2009年09月30日(水)

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9


劣等感や自己卑下にさいなまれる人は、「どうせ私なんて・・」と言いつつ、本当は、自分の欠点を認めているわけではない。その証拠に、他人から「そうですね。その通りですね」などと言われようものなら、激怒だ。「自分なんてダメで」といいながら、実は「自分は能力があるのに、自分を認めてくれない周囲が
悪い」と思っている。

その屈折が対人関係に、きしみを生じさせ周囲を退かせてしまう。人は欠点があるから不幸なのではない。欠点は誰にでもある。皆、欠点だらけだ。その欠点を認めないこと、認めずに、強がることが問題だ。絶対に弱みを人に見せたくない。

プライドだ。認めたくないので弱さを無視する。自分自身に向き合わない事で、ますます自分がしんどくなる。無視しても事実は何も変わらない。欲求不満と苦しみが増すばかりだ。まず、現実を認めることから始まる。自分の欠点を認めることが始まりだ。

アルコール依存症が治って行くのは、自分はアルコール依存症だと、正面から認めた人々だと言われている。無視したり、逃げたり、ごまかしていては何も始まらない。認めて、受け入れた時、解決へと導かれる。解き放たれて行き、そして、これまで決して見えなかった主の祝福が見えて来る。あなたはどうだろう。
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自分の弱さの中に、励まし慰め力強く導いて下さっている神様を見る。弱さを認めず自分の力で歩むなら、そこにどんな祝福があるのだろう。弱さは感謝だ。


2009年09月29日(火)

「互いの栄誉は受けても、唯一の神の栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44



私たちを不自由にし、窮屈にし、がんじがらめにするものに、「比較」がある。これは誰しもにあり、やっかいだ。自分の能力や成績や人気を、他人と比較する事によって、自分の価値を見い出そうとする。

自分の価値を認めたいがために、他人と比較する。他人より優れている事でプライドを満足させ、優越感に浸る。それは根に劣等感があるからだ。
劣等感があるから、優越感に浸りたい。そして、人との比較で自分の価値を確認し、優位を確認することは人依存で生きているということだ。

そしてそれは、人の目を極度に気にする。人にどう思われているか、人に良く見られたい、人に認められたい、評価され受け入れられたい。神が飛んでしまって、人が神となっている。ゆえにそこに全く平安は無い。

パリサイ人たちは自分のプライドに生きた。大切なのは自分のメンツとプライドだった。だからそこに愛は無かった。真反対に、主はメンツ、プライドとは全く関係の無い、愛に生きられた。

人間はプライドで生きていて、それが双方でぶつかり、争いになる。サタンはプライドに誘惑し働いてくる。比較、劣等感、人によく見られたい思い、プライド、一つ一つを主の前に認めることが大切だ。自分がそのような者である事を認める時に、初めて変えられて行く。
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今していることは、一体誰を喜ばせようとしているのだろうか。心に平安がなくなる時よく自分を吟味してみよう。人との比較や争いの思い煩いに流されてはいないだろうか。神様の栄誉を求めていこう。


2009年09月28日(月)

「イエスは・・人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた」マルコ12:43



1人の貧しいやもめが2レプタを献金した。僅かな額であったが、主はその事を大きく評価された。金持ちが多額の献金をしていた中で、隠れるようにそっと献げたこのやもめに目を留められた。少額であったが、それは生活費のすべてだった。主はそれを重く受け止められた。

ここで言われている事は何なのか。やもめのように、全生活費を献げよと言うことか。それが霊的だということなのか。そうではなく、彼女の心の目が見えるところでなく、主に向いていたという事だ。

目の前の生活や物や、将来の事ではなく、目が主に向いていた。所有欲から自由にされて、自分のすべてを神に明け渡し、委ねきっていた。「人が主に向くなら、おおいは取り除かれ」「主の御霊のあるところには自由がある」神と富に兼ね仕える事はできない。

彼女の心は富にではなく、神にあり、神に自分自身と将来を任せた。投げ入れたのは、彼女の所有欲、自我、いのちそのものであり、神にすべてを明け渡したのだった。それが彼女の信仰であった。主はその心をしっかり受け止めて下さった。

同様に主は私たちの献げものも、その心もしっかりと受け取って下さっている。主は今日も私たちの心を見ておられる。心を主にお献げして歩もう。
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自分が得たもので自分を守ろうとし、守るためにまた得ようとする。主に目が向かないよう阻むものが外にも内にもある。主に頼り、主の助けによって今週も歩めますように。


2009年09月27日(日)

『あなたは右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」ということばを聞く』イザヤ30:20

ある婦人、夫が転職を考えた。それには引っ越しも伴った。彼女は、夫の新しい
仕事、新しい環境、新しい対人関係、様々な不安と思い煩いに襲われた。

仕事は大丈夫なのか、やって行けるのか。今の環境を離れること、友人達との別
れが悲しく辛かった。それに、やりがいのある仕事に着手していて、それらすべ
てを失う事も、残念でならなかった。

夜も眠れず、色々な事を考え、思いが頭を巡り、悶々と時間が過ぎた。眠れない
ので、深夜に床から出て、神と交わりの時を持った。御前に心を静めて、心の不
安、心配、思い煩い恐れの何もかもを、ことごとく打ち明けて祈った。

心がすうっーと落ち着いて、受け入れて従って行こうと思えた。これまで導いて
下さった主を、今後も信頼して行こう。今までの歩みを振り返った時に、人生の
転機、危機、そのつど主は素晴らしく力強く導いて下さった。

様々な試練があった。経済的困窮、対人関係の困難、仕事上の悩み、子育ての問
題、その一つ一つの困難の中で、主は道を開き、助けを与え、必要を備えて下さ
った。

いつも学ばせられたのは、主への信頼だった。主を信頼すること、これを教え、
培わせるために与えられた、一つ一つの難局のように感じられた。

あなたも今、不安や恐れがあるなら、まず主の御前にことごとく打ち明けよう。
必ず道を示し導いて下さる。

・・・・・・・・・・・
今まで、あの時も、この時も、幾度となく難局を乗り越えてこれた。主が時宜に
適った御言葉を与え、ふさわしい助けの手をのべて下さった。今回も大丈夫だ。
耐えられない試練は無く、脱出の道が備えられている。乗り越えさせて下さる。


