2009年12月31日(木)

『「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です」』マルコ6:38


「パンはどれぐらいあるか・・彼らは確かめて」、どれほどあるか"確かめる"ことは大切だ。まず現状はどうか。はっきりと確かめる事を求められる。自分の真実のありのままの状態を知って、現状を主にそのまま持って行く事ができる。

主はありのままを用いて下さるが、現状を認めさせられる。「〜ができません」「〜の弱さがあります」「〜が少しできます」「〜を少し持っています」能力や持っているものが僅かでも構わない。そのまま主のもとへ持って行くことだ。

ヨハネは「小さい」魚を二匹と言っている。小さくて良い。こんなもの何になろう、何の足しになろう、無いも同然、こんなもの仕方がないと思うだろうか。「少しの〜がある」それを持って主のもとへ行き、お献げしよう。

主は「小さな」ものを用いて、どんなに大きなみわざをされるかに驚くばかりだ。小さいからこそ、返って主の素晴らしさが現される。自分が握っているなら、そのままで終わる。

しかし、主のもとに献げるなら、どんな小さなものでも、主は大いに祝福して下さり、周囲の人々の満腹のために用いて下さる。家庭で、学校で職場で、祝福の器とされる。あなたの手にある「小さな」ものを、主に献げよう。こんなものが何に・・と思うそれを、主は受け取り用いて下さる。 
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小さなものも主に差出し委ねる時、大きな力とされ「私を強くしてくださるかたによって、どんなことでもできるのです」と力強く宣言して行ける。自分だけの頼りない歩みでは消して味わえない素晴らしい主の栄光を拝して、来る年も歩もう。


2009年12月30日(水)

「主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」哀歌3:22



ある人が、若くして伝道者に召された。神学校を出て、地方の小さな教会に遣わされた。聖書や神学を学び、ノウハウを学び、意気盛んで、若い人々がそうであるように自信に満ち溢れていた。

主に喜ばれる、理想的な教会を建て上げたいと、燃え、何でもできると思った。しかし、田舎の小さな群れの中で、ズレと摩擦に消耗して行った。人間関係がうまく行かず、又、新来者は皆無に等しかった。

地道な忍耐の要る働きであることを知らず、結果ばかり求め、ますます落ち込んで行った。聖書の知識は豊富にあるのに、目の前の人を導く事ができない。悩み、苦しみ、全力投球の日々の後、燃え尽き症候群に陥ってしまった。

鬱になりかけていた。自分がいかに無力であるかを初めて知った。砕かれた。行き詰まり、もう一歩も進めない状態であった。そのどん底で、主に出会った。慈しみの主は、決して責めも裁きもされなかった。深い愛に包まれた。

自分を真に支えてくれるものは、自信でも、自分の力、知恵、方法でもなく、どんな時にも決して変わる事のない、主の愛である事を知らされた。主の愛の御手に、身を任せた時、かつて経験した事のない深い安堵と平安に包まれた。
苦しみ、不安、煩い、焦り、不満が、感謝と喜びに変えられた。
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自分の中に頼れるものなど何もないと知って行ける事は祝福だ。空の器の中に神様の恵みが溢れている事が頭でなく心でわかる。朝毎に、朝毎に、今日の恵みを受け取って喜んで行ける


2009年12月29日(火)

「私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています」詩編38:12



サタンの声によく気をつけよう。朝起きた時から、夜寝るまで思いを吹き込み、語り続けて来る。

「お前は、そんな事でいいのか」「あれも出来ていない、これも出来ていない、何も出来ていない」「お前はダメだ、ダメだ」「いつまでたっても同じ事の繰り返しで、何の成長もない」こんな声が聞こえて来るだろうか。

この声を受け入れると、「そうだ、あれも、これも出来ていない」「自分はまるで成長がない」「ダメ人間」と落ち込んで行く。とにかくネガティブな思いに傾いて行く声はサタンからだ。心が暗く、沈んで行き、不安になり、憂鬱になる。

例えば、罪の指摘も、御霊は一点をはっきりと明確に指摘される。あなたの罪はこれだと。この罪を悔い改めるべきと。それは御霊の声だ。

サタンの声は漠然と罪深いと言う。どの罪がどう、と具体性がない。それで、何となく自分は罪深く、漠然と自分は間違っているように思える。

この声を聞いて行くと、確信を持った歩みができない。そして喜びも平安も失せる。罪はきちんと告白して、赦しを受け取り、サタンの声は見分けよう。
神が完全に赦して下さった事を、サタンは必ず持ち出して、つついて不安にさせる。

「わたしは彼らのとがを赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」悔い改めた罪を、神は二度と思い出されない。サタンがつつく時、赦された感謝を宣言しよう。
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確信は自分から来るのではなく神様から来る。神様が私を愛し必ず高みへと導いて下さることをしっかり信じていよう。時を選ばず襲って来るサタンの声に呼応している時、気づけますように。


2009年12月28日(月)

「もし、あなたがたの心に、苦いねたみと敵対心があるならば・・真理に逆らって偽ることになります」ヤコブ3:14



神は私たちに御声をかけられ、語りかけて導かれる。サタンも同じ事をする。サタンも語りかけて誘惑して来る。主は荒野でサタンの誘惑に会われた。サタンは御父から離そうと、誘惑をしかけて来る。

主は荒野で、二つの声を聞かれた。神の御声とサタンの声だ。
私たちも御父の御心を求めようとする時、神の御声とサタンの声がある事に要注意だ。よくわきまえていよう。でなければ、間違ってしまう。

特に御心を求める時に、大切な事が、よく心を静めて、御霊に心を探って頂いて、罪があれば、必ず悔い改めることだ。特に、妬みや敵対心の苦いものをそのままにしていると、サタンの声を神の声と信じ込んでしまう。

罪が見えなくしてしまう。邪悪な思いをそのままにしておくと、サタンの声と神の御声が混乱してわからなくなる。間違ってしまう。あなたの心に苦い根、苦いものがないか、思いや行動に邪悪なものがないか、よく御霊の光に探って頂こう。

一つ一つ言い表わすなら、その罪を赦し、すべての悪からきよめて下さる。
きよめられて、御心を求める時、神のさやかな御声が聞こえて来る。上からのものは純真、平和、寛容、温順・・あわれみと良い実に満ちている。

苦いものは、上からのものではない。いつも悔い改めて御霊の導きに従おう。上からのものに満たされる。
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すべての人に平和な思いで接する事はできないが、やせ我慢して御心に従おうとしてしまうのは偽りだ。苦い思い、その罪に正直になり悔い改めて行かなければ思いの中にサタンの足場が出来てしまう。正直になり御声を待ちたい。


