2010年03月31日(水)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道3:11



すべての事に、神の厳粛なる「時」がある。祈りの中でその、神の時を見分けて行けるなら幸いだ。物理的には、環境は開かれているのに、気持ちが無い、気持ちが沿っていない事がある。又、逆に、強い気持ちがあるのに、環境が全く開かれなかったりする。それぞれ神の時ではない事を学ぶ。

心が備えられ、整えられ、且つ、環境も開かれている、そのような神の時には、信仰によって前進すべきだ。ある人の証しだ。会堂建設を教会皆で祈っていた中で、バブルが弾けて丁度土地が下がった。今だ!と思った。今なら格安で買える。今こそが神の時だと。

しかし、牧師は頑として動かなかった。早く、早くしなければと思うが、牧師が見ていたのは、土地の価格でなく教会の一致であった。まだ機が熟していない。一致のためにもっと祈らねばと。結果的に、皆が一致し、神の時に土地は与えられ、会堂が建った。時を待ったので、土地は値上がりしたが、それにも増して多
額の費用が備えられ、更に大きな神の栄光を見るに至った。

すべての事に定まった時期がある。その絶妙なる時を悟って従う時、素晴らしい神の栄光が現れる。信仰生活「神の時」に目を向けていよう。
----------
すべてに神様の美しい時がある。環境の門が開き、自分のうちの思いも静かに受け入れられる時がある。いつも神様に問いながら、その素晴らしい時を待とう。


2010年03月30日(火)

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」ローマ8:6


新生した私たちには、御霊と肉があり、御霊の思いが心にあり、同時に肉の思い、自分を中心にする思いがある。どちらも、私たちの心にある。また、悪魔の火矢が、心の思いに飛んで来る。御霊の思い、肉の思い、悪魔からの思いがやって来る。又、他人の声も入って来る。これらの思いが、心で葛藤する。

この葛藤は、すべてのクリスチャンにあり、必ず起こり、良いものであり、この葛藤の中で、成長し、成熟して行く。未信者の時は、肉だけだ。その中に、御霊の思いが入って来たので、混乱と葛藤が起こる。救われている証拠だ。

悪魔の火矢は、前後の関連や、つながりなく、突然、矢のように心に入る。思ってもいない時に、突如思いが来る。突然、昔の傷を思い出し、怒りの相手を思い出す。自分の内に全く思いが無かったもので、外部からの火矢、悪魔からだ。

前後の関連なく、場当たり的なものだ。よく見分けよう。御霊からの思いは平安と喜びがある。私たちが聞いて行く声は、御霊の声だ。自我からの肉の声、サタンの声を拒否する必要がある。

心に浮かぶ思いを、すべて受け入れてはならない。心が沈み、落ち込み、暗くなって行く思いは、御霊からではない。受け入れて行ってはならない。
-------------
自分中心の思いは、サタンの誘惑と合致して強烈な勢いで私達を引っ張る。その結果、また暗く落ち込ませる。無責任な肉の思に従う必要はない。いつも主を見つめ、自分の内におられる御霊に助けを求め、いのちの道を歩んでいこう。


2010年03月29日(月)

「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行ったこの人は多くの財産を持っていたからである」マタイ19:22


永遠のいのちを得たいと、「どんな良いことをしたらよいか」と、主のもとに来た青年に、主は、「良い方は、ひとりだけです」と答えられた。彼は、主が、何かを行なう事ではないと、言われたに関わらず、行なおうとの思いに満ちていた。

主は、この間違いを教えようとされて、律法を持ち出された。律法は、自分の力で良い事ができない事を教えるためにある。青年に、良い事とは自分にはできない事を知らせようとされた。「殺してはならない・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」しかし、彼は「そのようなことは、みな守っている」と答えた。

そして「何が欠けているのか」と。すると、主はその財産を貧しい人に与えるように、言われた。もし、彼の言うように、律法を守っているなら、隣人を愛しているのであり、貧しい人々に施したはずだ。しかし、できなかった。

自分の力では、律法を守れない事を、主は認識させたかった。だからこそ、「良い方」がおられることを。しかし、彼は財産を捨てる事ができず、主のもとを去ってしまった。

私たちも、財産=自分の力、自分でする良い行ない、自分で律法を守る事を、捨てたくないだろうか。プライドが深く関わっている。自分の力で、神に従おうとするだろうか。自分を捨てる時、「良い方」が、行ないをさせて下さる。
----------------
自分の力で昨日まで出来た事が、今日は出来ないかもしれない。しなければ、するべき・・のやせ我慢を素直に認め、主に力を求めよう。自分を明け渡す時、一つ、また一つ主が教えて下さり力強く歩んでいける。


2010年03月28日(日)

「ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった」ルツ1:18



飢饉の時に、ナオミは神を信じ、神を待ち望むのでなく、肉の思いで判断した。約束の地から離れてしまい、偶像の地モアブに糧を求めて移った。食物は豊かにあり、快適な生活に、やはり来て良かったと思った事だろう。ところが夫と二人の息子が亡くなった。

家族の幸福のために来たはずが、その家族を失ってしまった。そんな時、故郷が豊作と聞き、望郷の思いが募り、帰郷を決心する。神の語りかけだ。人は窮地に陥った時には、真剣に神に向かう。何と大きな痛手を受けた事だろう。

満ち足りて出たが、素手で帰る事になる。夫と息子を失うという辛い中を通って。富、繁栄を求めて、神を離れても何の平安もなく虚しい結果を招く。しかし、尚もあわれみ深い主は、すべてを失ったナオミに、尚も素晴らしい恵みを備えておられた。嫁のルツだった。主は「ルツ」を与えられた。

神の約束を信じないで、約束の地を離れ、美味しい草を求めて、道をそれてしまう。しかし、神の憐れみは尽きず、すべての事を働かせて、益として下さる。
私達も失敗に関わらず、憐れまれ、素晴らしい恵み「ルツ」を備えられた経験があるだろう。失敗したが、ナオミはルツと出会い、ボアズとルツの結婚通して、その子孫にダビデが生まれる事になる。神に帰る時、神のあわれみは尽きない。
-------------
失敗は繰り返してしまうかもしれないが、神様の恵み憐れみは尽きることがない。なおも導き返される神に繋がり、今のところからまた信仰を持って歩もう。


2010年03月27日(土)

「古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ・・新しい人を身に着るべきことでした」エペソ4:24

古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着るべき事を教えられている。新しくなる
とは、つまりは古い人を脱ぎ捨てる事だ。

