをする時、そこにいつも神様が介在しておられると、周囲にわかるようなそんな生活をして行きたい。私達を通して、御名があがめられますように。


2009年06月29日(月)

「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14


ペテロは、主に「あなたに従って来たが、何をいただけるか」と質問した。
この問いに、主は、天の御国の価値観は、地上の人間の価値観と非常に異なることを、表された。

ぶどう園の主人は、朝6時から3時間おきに、労務者を雇った。
朝6時の者には1デナリの約束をし、次からは約束はせず「相当のもの」と言った。最後5時の者には何も言っていない。

そして6時になって、最後の者から順に1デナリづつ支払われた。全員1デナリであった。
最後の1時間の者が1デナリで、早朝から12時間働いた者も1デナリだ。

約束通りの1デナリであったが、不平不満で一杯になり、主人に文句を言った。
12時間働いた者と1時間の者が同一金額とはどういう事かと。

ここで、ふと自分を顧みて、自分はどう感じるのだろう。不公平だと思うだろうか。もし不公平に感じるなら、それは自分を朝一の労務者に重ね合わせている。

では、もし自分を最後の者に重ねたらどうだろう。仕事がなく、その日の糧を待ちわびている家族の姿が浮かぶ。何も持って帰れない。家族がどんなに落胆するだろう。
どんなに無力感に襲われていただろう。

そこに1日分丸々の報酬が貰えるとは。私たちもへりくだる時に、初めて、与えられている恵みの大きさが見えて来る。
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自分の分を取って帰りなさいと主は言われる。報酬を、ただ当たり前に受けているから、不公平だとつぶやいてしまう。最善の時に導かれたのだから、自分の分を感謝して受けていこう。


2009年06月28日(日)

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」ヨブ1:21


ヨブは人災や天災によって、すべての家畜や雇い人、全所有物を、7人の息子、
3人の娘を、何もかもを1日の内に失った。

その後、今度はヨブ自身が、足の裏から頭の頂まで、全身に悪性の腫物ができ、
土器のかけらで身をかきむしるような、妻から神を呪って死ねと言われるまでの、
悲惨な状態に陥った。

極度の苦しみだ。しかし、ヨブが原因で起きた苦しみではない。サタンが、神に
ヨブを訴えたのだ。ヨブが神に従っているのは、祝福があるからだと。

つまり、御利益があるから従っているにすぎないと。それで、神は条件付きで、
サタンの介入を許された。

サタンが働いたわけだが、しかし、サタンが原因なのではない。一番の原因はそ
れらをすべて知り、これらを許された神ご自身だ。

神が許可されたから、起きた事だ。人間でも、サタンでもなく、運命でもない。
第一の原因が神であると信じる時、目に見えるところしか見えない状況から守ら
れる。

全主権が神にあり、その主権者のもとで起こっている事であり、その方は愛なる
方であり、最善以下の事はされない方だ。

ヨブは深く悲しんだが、しかし、神にひれ伏し、礼拝した。神の主権を認めた。
今、あなたの状況に、人でなく、偶然でなく、神の主権を認める事を、求められ
ているだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
目の前に、どうしてこんな事が?の不意の事態が起きる。しかし、不運なのでも、
サタンに翻弄されているのでもない。神の主権と支配のもとで起きている。その
神を見る時、どんな中でも信仰によって生きて行ける。神を新たに経験し、深く
知れる。


2009年06月27日(土)

「御霊によって歩みなさい」ガラテヤ5:16



私たちの心の内には、いつも全く相反する二つの思いがあり、双方があらがい、
葛藤する。
すなわち、律法に決して従わない、神に真っ向から敵対する肉があり、そして、
神に従おうとする、罪を悲しみ、神の御心に沿おうとする御霊の思いがある。

双方が引き合う。肉はサタンと一つになる。サタンが肉に誘惑して来て、肉を引
っ張る。御霊は、自らの内の新しい性質に語りかけ、促し、引き寄せる。

結局、どちらの思いに従って行くかで、結ぶ実が決定する。肉を選べば、そこに
罪があり、憎しみ、怒り、妬み、分裂、敵意、といった肉の行ないが現れて来る。
必ず、心が暗く、苦しく、辛くなる。喜びも平安も無い。

御霊を選べば、そこに愛、喜び、平安・・の御霊の実を結んで行く。自分の心に
は平安、喜び、自由、潤いがある。周囲にも、温もり、潤い、平和・・神を現し
て行く。

毎瞬、毎瞬、私たちはこの選択を行なっている。そして、害毒か、神のいのちか、
どちらかの実を結ぶ。

自分の古い人は、キリストと共に十字架につけられた。自分の肉を、様々な情欲
や欲望と共に十字架につけてしまった。

そこに立って、御霊によって歩むことを選び取る時、御霊が力を与え、助けて下
さる。葛藤が生じる時、自分の力で、どうこうせず、「わたしを呼べ」と言われ
る神に、即、「主よ。助けて下さい」と叫ぼう。御霊を選択できるよう助けて下
さる。

・・・・・・・・・・・・
自分の力で、肉で、信仰生活を歩むと、全く「出来ない」という壁にぶち当たる。
出来ない事を認めて、無力を認めて、御霊に頼る時に、御霊の助けを体験する。
自分の力でなく、御霊に導かれて歩む時、御霊の力によって成し遂げられる。


