2010年04月30日(金)

「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」ヨハネ4:4



主は、わざわざ迂回して「サマリアを通らねばならなかった」。それは、心が飢え渇いて救いを求めている、一人の女性に会うためであった。主は「旅の疲れで」井戸のかたわらに座っておられた。非常に疲れて、座り込んでおられた。

通常の旅行の日程を変更し、わざわざ遠回りし、身体もクタクタに疲れながら、多大な犠牲を払い、一人の魂を追い求めて下さる。サマリヤの女性は偶然、主に出会ったのではない。主が彼女を求められたからだ。「わたしに水を飲ませてください」とへりくだって頼まれ、会話の糸口を作り、個人伝道をされた。彼女の心の渇きに生ける水を与え、応えられた。

同様に、私たちも、主が追い求めて下さったから救われた。主に出会うまでに、色々な布石があったはずだ。不思議に主に出会うように、導かれていた。つまり、主が求めて下さったゆえだ。この、主が私たちを一心に求めて下さった愛が、救霊の愛だ。この愛に突き動かされた宣教師や働き人を通して、福音が全世界に宣
べ伝えられて行った。

困難な異文化の中で、又、難しい田舎伝道など、義務で出来ることではない。主のご愛に応えて、主から与えられた魂への愛だ。私たちも、魂の救いのために、働きたいと願う者に、主は主からの愛を下さる。遣わされた場で用いて下さる。主が追い求められた魂の救いに、私たちも用いられる。何と光栄な事だろう。
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伝えてくれる人がいたから私達も救われた。嫌な質問にも喜んで答え、主のご愛をそのまま与えて下さった。主の失われた魂に対する悲しみやご愛を自分のものと出来るよう祈ろう。そして主に用いていただこう。


2010年04月29日(木)

「主が振り向いてペテロを見つめられた」ルカ22:61


死んでもついて行くと、豪語したペテロだが、主が捕らえられた時に、主を三度も裏切ってしまった。その時、主は振り向いて、ペテロを見つめられた。その主のまなざしは、ペテロへの愛と慈しみに満ちていた。決してペテロを責めていなかった。赦しと変わらぬ愛の優しいまなざしであった。

だから、ペテロは、外に出て、激しく泣いた。号泣した。後悔と主の優しさが身にしみて、泣いて泣きじゃくった。もし、この時、非難や冷ややかな目で見られたなら、あの後の、リーダーとしてのペテロは無かったし、二度と立ち直れなかったろう。

ペテロは自分の弱さを思い知ったろう。そして、主のご愛を思い知った。主のよみがえりの後、墓に御使いが現れ、女たちに「お弟子たちとペテロに」ガリラヤに行くよう伝えた。「とペテロに」、特別にペテロの心中を配慮した深いご愛と慈しみだ。泣き明かしたペテロに、よみがえられた主が、三度御声をかけ回復さ
せて下さった。

そして、羊を飼うよう使命を与えて下さった。主のご愛はペテロを癒し、よみがえらせた。私たちも同じ愛で、愛されている。どれだけ失敗しても、いつも主の慈しみのまなざしが注がれており、癒し、再び立たせて下さる。ペテロへの特別なまなざしと配慮は、あなたにも向けられている。
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自分の中の醜さや愚かさがあらわにされ深く悲しむ時、同じように悲しみ、それ以上に慈しみのまなざしで見ておられる主がいる。失敗して始めて無力な自分に気づき、主の赦しとご愛を深く知る。


2010年04月28日(水)

「だれでに、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです」ヨハネ11:9


ラザロが死んでしまった後、主は「ユダヤに行こう」と言われた。すると弟子たちは、ユダヤに行くと石打ちに会い、殺されてしまうと。その時に主は「昼間歩けばつまずくことはない」と言われた。わたしに従ってさえいれば、大丈夫だと。

状況の問題でなく、主の問題であり、御心の中にあるかどうかが大切と。つまり、主に従った歩みが、昼間歩くことであり、従わない事が、夜歩くことだと。「夜、歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです」主から目を離した途端、私たちは、すぐにつまずいてしまう。

この苦しみ、この悲しみは、「何で?」「どうして?」疑いや不安、恐れに襲われる。暗闇に入り、つまずき倒れてしまう。しかし、主を見上げているなら、私たちの内の光は赤々と輝き、明るい。どんな暗い中でも、困難な中でも、歩んで行ける。決してつまずくことがない。

なぜなら、光を見ているからであり、光があるので歩んで行ける。そして、主に従い、御心に従って行くと、私たちの内にいのちの光が輝く。状況は最悪でも、心に御霊の喜びがあるので、進んで行ける。罪の性質は、肉は、暗闇を愛してしまう。

肉は自分の欲望を遂げたい、思い通りにしたい。今、岐路に立っているなら、神の御心を選ぼう。どんなに困難に見えても、「昼間歩けば、つまずくことはない」前進して行ける。神を見ているからだ。
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みこころの内を歩んでいるなら、ただ信じて踏み出すことが出来る。肉の思いで落ち着きなく暗闇に歩いているだろうか。平安はあるだろうか。神を見上げ、光の中を心広やかに歩いていこう。


2010年04月27日(火)

「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた」マタイ25:16


主人から5タラント、2タラント、1タラントと与えられた。それぞれが、与えられるものが違い、分量が違い、大きさが異なる。一人一人が境遇も能力も異なり、すべてが神の主権のもとにあり、神から来ている。神から与えられたものだ。

神から来ているゆえ、不満もつぶやきもない。5タラントと2タラントの者は、もうけた額が異なっていた。しかし、儲けた割合は一緒だった。二人のもうけた額には差があるが、それぞれが2倍になった事には差がない。そして、賞賛の言葉が全く同じだ。「よくやった忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だっ
たから・・」5タラント儲けた者も、2タラント儲けた者も同一の賞め言葉だ。

つまり、神は「忠実」を見られて、額は異なっても、同じ評価を与えられる。人間と見るところが異なる。人が見るのは、10タラントと4タラントという額ではないだろうか。神は、成功、失敗ではなく、「忠実」を見て賞賛して下さる。

1タラントの者は、主人の心に、主人を喜ばせることに何の関心も無かった。ただ考えていたのは、自分のことだけであった。自分のためにだけ生きていた。「主人の喜びをともに喜んでくれ」5タラントと2タラントの者は、主人を喜ばせようとした。そして、それが自分にも返って来た。
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結果だけが全てなら失敗するより何もせずに1タラント残すやり方が一番楽だ。失敗を恐れず、神様のために何かをしようとする心を大切にしよう。それを何よりも喜んで下さるお方のために、与えられた賜物を素直に使って行こう。


