2010年01月31日(日)

「・・光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7

ある人が職場で辛い目にあった。上司が大変なワンマンで、上にはへつらい、部
下には横柄で、いつも怒鳴り、こき使って平気だった。日々、過度な要求を突き
付けられ、深夜帰宅の早朝出勤、余りのハードさに非常なストレスで、心身限界
に来ていた。

日毎の祈りと御言葉で何とか支えられていた。上司に過重勤務を訴えると、嫌味
を言われ、無視されるようになった。ストレスは高じて怒りが湧き、不満、過労
で、もう心が荒んで祈れなくなった。

御言葉も入らず、真っ暗な中で、もう何もどうにもならず、思わず助けを求めて、
主に叫んでいた。心の底からの叫びであった。御前に静まっていると、「他人を
さばくことによって、自分自身を罪に定めています」、御霊が心の中の罪を示さ
れた。

悪いのは上司、性格の悪い上司のせいで、自分は苦しいとしか思えなかったが、
心が辛くて苦しいのは、上司のせいでなく、実は「自分が」上司は裁いていたか
らだった。相手でなく自分の問題だ。

「さばくあなたが、同じことを行っている」だから、辛くて苦しかったのだ。上
司を罪に定めている、自分の同じ高慢が見せられた。それゆえ平安なく、心が辛
かった。裁き、怒り、憎む、自分の罪を心から悔い改めた。

その時、心が安堵と平安で満たされた。主との間が回復され、状況は同じだが、
自分の心に喜びが来た。相手でなく、自分の問題であった。

・・・・・・・・・・・・・・・
どう見ても、相手が悪いとしか見えない時、相手のせいで、自分は苦しいと思う。
しかし、自分に平安が無いのは、裁きや敵対心や、怒りのゆえだ。相手に隠れて
気づかない。ここに気づく時、平安が臨む。


2010年01月30日(土)

「ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた」T列王22:34

イスラエル王アハブは、ラモテ・ギルアデをアラムから取り返そうと、ユダ王ヨ
シャパテを誘った。ヨシャパテはアハブの申し出に乗り、主の言葉を聞くよう要
請した。

アハブは預言者400人を集め、伺いを立てると、彼らは、上って行くようにと口
を揃えて言った。しかし、預言者ミカヤは正反対の預言をした。アハブが悪霊に
惑わされている事、殺される事を告げた。

アハブとヨシャパテはアラムと戦う事になった。アハブは、自分は巧く逃れよう
と、ヨシャパテに王の服を着せ、自分は変装した。王を狙うであろうから、敵を
ごまかし、自分は助かろうとした。

しかし、アラム王の命令は、イスラエル王アハブだけを狙えというものだった。
ヨシャパテをイスラエル王と間違ったが、彼が祈った時、敵は彼を追うのを止め、
引き返した。神の関与だ。

そして一人の兵士が、「何げなく」放った矢が、何とまさしくアハブに刺さり、
彼は傷を負い死んだ。別に彼はアハブを殺そうとしたのではない。偶然は一つも
ない。神が関与し働かれた。

ミカヤの預言が成就した。神の完璧な支配を見る。人がどう画策しようと、神の
御心が成就する。厳粛な事だ。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはか
りごとだけが成る」

それゆえ、神に、人生も生活も自分自身も委ねよう。そうするなら、あなたへの
最善のご計画を一つ一つ成し遂げて下さる。そして、安んじておれる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
信仰者に偶然は無い。運命に、ほんろうされているのではない。又、サタンの意
のままにされているのでもない。神の御手の中にあり、一つ一つがご計画の中に
ある。意図があり目的がある。無駄な事は一つもされない。いつも平安でおれる。


2010年01月29日(金)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩編51:17

      

職場や学校の対人関係で悩んでいるだろうか。「あの人さえ変われば!」私の人
生は、安堵と喜びの天国になるのに。私の人生は何もかも変わるのに。必ず、嫌
な相手が、目の前に現れる。人生途上の「あいつ」だ。

対人関係が嫌で、職場を変わっても、行った先で、第二の「あいつ」が現れる。
又、ギクシャクする相手が出て来る。「相手が謝りさえすれば」「相手が変わり
さえすれば」こちらだって態度を変える気持ちはあるのに、と。

こちらから先に出る事はプライドが許さない。相手を変えよう、環境を変えよう
と、悪戦苦闘をするが、的が違うのだ。今も、あなたの「あいつ」が目の前にい
るだろうか。主の取り扱いと受け止めよう。

時に、嫌な相手に、自分自身の嫌な部分を見て、相手を否定している場合がある。
相手に見ているのは、嫌な自分自身だったりする。しかし、これらは自分の力で
は、どうにもならない。そのまま主のみもとへ行こう。

人を裁き、人を許せない自分、プライドが高く、それを捨てられない自分、これ
が私ですと認めよう。自分は何もどうにも出来ない事を、認めた時に、主が動か
れ、事をされる。

その時、相手ではなく、自分が変えられている事を発見する。辛く苦しかった心
が、平安と安堵で満たされる。解き放たれる。

・・・・・・・・・・・・・・・
どれだけ頑張っても、何をどうやっても、自分ではどうにもならない。無力であ
り、神様の御前に全面降伏、ギブアップする時に、奇跡を見る。自由にされ、解
放される。自らの徹底無力を教えるために、目の前に置いて下さっている。感謝
だ。


2010年01月28日(木)

「・・わたしの時はまだ来ていません」ヨハネ2:4



婚宴の席で、ぶどう酒が無くなった。当時の披露宴では、ぶどう酒は大きな役割を果たし、途中で無くなるなど、宴会はぶち壊しで、主催者の取り返しのつかない失態となる。

心配したマリヤが、主に「ぶどう酒がありません」と言った。主に言えば、何とかなるとの思いだったに違いない。しかし、主はマリヤの言う事によってではなく、御父の示し、御心によって動かれる。

「わたしの時はまだ」と言われたが、マリヤは「あの方が言われることを、何でもするように」と手伝い達に告げた。主が必ず最善をして下さると信じたゆえだ。我が息子だからでなく、キリストとして信頼した。

結果的に主は奇跡をされ、素晴らしい上質のぶどう酒を備えられた。信じるとは、自分で動かず、まず主にいっさいを任せることだ。「時」も主の御手の中だ。しばしば祈りの中でも、早く答えが欲しくて、早く早くと焦る。時を待てない。

待てないので、常に不安と焦り、思い煩いに襲われる。いつも欲求不満状態だ。これは委ねる事ができないところに原因がある。そのため、神の時を待てないで、自分で行動してしまう。

