2010年05月31日(月)

「愛は・・人をねたみません」Tコリント13:4


ある人が職場で、何を言っても反対する相手がいた。とにかく仕事上のアイデアを出しても、意見を言ってもすべてことごとく反対された。又、その反対にいつも最もらしい理由をつけて来るので、周囲もその方向に流れてしまう。思い悩んで、精神的なものから体調を崩してしまった。

主にすべてを告げ、祈りを積む中で、相手から妬まれている事がわかった。仕事が上司に評価され、周囲から可愛がられている自分が、嫌で仕方無かったのだろうと。それがわかった時、自分も人を妬む者であり、冷静に相手に対応できるようになった。妬みは誰しもに根深く巣くう罪と言われている。妬みに支配されて
しまうと、人を愛せなくなってしまう。自分はどうだろう。

妬みが底にある時、自分でもわからずに、きつい態度や冷淡な言動をしてしまうものだ。よくは気づかないが、心に何かざらつくものを感じるはずだ。「妬みや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、邪悪な行ない」がある。「苦い根が芽を出して悩ま」すことのないように、苦い根を引き抜いてしまう事が大切だ。

それには自分のどろどろした妬みや邪悪な敵対心を、逃げず避けず、言い訳せずに、認めて、悔い改めることだ。主は私たちの心を変えて、愛を与えて下さる。妬みを愛に変えて下さる。
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人を妬んでいる自分は、自分が最も認めたくない部分だ。だからいつまでもサタンの足場にされて行く。ざらつく苦い思いが来たならすぐに認めて悔い改めよう。そして妬みの罪から一刻も早く解放され、自分になかった愛を与えてもらおう。


2010年05月30日(日)

「あなたがたが・・キリストの手紙であり」Uコリント3:3


パウロの敵対者が、パウロは自己推薦しているだけで、推薦状が無いと批判した
時、パウロは宣教の実である、コリントの教会の人々が推薦状だと言った。パウ
ロは欠けだらけの、失敗だらけのコリント教会の人々を、あなたがたが私たちの
推薦状だと言った。

その働きが生ける神の御霊によったことと、人々の心に御霊のの実が生まれつつ
あったゆえだ。コリントの人々は失敗だらけだ。私たちも欠点だらけだが、神は
このような弱い私たちを赦し、用いられる。

あなたは失敗し、不十分であっても、神からのメッセージを託された推薦状だ。
大使が相手国に遣わされる時に、自国元首の署名入りの手紙、親書を携える。そ
の神からの親書が、あなただと言っている。

クリスチャンであるあなたは、神からの推薦状であり、周囲の皆に読まれている。
あなたを通して人々は神を知る。あなたの心の板に神からのメッセージが記され
ている。あなたが、主と共に生きれば生きるほど、あなたと親しく接する人々は、
あなたを通して神からのメッセージを感じ取る。

パウロは自らの務めを「御霊に仕える務め」と言った。あなたも家庭、学校、職
場、どこにいようと、あなたの務めは神からの務めであり、神に仕える務めだ。
あなたを通して、御霊の実が周囲に現される事が神のお心だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日々、周囲の人々に、どんな手紙を送っているだろう。愛、温もりや優しさ、喜
びだろうか。イライラや不満、トゲだろうか。主は推薦状だと言って下さる。今
日の日を御霊に導かれ、従って生きる事により、周囲に愛や喜び、温もりを現し
て行ける。


2010年05月29日(土)

「すべての国々とその栄華を見せて・・『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう』」マタイ4:8

サタンはすべての国々の栄華を、誘惑の餌として、主を自分に服従させようとし
た。今も、サタンは同じ事をして働いている。「私に従えば、地位を名誉を、富
を人々からの賞賛を与えよう」

つまり、サタンは、私たちの肉と合致して働いてくるので、実際的には「私はこ
うしたい、私はああなりたい、私はこの道を行きたい」となる。「私は〜した
い」と自分が思っているので、背後でサタンがそれを誘惑しているとは気づかな
い。

「私は〜したい」=サタンが「私を拝むなら、これをあなたに上げよう」と言っ
ていることだ。騙されて、罪に進み、御心からそれてしまう。御心でないとわか
りつつ、高い地位と高額の報酬につられて転職したり、平安が無いのに、自分の
才能が生かせると、自分で選ぶ道に進んだり・・それらの背後にサタンの誘惑が
ある。

自分の判断と自分の決定に従うなら、サタンの思うつぼだ。必ず御心をそれる。
エバは自分の判断で誘惑に陥り罪を犯した。主は、自分の思いも判断も用いられ
ず、御言葉に基づいて決定し行動された。主は御言葉に立たれた。

その時、サタンは退かざるを得なかった。自分の思い、経験、欲望に従うなら、
サタンの罠に陥り、罪を犯す。今、誘惑に気づくだろうか。よく祈り、神の御言
葉に立とう。悪魔は逃げ去る。

・・・・・・・・・・・・
明けの明星は、「私は」「私は」と高慢になり、サタンになった。「私は」と言
う古い自分に、自我に従って行くと、とんでもない事になる。肉とサタンが結託
している。肉の欲望とサタンの誘惑は合致しているので、なかなか見分けにくい。
識別出来るように、よくよく祈っていよう。


2010年05月28日(金)

「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」Uコリント2:15


私達は証しをし、福音を伝える。しかし、私達が伝える証しは、ある人には命に至らせ、ある人には死に至らせる。太陽は一つだが、その太陽は氷を溶かし、又、粘土を固くする。同じ太陽が全く正反対の結果をもたらす。神の言葉は、受け入れる人々には永遠のいのちを与え、拒む人々には永遠の死という、極めて厳粛な
結果をもたらす。

永遠のいのちか死かは、福音を聞いた人の出す選択であり、その人の責任だ。私達にその責任はない。しかし、パウロは神のことばに混ぜ物をせず、純正の神のことばを、真心から、神によって、神の御前で語った。私達もキリストの香りを放つ者として、用いられるなら何と幸いだろう。

「あの人といると何か心安らぐ」「彼と会うと元気がもらえる」「彼女には悪口と噂話が無い」「彼女の口からゴシップを聞いた事がない」「彼といると沈んだ心に励ましを受け、前向きになれる」・・福音を届けた相手の選択に責任はないが、自らの言葉と行動には責任がある。

家庭で、学校で、職場で、日々どんな匂いを放っているだろう。又、兄弟姉妹の中で「あの人と交わると、何かしら霊的に引き上げられる、恵まれる」「いつも神様のもとに戻される。安らぐ」そんな香りを放てるなら、どんなに幸いだろう。主に自分を明け渡して、通り良き管と用いて頂こう。
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肉に反応せず、御霊に示された事に反応して行きたい。励ましや慰め、また感謝を素直に言葉に出して行きたい。主にあって喜んでいる、その香りを素直に放てる者に変えられたい。


