2009年10月31日(土)

「このおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いは、あなたがたの戦いでなく、神の戦いであるから」U歴20この戦いは、あなたがたの戦いでなく、神の戦いであるから」U歴20この戦いは、あなたがたの戦いでなく、神の戦いであるから」U歴20:15


この戦いは、あなたがたの戦いでなく、神の戦いであるから」U歴20
ユダ王国が、アモン、モアブ、セイルの大軍に攻められて、絶体絶命の窮地に陥
った。ヨシャパテ王はこのおびただしい大軍に無力であり、どうすればよいかわ
からないと告白している。

しかし、主の霊によりヤハジエルが「恐れるな、気落ちするな、この戦いは神の
戦い、主が共にいる。あす、彼らに向かって出陣せよ」と告げた。ヨシャパテ王
は主を信じ、前進するよう励ました。

その時、歌う者たちが軍の先頭に立って「主に感謝せよ。その恵みはとこしえま
で」と感謝の賛美をした。戦う前に、すでに得たりと感謝した。

すると、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来た、敵の大軍を襲わせたので「彼ら
は打ち負かされた」。敵の死体が野に転がっていて、逃れた者は一人もいなかっ
た。神が奇跡を起こされ、大勝利した。

出陣となったが、しかし、現実には、敵は、おびただしい大軍だ。人間的に見る
なら絶対に勝ち目はない。恐怖で、怯え、ひるんでしまう。しかし、主を信じ、
賛美の声を上げた時に、奇跡が起きた。

「地のすべての王国が、神がイスラエルの敵と戦われたと・・聞いた時、神の恐
れが彼らの上に臨んだ」。

今、あなたの前に大きな悩み、問題が立ちはだかっているか。逃げないで、避け
ないで、主を信じて、感謝を献げ、御心に従おう。御霊に示される通りに従おう。
すると、伏兵が備えられいる事実を知り、勝利を見る。必ず乗り越えて行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・
おびただしい大軍の事態に、まず「恐れ・気落ち」の攻撃が来る。状況でなく、
今まで導かれた主がどんなお方で、御言葉はどう言っているかを、注視し、心に
据えよう。主に間違いは無い。「伏兵」の備えがある。問題を乗り越えて行ける。


2009年10月30日(金)

「ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので・・もものつがいがはずれた」創世記32:25



兄エサウを欺き、祝福を奪い取ったヤコブは、叔父ラバンのもとに逃げる。蒔いた種は刈り取る事になり、父と兄を騙したヤコブは、ラバンに騙される事になる。騙されラケルのために14年働く事になる。苦節の20年の後、神が帰国するよう導かれる。

ヤコブを憎み、殺そうとする兄のもとへ帰るのは、何と恐怖であったろう。その兄が400人を引き連れて来ると聞き、不安と恐れでおののいた。家畜と僕達を先頭に、次に家族を、一番最後に自分がついた。自分だけは助かろうとのヤコブの古い性質だ。そした、ヤボクの渡しで、皆を渡らせ、ヤコブ一人だけ残った。

すると、神の使いが、ヤコブと格闘した。余りの頑なさに、固さに、神の使いはヤコブのもものつがいをはずした。ヤコブの強烈な自我が砕かれた。
もはや自力では立てなくなった。それゆえ、神の使いにしがみついた。

頑固で、自我の強いヤコブは砕かれた。砕かれたヤコブは神に拠りすがらなければ、一歩も歩めない者とされた。実はそれこそが大いなる祝福だ。
ヤコブはびっこにされた。イスラエルと生まれ変わり、砕かれたヤコブは、先頭に立ってエサウと会った。何と変えられた事だろう。兄と和解できた。砕かれる時、初めて、神にすがり拠り頼む者とされる。大きな恵みだ。
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気づくと孤軍奮闘していないだろうか。追い詰められ、砕かれ、一人で歩めない者と知れるとはなんと感謝な事だろう。神と共に歩める幸いを今日も味わい喜んでいよう。


2009年10月29日(木)

「あなたが・・あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し・・あなたがわたしの声に聞き従ったからである」創世記22:15

 
イサクはアブラハムが待ちに待った子供だった。長い間待ち望んだ、目に入れても痛くない愛する子であった。
老齢になり、子供は不可能となった時に授かった子供であり、あなたの子孫は、空の星のようになると言われた、約束の子であった。

そのイサクを、神は全焼のいけにえとして、献げるようにと命じられたのだ。もう十分この世界で生きて、年老いた自分が死んだ方が楽だったろう。
そして、何よりイサクが死んだなら、神の約束はどうなるのか?アブラハムの心情は書かれていないのでわからないが、御言葉によると「翌朝早く」従った。

神の約束は真実なはず、イサクはどんな方法でか、生き続けなければならない、しかし、今、殺せと言われる。これはどういう事になるのか。神は死を越えて、約束を成就して下さるはず、アブラハムは、神がイサクを生き返らせることができると信じた。結果的に、神が寸前に阻止され、代わりの子羊を備えて下さった。

アブラハムは試された。そして神を選び取った。大いに祝福された。「あなたがわたしの声に聞き従った」と言われた。私たちにも厳しい試練が臨む。それを逃れ避けようとする自分の肉の声、愛する者の声、周囲の声、様々な声が聞こえる。その時に唯一従うべきは、神の御声だ。今、あなたにも神の御声が臨んでいるか。
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最愛のイサクを献げるアブラハムの葛藤は、私達にも臨む。自分中心の選択は魅力的で上手く行くように見えるが、それは解決ではない。試みを見ていて下さる神の御愛を信じて一歩前進しよう。


2009年10月28日(水)

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」ローマ8:3


アダムとエバは、蛇に誘惑されて、善悪の知識の木の実を取って食べた。それは、賢くなり、目が開け、神のようにしてくれるはずだった。しかし、実際には、善と悪を「知る」ようになっただけだ。決して神のようにはならなかった。

神の前に平安に過ごしていたアダムとエバは、善と悪が判断できるようになったが、善を行なう力は無かった。善悪はわかるが、無力。惨めな状態だ。善を行なうためには、肉の内に善が住んでなければならないが、「私の肉の内に善が住んでいない」のだから、どうしようもない。

しかし、人は、頑張りさえすれば、善が行なえると信じている。善が出来なければ、自分の頑張りが足らないと思う。もっと頑張ればできると思っている。そのため自分を責めて行く。又、人は自分の判断で、これは善、これは悪と思い、何らかの善を行なう。が、神から見れば違う。