ある古い工場が売りに出されていた。ガラスは割れドアは壊れ、外装も汚い。買
い手が現れ、喜んだ家主は、ガラスを替え、ドアを修理し、壁を塗り直すと言っ
た。しかし、買い手は無用だと言った。なぜなら、全部壊して全く新しい施設を
作るからと。

私たちの新生も同じだ。一部を修繕するのではなく、全く新しい建物が建て上げ
られる。新しい建物を建てるために、古い建物を壊さなければならないが、その
古い建物が捨てられない。

古い思考パタンや考え方が根強くて、なかなか捨てられない。主を信じ救われて
いるが、培われた古い価値観が残っている。古いままの価値観の上に、新たな建
物を建てている。

そうなら、主の言われる事より、自分の思いの方を信じてしまう。御言葉より、
目に見える所や常識を取る。その古い価値観が問題で、それを脱ぎ捨てることが
成長だ。古い思考パタンは、御言葉を、その通りに受け入れない。

愛されていると言われても「いいや、そんなはずはない」と言う。思い煩うな、
と言われ「思い煩わないなど、無責任だ」と言う。根深い古い思考パタンに気づ
くことから、成長が始まる。

・・・・・・・・・・・・・
生まれつきの価値観が根深く、御言葉より、すぐにそちらを無意識に選択してし
まう。そして気がつかない。心が暗くなり平安が失せる。すぐに祈ろう。御霊が
軌道修正し、御霊の中へと、古い人、肉がすでに十字架で死んでいる所へと導き
返して下さる。


2010年03月26日(金)

「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」Tテモテ1:19


信仰生活には、信仰と「正しい良心」が大切だ。信仰があっても、正しい良心を捨てるなら、信仰の破船に会うと。普通、良心とは正しいものと思うが、「正しい良心」と「邪悪な良心」がある。

神の似姿として創造された人間は、良心が与えられたが、アダムの罪ゆえ、人間の良心は暗くなり、歪んでいる。神のようになろうと木の実を食べた彼らは、自分の意志と判断で生きるようになった。それまでは、すべての判断を神に頼っていた。

人間の判断はその人の価値観により異なる。同じ事をしても、価値観により良心の呵責を感じる人と感じない人が出て来る。そして、神を意識しないなら、良心は自己中心的な感覚や自己本位の考えに陥る。

又、信仰者も、間違った良心の呵責に責め立てられる。「弱い良心」は、神は責めておられないのに、サタンのとがめを受け入れて、自分を責める。主を信じる以前の良心を「邪悪な良心」と言っている。人は肉の性質があり、自分に都合の良い事が、正しい事になってしまう。

そして「良心は麻痺する」ので、良心を無視し続けると、機能を果たさなくなり、とがめを感じなくなる。御霊と神の言葉が、私達を正しく導いてくれる。御霊の導きに敏感でいよう。「心に血の注ぎを受けて、邪悪な良心をきよめられた・・ですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」
------------
良心の基準を神の御言葉に置いてなければ、不安定で真の安定は得られない。世と人が良心の基準にならないために、朝のデボーション祈りと御言葉の時間を大切にしたい。


2010年03月25日(木)

「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩篇33:10


私たちには、色々な思いがあり、目の前のプラン、又、人生のプランがある。しかし、神にもプランがある。ヨセフの生涯に、はっきりと見ることができる。兄達に妬まれ、エジプトの隊商に売られ、予期もせぬエジプトへ。どんな苦しみだったろう。

しかし、そこで主人に忠実に誠実に仕え、主人の信頼を得、全財産を任せられるほどであった。「主がヨセフと共におられたので」は鍵の言葉だ。主人の好意は主からだ。ところが主人の妻からの濡れ衣で牢獄へ。しかしそこでも「主がヨセフと共におられ」模範囚となり重んじられた。

献酌官長を通して出獄かとの希望を抱いたが、ヨセフとの約束は忘れ去られ、又、2年が過ぎた。神の時は何と長いのだろう。結果的に見れば2年だが、その渦中では、どんなに忍耐が必要だったろう。結局、最終的に総理大臣となり、飢饉にあったヤコブ一族の命を救う事になる。

ヨセフがエジプトに売られて以来10数年だ。そのために神が先にヨセフを遣わされた。ヨセフ自身にも自分の人生プランがあった事だろう。しかし、神のプランは遙かに高く素晴らしいものであった。ヨセフは自分の計画でなく、神の計画の道を歩ませられ、信仰も品格も練り上げられた。自分の思い、計画でなく、神の私へのプランを祈り求めよう。それこそが豊かな実を結ぶ。
---------------
今、困難に思えても、はっきりとしたご計画がわからなくても神が全てを決めておられるから必ず守り導いて下さる。一日、一日神のご計画を妨げる自分の思いがないかよく祈って行動しよう。神の導きなしには一歩も歩めない。


2010年03月24日(水)

『イエスは「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた』ルカ8:45



この女性は12年もの間、出血が止まらない状態で、どんなに苦しみと辛さの中にあった事だろう。律法によると不浄であり、礼拝にも出れず、宗教的にも社会的にも疎外されていた。経済的にも治療に財産を使い果たし、ますます悪くなり無一文となり、これから先どうすればよいのか、何の希望もなく、心身限界で、ぼろぼろであったろう。

わらにもすがりたく、救いを求めていたに違いない。そんな時、主の噂を聞き、せめて主の着物にでも触れば必ず直ると信じた。ただただ必死であった。触った瞬間、血の源が枯れて、ひどい痛みが直った。誰にも知られずに、隠れていたかった。そっとその場を去りたかった。が、主がそこで「触ったのは誰か」と問われた。

群衆に紛れ潜んでいたが、隠しきれないと思い、恐れて震えて進み出た。「イエスの前に」出た。どんなに勇気の要った事だろう。「すべての民の前で」イエスに触った理由と、癒された次第を話した。すべての民の前で告白した。

自分を卑しめ、暗さの中に隠れ潜んでいたのが、主に導かれて、光の中へと入れられた。主は「あなたの信仰が」と信仰を認め「安心して行きなさい」と、もう恐れも不安も怯える事もない、全き安堵と平安と自由を下さった。心も癒し、全人格的救いを下さった。告白は、実は彼女自身のためであった。
-------------
誰にも言えず苦しんでいる者をかえりみようと立ち止まって下さる主がおられる。罪を暴くのでなく温かくおおって下さる主に心の全てを語ろう。恥をおおい失意を包み、弱さを慰めるて下さる主に。


