2001年10月31日(水) 「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです](ローマ:37)
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです](ローマ:37)
ある無神論者が行った。「クリスチャンとは 弱い人間だ。すべてを神に頼り、責任を自分で 取る事をせず神に押し付けている。 人生の敗北者だ」。しかし、そうではない。 神は圧倒的勝利者だと言われる。自分を弱い、 出きないと認める事は決して恥ではない。 現実をしっかり見て、自分の限界を認めて神に 助けを求めることは力だ。弱い人に自分の弱さ を認める事は出来ない。神はサマリヤの女に、 私の与える水を飲む者は決して乾く事が無いと 言われた。これはキリストを信じて生きる人生 は、問題や悩みの無い人生という意味ではない 問題や悩みの中で、神に助けを求めるなら、神 からの助けや導きを保証されるという事だ。 神は私達のありのままの状態をご存知で、愛し て下さっている。神が私達を強めて下さるのは 私達が自分の弱さを認める時だ。その時、神が 私達の力となって下さる。
2001年10月30日(火) 「彼らは、朝ごとに、各自食べる分だけ、それを集めた」(出エジプト16:21)
「彼らは、朝ごとに、各自食べる分だけ、それを集めた」(出エジプト16:21)
あなたは時間に追われた生活をして いるだろうか。多忙の中にいるか。 仕事、育児、家事、地域の義務、様々 な対人関係と、精一杯時間を使ってい るだろう。これからも毎日、毎日忙し さが延々と続く事を考えるとうんざり するかもしれない。 主は祈る事を教えておられる。「日毎の 糧を今日も与えてください」主は霊的な 糧と肉体的な糧の両方を与えて下さる。 イスラエルの民は荒野で毎日マナを集め るよう命じられた。マナは朝毎に天から 降って来た。明日のためにと余分に取っ ておくと、そのマナは腐った。 民は毎日毎日、その日の分を集めなけれ ばならなかった。私達も毎日、霊の糧が 必要であり、毎日受け取らなければなら ない。神のあわれみは朝毎に新しい。 神のあわれみは決して尽きる事が無い。 日毎に知恵、導き、力を与えられ、一日 の困難に立ち向かう事が出きる。 神は一日に一度づつ、日毎に必要を与え て下さる。今日一日、主を信頼して生き ること。
2001年10月29日(月) 『イエスはペテロに言われた「わたしの来るまで彼が生きながらえるのを私が望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい」』(ヨハネ21:22)
『イエスはペテロに言われた「わたしの来るまで彼が生きながらえるのを私が望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい」』(ヨハネ21:22)
「あなたはこの人たち以上に、わたしを愛 しますか」とペテロに問われた。ペテロよ、 自分の生活以上にわたしを愛しているか。 あなたの将来の夢を捨てるほどにわたしを愛 しているか。他のすべてのものよりもわたし を愛しているかと、尋ねられた。 はいと答えたペテロにでは、わたしに従って 来なさいと、献身を求められた。ペテロはこ れまで馴染んできた全てのものに背を向けて 主に従っていった。 その時に、ヨハネが気になり「この人は?」と 尋ねた。イエスは「わたしは彼に計画を持っ ている。彼には彼の別の道がある。 あなたと同じではない。あなたには関係の無 い事だ。あなたはただわたしに従え』と答え られた。隣の人はあなたと関係が無い。 彼には彼の道があり人生がある。あなたとは 異なる。あなたのする事は横でなる上を見上 げる事。
2001年10月28日(日) 「この終わりの時には、御子によって私たちに語られました」(ヘブル1:2)
「この終わりの時には、御子によって私たちに語られました」(ヘブル1:2)
「神が語られたので、みこころをそれ ている事に気づきました」「神が語られ たので、私はこの事を決心しました」 人々がこのように語るのを聞いた事 があるだろう。まるで神が語られる ようで、ある人にとれば不可解かも 知れない。自分にはなぜ聞こえない のかと怪しむかも知れない。しかし、 神の御声は耳で聞こえるわけでは ない。が、私達の生活の中で色々な 方法で語られる。ある人には聖書を 読んでいる時に、はっきり語りかけ られる。その問題に答えが与えられ るかのように、ピッタリと御言葉が心 の耳に聞こえて来る。ある人には、 礼拝メッセージを通して祈っていた 答えを語られる。ある人には友人の 助言を通して語られる。導きを求めて 祈って待つ時、神が私達に求めてお られる事を聞き分け、神のみこころ を知る事が出来る。心に思いを起 こし、御言葉を思い起こさせて導い て下さる。それは必ず御言葉と 一致する。
