2009年08月31日(月)

「そこで彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」ヨハネ21:6



ペテロ達は、熟練した腕、持ち前のプロの勘を働かせて、夜の間中、何度も網を下ろした事だろう。しかし、雑魚一匹とれなかった。

これは自分の力、自分の思い、自分の知恵での漁であった。肉の力と思いを駆使して、動き回っていた。自分を信じ、自分に頼っている限り、神を信じる信仰はない。神に頼る事はできない。

頭の中に神はあっても、決して頼らない。熟練しているはずの、自分達の力の限界を思い知らされた。無力を味わい知った。挫折と敗北感に打ちのめされていた。
その時、「舟の右側に網をおろしなさい」との声が聞こえた。

言われた通りに右側に網をおろした。これが信仰への分岐点だった。
自分の思い、知恵では、プロの腕でもってしても、一匹もとれなかった。
今更、魚がいるはずがない。しかし、自分の思いに頼らずに、信仰によって歩む事が、「右側に網を下ろす」ことだ。

打ちのめされて、無力を味わい知った時に、はじめて自分に頼らず、神に頼る。
「信仰」によって歩む。自分を信じている限り、神に頼ることはできない。魚がいるはずのない所に、魚がいた。

網を引き上げる事ができないほどの大漁でそのまま舟を岸につけて、網を陸に引き上げた。「信仰」によって歩む世界は、神のみわざを見る世界だ。あなたも、今、右側に網を下ろせと語られているだろうか。  
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人にはできないことも、神様にはできる。自分の力や、感情に頼っているなら、今日出来ていることも明日は出来なくて落ち込むだろう。自分で頑張ってしまわず神様に頼ろう。


2009年08月30日(日)

「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」ヘブル10:22                             

人間には良心が与えられていて、その良心は、罪を犯すと、とがめを感じる。そ
のとがめを無くしたいがために、良い事をする。

言葉で、態度で、人を傷つけた時に、良心がとがめ、平安が保て無いので、親切
な行いを返す。そして、プラスマイナスゼロにする。これで良心をなだめて良し
とする。

誰しもにあるかも知れない。しかし、これは、心がとがめるのが嫌で、自分の良
心を何とかしたいだけで、神への愛や、相手への愛などまるで無い。自分の事だ
けで、実は自己中心だ。

ある人は犯した罪に対するとがめから、懸命に奉仕したり献金している事に気づ
いた。神のために良い事をして、自分の良心をなだめ、罪滅ぼしをするのだ。

それで神に認めてもらおうとし、偽りの平安を得る。人は知らぬ間に、これを
繰り返している事がある。これは「邪悪な良心」だ。

良い事をして、神に受け入れてもらおうとの態度だ。そうであれば、主の十字架
は無意味になる。主はいたずらに死なれた事になる。この良心はきよめられる必
要がある。それはただ十字架の血潮によってきよめられる。

神に行ないで受け入れてもらおうとの、死んだ行ないから離れさせてくれる。主
の血によって良心はきよめられ、赦され、どんな時も恐れなく御前に行ける。

自分の行ないではない。ただただ、主の血潮に拠り頼もう。そこから真の安堵と
何にも揺るがない平安、喜びが来る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神様へも、人へも「ごめんなさい」を回避したくて、良い行ないでチャラにする。
プライドが最も避けたいのが「ごめんなさい」だ。しかし、神は砕かれた、悔い
た心を最も喜んで下さる。血により赦され、そして、平安に満たされる。


2009年08月29日(土)

「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44

人間には、人に認められたい根深い欲求がある。ある人が、自分が一生懸命仕事
を頑張っているのは、人の評価を恐れてである事に気づかされた。

時に、仕事上のミスがあった時には、残業や、休日出勤で人知れずミスに対応し
た。とにかく失敗を人に知られたくなかった。それは多大なストレスであった。

ある人も、人の評価を恐れて、へつらってしまう事に気づかされた。人の意見に、
つい同調してしまうのは、嫌われたくないからだと。

主を信じる事ができないのは、相手や環境が難しいからでなく、自分の問題だと、
御言葉は言っている。人の評価ばかりを求めて、神からの評価を求めていないと。

信仰に成長できないのは、神からの栄誉を求めておらず、人の栄誉を求めている
いるからだと。
人によく思われたい、嫌われたくない、それなら神よりも自分が大切であること
を認めよう。誰から誉められたいと思っているだろう。

人の目を気にし、体面を気にするが、しかし「人を恐れるとわなにかかる。しか
し主に信頼する者は守られる」。人目を気にすると、繕い、偽善に陥る罠にかか
り、又、人を恐れると、真理をあいまいにして行く罠にかかる。

神の愛に抱かれている私たちは、見栄を張る必要がない。あるがまま愛されてお
り、真に安堵できる。あなたを最もよくご存じである神ご自身が共におられる。
素直に自分を生きて行ける。何と平安な事だろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人を恐れているなら、まず「人を恐れています」と祈ろう。弱いままの本当の、
自分の姿を正直に認め、ありのまま生きて行く事が一番だ。自分の弱さを認めて
行く時、真の平安があり、真実に生きて行けるので、サタンの罠から守られる。


2009年08月28日(金)

「イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてのだれの証言も必要とされなかったからである」ヨハネ2:25



「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた」が、「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった」。
多くの人が主を信じたが、主は、彼らを信じられなかった。信用されなかった。

多くの人々が群れをなして、主について回ったが、主を追いかけているのは、主を求めてでは無かった。自分に利益になるものを求めて、追い回していた。
「あなたがわたしを捜しているのは、パンを食べて満腹した」の通り、自分の欲しいものが得られたからだ。

信じたと言っても、自分に都合の良い限りは、願望が満たされている間は、ついて行くが、それが満たされなければ、手のひらを返したように、主から離れ去る。
御利益信仰だ。利用に価するので、信じているだけで、価値が無くなれば捨て去る。

主を追いかけていた多くの群衆はそうだった。ユダもローマ帝国をくつがえして、主が天下を取るとの思い込みがはずれ、自分の思い描いた主でないことに失望した。
そして主を捨てた。

私たちは、何のために主について行っているのだろう。主は信頼に足る信仰を探しておられる。信頼できる信仰に、ご自分を委ねようと思っておられる。
主を利用するのでなく、主に自らを明け渡して、従って行こうとする信仰を探し求めておられる。主が私たちにご自身を委ねられるなどとは、何という驚くべきことだろう。
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ああして欲しい、こうして欲しいと祈るのもいいが、けれど御心のまま・・が最善との信仰がなければ虚しい。自己中心、自己実現のために主に付いて行っているのだろうか。


