2009年11月30日(月)

「・・心に植えつけられたみことばをすなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21


「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができる」。救われた信仰者に
言われているのであり、私たちは、みことばによって、日々新たにされ、変えら
れ、成長して行く。

しかし、「素直な」心でなければ、みことばを受け取ることが出来ないと言って
いる。「素直な」心が必要であり、大切だ。みことばが根差さない限り、何も始
まらない。それは「素直な」心に根差し育まれる。

それで、素直な心にするために、神は心を耕される。くわやすきで、掘り起こし、
柔らかい土壌にされる。つまり、それは、神は私たちに試練を与えられるという
事だ。素直でない、固い、頑固な、屈折した、又、偏見の強い心を砕かれる。

又、私たちの価値観は、根深くこの世の価値観で培われている。そのところをも、
変えて下さる。悩みや困難を通ることによって、頑なな部分が砕かれ、柔らかく
される。素直にされて行く。御言葉が根付いて行く。

一つ一つの訓練が益であり、私たちのためであり、ふさわしく量って、与えられ
たものだ。素直な心にされるためと、焦点がはっきり合っていれば、反抗も、不
満も怒りもない。

神の御手からの訓練を、受け取って行くことが大きな祝福であり、成長だ。あな
たの前に今、悩みや困難が来てるだろうか。心耕され、心素直にされるためであ
り、みことばが培われるためだ。そして今、御言葉を、心開いて真正面から受け
止め、従おう。

・・・・・・・・・・・・・・・
どうであれ従おうとしている時、御言葉が入って来る。従う気がなければ、まず
御言葉が聞こえない、入らない。自分でもどうにも出来ない頑なな心を、くわを
入れ、耕し、柔らかにして下さる主の取り扱いが感謝だ。


2009年11月29日(日)

「もしあなたが、誰でも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」ヘブル12:7

クリスチャン人生を勘違いする。毎日〃楽しい事ばかりで、受験や就職試験はす
べて合格、商売は繁盛、家族は健康で、最後は天国で、めでたし、めでたしと、
終わると。それが祝福だと。

祝福とは、幸せで楽しい事、問題が何も無く、順風満帆のことだと思う。だから、
ある日突如として、夫はリストラ、妻は病気、子供は受験失敗にでもなろうもの
なら、パニックになる。こんなはずではない。「何で?何で?」周囲の未信者か
らは、そんな事では信心している意味がないと言われる。

その内、不平不満が爆発する。しかし、聖書は、そんな事は全く言っていない。
信仰人生、順風満帆で問題が何もないなどとは、一言も言っていない。むしろ、
多くの箇所に、試練、訓練、鍛錬、懲らしめ、刈り込みと出て来る。

新しく生まれたからこそ、その新しい性質が成長して行くよう、多くの訓練が与
えられる。それは神の愛だ。「愛」をも勘違いしていないか。何かほんわかと暖
かく包まれるような、嬉しい喜ばしい感情的なもの、ラッキーな事、ハピーな事
が愛されている事と。

しかし、聖書は懲らしめが愛だと言っている。「主はその愛する者を懲らしめ」、
必要な事は、根底の価値観を修正する事だろうか。試練、訓練、刈り込みは、神
の愛だ。深く愛されている証拠だ。ますます深く主を知って行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
クリスチャンもノンクリスチャンも同じ事が起こる。問題や困難はどんどん来る。
ただ一つ違うのは、信仰者はどんな苦しい試練の中でも、主に向き、祈る時「主
の平安」が臨む。状況は一切関係無い。心に平安を下さる。そして問題は必ずあ
るが、問題を必ず乗り越えて行ける。


2009年11月28日(土)

「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」出エジプト3:5


モーセは、エジプトで王子として育てられた。あらゆる学問を修得し、有能であ
り、言葉にもわざにも力があった。40才の時、イスラエル人を救おうと、エジプ
ト人を殺し同胞を助けるが受け入れられず、ミデヤンの地に逃亡する。

自分の力で事を行なおうとして完全に失敗した。ミデヤンの地で妻を得、二人の
子供を持ち、舅に仕え、荒野で羊飼いとして40年を過ごす。

ちやほやされ、華やかな世界にいた王子が、無名の一介の羊飼いとなった。来る
日も来る日も、何もない荒野で羊を飼う、何の変化も無い生活。かつて王子の身
では、まるで落ちぶれ果てた、人生の無残な敗北者だ。

しかし、ここにこそ神のご計画があった。モーセの力が砕かれ尽くした時こそが、
今こそが神の時、到来だ。40歳の意気軒昂な王子モーセでなく、80才になって何
の力も無い、年老いた羊飼いモーセを神は召し出された。人の思いとは違う。

何も無い荒野で、モーセは一生を終えると思った事だろう。しかし、実は、神が
モーセを砕き、訓練し、整えられておられたのだ。今度はモーセでなく、神ご自
身が遣わすために。神の時と方法がある。あなたは今、荒野だろうか。

神はあなたを、更なる働きのために整えておられる。今の場で神に忠実に従い、
神を待ち望もう。
又、あなたは何らかの働きに召し出されているか。神のあなたへの時であり、ご
計画だ。信仰もって受け止め、従おう。常に、今いる場所が、神の聖なる地だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神は砕かれた者を用いられる。ふさわしい者とするために砕かれる。今の場所は
聖なる地だ。神には状況を変える事などいとも簡単だ。しかし、状況の問題でな
く、まず自分自身を変えて下さる。でなければ同じ事の繰り返しだ。神の力強い
御手の下にへりくだろう。


2009年11月27日(金)

「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」ルカ15:24



「死んでいたのが生き返り」、弟息子は、父のもとを出て、好き放題、放蕩三昧をして帰って来た。死んでいたのが生き返ったが、しかし、家を出る前も、父のもとにいた時から、すでに死んでいた。父との関係は断たれていた。

父の愛はどんな時も変わらず、息子を愛し続けて来たが、息子の心は父から離れていた。それがわかっていた父は、息子の望むようにさせた。息子は気ままに、したい放題をし、行き着く所まで行った。身を滅ぼし、行き詰まり、どん底で我に返った。

父のもとへ帰ろうと決心した。私たちもどうだろう。御父のもとを離れて、自分の思いで生きてしまう。欲望を遂げてしまう。罪を犯すと、なかなかすぐに帰れない。どの面下げて帰ればよいのか。誰しもが思うのが、少しましになってから帰ろう。しかし、父は何を喜ばれるのか。息子が帰ったことだ。

「祝おうではないか」父は帰ることをひたすら待たれ、待ち続け、父の方から走り寄って、抱き口づけされた。父は待ち続けておられる。腕づくで連れ戻しに行かれず、説教もされず、ただ待っておられる。

