2010年02月28日(日)

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27




ヨハネの弟子は、今まで師のヨハネにあった、皆の関心と人気が主イエスに向か
った事をひどく妬んだ。しかし、ヨハネは違った。「人は天から与えられるので
なければ、何も受けることはできない」と、すべての主権が神にあることを認め
ていた。

神が与えて下さるものを受けるだけだと。他の人にもっと人気と関心が集まるな
ら、それも主のなさる事であり、自分がどうこう言う事ではない。ヨハネは自分
に与えられた場所、地位、立場、能力をわきまえ、すべてにおいて満足していた。

人は、もらい泣きはするが、もらい喜びはない、と言われる。人の悲しみに同情
する事はできても、それほど、人の喜びを共にする事は難しい。同僚が自分をお
いて、昇進して行く時、友人が入試に合格、自分は不合格、人が幸せそうにして
いる時、そんな時、嫉妬心が渦巻く。

比較の中に生きているからだ。比較すると、必ず優越感か劣等感に陥る。高慢か
ら来ていて、優越感も劣等感も同じものだ。劣等感があるから、優越感に浸りた
い。優越感のその底に劣等感がある。ぐるぐる回っているだけだ。

比較から妬みが生じる。弟子たちの姿は私たちの姿だ。ヨハネは天だけを見てい
た。「天」が鍵だ。だから満足と平安があった。横を見ている限り、あの人は、
この人は、とずっと比較の世界を放浪する。そこに全く平安はない。そこから解
放して下さる。

目を天に向けて、「行く所どこにおいても主を認め」よう。そうすれば道をまっ
すぐにされ、どんな中でも揺るがない平安がある。

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まず優越感や劣等感、妬みを主に告げよう。心を打ち明けて、自分の姿を認めよ
う。その時、信仰を与えて下さる。自分にも同じように、最善をして下さると信
じれるので、自分にも時適って良いものを下さると、楽しみに安んじている事が
できる。


2010年02月27日(土)

「御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました」Tコリント3:1

霊的に誕生した私たちも、身体の成長と同様、霊的に赤ん坊から大人へと成長し
て行く。幼子を肉に属する人、大人を御霊に属する人と言っている。救われてす
ぐは、誰しも皆、赤ん坊だ。乳飲み子であって当然で、養われ、育てられて行く。

背伸びする必要は全く無い。一歩一歩手を取って主が導いて下さる。しかし何十
年経ても、もし私たちがずっと身体的に赤ん坊のままならどうだろう。おかしな
事になる。同様に霊的にも幼子から少年、成人へと成長して行く事は正常な事だ。

幼子の特徴は、妬み、争いだと記されている。人の持つものを欲しがり、自分に
無いとすねて、ひがむ。腕力で自分のものにしようとする。自分のものにならな
いと、嫉妬し、嫉妬は憎しみへと増幅する。

又、幼子は自己中心だ。双方で自分の事しか考えられないなら、争いは必至だ。
喧嘩が当然の結果であり、トラブルメーカーになってしまう。幼子は愛される事
だけが関心事で、愛のメッセージだけを聞きたがり、痛い罪の指摘は聞きたくな
い。常に愛されている事の確認だけで、そこで止まっている。

大人は聖化される事、痛みは伴うが訓練、鍛錬され、自我が砕かれる事、自分に
死ぬ事、成長する事に目が向く。自らの弱さや罪を知る事は非常に痛いが、向き
合おうとする。そこからしか成長は無い。何年経っても、思い通りにならないな
ら、ひっくり返ってわめく幼子なら悲しい。

神の御心であり、神の喜ばれる事は私たちの成長だ。そして「成長させて下さる
のは神」だ。自分の何が問題で、どこが変わるべきか、神に聞いて行けるなら、
すでにみわざが始まっていて、神はその祈りに必ず答えて、一歩一歩導かれる。

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聞きたくない御言葉、痛い御言葉があるだろうか。聞きたくないという事は、自
分の心がそこに問題があると、薄々わかっているという事だ。そこを祈って行こ
う。解き放ち、平安にして下さる。状況や相手でなく、自分を変えて下さる。


2010年02月26日(金)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。しかしあなたがたは、これを望まなかった」イザヤ30:15



もし、不安や恐れに襲われたり、突然の事態で、パニックになりそうな時は、この御言葉に立とう。「立ち返って」、まず不安と恐れに飲み尽くされ、ほんろうされている時は、神視点から離れている。だから、まず神視点に立つことが大切だ。

自分の見方、この世の価値観でなく、神視点に立つこと、まず神に立ち返ることだ。「静かにすれば」何かが起こると、心が立ち騒いでしまう。「何とかしなければ」「どうしよう」心は騒ぎ、頭はどんどん巡り、方策を考える。

一刻も早く手を打たねば、早く、早くと焦る。平安はなく、心は重く苦しい。「静かにする」即、行動したり対処せず、何もしないで静まる。まず静まることが大切だ。「信頼する」、自分で動かず、方策を練らず、まず神に祈り、その事態をお委ねする。

そうすれば、「あなたがたは力を得る」。突如の事態が起こると、心騒ぎ、何かしなければと心急くが、まず、することは静まること。神の御前に祈りをもって委ねること。

「しかし、これを望まない」肉は、古い性質は、自分で何とかしようと、立ち騒ぎ、動き回り、失敗する。何度この失敗をした事だろう。まず静まって祈ろう。
ことごとく心を打ち広げ、御前にとどまる時、主からの御声が聞こえて来る。心に平安が臨み、事態を主が導かれる。
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神に目を向けまず静まり祈る時を持とう。まず動き回り人に走り、そして我に帰って祈る、この愚を繰り返さないよう毎日の生活の中で一人静かに神に交わり祈る時を大切にしていよう。


2010年02月25日(木)

「キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません」Uコリント2:10


日々、対人関係の中で生きている私たちに、様々な出来事が目の前で起きる。目の前で起きる事柄に、人を裁いたり、赦したりする。人を赦すことは難しく、ほとんどの場合、裁いてしまう。赦さない事、裁く事は、サタンの策略だと言っている。