2009年09月26日(土)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩篇37:5

不況の時期だった。ある男性の会社が倒産した。貯えもなかったので、たちまち
生活に困る事になった。
どうしようもなく、とりあえず親戚に少し借りようかとの思いが来た。信頼関係
もあり、快く貸して貰えるだろう。

しかし、その時に、牧師に「主に祈りましょう」と励まされた。神を第一にして
頼って行くなら、必ず神が必要を与えて下さると。祈って委ねて行った時に、主
は必ず良くして下さる、必要を備えて下さると、信じることができて、心が平安
に満たされた。

そんな中、ずっと以前に知人に用立てしたお金が、返って来たのだ。もうすっか
り忘れて記憶にも無かった。まとまったお金であり、ずっと心痛かったが、やっ
と用意できたと。
時ピッタリに、まさに主であり、主からのものであった。当座の必要が備えられ、
神に信頼する幸いに感謝した。やがて、祈りに答えられ、仕事も与えられた。

ある人は、緊急の必要が生じ、すぐに返せるから大丈夫と、安易に金融機関に借
りてしまった。しかし、多額の利子に苦しみ、祈らずにした事の刈り取りとなり、
訓練となって返って来た。

その時に、心の底で主に委ねられない、主を信じきれない自分の姿を見せられた。
信じられないから、自分の力に頼り、自分で何とかしようと動いてしまう。悔い
改めた。厳しい訓練であったが、主に明け渡す事へと導かれ、心から感謝した。

今、行き詰まっているなら、自分で動かずに、まず祈って主に委ねよう。

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信じられないなら「信じられません」と、「委ねる事ができません」と祈ろう。
まず自分のありのままの姿を、認めることから始める時、主が助けて下さる。委
ねようと頑張るのでなく、委ねる事ができるようにして下さる。


2009年09月25日(金)

「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」ヨハネ9:25



イザヤ書によると、「そのとき、盲人の目は開かれ」とあり、盲人の目が開かれる事がメシア到来のしるしだった。それゆえ、この盲人が見えるようになった事は、預言の成就であり、心開いて見るならば、主イエスこそが救い主だとわかるはずだ。

しかし、彼の目を開けたのが安息日だという事で、主を非難攻撃したパリサイ人は、その根が悪意であり、主に対するすべての事が非難材料となる。高慢で邪悪だ。自己を正当化するが、実は主への妬みであり、敵対心、憎しみだ。

盲人に問い正すが、全く聞く耳持たず、盲人は自分の身に起こった事を、あるがまま話しているに関わらず、否定し、彼を追放した。盲人は、はっきりと言った「盲目であったのに、今は見える」と。肉眼が見えるというより、霊の目が開かれて、神がわかるようになったという事だ。

パリサイ人は肉の自分の思い、自分の目で見るのみで「あの人が罪人であることを知っている」と。そういう見方である以上、何を聞いても何を見ても、正しく見ることはできない。私たちの心にも、こういった偏見は無いだろうか。
最初から決めつけて見る時、決して正しく見ることができない。盲目のままだ。自分の思いを捨て、偏見を捨てて、主に向く時、「主よ、私は信じます」に導かれる。
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まったく心を自由にして神様が見ておられるように見て行きたい。人に対しても自分に対しても思い込みをかたくなに信じていないだろうか。目が開かれますように。


2009年09月24日(木)

「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく・・要塞をも破るほどに力あるものです・・高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」Uコリント10:5

        

信仰生活で大切なことは、心に湧く様々な肉の思いを捕まえて、キリストに服従させることだ。私たちの心の中には雑多な思いが湧く。湧いては消え、消えては湧く。こんなはずではといった思いも出没する。

人と少しギクシャクすると「私に対して悪い思いがあるのでは」「自分の言ったあの事か、この事か、あの態度か」妄想になって行く。最近の若者はメールの返信がないと、非常な不安と思い煩いに陥るそうだ。「気を悪くするような事を送ったか?」「あの言葉、この言葉か?」これも妄想だ。

その日声をかけられないと「無視された」。あの言葉の意味は、実は〜ではないか?向こうで数人が話しているだけなのに、自分の噂話、悪口ではないか?サタンが巧妙に吹き込んで来る否定的思いだ。これらを放っておくなら、心は幾らでも落ち込んで行く。

自分は愛されていない、誰からも認められない、だめ人間・・、それは必ず成育歴にまでさかのぼり、だからダメなのだと、何もかもが否定的になって行く。
サタンはそうやって要塞を築き上げて行く。心をサタンの思うがままにさせて、要塞を築かせてはならない。

妬みや憎しみは頑強な要塞になってしまう。その思いの一つ一つを、そのまま放置せずに、すぐに主のもとへ差し出し、「キリストに服従させ」ることだ。
そして御言葉を心に受け取るなら、御言葉から来る御霊の思いで心が満たされて行く。
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私達に与えられている武器は、神様からの力だ。サタンからの思惑や誘惑によって、行く道を阻まれてしまうように見えるが、自分の知恵や力で戦っているのではない。だからから力強く歩もう。 


2009年09月23日(水)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6

誰しも、目の前で、道が閉ざされた経験があるだろう。進もうとすると、又、進
みたい道が、目前で閉じられてしまう。

入学試験、就職試験をはじめ、様々な事で経験する。さあ、これから仕事に就く
という時に、病に倒れたり、「なぜ?どうして?」悲しく辛い経験だ。

パウロもアジア州で宣教しようとしたところ、御霊に禁じられた。ビテニヤの方
へ行こうとしたが、それも止められた。御霊の導きは、時に私たちに理解できな
い。

しかし、それが理解できなくても、又、どのようであっても、そこに神を認め、
神の御心を信じて行くこと、それが信仰によって生きるということだ。

結果的に、パウロは、マケドニヤに渡りヨーロッパ宣教という大きな御心へと導
かれて行った。

ある人はこれから医師として活躍という時に、病に倒れた。2年の辛い入院生活
に落胆したが、結果的に、実践に立った時に、患者の人たちの気持ちがわかると
いう、幸いな益を受けた。病を心から感謝した。

ある人は進路が閉ざされ、挫折を経験し、結果的にそれが幸いとなり、心砕かれ、
献身へと導かれた。そのまま行っていたら、神から離れていたであろうと、閉ざ
された事を心底感謝できた。