愛は自発的、自由意志だ。自ら帰るのを、ただひたすら待たれる。私たちは何度も離れる。しかし、私たちの弱さをご存じだ。何度でも立ち返ろう。御父は待って、待ち続けておられる。
--------------
繰り返す失敗の後でも決して御父から離れてはいけない。そこからまた従って行けばいい。自分の内には何もないけれど、それでも最善をなし給う神が喜んで待っていて下さる。そこに私達の希望がある。


2009年11月26日(木)

「だれでもキリストのうちに、あるなら、その人は新しく造られたた者です」Tコリント5:17



自分をあるがまま受け入れることが、大切との考え方から、そうしないから、問題が起きると言われる。正しい自尊心は大切であり、そこが歪んでいると、仕事面や対人関係で問題が生じる。しかし、本当の問題はそこではない。

アダムとエバがエデンで、神に逆らい罪を犯した。自分を、あるがまま受け入れなかったからではない。根本的な事は、神に対する関係だ。神に対して犯す罪の問題だ。罪が、神と自分の間を妨げ、平安を無くしている。

神との関係が正しければ、どんな状況の中でも平安があり、癒されて行く。成育歴がどんなに悲惨であろうと、もし、キリストにあるなら、その人は全く新たにされ、新しく造られた者だ。

古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった。今から新しい人生が始まる。どんなに環境のせいにし、親を責めても、そこに何の解決も無い。解決は主の内にある。主に在って赦され癒されたので、人を赦して行ける。
キリストの内にある自分を絶えず思い、新たにされている事を、信仰によって受け取ろう。

新しく造られた今、これからの歩みは、自らの選択であり、自らの責任だ。御霊の導きに従うことを選択できる。又、古い肉の劣等感や、恨み、屈折も選択できる。自分の選択であり、自分が選んだ方を結実させて行く。
御霊の導きに一歩一歩従おう。ここに解決があり、変えられて行く自分を発見する。
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主を受け入れた時から、もう一度新しく生まれ変わった。古い自分は主と共に十字架で死に、主が私の内に生きておられることを事毎に思い起こそう。その事実の上に、自らの生活を築いていこう。


2009年11月25日(水)

「わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます」ヨハネ14:27


完璧主義の人がいる。とにかく物事を完璧にしないと気が済まない。真面目で几帳面で、努力家で、一生懸命に見える。が、その実、その人の心に平安が無い事の表われである場合がある。いつも心に安堵感、安らぎが無い。

だからこそ、安堵感を得ようと、完璧を求める。何かに一生懸命になる。行動する事によって、充足感を得て、心の空いた部分を満たそうとする。外側から見るとわからないので、仕事に、奉仕に一生懸命のように見える。が、実は内側が満たされていない。

それで、又、自分がしんどいのに、頑張っているものだから、周囲の人をさばく事になる。もしあなたが周囲をさばいているなら、要注意だ。他の人より熱心だからでなく、真の平安が無いからだ。主は本当の平安を与えて下さる。

ベストを尽くすが、もし結果が完璧にできなくても、主に委ねる事ができる。そして安んじている事ができる。いつもどんな時も、結果を委ねて平安でおれる。

自分に満たしが無い事を気づく事は幸いだ。主があなたの空虚を満たして下さる。寸暇を惜しんで、動き回る事で満たされるのではなく、あくまでも、主にとどまる事によって満たされる。行ないで満たそうとせず、まず、自分のありのままの状態を主に告げよう。それが始まりであり、まず主とよく交わろう。
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たましいの渇き、虚しさは自分ではどうする事も出来ない。私達は神に似た者として造られたからだ。物や仕事、人によっては埋まらない満たされない心を生き返らせてくださるのは神様だけだ。


2009年11月24日(火)

「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」ヨシュア3:5



今、あなたの前に、とうとうと流れるヨルダン川が、又、難攻不落のエリコの城壁が立ちはだかっているか。大きな難問題に悩まされているだろうか。神は解決へと導いて下さる。まず、身をきよめよと言われる。

御前に静まり、御霊に心を探って頂いて、神の御心にかなわない罪を悔い改めよう。どうしても自分の思い通りにしたい頑固な意志、根深い赦さない心、不従順な心・・御霊に示されるままに、まず神に告白しよう。

エリコと戦うために不思議な方法を神は示された。町の回りを1度回り、7日目は7度回り、ときの声を上げる。変わった不思議な方法だ。しかし、民がその言われる通りに、ただその通りに従順に従った時、エリコの城壁は崩れ落ちた。

いっさい人間的な力ではなかった。何の関与も無かった。神の御力であり、神の奇跡であった。神の御声を聞いて、神の示される事に、その通りに従うことだ。
そうするなら、あなたの前に立ちふさがっている、難問題の城壁が崩れ落ちるのを見る。

今、主の御前に静まり、よく交わり、御霊に心をよく探って頂こう。悔い改めるよう示されている事柄は無いか。身をきよめて下さる。そして、御声に耳を傾け、どのようであれ、示されるままに従おう。不思議をして下さる。
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神様と共に戦うことを妨げているのは何の罪だろう。抑え込みかくしている罪は、すぐに告白し悔い改め、明け渡し、いつも導きがさやかに聞ける御側にいよう。信じて従うところに神様の助けがある。


2009年11月23日(月)

「それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」申命記8:2


悩みや問題が出て来る時、「なんで?なんで?」と疑問が湧き上がる。心の内にあるものを教えるために、起こされている。「あなたの心のうちにあるものを知るため」敢えて、苦しみ、問題の中に置かれる。

「主は、あなたを苦しめ、飢えさせて」とあるように、主が苦しめておられる。
人は順境にある時、自分は良い人間と思っているのではないか。何の圧迫も、ストレスも、あつれきも無い中で、自分は良い人と思う。良い人でおれるからだ。神無しで、やって行けてしまう。

見た目は腰を低くして、「いえいえ私などは」と謙遜そうに見せるが、人より下だとは思っていない。主は私たちを愛しておられ、真に神の恵みのまっただ中を歩ませるために、自分も知らない本当の姿を見せて下さる。

そうでなければ無に帰してしまう。真の弱さを知らない限り、神にすがって生きようなどと思わない。そのため、自分の醜さ、愚かさ、汚さ、罪深さを見せて下さる。それは、良い地に導くためであり、私たちを幸せにするためだ。

