2010年08月31日(火)

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」イザヤ54:1

ある人が、大きな打撃が重なった。商売をしていたが、心から信頼していた人に裏切られた。精神的ショックは大きく、立ち直れない状態だった。更に、金銭的な事が関わっていて、経済的苦境に追い込まれた。

出来る限りの手を尽くしたが、どうにもならず、何がどうなったのか、わけがわからず、失意のどん底で、もう、放心状態で日を過ごしていた。祈る力もなく、ぼんやりとしていた。気力が無く、何もどうする事もできなかった。

しばらくそんな状態の後、聖書を読むでもなく、ぼう〜っと、ただ見ていた。ただ見ていた御言葉だったが、ふっと目に止まり、心に入って来るのを感じた。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。喜びの歌声を上げて叫べ」まさに心に語りかけて来る、主の御声だった。

「子を産まない不妊の女」今の自分の状態そのままだった。自分のことだ。「喜び歌え」と。「あなたの天幕の場所を広げ・・あなたは右と左に増え広がり・・永遠に変わらぬ愛をもってあなたをあわれむ」。死んだような、沈み込んだ心に、光が射し込み、引き上げられるのを感じた。

心が暖かくなり、上を、神を見上げるようにされた。新しい力が来た。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、いのちです」。私たちが、どのような状態であっても、主が語りかけて下さる言葉によって、もう一度、立ち上がる
ことができる。あなたも何度も経験したことだろう。主の御声に耳を澄まそう。
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神はみ言葉によって語りかけられる。御霊によって導かれ、自分だけにかけられている御声を聞く。何の指針もなく流れているこの世から、み言葉の盾により神は私達を囲い守って下さる。


2010年08月30日(月)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


ある男性が、職場で、仕事上の困難を抱え、解決の糸口が無く、行き詰まっていた。悶々状態にあり、悩んで夜も眠れず、途方に暮れて、神に祈っていた。翌日出勤すると、部下が「考えたのですが、こんな案はどうですか」と提言して来た。

「あっ!」と思ったが、決断できないまま、ちゅうちょして見送った。何か重い心のまま帰宅し、御前に祈りの時を持った。自分の思いや状況や何やかやと、主に告げながら祈った。「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして・・」との御言葉が心に迫った。

部下からの案は、まさに前夜祈った祈りの答えであった。主が祈りに答えて下さったのだ。うすうすわかっていたのに、素直に受け入れられなかった。それは、自分のプライドのせいだと気づいた。悔い改めて、部下の提案を取り入れたなら、神は素晴らしく祝福して下さり、問題に解決を見た。

しばしば、主は高ぶった私たちにへりくだりを求められる。恵みは低い、へりくだった者へと溢れる。今、妨げているものが、プライドだろうか。十字架の主を仰ごう。むち打たれ、身体が砕かれ裂かれ血まみれになり、身も心もぼろぼろになり、何もかもを捨てて、死にまで従われた方を見続けよう。
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プライドに妨げられ真実が見えないことがよくある。人を自分より優れた者との思いで人に接することが出来たならどれだけ無駄に傷つけたり、傷つけられたりから守られた事だろう。主の十字架を仰ぎながら、今週も歩もう。


2010年08月29日(日)

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目は開け、あなたがたが神のようになり・・」創世記3:5


エデンの園で、エバに来たサタンの誘惑だ。実に巧妙で、少しづつエバの思いを誘導している。まず巧く会話に誘い込む。どんな木から食べてもいけないと、神は言われたのですか?本当に?そうではないと、訂正の答えをさせて、会話に引きこむ。「神」や神の言葉が出て来るので、エバは油断し、警戒心なく引きこまれてしまう。会話したのが間違いであり拒否すべきであった。

御言葉ではなく「死ぬといけないから」とエバは自分の思いで答えた。「必ず死ぬ」との神の言葉に立たなかった。その時、蛇は「決して死にません」と正反対の嘘で断定して来た。エバは、神の御言葉よりも蛇の言葉を信じた。その時、心に変化が起きて、その木は、食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする、好ましいものに見えた。

もう必然的に、実を取って食べ、更に夫にも与え、夫も食べた。蛇は誘惑しただけで、実際に罪を犯したのはエバとアダムであった。罪の結果、神と人との間が断たれた。誘惑の本質は「神のようになり」であった。

罪の性質は、神にも人にも従いたくない、誰にも指図されたくない、人を支配し、自分の好きなように、思い通りに生きて行きたい、自分が神だ。自己中心、自己本位、これが罪の性質だ。サタンの言葉を受け入れると、サタンの言うように見えてしまう。拒否し、識別を祈っていよう。御霊が識別させて下さる。
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巧妙に肉に結びつき誘惑してくるサタンを識別するには、御言葉の真理に立つ以外に勝ち目はない。私達を平安から不安に、喜びを失望へと徐々に神様から引き離そうとするサタンの言葉を拒否し嘘を見抜けますように。


2010年08月28日(土)

「信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです・・つまずきの石につまずいたのです」ローマ9:32


「つまずく」とは、歩いていて、何か石や物に足先をひっかけて、転ぶことだ。大きな岩石に当たれば、つまずくぐらいで済まず、大けがをする。つまずきの原因は些細な事柄だ。ここではイスラエルの民がつまずいた。信仰によってでなく、律法の行ないによって、義を追い求めたためだった。

自己義は、神のあわれみではなく、自分で自分を義として行く。そこに信仰の余地は全く無く、自分で救いを勝ち取って行く。 ただあるのは自分の力であり、自分を誇る。信仰とは自分の無力を認め、神を仰ぎ、神に拠り頼む事だ。しかし、イスラエルの民にとり、自分達こそは、神の選民であり、神が異邦人を「わが民でない者をわが民と呼び」などと到底受け入れられない。

しかし、これが福音であり、主は私たちを、わたしの民と呼び、御国の栄光を共に受け継ぐと言われる。これは恵みだ。私たちも、もしつまずくなら、根に自分は正しいという自己義があるではないか。それがあるなら、主を受け入れられない。自分の思い通りでないなら、ことごとくつまずく。

