2010年06月30日(水)

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」ピリピ2:13

神は、私たちの心に思いを授けられる。御心にかなった思いを心に置いて、私た
ちを導かれる。「〜したい」「〜しよう」との思いが来る。

神は御声をかけて導かれるが、同様のことをサタンもする。それゆえ、心に起き
る思いが、すべて神からのものではない。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、お
びき寄せられて、誘惑されるのです」欲による願望がある。

サタンは「火矢」を投げ込み、心に思いを吹き込んでくる。自分から湧き上がっ
て来る、肉の思いもある。では、どれが神からの思いなのか。見分けるためには、
とにかくよく祈ることが大切だ。祈りが非常に重要だ。

その思いは、御言葉と合致するか。どうであれ、神は、御言葉に反する方向へ導
かれる事は絶対に無い。目的のために手段を選ばないものも、 神からではない。
結果さえ良ければ、結果オーライであれば、良いではないかというものはサタン
だ。

神から出たものは、目的も手段も正しい。それは周囲の人の徳を立て、人々の霊
的成長に役立つ。神の栄光が現れる。

又、その思いは変わらないか。一時的な感情なら、時間と共に思いも状況も変わ
って行く。大切な事柄であれば、焦らずよく時間をかけて祈ることだ。時間をか
ける事で明らかにされる。御心なら雲の柱により、必ず導きが来て、門が開かれ
て行く。
・・・・・・・・・・・・・・・・
神から発した志は、神によって成り、神に至る。神が始められた事なら、神が完
成させて下さる。「良い働きを始められた方は・・それを完成させて下さることを、
堅く信じているのです」。神から出ているかどうかだけが、肝心だ。


2010年06月29日(火)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです・・主の御霊のあるところには自由があります」Uコリント3:17

信仰生活をしていて、気づくだろうか。私たちは、状況に、相手に、すぐに「反
応」してしまう。丁度「温度計」だ。周囲の状態を正確に表してしまう。

相手が優しく親切であれば。こちらも優しく愛深く接する。相手がいじわるで、
きつく当たって来るなら、こちらも敵対心を抱き、相当の応酬をする。

相手が冷ややかであれば、こちらも愛することができず、冷淡になってしまう。
これならすべては相手次第だ。自分が相手にコントロールされていて、自分が無
い。

自分が無いと、私が怒るのは、相手が怒らせるからであり、怒る事を言う相手が
悪いとなる。自分は正しく、すべて人のせい、環境のせいになる。しかし、信仰
によって生きるとは真逆のことだ。

何があろうと、どうなろうと、人のせいにせず、環境のせいにせず、神を信じて
生きて行く。苦しい事、辛い事のまっただ中で、人のせいにせず、神が良くして
下さること、最善以下はされない事、ご計画があること、愛して下さっているこ
とを堅く信じる。それは人に反応するのでなく、神に反応した生き方だ。

神に向き、御言葉に反応して生きて行く時、人依存から解放されて、自由がある。
周囲の温度に反応する「温度計」でなく、温度を調節する「サーモスタット」だ。
状況でなく、主に、御言葉に心を向けよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人のせい、環境のせいにしていると、心は平安が無く苦しい。そして、自分が変
えられる事がなく、一生成長がない。人や環境のせいにして、自分は決して変わ
ろうとしていない事に、気づく事から祝福は始まる。主に向いて行く時、辛い心
を解放して下さる。


2010年06月28日(月)

「『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」ヘブル3:13

「だれも悪い不信仰な心になって生ける神から離れる者がないよう」にと警告し
勧められている。そのために「今日」という日が強調されている。エジプトを出
た民のようにならないために、明日ではなく、「今日」今すぐに神に立ち返るよ
うにと。

「今日」は大切だ。悔い改めるべき事があれば、明日に延ばさずに、今日悔い改
めるべきだ。サタンの誘惑と攻撃により、必ず悔い改められなくなってしまう。

決心すべき事が示されているなら、「今日」しよう。明日にしようと思っている
と、明後日となり、来週となり、ついに決心出来なくなってしまう。御霊の示し
があるのに、ぐずぐず延ばしてしていると、いつしかその気持ちが消えてしまう。

ある人が、ある決心を御霊に示された。しかし、従わないで、ぐずぐずしていた。
尚も促しがあったに関わらず、ぐずぐずして従うことをしなかった。

するとある時から、その気持ちが全く無くなってしまった。主の憐れみにより、
1年後再度示しが来て、従った。従った結果、与えられた大きな喜びに心から感
謝した。煮え切らない態度でいると、大きな祝福の機会を逃してしまう事を学ば
された。

サタンも強く妨害して来ることをわきまえ、「今日」従えるよう、助けを求めて
祈ろう。あなたに、何か示されている事があるなら、「自分にはできません」と、
助けを求めて祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「きょう」神は御声をかけて下さっている。「きょう」神の御声に耳を澄まそう。
そして、「きょう」御霊に示されている事を、行なおう。ぐずぐず従わないでい
ると、大きな祝福のチャンスを、信仰の前進を逃してしまう。


2010年06月27日(日)

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:15

イスラエルの民は、多くの奇跡を目の当たりに見て、神の言葉を聞いていたに関
わらず、心が頑なであった。出エジプトという、前にも後にもないほどの偉大な
奇跡を見たのに、荒野に出た途端、食べ物が無いと愚痴を言い、つぶやいた。

愛なる神が、必要を必ず備えて下さる事を信じない。民を愛して、顧みて、神が
マナを天から降らせ、水を湧き出させても、次々とどれだけ奇跡を見ても、カナ
ン偵察の斥候達の言う事に怯え、エジプトに帰ろうなどと、神を信じる事が無か
った。

いつも疑い、不満だけで、最後まで神を信頼しようとしない。子供の頃に、親か
ら小言を言われる時、余りにもしょっ中なので「耳にたこ」とばかりに、聞き流
した経験がないか。

右から左に通り抜けるだけだ。何の反省も無く、ましてや言葉も真剣に受け止め
ない。これが心を頑なにする事だ。こうなると、物理的に耳には聞こえていても、
決して心には入らない。これが繰り返し重なると、恐い事に、ますます心が固く
なる。

すると、神に対する不信仰が強固になって行く。心が石のようになると、悔い改
められなくなってしまう。民が安息に入れなかったのは不信仰のゆえだ。神の愛
と慈しみのこもった御声に、私たちを愛をもって導く御声に一心に耳を傾けよう。

