2010年07月31日(土)

「父よ、みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」ルカ22:42


主が十字架にかかられる前に、ゲッセマネの園で、苦しみもだえて祈られた祈り
だ。汗が血のしずくのように血に落ちた。主には、主の思い「わたしの願い」が
あられた。

十字架の死が本当に必要なのか、生きてこそ働きができるのではと、あるいは思
われかも知れない。主なりのみ思いがあり、十字架を回避できるよう切に祈られ
た。が、祈りの中で、御心の通りにと、ご自身を明け渡し委ねられた。

マリヤも御使いから、みごもって男の子を産むと告げられた。唐突で、どんなに
戸惑った事だろう。「どうしてそんな事が?」ヨセフは?この結婚は?どうなる
のか。自分の将来は?これが知れたら、それこそ石打ちの刑であり、死だ。

しかし、マリヤはそれらすべてを神に委ね、自分の命を委ねた。「私は主のはし
ためです。あなたのお言葉通り、この身になりますように」。

私たちにも、突然の理解できない事態が起こる。思い通りにならない状況になり、
願った進路がふさがれ、自分の思いとは違う道に導かれる。病、リストラ、経済
的危機、対人関係、様々な苦しみが臨む。

肉は、不平不満、愚痴でいっぱいだ。しかし、背後の神を見て、すべてに神のご
計画があり、御心と受け止めて行く時に、それは必ず益とされ大きな祝福とされ
て行く。

「御心の通りに・お言葉通りに」は、神のご計画を信じて、目の前の事態を受け
止めて行くことだ。その時、自分が変えられ、神のみわざを見て行く。

・・・・・・・・・・・・・・
主は、「わたしの願い」があり、十字架を取り除けて欲しいと、そして「悲しみ
のあまり死ぬほど」だと、ありのままに率直に祈られた。底の本当の気持ちを正
直に言い表し、祈って行くなら、その主に受け止められた心は変えられて行く。



2010年07月30日(金)

「・・わたしの時はまだ来ていません」ヨハネ2:4  


婚宴の席で、ぶどう酒が無くなった。当時の披露宴では、ぶどう酒は重要で、途中で無くなるなど、主催者の取り返しのつかない失態となる。心配し配慮したマリヤが、主に「ぶどう酒がありません」と言った。主イエスに言えば、何とかなるとの心だったに違いない。

しかし、主はマリヤの言葉によってではなく、御父の御心によって動かれる。「わたしの時はまだ」との言葉に、しかし「あの方が言われることを、何でもするように」と手伝い達に告げたマリヤは、主が最善をして下さると信じた。結果的に主は奇跡をされ、上質のぶどう酒を備えて下さった。

信じるとは、主にいっさいを任せることだ。「時」も主の御手の中だ。しばしば祈りの中でも、早く答えが欲しくて、早く早くと焦る。神の時を待てない。待てないので、絶えず不安と思い煩いに襲われる。いつも欲求不満状態だ。委ねる事ができないところに原因がある。

又、実際に、「主の時」を待てないで、自分で行動してしまう。自分が良いと思う事を、自分の思う時に行動する。そして失敗する。アブラハムがイサクを待てないで、イシマエルを生み出したように。

信じるとは委ねること。主は最もふさわしい「時」をすでに備えていて下さる。だから安心して祈って行ける。そして、行動する「時」でないなら、目に見える動きは無いかも知れないが無駄は一つもなく、神を深く知る「時」とされる。
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いつまで待つのか、事細かに示されたなら安心するのにと思う。自分の思いが強ければ強いほど、ただ待つという事は、信仰が試される。待っている時にも主が先立って導かれている「時」の中で守られていると自覚していよう。最善の確信と平安が与えられる。


2010年07月29日(木)

「主に信頼し、主を頼みとする者に、祝福があるように。その人は・・水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし」エレミヤ17:7


私達は生涯、そして日毎に何かに頼って生きている。自分は、自主独立だと言う人がいるが、聖書的にはあり得ない。人間は被造物ゆえ、何かに頼らなければ生きて行けない。神に頼らなければ、他の何かに頼ることになる。

自分の力や考え、又、人に頼り、富に頼る事になる。「自分の悟りに頼るな」とある通り、自分は頼りにならない。富はどうだろう。富に頼る人は多い。富が夢を叶え、幸せを与え、人生を保障してくれると錯覚する。富が神になり、偶像になる。しかし、富は愛も、罪の赦しも、真の喜びも平安も与えてはくれない。

ところが、主に信頼する人は、水のほとりに植わった木だ。日照りに関わらず、どんどん成長して行く。他の木々が枯れたとしても、水分を豊かに得て、葉を青々と茂らせる。供給源が別の所にある人生だ。主に信頼する人は、このような人生を歩むと。この世界とは、別の所に根を張り、神から直に供給を受ける。

それゆえ、どのような苦しい状況でも、神からの供給があるので、決して枯れる事がない。主は、このような別の供給源によって、生きる人生があるという事を、私たちを通して、この世に証ししたいと願っておられる。

私たちは、すでに水のほとりに植えられている。それゆえ、主との交わりによって、暑さが来ても暑さを知らず、瑞々しく生き生きと歩むことができる。
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肉の思いやまたサタンからの誘惑の声、世からの多くの情報の処理で気がつくと霊的に枯れてしまっていることが多い。御言葉に触れた瞬間、心が潤ってくる。猛暑の日々も、デボーションや祈りで守られ、心は瑞々しく歩んでいこう。


2010年07月28日(水)

「あなたの先祖たちの知らなかったマナを、あなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたを幸せにするためであった」申命記8:16



「あなたを苦しめ、試み」と神は言っておられる。苦しみが臨むと「なぜ?なぜ?」と不満、怒りが出て来るが、試練を通してしか得られないものがある。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今はあなたの言葉を守ります」人は強情であり、何と自分を正当化し、周囲を責め、非を認めない者だろう。

苦しみにより砕かれて、自分の力に頼れず、神に追いやられる。もうなすすべなく、神にしか頼れないところにまで追い込まれる。その時、初めて真に神を知る。拠り頼む事の意味を知る。幸いな経験だ。「涙の谷を過ぎる時も、そこが泉の湧く所」となる。