2009年08月27日(木)

「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」イザヤ61:1



私たちは、罪人であり、不完全だ。自分も人を傷つけ、人からも傷を受ける。
今までに親から受けた傷や周囲から受けた傷が心にあり、それが、御言葉を神の言葉として、素直に受け取る事を妨げている事がある。

裏切られるかも知れないと、人が信じられないように、御言葉が信じられないのだ。
自分では信じているつもりだが、心の奥底で神の愛が信じられない。信じて大丈夫なのかと恐れがある。傷を受けているからだ。

御言葉を信じないから、頭ではわかるが、いまいち実感無く、わからない状態になる。
それは無意識であり、まず、傷を認識していない。心深く押し込め、ふたをし、見ない事にしている。だから自分でもよく認識できていないが、そこにそのままある。

主は傷を癒すために来て下さった。癒されるためには、必ず、現状を認めなければならない。アル中が癒されて行く人は、「私はアルコール依存症です」とはっきりと認めた人だ。

「私には〜の傷があります」とはっきり認める時、主は癒して下さる。苦しみ、痛み、感情も抑え込まず、主のもとに何もかも持って行って良いのだ。
そのままの気持ちを、主に注ぎ出す時、自分自身の感情を自分が知る。
それらを主に告白する時、主に癒されて行く。「心の傷ついた者を癒すために」来て下さった。
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あいまいにしている傷や痛みは、あいまいなまま残る。いつまでも付きまとわれる。
そこから解放され癒されるためにも、見たくない部分を示されることが恵みだ。恐れず、主に委ねていこう。


2009年08月26日(水)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1 


                       
アブラハムは75才の時に、約束を受け取った。しかし、それが実現したのは100才の時だった。25年間待ち望んだ。神のお言葉の通り、サラは男の子を産んだ。
アブラハムは、前もって神に命じられていたようにイサク(笑う)と名づけた。

以前、神から男の子を授けると告げられた時、アブラハムとサラは笑った。
あり得ないとの不信仰の笑いだった。しかし、今は違う。心底からの喜びであり、笑いだった。今まで子供が与えられない事で、悩み、悲しみ、苦しんだ。
そのアブラハムとサラは、大きな喜びに満たされた。

この時こそが、神の時であった。すべてのわざには時がある。自分の良かれと思う時と、神の御心の時とはズレがある。妊娠可能な年齢であれば、神の奇跡ではなく、当然であり、自分の力であり、神への感謝は薄いだろう。
神の定められた時にこそ、神の栄光が現される。

あなたのまだ答えの無い祈りも、神は定められた時を備えておられる。その時こそ、「美しい」神の時であり、神の栄光が現われる時だ。失望せず、祈り続けよう。答えを手にする、神の時がある。

神を待つことにより、訓練される。忍耐が養われ、多くの学びを得る。
あなたの確信を捨てず、神を待ち望もう。「もし遅くなってもそれを待て。それは必ず来る。遅れる事はない」。
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神様の時は、確かにあるがわからない。あそこまで祈れば、ここまで行けばとの目に見える約束があればどんなに安心だろう。信仰を持って待とう。これが神様の時だったのだと神様の栄光を拝する時が必ず来る。


2009年08月25日(火)

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」箴言19:21


                              
ある人が、習い事をしようと申し込んだ。高い入学金と授業料を前納した。
すると丁度、時ピッタリに、以前から登録していた仕事が来て、曜日がピッタリ重なり、習い事はキャンセルとなった。

費用の返却を問い合わせると規約により出来ないとの事。祈らないまま、自分の思いで、思い立って行動してしまった事であり、主からのストップに感謝した。

よく祈ってから行動する事を教えられた。ある人は、祈りつつ、旅行を計画していた。しかし、その度に急用が入り、何度も変更したが、なぜか用が入った。旅行に出られないままだったが、しかし、祈りの中での事であり、不思議に心に平安があった。

神のみこころが成る事を願っていたので、不思議に心が守られ、不満もなく満足していた。すると、旅行は一番良い時に与えられた。別の人は主のために何かをしたいと、今の仕事を辞めてもよいと思っていた。

しかし、よくよく祈ると、今の仕事が嫌で辞めたいというのが本音で、主のためには大義名分だった。それに気づいた時、本腰を入れて仕事に勤しんだ。十数年後、主は召し出された。

私たちの心には色々な計画が浮かぶ。自分の思いもある。思い通りにならずとも、主の計りごとだけが成るのであれば、受け入れよう。そこに真の平安がある。
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自分の思いは思いとして、神様のご計画はどうなのかを尋ねるためにも、日々のデボーションは必要だ。よく神様のお心を知ろう。何の備えもなく行動し、流されてしまわないように。


2009年08月24日(月)

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」詩編23:2



ある人が、ある時期、仕事が非常に立て込み、深夜帰宅、早朝出勤が続いた。
身体もくたくたで、心身疲れ果て、祈る時間もない日々だった。心は渇いて、通勤電車の中で座って、又、ある時はつり革を握り立ったままで、祈りの時とした。

心の中で祈った。主はあわれんで下さって、心が守られた。イライラ、ピリピリ、トゲトゲして、荒んでいた心が、人々で混雑の中で、目を閉じ、主に集中し心の内を告げていると、心を静めて下さり、平安と交換して下さった。

安堵が心に広がった。ある主婦は、多忙の中、やむなく草刈りの必要が生じ、時間を取られる事に落胆した。しかし、心を主に向け、目の前の作業を受け入れ、主への礼拝行為として、この仕事をしますと祈った。

単純作業であり、草を刈りながら、その時間を祈りの時とし、主と交わった。
多くの執り成しの祈りまで出来て、仕事が終わった時には、畑は見事に綺麗になり、心もすっかり新たにされ、主との交わりで喜びに満ちていた。

ある人は昼休みに職場の屋上で、近くの公園で、しばしの交わりを持った。
主は、あなたの多忙な状況をご存じだ。ほんの数分でも、主に心を向けてみよう。
霊が主に触れる時、新たにされ息を吹き返す。多忙の中で、しばし、心を主に向けて、祈ってみよう。
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多忙だからこそ祈り、主との交わりの中に少しでもいられる事が恵みだ。
イライラしてます、トゲトゲしていますと主に告げる時、必ず主が助けて下さる。慰めを、平安を下さいと祈ろう。


2009年08月23日(日)