2010年03月23日(火)

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」ピリピ2:13

神は、御心にかなった思いを心に起こされる。「〜したい」「〜しよう」との思いが臨む。しかし、要注意だが、心に様々な思いが起きるが、その思いがすべて神からのものというのではない。サタンも思いの火矢を投げ込んで来る。

肉の思いが、自分の心の内から湧き上がって来る。では、どれがどうであり、どれが神からの思いなのか。見分けるためには、とにかくよく祈ることだ。祈りがまず大切だ。そして、その思いが、聖書全体の原則にかなっているかを、見る。神が、御言葉に反し、矛盾する方向へ導かれる事は絶対に無い。

必ず、神の御心は、御言葉の原則と合致する。目的のためには、手段を選ばないものも、神からではない。神から出たものであれば、必ず目的も手段も正しく導かれる。又、神からの思いは、必ず人の徳を立て、人を祝福し、霊的成長に役立つものだ。

人を傷つけるものなら違う。御霊は理由もないのに、人を傷つける事は決してされない。又、その思いは、時間を経ても変わらない。自分の気まぐれな思いなら、気分次第でコロコロ変わるし、すぐに消えてしまう。重要な事柄であれば、よく時間をかけて祈ることが大切だ。

時間をかける事で、はっきりわかってくる。神から来たものなら、その思いはどれだけ時を経ても、変わらない。環境も合致して行く。又、信頼できる人に一緒に祈ってもらうと良い。神の導きなら、必ず一致がある。
----------
神からの思い、志であるかどうか、最初から最後まで主に喜ばれるものかどうか、また主に喜ばれる事を本当に願っているのかどうなのか。迷ったままなら動かずに、導きを求めてよく祈ろう。


2010年03月22日(月)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:17



寒暖計は正確に温度を示す。暑いと温度は高く、寒いと低くなる。そのままを表示する。それが寒暖計だ。私たちも寒暖計だろうか。つまり、私達はいつも周囲に、ただ「反応」しているだろうか。

相手が穏やかで、優しければ、こちらも穏やかで、優しくなり、相手が冷ややかであれば、こちらも冷たくなり、相手が嫌味で来れば、こちらも嫌味で返す。
きつい言葉が来れば、きつい態度で返す。相手の状態にそのまま反応している。

自分がまるで無い。相手に自分自身を明け渡し、コントロールされている事になる。そうなら、自分が怒るのは、相手が怒るような事をするからであり、相手が悪いという事になる。相手がそんな事をしなければ、自分は怒らないと。

しかし、これなら自分が全く無く、肉と状況に流されたままだ。そして、すべてうまく行かないのは、相手のせい、環境のせいになる。そこに不平不満、愚痴、自己憐憫しかない。信仰とは、相手のせいにせず、環境のせいにせず、神を信じて行く事だ。

どんな中でも自分に頼らず、神に頼り、人や状況、周囲に反応するのでなく、神と御言葉に反応して生きて行く。そして、神により生きて行く時、自分が変えられて行く。変えられた自分は、周囲を変えて行く。自立とは神に依存することだ。いつも何に反応しているだろう。主に向こう。
-----------
人の激しい感情に遭遇するとすぐに反応するのでは、まるで子供と一緒だ。人に反応し人の出方次第でアップダウンするのではなく、主に応答した成熟した大人のクリスチャンとして主のかぐわしい香りを放っていきたい。


2010年03月21日(日)

「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから」ルツ3:18

ナオミは、モアブの地から、自分についてベツレヘムに来た、嫁ルツの今後につ
いてよく考えた事だろう。ルツに良くしてくれるボアズ、親戚であり、その誠実
さに彼こそがふさわしいと考えた。

ナオミはルツに指示し、ルツは姑の言う通りにした。ボアズに買い戻しを願い、
そのように行動した。すると彼は、更に近い親類がいて、もしその人が放棄する
なら、自分が買い戻すと。

その時、ナオミは、結果を見る前に、必ずボアズがルツを買い戻す事、それが神
の御心であり、その通りに成る事を信じた。それで、この結果が出るまで「待
て」と確信持って言えた。

神が働かれるから、ただじっと経過を見守っているようにと。何か策を練るので
もなく、動くのでもなく、ただじっとして待てと。人間的な動きを止めることだ。

私達はこれが大変難しい。必ず自分を救うために、何かしようとするし、じっと
しているより、その方が楽で、安心なのだ。目に見えない神をただ待ち望む事は
難しい。又、それは、ただ単に、何もせず手をこまねいているのではなく、示さ
れた事はして、待つという意味だ。

ルツは自分のなすべき分を果たした。だからこそ、次にすべき事はそこで安息し、
ただ神がされる事を、祈りの内に待てばよい。あなたにも、今なすべ事を果たし、
後は、神を待ち望めと、言っておられるだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
なすべき事をした後、主を信頼して待つことができる。後は、主の側の働きであ
り、主はみこころを成し遂げて下さる。私たちの今すべき事は、明け渡す事だろ
うか。目の前の事態を、自分自身を、明け渡すなら、主が御心の通りにして下さる。


2010年03月20日(土)

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」マタイ19:26

主のもとに、資産家の青年が来た。永遠のいのちを得るために何をすればよいか
と、主に問うた。主は十戒の戒めを教えられた。しかし、戒めは守っている、何
がまだ必要なのかと答えた。

すると主は、持ち物を売り払い、貧しい人に与えよと言われた。すると青年は顔
を曇らせ悲しんで主のもとを去った。十戒を守っていると言うが、守れるはずが
ない。
もし彼が戒めを守っているなら、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
に従い、有り余る財産を、言われる前に貧しい人々に施していたはずだ。

しかし、彼の財産は彼の所有物であり、人に分け与える気は無かった。分け与え
るなら、又、神は更に豊かに与えて下さったであろうに。私達も手中に握り締め
ているものによって、主から離れてしまう。

彼は怒ったのでも反発したのでもなく、悲しんだ。彼には富を手放す事が出来な
かった。しかし、その彼に、一つ出来ることがあった。それは「私にはできませ
ん。助けて下さい」と主に求めることであった。それをする事なく主のもとを去
ってしまった。

私達にとっての富は何だろう。自分の力、人からの賞賛、名誉、地位、愛する人、
何か大切なものかも知れない。自分には従えない事を、ありのまま主に告げよう。
その時、主が助けて下さる。「しかし、神にはどんなことでもできる」