自分に不都合であろうと、耳が痛かろうと、神からの語りかけに応答しよう。そ
れこそが、聖霊が私たちに与えて下さっている新しい心であり、それを選択して
行く時、新たに神を知り、変えられ、成長して行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・・
しばしば都合の良い言葉だけ受け入れ、都合の悪い御言葉は無視する。しかし痛
い言葉こそが、自分に必要であり、大きな祝福をもたらす御言葉だ。耳を傾けて
行く時、主が取り扱って下さり、自分が自由にされて行く。御声に一歩従おう。


2010年06月26日(土)

「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから」ルツ3:1

ルツは、ナオミを通して知った神を信じ、故郷を離れ、姑について来た。ナオミ
はそんな嫁ルツのために祈り、ルツの将来についてよく考えた事であろう。

たまたま落ち穂拾いの畑で出会ったボアズ。彼は親類であり、ルツに目をかけて
くれてる。彼の申し分無い誠実な人柄、彼こそふさわしいと考えた。ナオミはル
ツに指示を与え、ルツは言われたその通りに、従順に従った。

その権利を持つボアズに、買い戻しを願った。すると更に近い親類がいるので、
その人が放棄するなら自分が買い戻すと。ナオミは、その更に近い親類という障
害を越えて、必ずボアズがルツを買い戻す事、それが神の御心であり、成就する
事を信じた。

それで、この事がおさまるまで「待て」と確信持って言えた。人間のわざでなく、
神が働かれるから、成り行きを見守っているようにと。じっとしておれと。つま
り肉の動きを止めることだ。

これが非常に難しくて出来ない。必ず何かしようとするし、動く方が楽で、安心
なのだ。目に見えない神をじっと待つ事は難しい。又、それは語られた事、示さ
れた事はして待つという意味だ。

導きに従った上で、後は、信頼して待つ。ルツは自分の分を果たした。だから
こそ、次にすべき事はそこで安息し、神がされる事を待てばよい。あなたにも、
今なすべ事を果たし、神を待てと言われているだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私におっしゃることはみないたします」とルツはナオミの言葉に従順に従った。
そして、その結果を、神にすべて委ね、神がボアズに働いて、ボアズが買い戻し
てくれるように、望みを抱いて待った。明け渡した後は、ただ平安に待っていれ
ば良い。


2010年06月25日(金)

「わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」イザヤ55:9

「求めなさい」と神は言われ、そうするなら答えられ、喜びが満ちると。祈りは、
神が喜ばれる事だ。祈りは聞かれる。御心なら願った通りに叶えられ、又、ある
時は、願ったそのままでは無い、違った形で答えが来る。

間違ってはいけないのは、祈りとは、お金を入れると、欲しい飲み物が出てくる
自動販売機ではない、自分の欲望充足の手段ではない。自分の期待通りの答えと
は限らず、むしろ、思いに反した答えが来る事がある。

楽しい、喜びでわくわくするものを期待していたのに、痛い、辛い、苦しい試み
が臨む。「なぜ?どうして?」と戸惑い、混乱する。「私だけが何と不幸」と自
分は可哀相の、自己憐憫に陥る。

しかし、御言葉は「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものでは
ない」と言う。サタンの罠に陥ってはならない。その苦しみは、必ず大きな祝福
と益を刈り取る。あなたを大きく成長させてくれる。

その試練は、確かに、祝福を求めた祈りの答えだ。今は苦しくても、結果的に、
必ず「良かった」と言える。よく、痛み、苦しみに会うと、負の要素のものは災
いであり、神に愛されていないと勘違いする。

が、そうでない。ほんわかと心地良く、喜び溢れ、わくわく感があると、愛され
ていると思うが、「主はその愛する者を懲らしめ」とある。懲らしめは、神の愛
であり、試練には、そこに神の愛がある。

自分の思いでなく、神の価値観に立って、御言葉に立って、試練を受け入れる時
に初めて、今まで全然見えなかった、御心が見えて来る。

・・・・・・・・・・・・・・
時に、自分の思いと全く違う道に導かれる。しかし、神のみ思いは、自分の思い
よりも、遙かに高い事を覚えよう。自我は強く、自分の思い以外はなかなか認め
ようとしない。自分の都合の良い道でなく、自分への最善が用意されている。何
と感謝だろう。


2010年06月24日(木)

「イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸に渡ろう』と言われた」マルコ4:35

主は弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。弟子たちは自分たちが渡ろう
と考えたのではなく、主から発した事であた。主の指示に従ったなら、嵐に会っ
た。

「おぼれて死にそう」なほど、身に危険を覚える暴風雨であった。この場合、主
に従わずに、岸にとどまっておれば、嵐に会わなかった。私たちは、主の御心に
従う中で、嵐に会うということだ。

御心に従わないからでなく、従ったから試練に会った。試練は悪ではない。順調
が善、逆境は悪との根深い価値観が無いだろうか。逆境は悪なので、神に愛され
ていないと思ってしまう。その間違った価値観が苦しみを大きくする。

試練は私たちを訓練し、鍛え、きよめ、信仰を成長させてくれる。試練が無いな
ら成長はない。罪の性質、頑強な自我は、どうしようもないほど頑なであり、砕
かれない限りどうにもならない。

試練はそれをしてくれる。信仰生活に試練がある事をわきまえていよう。困難に
直面すると「何で?何で?」と驚き怪しみ、パニックになるだろうか。この試練
の舟に、自然をも一言葉で、支配する力を持つ、主が共におられることを覚えよ
う。

岸にいたなら試練に会わないが、このまことに生ける神である主の御力を知るこ
ともなかった。試練の中でこそ、主の御力を体験する。今、嵐なら、そのまった
だ中を通過させて下さり、向こう岸へ伴って下さる。

試練を必ず乗り越えて行ける。耐えられない試練はなく、脱出の道がある。試練
は主から来ている。その中で、主の真実、主のご愛を知れる。

・・・・・・・・・・・・・・
溺れて死ぬのでなく、向こう岸へ必ず着ける。今の問題は乗り越える事ができ
る。逃げたい一心で、嫌々渋々もがき通るのでは、結局痛いだけで、何も学べな
い。訓練は受けようとの姿勢でいるなら、新たに神を知り、自分を知り、多くを
学べる。


2010年06月23日(水)

「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」ヨハネ21:6


主が復活されて、弟子たちはすでに主に会っていたが、テベリヤ湖で、ペテロが
「私は漁に行く」と言うと、他の弟子たちも従った。ペテロは、以前漁師であり、
漁は、お手のものだった。

しかし「その夜は何もとれなかった」。かつてのベテラン漁師であり、漁のあら
ゆる知識と経験を駆使したが、雑魚一匹とれなかった。ここに私たちの姿も重な
る。主が見えない時、自分の力で、方法で、自分で何とかしよう、対応しようと
動き回る。

