2009年07月31日(金)

「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」ヨハネ10:4

       
  
「羊はその声を聞き分けます」とある。羊飼いの声を聞き分ける事ができると。羊飼いは愛する羊を、その名で呼んで連れ出すからだ。

羊は良い羊飼いの声を聞き分けてついて行くのであるが、しばしば惑わす違う声も聞こえて来る。羊飼いの声を妨げる様々な声だ。盗人、強盗や雇い人だ。良い羊飼い以外の声だ。

サタンの声、周囲の人の声、自分の欲望から湧き上がって来る、肉の声がある。
それらの声が時々混線し、間違えそうになる。
欲望の声は自分と一体になっているため、時に非常に紛らわしい。
御霊の声と肉の声がわからなくなる。

わからない時はまず自分の思い、自分の好みを明け渡す事だ。
それは「イエス」でも「ノー」でもOKですという事だ。自分の思い通りでなくても受け入れます、との態度だ。

そしてよく祈り、祈りを積むなら、必ず御霊の声、良き羊飼いの声がわかる。悪に誘惑する声なら、ストレートでわかりやすいが、悪ではなく、罪でもなく、一見合法的で、良い事に見えることに騙されやすい。

サタンは光の御使いに変装する。羊飼いに似せたサタンの声がある、良い考えに思えるが、御心をそれさせる人間的な意見がある。最善に見える欲望の声がある。

まず、白でも黒でも、右でも左でも従います、の態度が大切だ。
それさえあれば、必ず良い羊飼いの声がわかる。「羊は彼の声を知っている」ので「彼について行く」。
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肉と、サタンの声がうるさ過ぎて、神様がさせたいと思っておられる事と自分がしたいことの区別がつかない。自分をまず脇に置いて聞いてみよう。今の思いは、右でも、左でもと言えるものだろうか。


2009年07月30日(木)

「私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り」ネヘミヤ1:6



ネヘミヤはハナニから、エルサレムの城壁が崩され、門は火で焼き払われた状態である事を聞き、悲しみ断食して神に祈った。
祈りの中で重荷が加わる中、4ヶ月後、王の前に出た。
しおれた悲しい顔つきであり、それを見た王はネヘミヤに尋ねて来た。心に何か悲しみがあるに違いないと。

この時、ネヘミヤは王に率直に心の内を話した。
すると、王の方から「何を願うのか」と聞いて来た。王はネヘミヤの心の重荷を察した。そこで、ネヘミヤはユダの地へ送って再建させて欲しいと願った。

王は願いを聞き入れ快く送り出してくれた。ここで学ぶ事ができる。
ネヘミヤはまずエルサレムの現状を聞いて知った。私たちの信仰生活も同様だ。
現状を、目の前の問題を正しく知る事によって重荷が与えられる。

まず現実を知らない限り、重荷の持ちようがない。
具体的にそれを祈りに持って行く時、更に重荷が与えられる。
ネヘミヤは重荷が増し加えられ、何かをしたいと思った。

その願いは答えられ、神により環境が目の前に次々と開かれて行った。
すべての必要が備えられて行った。私達もまず現状を正しく認識するところから重荷が生じ、祈りによって更にその重荷が深められ、具体的に行動するように導かれる。あなたにも、今、主が見せておられる重荷があるだろうか。
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漠然とした祈りも、状況を詳しく知るなら具体的な祈りへと変わる。計り知れないように見えても、心を開きその問題に取り組もう。次の祈りへと導かれる。


2009年07月29日(水)

「主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう」詩編116:2



私たちが、悩みや問題にぶち当たる時、どうするだろう。まず、ああでもない、こうでもないと、頭グルグルフル回転させ、今までの経験、方法を駆使して、対応策を考え出すか。

しかし、目の前の事態にどうしても解決策が見つからない、どうにもならない。
その時、真っ暗闇に放り出されたように、不安と思い煩いの深い淵に陥り、心臓が圧迫されるような苦しさと痛みを感じる。

そんな時、まずすべき事は「わたしを呼べ」と言われる、主を呼ぶことだ。
主に呼ばわる時、まさに主に触れる。
詩編記者も「死の綱が取り巻き、よみの恐怖が襲い」「苦しみと悲しみの中にあった」その時「主の御名を呼び求めた」。主よ、私の命を助け出して下さいと。

その結果、「たましいを死から、目を涙から、足をつまづきから救い出された」。
主の御名を呼ぼう。必ず主がいかに真実であるかを経験する。
人気の店では、よく列をなして人が待っている。美味しい食事をするためには、順番を待たねばならない。それでも人々は待っている。

電話や携帯は便利だが、すぐに話したくても、話し中に出くわす。私たちの主はどうだろう。順番待ちも、話し中も無い。即、喜んで耳を傾け、受け止めて下さる。深夜、早朝、時間制限も無い。あなたも今すぐ「主を呼ぼう」
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いつでも神様と語り合う手段を持っている事に感謝しよう。どうしよう、困った、ごめんなさいと、どんな事でも最初に神様に話し、問いかけて行けばいい。心がまず、守られる。


2009年07月28日(火)

「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばやく休みなさい」マルコ6:31



ほとんどの人が携帯電話を持っている。すぐに連絡が取れ、海外でも使え、ネットも出来て、大変に便利だ。普段は重宝だ。しかし電池が切れたらどうだろう。
どれほど便利でも、うんともすんとも使い物にならない。ではその時は、どうすれば良いか。そのまま放っておいたら、いつか使い物になるのだろうか。

答えはノーで、充電が必要だ。電源につないで充電すれば良い。
エネルギー補給が必要だ。私たちの霊的生活も同様だ。あなたは今、消耗しきって、疲れ果てているだろうか。

思いは悲観的な方向をさまよい、将来の見通し立たず、弱っているだろうか。
あるいは忙し過ぎるだろうか。ハードで立ち止まる時もなく、動き詰めで、許容量オーバーで、何も考えられないかも知れない。そんな時の解決法は一つだ。

いのちの源、エネルギー源からの補給を受けること、充電する事だ。弟子たちは、ひっきりなしに主のもとに来る人々に囲まれ、食事をする暇もなかった。今なら、電話だ、訪問客だ、食事準備だ・・というところだ。

目まぐるしく疲れてしまう。主は休むよう命じられた。休むとは二つの意味があり、具体的に身体を休める事と、一人きりになって御前に静まり、主と交わることだ。
身体の回復と霊的回復、充電により、再び新たなる力が臨む。
あなたにも今必要だろうか。主は休めと命じておられる。
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霊的な充電がなされていなければ、すぐに駄目だ、出来ないと弱気になってしまう。肉体の休養のように、霊的な充電は不可欠だ。主との交わりの中で、主にある強さと平安を、今日も受け取ろう。


2009年07月27日(月)