・・・・・・・・・・・・・・・・
手放す事が出来ないもの、握りしめているものが様々ある。結局、それが主との
間に立ちはだかり、偶像となってしまい、主をわからなくさせている。主は愛し
て下さっている。自分には放す事が出来ないことを、まず祈ろう。


2010年03月19日(金)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3


あなたのしようとすること、あなたのプランを主に委ねよと言われている。自分のプランを主に委ねる事は、なかなか出来ない。私たちの願いは強烈で、欲望は強い。手放す事はできない。

プランを主に委ねるとは、結局、自分自身を主に委ねることだ。自分を明け渡すことは、自我にとっては難しい。自我は抵抗する。自分の思い通りにしたい。自我はどこまでも自己主張する。この自我が問題だ。

「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め」と箴言にあるように「自分の欲望のままに求めて行くと、自分を閉ざして行くことになる。そこから自由にされる事が、主に自分を委ねる事だ。

自分を明け渡すと、自分自身が解放される。神に渡せない自分、握りしめている自分が、問題の原因だ。よく聞く。「神は、こんな苦しみを与えていじわるだ」「私をひどい目に会わせる」「どこが愛なのか」思い通りに行かない歩みを恨み、神を恨む。環境のせいにし、ひどい神だと、神のせいにする。

しかし、実は、自己主張して止まない自我の強い自分自身が、問題だ。これが自分を苦しめている。ここに気づき、自分自身を明け渡して行く時、苦しみから解かれる。状況は変わらないが、心に安らかな安堵と平安が臨む。そして、明け渡した者には、主のご計画が自分の計画となり、用いられて行く。
---------------
神様の御心と思っていてもいつの間にか自分の思いにすりかわって行く危険がある。明け渡すことは、瞬間瞬間の自我の放棄だ。行くも戻るも神様が決められる事、必ず良くして下さると安心して手放してみよう。


2010年03月18日(木)

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26



主が、五つのパンと二匹の魚で奇跡をされ、大勢の人々を満腹させられた。すると、群衆は主をかつぎ上げ、王とするために連れて行こうとした。それで主はそれに乗られず、ひとり、山に退かれた。

人々は主の奇跡を見、パンで満腹した時に、神をほめ「この方こそまことの預言者だ」と言ったが、しかし主はその心の内をご存じであった。群衆は主の教えに従いたいと思ったのではなかった。主について行けば、パンの心配がない、ずっと良い暮らしができる、そのために主を利用したかっただけだった。

私たちも自己充足のために、自己実現のために、主を利用しているだろうか。何のために主に従っているのだろう。主は満腹を下さる。自分の願い通りになり、自分の欲望が満たされる。しかし、その欲望が満たされると、自分の欲望充足のために、主のもとにいて、願望が叶えられている間はついて行く。が、一旦、自
分の願望が叶えられなくなり、思い通りに行かなくなると、主を離れる。

主は必ず必要を与え、必要を満たして下さる。必要を与えて下さるのであって、私たちの思い通りに動かれるのではない。人々が主を「むりやりに連れて行こうと」した時に、主は退かれた。今、無理やりに、自分の願いを通そうとして、自分を見失っていないか。主は愛をもって軌道修正して下さる。
--------------
主は物質的な必要を与えて下さると同時に霊的な成長、成熟を与えて下さる。思い通りの物が欲しくて付き従っていくだけでは、主を知る事はない。自分の思いを捨て主が与えて下さる本当のいのちのパンを日々受け取っていこう。


2010年03月17日(水)

「弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『あれは幽霊だ』と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声をあげた」マタイ14:26


天地を創造された主は、自然界を支配されると共に、私たち一人一人の人生を支配し、試練の嵐をも支配しておられる。主が嵐に右往左往する弟子達のところに、湖の上を歩いて来られた。命の危険を感じ、強風と悪戦苦闘、舟を守るのに必死な弟子達は、向こうから来る影が主だとは思いもよらず、「幽霊だ」と恐怖にお
ののいた。

叫び声を上げたほどの恐怖であった。すぐ直前に、五つのパンと二匹の魚の素晴らしい奇跡を体験したばかりで、主の大きな御力を見たばかりであった。しかし、突如の不意の事態に、目の前の事に心が奪われてしまい、主が飛んでしまい、頭に無く、忘れてしまった。

私たちも目の前の苦しい状況に飲み込まれると、その状況だけが見えて、主が見えなくなってしまう。主の支配が見えなくなると、状況に支配され、ほんろうされてしまう。今、心を痛めている事柄に、支配され、ほんろうされてしまっていないか。

試練の中なら、苦しい状況に飲み込まれてしまい、心固まってしまっているか、又、対人関係での相手のあの言葉、この言葉が心に突き刺さり、その事で一杯だろうか。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と主があなたの前におられる。

主が支配者だ。目を主に転じ、その問題を主に委ね、支配して頂こう。舟に、問題に主を迎え入れよう。その時、事態が、主の手によって御心の通りに導かれて行く。
---------------
困難やトラブルは生きている限り来る。その度に状況だけで頭が一杯になるより直ちに祈ろう。五つのパンと二匹の魚のように私達にも主の栄光を拝した経験があるはずだ。また主が助けて下さると、思い煩いが来る前にその問題を主に渡そう。


2010年03月16日(火)

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」マタイ14:27

弟子たちを舟に乗せ、向こう岸へ行かせられた間、ご自身は、祈るためにひとりで山に登られた。主は、弟子たちが嵐に悩まされている間、御父に執り成しの祈りをしておられた。

私達の人生の大嵐のただ中で、厳しい試練の最中に、主は私たちをしっかり見守っておられ、執り成していて下さる。主はいつも私たちと共におられる。この主を覚えよう。

そして、湖にやって来られ「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と御声をかけられた。「わたしだ」という御言葉は、「わたしはある」という意味の言葉だ。

モーセが神から召しを受けた時に「『わたしある』という者である」とご自身を現わされた。天地万物の創造主が嵐を静める事は、たやすい事だ。
ご自身が自然界を創造されたのだから。その創造主なる主が常に私達と共におられるのであれば、私達はもはや何を恐れる事があろう。

主が勝利され、私たちはただその恵みにあずかる。弟子たちは主を見て、喜んで舟に迎え入れた。主が舟に乗り込まれると、風が止んだ。私たちも困難の中で経験する。波風吹きすさぶ状況に、私たちは動揺し、パニックになり、右往左往する。