2009年12月27日(日)

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、御霊によって、からだの行ないを殺すなら・・生きるのです」ローマ8:13



心から、相手を裁く思い、非難する思い、怒りが出て来たらどうするだろう。クリスチャンなら、「裁く思いはいけない」「非難は良くない」「怒りは罪」と、同時に思いが出て来るだろう。

そんな時はどうするだろう。思いを抑え込むか、心の奥に押し殺すか。それで良しとしているか。それらを抑え込み、押し込んでいると、必ずいずれ爆発する。大噴火してしまう。

それらは押し込めているだけで、そこにある。妬みをその場で抑えても、すぐ出て来る。大切な事は抑え込むことでなく、神の御前に「裁いています。憎んでいます。妬んでいます」と素直に正直に告白し、神に持って行くことだ。

「神様・・」と神に呼ばわり、その場で心を告白するなら、その思いは、すうーと失せて行く。又、御霊の促しや、御心が示された時、「そんな事、無理」「自分には出来ない」「したくない」とその促しを無視したり、おろそかにしたり、流してしまう。

すると御霊の導きがそこで止まってしまい、平安無く、霊的に鈍くなって行ってしまう。うやむやにしてしまうのが「肉」だ。その時に、「そんな事、無理だと思っています」とそのままを神に告げることだ。それが必要だ。それをすると自分が変わる。

「自分にはできない、したくない」と神に持って行く。すると神は、できるように助けて下さる。あなたの日常はどうだろう。

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「したくありません」「この祈りは口先だけです」「強情な固い心があります」「心では思っていません」と、その本心を認めて、主に告げて行く時、不思議だが、何かが変わって行く。自分でいっさい何とかせず、一つ一つ主に持って行こう。


2009年12月26日(土)

「どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11


「求めよ。そうすれば与えられる」の御言葉通り、親である御父は、子供に与えたいと思っておられる。何でも求めたらよい。しかし、神は「自分の子供に良い物を与える」「求める者たちに良い物を」と、「良い物」を下さると記されている。

自分が祈ったものがそのまま与えられるのでなく、「良い物」と言われる。願った物そのままかも知れないし、そうでないかも知れない。とにかく私たちにとって「良い物」なのだ。

願った通りに与えられないと失望落胆しているなら、祈りの答えを見直してみよう。気づかないで、違う形で答えられているかも知れない。1才児が母親が使っている包丁をねだっても、親は絶対に与えない。又、子供が桁違いの高価な物をねだったとしたら、もっと大きくなってから与えるだろう。

持つにふさわしい「時」がある。又、我慢や忍耐する事を学ばせたり、その子のために教育的配慮から控える場合もある。自分はこれが最善、最適、最も必要と思うが、神は完全にふさわしく与えて下さる。

自分の願いとは異なる物が来るかも知れないが、それは「良い物」なのだ。その時は理解できなくても、後に必ず豊かな実を見る。時に「良い物」が自分の思いと違うことを心得ていよう。そしてそこに神のお心を見い出す時、喜びが来て、
得心する。
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様々なものが目の前に来る。自分の思い通りであったり、全く思い通りで無かったり、自分視点で見るとネガティブなものだが、神様視点で見ると、良いもの、最善のものだ。神様視点に立ち続けると、どんな状況であれ、心に平安が臨む。


2009年12月25日(金)

「自分に都合の良いことを言ってもらうために・・次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め」Uテモテ3:3


サタンは主を聖なる都エルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせた。神殿と都とを見渡すことができて、犠牲を献げるために集まって来る多くの人々が見える。多くの人々も主を見ることができる。

「あなたは神の子なのだから、下に身を投げてみたら」「神は御使いたちに命じて、あなたを支えさせるよ。あなたは人々から喝采を浴びて、注目の的になり、スーパーヒーローになるよ」「そうするなら、人々を救いに導きやすいんじゃないの」

奇跡は、御父のみこころの中にあり、不必要な奇跡はされない。神を試みることになる。主が御言葉でサタンに対抗された時、サタンも同じく御言葉を持って来た。知恵にたけて狡猾だ。

「すべての道」が抜け落ちていて、前後の文脈を無視し、聖書のメッセージを異なったものに変えている。神のみこころに従うなら、神の守りが保障されているのであって、みこころに反して、自分勝手に歩むなら、その保障下にはない。

サタンも御言葉もどきを持って来る。自分に都合の良い御言葉、自分勝手に持って来る御言葉は、サタンの狡猾な誘惑であることを見抜き、十分気をつけよく祈っていよう。

自分の思いが強く、願望が強い時、欺かれてしまう。右でも左でも白でも黒でも御心のままにと、自分を明け渡す時、御霊に正しく導かれる。
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偽者を見抜くためには、本物をよく知らなければならない。御言葉をいつも側に置き、内に宿る御霊によって正しい道に歩もう。主はすべての事について、理解する力を必ず与えると約束して下さっている。


2009年12月24日(木)

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」ルカ1:38


マリヤは婚約中の幸せの中にある、ごく平凡な女性だった。それが、ある日突然、御使いから「みごもって、男の子を産む」と言われた。マリヤは、どんなにか戸惑い、恐れや不安に襲われたことだろう。

マリヤはメシヤ到来を知り、信じていた。だが、余りも唐突で、なぜ自分なのか?処女で出産するとは。当時、婚約中の姦通は石打ちの刑だ。おことば通りこの身になるなら、死だ。

まさにエステルの「死ななければならないのでしたら、死にます」と同様、命がけだ。ヨセフとの関係はどうなるのか。聖霊によってみごもったなどと誰が信じられるだろう。

ヨセフをどんなに傷つける事か。ヨセフの体面もあったものでない。この結婚は壊れてしまうだろう。様々な恐れと不安が去来した事だろう。しかし、そんな中でマリヤは、自分の将来も、夢も、自分の人生もすべてを、主に献げた。

「おことばどおりこの身になりますように」と何もかもを明け渡した。マリヤの思いとは、何もかもが全く違う道であった。しかし、自分の人生でなく、神の救いのご計画にあずかる道を選択し、決断した。

ある時、私たちも自分の思いやプランと全く違う道に、環境や仕事に導かれる。「あなたのおことばどおりに」と従う時、神のご計画に参与し、神の栄光を拝する。
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神がマリヤを選ばれたように私達もクリスチャンとして選ばれ召されのだ。ご計画に従おうとする時、やはり大きな痛みを伴う。自分の思いを捨てて主の十字架にあずかるという意味を今日は静かに考えてみたい。


2009年12月23日(水)