人が思う善は善ではない。「善を行なう人はいない。ひとりもいない」「彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている」神の目から見るなら悪だ。自分の肉に真の善が全く住んでいない事を見ない限り、必ず、自分で善をしようとどこまでも頑張る。

完全無力を知った時、初めて主の十字架の贖いに拠り頼む。自分の力と神の力の同居は無く、自分に頼っている間は神に頼る事ができない。無力を知る事こそ最大の恵みだ。
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したい善は行えず、かえってしたくない悪を行う。ゼロに等しい無力な自分を知る度に、神様の前に自分自身を明け渡せる。頼るごとに神様の栄光だけを見る。 


2009年10月27日(火)

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです」Uコリント6:12


コリントの人々は、自分で自分の心を窮屈にしていた。つまり、自分で心を狭くしていた。人から、外部から、心を狭くされるのではない。人も、外部も関係無い。自分の罪を認めなかったり、心にあるとがめを、そのままにして対処していないなら、つまり罪を悔い改めないなら、人の心は閉ざされて行ってしまう。

心が閉ざされるので、心はどんどん固くなり、頑なになる。すると、聞く耳が失せ、不平不満、批判、愚痴、自己憐憫に陥り、口から出る言葉もそのようになって行く。否定的な言葉しか出ない。

信仰的、肯定的、建設的な言葉が無くなってしまう。日常で経験するところだ。否定的態度になると、神を締め出し、神が全く見えなくなる。祝福が何一つ見えない。不平不満の暗闇だ。

その不満が、人に、環境に向くが実は自分で自分の心を窮屈にしている結果だ。自分の非を認めず、自己弁護し、言い訳し、自分を正当化して行くなら、更に自分を狭くして行く。人は罪の性質ゆえ、自分の罪に向き合いたくない。触れたくもない。

しかし、そうするなら、自分を暗闇に追いつめるばかりだ。「心を広くして下さい」神に心を開いて行く時、罪が赦され心が自由にされ喜びが満ちる。
今、心を自分で窮屈にしていながら、人や環境のせいにしていないだろうか。
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神の恵みの中で私達は、何も持たないようでも、すべてのものを持っている。自分の内で追い詰めているものは何か。見極め捨てながら、捨てながら、心ひろやかに歩んで行こう。


2009年10月26日(月)

「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし・・の燃える怒りに、心を弱らせてはなりません」イザヤ7:4

     

私たちは、何か突然の事態が起きた時どうだろう。どんな反応をするだろう。小舟に乗った時の弟子たちのように、波風に、驚き慌て、パニックになるだろうか。舟が沈むとばかり、焦って、気が動転するだろうか。何とかしようと、必死に立ち騒ぎ、動き回るだろうか。

試練の最中に、静まって主を信頼することが簡単でないことを、主はご存じだ。それゆえ「気をつけて、静かにしていなさい」と言われる。
静まることが出来ない。不安で、不安でたまらない。何かしなければ、落ち着かない。じっとしている事が出来ない。心が騒ぐのだ。とにかく何かしなければと思ってしまう。

当時、ユダはアラムやイスラエルの勢力に怯えていた。「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」しかし、神はこれらの敵対勢力を「二つの木切れの煙る燃えさし」と言われた。恐れないで、神を信じているようにと。

どうだろう。不安な状況を前に、心が騒いで、揺れて、思い煩いで一杯になり、信仰も、神も吹っ飛んでしまうだろうか。「立ち返って静かにすれば、救われ、落ち着いて信頼すれば、力を得る」「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」不安と思い煩い、動揺を止めよ。今、恐れと不安な状況にあるなら、気をつけて静かにしていよう。今こそ神を信頼しよう。
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不安や恐れを覚える時、それは神ではないものに焦点を合わせているとの神からの警報だ。立ち騒がず静まり神に目を向ける時、今恐れているものの正体は、ただの燃えさしの木切れだと知る。


2009年10月25日(日)

「悪魔に機会を与えないようにしなさい」エペソ4:27



悪魔は私たちの心に、足場を得ようと狙っている。カインは怒りによって、悪魔
に足場を与えてしまった。悔い改めて、罪を治めるべきであった。しかし、カイ
ンは罪に支配され、アベルを殺してしまった。

サウル王は妬みにより、悪魔に足場を与え、捕らわれてしまった。妬みを悔い改
め、捨て去ることをせず、悪魔に機会を与え続けてしまった。

ダビデは、高ぶりにより人口調査の罪を犯してしまった。戦いに勝利に次ぐ勝利
で、高慢になっていた。人口調査により自らの力を誇りたかった。神ではなく民
の力に拠り頼むよう誘惑された結果だった。

部下のヨアブが、神に反逆する行為であると止めに入るが、ダビデは聞かず、こ
の事で神の怒りを招き、イスラエルに災いをもたらす事になった。悪魔は、カイ
ンにサウルに、主に忠実であったダビデにさえ巧妙に働いた。

私たちは自分の心を見張り、守る必要がある。又、悪魔の常なる手段は「疑い」
を起こす事だ。「疑い」を起こしさえすれば成功だ。「神は本当に愛してくれて
いるのか」「守ってくれるのか」悪魔の仕業だ。

信仰の足元がぐらつく。対人関係に「疑い」を起こし、不信感を植え付ける。疑
心暗鬼にさせる。赦さない心は悪魔に足場を与える。赦し合おう。今、悪魔の攻
撃に会っていないか。

私たちは生涯、血肉とはいっさい戦っていない。戦いの相手はサタン。心を見張
っていよう。悪魔は背後で、ほくそ笑んでいる。サタンの策略に気づけるよう、
今日も祈っていよう。

・・・・・・・・・・・・・・・
サタンに足場を与えていると出入り自由だ。妬みや憎しみ、赦さない心、思い煩
い・・足場があるから常に来れて、ますます強固にされてしまう。そこがサタンの
餌になる。主に告げ、悔い改めたり委ねたり御霊の導きに従おう。足場が無くな
る。


2009年10月24日(土)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道の書3:11



あなたも、しばしば、物事が自分の思い通りに行かないことを経験するだろうか。
今までも信仰人生は、自分の思い通りにはならなかった。

又、突然、不意の事態が起こるのでは、と不安に駆られるだろうか。又、どんな
に祈っても、苦しい状況が何も動かず、微動だにしない、祈りが聞かれているの
だろうかと、思うこともあるかも知れない。

それは、自分サイドで、自分のタイムテーブルで物事を見ているからだ。神には
神のみ思いがあり、時間表があり、定まった「神の時」がある。最善の時であり、
最もすべてに美しい時だ。