「この世と調子を合わせてはいけません・・心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2



この世の価値観と調子を合わせてはならない。自分の物の見方、価値観は非常に重要だ。それによって大きな事、些細な事、すべてにおいて左右されてしまう。
根にある価値観のメガネで、物事を見てしまう。いつも否定的、悲観的なら、どうだろう。

「だめだ」「うまく行くはずがない」という思考が根にあると、そのメガネで物事を見る。そして、だめだと確信させる情報ばかりを収拾してしまう。
というより実は自分が否定的、悲観的情報を集めて回る。

悲観的情報しか目につかない。逆に「行ける」「きっとうまく行く」なら、その情報ばかりがどんどん集まって来る。
「自分はだめだ」「どうせ何をしても失敗する」が根にあるか。
それとも「主が共にいて下さるなら、大丈夫」「行ける」との信仰的思考だろうか。

自分の根にある価値観は何だろう。そこが重要で、その思考パタンが変化すると、行動が変化し、行動が変わると習慣が変化し、習慣が変わると人格が変わり、人生が変わる。

漠然と人が変わることはない。底にある自分に培われている価値観を知り、そこを神の言葉に、つまり神の価値観に、置き換えて行くことが成長だ。
とっさの反応はどうだろう。いつもそこに帰り着く根深い思考パタンは何だろう。御霊に探って頂こう。主は私たちを信仰的、肯定的な者に変えて下さる。
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変える事の出来ない自分の思考、根にある価値観は、どこだろう。一つ一つ、そこに気づけるよう、御言葉を読む時も、礼拝のメッセージの中でも、変わりたいとの思いであずかって行こう。


2009年07月26日(日)

「イエスはご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6

祈りについて、時々聞く事がある。事態の好転を願って祈っているのに、祈れば
祈るほど、祈る前より、更に事態が悪くなって行く。あなたも経験した事がある
かも知れない。

一体どうなっているのかと、いぶかる。祈りは聞かれていないのかと不安になる。
そうでなく、祈りは聞かれている。更に祈り続けて行く時、忍耐の末に大きな報
いを受け取る。

アウグスチヌスの母モニカの、涙の祈りは有名だ。不肖の息子のために祈り続け
た。祈り続けるが、祈るほどに、見えるところは、返ってますます悪くなって行
った。
しかし「涙の子は決して滅びない」との励ましを受け、放蕩三昧の息子のために、
日夜祈り続けた。

そして当時世界一の歓楽街のローマへ行くという。そんな所へ行くなら、もう二
度と立ち返れないと、止めて下さいと祈り続けた。しかし、結果的に、アウグス
チヌスはそのローマで劇的な回心をする事になる。

幾ら祈っても、自分の願いと反対方向に事態が進む事がある。しかし、神のご計
画は人の思いを越えている。神は深く高い、み思いを持っておられる。

あえて、そこを通される事がしばしばある。そこを通らなければ、見ることので
きない神のみわざがあり、学びがあり、結果的に神の栄光が現される。神のご支
配と主権を認め、神を信じ、待ち望もう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
懸命に助けを求めて祈るのに、事態はむしろ悪くなって行く事を、時に経験する。
しかし、主はしようとしている事をご存じだ。信仰が試され、忍耐が求められる。
結果的に必ず神の栄光が現れる。祈り続けよう。素晴らしいみわざを見る。


2009年07月25日(土)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:3

神は、人間を神のかたちに創造された。そして創造されたすべてのものをご覧に
なり「見よ。それは非常によかった」と。人間は非常に良いものとして創造され
た。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」。

ところが、人間は自ら神を捨て、罪を選んだ。神無しで生きることを選んだ。自
分が神となり、自分の思いと力で生きる事を良しとした。

神に背を向けた結果、あらゆる混乱、混沌、不満、不安、無秩序が生じた。太陽
に背を向けるなら、影に生き、闇の中に生きるしか無い。

無差別殺人が起きる。容疑者は不満と鬱憤、鬱屈、怒りでいっぱいだ。人から認
められない惨めさ、自分に価値が無い、自分は負け組と。価値があると思いたい、
強烈な欲求があるに関わらず、思えない挫折。怒りとなり噴出する。

神がキリストの十字架のゆえに、罪人を愛し、受け入れ慈しんでいて下さる。信
仰者も絶えずここに立つ必要がある。神の言葉より、人からの評価、人の言葉、
世の賞賛、世の価値観、自らの思いを上に置くなら、必ず挫折し落ち込んで行く。

不満と思い煩いで一杯になる。自らの心を点検してみよう。神の言葉より、肉の
価値観、世の言葉が心を占めて、平安を失っていないか。自己存在の根拠を、今
一度、神の言葉に置き、神を心に据えよう。

・・・・・・・・・・・・・・・
自分がどう思おうと、感じようと、神が高価で尊いと言われるから、高価で尊い。
愛されている。自分の感情や感覚を軸に置くと、そんな感じがする時や、しない
時が出て来る。御言葉を軸に据えよう。そして、心の芯に受け取り、心から感謝
しよう。


2009年07月24日(金)

「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」申命記8:16



出エジプト後のイスラエルの民が「燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野」を通された。苦しい困難な状況だった。私達も信仰人生で、荒野を経験する。

苦しみ、不意の出来事、何でこんな事が、との苦悩の事態に遭遇する。
しかしそれは「ついには、あなたをしあわせにするため」、最終的にはあなたを幸せにするための取り扱いであり、必要ゆえにその苦しみが今、与えられている。
神は完璧なご計画を持たれ、無駄な事は一つもされない。
「あなたをしあわせにするため」との神のお心を受け止めよう。

ある中間管理職の男性が、苦しい役どころに立たされた。上からは圧迫、下からは突き上げ、なぜに自分ばかりと辛い役回りだ。目の前の苦しみに祈ると「あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするため」と語られ、自分の成長のため不可欠であり、自分が幸せになるために、どうしても通らねばならない授業と、御言葉に立った時、自分の心が変えられ、信仰もって前向きに受け止めることができた。

そして、その試練の行程の中で、沢山の教えられる事があり、深い霊的恵みを味わった。感謝でならなかった。
試練が来ると「なぜ?なぜ?」となるが、神は「あなたをしあわせにするため」と言われる。試練のプロセスの中に神からのメッセージがある。それを受け取る事こそが、大きな恵みだ。
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試練を通らないと知れなかったものは何だろう。何を教えておられるのか、自分の何処を変えたいと思っておられるのか。試練だけを嘆くのではなく、信仰の目でしっかりとらえよう。


2009年07月23日(木)

「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き」マタイ22:5


王子の結婚披露宴に招かれた客はイスラエルであり、王のしもべは預言者達だ。キリストの救いにより、神の豊かな祝福にあずかるようにと、最初から準備が何もかも整えられていた。

しかし、彼らは、王の心のこもった招待を気にもかけず、
畑に、商売にと出て行き、無視した。畑や商売など披露宴の後でもできる事だ。神は、愛を込めてすべてを用意して下さったのに、不要と拒否した。