自分が良いと思う事を、自分の思いで、自分の時に行動する。肉で動いてしまう。そして失敗する。アブラハムが約束のイサクを待てないで、イシマエルを生み出してしまったように。信じるとは委ねること。主は、最善の時に、最善の事を必ずして下さる。主を待ち望もう。
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時を待てず、すぐに反応してしまうから無意味な傷を残してしまう事になる。神の時になれば、状況も人の心も美しく整えられる。それを信じて婚礼の席の手伝いの者達のように素直に水を汲もう。信じて待つ者だけが主の栄光を見る。


2010年01月27日(水)

「なぜ、このようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」使徒5:4



アナニヤとサッピラの間違いは、偽った事だった。ペテロは「企み」だと言った。ちょっと魔が差した、でき心ではなく、確信犯だった。その前にバルナバが畑を売って、皆の賞賛を受けたのを見て、自分達もそれを欲しがった。

しかし、バルナバや献げた人々には「信仰」があった。これを献げてしまって、もし、病気で働けなくなったら?その時は、主が、必ず与えて下さると信じていた。だから献げた。

だが、アナニヤとサッピラにはその信仰が無かった。恐れと不安で全部を献げるなど到底できなかった。大切な点はここだ。全部献げなくても構わない。一部なら一部で良い。決して「振り」をしない事だ。

信仰深い振り、霊的な振り、神を愛する振り、それが欺きだ。
「そこまでの信仰はありません」「献げられません」「一部です」と言う正直を、神は喜ばれる。

信仰薄いと正直に認める人に、神は信仰を与えて下さる。信仰がないと、自分の力と思いで生きて行くので、そこに神が働けない。アナニヤとサッピラは、主を信じながらも、自分の力で人生を歩んでいた。だから目に見える人の評価や評判を求めた。

「献げられない」「不安だ」「人が気になる」「人に認められたい」と主の前に正直に認めて行こう。その時、主に確かに触れ、自分が変えられて行く事を、必ず発見する。
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信仰生活が長くなると自分も何かしら持っている気になる。振りの自分に自分が欺かれてしまったら神様に頼ることも出来ない。神様の前では、いつもありのままの自分でいよう。


2010年01月26日(火)

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」民数記13:30



出エジプトを果たし、民が荒野をさまよっていた時に、主の命令により、モーセは、カナンの地を偵察するよう12人の斥候を遣わした。結果は二つに分かれた。10人は否定的見解だった。民は強大で、自分達はいなごのようで、攻め上れないと怯えた。

しかし、ヨシュアとカレブは、上って行って占領しようと、人々を励ました。民は、出エジプト時に、神の超自然の力を経験していた。カナンの地の約束も何度も聞いていた。しかし、斥候の言葉を聞いた時、神を信じる事が出来なかった。

12人は、全く同じ状況を見た。しかし、信仰の目で見るのと、肉の目で見るのとでは、こんなにも正反対の結論が出る。新しい事を始める時に、8割方はまず出来ない事から、計算を始めるそうだ。そして納得の行く説明がついてしまう。

人間は肯定的より、否定的考えの方が強く、放っておくと、必ず否定的方向へ進んでしまう。10人と民達は、神ではなく、状況しか見なかった。しかし、ヨシュアとカレブは、神を見て、神の約束を見た。

彼らに導かれた人々は約束の地へ入って行くが、不信仰に陥った民は皆、荒野で滅んだ。神は、「不可能」だと信じない人々と一緒に働く事が出来ない。私達の思考は否定的、悲観的に傾いてしまう。神の言葉に立ち、御言葉を握り、御言葉で判断して行く訓練が大切だ。あなたが見ているのは。御言葉か、状況か。
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思いの中にはいつも不安、恐れがあり紙一重で自分の見たいように見てしまう。それは危険だ。「必ずそれができるから」と言って下さっているのは全能の神だ。約束の御言葉を握り、不信仰と闘い勝利しよう。


2010年01月25日(月)

「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36



私たちの信仰生活で、思い通りにならない事をしばしば経験する。自分の思い通りにしたいのが、まさに肉であり、自我であり、生まれつきの性質だ。そこで心に葛藤が生じる。イラ立ちと、焦り、思い煩い、不安、恐れに襲われる。
反抗的になるか、又は落ち込む。

しかし、すべての事に神の時がある、一つ一つの事態を最高のタイミングで神が与えておられる。神は良いお方であり、子供たちに良いものを与えようと、待ち構えておられる。その事を堅く信じる時、忍耐が与えられる。

不安や思い煩いが、平安に変えられる。まず、自分が最善と思うタイミングと、神が最善と思われるタイミングが、しばしば異なる。私たちは先は全く見えない。
ほんの目先しか見えず、近視眼的にしか判断できない。

又、なかなか時が待てない。待つ事が難しい。願ったものは、すぐに欲しい、今すぐにだ。しかし、神は将来も、あなた自身をも、何もかも見通しておられる。思い通りに行かない時、神を信じてじっと待とう。

このような時に、人と比較する誘惑が来る。自分だけが取り残され、人がどんどん先に進んで行くように見える。羨んだり、妬んだりせず、神を見上げて、神の時をじっと待とう。神のもっとも美しい時に、神のタイミングに、あなたの待ち望む答えが来る。そして、結果的に更なる「忍耐」が培われている。
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強すぎる自分の思い、苦しい状況、それしか見えなければ沈んで行く。目に見えない神の時を黙って待とう。神が私を待たせておられるとの視点に立てた時、今ここでしか見えない恵みが見えてくる。


2010年01月24日(日)

「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」マタイ15:28

カナン人女性が主に助けを求めた。娘が悪霊につかれていた。彼女の求めは、切
迫したものであった。「ダビデの子よ」と求め、真剣に、必死に、叫び求めた。

この全身の叫びに、主は、答えて下さるはずでは、と私たちは思う。しかし、主
は「一言もお答えにならなかった」。無視のようであり、沈黙されたままだ。

しかし諦めず、叫んでついて来る女性に、弟子たちが、帰して欲しいと苦情を言
った。それに答えて、ご自分はイスラエルの羊に遣わされていると言われた。す
ると、女性は「ダビデの子」を、単に「主よ」と変えて、尚も助けを求めた。

カナン人の彼女はイスラエルではない。異邦人だ。「ダビデの子よ」と言う権利
は無い。彼女はへりくだって正しい位置に立った。すると、主は「子犬に投げて
やれない」と言われた。何と冷たい言葉に聞こえそうだが、そうではない。

実は、主は彼女が正しく求める事ができるように手助けをしておられた。女性は、
「その通りです」と認め、へりくだり、「しかしパンくずは頂けます」と求めた。
その時、娘は癒された。彼女は主のあわれみを信じたから、諦めなかった。

それは主への信仰だった。途中で怒ったり、ふて腐れたり、諦めたならどうだろ
う。彼女は一心にへりくだった。そして、一見、拒絶に対して、尚も主を信じて
迫った。あなたも今、信仰を試されているだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
主の一見冷淡と見える対応が、実は、正しい位置に導き、心底の求めを引き出し、
願いを叶えるためであった。極みまで愛して下さり、あわれんで下さり、自分は
不真実でも、どこまでも真実な主、その主ご自身を信頼して行きたい。