「『あなたののろわれたいちじくの木が枯れました』イエスは答えて言われた『神を信じなさい』」マルコ11:21



当時、道に生えた野生のいちじくは自由に食べていた。主がいちじくを食べよう
としたのに、実がなかったので、腹を立て、木を枯らしたということではない。
いちじくはイスラエルの象徴であった。

「この良いいちじくのように、わたしは、良くするために彼らに目をかけ」と。
「葉のほかに何もない」というのは、ユダヤ人への嘆きだった。
ユダヤ人の宗教指導者たちが、神が遣わしたメシヤを受け入れない事への警告で
あり、さばきであった。

細かい儀式は、ぎちぎちと執り行うが、その心は神から離れている。
枝葉末端のことばかりで大切なものを見失っている。形式はあるが中身がない。
葉ばかり茂って実がない。祈りの家が強盗の巣になっている。

生きた信仰がないことを教えようとされた。それゆえ、実を結ぶ信仰について
語られた。私たちはどうか。実を結んでいるか。変えられて行っているか。

実を結ぶために、まず「神を信じなさい」。山とは不動のものだ。動くわけがない。
しかし、信じるなら山が動く。主にとり不可能は一つもない。今あなたに必要なも
のは「信じること」だろうか。

次に「祈ること」理屈でなく、とにかく生活の目の前の一つ一つをすべて主に祈っ
てみよう。祈りの中で自分が変えられ、実を結んで行く。
そして「赦すこと」赦さない心が実を結ぶ事は不可能だ。具体的に赦す人を御霊
が促しておられるか。
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形だけ整え知識が増しながらも、霊的な部分で主と強く結ばれていなければ、枯れた
いちじくの木だ。不信仰な者、整えられていない者のために主が来られた。形ではな
く真実に、主を慕い求めて行きたい。


2009年12月22日(火)

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます」ヨハネ10:3


私たちの心に、様々な「声」が聞こえて来る。それらすべてが神の声ではないの
で、よく注意することが肝心だ。神の声、サタンからの声、自分の思いからの声
がある。それらが混線している。

間違ってしまわないように、どこからの声なのかを、よく確かめる必要がある。
間違った声に従って行くと、御心と正反対の方向へ向かってしまう。
確かめるために、まず、その声が御言葉と合致しているか。

御言葉に反する導きをされる事は断じてない。目的は良いが不正手段を取ってで
もという声は神からのものではない。そして、神の声には静かな平安がある。そ
の声に反応すると、怒り、焦り、不安、落ち込み、裁きが湧くものは神からの声
ではない。

破壊的なものはサタンの声だ。神の声には平安、落ち着き、明るさがあり、信仰
的、建設的なものだ。又、神の声と同時に環境をよく見ていると、状況がそのよ
うに動いて行くのがわかる。神の声にそって合致して行く。

状況とよく照らし合わせてみると良い。確認して行ける。又、人生で重要な決断
は、牧師や導き手に一緒に祈ってもらい、相談することだ。そのために神は霊的
指導者を置いておられる。

神の声なら、そこに必ず一致がある。その声は御言葉と一致するか、平安をもた
らすか、状況と合致して行くか。羊は神の声を聞き分けて、歩んで行ける。
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迷いやすい羊が豊かにいのちを得るため安全な道に進むようにと神様は導かれる。従いたいと、素直に自分の思いを下ろし信仰の目と耳で今しようとしている事を今一度、吟味してみよう。


2009年12月21日(月)

「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」ローマ12:19



私たちにある罪の性質は、悪に、悪で仕返しをしようとする。攻撃されたら、反
撃する。何か言われたなら、言い返すと、すっきりする。悪口や批判を受けると、
倍返しをしたいと思う。

怒りを晴らしたい。しかし、この復讐は、ますます怒りを増幅させ、互いの間を
裂き、憎しみや敵対心の連鎖を生み、害毒を流し、これらの行き着くとこは死だ。
これは誰しも経験ある。

人への恨みや憎しみは相手でなく、自分自身が苦しい。心が辛く苦しく、片時も
平安がない。時々報道で、事件の被害者を見る。いかばかりの苦しみと痛みの中
かと、その激しい憎悪と敵意で歪んだ表情は、その人自身の心をも壊してしまい、
人生を破壊し破滅させるのではと思わせられてしまう。

神は、自分で復讐をするな、と言われる。神の怒りに任せよと。
復讐は神のされることであり、神が正しく裁かれると。神は必ず正しい裁きを下
される。

憎しみと敵意は、すぐに信仰者から平安を奪う。あなたも人を憎んで、辛い苦し
い悶々状態を経験した事があるだろう。それは牢獄だ。なぜ平安が失せるのか。
神に対して、罪を犯したからだ。

相手はあなたに、何をする事もできない。あなたから平安を奪う事はできない。
「人から出るものが、人を汚す」自分の罪を認める時、心が平安と喜びで満ちる。
誰もそれを奪うことができない。
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直接行動しなくても、思いの中で何度でも仕返したり攻撃する事がある。受けた
傷を忘れるまでそうするのだろうか。人の罪に巻き込まれ罪を犯すことがないよう、
受けた傷も、攻撃したい思いも神様に渡そう。この週の歩みが主にあって守られま
すように。


2009年12月20日(日)

「今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」創世記45:8

           

ヨセフの苦難の人生はよく知られるところだ。ヨセフを妬んだ兄たちにより、隊
商に売られ、家族から引き離され、全く見知らぬ異国の地エジプトへ。ヨセフは
どんな思いであったろう。

しかし「主がともにおられたので」エジプトの地で主人の好意を得、大きく祝福
された。しかるに主人の妻によって、無実の罪に陥れられ監獄に。異国の地で、
投獄の身になり、それも濡れ衣であり、ヨセフの心はいかばりだったろう。

しかし尚も「主はともにおられ」恵みを施され、ヨセフは監獄長の心にかない重
んじられた。絶望的な状況の中で、「共におられる主」を信じて、ヨセフはその
場その場で、自分にできるベストを尽くして生きて行った。

すべてが主の主権と御手の中にある事を信じたから、主に委ねる事ができた。結
果的に、大いなる神の摂理のゆえに、先にヨセフがエジプトに遣わされ、世界的
飢饉の中、ヤコブと一族を救うことになる。

こういう事だったのかと、パズルが埋まる時、神の深い素晴らしいご計画が見え
て、神の栄光が現れる。ヨセフは、兄たちへの憎しみや責めはなく、「私をここ
に遣わしたのは、神」と信仰によって捕らえることができた。