これはイスラエルだけでなく、私達もどうだろう。仕事、勉強で忙しい、子育てで時間が無い、趣味で多忙、いつも神のための時間がない。
喜びの披露宴に招いて下さっている主のために、一生、時間がないままだろうか。

生活を見ると、時間が無いのではなく、神より多くのものを優先している。
神はあなたを愛して、あなたへの目的をもって創造された。
あなたには、神からの使命があり、あなたへの特別な御心があり、神が望んでおられる生き方がある。

あなたを、今の場所に遣わされたのは神だ。偶然でも、たまたまそこにいるのでもない。
尊いご計画の一環だ。あなたの境遇、使命、あなたの将来を「何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と、すべて最善のものを神は整えて提供して下さっている。

それを「気にもかけず」神を無視しているだろうか。神に目を向けるなら、溢れるばかりの備えに気づいて行く。 
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招きに答えて行くためには、今している事をやめて行かなければならない。主の招待にすぐに答えられないのは、何故だろう。最善の主の備えを感謝し、招きに答えよう。


2009年07月22日(水)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」エペソ6:12

 
サタンの誘惑は巧妙だ。賭け事、泥酔、嫉妬、憎悪の類なら、ストレートで誰にでもすぐわかる。しかし、サタンは光の御使い、つまり、神に偽装する。
神の正義の仮面をつけて来る。自分の思う正しい事を、自分の理想を、家庭や職場、教会で実現させようと、突き進む。

正しい事なので、サタンの誘惑だと気づかない。理想は一見良いものに見えるが、サタンの罠がある。御言葉によらない、神の価値観ではない、自らの描く理想は、実は偶像であり、自分を縛りつける。

現状がそうでないと、絶えず落ち込み、幻滅し、意気消沈し、周囲を責め裁く。又、自分を裁く。自己嫌悪に陥る。一番の敵は自分かも知れない。自分が理想の尺度に合わないので、絶えず自分を裁く。

理想に到達する事など無いので、いつも心が責められ苦しくて、辛い。
「あなたがたが神のようになり」がエデンの園での蛇の誘惑だった。神=理想で、神のようでない自分、理想に到達しない自分を、暗にいつも裁いている。

必ず心は辛く苦しくなる。サタンの罠に気づいて離れよう。
神のように自分でなるのではない。自分で完璧になるのでなく、理想に到達するのではない。主の十字架のゆえに、このまま、今のまま愛し受け入れて下さっている。

主の血潮があるゆえ、責められる事は何もない。主の愛に絶えず囲まれている。いつも安堵し、平安でいることができる。
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落ち込み、不安は何処から来ているのか。自分の思考や感情、動機をよく見極めてみよう。主は安心しなさいと絶えず言って下さっている。その主の平安をことごとく奪って行くサタンに、今日も気づけますように。


2009年07月21日(火)

「もし、あなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません」ヤコブ3:14 


              
私達は信仰生活で、神に従って歩もうとする時に、二つの声をいつも経験する。
神の御声とサタンの声だ。サタンは神を真似て同じ事をする。

神が御声をかけて導かれると同様に、サタンも語りかけをもって攻撃して来る。どちらも内に声となって心に聞こえて来るので、よく識別する必要がある。
サタンの声には底に苦みがある。妬みや敵対心、邪悪な思いだ。

御心を求める思いの中に、「苦い思い」が無いかをよく注意すべきだ。内に妬みや敵対心をもったまま、苦みを持ったまま、御声を聞こうとする時、混線して、サタンの声を神の御声と間違ってしまう。

妬みと敵対心は心を歪ませる。歪曲し、まっすぐに神の御声を受け取る事をできなくする。自分の感情が入り込み、判断を歪めてしまう。正しく受け取る事ができない。

自分は正しいと思っているが、実際は正反対の方向に向かってしまう。心に潜む苦い妬みや敵対心に極めて要注意だ。それをもったままだと、判断を誤ってしまう。神の御前に心を照らし出され、悔い改めよう。

悔い改める時、正される。そこに御霊が働かれる。神からのものは第一に、純真だ。真実で見せかけのないものだ。御霊が働き、神のお心が映し出される。神の御声がさやかに聞こえ、御心を悟ることができる。
心を歪ませてしまう妬みと敵対心に、充分心しよう。
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何が心に触れ痛いのか、苦いのか。それをよく見極めてみよう。動機がはっきりしてくる。サタンの声に応答しないよう、神様からの声を聞き分けられるよう、祈り心ですごそう


2009年07月20日(月)

『「主よ。この人はどうですか。」・・「・・あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」』ヨハネ21:22



ペテロは、主に従って行こうとした時に、ヨハネのことが気になった。「主よ、この人はどうですか」と。あなたにも、「この人」、特に気になる相手がいるだろうか。

友人や同僚だろうか。特に、同世代や、同種類、自分に似た境遇、似たような相手に、競争意識を持ちやすい。いつも気になり、負けたくないと思ってしまう。
表には出さないが張り合っている。

それは高じて妬みとなる。あなたはどうだろう。人知れず心の奥に潜む妬みが無いか。
妬みは、誰しもの心の奥に根深く巣くう罪だと言われている。
いつも相手と比較し、勝ちたい。

劣等感があるから優越感に浸りたい。その根は高慢であり、妬みがあると、必ず平安を失う。妬みは癌のようだ。浸食し、心を腐らせて行く苦い根だ。
ある人は、友人が賞を得て、人々の賞賛の的になった時に、心のざらつきを感じた。
何十年も全く気づかなかった事だが、心の奥にはっきりと妬みを示された。

最初からあったものだったが、認めたくなくて、ふたをしていた。心から悔い改めた。
平安と喜びが満ちた。あなたにも、ざらつく心があるだろうか。

ペテロは横のヨハネでなく、上の主を真っ直ぐに見上げる事により、殉教の死にまで、従い抜く事が出来た。
「この人」と言っている自分に気づき、その視点を常に「わたしに従いなさい」との主に向けよう。そこから平安が流れて来る。
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クリスチャンは、自分は他の人と違っていると知っている人達だ。神様が特別と見て下さっている自分、そしてその神様のご愛は他の人にも及ぶ。それぞれの祝福を祈り、自分に与えられた信仰生活を全うして行こう


2009年07月19日(日)

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」ピリピ4:13                    



すぐ周囲と比較してしまうだろうか。他と比較し、自分に無いものばかりを見つ
めて、くよくよし、劣等感に陥っているだろうか。劣るもの、無いものだけを見
ていないか。落ち込んで、消極的になり、前に進めない。

確かに、自分に与えられているものと、与えられていないものがある。事実自分
には与えられていないものもある。無いものを、あると思い込むのは無理がある。
幾ら言い張っても、無いものは無い。

あるものと無いものを、はっきりさせる事は大切だ。勘違いのまま進むのは危険
だ。無いものは無いときっぱり認めよう。主の主権がある。そうするなら、高慢
や劣等感に陥らない。