今、目の前の道が閉ざされて、失望落胆しているだろうか。しかし、そこに神の
御心を認め、信じよう。神は最善以下はされない。必ず幸いな益を見る。

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繰り返し、繰り返し、又、どの方面を見ても学ぶ。挫折から、素晴らしい祝福と
喜びが生まれ出るということを。人生の行き詰まりや挫折は、いつも大きな祝福
に至る。今の事態がどう祝福に展開して行くのか、楽しみに期待し信じて行こう。


2009年09月22日(火)

「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」詩編105:19



私たちの願いやビジョンが御心であっても、すぐにスムーズに願い通りには成就しないで、試練を通りながら、試されながら、実現して行くということであり、今までも経験した事だろう。

御心でないのでなく、御心であって、尚且つ成就するまでに、悩みや苦しみを通ると御言葉は言っている。御心を行なうなら、物事がスムーズに、順風満帆に行くと思っていないだろうか。なぜかわからないがそう思っている。

それで、御心に進み、悩みや苦しみに出くわすと、これは御心では無かったのか、御心を誤ったのか、怪しみ、悩む。しかし、御心を間違ったのではなく、成就するまでに、紆余曲折があるということだ。主の約束は、「試し」となって私たち
に臨む。それは私たちの心に潜んでいて、普段は現れることもなく、気づかない「不信仰」を見せられる。

霊に憑かれた息子の父親が、主のもとに来た時に、「できるものなら、と言うのか、信じる者にはどんなことでもできる」と言われ「不信仰な私をお助け下さい」と叫んだ。不信仰な自らを助けて下さいと、主に頼った時に、息子はいやされた。

ヨセフは約束与えられながら、幾多の試練を通り、患難が忍耐を生み、忍耐が練られた品性を生み、造り変えられて行った。主は私たちを訓練され、信仰を成長させ、御言葉を成就される。その時、神の栄光が素晴らしく現れる。
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救われ信仰を持ったなら、いつの日にか奇跡のように信仰が成長するのではない。紆余曲折を通らされ、試されふるわれながら訓練される。けれど試練の時も主は同伴されている。感謝だ。


2009年09月21日(月)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16



御霊に導かれて、御霊の支配の中で生きる時、私たちは自由で、喜びがあり、感謝がある。しかし、律法のもとで、肉に従って生きるなら、信仰生活は、非常に窮屈になる。しんどいばかりで苦しい。

心に自由がなく、心がふさがれて辛い。常に神に要求されているように感じる。神が過酷な方で、蒔かないところから刈り取る厳しい方になってしまう。本当にクルシミチャンだ。そこに喜びが全く無い。今、あなたはどうだろう。

しんどい信仰生活だろうか。辛くしんどいなら、どこかがおかしい。自力で頑張っているかも知れない。人への妬みや憎しみ、怒りが湧き上がる時、これは良くないこと、だめだと、心に押し込み、抑え込んでしまうだろうか。抑え込んだものは、無くなるのでなく、厳然とずっとそこにある。

どんどん抑え込むといつか爆発する。この時に、これは良くない思いと、押し込むのでなく、「私は怒っています、妬んでいます、憎んでいます。誰にも言えないこの思いを、あなたはご存じです」と一つ一つ、主に申し上げて行くことが大切だ。

隠すのでなく、言い訳せず、ごまかさず、無いことにせず、主の御前に言い表して行くことだ。心をきよめて平安にして下さる。絶えず主を呼び、言い表わし、助けを求めて行く時、その否定的な思いが消えて行く。思いが来た時、「主よ」と主を呼び求めよう。
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私達は自由を得るために召された。苦しい、厳しいだけならとても不自由だ。愛せない、出来ないと告げ御霊の助けをいただくことが出来る。肉には出来ない喜び平安を持って信仰生活を歩もう。


2009年09月20日(日)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13  


あなたにも肉の声が聞こえるだろうか。「神にお任せするなど、そんな調子のい
い。そんな事ではだめだ。もっと頑張って自分でやらねば」。これは肉から湧き
上がる思いだ。

そうではない。神に頼り、神にお任せし、信仰によって生きて行くことは正しい。
ここで肉の声を聞いて行くと、神を脇において、自力で歩み、挫折し失敗してし
まう。

又、逆に、神からの示しや、なすべき事の促しを受けた時に、「面倒だなあ」
「したくない、嫌だ」との思いが来る。これも肉の思いだ。この肉の思いに従っ
て行ってしまうと、御心を行なうことができない。御心を捨ててしまう。

経験あるだろうか。そこにサタンが働いて来るので、ずっと御心を行なう事を妨
げられる。この思いが来た時に、「したくない」「自分には出来ない」「無理」
だから退けてしまうのでなく、そこで神に祈ることが大切だ。

面倒で、したくない思いを、祈りによって神に委ねて行く時に、神が力を与えて
下さる。「自分には出来ないから助けて下さい」と祈る時、御心を行なう力が与
えられ、不思議に御心を行なうことができる。

「面倒だ」「出来ない」との思いが来るたびに、祈って、主にその思いを委ねる
ことが大切だ。今後、一つ一つの思いを神に祈り明け渡し、導いて頂こう。不思
議に御心が成就されて行くことを見る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御霊の促しや導きを感じる時、「無理」「面倒」「できない」「しなくてもいい
んじゃないか」の思いが同時に来る。肉の思いだ。背後にサタンが働いている。
その時、流されてしまわず、「無理です」と主に祈ろう。自分が変えられて行く。


2009年09月19日(土)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32



エマオ途上の弟子たちは、失望と落胆で、郷里に向かっていた。自分たちの思い
と違ったのだ。主はローマ帝国をくつがえして、主の王国を樹立されると思い込
んでいた。

その主が一番惨めで哀れで、辱めの十字架刑で死んでしまわれた。絶望の思いで、
なすすべなく郷里へ、とぼとぼ歩いていた。自分の思いが強いと、主のお言葉や
現実をそのまま受け止める事ができない。

種まきの例えの、道ばたの土地だ。地が固くて、種をシャットアウトし、跳ね返
してしまう。聖書を読む時も同様だ。御言葉に向かう時に、自分の強い願望を持
ったまま向かうと、その願望にそった、自分勝手な聖書解釈をしてしまう。