2010年04月26日(月)

「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」ルカ15:20                  

父親に、生前分与してもらった財産を持ち、弟息子は遠国に去った。放蕩三昧で、
湯水のように浪費した。遊女におぼれ、身代を食い尽くした。身勝手、好き放題
して、のこのこ帰り、その挙げ句、豪勢な宴会とは何事か。

日々辛い仕事を怠けずに、しんどい目をして働いた自分は一体何なのか、兄息子
は受け入れられない。納得が行かない。怒りで身体を震わせた。長い間、行方不
明になっていた弟が、生きて無事戻って来たのだが、「あなたの息子」と、もは
や弟ではない。

しかし、弟は、無一文になるや、金の切れ目は縁の切れ目で、取り巻き連中は皆
去り、見捨てられた。誰一人気遣ってくれる者もおらず、崖っ淵の困窮の中で、
深い孤独、寂寥感、虚無感に呑まれた事だろう。

豚の番人、豚の餌、ユダヤ人が忌み嫌う動物だ。そこまで落ちぶれプライドも何
もかもグチャグチャだったろう。餓死という死線を通り、心身どん底だった。
父親は、弟息子が通ったこの限界ギリギリの苦しみ、辛さ、痛みをわかっていた
ので、心は慈しみとあわれみで一杯だった。

「だが、お前の弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ」弟は死を通ったのだ
と。父は兄への愛も溢れ、兄を叱らず、とがめず、なだめ、「私のものは全部お
前のものだ」と深い愛情を示す。この神の愛にあなたはどう答えるだろう。

・・・・・・・・・・・・・・
弟にも兄にも、同じように注がれている、父の深い慈しみと愛。心は父を離れ、
父の愛がわからず、心屈折させる兄をも、全く責めず、「私のものは全部お前の
ものだ」とは何という愛だろう。この愛で愛され、包まれている事を今朝も覚え
よう。


2010年04月25日(日)

「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」マタイ2:3

東方の博士たちが、エルサレムに到着した。ユダヤ人の王の誕生を聞き、ヘロデ
王、エルサレムの人々が、不安に襲われた。

ユダヤ人の王が現れたなどと、ヘロデは自分の地位が脅かされ、危うくなる。非
常な恐怖であった。「来て欲しくない」拒否反応、来られては困る。
これまでも、身を守るために、疑心暗鬼で、暗殺や処刑の、粛清を繰り返して来
たヘロデは、後に博士達に騙されたと知ると、二才以下の男児をすべて殺させた。
徹底的に保身を図った。

エルサレム中の人々も、ローマの支配下で、一応の情勢や生活が安定していた。
今、何かが起こり、混乱し、情勢が変わり、生活が脅かされるのは困る。自分達
に関わらないで欲しい。安定を乱さないで欲しい。「今、来られては困る」。

東方の博士達は、遠方から命の危険をも賭して、幼子を礼拝しにやって来た。当
時の旅は命がけだ。
羊飼い達は、御使いから救い主誕生の知らせを聞き、すぐに急いで、飼い葉おけ
に眠るみどりごを捜し当てた。彼らは神をあがめ、賛美して、喜びに満たされた。
祭司長たちは、救い主の誕生を聞いても、行きもしなかった。

私たちはどうだろう。信仰はするが、そこそこで、が本音だろうか。心の幾つか
の部屋の鍵は、決して渡せないと思っているだろうか。ここだけは自分の思い通
りにしたい、関わらないで欲しい。入って欲しくない。主を締め出してしまって
いるかも知れない。
部屋の鍵を一つづつ渡して行く度に、今まで知らなかった御霊の喜びが満ちて行
く。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
肉が願うのは、何でもいい、とにかく平穏無事である事だ。問題が無いこと、
悩みが無いことが善であり、それが幸せだ。自分は変わりたくない、何も乱され
たくない。主は目と耳を閉じた偽りの平和でなく、真の平安と真の御霊の喜びを
与えて下さる。心が自由に自由にされて行く。


2010年04月24日(土)

「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」ルカ18:17

親たちは、主に祝福していただこうと、子供達をみもとに連れて来た。ところが、
弟子達がそれを叱った。弟子達にとって、幼子は、妨げとは言わないが、わきま
えなく騒ぎ、役に立たず、教えも理解できず「足手まとい」な者であった。

しかし主は、「止めてはいけない」と、幼子達をみもとに招かれた。そのような
幼子は、ただ「受ける」しかない、受け身の弱い存在であり、親の世話がなけれ
ば、一日たりとも生きて行けない、そんな子供の無力さ、弱さに、主は「神の国
はこのような者たちのもの」と言われた。

幼児は無力だ。何の力も、知恵も、判断力も無い。ただただ恵みを受けることに
よって、誰かを信頼することによってしか生きられない。自力で生きる事ができ
ない。しかし、だからからこそ、素直で、「来なさい」との声に、何もためらわ
ずに従う。

自分を抱いてくれる人の腕に、心も身体も命までも全重量を預けきって、すやす
やと気持ち良く眠る。主はそんな幼子の無力さ、弱さを、そのまま受け止め、祝
福された。

そして、私たちに、幼子のように神の国を受け入れる者であれと、言われた。親
の腕の中で、何の不安も心配もなく、安らかに眠る幼子、何と幸せだろう。親に
全面的に頼らなければ生きて行けないからこそ、安らかだ。

私たちの親である御父に、素直に、全面的に頼ることを、御父は喜ばれる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
幼子は親に依存しきっている。親がいさえすれば、どのような悲惨な状況の中だ
としても、安心で幸せだ。親がいればよい。親がすべてだ。私たちも同様だ。御
父の腕の中で、何もかもあずけて、幼子のように安らいでいよう。


2010年04月23日(金)

「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」ヨハネ11:6


ラザロが病気になり、マリヤとマルタは使いを主のもとへ送った。こんな危急の時には、主はすぐに、取るものも取り敢えず、駆けつけて下さる。そして癒して下さるはずだと勝手に思い込む。しかし、そうではなかった。

早く!との思いに関わらず、主は、尚も2日動かれなかった。そして、ラザロの死後、立ち上がられた。私たちには、これが最善との思いがいつも潜む。どんな場合も自分の思いがあり、思い通りに物事が運ぶ事を願う。