田原米子さんは、鉄道に飛び込み自殺し、一命は取りとめたが、両足と左手を切
断、残る右手も2本が切断され、今度こそ絶対に死のうとした。が、主に出会い、
「指が3本しかない」が「指が3本もある!」に変えられた。

心が変わると、何もかもが違って見える。昨日と同じ風景が輝いて見えた。生き
方が変わり、人生が変わった。生きる喜びと希望が与えられ、全国、海外を回り、
講演し、主の素晴らしさを証しした。

否定的なものばかり数えていないか。城壁は強固で、敵は巨人のようだ。不可能
だ。自分はいなごに見える。しかし、ヨシュアとカレブは「ぜひとも、上って行
って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」と状況でなく、主を見て、主
の約束を見た。

何を見ているだろう。視点の違いで、発想も、見方も、捕らえ方も、そして結果
も、天と地ほどに違って来る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
無い、無い、だからダメの、ネガティブ思考に陥ると、真っ暗で、何も見えない。
祝福のかけらも見えなくなるから、不思議だ。感謝を献げ始めると、光の中に入
れられ、溢れるばかりの祝福が見えて来る。状況は同じなのに、明暗くっきりだ。


2009年07月18日(土)

「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」ヨハネ11:4

                             
ラザロが病気になり、マルタとマリヤは主のもとに使いを送った。きっと主はす
ぐに来て下さると思ったろう。気が気ではなかった。主さえ来て下されば、ラザ
ロは助かる。

しかし、主は来て下さらず、ラザロは死んでしまった。主が来られたのは、死後
4日目だった。マルタ達の思いとは異なり、主にはご計画があった。病気を治す
事でなく、よみがえらせる事を意図されていた。

けがや病気なら治る、壊れた対人関係でも回復の可能性はある、しかし、死だけ
はどうにもならない。誰もどうにも出来ない。絶対無力、限界、絶望だ。その死
をも支配する神の御力を現わすため、そして「あなたがたが信じるため」だった。

将来よみがえる事は、教理としては頭で容易に信じられる、しかし、今、目の前
の事が信じられない。現実だからだ。頭では理解し、山ほどの聖書知識もあるが、
目の前の実際は信じる事ができない。私達の姿だろうか。

「その石を取り除けよ」心に石があり、見える所、常識で不可能だと結論づけて
いる。まず自分の心にある、「無理」「不可能」という不信仰の石を認める事だ。

「不信仰な私を助けて下さい」と主に向かう時、主は信仰を与え、みわざをして
下さる。心で、無理、不可能と決めつけていないか、諦めてしまっていないか、
心探ってみよう。
主は目の前の苦しみ、悲しみ、どうにもできない、墓の中にあるような事態を通
して、主の栄光が現われるようにして下さる。信じて行こう。

・・・・・・・・・・・・
石を取りのけた時、ラザロのよみがえりを見、素晴らしい神の栄光を拝した。信
じていない、信じようとしない自分を認める時、御霊は助けて下さる。妨げてい
る諦めの石、不信仰の石を悔い改め、取り除こう。神のみわざを見て行く。


2009年07月17日(金)

「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」ヨシュア3:5




ヨルダン渡渉だ。イスラエルの民はいよいよ約束の地カナンを目前にした。乳と蜜の流れる地だ。しかし、目の前にはヨルダン川が横たわっている。雪解けと春の雨で、一年で一番増水の時だ。

濁流が、岸いっばいに溢れていた。圧倒的な目の前の状況に、人間の力では完全に不可能だ。しかし、神がすべての指示を与えられた。
まず主は「契約の箱を見、その後ろを進むよう」命じられた。それは、主と主の言葉を、第一にして歩むという事だ。

自分の思いや判断でなく、主と主の言葉に従う歩みだ。生活の中で、祈りつつ、いつも主の御心を探り求めながら、歩むことだ。
次に「あなたがたの身をきよめなさい」、主に従う民に最も大切なものが「聖さ」であり、偶像礼拝者には無い、主の民の特徴だ。

罪は悔い改めること、罪から離れ、罪を捨てることだ。
「主が、あなたがたのうちで不思議をされる」。「主が、される」自分の力ではいっさい無い。私たちは、完全不可能の状況において、「主こそ神」であることを真に知る。

祭司達の足が水ぎわに浸った時に、水がせき止められた。水際に浸った時だった。従順の一歩を踏み出した時、奇跡が起きた。踏み出す前ではなかった。
あなたにとってのヨルダン川は、何だろう?

難しい対人関係か、誰かとの和解か、御心に一歩前進する事か。自分に死んで、信仰により、「前進せよ」と主は言われる。そうすれば、目の前でみわざを見て行く。
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渡らなければならないヨルダン川を神様は、私達の前に置かれる。信仰を持って進んでみよう。意志を向けてみよう。神の栄光を必ず見ることができる。私の前のヨルダン川は何だろう


2009年07月16日(木)

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」マタイ21:26



ゼベタイの子達、ヤコブとヨハネの母が、彼らと共に主にひれ伏して願った。主が王になった時には、自分の子達を右大臣と左大臣にして欲しいと。そしてこの事を聞いた他の十人は、この二人の兄弟の事で腹を立てた。

結局、思いは同じであり、先を越された事に怒ったのだ。弟子達の間では、互いの間に比較と競争が常にあり、関心の的は誰が一番かという事だった。そして皆が思っていた。自分が一番だと。

この自己中心こそが、主を見えなくさせ、御心を見えなくしてしまう。自分の価値観、自己中心のフィルターでしか、物事が見えないため、神の心がわからない。

主がこれから十字架にかかると告げられた、まさに「その時」の出来事だった。何と的はずれな事だろう。自分の事しか無い。しかし、私たちもどうだろう。
祈りが答えられない時、自分の願ったものでない時、反抗と不満で一杯だろうか。

結局、神すら利用して、都合の良いように叶えてもらい、自分の思い通りに生きたいという自分。人に勝ちたい、上でありたい、支配したいという欲望とプライド。

これが神の心を見えなくする。主の答えはどうか。仕える者になりなさい。自己に死なない限り、人に仕える事は出来ない。肉は、人になど決して仕えたくない。
誰にも邪魔されず、自分の好きなように生きたい。

そのような自分の姿を認め、主に明け渡して行く時、主が仕える者に変えて下さる。これは奇跡であり、神のみわざだ。
---------------------
誰にも邪魔されず、好きにやっている時は快適で、自己中心であることすら気づかない。仕えなければならなくなって初めて自分の肉の強さに気づく。人に仕えられる者は哀れだ。
少しでも、仕える者になれるよう祈っていこう。


2009年07月16日(木)

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい]