祈りが答えられる「時」だけは、私たちは神に指示できない。祈りはすでに答え
られているが、目に見える形で現れて来るのがまだ先ということだ。神は、遙か
先を見通しておられる。私たちには、将来は全く見えない。

「人は神が行われるわざを、初めから終わりまで見極めることができない」の通
りだ。ほんの目先しか見えないに関わらず、しかし「人の心に永遠への思いを与
えられた」。

目先の事だけで一喜一憂し、ひどく落ち込んでしまうが、今は見極める事ができ
ないが、事態の決着は先にある。必ず結末がある。先の事は神の御手の中にあり、
神の時間表があり、あなたのために最善に導いておられる。その神を見ているな
ら、どんな時も全き平安に歩める。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
神を通して、目の前の事態を見ることが大切だ。神を見て、状況を見るなら、御
言葉に立てて、平安になる。神無しで先を見るなら、不安と思い煩いの真っ暗闇
だ。明日も、ちょっと先さえわからない。先はお委ねし、平安でいよう。


2009年10月23日(金)

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった・・」ローマ5:8


もし、あなたが夜更かしして、うっかり朝寝坊し、毎日しているデボーションができなかった場合、どうだろう。落ち込むだろうか。何かとがめて、意気消沈し「ああ、今日は祝福されない1日になる」と思うだろうか。

これは大きな間違いだ。もし、デボーションできなかったとしても、神の、あなたへの愛や恵み、慈しみは決して変わらない。「決して」だ。デボーションできなくても、愛していて下さる。デボーションしたから、愛して下さるのではない。

行ないで受け入れられるのではない。神の愛を得たいから、愛を貰うために、デボーションをするのではない。それなら律法だ。主キリストのゆえに、無条件に愛し、あなたそのものを受け入れて下さっている。
裁かれていない、受け入れられているからこそ、「ねばならない」でなく、デボーション「したい」と思う。

日常生活でどうだろう。親切に、相手に対応しようと思うが、ついイライラして、とげとげしくなる。相手に当たってしまい、悪い態度を取ってしまう。信仰者にふさわしく歩みたいが、自我が出る。肉に歩んでしまう。

すると自己嫌悪に陥り、又、失敗したと自分を責める。同じ事を繰り返し、成長が無いと落ち込む。しかし、落ち込む必要はない。その場ですぐに悔い改めるなら、赦して下さる。霊的だから、立派だからでなく、どうしようもない「罪人」のために死なれたのだ。
---------------------
取るに足りない罪人のために、神様は十字架という具体的な愛を示された。この主の愛がわかったから、私達は純粋に主のために何かしたいとの応答ができる。失敗から学びまた立ち上がろう。 


2009年10月22日(木)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16



人は自分の非を認めたくない。一人の人の中に、二人の自分がいる。そして、あらがい、戦っている。一人は「人がどうであれ、自分が悪い。罪を犯したのは自分だ。自分の罪だ」と言う。しかし、もう一人は言い訳し、弁解し、あれこれ理屈をつける。

「こんな事、誰だってしている。自分だけじゃない。それをいちいち言ってたら、生きて行けない」自分を正当化し、罪を認めない。異なった二人の自分がいる。罪を認めようとしない自分がいる。しかし、どんな中でも、神に従って行こうとの思いがある時、神は頑なな思いを砕いて、罪を悔い改めるように導いて下さる。

人は本音の部分では、罪がわかっている。しかし、自我があり、素直に認める事ができない。人に注意された時はどうだろう。わかっていても、ムッとなる。人に言われるとプライドが傷つき、反発心が湧き、余計心を固くする。自我だ。しかし、それではいけないという思いもある。

肉が改良されて霊になるのではない。肉は肉、霊は霊だ。「肉によって生まれた者は肉。御霊によって生まれた者は霊」だ。最後まで肉は肉だ。私たちは、この二つの間にあって選択する。肉を選ぶか、御霊を選ぶか、御霊を選ぶなら御霊の実を結ぶ。
選べるよう祈ろう。失敗したら悔い改め、悔い改め、前進しよう。
----------------------
二つの人格の葛藤の中で、肉の満足、自分を喜ばす事だけを選択して生きたとして何のクリスチャン人生だろう。主から目を離さず少しでも主に似た者とされるように肉に死に御霊を選んで行きたい。


2009年10月21日(水)

「肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるるなら・・死ぬのです」ローマ8:19



神は、私たちが「肉に従って歩む責任はない」と言われる。なぜなら、神がすでに御子イエス・キリストを十字架につける事によって、肉を処罰され、肉の責任をすべて主キリストが負って下さったからだ。

「神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰された」。私たちの肉はすでに処罰されているので、肉に対して責任は無い。ただただ、御霊に従って歩んで行けばよい。

しかし、培われた古い根深い価値観があり、自分の思い、内側からの声を無視できないと考える。思い煩わないで委ねるなどと無責任で脳天気、ちゃんと自分で責任もって思い煩わなければ、と考えている。問題が起きると、自分で何とかしなければ、と思う。世の価値観であり、これは肉だ。

即、自分の肩にかかり、律法の下に身を置くので、辛くなる。人に対しても、何でも人の言う事を聞き入れないといけないと思ってしまう。そうすると苦しくなって来る。しかし、肉に従って歩む責任は無い。なすべき事は、御霊に従って歩むことだ。

自分の内にもう一つの声を聞こえてくるはずだ。「何も思い煩うな」「主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」。この御霊の声に従って行けば良い。自らは、肉に対して責任を負ってないだろうか。
--------------------
自分がひとかどの者だと思っているから何とか頑張り、出来なければ落ち込む。肉は十字架で主と共に死んだと、こと毎に思い起こそう。力も守りも神様から来るから御声につぶやかず疑わず素直に従おう。


2009年10月20日(火)

「・・神の国はあなたがたに来ているのです」ルカ11:20


神の国=神の支配という意味だ。神がご支配しておられる、
それが神の国だ。
では、神の支配の中なら悩みや問題の無い、平安と喜びに
満ちた状態だろうと思う。なぜそう思うのか。

悩みや問題は、苦しみや葛藤をもたらすものであり、悪と
の価値観からだ。避けたい忌むべきものだ。神なら、人間
に幸せをもたらすべきであり、幸せとは苦しみや悲しみの
対極にあり、心に葛藤の無い状態、平安、喜びだ。
だから、神は、私たちに問題の無い状態をもたらすはずと
思っている。