2009年06月26日(金)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Iテモテ6:6



劣等感に落ち込むだろうか。劣等感はなぜ起こるのか。それは人との比較から来る。自分は自分で良い、と思えないので、人と比較し、人との比較の中で自分を確認しようとする。

そこからは劣等感が生まれ、その劣等感ゆえに、優越感を持ちたい。優越感は、劣等感に変わり、アップダウンを繰り返す。その根にあるものは「高慢」だ。高慢から来ている。

劣等感から妬みや羨望が生じ、妬みから憎しみへと罪を犯して行く。自分に無いものを持つ人、自分が喉から手が出るほど欲しいものを持っている人、そんな相手に嫉妬し、憎しみを抱く。

その思いの底を探ると、自分には、あれが無い、これが無い、だから自分はダメ・・無いものばかりを数えていないだろうか。
そうでなく、神から与えられているものに目を転じよう。沢山のものを与えられている。一つ一つ数えて感謝を献げよう。

そして、与えられている賜物を大切に主のために使って行こう。
賜物を主のために使って行く時、必ず喜びが来る。御霊の喜びが臨む。感謝する事は、神を認めることだ。

すべての事において神の支配と主権を認め、受け入れる事になる。そこに不満は無い。人は天から与えられてこそ受けることができる。そこに信仰的態度があり、そこには平安があり、心には満足がある。
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神様が与えて下さっているものをよく見てみよう。不満は、感謝へと変わらないだろうか。人のものに目が行く時、それが苦い思いに変わっていく前に、一つでも与えられたものに感謝を献げてみよう。


2009年06月25日(木)

「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません・・赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」ルカ6:37



ある著者が「赦さないなら、あなたはまだその人から何かを求めているのであって、あなたはその人に永久に縛られてしまう」と言ったが、赦す事を拒むことは、相手に求め続けることになり、一生涯、その相手に自分の人生がコントロールされる事になる。

相手を憎むなら、憎悪の奴隷となり、結局、相手に支配され続けることになる。苦しいのは相手でなく、ただただ自分だ。相手は苦しくも何ともない。一人相撲であり、暗闇の中だ。

「赦しなさい」は相手のためでなく、自分のためだ。自分を縄目から解くことになる。赦さない心は、相手でなく、自分を縄目の中にがんじがらめにする。

ある人が、もう、他人にコントロールされる一生を生きたくないと決心した。赦しを意志で選択した。主の前に静まり、今、憎んでいる人、赦せない人、又、今までに嫌な思いをさせられた人、傷つけられた人々・・具体的に一人一人「赦します」と祈って行った。

その時「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」を、身をもって体験した。人を赦そうとする事によって、自分自身が、神から完全に赦されていること、受け入れられていること、深く愛されていることを知った。

大きな平安に包まれた。人を赦すから、自分が赦されている事を知る一瞬であった。人を赦さないなら、自分が赦されていることが、どうしてわかるだろう。
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人を憎んでいる間中、私達は囚われている。そこから解放されるために、赦せるよう意志を向け祈っていこう。そして自分がどれほど赦されている者かを感謝してみよう。


2009年06月21日(日)

「あなたがたの信仰が薄いからです・・もしからし種ほどの信仰があったら・・」マタイ17:20


「信仰が薄い」と「不信仰」は異なる。「信仰が薄い」とは、信仰が不足してい
ることであり、信仰が小さいことだ。

現に信仰はあるが、小さい。「不信仰」とは信仰が無いこと、神を無視し、否定
することだ。海上歩行の箇所で、ペテロが「来なさい」という主の御言葉を受け
て、水の上を歩き出した。

しかし、風を見て恐れをなし、ぶくぶく沈んだ。主はすぐに手を伸ばして、ペテ
ロをつかみ「信仰の薄い人だな」と言われた。

ペテロは御言葉さえあれば、主のもとへ行けるという「信仰」があった。主に不
可能は無いと信じていた。だから、「と命じて下さい」と言った。信仰があった
から、湖の上を歩けた。

しかし、主から目を離し、風を見た途端、恐怖に支配されてしまった。信仰が無
かったわけでなく、あったが、充分に働かせる事ができなかった。私たちもすで
に信仰は与えられている。

からし種ほどの信仰が、山を動かすと主は言われた。からし種とは極めて小さな
種だ。そのような極小の信仰でよい。それを発揮させて行く事が大切だ。

すでに信仰を持っている、だから充分に機能させて行きなさいと主は言われる。
信仰が薄いが、信仰は現存している。信仰が無いのでは無い。薄い信仰を働かせ
て行く時に、その信仰は必ず成長して行く。

山というのは、絶対に動かない不動のものを表している。極小の信仰で、その不
動のものが、絶対困難な大きな問題の山が動いて、導かれて行く。

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信仰が与えられているとは、何と嬉しい事だろう!信仰は不安の中でこそ、機能
し発揮し、強められて行く。今、問題と自分を見ていたら、その目を主に転じよ
う。「助けて」と言おう。すぐにつかんで下さる。この主と今日も歩める喜び!