この世の宗教、偶像は、自分の願望を叶えて貰うためのものだ。家内安全、商売
繁盛、無病息災・・、そして自分の願望が叶わない時、不満で一杯になり疑問を
持つ。そんな神は要らない。

私たちもご利益だけを求めるなら、当然叶わない時に失望落胆する事、間違い無
しだ。そうでなく、私たちは「神の」お心を行なうために生きている。その時、
真の喜び、満たしがある。聖書に自分の願望を投影して、御言葉を読み取るので
なく、神からの語りかけを聞く時に、弟子たちのように心が燃えて来る。

導き、知恵、力、支えが与えられる。自分の思いを一旦明け渡して、白紙にして、
御声を聞いてみよう。神に期待を置くなら、自分の思いが成らなくとも、真の喜
びと楽しみを持って生きる事ができる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の思いが強いため、神が見えなくなっていないか。しばしば自分の思いが
妨げとなっている。それに気づく事から始まる。自分の思いに立つのでなく、神
の御心に従おうとの思いの中で、必ず神がわかり、御声が聞こえて来る。


2009年09月18日(金)

「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう」ピレモン15

ここに神の深い摂理、ご計画、神の見方を知ることができる。オネシモは主人の
物を盗み、逃亡した。罪を犯して、悪事を働いて逃げた奴隷だ。してはいけない
事であり、悪い事だ。しかし、神の側から見ると、別な見方がある。

このような災いな事をも、益とされて、ご自身の栄光へと変えて行かれる。
オネシモがピレモンのもとを出た事により、ローマに行く事になり、そこでパウ
ロとの出会いが与えられる。否定的な、害であるような事柄さえも、神は益と変
えられる。

いっさいの起こる出来事が、神の許しの中であり、主権のもとであることを認め
る時に、物事の見方、人生の見方が全く変えられてしまう。神の見方で見る時、
オネシモがピレモンのもとを離れたのは、彼が永久にそばにいるためだった、と
なる。

神の見方で、目の前の事態を見、人生を見るなら、どんなに幸いであり恵まれる
事だろう。ヨセフも再会した兄たちに同じ事を言った「あなたがたは、私に悪を
計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいと」された。

兄たちは悪意であったが、神はその悪意すら良い事の計らいとされた。
エジプトの総理大臣とし、世界的大飢饉の中、ヨセフによって一族は命を取り留
める事とされた。今目の前の事態を神の見方で捕らえよう。
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前から来ることが全て神様からの事と受け取れるから感謝だ。偶然の運命に翻弄
されているのではなく、神様のご計画は揺るがない。今置かれた所に神様の恵みと
祝福は豊かに注がれている。


2009年09月17日(木)

「彼は、前は役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています」ピレモン11



パウロがオネシモに会ったのは獄中だった。オネシモは逃亡奴隷だった。主人の物を盗んでローマに逃げて、何かで捕まり投獄されていた。獄中でパウロに出会い、回心してパウロに仕えていた。

当時、主人には逃亡奴隷を死刑にする権利があった。
しかし、パウロはそのオネシモのためにとりなす。主人のピレモンにかけた損失分を自分が支払うので、オネシモを赦してくれるよう頼んでいる。
赦しを乞うパウロは、ただピレモンに赦すように言うのでなく、自らが犠牲を負い、払った。

ピレモンはパウロによって救われ、パウロに恩義があるはずだ。又、パウロは使徒として命令する事もできた。が、強いる事も命令する事もしなかった。
主が十字架上で、「父よ。彼らをお赦し下さい」と祈られた時も、流された血潮、裂かれた身体により、自ら犠牲を払って、御父に祈って下さった。

オネシモは、獄中という最悪の状況でパウロに出会った。パウロとの出会いにより、最悪が最善に変わった。神に出会い救いに入れられ、罪が赦された。
そして、パウロのとりなしにより、主人ピレモンのもとへ帰ることができるようにされた。

あなたの状況は今、最悪だろうか。まるで獄中だろうか。それが最善へと導かれる事を信じよう。神に完全なご計画がある事、すべてが益とされることを今一度思い起こそう。
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最悪のところで神様に出会う。役に立たない者、落胆している者に希望が与えられ主のために仕える者に変えられる。なんと感謝な事だろう。どんな状況であれ、見るべきものを見て行けますように。


2009年09月16日(水)

「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」ガラテヤ8:5



「互いの重荷を負い合いなさい」とあり、一人では負い切れない重い荷がある時、助けてもらい、又、人を助ける事は必要であり、大切だ。相互に助け合う事が必要だ。又、同時に、「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷がある」とも言われている。

重荷を負い合う事が必要だが、負って上げる事のできない、又、自分も人に負って貰うことのできない、独自の重荷があるということだ。自分のなすべき事を放ったまま、人の世話ばかりしているのはおかしい。

神は混乱の神ではなく、秩序の神であり、秩序正しく導かれる。自分の責任と人の責任をきちんと区別する事は大切だ。
その人自身に負うように与えられている荷は、代わって負うべきではない。干渉すべきでないところまで入るなら、逆にその人をダメにし、損なって行く。

親が子供を転ばせたくないので、石をことごとく取り除いて、道をつける。
逐一指図する。子供の人生を親が乗っ取ってしまって、子供のために良かれと気づかない。親の人生でなく、子供自身の人生だ。

又、「ノー」を言う事は大切だ。「ノー」が言えないので、断ることができず、人の言うがままになり、荷を負わされる。人の荷を嫌々引き受け、心は苦痛と
怒りで一杯になる。問題の原因は「ノー」が言えないからだ。私たちの日常はどうだろう。
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相手を受け入れ限界まで親切に、と願いやすいが、相手の立場や自分の責任をきちんと見極められるよう知恵を求めよう。いま無理しているかもしれないと感じる事があるだろうか。


2009年09月15日(火)

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」箴言19:21



信仰生活の中で、思いもかけず、目の前で道が閉ざされる事がある。誰しも経験する。神からの「ノー」を突き付けられる。非常に厳しく感じる。入試、就職試験、対人関係、様々な事で経験する。

自分の思いとは異なる、思ってもみない方向へ向かう事になる。自分の思いと違うので、失望落胆してしまう。「ノー」は、進路だけでなく、自分自身も否定されたように感じてしまう。しかし、神には、行き当たりばったりという事が無い。
初めから、完全な計画を持っておられる。