自分が良いと思うことは神も良いと思われると、勝手に思いこむ。しかし、そうではない。しばしば、神のみ思いは、私たちの思いと異なる。「天が地よりも高いように」神のみ思いは、将来を、すべてを見通しておられ、遙かに高い。

自分の思い通りにならないと、ひがんだり、すねて、心を屈折させたり、消極的になるのでなく、神は更に良いことを備え、何かのご計画があることを信じて行くべきだ。神の極みまでの私たちへの愛を信じよう。主は病の癒しよりも更に大きな、よみがえらせるという計画を持っておられた。

物事が全く動かず、進まない時、主は本当に心に留めていて下さるのかと思う。忘れられている。置いておかれている。見捨てられている。しかし、主は更に大きなご計画をお持ちだ。病の治癒でなく、よみがえりの奇跡のように。主に間違いはない。信仰もって、続けて主を待ち望んでいよう。必ず、みわざを見る。
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病気が治れば良いと目先の心配を取り去って下さればと願うが、その祈りも聞いていて下さってなお、主はご自分のみ思いをされる。信じて待とう。一番良い時に主の栄光を拝せる喜びを信じよう。


2010年04月22日(木)

「子どもは死んだのではない。眠っているのです」マルコ5:39


会堂管理者ヤイロが、瀕死の娘のために主に助けを求めた。主が共に出かけられると、長血の女性が割って入った。一刻を争う時であり、ヤイロの心は急いて、気が気ではなかったろう。彼女が癒された時、使いが来て娘の死を告げた。

もう主に来て頂く必要はないと。ヤイロの心はどんなであったろう。絶望が襲おうとする瞬間に、間髪を入れず主は御声をかけられた「恐れないで、ただ信じていなさい」。別訳では「主はその話している言葉を聞き流して」、「主はその言葉に注意を払わず、心に留めず」となっている。不信仰な言葉は、聞き流す必要がある。心に入れてはならない。

信仰の言葉である、御言葉を心に入れて、不信仰な言葉には耳を塞ぎ、シャットアウトすることだ。不信仰の言葉を心に入れると、不安や恐れ、疑心暗鬼に支配され、不信仰に侵食されて行ってしまう。又、不信仰を招く事柄に「もうだめだ、遅かった」という状況がある。

しかし、神の時がすべてだ。家に着くと、人々は大泣きし、取り乱していた。娘は知らせ通り、すでに死んでいた。目の前の動かすことのできない現実であった。しかし主は、「死んだのではない、眠っている」と言われた。

人々は嘲笑った。理性に合わないからだ。しかし、主の言葉通り、娘は生き返った。どの言葉を受け入れ、どの言葉を聞き流すか、私たちの心が守られるために大切だ。
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心の中でいつも何かの声と会話している。不信仰な言葉が心に来る時、それを自分のものとしないために、いつも御言葉をたくわえていよう。不安や苦い思い、聞き流すべき言葉にすぐに気づき、今日も心守られますように。


2010年04月21日(水)

「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。・・つのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです」Tサムエル1:16

エルカナには二人の妻がいた。ペニンナには子供がいたが、ハンナにはいなかった。ペニンナは、夫がハンナを愛している事に激しく嫉妬していた。それで、ペニンナはハンナをいじめた。ハンナは、子供がいないという、その急所を突いて攻撃され、ハンナの苦しみ、悲しみ、辛さは尋常でなかった。

痛みと苦しみのため、ハンナは主の御前に出て、心を注ぎ出し、激しく泣きじゃくった。唇が動くだけで、声が聞こえないので、祭司エリは、彼女が酔っていると思った。彼女がことごとく主に打ち明け、気持ちも感情も表わし、泣いて訴えた後、祭司から「安心して行きなさい。願いが叶えられるように」との言葉を受
けた。その時、彼女は変わった。もう以前のようではなかった。

私たちも、辛い、苦しい状況の時は、泣いて訴えるとよい。気持ちも、感情も、何もかも受け止めて下さるお方だ。人に言えば「愚痴」が、神に向けると「祈り」となる。心の悲しみ、苦しみ、不安も恐れも、何もかも訴えて、委ねて行く時、心がすっきりし、平安にされる。主が受け止めて下さるからだ。

ハンナの胎を閉ざされたのは主であり、ご計画があった。当時の堕落した、霊的暗黒時代を導くサムエルを、祈りにより産み出そうとされた。そのためにハンナが用いられた。あなたの今の苦しみにも、深いご計画と御心がある。大きな祝福が産み出される。
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ネガティブな思いを人に語り自分に語り続けても何の解決にもならない。主に心をうち広げ語ろう。主が受け止めて下さり、そこに人のすべての考えにまさる神の平安がある。


2010年04月20日(火)

「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」ヨハネ10:14


思い煩いは、自分が、自分の力で対応できないところから生じる。つまりは、自分が何とかしようとして、できないから思い煩っている。自力でコントロール不能状態だ。どうしていいかわからない。この経済問題、あの対人関係、その目の前の状況、また先の事態。自分の力量を越えている。それで思い煩う。

その底に、真の「安心感」が必要だ。自分一人で人生を歩んでいるのではない。自分は羊であり、自分には羊飼いがいる。その羊飼いは、絶えず慈しみのまなざしで、自分を見つめ、あらゆる配慮をなし、世話をし、食べ物と水を与え、病気から守り、狼から、あらゆる危険から身体を張って、守って下さる。

「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。絶えず愛され、見つめられている。そこから安心感、安らぎが来る。羊飼いは、羊に病気や、けがはないか、傷はないか、痛みはないか、常にチェックする。そして対処する。

もしあなたの過去に歪んだ傷があるなら、主こそ癒し主であり、癒して下さる。「心の傷ついた者を癒すために、わたしを遣わされた」主は傷を癒すために来て下さった。「心が傷んでいます」とそのまま主に告げよう。「わたしのものを知っています」心の隅々まで知り尽くしておられる主が、良くして下さる。
良い羊飼いが絶えず愛のまなざしを注いで下さっていることを覚えよう。
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自分の歩みを自分で決めなければならないと思うから迷い不安になる。神様を信じた時に人生の決定権を神様に渡したのではなかっただろうか。思い煩う時、羊飼いなる主を思い、主と語ろう。


2010年04月19日(月)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6


心配事があるだろうか。人は多くの問題を抱える。親子、夫婦、家族、対人関係、仕事、進路、経済的問題、次々と悩みが来て不安に陥る。しかし、主は「思い煩うな」と。思い煩いは無用と。なぜ無用なのか。