しかし、そのつまずきで、主のもとを去るのでなく、十字架の御前に立つなら、そのつまずきが大きな恵みとなり、救いに至る。つまずきを、主の御前に出し、主の視点に立つ時、自分が変えられる。自分が砕かれて、主に頼る者と変えられる。つまずきは、大いなる恵みとなる。
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ただ神の恵みにより救われ神の子とされた。神がそうして下さった。自分で立てた信仰ならいつかつまずく。つまずいた時には、自分からは何も出来ない者であり主に頼り、求めて行ける立場を喜び感謝してまた歩もう。


2010年08月27日(金)

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」Uコリント9:7 

この「いやいやながら」は、「苦痛」の意味で、「強いられて」は「義務感」のような意味だ。ある婦人が、結婚時に事情で姑と同居になった。良い嫁でありたい、そう思われたい一心で、家事も完璧にこなしたいと頑張った。しかし、ベテランの姑から見れば、不足だらけだ。

気負っている自分は、何とか認められたい、愛されたいと更に行ないに拍車がかかる。しかし、しんどいばかりで、心に喜びなど全く無かった。一番辛かったのは、姑との関係だった。何かギクシャクして、温かい信頼関係が築けない。幾ら頑張っても受け入れて貰えない、段々力尽きて行った。しんどくて、虚しくて、いつしか嫁である事が苦痛になり、家事も義務感だけになって行った。

そんな時、夫の転勤辞令が来て、姑は他の兄弟のもとへ行く事になった。今までの事を、主の御前に心を打ち広げ、何もかもを、気持ちのことごとくを打ち明け、祈り、主と交わっていた時に、御霊は重大な気づきを与えて下さった。どれだけ頑張っても、受け入れて貰えないと思っていたが、実は心を閉ざしていたのは、自分の方だったことに。

自分が姑を受け入れていなかった。心から悔い改め、自分を主に明け渡した。その時、自分の心の壁が崩れ落ちるのを感じた。平安が満ち、心が解き放たれた。神に心を向け、焦点を合わせた時、神の愛に溶かされ、神が、喜んで与える者と変えて下さる。
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喜んで与える人を神様がまた満たして下さる。いやいや苦痛でやっているのなら疲労と不満しか残らない。喜んで与えられないから、具体的に現していけるようにとの祈りを忘れてはいけない。


2010年08月26日(木)

「主の山の上には備えがある」創世記22:14


時に、「神が愛して下さっているのに、何でこのような?」との事態が起きる。アブラハムが待ちに待って、100才にして授かった、我が子イサク。そのイサクを全焼のいけにえとして献げよとの命令を受ける。耳を疑ったかも知れない。最愛のイサク、目に入れても痛くない我が子。

それにイサクは約束の子、あなたの子孫、サラとの子供が世継ぎとなり、子孫をおびただしく増やすとの約束を受けている。イサクが死んでしまったなら、その根を断ち切ってしまったなら、神の約束はどうなる?理解に苦しんだかも知れない。「神はアブラハムを試練に会わせられた」別訳では、「神はアブラハムを試された」「テストされた」とある。

試されるとは、心の中にあるものが明らかにされることだ。彼の心の内は書かれていないが、「翌朝早く」行動した。イサクを伴い「神がお告げになった場所へ出かけて行った」。たきぎはあるが羊は無い。不思議に思ったイサクは「羊はどこにあるのですか」と尋ねた。アブラハムは「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と答えた。

自分の命であるほどのイサクを献げる事において、神がどうにかして下さる、備えて下さると信じた。「どうしてこんな事が?」の事態の時、理解はできないが、「神が、何とかして下さる」これは信仰だ、ここに立とう。
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神様は、必要なものを必ず与えて下さる。自分が必要としているものではなく神様が与えようとしているものだ。それは必ず最善で神様の栄光の現れる。試みや、誘惑が来る時、主の山にの上には備えありとの御言葉に立っていよう。


2010年08月25日(水)

「・・その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた」創世記32:25



ヤコブは、神の祝福を欲しいと強く願ったが、肉的な方法で手に入れた。兄エサウと父親を騙し、その結果、兄に殺されかけて逃亡。叔父ラバンのもとへ身を寄せる。騙したヤコブは、ラバンに騙され、長年の労働の苦しみの末、時が来て、神から家族を連れての帰郷に導かれた。

ヤコブが一番恐れていた事は、兄エサウの自分への殺意だった。四百人を引き連れてやって来ると聞き、殺されるとの恐怖で怯え、おののいた。策略を巡らし、三つの宿営に分け、順番に進ませ、自分は一番後ろにいて、自分を守った。相変わらずの狡猾なヤコブであった。

一人残った時に、ある人が夜明けまで彼と格闘した。ヤコブが勝つが、もものつがいがはずれ、びっこになった。格闘して必死で祈り、ヤコブは強い自我が砕かれた。自分だけは助かろうと一番後ろにいたヤコブが、先頭に立ち、エサウに七度も地に伏しておじぎをした。自我が砕かれたヤコブは変えられた。あのように
恐れていたエサウと、率先して対応し、劇的な和解が与えられた。

状況でも相手でもなく、ヤコブが変えられた。自分で自我を砕く事はできない。神が砕いて下さる。そして砕かれる時、根本的に変えられる。和解できる者とされる。砕きは決して嬉しい事ではなく、痛いが、自分が変えられる、大きな祝福だ。
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肉の方法で目の前の状況と格闘して行くのではなく、自分の肉と向き合い、認め自我が砕かれるように祈り求めて行きたい。弱いままでそこに現れる主の力を喜んでおれるように。


2010年08月24日(火)

「イエスは彼に言われた。『よくなりたいか』」ヨハネ5:6



38年間、病に苦しむ男性に、主は「よくなりたいか」と不思議な質問をされた。普通、病気の人が、よくなりたいのは、当たり前ではないかと思う。しかし、男性は「はい、よくなりたいです」とは答えずに、自分がどうして直らないのかを、言い訳がましく告げた。

自分には介添人がいないから、助けてくれる人がいないから、ダメなのだと。38年は長い。余りに長すぎて、もう気力も失せ、諦めの心もあったかも知れない。しかし、この男性は、主との対話の中で、あるいはこの方が直してくれるのではと思い、主に信仰をもって応答したのだろう。癒されたという事は、信仰を
向けたはずだ。私たちの霊的生活はどうだろう。いつしか成長したいという思いが失せ、流されてしまって、もしや、諦めの気持ちや、気力が失せているだろう
か。

