2010年09月30日(木)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14


神は「願え」「求めよ」と言われている。そして、願い事を神に知って頂けと言われる。「あなたの願い事を神に知っていただきなさい」。「感謝をもって」一つ一つ、神に知らせなければならない。願うのは良い事だ。神は喜んで下さる。

しかし、気をつけなければならない。肉の性質があり、自分の欲望、わがまま、自己中心が願いの中に出て来る。自分の思い通りに、期待通りに主に動いてもらおうとする。期待通りにならなければ、どうか。自分の思い通りでない事につまづいて、主のもとを去った人々もいる。

しかし、これは「信仰」ではない。主は便利屋ではない。願うと何でも思い通りのものが来る、サンタクロースではないし、お金を入れると欲しい飲み物が出て来る、自動販売機ではない。主にはご自分の「しようとしていること」ヨハ6:6があられ、意思とご計画をお持ちだ。主の御心だけが成る。肉の願いは成らない。

願いが、もし結果的に主と違うのなら、こちら側で軌道修正する必要がある。自分ではまともな願いと思っているが、実は「自分に都合のよい、気ままな願い」であったりする。自分を変え、自分を主にそわせ、主の御心に従い、主と一つになって行く時、その願いは叶えられる。それはまさに主の願いであるからだ。
-------------------
思いのままに祈るのは大切だが、祈りの答えを聞くことも忘れてはいけない。決定権は神様にあり、その答えに自らを添わせ、謙遜にどんな答えであっても感謝し受けて行きたい。


2010年09月29日(水)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24


星野富弘さんは、運動中に脊椎損傷し、首から下が動かず、機能不能になった。生きる気力を失い、心荒み、絶望の中にいたが、聖書に触れ、神に出会い、救いに入れられた。その時から人生が一変し、口は動くと、絵筆を口にくわえて、花の絵を描いた。この絵と詩が人の心を捕らえ、深い感動を与えている。

多くの傷ついた人々の心を癒し、温めているのだ。数知れない人々のために用いられている。彼はこう言っている。「命が一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。命より大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」

神を信じたからと言って、奇跡的癒しがあったわけではない。状況は何も変わらない。神を信じても良くならないのか。いや、そうではなく、むしろ、彼が不自由な身体という御心をしっかり受け入れていて、その中で生きているからこそ、人々を励まし、力づけ、引き上げて行く事が出来るのだ。

多くの人々の心を癒し、慰め、神の栄光のために素晴らしく用いられている。十字架を負い、御心を受け入れて生きる時、自分自身に平安があり、そして、それは大きな証しとなり、誰かの心に触れ、響き、捕らえる。どんな状況であれ、自分に与えられたものを受け止め、受け入れて、神に従って歩もう。
そこにこそ、神の栄光が現わされる。
-------------------
命も先の将来も神様が一番良い物を与えて下さり、壊れやすい自分の内に主が生きて下さっていると知り歩む人生は、何という平安だろう。いつもそこに立って喜んでいたい。


2010年09月28日(火)

「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父を愛する愛はありません」Tヨハネ2:16


「肉の欲」とは、自分の必要を、神によってではなく、自分の力で自分の手で満たそうとする誘惑だ。神はどう思っておられるのかという、神のお心を求めるのでなく、神に関係なく、これがどうしても欲しい、どうあっても手に入れたいという欲望だ。自分の思い通りに生きるので、手に入れないと満足できない。

荒野で、主は悪魔から誘惑を受けられた。40日の断食の後、瀬戸際のギリギリの空腹の中で、自分で石をパンに変えて食べよというものだ。御父のお心はどうかでなく、御父から離れて、自分で行動して、自分で必要を満たせとの誘惑だ。神の御心から離れて、自分の欲望充足第一だ。

又、悪魔は私達の足らない部分に目を向けさせる。祈っても無駄であり、祈っていないで、自分で不足を満たせばよいのだと。祈ってなどまどろっこしい、自分ですれば、すぐに済むとの誘惑だ。あなたにも来るだろうか。問題は、誘惑を受けていて気づかない事だ。

どうしても欲しい、強い欲望にはくれぐれも要注意だ。そこにサタンが誘惑して来る。欲望が強い時には、欲望を満たしたいばかりで、サタンにも気づかない。サタンは私たちの欲望に働いて、神に従う事を妨げ、御心と真逆の方向へ向かわせる。その願望を一旦、神に明け渡すなら、安全に正しく導かれる。
-------------
今、欲しがっているもの、やりたがっている事は自分を崇めて、肉を満足させて行くものなのだろうか。弱く肉に引き込まれやすい者なのだから、その思いを全て神様に一旦、渡そう。神様がその思いを聖めて、また与えて下さる。


2010年09月27日(月)

主はヨシュアに仰せられた。『見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した・・』」ヨシュア6:2


エリコの城を攻め取るために、神は常識ではあり得ない、突飛な不思議な方法を示された。1日1回町を回り、7日目に7度回って大声でときの声をあげよと。その通りに従うと、城壁が崩れ落ちた。奇跡が起きた。このように、見える状況にそって対処するのでなく、神からのみ言葉を信じて、その通りに従う
と、神の奇跡を見る。

つまり、私達が神の奇跡を見るのは、自分の方法で何かをするのでなく、み言葉を信じて従った時だ。目に見えるところは凄まじい影響力がある。サタンは見えるところを見せて、怯えさせ、恐れさせ、失望落胆させる。私たちは、いつも見えるところを、状況を見て、思い煩い、不安にさいなまれ、落ち込む。

しかし、信仰は、見えるところがどうであれ、み言葉の方を真実とし、み言葉の方を選び取る。状況でなく、御言葉の方を信じる。見えるところ、常識とも違っても、み言葉に従うことだ。すると、神が城壁を崩される。又、民は、目の前に立ちはだかったエリコの城壁を崩さなければ、その先の約束の地を所有する事は出来なかった。

私たちも、約束された祝福を受け取る前に、城壁が立ちはだかっているだろうか。自分の心の内側の城壁は何だろう。信じようとしない頑なな心、不信仰だろうか、従おうとしない不従順だろうか。従って行く時、神が約束の地を与え
て下さる。
-----------------
世にあって私達は世とは違う生き方をする。御言葉をそのまま受け取り素直に従うとあまりにも突飛だとサタンの声を聞くが、神様が共に働いて下さる。それを信じて一歩踏み出そう。