2010年05月27日(木)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」詩編46:10



世の中は凄まじい。次々と事件が起こり、ついこの間のニュースはどこへやら、日々目まぐるしい。止まる事なく、溢れるばかりの情報が行き交い、飲み込まれてしまいそうだ。凄まじい勢力にどんどん流されてしまう。このような中で、主の御前に静まるという事は非常に重要だ。

余りにも忙し過ぎるなら、ちょっと手を止めよう。一旦立ち止まって、ただ御前に静まろう。ある人が余りの多忙の日々に、心身疲れ果て、休暇を取り休息を取った。主の御前に静まろうと御前に出た。当たりは誰もおらず静寂。しかし、いざ祈ろうとすると、外部は静かなのに、思いがぐるぐると渦巻いた。

思いの声が次から次へと湧き上がり、やかましい。あなたも経験あるだろう。サタンの火矢に肉がどんどん反応する。ああだ、こうだと、思いは目まぐるしく駆け巡る。聖書を読んでも、字ずらを追うだけで頭は雑念が駆け巡る。静まる事ができない自分を発見する。

働く事の方が簡単であり、自分の力で幾らでも動ける。神を頼る事を忘れて、神を無視して動き回るゆえだ。だからこそ立ち止まりが必要で、主に助けを求めて静まろう。そんな時は、数分でも良いから主に心を集中してみよう。その心を見て主は助けて下さる。主は御声をかけ、あなたの今気がかりなその事に示唆を下さる。
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静まろう。心が立ち騒ぎ、ざらざらになった時「やめよ、」の声を聞かないだろうか。立ち止り静まり神様のもとに座ろう。神様が渇いた心を御心にそう道に導き返して下さる。


2010年05月26日(水)

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ・・実を結ぶ人たちです」マルコ4:20



種は御言葉で、土地は私たちの心だ。同じように神の言葉を聞いて、全く益を受けない人々がいる。心の問題だと御言葉は言う。右から左に抜けて行くように、心に留めないで聞く。特に関心も持たないまま。自分とは無関係だと思っている。傍観者的に聞く。悪魔が種を奪って行くので、何も聞かなかったのと同じだ。

心に何の痕跡も残さない。又、岩地に落ちるとは、感情的に聞き、深く感動し、涙を流し聞く。しかし、心の中には、強固な自我という岩が邪魔をし、根ざして行けない。それで、信仰ゆえの迫害や、試練が来るとすぐに枯れてしまう。御言葉を涙して聞くだけでは、根ざす事ができない。語られた御言葉に従う事が大事
だ。

いばらは、御言葉を塞いでしまう。せっかく伸びようとする芽を、塞いで枯らしてしまう。世の楽しみ、様々な計画は、せっかく芽生えた信仰を塞いでしまう。心にしっかり握っているもの、心で愛する偶像は、神から私たちを離してしまう。自分は大丈夫と思っているが、本末転倒になり、いつしか一番大切なものを見失って行く。

信仰を保ちたければ、自らの状態をよく点検する事が重要だ。逆に言えば、信仰生活で「実を結」んでいるなら、御言葉を正しく聞いたという事になる。悔い改め、信仰、愛、喜び、平安・・御霊の実だ。
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聞いた御言葉、与えられた御言葉を自分のものとして持ち続け、信仰に結び付けて従って行こう。そうする時、御言葉はいのちとなり力となって実を結んでいく。自分も変わっていける。御言葉を人事のように流してしまっていないだろうか。


2010年05月25日(火)

「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」ヘブル2:18



悪魔は、獲物を捜し回る、腹をすかせたライオンだ。鵜の目鷹の目で、獲物を狙っている。ヨブに襲いかかった。全財産を奪い、子供たちを奪い、又、ヨブの全身を腫れ物でおおった。ペテロを襲い、主を否ませた。アナニヤとサッピラの献げ物で、神を欺かせた。ダビデを誘惑し、姦淫と殺人の罪を犯させた。

悪魔は人殺しであり、偽り者であり、真理がない者だ。「あらゆる獣のうちで、蛇が一番狡猾であった」人間を遙かに超えたずる賢さ、悪知恵を持つ者だ。騙されないように心して祈っていよう。悪魔は、自由自在に思いの「火矢」を吹き込める。心に湧き上がる思いをよく見張ろう。

自分の思いでなく、悪魔が吹き込むものだ。突然人への憎しみ、敵対心が湧き起こる。ある種の邪悪な思いや、罪深い思いが浮かぶ。しかし、それは悪魔から投げられた矢であり、思いが湧いたから罪なのではない。思い自体は罪ではない。悪魔であり、それによって平安を奪われてはならない。

悪魔の火矢を止める事は出来ないが、大盾で防ぐことができる。主も悪魔の誘惑に会われたが、「罪は犯されなかった」。誘惑が来る事は避けられない。それは罪ではない。それを受け入れて、同意する事が罪を犯すことだ。主も誘惑に会われたので、誘惑が何かをご存じだ。誘惑が来た時、まず何よりも一番に「神様!」
と助けを求めよう。
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いつも心に仕掛けて来るサタンの誘惑に気づけますように。罪に同意し、罪を結実させる前に、神様と叫ぼう。そして私達のために取り成して下さっている主を思い出そう。罪の闇からいのちの光へと連れ出して下さる。


2010年05月24日(月)

「ペテロがイエスに言った。『たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません』」マルコ14:29

ペテロは、全員が主を裏切っても自分は大丈夫。自分は決して裏切らないと豪語した。「私は」どこまでもついて行く。死に面したとしても、「私は」あなたを知らないなどと言わない。「私は」大丈夫。ペテロは自分の弱さを知らなかった。

自分に自信があり、自信満々であった。「自分は」他の弟子たちとは違う、そこに高慢が潜んでいた。「シモン眠っているのか、まだ眠っているのか」との主の言葉の通り、ゲッセマネで、主が祈りの苦闘中、眠り込んでいた。

主はご自分の姿を、心の内を弟子たちの前にさらけ出され「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで目をさましていなさい」と、弟子たちが一緒に祈ることを願われた。弱さを認められ、祈りに持って行かれた。

弱さを認めた、祈りの苦闘の中で勝利され「立ちなさい。さあ行くのです」と厳然と十字架に向かって真っ直ぐに歩み出された。主とペテロの違いは、ペテロは自分の弱さを知らなかった。自覚がないゆえ、祈りが無かった。

主は弱さを自覚され、祈られた。眠気が問題なのでなく、「自らの弱さ」を知らない事が致命傷だった。弱さを認めなければ、祈りの必要が無い。自分の弱さは見たくない、認めたくない。しかし、自らの弱さを認めて、祈りに持って行くことこそが、勝利の秘訣だ。
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自分の繰り返す失敗は何処から来ているのか、自らの弱さを御言葉からしっかりと示され、頼るべき所など自分にはない事を覚え、祈ろう。砕かれ弱いと認めた時に私達は主にあって強くされる。