2001年10月27日(土) 「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」(ルカ5:5)
「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」(ルカ5:5)
プロの漁師であるペテロが仲間達と 夜の間中、漁をしたが獲物が一匹 も取れなかった箇所は、よく知られて いる。夜通しの働きで、疲れ切って岸 に降り立ち、漁を諦め、網を洗って いた。しかし、その時に、イエスが現 われた。その舟を少し出させ、その舟 から岸に向ってイエスは御言葉を語 られた。その後、更にもっと沖に出て 魚を漁るように言われた。ペテロは 昨夜の事を言い、しかしお言葉通り にすると言った。すると、大漁で加勢 が必要なほどだった。私達もそれぞれ の場で、全く進歩が無く、変化が無く 疲れ果てて諦めているかも知れない。 流されるままに任せてしまっているか。 しかし、そんなあなたにペテロと同様に 語られる。「沖へ出なさい」深みに漕ぎ 出しなさい。進歩も変化も無かったけ れど、今一度、もう一度、今までやって いた事をやって見る事。大漁の奇跡 を見るだろう。
2001年10月26日(金) 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119・105)
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119・105)
ある施設に行った時、廊下やロビーや風呂、 トイレを真夜中でも、正しく歩けるように豆 電球がコンセントに差し込んであった。 夜に少し外に出てみようと裏出口に向かった 時、その誘導の光を見失い真っ暗な中で、階 段に足をつまづかせ捻挫してしまった。 光を見失った事が、大変な損失を招いてしま った。霊的な事においても同様だ。 私達は誘導する光を見失う時、真っ暗闇の中 を手探りで進まなければならない。 光無しに手探りで進む時、暗闇でつまづいて 転んでしまう。イエスは導く光であり、正し い道を常に指し示して下さる。 その時、正しい道、みこころに適った道、 真実の歩みからそれる事は無い。 絶えず御声をかけ、みこころへと導いて下さ る。そして、出会う人々の光となる事が出き る。学校で職場で家庭で出会う人々に光を与 える事が出来、人々は救いを知るようになる。 光に歩め。
2001年10月25日(木) 「私は見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう」(ハバクク2:2)
「私は見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう」(ハバクク2:2)
焚き火をした事があるだろうか。 焚き火に、丸太を投げ込み、少し づつ炎が燃え、そして木切れを燃 え上がらせる。 時には、焚き木が燃え上がるのに、 数分かかる事もある。 モーセはこの、柴が火元となって 燃え上がったのに、柴を燃え尽く さない炎・・を見定めようと近寄 ったのだった。 「なぜ柴が燃えて行かないのか、 大いなる光景を見よう」と考えた。 モーセが近寄って見つめていると 神が「ああ、やっと私に注意を向 けたな」と言っているかのように モーセに語りかけられた。 神は今も私達に語りかけておられ る。私達の「燃える柴」は何だろ う。友人の忠告、礼拝メッセージ 霊的導き手の助言、また,突如の 試練や病気、対人関係の困難だろ うか。神は私達の注意を引こうと されている。 私達は常に多忙で御声を聞き逃し てしまう。神があなたの注意を ご自分に向けさせたいサインを見 逃すな。
2001年10月24日(水) 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」(詩編51:17)
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」(詩編51:17)
ある女性が思春期の頃、誘惑に負けて 万引きをして、警備員に捕まった。恥ず かしさで他の誰とも顔を合わせられない と思った。帰宅し、ずっと泣いていた。 母親が「辛いんだね」とソファの横に座 った。彼女は泣きながらうなづいた。 母親は彼女に言った「あなたのした事は 悪い事よ。でも、大事なのはあなたが 悔いている事なの」母親は彼女の髪を なでて優しく言った。「今、あなたはこの 事から学んで、前進しないといけないの よ」彼女は驚いて顔を上げた。理解と 思いやりは彼女にとって期待出来ない 事だった。後になって、彼女はその時に 無条件の愛の意味を理解したと気づい た。神は私達を完璧に愛されている。 罪の結果を知りながら、私達を聖なる 生活に召される。そして、私達が失敗 をしても、欠ける事なく愛し続けて下さ る。主イエスの血潮のゆえに赦される。 赦し続けて下さる。これが無条件の愛 である。