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます」ヨハネ10:3

神の御心、導きを知るために、原則的な方法がある。が、まず神の御心を求める
者に、神は喜んで御心を知らしめ、神の喜ばれる道へ導かれることを知ることは
大切だ。

そして、御心に従う者に、御心を示される。示されても従う気が無い者に、聖な
る御旨を知らされる事はない。それゆえ、まず「従います」との態度は重要だ。
右でも左でも、御旨のままにとの姿勢が必要だ。

まず自分の意志を委ねない限り、御心はわからない。自分の意志がどこまでも妨
げて御心を知ることができない。しばしば、自分の確固たる思いをすでに決めて
いて、神に了承印が欲しい。

御言葉と祈りによる平安と摂理による状況から、御霊に導かれて判断して行くと
よい。必ずそれらが一致する。矛盾する事は無い、もし一つでも不安なら、続け
て祈ることだ。神は必ず示される。

前後の文脈を無視して、一つの御言葉だけを取って来る事も危険だ。重大な御心
については、慎重によく祈り、全き平安が来るまで、早急に事を進めない事だ。

サタンは神と同じ事をする。神は御声をかけ導かれるゆえ、敵も声をかけて来る。
神のなさる事には秩序と調和がある。調和に欠け、平安に欠けるなら、よく見極
めよう。

焦る事はない。神の御心なら、時間と共にますます確信が強められて行く。そし
て、目の前の門が、ひとりでに開かれて行く。

・・・・・・・・・・・・・・・
主が御心を教えよう、知らせようとして下さっている。何と嬉しい事だろう。自
分の思いが無いようで強くあり、しばしば自分の思いが妨げて、わからなくさせ
る。自分を明け渡して行く時、今まで見えなかったものが見えて来る。


2009年08月22日(土)

「たとい私が預言の賜物を持っており・・完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません」Tコリント13:2

「預言」「奥義」「知識」「信仰」が出て来るが、御霊からのものとして言われ
ている。肉のものではない。

それが御霊から来る賜物であっても、それを用いる人間に、愛が無いなら、何の
値打ちもないと言っている。愛によらずに、愛無くして賜物が用いられる時、人
は必ず高慢に陥って行く。

信仰も強いが、自我も強いということになる。信仰と勘違いし、実は自己主張に
より、周囲と無意味な対立を生み出す。熱心だが、上に立ち、人を見下して裁い
て行く。又、愛の無い熱心は、時に分裂を生み出して行く。

御霊の実とまるで正反対の方へ向かって行く。正しく御霊に導かれているなら、
必ず信仰の成長に正比例して、心砕かれ、へりくだった者とされて行くはずだ。

愛が与えられるのは、愛の無い自分自身を心底認めることからによる。これが認
めているようで、認めていない。どうしても周囲と比較し、あの人よりましと、
自分を安心させる。

頭では認めるが、実際に自分に愛が無いなど、プライドが許さず、認められない。
心底認める時に、愛の無い自分をキリストの愛が自分をおおっている事を知る。
自分の力を頼っている限り、自分で頑張っている限り、主を締め出すことになる。

無力を認めてギブアップする時に初めて、キリストの愛に抱かれている事がわか
る。まず主の愛をしっかり受け取り、自分が主の愛に丸ごと浸り続ける事が大切
だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
愛の無い者を愛し、罪人である者のために、何もかもを捨て、命を捨てて下さっ
た主。栄光も地位も、プライドも、ご自身も、これ以上捨てるものがないまでに。
それが紛れもなく、私のためであることを今一度よく覚えよう。


2009年08月21日(金)

「神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」エペソ2:10



人は、生きるための基本的ニーズが満たされると、それだけでは満足できなくな
る。心が虚しく、何か生きがいが欲しい。自分を満たすものが欲しい。

それには他人のために何かすればよいのか。ボランティアか、慈善か。人の役に
立てるという事は、確かに自分を満足させる。しかし、人に善行をした時に、感
謝されなかったならどうだろう。

犠牲を払い、懸命に労しても誰からもほめらもせず、感謝もされない。報われな
い時、どうだろう。その善行の実際の動機は何だろう。自己満足、自己充足、自
己実現か。

神を離れた人間は、善行も自分のためにしかできない。クリスチャンはどうだろ
う。善行をして、相手から全く感謝が無かったなら、どうなのだろう。報いが無
ければ、心はどう動くだろう。

「何と常識のない、どういう人だ」となり、やり続ける事ができるだろうか。し
かし、私たちは、主に仕えている。すべての事を、主に対してしている。神に対
して生きている者だ。

自分の思いでなく、御霊の導きによって行動している。一つ一つ御霊に導かれて
行なったのであれば、相手の感謝が何一つなくとも、自分は御霊の導きのもと、
神に対してしたのであり、自分の心は納得している。

相手の反応がどうであれ、自分の心は満足し、平安だ。私たちの動機は、感謝さ
れなかった時に試される。良い行ないは、主が天から与えて下さるものだ。

・・・・・・・・・・・・・・
一つ一つ祈りにより行動するなら、御霊が導きや知恵や志を与え、御心に導かれ
る。御霊に導かれて行なう時、心には平安と喜びがある。どうであれ自分自身は、
主に対してしたのだから、心はすっきりし、主との間で平安だ。


2009年08月20日(木)

「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はひとりだけです」マタイ19:17

金持ちの役人の根本的な間違いは、「どんな良いことをしたら」であった。何か
をすれば、良い行いによって、永遠のいのちを得られるとの考えであった。

主は「良い方は、ひとりだけ」と答えられた。何かを「する」のではなく、良い
方を「信じる」ことだと。つまり、神の御前に自分の善行、自分の力、自分のプ
ライド、自負を放棄し、自分は罪ある人間であることを認めなければならない。

救われる必要のある惨めな無力な罪人、そんな事は、到底認められない。これが
出来なくて、したくなくて、主を拒む人は多い。神の御前にへりくだる事ができ
ない。

良い事ができる自分、良い人である自分、人から良い人と思われている自分、そ
れを決して捨てたくない。自分が惨めな罪人などと、無力で愛が無いなどと、プ
ライドが許さない。

「あなたが神のようになり」とのアダムの罪以来、人間は強さを好み、強くあり
たい。決して弱さを認めたくない。

青年は主のもとを去った。「この人は多くの財産を持っていたから」。財産=自
分の力、能力、良い行ない。自分の頑張り、努力だ。罪人であると認めることは、
自分の頑張りと努力が否定され、自分が否定されることになる。