試練はその役目をする。試練の中で初めて自分の本性を知る。主の大きな恵みにあずかるために、どうしても必要なステップだ。「人がその子を訓練するように、主があなたを訓練」「あなたを苦しめ、ついに幸せにするため」。
必ず、苦しみに会った事は幸せでしたと言える。
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苦しい問題、避けては通れない所で見えてくる本当の自分は、決して高ぶれない、へりくだるしかない姿だ。「いえいえ私など・・」と心の底から十字架を感謝し、主に自分自身を明け渡すために祈れる。


2009年11月22日(日)

「この女は自分にできることをしたのです」マルコ14:8


マリヤは香油を、主の頭に注いだ。その香油は300デナリで、1デナリが1日分
の給料であり、10ヶ月分だ。大変高価な物であった。すると弟子達は、貧しい
人々に施せたのにとマリヤを非難し憤慨した。

しかし、主は、マリヤのその行為の意味をわかっておられた。「わたしのために、
りっぱなことをしてくれたのです」埋葬の準備にと前もって油を塗った。それが、
主に油を塗ることの出来る最後の時であった。

その後、主は十字架へと向かわれた。そして、週の初めの日の明け方、主のご遺
体に香料を塗るために、何人かの女性が墓に行ったが、もう主は復活されて、誰
も塗ることができなかった。

まさにマリヤが塗ったナルドの香油が最後だった。的確なタイミングであった。
それはどんなにか主をお慰めした事だろう。マリヤは大切な高価な香油は無くな
ってしまったが、その犠牲の大きな分、心が主に向かった。

悔いの無い晴れやかなすがすがしい確信が深められた。献げる事の意味を知り、
祝福を味わい、生涯主に献げて生きた。時と機会を逃してはならない。又、彼女
は「自分にできる」精一杯の事をした。出来ない事にばかり目が行っていないか。

マリヤはなぜその時が的確にわかったのか。いつも御言葉に真剣に、一言ももら
すまいと、耳を澄ましていたからだ。主にこれから起こる事が理解できた。

私たちも、主をお喜ばせするためにも、御心を知るためにも、日々真剣に御言葉
に耳を傾ける事がどうしても必要だ。耳を澄ますなら、必ず御声が聞こえて来る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちの宝のあるところに、心がある。自分の宝に、どこまでも心がついて行く。
宝と心は強い関係にある。主は、献げるその心と宝を受け止めて下さる。マリヤ
の心をわかられたように。そして宝を献げる時、「心」が宝から主に移る。


2009年11月21日(土)

「あなたの判断が、ほめたたえられるように・・私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた」Tサムエル25:33

ダビデと部下は、ナバルのしもべ達によくしていた。それで羊の毛の刈り取りの
祝いの時、ナバルに手元にある食糧を与えるようにと申し出た。ナバルはそれを
侮辱で返した。

ダビデは怒り、皆殺しにするために出陣した。それを知った若者が、ナバルの妻
アビガイルに、即、対応するようにと伝えた。それを聞いたアビガイルは急いで、
パン、ぶどう酒・・等多大の贈り物を用意して、ダビデのもとに詫びに出た。

事態を悟った、アビガイルの速やかな行動は、ダビデの報復をとどめることにな
る。時に、的確な判断と速やかな行動が必要だ。行動を遅らせるなら、手遅れに
なる。

アビガイルは聡明であった。その聡明さは、率直に詫びたことにも表れる。ダビ
デを見るや、地に伏して「このはしためのそむきの罪をお赦しください」と謝罪
した。夫のせいにせず、へりくだって、妻としての責任を認めた。

そして、無駄に血を流さないよう、感情的になり復讐して、つまづきにならない
ようにと、進言した。神の祝福を失ってしまう事になると。神を畏れるダビデは、
我に返った。大きな汚点を残す失敗から守られた。

アビガイルを通して、復讐を止めさせて下さった神をほめたたえた。耳を傾けて
アビガイルの言葉を聞いたダビデもまた聡明であった。神からのメッセージと受
け取った。

目の前の事態に対して、感情のまま対処せず、御霊の的確な判断を祈ろう。そし
て、御霊の導きを受けたなら、速やかに行動に移ろう。御霊の導きに従う時、自
分も相手も周囲にも、神の栄光が現わされる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
感情に走ってしまいそうな時、必ず御霊の阻止がある。心にとどめるものがある。
自分でどうこうせず、その事態を主に委ねよう。そして御霊の聡明な判断を祈り
従おう。又、人の忠告、助言を通して、神の御心を示される事がある。心して耳
を傾けよう。


2009年11月20日(金)

「母がイエスに向かって『ぶどう酒がありません』と言った」ヨハネ2:3



結婚式でぶどう酒が無くなってしまう。これは大失態であり、晴れの式が滅茶苦茶だ。その時に、マリヤはまず主のもとに行き、「ぶどう酒がありません」と言った。

マリヤは自分で立ち騒がす、店に買いに走らず、何とかしようとせず、まず主に告げた。私たちも、不意の突如の事態が起きた時に、自分で動かずに、ます、ありのままを主に告げよう。次には、主の言われた通りに、従うことだ。

「あの方の言われることを、何でもしてあげてください」とマリヤは手伝いの者たちに従う備えをさせた。すると主が「水がめに水を満た」すよう言われた。
水を満たしてどうするのか。しかし、彼らは意味はわからなくても、水がめに水を縁まで満たした。6つのかめを一杯にするのは大変な作業だ。

そして「さあ、今くみなさい。そして持って行きなさい」水を??「彼らは持って行った」彼らは言われた通りにした。すると、水が最高のぶどう酒になった。

「ありません」・・人生につまづき、愛が無い、力が無い、知恵が無い、うまく行かない、自分に「無い」惨めな状態を認め、主のもとへ行く時、惨めで、哀れで、絶望状態であっても、最高のぶどう酒にして下さる。

愛を与えられ、生き生きとした豊かなものに変えて下さる。「ありません」こそが祝福に変わる。無い時こそ、溢れる豊かな恵みを知る時にされる。
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無いからこそへりくだり従える。ただの水を黙々と汲むことが出来る。パニックにならず、すぐに自分の今の苦しい状況を主に祈り求めよう。窮地は主の栄光を拝する時と変わる。


2009年11月19日(木)

「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした」使徒16:10


パウロがアジアで宣教しようとした時、聖霊に止められた。それでビテニヤへ行こうとすると、又止められた。それでトロアスに下った時「マケドニヤへ渡って来て私たちを助けて下さい」との幻を見た。この幻を見た時、パウロは確信した。

マケドニヤ行きが導きであり、神が招いておられる!と。パウロは「確信した」ので「ただちに」マケドニアに向かった。ここで学ぶ事ができる。神は環境を用いて御心でない道を閉じられる。