(★誠に申し訳ありませんが、係が留守しますので、3日間お休みします。25
日から配信させて頂きますm(_ _)m)


2009年06月20日(土)

「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」マタイ17:17

不信仰とは、信仰が不足していること、少し足らない事ではない。不信仰とは、
神を無視し、自分の力、自分の判断、自分の知恵を信じることだ。

つまり、自分を神として生きることだ。自分自身と自分の人生の主導権を自分が
握って生きること。車の運転席に、自分が座って運転することであり、自分の思
い通りに生きることだ。しかし、そこに平安はない。

不信仰とは、自己実現、自分の利益のために、神を利用することだ。自分のため
の神であり、自分がより良く生きるための神、あくまでも軸が自分にある。不信
仰とは信仰を無視し、否定する事だ。

信仰とは、自分の思いを捨てて、神の判断、知恵、神の心を求めて、神に頼って
生きることだ。 自分は助手席に座り、主に運転席に座っていただく。

自分自身と自分の人生を、主に明け渡して生きることだ。信仰によって生きて
行く時、大きな変化は、自分の損得でなく、自分の利益ではなく、神のお心を求
めるようになる。

神が喜ばれることを求め、それが自分にとって不利益であり、損になろうと、従
って行く。損得の価値観でなくなる。これは大きな違いだ。

自分にとって何が都合良く、何が楽かではなく、神が何を喜ばれ、神の願いは何
かに、軸と視点が変わる。その時、自分自身は必ず、御霊の喜びと平安、真の心
の満たしを
経験する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
不信仰の時は、自分が肉にいる。この世的見方で見ていて、必ず自分中心になっ
ている。主に焦点を向ける時、信仰に転じている。信仰にある時は、深い安堵感
があり、自分になされる主の働きが楽しみであり、わくわく感があり、喜びがあ
る。


2009年06月19日(金)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20



悪魔の効果的、強力な策略は何だと思うか。「不満」は悪魔の隠しておきたい策略の一つだ。

日常を振り返ってみよう。罪を犯す時、必ずそこに「不満」が隠れている。妬み、憎しみ、裁き、敵対心・・どうだろう。アダムとエバはサタンの巧妙な誘惑にひっかかった。

「神は、あなたがたが神のようになり、善悪を知ることを知っている」あたかも神が人間を、どこまでも隷属状態に置いておきたいのだと。
人は神になれるのに、神がそれを嫌がり、とどめていると。

不満の思いに誘惑され、罪に進んだ。だから神は繰り返し繰り返し「感謝せよ」と言われている。勿論、毎日はルンルンで良い事、楽しい事づくめではない。
しかし、信仰によって、「感謝」を献げて行ける。

ある人が職場で、正しく評価されていないとの不満が鬱屈し、怒り爆発寸前であった。
辞表を叩きつけたい気分だった。しかし、信仰による選択をし、感謝を献げる決心をした。

「感謝しなさい」の御言葉を絶えず反すうし続けた。
現状は変わらず評価されていない。しかし、ずっと感謝していると、不思議な事に、主ご自身が自分を受け入れ、愛し、評価し、抱いていて下さる現実が実感として迫ってきた。

そして自分も、人を突き刺すトゲがあり、人を遠ざけていたとわかった。
自分が変えられ、人が寄って来た。心の奥の「不満」に気づくだろうか。信仰によって感謝を献げよう。
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感謝するとは、この状況が神様からのものと受け止めます、という態度だ。感謝と同時に不満はありえない。不都合な事の中でも「神様、あなたを受け入れます」と感謝していけますように。


2009年06月18日(木)

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」民数記13:30



ヨシュアとカレブのカナン偵察の箇所を通して学べる。それは、神の約束・神の大いなる祝福は賜物として与えられるが、それを受け取るためには、「信仰」が必要であることだ。神の祝福はまさにプレゼントとして与えられる。

「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」の通りだ。プレゼントとして与えられるのであるが、そこに「信仰」が要る。

カナンは、彼らに与えると、神が約束して下さった地だ。それが眼前に広がっている。ヨシュアとカレブは「上って行って占領しよう。必ずできる」と「信仰」に立った。

根拠は神の言葉であり、神が共におられる事だ。
しかし、他の斥候は「城壁は大きく、背の高い巨人がいて自分たちはいなごだ、上って行けない」と尻込みした。

民たちはそちらを信じ従った。エジプトへ帰ろうと言い出した。
結局、不信仰のゆえにカナンに入れず、荒野をさまよう事になった。
強大な城壁のためでなく、巨人がいたためでも、自分たちがいなごのようであったためでもない。「不信仰」のゆえであった。

私たちの前にも、頑強な城壁が、巨人が立ちはだかっているか。
自分は無力ないなごに見えるだろうか。

神と約束の言葉に立つか、状況と見える所と自分の思いに立つか、信仰と不信仰の分かれ目、そしてそれは自分の選択だ。
信仰と御言葉を選択できるよう、助けを祈ろう。
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「必ずそれができるから」と神様が言われても、それを信じ、生きて動かなければ、いつまでたってもただの傍観者だ。思いの中にいろんな声が聞こえて来るが、御言葉の約束を信じ、確かな歩みをして行こう。


2009年06月17日(水)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1



私たちの人生は思い通りにならない。実際、しばしばそう感じる事だろう。思い通りにならない方が多いかも知れない。イライラしたり、不安になったり思い煩ったりする。

「何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」と聖書は言う。つまり、「すべての事に神の最高のタイミングがある」という事だ。

私たちが絶対に良いと思うタイミングと、神が思われるタイミングがしばしば違う。私たちから見れば、最悪と思う時が、実は神の最善のタイミングだったりす
る。

人間は先が全く見えない。しかし、神は何もかもを見通しておられる。ヨセフは、かつて見た夢が実現するまで、長い歳月がかかった。その間、試練に次ぐ試練に苦しんだ。

兄たちの悪企みで売られ、異国の地へ。主人の好意を得、幸いが来たかと思えば、無実の罪で牢獄へ。出られると期待を持てば、忘れ去られて尚も、忍耐の時が続く。

苦難の中で、決して諦めず、自暴自棄にもならず、神を信じて、「時」を待った。信じて待ち続けた。結局、ベストのタイミングで総理大臣に任命され、ヤコブ一族を飢饉から命を救う事ができた。