とても受け入れられない。しかし、自分の本当の姿は、頑強な自我で固まった自
己中心の、惨めで裸である無力な罪人だ。主のもとに行く時、本当の姿が照らし
出される。そしてそこでこそ、主の豊かな恵みを体験し、真の安堵と平安を得る。

・・・・・・・・・・・・・・
自分にとって、捨てられない「財産」は何だろう。自分の努力、プライド、人か
ら良く思われたい虚栄心、人によって様々だ。まず気づけるように、委ねて行け
るよう祈ろう。明け渡す事が出来て、解放される。自由にされ、喜びが来る。


2009年08月19日(水)

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」マタイ19:26



若い役人が主のもとに来た。社会的地位があり、有望な将来があり、資産を持ち、律法も学んでいた。何不自由無い生活、名誉と地位、人からの尊敬を得ていた。
しかし、永遠のいのちの確信が無かった。

「どんな良い事をしたら、永遠の命を得られるか」と主のもとへ来た。「・・したら」と永遠の命は報酬として貰えるものとの価値観がある。
する事でなく、良い方はひとりと、良い方の問題だ。

「戒めを守れ」に「守っている」と答えた。外側は模範的生活をしていて、自分は正しいと思っていた。その彼に、主は持ち物を売り、貧しい人々に与えるように言われた。彼にはできなかった。

彼は自分の本当の姿に気づいておらず、知らなかった。
つまり、隣人を愛してなどいない。主は彼に罪人だと教えようとされた。
自分の真の姿を知る事なしに何も始まらない。

永遠の命は「する事」によらず、自ら罪人と認め、信仰により恵みによって受けるものだ。しかし、彼は主のもとを去った。反発、反抗ではなく「悲しんで」だった。
そう出来たらいいが無理、出来ない。

人間の力では不可能だ。私達も出来ない。「それは人にはできないことです」主はご存じだ。しかし「神にはどんなことでもできる」主のもとを去るのでなく、出来ない事を認め、主に求めることだ。主は、その求めを待っておられる。
「良い方」が、従えるよう助けて下さる。
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する事ではなく、受けて、受けて行こう。私達には出来ないのだから。出来ないと主に求めるから、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのだ。


2009年08月18日(火)

そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32



目の前で青いセロファンを通して、景色を見ると青色に見える。赤いセロファンなら赤色に見える。黒いセロファンなら、景色が暗く見える。

私たちは、何かのセロファン、色メガネを通して世界を見ている。自分の偏見や思い込み、独断の色メガネで見ているなら、そのようにしか見えない。ありのままの景色を見ようとするならどうすればよいか。

セロファンを、色メガネをはずす事だ。
風景の問題でなく、自分の心の中の偏見、偏った、間違った見方が問題だ。自分の目が間違っているかも知れない、肉の価値観、自分の偏見かも知れないとの姿勢は大切だ。そうであるなら、気づきへと導かれる。

ある人が対人関係でトラブって、相手が悪いとしか思えなかった。自分は被害者であって、悪くない。しかし、心に喜びと平安が無い。
この場合、あくまでも自分は被害者、自分は正しいと思い込んでいるので、実は、自分も罪を犯している事に全く気づかない。

愛が無いこと、裁いていること、敵対心や高慢、妬みがその陰に潜んでいる。
自分の姿が見えないので、どこまでも相手が悪いにしかならず、神から離れ、迷い出てしまう。自分に当てはまるところがないか、よく探ってみよう。気づきが与えられ、それを祈りにもって行く時、解決に導かれて行く。
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み言葉を読んでいる中で、自分が持っている偏った思いに気づかされる。ネガティブな思いが、前向きな思いに変わり、この世の価値観から引き戻される。主を知り真理を知ることで、新しい者へと変えられて行く。


2009年08月17日(月)

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」マタイ6:21



「宝」とは富、金銭に限らず、名誉、地位、能力、人の評価、賞賛等、とにかく、その人にとって非常に大切なものの事だ。命ほどに大事なものだ。
そして、財産、富、栄誉、賞賛、能力、それ自体は何ら悪いものではない。

決して罪でも悪でもない。しかし、主は、それらを拠り所とし、しがみつき、人生の判断基準とするなと言われる。「自分の宝は、天にたくわえなさい」地上のものに執着するのでなく、神に望みを置き、天国とそこでの素晴らしい報いに望みを置くようにと言われている。

その理由は@「虫とさびで、傷物になり」地の宝は虫やさびでだめになり、朽ちてしまう。上等の大切な衣服が虫に食われた経験があるだろう。地の物は虚しい。

A「盗人が穴をあけて盗み」名誉、地位、賞賛は永遠ではない。
富も持って死ねない。永遠のためには何の価値もない。

B「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」これは重大だ。宝が地のものであれば、心は地に縛りつけられたままだ。神に向く事はない。貪欲は底がない。幾ら得ても足らない。満ち足りるという事のない虚しい罪だ。

逆に言えば、心を神に置きたければ、あなたの宝を、時間、富、労力を、天に送って行けばよい。そうすれば、必然的にそこに心があることになる。
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私達のする行為の一つ一つが心が神様に向かってするものでありたい。神様はそれを喜んで受け取って下さる。時、富、労、愛のわざを自分のためにとって置かず、惜しまず天に送って行きたい。


2009年08月16日(日)

「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです」Uコリント11:14



サタンの特に巧妙さは、誘惑する時に、光の御使いに変装する事だ。神に見せかけるし、正しい、麗しい事に見せかける。目的のために、手段を正当化させてしまう。

目的が正しいのだから、どんな手段でも構わない、目的さえ達成すればよいのだと誘惑して来る。子供のためだと言い、実は親のエゴを突き進める。家族に楽をさせるためだと、金銭的に、貪欲に誤った方向に走ってしまう。

間違ってはいけない。これはサタンの誘惑だ。誘惑を受けている。神は目的も手段もきよい正しい事をされる。神は人に自由意志を与えられた。この自由意志は、神もサタンも関与できない。

サタンはこの自由意志に触れる事ができない。強制する事ができないので、巧妙な手段を取る。何度も何度も、繰り返し、繰り返し、執拗に誘う事によって、いつしか罪に引き込んでしまうのだ。

絶えず、絶えず欲望をかき立てられ続けるなら、いつか必ず行動に至ってしまう。私たちを神から引き離そうとしている、サタンが絶えず鵜の目鷹の目で、獲物を狙っている事を、片時も意識から離してはならない。