2010年05月23日(日)

「あなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです・・あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです」詩編139:13

私たちは偶然に生まれたのでなく、両親にもよらず、母の胎の内で、神によって
組み立てられ、生まれて来た。神があなたを造られた。神の御手により形造られ、
ここに、あなたへの神のご愛とご計画がある。

神のご計画は、この胎の内だけでなく、あなたの人生全般において事細かに、
隅々にまで広がり立ち入っている。あなたの人生に起こる一つ一つの出来事に、
神のご愛とご計画が織りなされている。

その目で、信仰により人生を見てみよう。「私たちの益のため、ご自分の聖
さにあずからせようとして懲らしめる」苦しみや悲しみが、その中に織り込まれ
ている。

「訓練された人々に平安な義の実を結ばせる」ためだ。それゆえ大切な事は、そ
の出来事の中で、神が何を言わんとし、何を教えようとしておられるのか、神の
メッセージを尋ね求めることだ。神は一つも無駄なことはなさらない。

一つ一つの目の前の出来事の中に、神の意図と、あなたへの目的がある。「知恵
の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお
与えになる神に願いなさい」願うなら神は教えて下さる。

胎の中で、すでにあなたへの目的を持ち造られた。あなたへの御心があり、使命
がある。あなたの遣わされたその場で、この方のために生きる事だ。

・・・・・・・・・・・・・・・
自分に与えられた御心があり、使命がある。日常の一つ一つに意味がある。神は
無駄な事は一つとしてされない。パズルのピースががつながって、御心が見えて
来る。振り返ると神の愛に包まれていて、これから将来も、神の愛でおおわれて
いる。


2010年05月22日(土)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」ヤコブ4:3

時に、自分にとって、強烈な願いであり、欲しいものがある。しかし、その自分
が喉から手が出るほど欲しいものが、果たして本当に自分に必要なのかどうか。
それを、神に祈り求める事ができるなら「欲望」の誘惑から守られる。解放され
る。

欲望は際限がない。欲しいものと必要なものは違う。単に自分の欲しいものを求
めて行くなら、欲望のとりこになってしまう。今、どうしても欲しいものがある
なら、それが自分に必要なものかどうかを、神に祈ろう。

そう祈るなら誘惑から守られ、サタンの足場を砕いてしまう。そして、もしそれ
があなたに必要なものなら、神は必ず与えて下さる。又、こんな御言葉がある。

「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさ
せた」絶対にどうしてもと、どこまでも願うなら、神はその欲望の願いに答えら
れるが、それによって、たましいはやせ衰えると。得ても虚しさを味わう。

「彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた」結果だ。余りの欲
望による願望を向けるなら、神は、ある時、それを敢えて与えられる。しかし、
それを手にして、心は虚しく荒んで行くことになる。

罪の性質である、際限無い欲望から守られるために、今強く求めているものが、
真に自分に必要かどうかを、今一度神に伺おう。

・・・・・・・・・・・・・・・
答えられない祈りがあると、神は言われる。もし動機が間違っているなら、幾ら
祈っても答えられない。「何のために」求めているのだろう。欲望充足のためだ
ろうか。祈りが叶わない時は、更に深い神の御心を知る恵みの時だ。心を探って
頂こう。


2010年05月21日(金)

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」ヤコブ4:1


様々な悲惨な事件や争いがニュースで流れる。又、身近なところでも争いを経験する。深刻な事件が起きると、人々はその原因を究明しようとする。なぜこういう事が起きたのか、探し求め、多くの議論がなされる。しかし、聖書に答えがある。それらの原因は「欲望」だと教えている。

「欲望が原因ではありませんか」と。自分の内にある「欲望」が争いを引き起こさせ、罪を犯させると。まさに「ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをする」の通りだ。実際、この世界では多くの殺人事件が起きているし、又、殺さなくても、心が憎しみと敵対心でいっぱいになる。根に「欲望」が存在する。

又、「羨んでも、手に入れることができないと、争い、戦う」と。自分が持っていないものを持つ相手を妬む。その妬み、嫉妬から争いが起きる。神を信じない世界では、自分が神だ。自分しか頼るものがない。自己中心は心を歪ませて行く。

いつでも、どんな時にも、私達を受け止めて下さる、主がおられるとは何と幸いだろう。すべての事を願うよう、心の内を告げるよう招いて下さっている。もし今、対人関係で、人との争いの中にいるなら、その争いは、自分の「欲望」によらないか、底に肉欲が潜んでいないか、よく心を御霊に探って頂こう。
------------
何も持たなくても私達には主がおられる。祈りを聞いて受け止めて下さる。欲望を満足させることが幸せという世の価値基準から離れ、主と自分の絆をしっかりと保ち今日も、心が守られますように。


2010年05月20日(木)

「王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいってきたのですか』しかし、彼は黙っていた」マタイ22:12



当時の習慣があった。王宮での宴会時には、玄関で、出席者全員に礼服が与えられた。人々はその礼服に着替えて祝宴に出席した。だから、皆、備えられた礼服を着用できた。王が客を見ると、そこに一人この礼服を着ていない者がいた。この人は王の礼服を着たくなかったようで、着ていなかった。自ら拒否したのだ。

これは王に対して非常に失礼な行為であり、外の暗やみに放り出されてしまった。与えられた礼服は、主イエス・キリストの血潮の贖いによる、義の衣だ。神は、キリストの代価によって、神の方から「義」を用意して下さった。キリストの贖いによる「義」が備えられている。私達は受け取るだけだ。

しかるに、この礼服を拒み、自分の服のままで、御前に出ることは、自分の義に拠り頼む事だ。自分で綺麗になって御前に出ようとする。神が義の礼服を用意して下さっている、それを着たら良い。義の衣を着るとは、主イエスを信じる事であり、王の愛顧に感謝する心だ。

元々選ばれも、招かれもしなかった者が、神の祝宴の席に着けるのは、神の特別な恵みと憐れみによる。神が招いて下さるからこそ、私たちは救いにあずかれる。もし自分の内にある何かによって選ばれ、招かれるのなら、決して神の前に出ることは出来ない。祝宴に招かれ、礼服が備えられている特別な恵み憐れみを今一度覚えよう。
-------------------
私達は何も持たずに、ただ行けばいい。誰でも招待されているのだ。礼服までそこに用意して下さっている。何と感謝なことか。自分で身を整えたり、自分で立てた義を脱ぎ捨て、神からいただいた十字架で贖われた主の義の衣を身に付けよう。


2010年05月19日(水)