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」
マタイ21:26

ゼベタイの子達、ヤコブとヨハネの母が、彼らと共に主にひれ伏して願った。
主が王になった時には、自分の子達を右大臣と左大臣にして欲しいと。
そしてこの事を聞いた他の十人は、この二人の兄弟の事で腹を立てた。

結局、思いは同じであり、先を越された事に怒ったのだ。弟子達の間では、
互いの間に比較と競争が常にあり、関心の的は誰が一番かという事だった。
そして皆が思っていた。自分が一番だと。

この自己中心こそが、主を見えなくさせ、御心を見えなくしてしまう。
自分の価値観、自己中心のフィルターでしか、物事が見えないため、神の心
がわからない。

主がこれから十字架にかかると告げられた、まさに「その時」の出来事だった。
何と的はずれな事だろう。自分の事しか無い。しかし、私たちもどうだろう。
祈りが答えられない時、自分の願ったものでない時、反抗と不満で一杯だろうか。

結局、神すら利用して、都合の良いように叶えてもらい、自分の思い通りに生
きたいという自分。人に勝ちたい、上でありたい、支配したいという欲望とプライド。

これが神の心を見えなくする。主の答えはどうか。仕える者になりなさい。
自己に死なない限り、人に仕える事は出来ない。肉は、人になど決して仕えたくない。
誰にも邪魔されず、自分の好きなように生きたい。

そのような自分の姿を認め、主に明け渡して行く時、主が仕える者に変えて下さる。
これは奇跡であり、神のみわざだ。
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誰にも邪魔されず、好きにやっている時は快適で、自己中心であることすら気づかない。
仕えなければならなくなって初めて自分の肉の強さに気づく。人に仕えられる者は哀れだ。
少しでも、仕える者になれるよう祈っていこう。


2009年07月15日(水)

「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」Tテモテ1:19



信仰生活で良心は大切だ。良心とは「共に知る、共に認識する」という意味で、神の前で、神と向き合い、神と共に生きることだ。良心が麻痺するなら、信仰が成り立たない。

バテシバを見て、姦淫の誘惑が来たダビデは「姦淫してはならない」の戒めが臨んだ事だろう。しかし、「自分は王だ。誰も止める者はない。それに誰も見ていない」と、もう一つの声も来た。

その声が勝った。意志をそちらに向け、選択してしまった。そして、バテシバの妊娠を知ると、隠ぺい工作のため策略を練り、結局、夫のウリヤも殺害してしまった。
自らの良心があるに関わらず、その良心を押し殺し、麻痺させた結果、罪に罪を重ねた。

私達も同様だ。良心の声、御霊の声を無視し、肉とサタンの声に従って行く時、最初は良心の強い痛みが来るが、段々痛みが少なくなり、いつしか痛みを感じなくなってしまう。
悪いと思わなくなる。これは恐ろしい状態だ。そして自分を正当化し始める。この世的には地位も名声も得るかも知れない。しかし、心に平安は無い。

真の幸いは、自らの欲望の実現ではない。思い通りになる事ではない。真の幸せは、神に従い、神と一つになって生きる事にある。神の願いは何かを問い、神の御心を知り、それを行って行くことそこに喜びと平安がある。

ダビデは悔い改め、神に立ち返れた。全き平安が戻った。良心を麻痺させるなら、信仰の船は沈没だ。良心は大切。肉とサタンを拒否し、御霊の声に聞き従おう。

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良心とは、神の御前に生きることだ。そこに神のご愛と慈しみのまなざしがある。希望がある。肉とサタンが、自分の都合の良いように生きるよう誘惑するが、神が共におられる。今、御声が聞こえていたら従おう。



2009年07月14日(火)

「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける」イザヤ41:14



ヤコブは能力があり且つ非常に狡猾であった。父親を欺いて、兄エサウの長子の権利を奪い取った。それを知ったエサウは激怒。ヤコブは身の危険を感じ、追われるように家を出た。

叔父ラバンの家に寄宿する事になるが、ラバンもまた狡猾で、娘の結婚に際してヤコブを欺く。ラバンに騙されるヤコブ、かつて父親を騙した刈り取りが来た。
20年の歳月、辛い苦しい労働に明け暮れる。

しかし尚もヤコブは、巧妙な方法で家畜をどんどん増やし、ラバンの財産を自分のものにして行く。どこまでも悪賢い知恵のあるヤコブだ。

こんなヤコブであったが、神は大いなる祝福にあずからせるために、徹底的にヤコブを砕かれた。時が来て、神から帰郷を告げられ、ラバンの家を出た。

兄エサウが400人を引き連れて向かっていると聞き、恐怖におののく。自分への復讐、仕返しに違いないと。ヤボクの渡しで、ヤコブ一人残った時、御使いが来て格闘した。

そして、ヤコブのもものつがいが打たれ、はずされた。今や、もうヤコブは無力。自力で、どうにも出来ず、もしエサウが攻めて来るなら、殺されるしかない。ヤコブは全面的に砕かれて、神に拠りすがり祝福を受けた。

エサウはヤコブを見て、彼を抱き口づけして迎えた。神の前に虫けらとされ、ヤコブは砕かれたが、その時、自分で方策を練るのではなく、今度は、神が全責任を取って下さった。そこには大きな安堵と満ち足りた平安があった。
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恐れや不安の度に、自分で何とかしようとする。いつまでも不安だ。恐れるなと言われる神様から来る平安だけが本当に私達を強くする。安心していよう。


2009年07月13日(月)

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた、『よくなりたいか』」ヨハネ5:6



人は、余りに長期に悪い状態が続くと、気力が失せて、諦めてしまうものだ。何度やってもダメだった。これからもダメだろう。ダメに違いない。段々とほとんど確信になって来る。

そんな状態の人に、主は「よくなりたいか」と問われた。
「出来るか」ではなく、「そうしたいか」だ。「なれるか」でなく「なりたいか」。

周囲が幾ら助けようとしても、自分自身が、本人が意志しない限り、どうにもならない。彼は答えた。自分には介助者がいない。最初の一人だけが癒されるその池に、いつも他の人が先に入って行く。

それは介助者がいるからだ。自分にはいないから、絶対に先を越されてしまう。どうしようもないではないか。彼は38年間この思いでいたのだろう。自分には助けてくれる人がいない。だから不幸なのだ。

人や、環境をうらめしく思い、心に思いを溜め込んだ人生だったろう。人依存、環境依存でしかなかった人生を、主は自分の足で立って、歩む人生に導かれた。私達はどうだろう。

諦めてしまい、甘んじてしまっている現状があるだろうか。
まず願いすら、主に向ける事に萎えてしまっている。何度やってもダメだった。気力が無くなり、求めさえも失せてしまっているだろうか。

そんな状態から「よくなりたいか」と問われている。
介助者の問題でなく、自分自身の問題だ。あなたはどう応答するだろう。人依存、環境依存から、神依存への転換が真の自立だ。
それが自由で解放だ。主はそれを成し遂げて下さる。
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良くなりたいのかどうかを主は問われている。私達は主に求めているだろうか。いつか良くなるだろうではなく、今、立ち上がる意志を主に向け、ただ主に期待して歩もう。