兄たちの悪巧みでなく、それをも摂理のもとに用いられた背後の神を見ていた。
人生と、人生に起こる出来事を、神のメガネで見てみよう。今までわけがわから
なかった事柄に光が差して、神と神のご計画が見えて来る。

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主が共におられるなら、負に見える事態も、結局はすべて祝福だ。それが主が共
におられるという事だ。そこに救いがあり、希望があり、だからすべての事につ
いて感謝できる。後の日にパズルが埋まった完成図が見える。そしてある事は天
に帰って見える。


2009年12月19日(土)

「兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで父が出て来て、いろいろなだめてみた」ルカ15:28

弟の放蕩息子は有名だ。しかし、背後に隠れて兄息子がいた。弟が帰宅し、喜ん
だ父親が祝宴を催した。兄息子は畑仕事に出て、弟が家出した後も、忠実に父に
仕えていた。

ところが、家の近くで、弟の突然の帰宅を知る。喜びの宴、子牛をほふらせた父、
この光景を見た時、何と兄息子は激怒した。怒りで家にも入らない。弟の帰還を
機に、兄の普段決して出ない心の奥が現われ出た。その心の奥の思いは、彼をな
だめに出た父親に噴出した。

彼は自分が正しいと思っている。「長年の間、お父さんに仕え、戒めを破ったこ
とは一度もない」自己正義のパリサイ人とダブる。それなのに正当な報酬が与え
られていないと、実は不平不満で一杯であった。「楽しめと言って」子山羊一匹
貰った事がないと。実は、本当は自分も世を楽しみたかった。

本音は弟と同じであり、それを鬱屈させていて、弟より更に問題児であった。父
は一言も彼を叱っていない。責めてもいない。愛に満ちていた。そのまま、受け
入れ「私のものは全部おまえのもの」との莫大な祝福と特権、愛を伝えた。

兄息子の応答は記されていない。兄の姿は、自分を映した鏡だろうか。実は仕え
るのが嫌で、しんどくて、不満と怒りがあるか。正直に自分を神の前に開き、認
める時に初めて、真に御父と交われて、平安と喜びに満ちた信仰生活へと変えら
れる。
弟息子にも、兄息子にも、あなたへも、同じ変わらない父の大きな愛と深い慈し
みが注がれている。

・・・・・・・・・・・・・・
「命令は重荷とはならない」、重荷となっていたら、何かがおかしい。御霊によ
らず、自分の力で動いているので、自分の肩に荷がかかって来る。喜びが失せ、
人への裁きが出ているなら要注意だ。そのままで目を主に向けるよう。おおいが
除かれ、自由にされる。


2009年12月18日(金)

「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身は暗い」マタイ6:22

「からだのあかりは、あなたの目」とある。光は目から入る。目から光がからだ
に射し込む。それゆえ「あなたの目」が問題だ。心の目は、どこを見てるだろう。

光であるお方、主に焦点を当てて、主をしっかりと見ているなら、それが健全な
目であり、そうするなら、あなたの全身が明るく、輝いて行く。あなたの思考、
言動、行動、判断、プラン、それらが主に導かれて行き、輝く。

そして、主の光の中で見る目は、見せかけでなく、虚飾でない、本当の姿を見て
行く。事実をありのままに見て、受け止めて行く。

逆に、その目が暗ければ、全身が暗い。光が無いということは、主を見ていない
ことだ。現実には光があるが、光なる主から目を離し、人を見、自分を見、状況
を見ていると、暗い目になってしまう。

人との比較から、羨望、妬みが出て来て、優越感と劣等感にさいなまれる。
泥沼に落ち込んで行く。自我の目で見て行くなら、自分の独断と偏見で人を見て、
裁いて行くことになる。

又、偏った目は物事を、正しく、正確に見ることができない。自分の主観で、人
を偏り見る。そこから誤ったそしり、悪意の疑りが生じ、平安無くし、自分が苦
しくなる。

今、あなたの目は明るいだろうか。平安で喜びがあり信仰的見方か。もし暗い目
で平安と喜びが無いなら、間違いは悔い改めて、焦点を主に変えよう。見方が変
えられる。
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光を見て行こう。知らず知らずこの世の価値観に心の焦点をあわせてしまう。
心に平安がない時は、立ち止まろう。御言葉が自分の内を照らしてくださる。
主から目を離さず、今日もみこころの真ん中を歩めますように。


2009年12月17日(木)

「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」マタイ11:6



バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の不法を、はっきりと間違っていると言い、その結果、投獄された。ヨハネは正しい事をしたのであり、神は正義なる方、自らの投獄は理不尽であり、何の罪も犯していない。

神の御前に誠実に歩んだのであり、主が、何らかの対処をして下さるはずと思っていたに違いない。しかし、投獄されて、幾日も過ぎても、何の音沙汰もない。何も起こらない。

イスラエルの王国を打ち立てられ、王権を取られるのではないのか。牢獄の中でヨハネの思いは、いかばかりであったろう。それで、弟子たちに「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも〜」と問わせた。

主はその時に、弟子たちに「自分の聞いたり見たりしていることを報告」、つまり、目の前の「事実」を告げなさいと言われた。「盲人が見、足なえが歩き〜」これは、救い主が来た時の預言だ。

ヨハネが自分でわからない限り、わからない。つまり、人に幾ら説得されても、自分で受け取とうとしない限り、わからない。自分で御言葉を真剣に受け止め、真摯に向き合う時に、御霊の助けで真理がわかるようにされる。

私たちも心に自分の思いや偏見があれば、神が見えず、物事が捕らえられない。自分の先入観や自分の判断を除けて行く時、正しく神が見えて、御心がはっきり見えて来る。目の前のこの事に神を見、過去のあの事にも神が見える。
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救い主の預言は、待ちわびている人々にとっては希望の光だったはずなのに主を目の前にしても、奇跡を見てもわからない。自分の知恵や賢さに邪魔されず、主に出会えた者はなんという幸か。


2009年12月16日(水)

「これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました」ルカ7:30


天国から最も遠いと言われていた、罪深い取税人たちが、ヨハネのバプテスマを受けて、神を認めた。最も信仰深いと言われていたパリサイ人、律法学者たちはヨハネのメッセージを受け入れず、神を認めず、バプテスマを受けなかった。

直に主イエスの御言葉を聞き、奇跡を見ても、尚且つ主を拒んだ。どこに問題があったのか。それは彼らの心であった。心が頑なであった。

自分のメガネでしか物を見ない。人は誰しも、自分の都合の良いように、物事を見るし、聞く。独断と偏見があるが、それが強く、自分のメガにかなわないものは、決して信じない。受け入れない。固い土地は御言葉をはじき返してしまう。