2010年01月23日(土)

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに・・した。すると彼のからだは元どおりになって・・きよくなった」U列王5:14

ナアマンは、らい病を癒してもらうために、エリシャを訪れた。しかし、将軍自
ら訪ねているのに、エリシャは会う事もせず、使いの者に伝言した。その扱いに、
ナアマンはプライドをひどく傷つけられた。

ましてや、うやうやしく手を置いて癒すのではなく、ヨルダン川で七回身を洗え
と。とても受け入れられない。それを聞いて、ダマスコにもっと良い川があると
怒った。ナアマンはひどく傷ついたからだ。

神はこのナアマンのプライドをご存じで、エリシャを通して、砕こうとされた。
自分はいっぱしと思い、人よりは上、かなりましと思い、自分の思いに神を従わ
せようとする態度は、ナアマンだけだろうか。

人間のプライドは、神の恵みと相容れるところが無い。神はナアマンに、真の救
いを、真の癒しを与えるがために、そのところをあえて通された。彼の高いプラ
イドが取り扱われる必要があった。

しもべ達がナアマンに進言した。難しい事を言われたなら、プライドが保てた。
しかし、余りにも単純で、又、人々の目にさらされる奇異な状況に、とてもプラ
イドが許さない。だが、とにかく言われる通りしてみたら、いかがなものかと。

ナアマンはその忠言に耳を傾け、プライドを捨てて従った。すると完全に癒され
た。あなたも今、トラブルや悩みの渦中にいるか。問題はプライドだろうか。そ
れを捨てて従う時、大きな祝福が待ち構えている。

・・・・・・・・・・・・・・・
神を捨て、自分が神になる事を選び取ったアダムとエバ。その根源がプライドで
あり、このプライドにほんろうされるなら、どうなるかわからない。「私を愛し、
私のためにご自身をお捨てになった」御子を覚え、主に従えますように。


2010年01月22日(金)

「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である」使徒7:33                

人が高慢にならないように、神は時に、人の計画を止められる。エジプトの王子
であったモーセは、40歳の時に、自分で計画し、虐げられている同胞を救おう
とした。しかし、エジプトの看守を殺してしまい。善をしようとしたのに、殺人
を犯してしまった。

そのために逃亡する事になる。ミデヤンの何もない荒野で、40年間、羊を飼う、
羊飼いの日々を送った。以前はこの世の栄華、地位、名誉のいっさいを手にして
いた。文武にたけ、脚光を浴び、あらゆる人脈を持ち、影響力があり、何の不自
由もなく、将来も約束されていた。

一転、無為とも思えるような、全く何もない荒野だ。スポットライトを浴びる事
も、かつての栄光も何もない。来る日も来る日も、羊を追い、それが40年だ。
モーセの心中はどんなものだったろう。

しかし、こここそが、神のモーセへの訓練、砕き、整えの場所であった。モーセ
はここで砕かれた。自分の計画でなく、神の計画に従えるように、神は着々と、
この荒野で事をなされた。造り変えておられた。

80歳になった時、神の時が来た。モーセを出エジプトの指導者として召し出さ
れた。「今、行け。民をエジプトから連れ出せ」と言われた時に、モーセは「私
は何者なのでしょう」と言った。以前の「自分が」「自分こそふさわしい」「自
分をおいて誰が」とのモーセは砕き尽くされ、へりくだった器に造り変えられた。

神は砕かれた器を、ご自身の働きのために用いられる。用いるために砕かれる。
痛い、辛い、苦しい状況にあるなら、神があなたを取り扱い、整えておられる。
実は大きな祝福だ。今いる場所は、神の聖なる地だ。信仰に立ち、受け止めよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
神の取り扱いが無ければ、どんなに高慢に、自己中心に、思いのまま歩み、尚且
つ気づきさえしない者だろう。放っておかれたなら、どうなってしまうかわから
ない。立ちはだかり、砕き、造り変えて下さるご愛に感謝しかない。


2010年01月21日(木)

「・・心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばはあなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21



私たちは、御言葉を聞く機会が与えられている。礼拝や学び会を通して、個人のデボーションや信仰書により、様々な機会に御言葉を聞くことができる。

種まきの例えによると、それらの蒔き手は、主ご自身であり、土地は私たちの心だ。耕された土地に、種が植わると、発芽し、生長し豊かな実がなる。耕された土地とは、自分の事として受け取り、従おうとの態度で聞く、素直な心だ。

種が、地中深く埋まり発芽する。御言葉が、私たちの心の奥深くに入る時、私たちは新たにされる。神は決して無理強いをされない。いっさい強要されない。
御言葉を受け入れるのは、私たちの自由意志だ。自由意志に委ねておられる。

結局のところ、御言葉に対する私たちの態度は、二つしかない。受け入れるか、拒むかだ。拒否は無視だけでなく、ぼや〜と流す事も入る。種が無い限り、実がなる事があり得ないように、御言葉が心に入らない限り、私たちが変わる事も、成長する事も、主を知る事もない。

何か漠然と漫然と成長するのでなく、御言葉を聞いて、行なう事によって成長する。そして、すきやくわで、私たちの心が砕かれる時こそ、心がが耕され、柔らかい素直な土壌にされる。

その時、御言葉が心に染み入るように入る。今までは良い言葉、教訓、格言に過ぎなかった御言葉が、力を持って臨んで来る、いのちの言葉となる。
土地の問題であり、心が耕される事は大きな恵みだ。御言葉が全く変わって聞こえる。

神がすきを入れて土地を耕される時、痛く苦しいが、これを通して初めて御言葉が真に心に臨み、染み渡り、救いとされる。
---------------
耕されていない心には、知識としての御言葉は記憶されても、種のように命あるものとして心の奥まで植わることはない。砕かれ貧しくされた心で御言葉を信仰を持って聞けるなら、痛みはなんと感謝な事か。


2010年01月20日(水)

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」ピリピ2:13



神は御心にかなった思いを心に授けて、「〜したい」「〜しよう」との思いを起こされる。だが、心に起きる思いがすべて神からのものではない。サタンも火矢を投げ込み、心に思いを吹き込む。自分から湧き上がって来る肉の思いもある。

では、どれが神からの思いなのか。見分けるためには、その思いについて、まずとにかく祈ることだ。自分で判断せず、まず祈りに持って行く。そして、その思いが、聖書全体の原則にかなっているかを見る。

どうであれ、御言葉に反する方向へ導かれる事は絶対に無い。目的のために手段を選ばないものも、神からではない。神は絶対に不正な方法で事をされない。神から出たものであれば、目的も手段も正しく導かれる。