「神のなさる事は、すべて時にかなって美しい」。私たちの思いとは異なる、「神の時」がある。待つ事は大変難しいが、今必要なのは、待つことだろうか。
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待つことは難しい。動き回り策を弄するほうが簡単だが、神様の時に全てが美しく完成される。今、祈りが聞かれないのではなく、待つことを学ぶ時なのかもしれない。


2009年06月16日(火)

「カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた」創世記4:5



カインとアベルが献げ物を献げたが、アベルの献げ物は受け入れられ、カインの献げ物は受け入れられなかった。その時、カインは、正しい神が受け入れられないからには、自分の内に何か原因があるのであり、それを捜して、悔い改めるべきであった。

しかし、カインはそうはせず、「ひどく怒り、顔を伏せた」自分に問題があるのでなく、神がひどい神であり、間違っているかのような態度だ。神の主権を認めることをしなかった。

神を認めないので、いわんやアベルを認めることもできない。
神に受け入れられたアベルに嫉妬し、その妬みは激しい憎悪となって行った。

神は「なぜ、憤っているのか」と御声をかけられ、悔い改めの機会を与えられる。「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる」と。

つまり、カインは正しく行なっていなかった。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」それゆえ「それを治めよ」と。

罪は悔い改めなければ、罪の上に更に罪を重ねてしまう。神の警告に従わないで、無視する時、罪に身を委ねてしまう。はっきりした行動となって罪を犯してしまう。

アベル殺害に至ったように。心の中の妬みや憎しみ、敵対心の一つ一つを、悔い改めよう。罪を悔い改める事が、治めることだ。次の罪へと進む事から堅く守られる。
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悔い改めの機会が与えられているのに悔い改めたくない。それは妬みや憎悪という罪の強さに勝てないからだ。自分の力では、決して激しい憎悪は治められない。怒り罪を重ねる前に、すぐに祈り、御言葉を聞こう。


2009年06月15日(月)

「なぜ・・ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか」ヨシュア17:14


ヨセフ族は、カナンで、広大な相続地を与えられたに関わらず、それらでは不足で、充分ではない、もっと欲しいと不満を訴える。
恵みを充分に与えられているのに、不平不満しかない。自らの状況だろうか。

誰が見ても充分なのに、不足だ。私たちの信仰生活にも当てはまる。恵みを見ようとしないなら、感謝がない。
どんなに恵まれていても、自分の心は常に欲求不満で不平だらけだ。

主が言われたように「感謝する」事は大切だ。感謝して行く時初めて、恵みを恵として、受け取れる。感謝が無い時、不満ばかりで、せっかく与えられているものの、大切さに気づけず、生かして行く事ができない。

恵みをどぶに捨ててしまう事になる。感謝して行く時、初めて恵みを恵みとして認識できる。感謝の思いが強いと、それを大切にし、生かそうとする。

一つ一つの恵みを大切にしているだろうか。家族はどうだろう。夫や妻、親や子、感謝しているだろうか。余りに当然過ぎて、恵みがわからない。大切にしているだろうか。それとも不満だらけだろうか。

与えられた時間、働き、賜物、人々・・今一度、与えられているものに感謝し、受け取り直し、大切なものを大切にして行こう。神は感謝する者に、更に感謝すべき事を与え増やされる。恵みが更に見えて来る。
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足りないものばかりを数えて追い立てられているだろうか。全てに感謝していこう。今与えられているもので満足できなくて、どうして弱さや困難が来た時、感謝できるだろう。


2009年06月14日(日)

「民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた」ヨシュア6:20

カナンに入ったヨシュアと民が、エリコの城を攻め取るために、神は常識では考
えられない方法を示された。

1日1回、6日間、口から言葉を発せず黙って町の周りを回り、7日目に7度回
って祭司達は角笛を吹き鳴らし、民は皆で、大声でときの声をあげよと。

そして、そのように、神から言われた通りにすると、エリコの城壁が崩れ落ちた。
自分たちで戦ったのではなく、何とかしたわけでもない。ただ、神に言われた通
りに行なっただけだ。

その時に、あり得ない事が起きた。頑強な城壁が崩れ落ちたのだ。見える状況で
なく、神の御言葉を信じて従う時に、神の奇跡を見る。

つまり、私達が神のみわざを見るのは、み言葉を信じて従った時だ。目に見える
ところは凄まじい影響力がある。サタンは見えるところを見せて、恐れさせ、失
望落胆させる。

しかし、信仰は、見えるところがどうであれ、み言葉を真実とし、み言葉の方を
選び取る。見えるところと異なり、常識とも違っても、み言葉に従おう。
すると、神が城壁を崩される。常識であり得ない事が成し遂げられる。み言葉に
従うなら、神のみわざが現れる。

今、示されている御心があるか。神のみ言葉を信じて、一歩を踏み出し、最後ま
で従い続けるなら、み言葉の通りに成る。

・・・・・・・・・・・・・・・・
神が「エリコをあなたの手に渡した」と言われ、信じて、言われる通りにするな
ら、城壁は崩れた。障害が崩れ去るかも知れないし、自分の心の城壁が崩れ去る
かも知れない。又、難攻不落の、人の心の城壁も崩れる。信仰に立とう。