自分のメガネを正しいとする時、御言葉の入る余地はない。自分はどうだろう。偏見で物を見ていないか。又、パリサイ人たちは、外側は戒めを守っているように見えたが、そこに愛とあわれみは無く、本質的には何も行なってはいなかった。

戒めを行なえない、自分の本当の姿を見て、悔い改めることが、大きな恵みのただ中であり、そこに神の力が働く。御言葉の下に自分を置き、へりくだって主に頼る時、心は大海のような平安で満ちる。

恵みの世界は、何とパリサイ人の世界と異なることだろう。喜びと安堵でいっぱいの、別次元だ。
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自分は正しいに立つ時、大切な主さえ見えない外側だけ律法学者になって行く。近いようで最も遠い者にならないよう、多くの罪を赦されている事を今朝も覚え、主の下にへりくだり歩もう。


2009年12月15日(火)

「『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです』」創世記3:11



アダムはエバに、エバは蛇に、責任転嫁した話は有名だ。何と、人類が最初に罪を犯した時に発した言葉が、「この女が私にくれたので食べた」「くれた女が悪い」「この女のせいでこうなった」自分を正当化する、責任転嫁だった。

これは私たちの中に根深く潜む性質だ。あなたにもあるだろうか。人のせい、環境のせいにしていれば、自分を見なくて済む。自分に向き合うのは痛い、辛いことだ。自分の罪は見たくない。

しかし、自分に責任を取らないで、言い訳し、人のせい、状況のせいにしているなら、何一つ成長はない。そこから進む事がない。主を知ることもない。言い訳しないで、「その罪を犯したのは私です」と認める時、神の恵みが臨む。

赦しが与えられ、自分が変えられ、成長して行く。ある人は、辛い成育歴があった。父親がアル中で、子供の頃、ずっと家族に暴力を振るっていた。そんな父親をどうしても赦せず、心は父親への裁きと憎しみで苦しかった。

心はいつも牢獄にいて悶々だった。父親のせいで、父親が悪いから自分が苦しいのだと、ますます父親への憎悪を深めた。だが、神に出会った時、初めて目からうろこの大転換を見た。

自分が苦しいのは、父親のゆえでなく、父親を裁き憎む罪ゆえ、平安がなくて苦しいのだと。父親は全く関係なく、自分と神との問題なのだと。自分の問題と認め、悔い改めた時、父親への憎しみが消えた。
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見るべきものは自分の罪だ。自分の内にある罪を示され、しっかりと神様の前に一つ一つ認めていく時、不完全なままでも平安が来る。神様と自分の関係に言い訳はいらない。


2009年12月14日(月)

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」ローマ12:1


あなたも経験するだろうか。神の御心がなりますようにと祈りつつも、自分の思いと自分の願いで一杯で、建前は神の御心だが、本音では全くそうではなかったりする。

しかし、反抗する気など全くなく、一応は御心がなりますようにと思っているので、そう思っているだけに、自分でも気づかない。自分では真剣に祈っているつもりだが、後で振り返ると、委ねる事の意味もわかっておらず、神を信頼もしていなかったとわかる。

メッセージで、学びで、神に委ねる事の大切さを、しょっ中教えられるので、それが良い事と思い、そうしている「つもり」だが、実は自分の思いと自分の願望をしっかり握って放さない。

しばしば、自分がそうあればいいと思っている事を、実際そうだと勘違いする。反抗したり、逆らっていれば、明らかにわかるが、逆らっているつもりはないので、返ってわからない。気づかない。何かが漠然とし、混沌としているのだ。

心に確信と満たしが無い。平安が無い。それで自分でも、何かが違うと薄々感じている。この問題点は、献げていないところにある。心の底を御霊で照らされる時に、献げていない自分を見い出す。

この事を認めることが前進のためのまず一歩だ。握っているものは何だろう。放す時に深い平安と喜びを経験する。
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もともと温和で親切で、罪も憎んでいる。自分は光の中にいると思い込んでるだけなら悲しい。御言葉を礼拝メッセージを自分の事として聞いて行こう。悔い改めや変わりたい、献げたい祈りを自分のものとしよう


2009年12月13日(日)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4

ここでは、私の願いを叶えて下さったから、主を自分の喜びとするとは言ってい
ない。その逆だ。主を喜びとし、主を第一として行く時に、願いが叶えられると。

又、主が与えて下さるものや、事柄を喜びとせよと言っていない。私たちはあれ
やこれや祈り求める。主は求めよと言って下さっている。願う事は良いのだが、
注意が必要だ。その願うものや事柄だけに心が向き、集中し、一杯になっていな
いだろうか。

叶えられた事柄が、与えられたものが嬉しいばかりで、与え主に目が向かない。
癒された10人のらい病人の内、9人は万歳とばかりの大喜びで、世に帰って行
った。
願いがすべてになるなら、突き詰めると、与えてくれるなら誰でも良いという事
になってしまう。そして、幾ら祈っても与えられない時に、主に対し失望し、又、
不平不満、果ては怒りで一杯になる。

主は、私たちの思いを遙かに越えて、私たちに最善のものを備えておられる。主
を忘れて、自分の願望だけになっていないか。

「主よああして下さい、こうして下さい、あっちへ行って下さい、こっちへ来て
下さい」主を動かして、指図する祈りだろうか。

「主をおのれの喜びとせよ」。自分の願望ばかりで、主のお心はどうなのだろう。
視点を変えて、「主が私に望まれる事は何ですか」主を第一にし、主に感謝して
行く時、主が心に願いを起こして下さり、その願いを叶えて下さる。

主の願いが、自分の願いとなる。その願いは御心に適っているので、100%叶
えられる事になる。「主が私に望まれる事は何ですか」の祈りを献げてみよう。

・・・・・・・・・・・・・・
気がつくと、自分の願望ばかりになっている。「ああして欲しい、こうして欲し
い」軸が自分になってしまい、では、主はどう思っておられるのだろう?「主の
願いは何ですか」自分軸でなく、主に軸を置けますように。


2009年12月12日(土)

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」詩篇84:5

 

信仰人生に、苦しい事、辛い事、理解に苦しむ事が起こる。それは、未信者にも
クリスチャンにも同じように起こる。しかし、違いは、神を信じる人は、どんな
悲惨な事、どんな悲しい苦しい事柄の中にも、神を認めて行くことだ。

そして、そのまっただ中に神がおられ、その苦しみの中で、神の愛、慈しみ、助
けを実際に体験して行く。

神を信じない人は、どんな奇跡的な良い事があっても、そこに神を決して認める
事は無い。そこの相違だ。信じる人は何を見ても、どんな出来事が起きても、そ
こに神を認め、神の愛を認める。