皆、試練に会う。思い通りに行かないから試練だが、その時に、環境や他人のせいにし、不満で苦しみに飲まれて行く事もできるし、又、訓練として受け止める事もできる。心を屈折させるのも、心素直にするのも、自らの選択だ。

「人がその子を訓練するように、主があなたを訓練される」訓練として受け止めるなら、測り知れない益を得る。平安な義の実を結ぶ。心を固くせず、試練の中で主に従おう。後に「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」と言える。益とされ、幸せだと言えるようにされる。苦しみを受け止める時、苦しみは私達を神に近づけてくれる。
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苦しみの時に与えられる御言葉により、御父がすぐそこにおられるかのような臨在感に包まれ、主からだとしか思えないような慰めを送られて平安に迎える夜もある。試練の中を通りながら、そこに新たに神を知り、委ねて、明け渡すことの幸いを経験していく。


2010年07月27日(火)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった」ルカ15:28


兄は弟のように家出したわけではない。父親の言いつけを守り、父親のもとで懸命に働いた。しかし、兄息子にとって、父親とはあたかも労使関係だ。労働を提供して報酬をもらう。父親にとってこんなに悲しい事はない。

親が子供を愛するのは、まさに子供であるからであって、労働を提供してくれるからではない。クリスチャンも律法に陥ると、よく間違う。自分の努力や働きによって、神の愛を得ようとする。神に願いを聞いてもらいたいがために、懸命に奉仕する。

ある人が信仰生活を一生懸命頑張った。その結果は、疲れ果て、気づくと、人を責め、人を裁く嫌な人間になっていた。自分が絶対になりたくないと思っていたそのものだった。なぜこうなってしまったのか。

挫折して初めて、自分の力で生きている事を示された。周囲を責め、裁くのは、自分の力と思いで突き進んでいたからだった。辛いのに頑張っている自分なら、頑張らない周囲に怒りが湧く。砕かれて初めて、安堵を経験した。

兄息子は父の心がわからない。愛がわからない。距離的にはすぐそばにいたが、その心は遠く離れていた。重症なのは、弟以上に兄なのかも知れない。「子山羊1匹すらくれない」と言った兄に「わたしのものは全部お前のものだ」と絶大な愛を示されている。

すねた、ひがんだ心があるだろうか。人々は皆幸せそうなのに、自分は恵まれない。放って置かれている。しかし、主は「わたしのものは全部お前のものだよ」と言われている。
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見方一つで、幸せにも不幸にもなる。父なる神様がくり返し愛を示し慈しんで下さっても、それを素直に受けらないなら、義務でただ仕事をこなしているだけだ。愛されている、近くにいる事だけで幸せですと喜んで今日も御側の近くにおりたい。


2010年07月26日(月)

「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」ルカ7:9


百人隊長は立場上、権威というものがわかっていた。自分の指令通りに、自分の一言で、その通りに部下は動く。それゆえ主イエスの権威を認め、来ていただくに及ばず、ただお言葉をいただけば十分だと言った。

主の主権、権威を心から認めていたからだ。私達はどうだろう。主の主権、権威を認めているだろうか。自分の思い通りに事が運んでいる時は、神を認めるのだが、自分の思い通りでないなら認めない。

「何で?自分だけが不幸で、神様はひどい、意地悪だ、なぜ?なぜ?」と、心を屈折させ、不平不満でいっぱいだ。都合の良い時だけ、神の主権を認め、都合が悪くなると認めず、手の平を返したような態度になる。これは神中心の信仰でなく、自分中心の信仰だ。

神の栄光や神の御思いに軸があるのでなく、自分の思いに、自分の都合に自分自身に軸がある。どこに軸があるかだ。自分の思いに合っている間は良いが、ズレて来ると神を非難する。私達はどうだろう。百人隊長のように、神に全主権と権威を認め、へりくだり、どうであれ神は良くして下さる、最善をして下さると信じて行けたらどんなに良いだろう。

その時、主は「このような立派な信仰は見たことがない」と言って下さる。今までの信仰生活、結果的に見て、どんなに良くして下さっただろう。中心が神でなく、自分にあることに気づく事が祝福の始まりだ。
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目に見えて祈りが聞かれるなら、神をいつも覚え認めるのは容易にでき、応えられなければ、神がいないかのように失望したりあきらめたりの不信仰な者が私達だ。全ては、主権者なる神の手の中から来ていると、ただ最善を信じて喜ぶことが出来ますように。


2010年07月25日(日)

「神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」ルカ18:8

この人は裁判官であり、神を恐れず人を人とも思わない人物だ。裁判官だとい
う事は法律にそって裁くという事だ。

人格的にはこういう人だが、やもめが余りにもひっきりなしにやって来て、うる
さいから裁判をする事にした。こういう人でも、うるさいからの理由で、裁判を
するのであれば、ましてや完全な愛と完全な義をお持ちの神が、正しい裁きをつ
けずに、放っておかれるわけがないという事だ。

つまりこんな人格の裁判官でもそうするのだから、「ましてや神は」という事を
言っている。とんでもない人物を出して来て、神がどんなお方であるかを対比さ
せている。

御子を賜うまでの愛で愛し、慈しみ、常に配慮して下さり、私達の最善を考えて
下さっているお方なのだから、失望はあり得ないと。祈りの執拗さより、祈る相
手がどんなお方かが重要だ。神はすみやかに、正しいさばきをして下さる。

「パンを三つ貸してくれ」としつこく頼み続けて、パンを得た人も、友達だから
でなく執拗さのゆえに勝ち取った。ここでも、「ましてや父である神は」執拗さ
ゆえでなく、子だから良い物を下さると言っている。御父がどんなお方で、どん
なに愛して下さっているかを覚えよう。常に最善をして下さる。

・・・・・・・・・・・・・
不正の裁判官も、パンをくれた人も、別に愛情と配慮があったわけではない。し
つこくてうるさいからだった。しかし、主はそうではない。すべての道筋に心を
配っていて下さる方は、極みまで愛し、慈しみのゆえに一番良いものを、一番ふ
さわしいものを与えて下さる。


2010年07月24日(土)