もしこの聖霊の阻止が無ければ、パウロは御心に反する方向へ向かっていた。私たちが願っていた進路が閉ざされた時、落胆し、落ち込む。しかし、それは神があなたのために、もっと良い遙かにふさわしい道を備えていて下さるという事だ。
又、「確信した」とあるごとく、御心を求める中で、祈り続けるなら、神は「確信」を与えて下さる。

今、御心だと感じていて、今一歩前進を躊躇させるものがあるなら、「確信」を求めよう。「確信する」事によって、前に歩を踏み出すことができる。そして、主からの確信が来たなら、「ただちに」行動に移そう。この時、パウロが「マケドニヤに行こうか、どうしようか、やっぱり止めようか」とぐずぐずしていたらどうだろう。

これはヨーロッパ宣教という画期的な非常に重要な御心であった。もし、あなたが御心を確信したなら、必要な事は「ただちに」実行することだ。
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普段の生活の中でも、御霊の働きに敏感でなければ、岐路に立った時、自分の思いが邪魔をして確信がわからない。常に導きを求めて祈り、御言葉や礼拝でのメッセージ等を通し語られる神様の声に耳を澄ましていたい。


2009年11月18日(水)

「全地はあなたの前にあるではないか・・・もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」創世記13:9

    
   
アブラハムとロトは共に行動して来たが、持ち物が増え過ぎ、従者間争いも起こり、共に住む事が不可能になった。それで、別れる事になり、その時に、アブラハムは、ロトに好きな場所を選ばせた。

本来なら、目上の叔父であり、又、今までの繁栄は叔父のお陰であり、世話になった叔父にへりくだって、選択権を譲るべきだった。しかるに、ロトは全地を見渡して、見たところ最も牧草の茂る、潤った地を選んだ。

ロトは選択に際して神に祈ることも、叔父を立てることもなかった。自分の事しかなく、見えるところで判断した。結果それは極めて堕落したソドムとゴモラだった。アブラハムは、所有権を神に明け渡したので、先にロトに譲る事ができた。

すべてを神の御前に置いたアブラハムだが、結果的に神は「この地全部を与える」と言われた。人生に岐路がある。重大は判断を迫られる時がある。その時、まず神に祈るべきだ。自分の思いで決めてはならない。

見た目で決めたロトの結末は破滅であった。「人の目にはまっすぐに見える」しかし「その道の終わりは死の道である」。肉の目には、自分の名誉、地位、賞賛、欲望が満たされる道がある。しかし、その終わりは死だ。

ロトのように見た目で判断せず、神の前に明け渡して、神の御心を求め、選択しよう。それが自分にとって最高の幸せの道だ。
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自分の満足や肉の主張により右でも左でもいくらでも自由に行ける。しかし光の中の道、豊かな相続分にあずかる道は神から来る。普段の些細なこともよく神に尋ねて歩もう。道はおのずと示される。


2009年11月17日(火)

「蛇が一番狡猾であった。『・・と神は、ほんとうに言われたのですか』」創世記3:1



サタンは「試みる者」と言われ、そして「一番狡猾」だ。サタンが常に使う手段は「疑い」だ。エデンで、サタンはエバを誘惑するのに「神は、ほんとうに言われたのですか」とささやいた。

「神は」、言われたのですか、まず神を認めている。神を認めて近づいて来た。無神論者や敵対者が近づいて来たなら、警戒し、それ相応に対応する。しかし、神を前面に出して話して来たので油断し、対話を始めてしまった。
そして、サタンの攻撃が「ほんとうに?」だった。

神が言われたのはいいですよ。「でも、ほんとうに?」心に疑いを起こさせる。「語られた御言葉は本当?」「その神の約束は本当?」疑いが入ると、確信が揺らぎ、土台がグラグラ揺らぐ。

「神は本当に愛してくれているのか?」神は愛していると言われた。御言葉の真理に反するものは、すべてサタンからだ。今、あなたの心にもささやきかけているか「ほんとうに?」。
狡猾な敵に気づこう。

対人関係にもサタンが働く。疑いを心に吹き込み、不信感を入れて来るなら、即、一致を乱す事ができる。心を疑心暗鬼にする。疑いの目で互いに見て行くと、些細な事にまで不信感が生じ、ひびが入り、分裂して行ってしまう。

サタンは背後でほくそ笑んでいる。今、サタンの攻撃が来ていないか、よく見張ろう。
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神の愛、最善を疑わせたり、神そのものを忘れてしまう時、サタンに惑わされている。自分の内にある欲望にぴったりのものを持って来るサタンに動かされそうになる時、気づけますように。


2009年11月16日(月)

「子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか」ルカ11:11



ある人に、夜中に友人が来た。隣人にパンを頼んだが、迷惑
だと断られた。しかし、尚も執拗に求め続けた結果、隣人は、
うるさくて、一刻も早く去って欲しいがゆえに貸してくれた。

しかし、神は違う、神はそうではないという事を言っている。
隣人は迷惑だから与えてくれたが、御父は、しつこさゆえに
ではない。私たちを極みまで愛しておられる御父は、愛ゆえ
に与えて下さるのだと。

モニカの祈りは有名だ。放蕩息子のために、何年も祈り続け
た。祈るほどに、息子はますます堕落、しかし「涙の子は滅
びない」との言葉に励まされ、尚も祈り続けた。

そんな息子がローマへ行くと言い、ローマは大歓楽の地、身
の滅びだ。行かないように祈り続けた。しかし、祈りに関わ
らず彼はローマへ。が、結果的にそのローマで、彼は回心し
た。祈りは見事に答えられた。

時に私たちも経験する。祈っているのに、事態は全く改善し
ないどころか、むしろ更に悪化して行く。何で?祈っている
のに。祈れば祈るほどますます悪化するように見える時、尚
も祈り続けよう。その先に答えがある。神に間違いはない。

すべての結果が、即、出て来るのであれば、私たちに信仰や
忍耐を培われることは無い。信仰によって歩む事も無い。
神を信頼すること、それゆえ祈り続ける事を試される。

私たちはインスタント的に、ただ答えが欲しい。自分の望む
ものが欲しいだけだ。
しかし神はもっと良いもの、御言葉を信じ、神を信じて歩む
という根本的な事を培い、与えて下さる。
----------------------
私達は祈りを聞いていて下さる神様を知っている。自分の望
むものが簡単に手に入るもの喜びだが、今も祈りを聞いて下
さっている方によって最善が与えられるとの信仰を増し加え
て下さる事が何よりも嬉しい。


2009年11月15日(日)

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」マルコ5:34

12年長血を患っていた女性がいた。その間、多くの医者にかかったが直らず、
財産を使い果たしていた。12年は長い。どんなに恐れと不安にさいなまれ、苦
しみと辛さの中にいた事だろう。