あなたの思いが、神の御心と違っていたのであり、神は、正しくあなたを御心の道へと導いておられる。人生の「ノー」を神のご意志として受け取ろう。別の遙かに良い道が用意されてあり、開かれた道から進めばよい。

ある人は、ことごとく目の前の道がふさがれて行った。進もうとすると閉ざされるのだ。そのため、自分の思いで、自分のしたい事をする事をやめて「神が、自分に何をさせたいと思っておらるのか」に考え方を変えた。

そのように祈り始めると、目の前に一つのなすべき事が示され、道が開かれた。
御心を確信し、働きを始めた。自分の思いで進んでいた時は、しょっ中、途中で挫折した。行き詰まってしまい、諦め、途中で投げ出した。
しかし、自分が始めた事でなく、神から始まった事は、成し遂げられて行く事を経験した。「神から発し」が大切だ。
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起こることの背後に神様が働いておられるとの認識に立つ時「ノー」は「イエス」と同じ意味を持つ。自分が何をではなく、神様が必ず最善の場所に導かれることに期待しよう。


2009年09月14日(月)

彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうかじっと見ていた。イエスを訴えるためであった」マルコ3:2  

  

安息日に弟子達が、麦畑を通りがけに穂を摘んだと、主がパリサイ人から非難を受けられた後、安息日に会堂に入られた時のことだ。そこに片手のなえた人がいた。
パリサイ人の視線は、片手のなえた人にじっと注がれた。

しかし、それは主を陥れようと、主を訴えるためであった。何と冷淡な心だろう。手のなえた人を利用した。主を弾劾し、自分達を正しいと、正当化するための手段だ。

一片の憐れみも、同情もない。その手のなえた人が癒された、大いなるみわざを見ても、何の感動もなく、主を殺す相談を始めるのだ。他人事ではない。
形は違えど、「自分は正しい」に立つ時、自分もパリサイ人になっている。

そのような態度の原因を「その心のかたくななのを嘆き」と、心の頑なさによると言われた。彼らの心は感覚が無くなっていた。愛や憐れみや同情に無感覚だ。
それは主を抹殺しようとの計画にまで発展して行く。なぜここまで頑なになったのか。

心に生える苦い根を、抜く事をせず、はびこらせるままにし育て上げてしまった。あなたの心にも苦い根が巣くっていないか。憎しみや、妬みの根は放っておくとどんどん育ち、殺意になる。実際、彼らは妬みのゆえに主を十字架につけた。

一方主は、愛と憐れみ、同情心で一杯であった。同じ「じっと見」る目が何と対極にある事だろう。悔い改め、苦い根は即、根から抜き取って頂こう。はびこらせてはならない。
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自分は正しいと思う時こそ高ぶりに気づかず人を裁くことに躊躇しなくなる。恐ろしいことだ。心にざらつく思いを感じたら、よく見つめて主に告げて行こう。自分は間違っているかもしれない、の態度を忘れているかもしれない。


2009年09月13日(日)

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか」Tサムエル15:22

サウルはサムエルに、アマレクを打ち、すべてのものを聖絶せよと命じられた。
しかし、サウルは、最も良いものを惜しみ、主にいけにえを献げるためと言い訳
し、取っておいた。どうでも良いものだけを聖絶した。

又、斥候12人がカナンに遣わされた時も、10人はその地について悪く言い、
人々は不信仰に陥り、エジプトへ帰ると言い出した。神は彼らが言った通りをす
ると言われ、20歳以上の者は皆、荒野で死に、ヨシュアとカレブと子供達だけ
を導き入れると。

そして10人の斥候達は皆疫病で死んだ。それらをモーセから聞いた人々は、山
地に上って行こうとした。「私たちは罪を犯したのだから、とにかく主が言われ
た所へ上ろう」と。

上れば良かったのだから、上って行こうではないかと。彼らは何もわかっていな
かった。山に上る、上らないの問題ではなく、彼らの間違いは、神に聞き従わな
いことなのだ。

神の御声に聞き従ってこそ、それは信仰による行ないだ。外側は全く同じ行動で
も、意味が全然違う。またしても、神に聞き従うのでなく、それがだめならこれ
でと、どこまでも神を無視して、自分の思いで行動しようとする。この態度の事
だ。

神の御声と同時に、サタンの声や肉の思いからの声が聞こえる。「このやり方の
方が絶対に良い。少し位構わない。この考えの方がうまく行く」と惑わす。自分
の強い思いが湧き上がる。サタンの策略だ。識別できるよう、そして御声を聞き、
従えるように祈っていよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
サウルは御言葉を軽んじたから、従う事をしなかった。自分の御言葉に対する態
度はどうだろう。御言葉を愛して、御言葉に従えるよう祈ろう。自分の力ではで
きないが、主ができるよう助けて下さる。出来ないから、祈りが備えられている。


2009年09月12日(土)

「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」ルカ10:42

こんな事を書いた著者がいた。「私たちは聖書を読み、祈りたいと思う。しかし、
今はその気分ではない。気分が乗らない時に、行なうのは良くない。気分が良く
なるまで先延ばしにした方が良い。もっと適った機会があるはずだ。

又、忙しくて時間がないと言う。次々とやって来る目まぐるしい多くの物事が私
たちの気を散らす。朝刊を読む事で一日を始める。そして、次から次へとなすべ
き事の山に、時間があっという間に過ぎて、もう夕刊がやって来る。

種々の雑用、会うべき人々、幾つかの会合、目の前に起こる様々な事柄、つい時
間をかけてしまうテレビ番組、今日も聖書を読む時間が無かった・・私たちの1
日の時間はどうなっているだろう?本当は時間があるのだ」。

ベターが、ベストを圧迫する。どうしても必要な事は一つだ。二番目に必要な山
のような物事に忙殺され、本末転倒になり、たましいがやせ衰える。仕事や趣味、
様々な事は罪でなく、むしろ良いことであるゆえに、流されて気づかない。

ある人は時間が無いから仕方が無いと、忙しさのせいだと思っていた。しかし、
時間の余裕がある時には、他の事をしている自分に気づいた。時間の問題でなく、
自分の心の頑なさの問題だと気づかされた。