それにより何一つ変わらないし、何をも成し遂げない。「誰が心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことができるか」の通りだ。不安と恐れで心が真っ暗になり、それで、何かを変える事ができるのか。思い煩いは全く何の益もない。有害無益だ。

又、思い煩いは、実際より、物事を巨人のように大きく見せる。冷静に対処するなら、乗り越えて行ける事が、パニックに陥ってしまう。カナン視察の後、ヨシュアとカレブは大丈夫だ、前進しようと言ったが、民は恐れて怯えて泣き伏した。

その思い煩いは絶えず脳裏に浮かび、それを受け入れ続けていると、不安と恐れの要塞を築き上げ、それを尚も固くし、思い煩いのモンスターにしてしまう。自分がしている。モンスターにはとても打ち勝てず、不信仰に陥る。

しかし、それは現実、実際とは異なる。想像上のモンスター、自らが描く最悪のシナリオは成ったためしがない。「あらゆる場合に」「祈りと願い事によって」その不安、あの思い煩い、この恐れ、主に知って頂き、主に渡そう。「そうすれば」神の平安が心に臨む。
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思い煩う時、ふっと神様を忘れてしまっている。先のことを全て知っておられ、今の恐れを平安に変えて下さる方に祝福を求めて祈ろう。不安ではじまっても、神様が共におられるから結果はいつも祝福と感謝で終わっているのではないか。


2010年04月18日(日)

「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり・・」ヨハネ2:24

多くの人々が主の奇跡を見て、驚嘆し、主を信じたが、主はご自身をお任せにな
らなかった。任せるとは、信用する、委ねる、心を与えるという意味だ。最初の
奇跡をカナで行なわれ、数々の奇跡をされた。それらを見た人々は主を信じた。

しかし、主はしるしを見て信じた人々に、ご自分を委ねられなかった。主はよく
ご存じであった。しるしにより心動かされ信じても、その感動は一時的なものに
過ぎず、感情は必ず冷める。

しるしだけを求めるなら、試練の時に必ずつまずき、離れる。軸が自分にあり、
自分が中心なので、自分に得るものが無いなら離れて行く。主は奇跡をされた時、
必ず御言葉によって行なわれた。主の口から語られる一つ一つの言葉によって、
みわざが成された。

しかし、人々は御言葉より、奇跡に夢中になる。そして、奇跡を見て信じた人々
は、皆、離れ去ってしまった。出エジプトを経験したイスラエルはあれほどの、
神の超自然を見て、すぐに荒野で、つぶやいた。

荒野で奇跡を見続けたに関わらず、結局カナンに入れず、不信仰で滅んでしまっ
た。主を信じるとは、主が語られた御言葉を信じることだ。御霊により語られた
言葉を信じ受け入れ、そして御言葉に従う時、信仰が確かなものとされて行く。

御言葉に従うとは、つまり、自分を捨てることだ。自分を砕いて従って行く時、
その時、主ご自身を知って行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・
信仰が自分軸にあるなら、自分に都合良い限りは従って行くが、都合悪くなると
必ず身を引く。得であれば従うが、損になる事に従いはしない。一歩一歩、御言
葉に従うなら、主はどんなにか喜ばれ、主との信頼関係が深められて行く。


2010年04月17日(土)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい」エペソ6:11

ある人の証しだ。「祈り、交わり、主との交わりを楽しみ、みそば近く歩んでい
た。御霊からの促しや示しに、一つ一つ従っていた。特に何の問題も無い時に、
突然、心が沈み、暗くなり、ネガティブな思いに襲われた。特に理由もなかった。

心が深く沈み、重苦しく、閉塞感におおわれた。わけがわからず、その思いを懸
命に何とかしようとするが、どうにもならなかった。どんどん否定的思いに支配
され、自分はダメだ、ダメだとの失望感に陥った。

何が何だかわからず、重苦しい中で主に向かって、助けを求めて心から叫んだ。
その祈りの中で、まさに悪魔からの攻撃であると、知ることができた」悪魔の私
たちへの効果的攻撃法が「失望」に陥らせる事だと言われている。

「失望落胆」で攻撃して来る。悪魔は偽り者であり、偽りの父だ。頭のスクリー
ンに嘘を描いて見せて来る。これまでの歩み、失敗に関して、親子、夫婦関係、
対人関係、信仰について、そこに嘘を入れて来る。

すると、思い煩いと不安、恐れで、落胆してしまう。もし、こういう状態になれ
ば、それは「悪魔」だ。神からではない。サタンの熾烈な攻撃が来ている事に気
づこう。御霊は御言葉により、敵の攻撃を打ち破られる。敵は破られる。

御言葉を心に据え、信じよう。御言葉を握り、御言葉に立ち、御言葉を心に満た
そう。悪魔は退かざるを得ず、平安が戻る。

・・・・・・・・・・・・・・・・
霊の敵の勢力があ。サタンは自らを隠す事が、最大の攻撃だ。サタンが無く、思
い煩い、恐れ、不安が目の前にあるばかりだ。天国へ帰るまでは、策略者との霊
の戦いである事を今一度覚えよう。すでにサタンに勝利の主が共におられる。


2010年04月16日(金)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16

   

ある人が、クリスチャンになる前は、他人の事が気になって仕方がなかった。人と自分を比較して一喜一憂の日々であり、他人が成功すると、心の中に妬みが湧き上がった。信仰持ち、しばらくは意識しなかったが、又、湧き上がって来た。

職場では同僚を、教会では他の信徒を妬んだ。そして神学生になった時には、同期生を妬んだ。どうしても比較して、張り合ってしまう。表は友人だが、心の中では競争相手となる。余りにも心が苦しくて、辛くて、主の御前に心を注いで祈った。

その時に、神視点に立たせて下さった。神の御名が崇められ、神の働きが成し遂げられているではないか。それぞれの人には、それぞれ別の賜物が与えられていて、その賜物で神のために仕えている。神の働きが前進していて、神の栄光のためである。神視点に立った時、その時、心に嫉妬ではなく、御霊の喜びが来た。

神が喜ばれ、神の栄光が現れていることが嬉しかった。以前は自分が中心であり、自己中心にすべてが回り、自分を軸にしている。だから、比較により自分を確認するので、人が賞賛を受け、高められると、あたかも自分の値打ちが下がったように感じる。面白くないし、落ち込んで喜ぶことなど出来ない。