2009年07月12日(日)

「私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて・・競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」ヘブル12:1 

          
                              
競走をするのに、邪魔になるものがある。重荷とまとわりつく罪だ。ずっしり重
い荷物を背負って、競技するならどうだろう。あり得ない。又、足もとにまとわ
りつく物があれば、からみついて、走れない。

信仰人生に、一人一人色々な重荷がある事だろう。ある人々には常に信仰に反対
する家族、又、職場で学校でのけ者にされ、嫌がらせをしてくる人々かも知れな
い。

そんな場合は、御言葉の通りに、重荷としては捨て去る事だ。そしてをれを改め
て自分に与えられたくびきとして、受け取り直すのだ。

その時、嫌々でなく、渋々でなく、その訓練の中で、練られ聖められる。又、自
分の力という重荷がある。自分の思い、自分の力で走ろうとする。辛くて、苦し
くて、しんどくて息切れして、あえぎあえぎとなり、走れなくなってしまう。

又、罪はきっぱりと、捨て去らなければならない。それは欲望を標的に、執拗に
からみついて来る。

若い役人は、主のもとに来たのに、からみつく偶像を捨てる事ができず、主のも
とを去った。ダビデは異性の誘惑がまとわりついた。

あなたにからみつく罪は何だろう。足を前に踏み出そうとすると、まとわりつい
て来るものだ。思いあたるかも知れない。走れないので転んでしまう。

罪が取り返しのつかないものになる前に、きっぱり捨て去ろう。主は、信仰の走
りを助けて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
きっぱり捨てるべきものは何だろう。又、くびきとして、しっかり受け取り直す
ものは何だろう。くびきは逃げたり、嫌々、渋々だと余計に首を絞め、辛くて苦
しいばかりだ。しっかり受け入れ、負うと軽くて、平安をもたらし、心地良いも
のとされる。


2009年07月11日(土)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」マタイ5:3



「幸い」に二つある。一つは外部から来るものだ。外部からの刺激が必要で、何
かの要因がなければ、幸せが感じられない。状況で左右され、周囲により自分が
アップダウンする。

自分にラッキーな事、ハピーな出来事があれば幸せを感じるが、そうでなければ
喜びは無い。又、それは人から認められる事や、人からの称賛に幸せを感じるの
で、人が自分をどう思っているか、人の目ばかりが気になる。

「自分を見ている他人の目」によって生きている。自分が生きていない。人の評
価次第で、どん底まで落ち込んでしまう。

もう一つは独立した、周囲に左右されない幸せだ。このような幸せがある。すべ
ては神から来ると信じているので、回りに関係無く、しっかり独立した自立した
歩みができる。

心の状態で表わすと、泉が湧き上がるように、内なる喜びがあり、それは外部に
影響されない喜びだ。内側からなので、状況に関係なく湧き上がる。御霊の喜び
だ。

又、神が与える幸せは、人がどう思おうと、人の評価がどうあろうと、自分自身
は十分幸せで満足なので、人に依存しない。人が関係ない。神にあって自立して
生きて行ける。

あなたはどちらの幸せを生きているだろう。心の貧しい者に、自分に何も無いと
認める者に、神は御霊の喜び、幸せを与えて下さる。心の貧しい者、へりくだっ
た者が、幸せを持つ。

・・・・・・・・・・・・・・・・
水は低い方にしか流れない。恵みは低い所へ、へりくだった所へ溢れ流れる。窮
地が、実は霊的豊かさへの入り口。行き詰まりのど真ん中で、自分に何も無いと
真に知る時が、解放の時で、神がすべてだと知る。安堵と喜びで心が満ちる。


2009年07月10日(金)

「競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく・・すべての人が時と機会に出会うからだ」伝道9:11



この世では、努力が必ず実を結ぶとは限らず、評価を得るとは限らない。「競走は足の早い人のものではなく」早ければ必ず勝つわけでもない。

訓練の成果を発揮できない事もある。転倒するかも知れないし、その日たまたま不調かも知れない。「戦いは勇士のものではなく」能力があり、努力したからといって必ず出世するわけでもない。

コネで後の者が先になるし、上司との関係もある。常に正しく評価されるとは限らず、努力に関わらず不条理を感じるかも知れない。
「すべての人が時と機会に出会う」成功のためには、どうしても必要なものがある。それは「時と機会」だ。

能力や努力と共に、その時々の様々な要因がからまり合う。そこには「時」と「機会」が不可欠だ。そして、これを握っておられるのが神だ。

神がすべての主権を持たれ、支配しておられる。目の前の一つ一つの状況が、神の主権のもとにあり、神の完璧な計画の中にある。
ゆえに主に従って歩むことが、祝福の秘訣だ。偶然は無い。時も機会もすべて主の御手に握られていると認める、人は心に平安を持つ。

そして、神は御心のままに、一人一人にふさわしく「時と機会」を与えて下さる。成功は神による。どんな時にも神を見上げていよう。今、もし、神からの時と機会が来
ているなら、捕えて従って行こう。
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神様が時と機会を動かされるから、私達はいつも委ねて歩めばいい。競争の成果はいつも神様のもの、全てのことを感謝し、神様に栄光を帰して喜んでいよう。


2009年07月09日(木)

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30



自分が軽んじられたり、無視される時、自分の思い通りにならない時、心にどんな思いが湧くだろう。自分が大活躍した地位を、人に明け渡さなければならない時、どうだろう。

ある青年はサークルのリーダーの立場を、体調悪く、別の人に代わってもらった。しばらくは重荷が取れて、むしろほっとしていた。が、その人が中心となり、自然と、皆の関心と人気がその人に移って行った。

その時、醜い嫉妬心が自分の心に湧き上がった。心が妬みで一杯になり、自分の罪に気づかされた。私たちもどうだろう。様々な状況や出来事の中で、試される。

信仰者でありながらも、自分が人に崇められたい、賞賛されたい思いは、根強くあるものだ。内側には根深い自己中心があり、自分が中心でなければ気が済まない。

人に勝ちたい、人の上に立ちたい、人の注目を浴びたい。自分が盛んになりたいのだ。
自己顕示、自己主張、自己実現・・しかし、主に盛んになって頂くためには、自分は衰えなければならない。これが唯一の道だ。砕かれなくてはならない。

目の前に起こる一つ一つを、そこに焦点を合わせ、自分が、強い自我が衰えるためと受け止めよう。へりくだる事は痛く、辛いが、何にも代えられない平安と、御霊の喜
びが心に満ちる。だから感謝できる。そして感謝して行く時、主が盛んになられる。それは何と喜びだろう。
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砕かれたくないものを握ったまま、主の十字架に預かっていく事が出来るだろうか。謙遜に主に従って行くことを妨げているのもを主に渡そう。主が、必ず補って余りある豊かな祝福で返してくださる事を信じよう。