サタンは、裁くように、〃誘惑する。サタンの策略だと認識していよう。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち・・悪霊に対するもの」私たちの戦う相手はサタンだ。

目の前に人への裁きと赦しの二つの道がある。裁いたらなら悔い改め、赦しへ向きを変えよう。出来ないから祈ろう。サタンはいつも私たちに働いて、怒り、妬み、憎しみ、敵対心・・と罪に誘惑して来る。

そしてそれらの根に「比較」がある。比較から、妬み、憎しみ、競争心が生まれる。相手と比較し、自分が下だと思うと、自分の価値が下がったと思い、劣等感から妬みが生じる。自分が上だと思うと優越感から傲慢になる。

比較すると、嫉妬か傲慢のどちらかの罪に陥る。今、妬みがあるなら、その底に「比較」がある。比較を捨てること、気づけるよう祈っていよう。赦せない心、裁く心は、相手ではなく自分が辛く、苦しい。自分で牢獄に入ることになる。そのまま明け渡す時、主がして下さる。
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クリスチャンは終生、血肉、人とは戦わない。自分の敵は自分の内ある肉とそれをあおって来るサタンの誘惑だ。人の出方次第でアップダウンしそうな時は、主のみことばに立てるよう主に叫ぼう。


2010年02月24日(水)

「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり・・」ヨハネ2:24



「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた」とあるが、人々が信じたのは、奇跡を見たゆえであった。奇跡は、信仰のきっかけの一つになるかも知れない。人間には不可能な、超自然のわざに驚き、神を認める。

しかし、奇跡自体にとどまっているなら、それは信仰ではない。イスラエルの民は出エジプトに際して、紅海横断という後にも先にも無い、偉大な奇跡を見た。しかし、荒野に入った途端、不平不満愚痴の不信仰に陥り、果ては偶像礼拝だ。

主は五千人の給食の奇跡をされた後、群衆に「しるしを見たからでなく、パンを食べて満腹したから」ついて来ると言われた。パンのために=自分の願望を叶えて貰うためにだ。

自らの願望が満たされ、自分の思い通り、主が便利である間はついて行くが、願望が叶えられなくなった途端、失望し必ず離れ去る。ついて行く理由が無い。「しるしを見て、御名を信じた」の「信じた」と「ご自身を彼らにお任せにならなかった」の「任せる」は同じ言葉だ。

主を信じ、身まで任せると言っても、主を利用できる間だけの事だ。利用価値が失せ、都合が悪くなると、離れ去る。土の薄い岩地のようだ。芽が出るが、固い自我に阻まれ根差さないので、不都合が起きると枯れる。都合良かろうと悪かろうと、神が神であられるゆえに、礼拝して生きて行く。この恵みにとどまれるよ
う。
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信仰がないのに奇跡を見ても主に従えない。パンで満腹し病が癒されたから・・の感情が基準ではない。神が神であられるがゆえ歩みは遅くとも主に従って行けるし、また主も決して見放されない。


2010年02月23日(火)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3


私たちは、色々な計画を立てる。目先の計画から、人生プランまで様々だ。財を築くこと、出世すること、幸せな家庭を築くこと、趣味を充実させる事・・財を築く事も、仕事で精一杯努力する事も、名を上げる事も、全く悪いことではない。

一生懸命労する事は良いことだ。大切な事は、それらに突き進ませている、心の内側の「動機」だ。なんで財を蓄えるのか?なんで仕事に邁進するのか?私たちの動機はとても大切である。今、立てようとしている計画の動機をよく探ってみよう。

「自分の行ないがことごとく純粋だと思う」が、「主は人のたましいの値うちをはかられる」。動機を見ておられる。慈善や、奉仕の計画の動機はどうか。自分を喜ばせるためか。自己満足、自己実現、虚栄心、プライド、人からの評価、賞賛、それとも神をお喜ばせするためか。

主に心探って頂こう。そして、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ」だ。一旦握りしめたプランは、誰が何と言おうと固執して放さないだろうか。どうしても通そうとする、そこに自我はないか。プランと自我が一つになっている。

又、自分でしようとすると、思い通りにならないため、思い煩い、不安、イラ立ち、焦りで平安が失せる。そのプランをまず主に渡すなら、「あなたの計画はゆるがない」。主が成し遂げらる。
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人の思いは不完全で良いもの悪いもので混乱している。強い目的があればなおさら主の前に自らの心の内を尋ねて行かなければならない。計画の前であれ、途上であれ、正しく導き返して下さる主に聞こう。


2010年02月22日(月)

「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです」マタイ8:25


漁師だった弟子たちは、舟の舵取りなどお手のものだった。毎日毎日漁に出ているわけで、たやすい事であった。湖を渡る時も、別に自分たちの力で、ゆうに向こう岸に渡れると思っていただろう。しかし、嵐に会い、四苦八苦し、自力ではどうにもならない状況に直面し、初めて主に助けを求めた。

それまで主の助けを必要とせず、自分たちの力だけで、間に合ったのだ。どうにもこうにもならない自分たちの限界と無力を認めて、「主よ。助けて下さい」と求めた。すると主は起き上がって、風と湖をしかりつけられた。

その時、舟が沈没しかけの暴風雨がピタリと止んだ。彼らは嵐に会って、パニックで、自分たちの長年の漁師としての経験も、自負も何の役にも立たなかった。「助けて下さい」の求めにより、主は起き上がって、奇跡をなし、救って下さった。

私たちも人生の嵐に会う。懸命に舟をこぎ、自分で何とかしようとして、パニックになる。対人関係の悩み、経済的苦境、別離、仕事のトラブル、健康上の問題・・自分の力で解決しようとして、もがいていないか。どうしても委ねられない、明け渡せない部分が見えて来る。