悪魔が策略を持って、臨んで来ている事に心していよう。あなたに今、偽装、光の御使いからの誘惑が来ているだろうか。気づけるように。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
結果オーライではなく、目的も手段も正しいことを、聖い主は喜ばれる。誘惑が来た時気づけるように。自分の心が絶えず見つめているものは、必ず行動に移す事は、火を見るより明らかだ。誘惑からの思いなら、意識して拒否し止めよう。


2009年08月15日(土)

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」詩篇1:2

主は「何も思い煩うな」と言っておられる。「何も」だ。まさに今、現在あなた
が思い煩っている、その事も含まれる。思い煩わなくて良いとは、苦しみからの
何という解放だろう。

しかし、尚も思い煩うのが私たちだ。心の底の底を見て行くと、確かに思い煩い
を選択している。苦しくてそれから逃れたいはずなのに、はっきりと選択してい
る自分がいる。思い煩いから逃れたいのに、心配していないと不安なのだ。

冷静になって考えると、思い煩いの対象をその事を寝ても覚めても考えている。
ずっと思い煩いが襲い、思い煩う度に、その不安は更に強化され、強固なものと
なりモンスターのようになって行く。

いつも思っているのだから、ますます強大になり膨れ上がるのは、当然だ。人は
その思う通りの人になって行く。自分で思い煩いをどんどん育て上げている。

つまりは、サタンが、思いに吹き込む火矢を拒否しないで、受け入れ、同意し続
けている結果だ。サタンが思い煩いに誘惑し、攻撃している。否定的に繰り返し
繰り返し考え、尚も考え続け、心が崩壊するまで考え続けるだろうか。

み言葉をそれほど繰り返し繰り返し思い、常に思い続けたらどんなに良いだろう。
それほど御言葉を喜び、思い続けるなら、御言葉が血と肉となり、自分の思考と
なり、価値観となり、判断基準となって行く。何という幸いだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あなたがいつも思っていること、それがあなた自身だ」との言葉があるが、絶
えず選択している思いによって、自分が作られてしまう。いつも思っている事は
何だろう?御言葉を喜び、昼も夜も口ずさめるよう、まず出来ない自分を認めて、
祈りから始めよう。


2009年08月14日(金)

「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」Uコリント9:6



献金は大きな祝福だ。この祝福を奪うためにサタンは必ず妨害して来る。古い性質には欲があるため、なかなか献げられない。
ある人は「前もって用意」するよう御霊から示されていた。
銀行で下ろそうと思うが後回しなり、時間を失ってしまった。

礼拝で手持ちがなく渋った。すると帰路で車のトラブルに会い数万の出費をした。ある時も御霊からの示しに関わらず、家計の不安をあおるサタンの声に耳を貸した。
献げられなかった帰途、交通違反で罰金に。

神の取り扱いのご愛がむしろ嬉しかったと。別の人は困窮状態のため祈り求めていると、もっと献げよと示され、支払いも滞る状況だが、示しに従って信仰によって大胆に献げた。

すると、思いもかけない所からすべての必要額が与えられ満たされた。身をもって従う事の祝福を知った。肉は1から10まで自分の事だけを考え、自分の損得で動く。

絶対に損はしない。得る事に喜びを感じる。貰う事が嬉しい。しかし、内なる新しい人は損得でなく、神の御心が判断基準だ。
例え損になっても、神に従い、御言葉に従って行く。そして大いなる祝福を刈り取る。

献げる時、必ずサタンが欲に働き、妨害して来る事を覚えよう。御霊の示しに、信仰によって従う時、大きな祝福を見る。又、新たに主の愛を知り、喜び満ちる。
そして必ず更に与えられる。私たちは何のために生きているのだろう。蓄えるためか、それとも主の素晴らしさを知るためか。
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御霊の促しを感じ従った時、必ず神様からの祝福を覚える。献げた事に神様からの応答を感じる。献げなければわからない事だ。示された献げる思いをサタンに奪われないよう祝福に預かろう。


2009年08月13日(木)

「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて・・走り続けようではありませんか」ヘブル12:1



今、重荷があるだろうか。又、まとわりつく罪に手を焼いているだろうか。足もとにまとわりついていては、決して走る事ができない。

あなたのまとわりつく罪は何だろう。競争相手への嫉妬、敵対心、傷つけた相手への恨み、憎しみ、性的な罪、噂話や悪口、怠惰、イライラ、批判、さばき、口やかましい事・・それらはいつも主に告白して悔い改めては、繰り返してしまうだろうか。

いつも、とがめが心にあって辛く苦しくなるだろうか。それなら「心が元気を失い、疲れ果てて」しまう。信仰生活、走るどころか、疲れてヨタヨタ歩きだ。
こんな時には一人で戦うのでなく、一緒に祈ってもらうと良い。

「互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです」互いに罪を告白し合い、祈り合う時、祈りが聞かれ、主の大きな力が働く。
そして「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」

今も何を見ているだろう。目の前の苦しい状況か、その大変さ、厳しさか。それなら落ち込むだけだ。心が暗くなり、ネガティブになり、真っ暗な底に沈んで行く。

「イエスから目を離さないでいなさい」目の前の大変さでなく、主を見上げる時、どんな時も希望があり、新しい力が湧く。主から目が離れていたなら、今、見上げよう。
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罪を犯した時サタンは罪の咎めを持って、見るべき神様から目をそらさせる。正しい悔い改めに導かれ、また走り出せるように、互いに祈りあうことは大きな力だ。サタンに一人で立ち向かっては、いけない。御言葉、祈り、正しい導きのもとで、もう一度主を仰ごう。


2009年08月12日(水)

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです」Uコリント6:12



私たちは、自分で自分の心を狭めて行く。人から狭められるのでなく、自分でどんどん狭くして行く。自分の罪を認めなかったり、御霊の導きを無視したり、なおざりにしたり、御霊の促しを拒み続けると、心が固くなってしまう。

自分の側で心を閉ざしてしまうのだ。すると、ますます人に耳を傾ける事ができなくなり、自己中心の自我の殻にとじこもり、批判、非難、攻撃的になり、誰も自分をわかってくれない、自分は可哀想の自己憐憫に陥る。

建設的、前向き、信仰的な心の態度が失せ、心を屈折させて行く。ネガティブな思いに支配されてしまう。そうすると、分裂や不一致を引き起こして行く。

救いに至る悔い改めへと導かれるには、必ず自分の「罪」に、向き合わなくてはならない。しかし、人は自分の非を認めたくない。人に悩みの相談をするのも、解決を求めてというよりは、自分の気持ちに同意、同調して欲しい。

解決でなく同意を求めて気持ちを楽にしたいだけだ。しかし御言葉は、真の解決を与えるために、手術し、膿みを出すために真実を明らかにする。
だが、自分の真の姿は見たくない、余りにも痛い。だから耳をふさいでしまう。