必死になり、一生懸命あれこれと努力し、やってみた事だろう。しかし「何のか
いもなく」、努力の成果なく「悪くなる一方」であった。すべての道が閉ざされ
絶望だった。

そんな時に主イエスの事を聞き、着物に触ればきっと直ると、信じ、主の着物に
触った。すると触った途端、直った。主は「だれが触ったのか」と着物に触った
人物を捜された。人の心の中まで見抜かれる主は、誰が触ったのか、聞くまでも
なくご存じであった。

しかしあえて女性のために、主ご自身と接触するようにされた。そのまま帰れば、
身体は癒えたが、残りの人生、主と何の関係も無く生きたであろう。

すると彼女は「ひれ伏し」「イエスに真実を余すところなく打ち明けた」。「安
心して帰りなさい」12年間の苦しみ、悲しみ、傷、痛みが癒された。「すこや
かでいなさい」心身共に癒され、救いを受けた。

私たちも主に自分の気持ち、悩み、苦しみを「余すところなく」打ち明けよう。
主は癒して下さる。又、主は一刻を争うヤイロの娘へと向かう途上に、この女性
に対応された。熱心に一途に主を求める魂を、主は顧みられずにはおられない。

・・・・・・・・・・・・・・
主を求める魂を、絶対に放って置かれない。主を渇き求める心を、しっかり受け
止めて下さる。自分で思い煩っていないで、主の元へ行き、その問題を、又自ら
の心の内を余すところなく打ち明けよう。主が働かれ、癒しを、平安を下さる。


2009年11月14日(土)

「しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。神はみこころの欲するところを行われる」ヨブ23:13

ヨブは、10人の子供たちを失い、家財や家畜、しもべたち、すべての財産を失
った。次にヨブ自身も、全身を悪性の腫物でおおわれ、非常なる苦しみに会った。

しかし、ヨブは、神がご自身が欲する事だけをされ、誰もそれを翻すことができ
ないと信じていた。神の欲するところは、しばしば私たちの思うところと大きく
異なる。

ある時は理解できない事もあるし、納得が行かない事もある。神は、私たちがた
とえ理解できなくても、納得できなくても、従って行く者と訓練されるために、
理解を越えた事態を起こされる。

「前へ進んでも、神はおられず、後ろに行っても神を認める事ができない」右に
行っても、左に行っても神がおられないと。余りにも深い試練の中で、時に、ど
うしてこんな事がと、神がおられるのだろうかと、思ってしまう。

そのような状況の中で、「神は最善をされる」「神にはご計画がある」と信じて、
従って行く者と変えられて行く。疑いや不安、恐れや思い煩いに襲われる。サタ
ンからの火矢が飛び交う。

「しかし、神は、私の行く道を知っておられる」と信じることができる。神のみ
こころは一つであり、神のみこころだけが成る。自分の思い通りにならない時、
願いと相反する時こそ、信仰が試され、練られ、成長へと導かれる時だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・
信仰人生で自分の思い通りでない状況にぶつかる。この時こそが信仰の試しだ。
願望通りであり、自分に都合良ければ幾らでも従える。しかし思い通りでない時
こそ、自分の利得のためでなく、神が神であられるゆえに従って行ける恵みの時
だ。


2009年11月13日(金)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5


ある人が、留学を祈り、神の導きを信じて、海外に出た。最初は順調に行っていたが、様々な不意の出費があり、1年の終わる頃、貯えが底をついてしまった。
必要のために祈り続けた。幾ら祈っても、道が開かれず、奨学金の道も閉ざされた。

「導きを信じて来たのに、どうして?どうか与えて下さい」と、尚も祈り続けたが、すべての道は閉ざされていた。なぜ?どうして?イライラし、焦る心が湧き上がる。しかし、状況を思い巡らし、これだけ祈っても、期日になっても与えられなかったので、これが神のご意志と受け入れる事を決心した。

「自分はもっと学びたかったが、この事を神の御心と受け止め、帰国します」と祈った。すると、イライラして、思い煩いで一杯であった心に、すうーっと平安が臨んだ。平安で心が満たされた。喜びが来て、心から主に感謝した。

すると直後に、現地の知人からバイトの依頼が来て、とにかく請求書の必要経費がすべて支払えた。そうこうしていると、全く無理と、はなから諦めていた、別口の奨学金が下りたとの連絡が来た。驚いて感謝した。

結果的には、願っていた通りの必要な学びを終えて、帰国できた。教えられた事は、御心を自分の力で行ない、御心なのだからと、自分で押し進め、成し遂げなければと、必死になっていた事だった。

心に平安は全く無く、焦りと、思い煩いで一杯だった。主は、そんな自分自身を明け渡す事を、望まれた。そして委ねた時に、全き平安が来て、すべての必要が満たされた。あなたも今必要な事は、委ねることだろうか。
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早く解決して、早く安心したい。神様、神様と祈りながらも祈りの答えは自分で決めていないだろうか。主にゆだねよう。右でも左でも主にお任せする時、解決は今見えなくても心は守られる。


2009年11月12日(木)

「こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました」へブル6:15


アブラムは、子孫が天の星のようになるとの、主の約束を信じていた。しかし、目に見えるところ、なかなか成就しそうにない。その頃は、夫婦に子供が無い場合は、召使いに子供を産ませ、その子を跡継ぎにすることが、普通であった。

それで、子供ができない中、この慣習にならって、サラは一つの提案をした。主が産めないようにしておられるのだから、女奴隷によって子供を持つようにと。
アブラムにとれば、自分の言い出した事でなく、妻の申し出であり、サラの言う通りに女奴隷ハガルの所へ入った。

しかし、重大な事は、この時アブラムは祈らず、主の御心を求めなかった事だ。自分の思いで「肉」で動いてしまった。肉は、一見良い考えに思えるが、必ず問題を引き起こす。ハガルは、子供のないサラを見下すようになった。

ハガルはイシマエルを産んだ。イシマエルはアラブ人の先祖となり、今日のパレスチナ紛争に至っている。アブラムが人間的判断によって、良かれと行なった肉の行動は、後世にまで甚大なトラブルとなった。アブラムが100歳の時に、肉が、人間的力が絶えた 時に、イサクが与えられた。

今、あなたの状況はどうだろう。神の約束を待てないで、自分で動くなら、イシマエルを産み出してしまう。肉の知恵と力で動かず、神が動かれるのを、約束を忍耐して待とう。それが最も美しい神の時であり、何より神の栄光が現わされる。
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たち動く事はたやすく出来るが、何もせずじっと待つ難しさに不信仰をいつも示される。しかし神様の言葉は必ず実現される。その御約束を最後まで、しっかりと見つめ、待ち続けたい。