「選んだのです」選ばない限り、時間は無い。選び取ろれるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
急ぎ足の時は、周囲の風景に気づかないように、自分の事で忙しい時は、主の御
声に気づかない。ほんの少し立ち止まって、主に心を向けてみよう。ほんの少し
の交わりから、心が変わり、生活が変わって来る。


2009年09月11日(金)

「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」ヤコブ4:15



人は、自分の思い通りに生きる事が、喜びだと思っている。肉は、欲望が叶うことが幸せだと思う。思い通りになると、肉の快楽はあるが、心の底は決して満たされる事はなく、虚しい事に気づく。

それに反して、主の御心を行なうなら、自分の思い通りではないが、深い平安と安堵感、心の底に喜びを経験する。「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ように、主は望まれている。

日々の色々な選択において、神に喜ばれる選択をするようにと。
その選択は、時に、自分の思いと相容れない。そんな時、自分の思いとは違っても、御心の道を選ぼうとの決意が必要だ。

一方を取り、一方を捨てる決心が要る。しかし、自分としては、自分の計画は、思いは、最善との自負がある。実は、自分の考えこそが最善と思っているので、そこでぶつかる。本当に自分が無力、無知であり、間違う者、頼り無い者だと思っていたら、主を頼り、主の最善である御心に従うはずだ。

頭では、御心に従う事が最善であり、神に頼らなければと思っているが、実際は自分の力を信じている。十分やって行けると思っている。
私たちはどうなのだろう。何でも出来ると思っているが、実は、現れては消える霧のようだ。明日の命すらわからず、今日が最後かも知れない。へりくだって、自分の道でなく、主の喜ばれる道を選べるよう祈ろう。
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肉の思い通りになっても、無条件に嬉しいと感じる事が出来ないのは幾度となく経験済みだ。それならいったん自分の計画を主に明け渡してみよう。必ず主の平安の道を示してくださる。


2009年09月10日(木)

「彼がペニエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた」創世記32:31



ヤコブはその名の通り、人を押しのける者であった。ずる賢く、自己中心、強欲な者であった。兄エサウを出し抜いて、父から祝福を奪った。

しかし、神はそんなヤコブを愛し、砕くために、叔父ラバンという更に狡猾な人のもとに置かれた。主の取り扱いだ。私たちの目の前の対人関係は主のご計画であり、取り扱いであり、私たちを造り変えるためだ。

ヤコブは何度もラバンに騙され、痛い訓練を受けた。騙したヤコブは騙された。
蒔いたものは必ず刈り取る。しかし、知恵にたけたヤコブはそこでも家畜を増やし自分のものとする。やがて、神の時が来て、故郷へ帰るべき日が来た。

兄エサウの怒りを思い、恐怖で震えた。ヤコブは、ヤボクの渡しで、夜明けまである人と格闘し、ヤコブはもものつがいをはずされた。
びっこになって、立っている事もできず、杖に寄りかかるヤコブ。どう見てもヤコブの敗北だ。

しかしその人は「あなたは勝った」と言った。勝ちどころか、打ち負かされた状態だ。だが、ヤコブのずる賢い、自力に頼る自我の強い肉の力が打ち砕かれた。生まれつきの力が砕かれる時、神の祝福が溢れ臨む。

ヤコブは人を押しのける者でなく、自力に頼らず、神の祝福によって生きる砕かれた者に変えられた。神は、ご自身が握られた器を最後まで導かれる。私たちも主の御手に握られている。
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自分の力で歩んで行く者を、神様は、ご自分だけに頼る生き方へと導き返される。目の前にある思い通りに行かない状況は、祈りを重ねてより頼む時、それは感謝だ。


2009年09月09日(水)

「門からはいる者は、その羊の牧者です・・羊はその声を聞き分けます」ヨハネ10:3



神は私たちを御心の道に導くために、絶えず御声をかけて下さっている。しかし、様々な声が混ざり合う。神の御声と共に、サタンの声、自分の肉から発する声、人の声・・様々な声が混線して、実際どれが神の御声なのか、わからなくなる事がある。

サタンは光の天使に偽装するので、神の声を真似る事ができる。
しかし、神の御声には、ある種の特徴がある。その声に聴く時、心に平安があり、静けさと落ち着きがあり、穏やかで且つ力強い。

愛から出ているものであり、赦しがあり、考えも無しに決して人を傷つけない。
断じて神の御声でないものは、がなり立て、責め立てるもの。
急かせ、焦らすもの。疑いや不信感を起こさせるもの。人を非難、中傷するもの、自分を惨めにし、暗くし落ち込ませるもの。恐れや湧き上がる怒り。

御霊は罪を示されるが、はっきりと一点を指摘され、悔い改めるよう導かれる。
サタンは漠然と非難し責め立てる。明確な一点がなく、何が悪いのかわからないが、何もかもが悪く、漠然としていて平安が無い。

御霊の指摘とサタンの攻撃を識別する事は大切だ。悪魔は「兄弟たちの告発者、日夜彼らを神の御前で訴えている者」であり、周囲への不満、裁き、怒りはサタンの常套手段である事をわきまえよう。乗ってはならない。
御霊に助けられ、神の声に聴き、肉とサタンを拒否しよう。
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心で聞いている声はどちらの声だろう。怒りや焦りや罪責感を煽って私達を落ち込ませ、力なくさせるのは決して御霊の声ではない。はっきり遮断しよう。今日もよく識別して歩めますように。


2009年09月08日(火)

「・・なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」使徒5:4



信仰生活、年数を経てくると、自然に聖書知識が増して行く。毎週、教会に通っているとそれなりに身について来る。祈りの言葉も、最初は緊張の中で、しどろもどろだったのが、いつしかそれらしくなって来る。

信仰生活が長くなると、内側と外側のギャップが大きくなって来る。実質は無いのに、どんどん言葉は増え、聖書知識も増え、外側、信仰者に装えてしまう。私達には、人に良く見られたい強い欲望があり、人前を繕ってしまう。

この誘惑に陥ってしまうと、暗闇の中に入る。最初はわかって取り繕っているが、その内に自分が自分に欺かれて、本当の自分がわからなくなる。演じている方が本来の自分だと思い込んでしまう。

ある人が、外での自分をひた隠し、親の前では良い子を演じていた。親は全くわからなかった。しかし、最初は意識した演技だったが、どちらの自分が自分なのか、わけがわからなくなった。これが一番恐い状態だ。