悪い習慣を止められない、生活が変わらない、愛せない、怒りを自制できない、怠惰に流されてしまう・・。デボーションもなかなかできない・・御心に従いたいという思いがなえてしまっているだろうか。しかし、今、目の前で主が「よくりたいか」と御声をかけて下さっている。「・・できるか」でなく「・・たいか」
だ。この男性は信仰を主に向けた。そして癒された。「主よ、よくなりたいです」と応答しよう。それを求めておられる。
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繰り返す失敗で、気力が失せてしまうが事を成して下さるのは主だ。よくなりたいところがあるはず。諦めの不信仰におちいらず、主によくなりたいですと明け渡していこう。失敗しても「よくなりたいです」と祈り続けよう。


2010年08月23日(月)

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」Tコリント10:31


私たちクリスチャンは、何のために生きているのだろう。あなたは、何のために生きているだろう。神を信じてはいるが、本音では自分のためだろうか。自分の好きなように生きたい、好きな事をしたい、そこにクリスチャン的要素、カラーをつけていたい。信仰は応接間の飾りだろうか。

主のためではなく、自分のために生きてしまう。「天動説」のようだ。地球が中心で、太陽や星が、地球の周りを回っている。自分を中心にして考えると、太陽が回っているように見える。しかし、実際は、地球が太陽の周りを回っている。
太陽が中心だ。

自分を中心に置き、世の中が、周囲が回っているとし、回そうとすると、秩序が乱れ、混沌として来る。色々な問題、悩みがその自分中心から生じている。太陽中心に、地球が回ると、すべてが秩序正しくなり、整然となる。神中心に自分が回ると、すべてがあるべき場所に位置し、整理がつき、すっきりし、心は平安と
喜びが満ちる。

自分のためでなく、神のために生きて行く事は、自分の利益でなく、神の利益を求めて行くことだ。自分の欲望が満たされたなら、満足で幸せと錯覚するが、そこに幸せは無い。欲望は幾ら追いかけても行き着く先は虚無だ。神が喜ばれる事を求めること、その時必ず真の喜びと満足を得る。
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ただ救われただけで自分を生きたままでは何も変わらないなら、自分の内の混乱や問題も絶える事なくおきて来る。少しでも動機を自分から神へと変えて行こう。変えられた分だけ真の喜びを味わえる。


2010年08月22日(日)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな」箴言3:5



私たちは、毎日毎日、日常生活で、様々な事態が起きる中で、一つ一つ判断し決
定が必要だ。家庭において、仕事において、対人関係や、進路において。何を優
先するのか、右と左、どちらを選ぶのか、進むのか、退くのか。

その一つ一つの具体的な選択をする事において、誰を主にしているのかが、明ら
かになる。あなたは、日々どのようにして判断しているだろう。自分の考えと意
志と判断で選んでいるなら、主人は自分だ。

人の考えを参考にするのは良いが、いつも第一にし、人を頼り、人に言われるま
ま、人の判断を自分の判断としているなら、主とは他の人になる。一つ一つの判
断をまず祈り、主に頼っているなら、主イエスが、自らの人生の主だ。

いつも誰の目を意識して生きているだろう。自分の思いばかりがあり、自分の思
い通りにだろうか、又、いつも人の目を気にしているだろうか。そうすると、人
の目に映る自分を生きてしまう。それなら、人が神となり、主をしもべにしてい
る事になる。

毎瞬、毎瞬、何によって判断しているか振り返ってみよう。「イエスは主」と告
白しているなら、頼るべきは主であり、日々の目の前の判断を主に拠り頼もう。
主の御心の中へと導かれ、主と一つ心で歩むことができる。そこに真の喜びと安
らぎがある。

・・・・・・・・・・・・
日々の生活、何を根拠に判断しているだろう。自分の思い、考え、価値観だろう
か。そこに主を認めて、主を見上げ、御言葉を判断の根拠にしているだろうか。
判断の際に、「神様」と見上げ、祈り心で対処して行こう。そこに主が働いて下
さる。


2010年08月21日(土)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6

主は、ご自分では、しようとしている事をご存じの上で、ピリポに「どこからパ
ンを買って来ようか」と問われた。ピリポは「200デナリのパンでは足りない」
と答えた。人間的、常識的判断だ。手元の金額と人々の入り用を計算すると「足
りません」が答えだ。

ところがアンデレは、何か食物を持っている者はいないかと、群衆の中を探し回
った。そして小さな弁当を持っている子供を連れて来た。それは五つのパンと二
匹の魚であった。これは、あるいは、主が何かして下さるのでは、と思ったのか
も知れない。

「あるいは・・しかし、こんなに大勢では何になろう」主への期待と、しかし、大
勢過ぎて無理・・の思いが行ったり来たりの状態だった。だが、主はこの小さな信
仰を用いて、この奇跡をされた。

ここで学ぶ事ができる。「足りません」との判断、答えは、自分を軸にした見方、
視点に立っている。それを自分軸でなく、神を軸にした視点に変える事が必要だ。
時間が無い、能力が無い、経費が無い・・だからダメ、それはあくまでも自分の視
点であって、主にとってはどうか。

そして、5つのパンと2匹の魚、「それが何になりましょう」こんなものが何に
なろうと思うだろうか。しかし、その手の中にある僅かなもの、小さなものを、
主に献げるなら、大きなみわざをして下さる。それを祝福して大きく用いて下さ
る。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「主は、ご自分ではしようとしている事をご存じ」とは、何と平安にされるだろ
う。今、目の前の難題、悩み、主はその問題をご存じで、主のお心通りに導いて
下さる。自分で何とかしようとせず、自分自身と問題を、まず主にお渡ししよう。


2010年08月20日(金)

「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです」Uコリント4:15


私達の日々の生活に、様々な事が起こる。そして、その結果を心に不満に思いつぶやく。「こうでなければ良かったのに」「何でこうなのか」「違う結果だったら良かった」「この結果は不満だ」、もしこう思っているなら、心に平安は無い。あなたはどうだろう。

違う結果なら良かったのにと、引きずっている事があるだろうか。そこに平安がないはずだ。信仰に立ち、「すべての事について感謝」すること、神は良きもの以外与えられないと、受け入れることだ。極みまで愛して下さっているお方が、最善以下の事をされるはずがない。

又、目の前の事に対して、「これは嫌」「別のものがいい」と言っているだろうか。一つ一つは神が量り与えて下さったものだ。与えられたものを受け入れる時、状況は同じだが、自分が変えられる。不満、不安や恐れで一杯の心に平安が臨む。