それは人の徳を立て、霊的成長に役立つものか。御霊は、意味もなく人を傷つける事はされない。それをする事で誰かを傷つけるなら、それは御心ではない。又、御心の思いは、時を経ても変わらない。

気まぐれな肉の思いなら、気分次第でコロコロ変わるし、簡単に消えてしまう。特に重要な事柄であれば、よく時間をかけて祈ることだ。それではっきりしてくる。神の御心なら、その思いは変わらない。環境も沿って行く。

又、導き手に祈ってもらうと良い。御霊はひとつ、御心なら必ず一致があり、共に平安が与えられる。神からの志をしっかり受け取ったなら、即、従おう。神が成し就げられ、栄光を現される。
------------------
思いが来ても、その中には様々な不純な要素がある。すぐに計画し動きはじめようとせず、いったんその志を主に預けてみよう。そして正しく導かれ神様からの確信を土台とした力強い実践者となろう。


2010年01月19日(火)

「・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」ヨハネ21:22



有名な例え話がある。空を飛ぶ、走る、水泳、木登りを訓練する動物学校があった。うさぎは走りは得意、しかしどうやっても空を飛べないので、ひどく落ち込んだ。

リスは木登りは得意だが、はやり空が飛べない。劣等感にさいなまれ、すると、走りも自信が持てなくなった。鷲は空を飛ぶ事が大得意、しかし他の事はうまく出来ず、落ち込み、自分を責めていた。何とか速く走ろうと試みて、足を痛めてしまった。

アヒルは水泳が得意、しかし空を飛べないので鷲を羨み、妬み、自己嫌悪に陥った。滑稽だと笑えるが、同じ事をしていないだろうか。それぞれ造られ方が全く違っている。それぞれの良さ、得意分野がある。

それを他と比較し、他のようになろうとするなら、自分に与えられたものまで生かされないまま、自分を損ない終ってしまう。神は私たち皆を「違って」造られた。違っていて良いのだ。

比較するのでなく、自分に与えられた賜物を見い出し、与えられた場で、神のために使って行く時、のびのびと喜び楽しみの中で生きて行ける。その時、与えられた個性が120%見事に開花される。

周囲を見て落ち込んでいないか。比較すると必ず落ち込む。比較から優越感と劣等感が生じ、優越感も劣等感も同じもので、根は高慢だ。人を妬み羨むのは、自分に最善を与えて下さっている神を信じない事になる。
------------------
今の悦び、今の落ち込みが人との比較から来ているなら、変わらなければならない。神様の前の自分はどうだろうだけを問いなが与えられた御計画を信じ、それぞれの恵みにあずかって生きよう。


2010年01月18日(月)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです・・主の御霊のあるところには自由があります」Uコリント3:17

  

寒暖計は、気温を計って示す。暖かければ温度は高く、寒ければ低い。私達も寒暖計だろうか。周囲に反応して、生きているのだろうか。相手が優しければ、こちらも優しくなり、相手が冷淡であれば、こちらも冷たくなる。

相手に怒りをぶつけられると、更なる怒りで返す。相手の状態にそのまま反応してしまう。これなら相手にコントロールされていて、相手次第になる。自分がまるで無い。

更に、自分が怒るのは、相手が怒るからであり、怒る相手が悪いとなる。すべて人のせい、環境のせいにして生きて行く。主体性がどこにもない。責任を取る事もない。信仰とは正反対だ。

何があっても、どうなろうと、決して人のせいにせず、環境のせいにせず、神を信じて生きて行く。忍耐とは、人や環境のせいにせず、神を信じることだ。
神だけを見上げ、神が自分に良くして下さる事を、右にも左にもそれず堅く信じる。

試練のまっただ中で、事態をまっすぐに受け止めて、神を信じて行く、そうすれば成長を遂げた者とされると。周囲のせいにするなら、そこには不満と怒り、鬱屈しかない。他のせいにするのを止めると、不満の向かう先がないので止む。

それを神に向けるなら、何と心が変えられる事だろう。
人依存の屈折した生き方から解放される。自分が反応してるのは、状況と人か、それとも神だろうか。
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私達の行為の原動力は何だろう。安易に人を見て状況を見て、また自分自身の感情を見て決定しやすい弱さがある。だからいつも十字架の主に目を向け、落ち着いて祈ってみよう。必ず御霊に導かれ肉の束縛から解放される。


2010年01月17日(日)

「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ・・」ルカ8:18

ただ単に、御言葉をぼやっ〜と、聞いていればよいのでなく、聞き方に「注意せ
よ」と言われている。

イスラエルの民は皆、モーセから神の言葉を聞いていた。しかし、聞いた言葉が
「信仰に結びつけられ」なかったため、最後まで神を疑い、結局は不信仰によっ
て荒野で滅ぼされてしまった。

モーセは神の言葉を語った。聞く側に問題があった。信仰に結びつける事が大切
だ。種蒔きのたとえで、種は御言葉で、土地は心だ。道ばたに落ちた種は土が固
く、心に入らず、サタンが来て御言葉を奪い去った。

先入観や偏見があると御言葉が入らない。又、他人事として聞く態度だ。自分の
事として聞かないので、素通りする。まるで目の前で映画でも見ているように、
傍観者として聞いていないか。

御言葉は「自分に」向けられている言葉として受け取らない限り、無益だ。自分
の事として受け取る心が「良い地」だ。必ず豊かに結実する。

岩の上に落ちた種とは、喜んで御言葉を受け入れるが、根が無い。根を張るのは
地中だ。隠れた神との関係を培う事が大切だ。人目に見えない神との交わりの地
道な生活が根だ。それが無いと枯れてしまう。

いばらの中の種は、外部から伸びたいばらにふさがれた。外部のものによって生
長が妨げられる。世の様々な事柄に心が奪われ、いつしか神がおそろかになって
しまう。それは仕事や趣味など、全然罪ではない良いものかも知れない。良いも
のだけに気づかない。

自分はどんな「聞き方」をしているか、よく省みてみよう。御言葉を、愛して、
へりくだって、「従います」の態度で聞こう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「聞き方に注意せよ」と言われている。聞いている「つもり」で、右から左なら、
結実が無い。御言葉により自らを吟味し、示されている事に従おう。従う時に、
自分が変えられ、主を新たに知り、自分も恵まれ、周囲にも神の栄光を現して行
く。


2010年01月16日(土)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16

私たちの肉は、サタンもそこに働いて来て、御霊に従う事に、常に逆らう。神は
「いつも喜んでいなさい」と言われる。しかし、肉は「何でいつも喜べるのか。
今はいい。又良い事があれば喜べばいい」と言う。

「偽ってはならない」と神は言われ、肉は「少しの嘘の方がうまく収まる。これ
ぐらい誰でもしている。許されるさ」と言う。神は「隣人を愛しなさい」と言わ
れる。肉は「そんな事無理。自分は忙しい。自分の都合の良い時に愛せばよい。
好きな人だけ愛せばよい」と言う。