2009年11月11日(水)

「カインのようであってはいけません・・なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです」Tヨハネ3:12



カインとアベルがそれぞれ地の作物、羊の初子を持って来た。アベルの献げ物は受け入れられ、カインの献げ物は受け入れられなかった。神が目を留められなかった事に、カインは激しく怒った。それは、カインの心の状態に問題があった。

受け入れられなかったという事は、何か自分の側に問題があるわけで、神に伺って、正しく献げ直せば良かった。もし、神をお喜ばせしたいなら、そうしたはずだ。しかし、そういう事もなく、激しい憤りに支配を許してしまった。

アベルだけが受け入れられた事への、激しい妬みからだ。妬みは、誰にでも巣くう根深い罪だ。そのままにしておいてはならない。妬みは憎しみへと進み、憎悪を増幅させて行くと殺人へと発展する。

相手がいなければいいと、心の中で相手を抹殺する。ダビデを妬んだサウル、主を妬んだ祭司長、パリサイ人たちしかりだ。心の奥の妬みは、主の前に悔い改めよう。主は赦して下さり、解放される。

カインはアベルを殺害した。憐れみの主は、「弟アベルはどこにいるのか」と御声をかけ、悔い改めの機会を与えられた。しかし「知りません」と心頑なにし、
しらばっくれた。その罪の結果を聞き、「私のとがは、大きすぎてにないきれない」と言った。

尚も、神の憐れみは尽きる事なく、カインを愛しておられた主は、彼が殺される事のないよう、一つのしるしを下さった。罪は悲惨だ。主の血潮のもとへ行く時、慈しみとご愛に包まれる。
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妬みの苦い思いが来る時、相手を見ないで、妬む自分の心の内を見てみよう。そして素直な思いを主に告げよう。次々と襲ってくる罪から守られる。罪を犯しても赦して下さる主から離れてはいけない。


2009年11月10日(火)

「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう」ピレモン15



オネシモは、ピレモンの奴隷であった。主人のものを盗み逃亡。しかし、捕らえられ投獄、そこでピレモンを知っていたパウロに出会う。パウロに導かれ回心した。当時、逃亡奴隷は死刑であった。

パウロは新生し、変えられたオネシモを確認し、主に在る兄弟として、受け入れてくれるようピレモンに手紙を書いた。オネシモは彼の名の通り、無益な者が「有益な者」に変えられた。主のみわざだ。

私たちの人生も同様だ。様々な事態が生じ、時にはその先が見えず、大きな不利益、マイナスにしか見えない事態が、「すべてのことを働かせて益」とされる方により、大いなる祝福と豊かな結果へと変えられる。

今、何の益もない、不毛の事態にしか見えないだろうか。
「これが一体何になる?」としか思えない、その事が必ず豊かな事へと導かれて行く。信じよう。又、パウロは摂理の信仰を持って、事態を見た。
オネシモは主人を裏切って逃亡したのだが、信仰のメガネをかけて見る時、それはオネシモを永久に役立つ者として、取り戻すために、一旦離されたのだと。

私たちも信仰に立って、すべての事柄に神を認め、摂理を認める時、物事の見方が全く変えられる。ガッカリし、失望する時は、神のご計画を認める時だ。今、もしあなたが失望にあったなら、神のご計画を信じ、信仰的見方に立とう。
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先の見えない状況、不毛な現実の前でだめだ、だめだとつぶやくなら、私達は力ないクリスチャンだ。否定的な声に耳を貸さず、今しばらくの闇の中でやがては、永久に取り戻すであろう祝福を確信していよう。


2009年11月09日(月)

「自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない」箴言21:2



あなたは、日頃の、自分の言葉に目を留めているだろうか。どんな言葉を発しているだろう。もっともっと言葉に気をつけ、注意を払う必要がある。「あなたが正しいとされるのも、罪に定められるのも、あなたの言葉による」と主が言われている。

いい加減に、何でもかんでも思慮無く口から出している、普段の言葉を省みてみよう。信仰の言葉を発して行く事と、肉のままに不信仰な言葉を蒔き散らす事の、大きな違いは日頃体験しているところだ。天地の差ができる。

あなたの言葉は、あなたの人生を決めて行く。噂話や悪口はどうだろう。あなたの口から出ていないか。毒をまき散らすサタンの道具として、自分が用いられてしまう。

無責任な言葉は、相手を死に追いやる。肉で蒔いた言葉は、必ず痛い刈り取りをする事になる。どんなに親しい仲でも、愛は礼儀に反することをしない。礼儀を守るべきだ。特に家族では甘えが出てしまう。外では気をつける人も身内にはわがまま放題になる。十分気をつけよう。言葉は相手を深く傷つける。

主ご自身、何でも好き放題に話っておられたのではない。父が語れと言われる言葉を語っておられた。私達は誰しも「くちびるの戸を守って下さい」の祈りが必要だ。今一度、日頃の言葉に注意を向け、点検してみよう。祈っていよう。
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感情のままに口から出す言葉でどれだけ失敗をして来ただろう。いつも祈り心で話せるなら、必ず慰め励ます言葉は与えられる。人を傷つける言葉が簡単に出てしまうなら黙していよう。


2009年11月08日(日)

「あなたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたを選び、あなたを任命したのです」ヨハネ15:16



ある人が仕事で窮地に立ち、行き詰まってしまった。暗礁に乗り上げたように感
じ、四方八方壁に閉ざされ、何の手立ても無いように感じた。

主に祈り、主に導かれて始めた、新しい仕事であった。どうしてよいかわからな
かった。自分の限界、自分の無力を思い、落ち込んだ。主の御前に静まろうと、
御前に行き、心を静め、そして、心の思いをことごとく打ち明けた。

そして御言葉を聞きつつ、聖書を読んでいた時に「あなたがわたしを選んだので
はない。わたしがあなたを選び、任命した。実を結ばせるために」の言葉が心に
臨んで来た。自分でなく、主がこの仕事に自分を選び、任命して下さったことに、
新しい力を与えられた。

自分が何とかしなければと、「自分が、自分が」と頑張って力尽きた姿が見せら
れた。この仕事を「自分が選んだのでなく、主が選んで下さった」そこに平安が
広がり、安堵が来て、その時、自分自身、状況、将来をすべて明け渡した。主に
お委ねした。

すると、不思議な事に、思い煩いが無くなった。とにかく、主が示される目の前
の事を、導きのままに従って行けばよいと思えて、気持ちが、すうーと楽になり、
平安になった。