特に霊的生活はサタンの惑わしをわきまえ、主の御前に正直でいよう。アナニヤとサッピラの間違いは、「振り」をした事だった。虚栄から出ていた。
自分が崇められる事を求めた。誕生したばかりの教会に、この偽りを放置するなら、内部から崩壊してしまうので、神は対処された。

自分自身もこの偽りだけは、心していよう。信仰が破船してしまう。献げ物が一部なら一部で全く構わない。一部をお献げしますと、主の御前に正直でいよう。
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信仰生活は、いつも神様と自分だ。人前を繕っていく必要も、焦る必要もない。なぜ焦るのか、なぜ振りをするのか、その動機をまず手放していこう。光の中に出して主に告げてみよう。


2009年09月07日(月)

「しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:21



アルコール依存症の人は、このように言う。どこに行っても、飲酒の誘惑の無い所がない、テレビを見れば酒のCM、街を歩けば、店、又店、誘惑があるから止められないと。ギャンブル依存症の人も、ギャンブルが存在する事が悪いと言う。

環境が悪いのだと。しかし、同じ環境にいて、アルコール依存症にもギャンブル依存症にもならない人々が大勢いる。これは環境のせいでは無いという事だ。何の問題なのか。私達も形は様々だが、同様だ。止められない習慣を持っている。

しかし、その問題の底にあるものは、止められないのでなく、止めたくない自分がいる。そこを見て、認めない限り、問題の解決はない。人一倍思い煩い症の人もいるが、思い煩っていたいのだ。思い煩いがないと不安で、思い煩って安心する。思い煩い依存だ。

おかしな話だが、心の底を正直にみるとそうなのだ。
主はいつでも「よくなりたいか」と問うていて下さる。出来るかと問われない。「・・たいか」だ。本当に良くなりたいのだろうか。建前でなく本音はどうだろう。どっちでもいいのだろうか。

環境や人のせいにせず、自らの罪を認め、無力を認める時、主は癒しを与えて下さる。「私はアルコール依存です」と認める人が癒されて行くという。正直な姿に向き合い、認める事が、真理を行なう事であり、光のほうへ来る事だ。
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「よくならなければならない」と思っているところは沢山あるが、本当に主に「よくなりたい」と明け渡せてはいない。何に依存し、何から解放されたいのか、自分の本当の心の内をしっかり見つめてみよう。


2009年09月06日(日)

『そこで彼は言った「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」』U列王7:2

飢饉で人々が餓死するような、非常事態の中、エリシャは、「明日、小麦や大麦
が溢れるばかりにある」と言うと、侍従はそんな事が、あり得ようかと言った。
すると、あなたはそれを見るが、食べられないとエリシャが預言した。

そんな時、サマリヤの門に四人のらい病人がいた。町は飢饉、ここにいてもどう
せ自分達は死ぬ。それなら、敵の陣営へ入ってみようと。あるいは食料があるか
も知れないと。

アラム陣営では、神がアラムに大軍勢の騒ぎを聞かせられ、襲撃に勘違いさせた。
アラムは驚き恐れ、陣営を置き去りにし逃亡した。彼らがそこに入ると、山ほど
の金銀、溢れるばかりの食料があった。

彼らは、王家に知らせた。王は信じなかったが、偵察により事実を知った。する
と、大勢が殺到し、侍従は踏みつけられ死んだ。預言通りになった。

実際、溢れるほどの食料を神は用意された。しかし、それを信じなければ、自分
のものにはならない。溢れる食料があるに関わらず、飢えて死ぬ事になる。

私達も同様だ。十字架の救い、神の愛、恵み、罪の赦し、義とされる事・・、溢れ
る食料の中にいながら、信じなければ、餓死するように、溢れる恵みの中で、不
信仰で、飢えていないだろうか。

自分で恵みをシャットアウトしている自分の姿がないか。莫大な食料が目の前
に備えられている。信じようとしない、受け取ろうとしない自分がいるだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・
「神に不可能が一つもない」信じている「つもり」でなく、本当に信じきれな
い自分がいるなら、まず「信じられません。助けて下さい」と祈ろう。御霊は頑
なな自我が妨げている事も見せて下さる。溢れるばかりのご愛、恵みに浴したい。


2009年09月05日(土)

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27

ヨハネへの群衆の人気が、主イエスの登場により、どんどんそちらへと移って行
った。ヨハネの弟子たちは「みなあの方のほうへ行きます」と、自分の師を思う
がゆえに、はがゆさや、いらだち、妬み、寂しさを感じていた。

しかし、ヨハネは動じず、態度は立派だった。自分はキリストではないとはっき
りと言い、主が花婿で、自分は花婿の友人で、花婿の声を聞いて喜びに満たされ
ていると。

ヨハネは、人は関係なく、自分と主との間で、喜びをもって主に仕えていたのだ。
真に主に仕える者は、喜びに満たされる。

そして、ヨハネは謙遜だ。人を見て、人と比較する時、必ず妬みが生じる。優越
感や劣等感を行ったり来たりする。同期の同僚の昇進はどうだろう。学生間の成
績や人気、又、ライバルの成功など、心穏やかでいられない。プライドが傷つく
のだ。

人の成功を、自分の失敗のように感じ認められない。人が誉められると自分がけ
なされたように感じる。それらは心に巣くう高慢から来る。

ヨハネはへりくだった。人の誉れも成功も、天からのものであり、神の御手を認
めた。そして、神の与えて下さるものに感謝し満足した。そこに不平も不満もな
い。

すべての事柄に、主の主権と支配を認める時、心に平安が臨む。へりくだった人
に与えられる恵みだ。水は低い方へしか流れない。恵みはへりくだった人に来る。

・・・・・・・・・・・・・
一つ一つの事は、誰に向けて、何のためにしているのだろう。動機は何なのだろ
う。人にでなく、主に仕える時、主だけを見つめる時、心はすっきりし、納得し、
自分自身は喜びに満たされる。すべてに神を認め、神の主権を認める時、平安だ。


2009年09月04日(金)

「ですから、私たちは今後、人間的な標準で、人を知ろうとはしません」Uコリント5:16

 

私たちの生き方は、物事の見方によって、大きく影響される。
普段、どのような見方をしているだろう。人をどう見ているだろう。その人の地位や立場による、人間的標準だろうか。それなら、その人が地位を失い、立場を失脚した時に、価値が無くなるのだろうか。