2010年09月26日(日)

「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた」使徒8:1

迫害という、一見苦しい、辛い、過酷な出来事が起こった。生死に、命に、関
わる厳しい苦難だ。しかし、この迫害が、取りも直さず神の新しい働きのために
用いられたのだ。

「エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、地の果てまで証人とされる」との御旨
の通り、福音がエルサレム以外の地域で語られ始めた。活気的な重大な出来事だ。
教会の新しい働きは、突然始められて行った。

迫害はマイナスの事、痛い事、苦しい事、不都合な事だが、振り返る時、神の御
旨の成就であったとわかる。つまり、すべてを見通す神の目からは、御旨の素晴
らしい成就である事が、私達にとっては、時に悩み、困難、問題の形で現れる。

激しい迫害が、辛く、苦しい出来事が、実は、地の果てまで証人とされて行く、
という事の成就であったように、今、あなたにとって、「何でこんな事が?」
「どうして?」と理解出来ない目の前の事態が、実は神の目からは、正しく事が
進んでおり、素晴らしい御心の成就となる。

結実が待っている。今は、理解不能だが、確かに神が最善を備えておられる事を
信じよう。「激しい迫害が起こり」・・病気、けが、リストラ、倒産、経済的苦
境、対人関係のあつれき、別離、この事がどのように素晴らしい結実となるのか、
神の視点に立ち、期待して待ち望もう。

・・・・・・・・・・・・・・
自分の目から見るなら、一見、祝福と真逆の、あって欲しくない事態、辛い状況、
どうしてこんな事が?の事態が、実は素晴らしい祝福に結果する事になる。理解
出来ない事が起こるが、その中で神を信じていよう。人の思いを越えた結実が待
っている。


2010年09月25日(土)

「いちじくの木は花を咲かせず・・羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。 私の主、神は、私の力」ハバクク3:18



ラッキーな事、ハピーな時は誰でも喜べる。受験合格や昇進や仕事の成功、しか
し、ハバククが喜んだのは、実りなく、何の収穫も無い、完全な絶望状態の時で
あった。ぶどうの木もオリーブ木も実がなく、畑は不作で、家畜も絶えてしまっ
た。

見える所暗黒、お先も真っ暗だ。こんな中で、なぜ喜べたのか。「主にあって」
「救いの神にあって」が鍵であり、環境、状況で喜んだのでなく、「神にあっ
て」喜んだのだ。私達も、現状が真っ暗であり、先も真っ暗であったとしても、
同じように喜べる。

神に焦点を当て続けるのだ。その時、どんな暗黒の中でも喜べる。神はどんなお
方か、しっかり考えよう。この事態は益とされ(ローマ8:28)平安と将来と
希望の計画があり(エレミヤ29:11)主は、状況をご存じで、すでにしよう
としている事をご存じだ(ヨハネ6:6)その通りに事は進んでいる。ご自分の
御子をさえ下さったお方が(ローマ8:32)良くして下さらないわけがない。

状況を信じるのでなく、神を信じるのだ。御言葉と状況がいつも目の前にある。
それらは正反対だ。その時、どちらを信じ、選択するのかが常に問われている。
目に見えるところでなく、御言葉が真実であり、御言葉に目を向け、そちらを選
択し、信じて行こう。その時、御霊の喜びに満たされる。

・・・・・・・・・・・・・・
ハバククの状況は、周囲真っ暗闇、絶望的だった。しかし、喜べた。私の喜びは
状況から来るのではない。私の救いの神から来る。状況に依存しているのではな
い。何と幸いな人生だろう。どんな中でも、状況でなく、救いの神を見続けてい
よう。


2010年09月24日(金)

「また、わたしのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を「また、わたしのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」マタイ7:26


愚かな人は、み言葉を聞くだけで「実行しない」と言っている。例えば、スポーツや習い事等、耳で聞くだけで身につくだろうか。ノウハウを聞いただけで、突然、バッハ曲が弾けたなどとあり得ない。ギターを弾けるようになるには、どんな立派な大人でも、初歩から地道に練習して初めて可能だ。身体をもって実践し
なければならない。

同様に、真理の御言葉は「実行する」時、初めて血となり肉とされる。御言葉を暗唱するだけでもだめで、実行する事が大切だ。愚かな人も賢い人も、どちらも「み言葉を熱心に聞いて」いる人達だ。聖書を読み、喜んで説教を聞くクリスチャンだ。

しかし、砂の上と岩の上に分かれる。愚かな人は、自分の顔を鏡で見てすぐに忘れる。御言葉は自分自身の真の姿を映し出してくれる。実行しなければ、鏡に映し出された自分の心をすぐに忘れてしまう、そして主イエスを忘れ去る。
流されたままで、自分は全く変わらない。成長も無い。それは試練の時に立ち行かない。倒れてしまい、それも破壊的倒壊となる。

これは御言葉の言っている事だ。どうすれば良いか。「自由の律法を一心に見つめて離れない」なら実行できる。御霊が、行う力を与えて下さる。今、目の前に示されているその事を、御霊に助けられ、実行しよう。一歩前進しよう。
-------------
みなそれぞれに示された事があるはずだ。流されずにその確信に留まっているためにまず実行してみよう。つまずき安い所、繰り返し失敗するパターンなど何が原因なのかを必ず主が教えて下さっている。御言葉に当てはめ反芻し祈りつつ、やってみよう。


2010年09月23日(木)

「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい・・耐え忍んだ人たちは幸い」ヤコブ5:10

人生で私達は大きな小さな様々な苦しみに会う。必ず苦しみがあり、試練があり、それは御言葉もはっきり言っている事だ。「試み」「試練」「患難」「刈り込み」「懲らしめ」「訓練」「鍛錬」「苦しみ」「悲しみ」数限りなく出て来る。
必ず試練はあるので、それにどう向き合うかが大切であり、苦難にあっては「耐え忍ぶ」事が重要だ。苦しみの中で、初めて忍耐が養われる。