自分の経験、考え、力、自分から出たもので、そこに網をおろしたが、そこに神
の祝福はなかった。骨折り損のくたびれ儲けのごとく、虚しく空回りしてしまう。
私たちも、問題に対して、自分の思いと力で動くなら、そこに結実はなく、解決
は無いことを学ぶ。

虚しい労働に、疲れ果て、かつてのプロでありながら、何の成果も得られず、惨
めな弟子たちに、主は現われ、網を右に下ろせと言われた。自力で、やってみた
がどうにもならず、砕かれ、無力を思い知った弟子たちは、従うことができた。

岸から聞こえる声に従った時、網を引き上げられないほどの大漁だった。本来、
魚のいない時間帯だ。私たちも、自分の思い、肉の方法でなく、主の御声に従う
時、大きな祝福にあずかる。「網を右に下ろす」とは、御言葉を信じて、握り締
め、御言葉に立つ事だ。

今、主の導きがわからず、自分で漁をしようとしていたら、立ち止まり、御声を
聞こう。愛の主がじっと見守っておられ「右に下ろせ」との導きが臨む。

・・・・・・・・・・・・・・
御声に無条件で従った時に、大きな祝福にあずかった。人間的な思いが「意味が
あるのか?」「無駄」「無理、出来ない」とさえぎって来ても、主が語られた言
葉に、信仰もって従う時、奇跡を見る。自分が変えられる奇跡を発見する。


2010年06月22日(火)

「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9

荒野で羊を飼っていたモーセを、主は召し出された。柴の中から「モーセ、モー
セ」と呼ばれ「エジプトに帰り、同族イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と。

その時、モーセはどう答えただろう。「私はいったい何者なので、そのような事
をしなければならないのか。私は言葉の人ではない。他の人を遣わして欲しい」
と。
彼は40年前の、意気盛んな青年であった時に、エジプトの栄華と権力、地位、
人脈、影響力、ありとあらゆる力を持っていた。その彼は、自分の力で同族を救
い出そうとした。そして失敗した。
自信満々であり、自分が強かった。しかし、それは肉の力であった。それゆえ決
して神の力が現されることは無かった。

荒野に逃亡し、40年の羊飼いの生活を経て、かつての栄華も栄光もすべてが過
去のものとなった。何の力も無い、一介のただの羊飼いに、何ができよう。40
年の荒野での歳月を通して、モーセは砕きに砕かれ、へりくだったモーセと造り
変えられた。

以前のように自分が民を救い出せるなど、思い上がった考えはもう無かった。し
かし、神はそんなモーセを選ばれた。「モーセのようにへりくだっている人は、
地上に一人もいない」と主が言われるほどに、思い上がりも、自分の力も、何も
かも、砕かれ尽くしたモーセに変えられた。そのモーセこそがふさわしかった。

神の力は、いつどこで現われたのか。それは、モーセの「弱さの内に」、「完全
に」現われた。今、弱さを覚えているなら、強くなる必要はない。無力を認めて
神の御前にへりくだる時、その弱さの内にこそ、神の力が完全に現れる。

・・・・・・・・・・・・・・・
自分はいっぱしと思い、自分こそはと思う、そこを砕かれる。神が愛していて下
さるので、間に合う器に造り変えて下さるためだ。整えて用いるために。苦しい
状況でなく、その神に焦点を合わせて行く時、深い平安が心に来る。


2010年06月21日(月)

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」ヨブ1:21


私たちは時に、不測の事態に出会う。突然の倒産、リストラ、病の発覚、事故、
経済的窮状、離別、転居・・。そんな時、驚き慌て、パニックになり、右往左往す
る。厳しい状況に飲み込まれてしまい、わけがわからなくなる。

特に、そのような時は、状況ばかりに目を奪われ、状況しか頭に無くなる。神様
が飛んでしまって、状況に軸を置いていることになる。だから、神様が見えない。
大切な事は、軸を神に置いて、視点を神に置いて、焦点を状況でなく神に合わせ
ることだ。

つまり、どのような状況の中においても、まず神を認めること。ヨブは突如とし
て、子供を失い、家畜、家、しもべたち、財産を失ってしまった。しかし、そこ
にヨブは、神の主権を認めた。

神から来たことであり、だから「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべき
かな」と告白した。何もかも失った中でも、そこに神を認め、主がされた事と受
け入れ、神を賛美した。

しかし、慰めに友人たちが来た時に、その会話で、ヨブは自分は正しいと、自分
を義とし、自分軸に立った。その後、神ご自身が自らヨブに答えられた。再度、
神に焦点を合わせた時、「自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」と告
白した。

今、不意の事態が襲っているなら、焦点は、軸はどこにあるだろう。状況だろう
か、神だろうか。すべてを益とし最善をして下さる、神に軸を置き直そう。

・・・・・・・・・・・・・・・
自分軸、状況軸、軸を自分や状況に置くと、神が全く見えなくなる。今、神が見
えないなら、軸が自分や状況にある。目の前の事態に、状況に、そうされたのは
神と、神を認めて行く時、神が見えて来る。恵みと祝福が見えて来る。


2010年06月20日(日)

「主が・・『アナニヤよ』と言われたので、『主よ。ここにおります』と答えた」使徒9:10

アナニヤという信徒が出てくる。彼は使徒ではなく、役員でもなかった。しかし、
彼は忠実な、従順な信仰者だった。主に呼ばれた時「主よ。ここにおります」と
答えている。

常に主を見上げて「お従いします」との姿勢で歩んでいる人物だ。主は、サウロ
のもとへ行くように命じられた。しかし、アナニヤは戸惑い、恐ろしい迫害者で
あったことを告げる。主は彼が異邦人に宣教する選びの器であることを伝える。

主のご計画を打ち明けられたのだ。この主の言葉をアナニヤは受け入れた。そし
て主を信頼した。それで、サウロを訪ね、「兄弟サウロ」と言えた。このアナニ
ヤの主への従順があったからこそ、パウロは見えるようになった。

アナニヤはどんなにか勇気がいったことだろう。しかし、アナニヤは従った。そ
して主はアナニヤが従う事を知っておられた。主の御心を実現させるのは、私た
ちの従順だ。主はそれを求めておられる。

あなたも今、従うべき御心が示されているか。主はあなたを信頼しておられる。
パウロは主の選びの器であった。アナニヤも選びの器であり、私たち一人一人も
選びの器だ。

職場で、学校で、家庭で、近隣で、あなたはたった一人のクリスチャンだろうか。
主があなたを遣わしておられ、そこであなたを用いるためだ。あなたは選びの器
だ。

・・・・・・・・・・・・・・
主は、全地を見渡し、心がご自分と一つになっている人々に御力を現される。ア
ナニヤの従順に学ばされる。「そうありたいですが、できません」から始めよう。
主に遣わされ、主と一つにされ、用いられるとは、何と光栄で幸せな事だろう。