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:2


人は救われる時には、一方的な恵みによって救われた。何の行ないも無かった。その恵みはよく理解できるのだが、救われた後、しばしば恵みプラス行ないで生きてしまう。今まで生きて来た価値観が根深く培われているためだ。

この世の価値観は、自分の力がすべてであり、自分の努力で勝ち取るものだ。自分を信じて、いかにうまく生きて行くか、自分以外のものを頼るな、自分の力で頑張れが、この世の教育だ。それゆえ、救われた途端、自分の力で頑張ってしまう。熱心な祈りという行ないや、犠牲的な献げ物によって、神は受け入れ、愛して下さると思ってしまう。

自分の願いが叶えられるためには、もっと頑張って祈らねば、もっと信じなければと、そこに自分の力が出て来て、段々苦しくなる。信仰生活が辛くなっていたら要注意だ。救いは一方的無代価だが、その後の祝福は、恵みでなく行ないになっていないだろうか。

しばしば陥ってしまう。神の愛顧を得るために、神に受け入れて貰うために、何かをするなら、それは律法であり、恵みから落ちている事になる。神に完全に愛されているから、完全に受け入れられているから、感謝が溢れて、自発的自由意志で献げたいと思うのが福音だ。そして自力でなく、全面的に神に頼って生きて行く歩みだ。
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クリスチャンなら神様に喜ばれることをしたいと思う。しかしその思いすら神様からの賜物だ。自らの持っている物の全てをかき集めて頑張ってもその報酬を求めるための行為なら間違っている。


2010年05月18日(火)

『この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」』マタイ4:8


サタンはすべての国々とその栄華を差し出し、主を自分に服従させようとした。サタンに従うなら、これをすべて上げるよと誘惑した。神からでなく、サタンから来るものだ。私達にも同様の誘惑が来ている。神の御心に従うのでなく、自分の道を行き、自分の思い通りに進めと言うことだ。これがサタンの誘惑だ。

そうすれば地位が、高給が手に入る。自分の才能が、自分が生かせると。これがサタンの囁きだ。ある人は、自分の才能が発揮できて、且つ大変な高給で、地位を約束された転職が来た。御心でないとわかっていたに関わらず、すべてが強烈な魅力であり、欲望に合致し、乗ってしまった。高給分極めてハードで、霊的な
事のための時間がなく、平安を失って行った。御心をそれさせるサタンの誘惑であった。

あなたにも魅惑的な事柄が来ているだろうか。自分の思いで判断せず、よく祈って御言葉に聞こう。主イエスは御言葉に立たれたので、サタンは退いた。エバは御言葉でなく、自分の思いに立ったので、サタンに敗北してしまった。主イエスはいっさいご自分の思いを持ち出さず、御言葉がどう言っているのか、その神の
御心に従順に従われた。御言葉に従う人をサタンもどうも出来ない。今、判断が必要なら、自分で決めずに御言葉に聞こう。まず何よりよく祈ろう。
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動き始める前に、すこし立ちどまり御言葉に聞こう。御言葉は私たちに知恵を与えてくれると共にサタンに対する最強の武器となる。御言葉をたくわえ、よく祈って進む道を決断しよう。


2010年05月17日(月)

「あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり・・」創世記3:5


エバは神のようになりたいと、木の実を食べた。二人の目が開かれた時に、神のようになったのだろうか。そうでなく、自分達が裸であることを知った。裸を恥じて、恐れて隠れた。しかし、木の実を食べる前も裸であったが、それは恥ではなかった。裸自体に何の変わりも無かった。

見方が変わったのだ。自分のあるがままの姿ではおれなくなった。あるがままの姿を見せる事ができず、互いに隠さなくてはならなくなった。神のようになろうと、自分を神にして、自分が王座に座り、自己中心に物事を見る時に、裸が恥であり、恐れとなった。

自分が神にならなければ、神を神とし、自分は被造物であれば、裸は全く恥でも恐れでもない。神に造られたものとして、弱ければ弱いまま、欠点があるまま、神に感謝を献げ、神を喜び、神が創造された自らを受け入れて行ける。そこには感謝と平安と喜びが必ずある。

自分が神になるなら、欠点や弱さは受け入れられない。人に絶対に弱みを見せたくない。自分が自分を受け入れられずに裁いている。神がそのように創造された事を認めず、受け入れられず、反抗している事になる。そこに平安も喜びもなく、心は辛く苦しい。自分が神になっているからだ。自己中心に気づき、へりくだって神を認める時、必ず平安と安堵が臨む。
-----------------
幼子がその親に依存しすっかり安心しきっているように、私達も自分から解放され、神様依存の中でのびのびと生きて行けるはずなのに何と愚かな事をしているのだろう。神様が選び特別に創造して下さった事を感謝し高ぶりから守られますように。


2010年05月16日(日)

「あなたはどうして礼服を着ないで、ここに入ってきたのですか」マタイ22:12

王が、王子の結婚の披露宴を設けた。招待した客は、皆、断って来た。神の事、
永遠の事より、今の地上の事柄が心を占め、目の前の事に心を奪われてしまう。

王や祝宴などどうでもよい。大切なものが、畑であり、商売であり、この世の事
だ。そこで、王は、大通りで出会った者を誰でも、招くよう命令した。片っぱし
から呼んで来たので、宴会場はいっぱいになった。

ところが、そこに婚礼の礼服を着ていない客が一人いた。王は怒って、外に放り
出した。通りで、突然呼ばれるわけで、誰も礼服など持っていない。しかし、こ
の礼服は、すべて主催者側で用意されていた。

だから、放り出された人は、王の礼服を、故意に意識して不要と拒否したことに
なる。自分の服の方が上等だと思ったのかも知れない。彼は、町で招かれ、招き
は拒まず、やって来たのだが、王の前に出る「礼服」は拒んだ。

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」この客のようだろうか。自分の
服で、自分を着飾る。自分の功績、自分の力を捨てない。捨てたくない。自分の
良い行ないで、義と認められようとする事だ。

神の考えより、自分の考えを正しいとするなら、神を拒否する事であり、礼服を
拒む事だ。王の礼服を頂いて、義の衣、主キリストを着て、主と一つとなり従っ
て行こう。そして、披露宴の大きな喜びと楽しみにあずかろう。

・・・・・・・・・・・・・・・
自分の欲、又、この世に気を取られ、喜びの宴会の招待を断っていないだろうか。
宴会には行くが、自分のやり方、自分の思い、判断を通し、礼服を拒む。溢れる
楽しみの宴会に招かれている。感謝して受け取るなら、主と共に喜びに満ちる。


2010年05月15日(土)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩編51:17

サタンはエデンで、エバを誘惑したが、突然、善悪の知識の木の実を食べろと言
ったのではない。最初は「・・食べてはならないと、神は、本当に言われたのか」と、
「言われたの?本当に?」と、疑いを起こさせるよう誘惑した。