2001年10月23日(火) 『あなたがたが私を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び』(ヨハネ15:16)
『あなたがたが私を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び』(ヨハネ15:16)
ある人が庭に様々な木を植えていた。 実を育てていた。多くの木はよく実がな るが、一本の木は違った。それは毎年、 沢山の花を咲かせたが、花は実を結ぶ前 に落ちてしまった。その木が実をつけな いので切り倒して、その場所に他の木を 植えようと決めた。 イエスはその教えの中で、実を結ばない ぶどうの枝を切り取られる事、実を結ぶ 枝だがもっと多く実を結ぶように手入れ される事を語られ、麦の種がもっと多く の実を結ぶために地に蒔かれて死ななけ ればならない事や、実を約束したのに葉 だけを茂らせたいちじくの木についての 話をされた。よい地に落ちて百倍、六十 倍、三十倍の実を結んだ例え話を語られ た。イエスは、今日キリストに従う私達 が実を結ぶように期待されている。 あなたの内に他の人々はキリストの命を 見ることが出きるだろうか。
2001年10月22日(月) 『主よ。お話ください。しもべは聞いております』(Tサムエル3:9)
『主よ。お話ください。しもべは聞いております』(Tサムエル3:9)
長い間、日曜クリスチャンだったという 男性がいた。祈りは緊急用でしかなく、大 変に忙しい仕事に就いていて、僅かな祈る 時間も取れないと思っていた。 祈りは壁に向かう独り言に過ぎないと思っ ていた。ある時一つの家庭集会に出席し始 めた。その中で少しづつ祈りに慣れて来た 祈りを学び始め、家庭で祈るようになった だんだん祈りが喜びになって来た。 さらに教会の祈祷会や週末の壮年祈り会に も参加するようになった。 祈りは時に困難だ。けれど、祈りは必要で 且つ重要だ。 神に必要を求めたリ、願いを献げる事は大 事な事だ。神は「求めよ」と言われている また、それだけでなく、神に聞く事もわか るようになった。神の御前に心を静め、た だ聞こうと心を神に向かって開く。 それによって祈りを真の神との対話とされ る。心をひたすら静め、沈黙の内に神を待 ち望む時、神のささやきを聞く事ができる。
2001年10月21日(日) 「ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ」(マタイ26:7)
「ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ」(マタイ26:7)
香油は当時高価なものだった。特に、 若い女性は結婚の時のためにと、お 金があれば香油を買い、びんに香油 をためていた。女にとれば、非常に大 切なものだった。その貴重な物を喜ん で差し出した。私達にとっても、高価 な貴重なものを喜んで差し出す気持 ちがあるだろうか。一人一人その貴重 な、差し出すのに痛みを伴う石膏の つぼは異なる。しかし、誰にでもある。 それは金銭的に価値のある物ではな いかも知れない。それは才能かも知れ ない。又、自分の時間やプライバシー かも知れない。自分達の居心地の良 い居場所かも知れない。異質な人を 受け入れる事かも知れない。あなた の石膏のつぼには何が入っているか。 何であれ、そのつぼをイエスのために 砕く用意はあるか。献げ物とは犠牲 だ。痛みが伴う、あなたの一番大切 な貴重なものとは何だろう。
2001年10月20日(土) 「約束された方は真実な方ですから私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」(ヘルブ10:23)
「約束された方は真実な方ですから私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」(ヘルブ10:23)
クリスチャンはよく失敗して、恥ずかし い思いをする。打ちのめされて、落ち 込んでしまい、御言葉の真理や創造 主の素晴らしさを宣べ伝えるどころか、 自分がクリスチャンだという事実さえ 隠そうとする。否定的、消極的な思い に傾いて行く。詩篇の記者は多くの 箇所で神をほめたたえている。神と 良い関係にあったので、このお方に ついて黙っている事が出来なかった。 あなたはどんな状況の中でも、私は 主に従っている者だと表明するか。 それとも、恐れて沈黙するだろうか。 その恐れを神に告げよ。そして、救 い主である主の素晴らしさを証しで きるよう、神に求めよう。主を恥じな いよう真実を証しできるよう、勇気を 祈り求めよう。自分の力で証しは不 可能だ。皆、弱い。上よりの力が必 要だ。聖霊の力によってキリストの 証人とされる。聖霊の満たしを祈り 求めよう。黙っている事ができなく なる。