外から見るなら、悲惨とも言える状況の中でも本人には、聖霊の喜びがあり、平安がある。後の日に、必ずあの時、嫌だと思ったそのものが、自分を形造ってくれた事を、感謝をもって見い出す。そして、キリストのからだにも栄光を現して行く。兄弟姉妹も恵まれる。神が送られるのは一見マイナスに見えてもみな良いもの、信仰によって受け入れよう。
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どんな状況の中でも、神様は、私を愛し最善の道へ導いて下さっていると、そこで神様を見て行けるのが私達の特権だ。焦りや不安落ち込みではなく、恵みと感謝に満ち溢れ、神の栄光がそこで輝くとの約束を握っていよう。


2010年08月19日(木)

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:15


カナンに斥候を遣わし、その報告を聞いた。民は強く、巨人達もいて、城壁は大きい。それを聞いた時、イスラエルの民達は恐れて怯え、不信仰に陥った。神が与えるとの約束の地にもかかわらず、不平と不満で一杯でエジプトに帰ろうとまで、言い出した。

主は「いつまで信じないのか、わたしを侮るのか」と、つぶやいた民達は荒野で滅びると告げられた。すると、それを聞いた民達は、「罪を犯した。とにかく言われた所へ行こう」とカナンへ上って行く。モーセは、主が共におられないから、行ってはならないと止めたにも関わらず、上って行って敗北する。

行けと言われれば行かず、行くなと言われれば行く。自分の思いがあるばかりで、御声に従わない。民の姿は、愚かで不従順な自らの姿かも知れない。神に従うために「時」がある。時を逸しては、もう遅い。後から従おうとしても、もう従えない。民達は斥候が戻って来た時に、信仰に立つべきであった。

神の約束に立ち、神を信じカナンへ入って行くべきであった。後悔するが、時すでに遅しであった。神の御声は愛だ。愛による語りかけであり、導きだ。神の愛に応答し、従って行く時、更に神の深い愛を知る。あなたも今、何かの導きを受けているだろうか。御声を聞いているなら、従おう。一歩踏み出すなら、神の愛
を経験して行く。
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毎日は予想もしなかったことの連続だ。そのつど自分の思いに振り回されないよう祈りや御言葉を読む神様と個人的な交わりの時間を大切に守ろう。導きに対してすぐに従える柔らかい心で、いつも神様に目も耳も向けていよう。


2010年08月18日(水)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33:3


ある人が、仕事が、なかなか思うようにはかどらず、契約が取れず、悩んでいた。私生活でも、対人関係で苦しい問題を抱えていた。心は辛く、重苦しく、仕事にも生活にも、行き詰まりを感じていた。どうにもならず、主の御前に静まり、祈っていた。

すると、やはり祈りが大切と、「求めなさい」「わたしを呼べ」「絶えず祈りなさい」と祈るように示された。祈りの重要さを今一度教えられ、他に何の方法も無いので、とにかく従おうと、祈る事を始めた。朝、デボーションで、又、道を歩きながら、運転しながら、雑用をしながら、祈りを実行した。言われたように
祈りを続けていると、今まで気づかなかった事を、御霊が教えて下さった。

「自分が」「自分が」と、自分が先頭に立ち、自分が頑張り、自分の力で行なっていた事に気づかされた。この行き詰まりが無ければ決して気づく事なく、更に自力で押し進めていた。肉の力である事を認め、明け渡す事ができた。肩から力が抜け、平安と安堵で満ちた。

しばらくすると、仕事の道が開かれ、契約が取れた。対人関係も解決の糸口が見えた。御霊に示された通りに従い、祈り始めると本当に、御霊が働かれ、目の前が動いて行った。示された事に従うことが大切だ。今、示されている事に一歩踏み出そう。
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いつも心の中で何かと語っている。神様に向かっていない時は、肉やサタンと話しながら状況を治めようとしている。いつも神様と語ろう。見えない所に確かな道をつけて下さるのは神様しかいない。


2010年08月17日(火)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


プライドは人間の慢心であり、プライドは他者と常に競争する。プライドは相対的であり、何かを所有すると満足なのでなく、相手よりも良いもの、より多く所有しなければ気が済まない。人気や地位で満足せず、誰かよりも人気があり、誰かよりも地位が上でないと満たされない。

プライドは本質的に比較の上に立っていて、自分が満足するために他者が必要なのだ。サウルはダビデに嫉妬し、常に競争した。それは女たちが笑いながら、繰り返し歌った事による。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」。サウルが千を打っただけなら良かった。何の問題も無かった。しかし、ダビデと比較された事で、妬みが燃え上がった。

その妬みは憎悪に、そして殺意へと増幅して行った。ダビデが自分より上である事が、絶対に許せない。対抗心と敵対心にがんじがらめになった。このプライドは、最初、エデンの園で、エバに蛇が来た時、「神のようになれる」との誘惑だった。プライドを巧妙に刺激された。「神のようになりたい」「自分が一番」「相手より上」これがプライドであり、自我の罪だ。

このプライドは誰しもにあり、自分の力ではどうにも出来ない。自らの無力を認め、明け渡し、御心に従って行く時、主がへりくだった者と変えて下さる。謙遜とは、神に聞き従うことであり、従う時に変えられて行く。
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放っておけばどうしても自分が一番になり、人に認められて初めて安心する者だという事を神様の前で正直に認めて行こう。へりくだる事が出来ないから、高ぶりに気づますよう、この御言葉に従えますようにと神様の助けを祈って行きたい。


2010年08月16日(月)

「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密にさらせようとした」マタイ1:19


マリヤの妊娠を知り、ヨセフの立場になれば、ヨセフはどんなにショックであり、悩み苦しんだ事だろう。裏切られたと思っただろう。当時は婚約者以外の子供をみごもるなど、姦淫罪で石打ちの刑であった。ヨセフは苦しみ抜いた挙げ句、マリヤをそっと内密に去らせようと決心した。

「ヨセフは正しい人であって」とあり、その行動は信仰から来ていた。ヨセフはこの事態の真の事情を知らなかったのであり、心はちぢに乱れた事だろう。疑い、思い煩い、怒り、絶望、様々な思いの葛藤があっただろう。しかし、ヨセフは信仰によって歩み、神を信じ、善をもってマリヤに対応する事をした。