2009年06月13日(土)

「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた」使徒8:1

「何でこんな事が?」時に、突如の苦しみが襲う。

しかし、実はこの迫害こそが、取りも直さず、神の新しい働きのために、みわざ
の前進のために用いられたのだ。

「エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人
となる」との御言葉の通りに、人々が散らされ、福音がエルサレム以外の地域に
宣教され始めた。教会の新しい働き、神のみわざは突如開始されて行った。

迫害自体は大きな苦しみ、痛み、不都合だったが、振り返る時、神の御旨の成就
であったとわかる。

同様に、すべてを見通す神の目からは、御旨が着々と成し就げられて行っている
事が、すなわち私達にとっては大きな苦しみ、悩み、困難の形となって現れる事
があるという事だ。

ヨセフも異国に売られ、無実の罪で投獄され、厳しい患難の中を通ったが、実は
イスラエルが存続するため、家族を救うために、予めエジプトに送られたのであ
った。

今、あなたにとって「何でこんな苦しみが?」「どうして?」と理解不能の事態
が目の前にあるかも知れない。

しかし、苦悩の迫害が、実は地の果てまで証人とされて行く、御旨の成就であっ
たように、神の目からは、正しく事が進んでおり、先には素晴らしい結実が待っ
ている。
今はわからないが、信じていよう。神に間違いはない。良い事のための計らいと
される。

・・・・・・・・・・・・・・・
痛い、しんどい事が起こる。その事自体は苦しく辛いが、大きな神のご計画の一
環であり、パズルが埋まって行くように、その先に確かな結実がある。状況に飲
み込まれてしまわず、神様視点で見ていよう。


2009年06月12日(金)

「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて・・」ルカ10:34



良きサマリヤ人の動機は「同情」であって、それ以外の何の下心も無かった。憐れみとは、かわいそうに思う心プラス行動だ。

単に感情的な同情でなく、行ないが伴っている。彼は、目の前の苦しんでいる、助けを必要とする人に、自分に出来る事をした。

避ける事をせず、「近寄って」ぶどう酒は消毒に、オリーブ油は薬として惜しげもなく使った。自分の家畜を使って、予定を急遽変更し、宿に伴い、一泊し親身に介護の上、費用も全額負担した。

愛するとは犠牲を払う事だ。金銭、労力、時間、突如の必要のために、彼は躊躇せず犠牲を払った。犠牲を払わずして愛する事は出来ない。

そして、彼はきちんと自分自身の仕事をするために出て行った。
自分の仕事を成し遂げ、再び帰りにお世話をした。ここで、自分の義務と責任を放り投げて、世話するのではないと学べる。

自分自身の責任は果たすべきだ。尚且つ、助けを必要とする人に、自分に出来る事をして行くことだ。

自分の力でなく、御霊が助けて下さる。今、目の前に御霊の示しがあるだろうか。「近寄って」と、なすべき事を促されているか。祭司とレビ人は保身のために、その場を逃げた。

「自分の家畜に乗せて」自らの何かを献げて、仕える事を、今、導かれているだろうか。
-------------------------
避けることなく「近寄って」行くと犠牲が生じる。適度な距離を保って、気持ちだけ寄りそって、ではなく目の前の助けを必要とする人がいるなら、何をしたらいいのか、よく祈って主に尋ねてみよう。


2009年06月11日(木)

「また、わたしのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」マタイ7:26



砂の上に家を建てた愚かな人とは、み言葉を聞くだけで実行しない人のことだ。御言葉を聞くのは好きで、幾らでも喜んで聞く。しかし、従うことをしない。

スポーツや習い事等、習得の仕方の説明を、耳で聞くだけで身につくだろうか。考えられない事だ。身体で実践しなければ不可能だ。ましてや、真理の御言葉は実行する時、聞いた御言葉に従う時、初めて血となり肉とされる。

御言葉を暗唱するだけでもだめで、実行する事が大切だ。
それが御言葉を生きるという事だ。愚かな人も賢い人も共に「み言葉を聞いて」いる。

聖書を読み、説教を聞くクリスチャンだ。そこまでは同じだ。しかし、砂の上と岩の上に分かれる。

愚かな人は、自分の顔を鏡で見て、立ち去るので「すぐにそれがどのようであったかを忘れる」ヤコブ1:24。御言葉は自分自身の真の姿を映し出す。

しかし、実行しなければ、鏡に映し出された自分の心をすぐに忘れる、すぐに御言葉を忘れ、主イエスを忘れる。

何一つ身につかず、培われれる事もなく、自分はずっとそのままで何も変わらない。成長も無い。それは試練の時に立ち行かけず、倒れてしまう。

「自由の律法を一心に見つめて離れない」、御言葉を一心に見つめ続ける時、御霊により実行できる。今、目の前に示されている御言葉に、一歩従おう。
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御言葉により、あらわになった自分の真の姿、次になすべきことも示されているのではないか。聖書を閉じて立ち去ってしまわず、祈り実行してみよう。御霊の導きはすぐに肉の騒がしさの中にすぐに消えてしまう。


2009年06月10日(水)

「あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」伝道4:4

       
    
御言葉は、人々が仕事をするのは、成功への欲望と人間同士の妬みだと言っている。
人に根深くある、妬みと競争心が、人を仕事へと駆り立てると。どんなに過重労働でもやってのける。野心のためなら、どんな犠牲もいとわない。ソロモンも経験した。しかし、それは風を追うように虚しく、決して満たしはない。