苦しみにも種類があり、・ヨブのような苦しみ・善を行っていて尚受ける不当な苦しみTペテ2:19・訓練としての苦しみヘブル12:7・自分の罪ゆえの苦しみ、刈り取り・主のための苦しみピリピ1:29 自分の罪が原因で招いた苦しみは、罪を悔い改めるべきだ。その苦しみは罪を知らせ、悔い改めに導くために送られてい
る。そして、自らの蒔いたものを、刈り取って行く事こそが、祝福の道だ。

刈り取りは訓練となって自分に返り、しかし、それをも益とされ、祝福に変えて行って下さる。他の苦しみでの御心は忍耐する事だ。その苦しみを通して、私達は練られ、鍛えられ、聖められる。品性が生み出され、その苦しみにより霊的に必ず一段階成長する。あなたにも今、苦しみがあるだろうか。罪ゆえなら悔い改
め、そうで無ければ忍耐する事だ。その事態を主は良きに導いて下さる。そして後に、必ず平安な義の実を見る。
--------------
様々な苦しみを経験するが、その苦しみによって私達は造り返られる。刈り込みの忍耐、刈り取りの忍耐、それぞれ辛く苦しいが、何処にも逃げず苦しみを受け取ろう。試み、試練、苦しみは、計って与えられた希望のある訓練だ。


2010年09月22日(水)

「あなたの主人のもとへ帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」創世16:9  


幾ら待っても、子供のできないサラは、女奴隷ハガルによりアブラハムの子を得ようとした。当時は普通に行われていた事であり、肉には良い考えだと思えた。アブラハムもサラの申し出なので承知した。しかし、ハガルに実際に子供ができた時、ハガルは優越感で、サラを見下すようになった。

肉でする事は、幾ら良いように見えても、必ずトラブルを引き起こす。肉で動いてはならない。予想に反する事態に、逆にサラがハガルを攻撃し、いじめた。ハガルは辛くてたまらず、荒野に逃げた。しかしそのハガルに御使いが現れ、サラのもとへ戻って、へりくだって仕えるようにと告げた。そうするなら、子
孫を大いに増やすと。

ハガルとイシュマエルにすれば、自分で選んだ道ではない、状況に置かれた。彼らには選択不能であり、どうする事もできず、これは彼らの責任ではない。しかし、状況に責任はないが、それに向かう態度と行動は自らの責任だ。神は彼らを顧みられた。アブラハムとサラによる教訓は、肉の判断、決定は必ず問題と悩みを引き起こす事だ。

周囲まで問題に巻き込んで行く。人間的にこれは最善と思える方法が御心なのではない。又、親族の肉の助言が罠になり、そこから大きく道がそれる事がある。聞くべきはまず神であり、判断と決定の際には必ず祈ろう。神に導きを求めよう。又、助言をする時は、よく祈って御霊に導かれて助言しなければならない。肉の結果は、御心と正反対の方向へ向かってしまう。
--------------------
神の御約束があるなら、遅れていても必ず成る。導きを祈っている時も神がその答えを下さるまで忍耐して待とう。遅延していているのもノーも、答えであって、必ず静まって祈っているなら、それは、わかる。


2010年09月21日(火)

「しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:18  

 

二人の弟子達は目がさえぎられていた。かたわらを歩いておられる方が、主イエスだとはわからなかった。なぜ、わからなかったのか。御言葉によると「信じない、心の鈍い人たち」とある。不信仰が目をさえぎっていたと。復活を信じない彼らは、主が死んでしまったと、深い失望と落胆、絶望の中にあった。悲しみも
あった。

私達も失望の中にいる時、主が決して見えない。見えなくなってしまう。「失望」とは主に期待を向けない、主を見限った不信仰だからだ。不信仰は私達の心をふさぎ、目を閉ざしてしまう。又、「自己憐憫」は自分の殻にこもり、主を排除するので、ただ見えるのは自分だけだ。又、「不安」も目がさえぎられる。
思い煩いに支配され、心配の山だけが見えて、主がどこにも見えない。

主をシャットアウトしてしまう。「多忙」も目の前の事柄に心が奪われてしまい、主を認める事をさせなくする。あなたも今、目がさえぎられているだろうか。障害物に気づき、悔い改めよう。失望か、思い煩いか、不安か、自分の欲望か、それらはおおいとなって、目がおおわれてしまう。

それを取り除けて頂こう。主に向く時、視点が変わる。発想が変わる。主を見るなら、希望が持てるので、信仰が生まれる。今もあなたのかたわらに主がおられる。
----------------
肉の目は、見たいものだけを見たいように見て行く。だから少しの時間でも御言葉に触れ祈る、交わりの時を守ろう。色々なもので目がさえぎられていることを御霊様が教えて下さる時、すぐに同伴して下さっている主に気がつきますように。


2010年09月20日(月)

「この世と調子を合わせてはいけません・・神のみこころは何か・・何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために」ロマ12:2

信仰生活において、なぜ日々御言葉が必要なのだろう。この世で生きている私達
は、日毎に、この世の価値観に襲われ、さらされ、攻撃を受けているからだ。意
識するとすまいと、凄まじい影響下にいる。全く正反対の価値観だ。

この世は地を目指し、自らの判断と知恵を根拠に、自分を神とし、人からの賞賛
を求め、自分の栄光のために生きる。私達は天を目指し、御言葉を根拠に、神の
御心を行ないい、神に喜ばれるように、神のために生きようとしている。

サタンは価値観の部分に影響を与え、巧妙に誘惑を仕掛ける。価値観にさえ働け
ば、簡単に行動を操作できる。ちょっと御言葉や祈りから離れると、クリスチャ
ンもすぐも自分の損得、自分の賞賛、自分の欲望、自分の都合・・肉のために生き
てしまう。根深い肉の性質があるからだ。

御言葉がどう言うかでなく、自分の肉の判断で行動してしまう。神の価値観と真
逆を行く事になる。神から目を離すや、即、この世の価値観で動いてしまう。い
ら立つ相手には、すぐ腹を立てしまうし、裁いてしまう。

しかし、神はいら立つ相手を前にした時に、「まず祈れ」と言われ、「御霊の判
断を仰げ」と言われる。そこに御霊が働かれる。すると、見方が変えられ、その
時に、相手にもそうせざるを得ない状況があり、弱さがあることに理解が向けら
れて行く。