どんな問題や悩みが来たとしても、神を信じているから、そこを泉の湧く所とし、
その中で、神に出会って行く。信仰とはそういう事だ。

だから、もし、思い煩い、焦り、恐れ、不満だけなら、神以外のものを頼り、見
ている事になる。状況だけに目を奪われていないか、又、自分を見るばかりだろ
うか。苦しい状況に飲み込まれているなら、今、視点を神に向けよう。「しかし、
人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」

「苦あれば楽あり」その内に良い事が巡って来るという事では無い。涙の谷、ま
さにそのものが泉の湧く所になる。苦しみのどん底に、神の慰めがあり、平安が
あり、喜びの泉が湧き上がる。涙の谷が祝福となる。

そこで、神の愛と慰めを知る。神に出会うので、霊の喜びを経験する。だから、
すべての事について感謝して行ける。

・・・・・・・・・・・・
経験した誰しもが、全く同じ事を言う。無力のどん底で、真に神に出会ったと。
そこに神がおられ、平安が満ち、喜びが溢れたと。何があろうと、何と希望があ
り、救いがある事だろう。苦しみは来るが、更に親しく神に出会える。


2009年12月11日(金)

「あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり・・」創世記3:5



サタンの誘惑の根本だ。神を捨てて、自分が神になる。つまり、自分の思い通りに生きる事ができる。誰からも干渉されず、とやかく言われず、自分のしたい事をし、思いを通せるのだ。

自分が神となり、王となり、自分の判断、自分の力、自分の知恵で生きて行く。誰に従うこともいらないのだ。何と魅惑的で、心地良い楽しい事だろう。私達の古い性質がまさにこれだ。アダムが選んだ結果だ。

「自分の考えこそは絶対だ」「私の意見が一番素晴らしい」「誰にも邪魔させない。干渉させない。自分の思い通りにやる」古い性質へのサタンの誘惑だ。自分の好きなように生きるようにと。肉は誰にも従いたくない。

ムクムクと自我は頭をもたげてくる。それゆえ、神に従う道は「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」だ。自分を捨てなければ、従えない。

神に従うとは、自分の思いを下ろして、神の御心を行なうことだ。神は私達を愛しておられるので、様々な訓練の中で、取り扱われる。頑なさを砕かれる。思い通りにならない事態を、目の前に置かれる。信仰人生、自分の思い通りにはならない。それこそが恵みであり、砕かれ、変えられて行く。

今、思い通りにならない状況で、状況を変えようと必死だろうか。神が立ちはだかっておられ、状況でなく自分が変えられる時だ。
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これだけは思いを通したい、そんな状況に遭遇して初めて自分が神であり支配権はゆずれない罪の本性を知る。人も時間も全てが思い通りに行けばいいと思っている自分を、明け渡して行きたい。


2009年12月10日(木)

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい」ピリピ2:14



祈って、平安与えられて、自分の思いでなく、一時の思いつきでもなく、神から来た志だと確信できたら「行ないなさい」、次の御心は実行する事だ。

実行する事は大切だ。従わない限り何も始まらない。つぶやかずに、疑わずに実行する事だ。その導きは、ある時は自分にはとても出来そうもないと思える事柄だ。新しい仕事や、新しいプロジェクトであったり、犠牲を伴う働きであったり、又、人との和解、仲直りであったりする。

詫びたり、赦したりする必要がある。逆に言えば、神からの御心を実行しようとする時、つぶやきや疑いが必ず来るという事だ。これをわきまえていよう。でなければサタンに欺かれてしまう。

ちゅうちょするのだ。二の足を踏んでしまう。「本当に導きか?」「自分の思いでは?」「やっぱり止めよう」「自分には出来ない」疑いや不安が来て、迷いためらう。

しかし、神はそれをもご存じで「つぶやかず、疑わずに」実行せよと言っておられる。なぜなら、事を行わせてくださるのは、神なのだから。決心して、一歩踏み出すなら、神の力が働くことを見る。

あなたも今、実行するよう、神から示されていることがあるか。何かの働きか、人との和解か、悔い改めか。あなたへの御心は、その事を「つぶやかず、疑わずに」実行する事だ。
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示され確信したなら決断、実行できるよう祈ろう。御言葉を読んでいて示された事があっても実行する気で祈っていなければ、確信も何もわからないうちに思いはすぐに現実の生活の中で消えていく。つぶやかず疑わず結実させよう。


2009年12月09日(水)

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」ピリピ2:13



神は志を与え、神がその事を成し遂げて下さる。私達には様々な思いが浮かぶ。しかし、気をつけなければならないのは、すべてが神からのものでなく、サタンからの思い、自分の肉の思いもある。

神からの志を識別する必要がある。思いの中に確かに神からの志があるからだ。どう判別すれば良いのか。判別の基準はある。まずその志が、神の言葉にそっているか。神の言葉に反して導かれる事は決して無い。

神のご性質や聖書全体のメッセージに合致しているか。それに反するなら、まず神からの志ではない。例えば、ここでは都合が良いから少しぐらいの不正は、などは神からではない。目的のためには手段を選ばないものは神ではない。

動機も方法も正しい事をされる。偽りが入るなら神からではない。心に平安があるか。不安があるなら、続けて祈った方が良い。御心の志なら神がその不安を解決される。

何かをする事、人に謝罪する事、又、赦す事、様々な志を与えて御心に導かれる。もし大きな事や重要な事を判断する時には、牧師や導き手にも共に祈ってもらった方が良い。なぜなら、御心なら必ず一致がある。

神からの志は、決して消える事なく堅く立つ。今、志があるなら祈ろう。主と一つである時、「せずにおれない」主のお心が、自分の自発的な思いとなって、湧き上がる。
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肉の思いとサタンからの誘惑が合致するとどんな事でも正当化できる。動機を吟味し確信を祈ろう。私達が良い行いに歩むよう、あらかじめ主の備えて下さった志なのかどうか。結果だけをみて動き出してはいないだろうか。


2009年12月08日(火)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6



男だけで五千人、女子供を入れると倍もいたかという大勢の人々を前にして、主はピリポを試された。空腹の人々に「食べる物がない、どうしようか」と。

ピリポはソロバンをはじき、計算した。答えは「ノー・不可能」だった。アンデレも、あるいは、主は何かして下さると思ったから、何か持っている人を探した。しかし、こんなに大勢に小さな弁当では、焼け石に水だ。だめだと思う。