2009年07月08日(水)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11



サタンの特徴は狡猾な悪知恵だ。信仰者を攻撃するために、ありとあらゆる邪悪な知恵を用いる。

信仰に立って、神を信じ、御言葉を握って、歩んでいる人には、不信仰の誘惑は効き目がない。そんな人には、巧妙に高ぶりに誘惑して来る。不信仰ではなく、自分の信仰を誇るように誘惑し、高慢にさせる。

ダビデのようにほんの一瞬の油断をついて誘惑をしかけて来る。
又、初心者には、神と御言葉を疑うように、巧妙にしかけて来る。

「本当に神は言われたの?」足もとが揺らいでしまう。
又、何の問題もなく、ぬくぬくと歩んでいる人には、世の誘惑が来る。
「世は楽しいよ。もっと自由にしたいように生きたら?」それぞれの弱さに的確に誘惑が臨む。

その人に、しっかり的を射て来るので、やられてしまう。強い所、誘惑にならないような所へ来ても仕方が無い。
あなたの最も弱い部分に、矢が直撃して来る。
いつもサタンが来ているのが、全く同じ所ではないだろうか。

あなたの弱点はどこか。又、「まつわりつく罪」があるなら、必ずそこに来る。
「まつわりつく罪を捨てて」とあるように、きっぱり「捨て」なければ、絶えずそこに来て、誘惑する。

サタンに足場を与えている事になる。まずサタンの誘惑が来たら、何より「わたしを呼べ」と言われる主に、即、主を仰いで、助けを求めよう。まず祈りが大きな力だ。
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祈りによって、御言葉によってサタンに立ち向かおう。自分の弱い部分を知れば知るほど、しっかり祈り、常に武装することができる。一人で立ち向かえば必ず負けてしま弱い者と覚えていよう。


2009年07月07日(火)

「神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているかがわかります」ヨハネ7:17



神は私たちに御心を持っておられる。御心を心から求める人には、神は必ず示される。第一に大切な事は、自分自身を明け渡す事だ。自分の意志と好み、 願望があるゆえ、神の御心がわからない事が多い。

その自分の強い思いが妨げて、御心が見えない。すでに、心に強い願いがあり、決定しているなら、それに反する御言葉や神からのメッセージが心に入るだろうか。

自分の思いに合致した御言葉を拾って行くに違いない。
自分の意志を明け渡す時、9割方解決だ。つまり、明け渡すとは、もし、自分の思い通りでなく、真逆の、「ノー」の答えが出てもOKですという事であり、それが明け渡すという事だ。

又、不義があれば聞かれないので、まず心を探り、罪を告白し、身を整えて、祈って行くなら、御心は必ず示される。
祈りの中で、御心にかなった思いを起こさせ、深い印象を与えられる。

又、デボーション、礼拝、学び会、様々な方面からの御声を心に留め、耳を澄ましていよう。神は語られる。焦らないで、急かないで、じっくり神を待ち望む事は大切だ。

強い導きが無いなら、今の場にとどまっている事が御心だ。神が動かされる時には、強い導きがある。

そして、はっきりと示されたなら、その御心に従うことが大切だ。従う事により、大きな祝福にあずかる。神がわかると言われている。もし御心がわかっていて、躊躇しているなら、今、一歩を踏み出そう。
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御心が与えられることは大きな祝福だ。右でも左でもの態度で耳を澄ましていよう。
示されたなら、従えるように祈っていこう。さわがしい肉の声、サタンの声に振り回されないように。


2009年07月06日(月)

「主はモアブをあなたがたの手に渡される」U列王3:18



ヨシャパテがユダ王であった時、北イスラエルの王はヨラムであった。北で、モアブの王がそむいたので、ヨラムはヨシャパテに援軍を頼んだ。

ヨシャパテは引き受け、揃って進軍して行くと、途中で水の無い所に来た。家畜のための水も無く立ち往生だ。この時、ヨラムはネガティブ思考に入った。

この窮地に、神が自分達を進軍させたのは、敵の手に渡すためであり、神に見捨てられたのだと。しかし、ヨシャパテは違った。神視点に立った。神はどう思われ、神のお心はどうなのか。
主の御心を求める事のできる預言者を求めた。

状況がどんなに悪かろうと、神に頼り、神の御心を求めて行く姿勢だ。ヨラムは「ヤロブアムの罪を彼も犯し続け、それをやめようとはしなかった」偶像礼拝の罪を犯していた。

私たちはどうだろう。偶像礼拝とは、単に像を拝む事ではなく、自己中心も偶像礼拝だ。自分の思い通りに、自分に都合良く行く事を願う。
もしそうであれば、事態が思い通りにならない時、いら立ち、思い煩い、悲観的になる。

ヨシャパテは、自分の思い、都合でなく御心を求めた。
水が無くなった時に、二つの相反する反応が出た。
目の前に、問題が起きた時、思い煩い、ネガティブに陥って行くのでなく、神の主権を認め、「この事における御心は何か?」と祈ろう。そこに神の御心があり、学びがあり、豊かな祝福が備えられている。
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いつも、自分視点で物事を捉えるなら、神様が介入される所はない。事態が悪ければ、うろたえ良ければ喜ぶ。自己中心な生活を正当化し続けるなら、水のない枯れた道をさ迷うばかりだ。


2009年07月05日(日)

イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ・・」マタイ17:17


私たちはこの世にいる。この世とは、主ご自身が「不信仰な、曲がった世だ」と
言われ、ペテロも「この曲がった時代から救われなさい」と言った、サタンが支
配し、力をもった世界だ。

見える所だけを見るなら、不法、不義、不正、矛盾に満ちた罪の世界だ。私たち
は、闇の勢力の支配する世にいる事をよく覚えて、よく祈り、識別して行かねば
ならない。

「曲がった」この世は、常にあなたを誘惑し攻撃して来る。物事をまっすぐに、
健全に、信仰的、肯定的に見させないようにする。

つまり、ものの見方を曲げて来る。心を屈折させ、否定的に見せる。ひがんだり、
すねたり、疑ったり、心を頑なにする。つぶやきと不満でいっぱいにする。

今も、あなたの心にこのような思いがあるだろうか。いら立ち、怒り、疑心暗
鬼・・それはサタンからの攻撃だ。乗って行ってはならない。

このような時代であり、世だからこそ、常に信仰的見方、前向きな態度が必要で
あり、大切だ。主はどう見ておられるか、主の視点に立つことが大切だ。

サタンは、疑いや混乱、分裂を持って来る。主は信仰、秩序、一致、平安、喜び
を持たされる。ひがみ、偏狭、屈折、疑心暗鬼はサタンだ。御霊からでは無い。

心をしっかり見張っていよう。思考が行動になる。心は大切だ。曲がったものが、
あなたの心に無いか、見方が歪曲していないか、御霊と御言葉の鏡で点検して頂
こう。気づかせて下さる。
・・・・・・・・・・・・・・・
ものの見方を曲げて来る、サタンに気づこう。心に疑心暗鬼や不満が来る時、闇
の勢力の攻撃だ。見破って拒否しよう。御霊からのものは純真、平和、寛容だ。
真っ直ぐで、率直だ。主を見上げる時、御霊の支配の中にいる。気づきが来る。