よく祈り、主が導かれる通りに従って行った。その時、不思議に道が開かれて行
き、主の山に備えがあり、主が働かれる事を体験した。行き詰まっているなら、
あなたが神を選んだのではなく、神があなたを選ばれたことに、立ち返ろう。

・・・・・・・・・・・・・
今の場に遣わし、今の環境を与えられたのは、神だ。神が私を選び、置いて下さ
った。この人生を与えて下さったのも神だ。肩から力が取れ、平安になる。それ
なら神のみ思いがあり、ご計画があり、しようとされている事がある。


2009年11月07日(土)

「『わたしは・・心砕かれて、へりくだった人と共に住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすため』」イザヤ57:15

私たちは、「へりくだり、謙遜」と「卑下」を勘違いする事がある。自己卑下と
は、「いえいえ、自分はつまらない者です」「何の取り柄もありません」「自分
はだめ人間」と劣ったものとして、卑しめる。

そして、どうせ何をしてもダメと気力が失せ、ますます劣等感に輪をかけ、自分
で自分を決めつけ、強固なものにする。しかし、そこには何の信仰もない。

又、偽りの謙遜というものがある。腰を低くする事が謙遜と勘違いし、「いえ私
などは」と決して上座へは行かず、下座でうろうろする。しかし、もし自ら上座
に座る人がいれば、心は裁きで一杯になる。

真の謙遜は砕かれるところから来る。高慢でしかない者が、砕かれる時、高慢で
いる事ができなくなる。主の取り扱いが感謝だ。神の愛と聞くと、ほんわかと暖
かく喜びで一杯、心地良い様を連想するだろうか。人間の価値観では、痛い辛い
事と相容れない。何かの罰か、愛されていないのでは思ってしまう。肉の思いだ。

断じてそうではない。「愛する者を懲らしめ」とあり「懲らしめ=愛」が神の
価値観だ。愛されているからこそ、訓練が来ている。

砕きは痛いが、もし成長を願うなら、これなしにはあり得ない。信仰生活が長く
なると、聖書知識は幾らでも増すが、知識は人を高ぶらせて行く。信仰も強いが
自我も強いということになる。

砕かれる時、高ぶれなくなる。どんなに成功しても慢心せず、神と神の恵みを認
め、神に栄光を帰して行く者に変えられる。今、試練があれば、砕きは極めて痛
いが、最高の益である事を覚えよう。必ず後に、感謝できる。

・・・・・・・・・・・・・・・
砕きは、痛くて苦しくて辛いが、振り返った時、心底感謝できる。無ければ、自
分はどんなに高慢な者になっていただろう。人の思いとは違う形の、神の愛を受
け取って行ける者に、変えられて行きたい。


2009年11月06日(金)

「実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます」ヨハネ15:2



庭の木々の世話をする人は、剪定の大切さを知っている。時たま刈り込みをすると、豊かな実を結ぶし、綺麗な花が咲く。枝や葉っぱに余分な養分が流れるのをふせぐので、その分が実に行き届き、立派な実がなる。

同様に信仰生活においても、主は刈り込みをされる。出っぱっている所を刈り込まれる。それはプライドや虚栄心やわがままかも知れない。はさみで刈り込むので、必ず痛い。苦痛を伴う。高慢なプライドが出っ張っていれば、プライドが傷つく事態が臨む。

それはあなたを砕き、へりくだらせ、もっと柔和にするためだ。
主が刈り込んで下さっている。目の前にある痛い事は、もっと豊かな実を結ばせるための、主からの刈り込みだ。自らのどこに反応し、どの部分が痛いのか。

そこが刈り込みの必要な場所だ。もし刈り込みが無ければ、高慢で自己中心で、思い通りにならなければ周囲に当たり散らし、又、自己憐憫に陥り、落ち込むだけの同じ歩みを繰り返す。自分は何も変わらない。

又、進もうとしていた進路が閉ざされる事がある。自分はその道が最善と思い、そこに進みたいのに阻まれる。それも刈り込みだ。開かれた道から行けば良い。
そして、閉ざされた事が、後に、最善のご計画であった事がわかる。

その事で、必ず豊かな実を結ぶ事になる。刈り込みが感謝だったと必ず思える。
きよいからこそ、刈り込んで下さっている主の愛だ。
---------------
刈り込まれ、出っ張りを砕かれ、聖い主に似た者へと変えられる。痛みがあるからこそ立ち止まれる。今、痛みが臨んでいるなら自分のどこが変わるのだろうと、主に問いながら今日も歩もう。


2009年11月05日(木)

「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」マルコ4:41



「向こう岸へ渡ろう」との主の御心に従ったら、その結果、弟子たちは大嵐に会い、溺れそうになった。御心に従えば、何の問題もなく、スムーズに行くはずと、なぜか思っていないか。

御心を拒否するならともかくも、ちゃんと従っているのだからと。しかし、そうではない現実に出くわす。御心に従って行くと、幾多の問題、悩みに出会うのだ。この時の弟子たちも、主の言葉に従って、船出した途端の、大嵐だった。
それもそういう事に慣れているベテラン漁師が怯えるほどであり、かなりの突風だった。

試練の時に、自分の本当の姿が現れる。ここで、弟子たちの本性が現れ出た。「主に従ったのに、こんな目に会ってどういう事か!」と思っただろうか。
「自分たちが死にそうなのに、主は平気で眠っている」と文句の一つも言いたい。

パニックになると、自分視点でしか物が見えない。主は同船されているが、眠っておられる。主は不在なのではない、しかし、眠っておられる。ここで弟子たちの信仰が試された。主は、「信仰がないのはどうしたことか」と。

主の一言葉で風がやみ、大なぎになった。この時、弟子たちは初めて自然界をも支配しておられる、主の権威と力を知った。大きな驚きであり、恐怖に包まれた。
主は敢えて試みを通されて、信仰を一歩一歩成長させて下さる。
そこでしか成長できない。今、試みにあるなら、まことに主が神であることを知る時だ。主の御力を知る時だ。
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祈っても祈っても主は眠っておられるかのように沈黙していると思う時がある。けれど同船しておられるのだ。試みを通る時、信仰の目で見るなら私達の弱さのすべてをご存知の方が、この風を支配されている事が見えてくる。


2009年11月04日(水)

「私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます」Tコリント12:23



ある人がずっと自分に自信を持てずに大きくなった。いつも
人と比較し、自分はダメ意識が強かった。人前に立てず、
いつも尻込みし、劣等感のかたまりであった。

青年になり、家の商売を手伝う事になり、将来はそれを継ぐ
事になっていた。父親のもとで、言われる通りに一生懸命に
働いた。年数を経る内に仕事を覚え、身について行った。
積極的にアイデアを出し、新しい企画も担当するようになっ
た。仕事に少しづつ自信が持てた。何より父親が、そんな自
分を喜んでくれている事が嬉しかった。