神は「兄弟が罪を犯したら、ふたりだけのところで責めなさい」と言われ、肉は
「とにかく誰かに話せ」と言う。「間違いは謝るように」と神は言われるが、
「ごめんなさい、だけは絶対に言いたくない。親切で、自分のとがめをチャラに
しよう」と肉は思う。

神は「自分で復讐するな」と言われ、肉は「何倍にもして仕返しせよ。スッとす
る」と言う。神は「不満があるなら、まず祈り、赦せ」と言われ、肉は「すぐに
言い返せ。スカッとする」と言う。御心を示されると肉は「面倒だ、したくな
い」と言う。

肉は、御霊の導きと正反対に向かう。神の栄光を損ない奪う。肉の願う事は御霊
に逆らい、御霊は肉に逆らう。この二つは互いに対立し、相容れない。肉の思い
は神に反抗し、服従しない。

「御霊によって歩みなさい」は命令だ。どちらかと言えば「歩んだ方が良い」の
でなく、「歩め」だ。肉が来る時、いつもその場で助けを求めて祈ろう。主が助
けて下さる。

・・・・・・・・・・・・
日常、意識も認識もせずに、肉の言いなりに流されてないだろうか。気づかない
まま、肉の言いなりになっていると、信仰人生最後まで、成長無く、自分が変え
られる事もなく、御霊の実を結ぶ事もない。御霊に従えるよう祈ろう。祈りから
始まる。気づきが与えられて行く。


2010年01月15日(金)

「『こどもたちよ。食べる物がありませんね。』彼らは答えた『はい。ありません』」ヨハネ21:5



人は、自分の姿にきちんと向き合わない限り、自分を変えて行くことはできない。岸辺で「食べる物がありませんね」という声がした時、弟子たちは「はい、ありません」と現実を認めた。

プロの漁師だったペテロ達が、ガリラヤに戻った時、再び網を取り、漁をした。ベテラン漁師であったに関わらず、何もとれなかった。
挫折感、屈辱感、空虚感があった事だろう。主を裏切ったペテロは心に深い痛手を負い、これならと自信のある漁をするが、一匹もとれない。

ありのままの徹底無力を認めた時、「舟の右側に網をおろしなさい」と声が聞こえて来た。まだ主だと認識していない。何だかわからないが、その声に従って、網をおろすと、何と驚くべき大漁だった。

網を引き上げられないほどの、おびただしい魚だった。ヨハネが以前の光景と全く同じである事に、主だと直感した。「主です」の声に、ペテロは湖に飛び込み、主のもとへ行った。

陸地に上がった時、炭火があり、魚とパンがあった。それを見た時、ペテロは、主を裏切った時の、あの炭火が脳裏に浮かんだだろうか。主は、合わせる顔のないペテロに、三度「わたしを愛しますか」と問われた。

「私の心を見て下さい、主はすべてご存じです」と答えた。
砕かれたペテロがそこにいた。主の愛は、そのペテロを見事に回復させた。
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本当の姿に向き合い認める時、神は貧しさから引き上げて下さる。現実から目を背け自力で這い上がろうとするのではなく、貧しい自分を認めてあずけよう。主の恵みは尽きない。


2010年01月14日(木)

「彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った」T列王19:4



エリヤがバアルの預言者達と戦って、天から火を降らせるという、驚くべき奇跡を成し遂げた後、非常なるストレスから、燃え尽き症候群のような状態に陥り、鬱となり、死にたいと願った。疲れ果てて、限界状態だった。

エリヤはこの危機にどのように導かれたのか。「死にたい」と言ったエリヤを、神は一言も責められない。これは何と大きな慰めだろう。私たちも程度の差はあれ、日常生活で、仕事に、育児に、対人関係に、時に疲れ果てる。

何もかもがしんどくなり、気力が失せ、もう天に帰りたいというほど、落ち込むかも知れない。しかし、そんな時、主はあわれみ深く、同情して下さっている。主はエリヤをとがめも、責めもせず、いたわり、休息を与え、食事をさせ、元気づけられた。

食べ、飲んで、眠らせられた。休息を与えられる。極度のストレスで、正常な思考も出来なければ、必要なものは休息だ。パンを食べ、水を飲んだ。主ご自身が命のパンであり、命の水であられる。

新たなる力を得て、エリヤはホレブ山まで歩いた。ほら穴でひきこもっていると、そこを出て、山の上に立ち、主の前に立てと示される。間違った思い込みを正し、主はエリヤに新たなる使命を与えられた。今、疲れているなら、その状態をよく理解し、思いやって下さる主のもとへ行こう。
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信仰を持っていても喜べず、疲れる時もある。どのような時にも神の恵みは私達と共にあるから、その状態にふさわしい慰めを主が下さる。寄りかかっていよう。


2010年01月13日(水)

「さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国へ帰りなさい」創世記31:13



神は、「あなたをこの地に連れ戻そう」というヤコブへの約束を成就された。しかし、その約束の成就に、1年や2年ではない、何と20年の歳月を要した。短い月日ではない。気が遠くなるほど長い年月だ。

私たちは、なかなか待てない。待つ事が苦手だ。しかし、神は早急にではなく、地道に、歳月をかけながら、こつこつと、私たちを導かれる。今の1日1日は、主に在って、練られきよめられ、造り変えられる途上にあり、1日も決して無駄な日は無いという事だ。

必ず時は満ちて、「神の時」は到来する。約束が、成就して行く時には、よく見ていると、予兆がある。状況が少しづつ変化して行く。ヤコブの周囲の状況も変化して行った。

ラバンの息子達が、父の物をみなヤコブが盗んだとの言い方をする。ラバンの態度も以前のようでなくなった。好意的でなくなり、このままなら争いが生じ、問題が起きそうだ。ヤコブへの対応が違って来て、微妙な空気を感じ取る。

そんな状況の中で、はっきりと主の御声が臨んだ。「あなたの先祖の国へ帰りなさい」「さあ立ってこの土地を出て、あなたの生まれた国へ帰りなさい」。今こそ約束の時が来た。

私たちも、状況の「変化」を見落とさないでいよう。そして、明確な神の御言葉が臨む時は、御心へと行動を起こすべき時だ。
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その時を信じつつ、神様に問いながら、神様から目を離さずに待っていよう。御言葉を通し、心が不思議と整えられ門は開かれる。自分の思いで目が曇らぬよう、よく見極めて行けますように。


2010年01月12日(火)

「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り・・この地に連れ帰そう」創世記28:15



ヤコブは兄エサウを騙し、兄の怒りを買い、逃亡する。独り、何も無い荒野で日が暮れた。先行きの不安や恐れ、寂しさや孤独感にさいなまれた事だろう。そんな窮地で、神に出会う。