しかし、神に視点を置く時、自分の見方が変えられて行く。神を見上げる事は信仰であり、その時、御霊が働かれるからだ。
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様々な出来事を通して神様は自分の弱さ、足らなさを示してくださる。状況ではなく神に目を向ける時、窮屈にしているものが自分の側の問題だとわかり、そこから自由にされる。


2010年04月15日(木)

「あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし・・彼はわたしの名のために一つの家を建て」Uサムエル7:12



ダビデは、主のために、神殿建設を願った。しかし、その願いは退けられ、彼の子供が建設するとの御心が示された。次世代の子供に委ねられており、その王座を堅く立てると。ダビデが神殿建設をしたかったが、主からの答えは「ノー」だった。私たちもこのようなケースに出会す。自分の心からの願いが「ノー」と、突きつけられた時どうだろう。

一つは自分の思い通りにならない事に、失望落胆して、やる気が失せ、又、心を屈折させてしまう。又、もう一つは、「ノー」を主からのものと受け入れ、では、主の御心が成し遂げられるために、自分はどう動けばよいのか、何をすべきかに焦点を当てる。この二つの反応が出る。

ダビデは、「ノー」を受け止め、息子ソロモンが建設するとの御心を知り、そのための準備に回った。これがダビデの信仰であり、素晴らしさであった。政治的、経済的な安定がなければ、神殿建設は不可能だ。ダビデは諸外国の敵と戦い、基盤を築いて行った。

「主は、行く先々で勝利を与えられた」御心に従うダビデに、主が連勝を与えられた。そして次から次への膨大な金銀の戦勝品を、建設資金として主に献げて行った。自分の道が閉ざされた時、無気力にならず、屈折せず、ダビデにならおう。別の御心がある。「では、今自分のなすべきことは?主の御心は?」主はすでに大きな祝福を備えていて下さる。
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神様のご計画が今「ノー」であるならそれを受け入れ、先に希望を持って、次のなすべき事に信仰を働かすことがみこころだ。気落ちせず、必ず応えて下さる神様に次の導きを尋ねて行こう。


2010年04月14日(水)

「あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことができない」ヨシュア7:13


 アイへの偵察隊が「二、三千人で大丈夫」と戻った。そこで三千人を戦いに出したが、さんざんな敗北だった。予想外の事実に、民の心はしなえ、水のようになった。勝利を疑わなかっただけに、大変なショックであり、動揺であった。

奇跡のヨルダン渡渉を経験し、エリコ城壁崩壊の大勝利を目の当たりにし、大いなる神が共におられる、その事がヨシュアの拠って立つところであり、敗北の事実自体が、それらをなし崩しにしてしまう事であった。

主の御名はどうなるのか。周囲の敵の前で、この敗北はどうなるのか。ヨシュアは、「なぜですか」とひれ伏し祈った。「大いなる御名のために何をされるのか」と。しかるに「大いなる御名」こそが、この敗北を与えられた。

全能の神は、同時に「聖い」神であった。「聖さ」に関心を持たれ、聖さのゆえに、罪のあるところに働かれない。聖く無い所では、敗北の方が、神の栄光が現れる。妨げは神の側ではなく、民の側にあった。

神との間が正しければ、アイでも勝利していた。神は罪を示し出され、アカンの罪が発覚した。罪が取り除かれた時、再びアイに上り、神は完全勝利を与えられた。

罪は神との仕切りとなり、平安を失う。私たちには主の流された血潮がある。今すぐ主のもとへ行き、ことごとく告白しよう。主は完全な赦しを与え、解き放って下さる。心に平安が戻り、罪赦された喜びが溢れる。
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罪をそのままにして神様との深い交わりは出来ないから、喜びのない力ないクリスチャン生活になって行く。神様は常にその罪に気づくよう促される。告白し、赦された恵みに感謝し、再び力強く歩んでいこう。


2010年04月13日(火)

「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして私について来なさい」ルカ9:23



「自分の何かを」捨て、ではなくて、「自分を」捨てて、と言われている。私たちの自我を日々十字架につけて、ついて行く必要がある。私たちはキリストにあって、義人であると、神は見て下さっている。

すでに義人であり、神の目から見たなら肉の中にはいない。古い人はすでに十字架につけられた。しかし、同時に、天国に行くまで、自分の内に肉があるので、日々に自分を捨てて、歩むことになる。

泥酔やギャンブルや、妬みや、憎しみ等はストレートでありよくわかる。しかし、醜い自我だけでなく、自分の心を占領し偶像になっているのは、良いものかも知れない。サウルは「最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのないもの」を聖絶した。私たちもどうだろう。

最も良いものを取っておき、どうでもよいものだけを捨てているだろうか。時間や労力を献げて懸命に奉仕するが、実は、自分を喜ばせる自己満足、誇りやプライド、つまり自我がますます肥え太っているかも知れない。

信仰も強いが自我も強いということになる。「山を動かすほどの完全は信仰」を持っていても、自分の栄光のためということになる。御言葉通り、自分を捨てなければ、結局、無に帰してしまう。

御霊は、具体的に自分に死ぬことを、それは譲る事であったり、謝罪する事であったり、批判を受け止める事であったり、指し示して下さる。従って行こう。
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手に負えない大きな出来事の中だけでなく、日々負ってついて来なさいと言われる主の言葉を心に留めていたい。日常の生活の中で自分に死ねない本当の自分と向き合い、与えられない、譲れないと主に認め、主について行きたい。


2010年04月12日(月)

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」ローマ8:5



「肉的なこと」とは、どんなものだろう。自己中心的な考え、ネガティブな考え、肉の快楽だとは想像がつく。しかし、もし教会に忠実に出席し、奉仕をしていたとしても、自分の欲望のため、自分の誉れ、栄光のためにするなら、「肉的なこと」だ。

又、「御霊に属すること」とは、御霊からくる思いであり、信仰的、創造的、肯定的であり、そこには喜びと平安がある。すべての事についての感謝がある。私たちは自分の考えを、コントロールすることは困難だ。自分の心はちぢに乱れ、思いは幾らでもさまよう。どうすれば良いのか。

御霊に自分の心を明け渡して、支配していただくことだ。その時、御霊が正しく導いて下さる。信仰生活が喜びであり、幸福感をもって、歩んでいる人々がいる。又、そうでなく、いつも愚痴と不満でいっぱいの人々もいる。どこが違うのか。

いつも喜びのある人は、喜びに目を向け、考えている人であり、愚痴だらけの人は、愚痴に目を向けている人だ。環境は全く関係がない。環境が原因ではない。その人の思いがどうかだ。いつも恵みを数え感謝している人は、幸せだ。