しかし、それは人間が勝手に思い込んでいる神像だ。
人間の思う神は、自分にとって好都合な神であり、利益を
もたらしてくれる神だ。人間中心に考えるので、そうなる。
それゆえ、聖書の神もそうあって欲しいと思う。
だから、神が支配する所なら、何の心配も悩みも無いはず
になる。

しかし、そうではない。神の支配は、私たちを拘束し抑え
つける支配ではなく、又、何もかも私たちの願い通りにな
るものでもない。ご自分の子供を与えて下さり、罪も死も
引き受けて下さった、無条件の、一方的な、犠牲的愛の支
配だ。今、この愛のご支配の中に置かれている。

だから、痛い事や辛い悲しい事も起きるが、忌むべきもの
でなく、愛なる神からであり、愛ゆえだ。一つ一つは益と
なり、成長させられ、神を更に親しく知って行ける。
必ず結果的に祝福となる。
------------------
悩みや問題のない世界ばかりを求めてしまう。自分の内か
らも外からも痛みや苦しみが来るが、全ては神様のご支配
の中だ。そこを通らなければ知り得ないものがあると信じ、
向き合って行こう。


2009年10月19日(月)

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7



神に従おうとすると、必ず悪魔からの妨害が来る事を心得よう。祈ろうとすると何か心が重くなる。用が次から次へと、浮かび、そちらへそらされ、実際に行動に移って行く。

祈る前はどうもなかったのに、突然眠気が来る。答えられるはずがないと、はなから諦めさせる。祈っても無駄との思いが強く湧く。聖書を読もうとする時も、しかりだ。別の思いが幾らでも湧き上がり、思いがさまよう。別の事を考えてい
るので、うわの空で、何を読んだかわからない。

読むのを諦めてしまう。読み出すと眠気に襲われる。御言葉の意味がわからず、すぐに止めてしまう。礼拝中も同様だ。御言葉を聞かせず、取り去ってしまうために、他の思いを吹き込み、別の事を考えさせる。眠くなる。

又、サタンは日常生活に働く。対人関係で問題を起こす。妄想を吹き込み、疑いを入れ不信感を起こし、分裂を生じさせる。憎しみや妬みを起こさせる。又、ずるずると時間を無駄させる。気力を奪い、やる気を失わせる。強い不安と思い煩いを起こす。ありとあらゆる所に働いて来る。

サタンへの対抗は、御言葉に立ち、御言葉を宣言する事だ。賛美し感謝して行く、退かずに御心を行って行く事だ。最大の攻撃はサタンだと気づかせない。今、攻撃されている事に思い当たるだろうか。
--------------------
時を選ばずサタンの攻撃が来ている事を覚えよう。その攻撃に私達は弱い。弱いから謙遜に神に頼り、絶えず祈り、御霊の与える剣である神の言葉をたくわえて行こう。 


2009年10月18日(日)

「神よ。あなたは私を探り、私を知っておられます・・私の思いを遠くから読みとられます」詩編139:1

人は、人前では、「いえいえ、私などは・・」と腰を低くする。上座には決して
座らないし、下座でうろうろし、皆で座を譲り合う。

「私は足らない者で・・」「愚かな者で・・」と言うが、もし、人から「ほんと
にそうね」と言われたら、どうだろう。カチン!ときて、腹を立て「あんたにだ
けは言われたくない」となるだろうか。卑下も自慢の内だ。

心底思っていたなら、認め、同意するはずだ。しかし、実は足らないなどと思っ
ていない。又、人が、自分から上座に座るのを、見たらどうだろう。「なんとい
う人だ」と思うだろうか。口では、へりくだるが、心では思っていない。

劣等感にさいなまれている人々がいる。劣っている事自体は、別に、悪くも何と
もない。これから学んで行けばよい。しかし、劣等感で悩む人々は、しばしば、
自分が劣っているとは思っていない。

自分は能力があるのに、他人がそれを認めてくれないことに鬱屈する。悶々状態
になる。そして、実はその醜い高慢やプライドを見たくない、認めたくないがた
めに、劣等感だという事にして逃げ込む。

神がキリストのゆえに、受け入れ、愛して下さっているのは、その底の醜い、見
たくもない、自分が嫌な自分だ。「すべての照らすまことの光」隠れた部分を光
に出し、そこを癒し、解放し、真の喜びと安らぎを下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
心の奥底の自分は、自分が思っているのとは、まるで違う。しかし、神は、イエ
ス様の十字架において、すでに解決を与えて下さっている。神が見ておられるよ
うに、見せて、認めさせて下さり、自由にして行って下さる。


2009年10月17日(土)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11

サタンは狡猾だ。「野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった」とある通りだ。最
も狡猾なのは、光の御使いに偽装することだ。神を真似る。

ストレートな罪ならわかりやすい。殺人、暴力、泥酔、妬み、憎しみ、種々の欲
望・・。しかし、光の御使いに、神に変装する。一見善い事で来る。主のもとに
も、御言葉をもってやって来た。

主が荒野で、サタンの誘惑を受けた時に、御言葉によって、サタンに対抗された。
するとサタンも同じく御言葉を持って来た。「と書いてありますから」と。

御言葉を曲解して来る。ある人は、弱っている時に聖書に向かうと、御言葉が自
分を責めて来ると。自分は出来ないし、苦しくなって、聖書を閉じてしまうと。
「サタンですよね」。サタンが恵みを隠し、御言葉を使って責め立てて来る。

恵みを排除した「ねばならない」で攻撃して来る。どんどん苦しくなる。神が、
ただただ恐怖となり、罰と裁きの神になる。悪魔は、悪魔を神に見せ、神を悪魔
のように見せて来る。

又、悪魔はしつこく誘惑して来る。粘り強く弱さにつけ込んで来る。執拗に誘
惑し続ける事によって、ついに悪魔はダビデを罪に引き込んだ。ダビデは誘惑
され、自分の力を誇りたくて、人口調査の罪を犯してしまった。

「サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口
を数えさせた」

絶えず主に拠り頼んで祈っていよう。天国へ行くまでは、日々霊の戦いだ。まず
それをしっかり受け入れ、わきまえていよう。御霊がサタンに気づかせて下さり、
御霊に拠り頼んで勝利できる。

・・・・・・・・・・・・・・
今、重苦しい、否定的思いにあるなら、そこにサタンが噛んでいないか、気づけ
るよう。しつこい誘惑が来ていないか。暗さ、失望、思い煩いに心が沈む時、サ
タンにやられている。気づけて、主を仰ぎ、御言葉を握る時、サタンは逃げ去る。


2009年10月16日(金)

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:24

 