自分には出来ないことを認め、「主よ。助けて下さい」と自分の人生の舵取りを主に渡すことだ。その時、心に平安が臨む。心の悶々、不安、煩い、恐れが消えて、心がなぎになる。
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主よ助けて下さいと一日に何度言っているだろうか。いつものやり方、いつもの習慣でやりくりして行けるなら、どこに信仰が増し加わる事があるだろう。主と共に生きている全き平安、喜び、感謝を知って生きる者にされるため主は風を送られる。


2010年02月21日(日)

「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」エペソ5:17


神には私たちへの御心をお持ちだ。それゆえ、求める者に御心を教えて下さる。
人生での重大な決断には、必ず御心を求めるべきだ。求める時に、まず一番大切
なことは、右でも左でも、従いますとの明け渡しだ。

よく自分の心はすでに決まっていて、神からの承諾印が欲しい。それなら自分を
正当化するために御心を持ち出す事になる。又、人は自分にとって都合の良い事
を御心にしてしまうので、まず意志を明け渡す事は重要だ。

そうする時、必ず示して下さる。そして、次に御心を求めるために、自己吟味が
必要だ。時間を聖別し、主の御前に心を開き、御霊の導きに故意に拒否している
事、なおざりにしている事、自分の内側をよく照らされて、罪は悔い改めること
だ。

自分のしようとする事が、御言葉に反しないか。周囲の人のつまづきとならない
か。主の栄光が現れるか。心に平安があるか。又、自分のためによく祈ってくれ
ている人の同意があるか。御心は一つなので、御心なら周囲の人にも平安があり、
一致がある。

不安があるなら、進まずに、まだ時間をかけて祈った方がよい。神が必ずその不
安を取り除き、平安に変えて下さる。御心だが、神の時がまだ満ちていない事が
ある。御言葉が与えられ、祈りにおいて平安があり、環境が開かれており、周囲
にも一致があるなら、信仰持って前進すべきだ。ゴーサインだ。

・・・・・・・・・・・・・・
愚かにならないで=光に目を閉じずに、避けずに、自分の心の状態を御言葉通し
て、御霊に照らして頂こう。主は私に何を望んでおられるのか、人生を、この一
日を大切に歩むために、主に喜ばれる選択を、主との交わりにより祈り求めよう。


2010年02月20日(土)

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」詩編62:8


ある人が、対人関係で、悪意ある批判を受け、非常に傷つき、腹が立った。怒り
が湧いて来る。思いが行き交う。気にするな、気にするな、と言う自分がいる。

まあ神様ご存じだし、いいや、と思う。一方、こんな理不尽な事があっていいの
か。面と向かって、一言言わないと絶対に気がすまない。一言ガツンと言うべき
だと言う自分がいる。

どれがどうなのか、どうして良いかわからない。心は何だか苦しく、悶々状態で
帰宅し、祈ろうと御前に静まった。そして、自分の気持ちをあるがまま、主に告
げた。心の内を打ち広げ、主に従いたいと、祈っていた。すると、ふっと心の中
に「悪をもって悪に報いず」との御言葉が浮かんで来る。

「侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を
受け継ぐために召されたのです」。聖書を読もうと開くと「あなたがたを迫害す
る者を祝福しなさい。祝福すべきであってのろってはいけません」「だれに対し
てでも、悪に悪を報いることをせず・・すべての人と平和を保ちなさい」「悪に負
けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」

本当にその通りだと思う。次々と語りかけられ、臨んで来る御言葉によって、あ
んなにいきりたっていた心が、不思議だが、穏やかにされた。何度も何度も御言
葉を反すうしていると、すっかり平安になってしまった。
自分の至らなさも反省でき、このように学べた事を感謝できた。あなたの、その
悶々をそのまま、主の御前に注ぎ出そう。

・・・・・・・・・・・・・・
自分で自分の気持ちを何とかしようとせず。まず、主にありのままを告げよう。
感情の嵐を自分でおさめるのでなく、主が「黙れ、静まれ」と言って下さる時、
なぎになる。御言葉を心深く受け入れる時、奇跡が起きる。まず主に思いと感情
を持って行こう。


2010年02月19日(金)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」Uコリント7:10



パウロは「後悔」と「悔い改め」とを区別している。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが・・」の「悔いのない」は後悔のない事だ。

「後悔」と「悔い改め」はどこが違うのか。まず焦点が違う。「後悔」の焦点は自分だが、「悔い改め」の焦点は神だ。「後悔」は自分に焦点が合っていて、「自分」に向いている。自分の罪で、自分の面目を失い、体裁悪く、体面を汚してしまった。どうしてあんな事をしたのか。しなければ良かった・・。

後ろを見るばかりで、又、ただひたすら、関心は「自分」の事だけだ。人にどう思われるか、人の目が気になり、世間体が気になる。そこにあるのはただ自分だけで、神は無い。

「悔い改め」は、目が神に向く。自分の過失を悔いるだけでなく、自分の失敗が、神の栄光を傷つけ、相手を傷つけたことを悲しむ。神に対する罪である事を認め、告白し、赦しを求める。悔い改めは、全き赦しを得、必ず新たなる前進がある。
面目や体裁などいっさい眼中に無い、ただ自分の罪が見えるばかりだ。

神は悔い改める時、やり直させて下さる。私たちは何度失敗しても、再び立ち上がり、やり直せる。7度を70倍にするまで赦せと、ペテロに言われた主は、私たちに同じ事をして下さる。何度でも赦して下さる。
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神様が赦して下さったとしっかり受け取れるからこそ同じ罪はもう繰り返したくないと思い新しい力もまた与えられる。弱さや醜さを責め訴えて来るサタンの声を自分のものとせず「でも赦された、もう悔い改めた」と聞き流して行こう。


2010年02月18日(木)

「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ」エレミヤ29:7 

                         
エレミヤの時代、イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされ捕虜として連行され、しかし、そのアッシリヤは、バビロンによって滅ぼされた。バビロンはどんどん侵攻し、国々は滅ぼされ、とうとうユダ王国も、バビロンに捕囚の身となった。