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」ヨハネ20:27


主は弟子たちに幾度も、「苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる」と語ら
れた。しかし、弟子たちは信じていなかった。ローマ帝国を倒し、主が王となり、
この世界を支配し、王国を樹立されると思い込んでいた。

そのため十字架など言語道断、有り得ない事であった。だから信じないし、受け
入れない。何度も復活を予告され、実際、死からよみがえられた主は、弟子たち
にご自身を現された。

しかし、それを伝え聞いた弟子たちは全く信じなかった。仲間の言う事を信じな
い。「お姿をよく見た、と聞いても、信じようとはしなかった」「ふたりの話も
信じなかった」主ご自身がその弟子たちに現れて、「不信仰と頑なな心をお責め
になった」。

トマスは、「主を見た」との仲間の証言にも、手の釘跡を見、釘穴と脇に手を入
れなければ信じないと言った。何と猜疑心の強い、頑なな者と思うだろうか。し
かし他人事ではない。自分の姿かも知れない。

偏見や自分の思いが真実を見る事を妨げていないか。又、見たなら誰でも信じる。
見たなら信仰は要らない。見ずに信じるから信仰だ。何でもかんでも信じ込む盲
信 や狂信ではない。しかし、神を信じるには、神がどのようなお方かをよく踏
まえ、信じようとの意志と決心が必要だ。それ無しに信じる事は出来ない。

よく心の底を探ると、信じられないのでなく、信じようとしない頑なな心がある。
どうだろう。信じるには、信じようとの意志を向け、選択し決心する事だ。する
と、御霊が信じる事ができるように助けて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
心の底を探る時、信じようとしない自我がある。御言葉を信じない自我に行き着
く。状況や自分の思いのほうを信じている。「愛している」「守る」「導く」
「必要を満たす」まず信じない自分に気づき、認める時、変えられる。信じよう
として行く時、信仰が与えられる。


2010年07月23日(金)

「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう」I サムエル4:3


イスラエルの民は、主の契約の箱さえあれば、主はご自身の契約を果たされるのだから、自分たちは敵から守られると考えた。自分たちが契約に対して、全く真実でなかったとしても、契約の箱さえあれば、大丈夫だと思った。

しかし、そうではなかった。神は民が偶像礼拝し、神から離れて行く時、彼らが敵に打ち負かされるに任せられた。彼らは、御名のために、ご自身の栄光のために、神は自分たちを救って下さるはずだと思った。

自分たちが負けるなら、神の御名が立たない、だから助かるはずだと高をくくっていた。しかし、神は罪をあいまいにされたり、ごまかしたりされる事は決してない。罪と神は何の関係も無い。何よりも聖なる方だ。民は敵に打ち負かされ、天幕に逃げ帰り、疫病で三万人が倒れ、契約の箱は奪われ、エリの二人の息子は
死んだ。

散々な敗北だ。都合が悪い事はふたをし、隠されるのではない。人間は勘違いをする。不祥事は証しに悪いと、とにかくひた隠しに隠す。しかし、民が敗北する事によって、神の聖さを現される。同時に、あわれみ深く、赦しに富んだ方だ。
罪をあいまいにされる事はない。

しかし、御前にへりくだり、悔い改めるなら、豊かに赦して下さる。神のあわれみは尽きない。民のすべき事は、敗北の原因を祈り求め、不信仰を悔い改め、主ご自身に頼る事であった。
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形ではなく、心を探られる。また神様に何かをしてもらえるような完璧な行いも私達には出来ない。出来ないことを認め、ただすがって行く信仰が今日も探られて行く。


2010年07月22日(木)

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」ルカ5:4


主が語られたことは、一見、常識から外れていた。なぜなら、漁は夜を徹して行なうものであり、昼間は、魚は捕れるはずがなかった。ペテロの常識からも、今までの経験からも拒否反応が起こるような命令であった。又、ペテロはベテラン漁師であり、漁のプロであった。

心の中で、思っていたかも知れない。「先生は、神の国のことなら、よく知っておいでだが、漁の事なら私の方がよく知っている。先生は漁に関しては素人であり、何がわかろう」。そしてペテロは身体が疲れ果てていた。徹夜の仕事で、身体ももうクタクタだ。家に帰って早く眠りたい。骨折り損のくたびれ儲けなどご
めんだ。

様々な行き交う思いがあったが、ペテロは一つの決断をした。「でも、お言葉通りに」見えるところは様々あるが、「お言葉通りに」「その通りに」漕ぎ出して、網を下ろした。その時に奇跡が起きた。そこにいるはずの無い魚がいた。それも大漁だ。

ペテロは驚いて、聖なる畏れを感じた。そこに神の聖さと御力を見た。神の臨在に触れて、「先生」から「主」に変わった。「主よ、私から離れて下さい。罪深い人間です」と。主のお言葉に、その通りに従う時、神のみわざを見、知識で知っている神を、臨在によって知って行く。

従う時に、まことに主が生ける神であることを知る。今、従うべき一歩が示されているだろうか。
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自分を置いて従う事がないなら、主との絆は細いものだ。困難の時には、すぐに主を見失ってしまう。お言葉の通りに、と従って初めて全能の力をもって自分を愛し、自分を守って下さる主を知り、ペテロのように聖なる畏れを持って「主」と認めて行ける。


2010年07月21日(水)

「恐れないで、ただ信じていなさい」マルコ5:36



会堂管理者ヤイロが、主に、病気の娘のもとに来て、癒して欲しいと願った。主は願いに答えるべく、共に出かけられたが、途中で邪魔が入った。長血の女性が主に癒しを求めて近づいたのだ。

主はその女性に対応し、手間取ってしまった。娘の状態は一刻を争うのであり、ヤイロは気が気で無かったろう。女性への対応が終わりかけた時に、娘が亡くなったという知らせが入った。もう主に来ていただく必要は無いと。

主はその言葉をそばで聞いて、間髪入れずにヤイロに言葉をかけ、励まされた。恐れないで、ただ信じているようにと。別訳では「イエスはその話している言葉を聞き流して」「注意を払わないで」となっている。

まず、不信仰な言葉を「聞き流す、心にとめない」ことが大切だ。そして、一見、長血の女性の割り込みで遅れたが、私たちの「時」と神の「時」は違う。神の時は常に最善だ。「神の時」に手遅れは決してない。