しかし平安と喜びに至る道は、とにかく「耳を傾ける」事だ。
どんなに痛くても耳を傾け、御霊の導きに従う事だ。自由にされる。
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自分の心を狭め、不自由にしているものは何か。罪に絡まった私達に自由を得させ、赦しを与えるために主は十字架にかかって下さったのだから、歩みは遅くても、恵みを感謝し捨てるべきものを捨てて主と共に行こう。


2009年08月11日(火)

「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44



私たちは誰しも、幼い時から人に認められたい、人からの評価が欲しい。小さな子供が、絶えず親に「見て」「見て」と注目を求めるのを見てもしかりだ。
人に認めて欲しいという欲求は、根深いものがある。

人からの評価が得られない時、大きなストレスとなる。この部分に、サタンは巧妙に、狡猾に誘惑して来る。主が荒野で誘惑を受けられた箇所で、サタンは、神殿の頂から身を投げたらどう、と誘惑した。御使いが助けるよと。

そうするなら、スーパーヒーローになって、注目の的になり、人気独り占めとなるよ、と。人々の注目を一心に集めた上で、人々を救ったらよいではないかと。
大パフォーマンスであり、人々の喝采を浴びるだろう。

人々から注目を浴びる快感、誰しも、人の前で良い格好したい、格好よく見せたい、大きな誘惑だ。主イエスにも来た誘惑だ。私たちの心に、この誘惑が忍び寄って来る時、御霊が見分けさせて下さるように。

人の評価を求めるところから、プライドや虚栄心、優越感や劣等感の高ぶりや妬みが、むくむくと頭を出してくる。
人の評価でなく、神の評価を求めて生きる時、がんじがらめになっている拘束から解き放たれて、自由にされる。

真に自分らしく生きる事ができる。人の評価を求めている自分に気づき、神に助けを求めよう。神の評価に立つ者と変えて下さる。
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人からの栄誉を受けようとするなら、いつも優越感と劣等感のくり返しのなかで、心の休まる時がない。しっかりと神様に繋がることで、自分、自分の思いを捨てていこう。


2009年08月10日(月)

「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばには、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21



人は御言葉によって形造られて行く。御言葉は霊であり、いのちそのものだ。御言葉が私たちの心の奥深くに響き、入る時、私たちは新たにされる。御言葉に霊が宿っているからだ。

しかし、これには条件があり、自由な自発的な意志のもとでだ。
自由意志が必要だ。ロボットは言う通りの事をするが、そのものの意志は無い。自由意志がないのが、ロボットだ。

神は人格を持っておられ、私たちにも人格を与えて下さった。
その人格を尊重される。つまり、自由意志を尊重される。決して強いられる事はない。首に縄をつけて引かれる事はない。

どこまでも自由意志に任せられる。だから、御言葉を心に受け入れるかどうかの選択は、私たちの自由意志に委ねられている。
受け入れる事も拒否する事もできる。自由だ。

御言葉への関わりは、この二つしかない。あからさまに拒否はしないが、心には受け入れないだろうか。自分に都合の悪い、痛い御言葉は心に入れないか。密かに心を閉ざしてしまう。聞きたくない。

しかし、これは拒否と同じだ。自由な自発的な意志が必要だ。
自由意志で、心に自ら受け取る時、必ず私たちは新しくされる。変えられる。御言葉にはその力がある。

御言葉には問題無いが、私たちの聞く態度はどうだろう。聞きたくない、痛い言葉こそが、私たちを変えてくれる最も必要な言葉だ。
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痛い言葉、聞きたくない言葉をより分けているなら、いつまでも今のままだ。御言葉の力を信じ、素直に受け入れてみよう。私達の努力は要らない。神様に身をお委ねするだけだ。


2009年08月09日(日)

「さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう」使徒7:34

モーセは40才の時に、虐げられている同胞イスラエルを救いたいとの志を持っ
た。しかし、それは見事に挫折して、命を狙われ、遠くミデヤンの地に逃亡する
はめになった。

そこで遊牧生活を送る事になり、結婚し、子供も生まれた。40年間、荒野で羊
を飼う生活にあった。長い歳月を見渡す限りの荒野で過ごし、エジプトでの王子
としての地位も栄華もすべてが過去のものとなり、一介のただの羊飼いだ。

長い年月となると、それはそれで居心地の良い場所となっていたかも知れない。
そのモーセが80才になった時、神から召し出されたのだ。40才の意気盛んな
体力気力に満ちた時でなく、年老いてからだ。

モーセは文武にたけていた。王子の立場なら、地位も名誉も、力も富も強大な影
響力も人脈も持っていた。しかし今や地位も影響力も何も無い羊飼いだ。

人間的に考えるなら、王子の立場でこそ、その影響力が・・と思うが、神はそうで
なく、このモーセこそがふさわしいとされた。神が用いられるのは、雄々しい軍
馬ではなくロバの子だ。何もかも剥ぎ取られ、砕かれたモーセだ。神は立派な器
でなく、砕かれた器をご自身のために用いられる。

この40年が必要であった。神は荒野でモーセを砕かれ整えられた。そして、神
はモーセが何と40才の時に抱いた志を叶えて下さった。神のための志を、神は
喜ばれ、ふさわしく整えて、神の時に成し遂げて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分こそふさわしいと思っていたモーセは、40年をかけて砕かれた。そして素
晴らしく用いられた。「あの方は盛んになり、私は衰えなければならない」目の
前の一つ一つは、主が盛んになり、私が衰えるためだ。間に合う器に整えて下さ
っている。


2009年08月08日(土)

「そのやぎは、彼らすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ」レビ16:22

贖罪のささげ物について書かれている。
アロンは自分の罪のためのいけにえとして雄牛をささげ、自分と家族のために贖
いをする。そして二頭のやぎを取り、一頭は主のため、一頭はアザゼルのためと
する。

主のためのやぎをささげ、罪のためのいけにえとする。自分と家族のために雄牛
をほふり、イスラエルのために先ほどのやぎをほふる。

そしてもう一頭の生きているやぎの頭に、アロンが両手を置き、民のすべてのと
がとそむきを、どんな罪であっても、全部それの上に告白し、これらをそのやぎ
の頭の上に置き、係の者の手でこれを荒野に放つ。

このやぎは、イスラエルのすべての罪を背負わされ、荒野に放たれる。水も食糧
も無い、気象条件も過酷な荒野で、やぎはどうなるのか。生き延びる事は到底不
可能で、やぎは衰え、死に絶えて行く。