サタンを拒否せず、対話したのが間違いだった。見事に罠にひっかかって行って
しまった。サタンの方が人間より遙かに知恵があり賢い。御言葉に立たないなら、
敗北は必至だ。

罪を犯してしまったアダムとエバは、裸であることを知り、恥ずかしく、いちじ
くの葉で腰のおおいを作った。私たちの生まれつきの善い性質も、自分でする善
行も、自分が、肉がおおういちじくの葉だ。

恐れて、神の御顔を避けて、身を隠した。罪の結果、神の前に、あるがままおれ
なくなり、隠れるようになった。アダムとエバ、互いの間も同様となった。罪を
隠し、互いの弱さを隠す。決して弱みを、人に知られなくない。

醜い部分、汚い部分、嫌な部分は神にも人にも隠し、自分でも見たくないのでふ
たをする。神は悔い改めに導こうとされたが、アダムもエバも、どこまでも自分
を正当化し、責任転嫁して行った。

罪を犯しているのに、自分は悪くない、相手が悪い、環境が悪い、そのせいで自
分はこうなった。自分は被害者。まさにこれが罪の結果だ。もし、これを自分の
中に見い出したなら、神の一番喜ばれる事は、悔い砕かれた心、悔い改めだ。心
に解放と喜びを下さる。平安にして下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
自我は、自分の罪も弱さも、決して認めたくない。どこまでも自分は悪くない。
これがアダムの罪の結果であり、自分の内にある罪の性質だ。この解決のために、
主が十字架で裂かれなければならなかった。すでに十字架で解決されている。御
霊に素直に応答しよう。


2010年05月14日(金)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32



家畜小屋で誕生された主イエスが、私たちの肉眼で見える形で現れて下さった神だ。本来、肉眼で見えない神を、見えるようにして下さった。弟子達は、その主を目の当たりに見、主と語り、触れた。しかし、十字架で死に、よみがえられた主は、エマオ途上の弟子達に、今度は「御言葉」によりご自身を現された。

肉眼によってでなく、御言葉を解き明かし、聞かせる事によってだった。エマオの弟子達はどこが問題だったのか。彼らは、主こそ救い主だと思っていたが、辱めの十字架で、惨めな姿で無残に死んでしまった主に、失望落胆、絶望していた。

彼らは、人間的な思いでしか主を見ていなかった。ローマ帝国をくつがえして、神の国を建設され、長らく待ち望んだ、みくにがこの地上に実現するはずと。その王となる方が、あっけなく死んでしまった。それも極悪人がかかる無惨な十字架刑で。彼らにとれば、あり得ない、信じられない現実だった。

同様に私達も、自分を幸せにしてくれる、自分の願いを叶えて貰うための信仰なら、遅かれ早かれ必ずつまずく。主は道すがら御言葉を解き明かされた。御言葉に基づいた信仰だ。弟子達は、自分の思い、ひとりよがりの信仰理解が砕かれ、聖書に基づく信仰へと導かれて行った。自分中心の、自分に都合の良い信仰でな
く、御言葉に立った時に心が熱くなり、燃やされ、変えられた。
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自分の思いを軸にするなら都合よく変わり状況にすぐ翻弄される。思いに来る攻撃から守ってくれるのは御言葉だ。失望や落胆していた気持ちがまた燃やされるのは、主が教え語って下さるからだ。御言葉に立とう。


2010年05月13日(木)

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」詩編23:2



私たちの身体は、食事を抜くとどうだろう。力が入らなくなる。食事をして肉体は、元気づく。病気の時に、身にしみる。何も食べられなかったのが、食事し始めるや、みるみる体力が回復して行く。車もどうだろう。ガソリンが無ければ、走るだろうか。同様に、霊も補給が必要だ。

時に、余りに多忙な日々が続き、デボーションも持てないままの日が続くと、どうだろう。心がしんどく疲れて来ないだろうか。普段なら気にならない、ちょっとした事が気になり、傷つく。イライラして、ピリピリする。人の事が気になって仕方がない。カッカする。この原因は、霊的に乾ききっていることだ。

霊的補給が必要だ。つまり、主との交わりが必要だ。ガソリンやオイルが減ると警告ランプが点く。霊的警告ランプ点灯状態だ。魂が酸欠状態だ。しばし、主の御前に心を静めて、祈ってみよう。不思議に新しい力が来る。

ある人は連日の残業で、帰宅は深夜、もう疲労はピーク、身体は倒れる寸前状態、心はカラカラ。ある日、限界を感じ、帰宅するや、自分に部屋に直行し、一人になり、主と交わった。主の御前にじっとおり、心をことごとく打ち明けた。隅々まで新たにされ、すっきりさわやかになり、息を吹き返した。ある人は、職場の昼休みに、公園に出て、心を主に向けて祈った。その午後は、心に潤いと平安があった。今、オイル切れなら、しばし、心を主に向けよう。
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目の前に来るものの勢いに反応しながら生きているからこそ、一人で神様と静かに交わる時が何よりも大切だ。昨日まで満たされていても、今日は苦い思いが湧いている。朝ごと、日ごとに霊の糧を受け、満ち満ちて世に出て行こう。


2010年05月12日(水)

「しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:21 



「わたしは世の光です」と言われた主は、光として、この世に来られた。世を照らし、「すべての人を照らすまことの光」は、私たちの人生を照らし、私たちの心を照らし出される。

主が光であり、光が輝いているので、私たちは見ようとするなら、くまなく照らす光に、自分の姿が見え、心の内が見え、何をどうすればよいのかが見える。
見えるので、何をすべきかがわかる。光に自分が照らされている限り、問題無い。罪が見えるので、悔い改めることができる。出来ない事は祈りに持って行ける。

しかし、問題は、光があるのに、光を避けて、見ようとしないことだ。見たくないために、目を閉じる。光があるに関わらず、自分が目を閉じるなら、真っ暗闇だ。光のまっただ中にいて、自分で暗闇を作っている。自分で目を閉じて、真っ昼間に、暗闇だ、暗闇だと言ってるようなものだ。

目を閉じるなら、神が見えない。目を閉じるのは、自分に都合が悪いからだ。肉の思いを、自分の思いを通したいためだ。だから、光から逃げている。神から逃げている。しかし、そこは暗闇だ。神が見えず、不平不満、怒り、思い煩い、妬みの世界だ。

自分が目を閉じていながら、神を非難する。この状態なら、逃げないで、目を開けて神に向き合おう。光に照らされ、悔い改める事ができ、愛に包み込まれていることを知る。
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私達はくり返し失敗する者だ。その時こそ神に背を向けるのではなく、ありのままを打ち明け光の中に留まっていよう。赦そうと待っていて下さっている神が、次の一歩を教えて下さる。光のうちを歩もう。