当時のユダは神から離れ、民は偶像礼拝に走り、堕落していた。預言者たちは、耳ざわりの良い、心地良い言葉だけを語り、平安が無いのに「平安、平安」と。
しかし、神の人であるエレミヤは真っ直ぐに語った。そのため苦しめられた。バビロン捕囚のさ中、真っ暗な中で、エレミヤは神の言葉を語った。

それは、「災い」としか見えないが、「平安・将来・希望」のためのものと。すぐに解放にはならないので、その地で落ち着いて、腰を据えて生活せよと、そして、敵であるその町の繁栄を祈れと。それは自分達の繁栄になると。

私たちも苦悩の時、一番欲しい言葉は「即、問題解決」「即、悩みから解放」だ。しかし、口先だけの励ましは、更に傷が深くなる。かせのような、思い通りでない現状を受け入れる時、その中で神からの支え、励ましにより生きて行けるという事だ。

現実をしっかり受け入れる事が大切だ。いつまでもそのままではなく、「70年の満ちる頃・・あなたがたを帰らせる」。現状を受け入れて、その中で神に従って行こう。そこに「平安」が約束されている。そして神の時に、解放して下さる。
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災いには必ず目的がある。背後にある神様の御手を信じられるなら、辛い生活の中にあっても心はしっかりと守られる。今、置かれている場所から精一杯の感謝を神様に献げよう。


2010年02月17日(水)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩編119:71


この世には様々な苦しみがある。経済的困窮であったり、対人関係で悩んだり、健康上の問題であったり、又、不正がまかり通り、正直に生きて苦しむ事もある。一方的に被害をこうむる事もあり、理不尽を感じたりする。

そんな時、なぜこんな苦しみが私に?と悩み、なぜ?どうして?と考えてしまう。聖書から「苦しみ」の意味を見い出せる。まず、罪の結果としての苦しみがある。

ダビデはバテシバとの姦淫とウリヤ殺害の罪を犯して、悔い改めず、隠していた期間、悶々の苦しみを通った。「1日中うめいて、骨々は疲れ果て、骨髄は夏のひでりでかわききった」次に、罪とは関係の無い苦しみがある。

神から「試練」として送られて来るものであり、神からの訓練だ。「愛する者を懲らしめ」愛ゆえの鍛錬だ。罪の結果ではない。そのところで悩む必要はない。この時は真正面から試練として受け入れる事が、祝福の秘訣だ。

「試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」必ず一段階成長させて下さる。又、時には理由がわからない苦しみもある。しかし神は無駄な事は一つもされない。耐えられない試練は一つもなく、脱出の道も備えられている。

患難は忍耐を生み、忍耐は品性を、品性は希望を生み出す。今、試練にあるなら、必ず「苦しみに会ったことは幸せでした」と言えるようになるので、先の祝福を覚え、忍耐して行こう。
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苦しい状況だけを見ていると早く解放されたいと思う。刈り取りの苦しみ、刈り込みの苦しみ、それぞれの苦しみや試練を通ることで何を学ばされているのだろう。試練を送られている神から離れずしっかりそれを受けとめよう。


2010年02月16日(火)

「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った」使徒16:6



私たちは人生の大切な進路や、また、日常の信仰生活の些細な事でも、どの道を選べば良いのか、わからなくなる事がある。私たちには、未来はいっさい見えず、少し先の事すら見えない。

先が全く予測できないので、不安や恐れを感じる。しかし、主は共におられるので、必ず私たちの進むべき道を示し、導いて下さる。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」とあるように、つまり神の子どもは、御霊が導かれるということだ。

パウロはアジアで宣教しようと考えた。しかし、御霊はこれを止められ、マケドニヤへ行くよう導かれた。この間、パウロは状況を見つつ、祈った事だろう。その祈りの中で「神が私たちを招いて・・確信した」の通り、「確信」が与えられた。更に大きな御心があり、神はヨーロッパ宣教へと導かれた。

私たちもここで学ぶ事ができる。状況的に目の前の門が閉ざされたなら、導きが別の方向にあるという事だ。まずよくよく祈ろう。自分の思いを明け渡し、祈るなら、目の前に御心の門が開かれる。そこで尚も祈り「確信」が来たなら、その道へ進もう。

不安があるなら、急がずに、平安が与えられるまで待ち、祈り続けた方がよい。平安による確信が来たなら「ただちに」行動しよう。又、目前で門が閉じられた場合も、別の更に大きな御心の道がある。
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計画通りに事が運ばない時は、何度でも導きを祈り求めてみよう。それは神が閉ざされていると捉え直す道かもしれない。日常の些細な選択にも御霊の導きがある。主の導きのままに今日を歩もう。


2010年02月15日(月)

「あなたは自分の心を神の心のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない」エゼキエル28:2



私たちの信仰生活から、平安と喜びを奪うのが、プライドという罪だ。隠れているのでわからないし、気づかない。種々の問題の根にプライドがある。

エデンの園で、アダムとエバは、サタンに誘惑されたが、その誘惑はプライドに触れて来た。それを食べると、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになると、神は知っている。神はそれが嫌なのだとのニュアンスだ。

何で、神に言われなきゃならない?命令されなくてはならない?サタンは挑んで来た。あなたが神になれば?神になど命令されずに、自分の事は自分で決めたらよい。プライドだ。プライドは人の上に立ちたい、支配したい。自分が上でないと気が済まない。

サウルは、女たちが歌った言葉に、プライドがひどく傷ついた。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」「サウルは千を打ち」だけなら良かった。何もどうもなかった。「ダビデは万」が入ったことで、比較となり、自分が一番でない事に、自分が劣ることに、まして女たちに、それも笑いながら言われた事に、激高
した。プライドが赦さない。妬みは激しい憎悪となり、実際に殺害行動へと発展して行く。

あなたの怒り、妬み、憎しみ・・よく心を御霊に照らされるなら「プライド」へと行き着く。根にプライドの問題がある。まず自分の姿を知る事が平安への一歩だ。それを認めて悔い改める時、自由にされる。
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あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせ・・わたしはあなたを地上の灰とした。と続いて記されている。私達の中に高慢な自我が強く生きている。何に満足しているのかを神様によく示されますように。