2001年10月19日(金) 「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)
現代は「ハウツーもの」がよく売れる 時代だ。 あらゆる物について「・・する方法」が溢 れ、氾濫している。「インターネットの やり方」「自動車運転の仕方」「ガーデ ニングの方法」「観葉植物の育て方」 「やせる方法」何でもある。しかし、 育児や夫婦愛や、死への備えや、そのよ うなものは簡単に見つからない。 ハウツーものでは、答えが得られず、ど うにもならない時の方法がある。 まず、キリストを信じているなら、主は 決してあなたを離れず捨てないと約束し ておられる。第二にキリストが神の右の 座に座り、執り成していて下さる事を忘 れるな。どんな時にも、主の執り成しの 祈りがある。第三に苦しみの時は主に迎 え、神はあなたの避け所であり力だ。 試練の時、神はすぐそばにいて、あなた の恐怖を落ち着け、沈めて下さる。 神の助けによって必ずどんな試練も乗り 越える事が出きる。 渡れそうに無い川が渡れ、超えられそう に無い山を超える事が出来、人に不可能 な事を神はされる。
2001年10月18日(木) 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、人の徳を養うのに役立つ言葉を話し、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、人の徳を養うのに役立つ言葉を話し、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)
建物や家が取り壊されるのを見た事 があるだろうか。老朽化した建物が壊 されて行くのは見る見る間だ。 あっという間にさら地になる。 古い家など建築時には多額の費用がか かった事だろう。壁が壊され、屋根が はぎ取られ柱が取りされれ、重機でど んどん破壊されて行く。 家の建築には相当な時間と労力がいっ た事だろう。しかし、壊すとなると、 あっという間だ。対人関係も同じだ。 人と人との関係を築くには時間がかか る。互いにコミュニケイションを取る 中で理解し合い、互いに自分を開けて 行く。努力する事で、自分を出して行 くことが出来る。しかし、長年かけて 大切に築き上げられた関係が崩れるの は一瞬だ。裏切りや嘘、愛の無い言葉 不真実、不誠実、それらで一瞬にして 崩れてしまう。それゆえ御言葉に従う 事は益であり守られる。 悪い言葉をいっさい出すな。 よい人間関係を保てる。
2001年10月17日(水) 「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと・・そのようなことを心に留めなさい」(ピリピ4:8)
「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと・・そのようなことを心に留めなさい」(ピリピ4:8)
一人の婦人がある時、空港まで家族 を送った。その時に、バス専用路線と 知らずに入り込んでしまった。車を止 め、バスの妨害になった。その時、バ スの運転手に乱暴な言葉で怒鳴られ た。帰路も、その荒々しい言葉に、心 が暗くなって行った。思い返しては暗く なっていて、ふと西空を見ると思わず 見とれるほどの素晴らしい夕焼けだ った。オレンシ、黄、朱、赤と息を飲む ほどだった。自然を創造し、支配して おられる神様を思い、心が引き上げ られた。神はすべて愛すべき事に心 を留めなさいと語られた。運転手の 乱暴な言葉から、思いが引き離され た。暗い否定的な消極的な思いに心 が捕らわれそうになる時、真実な事、 尊い事、正しい事に心を留める事を 教えられた。不満や怒り、思い煩い のために、尊い事、愛すべき事、正 しい事を台無しにしていないか。
2001年10月16日(火) 「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように」(申命記2:11)
「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように」(申命記2:11)