しかし「しっかりしなさい。わたしだ」との主を心に迎え入れると、ピタリと心の嵐は止み、心は平安になる。御言葉が心に臨む時、全き平安を得る。主の一言によって生きて行く事ができる。
------------
主を仰ぎ見ている限り、一つ一つの問題の解決、なすべき事は必ず教えて下さる。試みや試練の度にその背後におられる神を再確認し、信仰を新たにして立つチャンスだ。恐れず主の守りに全てをお任せしよう。


2010年03月15日(月)

「アイの人々は・・彼らを打ったので。民の心がしなえ、水のようになった」ヨシュア7:5



大きな祝福を受けた後に、失敗すると、よく聞く。大きなイベントを無事終えたり、難しい問題を解決した時に、ほうっとして、油断してしまうその時に誘惑に陥ってしまう。勝利の後には、更に気持ちを引き締める必要がある。

イスラエルはエリコ陥落に大成功した。大勝利の進軍だった。それが小さな町アイに敗北した。人口も少なく、堅固な町でもなく、余裕の戦いのはずであった。しかし予期に反して、破れて逃げ帰った。この動揺は大きかった。

ヨルダン川を奇跡で渡渉し、続いてエリコの城壁が、目の前で崩壊するという大きな奇跡を見て、当然このまま、行け行けの、大勝利のはずだった。だのに、突然の敗北で「民の心はしなえ、水のようになった」。なぜなのか?

大きな奇跡を体験し、勝って当たり前、恵みを恵みとせず、自分達の判断、力に頼った。高慢になってしまった。その結果であった。私達も物事が順調に行っている時こそ、よく気をつける必要がある。神に頼る必要が無いので、自分で歩んでしまう。肉の性質がある。これが高慢だ。

ヨシュアに原因が明らかにされた。彼らの中に罪があった。私達も失敗、事がうまく行かない時、対人関係の問題等、相手が悪い、状況が悪い、組織が悪いと、自分については考えない。自分に問題がある事に気づかない。自分に思いが至るなら、悔い改めに導かれ、その失敗が素晴らしい益とされ、成長へと用いられて
行く。
-------------------
祈って祈って大きな問題を解決できた祝福の直後、ささいな事でギクシャクし、祝福は飛んで行き心がしなえてしまう事がよくある。神様に頼るのをやめたその途端あっという間に流されてしまうのだ。祝福の後にこそ気をつけよう。


2010年03月14日(日)

「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」マタイ25:40

「靴屋のマルチン」という話がある。主がマルチンに現れて「明日、お前のとこ
ろに行く」と言われた。翌日マルチンは働きつつ、窓の外に目を留めていた。

寒い外では、雪かきの老人がいた。彼はその老人を迎え入れ、お茶をご馳走した。
次に赤ん坊を抱いた貧しい母親に目が留まった。マルチンは急ぎ出て行き、その
母子を家に入れショールを与えた。

主はまだか、まだかと待っていると、少年が老婆のかごからリンゴを盗って行く
のが見えた。マルチンは少年のために執り成し一緒に謝った。一日が終わり、と
うとう主は現れなかったと、落胆しているマルチンに、主が「今日お前のところ
へ行ったのがわかったかと」言われた。

そして、主の姿が雪かきの老人、貧しい母子、リンゴを盗んだ少年の姿に変わっ
た。目の前の助けが必要な人に手を差し伸べるなら、それは主に対してしたのだ
と。大仰な事でなくとも、ほんの些細な、小さな事で、必要とする人に与えるな
ら主は報いて下さる。

又、小さい者とは、普段余り気にかけない者の事だ。それなら、家族はどうだろ
う。他人には目一杯配慮し、礼儀正しくし、素晴らしく良い人になるが、家族に
は甘えが出て、無遠慮で、配慮を欠くかも知れない。感情のまま行動し、イライ
ラや不機嫌、丸出しだろうか。
家族こそを、まず大切にしなければならない。とにかく、御霊の示しに、従おう。

・・・・・・・・・・・・・・・
主の優先順位は、他人よりまず家族だ。一番身近な、目の前の人を愛せないで、
他人や全世界を愛するなど不可能だ。又、御霊が、必要な人に愛のわざを促して
おられたなら、今すぐ従おう。主の栄光が現され、そして豊かな報いを受ける。


2010年03月13日(土)

「イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられ・・彼らにほしいだけ分けられた」ヨハネ6:11

マルコによると、主は、「パンはどれぐらいかあるか、見て来なさい」と言われ、
アンデレは、探し回り、パン五つと魚二匹を持っている少年を連れて来た。しか
し、こんな微々たるものが何になろうと思った。

ピリポは計算をして、「二百デナリのパンでは不足」「無理」という答えを出し
た。アンデレは、弁当を持った少年を見つけてはきたが、「しかし、こんなに大
勢では」と、半ば諦めだった。

私たちはどうだろう。計算によって「不可能」の答えを出し、嘆いているだろう
か。しかし、真の信仰は、自らの徹底無力を認めるところから始まる。自分は無
力だが、主には大きな力がある。自分が無力であればこそ、主に期待して行ける。
それが信仰だ。

弟子達は諦めていたが、主に期待していたのが、小さな弁当を献げた少年だった。
この少年は自発的に自分の持てるものを献げた。「こんなに大勢では何になろ
う」とも思わなかった。主にお献げしたくて、その手の中の小さなものを委ねた。

主は、その極めて小さな弁当を受け取って、大きなみわざを行われた。アンデレ
は「5つのパンと2匹の魚」を持って来たのでなく、それを持っている「少年」
を主のもとに連れて来た。主は僅かなものしか持たない私達自身を受け取り、
人々の満たしのために用いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
微々たるものだからダメでなく、主に差し出せば、手の中のそれを用いて、人々
が満腹するまでに祝福して下さる。たったこれだけが何に?という小さければ小
さいほど、主の栄光が鮮明に現れる。それを主のもとに差し出そう。


2010年03月12日(金)

「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです」Tヨハネ3:12

アベルの供え物は受け入れられ、カインのものは退けられた。自分は受け入れられず、なぜ、アベルだけなのか?妬みは憎しみへと増幅する。カインはアベルに激しい憎しみを抱く。最初から殺害を思い至ったのではなく、心の内に激しい憎悪を抱き続けていた。

神はそれを見られて、「罪が門口に待ち伏せている。それを治めるように」と言われた。カインはこの神の警告に関わらず、弟のアベルを殺害した。罪が門口に待ち伏せている事を知りながら、憎しみがエスカレートするのを制御しなかった。