主は、パンの奇跡をされた。それを見た群衆は、主を王にかつぎ上げようとした。しかし、主は、大勢の群衆が信じると言い、後を追いかけ回しているのは、主ご自身を求めてではないと言われた。

しるしを見て、そこに霊的な恵みを見て、この方こそ主キリストと信じついて来たのでなく、求めていたのはパンであり、更なるパンで満たされたい。自分の願いが満たされたいがゆえに、つき従っていると。満腹とは、自分の欲望が満たされる事であり、自己満足、自己実現だ。それが満腹であり、肉の喜び、肉の満足だけで、そこに主や永遠の恵みを見る事はない。

主は祈りに答えて下さる。求めよと言われる。そして必要を満たして下さる。
しかし、気をつけていないと、私たちの祈りは、ひたすら自分の欲望満足だけに向かってしまう。欲望充足の手段となってしまう。そして、欲望が叶えられず、思い通りにならなければ、主のもとを去る。利用価値が無いからだ。

主は、そんな私たちをあわれみ、正しく導くために、時に、思い通りでない答えを与え、よく考えさせ、動機を探らせ、省みさせて下さる。
「ノー」の答えがあり、すぐに叶えられない祈りがある。その中で心を探り、取り扱い、御心に適った者へと成長させて下さる。思い通りにならない状況は大きな恵みだ。その中で様々な気づきが与えられる。
--------------------
あれも欲しい、これも欲しいと素直に祈るが、主がくださるものを喜ぶのが私達だ。
ノーの答えの中で、自分の立場でしか愛せない者である事を知り、思い通りにならない所を主と歩む恵みを知って行ける。 


2009年10月15日(木)

「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ」ゼカリヤ2:13



肉が静まるとは、自分の弱さを認め、弱さの中に恵みが十分と、弱さを誇る人のことだ。へりくだった、心砕かれたたましいに、主が立ち上がって下さる。肉が、人間の力が、立ち上がるのでなく、自分の無力を認め、静まる時に、主が立ち上がられる。

様々な問題がある。経済的困窮、難しい対人関係、色々な苦しい悩みの中で、自らの無力を告白しよう。無力を認め、主に助けを求めるなら、主が立ち上がられる。問題を、素直に率直に主に告げて、主の助けを求めよう。思い煩いを主に明け渡し、喜びも悲しみも苦しみも、具体的に一つ一つ主に語り、感情も主にぶつけよう。

主は受け止めて下さる。そして、主に依存しよう。自分の力、自分の思い、自分の方法、自分の価値観に静まる時、それらに頼らない時、主が立ち上がって下さる。自分を下ろす時に、主が立ち上がられる。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである・・ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」

私が弱い時こそ、主が立ち上がって下さる。肉を十字架につけて行く時、主が立ち上がられる。信仰生活に、家庭に、教会に、職場に、自らの人生に、主に立ち上がっていただこう。
-----------------
自分を下ろした時「わたしはあなたのただ中に住む」と言われる主を認める。喜びや悲しみが来ても自分の感情が基準なら流され翻弄されるだけだ。永遠に続く揺るがない確信と平安は、主よ、私にはあなただけですと認めた時に来る。


2009年10月14日(水)

「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」創世記3:7


エデンで「あなたがたの目が開け」「神にようになる」との蛇の誘惑により、エバは善悪を知る木の実を取って食べ、夫アダムも食べた。その時、二人の目は開かれた。
「目が開かれる」というのは、神から独立して、神に頼らず、人が自分で善悪を判断できるようになったという事だ。

罪が入り、霊が死んで、神との交わりが絶たれてしまった。そのため、裸であることの恥が来て、恐れが臨んだ。その時から、人は神を離れ神無しで生きるようになった。
「肉」とは、つまり、神無しの、神によらない生き方だ。罪にある人間による考え方、生き方、価値観だ。神から独立して自分で生きることだ。

神からの独立=人間中心という事になる。肉とは、いわゆる悪行とは限らない。妬み、憎しみ、泥酔等はストレートでわかりやすいが、道徳的で麗しいもの、感動的なもの、立派なものも、神を崇めず、神無しの生き方であれば「肉」だ。感動的なヒューマニズムも、根本に神無しであり、神に敵対している。

世界平和、人類愛をうたっていても、神否定だ。「肉」が改良されて、「霊」的になるのではない。肉はどこまでも肉で、それは捨て去るべきものだ。
自力でなく「御霊によって」御霊に満たされ、御霊の導きに従って歩むことが、答えであり、肉の欲望から守られる。
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目が開き自分が神となり、神どころか誰からの支配も受け付けない罪深い者となった。自分中心の肉の思いは自分で管理し得ないからだ。十字架により罪赦された事に感謝し、肉を選ばず、御霊の導きに歩める事に感謝しよう。


2009年10月13日(火)

「彼がペニエルを通り過ぎたころ・・彼はそのもものためにびっこをひいていた」創世記32:31



ヤコブは、兄と父を欺いて、欲しいものを自分のものにする、ずる賢い人物であった。しかし、神は、自我の強いヤコブを愛しておられた。その自己中心を砕くために、神はヤコブを握り、訓練された。ヤコブをご存じである神は、更に狡猾な叔父ラバンのもとにヤコブを置かれた。

私たちの目の前に送られて来る対人関係は、主のご計画だ。対人関係を通して、私たちの頑なな部分が砕かれる。兄を欺いたヤコブは、ラバンに欺かれる事になる。
ラケルとの結婚のために7年働いたが、レアを与えられ、更に7年働く事になる。辛い厳しい日々であった。

ラバンのもとで多くの痛い訓練を受ける。やがて神の時が来て、故郷を帰るよう示される。神が定められたなら、ラバンも止める事が出来ない。兄の怒りを恐れて足がすくみ、恐怖で震えた。殺されるかも知れない。ヤボクの渡しで神の取り扱いを受ける。夜明けまで御使いと格闘し、もものつがいをはずされた。

一番力のあるその所を砕かれた。もう自力では歩けず、杖にすがってしか歩けない。つまり、神に頼らなければ、一歩も歩めない。肉の知恵と力を駆使して生きて来たヤコブが、神無くして一歩も進めないようにされた。神の恵みによって生きる者に。
今、私たちも神の取り扱いの中なら、大きな祝福に入れられる。
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自分の知恵や策を労し格闘して行くなら、いつまでたっても神様を知ることは出来ない。自分で自分を守ることをやめ、神様しか頼るものがないと知れるのが幸いだ。もう何者をも恐れる必要はなくなる。


2009年10月12日(月)