親鷲はひなをわざと巣から落とす。 ひなは真っ逆さまに落下する。地に打 ちつける前に、親鷲は、さっーと羽の 間に乗せて連れ帰す。 これを何度も繰り返す。やがて、ひな は羽を広げて、自分の力で飛ぶ事を学 ぶ。このひなのように人々はなじんだ 安全な古い巣から押し出されて、新し い道を学ぶ。ペテロは安定した漁師の 職業にあった。妻や家があった。 アンデレによってイエスを紹介された 時、仕事を捨てて、巣を出て新しい歩 みに踏み出した。パウロはダマスコ途 上で主と出会って、百八十度人生が変 わってしまった。御言葉と祈りによっ て、自己満足という巣から出るように 神は私達を促しておられる。 居心地のよい安全な巣から、飛び立つ ように主は導かれる。 信仰生活にそんな節目節目がある。 今の巣から出て新しい次の段階へ飛び 立つようにあなたは促されていないか。
2001年10月15日(月) 「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る」(箴言15:31)
「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る」(箴言15:31)
アメリカの政府要人がワシントンの 政府最高諮問機関の地位から辞職した。 どうして辞職しなければならなかった のか。彼は振り返ってこう言った。 「私は最初大統領のために働けるので ワクワクしていた。それが次第に私は 傲慢になり。権力にのぼせ上がり、規 則は自分には当てはまらないかのよう に錯覚してしまった」と。 辞職に至る数ヶ月、彼は友人の忠告も 妻の言う事も全く聞かなかった。 私達にも高慢の誘惑はいつでも来る。 訓戒を無視する者は自分の命をないが しろにし、叱責を聞き入れる者は思慮 を得る。 あなたの家族か友人があなたの過ちを 正すために忠告してくれていないか。 あなたは無視していないか。 高慢は言う「私は聞きたくない!」 知恵は言う「聞け。へりくだれ。 立ち止まって耳を傾け生きよ!崖っぷ ちだ!」叱責を聞こうとする態度は、 己中心な高慢に打ち勝ち、あなたをへ りくだらせる。叱責をを拒むなら、あ なたは、ますます高慢になる。
2001年10月14日(日) 「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」 (ルカ14:11)
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」 (ルカ14:11)
アメリカの西部に小さな大学があった。 経済的に大変な状態にあった。建物は 質素で、スタッフの給料は安かった。 ある時、一人の客がこの大学を訪問し て来た。壁をゴシゴシ洗っている男に 学長はどこにいるかと尋ねた。「昼には 自宅にいると思いますよ」とその男は答 えた。客は言われた通りにして学長に 会った。すると、何とそれは先ほど壁を 洗っていた同じ男だったのだ。その後、 一通の手紙と寄付金500万の小切手 が入っていた。学長のへりくだった仕え る精神と態度が訪問者に良い印象を 与えたのだ。必要に手を貸す学長を見 て心動かされたのだ。神はへりくだる者 を用いて下さる。救い主自らが、人と なってご自身の命まで与える事で手本 を見せられた。誰でも自分を低くする 者は高くされる。へりくだる者しか神は 用いられない。謙遜な者を用いて、ご 自分の計画を果たされる。
2001年10月13日(土) 「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを1日中待ち望んでいるのです」(詩編25:5)
「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを1日中待ち望んでいるのです」(詩編25:5)
ある婦人は、庭仕事の時間を 神と交わる時間にしていた。 外に出て、平和と静けさを楽 しむ時とされた。しばし、人々 や電話からも離れ、日常の目の 回るような忙しさから身を離し 神と交わる。それは静かな特別 な時だった。妨げるものは何も 無く、神に語る。両手は野菜を 摘んだり、雑草を抜いたり、花 の手入れをしたりしながら、祈 りの時となる。神に思いを集中 していると、神は語りかけられ る。色々な思い煩いや問題を神 に申し上げる。すると神から答 えが来る。思い煩いは去り、態 度が変えられ熱心が新たにされ る。かなりの仕事をして身体は 疲れているが、心は全く新たに されるのであった。あなたには 神と親しく交わる場所があるか。 ある会社員は会社の屋上で昼休 み、主と交わっている。静かに 静まって神に近づく場所と時を 持つ事は必要だ。
2001年10月12日(金) 「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実を持って愛そうではありませんか」(Tヨハネ3:18)
「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実を持って愛そうではありませんか」(Tヨハネ3:18)