大勢の群衆、食べ物が無い、手持ちも無い、このような状況で、主はすでに「しようとしている事」があられた。これは何と心強い事だろう。

あなたが今、このような状況なら、主はすでに方策を持っておられる。しようとする事があられる。私たちに方法ではなく、「信仰」を求めておられる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」主が喜ばれるのは信仰だ。

そして、「小さな」ものを用いて下さる。五つのパンと「小さい」魚を二匹だ。今、新しい歩みに招かれているか。新しい環境、仕事、奉仕・・自分は小さな者だと思うなら、主はその「小さな」者を用いられる。

「イエスはパンを取り、小さい魚も同じようにして」主の手に握られる時、大きな祝福として、主が用いられる。人々は満腹する。一番肝心な事は、その「小さな」ものが主の手にあるかどうかだ。 
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主は、小さなものを用いて、何倍もの祝福に変える力を持っておられる。それを信じているかと問われている。よい思いつきであっても、それが心配事であってもそれを主の手に渡して安んじていよう。 


2009年12月07日(月)

「彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み・・私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです」詩篇109:3



ダビデは真実を向けた相手になじられ、愛するに関わらず憎しみで攻撃されるという辛い苦しい経験をした。サウル王やアブシャロムによる迫害ではないかと言われている。

非常なる苦悩であったろう。愛や誠意、真心は必ず通じると思いたいが、そうでない場合があるという事だ。その場合はどうすれば良いかを、ダビデを通して学ぶ事ができる。

誠意と愛をもって接して来た人々が、敵対し、攻撃して来る。
邪悪な口と、欺きの口と、偽りの舌をもって、憎しみの言葉で取り囲み、罵り、なじって来る。苦しい状況だ。まさに、人間の神に対する態度そのものだ。

しかし、神は、神を捨て、神に敵対する者を更に追いかけ、御子まで殺して下さった。その御子を私達はどう扱ったか。神の愛すら通じないのであれば、罪人である人間同士の愛が通じなくとも不思議はない。

主は十字架上で、人々の罵りに対してどうされたか。人々の赦しを御父に祈られた。ダビデも同じだ。「私は祈るばかりです」。相手に復讐するのでなく、神に心の内のすべてを打ち明け、神に叫び、神に知って頂くことができる。

神に心の内を叫び祈ったダビデは、この後、賛美と感謝へと変えられて行く。今、もしこのような苦しみの中にいるなら、答えは「私は祈るばかりです」。神に心の何もかもを打ち明け、聞いて頂こう。平安に変えられる。
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私達の毎日が親しい者の中で平和に暮らせるならラッキーだろか。けれど理不尽な環境の中でしか祈れない祈りがあり、明確な神からの慰めを見る。恐いのは人ではなく、試練の中で神に焦点を合わせられない事だ。


2009年12月06日(日)

「神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」ルカ18:8

この人は裁判官であり、神を恐れず人を人とも思わない人物だ。裁判官だという
事は法律にそって裁くという事だ。人格的にはこういう人だが、やもめが余りに
ひっきりなしにやって来て、うるさいから裁判をする事にした。

こういう人でも、うるさいからの理由で、裁判をするのであれば、ましてや完全
な愛と完全な義をお持ちの神が、正しい裁きをつけずに、放っておかれるわけが
ないという事だ。

つまりこんな人格の裁判官でもそうするのだから「ましてや神は」という事を言
っている。とんでもない人物を出して来て、神がどんなお方であるかを対比させ
ている。

完全な愛と配慮を施して下さり、常に私達の最善を考えて下さっている神なのだ
から、失望はあり得ないと。祈りの執拗さでなく、祈る相手がどんなお方かが重
要だ。神はすみやかに彼らのために正しいさばきをして下さる。

「パンを三つ貸してくれ」としつこく頼み続けて、パンを得た人も、友達だから
でなく執拗さのゆえに勝ち取った。ここでも、ましてや父である神は、執拗さゆ
えでなく、子だから良い物を下さると言っている。

御子を賜うほどに愛し、最善をして下さる神に、失望する事なく信頼し続けよう。
信仰を献げよう。御心にかなう祈りは、必ず叶えられるのだから。

・・・・・・・・・・・・・・
執拗さがうるさくてたまらないから、対応してくれたが、「ましてや神は」うる
さいからでなく、慈しみと愛のゆえに対応して下さる。今、祈り続けているあの
事、この事を放っておかれるわけがない。必ず答えて下さる。心から信頼して祈
り続けよう。良いものを下さる。


2009年12月05日(土)

「自分にも言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい」ルカ17:10

ある人が、主の愛に応えて、主がどんなに素晴らしいかを、職場で証ししたいと
願った。心に願いはあるのに、どうしても出来ない。語る勇気が無い。話す事を
恐れる自分がいる。又、どう語っていいかがわからない。

毎日、そうしたいと願いつつ出来ないまま日が過ぎた。思いはあるのに、勇気が
無く、いつしか人を避けてしまっている自分に気づいた。主がこんなに自分を愛
して下さっているのに、申し訳ない。

心悶々が膨らみ、主の御前に出た。あるがままを主に申し上げ「ごめんなさい、
出来ません、証し出来るよう助けて下さい」と心のままを祈った。

そして祈り続けていた数日後、突然、職場の主任の方から「○○さんはクリスチ
ャン?」と話しかけて来た。びっくりし、聖書、教会の事、自分の信仰の事等
色々話せて、そばにいた同僚も加わって来て、何と証しが出来たのだ。

翌日には、わかりやすく書かれたトラクトも渡せた。祈りに答えられた事、自分
でなく、神がされた事がわかり、感謝に溢れた。弱さの中に働かれる神に触れ、
喜びで一杯になり、御名を崇めた。

弱くなくて、強ければ、自分の力で出来たなら、必ず自分を誇ったに違いない。
しかし、心から「役に立たないしもべです」と認める事ができて、喜んで神にの
み栄光を帰し、神の御名をたたえる事ができた。主に頼る時に、自分ではなく主
に栄光を帰して行く。

・・・・・・・・・・・・
ありのままを主に祈ろう。「出来ません」「したくありません」「難しいです」
「無理です」正直に告白して行くなら、その時、不思議を経験する。自分が変え
られ、主の力が望む。自分の力でない事を知り、主への感謝と喜びが溢れる。


2009年12月04日(金)

「キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは・・他の人、死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです」ローマ7:4