「あなたが王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」エステル4:14



ハマンの悪巧みにより、王も巻き込まれ、ユダヤ人は絶滅の危機に至った。この時、ちょうどエステルが王妃の立場にいた。前妃ワシュティが退けられ、代わりに王妃と選ばれていたのだ。

エステルの養育者モルデカイは、使いの者を通して彼女に、この事態を王に申し上げ、王にあわれみを求めるよう告げた。王に召されないで、王のもとへ行くなら死刑だ。
しかし、エステルは、モルデカイの「あなたの今の地位、立場はまさにこの時のためでは」との言葉により、命がけで王のもとへ行く事を決意する。

このエステルが用いられて、ユダヤ民族が救われた。その時に丁度のタイミングでエステルがそこにおり、彼女は命をかけて自らの使命を果たした。ヨナタンは、ダビデをどこまでもつけ狙う、父サウルに進言した。ダビデの良いことを話し「王よ。あな
たのしもべダビデについて罪を犯さないで下さい」王に向かって言う事はどんなにか勇気がいる。

しかし、彼はその立場にいた。ダビデを深く愛し、彼の事をよく知っていた。父サウル王にも一番近くよく知っていた。ヨナタンにしか出来ない事であり、彼だけが出来る事であった。彼は自分に出来る事をなし、使命を果たした。私たちも置かれた立場があり、あなたにだけにしか出来ない使命がある。使命を果たして行けるよう祈ろう。
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意味もなくこの場にいるのではない。誰もが、もしかしたら、この時のためにという出会いがあり、その立場でしか成し得ない事のために今の場所にいる。神様の摂理を信じ最善を成していこう。


2009年10月11日(日)

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12:2

サタンの攻撃は、どういうふうに来るのだろうか。それはとにかく主から目を離
させようとする。それに成功しさえすればよい。主以外のものを見続けさせれば
よいわけだ。

そのため自己に目を向けるように仕向ける。例えば、対人関係が苦手な人がいた
とする。それは、ずっと目が自分に向き続き、自分を気にしている。

相手と対応している時も、全関心は自分に向いている。神でもなく相手でもない。
自分に集中している。自分しか見ていない。相手が自分をどう見るか、気になっ
て不安でたまらない。自分はちゃんと対応できるか。絶えず気にする。

又、自分の恐れと不安を払拭しようと、その事に更に意識が行ってしまう。結局
は、神も相手もなく、終始自分の事だけになる。自分から始まり自分に終わる。

しかし、一見、自己主張するわけでなく、自分勝手でわがままでもないので、自
分も、人も、実は強烈な自己中心である事には気づかない。ここが盲点だ。

現れる形は様々だが、主から目をそらさせる誘惑と攻撃が来ている。あなたには、
何が目をそらさせるだろうか。絶えず来る誘惑は何だろう。

主以外の何に目が向いているだろう。自分か、人か、不安な事柄か、そこに気づ
いて、そこから目を離し、主に目を向けよう。主から目を離させているものに、
まず気づく事から始まる。

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いつもしょっ中、心に浮かぶものは何だろう。それがサタンの攻撃だ。主との交
わりを妨げられ、平安と喜びを奪われている。気づいていない所は、ずっと闇の
ままだ。まず、御霊が気づきを与えて下さるよう祈ろう。主を見て、目の前の事
柄を見よう。


2009年10月10日(土)

「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した』・・『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった』」Tサムエル12:13

いつの場合も、罪が赦され、解き放たれるためには、まず自分の内にそれがある
事を認めることが必要だ。認めない限り一歩も進まない。

ダビデは姦淫と殺人の罪を犯したが、それを隠していた時には「1日中うめいて、
骨々は疲れ果て、骨髄は、ひでりでかわききった」と。苦しい悶々状態だった。
しかし、告白し、罪を認めた時、とがめは赦され心底からの安堵と解放を経験し
た。

私たちはどうだろう。自分を正当化する肉の性質がある。自分が怒るのは、相手
がそのような言い方をするからだ。相手がそんな言い方をしなければ怒らないの
に。自分が怒るのは相手のせいであり、相手が悪い。

又、私がそんな言い方をしたのは、疲れていたからだ。疲れてさえいなければそ
んな物言いはしない。自分でなく疲労のせい。言い訳や弁解を捜すなら、幾らで
も出て来る。

自分は正しくて相手が悪く、状況が悪い。そう言っている限り、自分は何も変わ
らない。変えられるためには、「それをしたのは私です」「その通りです」と言
い訳せずに認めることだ。その時、「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さっ
た」が自分の身に成就する。

自分の心を振り返ってみよう。どれほど多くの自己正当化、言い訳、弁解、責任
転嫁が出ているだろう。あの場面も、この場面も・・。
気づけて「それは私です」と認めよう。その時、必ず自分が変えられて行く。

とにかく、いっさいの自己弁護、言い訳を止めてみよう。自分で自分を護る事を
止める時に、主が弁護して下さる事、赦されている事、神の大きな愛の御手に包
まれている事を知る。

・・・・・・・・・・・・・・・
自分で何とかしている間は見えない。自我に触れるので、肉は決して認めたくな
いが、認める時、十字架から赦しが流れて来て、紛れもなく、自分のための十字
架だとわかる。心砕かれる中に、神の深いご愛と慈しみに、頭でなく心が触れる。


2009年10月09日(金)

「私のことばは、その時が来れば実現します」ルカ1:20



祈っても祈っても答えられない経験があるだろうか。真剣に熱心に祈っているのに、答えが来ない。それは、祈りの答えには、「神の時」があるということだ。
「天の下では、何事にも定まった時期がり、すべての営みには時がある」「神のなさることは、時にかなって美しい」。

神が目的をもって、時を遅らせておられる。御心に適っていないのでなく、御心であるが、神が最善の時機を定めておられる。私たちが思う「時」と、神の「時」とは、時々ずれがある。神のタイミングは、神の栄光が最高に現される時なのだ。

私たちは、しばしば「今こそ」その時、と思うが、神のみ思いは更に高く、深い。
ラザロが死に直面していた時、マルタとマリヤはどんなに主を待った事だろう。主なら病気を癒す事ができる。一刻も早くと、今か、今かと。しかし、主は断じて動かれなかった。尚2日もとどまられた。ラザロの死を確認して動かれた。