2010年02月14日(日)

「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ・・いと高き方のようになろう」イザヤ14:13                    

私たちは、皆、主によって罪が赦された。しかし、まだ肉の性質があり、主に拠
り頼まなければ、肉は罪を犯してしまう。血潮により罪赦されているが、今後い
っさい罪を犯さなくなるわけではない。

私たちの犯す罪の内、最たるものは何だろう。ある著者は、その罪を私たちが他
人の中に見つけるなら、非常なる嫌悪感を持つが、その同じ罪が自分の中にある
と気づく人はほとんどないと言っている。

その罪とは、高ぶり、プライドといったものだ。明けの明星が天から落ちたのは、
この高ぶりだった。高慢はサタンの最たる特徴だ。アダムとエバが犯した罪も
「あなたがたは神のようになり」という高慢だ。カインはアベルの献げ物だけが
受け入れられた事に嫉妬し、弟を殺害した。プライドが傷ついたためだ。

人々が「天に届く塔を建て、名をあげよう」とバベルの塔を建てたのも高慢のゆ
えだ。サウルがダビデをつけ狙ったのも、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打
った」との女達の言葉がプライドに突き刺さった。

プライドは神を愛する事の対極にある。プライドは自らを高め、自らを神とし、
人より上でなければ気が済まない。自らの破れた状態を知り、無力を認め、へり
くだり、ただ神の愛ゆえに今ある事を知る人は、神を「愛して」行く。「プライ
ド」と「愛」は、決して相容れないものだ。

・・・・・・・・・・・・・・
プライドでしか生きる事の出来ない者を、まず主が愛して下さった。ご自身を卑
しくし、死にまで、十字架の死にまで従い、贖って下さったご愛、自分を捨てら
れない者のために「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子」を
じっと見つめよう。


2010年02月13日(土)

「その人は・・ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもののつがいがはずれた」創世記32:25


ヤコブは、押しのける者との意であり、自我が強く、自分の思いを押し通す者で
あった。父と兄を騙し、祝福を横取りして、逃亡。叔父宅に身を寄せる。

更にしたたかな叔父ラバンに、結婚の事で騙され、姉を妹と騙された。かつて弟
を兄と騙した事が思われたろう。蒔いたものは必ず刈り取る。ラバンの下で辛い
苦しい訓練を受ける。

しかし尚も巧みに家畜を増し、財産を増やす。段々叔父の態度も変化し、おりず
らくなった頃、神から故郷へ帰るようにとの示しを受ける。20年の歳月が流れ
ていた。帰郷となると、兄に会わねばならない。

兄の怒りが恐い。殺されるので逃亡したわけで恐怖だ。何と四百人を引き連れて、
こちらに向かっていると言う。皆殺しにされる、最悪のシナリオが頭を巡る。極
度の不安と恐怖が、もうどうにもならない。

その時に、ヤボクの渡しで、ある人が夜明けまで彼と格闘した。ヤコブはもがき
にもがいた。どうにもならないので、その人はヤコブのもものつがいを打った。
人を押しのけ生きて来た、エゴのかたまりであるヤコブ、そのヤコブの自我が砕
かれた瞬間だった。

ヤコブは、神の前にくずおれ、自力で歩めなくなり、びっこになった。杖が無し
で歩けない。何でも出来て、策略と狡猾な知恵で生きて来たヤコブが、神に拠り
すがらなければ、一歩も歩めないヤコブになった。

その時、恐れから解放された。先頭に立ってエサウに会いに行った。エサウはす
でにヤコブを赦していたのだ。逆説的だが、神に全く捕らえられる時に自由にな
る。喜びと平安に包まれ、不安と恐れから解かれる。 

・・・・・・・・・・・・・・
神が砕いて下さらない限り、自分で自分を砕く事はできない。一つ一つの目の前
の状況や出来事は、自分の一番の頑なな急所を砕くためだ。そこを見ない限り、
痛いだけだ。同じ事の繰り返しだ。自由にして下さる御手を見よう。


2010年02月12日(金)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20



主への感謝は、大きな力があることを経験する。思い通りにならない状況に、「すべての事について感謝しなさい」の通り、感謝を献げて行く時、主の御心なら状況を変えて下さるし、状況を変える事が御心でないなら、私たちの心の方を変えて下さる。

同じ状況下で、不思議だが、心に平安が与えられるので、問題が問題で無くなってしまう。そんな事を経験する。どうして感謝には、そんなに力があるのだろう。
それは、その状況を感謝するという事は、その状況を与えている神の主権を認めることであり、神を受け入れることになる。

それは、摂理の神への信仰だ。そしてつまりそれは、その状況を受け入れることになる。受け入れる時、窮屈だった心が自由にされ、解放される。喜びが来る。そして又、その状況を感謝することは、自分ではどうにも出来ないことを認める事であり、ギブアップする事であり、心砕かれることだ。

心砕かれないなら、思い通りにならない事態に、延々不平不満を言い続ける。決して受け入れる事ができない。そこには喜びも平安もなく、心は辛く、苦しい。今、目の前の不服な状況を、神の視点に立ち、神のご計画があり、最善をされ、神のご愛の中であり、神のみ思いがあるゆえ、感謝しよう。感謝する時、神の救いを見る。
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さいわいな事には神を認めるが、つごうの悪い事の中には神を認めないという態度ではないか。不平不満、言い訳をやめて起こるすべての事に感謝してみよう。真実な神のご計画の中にいると安んじておれる。


2010年02月11日(木)

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」ルカ22:42


主が御父に祈られた祈りを通して、私たちも学ぶことができる。主は、みこころなら、この杯=十字架をとりのけて欲しいと祈られた。驚くべきことだ。

始めから「わたしの願いではなく、みこころのとおりに」と模範的な、優等生の祈りをされたのではなく、この十字架を回避させて欲しいと祈られた。人々の救いに関しても、十字架でなく、主の別のみ思い、方法があったのかも知れない。