2010年05月11日(火)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13



律法が「貪るな」と言わなかったら、貪りは起こらなかった。しかし「貪るな」と言われたばかりに、貪りが引き起こされる。ある人が、たまに玄関脇の植木鉢が盗まれるので「鉢を持って行かないで下さい」と張り紙をした。

すると、次々と盗まれてしまい、とうとう張り紙を取った。「すがるな。味わうな。さわるな」と禁止されれば、されるほど、更にますますその事をしたくなり、はまって行ってしまう。これが罪の性質だ。

ダビデはバテシバを見た時に、姦淫するなとの戒めが来た事だろう。しかし、そこで神を見上げ、頼らずに、どんどん妄想し、誘惑に乗り、行動に移してしまった。罪の性質は、禁止があればあるほど、そうしたい欲望、衝動が強くなる。そして、心の奥の奥では、そんな自分を許していることが問題だ。

セールスマンは、顧客にそれを持つ事がどんなにハピーで心地良いかを情報提供し、欲望さえかき立てれば、後は放っておいても、商品を購入するのは時間の問題だと言う。強烈な欲望が来るなら、奥底では許しているので、必ず行動に移し
てしまう。

ギャンブルや飲酒や様々な依存もそうだが、「止めよう」「止めなくちゃ」「止めたい」と思う、更に底に「まあ、いいや」「少々大丈夫」「神様赦してくれるし」との思いがあり、この底の思いが問題だ。肉を楽しんでしまう。罪を憎んでいる「つもり」と裏腹に、底にある思いに御霊の光で照らされ、悔い改めに導かれるように。あなたの底の思いはどうだろう。
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頭では理解していても、心底、罪を憎み、罪と戦う思いが弱いのではないだろうか。罪の誘惑と真剣に向き合うために自分自身の罪に対する甘さを神様に取り扱っていただく事から始めたい。肉の思いにはっきりと「ノー」と言える様に祈っていたい。


2010年05月10日(月)

「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた」Uサムエル24:10


ダビデは、人口調査をして罪を犯した。人口を数えたら、罪なのか?民の数を把握する事、それ自体は罪でも何でもない。しかし、ダビデはそれをした時、良心のとがめを感じた。それをした「動機」が間違っていた事を、ダビデは知っていた。

ダビデは、自らの勢力を誇り、自分を誇るために、人口調査をした。神が与えて下さったものを、自らの力と取り違え、高慢になった。神ご自身ではなく、目に見えるものに頼み、軍事力を力とする恐るべき傲慢であった。神が与えた罰の大きさを見る時に、ダビデの罪の大きさを知る。

ダビデの罪のために、疫病が起こり、罪の無い7万人もの人々が死んだ。神は厳しい試練を通して、ダビデの罪を明らかにされた。神の厳しさは、愛だ。ダビデがこの罪を持ったままに、そのままにされなかった。神はダビデに臨まれた。
私たちはどうだろう。神が与えて下さったものを、自分が横取りして、誇っていないだろうか。

私たちは裸で、この世界に来た。今、有形、無形で所有しているものは、何もかも神から与えられたものではないか。今一度、与えられているものを、神にお献げするなら、聖められて、神に喜ばれるように使うことができる。私物化する事なく、神の栄光のために用いられる。
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神から貰ったもので無いものなど何もないのに、誉められれば自分を誇り、意に叶わなければ不平不満が湧いてくる。なんと傲慢な事だろう。いつも神を見つめ感謝しつつ今週も歩もう。傲慢に少しでも気づけるよう祈って行こう。


2010年05月09日(日)

「キリストは・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」ピリピ2:8

王の王、主の主であられた方が、神としての栄光も権威も捨て、私たちのところ
へ来て下さった。何の不平不満も無く、黙って、苦難の道を歩まれ、その最期は
最も惨めで、悲惨で、残酷な十字架の死であった。

鞭打たれ、罵られ、嘲られ、つばきされ、すべて私たちの罪を負うためであった。
しかし、私たちは、ほんの少しでもプライドが傷つこうものなら、もう大騒ぎだ。

憤慨し、傷つけた相手を決して赦しはしない。ちょっと批判されたり、無視され
たり、非難されただけで、荒れ狂う。プライドが高いのだ。自我に少しでも触れ
られたら、いきり立って、相手を容赦はしない。

主は、自分を捨て、自分の十字架を負って、従うように言われた。自己主張でな
く、自己防衛でなく、「自分を捨て」と言われる。主に従う道は、へりくだりの
道だ。この世界と正反対だ。

この世界は自己主張、自己実現・・、その根は「自己」「自己」だ。すべてが詰ま
るところ「自己」のためだ。その自己を捨てて、神の御心を求める。自己中心か
ら、神中心に歩む。これが主に従うことだ。[

「自分、自分」と、自分を通すのでなく、へりくだるところに主の祝福がある。
これは神の定められた方法であり、これ以外に祝福はない。水は低い方、低い方
へ流れる。自分の思い通りにしたいのが、自我。それを捨てて、へりくだり、神
の御心に歩もう。この世には決して無い、御霊の喜びを経験する。

・・・・・・・・・・・・・
腹が立つ事、傷つく事、不満に思う事があっただろうか。、それらをたどると、
すべてが強烈な自我に行き着く。自分、自分・・。どこまでも自分。主と共に肉
が十字架につけられた事を今日も認め、目の前の事態を受け入れられるよう祈ろ
う。それが自分に死ぬ事だ。出来ないからこそ、祈りを備えて下さっている。


2010年05月08日(土)

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい」ピリピ2:14


よく聞く証しがある。「私は、神様から示されたこの事をするのが、荷が重く、
思い煩い、とても出来ませんと尻込みし、私でなく、他の人にして下さいと言い
続けていた。でも、従ったら、素晴らしい祝福にあずかった」

「私は、示された、相手と和解するという御心が、嫌で、嫌いで、絶対にしたく
ない。でも、御霊にずっと促され、嫌々従った。すると、相手と和解できて、和
やかな関係にされ、喜びと平安で満たされた」

そして、皆が「出来ない、嫌だと、つぶやいてばかりいたが、こんな事なら、こ
んなに平安になるなら、もっと早く従っておけば良かった」と。

御霊に示される、悔い改めや、誰かとの和解や、謝罪や、なすべき事や、嫌な事
は誰しもしたくない。後回しにしたい事だ。誰かへの謝罪など、なかなか気おく
れがしてできない。肉はしたくない。
そんな時は、自分でしようとしないで、まず祈ろう。