2010年06月19日(土)

「彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた」使徒9:4

   

神のため、正しい事だと信じ、クリスチャンを迫害し、殺害に燃えていたサウロ。
エルサレムだけでは気が済まず、ダマスコまで追いかけた。その時突然、天から
の光が来て、彼は地に倒れた。

そして「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」「町に入りなさい・・告げ
られる」との声を聞く。地面から起きた時、目が見えなくなっていた。倒れた時
に、パウロは御声を聞いた。

神が倒されて、御声を聞かせられた。私たちは全力疾走している時、脇の事は見
えないものだ。神は御声をかけられているが、私たちの側で気づかない。倒れた
時、行き詰まった時、失敗した時に、立ち止まる。

その時こそが、御声を聞く時だ。パウロは3日間、目が見えなかった。それまで
の人生を深く考えた事だろう。人は立ち止まる事がなければ、深く考える事もな
い。誰しも倒れたくなどない。失敗も挫折も嫌だ。

しかし、それこそが大きな祝福と喜びにつながる。パウロは地に倒れて、救いに
入れられた。自分の力で、自分の強い意志で、駆けていたパウロが、天からの御
声を聞いて、御声に従う人に変えられた。

挫折は人の目から見るなら避けたいもの、あって欲しく無い、マイナスのものだ
が、神の目から見る時、立ち止まらせ、成長へと導く大きな祝福だ。今もし行き
詰まっているなら、大きな祝福の時だ。神視点に立ち、告げられる御声に耳を傾
けよう。

・・・・・・・・・・・・・・
挫折は嫌だが、大きな恵みだ。前進も、後退もできず、行き詰まった時には、祈
り、神を求める。自分を内省し、吟味し、自らの今までの歩みを振り返り、行く
末を考え、神がどのようなお方かを考える。立ち止まりは祝福だ。新たにされる
時だ。


2010年06月18日(金)

「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」使徒8:4


サウロはステパノ殺害に賛成していた。聖霊に満たされたステパノの見事な鮮やかな力に満ちた証しを目の当たりにして、サウロは憎悪に燃えた。キリストを神と仰ぎ、救い主とする、クリスチャンは天敵以外の何者でもなかった。激しい怒りと敵対心、憎しみを更に刺激され、抹殺の意を固くした。

反面それはサウロの救いの伏線ともなった。ステパノの厳かな殉教の死により、更に迫害は激しさを増し、荒れ狂った。サウロは憎悪に燃えて、教会を次々と荒らし、家々に入って、容赦なく人々を引きずり出し、投獄して行った。そのため信徒たちは四方へ追いやられ散らされて行った。

皆が、散りじりになってしまった。では、この苛酷な迫害で、信徒たちは意気消沈して、気力を失い、教会は壊滅して行ったのか。そうではなかった。あちこちにバラバラになり、散らされた信徒たちは、何と「みことばを宣べながら、巡り歩いた」。結果的に見れば、この迫害による離散によって、返って福音が大々的
に宣べ伝えられる事になってしまった。

信仰の火が消えるどころか、どんどん燃え上がり、福音は四方八方に拡大されて行った。「どうしてこんな事が!」「なぜこんな苦しみが?」見えるところは真っ暗で、負の要素しかないが、神は最善以下は決してされない。神を信じて待ち望もう。今の苦しみが御手により展開し、最善の結果を見る。
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危機的な状況の中、意気消沈してしまうのが当たり前でそれはとても簡単だ。そこをやがて来る大きな祝福の伏線と信仰の目で見て行けたなら結果はどうだろう。信仰生活は、この選択の連続だ。信仰により今の状況に勝利しよう。


2010年06月17日(木)

「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」Uコリント9:8


有名な例えがある。死海は、水が溜まるばかりで、出て行く所がない。死海から流れ出る川がない。一方的に受けるばかりで、溜めるばかりだ。流れ込む水は大量蒸発する。それで、死海の塩分は濃くなる。この塩分濃度のため、魚が生息できない。周囲も砂漠で緑がない。

又、ガリラヤ湖は、フーレイ湖から流れて来る水を受け、溢れた水をヨルダン川に流している。常に水が流れていてガリラヤ湖の水は生きている。そのため色々な魚類が生息している。周囲も緑が豊かだ。受けているばかりだろうか。受けているだけなら、腐って来る。与えられたものを、次に流すと、又、与えられて、いつも新鮮で、生き生きと喜びが流れる。

与えられた恵みを証しすると、自分自身にも喜びがあり、又、恵みが増し加えられる。自分に与えられているものについてどうだろう。時間、富、労力、賜物・・自分だけのものにして、握りしめていると、腐って来る。それを神に、人に献げて行くと、必ず与えられ、増し加えられ、喜びの流れが止まることがない。

人生何のために生きているのだろう。蓄えるためか?それとも神の素晴らしさを知るためか?溜め込んで、喜びも平安もなく、煮詰まっていないか。神の御心にそって、持てるものを手放し、献げよう。御霊の喜びが臨む。
------------
神様から全てを与えられ、またそれを惜しまず次に渡して行きたい。受けるより与えるために神様は、このからの器に溢れるばかりに恵んで下さっているのだ。からになった時にまた豊かに与えられる神様を少しでも知っていこう。


2010年06月16日(水)

「わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ・・わたしの道は、あなたがたの道より高く・・」イザヤ55:8


時に、不意の事態や、全く想定外の事柄が起こる。「何で?何で、こんな事が起こるのか」パニックになり、驚き慌てる。又、試練が臨むと「どうして?私に」と反発したり、反抗する。長く祈っているのに、祈りが答えられないと、「何で?」と、すねたり、心屈折させたりする。

ある人が、突然、夫に転勤辞令が出た。賜物が生かせる仕事に就いて、楽しく働いていた。これからやりたいプロジェクトがあった。恵みを分かち合える信仰の友にも恵まれ、楽しい環境にあり、教会では奉仕に励んでいた。転勤は、やりがいのある仕事に、恵まれた交友関係、これらをすべて失う事になる。

「神様、なぜ?どうして?」非常な葛藤があったが、信仰によって、主の御心を受け入れ、赴任地へ引っ越した。すると、引っ越した先で、神に大きなご計画があった事がわかった。近所に聖書に関心のある人がいて、家庭集会を導かれた。
その集いは祝福され、近所の人々が次々増し加えられ、救われる人々が起こされた。新しい友人、尊い奉仕が与えられ、大きな喜びを下さった。