私達の仕事をする動機は何だろう。妬みと競争心、野心だろうか。人に勝ちたいのか。自分を誇りたいのか。神無しの世界ではそうかも知れない。

又、何を求めているのだろう。人の賞賛か。人の評価を求める途端、迷い出る。誰に認められたいのか。私達には、人に認められたいという根深い欲求がある。
肉による事だ。しかし、もしそうなら、人生が虚しく終わると警告している。

私達は、神に仕えるために仕事をする。働く事によって神に仕えている。それがどんな部署であれ、又、家庭であれ、又、もし身体が不自由であっても、そこで神の栄光を現わす。仕事を通して、私達は神に仕える。

私達の生きる目的は、キリストの似姿に変えられる事だ。仕事を通しても、変えられて行く。ある人は、仕事をする上の対人関係で悩み、苦しみの末、祈りの中で「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と示された。

心砕かれて、従って行った結果、本当に自分が変えられた。仕事と対人関係が祝福され、新たに神の素晴らしさを知った。
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動機は何か、心の状態を静かに見つめてみよう。不愉快にさせる人間関係、認められない故の焦りなど。事に仕えているのか、人に仕えているのか、自分か神様か。


2009年06月09日(火)

「どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか」使徒5:3

    

アナニヤとサッピラは自由であった。献げたくなければ、献げなくてもよい。又、半分ならそれでよいし、一部でもよかった。

丁度前に、バルナバが土地を売って献げた。皆の賞賛を見た。それが欲しかった。しかし、バルナバやペテロ達には信仰があった。

すべてを献げても、もし不測の事態が生じたなら、その時は必ず神が必要を備えられると。神を信じ、神への信頼があったので献げた。

しかし、アナニヤ達は信じる事ができなかった。教会に身を置いてはいたが、自分で自分の人生の舵取りをし、富に頼っていたので、恐ろしくて、とてもじゃないが、放せなかった。

それならそれで良かった。しかし、人に、信仰的、霊的と見られる事を願った。そこで信仰深い「振り」をした。

自分以上に見せかける事、そこが間違いだった。偽りはサタンから来る。サタンの仕業であり、そこにサタンが入り込み、聖霊の力強いみわざを壊そうとした。

信仰生活を破綻させるものは「偽り」であり、偽りが入り込むと致命傷だ。良い人に見せかけている内に、人から良い人と言われ、自分も良い人と信じ込んでしまう。

本当の自分がわからなくなる。御霊から罪を示されても、認める事ができなくなる。罪は無いと言うなら、真理は無い。「振り」は致命傷になる。

無いものは無いで良い。神が与えて下さる。神の御前に、とにかくありのまま正直でいよう。神はそれを喜ばれる。
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教会へ行けば、信仰深い振りをし世に出れば、そっちに見せかける。人を見るのではなく、神様に信頼し、ありのままを認めていこう。自分を見失うことから守られる。


2009年06月08日(月)

「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま、持っているもので満足しなさい『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」ヘブル13:5

 
    
人は欲望を満たそうとすると、ますます欲深くなり、どこまでも底無しだ。富を持つ人ほど満足しない。更に求め、幾ら得ても、もうこれで良しという事がない。

これは貪欲という罪だ。決して満たされる事がない。そして、貪欲は、無いものばかりを数えるようになる。無いものに目を向け、ますます不平不満に陥る。

あれが無いこれも無い。あれもこれも思うようにならない。惨めで欲求不満、口を開くと愚痴と不平で、心荒んでいる。
こうなると祝福のかけらも見えない。自分で恵みを閉め出している。暗闇の中だ。

目を転じて上を見上げ、今現在、その場所で、神を認めることだ。与えられているものに目を留め、恵みを数えて、感謝を献げよう。

悪循環が断ち切られる。不平不満から恵みの中に入れられる。視点が変えられる。何の感謝もなく、当り前に思っているが、それらは決して当然ではない。

神からの尊い賜物だ。感謝を始める時、当り前の一つ一つのものが、実は神からの愛の素晴らしい贈り物である事に、目が開かれて来る。

そして神が見えて、溢れる恵みが見えて来る。恵みは十分であることがわかる。神がどんなに良くして下さっているかが見えて来る。

状況と自分を見ている目を、神を見上げることに転じてみよう。必ず恵みが見えて来る。
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自分が頼っているものに依存して行く。お金、体力、名誉だろうか。私達はすぐに虚しい偶像に目を留め、ひかれて行く者だ。だからこそ、神様からの恵みをいつも忘れてはいけない。


2009年06月07日(日)

「わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます」ヨハネ14:27    



ハピーな事だけでなく、良いも悪いも、「すべての事を感謝せよ」とあるが、苦
しい、辛い事態を感謝して行く時、罪から守られる。

「嫌だ」「しんどい」「辛い」と思っている時は、相手をさばいているし、状況
も受け入れず、葛藤し、あがいている。だから、苦しい。

相手のせいにせず、環境のせいにせず、この事態を通して、神が何かを教えたい、
成長させたいと思っておられると、受け取るなら、そして感謝するなら、その時、
「平安」という何ものにも代えられない、素晴らしい宝物を得る。