親切な男性は、主キリストだ。主はただ要求を突き付け、責めるばかりの以前の夫のようではなく、正しい事を教え、導き、そう出来るよう自ら率先して協力し助けて下さる。

いつも愛情と親切、寛容、忍耐を持っての対応なので、妻は自分から自発的に、新しい夫の愛に応えたいと思う。強いられてではなく、自由意志で夫に尽くしたいと願う。

失敗しても、赦しがあり、慰めと励ましがあり、妻はいつも喜びと安らぎに包まれる。私達は、以前の夫との結婚関係が契約解除になり、新しい夫、主キリストと結ばれている。

しかし、その夫婦関係を、信仰生活を楽しんでいるだろうか。喜んで、自由意志で、自発的に、新しい夫に仕えているだろうか。いつも安らぎに包まれているか。

新しい夫と婚姻関係を結んでいるに関わらず、自ら古い夫に縛られているのではないか。そちらに目が行き、何とか古い夫を喜ばせようと、又、頑張ってしまう。

懸命に努力し、力の限りを尽くすが、受け入れられる事はなく、自分を責め、罪悪感に落ち込む。古い夫と関わる必要はない。すでに新しい夫と一つとされている。新しい夫と喜び楽しみつつ、豊かな実を結ぶ者とされている。
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私達の立場は、主と生きて行ける新しい契約の中に入っている。長くつちかって来た過去の習慣から離れ、主の心を自分の心とし、もっと主を知り、主を味わい、豊かな信仰人生を歩んで行こう。


2009年12月03日(木)

「私はキリストとともに十字架につけられました」ガラテヤ2:19


ある女性の夫は、完璧主義者で、細かく几帳面だった。日々、家の隅々まで点検し、ほこりやゴミの指摘、掃除の仕方に文句を言う。料理など、不満だらけだ。味付けから、料理方法、その欠点を一つ一つ指摘する。

彼女のする何もかもが夫の気に入らない。やがて、彼女は夫の顔色を見ながら、神経質になり、常にビクビクし、生活に喜びが全く無くなった。

そんな時、隣の男性が荷物を持ってくれた。彼は大変親切で、気遣いをしてくれ、いつも助けてくれた。彼といると心は喜びと安らぎで満ちた。この人が夫だったら良いのに。今の夫と離婚したいが無理だ。どうしたらいいのか。

夫が死ねばよい。死ねば夫婦の契約解除になる。しかし夫は強健で死にそうになどない。これがローマ7章で言っている事だ。

夫が律法で、妻が私だ。いつも律法に要求されて、責められて、しかし実行できず苦しくてたまらない。律法が死ぬ事はあり得ない。律法はずっと存続する。

唯一の方法は、律法が死ぬのではなく、妻の方が死ぬ事だ。妻が死ぬと夫から解放される。死により、夫婦の契約解除になる。

これがキリストのして下さった事だ、私はキリストと共に十字架につけられて死んだ。私は律法に対して死んだ。律法から全面的に解放されているとは、何たる喜び!
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正しいはずの律法に反応しながら反発して行く。そんなとても不自由な生き方しか出来なかったのに、主が十字架で流された血潮によって、肉はもう死んだ。主と共に生きる新しい生き方を神様は与えて下さった。この恵みを無駄にしてはいけない。


2009年12月02日(水)

「彼に言われた。『よくなりたいか』」ヨハネ5:6


病の人に「よくなりたいか」と言うと「当たり前」に思える。なぜ、主はこのような質問をされたのだろう。「よくなりたいか」という事は、はっきりと今、病気だという事だ。

その人自身の現状にしっかり向き合わさせ、自分の本当の願いを確認させるためだった。「よくなることができるか」とは言われず、あくまでも「よくなりたいか」であり、直りたいという意志だ。

問いかけられた時、初めて、人は自分の心が探られる。その時、彼の応答は「誰も助けてくれない。自分には助けがない。介助者のいる者が先に降りて行く。自分一人ではどうにもならない」だった。

「はい、よくないたい」ではなく、人のせいにし、環境のせいにした。私たちも、何度繰り返してもダメで、同じ悩みにずっと悩まされ、どうやっても状況が変わらない時、心が萎えてしまい、諦めてしまうかもしれない。

どうせやってもダメだと。仕方がない。そこまでエネルギーが無い。「本当に愛したいのか?本当に変わりたいのか?本当に御言葉に従いたいのか?」主は問われる。

「そうは思うのですが・・ああで、こうで・・」が自分の姿だろうか。彼には癒される信仰があった。人依存で、人のせいにしていた自分の状態に気づいた。

「起きて歩きなさい」に、信仰持って応答した。主は彼の内にあった、彼の信仰を引き出された。あなたにも今、主が問うておられる「よくなりたいか」
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どうせ駄目、だから駄目と言い訳の中にいるのは、起きて歩くより楽な場合がある。自分の心の状態はどうだろう。悲観的材料を集めてはそこにぬくぬくとしていないだろうか。主の問いかけに「よくなりたい」と答えて行きたい。


2009年12月01日(火)

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」創世記3:12

アダムとエバへの誘惑が、「あなたがたが神のようになり」であった。自分が神
になり、判断し、自分の知恵と力で生きて行くことであった。

その通りに、アダムもエバも知恵がつき、自分が神になり、自分は正しい、悪く
ない、相手が悪いと自分を正当化し、責任転嫁して行った。自分の罪を見るのは
苦しく、こうなったのは、あの人、この人のせい、環境が悪いと、人や環境のせ
いにするなら、自分を見なくて済む。

これは責任転嫁であり、逃げる事だ。そこには何の解決もない。自分の問題と向
き合う事だ。自分の罪、又、自分の弱さと真正面から向き合う事から解決が始ま
る。

それを正直に、神の御前に告白して行くことだ。これが責任転嫁でなく、自分で
責任を取るということだ。罪は完全に赦され、解き放たれ、神はその罪を二度と
思い出されない。

ある人が、父親と折り合いが悪かった。小さい頃、父親はアル中だった。酒を飲
むと家族に暴力を振るった。父親への憎しみがどうにもならなかった。苦しみの
悶々を通った。この自分の苦しみは、すべて父親のせいだと思っていた。

しかし、ある時、示された。父親は父親の問題であり、どうであれ、自分が父親
を憎むということは、自分の「罪」なのだと。今まで、父親が悪いとしか、そう
しか見えなかった。しかし、自分の罪を認めて、悔い改めた時、初めて自分が変
わった。凍りついた心が溶けて行き、自由にされ、平安が心に臨んだ。

・・・・・・・・・・・・
言い訳し、自己正当化し、責任転嫁する、これが肉であり、罪の性質だ。肉は常
に自分が正しく、悪いのは相手だ。肉は心地良いが、これなら一生涯何の成長も
無い。言い訳している限り、決して成長は無い。いっさいの言い訳を止めてみよ
う。