「わたしが共にあり、どこへ行っても守り、この地に連れ戻す」との約束を得る。神はヤコブを握り、放さず、導かれる。叔父ラバンのもとに身を寄せるが、この叔父がしたたかであり、ここで訓練を受ける事になる。

ラバンに騙され、レアとラケルという二人の妻のために14年の労働を強いられ、更にラバンの群れを養うために6年間、20年の厳しい辛い労働をする。騙したヤコブは騙される事になる。苦く辛い訓練だ。

やがて神の時が来て、ラバンのもとを去る。故郷に帰るわけだが、自分のして来た事を思うと、エサウが恐ろしい。殺されるのでは。肉の知恵によって、あらゆる策を練り、対応するが、恐怖がどうにもならない。

ヤコブの問題は、兄との対面だけでなく、「人を押しのける者」という根本的な生来の性質、今に至った強固な自我、エゴ、自己中心という罪の問題であったろう。とうとう神が、ヤボクの渡しで、ヤコブを捕らえ、粉々に砕かれる。自分の足では立てず、杖に寄りかかった。

肉の策略と力で生きて来たヤコブが、神に拠りすがる者に変えられた。「あなたの名はもうヤコブと呼ばれないイスラエルだ」と。握った者を神は決して放されず、どこまでも追いかけ、導き、神の約束を成し遂げられる。
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神の約束には力があり神の私達に対する、愛とあわれみは尽きない事を、試練を通して身をもって知って行く。神の取り扱いは厳しいものかもしれないが、必ず変えられ祝福となる。



2010年01月11日(月)

「・・神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」創世記22:8



アブラハムは、25年間、神の約束を待って、イサクを得た。アブラハム100歳、サラ90歳の時だった。長い長い忍耐の末だ。しかし、スーパーマンでなく、彼らも私たちと同じ弱い人間であり、数々の失敗があった。

時を待ちきれずに、肉の手段で、イシマエルを産み出してしまった。しかし、ヘブル書によると、アブラハムは信仰の人として、名を連ね、賞賛を受けている。イサクを献げるという大きな試練が臨んだ時に、アブラハムは従順に従った。

その彼に神は「あなたがこのことをなし、あなたの子、ひとり子を惜しまなかったから、確かにあなたを大いに祝福し」と神から祝福を受けた。だが、25年も待った、目に入れても痛くない最愛の子だ。そして、このイサクから子孫が増え広がるはずだ。

この事はどうなるのか。イサクが途上で「いけにえの羊はどこに」と問うた時に、彼は「神が備えて下さる」と答えた。彼はこの事において神を全く信頼した。しかし、いけには無く、イサクをいけにえとし、刀を振り下ろす瞬間だった。

止められた。そこに代わりの羊があった。これは彼も知らなかった事だ。私たちも一歩先は見えず、明日の事も知らない。しかし、神は知っておられる。一歩一歩この神に信頼し委ねて歩む時、一生涯の間、「主の山の上に備えあり」を経験して行く。
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明日の事はわからなくても、神に信頼して歩む時、必ず「主の山に備えあり」を味わう。目に見える所は不安でいっぱいだろうが、神に頼り従って行こう。神の備えをはっきり知る。


2010年01月10日(日)

「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5

 

小さな子が、口の狭いキャンディボックスに手を入れ、飴を握りしめ、手が出な
いと泣き叫んでいる。飴を放すと、手が出るよと言うが、絶対に嫌だと放さず、
泣くばかり。滑稽な光景だが、私たちの霊的生活に似ている。

心がザラつき、悶々と辛く苦しいだろうか。その時は、何かを握りしめている。
憎しみや妬みか、裁く心か、思い通りにしたい事柄か。憎しみや妬みや裁きは、
相手でなく、自分が苦しい。必ず平安が無い。喜びが無い。

飴を手放すなら、ボックスから手が出て、自由になる。憎しみや妬みを手放す時、
心は解放され、喜びと平安が戻る。しかし、強烈な自我は、放すのが嫌だ。苦し
いのに、憎んでいたいし、妬んでいたい。罪の性質だ。

「出来ません」「したく無い者です」と自分の姿を認める事から始まる。ある人
が子供の難病を、どうしても受け入れられないでいた。なぜ?どうして?自分の
子が?と涙は溢れ、グルグル思いは回り、苦しみ、つぶやき、神に対して反抗し
続けている自分がいた。

同年齢の子供を見れば涙が出た。悶々の自分の心は苦しくてたまらず、とうとう
限界に達し、ギブアップした。もう行き詰まり、煮詰まり、降伏せざるを得ない
状態だった。自分自身も子供も将来も、不安も恐れも何もかもを、明け渡した。

その時、状況は全く変わらないのに、心に初めて深い安堵と平安が臨んだ。委ね
られないで握っているなら、まずその事を主に告げて、ありのままの心を祈る事
から始めよう。

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放したくないものに気づいているだろうか。偶像となり、太陽の前に置く10円
玉になってしまう。太陽が見えないように、神が見えない。渡したくありません
と、神に助けを求めて祈ろう。神が助け導かれ、奇跡をされる。


2010年01月09日(土)

「あなたの神、主を心に据えなさい・・あなたの先祖たちに誓った誓いを今日のとおり果たされるためである」申命記8:18

イサクとリベカに双子が生まれたが、生まれる前に「兄が弟に仕える」との御心
が示されていた。だが、イサクはエサウを偏愛し、リベカはヤコブを溺愛した。

主の御心にも関わらず、イサクはお気に入りのエサウを祝福しようとする。する
とリベカは夫イサクを欺いて、ヤコブに祝福が臨むように画策した。騙されたエ
サウは激怒し、ヤコブは身の危険に、逃亡。家庭崩壊であり、滅茶苦茶だ。

夫婦の間がおかしいし、兄弟間もおかしい。機能不全家族だ。ヤコブの家庭も同
様だ。ヤコブはヨセフを偏愛し、その結果、兄達はヨセフを激しく妬み、憎み、
ヨセフを異国へ売り飛ばすという、とんでもない行為に走る。

息子達は問題を起こし、二人の妻、レアとラケルは嫉妬し合い、ヤコブの家庭も
機能不全家族だ。家族が傷つけ合い、ぼろぼろだが、しかし、神は大きなご計画
のもと、彼らを導かれる。

「地上のすべての民族はあなたとあなたの子孫によって祝福される」とのアブラ
ハムに誓った誓いのゆえであり、神は何があろうとその誓い果たされる。苦難の
ヨセフがエジプトで総理大臣になり、一族を救う事となる。

パズルのようだ。人は罪を犯し、間違い、ガタガタな歩みをする。しかし、神は
何もかもを働かせて益とされる。万事が益と働いて行く、何という一方的な恵み
だろう。失敗しても挫折しても、しっかりとこの所に立ち見据えていよう。