又、人の言葉は、時に、神の御心に反することがある。もう主は必要ないと、使いの者が親切で言ってくれるが、主はその言葉を聞き流された。注意を払われなかった。私たちも信仰に反する言葉を「聞き流す」べきだ。

不信仰な言葉は、恐れや不安、疑いの種を心に植え付ける。心に入れてはならない。あなたは今、不信仰な言葉を聞いていないか。それは聞き流して、「恐れないで、ただ信じて」いよう。
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一日中、外から、また内側から様々な声を聞いて行くが、不信仰な声は流して、捨てて捨てて行こう。恐れから不信仰となり罪を犯してしまう。主と共に平安で喜びに満ちて一日を過ごせるよう、心に入れるべき言葉と聞き流す言葉を、知り分けられますように。


2010年07月20日(火)

「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい」出エジプト14:13

出エジプトを果たし、荒野に出たイスラエルの民に、大きな試練が望んだ。危機だ。エジプト軍えり抜きの戦車部隊と全戦車が追って来たのだ。前は紅海、後ろは追っ手。前進も後退も出来ない。

まさに身動きの取れない、断崖絶壁の窮地であり、絶体絶命であった。しかし、主はこの事態の目的を「わたしの栄光を現わす」ため、「民は大いなる御力を見たので、主・・を信じた」、つまり「神の栄光が現れるため」「民の信仰が強められるため」と言われた。

私たちも信仰人生の中で、絶体絶命の窮地に立つ事がある。もうどうして良いかわからない、身動きの取れない状況に陥る。しかし、とにかくまず落ち着こう。「恐れるな」「しっかり信仰に立て」「わたしが戦う」との御言葉を受け取ろう。

神は海の真ん中に道を造られる。道無き所に、必ず道ができ、絶体絶命の事態を力強く導かれる。民はエジプトの追っ手から奇跡をもって救われた。耐えられない試練は無い。

神の栄光とは、神にしか出来ない事態が起こり、それがまさに神である事がわかるという事だ。あなたも、今、窮地にあるだろうか。試練が臨んでいるか。「恐れるな」「信仰に立て」「わたしが戦う」に立とう。そして祈ろう。必ず神の導きが臨み、神の栄光を拝する。窮地は機会、今窮地なら、神のチャンスだ。
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窮地の時には誰しもパニックになり神が見えなくなる。しかし、一呼吸置き信仰に立とう。窮地こそ神を仰ぐ時だ。神が戦われるから心は恐れから守られ、窮地の中でベストを尽くす力を与えて下さる。


2010年07月19日(月)

『サムエルは・・何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」』Tサムエル3:18


祭司エリの息子たちは、よこしまな者で、人が献げるいけにえを、肉刺しで取り上げ、自分のものとしていた。人々が脂肪を焼いて煙にして、取るようにと言うと、今渡さなければ、力づくで奪い取ると。

献げ物を侮り、主の前に大きな罪を犯していた。息子達は父エリの言葉も聞く耳が無かった。傍若無人。やがて主はサムエルに、息子たちの裁きを告げられた。
エリはサムエルにそれを話すように告げた。サムエルからすべての事を聞いた時、エリはその裁きを受け入れた。何の言い訳も弁解も無かった。

妻のせいにし、子供のせいにし、責任転嫁して、自分を正当化する事もしなかった。主からのものと受け取り、へりくだって、主に従おうとしている姿を見る。
子育てに失敗はしたが、信仰の人であった。それゆえ、主はエリにサムエルの養育を委ねられた。エリのその信仰が用いられた。

主の大きなあわれみであった。アブラハムもイサクもヤコブも、モーセもダビデも失敗した。人は弱さのゆえに失敗してしまう。しかし、失敗を通して、へりくだらされる。高慢が砕かれる。

いっぱし、一人前と思っていた自分が、どんなに無力で惨めな者かを思い知らされる。しかし、主はそんな砕かれた器をこそ、ふさわしいと用いられる。主の憐れみは尽きない。大きな恵みだ。
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失敗を通し自分の弱さ、醜さ、罪の深さをはっきりと認めて行くから、神様の赦し、また助けなしに一人で歩めない事を思い知れる。失敗を受け止め、無力ゆえに主を認め、頼る人生へと変えられるなら失敗は益となる。


2010年07月18日(日)

「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」イザヤ2:22



私たちはどうしても人の目が気になり、他人の評価を気にする。心の底に人に認
められたい、評価されたい、受け入れて欲しい、愛されたい、との強い願望があ
るからだ。

「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とある通り、私たちは生まれつき人
の愛が欲しい。これは普段、認識していないだけで、自分が思っている以上に強
い。

だからこそ人の目を気にし、愛される事を求める。これが高じて行くと、人目を
気にして、嫌われたくないので、人の顔色ばかりを気にし、「ノー」が言えなく
なる。生き生きと御霊の自由の中で、自分らしく生きる事ができない。

対人関係で、なぜ傷つくかと心を探ると、人に認められたい、評価されたい、人
からの賞賛が欲しい、それが根深くあり、そこに触れるから、認められず、評価
されないと、深く傷つく事になる。

しかし、自分の判定を他人にさせてはならない。人に自分の価値を決めてもらう
のは間違っている。人に依存している事になる。心が傷つく時に、それはどこか
ら来ているのかよく考えてみよう。

人依存が原因かも知れない。人に受け入れて欲しいと願うのではなく、神の愛に
しっかり依存しよう。神依存こそが、人が自立するという事であり、ここには裏
切られる事も、失望落胆も絶対に無いからだ。

・・・・・・・・・・・・・・
他人の評価を求めて行くと、人にコントロールされる事になる。対人関係で人を
妬んだり、憎んだりする事も、結局、人に自分の人生をコントロールされている。
支配されてしまっている。そうでなく、神の評価に立ち、神と自分の関係で生き
る時、どんな中でも、自分の心は平安だ。


2010年07月17日(土)

「しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した」使徒の働き27:10

パウロが、ローマへと護送される事になった。他の囚人たちと共に、百人隊長に
引き渡され、ローマへの途上、船がクレテ島に停泊していた時だった。船長や航
海士たちはもっと施設の良いベニクスの港で冬を過ごすことを提案した。