御言葉は自我や肉の判断に日々気づかせ、軌道修正してくれる。日々御言葉に触
れて行く時に、御言葉によって自分の考え方が変えられて行く。今までを振り返
っても、大きく変えられて来た事だろう。

・・・・・・・・・・・・・
目の前の事態に、肉は即、反応し、御言葉と真逆の方へ向かう。そして、後悔
する。すぐに主を仰いで、ひと呼吸置いて、主の喜ばれること、御言葉の判断を
祈ろう。主を仰ぐ時、助けられる。今日も、まず主を呼べるように。


2010年09月19日(日)

「箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき・・水は完全にせき止められた」ヨシュア3:16

                          

祭司たちは、契約の箱をかついで、ヨルダン川に足を踏み入れた。それは丁度、
春の最も水かさが増える時期であり、自分の背丈よりも深い川に入って行こうと
した。目に見える何の保証もなく、ただ、ヨシュアの言葉だけであった。

「足の裏が、水の中にとどまると、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せ
きをなして立つようになる」。先に、川の水が、そのようになってから、渡るな
らまだ渡れるかも知れない。

しかし、まだ川の水が岸一杯に溢れている時に、足の水の中に入れる事は決して
簡単ではない。そこには信仰が必要だ。示され、語られた御言葉に従うことが信
仰であり、信仰もって従う時、いつも神のみわざを見る。

何も見えなくとも、一歩従う時に、確かに神が見えて来る。私たちは、見えない
状況は不安であり、恐れがあり、見えたなら従おうと思う。しかし、見えたなら
信仰は要らない。信じる必要がない。見えているのだから。

先にヨルダンの水がせき止められたのでなく、足を踏み入れた後に、せき止めら
れた。この順番は重要だ。見てから従おうとするなら一生従えない。神を経験す
る事なく一生終わってしまう。

今、一歩を踏み出すように示されているなら、御言葉を頼りに、何も見えない中
で、踏み出そう。神の素晴らしいみわざを見ることになる。

・・・・・・・・・・・・・・・
民はとうとうと流れるヨルダン川を渡り、約束の地に入った。一歩を踏み出した
からだった。一歩を踏み出した時に、主の力が現れ、みわざが現れた。不信仰を
悔い改め、「身をきよめ」て、信仰持って示された一歩を踏み出そう。


2010年09月18日(土)

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」箴言29:25

             

私たちの心を乱し、混乱させるものは何だろう。人の評価ではないだろうか。人
の自分に対する評価を気にし、人目を気にし、それに即、反応してしまう。今ま
でを振り返ってどうだろう。落ち込んだ時、心が暗くなった時、沈んだ時はどう
だったか、人の言葉や態度に振り回されていなかったか。

人の自分への批判に反応し、心乱され、敵対心を抱く。憎しみや怒りを抱いてし
まう。人が向けて来る憎しみに反応し、憎しみで返すなら、愚かなことをしてい
る。そんな時は、御言葉がどう言っているかに目を留め、神の評価を見上げよう。

「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない」売り言葉に買い言葉、苛立
っている時に、人から出る言葉にいちいち心を留めないことだ。時に思っても無
い事を無責任に発してしまう。人からの評価に、価値観を置いている自分が問題
だ。

そして、プライドという肉が問題だ。少しでもプライドが傷つこうものなら、す
ぐに怒りや恨み、憎悪が湧き起こる。自我に触れた途端、反撃に出る。又、行動
に出ない場合は根に持つ。いつまでも忘れない。

人の評価で一喜一憂し、アップダウンし、人依存で生きている私たちを、御言葉
は正しく導いてくれる。まずそんな自分である事を認め、御言葉に従って行く時、
人の評価に反応するのでなく、神に反応して生きて行くように変えられる。

・・・・・・・・・・・・・
神の無いこの世界では、自分を量るために、人しか無い。人との比較で生きてい
るので、救われた後も、根深い価値観がある。神でなく、人の前に生きてしまう。
そこにサタンの罠がある。神より人が大きくなっていないか、御霊に心探って頂
こう。


2010年09月17日(金)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」詩編46:10


私たちは目まぐるしい忙しい時代に生きていて、過多なる情報に振り回され、落ち着きの無い生活になっている。スピードを要求され、次から次へと仕事をこなさなくてはならない。余りにも忙し過ぎて、主の御前にも落ち着きの無い日々になっていないか。あたかも忙しい事が、良い事のようで、寸暇を惜しんで動き回
る事に、自らの存在価値を見い出す。そんな中で、主は「静まれ」と言われる。

事が起きた時に、「自分で動き回らず、まず静まれ」と。静まる事は簡単ではない。肉は、何かが起きた時に、まず解決しようとし、思いを巡らし、動き回る。
しかし、どうにもならず壁にぶつかり、思い煩い、不安と恐れに、どっと落ち込む。まず心を騒がせる前に、動き回る前に、「静まれ」と主は言われる。

この「静まる」事がないなら、焦って、空回りし、感情的に思いのままに、軽率に決断し行動してしまう事になる。肉で判断し、肉で動く事になってしまう。うすうす自分でも、これは違うのでは??と思っている。どのような問題であれ、まず主を仰ぎ、祈り、問題を主の御前に持ち出し、御言葉を求め、主のお心を求
めて行くことだ。

主がその問題を受け取り、あなたに御声をかけ、なすべき事を導いて下さる。事が起きた時、方策を巡らせそうになるなら「やめよ」まず静まって「わたしこそ神であることを知れ」。
-----------------
すぐに解決しようとするから振り回されてしまう。事が問題ではなく、問題を解決される主のご臨在をいつも覚えていたい。静まり主に尋ね、解決を与えられるまでじっと待つ経験を重ねて行きたい。


2010年09月16日(木)

「肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら・・肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」ローマ8:8


神は「祈れ」と言われるが、肉は「時間のある時に、祈れば良い」「もっと後で祈ろう。これを先にした方が効率が良い」と言う。神は「時を生かして用いなさい」と言うが、肉は「自分の好きな事をしたい、好きな事を楽しみたい」と言う。
神から「今、祈りなさい」との示しが来るが、肉は「さあ、テレビを見よう、今は疲れてるから、まずはくつろいで、休まなくては」と言う。肉は今が良ければいい、安楽でいたい。