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狡猾で、強欲で、騙してでも自分の利得を追い求めた、肉のヤコブ。しかし、砕
かれて、霊の人、神の人と変えられて行った。神は成し遂げられる。目の前の思
い通りにならない事こそが、自分を砕き、自分を変える。その視点で受け取ろう。


2010年01月08日(金)

「・・父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼をき、口づけした」ルカ15:20



放蕩三昧で帰宅した弟息子を、父親は喜び迎えて宴会を開いた。ここに兄が帰って来るが、この事態を耳にし、怒りで震えた。自分は今まで遊びもせず、我慢して、懸命に父のもとで働いて来た。

それを好き放題して、財産持ち崩して、遊びほうけて帰宅した弟のために宴会とは、一体どういう事か。納得が行かない。怒りがおさまらない。この世の価値観から見ると、兄の方が常識的に見えてしまう。

こんな父親がいたら、人は言うだろう。そんな甘い事でどうする。世の中は甘くない。もっと厳しく扱うべきだ。又、同じ事をするに決まっている。まず働かせてみて、本気かどうか確かめろ。それまで雇い人の方がよい。そうすべきだ。

弟も弟だ。家に入る前に、何か一言あるだろ。これが世の価値観だ。だから、兄の方に納得が行ってしまう。しかし、神の価値観は違った。父親は、息子がどうであれ、何をして来て、今どんな状態であれ、とことん受け入れた。

ぼろぼろで、打ちのめされた、そのままを受け入れた。又、弟息子だけでなく、怒り、反発する兄息子をも、全く責めも、とがめもしていない。兄息子も受け入れている。神の愛はこのようであり、神の私たちに対する愛はこういうことだと。

罪ばかり犯すどんなにダメ人間でも、打ちのめされて、ぼろぼろでも、徹底的に受け入れ、包み込んで下さっている。
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自分が罪ばかり犯す駄目人間だと思えない兄は、御父の側で暮らしていてもその愛もあわれみも、赦しも何も知れなかったのか。自分を兄の立場において、何と不公平な!と思ってしまう所に同じ傲慢さを示される。


2010年01月07日(木)

「わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」イザヤ55:9



信仰生活を長らく歩むと、一つの事に気づく。それは信仰人生は、自分の思い通りにはならないという事だ。本当に思い通りにならない。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる」の通りだ。しかし、肉の自分の思い通りより、遙かに素晴らしい、神の最善の道が用意されている。

念願の進路、進みたい学校や職場の道が閉ざされるなら、神の意志と受け止めよう。その所で、神のみ思いを尋ね、御心を求めよう。神は、あなたのために、遙かにふさわしい、良い道を備えて下さっている。結果的に、後になった時、それが最善だったと必ずわかる。

病気の癒しを祈って、与えられない時は、その病を受け入れて行く事を学ばされる。様々な難しい対人関係は、良き訓練だ。目の前の相手を、神が置かれている。周囲すべてが寛容で柔和な人々であれば、自分の本当の姿を知る事もない。摩擦が生じる相手、イライラする相手、ぶつかる相手が置かれる。

それらの人々により、自らの内にある短気、怒り、妬み、憎しみ、敵対心、高ぶり、プライドがあぶり出される。以前からあったものであり、自分の姿だ。それを逃げても、必ず第2の相手が現れる。自らが砕かれ、練られ、きよめられるためだ。自分が変えられる。
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目の前のすべての事に神を認めるなら、問題は自分の内にあるとわかる。感謝できない自分、受け入れられない自分、捨てきれない自分。思い通りに行かない時が変えられる時だ。神の最善を信じ安んじていよう。


2010年01月06日(水)

「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」伝道4:4 


       
ここでは、人間社会の様々な分野での成功は、人の心にある「妬み」を原動力に成し遂げられていると言っている。私たち人間の一番奥底に、「妬み」が存在する。これは誰しもに根深くある。

普段、私たちのしている事の「動機」は何だろう。数日間の事を考えても明らかだ。なぜ、あの行動をしたのか。あの言動の「動機」は?あの事、この事、それは何に突き動かされてしたのだろう。

競争相手への妬みか、勝ちたいとの競争心か、もし動機が妬みや競争心であれば、それは虚しい。見た目は、何かを成し遂げたとしても、何の実もなく、平安も喜びもない。風を、空をつかもうとするように虚しい。

ある人が思い立って奉仕をした。主のための奉仕であり、うまく出来て満足した。
しかし、心の深い所で何かが違う、平安がない。御霊は示された。主のためなどでなく、自分をアピールするため、自己顕示のためだったと。

自分が優りたい。心から悔い改め、平安が戻った。競争心は人の奥深く巣くい、普段、無意識なので気づかない。しかし、何かの時に必ずざらつくものが出て来る。

心照らして頂こう。人への妬みと競争心から何を成し遂げても、実が無い。人ではなく、絶えず神の御前で、神を見ていよう。神の自分への御心を求め、そこに歩もう。
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この世の結果だけを求める社会とは違い、必要も、することも神が、一つ一つ与え導いて下さる。そこには人もなく、自分さえもなく、ただ神の自分への御心だけが見える。妬みを覚える時、それに突き動かされるのは虚しい。


2010年01月05日(火)

「この事については、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」Uコリント12:8



時々、私たちの思いと、神のみ思いが大きく異なることがある。神は私たちに祈れと言われ、願えと言われる。祈りを喜んで下さる。しかし、祈りが聞かれるとは、自分の都合の良いようになる事ではない。

私たちは自分の思い通りにしたいとの、肉の思いが強くある。自分の思い通りに、祈りを叶えて欲しい。しばしば神のみ思いは異なる。例えば、私たちは、生まれつき動かない腕なら、腕が動くことが癒しであり、祈りの答えだと思ってしまう。

しかし、もし、腕が動かなくとも、生き生きとした喜びと平安、感謝に溢れた人生を送れるようにされる、それが答えであるかも知れない。祈りが聞かれるとは、自分の都合の良いようになる事ではない。障がいを負ったある人は、もし、このままの方が神の栄光が現れるなら、このままで良いです、御心のままにと祈った。

結局は、私たちの身体がどうであれ、私たちの目標は、神の栄光が現れることだ。パウロはトゲが取り去られるよう3度も祈ったが、主は、それがある方がより栄光が現れると言われた。

ある人はトゲが取り去られ、ある人は残される。どちらも結局は、神の栄光のためだ。
その人にとり、その方が神の栄光が現れる。私たちの「なぜ?なぜ?」と不満と愚痴の部分を今一度、御霊の光に照らして受け取り直そう。主の栄光のためではないだろうか。
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願っても叶えられない祈りなら、トゲを取り除く努力ばかりに捕らわれず、トゲを持ったままで主に頼り、主に全てをお任せし「恵みは十分です」と言えるよう祈りを変えてみてはどうだろうか。