何に目を留め、何を考えているかで、生き方が決まる。「現在の状況がどうであれ、神は必ず良くして下さる、神を信じていよう」これは御霊による思いだ。肉の思いと御霊の思い、どちらの思いで生きているだろう。
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肉の思いを見て生きるなら一瞬の喜びもまた肉に妨げられて不満となる。肉を捨てて御霊の思い、御霊の導きを見つめて生きて行こう。注がれている恵みの一つ一つを謙遜に受けて揺るがないの平安の中におられる。


2010年04月11日(日)

「しかし、舌を制御することは、だれにもできません」ヤコブ3:8


舌で失敗したことがあるだろうか。舌は両刃の剣だ。良い実も、悪い実も、どち
らも結ぶ。人を励まし、癒し、生かす事もできるし、又、刃物となり、人を傷つ
ける事もできる。

感情的な言葉は、特に要注意だ。不用意な舌によって、人間関係が破綻したり、
長年の関係を壊してしまう。又、御霊に導かれた言葉は、深い落ち込みの中で、
ひと言葉によって、勇気づけられ、立ち上がれ、立ち直れたりする。

舌は野放しにすると、どこへ行くかわからない。悪口、噂話、無益な言葉、不必
要な言葉、「舌は火であり不義の世界」「少しもじっとしていない悪、死の毒に
満ちている」制御すべきだ。

しかし、誰が制御できるのだろう。「誰にもできません」。自分は全く無力であ
ることを認め、主に拠り頼もう。私たちに舌を制御することは不可能だ。何とか
して制御しようとするが、何度失敗した事だろう。

どうしてこうなったのかと後悔する。不必要な言葉を発し、関係を悪化させる。
それは自分の力で舌を使っているからだ。又、自分の弱さを自覚していない。自
分を知らない。だから祈りの備えもなく拠り頼もうともしない。これが失敗の原
因だ。

しかし、御霊に導かれるなら可能だ。「私の口に見張りを置き、私のくちびるの
戸が守られるよう」祈ろう。黙すべき時には黙し、舌を御霊の支配に委ねよう。
時、場所、相手をわきまえ、最もふさわしい言葉を語らせて下さる。

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肉で舌を用いると、感情に振り回されて、言葉を発してしまい、必ず後悔する事
になる。自己正当化、自分を守るために、舌を使うい、双方で傷つく。「誰にも
制御出来ない」ので、舌が御霊に導かれて、神の恵みを語るために用いられるよ
う祈ろう。


2010年04月10日(土)

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」ローマ8:1



私たちは、罪と死の原理のもとにいた。主に喜ばれるよう、正しく生きよう、御
言葉を実行しようとするが、幾ら頑張ってもできない。どれだけ頑張っても失敗
の繰り返しだ。そんな自分に自己嫌悪を抱き、落ち込んで行くばかりだ。

肉によって無力になってしまっている。この原理にどうする事もできなかったが、
しかし、「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることが決してない」
主によって、罪と死の原理から解放された。

そして、今、いのちの御霊の原理のもとに置いて下さった。リンゴを落とすと、
地上に落下するが、もし、手を伸ばし、それを手の平で受けると、落ちない。落
下しようとする力と別の力が働いて、阻止する。又、地球では、引力の法則によ
り、物は必ず落下するが、もし、宇宙ならどうだろう。別の力が働く。

そのように、一つの原理に対抗する別の原理を置いて下さった。それが「いのち
の御霊の原理」だ。自分の力で御心を歩もうとしても、絶対にできないが、御霊
によって歩む時、いのちの御霊の原理の中にいるので、御心を行なうことができ
る。

主がその肉体をもって、罪を処罰された。それゆえ、私たちも肉にあって死んで
いる。「〜ねばならない」でなく、ただただ御霊の声に従って行く時、御旨を行
なって行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・
罪を犯す事しか出来ない者が、御霊に導かれて歩む時、いのちの御霊の原理の中
にいる事になる。それゆえ、御心を行なう事ができる。何という救いだろう。御
霊の導きを無視せず、ないがしろにせず、従おう。目の前の促しにまず従おう。


2010年04月09日(金)

「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです」ローマ7:21


原理と言うのは、法則のことだ。この世界には、色々な法則があるが、法則とは、すべての人にとって、一切の例外なく当てはまるものだ。聖書によると、私たちの中に一つの原理があると言う。

「善をしたいと願うのに、悪が宿っているという原理」、これはパウロの経験だ。パウロは新生したので、善をしたい願いがあった。信仰者には、神が喜ばれること、神の御心を行ないたいという願いがある。新しい命があるからだ。

新しい命は、新しい性質を宿し、神の喜ばれる事をしたいと願う。私たちもパウロと同様、神に喜ばれることをしたい。ところが、そのような願いがあるに関わらず、願いに反する法則が存在する。「悪が宿っているという原理を見いだす」。

非常に困った事態だが、これにはどうやっても逆らえない。どんなに物を上に投げたとしても、引力の法則で、必ず下に落ちる。どうにもできない。自分で良い行ないをして、しばらくは行けるが、必ず落ちて行く。

神を喜ばせる事ができない。それを徹底的に経験したパウロは「私は惨めな人間、誰がこの死のからだから救い出してくれるのか」と叫んだ。「誰が」自力では不可能だと悟った。落ちて行くばかりだ。主を仰ぎ、解決を見た。命の御霊の原理の中に置き、罪と死の原理から解放して下さった。
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救われているのに自分がしたくないと思っている罪を自分が犯してしまう。悪の原理の中で罪責感に押しつぶされそうになる時、主の十字架を見よう。神様のあわれみによって主がその罪を赦して下さっている。もう義認されている。


2010年04月08日(木)

「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった」出エジプト17:11


アマレクは肉を表し、肉は信仰生活の中で、私たちを攻撃し、戦いを挑んで来る。自分の力では、この手強い敵は、どうしようもない。しかし、主イエスが十字架で死なれた時に、この肉も十字架につけられたと、御言葉は言う。

私たちが新しく生まれる以前は、この肉に従い、肉の言うがままに生きて来た。肉だけであった。しかし、新生した時に、新しい命が与えられ、新しい性質が入って来た。その新しい性質は、肉と正反対で、神を喜び、神に従おうとし、罪を憎む。それゆえ信仰者には、今までに無かった、新しい心の願いがある。