罪はどんな状況でも、自分を正当化させる。それが罪の性質だ。罪の言い訳をし、自分を正当化して行く時、罪に足をすくい取られ、がんじがらめにされる。この自己正当化が、罪をわからなくさせてしまう。私たちはどうだろう。

許せない気持ちを、どんどんエスカレートさせて行く時、それは憎悪となり、憎しみは相手を心の中で抹殺して行く。どこまでも言い訳をし、理由付けをし、自分の罪を罪と認めないなら、いつしか感覚が無くなってしまう。

そして、心の中での殺人が実際に現実の殺人へとエスカレートする。カインは、正しく献げたのであれば受け入れられているはずだ。神が受け入れられなかったのは、何かが間違っていた。悔い改めて、もう一度献げ直す事ができた。「カインのようであってはいけない」との御声に耳を傾けよう。
-----------------
相手がどうであれ、憎しみや妬みを持ったのは自分の罪だ。自分が神の前に罪を犯したことを認識しよう。苦い思いがあるなら目をそらしている罪はないだろうか。その都度すべてを告白し確かな赦しを得て、またそこから従って行こう。


2010年03月11日(木)

「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって・・」Uペテロ1:9


「近視眼」「盲目」と言うのは、遠方を見ることが出来ない事で、信仰の目で、状況や、物事を、見ることができないという事だ。霊の目で見ることができず、肉的に見る。つまり、そこに神視点が無くて、人間的な目だけで見る。近視眼だと、実を結ぶことができないと言っている。

目の前に突如の事態、試練や苦しみが襲って来ると、ただただ思い煩い、嘆き、心配し、その堂々巡りだけだろうか。神を通して、問題を見ることをしないので、問題に向き合う事をせず、悩みに飲み込まれ、倒れてしまう。試練を通して実を結ぶことがない。ただ痛いだけだ。

アブラハムは甥ロトと、別れる事になった。その時、ロトに先に土地を選ばせた。ロトは近視眼的選択をした。祈る事も、神視点もなく、ただ肉の思いで、損得勘定で、肥沃な、潤った低地を選んだ。

その後、神はアブラハムに臨まれた。「あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に与える」と。ロトが先に良い地を取ったのに「この地全部を」と言われた。結局ロトの選んだソドムとゴモラは罪ゆえ滅ぼされてしまった。

ロトは自分の思いで選択した。しかしアブラハムは神に視点があったので、すべてを神に委ね、明け渡し、神が下さるものを受け取った。その結果全部を与えられた。今、問題に直面しているなら、神視点に立とう。判断を神に祈ろう。
------------
直面する状況に目を向けて判断するのは肉の目であり、私達は神様の恵みにより神視点を与えられたのだから状況の背後におられる神様の働きと、その御約束にいつもしっかりと目を向けて行くことが必要だ。


2010年03月10日(水)

「しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません」Uコリント12:5



み言葉の言う弱さとは、自分の限界を知り、認めているということだ。この世の言う弱さは違う。この世界は比較の中におかれ、比較の中で生きている。人より仕事ができない、勉強ができない、運動ができない、テキパキ処理できない、対人関係がうまくできない、そんな弱さは悪という価値観だ。

どこまでも競争ゆえ、それなら「負け組」ということになる。そのようなこの世の価値観、古い価値観の影響を受けると、できない自分、だめな自分、人の持つ幸せを持たない自分、人より劣る自分は敗北者になり、自分で自分を受け入れることができず、認めることができない。

問題はここだ。自分が自分を受け入れず認めない。だから人も認めることができないし、又、自分の弱さを、人にも受け入れて貰えないと思ってしまう。それゆえ、人に弱さを隠す事になる。競争なので、弱さを見せると、負けになる。尊敬を失い、自分の価値が下がる、だから絶対に見せられない。

自分で自分を縛り、窮屈にし、がんじがらめにしている。しかし、御霊の世界は違う。神の力は弱さのうちに完全に現される。
神の愛や、力や、恵み、神の支えや、助け、それらを弱さの中で初めて体験する。身をもって知れる。自らの弱さを「認める」時に、御霊の自由の中に入れられ、解き放たれ、平安にされる。
------------------
自分の苦手な部分、弱い所を認めて祈る時、神様の取り扱いを経験をする。弱さの中で与えられる慰めや励ましは、神様からだと知れてなんと愛されている事かと喜びに満ちる。


2010年03月09日(火)

「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることがないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」Uコリント12:7



ギデオンの当時、イスラエルは絶えず侵略受け、苦しい状況であった。神はギデオンを立て、民を率いて、諸国と戦わせようとされた。呼びかけに三万二千人が集まった。しかし、相手は十三万五千人の大軍だった。圧倒的不利で、勝ち目はない。

しかし、神は不思議な事をされた。ギデオンに、兵士の数が多すぎると、減らすように命じられ、最後にはたった三百人の兵士が残された。しかし、この戦いはギデオンの大勝利に終わった。

この時、神はギデオンに兵士を減らす理由として「大人数だと自分の手で自分を救ったと、自分を誇るから」と言われた。この戦いの勝利は人間の力ではなく、神の力によるものとわかるよう、あえて兵士の数を減らされたのだ。

私たちも自分が強ければ、神の働きを自分が奪い、自分を誇り、自分の栄光にしてしまう。信仰的体験さえも、肉が誇ってしまう。パウロは、素晴らしい啓示を受けた。第三の天にまで引き上げられるという、誰も受けた事のない特別のものだった。パウロも、自分を誇る弱さがあり、それゆえ、余りにも特別な恵みに、
高ぶる事がないように、肉体にとげが与えられたと、言っている。

厳しく苦しく辛いとげであったが、それにより、高ぶる罪から守られた。そして尚も素晴らしい啓示を受けた。「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と。この世では誇れるのは強さだが、私たちは弱さを誇れるとは何という恵みだろう。
---------------
弱いから強くならなければでなく、この弱さは神様を頼るために与えられていると認め感謝し神様に頼る生活をして行こう。神様が弱さの中に栄光を表して下さる。


2010年03月08日(月)

「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12



この世は競争社会だ。能力があり、出来る事が良い事だ。就職試験で問われるのは、何が出来て、何の資格を持つかだ。つまり、どれだけ自分に価値があるかが重要で、能力、技術が問題になる。