今は主にある婦人、数十年前に結婚して 海外へ。その時、右も左もわからない彼女 をクリスチャン達が親切に生活に必要な様 々な事を助けてくれた。 親切が身に沁みて、お返しのつもりで教会 に通った。そんな動機だったのに、御言葉 がどんどん心に入り、通う内にキリストを 信じた。周囲のクリスチャン達の行いを伴 った愛のゆえだった。 ある人は、病気で伏せって動けない時、近 所のクリスチャンが食事を作りそばについ ていてくれた。それがきっかけで親しくな り教会へ行くようになった。 そして救われた。聖霊は逆境を用い霊的感 受性を強められる。キリストの愛を届ける きっかけになる。キ リストを伝えたい人のために祈り続けよう。 そして「行いと真実を持って」愛して行こう。 あなたが関わる事により、その人はあなた を動かしている背後にあるものを知るよう になる。まずは祈りを積み上げ、聖霊の導 きがあれば行動に移れ。
2001年10月11日(木) 「神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか」(詩篇77・9)
「神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか」(詩篇77・9)
祈る前に、壁に向かって祈っているよう に感じる事があるだろうか。 祈りが聞かれているように感じない事があ るか。宣教師や主の働き人達も、そのよう な経験をしている。神が御顔を見せて下さ らないと感じる時を経験している。 そんな時はどう捕らえればいいのか。 「私達のためにも祈って下さい」と御言葉 にあるように、自分の気持ちを話し、親し いクリスチャンまた、指導者に祈ってもら う事だ。次ぎに「主のみわざを思い起こし 考え」る事だ。「失望しないで祈り続けよ」 と言われる神に、信じて祈りを辞めないで 続ける事が大切だ。どんなに答えが無いよ うに感じても、祈り続ける事だ。 私達の神は奇跡の神、奇しいみわざを行わ れる神だ、御言葉を手がかりに、失望せず 決して諦めず祈り続けよう。 自分だけでなく、色々な神の人が同じ所を 通った事は慰めであり励ましだ。 いつまでもそのままではあり得ない。
2001年10月10日(水) 「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」 (コロサイ3:23)
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」 (コロサイ3:23)
ゴードン将軍は英雄であり、熱心 なクリスチャンであった。地位や名 誉には無関心で、神のみこころを 成し遂げる事にすべての情熱を傾 けていた。ゴードン将軍は大きな任 務だけでなく、人の目にも留まらない 小さな任務にも忠実に誠実に主に 仕えたいと願っていた。彼はこう言 っている「大きな国を治めるのも、 小さな国を治めるのも実際には同 じ事だ。なぜなら、キリストは国の 重要な事柄を支配されるように、 小さな事柄も支配されるのだから」 私達もゴードンのように物事の大 小に関わらずすべての事を主に対 して行なうべきだと思っているか。 これらの事を認識するなら、人目に つかない目立たない小さな場所、 小さな働きだという不満は消える。 人目には低く見える立場にいても、 すべての事を神の栄光のために する事ができる。あなたが仕える ようにと召された場所が、神が あなたに遣わされた場所。神によ る偉大な場所だ。
2001年10月09日(火) 「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」(ヨハネ4:8)
「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」(ヨハネ4:8)
イエスが井戸端でサマリヤの女性に出会 う対応の仕方は、個人伝道の模範だと言わ れている。まずサマリヤの女性にユダヤの 男性が話しかける事など、当時の社会背景 ではタブーであった。水を求めることはあ る意味で敬意を表すことであった。 主は彼女の罪深い生き方を非難できたが、 そうされなかった。私達はすぐに罪や欠点 を指摘し非難してしまう。 しかし、相手に敬意を表わす事が必要だ。 ある人がこんな経験をした。酔っ払いが電 車に乗り込んで来た。ヨロヨロとした足取 りで、わめきながら入って来た。 そして彼の隣に座った。自分のボトルをカ バンから取り出して、彼に一杯飲まないか と進めた。「いいえ、結構です。ところで あなたは、とても気前の良い方ですね」す ると酔っ払いの目は輝き、二人は話を始め た。命の水を下さる方の事を知った。 彼は後にキリストに生涯を献げた。証しし ようとする時、非難をするな。敬意を表せ
2001年10月08日(月) 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)