自分の行く手が塞がれたり、自分の思い通りにならないその先に、神の大きなご計画がある。時に、私たちの思いを越えた、神のご計画と御心の道に、私たちを運ばれる。思い通りでない時も、神の最善を信じ、委ねていよう。
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自分の人生、自分の計画のその前には神がおられる。思い通りにならない時こそ、神様を認めご計画をもう一度信じ、明け渡す貴重な時だ。道は閉ざされ、また開かれ、常に最善がその先にある


2010年06月15日(火)

「彼は告白して否まず、『私はキリストではありません』と言明した」ヨハネ1:20



「バプテスマのヨハネがキリストか?」と思った人々がいた。しかし、ヨハネは、自分はキリストではないと言明した。彼は人々が主を信じるための、道備えをし、主を紹介するという、自分の使命、役割を心得ていた。それを果たす事により神の栄光を現した。

人は、自分に賞賛が向く時、どうしても自分に栄光を帰してしまう。人からの賞賛は大きな誘惑であり、肉はその誘惑に勝てない。しかし、ヨハネはへりくだっていた。人々の関心を自分にではなく、主に向けていた。弟子たちが、妬み心を抱いた時、人は天から与えられるのでなければ、何も受ける事はできない。主は盛んになられ、自分は衰えなければならないと答えた。

周囲の人が、自分より用いられていたら、妬みの誘惑が来る。しかし、ヨハネは自分の役割を受け止め、自分が衰えることを受け入れていた。主の御心を見つめ、御心を行なうこと、自分に与えられた役割を成し遂げること、そこに喜びを見い出していた。

なぜなら、ヨハネは主から愛され、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」とすでに主から認められていた。認められようと頑張る必要がない。私たちもすでに主から愛され、認められている。
それゆえ、自分に与えられた場で役割を果たして行くこと、そこから喜びが来る。
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人からの賞賛は誘惑だ。自分を見失い常に人の関心と賞賛を求めて行く。自分は何者なのか、神様との関係を今一度しっかりと確信しよう。私は神様が御子を十字架につけてまで愛し憐れんで下さっている者ですと今朝、謙遜に感謝を献げたい。


2010年06月14日(月)

「もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」ガラテア1:10



ある人の証しだ。職場の付き合いで、悩んだ。飲み会が、しょっ中あるのだ。付き合い自体も苦手で、嫌な思いをし、しかし参加していた。何となく、参加せざるを得ない雰囲気で、渋々付き合っていた。連日のように深夜まで続き、苦痛で仕方が無かった。それなら断ればと思うが、断る事ができないのが自分の弱さだ
った。「ノー」が言えなかった。

ある日、祈りの中で、そんなズルズルベッタリの、中途半端な自分の姿が見えた。人を恐れて、主に従っていない事に気づきを与えられた。人にどう思われるかばかりが気になり、神も信仰も飛んでしまっていた。ただただ、人におもねっている、人に気に入られようと振る舞っている自分に気づいた。「人を恐れるとわな
にかかる。しかし、主に信頼する者は守られる」。主に信頼するなら守られるとの言葉に励まされ、現状をことごとく神に告げ、心底助けを求めて祈った。

すると心に確信と平安が来た。あれほど人が気になって仕方が無かったのに、心が変えられて、自分は自分と思えるようになった。そして、断れるようになった。仕事も、対人関係も守られた。生活の中で、「ノー」が言えない自分が変えられた事が、何よりも神のみわざであった。主に頼る時、恵みは十分で弱さの中にこそ、御力を現して下さる。
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ノーが言えず人に振り回されストレスになる、そんな弱さを持っている。人の反応を第一にして生きて来た長年の習慣を捨てよう。主と共に歩んでいることが私達の知恵であり力だ。人の顔色を見ず主を見つめていよう。


2010年06月13日(日)

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」イザヤ40:31

「慰めよ、慰めよ」で始まるこの章は、バビロンでの捕囚生活に苦しんでいる民
への解放を告げる。咎は償われ、二倍の報いを受けると。民が帰還してくるから、
「主の道を整えよ」と。

しかし、イザヤは、諦めと虚無、心に穴があいたようなこの状況で、何を言う事
があろうかと。だが、主は、諦めていた民への「良い知らせ」9’大いなる希望
であり、福音を告げられる。

国土を、神殿を、家を失い、何もかもが崩れ去ったイスラエル。その中で望みを
失い「私の神に見過ごしにされている」、見捨てられたと苦しんだ。

しかし、イザヤは「あなたは知らないのか・・主は永遠の神、地の果てまで創造
された方」永遠であり、全能者であり、同時に子羊をふところに抱かれる愛と慈
しみの主に、目を向けさせる。

私たちも苦しい事があると、「どうして?なぜ?」と、目の前の苦しみに飲み込
まれてしまい、神に見捨てられたと思う。なぜ、来て下さらないのか、祈りに答
えられないのか。

頭では、神は全知全能で、とわかっているのだが、苦しい現実に、神は本当に見
て下さっているのかと思う。だが「疲れた者に新しい力を」下さる。その大切な
鍵は「主を待ち望む」ことだと。

すぐに結果が出なくても、あなたのためにご計画を持たれ、あなたへの最善をし
て下さる主を、待ち続けることだ。必ず答えを下さる。

私達の本当の力は、現状がいかに悲惨であっても、目前の状況や自分を見ている
目が神に向き、天地創造され、全主権を持たれ、全能であり、愛であるお方に、
霊の目が、信仰の目が開かれて行くことから来る。

・・・・・・・・・・・・・・・・
神は「慰め」を語って下さった。いつも、私たちを慰めて下さっている。どんな
に失敗しても、足らなくても、主から慰めの御声が聞こえて来る。何があっても、
豊かな赦しがあり、いやしがある。それゆえ、どんな時も新たにされ、希望があ
る。


2010年06月12日(土)

「このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです」使徒3:16

宮の門に、「生まれつき足のきかない男が運ばれて来た」。祈りの時間に、宮に
来る人々に、施しを求めるために、人々の助けを借りて、門に置いてもらってい
た。

人からの施しが生きる糧であり、恵んで貰って生活をしていた。来る日も、来る
日も、物乞いの日々は、彼にとってどんなものであったろう。そこで、ペテロと
ヨハネに出会った。「私たちを見なさい」の言葉に、何かもらえると思い、注視
した。

すると「イエス・キリストの名によって歩きなさい」との言葉を受けた。彼らに
助けられて立ち上がると、たちまち彼の足とくるぶしが強くなり、まっすぐに立
ち、歩き出した。足に力がなく、一度も歩いた事が無かった彼に、御名を信じる
信仰のゆえに、奇跡が起きた。