主が、とりのけて欲しいと祈られた事実は厳粛だ。そう祈ってよいのであり、祈りは正直で、率直で、真実であり、本音であることが大切と教えられる。建前の祈りをしてもしようがない。建前は、何の意味もなく、はなから御父に届いていない。

自分の心の本音を打ち明け、本音で交わることが大切だ。主は、御父に真実に向き合われ、真実に祈られた。本音で祈るからこそ、あるがままの自分が受け入れられていることがわかる。実感できる。そして、自分の気持ちを十分受け止め、受け入れて貰っているがゆえに、自分を捨て、御心に従うことができる。

御心を受け入れ、決心できる。「苦しみもだえ、切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちた」苦悶の中、祈りをされた主が、「祈り終わって立ち上が」られた。御心を受け入れる決心をされ、全き平安を得られた。
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ひとりの人間として主の前に出て弱いままの今の思いを告げ、みこころに従えない自分や、変わるべき所を尋ねてみよう。自分の意志や意欲ではかなわない強い思いも「いえ、わたしの願いではなく・・」と祈れるように主が納得させて下さる。


2010年02月10日(水)

「すべての懲らしめは・・かえって悲しく思われるものですが・・これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル12:11



職場や近隣・・その所で、だいたいの問題が対人関係だと言われている。難しい相手がいて悩まされ、悶々鬱々状態に陥り、振り回される。今、目の前に難しい対人関係があるか。状況に右往左往、アップダウンするのでなく、信仰の目を持って、この問題を受け止めよう。

目の前の関係は神の主権のもと、神から来ていて、御手の中にあり、神が何かを教えたいとのお心だ。これを幾ら逃げて、状況を変えても、必ず次の相手が現れる。反応する自分の内側に光を当て、取り扱って下さる。逃げず、避けず受け止めて、祈って行く時、自分が変えられる。

ある人は、言われ無き非難、批判をする近隣の人に悩まされた。知らない人々は事実無根の事を信じてしまい、ひどく傷つけられた。名誉毀損だ。話せばわかって貰えるものの、追っつかないし、いちいち説明するのにも疲れ果てた。

「なぜこんなひどい目に?」と涙ながらに祈り、しかし、すべての事に主のご計画ある事を信じて、この事を主に委ねた。示されるまま従って行くと、相手が病にある事がわかった。非常に苦しい事態であったが、時と共に収束して行った。

そしてその時、変えられている自分を発見した。成育歴もあり、人が極度に気になり、神経過敏でどうにもならなかった。その厳しい辛い試練の後、鍛えられ強くされ、人が気にならなくなっていた。試練は痛いが、必ず祝福と成長を下さる。
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試練を通し神様は私達を変えて行かれる。問題の前で徹底無力の自分を認めることも祝福だ。周囲を裁いてばかりいた自分も悔い改めることができる。思い通りの生き方をしていては決してわからない領域へと導いて下さる。


2010年02月09日(火)

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:18



ある人の夫が、ギャンブルが止められなず、給料にも手をつけ、家計はどんどん圧迫され、生活苦にあった。止められるように祈り続けた。夫は妻の勧めで教会へも行き、神を信じた。

夫は止めなくてはと思うが、誘惑に負けてしまう。妻は経済的困窮で追いつめられ、神にちゃんと従わない夫に、腹が立って仕方がない。どんどん夫への怒りが増幅し、ある時、もう許容量オーバーで、怒り爆発、その辺の物を壁に思いきり投げつけてしまった。そして又、そんな自分が嫌で、自己嫌悪と、怒りといら立ちで号泣した。

もう瀬戸際で、心の底から主に叫んだ。「もう何もどうにも出来ません。助けて下さい」お手上げだった。主の御前に静まり、思いのたけをぶつけた。少し落ち着いた時、「すべての事について感謝せよ」の御言葉に常々教えられていて、「この事態も感謝します」と祈った。

すると不思議に、あれほど荒れ狂った感情が、すうーっと潮が引くように失せ、自分の心が変えられて、平安になった。心の底からの叫びに、主が答えて下さったのがわかった。心が静かになり、夫への怒りが消えていた。

心に御霊の喜びが与えられた。夫を責める気持ちが失せた。教会へ一緒に行けるだけでも、喜びであり、夫に心から感謝できた。妻の変化に驚いた夫は、心が真っ直ぐ神に向き、悔い改めへと導かれた。その時、妻は、夫を裁く心が、ますます夫をギャンブルに追いやっていた事に気づかされた。
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すべてを感謝するとは、日々の起きるすべての事の中に神様を認めて生きることだ。自分にとって不都合なことの中にも神様が関わって下さっている。自己中心のつぶやきから今日も心が守られますように。


2010年02月08日(月)

「何も思い煩わないで・・あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての考えにまさる神の平安が・・心と思いを守ってくれます」ピリピ4:6

  
神は「何も思い煩うな」と言われる。思い煩わないで、祈れと。思い煩いから解放されるのは、祈りによる。ある人は、祈っているのに、思い煩いがなくならないと嘆く。

それは、四六時中、その思い煩いの原因となる問題から目を離さず、しっかり見続けているからだ。一日中その悩みの原因を思い続けている。繰り返し、繰り返し思い続ける。

すると、その思い煩いで要塞を築き上げ、ますます強固になり、その問題はモンスターになって行く。原因となるものから目を離し、約束の御言葉や主ご自身を見続けて行くことだ。その時、必ず心は平安に守られる。

状況は変わらず、問題は尚そこにあっても、そのまっただ中で、平安が臨む。ある人は会社が倒産し、収入が途絶えた。貯えは無く、次の仕事が無い。当座の生活費に困窮した。親戚は信頼関係があり、頼めば貸してくれる。

「いや、神が与えて下さる。神に拠り頼み、神に祈ろう」と励まされ、信仰に立つ事を決心し、神を頼り、切に祈った。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば・・すべて与えられる」に立って祈り続けると、不安と恐れが消えて行った。