しかし、パウロはもうこれ以上の航海は危険だと、強く反対した。パウロは神か
ら受けた導きによって主張した。「この航海では、きっと、積荷や船体だけでは
なく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶ」と。

しかし、人々はパウロの言葉を信じる事なく、百人隊長も船長や航海士の方を信
じた。出航するや「ユーラクロン」という暴風に巻き込まれ、どうにもならず、
吹き流されるままになった。

船体を綱で巻き、翌日には荷物を捨て、3日目にはすべての船具を捨てた。助か
る最後の望みも断たれようとしていて、絶体絶命だった。人間の力や知恵や方策
ではもうどうにも出来なかった。

その時になって、人々はパウロの言葉に耳を傾けるようになった。パウロが語っ
た言葉が、その通りになり、実証される形になってしまった。

私たちにも、いつも様々な声が聞こえて来る。主のみ声と、その他の声だ。それ
は肉から湧く思いや判断、この世の価値観であったり、サタンからの声であった
りする。今、判断が必要なら、人間の経験や知恵でなく、聞くべきは主の御声だ。
御言葉に耳を傾けよう。

・・・・・・・・・・・・・
状況から、不安、恐れ、思い煩いが来るのではない。御言葉を信じないところか
ら来る。人々がパウロの言葉に耳を傾け出した時に、心が落ち着いて来た。見え
る状況でなく、御言葉を見つめ、信じる時に、暴風雨の中でも心は平安に守られ
る。


2010年07月16日(金)

「主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった」 出エジプト15:25

モーセと民は出エジプトを果たし、シュルの荒野を三日も歩いたが、炎天下で一滴の水も無かった。民はのどが渇いて死にそうだった。人々の心は、嘆き、挫折、絶望にあった。そんな時、マラで水を見つけて、大喜びしたが、その水は苦くて飲めなかった。それでそこを"マラ""苦いもの"と言った。

人々は失望し、不満で一杯になり、モーセに怒りをぶつけた。あの3日前の、紅海の奇跡を見た、主への感謝は見事に吹っ飛んでしまっていた。モーセが神に叫ぶと、一本の木を示され、それを投げ入れるや、苦い水が甘くなった。

私たちも日常生活で、何か事が起こると、不満や、失望、恐れや思い煩いに襲われる。それが苦い水となって、心の中に渦巻き、溜まる。主が一本の木を備えられたように、私たちにも主イエスの十字架を備えて下さった。

苦い水は、人がどうやっても、甘くする事はできない。十字架が、その苦い水を甘い水に変えてくれる。人への腹立ち、憎しみ、赦せない思い、そんな苦みが、十字架の愛、赦しのもとで、甘みへと変えられる。

今、状況が思うようでなく、落胆し、不平不満だらけのマラの地にあるだろうか。主の十字架のご愛に立ち返るようにと、あなたに御声をかけておられる。状況を嘆いてつぶやいても、何も変わらない。主を呼び求めよう。そうするなら、その苦みを甘みに変えて下さる。心を変えて下さる。
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悩みにある時は、モーセのように、ありのままの今の思いを主に訴えよう。状況しか見られず狭量になっている所から主が連れ出し、まず心を守ってくださる。主は私達の悩みを必ずかえりみて下さる。


2010年07月15日(木)

「また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます」コロサイ4:12


祈らないで、事を行ってしまって、失敗した経験は無いだろうか。祈らないで高価な物を衝動買いし、欲しい物でも無かったと後悔したり、祈らないで活動を始めてしまい、途中で様々な障害にぶつかり、結局止めてしまう。

良い事でも、祈らないで、肉の思いで始めてしまうと、中途で頓挫してしまう。ある人は祈らないで、目の前に来た好条件の高額のバイトに飛びついた。余りの多忙にデボーションの時間も無くなり、神が二の次になり、本末転倒の生活を示され、途中で辞めた。

ある人は御心を求めないまま、高額報酬の仕事に転職した結果、全く教会へ行けなくなってしまった。ヨシュアがギブオンの住民達に騙されて、盟約を結んだ箇所がある。ギブオン人達が計略を巡らし、変装し、遠くから来たと思わせ欺いた。

実は自分達の中に住む近隣の者達であった。この時、対応するのに「主の指示を仰がなかった」のだ。肉の思いで判断すると、間違ってしまう。私達も心しよう。
日常生活、祈りつつ、主の指示を仰ぎながら歩もう。

あの決定、この判断、主を仰ごう。でなければ、結局、肉で始めた計画は中途半端となり、蒔いたものを刈り取る事になる。主に祈り、平安与えられ、確信持って前進しよう。それは「主と一つ」に進める幸いな歩みだ。
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主に祈り御心を確信して始めるなら、たとえ困難が来ても与えられた御ことばの確信に立ち返れる。行動しようと肉は騒ぐだろうが、その前に神の御前に出て祈り指示を仰ぎ、確信を持って前進しよう。


2010年07月14日(水)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」イザヤ30:15


「彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず」アッシリヤと戦うために、ヒゼキヤはエジプトと同盟を結んだ。神に頼らずに、エジプトを頼ったのだ。その軍事力を頼みとした。

私達もどうだろう。困難な状況に出会すと、不安で心配でたまらず、いても立ってもいられず、恐怖に襲われ飲み込まれてしまう。あなたも経験あるだろうか。落ち着こうとしても、心が立ち騒いでしまい、心はちぢに乱れ、パニック状態だ。

そして、目に見えない神になどとんでもない、頼れずに、目に見える人に助けを求めてしまう。なぜ神に頼れないのか。心が立ち騒ぎ、地についておらず、祈っても、不安が抜けない。又、サタンの惑わしの声の方に聞いてしまい、心を奪われてしまう。

サタンは、不安と恐れを幾らでも煽り立てる。その声の方を受け入れてしまうので、神の御声がシャットアウトされてしまう。聞こえない。今、目の前に不安な状況が横たわっているだろうか。まず正直に「心が立ち騒いでいます。不安で不安でたまりません」と祈ろう。