主の御心は病気を治す事ではなく、よみがえらせる事であった。墓に葬られた上、もう腐敗しているという、ダメ押しのもとで、主は奇跡をされ、ラザロをよみがえらされた。最も栄光が現される「時」であった。あなたも、御心を確信して祈っているなら、「時」がある。すでに聞かれていると信じ、神の時を待ち望もう。
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他の手段によらず、これが祈りの答えだったと知れる、美しい神様の時がある。今、目に見えて祈りは叶えられていなくても、時をゆだねて祈り求めていこう。


2009年10月08日(木)

「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」ルカ22:32



人は皆、失敗をするものだ。どんなに注意していても、人間である限りミスしてしまう。完全無欠ではないからだ。あなたも信じられない失敗をした事があるだろう。
大切な事は、その失敗から「学ぶ」事だ。学べば良いのだ。

何度転んでも立ち上がって、再び、主に従って行くことだ。幸せな結婚生活が、夫婦間の努力なしに築けるなど不可能だ。建て上げて行く努力が大切だ。又、友人関係も同様だ。互いに従い合い、思いやり合い、自分を捨て、日々学び、日々築き上げて行くべきだ。

ペテロは人生で大失敗をした。自分は大丈夫、命をかけても主に従うという決心が、試みの前にもろくも崩れ去った。主を裏切ってしまった。しかし、見事に回復され、後に主の証人とされ、殉教した。

ダビデも大きな失敗をした。しかし何もかも終わったのではなかった。ダビデも罪赦され回復させられた。私達も皆、信仰が試される。時に失敗してしまう。しかし、失敗で落胆し、絶望する必要はない。どんな状態であれ、やり直す事ができる。

悔い改めて、そこから学ぼう。主がペテロにしたと同様に、あなたを再び建て直し、人々を力づけるために、砕かれた者を豊かに用いられる。恵みは十分。失敗を通して、自分の知恵や力で歩まず、主に拠り頼む者と変えられる。
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何度でもやり直せる。大切なのは失敗の後の処し方だ。恐れず戻って来なさいと主は言われる。そして絶望や失意からの回復を与えられたら、主のさとしの方へ自分の足を向け、また歩み始めよう。


2009年10月07日(水)

「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7:7



誤った祈りがある。パリサイ人たちが会堂や通りの四つ角に立って祈ったように、自分がいかに敬虔であり、信仰深く、祈り深い者であるかを人に見せるための祈りだ。神を崇めるのではなく、自分を崇める。虚栄であり、自己顕示だ。

人に聞かせるために祈るのは、肉の性質であり、まさに偽善の祈りだ。自分を顕示したくて、祈りを人に聞かせる事とは逆に、人前で祈る事に尻込みする事がある。人を意識し、自分を意識するので、人前で祈る事は恥ずかしく、したくない。

実はこれも同じく肉の性質から出た自我による。又、異邦人のように同じ言葉を繰り返す事も誤っている。言葉数が多ければ良い、祈り勝ちとばかりに、何時間も同じ言葉を唱える。異教でよくある事だ。

これは根本的に違っていて、私たちと主とは、信頼関係で結ばれている間柄だ。主は祈る前に、私たちの状況をすでにご存じだ。しかし、だから、祈らなくてもよいのでなく、だからこそ祈れと言っておられる。主は求めに答えられるからだ。

すでに知っていて下さるからこそ、安心して求めることができる。「自分の部屋に入り、戸をしめて」人ではなく、自分でもなく、神を意識して、神に向き合う祈りだ。極みまで愛し慈しんで下さっている御父が、必ず答えて下さると信頼して御前に行こう。
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最善を与えようと聞いていてくださる方を、一心に見つめて祈ろう。人に聞かせるための祈りは人に求めている。祈りは神様と親しく交われる時。しっかりと依り頼み、ありのままの思いを告白しよう。


2009年10月06日(火)

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか」Tサムエル15:22



サウルはサムエルが着くまで、7日間待つように言われた。サムエルがいけにえを献げるからと。7日間が過ぎたが、サムエルが来ない。そして、民はサウルから離れて行こうとしている。それを見て焦り、サウルは自分で全焼のいけにえを献げた。

そこにサムエルが到着し、サウルが主の命令を守らなかった事を告げた。
又、アマレクを打ちすべてのものを聖絶せよ、と命令を受けた時も、最も良いものを惜しみ、どうでもよいものだけを聖絶した。そして、民が惜しんだのだと、民のせいにした。

サウルのこれらの問題は何なのか。いけにえを献げる、献げない、すべてのものを聖絶する、しない、外側に出て来る行ないの問題以前に、御言葉にあるように「あなたが主のことばを退けた」「聞き従うことは、いけにえにまさり」彼の態度が、主に聞
き従わないということだ。私たちはどうだろう。

この状況では、神はこう言うが、こっちの方が良い、この考えの方が良いと、自分の思いが強く、自分の思いで動いているだろうか。大切なことは、どんな良い事をするかでなく、主の御声を聞いて、その御声に従うことだと言われる。今どうだろう。

御声をなおざりにして、無視して、自分の思いで進んでいるなら、立ち止まろう。御声に従おう。喜びと、豊かな祝福はそこから来る。
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御声に謙遜に耳を傾けよう。高慢な思いがないだろうか。外側や結果だけではなく神様はその心の動機を見ていて下さる。御声を軽んじ自分自身を通して行く事は高慢だ。


2009年10月05日(月)

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました・・」ガラテヤ5:1



時々、信仰は拘束であり、縛りつけられ、窮屈だと言う人がいる。あれはダメ、これはダメと。あなたもそう思うだろうか。しかし、真の信仰は決して窮屈ではない。
むしろ、「ねばならない」の、かせから解き放たれて、自由にされる。

金魚は水の中で、自在に泳ぐことができる。もし金魚が「水の中なんて嫌だ。水だけに限定されるなど窮屈で不満だ。陸に自由に上がりたい」と言えばどうだろう。
それは死を意味する事になる。金魚は即、死んでしまう。

又、レールを走っている電車は不自由で、レールは拘束だろうか。そうではない。電車はレールの上を走る時、力を自由に発揮し、最高に自由だ。レール以外の所こそ不自由だ。楽器演奏者は、譜面に忠実に音符を演奏する。その譜面は不自由だろうか。
譜面に忠実であることによって、最高の美しい素晴らしい演奏が奏でられる。

ルールに拘束される事に反発して、勝手にやりたい放題する事が自由だと勘違いするが、自由なのではない。それはわがままで、放縦だ。肉の欲望を遂げても、平安も何の実も無い。