そして突然、昔友人にお金を貸して全く忘れていたものが戻って来た。当座に必要が満たされ、やがて職が与えられた。神の真実に心から感謝した。
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先を見る事はできないのだから不安になるのは当たり前だ。でも主はそれをご存知の上で思い煩わないで良い、と言われる。なんと平安なことだろう。悲観的な思いで落ち込みそうになったら、主を呼び、不安定な心を確かな御言葉に置き換えて行こう。


2010年02月07日(日)

「だれでも、神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」ヨハネ7:17

神の御声を聞いて従って行くのが、信仰生活であるが、神の御声が聞こえなくな
る事がある。強い自分の思いがあり、自分の思いで一杯な時は、神の御声を妨げ
てしまう。

又、神の御心がわかっても、神の計画よりも、自分の計画の方に重きを置いて、
心が一杯な時は、神の御声に従えない。私たちは、祈りの中で、自由に自分の気
持ちを、主に告げるべきだ。詩編記者は怒りも、悲しみも、苦しみも、嘆きも、
何もかもを、気持ちをぶつけている。

又、心の願いを神に祈れと言われている。願いは神のもとへ持って行くとよい。
それが神の御心と一致するなら、その願いは叶えられる。しかし、すべての願い
が叶うのではない。神はご自身のみ思いを持っておられ、それが私たちの願いと
一致するとは限らない。

その時は、痛いかも知れないが、自分の思いよりも遙かに高い神のみ思いがある
事を受け入れて行く時だ。主がゲッセマネの園で、「しかし、わたしの願いでは
なく、みこころのとおりにしてください」と祈られ、御父のみこころを受け入れ
て行かれたように。自分の思いを捨てて、神のみ思いに従うなら、大きな祝福に
あずかる。

一つ一つ示される御心に、自分の計画を捨てて従う時、その時、主ご自身を知っ
て行き、主との関係が深められて行く。

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自分の思いが強いと、自分に都合の良い御言葉しか見えない。無意識に都合の悪
い御言葉は通りすぎる。御心に従うことから妨げられてしまう。自分を明け渡し
て行く時、御心がわかり、そして、神ご自身と出会って行く。


2010年02月06日(土)

「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう」詩編50:23

「感謝」は、神へのいけにえであり、神が喜ばれるものだ。感謝を献げる時、驚
くべきみわざを見る。感謝は、砕かれたたましいが献げる事ができる。感謝する
事は、現状を認める事であり、受け入れる事だ。

砕かれた人がそうできる。反抗心があると、感謝ができない。事態を受け入れる
事ができず、不平不満、愚痴で一杯になる。感謝は、思い通りにならない状況に
も、神の主権と支配を認め、神からのものと受け止めて行く。

無駄なものは一つもなく、一つ一つに神のご計画があり、意図があることを信じ
る。そして、夜の後に必ず朝が来ること、トンネルは必ず出ること、神が必ず良
くして下さることを信じて行く。

耐えられない試練は無く、脱出の道も備えられている。どんな時にも希望がある。
それゆえ感謝を献げる。見えるところが夜であり、真っ暗であっても、神は良く
して下さることを信じるので、感謝する。

ある人が、親の介護で、全労力を取られているところに、子供が入院。病院にす
ら行く事がままならなかった。そこに夫が過労で倒れた。四方塞がれ、身動きも
取れない状態だ。しかし、その時に感謝のいけにえを献げた。

感謝する気分だから感謝するのでなく、信仰によっていけにえを献げて行った。
その時、状況に関わらず、心に平安が溢れ、天が降りて来たかと思うほどの、心
の満たしを与えられた。
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思い通りにならない状況、ネガティブな事柄を「感謝」して行く時、心が変えら
れる。平安が来て、違う見方が与えられる。視点が変わり、自分のいる領域が変
わる。サタンの足場を崩してしまう。みわざを経験する。感謝して行く時、神を
崇めて行くことになる。


2010年02月05日(金)

「あなたがたの兄弟たちと戦ってはならない・・わたしがこうなるようにしむけたのだから」U歴代11:4



レハベアムはユダとベニヤミンの選抜戦闘員18万人を集め、王国を取り戻すためにイスラエルと戦おうとした。そこに、神の人シマヤに主の言葉があった。
「上って行くな。あなたがたの兄弟たちと戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしているのだから」と。

イスラエルがダビデの家にそむいたのは、神の主権と支配の下のことであると。それで、人々は主の言葉に聞き従い、北王国への行軍を中止して引き返した。「わたしがこうなるようにしむけた」。神から出たことであった。

今、あなたに問題が起きているだろうか。「わたしがこうなるようにしむけた」。「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」神から来たものは、しっかり受け入れよう。

それが大きな祝福とされて行く。神を無視して立ち向かい、戦って行くなら、更なる問題と混乱を引き起こし、秩序を壊し、自分も大きな痛手を負う。今もし、厳しい試練にあるなら、それも「わたしがしむけたのだから」との主の御心だ。

私たちの益と祝福と成長のための訓練だ。必ず豊かな結実を見る。又、ハピーな事が臨んでいたら、それも主がしむけられたものであり、感謝し、喜ぼう。
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起こる事の背後には確かな神様がおられる。必ず益となる意味があることを信じ試練から学ぼう。神様を忘れて落胆とつぶやきの中で解決を誤ってしまわないように。


2010年02月04日(木)

「ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをする・・あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」ヤコブ4:2



欲望それ自体は悪ではない。食欲が無ければ生存できないし、知識欲は御言葉を知りたいと願い、意欲は生きる原動力だ。しかし反面、欲望は容易に罪に傾いて行く。欲しいと思うと、コントロールが効かず、何が何でも持ちたくなる。

人と戦っても得ようとする、人殺しまですると。それほど欲望とは強烈だ。しかし、「あなたがたが願わないから」とあるように、神は私たちに、欲しいものがあるなら、神に願えと言われる。