神に焦点を当て、神の御言葉を反すうしよう。「静かに・落ち着いて・信頼」エジプトではなく、軍事力ではなく、静かに神に信頼しよう。そうすれば「救われ・力を得る」。
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思いもしない状況が来た時、まず一呼吸おいて見てみよう。必要以上に恐れていたり怒っているなら背後にいるサタンに煽られてはいないか。そして人に意見を仰ぐ前に、神に祈り、御言葉をいただいてそれから、それに従う事だ。


2010年07月13日(火)

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません」Tコリント10:13


ある人に試練が臨んだ。職場で辛く当たられ、いじめに会い、体調を崩してしまった。相手の態度や言葉に傷つく。辛くて苦しくてたまらず、とにかくその痛みを、主のもとへ持って行った。帰宅しては、涙ながらに祈っていた。

すると、心落ち着き、何とか翌日も出勤できた。しかし、状況は悪く、体調も悪くなって行き、心がふさがれるようで、瀬戸際のところまで来た。神様の慰めや励ましは、わかるのだが、辛くてしんどくて、もう進めず、主の御前にしゃがみ込んだ。

もう何もできず、ただ主の御前にいた。そこで時間を過ごしていると、自分の姿が見せられた。心の底の、怒り、恨み、憎しみ、敵対心、憎悪・・。
自分は被害者であり、相手が悪いとしか見えなかった。

しかし、紛れもなく、自分は罪を犯していた。自分の罪を悔い改めた。そして、今の状況も、自分自身も、すべて神様にお委ねした。委ねきった時、主の御手にこの事態が移り、受け止めて頂いたと信じることができて、心の底からの安堵に満たされた。

初めての経験であった。その時から、自分の見方が変えられた。辛く当たる相手にも何か心に問題があり、相手も苦しいのだろう。同情の思いが湧いた。しばらくくして、部署替えの人事異動があり、驚いた。すべてが確かにご計画の中にあることを覚えさせられた。
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真実な神様は、決して無意味な試練を送られない。乗り越えられる試練であり必ず脱出の出口があるとの約束は、苦しみのあっての大きな支えだ。不安や焦りもあるだろう。その度に祈り委ね、試練のトンネルを神様と共に越えよう。


2010年07月12日(月)

「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」T列王17:16


ケリテ川が枯れた時、エリヤは、主からシドンのツァレファテへ行くように告げられた。そこで、やもめ女に命じて養うと。主の言葉に従い、その町へ行くと、やもめ女に出会った。そこで彼女に水とパンを求めた。

すると、とんでもなく悲惨な状況にあった。彼女は資産家などではなく、最後の一握りの粉でパンを作り、母子で、最後の食事をして死のうとしているという、何という状況だろう。エリヤは何と思ったろう。

目の前の人物は、人を養う事など不可能だ。しかし助けを求めなければならない。人間的に考えるなら、その最後のパンを自分にくれとは、とてもじゃないが言えるわけがない。しかし、エリヤは目に見えるところでなく、情でも、自分の思いでもなく、ただ御言葉に従った。

まず私に小さなパンを作り、その後にあなた方のために作るようにと。そうするなら、飢饉が終わるまで粉は尽きず油は無くならないと。人の思いや情は、神のみわざを妨げてしまう。エリヤは神を信じ、御言葉に立ち、彼女はその言葉に従った。

すると、母子は飢饉の間中、豊かに養われた。神を第一にする時、栄光を見る。自分の思いや情、見えるところが反対方向を向いていても、神の言葉を選択し、信仰によって従おう。その時、神が全責任を取って下さる。
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感情が先に立つのではなく、御言葉を選んで行くなら必ず守られ全てに神様の栄光が現れる。情に流され、あいまいな言葉を口から出してしまわず、必要な時、御言葉に立った言葉を主に信頼して語ろう。


2010年07月11日(日)

「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています」Tテモテ1:5


信仰者同士で、時に議論になる。教理や様々な事について。ある時、青年たちで、
UFOはあるか無いかの議論になり、皆が自分の考えを主張し、何だか気まずい
険悪なムードになってしまった。

一人の人が、心に平安無く帰宅した。そして聖書を読んでいると「果てしのない
空想話と系図とに心を奪われたりしないように・・論議を引き起こすだけで、信仰
による神の救いのご計画の実現をもたらすものではない」と示された。

議論をして平安が無くなるのは、信仰の傘のもとに、自分の正しさを主張し始め、
いつしか神は飛んで、自己主張になるからだ。そこに肉が出てしまう。議論のた
めの議論になる。

神学的議論にしてもそれは、「信仰による神の救いのご計画の実現をもたらす」
ものかどうか。議論になると、とにかく負けるのが悔しくて、絶対に負けたくな
い。相手を打ち負かしたい。勝つことがすべてとなってしまう。

あなたも経験あるだろうか。何が目的なのかがわからなくなる。「自分の言って
いることも、強く主張していることについても理解していない」の通りだ。ここ
から徒党や分裂が生じる。

私達の目標は「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛」だ。
「愛」が目標だ。「この目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走」りが
ちだ。向上のための意見交換は、非常に良い事であり有益だ。いつも動機が
「愛」であることを、しっかり定めていよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
言っている事は正しいが、愛が目標だろうか。愛が無いなら間違っている。正し
いだけで愛が無いなら、相手の心に響くことも届くこともない。うるさいシンバ
ルになってしまう。愛がある時に、正しい事が、真に正しく真理となる。愛を祈
り求めよう。


2010年07月10日(土)

「主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った」Uサムエル12:1

自分は一体へりくだっているのか、高慢なのか、それは一つの事で試せる。謙遜
な人の特徴は人の忠告に耳を傾け、痛い警告を聞く用意があるという事だ。これ
はへりくだっていないと決して出来ない。

高慢は、そのプライドゆえ、人の忠告を聞けないし、人の意見など全く聞く気が
ない。自分は常に正しく、それも一番正しいのだから。特に自分の弱さや、触れ
られたくない所など、絶対に人に触れさせない。

私達はどうだろう。弱さを隠し、有能な強い自分に見せていたいだろうか。真に
強い人とは、自らの弱さを認める事のできる人だ。失敗しない人でなく、失敗を
決して隠そうとせず、人の前にも素直に認める人だ。