能力や実績だろうか。では、その人が仕事で失敗し、又、結果が出せなかったなら、どうなるのだろう。それは人の見方と同時に、自分自身への量りにもなる。人を裁き、又、自分も裁き、自分に価値を見い出せなくする。

子供を立派に育てる事で、親としての価値を見い出すなら、子供が問題を起こした時、拠って立つ所を失ってしまう。
それらはすべて古い、人間的標準だと主は言われる。私たちは、そのような見方に立たない。

「だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者」私達は、古い見方に過ぎ去り、主からの新しい見方で人生を歩んで行く。
主は十字架で、私たちの人間的標準、肉の見方、古い見方を清算して下さった。だから、新しい視点に立って歩んで行ける。

主はどう見ておられるだろう。まず私たちはすでに完全な愛で愛されている。
その愛は不変であり永遠だ。愛を貰うために、受け入れて貰うために良い行ないをするのではない。すでに完璧に愛され、受け入れられているから、主の愛に応えて良い行ないに励む。肉の見方に気づかせられるよう。
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古い見方によってアップダウンする時、主はどう見ておられるかに戻ろう。「だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者」に立って、新しくされた立場を生きていこう。


2009年09月03日(木)

「そして請願を立てて言った・・男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」Tサムエル1:10 



 ハンナはずっと不妊で、当時の迷信に加え、彼女を憎むペニンナのいじめに、どんなに苦しく辛い日々であったろう。ずっと祈っていたが、余りの痛みに耐えかねて、決心して祈りのために立ち上がった。

御前に泣きじゃくり、心のすべてを注ぎ出して祈った。そして、誓願を立てた。
男の子を授けられたなら、その子の一生を主に献げると。当時は霊的暗黒時代で、指導者がおらず、人々は好き勝手にわがまま放題で、不道徳と堕落の中にいた。

主はイスラエルを導く霊的指導者を必要とされた。そのためハンナを選ばれ、ハンナの祈りによって、サムエルを産み出そうとされた。ハンナの祈りを待っておられた。「主が彼女の胎を閉じておられた」。祈りによって産み出すためであった。

誓願を立てた時に、主のお心と合致した。主はこの祈りをハンナから引き出された。
主のお心と一つとなったハンナの祈りは聞かれた。彼女は食事ができ、すっきりして、もはや以前の顔ではなかった。
「神に願ったその事は、すでにかなえられたと知」った。

ハンナの窮状こそが、祈りへと追いやった。逆に言えば、せっぱ詰まった、限界ギリギリの苦境が、サムエルを産み出し、神の素晴らしい栄光を現わす事となった。
今、苦しみがあるなら、神の深いご計画の中にあり、大きな祝福のためだ。
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目の前の窮状の背後で、神様が働かれている。落胆しないで、すべてが神様のご計画の中であることを覚えて、心平安にあゆもう。


2009年09月02日(水)

「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」マルコ5:35 



信仰の妨害物とは何だろう。「遅すぎる」、手遅れということだ。もうダメだ。神の時と、私達の時はしばしば異なる。ヤイロは病の娘のために、主に家に来て頂く途上、妨害が入り、中断を余儀なくされた。

長血の女性が主のもとに来た事で、手間取ったのだ。するとそこに使いが来て、娘は亡くなったと告げた。遅かった、手遅れ、もうダメだと。しかし、主はヤイロを覚え、即、「恐れないで、ただ信じていなさい」との言葉をかけられた。

神の「時」がある。すべてが主の主権の中の出来事。主に遅延は決して無い。恐れないで信じていよう。ラザロの時も、主は、病気の癒しよりも遙かに大きな、よみがえらせるとのご計画を持たれ、時を待たれた。
時が満ちるまで断固動かれず、そして、主の栄光を現わされた。遅れではない。

それは主の定められた「時」であり、栄光のためだ。主が語られた御言葉を握っていよう。信じていよう。「恐れないで、ただ信じていなさい」の言葉にすがりつき、そこに立つことだ。その信仰の通りになる。

そして世の言葉「なぜ、この上先生を煩わすことがありましょう」を心に入れず、聞き流すべきだ。否定的な言葉から不信仰、疑い、不安、恐れが心に生じる。
世の言葉、肉の言葉、サタンの語りかけを拒否しよう。受け入れてはならない。聞き流すべき言葉がある。
---------------------
サタンの言葉は、いつも神様に頼るより自分で動けと言ってくる。祈り信じて待つことを奪って行く。この声を聞き流すためには、しっかりと御言葉を握っていなければならない。
一日の初めに、御言葉を読み、常に祈り、目覚めていよう。


2009年09月01日(火)

「そればかりでなく患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を・・」ローマ4:3



私たちが望むのは、平穏無事、安全だろうか。日々の生活が平穏であるように、一生が無事でありたい。安全な所に身を置いていたい。又、コントロールしていたい。
コントロールできないと不安で仕方がない。

しかし、一生、安全で無事平穏であれば、神を求める事は決して無いのではないか。順風の時は、神無しで生きる。自分の力で生きる事ができて、神が必要無い。自分にはどうにも出来ない、絶体絶命の困難な中で、初めて神を求める。

私たちの信仰の成長も同様だ。何の問題も無いところで、決して信仰の成長は無い。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意・・これらの実はいつ結ぶのだろう。
目の前に、どうしても愛する事のできない人が置かれて初めて、どれだけ頑張っても愛せない自分を知り、苦悶のどん底で自分の限界を認め、主に明け渡した時に愛が与えられる。

全然喜べない環境、感謝などとてもできない状況に置かれて、喜びを知る。
平安が全く持てない事態、境遇を通らされて真の平安を知る。寛容になれない状況、全く寛容のかけらすら無い自分を知り、寛容にされる。

一つ一つの出来事、状況を通り、自我だけの醜い真の自分を知り、主の品性へと変えられて行く。窮地に陥り、自分が変えられ、御霊の実が与えられて行く。
患難は望まないが、感謝だ。
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患難、試練の中で忍耐できない自分を知り、いかに主に頼っていないかも思い知らされる。自分の都合のいいような解決しか求めていないなら、痛みにあっている意味がない。主に明け渡せますように。