自由とは御霊に従うところにある。愛する事が自由で、憎む事は不自由だ。その証拠に、心が辛くて苦しい。御霊はそこから解放して下さる。御霊の示しに一歩一歩従おう。自由に、自由にされる。
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主を知らなければ自由だっただろうか。自分の勝手な価値観や人の価値観が不安や焦りとなり何をしても安定を欠いていなかっただろうか。人を愛する自由、憎まない自由、主が下さった自由に堅く立って御霊の実を結んでいこう。


2009年10月04日(日)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」コリントU3:16                          

人が自分でなく、主に向いて行く時、つまり自分のために生きることを止め、神
のご計画に従って生きて行く事を決心した人は、御霊によって本当の自分の姿を
見せられて行く。

御霊によって自己中心のおおいが取り除かれる。その時初めて、「自分、自
分・・」でなく、自分の栄誉、自分を良く見られたいと思う思いより、主を知りた
いという思いに変えられて行く。主に従って行きたいと思うようになる。

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」かつてこ
の世の虚しいものを求めていた者が、この世の物に支配されない、欲望満足の喜
びではない、御霊の喜びが与えられる。

欲望で縛られていた心が解き放たれ、本当の自由を味わうことができる。関心と
興味が自然に以前と違って来る。御言葉を喜び、主との交わりを喜び、霊的なも
のに食欲が湧いて来る。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させ
ながら栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く」

主が喜ばれるものを、喜ぶように変えられる。主の視点で状況や事態を見るよう
に変えられ、発想や価値観が変えられる。

自分の損得や欲望のためでなく、主に喜ばれるよう生きるように変えられて行く。
愛、喜び、平安、寛容・・の実を結ぶ者とされる。主に向いて行く時に。これら
すべて御霊の働きだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・
以前とは、確かに変えられている。価値観や発想が変えられ、自分だけのために
生きていた者が、主の御心を行なおうとしている。目が自分に向いている時、気
づきが与えられるように。御言葉は何と言っているか?主のみ思いは?


2009年10月03日(土)

「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」創世記45:5

ヨセフは、兄たちに、エジプトへの隊商に売られた。ヨセフはエジプトの地で、
様々な厳しい試練を通り、理不尽な苦しみに会った。忍耐を要した。

最終的にヨセフはエジプトの総理大臣となり、ヤコブや家族を呼び寄せ、一族の
命を救うことになる。ヨセフは摂理の神を信じていた。

それゆえ、自分を売った兄たちに再会した時に言うことができた。「今、私をこ
こに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救う
ために、あなたがたより先に、私を遣わして下さった」「私をここに遣わしたの
は、あなたがたではなく、実に、神」と。

ヨセフは、神が主権のもと、この世界と私たちの人生の何もかもを支配しおられ
る事を信じていた。神が、この世界と私たちの人生に介入され、導かれることが
「摂理」だが、ヨセフは摂理の神に信頼していた。
それで「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための
計らいとなさいました」と言えた。

摂理の神への信仰があったから、ヨセフは兄たちを赦すことができた。神は悪意
をさえ、善に変えることができるお方、すべての事を良きに変えられるなら、ど
うして兄たちに報復できよう。

ヨセフは自らの人生に神のご計画を認めた。あなたも今、理不尽な苦しみがある
なら、摂理の神を見上げ、信じよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
すべての事に、摂理の神を認め、神の主権を認める時、物事の、人生の見方が変
わって来る。偶然は一つも無い。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れる事は無
い」と。「わたしだ」との主を認める時、何があっても心の底に揺るがない平安
を持つ。


2009年10月02日(金)

「イエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた」マルコ4:38



「向こう岸に渡る」というような大きな行動をおこす時は、まずはっきりと主の御言葉を与えられ、主のみこころを確信してから、行動すべきだ。
しかし、私たちはどうだろう。みこころを歩み始め、ちょっと向かい風が吹き、行く手を阻まれると、「もしかして、みこころではなかったのでは」と非常な不安に襲われる。

又、「何かの罪に対する罰では」と恐れたりする。状況の変化に、ほんろうされて、上がったり下がったり、振り回されるのも、状況だけで判断するのも、信仰による歩みではない。御言葉を与えられて出帆しても、波や風を見て、御言葉から目を離した
途端うろたえる。

御言葉の約束を握っていれば、波や風で揺らぐ事はない。舟が木の葉のように揺れ、浸水し、沈没するかに見える状況は、恐怖を覚える現実だ。しかし、同じ舟に主がおられることが、もう一つの大きな現実だ。この現実であるお方は、ひと言葉で、風を静められる。

主が同船しておられる事を覚えよう。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」という弟子たちに「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのはどうしたことです」と言われた。今、波風逆巻く状況に恐れを感じている
だろうか。主が同船しておられ、「向こう岸へ渡ろう」と言われた通りに成就する事を覚えよう。
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御心を確信したはずでも、波、風を見ると揺らぐ。けれどそれが御心であるなら必ず向こう岸に渡れる。大丈夫だろうか・・の声に惑わされず、その背後におられる主を見ていよう。


2009年10月01日(木)

「私たちは、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて・・競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」ヘブル12:1



競走をするのに、足もとに、ずっしり重い荷とまとわりつくものがあれば、どうだろう。足にからみついて前にすら進めない。競争どころではない。前進しようとすると、からまりついて進めない。前進を阻止する、執拗にまとわりついて来る罪は何だ
ろう。

金持ちの青年は、まさに主のもとに来ながら、からみつく富の誘惑、富の偶像を捨てられないで、富でなく主を捨て去ってしまった。地位と権力を持つダビデには、強い異性への誘惑が常に執拗にからみついて来た。その罪をきっぱり捨てなければ、逆に罪のとりこになり、罪に飲み込まれてしまう。罪はあなたを縛ってしまい、心が神に向かずに、神から離してしまう。

常に襲う誘惑は何だろう。罪はきっぱり捨て去る事、悔い改める事が大切だ。でないと、まとわりついて前進不可能だ。重荷があるだろうか。
未信者の親族からの反対、職場や学校での信仰ゆえの辛い思い、又、様々な責任が重荷となってかぶさる。それを重荷としては「捨て」、主からのくびきとして、新たに受け取ることだ。

その時、主が負って下さる。辛い苦しい重い荷ではなく、主のくびきだ。それは、負いやすく軽い。しっかり負うなら平安で心地良い。主のもとに重荷を下ろす時、平安に心が癒される。あなたにからみつくものは何だろう。
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前進を阻んでいるものは何だろう。罪の誘惑やくじけそうな恐怖感だろうか。私達が進もうとする時、主は放っておかれず必ず共に戦って下さる。主を信じ、からみつくものを主のもとに持って行こう。