自分を捨てて、神の御前に正しい事を選択し、正しく生きようとした。ヨセフはなぜこんな事になったのか、何が起きているのか、混乱の中で、悶々と思いを巡らしていた。その時に、主の使いが夢に現われ、真実を告げ、ヨセフを導き励ました。

マリヤを妻として迎える事、胎の子は聖霊によること、救い主でありイエスと名づけること。ヨセフは「命じられたとおりにして」マリヤを妻として迎え、生まれた赤子をイエスと名づけた。

ヨセフから学べる。悩みや問題のある時、主は御言葉をもって臨まれ導かれる事、そして「命じられたとおりに」従う時、主の大きなみわざを見ること。今、理解できない問題に直面しているなら、神に向かい、御言葉に耳を傾け、御霊が示されたなら、その通りに従おう。
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目に見える所しかわからず思い煩うより、御言葉を持って臨まれる主に聞こう。御言葉を自分の事として聞き信じ従う時に神様を体験する。混乱の中にあって御言葉が指し示す方向へ一歩踏み出そう。


2010年08月15日(日)

「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった」ヨハネ2:23

群衆が主を信じて、追い回しているのは、主ご自身を求めではなかった。主がさ
れる奇跡を求めて、「パンを食べて満腹した」通りに、パンを求めて、後を追い
かけていた。自分の願望が、満たされたいがためであった。

私たちの信仰が、自分を軸に置くなら、自分の願いや欲望が満たされている間は、
つき従う。つまり、自分の思いと合っている間は良いが、思い通りにならない途
端、離れ去る事になる。

自分の願いが叶わなくなるや、失望し、つまずく。群衆がそうであり、ユダがそ
うだった。ユダは、主がローマ帝国をくつがえし、主の王国を築くと思い込んで
いた。それが主は十字架へと向かわれ、自分の思いと違った時に、主を捨てた。

私たちは、「何のために」、主に従っているのだろう。パンのため、祝福が欲し
い、自分の願望が満たされたいためだろうか。それなら、自分に都合の悪い事態
が起きた途端、従うことをやめる。軸が自分なので、自分にとって利益か不利益
かがすべてだ。

主は信頼できる信仰を探しておられ、信頼できる信仰に、ご自分を任せようとし
ておられる。つまり、主を自分の利得のために利用するのでなく、主が神である
ゆえに、従って行こうとしている人に、ご自身を現される。

まず、自分の内の深い自己中心に、気づきを与えて下さる。主を求めるようにさ
れ、御霊が導いて下さる。
その人は、どんなに自分に損になろうと、試練の中も、苦しい中も必ず主に従っ
て行く。何があっても、どんな時も、従って行く。

・・・・・・・・・・・・・
何のために、主に従っているのだろう。自分の願いが満たされるためなら、別の
他の偶像でも良い事になる。自我の砕きを通して、自分の喜びだけの者を「神が
喜ばれること」を求める者へと変えて行って下さる。何と恵みだろう。


2010年08月13日(金)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます」詩篇139:1


人から言葉を発せられ、自分の反応を考える時、もし、知らない外国語で、罵倒され、批判され、きつい言葉を言われたらどうだろう。その外国語がわかる人は別だが、普通、意味がわからず、全く何も感じないだろう。

怒りが生じるだろうか?生じようがない。という事は、内容は全く同じであり、母国語で発せられた場合は、自分が反応するから、怒りが生じるという事になる。結局、相手の問題でなく、あくまでも、反応している自分の問題ということになる。

ピリピリする、傷つく、腹を立てる・・なぜその言葉に、自分の心が反応するのか、心の内にあるものを見極めてみよう。
心に潜む何かに触れるから反応している。プライドに触れるのか、認めたくない劣等感に触れるのか、知られたくない弱さに触れて来るのか、何かに反応している。

その誰にも見られたくない、自分の本当の姿を、御霊の光に出して行く時、解放され、自由にされる。そのつらい心、イライラ、怒り、不安が、全き平安と安堵に代えられる。自らの弱さ、醜さを認める時に初めて、本音の自分が、ありのまま受け入れられている事がわかる。

神が受け入れて下さっているなら、何を恐れよう。「全き愛は恐れを締め出します」自分を隠すのは、人を恐れているからだ。こんな自分が、受けれられるはずがない。しかし、神に完全に愛されている事を知る時、恐れから自由にされる。反応する自分の心に目を留めてみよう。 
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自分が受け入れられない本当の自分を神様はいろんな方法で気づかせて下さる。それは、すでに神様は受け入れ赦していて下さっているもの。心が反応する時、そこから何を気づかせて下さり、解放して下さるのだろう。


2010年08月12日(木)

「自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ」Uテモテ3:3



バラクが、超自然の力を持つ占い師バラムを雇い、イスラエルを呪わせようとした。神はバラムに、共に行くな、呪うなと言われた。にも関わらず、バラムは報酬に目がくらみ、バラクと共に行く。しかし、バラムには神の御心がはっきりとわかっていた。「一緒に行ってはならない。民を呪ってもいけない。その民は祝
福されているから」と。

バラムは尚も「主が、私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめ・・」との態度だ。御心がはっきりしているのに、それ以上何を求める事があろう。問題は従うかどうかだけだ。「従う」ことがなすべき事だ。

私達も同じ事がないか。つまりは、自分の都合の良い事を言って欲しい。あらゆる偶像を巡っている人がいたが、自分の求めている答えが出るまで、拝み屋を巡り歩いた。自分の答えをすでに持っていて、承認が欲しい。そしてバラムは、神の御言葉に従うよりも、不義の報酬を愛した。神の御言葉よりも、自分の利害を求め、優先させる生き方だ。

しかし、聖霊は自らの状態に気づかせて下さる。あなたも御心がわかっているのに、尚も自分の都合の良い答えが欲しくて、ぐずぐずしているか。又、自分の欲の誘惑が来ているか。わかっている御心に、信仰もって従おう。その一歩を踏み出すと、次に又、示しがある。いつも、示されている御心に従う事が大切だ。
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御心に従えるよう望んでいるだろうか。自分の都合のよい生き方と御心は違う。違うから御心を選んだ時、自分の思いをはるかに越えた神様に出逢う。思い通りにしたいけれど、御心だけがなる事を祈っていこう。


2010年08月11日(水)