地球上のすべての人に等しく平 等に与えられているものがある。 それは時間だ。どの人にも、1日 に24時間与えられている。増や す事は出来ない。大事な事はこ の24時間をどう有効に使うかだ。 私達は食べたり飲んだり寝たり 働いたり、生活にどうしても必要 な時間がある。その残りの時間 をどのように使っているだろうか。 人との関係を育むために使って いるか。ある作家が友情を育て るために時間を使うほど、健康 に良い事は無いと言った。親し い友を持つ事は健康に良いと いう研究結果があるぐらいだ。 友情を深めるために時間を 費やす事が私達の健康のため にそれほど重要だとしたら、イエ スとの関係はどうだろう。イエス は弟子達に「わたしはあなたが たを友と呼んだ」と言われた。イ エスを救い主と信じているなら、 あなたにとって、他の誰にもまし て最良の友であるこのお方との 関係を深めるために、時間を取 っているか。育てるには時間が どうしても必要だ。
2001年10月06日(土) 「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル一二・一一)
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル一二・一一)
私達の人生の中で、様々な試練に会 う。その時に、私達は必ずその理由 を捜し出そうとする。なぜ、この事 が起ったのか。なぜ、神はこの事を 許されたのか。「なぜ」が心を大き く占める。人生の損失の理由を知ろ うと、もがくのだ。あるクリスチャ ン野球選手が癌で一命は取りとめた ものの、野球生命は断たれてしまっ た。彼の癌細胞は今後の癌研究に多 大に貢献するであろう事が明らかに なった。しかし、これは別に神の目 的ではない。一つの良い結果である かも知れないが、目的ではない。彼 は理由を捜して、もがく事でなく、 一つの明白な結果に目を留めている。 「私は以前は自分自身に拠り頼んで いたが、今は神に拠り頼んでいる」 これが最高の益なのかも知れない。 「なぜ」と理由を捜すよりも、試練 を通して、何よりも神の偉大な愛を 学べるように祈る方が良い。
2001年10月05日(金) 「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです」(ルカ10:42)
「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです」(ルカ10:42)
プランターの美しい花を見たり、山道に 可愛い野の花を見たり、庭に植えられた素 晴らしい花々を見る。しかし、種はどこに 蒔かれるかの選択ができない。石地に蒔か れるなら、水分を取れず苦しむか、通行人 に踏まれてしまう。もっと都合の良い場所 へ移動する力はない。 種とは異なり人は成長のための選択ができ る。毎回同じ説教を聞きある人はどんどん 成長し、ある人は全く成長が無い。 説教の問題ではない。成長する人は、聞い た御言葉を行う事を選択している。 従う事を選択している。成長しない人は従 う事を選ばない。あなたがもっと神を知り たいなら、聖書を読んで祈る時を作るべき だ。それなくして不可能だ。 時間が無いのではなく神との交わりを選択 していない。選択の問題だ。 常に神を第一に、神の御心を選び取って行 くならあなたは必ず成長する。目に見えて 成長して行く。選択の問題だ。
2001年10月04日(木) 「こうして、私たちは城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。民に働く気があったからである」「ネヘミヤ:6)
「こうして、私たちは城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。民に働く気があったからである」「ネヘミヤ:6)
あなたは神が不可能な仕事を命じられた ように感じるか。ネヘミヤを見てみよ。 ネヘミヤは城壁が崩れているのを見て、座 って泣き喪に服し天の神に祈った。 そして城壁の再建に着手した。ある人々は 祈るだけで始めようとしないが、彼は祈っ て始めた。毎日のように反対や嘲笑や敵意 に会った。敵は出来やしないと嘲笑しても ネヘミヤは祈り働き続けた。敵のサンバラ やトビヤは幾度も士気を挫こうとした。 しかし、彼は神に助けを求め働き続けた。 ネヘミヤは敵を阻止するためでなく、城壁 を建設するために召されたからだ。 神は普通の人々を用いて城壁を築かれる。 私達の人生の再建も命令される。 「崩れた城壁を再建せよ。仕事に取りかか れ」あなたの生活の崩れた城壁の箇所を示 される。建て直せと言われる。 祈りの祭壇か、崩れている隣人への証しか 奉仕への招きか、神の助けによって不可能 な仕事に立ち向かえる。
2001年10月03日(水) 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるうなことはありません」(ガラテヤ5:16)よ