罪を悲しみ、神の御旨を喜び、行いたいと願う。信仰者は自動的に、肉を退け、御霊の導きに従い、御心を行って行くのではない。自動的にはならない。御霊に従うか、肉の望むままに流されて生きるか、私たちの意志、選択、決断がかかっている。だから「出て行って、アマレクと戦いなさい」と言われている。

主がすでに勝利を与えて下さっているから、御霊に従い、拠り頼む時、勝利を得る。肉を放任しているなら、新生してもずっと肉の性質によって歩む。肉が出て来たなら、「自分には出来ません。助けて下さい」と主に助けを求めるなら、主が助けて下さる。自らの無力を認めて祈り頼む時、主が勝利を下さる。
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御霊か肉か、私達の前にはこの、二つの道しかない。御霊に従って行きたいと思っていても、強い肉の思いが来たらすぐについて行ってしまう。自分の力ではどうにも出来ない。だから何度も立ち止まり、祈り、そのつど自分を献げていかなければならない。


2010年04月07日(水)

「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」詩篇119:59・60



神に従うためには、御心に従おうとの意識的、選択が必要だ。オートマチックではない。没人格、没個性、没意志になるわけではない。夢遊病者のようになって、勝手に従って行けるのではない。

意識して、御霊の導きの方を選択し、御霊に拠り頼んで行かなくてはならない。主に拠り頼む必要がある。神が、勝手に私たちを操って従わされるのではない。それなら操り人形であり、ロボットだ。また、神が代わりに、私たちの意志を無視して、されることもない。

詩編記者は自分の道を顧みた。私たちはどうだろう。日々の生活を、自分自身を顧みることは大切だ。日々の忙しさに、流されてしまっているだろうか。主との交わりから遠ざかってしまっているか。何かの示しをなおざりにし、ないがしろにし、引き延ばし、ぐずぐずしているか。

記者は、主のさとしの方へ「足を向け」た。祈ったのでなく、実際に「行動した」。今、はっきりと、主の御心に、自分の足を向けるよう、具体的に従うように導かれているなら、実行しよう。

「急いで、ためらわずに」とあるように、ぐずぐずしていると、必ずできなくなってしまう。いつしか、御霊の促しが消えてしまう。大きな祝福を逃してしまう。今日、足を向けて、主の仰せを実行しよう。
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みこころに従わせまいと妨げに来る力があるので、ためらわず選び、主のさとしの方へ動いて行こう。一歩高みに歩ませて下さる導きての主を、私達が選択しなければならない。


2010年04月06日(火)

「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」ルカ15:20



弟息子は、父親に財産を要求し、すぐ遠国へと旅立った。あれよあれよと、全財産使い果たし、その上に、飢饉到来。食べるに困り、豚の番人に。落ちぶれた息子は、我に返り、食べ物の豊かにある父のもとへ帰ることを決心。息子ではなく、使用人として、雇用してもらおうと考えた。

しかし、放蕩三昧し、どんな顔をして帰ればよいのか。すると、息子の思いを遙かに越えた事が起きた。まず、父親の方から、走り寄って迎えに出てくれた。彼が家出をした日から、朝に夕に帰りを、待ち続けていた。

ひと時たりとも、息子の事を考えない時は無かった。息子は父のことなど全く頭になく、遊びほうけていた間も。更に、叱られ、説教と思いきや、大喜びで迎えられた。抱かれ、口づけされた。こんな自分が愛されていると、真に理解できた瞬間だった。

謝罪の言葉の練習をしていたが、その時、心の底からの、悔い改めがほとばしり出た。「天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました」。息子は、父親に何一つ提供しなかった。父親が財産を与えた上、尚も、一番良い着物、指輪、靴、与えるばかりであり、息子は、受けて感謝するばかりだ。これが恵みだ。

父親は息子が帰ったことを大喜びした。御父も、私たちが、どうであれ、とにかく、帰ることを大喜びし、迎えて下さる。罪で失敗する度に、躊躇しないで、すぐに帰ろう。
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罪を示される時、いい訳や取り繕おうとする思いが湧いて来るが、その思いに引っ張られると御父から遠ざかるばかりだ。私達には赦して下さる御父がいて、悔い改めが出来ると知っている。なんという恵み、幸いだろう。


2010年04月05日(月)

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」ヨハネ12:24



肉は損得を考える。自分の益にならないことに、時間、労力、富は使いたくない。犠牲を払うことを、肉は嫌がる。回避する弁解と言い訳は幾らでも出てくるが、つまり「地に落ちて死」にたくない。

ある婦人が、イベントを計画していた中、自宅でどうかとの打診に、とっさに言ってしまった。「その日は仕事でだめ」と。実は、家の片づけや準備が面倒でおっくうだったので、回避したかった。そしてその日、忙しくて遅くまで残業で、愚痴りそうになった時、ハッと、主が教えて下さった。

犠牲を払うのが嫌で、とっさに出してしまった言葉、それが嘘にならないよう、主が仕事を与えて下さったのだと。本当に「ごめんなさい」で、主のあわれみと優しさに、心温められて仕事が出来たと。

麦は地に落ちて、芽が出て、花が咲き、実が実るが、麦自身は地中で死んで、その結実を見ることができない。しかし、豊かな実がなる。肉は犠牲を嫌がる。そして、見返りを求めるものだ。他人の評価が欲しいし、感謝が欲しい。

今、何かの犠牲を払うことを、主から求められているなら、従ってみよう。自己中心から神中心に神優先に変えることだ。私たちの好きなように、自分のためにだけ人生を生きるなら、それで終わる。しかし、自分の思いでなく、主の御心に従うなら、必ず豊かな実を結ぶ。
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自分のいのちを愛する者は失い、憎む者はそれを保って永遠のいのちに至る。私達は主の尊い犠牲の上で、永遠のいのちを頂いたのだから、仕えられる者ではなく仕える者、受ける者より与える者として生きて行きたい。


2010年04月04日(日)

「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前には、だれが立ちはだかることができよう」箴言27:4



憤りも怒りも悲惨なものだが、妬みは誰もどうにも出来ない、手に負えないもの
と言っている。妬みはそれほどの、破壊的力を持つものだ。そして、それは誰の
心にもあり、又、自分の内にありながら、気づいていないものだ。

カインは献げ物で、アベルを妬み、殺害に及んだ。ヨセフは父親の偏愛で、兄弟
たちの激しい妬みを買った。サウルは、ダビデを妬み、それは狂気へと高じて行
った。放蕩息子の兄は弟を妬んで、怒りで身体を震わせた。