「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12


パリサイ人と取税人の祈りがある。取税人は、「こんな罪人の私をあわれんで下さい」と祈り、そこに神と自分だけしかなかった。神の前の自分を見て、罪を認識できた。だから罪が赦された。そこに人はなかった。

しかし、パリサイ人は、神と自分でなく、人と自分であった。「他の人々のように」「この取税人のようでない事を・・」そこに人がいるだけで、神はない。必然的に罪の赦しも無い。私たちもどうだろう。自分がどういう状態であるのかを、「人との比較」で量って、確認しているだろうか。

無意識に人との比較の中で自分を量っている。人が基盤になっていて気づかない。これは、人と比べて自分が劣ると、劣等感で落ち込む。自分を見失い、自分で何とか自分を作ろうとする。「人を恐れると罠にかかる」。

罠に、はまっている。又、自分が勝ると優越感に浸り、人を見下す。又、人と人の比較もある。子供同士を比べたり、隣の主人、妻、親と比べたり・・。人は皆、創造主から違って造られていて、違っていて良い。違っているから補い合える。

人に自分を照らし量るのでなく、御言葉に自分を照らし、自分の真の姿を御霊に見せて頂く事が大切だ。「知恵のないこと」と言われ、愚かだと思うが、どうしても古い性質は比較してしまう。主に向いておれるよう、祈っていよう。
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人に照らし、その照り返しで自分を確認しているからいつも、優越感や劣等感で不安定になる。不安定になっている時、気づこう。今、自分は何を見ているのかを。真の姿を御言葉から知っていこう。


2010年08月10日(火)

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう」詩篇32:8


主の導きを求める時、「環境」をよく見て行くことは重要だ。パウロは二度も環境を通して、行く手を阻まれた。アジアでみことばを語る事を禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方を通った。ビテニヤに行こうとしたが、止められ、トロアスに下った。東から来て、南も北も閉じられたので、残る西に向かった。

閉じられた理由は、神のご計画が、ヨーロッパ伝道にあったからだった。もし、神の阻止がなければ、間違った方向へ行っていただろう。私達一人一人にも神のご計画があり、時に行く手にストップをかけて導かれる。ある志があって、しかし門が開かれず、状況が整わないなら、それは神の御心ではない。

入試類が、不合格なら神の御心でない。神からの「ノー」の答えだ。私達はストップがかかると、導きを失ったと勘違いし、迷子になってしまったような不安感に陥るが、そうでなく「ノー」という明確な「導き」であり、別の道に御心があるという事だ。次の導きを「待て」ばよい。

しばしば、閉ざされる事によって、導きを知れる。又、祈っていて、御言葉もあり、門が開かれたなら、それは御心であり、その方向に進めばよい。御心の門は、ひとりでに開く。神が開かれるからだ。自分でこじ開けるのではない。必ず目の前で門が開かれて行く。御言葉、祈りによる平安共に、状況をよく見ていよう。
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突然の病気や、受験の失敗もそこに神様の関与を知っているから、私達は心が守られる。私だけのために準備された御心の道が、その都度開かれて行くことは、何と感謝な事だろう。自分の思いを捨てて導きをずっと見ていよう。


2010年08月09日(月)

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダンに身を浸した。すると・・きよくなった」U列王5:14



ナアマンは奇跡により、らい病がいやされた。どんなに喜びに満ち溢れた事だろう。なぜナアマンはその祝福を受けられたのか。まずは、妻に仕えていた若い娘の「サマリヤにいる預言者が、ご主人様のらい病を直してくれる」との言葉に耳を傾けた。聞く耳があったことから、事は始まった。

そして、エリシャに癒しを願うが、エリシャは、使いの者により、ヨルダン川で身を洗うよう伝言した。荘厳な癒しの儀式を思っていたナアマンは、出て来る事もせず、軽く扱われた事にプライドがひどく傷つき、腹を立てた。怒って帰途につくが、そこでしもべの提言を受け、ナアマンは耳を傾けた。

我を通さず、しもべの言う事を聞き、エリシャの言葉に従った。すると、奇跡が起きて、その言葉通り、きれいな身体に戻り、きよめられた。ここで、従う事の大切さを学ぶことができる。

彼は将軍であり、王からも重んじられていた。地位と立場ゆえ、人の忠告はなかなか聞けないものだ。特に部下や、年下の言う事は素直に聞けない。
しかし、痛い忠言に耳を傾ける事はへりくだりだ。そして、エリシャを通して告げられた神の御声に従った。

その時、奇跡は起きた。従う事なしに、みわざを見る事はない。今、神の導きを受け、御霊の促しがあるなら、無視せず、なおざりにせず従おう。主のみわざを見る。
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御言葉を読み、静かな御霊の声をよく聞き分け、そして従って行きたい。信仰が知識だけではなく、実生活で血となり肉となるために、従い、そこで見せられたみわざを通し深く神様を知って生きたい。


2010年08月08日(日)

「イエスは、『来なさい』と言われた」マタイ14:29



弟子達が、湖で強風で悪戦苦闘の中、主が湖の上を歩いて来られた。弟子達は非
常な驚きであったが、その時、ペテロが、主のもとに行きたいと願った。ペテロ
は御言葉さえあれば、可能だと信じた。その信仰はあった。

主はその願いに答えられ「来なさい」と御声が臨んだ。その御声を聞いて、ペテ
ロは舟から出て湖面に足を下ろし、水上を歩いた。ところが、風を見た時に、突
然恐怖に襲われ、沈み始め、溺れかけた。恐怖の余り、主に助けを叫ぶと、主は
すぐにペテロを助けられた。

ペテロは風を見た途端、「常識」の世界を見た。今、自分は何をしているのか、
こんな事が有り得るはずがない、人が水の上を歩くなどと。私達もしばしば経験
する。

神の御心を歩むなら、神がすべての必要を満たすと約束されている。しかし、降
って湧いて来るわけでなし、どうやって満たされるのか。
この世と全く違う価値観ゆえ、人から仲間はずれにされたり、笑われたり、相手
にされなかったりする。この新しい生き方で本当にいいのか。神に従って行って
大丈夫なのか。この世でやって行けるのか。