「自分には出来ません。助けて下さい」と祈るなら、従う事ができるように助け
られる。そして、神に従おうとする時には、必ずサタンが来て妨害する事をわき
まえていよう。大きな祝福を奪ってしまいたいので、必ず、つぶやきや疑いを起
こす事を心得ていよう。

あなたも今、御心が示されているなら、「つぶやかず、疑わずに行なおう」。そ
れは、「世の光として輝くため」だ。私たちがどんな中でも、不平不満でなく、
御心を行なって行く時、神の栄光が、私たちを通して輝かされる。

・・・・・・・・・・・・・・・
御心を行なおうとする時、主に従おうとする時、必ずサタンの妨害が来る。「し
なくてもいいのでは」「面倒」「止めよう」「大変だよ」「関わらない方がい
い」。今、来ているサタンを見破ろう。目の前に示されている事に従おう。大き
な祝福がある。


2010年05月07日(金)

「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ローマ8:28

コーリーの父親も姉も強制収容所で亡くなり、書類上のミスのため、コーリーは
釈放された。神の奇跡であった。地獄のような経験を振り返り、彼女は「私たち
の人生は、クロス・ステッチのようなもの」だと言った。

針で糸を刺し、刺繍をするが、裏側を見ても、全く表の絵はわからない。様々な
糸が混乱して、からみ合い、汚い、醜い様相を呈している。しかし、表は、美し
い見事な刺繍が施されている。

私たちの信仰人生も、時に、裏側のようにしか見えない。何もかもがうまく行か
ず、行き詰まり、状況は混乱状態だ。しかし、神の目から見れば、問題無い。
着々と素晴らしい刺繍が施されている。

あなたも、今、この状態だろうか。「何で?」「どうして?」「いったいどうな
っているのか?」次から次へと、問題だらけで、混乱状態だろうか。

突然、異国の地に、兄弟に売り飛ばされ、無実の罪で投獄され、監獄生活を送っ
たヨセフ。理不尽で、わけがわからない刺繍の裏側だ。しかし、苦しい辛い状況
の中で、ネガティブな反応も出来たが、そうでなく、まっすぐ神を見上げて歩ん
だ。そして、ヨセフは見い出した。

「今、私を売った事で、心を痛めてはならない。神は命を救うために、あなたが
たより先に、私を遣わされた」と。ヨセフにより、飢饉からヤコブ一族の命が救
われた。今、あなたの目の前のその状況も、神の最善のご計画であり、必ず益と
されて行く。

・・・・・・・・・・・・
自分の側からは、刺繍の裏側しか見えないので、何の目的も意図もないぐちゃぐ
ちゃ状態にしか見えない。しかし、表側は明確な意図、目的があり「神の栄光」
という刺繍が施されている。時満ちてはっきりそれが現される。主を信じて歩も
う。


2010年05月06日(木)

「・・その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」ローマ6:16

コーリー・テン・ブームは、第二次世界大戦時に、ユダヤ人をかくまったために、
姉と捕らわれ、ナチスの収容所に入れられた。苛酷な収容所生活で、残虐行為は
日常であり、人々は次々と死んで行き、日々が死と隣り合わせだった。

怒り、喧嘩、争い、奪い合い、誰も他人の事など考えられない。そんな中で、二
人は聖書を読み、賛美し祈り、御言葉を語った。すると人々が変わって行った。

「ごめんなさい」「いいえ、いいのよ」「大丈夫?」地獄の中に思いやりが生ま
れた。奇跡が起きた。食事を盗んでいた人々が、与え合うようになり、病人をい
たわった。多くの女性達が主に導かれた。

悲惨で、苛酷で、いつ死ぬかわからない、気も狂うばかりの状況の中で祈り、神
の御手に、御言葉に支えられて生きた。コーリーと姉の証しに、どんなに苛酷な
状況の中でも、私たちは、自分の生き方を選択できることを教えられる。

私たちはどうだろう。少し思うようにならないと、怒り、いら立ち、神を恨み、
人を恨み、何もかもを環境のせい、人のせいにし、自分は悪くない被害者だろう
か。

あるいは、苦しい状況の中で、神を仰ぎ、御言葉を受け止め、その中で感謝を献
げて行くだろうか。これはオートマチックではない。私たちの選択だ。環境に、
ほんろうされるのではない。それなら環境次第で、霊的状態がコロコロ変わる事
になる。
私たちは選択して生きる自由が与えられている。

・・・・・・・・・・・・・・
常に目の前に、御霊と、肉への反応の、二つの選択がある。それは自らの意志だ。
常に選んだ結果の実を刈り取る。苦しい状況に、投げやりになり、自己憐憫に陥
り、反抗的になる事も出来る。そして、御霊に明け渡し従い、自分に死んで、御
霊の実を結んで行く事もできる。そう選択できるよう祈ろう。


2010年05月05日(水)

「舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、『確かにあなたは神の子です』と言った」マタイ14:33

主によって、強いて舟に乗り込ませられた弟子たちは、湖の上で大嵐に会った。
プロの漁師たちに関わらず、逆巻く波と強風に、今にも転覆しそうな小舟で、必
死に戦った。

嵐と苦闘する弟子たちは、人生途上で、様々な困難や問題に悩まされ、何とかし
ようとする私たちだろうか。右往左往で、パニックだ。不安でたまらない。

そんな弟子達の所へ「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と主が
来られた。夜中の3時頃だ。主は頃合いを定めておられる。試練にも、すべて
「時」を定めておられる。

耐えられない試練はなく、必要以上に長引く試練も無い。主が舟に乗り込まれる
と、あの大嵐がピタッと止んだ。弟子たちは、「確かにあなたは神の子です」と
信仰告白に至った。舟は、無事、目指す地に到着した。

主が大嵐に会わせられたが、弟子たちは、主が自然界をも支配される、生ける神
であることを知った。主を舟に迎え入れるや嵐が止んだ。
あなたの、その問題に、主を迎え入れる時、平安が臨む。つまり、その問題を主
に委ねること、明け渡すことだ。嵐が止んだように、心が全き平安になる。

重大な事は、「主イエスは神」であるということだ。自然界も、あなたの人生も、
あなたの問題も支配しておられる。神である主が「恐れるな」「わたしだ」と、
必ず助け出して下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
強制的に舟に乗せられ、厳しい試練に会わせられた。しかし、それを通して、主
が自然界をも治める、まことの神である事を知った。私達の目の前の問題も、
「確かにあなたは神の子」と知れるためだ。自分で悪戦苦闘せず、舟に主を迎え
入れる事、主に明け渡す事が肝心だ。


2010年05月04日(火)

「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」U列王7:2 

  
こに信仰と不信仰が出て来る。預言者エリシャは、大飢饉のサマリヤで、「主の言葉を聞け」明日、小麦や大麦が売られると預言した。しかし王の侍従は、「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と嘲笑った。そこで、彼は「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、食べることはできない」と答えた。