そしてどこまでも人との競争なので、そこでの自分の力量や位置は、必ず、人との「比較」の中で量る事になる。人よりどこが勝るのか、絶えず人が基準だ。

つまりずっと無意識にも「比較」の中に身を置く事になる。この世はそうだ。だから、この世では、得る、増し加える事が重要だ。競争を勝ち抜くには、努力をし、技術を磨き、更に技術、資格獲得に熱心になり、自分に付加価値を付け続けなければならない。

私達も底にこの世の価値観が無いか。努力に努力を重ねて身に付けると、そこに肉の「誇り」が生じる。自分の力でするので、肉の誇りを培う。御霊の喜びではなく、優越感の喜びとなる。

これが問題だ。自分の力が強ければ、神のみわざも自分の力と勘違いする。表には出さないが、内心自分を更に誇って行く。主の世界は、丁度逆で、その「誇り」を捨てる事がいのちに至る。

「神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・十字架の死までも従われた」この世と逆だ。「それゆえ、神はキリストを高く上げて」。根深い世の価値観に、無意識に流されていないか。
-------------------
神様が必要ならその力も技術も与えて下さると頭では知っている。人に勝つため、人に優るために力を下さいとも祈らないのに、目の前の比較の中に流され頑張ってしまう。世の比較、誇りから今週も守られますように。 


2010年03月07日(日)

「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」ヘブル13:5

ハドソン・テーラーの証しだ。彼は医者の助手として働いていた。その医師に、
給料を渡し忘れたら言うようにと、告げられていた。しかし、その場合は言わず
に祈り、神から答えを頂こうと考えた。

案の定、忘れられた。食料も無くなり銀貨1枚となった。その時に貧しい子供が
来た。母親が病気だ。手元には銀貨1枚。半分ならあげるが、1つしかなくあげ
られないと思った。

それで祈り始めたが「偽善者」との思いが来る。「祈りよりも与えるべきだ」と。
出来ない自分に、神にのみ頼る信仰など無いと知って惨めになった。結局、上げ
て財布は空になったが、心は平安で満ちた。

その日の夕飯は残り物を食べた。しかし、翌朝から何もない。早朝に郵便が来た。
封筒を開くと彼が与えたお金の数倍が入っていた。そして、そのお金がなくなっ
た時、医師が給料の事を思い出してくれた。

神は真実であり、生きて働いておられる。「彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を
見ませんでした」「正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見
たことがない」。

ツァレハテのやもめは、飢饉の中、死ぬ前に子供に最後の食事をさせたいとの、
その最後の一握りの粉をエリヤに献げた。最後のギリギリのものを献げたその時
に、かめの粉は尽きず、つぼの油は無くならなかった。真実な主が共におられる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
主が自分を決して離れられず、捨てられない、真実なお方だと、自分が従って行
く時に初めて経験できる。従わない限り、決してわからない。御霊に示されてい
る事、促されている事、無視せず、ないがしろにせず、従おう。新たに主に出会
う。


2010年03月06日(土)

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」ローマ8:2

私たちは新生し、新しい性質を持つが、同時に生まれつきの古い肉の性質もある。
この性質は天国へ行くまで、この世に生きている間、ずっと存在する。裁いてし
まったり、妬みや憎しみ、怒り、思い煩い、争い、怠惰・・罪の性質だ。

しかし、神に従おうとする新しい性質も同時にある。私たちは「貪るな」と言わ
れると、貪ってしまう。禁止されると、返って欲望がむくむくと湧く。

「〜してはならない」「〜するな」と抑えつけると、返って肉が暴れ、ますます
がんじがらめになり、罪を犯してしまう。これが罪の性質であり、「罪と死の原
理」だ。罪と死の法則であり、下へ下へと罪に落下して行く。法則だから例外は
ない。

しかし、自然なら落下するが、「いのちの御霊の法則」が働いている。例えば、
鳥は下へとは落ちないで、下へ落ちる力に、打ち勝って空を飛ぶ。命があるから
だ。ハンカチは放すと下に落ちる。しかし、途中で手で受け止めるなら、落ちな
い。

下へと罪に引きこむ、罪と死の法則が働いているが、主を見上げ、主に頼って歩
む時、「いのちの御霊の法則」の中に落ちる。御霊は私たちを支え、歩みを助け
られる。「罪と死の原理」より更に強い「いのちの御霊の原理」が今働いている。

「御霊によって歩みなさい・・肉の欲望を満足させることはない」毎日毎日、御霊
に導かれることが大切だ。御声を聞いて、御霊に従って歩む時、肉の歩みから守
られる。ここに救いがある。

・・・・・・・・・・・・・
「いのちの御霊の原理」が働く条件は、神に向くことだ。「罪と死の原理」は自
分に向く時に働く。常に、神に焦点を当てて行く時、御霊の力が働き、自分が神
に喜ばれる者に変えられて行く。「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれ
る。御霊のあるところには自由がある」。


2010年03月05日(金)

「あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください」詩編119:156



有名な例え話がある。ある村で豪雨のため川が氾濫、避難勧告が出た。ある男が「神に愛されているから逃げない。神は必ず助けてくれる」と避難しなかった。しかし、水かさ増し、とうとう屋根に上るはめになった。そこへボートの救助隊が来た。「早く乗れ!」男は「神が助けてくれるから乗らない!」ボートは去っ
た。次はヘリコプターで救助隊が来た。しかし「神が助けてくれる!」と救助を拒んだ。

そして、男は溺れ死んでしまった。彼は天国へ行き、神に激怒した。「ずっと待っていたのに、助けてくれなかった!」神は言われた「私は3度お前を助けに行った。1度目は勧告で、2度目はボートで、3度目はヘリコプターで。それなのにお前は拒否した」。

彼の間違いは、神の救助の方法を、自分勝手に、自分の思いで、決めつけていた事だった。神は「助けて!」との祈りにちゃんと答えられた。しかし、自分の思いが強いがため、受け取る事ができなかった。

私たちも同様だ。神は、時に思いを越えた、想定外の方法で答えられる。しかし自分の強い思いがあり、自分の思い通りにしたい、との自我があり、神のみ思いが見えない。「自分を捨て」自分の思いを捨てて、神の答えを見張っていよう。
違う形で来ているかも知れない。思いを越えた祝福に会う。
----------------
目の前のことの中にいつも神を認めて行こう。何が良くて何が悪いか、自分ではわからないのだから。不平不満が心に来る時、立ち返ってよく見てみよう。気づいていない恵みが十分に見えてくる。