又、忍耐し、赦すなど、相手を図に乗らせるだけだ、ピシャと言え!報復せ
よ!・・「常識」の湖にぶくぶくと沈んでしまう。今、あなたは、二つの世界に

もとぐらついているか。恐れで溺れかけたペテロだろうか。

今一度、状況でなく、「来なさい!」と御声をかけて下さっている主を見上げ、
見つめて、襲い来る肉の思いでなく、「信仰」で進もう。

・・・・・・・・・・・・・・
信仰とは神の御言葉を聞いて、行なうことだ。「来なさい」の言葉があったから、
水の上を歩けた。「来なさい」の言葉が無かったなら、最初から沈んでいた。語
られた言葉によって、どんな状況の中でも、水の上をも進んで行ける。


2010年08月07日(土)

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」ヘブル2:1




私たちは、ある日、突然に信仰から離れる事はない。少しづつ少しづつ流されて
いて、それに気づかない。気づいた時には、すでに大幅に逸脱してしまっている。

どうして流されてしまうのか。「聞いた事を、しっかり心に留めて」いないから
だと言っている。御言葉も、何度も何度も聞いて「頭」ではわかっているが、そ
れを「心」に留めていない。

漫然と漠然と信仰生活を送っている。物理的に耳に入れているが、心では聞いて
いない。右から左へと流れてしまう。道ばたに落ちた種のように心に根付かない
まま、サタンが御言葉を奪って行く。

そして、御言葉を聞いて、従わないなら、御言葉を流して捨てている事になる。
聞いた事をしっかり心に留める時に、御言葉を行って行ける。心に留めるなら、
流される事はない。御言葉を「一心に見つめて離れない人は」「事を実行する人
になる」。

又、心にひっかかる御言葉があるだろうか。聞きたくない、ふたをしておきたい
御言葉だ。御言葉は鏡となり心を映し出すので、それこそが問題点だ。薄々わか
っているからこそ聞きたくない。

なぜ拒否反応が起こるのかよく考えてみよう。自分の何に触れるのか。御霊が心
を探り、照らし出して下さる。神に向き合う時、自分の本当の姿が映し出される。
それを認めて行く時、御言葉により自分が変えられる。

・・・・・・・・・・・・・・・
流される原因は、御言葉はいつもいつも聞いているが、物理的に聞いていて、心
で聞いていないからだと言われる。又、都合が悪いと無意識にも心から締め出す。
真剣に「今日、従うことは何ですか。お従いします」とのスタンスで聞いてみよ
う。


2010年08月06日(金)

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに・・身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって」U列王5:14


らい病にかかったナアマンは、使用人の少女から、預言者が、らい病を直す事ができると聞く。それで、王の承諾も得て、エリシャを訪ねる事にした。しかし、将軍自らが訪ねているのに、エリシャは会う事もせず、使いの者に伝言した。それも手を置いて癒すのではなく、ヨルダン川で七回身を洗えと。

それを聞いて、ナアマンは激怒した。プライドが傷ついたのだ。王に重んじられている自分が、いとも軽く扱われた事に、プライドが許さない。自分はいっぱしと思い、人よりは有能な人間と思い、自分の思いに、神を従わせようとする態度は、ナアマンだけだろうか。

人間のプライドは、神の恵みと相容れるところが無い。神はナアマンに、真の救いを与えるがために、へりくだらせるために、そのところをあえて通された。難しい事を言われたなら、まだプライドが保てた。しかし、余りにも簡単で、又、人々の目にさらされる状況に耐えられない。

だが、しもべ達がナアマンに進言した。とにかく言われる通りにしてみたらいかがかと。彼はその忠言に耳を傾けた。そして、プライドを捨てて従った。するとらい病は癒された。あなたも今、プライドが妨げているだろうか。又、彼は怒りはしたが、結局、従った。その時に癒された。私たちも、御言葉に聞き、ただ神の御言葉の通りに従う時、癒されて行く。
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私達は自分を過信するが単純な御言葉にさえ従えない、かたくなで弱い者だ。ナァマンのように言われるまま、プライドを捨てるしかない所を通される時気づく。素直な思いでいつも御言葉に向き合いたい。


2010年08月05日(木)

「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」ルカ7:9



百人隊長は、その立場上「権威」というものがわかっていた。自分の命令通りに部下は動く。自分の命令で人が動くのだ。それはバックのローマ帝国という偉大な権威のゆえであり、自らがその権威に従う時に、その権威を持つ事がわかっていた。それゆえ主の権威を理解し、お言葉さえ頂ければ十分だと言った。

自分の命令ですら、部下が動く。ましてや主が命令されたなら、病気は御言葉に従う、病気にすら権威を持っておられると信じた。私達は、なかなかこの御言葉の権威がわからない。主は、彼の御言葉への信仰に、見ないで信じる信仰に驚かれた。

又、ユダヤを支配するローマ帝国の隊長が、自分は異邦人であり、家に来て頂く資格は無い、伺う事さえ失礼と、そして自分の無力を認めて、主の御前にへりくだった。私達はどうだろう。主の主権と権威を、真剣に信じているだろうか。

都合良く、事が運んでいると、喜んで神を認めるが、思い通りでないと、何で?神様はひどいと、文句タラタラだ。手の平を返した態度になる。これは「神中心」でなく「自分中心」の信仰であるからだ。どこまでも自分が第一で、自分の思いに中心がある。

百人隊長のように、神の主権と権威を認め、神は必ず良くして下さると信じて行けたらどんなに良いだろう。その時、主は「このような立派な信仰は見たことがない」と言って下さる。信仰の中心が、軸が、「自分」にある事に気づく事が祝福の始まりだ。
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神様を信じているのに事が起こると軸がぶれ動揺するのは、権威に対する認識が頭だけのものだからかもしれない。全能の神様の「権威」を経験を通し知って、真にへりくだり、何が来ても自分に頼ることやめ、神様を信頼して歩みたい。


2010年08月04日(水)

「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」マタイ11:6

信仰人生で、私たちがつまづくのは、どんな時だろう。よく考えてみると「自分の」期待に合わない時ではないだろうか。どこまでも「自分の」願いに、思いに、そぐわないので、つまづいていないか。

自分に関係の無い事で、人はつまづく事はない。「自分の」気持ちや、願いを、相手が受け止めてくれない時、自分の思い通りにならない時に、つまづいたと思う。そして、そんな神なら捨ててしまう。自分の願いが叶えられないなら、用はない。偶像ならそうだ。