「すべての事について感謝しなさい」との示しに、肉は「良い事があった時に感謝すればいいさ」そして良い事があった時には、らい病を癒された9人のように感謝しないで、自分の道に向かって行く。かと言って、試練の時には思いきり不信仰になり、愚痴と不満と反抗心で一杯になり、肉は何とどこまでも神に逆らう
事だろう。

神に敵対し、御心に逆らう。神に従う事を喜ばず、自分を喜ばせる。自分の好きなように、思い通りに歩みたい。御霊に、神の御言葉に導かれなければ、どこへ向かうかわからない。自己中心に生きようとする肉の性質が、常に自分の内にある事をよくわきまえて、絶えず御霊に拠り頼もう。

自分の力ではどうにもならない。御霊に拠り頼むなら、主の喜ばれる道を選び取れる。祈りが力だ。目の前の一つ一つを今日も祈って歩もう。主に呼ばわる時、主が答え、一つ一つを導いて下さる。
-------------
肉の声に従うとどうなるかは、既に経験済みだ。けれど常に葛藤しながら歩んでいる。祈らず動くのではなく、私たちの弱さも自我の強さもすべてをご存知の主に、従えない思いを告げてみよう。祈りの中で主が教えて下さる。


2010年09月15日(水)

「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」マタイ4:3


悪魔は、荒野で主を誘惑し、攻撃した。40日間断食し、まさに限界ギリギリの空腹の主に、そこの石をパンに変えて、パンを自分で作ればいいではないかと誘惑した。「このままでは確実に死んでしまう、神はパンを与えてくれないのでは?」との疑いを吹き込んで来る。「神に頼っていたら、与えられないんじゃないの?」「自分で何とかしないと死んでしまうのでは」と。「死んでしまったら、元も子も無いではないか」あなたにもこの誘惑がないか。

「神に頼っていたら、らちがあかないよ。祈りなんて時間がかかるし、さっさと自分でしてしまえば良い。すぐ出来て、スムーズに行くよ、それでうまく行けばいいじゃない」。「自分でやった方が早いよ。御心にかなった事なんだし」ここで死ねば、元も子もないではないか。自分の使命はどうなるのか。どうあっても、パンを食べて、とにかく生き延びねば。

神に頼り続けるなら、あたかも餓死するかのように錯覚させる。「自分で調達すれば?」<神のため>なんだからいいじゃないと、自分の判断で動き、自分の力で事を行なうように仕向ける。サタンの巧妙な誘惑だ。

どこまでも神の言葉の下に自分を置いて、従うことが信仰だ。神はパンを与えて下さる。パンがいのちを造るのでなく、神の言葉がいのちを造る。神への信頼を崩してしまおうとする、サタンの攻撃を見抜けるように。今、この誘惑が来ていないだろうか。
-------------------
サタンは神に背を向けさせ、御言葉を捨てさせるよう、生活習慣や、優先順位など、肉に一致させるように働きかけて来る。御言葉の下に自分を置き、御言葉に自分を合わせて今日もしっかり祈り立っていよう。


2010年09月14日(火)

「サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた『ここに、わたしがあなたに話した者がいる・・』」Tサムエル9:17

  
         
民は王を欲し、神に求めた。神がその事のリスクも告げられたが、構わずひたすら欲した。それで、神が民の言う事を聞き入れ、サウルを王に定められた。そして、サウルとサムエルの出会いが実に絶妙だ。サウルの父親の雌ロバがいなくなったので、捜しに出る。

サウルは捜し回り、ツフにまで至る。見つからず帰ろうとすると、連れの者が、丁度この町に神の人がいるから聞こうと提言する。サウルは同意し、町へ入ると水汲みの娘達がいた。尋ねると、その神の人は丁度今日、町に来て、今からいけにえをささげるところで、すぐに行けば会えると告げた。

そこで、進んで行くと丁度ピッタリのタイミングで、サムエルに会えた。サムエルはその前日に、一人の人を遣わすから君主とするよう、御告げを受けていた。雌ロバ捜しからの、一つ一つパズルが埋まるようにすべての時機がピッタリだ。

あなたも、時や事柄がピッタリのタイミングで運ぶ経験があるだろう。それはまさに主であり、主が働かれ、導かれているという事だ。主の導きは環境からもわかる。今、導きを求めているなら、環境もしっかり見張っていよう。
御言葉と祈りによる平安と、環境を通して、主は私たちを導かれる。御心なら、必ず門が開かれ、前進して行ける。
-----------------
絶妙のタイミングで門が開かれて行く時、私達はそこに神様を見る。そして自分の人生の主導権は、私ではなく神様がしっかりと持っていて下さる事を知る。栄光を神様に帰して行く者になりたい。


2010年09月13日(月)

「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」マルコ4:38  


弟子達は湖で嵐に会った。それは、身の危険を感じるほどの強烈な嵐であり、恐怖で右往左往する中、主は、と見ると、こんな嵐の中で眠っておられた。平然と熟睡している主に、弟子たちは「私達が溺れ死んでも何ともないのか」と叫んだ。水が小舟いっぱいに浸水して来て、このままでは舟は沈んでしまう。
水をかき出し、舟を立て直すのに必死だった。

こんな時に寝てないで、何とかして欲しい!と思っての言葉だが、弟子達の態度は、主を主として崇め、へりくだった求めではなかった。「自分の願いを、自分の思い通りに叶えよ!」と、主に命じている自己中心な信仰だ。

私達はどうだろう。自分の願い通りに叶えてくれる神、自分に良くしてくれる神、それを求めて神を崇めているのだろうか。そうであれば、実は自分が主で、自分の願望充足のための神を求めている事になる。神に仕えるのでなく、神に仕えさせようとしている。「主よ、何とも思われないのか」は、「助けるべきだ、助け
て当然、助けろよ」と言う事になる。