とがと罪を背負わされたやぎは死に絶え、朽ちる。これは十字架の象徴だ。私た
ちの罪はこのような結末を迎える。主に告白した罪は朽ちる。十字架上で、ほふ
られ、いけにえとなられた主イエスが罪をすべて背負われた。

その罪は朽ちて、主の死と共に贖いが成し遂げられた。罪は死に絶え、主イエス
はよみがえられた。過去の罪をほじくり返すのは無意味だ。朽ちて、死に絶えた
のだから。感謝し、主を賛美しよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イスラエルのすべての罪を背負わされ、荒野に放たれた山羊は、衰え、朽ちて死
に絶えた。主は私の罪を背負い十字架で死なれた。完璧に罪無しとされる、この
罪の赦しをじっくり考えてみよう。何という驚くべき恵み、感謝な事だろう。


2009年08月07日(金)

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちと御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」ローマ8:2



「罪と死の原理」、原理とは「法則」の事だ。万有引力の法則が働いているので、木からリンゴが落ちるように、物は必ず下に落ちる。法則とは例外がないという事だ。リンゴがジャンプして木にくっつく事はあり得ない。

そして私達の内側には「罪と死の原理」が働いている。批判されると何倍返しででも報復したい、思い通りにならないとイライラする、人に勝ちたい、能力や人気のある人を妬む、嫌な相手を憎む、欲しいものは得たい、こんなものがどんどん湧き出てくる。

これが「罪と死の原理」だ。木からリンゴが下に落ちるように全く自然に働く。リンゴを落とさないためには、どうすれば良いか。手で受け止めれば地面に落ちない。この手で受け止めるのが「いのちの御霊の原理」だ。

引力の法則は働いているが、受け止めると落ちない。つまり別の更に強い力が同時に働くからだ。以前の法則はそのままあるが、それよりも強い法則が働く時に解放される。

いのちの御霊が働く時、批判されても仕返しでなく、祈ろうとする。思い通りにならなくとも、最善をして下さる主に委ねて平安でおれる。困難は自分で何とかせず、神に頼り、委ねて行こうと思える。

私たちが御霊に頼って生きて行く時、この「いのちの御霊の原理」の中にいる。罪と死の法則があるに関わらず、解放されて生きて行ける。
------------------
罪を犯すしかない者なのに、主が十字架によってすでに落ちて行くべき肉を引き受け、受け止めて下さった。信仰によりこの恵みの原理の中をしっかりと生きていこう。


2009年08月06日(木)

「また、みことばを実行する人になりなさい・・こういう人は、その行いによって祝福されます」ヤコブ1:22



ある人が二度目の国家試験に臨んだ。志を同じくする友人も一緒だった。その間も生計を立てねばならず、アルバイトをしながらの受験だったが、全力を尽くして備えた。これ以上できないほど勉強した。今度こそ合格と思えた。

結果発表の日、不合格だった事がわかった。ガックリと落胆した。一緒に勉強した友人は合格した。心は沈み、羨ましい気持ちがあり、正直なところ、とても祝福などできなかった。しかし、これでいいはずはないと、正直に祈った。

すると、御霊は、喜ぶ者といっしょに喜びなさいと言われる。祝福の言葉をかけるよう促される。自分はしたくないし、出来ない。でも、主に従いたいと思った。
主に助けを求め、決心して「おめでとう、良かったね。」と短い言葉だが、祝福のメールを送った。

すると、自分の心のモヤモヤがすっきりして、平安になった。この祝福に、相手は思った以上に喜んでくれて、とても感動したようだった。自分はバイトも全部辞めてしまい、又、探さねばならず、これからどうしようかと思っていたが、何とその相手が、高額のバイトをそっくりそのまま譲ってくれたのだ。

主に従うことの祝福を経験した。御霊の促しに従おう。そのために「できません。助けて下さい」と祈ろう。従えるように助けて下さる。
-----------------
絶対出来ない、無理、では、いつまで経っても何も変わらない。主に従いたいとの思いで助けを求め、肉には出来ないことを表して行こう。主の祝福、励ましを経験する。


2009年08月05日(水)

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18:13


謙遜とは、物腰を低くする事ではない。「いえいえ、私などは」と口では言いつつ、心の中では相手を見下げ、自らを高めていたりする。サウルがサムエルの命令を守らず、良いものを惜しみ、値打ちの無いものだけを聖絶した。

その時、その罪をサムエルから指摘され、サウルは、弁解しながらも罪を認めた。そして、赦しを乞うた。しかし皆の前で、面目を立てて欲しいと願った。つまり、民達には知られたくないと。

これは謙遜ではなく、真の悔い改めではない。真に、神の御前に悔い改める時、体裁や体面など及びもつかない。入る余地などない。ただただ自らの罪が見えるだけだ。その結果、全き赦しを受け取り、新たにされる。

謙遜とは悔い砕かれた心だ。神はそれを軽しめられない。ダビデがナタンから罪を示された時、心が砕かれた。罪を告白し、全き赦しが与えられた。謙遜は自らの罪を認める。

アダムは、自分の罪と恥を知った。その結果、自分を隠した。自分の罪、失敗を見て、恐れた。神は、そのアダムを見捨てられない。アダムを探し、アダムに問いかけ、悔い改めのチャンスを下さった。

しかしアダムは自分の責任、弱さ、罪を認めず、エバに責任転嫁してしまった。
謙遜、へりくだりとは、自らの罪を、真正面から認めることだ。
痛みを伴い辛い事だが、赦しと解放の大きな恵みにあずかる。心が楽になり、平安が臨む。
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自分の罪を認め、十字架を見上げる時、真に取るに足りない自分を思う。高慢になりようのない自分をいつも覚え、悔い改め赦されながら今日も歩もう。


2009年08月04日(火)

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいておりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」ヘブル4:16



ある人が、目まぐるしく多忙な日々を過ごしていた。次から次へとこなさなければならない仕事が目の前にあり、少しづつ、神が後回しになって行った。その内、祈りの時間も失せて、自分の思い、自分の知恵で歩むようになった。

祈りが無くなり、御言葉も心に入らなくなり、心に響いて来なかった。悪循環となり、ますます自己中心になり、イライラ、ピリピリして、思い通りにならない周囲をさばいて行った。

仕事も更に忙しく、心に余裕なく、しんどくてたまらなかった。余りに心が苦しくなり、聖書を開いてみた。しかし、御言葉は全く心に入らず、ただの文字にしか過ぎなかった。祈ってもみたが、何の変化も無かった。