ダビデの素晴らしさは、姦淫と殺人という大罪は犯したが、ナタンの忠告に耳を
傾ける謙遜さを持っていた事だ。そして自らの罪を明るみに出した。ここが信仰
の人ダビデたるゆえんだ。

自分は王であり、最高権力者であり、ナタンなどどうにでも出来る立場にあった。
首を跳ねる事もできた。しかし、ダビデはへりくだった。結果、その王の罪はす
べての人の目に明らかになった。ダビデは砕かれた。しかし、その罪は完全に赦
され、ダビデは失敗から学んだ。

悔い改め、御霊に教えられて行く人は、同じ失敗から守られる。この謙遜がなけ
れば、後のダビデは無く、あの詩篇も無かった。失敗したならやり直せばよい。

主がナタンをあなたに遣わされたなら、あなたのナタンに耳を傾けよう。それは
神からであり、あなたへの慈しみであり、愛だ。

・・・・・・・・・・・・
高慢とプライドは、決して人の言う事に、耳を傾ける事は出来ない。しかし、痛
い言葉や忠告は、神からだ。人を通して、神が私たちを砕き、修正される。へり
くだる時に初めて、主の大きな愛と慈しみが見えて来る。そして自分が変えられ
る。


2010年07月09日(金)

「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」ルカ17:18

10人のらい病人が、主のもとに来た。当時、らい病は汚れた病気との事で隔離さ
れていた。人々に近寄る事は許されず、「私は汚れた者です」と自分で言わなく
てはならなかった。

病の上に、社会生活も閉ざされ、病気の苦しみの上に、更に精神的な辛さ苦痛も
加わった。主のもとへ来たのは、生死に関わるほどの、必死な思いであったろう。

声を張り上げて、大声で「どうぞ、あわれんで下さい」と叫んだ。主はあわれん
で、彼ら全員を癒された。すると10人の内、1人だけ感謝のために主のもとへ戻
り、あとの9人は去ったまま、帰って来なかった。

病気が完全に治り、社会に復帰できて、自由に社会生活が送れる。生けるしかば
ねのようであった彼らからすれば、何と夢のような事だろう。9人は、ラッ
キー!万々歳!良かった!と、世の中へ帰ってしまった。彼らにとっては、飛び
切りの幸運であった。

感謝が無いとは、神を自分の利益のために利用する事だ。9人は自分でもあり、
神を利用してしまうような者だ。感謝するために戻った1人は、神への感謝と賛
美と喜びで一杯だった。そこに神を認め、神を崇めた。

彼だけに、全く新しい信仰の人生が始まった。「あなたの信仰が、あなたを直し
たのです」彼は癒しを宣言され、神の愛に出会い、神の愛の中を生きて行く祝福
の人生が始まった。何が肝心なのだろう。病気が治る事だろうか。

「世の終わりまでいつもあなたと共にいる」人生へと招いて下さっている。苦し
み時も喜びの時も、この方と共に歩める事が、私たちの何にも代えられない幸せ
だ。
・・・・・・・・・・・・・・
今日も主と歩めるとは、何と幸せだろう。感謝する事は、主と私たちとの絆を深
めて行く。今日も一つ一つの恵みに、心を込めて感謝を献げよう。主は感謝する
事を喜んで下さる。何も出来なくても、精一杯の感謝を献げる事ができる。


2010年07月05日(月)

「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2

                             
ある人が子供のために祈る時、いつも「神様に従順になるよう。悪い態度が改め
られるよう。ちゃんと勉強に励むよう」ああだ、こうだと祈っていて、ある時、
気づかされた。

子供に常に「ああなれ、こうなれ」と要求している自分、つまり「お前は、今の
ままではダメ。不十分だ」と言っている事だと。子供を変えよう、変えようとし
ている自分に気づかされた。

変わるべきは子供でなく、自分自身であった。自分が一番の問題児であった。心
から悔い改めて、いっさい家族への要求を止めて、家族に感謝する事を始めた。
妻を、子供を与えられ、幸せな家庭が与えられている事を、感謝し始めた。

そして、この家族を幸せにするために、自分は何ができるかを求めて祈り始めた。
すると、家の中の空気が、何もかもが一変した。暖かい雰囲気が溢れ、和やかに
なり、皆がリラックスできるようになった。

家庭がオアシスとされた。神の愛が家庭に臨んだ。人を変えようとする時、そこ
に裁きと批判と不満、トゲが存在し、そこには神の愛が失せる。しかし、感謝し
て行く時、そこに確かに潤いと温もりと喜びが流れる。

何か冷ややかなものがある時、苛立ちがある時、自らを振り返ってみよう。相手
を裁き、変えようとしていないか。変わるべきは、ただ自分だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・
人を裁いたり、憎んだり、妬んだりする時、辛いのはただただ自分だ。平安と
喜びが全く無い。心が暗く辛く苦しい。自分が変わる時、その苦しみから解放さ
れる。愛して行く時、自分の心は、天にも上るような喜びで溢れる。


2010年07月04日(日)

「イエスは『わたしにさわったのは、だれですか』と言われた」ルカ8:45


この女性は、出血が12年間も続き、どんなにか苦しみと辛さの中にあった事だろ
う。律法によると不浄との事で、礼拝にも出れず、身体も心も痛み、社会的にも
疎外されていた。

治療のため財産を使い果たし、経済的にも困窮状態だ。そして、治癒どころか、
ますます悪化し、これから先どうすればよいのか、心身限界で、ぼろぼろであっ
たろう。先は真っ暗で、わらにもすがりたかったに違いない。

そんな時、主の噂を聞き、せめて着物にでも触ればきっと直ると思った。必死で
あった。触れた瞬間、血の源が枯れて、ひどい痛みが直った事を感じた。群衆に
紛れて、そそくさとその場を去ろうとした。

が、主が「触ったのは誰か」と問われた。隠れて潜んでいたが、隠しきれないと
思い、震えながら進み出た。「イエスの前に出」たのだ。どんなに勇気の要った
事だろう。「すべての民の前で」イエスに触った理由と、すぐに癒された次第を
話した。

自分を卑下し、人に隠れて、こそこそと陰にいたのが、主に導かれて、従う事に
より、光の中へと入れられた。そして、あるがままを告白できた。これがすでに
大きなみわざだ。
主は「あなたの信仰が」と信仰を認め「安心して行きなさい」と、もう恐れも不
安も怯える事もない、全き平安と安堵を下さった。