罪の性質ゆえ、信仰においても、どこまでも自己中心だ。嵐により、様々な出来事により、こんな自らが砕かれて、自分の信仰の本当の姿を見せられる。そして、気づきが与えられ、正され、変えられて行く。自己中心から神中心の信仰へと、様々な出来事を通して、成長させて下さる。それに気づかせるために、目の前の
事態を通しておられる。
----------------
問題を通して変えられるのはいつも自分でありたい。問題が起こる度にあれこれ思い煩うのは、自分の都合の良い結果が欲しいのではないか、主に信頼していないのではないか、いつも目の前の出来事を通して自分の思いを主に新しく取り扱って頂きたい。


2010年09月12日(日)

「しかし今、こどもは死んでしまった・・・私はあの子のところへ行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」Tサムエル12:23


ダビデは病気の我が子のため、断食して、切に癒しを祈り続けた。必死であった。
しかし、その願いは叶わず、子供は死んでしまった。すると、その死を知ったダ
ビデは、意外な行動を取った。身体を洗い、着物を着替え、主の宮に入り礼拝し
た。そして、食事を取ったのだった。

王を見ていた家来達は非常に驚いた。あれほどまでの切なる願い、子供を思う心、
しかるに、その子供が死んでしまった、その悲嘆は一体どうなるのだろうかと。
ところが、子供が亡くなるや、起き上がり、食事をするとは。ダビデは主からの
御心を受け入れた。

私達も様々な事態の中で、このダビデから学べる。自分の願いがある。その願い
は願いとして、主に祈り求めるべきだ。何も思い煩わないで、ことごとく心の願
いを、求めを主に告げよと言われる。主に願って行って良い。願うべきだ。

しかし、時にその結果が自分の願いと異なる場合がある。自分の思い通りでない
事がある。「イエス」だけでなく「ノー」の答えがある。それは、どんなに強い
願いであっても「ノー」が答えであり、それが主の御心なのだ。

その時は、その「ノー」をダビデのように受け入れる事だ。ダビデは潔かった。
「ノー」の答えを受け入れた。今、「ノー」の答えを受け取っているだろうか。
主の御心として厳粛に受け入れよう。受け入れられないなら、そう出来るよう祈
ろう。「ノー」を受け入れる事により、そこで主を新たに知り、霊的に大きな前
進を見る。

・・・・・・・・・・・・・・・・
主の御心は一つであり、自分の思いとは違う事をしばしば経験する。自分には自
分の思いが最善にしか見えないが、主のみ思いは異なり、主の道はもっと高い。
遙かに素晴らしい、良き別の道を、すでに用意して下さっている。


2010年09月11日(土)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる・・」Tヨハネ5:14

ある人が病気になった。友人が「信仰があれば絶対に病気は直る。疑わないで直
ると信じて神に祈ろう」と言った。しかし、その人の病気は直らなかった。その
人には「信仰」がなかったのだろうか。

絶対に疑わないで信じる、ということが無かったのか。「信仰」を、絶対に疑わ
ないで「思い込むこと」と勘違いしてはいけない。とにかく一分の疑う事もなく、
必死で思い込むことが信仰なのではない。それなら、いわしの頭を信じる事と、
なんら変わりなくなってしまう。

自分の思い込みは、信仰ではない。勝手に都合の良い御言葉を取って来て、成就
すると「思い込むこと」は信仰ではない。それは成就しないので、自分でもわか
るが。

信仰とは、神のお心、ご意志がすべてであり、自分の思いでなく、神の御心を求
めて行なって行くことだ。自分が良かれ、これが最善と思うことと、神のみ思い
は、時にかなり違っている。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わ
たしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」神の道は遙かに高く、み思いは高
い。

私たちの遙か先をも見通しての御心ゆえ、私たちの理解を越えていることもしば
しばだ。自分の思いとは、大幅に違う事を認識していよう。
「初めに神」「神から発し」の通り、「初めに自分」「自分から発し」で無いな
ら、必ず「神によって成り、神に至る」そして、神の栄光が現れる。「初めに自
分」で、動き回っていないか省みてみよう。

・・・・・・・・・・・・・・
自分の思いを遂げる事ではなく、神のみ思いに、自分を沿わせて行くことが信仰
だ。自分の思いはあるが、神のみ思いと違っているなら、自分の思いを軌道修正
し、神のお心に合わせて行く。その時、その願いは、すでに答えられたと知る。


2010年09月10日(金)

「あなたは、わたしに従いなさい」ヨハネ21:22


フィギュアスケートの試合で、時に選手がヘッドホンをして、順番を待っている光景が映る。他人の点数を聞いて心を騒がせないためだ。心を乱すことなく、自分の演技に集中できるようにと。他人の演技により自分が影響されてしまい、他人の出来、不出来で心が動揺し、本番で緊張の余り、ジャンプで転倒してしまう
ケースがよく見られる。

様々な思惑が入り、演技に集中できない結果だ。せっかくの普段の積み重ねた練習で培った力が十分発揮できない。自分の歩みが、他人により変えられてしまっている。私たちの信仰人生も同様だ。人と比較するのでなく、自分に与えられた主の御心を行って行くところに、喜びがある。

人と比べてはコンプレックスで落ち込み、不満を募らせ、勝ち負けに走る。どこまでも競争相手が、自分を量る基準になってしまう。人によって、自分が左右される。虚しい愚かな生き方だ。主はそこから解放して下さった。人との比較ではなく、自分に与えられたものを、主のために十分に発揮して行く。そこに競争相
手は存在せず、どこまでも主と自分との関係だけだ。

そして、そこには真の喜びがある。優越感から来る肉の喜びではなく、御霊の喜びだ。比較から解放されるのは、「わたしに従いなさい」と言われる主だけを仰ぎ、主に従い、常に日毎に与えられた御心を一つ一つ行って行くことだ。そこに自由と喜びがある。
-------------
人との比較によって自分の感情が肉に支配され動揺してしまう場面は、日常的にやって来る。その度に、このみことばを自分にメッセージしていたい。肉の比較に一喜一憂する自分を、主よ主との関係へ引き戻して下さいとすぐに祈ろう。


2010年09月09日(木)

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」イザヤ53:5


ある男性が、過重労働状態の中、疲労がピークに達していた。そんな中、少しまとまった休暇が取れた。しばし休息ができる事に、大変喜んだ。その休暇に入った途端、バッグをどこかに置き忘れてしまった。自分が行った場所、通った道筋をすべて探し回った。あちこち電話もし、確認したが見つからない。