心重く、しかし、心渇いて次の聖日に礼拝に出た。その時、賛美する十字架の歌詞が、心にぐいぐい迫り、染みた。何もかも捨てられた主、死にまで、実に十字架の死にまで従われた主、主のその犠牲の愛、主の真実が、乾ききったスポンジが水を吸い込むように、心に染みて来て、メッセージ共に心が溶かされて行った。

真実なる主は、苦しみの中から祈った、その小さな祈りを確かに聞かれたのだ。その祈りに答えて下さった。どんな小さな祈りも聞かれている。主のもとに行こう。
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神様から遠く離れている気がする時がある。けれど神様はいつも近くにおられる。神様と語り合う特権が与えられているのに私達は、それを忘れてしまう時がある。何でも祈っていこう。必ず神様も語られる。


2009年08月03日(月)

「もしあなたがたの心の中に、苦い妬みと敵対心があるなら・・そのような知恵は上から来たものではなく」ヤコブ4:15            

ある人がサークルでリーダーをしていた。人々は、その分野に詳しい知識を持っ
ている彼女に一つ一つ聞いて来た。それだけでなく、彼女を信頼し慕って、日常
生活の悩みや問題を相談して来た。

時間と労力を取られ、なかなか大変であったが、親切に対応を心がけた。しかし、
ある時、体調を崩し、リーダーを別の人に代わってもらった。

余りの忙しさに、責任が解かれた事に、最初は安堵した。段々回復し、元に戻っ
た時に、皆が新しいリーダーを慕い、その人の所へ行き、その人に人気が集まっ
ていた。それを見て、妬みが湧き上がるを抑えられなかった。

心が辛く、苦しくてたまらず、その思いを神のもとへ持って行き、神に告げて祈
った。祈っていると、なぜ妬みが起こるのかに思いが至った。自分はもう必要と
されていないのではとの、恐れに、縛られている事がわかった。

皆から頼られていたかったし、必要とされていたい、それを奪ってしまったかに
見える新しいリーダーに嫉妬したのだ。妬みたくないのに、その心は自分でどう
にもできない。

「自分にはどうにもできません。助けて下さい」と主にあるがままを申し上げ、
主の喜ばれる心と交換して下さるよう、自分自身を明け渡した。
そして祈っていると、その人を応援し支えようとの、新しい心に変えられた。心
が平安で満ちた。どんな時にもすぐに主のもとへ行こう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分で何とかしようとすれば、するほど、ますます深みにはまって身動き取れな
い。どうにもならない事を知るばかりだ。ギブアップして、助けを求めた時に、
主が働かれ、主のみわざを見る。自由にして下さる。まずそのまま主に告げよう。


2009年08月02日(日)

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」詩篇62:1

                       

信仰生活を歩み始めると、信仰人生、自分の思い通りにはならない、という事が
わかってくる。神の思いと自分の思いが違うのだ。自分の思いとしては、これが
最善!と思うが、そのように事は運ばない。

神の思いは異なる。そして振り返る時、自分の思い通りにならなくて良かった!
と必ず思える。あのまま進んでいたなら、恐るべき高慢に陥っていたと。

しかし、今、目の前の事が思い通りにならないと、同じように焦りや不安で一杯
になる。神の方法と神の時がある事を覚えよう。絶妙のタイミングで神は事をさ
れる。

神の定めた「時」がある。人は先が全く見えない。目先の事しかわからない。神
は何もかも見通しておられる。その神を信頼しよう。又、人は自己中心というメ
ガネをかけて見るので、物事が歪んで見える。

自分を中心にして見るので、最悪にしか見えないが、神の素晴らしいご計画が
ある。事態も状況も何もかもが、混乱状態に見えるが、実は素晴らしい計画が
着々と進行している。刺繍の裏は、糸がグチャグチャだが、表は、綺麗な絵が織
りなされている。その絵は「神の栄光」そして「愛」だ。

ヤコブは「私も失う時には失うのだ」と覚悟した。ヨセフもシメオンもベニヤミ
ンも失ったかに見えた。最悪の絶望的状況だ。しかし実際は何も失っておらず、
ヨセフと再会、飢饉から一族は命を救われ、家族皆で暮らせるという最高の幸せ
が伏せられていた。

今、最悪の状況なら、神を待ち望もう。信じていよう。救いが神から来る。

・・・・・・・・・・・・・・・・
時に、目の前が、どうにもならない状況である事を経験する。しかし、神に間違
いはない。「神を待ち望め」が答えだ。以前、神を待ち望んで、今がある。神は
真実であられた。救いは神から来る。神を見上げて、神を待ち望もう。


2009年08月01日(土)

「なぜなら、人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ6:45


舌を制御する事は誰一人できない。「少しもじっとしていない悪で、死の毒に満
ちている」。たった一言で、長年の関係が壊れてしまうとは、時々聞く話だ。

「舌は火であり不義の世界」舌とはそれほどのものだ。舌はよくよく注意してい
ないと、大きな罪を犯す。あなたも必ず失敗した事があるだろう。

しかし、舌の問題はノウハウやテクニック、小手先で間に合うものではない。な
ぜなら、心にあるものを口が話すのであり、口以前に、心が問題だからだ。幾ら
頑張って黙そうとしても、心にある事は喋る。

肉は喋りたくてたまらない。その強い欲望に勝てない。喋ってはいけない事を喋
らずにはおれない。それが罪の性質であり、自我だ。その肉はサタンの餌食とな
り、人間関係を壊してしまう。

心に無い事を喋るという人があるが、それも心の状態を表しているのであり、心
が真実でなく、いい加減だという事になる。言葉は、そのままその人の人格を表
わす。言葉に人格が出る。

肉から出た言葉は、周囲を傷つけ害毒を流して行く。隠れたものは、必ず明るみ
に出る。舌の罪深さをよく認識していよう。言葉でなく、心の問題だ。

悔い改めて、自らを明け渡して行く時、主は心を変えて下さる。その心は、御霊
に支配され喜びと平安が溢れる。御霊から出る言葉は、愛と思いやり、優しさだ。

自分も人も建て上げて行く。舌は主を崇め、主に感謝し、恵みを語る。そして、
御霊の喜びと潤いを周囲に伝染させて行く。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
心の愚痴や不満を、まず主に告げるなら、平安と交換して下さる。心が平安と
喜びに満ちる時、口から感謝と賛美が出て来る。心にネガティブなものがあるな
ら、自分で何とかしようとしないで、まず一番に主に告げよう。