すべての人が欲しいものは、この「平安」ではないか。富があっても、将来の不
安に怯え、今、平穏でも、続くはずがないと怯え、常に不安と思い煩いに追い立
てられる。

主は環境や状況に全く関係のない、影響を受けない「主の平安」を与えて下さる。

「何でこんな事が?」思ってもみない、不意の事態が臨む。突如の病発覚、経済
的困窮、子供の問題、対人関係の悩み・・そんな中で、極度の試練に関わらず、平
安に歩んでいる人々がいる。

「変える事のできるものは変え、変える事のできないものは受け入れる」。
自分を変える事はできる。しかし、相手を変える事はできない。状況を変えられ
る場合もあるが、変えられない状況もある。

変えられないものを、受け入れられるよう、祈ろう。でなければ、不毛の戦いを
する事になる。祈るなら、主が受け入れさせて下さる。その時、状況に関係なく、
心は平安で満たされる。

・・・・・・・・・・・・・・・
主の下さる平安は、環境や状況に関係がない。思い通りでない状況に、感謝する
時、状況は同じなのに、不思議に自分の心が平安になる。心を変えて下さる。
そして、主が教えたい事が受け取れる。


2009年06月06日(土)

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて・・全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」創世記22:2 

        
        
                   
アブラハムにとり、25年も待って与えられたイサクは大きな喜びであり、希望で
あり、命そのものであった。すべての望みはイサクにかかっていた。

イサクにより、子孫が増し加えられ、繁栄し、神の約束が成就して行く。イサク
はアブラハムにとってすべてのすべてであった。いつしか、アブラハムはイサク
を手の中に握りしめていた。

神はアブラハムに、命そのものであるイサクを献げるようにと言われた。アブラ
ハムの苦悩はどんなものだったろう。最愛のイサクを殺さねばならないとは。

イサクが死んだなら、神の契約はどうなるのか。何もかもがイサクにかかってい
る。神は真実であり、絶対に約束を破られない。

しかし、いけにえにと言われる。アブラハムの心中はいかばかりであったろう。
はっきりと「試練に会わせられた」とあり、試練とはテストだ。これは厳しい試
練であり、イサクより神を愛するかのテストでもあった。

深く愛するものは、気づかぬ内に偶像となる。握りしめてしまう。彼は決断しイ
サクを献げた。まさに自分を献げ、自分の人生を、何もかもを「断ち切った」の
だ。命そのものを手放した。イサクを明け渡した。

アブラハムの苦悩、痛み、壮絶な信仰の姿を見る時、「あなたの愛しているひと
り子を」御父が御子を私たちのために殺して下さった、壮絶な愛を見る。その愛
で、あなたは愛されている。
・・・・・・・・・・・・・
イサクを献げる極みまでの痛みを通して、御父の痛み、それほどまでの私たちへ
の愛を垣間見る。何という痛みの愛だろう。そして、自分のイサクって何なのだ
ろう。神は、イサクというより、アブラハムの愛を求められた。


2009年06月05日(金)

「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63 


                          

信仰人生で、ある時、試練が立て続けに臨む事を経験する。これでもか、これでもかと、次々と苦しみが容赦なく襲い来る。

ある人が、親が倒れ、介護生活に入り、心身疲労が溜まる中、子供が警察沙汰を起こした。悩みと苦しみ、非常な痛みの中、更なる試練が臨んだ。信頼していた人の裏切りに会い、多額の負債を抱え込んだ。

もう心もボロボロで、立ち上がる気力もない。
うずくまったまま、何もできず、失意のどん底だった。まさにどん底を経験した。

しかし、そのどん底に主がおられたのだ。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」が光のごとく心に臨んだ。

それは、神が自分に対して語られた、霊でありいのちなる言葉であった。
心に光が射し込んだ。信仰がよみがえった。その言葉は、沈んだ心にあかりをともし、目を上げさせ、失意から信仰へと、死から命へと生き返らせた。

主のあわれみは尽きず、自らの力が尽きた、その時にこそ、真に主に出会う。
無力を知る時こそ、大きな恵みの時だ。神の口から出る言葉は、どんな状況であろうと、私達を失意の渕から起こし、新しい力を与え、生かしてくれる。
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主の言葉が真に心に落ちてくる時は、例えそこが闇の底であっても一番幸せな時だ。自分の内がどうであれ、周りの状況がどうであれ、神様を見上げる事ができるなら、そこに神様のいのちが注がれる。


2009年06月04日(木)

「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」ピリピ3:13



神が過去に与えて下さった祝福、恵み、教えて下さった事、学び、良くして下さった事は決して忘れてはならない。
「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」の通りだ。
何一つ忘れてはならない。しかし、忘れるべきものがある。

過去の罪、失敗、罪責感で、今もさいなまれているなら、それは間違っている。その罪を悔い改めたなら、神は完全に赦し、二度と思い出さないと言われる。
忘れると。完全な赦しを受け取り、前進すべきだ。

例え、失敗があったとしても、人生そのものに失敗したのではない。誰しも失敗する。弱さゆえに必ず失敗する。失敗しない人は一人もいない。

転んでも再度立ち上がるべきだ。大切な事は失敗から学ぶことだ。失敗から学べば良い。信仰の父アブラハムも何度も失敗し、イサクもヤコブもモーセもダビデも失敗した。

しかし、彼らは皆、ヘブル11章の信仰の人々に名を連ねている。モーセは自力で民を救おうとして失敗した。荒野での40年を通して、砕かれ整えられ、出エジプトのリーダーとして素晴らしく用いられた。