2010年01月04日(月)

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」ヘブル10:35


私たち誰もが、大変苦手な事の一つが「待つ」事ではないだろうか。すぐ目に見える結果が欲しくて、すぐに手にしたくて、見たくて、なかなか待てない。待つことは難しい。

神からの祈りの答えを、よく信号に例えられる。青=はい、赤=いいえ、黄=待ちなさい、だ。青のゴーサインなら、確信持って前に進んで行ける。いろんな障害があったとしても、主が共におられるなら、信仰もって歩める。

又、赤のストップは、ノーの答えであり、その道は与えられていないとわかる。ノーが御心だ。自分の思いとどんなに違っても、神の御心は最善なので、受け入れて、それはそれで従って行ける。

しかし、黄色の「待て」は難しい。すぐでないのはわかるが、いつまで待つのか?待機がいつまで続くのか?待つ時間は、長く感じられる。このまま永久に待つのでは、と思えたりする。

ヨセフも待った。将来の祝福を告げられていたが、エジプトに売られるは、主人の妻により無実の罪で囚人となるは、献酌官長には忘れ去られるは、一体どうなっているのか?しかし、やがて、「神の時」が来た時に、ヨセフは牢から出され、総理大臣と任命され、一族の救いのために用いられた。

「神の時」は一分も違う事がない。時は神の御手の中に握られている。時を神に任せて待とう。
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約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐だと教えられている。待てとの導きがあるのなら確信を決して投げ捨てず待ち続けよう。待たされている時にも意味があり神様は共におられる。


2010年01月03日(日)

「すべての事について感謝しなさい」Tテサロニケ5:18


ある本にこんな箇所があった。サタンが倉庫を持っていて、そこに、今から人々の心に蒔こうとする「種」が種々置かれていた。一番大量にあった種が「失望」であった。この種が一番順調に育ちやすく、多くの実を結ばせるのだ。

この種が一番効率良く、たやすく、人々を神から離すことができる。強力な種だ。これを蒔きさえすれば、後は放っておいても順調に育つ。しかし、この種が一つの場所だけに何の効き目もない事を、サタンは認めた。幾ら蒔いても、効果があったためしがない。「それはどこの場所か」の問いに、「感謝する心」とサタンは答えた。

「失望、落胆」が信仰者にとって、一番の敵だ。心沈ませ、気力を奪ってしまえば、どうにも出来ない事をサタンは知っている。逆に「感謝」のある所、サタンも何もどうにも出来ない。

サタンの足場が無くなってしまう。良い事だけでなく、一見都合の悪い事も「すべての事について感謝」する事は力だ。一見都合の悪い事は、悪い事ではない。
そこから逆転、素晴らしい祝福に繋がっている。

ある人が苦しい状況にまず感謝して、感謝を続けた。すると「御心に従ったのに、なぜ?」「主は助けられるのに、なぜ?」の思いが消えた。状況はそのままだが、心に平安が臨んだ。

やがてその事態は導かれて行った。疑いやつぶやきの、サタンの罠にはまらず、感謝を選ぼう。これは選択だ。
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全ての事に感謝するとは、そこにいつも神様を認めているという事だ。何があっても感謝しなさいと言われている。「駄目だ、駄目だ」とサタンが蒔こうとする種を自分の心に入れてはいけない。


2010年01月02日(土)

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります」Tテモテ6:9



私たちは、神以外のものに目を向けていると、神が見えなくなる。太陽の前に10円玉を置くと、どうだろう。太陽が見えなくなってしまう。小さな10玉があの大きな太陽を、おおい隠してしまう。

その神の前に置いたものは、偶像となってしまう。ユダは、神の前にお金を置いたばかりに、神が全く見えなくなった。金持ちになりたがるなら、誘惑と罠に陥り、破滅と滅びへ向かう欲望に捕らえられる。

「金持ち」とは単に金銭ではない。地位、名誉欲、人から喝采を浴びたい欲、人の上に立ち、人を支配したい欲望だ。その欲望は、サタンの誘惑と罠に陥ると信仰から迷い出て破滅してしまう。

まず自分の内に強い欲望や偶像がないか、自分の内を御霊に探って頂こう。
そのままにしておくと、ユダでないが、命取りになってしまう。主のもとに行き、主に告白しよう。きよめられ、主がはっきりと見えて来る。

10円玉が除けられると太陽が見える。その時、神の御声が聞こえ、信仰に前進できる。ある人が、どうしてもぼんやりとしか神がわからなかった。祈りの中で、示された偶像を決心して献げた時に、自分が変えられたのがわかった。

偶像が神の手に渡った時、初めて今までよく聞こえなかった、神の御声がわかるようになった。
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神の前に置いているものを手放さない限り歩く道に安定を欠き、いつまで経っても力ない信仰生活のままだ。気づいた時、手放せるよう意志を向け祈って行こう。神が必要な力もそれに変わる祝福も必ず下さる。


2010年01月01日(金)

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12:2



新しい一年も、「主イエスから目を離さないで」いよう。
ペテロが湖の上を歩いた有名な箇所があるが、主の「来なさい」との御言葉を受け、その御言葉を信じて、一歩を踏み出した時に、湖の上を歩けた。
主のお言葉があれば、行けるとペテロは信じていた。まっすぐに主イエスだけを見て、御言葉に立っていた。

その時、奇跡が起きた。ところが、ふっと風を見て、主から目を離した途端に、ぶくぶくと沈み始めた。歩くも、沈むも、状況自体は全く同じだという事だ。

同じ湖の上で、何を見ているかで、歩けたり、沈んだりする。
これは状況の問題でなく、視点の問題だ。私達はとかく苦しい状況を変えようとする。状況が悪いのであり、それさえ変われば、幸せになれると思い込む。

しかし、そうではない。神の視点で、状況を見る時、どんな悲惨な状況でも、平安と感謝と喜びが来る。しかし、神から目を離し、自分視点で、状況を見た途端に、恐れと不安に真っ逆さまに落ちる。

試練にある人が、周囲の励ましを通して、神の自らへの愛を見る。と同時に、神から目を離した途端、皆は幸せそうで、自分だけが不幸せ、惨めになり落ち込む事もできる。

主から目を離してはならない。あらゆる事柄を、主中心に考えて、どんな時も「イエスから目を離さないで」いよう。目を離した時は、「主よ。助けて下さい」と叫ぼう。すぐに手を伸ばして下さる。
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新しい年を迎えられた事を心から感謝します。この一年も、一日一日、神様を仰ぎ見上げ御言葉のパンを頂き歩んで行きたいと思います。
目の前にある状況から、その背後におられる神様に目を転じるなら、そこに溢れるばかりの恵みを数える事ができる。