カード類はすべて差し止め、対応に奔走、ひどく疲れた。財布にはかなりの金額が入っており、がっかり意気消沈した。免許証はどうしても困るので、再発行に出かけた。バッグは見つからず、行ったり来たり、走り回り、ぐったり疲れ果ててしまった。

せっかくの休暇が、更に疲労してしまい、これは一体どういう事なのか、主の御前に心を静め、祈り、御心を尋ね求めた。その時、どんなに物理的に時間があったとしても、主の平安が心になければ、何にもならない事を思い知らされ、教えられた。主の平安がどんなに素晴らしいもので、感謝な事かに改めて思いが至っ
た。

私たちも同様だ。どれほど休暇があったとしても、主の平安無く、思い煩いで一杯なら休養にならない。主がすべての思い煩いと心配を受け止め、主が与えて下さっている平安に今一度感謝しよう。そして、平安のための十字架を覚え、いっさい主に心配をお委ねしよう。主は私たちに、平安をもたらすために、十字架に
かかって下さった。
-----------
状況も見えるが、私たちは目に見えない主の十字架も知っている。主がそのうち傷のゆえに与えて下さった平安を求めよう。混乱、状況に飲まれそうになる時、ただちに、神様、平安を下さいと祈ろう。


2010年09月08日(水)

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32



ある人の夫がギャンブルにのめり込み、夫婦は衝突し、喧嘩の無い日は無かった。夫婦仲はどんどん悪化して行った。夫のギャンブルは更にエスカレートし、やがて給料全部を持ち出すようになった。当然、生活が不可能で離婚問題になった。

妻は実家に戻り、悩みで悶々状態の中、心の支えが欲しくて教会に行ってみた。御言葉を学ぶ中で、光に射されるように、自分の姿が見えた。夫は悪、自分は義と、夫を見下し、裁き、軽蔑し、自分が神となっている恐るべき高慢を。御霊に示され、恐ろしくて身体がブルブル震えた。

見た目には誰の目にも、ギャンブル狂の夫が悪い、しかし、夫はギャンブルをするだけだ。自分の心の内の罪の方が遙かに陰険で悪質、傲慢。夫など問題でなく、自分の心の奥底の罪深さにおののいた。主の御前に心底悔い改めた。そして、夫にも自分の高慢を心から謝罪した。ただただ赦して貰いたいばかりだった。

問題は夫だけでなく自分にもあった事に気づかされたのだ。自分が夫を見下し、軽蔑する事が、更に夫をギャンブルへと追いやっていた事に。夫がギャンブルをするなら、それでもいいと思えた。自分の心が全く変えられた。すると、不思議な事が起こり、夫のギャンブルが止んだ。夫は教会にも来てくれるようになり、
もう趣味程度になってしまった。御霊の光だけが、真理を明らかにし、そして自分を真理に導いてくれる事を知った。真理により自由にされる。
-------------
十字架により赦された自分の罪がどんなに深いかを知る時、悔い改めに導かれ、心に変化がおきる。それは真に神様の恵みだ。どんな状況にいても真理により光の中にいるなら、平安で、感謝でいられる。


2010年09月07日(火)

「地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」T列王19:12   


             
バアルとの戦いで、大々的勝利を遂げたエリヤが、イゼベルのエリヤ殺害の脅しに怯えて逃亡した。あれほどの戦いに勝利したエリヤが、信じられないことだが、霊的勝利の後は、特に危険と言われている通りだ。特別にサタンの攻撃と誘惑が臨む。特に大勝利の後こそ、身を引き締め、慎み、へりくだって、いっそう神に
拠り頼む必要がある。

あの信仰と祈りで戦った勇敢なエリヤが、恐れで、怯えて自分の命を救うために逃げたのだ。この事の原因は、イゼベルの言葉だ。神の言葉よりイゼベルの言葉を受け入れてしまった。どの言葉を聞き、どの言葉を拒否するかは極めて重要だ。

その言葉に自分が支配され、動かされてしまう。私たちは心にどの言葉を入れているだろう。神の言葉か、ネガティブな肉の言葉、サタンの言葉だろうか。神はエリヤを眠らせ、食事をとらせ、十分な休息を与えられた。身体の回復を与えられ、ホレブの山に向かわせ、山の上で主の前に立つように命じられた。

激しい大風、地震、火の後に、かすかな細い声があった。エリヤはその細い御声に耳を傾けた。神は、自分一人きりになったとのエリヤの思い込みの間違いを正し、エリヤに新たなる使命を与えられた。死を願っていたエリヤが再び、神の使命を遂げるために立ち上がる事ができた。

スランプ、無気力から脱出するためには、神の御前に静まり、細い御声にじっと耳を傾けることだ。神との交わりから、新しい力が湧きいずる。もう一度立ち上がれる。
------------------
祝福の後には、サタンが来る。神様を見い出しあれほど密な交わりがあったのに、離れてしまったのではないかとの虚しい思いも来る。心に来るネガティブな思いを聞き流し、世の情報から離れ、いちばん大切な神様の細い御声をじっと聞こう。


2010年09月06日(月)

「あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます」詩編32:7


ダビデが姦淫と殺人の罪を犯したが、その後、自分は王でありトップだ、誰も何も言う者はいない。外側、罪を隠しおおして、口をぬぐっていた。しかし、ダビデの内側は惨憺たるものだった。一日中うめき、骨々疲れ果て、御手がのしかかり骨髄は夏のひでりでかわききった。平安の全く無い非常なる苦悶の中にいた。

神は預言者ナタンを遣わされ、その罪を指摘、ダビデは主の御前に罪を悔い改めた。この時、ダビデはバテシバのせいにせず、何の言い訳もせず、責任転嫁せず、自らの罪を認めた。これはダビデの素晴らしいところであった。罪は赦され、ダビデに全き平安が戻った。

「大水の濁流も、彼のところに届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます」との喜びが満ちた。罪の解決とは悔い改めしかない。幾ら自分で忘れよう、無かった事にしよう、気分転換すればと思っても、その苦しみ、うめきはどうにもならない。