ダビデも大罪を犯したが、真っ直ぐに悔い改め、赦しを受け取った。
ダビデの詩篇から受ける慰めと益は測り知れない。私たちは赦しを受け取り、今、後ろのものを「忘れ」、前にむかって進もう。
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告白し悔い改めた罪が完全に赦されているというのは、なんと幸いなことだろう。くり返し失敗する者だが、また赦された朝を向かえる。後ろのものを忘れ、前進できる恵みに心から感謝して大切な今を歩もう。


2009年06月03日(水)

「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」ヨシュア3:5



今、あなたの前に、とうとうと流れるヨルダン川が、エリコの頑丈な城壁が、立ちはだかっているだろうか。自分ではどうにもできない、難問題かも知れない。しかし神は導いて下さる。

まず、「あなたの身をきよめよ」と言われる。御前に静まり、御霊に心をよく探って頂いて、御心にそぐわない罪を悔い改めよう。

妬みや怒り、高ぶり、自分の思い通りとの頑固な意志、決して赦そうとしない心、なおざりにしている事・・御霊に導かれるままに、心を照らされ、一つ一つ神に告白しよう。

エリコ攻略のために、神は不思議な方法を示された。
町の回りを1度回り、7日目は7度回り、ときの声を上げる。変わった方法だ。
しかし、民がその通りに、神が言われた通りに、ただ従順に従った時、エリコの城壁は崩れ落ちた。

いっさい人間的な何の力でもなかった。神の力であり、奇跡であった。
神の御声を聞いて、神の示される事に、言われた通りに従うことが秘訣だ。
あなたの前に立ちふさがっている、難問題の城壁が崩れ落ちて行くのを見る。

どうであれ、神の方法で導かれる。自分の内側の城壁が崩れ落ち、平安にされるのかも知れない。御心なら状況を変えられ、御心なら自分自身が変えられ、事態を受け入れることが出来るようにされる。

身をきよめ、御声に従おう。主は不思議をされる。
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自分のうちにある罪に気づいているだろうか。それなら神様の告白し赦していただこう。
神様との正しい関係に立ち、そして後はすべてを神様にお任せしてついて行くだけだ。必ず神様の栄光を見る。 


2009年06月02日(火)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして・・」ピリピ2:6    

          

人はプライドで生きている。男性は自分の仕事や地位に格別高いプライドを持ち、母親は子供に自分の夢を託し、子供により自分のプライドを満たそうとする。

子供を溺愛するが、愛しているのは実は自分だ。大切なのは自分のプライドだ。様々な対人関係で、プライドとプライドが激突し、火花を散らし、争い、怒りや憎しみが起こる。

ある婦人はお節介な隣人にいら立っていた。余りに立ち入って来るので、怒りが湧き、争い寸前となった時に、祈りの中で、主のへりくだりを示された。

心砕かれ、こちらにも悪い態度があり、詫びて、日頃の世話を感謝した。
すると相手の態度が柔らかくなり、悩みを話して来て、驚いた。
心通い合い、御霊に従う祝福を経験した。

プライドに生きると、決して心休まる時が無い。パリサイ人は徹底してプライドに生きた人達だ。彼らの立派な行ないの動機は、愛ではなくプライドだった。

プライドでも立派な行ないが出来る。主はプライドとは無縁で、徹底して愛に生きられた。
様々な事態やトラブルが起こる。その中でプライドが砕かれ、へりくだらされる。
神のご計画だ。今、問題があるなら、そこにもプライドが潜んでいるだろうか。

そのままを主に申し上げよう。取り扱って、自由にして行って下さる。
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心がギクシャクしている時、そこにプライド、高慢が潜んでいる。プライドで心が窮屈になっていないか。祈ろう。肉の思いに気づかされ、主が心を柔らかくして下さる。


2009年06月01日(月)

「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」マタイ25:25



1タラントは少額ではない。6千万円に相当する額だ。このしもべは、減らす事を恐れた。もし商売失敗したら、泥棒に盗まれたら・・、主人の怒りが恐い。

とにかく無くさないよう必死であった。そのため地に埋めた。しかし、帰還した主人は、使い込んだわけでなくそのまま返した、彼を怠け者と叱責し、追い出した。

失敗して減るより、いいのではと思いそうだが、主人の思いの置き所は違った。彼は、無くしさえしなければ問題ないだろう、主人に関わりたくなかった。

5タラントと2タラントの者が儲けたのは、主人を喜ばせたいとの動機だった。
そこに主人への信頼があった。万一失敗しても、主人は受け入れてくれると。だから思いきり商売できた。

埋めた彼は、主人理解が間違っていた。厳しい冷酷なひどい人と。そんな主人のために何をしたいとも思わなかった。私たちはどうだろう?神理解が間違っていないか。

怯える恐い方だろうか。常に要求され、取り立てる神であり、罰が恐いから従っているか。神の最大の賜物は、私たちへのキリストの愛であった。

御父と私たちは、その愛の信頼関係にある。主人はしもべに期待して、失敗のリスクも負った上で、信頼のゆえタラントを預けた。

「主人の喜びを共に喜んでくれ」喜びを共にするために。御父の大きな愛と信頼を受け取る時、精一杯応えようとしないだろうか。
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与えられた賜物を喜んで使う、その心を神様は喜んで下さる。そのお心がわかるので、また感謝して賜物をお献げできる。しなければならないのではなく、神様の喜びを自分の喜びとして行く大人の信仰で、今週も歩もう。