丁度、4人のらい病人が、どっちみち死ぬのだからと、敵の陣営に行ってみると、そこには誰もいなかった。主がみわざをされ、敵は逃亡していて、有り余る溢れる食物を見つけた。何と主の言葉が、その通りに実現した。奇跡をされた。しかし、その侍従は、門の所で殺到した民に踏みつけられて、死んでしまった。

侍従の、不信仰な、懐疑的な言葉に対する、エリシャの言葉もその通りに成就した。彼が、主の言葉を、信仰持って聞いたならどんなに祝福だったろう。又、不信仰のイスラエル王も出て来る。子供を食べるほどの饑餓の悲惨を、神のせい、エリシャのせいにし、エリシャを殺そうとした。

しかし、王のなすべき事は、御前に自らの不信仰を悔い改め、神に助けを求める事であった。私達も困難の時、心を屈折させ、神や、環境や人のせいにして、ますます頑なになり、神から離れるだろうか。神の願い、御心は、人生の困難を通して、私たちが学び、自らの自我や不信仰に気づき、変えられ、成長して行く事だ。
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困難な状況の時には、狭量になり何かのせいにしたくなる。不信仰に陥る時、神様になぜなのかと不信仰な思いをそのまま話して行こう。どんな心の状態でも神に目を向ける事が信仰だ。


2010年05月03日(月)

「いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」ルカ10:42



結婚生活を建て上げて行くためには、努力が必要だ。オートマチックではなく、単に同居していれば、自動的に良い関係が出来るのではない。関係を育んで行く事が大切だ。気持ちを語り合い、苦しみや悲しみ、喜びを共有する事で、又、互いに犠牲を払い合う事で、関係が深められて行く。

人との関係と同様に、主との関係も交わりが必要だ。何もせず、オートマチックに深まることはない。そして、愛するためには、どうしても時間が必要だ。マルタとマリヤの箇所で、学ぶことができる。マルタは行動力があり、家事能力があり、テキパキと、家事をこなして行った。目まぐるしいスケジュールをこなして行く私たちだろうか。

それらが好きなのかも知れない。座するより、動き回る事には充足感が伴う。しかし、余りに忙しいと、私の仕事、私の責任、私の立場、それらがおおいかぶさり、思うように進まなければイラ立ち、怒りが湧く。思い煩いや苛立ちに支配され、何をしているのかわからない。状況を周囲を、裁き、責め始める。

主の御前に座らなくては、心はどんどん離れて感覚が薄れて行ってしまう。いつしか、羊飼いの、愛の御声を聞き分けることも出来なくなって行く。マリヤも別に暇なのでなく、忙しかったろう。ここで優先順位を見る。「マリヤはその良いほうを選んだのです」選ばなければ、ずっと流されたままだ。選んでいない自分だろうか。主は御声をかけたいと待っておられる。その時間を取る人に語られる。
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自分は弱くすぐに流されて行く者だと知っているなら、立ち動く前にみ言葉を聞き、今の自分をみ言葉によって軌道修正され、祈り、感謝して立ち上がる。忙しければ、忙しいほど危機感を持とう。主の守りが必要だ。良い方を選び取ろう。


2010年05月02日(日)

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」箴言4:23

自分の心を見張るのは誰だろう。誰かが見張ってくれるのだろうか。そうではな
い、他人が見張ってくれない。自分が自分の心を見張らねばならない。自由意志
が与えられており、神もそこを支配されない。あなたの心の態度は、あなたの自
由な選択の結果だ。

神はあなたの態度をコントロール出来ないし、されない。どこまでも自由だ。
次から次へと問題は起きる。私たちを悩ませる対人関係が出て来る。環境を変え
れば何とかなるのでは、職場を変われば・・、相手が変われば何とかなる・・、

又、困難な事態が目の目に生じると、ちょっと時間を置けば何とかなる・・、環
境、相手、時の問題にしようとするが、そうではなく、最大の問題は自らの
心の態度だ。

苦難の人ヨセフは、兄達の妬みを買い、エジプトに売り飛ばされ、大変な苦しみ
に会う。そこで、主人の好意を得、認められるが、又、苦難が来て、無実の罪で
投獄される。しかし、そこでも、模範囚となり、監獄長に認められる。

「主はヨセフと共におられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされ
た」。神がそのようにされた。しかし、そこに、ヨセフの神の御前におおける正
しい態度があった。

環境、状況がどうであろうと、どんなに悲惨であろうと、心を歪ませないで、屈
折させず、真っ直ぐに神を見て行く時、立って行ける。ヨセフが自分の心を歪ま
せないよう、心をガードしたように、私たちも心を堅く見張っていよう。

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信仰生活で重要なものが、心の態度だ。自分次第だ。心を屈折させて、いじけた
り、すねたり、反抗する事ができる。しかし、どんな中でも、自己憐憫、自己卑
下せずに、主を信じて行こうとすることができる。態度は自分の選択だ。苦しい
中で、素直に主を信じて行く選択が出来るよう祈ろう。


2010年05月01日(土)

「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」箴言18:21

人間の心の本当の姿が、表れ出されている。「死と生・・を愛して」とあるが、
私たちは単純に、善を愛して、悪を憎んでいると思っている。悪を憎んでいるが、
古い性質があるゆえ、そこにはまってしまう事で悩んでいると。

しかし、御言葉によると、死を愛する心があると言っている。罪を本当は憎んで
いるのではなく、愛していると。例えば、自分を傷けた相手を憎んでしまう。憎
むのは、自分が苦しいし、辛い。だけれども、許せなくて、憎しみが募るのだと
思う。

しかし、心の底の底を探られると、憎みたくないのでなく、憎んでいたい。赦せ
ないのでなく、赦したくない自分がいる。どうしようもない自分に、自我に行き
着く。

その時、主の十字架、主の流された血潮が、頭ではなく、現実味をもって迫って
来る。まさにこのために、この自分のために、主は御からだを裂かれて、血を流
されて苦しまれたのだと。自分の罪が見えて、十字架の赦しがわかる。

又、舌は死と生を支配すると。言葉は種であり、「その実を食べる」必ず死か生
の実を結んでしまう。否定的、批判的、懐疑的な言葉の種を蒔くか、肯定的、建
設的、前向き、信仰的な言葉の種を蒔くか、自分自身の選択だ。

日常を振り返る時、必ずそれぞれの実を刈り取っている。否定的状況が来た時、
神の言葉を思考の部分に置く時、心が驚くばかりに守られる。

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古い性質があり、肉は自分に敵対する者を憎みたい、何倍にも報復したい。強烈
な自我がある。その自分を認めることから解放が始まり、十字架で赦されている
自分を見い出す。御霊に示される通りに従って行く時、御霊の力によって、自分
が変えられて行く。