彼は生まれつき足がきかなかった。彼は足であったが、私たちはどうだろう。心
がなえているだろうか。愛することができない。憎んでしまう。妬んでしまう。
すぐ怒りに負けてしまう。

あれやこれや、思い当たる事があるかも知れない。自分でどうする事もできない
無力を感じているだろうか。惨めな状態なら、それこそみわざを見る時だ。

人にはできないが、神にはできる。主だけが、あなたの心を変える事ができる。
彼は自分を明け渡して、主にすがり癒された。差し出されている御手に、すがり、
委ねよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の内の萎えた部分、どうしてもどうにもならない部分、しかし、主が語りか
けて下さる御言葉に従う時、上からの力が与えられる。奇跡を見る。自分にはで
きない。しかし、主にはできる。御声に耳を澄まし、示しに一歩従おう。


2010年06月11日(金)

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」使徒3:6

               

富は、私たちに快さを与える。欲望のままに欲しい物を持ち、快適だ。しかし、どれだけ所有しても、人の心に決して満足を与えることはない。幾ら持っても不満足であり、もっと欲しい、これで充分ということがない。これが「貪欲」だ。

貪欲は底無しであり、哀れだ。ペテロとヨハネが宮に入る時に、お金を求める男がいた。その男にペテロは、はっきりと「金銀は私には無い」と答えた。私たちは何を求めているだろう。何を求めて御言葉に向かっているだろう。実は、この男のように、自分の欲しいもの、都合良いものを求めているのかも知れない。

「自分がこの世で成功して生きること」「人から人格者と思われたい」「自己実現のため」「充足感を、生きがいを得たい」有形無形の金銀だろうか。しばしば自分が求めているものと、神が意図し、下さるものとが違う。方向違いに求めている。「しかし私にあるものを上げよう」私たちが欲しいものでなく、神が必要
と思われるもの、最も良いものを下さる。

「イエス・キリストの名によって歩く」これを与えて下さるのであり、これこそが彼にとって最も必要なものであり、私たちも同様だ。主との交わりを回復させて下さり、日毎に生ける交わりの中で、神を実感しつつ、讃美を与え、喜びを下さる。
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富や人からの賞賛などで慰められたり落ち込んだり。そのような者が主に出会い主と共に歩む信仰を与えられた。もう美しの門の前ですわっている者ではない。喜び賛美しながら主と共に今日を生きよう。


2010年06月10日(木)

「神のわざがこの人に現われるためです」ヨハネ9:3



人には因果応報の価値観があり、何かマイナスの事、悪い事が起こると、バチが当たった、罪過の結果だと考える。この時の弟子たちも、盲目に生まれた原因は、この人か、親が罪を犯したからと考えた。弟子たちはその事の「原因」に視点が
あった。

しかし主は、「目的」に目を向けられ「罪のためではない、神のわざが現れるため」と答えられた。そして、つばきで泥を作り、盲人の目に塗って、シロアムの池で洗うように言われた。言われた通りに従うと、彼は見えるようになった。この奇跡が行なわれたのは、安息日であったので、パリサイ人たちは、律法に反する事だと、彼を呼び出した。

その時、彼は「私は今見えるのです」と言った。「私は盲目であったのに、今は見える」と。「見える」これは誰も動かす事のできない事実であり、現実だ。誰も何も言えず、反論出来ない。大きな力ある証しだ。私たちは「証し」というと難しく大仰に考え、自分になどとても出来ないと思う。しかし、単純に事実を
言えば良い。「私は救われた」「喜びがある」「平安がある」これこそ力ある証しだ。

主は、原因でなく目的に目を転じさせられる。どのような不都合な事、負の事、悪い事が起ころうと、そこに神の栄光を現わして下さる。今、目の前に悪い事が起きていたなら、「神のわざ」が現れるためだ。信仰に立とう。神の栄光が拝することができる。
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悪いことが怒ると何故だろう、何処が悪かったのだろうと心が定まらない。そこで主が事をなさる目的があるから、との視点に立てたなら、状況の中で心は大きく変わる。約束のみことばを信仰を持って聞いて行こう。神のわざがそこに現れるためだ。


2010年06月09日(水)

「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて・・彼らは打ち負かされた」U歴代20:22


モアブとアモンが攻めて来た時、ヨシャパテ王はどうしたか。全国に断食を布告し、ただひたすら主を求め、祈った。窮状を主に祈り訴えた。すると、主はレビ人ヤハジエルを通して語られた。この戦いは神の戦いであり、主が共にいるから、恐れず出陣せよと。これを聞き、ヨシャパテはひれ伏して、礼拝し、神を賛美し
た。

歌う者たちが賛美をし、喜びの声、賛美の声をあげ始めた時、主は伏兵を設けて、奇跡的勝利を与えられた。神の働きであった。この箇所から問題への対応を教えられる。その悩み、問題、困難だけを見ていると、私たちは圧倒され、飲み込まれ、失望落胆し、敗北してしまう。

しかし、ヨシャパテのように、まずその問題を主の前に持ち出し、主に訴え祈ることだ。自分で何とかしようとせず、主にお委ねする。すると、主は答えて下さり、御言葉を送り、励まし慰め指針を与えて下さる。感謝し、賛美して行く時、主が戦い、勝利を与えて下さる。不思議に問題が解決して行くのを見る。

暗い牢獄の中で、パウロとシラスも、幾らでも苛立ち、愚痴や不満が出たであろうに、彼らはそうでなく感謝し賛美し、祈りをしていた。その時、神の奇跡が起き、結果的に人々が救われた。感謝することは信仰であり、その事態に神の主権を認めることだ。そこに神は働かれ、伏兵を設けて、奇跡のわざをされる。
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神様を頼りに、委ねたつもりでも喜べないのなら、自分の手にまだ問題を握っているのだろう。主に委ねるしか解決は無いのだから完全に明け渡し、委ねられるよう祈ろう。そして感謝し賛美し望みをもって奇跡のわざを待っていよう。


2010年06月08日(火)

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」Tコリント10:31



オリンピック優勝の最有力候補であったフィギュアスケートのジャネット・リンは、大事な本番の競技で転倒してしまった。息を飲んだその瞬間、優勝を逸してしまった事が誰の目にも明らかだった。

しかし、その時、彼女はにっこり微笑んで、立ち上がった。その後、最後まで決して競技を捨てず、丁寧に精一杯力一杯の演技をした。決して試合を投げ出さず、最後まで心を込めて素晴らしい演技をした事に、感動の拍手喝采が起きた。何と優勝者よりも大きな拍手であった。後々まで、その感動は語り継がれた。