2010年03月04日(木)

「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」ヨハネ3:4



この女性は、暑い真っ昼間に水汲みに来ていた。人目を避けての事だった。主は、飲み水を求められた。そして、やり取りの末、夫を呼ぶように言われた。彼女は最も触れられたくない部分であり、「夫はいない」とごまかそうとする。

すると主が、夫が5人いたが、今いるのは夫ではないと、真実を告げられた。彼女は罪の生活をし、過去の傷を背負っていた。5回離婚し、今は同棲中だ。その過去と現在のため、隠れた、縛られた生活をしていた。噂の的であり、人々から軽蔑されていた。

この罪の原因は、心の渇きであった。彼女は愛を求め、男性が自分を幸せにしてくれると信じ、結婚を繰り返した。しかし、渇きは全く癒されず、暗い過去に行く手もふさがれ、喜びも平安も希望も持てないでいた。

主は、彼女の飢えを、空虚をご存じであり、彼女のために、わざわざ迂回しサマリヤを通られた。主は、決して渇く事のない、生ける水を与えられた。彼女は180度変わり、人前に出て主を伝えた。彼女の心は解き放たれた。

彼女に目を留めたれた主は、あなたに目を留めておられる。どんな過去であれ、赦され癒され、縛りから自由にされる。新たな視点、神視点で見るようにされる。その事ゆえに神に出会えた、高慢から守られた、十字架の意味が知れた・・それらは必ず感謝に変えられる。
------------------
飢え渇く空虚な心を主は癒そうと、また失敗や罪を赦そうと私達の前を通られる。ありのままの今の自分を主に注ぎだし、そこに主からの渇かない水を豊かに満たしていただこう。


2010年03月03日(水)

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」ヨハネ1:9



「偽善者」という言葉は、「役者」を意味し、演技する者、「自分の名声や賞賛のために振る舞う者」と言う意味で使われている。ある人が証ししている。ずっと自分は良い人間でありたいと思い、誠実に生きたいと願い、良い事をしていると思っていた。

自分の動機も間違いなく、真っ直ぐで、人のため、皆のためと思い込んでいた。人のことを思い、人のためにと一生懸命にやって来た。ところが、ある時、御霊に心の中を照らされた。それらは、自己顕示欲であり、自己顕示のためにしていたと。自分が良い人に見られたいがためだった。

人には、良い人間に見られたいという根深い欲望があるものだ。まさに「役者」であり、人だけでなく、自分自身をも欺いて、演技する者であったと。その証拠に、それらの行ないが、相手に受け入れられないと、自分はこれだけ懸命にしているのにと、怒りと恨みで、心の中で相手を責めまくっていた。

まさに御霊からのものでなかったと。肉は、動機すら、何の問題も無し、すべてOKと、スルーしてしまう。「御霊はすべてのことを探り」、聖霊の光の中で、初めて本当の自分の姿を知る。それ以後、同じ失敗もするが、気づけるようになったと。自分でもわからない心の内を、御霊の光は照らし出し、真理へと導いて
下さる。
---------------
自分をそれ以上に見せようと演じているうちに、出来るふり、わかったふり、信仰的なふりをしている自分に自分が欺かれていく。ありのままの姿を示される事はなんという感謝だろう。砕かれ整えられるために偽りを演じるのはやめよう。


2010年03月02日(火)

「しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます」詩編130:4


ある学生が、学校のクラブで部長をしていた。ある時、健康上の事で、リーダーを辞退し、他の人に代わってもらった。責任を感じていたので、ほっと安堵し、気持ちが楽になった。しばらくして、どうしても新しい部長のために、祈れない自分に気づいた。祝福を祈れない。

どうして祈れないのか、心をよく探ると、自分の底にある妬みに気づかされた。皆の人気が新しいリーダーに向かい、相談事を持って行く事に嫉妬していた。自分から辞退した事であり、肩の荷が下りたと感じていただけに、認める事ができなかった。

主の御前に、心から悔い改め、赦しを受け取った。祝福を祈る者に変えられた。自分ではなく御霊の働きであった。別の人は、教会の奉仕において、意識する相手と、競争し、張り合っている自分に気づかされ、愕然とした。

ライバル視し、負けたくないと思っている。「まだ肉に属しているからです。妬みや争い・・ただの人のように歩んでいる」その通りであった。肉は奉仕をすら、自分のプライドのために用いてしまう。

恐ろしい自分の姿に、ことごとくを主の御前に告白し、心底悔い改めた。奉仕をする資格はない、止めようと思った。
しかし、その時、新たな奉仕の依頼が来た。主を畏れた。常に悔い改めて歩もう。豊かな赦しがいつも備えられている。
----------------
罪を示されるその憐み、そして罪を赦す権威がある神に告白できる恵み、十字架でもうその罪は赦しているよと言って下さる主の御愛。その主にあって相応しい歩みをして行きたい。


2010年03月01日(月)

「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です」詩編71:5



あなたには信頼できる相手がいるだろうか。例えば、友人と待ち合わせをして、時間になっても来ない場合どうだろう。あなたの心はどう動くだろう。急用か、やむを得ない事情が生じたと、思わないだろうか。

自分を裏切っただの、愛されてないだの、見捨てられたなどと思うだろうか。決してネガティブに動かない。なぜか。そこに信頼関係があるからだ。又、友人が失敗したらどうだろう。頭ごなしに責めるだろうか。そこに何らかの事情があったはずと思い、まず聞こうとするのではないか。

友人を信頼しているゆえに。又、相手も信頼ゆえに、心を打ち広げ、弱さを隠すことなく話すことができる。信頼関係がある時、そこに安らぎがある。安心して語らいを楽しむ。主を信じる者も同様だ。

罪の暗闇の世界から、御子の支配下に移され、罪赦され、主の愛に囲まれている。主のゆえに御父との関係が正され、平和を持っている。主との間に、根底に愛されている安心感がある。

主と私たちの間は、信頼関係で結ばれている。そこには平安と安堵と喜びがある。何があろうと、どんな時も、信仰的に、前向きに、肯定的に捕らえる。それが信頼だ。どんな状況でも、主は愛していて下さる。ご計画がある。益とされる、そこに立って、絶対に動かないでいよう。
-------------------
罪人である人間同士でも信頼の絆が保てるなら、主への信頼が何故が揺らぐのか。私達は自分が信じてきた方をよく知っているはず。今、待たされている状況があっても、必ず益となる答えを見る。