身体だけでなく心を癒し、全人格的救いを下さった。告白は彼女自身のためであ
った。あなたにも、告白を求めておられるだろうか。光の中へと招くために。

・・・・・・・・・・・・・
後ろから密かにさわった女性に、主は正面から向き合い、その信仰を受け止め、
告白に導き、はっきりとしたものにして下さった。密んでいたい、隠れていたい
という、そこのところを砕き、全き平安と安堵、喜びに満たして下さった。


2010年07月03日(土)

「自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない」箴言21:23

「心に満ちていることを口が話す」とあるように、言葉は「心」から出て来る。
口先でなく、心の問題だ。そのため、心をいつも御霊に探って頂く必要がある。

心が屈折していると、屈折した言葉が出て来る。つまり何かくせのある物言いが
出るのは、心に何かが潜んでいる。妬みや憎しみや苦みがあると、幾ら隠そうと
しても、言葉に出る。心に愛情があれば、思いやりの言葉となって出る。心にあ
るものは必ず出る。

又、口から言葉を出す前に、ワンクッション置こう。それは「真実」か?真実で
あったとしても、話す「必要」があるのか?事実だが、醜聞など、あえて話す必
要の無い事柄は多い。

又、愛があるか。親切だろうか。愛の無い言葉は発すべきでない。悔い改めねば
ならなくなり、出した言葉を回収しなければならなくなる。

「まやかしの証人は滅びる。しかし、よく聞く者はいつまでも語る」。主の言葉
をよく聞くことが、語ることの秘訣だ。日々、心に御言葉を受け取り、御言葉に
浸り、いつも思い巡らそう。

心の奥のネガティブな屈折した言葉を、主の言葉と置き換えて行こう。その時、
思いが変えられて行く。人の言葉に振り回されそうな時、御言葉を握りしめ、御
言葉に寄りかかろう。

少しづつ少しづつ御言葉が自分の価値観となって、自分の心が変えられている事
を発見する。御言葉が根差す時に、口から感謝が出て来る。御言葉により。新し
い自分が培われて行く。

・・・・・・・・・・・・・・・
「私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守って下さい」を真剣に祈ろう。言葉は
一旦発すると、取り返しがつかない。肉で撒く言葉は人を傷つけ、御霊の言葉は
人を癒して生かす。「心」を御霊に支配して頂くよう祈ろう。そうするなら、心
から感謝と喜びが湧き上がる。


2010年07月02日(金)

「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた」使徒12:23

   

ヘロデ王が、前進を続ける初代教会の前に立ちはだかった。残虐非道な人物であ
り、彼は十二使徒の一人ヤコブを殺害した。それがユダヤ人の気に入ったのを見
て、人々に取り入るために、次にペテロを捕え、殺害しようとした。

彼は何でも、王である自分の思い通りになると、見くびっていた。しかし、神は
関与され、阻止された。4人一組の兵士4組の厳重な監視の中、御使いが現われ、
鎖が解かれ、連れ出された。

ペテロは救い出され、番兵達を処刑したヘロデは、自分に栄光を帰しているまっ
ただ中で、神に打たれ息絶えた。ヘロデは常に人々の歓心を買うことに躍起であ
った。権力と地位を用いて、したい放題に、自分の欲望の思うがままに振る舞っ
た。

人々から「神の声だ」と言われ、自分が誉めそやされる事に酔いしれ、自分に栄
光を帰した。その結果、高慢ゆえに滅んでしまった。私たちもヘロデから学ぶこ
とができる。心の王座に、自分が君臨していないだろうか。

それなら、自我と欲望の命ずるままに行動してしまう。ペテロやパウロは人々か
ら崇められ、慕われる時も、「栄光は神に」の姿勢を決して崩さなかった。彼ら
の信仰であった。

心の王座にいるのは、主だろうか、自分だろうか。人の目、評価が気になり、人
に認められたい誘惑が絶えず来る。そんな自分を認め、主のもとへ行こう。そし
て、気づく度に御前に明け渡そう。

・・・・・・・・・・・・・
ヘロデは神に打たれた。しかし、その理由が「神に栄光を帰さなかったから」と
ある。「神の声」と言う民のご機嫌取りに酔い、栄光を我がものとした。自分の
称賛を快しとし、栄光を奪っていないか。一つ一つの恵みを覚え、神に心から感
謝し、賛美し、栄光をお返ししよう。


2010年07月01日(木)

「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです」詩編102:17             

ある人が、自分には全く悪気なく、ちょっとした言葉が友人を深く傷つけてしま
った。ただひたすら祈った。友人の心が癒されることと、赦して貰えて和解でき
ることを。

その友には成育歴の中に、拒絶を受けた傷があり、そのトラウマのゆえであった。
心のことであり、人間にどうこうできることでなく、その事を、主の御前に祈り
に置き、切に祈り続けた。

自分にはどうにもできず、ただ主のあわれみを、一心に願い続けていた時、「神
に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」と、祈りが聞き届けられ
た確信が来た。心がすうっーと、平安になった。

それで勇気を出して相手に会いに行った。心から謝った時に、相手の心も落ち着
いていて、快く赦してもらえ、和解でき、主の御名を崇め、感謝した。祈ってい
た間に、主は相手にも働いておられ、相手の心にも変化が起きていた。

ハンナも切に主の御前で祈った。子供が欲しくて、うめき、心を注ぎ出して祈っ
た。「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つ
ける」。主は、私たちが、心を注ぎ出した、切なる祈りを待っておられる。

「ハンナの顔はもはや以前のようではなかった」ハンナは平安を得るまで祈り続
けた。そんなしつこい祈りを、主は喜ばれ祝福して下さる。目の前の問題を思い
煩っていないで、主に、祈りに、持って行こう。

・・・・・・・・・・・・・
難題を、主に心底拠りすがり、祈りに祈り、祈りの中で委ねた時に、すうっーと
心がなぎになり、全き平安になる。そして、その後、事が解決する。こんな事を
経験する。窮した時の拠り頼んだ祈りを顧みて下さる。自分で持っていないで主
のもとに渡そう。