2009年07月04日(土)

「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった」マタイ14:20

              
あなたの心に、諦め思考が無いだろうか。
「私が少しぐらい証しして、何になる」「こんな微々たる献金、焼け石に水、し
てもしなくても同じだ」「私ごときのあるかないかの祈りなど無駄だ」「聞かれ
るわけがない」「どうせ、私など役に立たない」「大勢の未信者の中で、私一人
が何になる」

ふっと心に湧いて来ないか。サタンのささやきだ。「無駄だ」「そんな微力」あ
の少年が、幼稚園のお弁当ぐらいの微々たるものを、何になると、主のもとに献
げなければ・・

少年は「用いられる」という大きな喜びを経験できなかった。又、皆もこの奇跡
を見る事は出来なかった。

神は全能の力を持っておられる。「パンが5つと・・ほかありません」そんな事は
承知しておられる。「それをここに持って来なさい」と言われている。

これが何になる、その微々たるものを、私が何が出来ようと思う、そのあなた自
身を、神のもとへ持って行くなら、神はその献げられたあなたを用いて奇跡をさ
れる。

神が働かれる。どんなに微少であろうと、小さかろうと問題でない。神は大いに
祝福され、あなたは満ち足り、又、人々も満ち足りて、満腹する。あなたは、周
囲の祝福の器と用いられる。
臆せずに主に献げよう。「神にとって不可能なことは一つもありません」。

・・・・・・・・・・・・・
主はどんなに小さなものでも用いて下さる。微々たるものだとしても、心から献
げるなら、それを用いてみわざをして下さる。心を込めて、持てるものを、又、
無力な自分自身を主にお献げしよう。人々の満腹のために用いて下さる。


2009年07月03日(金)

「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただその自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」ガラテヤ5:13



自由とは、何でも好き勝手をする事ではない。放縦やわがまま、したい放題と勘違いしてはいけない。魚は水の中で初めて自由であり、私達は陸で自由なように、自由とは無秩序でなく、秩序がある。

魚は水の中が不自由と感じない。秩序の中で初めて自由がある。楽器を演奏する時、譜面に拘束されないだろうか。それを不自由と言うだろうか。それにより美しい演奏を楽しめる。

スポーツもルールに縛られてプレイするが、力一杯、持てる力を発揮し競技できる。
ルールが無ければ混乱状態だ。自由とは無秩序でなく放縦でない。

しかし、しばしば勘違いする。すべての束縛から解放される事が自由だと。そうでなく、拘束を受け入れて、沿ってゆくところに真の自由がある。

つまり、私たちは主の導きを受け入れ、従うところに、本当の自由がある。その主は極みまで愛して下さり、すべての面で配慮し、最善以下の事はされないお方だ。

主の動機は愛だ。今、くびきを負う事を嫌がっている事態があるだろうか。逃れる事が、解放と勘違いする。御心から逃げると、一瞬の解放感がある。

しかし、すぐに解放どころか、心に平安を失い惨めな状態になる。
実際は、くびきを受け入れてしっかり負う事が解放の道だ。
心に何にも替えられない、喜びと平安が来る。
-------------------
主が十字架にかかってまで得させて下さった自由を、私達は無駄にしてはいけない。御心に従える自由、人を愛せる自由、どんな時にも喜べる自由だ。与えられた自由で御霊の実を結んでいこう。


2009年07月02日(木)

「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」イザヤ61:1

人は皆、罪人であり、不完全だ。自分中心なため、自分が一番可愛いので、自分もどうしても人を傷つけてしまうが、自分自身もまた、人から様々傷を受けて、現在に至っている。

周囲から受けた傷が心にあり、それが、御言葉を神の言葉として、素直に受け取る事を妨げている事がある。御言葉が信じられないのだ。自分では信じている「つもり」だが、心の奥で愛が信じられない。

信じて大丈夫なのか、裏切られるのではないかと恐れている。傷があるからだ。御言葉を信じようとしないから、頭ではわかるが、いまいちわからない状態だ。しかし、自分では認識していなくて、御言葉を信じているはずと思っている。

何か心の底に押しこめて、ふたをしているものがあるなら、主はその傷を癒すために来て下さった。癒されるためには、自分で「私には〜〜の傷があります」と認める事が大切だ。

光の中に出され、祈りに出されるなら、その傷は癒される。
どんな傷であろうと、主は癒して下さる。苦しみ、悲しみ、痛み、どんな感情も押し殺さず、抑え込まず、そのまま主のもとに、何もかも持って行って良いのだ。

とにかくそのままの気持ちを主のもとに持って行くことだ。自分が自分の感情を知り、それを主が受け取って下さり、主から赦しや癒しを得る。
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主が癒すと言われる言葉を、素直に受け取れないのは悲しい。信仰の前進を妨げているものはなんだろう。不安や傷をしっかり見つめて主に持っていこう。補って余りある慰めと祝福が主から来る。


2009年07月01日(水)

「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか」伝道7:13




私たちは、神が曲げたものを、まっすぐにしようとして、何と悪戦苦闘、不毛の戦いをする事だろう。神が曲げられているのに、それをまっすぐにしようと、頑張る。

まっすぐにならないので、尚も苦闘し、信仰の戦いだと勘違いする。苦しくてどうにもならない。もはや性根尽きた時に、自分の力が失せた時に、神が曲げたものだと見えて来る。

どうしてまっすぐにしようとするのか。それは、視点が、軸が、自分にあるので、神が見えない。自分の思い通りが善であり、思い通りでない事が悪だ。

ここが間違いだ。「神のみわざに目を留めよ」自分の思い通りでなく、神のみわざを見よと。人生、自分の思い通りには決してならない。

神の主権を認める時、神が曲げたと見えて来る。
そして、それは神のみわざが現れるためだと。その時、物事が、信仰の目で見えて来る。

これが大切だ。まっすぐであろうと、曲がっていようと、それは神から来ている。
神の主権を認め、曲がっているものを受け入れる時、神のみわざが現される。
自分自身も成長して行く。何よりもそこに平安を得る事ができる。

あなたも神が曲げたものをまっすぐにしようと、悪銭苦闘しているだろうか。
神が気づきを与え、神の視点で見せて下さるように祈ろう。
新たにされて、前進できる。
--------------------
神様が、あえて曲げておられる、との視点に立ってもう一度見てみよう。自分の独りよがりで孤軍奮闘していないだろうか。祈ってもどうにもならない事は、受け入れられるようにとの祈りに変えてみよう。