当時の、主の周囲にいる人々は、主を現世的、政治的指導者、王として、主を求めた。メシヤとして華々しく王位に着く事を。しかし、現実的はどうか。王になるはずの主が、十字架にかかるとは。とても受け入れられない。人々は自分たちの思い通りでない、主を捨てた。期待通りでない、期待を裏切る主が腹立たしい。

腹を立てた。私たちもどうだろう。信仰人生が自分の期待通りに行かない、思い通りでない、願いが叶えられない。その時につまづく。その時の軸が「自分」だ。自分の気持ち、自分の思い。その軸を「神」に変えてみよう。

神のみ思いは?神の御心は?神はどう思われるのか?神を軸におき、その神に自分の心を沿わせ、明け渡して行く時に初めて、今までの世界とは違い、霊の世界が、神が見えて来る。
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自分軸から神様の軸に視点を変えるなら、自分にとらわれて見えなかったもの遮られているものを教えて下さいの祈りに変わって行く。つまずいてしまうのではなく、その中で新しくまた神様を個人的に知り変えられて行く信仰生活でありたい。


2010年08月03日(火)

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはべつの方を待つべきでしょうか」マタイ11:3


私たちの信仰生活の中で、神に対し、信仰に対し、心が揺らぐこと、わからない事、つまづいてしまう事が出て来る。又、今も、あるだろうか。主は、その心の傷み、つまづきをご存じだ。慈しんで、目を留めていて下さる。そんな時、どうすればよいのか。バプテスマのヨハネに学ぶことができる。

ヨハネは人々に告げた。メシヤが自分の後から来られ、自分よりも優れた方で、その方は、聖霊と火でバプテスマを授けられる。麦と殻とをより分け、麦を倉に納め、殻は消えないで焼き尽くされると。それがヨハネのメシヤ像だった。

神の義により、逆らう者たちを滅ぼし尽くす裁き主だった。ヨハネは厳しい裁きを伝え、悔い改めを説いた。メシヤがそれを成し遂げられると信じたからこそ、自分の命を賭けた。獄中で、そんなヨハネが弟子からキリストのみわざを聞いた。

ヨハネが思っていたメシヤ像と実際の主の姿が一致しなかった。ヨハネが期待したメシヤ像ではなかった。その時、ヨハネはどうしたのか。直接、主に問うている。「おいでになるはずの方は、あなたですか」と。あなたは本当にメシヤなのかと。

主は現実に起きている事を示し、一つ一つが旧約からの預言の成就であることを提示して答えられた。私たちも、「あなたは本当に神なのですか」と、つまづいている事を直接主に聞けばよい。祈りの中で、直接、主に尋ねて行く時、主は何らかの形で自分にわかるように答えて下さる。
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現状のままの不安を聞いていこう。一つの目的に向かっていても、これでいいのだろうか、道をそれてはいないだろうかと不安になる事が多い。その都度、主に尋ねるなら、今その途中であるとの確信もまた与えて下さる。


2010年08月02日(月)

「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」ルカ15:31



3つのたとえ話が出て来て、失われたものが見つかった喜びについて言っている。一匹の羊と一枚の銀貨と放蕩息子だ。そして、この話は、取税人、罪人たちが主の話を聞こうと、近寄った時に、それを「こんな罪人たちと食事を一緒にして」と見下し、不快に思うパリサイ人、律法学者たちに対して語られた。

迷った羊と無くした銀貨と放蕩息子は、取税人や罪人であり、迷っていない羊、無くなっていない銀貨、兄息子がパリサイ人、律法学者だ。失われたものが見つかって大喜びしたと同時に、失われていないものへも同じように愛が注がれている。

パリサイ人、律法学者たちは自分たちは迷っていない、失われていない、放蕩していないと思っている。放蕩三昧の弟が戻って来て、父親が大喜びで宴会している事に、兄は激怒した。自分はしんどい目をして毎日働いているのに、こんな事があってよいものか。

父親が弟だけをひいきしたのでなく、自分も同じく愛されている事がわからない。父親はすねて怒る兄息子を懸命になだめている。父親の限りない愛は、兄息子への言葉でわかる。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」と。

これほどの深い愛で愛されている。しかし、兄息子にはわからない。兄息子の方が、父から心が離れていた。もし、今しんどくて不満タラタラなら、父の心を覚え、父の深い愛に包まれている事に思いを馳せよう。
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自分の罪に敏感になりたい。そして主の十字架で赦されているありがたさ、信仰を与えられている事の感謝をいつも覚えていたい。御父から与えられていないものなど一つもないのだから今日も愛されている喜びを味わいながら歩もう。


2010年08月01日(日)

「羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します」ヨハネ10:3


主は羊飼いであり、羊は、羊飼いの声を聞き分ける。羊飼い以外の雑多な声があ
る。その中から、羊には、自分の飼い主の声がわかる。

私たちは次から次へと、大小様々な問題に直面する。そんな時に、肉からの声が
湧き上がる。肉は常に自己を中心に置く。軸が自分であり、自分にとってどうか
が判断基準となる。自分に得か損か、こういう行動に出れば自分はどうなるか、
自分のメンツを守る方向に、自分の思いで動いて行く。

そんな中に、主の御声がある。自分を軸にでなく、神を軸に据える時、神はどう
思われ、神の御心は何?神は何を喜ばれるのか、神は何と言っておられるのかを
求める。神の御声は、御言葉によって確かめることができる。御言葉に反するこ
とは絶対に無い。もし、御言葉と矛盾するなら、それは神からの声ではない。

そして状況からも導きがわかる。環境を通して語られる。状況をよく観察してい
るなら、御心の方向へと進み、門が開かれて行く。最初は、ぼんやりとよくわか
らないが、祈り続けて行くと、状況や御言葉で、段々明るくなり、はっきりと鮮
明になって来る。

そして、祈り続けているなら、色々な方面から繰り返し御声をかけて下さる。礼
拝メッセージや個人の祈りや学び会で。導きを求めてよく祈り、耳を澄ましてい
よう。羊飼いの愛なる御声が聞こえて来る。

・・・・・・・・・・・・
様々な声が混線する。サタンからの声、肉から湧き上がる声、この世の様々な価
値観、考えが入り混じる。すべてが神からではない。羊は聞き分けると言われる
ので、祈っていよう。心に喜びと平安、安堵が宿る声、御言葉に沿った声にじっ
と耳を澄ませよう。