私たちは、どんな状況でも、神の栄光を現わすことができる。優勝により神の栄光を現すことができる、と同時に、失敗しても、起き上がって、最後まで精一杯の、最高の演技をする事によって、神の栄光を現わすことができる。その事は、人々に大きなインパクトを与える。

私たちは、何のために生きているのだろう。ただ勝つために、優勝するためにだけなら、転んだ瞬間に、すべては崩れ去る。失望落胆し、気力が失せる。しかし、私たちは主の栄光のために生きている。勝つことでなく、主の栄光を現わすことが最終目的だ。それに伴う動機は大変重要だ。何のためにそれを行なうのか。自
分の栄誉、自分の名が上げられ、賞賛を得るためだろうか。主のためだろうか。
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失敗も成功も委ねてして行くなら結果は総て神様からのものだ。私達はそれで本当に満足でき、人々はそれで主の栄光を知れる。どんな時にも主の栄光、主のかぐわしい香りを放って行く者となれるよう祈って行こう。


2010年06月07日(月)

「今は、父よ。みそばで、わたしを栄光で輝かせてください」ヨハネ17:5


主は、十字架の死の前に「父よ、時が来ました・・子の栄光を現して下さい」と祈られた。この上ない残酷で凄惨な死に、栄光が現れるようにと。一見、敗北、悲惨、無力にしか見えない。「どこが?これが神の子?」と惨めで哀れな姿、その苦しみが神の栄光である事を、主は知っておられた。

両手両足を釘づけられて、さらされた姿で、いっさいの抵抗も出来ない。なされるがままであり、これこそ無力の極みで、しかし、これが栄光だと。「栄光」と聞くと、大成功で、うまく行く事、失敗の逆を思い浮かべないだろうか。受験は合格、畑は豊作、子供は皆良い子、立身出世、商売繁盛、夫婦円満、こういう事が栄光だと思っていないか。しかし、十字架刑が「わたしの栄光を彼らが見る」「わたしを栄光で輝かせて下さい」と言われた栄光であった。

大成功だけが、栄光なのではない。どんな状況でも、それが悲惨なものであっても、又、失敗であっても、そこで、あなたが御霊に従うなら、神はあなたを通して「栄光」を現わされる。姦淫と殺人罪はどうだろう。栄光の真逆だ。しかし、真摯に悔い改めたダビデは、素晴らしく主の栄光のために用いられた。ヘブル11章の信仰の人に名を連ね、ダビデの詩編にどんなに私達は慰め、癒され、引き上げられただろう。どんな状況であれ、ただ御霊の導きに従おう。
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神の栄光の輝きをさえぎるものが自分だ。逆境の中にあっても平安でおれ喜んでおられるのは、内におられる御霊に従い主を見ているからだ。神の前に自分を置かず謙遜に御霊に従い、神の栄光を輝かす者になりたい。


2010年06月06日(日)

「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」イザヤ40:31

信仰生活で行き詰まり、疲れる事があるだろうか。マルタのように、なすべき山
積みの仕事にイライラして、周囲に当たり散らしたり、又、荷が余りに多く、負
いきれずに落ち込んでいるだろうか。

自分の力で頑張って、自分で何とかしよう、やり遂げよう、こなそうとすると、
滑り出しは調子よく行くが、必ず油切れの状態になり、しんどくなり疲れて来る。
こんなはずでは・・状態に陥る。

心が悶々と平安無く、喜びが無い。何とか、自分を奮い立たせようとするが、更
にもがいて疲れが増す。主が言われているのは、自分で頑張る事ではなく、主を
待ち望む事だ。

自力で頑張れば、必ず疲れ果てる。しかし、主を待ち望むなら、神の力を受けて、
新しくされる。主に引き受けて頂こう。今、苦しい局面にあるか。主に希望を置
いて、主を待ち望もう。必ず神の時に道が開かれる。

祈りがなかなか答えられない状況だろうか。大きな祝福のためには、積み重ねら
れた祈りを要する。祈り、待ち望もう。

ある人が連日の過重労働にダウン寸前だった。祈りの時間も取れず、作業しなが
ら時折祈っていたが、心がカラカラに渇いた。ある日帰宅するや、食事も取らず、
祈りの時を持った。

心の思いを次から次へと主に告げた。涙が溢れて止まらなかった。自分がしたか
ったのは、こうして心を注ぎ出して主と交わることだったとわかった。心が渇き
きっていたのだ。主と心行くまで交わり、心が洗われるように新たにされた。

・・・・・・・・・・・・・・・・
主の御前に静まり、心の内を余すところなく打ち明けよう。誰にも言えない心の
奥底の本音を、ことごとく主に告げよう。主に聞いて頂いた安堵に、心が落ち着
いて安らかになる。そして、主は御声を聞く時、内側から新しい力が湧き上がる。


2010年06月05日(土)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」ガラテヤ2:20

誰しも外側から見ていると、人の事もはっきり見える。冷静に見ることができる
ので、よくわかる。いつも問題を起こす人、常に問題を持っている人の特徴があ
る。それは「私、私、私」だ。どこまで行っても、ただただ「私」なのだ。

「私」しか無い。「私」がすべてだ。誰も触れる事のできない強烈な自我がある。
私はああで〜こうで〜、強固な自己があり、誰にも、御霊にすら触れさせない。
恵みに自分で心閉ざしている。だから問題なのだとでも、言おうとするなら、激
怒だ。

「自分のことをわかってくれない」との言葉に会う。すべてをシャットアウトし
て、自分の中にこもる。誰も入る事を許さない。強烈な自己愛だ。こうであるな
ら、変わる事は不可能だ。自分から一歩も出られない。

自分で自己憐憫の殻にこもって出ようとしない。私たちも「私」「私」「私」だ
ろうか。そここそが問題だ。常に「私」が問題だ。自己愛から、自分の殻から出
て、御言葉に一歩従ってみよう。

その時、自分が変えられて行く。自分が変えられるのは、御言葉に従う事によっ
てだ。自我の殻が破られて行く。一歩一歩自分に従うのでなく、主に、主の言葉
に従って行くなら、どんな人であっても、必ず変えられて行く。

・・・・・・・・・・・・・・・・
すべての問題が自我にある。ここ数日間に起きたあの事、この事はどうだろう。
あの反応、この態度、自我から派生していて、自分が問題だ。このどこまで行っ
ても、どうにもならない自分を十字架で解決して下さった。すでにキリストと共
に死んでいる、今朝もここに立って、主と共に一日を始めよう。


2010年06月04日(金)

「あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」ローマ6:16


コ−リ−・テンブ−ムは、迫害されるユダヤ人を家にかくまったため、政治犯として捕らえられ、姉と共にドイツの強制収容所に送られた。そこでは過酷な労働と圧迫の中、日々100人を越える人々が死んで行った。身体の弱い姉もその収容所で亡くなった。書類上のミスで、奇跡によりコーリーは生き延びて、その収
容所を出た。

戦後そこでの体験、主の愛と奇跡を世界中で講演して回った。ドイツでの講演の後、握手を求めて通路を歩いて来る人々の中に、かつての収容所での残忍非道な女看守を見た。残虐な仕打ちを受けた相手だ。身体中が凍りついた。

「主よ。彼女だけは無理です。絶対に赦せません」心も凍りついていた。その相手は言った「私は主を信じました。私を赦してくれますか」「私には出来ません。
主よ!」と見上げたその瞬間「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです」の御言葉が臨み、全身を包み溶かされた。

「あなたを赦します」コーリーの選択だった。赦さずに憎み続ける道と、古い自分に死に新しい御霊の導きを選び取る道、常に二つの道が目の前にある。自我は自分を、姉を、虐待した相手を憎んでいたい。赦したくない。しかし御霊は赦される。二つの道の選択だ。

「御霊を選ぶ事ができません、助けて下さい」と叫ぼう。その時、選択できるように助けて下さる。そして喜びに満ち溢れる。
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神と共にこの世にあっても神の国に歩む者とされた。罪の奴隷となっていた以前の古い思考を無視し、御霊の導きに従うことが出来るとは、何と幸か。コーリーほどの大きな選択は出来なくても、日々の些細な事を丁寧に選んで行きたい。 


2010年06月03日(木)

「しかし、私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」詩篇73:28



詩篇の記者は、悪者が栄えるのを見て、落ち込んだ。彼らは楽しそうで、豊かで肥え太っていて、何の苦しみもなさそうだ。悪者はいつまでも安らかで、富を増している。それに引き換え、自分は惨めで、苦しみばかりで、何の良い事もない。この足はたわみそうで、歩みは滑るばかりだと。

どうして神を信じない者が栄えるのかと。不平不満で一杯だ。その彼が、神の聖所に入り、光が与えられた。実は彼の不満や妬みや愚痴や、様々な悩みの原因は、神の近くにいなかったことによると悟ったのだ。本当の問題は、様々な事柄や状況ではなく、自分と神との関係だった。それが信仰にとって根本的なことだ。

私たちも同様だ。愚痴や不平で一杯になる時、イライラ状態の時、本当の問題はその状況でなく、自分と神との関係にある。神から離れているから、平安無く、喜び無く、心が荒んでイライラしている。それに反して、神と親しい交わりの中にいる時、状況がどんなに波風逆巻いても、大嵐の中でも、心は平安に守られる。

神の近くにいる事が幸せであり、問題が問題でなくなる。一番大切なことは、神との関係だ。今、神との関係はどうだろう。神から離れていたなら、すぐに立ち返ろう。平安が戻る。そして、状況に関係なく、幸せを感じることができる。
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目の前が真っ暗であってもそこに生きて働いておられる神を認めているなら最善以下の事はないと霊は喜び満たされる。目の前の必要は神との関係だ。私たちの心の方を変えてくださる。


2010年06月02日(水)

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」マタイ19:26 


金持ちの若い役人は、この世で手にできる、何もかもを持っていた。莫大な財産、名誉、地位、人々からの尊敬、評価、賞賛も得ていた、家庭も持ち、道徳的にも立派な生活をしていたであろう。この世的には、満たされており、何も言う事無かった。しかし、彼の心には何かが欠けていた。心の奥は満たされていない。

この青年は、主イエスに何かを感じ、心の満たしを求めて主のもとへ来た。主は、何が彼の問題であり、妨げであるかを見て、導かれた。彼は、戒めをみな守っていると答えた。隣人を自分自身のように愛していると。そうなら、貧しい人に財産を施すようにと、主は言われた。多くの資産を持っているのだから、貧しい人への愛があるなら、そうしたであろう。

しかし、彼はそうせずに、主のもとを去った。主は、分け与える事の出来ない、自分の真の姿を知らせようとされた。いつも主は、私たちの真の姿を見せられる。様々目の前で起きる出来事はそのためだ。いかに愛が無いか、いかに自分を捨てられないものであるかを。

青年は「悲しんで」去った。そう出来たらいいのだろうが、出来ない。主は彼を慈しんでおられた。自分にも出来ない。しかし、主のもとを去らないで、逃げないで、主に「出来ません。助けて下さい」と求めよう。求めに必ず答え、出来るようにして下さる。
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自分のどこか満たされない思い、出来ないところ、醜い部分をはっきり知る事は大きな祝福だ。主に頼り、主に聞き主がして下さることを信じて従おう。あきらめは、大きな不信仰だ。主を頼りに祈り続けよう。


2010年06月01日(火)

「民衆は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。するとたちまち、主の使いがヘロデを打った」使徒12:22


ヘロデ王と、ツロとシドンの住民との間で、何かがあったようで、王はひどく怒っていた。彼らは、王の国から食糧を得ているので、それをストップされると、死活問題だ。もう瀬戸際の中、王を訪ね、侍従に取り入り、和解を願った。王が座に着き、演説をすると、人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続け
た。それは王の歓心を買うためであり、媚びでありへつらいであった。

ようやく叶った面会であり、何としてでも食糧を手に入れたい。王をこれ以上無いほどに誉めそやし、持ち上げた。食糧の供給が、王の機嫌一つであり、王の一言にかかっている。心にも無い言葉でも、何でも構わない、食糧を得るための手段であり、方策だ。

しかし、どうだろう。人に誉めそやされ、持ち上げられ、心地よい快感が誰しもある。肉の思いだ。悪い気はしない。しかし、それに酔いしれて自分を見失って行く。学校で、職場で、近隣で、他の人が、自分をどう見ているのか。肉は、いつも気になる。他人が見ている目を意識して、自分を生きてしまい、自分が自分で無くなってしまう。神の御前でなく、人の前で生きてしまう。

神の栄光を口にしながら、関心は自分の栄光になっている。ヘロデは他人事ではない。「人が気になり、人からの誉れに心奪われ、良く見られたい者です」と主の御前に祈って行こう。神の栄光を求める者に、主が変えて行って下さる。
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人に賞賛を受けた時、それを神様に感謝し謙遜に栄光を返すことが出来たなら、人の目だけに反応する自分から守られる。自分自身の誉れに関心がなくなるよう祈って行きたい。