主は祭司長たちに妬まれ、妬みのゆえに引き渡された。ぶどう園の早朝の労働者
も5時の労働者を妬んだ。「あらゆる労苦と仕事の成功は、人間同士の妬みによ
る」とある。妬みは強烈なエネルギーとなり、様々な分野に成功を収めさせる。

しかし、それは虚しいと。あなたのあの行動、この言動、その成した事柄、その
動機に「妬み」はなかったか。隠れた競争心、張り合い、敵対心、報復心が見え
隠れしないか。御言葉はそう追求している。

この誰もどうにも出来ない「妬み」の解決はどこにあるのか。それは、主を見上
げ、神の愛と恵み、慈しみ、賜物が、自分にも溢れるばかりに注がれていること
に、目が開かれること、見て行くこと、気づくことにある。

それは人を見るなら、ますます見えなくなり、真っ暗闇の中だ。目を天に向けて、
視点を神に向ける時、御霊によって明らかにされ、気づかせられ、教えられる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
この世の社会での成功は、妬みが原動力になっていると、御言葉は言っている。
しかし、主はそこから解放して下さる。まず気づきから始まる。御霊が自らの動
機に気づかせて下さるように。そして、妬む必要の無い、溢れる主の愛が自分に
注がれている事を見せて下さるように。


2010年04月03日(土)

「ここにはパンが、五つと魚が二匹よりほかありません・・それを、ここに持って来なさい」マタイ14:17



私たちの手にあるものは、5つのパンと2匹の魚であり、極めて小さなものだ。
しかし、手にあるものがどんなに小さくても、無きに等しいようなものでも、主
の御手に握られて、神の栄光を現わすものへと変えられる。

こんな微力が、こんな小さなものが、何になろうかと思ってはならない。その小
さなものを受け止め、主が主のお役に立つものとして下さる。又、主はご自身で
配られたのではなく、「弟子たちに渡しては配らせ」と、5つのパンと2匹の魚
を祝福して裂かれ、それを弟子たちの手に渡された。

弟子たちが人々にそれらを配って回った。主が大きなみわざをされたが、実際に
配って働いたのは弟子たちだった。主は弟子たちにその働きを任せられた。人々
に糧を届けるために、私たちをも用いて下さる。

こんな微力な者をも、主が用い、主がみわざをされ、人々に与える者として下さ
る。自らの知恵、資質、力でなく、人々に与えるものを、主が与えて下さるとい
うことだ。

手元に5つのパンと2匹の魚しかなくても、主にお献げする時に、主が働かれ、
人々を満腹させられる。手持ちがどれだけかは関係無い。人々の祝福のために、
祝福の器として用いられるとは、どんなに嬉しい事だろう。そのために、主のも
とへ自分自身を、持てるものを携えよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
手持ちが、小さければ、小さいほど、主の栄光が、より大きく現れる。何と感謝
な事だろう。問題は、それが主の御手の中にあるかどうかだけだ。自分の手にあ
るなら、微少のままで終わってしまう。小さなものを主にお献げしよう。


2010年04月02日(金)

「『私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した」マタイ18:33

6千億の負債のあるしもべがいた。到底返済不可能だ。猶予を願うしもべを可哀想に思い、主人は全額免除にしてやった。押しつぶされるばかりの重荷がきれいに失せた。その帰りに、百万貸しのある相手に出会った。ひれ伏して、少し猶予をと願う相手を容赦せず投獄に。

それを聞いた主人は怒り、彼を牢に投げ入れた。私達も人を赦さないならこのようになると。6千億の負債がチャラにされた。同様に、私達は主の十字架の贖いにより、すべての罪が赦された。

「わたしは、彼らの罪を二度と思い出さない」と。これほどまでの恵みを受けているのに人を赦せない。それは牢獄に入る事になる。牢獄は四六時中、憎しみと復讐心で真っ暗闇だ。憎しみにがんじがらめで、出る事ができない。心は常に苦しい。楽しいはずの時も、決して楽しめない。一生その相手に拘束される。

どうしたら牢獄から出られるのか。解決は一つだ。赦せない人を赦す事だ。牢獄から出る道はそれだけだ。わかるが自分では出来ない。神がさせて下さる。赦そうとの意志を向ける事だ。ある人は親が絶対に赦せなかったが、「赦しますから、私も赦して下さい」の祈りから主の取り扱いが始まった。

そして親を赦せた。牢獄から解放された。あなたも赦せない相手がいるなら、祈って行こう。主が取り扱って下さる。
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赦せないと、いつも心の中で攻撃しているなら何時間でもその憎い人の虜となり、自分は牢獄の中だ。人を憎み、裁いている自分が問題だと気づけますように。そこを神様が取り扱って下さる。


2010年04月01日(木)

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」Tテサロニケ5:16




苦しい、辛い状況の中にある時、誰しも、「こんな状況の中で感謝なんて無理、できるわけがない」と思う。しかし、御言葉はどう言っているだろう。感謝できるから、感謝せよ、とは言っていない。喜べるから、喜べ、とは言っていない。

いつも喜んでいなさい。すべての事について感謝しなさい」だ。なぜ感謝できるかと言うと、信仰者はすべての事に、神の主権を認めるからだ。一つ残らず、すべてに神の支配を認め、神には目的があり、計画があり、意図を持っておられる事を信じるゆえだ。

意味の無い事は一つもない。無駄な事も一つとして無い。私たちを聖めるため、気づきを与えるため、一段階成長させるため、実は危険な状態から救い出すため、もっとひどい事にならないため、私たちの益のために許されている。

人からの攻撃、批判を受けた時、肉は相手を憎み、恨み、何倍もの復讐心が湧き上がる。しかし、それで苦しむのは自分自身だ。平安が失せ、喜びは無くなり、心は悶々状態で、暗く苦しく辛いばかりだ。「感謝できませんが、感謝できるよう助けて下さい」と気持ちをそのまま祈って行こう。

感謝できないが、しかし、意志を向けて、感謝を選び取ろう。「感謝できませんが、感謝します」と。その選択を祝福して下さる。不思議が起こり、心が変えられ、平安が臨む。
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感謝できない状況で「感謝します」と言う時、私達はしっかりと神様を見ている。不平不満の感情に落ち込む時、この御言葉を思い「今はわからないけれど感謝します!」と喜んでみよう。肉から御神に思いが変わり感謝の祈りに変わらないだろうか。