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるうなことはありません」(ガラテヤ5:16)よ
その実によって、その人がどんな人 かがわかる。私達は周囲の人々を 元気づけているだろうか。それとも 疲れさせ、イライラさせ、落ち込ませ ているだろうか。それによって、自我 に生きているか、御霊によって生き ているかがわかる。肉によって、あ なたが生きて行くと、必ず周囲に害 毒をまき散らし、害して行く。御霊 によって生きていると、あなたも生き るし、周囲も生かして行く。私達の奉 仕が目立つものであっても、無かっ ても、あなたの心の王座にキリスト を迎え続ける事だ。あなたの心の王 座は自我か、キリストか。人々はあ なたの内にキリストを見い出せるか。 あなたが御霊によって生きている なら、人々はあなたの内にあるもの を知りたくて、説明を求めて来るだ ろう。あなたの手が、主のみこころを 行ない、あなたの足が主の道を歩み、 あなたの目が主イエスを見続け、 あなたの口から賛美が湧き上がる ように。あなたそのものがメッセー ジだ。
2001年10月02日(火) 「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」(Uコリント7:10)
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」(Uコリント7:10)
パウロはコリントの教会の罪を厳しく 指摘した。それを受けとめて、彼らは心 から悔い改めた。彼らの罪は赦され、 清算された。神のみこころに添って悲し んだからだ。多くのクリスチャンが赦さ れたと感じる事が出来ないでいる。 問題はここだ。クリスチャンが失敗した り、過失を犯した時、後悔する。 誰でも悔いる。しかし、単にその結果を 後悔しているだけの場合があるのだ。 周囲にも明らかになる失敗の結果が恥ず かしく、顔向けできないのだ。しかし、 結果だけを悔いるのは「世の悲しみ」だと 言われる。神の御前に神にたいして犯し た罪を告白し悔い改めなければならない。 それがない限り、罪の赦しも、罪赦され た喜びも持つことはない。許された喜び を持つ事が出来ないのは、悔い改めてい ないからだ。自分で後悔するだけでなく 神に告白せよ。真に罪許された喜びを知る。
2001年10月01日(月) 「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)
ローマ帝国で、多くの奴隷がいたが、彼らは 物とみなされていた。たまに、良い主人に恵ま れた奴隷もいたが、ほとんどはこき使われ、 働き続け、休みはなく何の権利も無かった。 しかし、キリスト者はそのような中でも尊厳を 持って仕事が出来た。なぜなら、真の主人であ るキリストのために働くからだ。キリストから 頂く賞賛のために一生懸命働くことができた。 私達はすべて最終的にはキリストのために働い ている。そして、かの日にあなたのしたすべて の仕事の賞賛を受けるのだ。 あなたの今している仕事を精一杯行え。 あなたの仕事は単調かも知れない。 あなたの上司は、あなたを正しく評価してくれ ないかもしれない。辞めたいと思っているかも しれない。しかし、あなたは主のために働いて いるのだ。最善を尽くせ。 「よい忠実なしもべだ。良くやった」と言われ るよう、日々の仕事に最善を尽くせ。
2001年10月07日(日) 「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです」(Tコリント3:11)
「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです」(Tコリント3:11)
パウロはコリントの教会に「あな たがたは、神の建物です」と書き 送った。彼が言ったのは、場所の 事ではなく、人々自身の事だ。 コリントの人達にその土台の上 にどのように建てるかについて よく考えるよう注意を促した。 クリスチャンである私達がその 土台の上に建てるものは、火に よって試される。その火は地獄の 火ではなく、明らかにされたものへ のさばきの火だ。「各人への働き は明瞭・・その日は火と共に現わ れ、この火がその力で各人の働 きの真価をためす」キリストを持 たない者はすべて罰を受ける。 しかし、すべてのクリスチャンは その働きをさばかれる。さばきの 火は、何が神の栄光を表わし、 何がそうでないのかを明らかに する。正しい教えと生活は、火で 試されても残る堅実なものだが、 それ以外のすべてのものは、火 の中に消えてしまう。あなたは 永遠のために建て上げているか。 報いを見上げて建て上げよう。