しかし、それは、心に巣くう劣等感の解決にはならなかった。
真の解決が来たのは、後に主イエスに出会い、キリストの
からだである真理を知った時だった。

私たちはキリストのからだであり「比較的弱いと見られる
器官がかえってなくてはならない」のだと。目が手に向かい、
頭が足に向かい、あなたを必要としないという事ができない。
一人一人が頭、目、鼻、口、手、足・・として、神が一人一
人をなくてはならない者として、見ておられる。

神が自分をそのように見ておられる事を知った。
神が自分を必要とし、無くてはならぬ者として下さってい
る。この事に目が開かれた時に、自分は変えられた。
人と比較する必要がない。卑下する事なく、等身大で、あ
りのままの自分で、神に従って行けばよい。初めて安堵で
一杯になり、喜びを経験した。
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私達は主にあってひとつの身体だ。ひとりひとりの各器官
は、共に苦しみ共に喜び、いたわりあう。そのような者に
神様はして下さった。みな尊い主の肢体だ。


2009年11月03日(火)

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」ルカ5:4


不漁で戻り、網を洗っていたペテロは、主に、小舟を陸から少し出すよう頼まれ
た。ペテロは、先生の頼みに応じて舟を出した。主は舟から群衆に話された。ペ
テロは特等席だ、否応なく御言葉が耳に入る。

話が終わられた主は、ペテロに「深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとれ」と言
われた。

まずペテロは徹夜で働き疲労でクタクタだった。プロ漁師が捕れなかったのに、
素人に何がわかる。朝に魚などいるわけがない。又、網を洗い直す手間はどうし
てくれる。早く家に帰って寝たい。

理屈に合わず、理解できなかったが、「でも、おことばどおり」網を下ろした。
すると驚くばかりの大漁を見た。まず主は舟を少し出すようにと言われた時、ペ
テロはその小さな一歩に従った。

その次に、深みへと、大きな一歩が来た。私たちも小さな事に忠実に従う事によ
り、主は次々と従うべき事柄を示される。今、些細な事でも従うべき事を示され
ているなら、御霊の示しに従おう。

そこから次の展開へと進んで行く。又、あなたにとって「深みに漕ぎ出す」とは
何だろう。信仰の一歩前進だろうか。浅瀬にとどまっていないで、一歩、歩を前
に出す決心だろうか。主との交わりの深みへと招かれているか。

又、今まで目を閉じて来た、触れないで来た、しかし薄々感じている、痛いその
問題の解決の事だろうか。

・・・・・・・・・・・・・
主の御声に従い、一歩踏み出さない限り、何も始まらない。そこで止まったまま
だ。同じ事を繰り返す。自分は何も変わらない。主が従えるよう助けて下さる。
心に示される御言葉に、御声に一歩従ってみよう。すると、次の展開へと導かれ
る。


2009年11月02日(月)

「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」詩編62:8


ある人が、高度成長期の企業戦士として働いていた。深夜帰宅の、早朝出勤、仕
事にどっぷり浸かり仕事一筋の生活だった。ひたすら営業成績を上げることを目
指して、懸命に、身を粉にして働いた。

その人が、昔、教会へ行っていた事もあり、そんな人生途上で神に出会い、救わ
れた。そして、人生を献げた時、牧師になるよう導かれた。大変な方向転換であ
ったが、神学校卒業後は、地方の片田舎へ開拓宣教に出かけた。

田舎という事もあり、なかなか救われる人は起きなかった。思うように宣教活動
が進まず、悶々とする中、根深い培われた古い価値観がむくむくと出て来た。サ
ラリーマン時代の価値観がよみがえった。

営業成績がすべてであり、出した結果で、自分のすべてが量られ評価された。自
分はダメ人間、落ちこぼれとの思いが来る。又、そういう風に思う事は間違って
るとの思いが、また自分を責め、自己嫌悪に陥る。

苦しい状態の中、救われたのが、神との交わりに目が開かれて行った事だった。
それまでは寸暇を惜しんで動き回っていたが、ひたすら神の御前に静まって自分
の悶々の心の内を、気持ちを言い表して行った。

御前に、焦り、不安、思い煩い、苦しみ、ことごとく主に打ち明けた。そうした
時、混乱した、ほころびた心が、主によって静められ、整えられ、何にも代えら
れない、静かな平安に満たされて行った。あなたも、今、心を御前に注ぎ出す時
だろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・
人は動いていると安心し、何かをしていないと不安になったりする。満たしが欲
しくて動き回る。しかし、真の満たしは、動き回る事でなく、ぶどうの木である
主にとどまるところから来る。主と親しく交わり、不安や苦しい気持ちを打ち明
けよう。そこから平安が来る。


2009年11月01日(日)

「その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、『この人はヨセフの子ではないか。』と彼らは言った」ルカ4:22

主は故郷のナザレに行かれた。安息日に会堂に入り、イザヤ61章の言葉を読まれ
た。捕らわれ人は赦免を、盲人は目を開かれ、虐げられている人は自由に・・素
晴らしいみわざ。

「今日、このみことばが実現した」と言われた。何千年も前からの預言が、今日
実現し、メシアがここにいると。聞いた人々は恵みの言葉に感動し主を誉め讃え
た。

しかし、同時に「ヨセフの子ではないか」と言い放った言葉に、人々の信仰の心
は冷めて閉ざされて行った。主は、預言者は誰でも自分の郷里では歓迎されない
と、その不信仰を嘆かれた。

このナザレの人々から学ぶ事ができる。御言葉を聞く心の態度だ。自分にフィッ
トする、心地よくさせてくれる、耳ざわりのよい御言葉を聞くと、主は素晴らし
いと喜び、主を誉め讃える。

しかし、間違いを正されたり、罪を、現実を、指摘される、自我に触れる御言葉
は苦痛で拒否してしまう。心を固くして聞かない。余りにも痛いので、無意識に
自己防衛してしまう。

しかし、ここが根幹をなす所であり、かなめだ。ここのところで逃げてしまうと、
成長のしようがなく、変えられることがない。痛い言葉は心がうずき、気づかず
に逃げているかも知れない。気づいていない心の底を御霊に探って頂こう。成長
のためにどうしても必要だ。

・・・・・・・・・・・
古い性質は、自分に痛い言葉を聞きたくない。逃げたい。しかし、自分が変えら
れる事も成長も無いのは悲惨だ。人や環境のせいにして、一生このままだ。聞き
たく無い言葉が、自我に触れている言葉だ。そこを御霊に助けて頂こう。