自力で奪い取るのでなく、神に求めよと。神が与えて下さる。何と喜びであろう。「すべての良い贈り物は、上から来る」。そして、神と交わり、祈りを重ねる中で、そのものが自分に本当に必要なのか、又、今、必要なのかがわかって来る。

神から離れたこの世では、人は欲望のままに生きる。「私たちもみな、かつては・・自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」の通りに。
しかし、主との交わりの中で、自分でもわからなかった、心の底の本当の願いや、本当に必要なものが、明らかにされる。

ある人は、進路について自分の強い願いがあり、祈っていると、それは人からの賞賛が欲しくて、願っている事だと気づかされた。そして祈り続けていると、自分の本当の願いは、そうでなく、神に喜ばれる選択をしたいという事だとわかった。平安ある進路変更に導かれた。祈るなら、時に自分の思いと異なるが、
必ず「良いもの」を下さる。
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ただ欲しい、あらゆる方法を用いても欲しい・・その思いも祈るうちに変えられて行く。祈りの中で神様が関与して下さっている事がはっきりわかる。御心ならば与えて下さい・・へと自分が砕かれて行く。祈ろう。


2010年02月03日(水)

「全地はあなたの前にあるではないか。・・もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」創世記13:9



アブラハムは、激しい飢饉に会い、肉の知恵、経験、手段に頼り、エジプトに下った。そこで妻を妹と偽り、苦い危険な目に会った。再びベテルに来て、祭壇を築き主の御名によって祈った。同伴のロトとは、互いの持ち物が増え過ぎて、同行困難となり、別れる時が来た。

アブラハムハは全所有権を手放して、ロトの前に置き、まずロトに好きな所を選ばせた。ロトは、今まで世話になり、これだけの繁栄に浴した叔父への恩、目上の者への敬意、へりくだり、そういったものもなく、どこが得で、より有利かで頭が一杯だった。

見た目で判断し、肉の目で、肥沃な潤っている地を選んだ。祈る事も、神の御心を求める事もなく、自分で選んだ地は、結果的に破滅の地であった。
ロトはすべてを失い、全所有権を手放したアブラハムは、結局全地を所有することになる。

ここで、学ぶ事ができる。神の御前に全所有権を置くならば、自分で守る必要がなく、又、自分で手に入れる必要もなく、神が、私たちの分を確保し、与えて下さる。神にお任せしたものが、結局自分のものとされる。

失うまいと肉の手で握り締めるものは結局失ってしまう。「自分の命を自分のものとした者はそれを失い、自分の命を失った者は、それを自分のものとする」通りだ。選択に立たされる時には、祈ろう。確かな、間違いのない祝福の選択が与えられる。
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みこころに添っているとの確信があるからこそ、不安定な心は、平安に変えられ力強く前進できる。自分を頼るなら、いつも目の前のものにのみ込まれる。正しく導き、かえりみて下さる神様に今日も自分を明け渡して行こう。


2010年02月02日(火)

「そこで人々は、彼らの食料をいくらか取ったが、主の指示をあおがなかった」ヨシュア9:14

 
                  
ギブオン人が計略を巡らした。変装し、古びた物を身につけ、遠国から来たと偽った。ヨシュアが彼らと和を講じた3日後、実際は彼らが近くの者で、自分たちの中に住んでいる事を知った。

騙された事を知ったが、主にかけて誓ったゆえに、彼らに触れることはできなかった。その間違った判断をした時に、「主の指示をあおがなかった」。祈らないで、肉の思いで勝手に判断してしまった事による失敗だった。

主の指示が無いのに、勝手に行動してしまった。祈らないで事を行なうと失敗する。よく経験する事だ。あなたも失敗があるだろうか。ある人が、思いついて、空いた時間に習い事をと、入学金を払い数ヶ月分の授業料を前納した。

ところが、それ以前に申し込んでいた仕事が、まだまだ先と思っていたのに、突然来て、習い事ができなくなった。それでキャンセルを申し入れたが、規約により、納入金はすべて返還不能であった。かなりの金額であり、痛い思いをしたが、この時、「主の指示をあおがなかった」ことを学ばされた。

祈らずにした事であった。痛かったが、大切な学びとされ、一つ一つ祈って行動する事を教えられた。「あ、祈ってなかった」という失敗があるだろうか。今、何かの判断が必要なら、まず、主の指示をあおごう。
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祈ってするから結果がどうであれ委ねておれる。また恵みも数えることができる。焦った時こそ静まり、祈りここに主が共におられることを実感して進もう。


2010年02月01日(月)

「神は、ご自身の大きなあわれみのゆえに・・私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」Tペテロ1:3



エデンの園で、善悪の知識の木の実を食べた、アダムとエバには自意識が生じた。それ以来、たえず自分が自分を見て、量り、さばくようになった。人がどう見ているかを、人でなく、自分が量る。

結局人が恐れているのは、人の目ではなく、実は自分の目だ。
自分が、自分の一番厳しい審判者だ。自分で自分を追いつめ、束縛するようになった。それゆえ、恐れと不安が生じ、恐れる者となった。

人ではなく、自分が自分をさばく。自分の中に敵をかかえていて、自分を一番傷つけているのは、相手や周囲でなく、自分自身だ。これがアダムの罪の結果だ。
自分から逃れられない。自我、自己愛、自己中心、自己防衛、自己憐憫どこまで行っても自分、自分だ。

ここから救うために主キリストが来て下さった。この罪を引き受け、荒野で蛇が上げられたように、呪われた姿で十字架にかかられた。アダムの違反により罪人となった私達は、キリストにより義人とされる。

この自己にがんじがらめの呪いから解放され、死からいのちへ移された。
「・・信じる者は、死からいのちに移っているのです」完了した。移転途上でなく、すでに移り終わった。そのいのちは、神を親とし、神の子供として生まれ、神の性質を持ついのちだ。
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罪と一緒に、私達の自我も主がともに十字架につけて下さり義とされた。だから、もう自分が自分を裁く必要はない。何という感謝か。この恵みを無にせず新しいいのちを喜び、古い自分が顔を出す時きっぱりと否定して生きていこう。