「私のそむきの罪を主に告白しよう」その時、罪はおおわれ、完全に赦された。私たちもプライドがあり、自我があり、素直に罪を認められない。しかし、言い訳し、自己正当化している間は、神は働けない。「砕かれた、悔いた心」が神への一番の献げものだ。喜んで下さる。
-------------
御手がのしかかるのは、神の愛のゆえだ。愛されているから悔い改めへの示しを与えて下さっている。こんな罪など犯すはずがなかったのにと傲慢に思うだろうか。罪を犯すしかない者だと存知の神様に、何も隠さず、へりくだり悔い改めよう。


2010年09月05日(日)

「私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません」ローマ8:12


主は「何も」思い煩うな!と言われる。いっさい心配するなと。ところが、何も
心配しないなどと、無責任ではないのか。そんな事でいいはずがない。「自分
で」問題に対応し、処理しすべき、そのために、きちんと思い煩わないといけな
いのではないか。

無意識にそう思っていないだろうか。これは肉の思いだ。この思いに騙されて引
かれて行ってはならない。思い煩う人は、心の底を見ると、思い煩いが無ければ
不安であり、わざわざ思い煩いを引き寄せて来る。思い煩っていれば、肉は安心
なのだ。

私たちは「肉に従って歩む責任はない」。主イエスが、肉と同じかたちで十字架
につけられ、肉を処罰され、肉の責任をすべて主が受けて下さった。肉はすでに
片が付けられ、解決済みであり、だから、肉に従う理由も責任もない。

御霊の声だけに聞き従って歩めばよい。「何も」心配しなくてよい。こんな解放
があるだろうか。主は羊飼いであり、私たちは羊だ。必要なものすべては、羊飼
いが責任もって備えて下さる。

飲み水のある沢に、食物のある草地に導き、羊飼いは身を挺して羊を狼から守る。
心配は主がしていて下さる。

「神があなたのことを心配してくださるからです」私たちは心配する責任はない。
私たちの責任は、主について行くことであり、それだけだ。自分には、先は全く
見えないが、主は先を見通しておられる。何と安心で感謝な事だろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何もかもを、心配していて下さる方がおられる。目を注ぎ、配慮し、愛していて
下さる。だから、自分で心配する必要がない。私たちの責任は、その主に従って
行くことだ。一つ一つ主のお心に従う事だけを考えていよう。その一点に目を注
いでいよう。


2010年09月04日(土)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩編119:71 

                 
   
ある人が、当時、高度成長期で、まさに企業戦士であり、深夜帰宅に早朝出勤、
休日無く、がむしゃらに働いた。仕事の重圧にストレスは溜まり、過労でとうと
う限界で、心身に来た。眠れなくなり、眠剤に頼るようになり、わけのわからな
い不安、孤独感に襲われ、しばらく休暇を取り、通院した。

そんな時、誘われて教会へ行った。そこでの賛美歌、祈り、聖書の言葉、何もか
も初めてであったが、カラカラのスポンジが水を吸い込むように、心にしみ渡っ
た。何かわからないが安堵感があった。しかし、何でもよい、わらにもすがりた
かっただけで、自分の「罪」がわかってはいなかった。

ある日、「自分はだめ人間」との言葉が自分の口から出た。その時「それは恵み
ですよ」と、だめだからこそ、神の力を知れると言われ、カチン!と来たのだ。
だめ人間と、他人から同意された事に怒りが湧いた。口では言うが、自分はこれ
ぽっちも思ってなどいない。

その時、あぶり出されるように、自分のプライドが示された。自分の力で頑張り
に頑張って来て、人一倍高いプライドがあり、そのプライドが神を認めなくさせ
ていた。神など必要無いと思っている。それは自分が神であり、恐るべき高慢で
あり、それこそが罪であると示された。

人より優りたい、優位に立ちたい、勝ちたい、評価されたい、認められたい、今
までの人生、まさにそのためにだけ、生きて来たと気づかされた。心から悔い改
めた時、生まれて初めて心底の安堵を経験した。平安が臨んだ。人生が180度
変えられた。

・・・・・・・・・・・・・・・・
様々な苦しみに会うが、会って良かった、幸せだったと必ず言えるようにして下
さるとは、何と恵みで感謝な事だろう。苦しみが苦しみで終わらない。結果的に、
更に主を深く知るためだ。必ず「幸せでした」と言える、そこを見つめていよう。


2010年09月03日(金)

「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」マタイ2:3 


ユダヤの人々は、メシヤ到来を旧約の預言からよく知り、長い間待ち望んでいた。東方の博士達がエルサレムに着き「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」と問うた時、ヘロデは恐れ惑った。ヘロデが恐れ惑うのはよくわかる。新しい王が来たなら、自分の地位が危うくなる。

保身のためには身内まで殺したヘロデだ。ヘロデはわかるが「エルサレム中の人も王と同様であった」なぜ一般の人々が恐れ惑うのか。当時はローマ帝国が隆盛を極め、大帝国となり、ほとんど地中海一帯を支配していた。ユダヤもローマ帝国に占領されていたが、それなりの平和が保たれていた。自分の生活も安全も、まがりなりにも保たれている以上、それが乱される、余計な侵入者
は困るのだ。

私たちの信仰生活で、肉はそうだ。何が正しく真理であり、畏れなければならないかより、何が楽で、摩擦が少ないか。安楽でありさえすればいい、心乱されたくない。又、奇跡によりパンをくれるのは良いが、自らの人生の主となられるのは嫌なのだ。

誰にも干渉されず、自分の好きなように、思い通りに生きていたい。まさに肉の姿だ。御霊に従うところに、真の喜びがあり自由があり、平安がある。自らの内に、主を拒むものがあれば、そのところを明け渡して、従おう。従って良かったと必ず思える。
-------------------
頭ではわかっていても事が起こると、みこころを尋ねる前に、世の判断、常識が思いに来る。自分の思いを信じ摩擦の少ない方を選んではいないだろうか。たやすく肉に引かれて行く前に、正しく導かれる主に聞く時間を持ち、従える力を求めよう。


2010年09月02日(木)

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません・・自分の罪を告白するなら・・その罪を赦し」Tヨハネ1:8


時々、こういう人々がいる。妬みや敵対心が心にはしっかりあるが、それは決して外に出さない。相手にも向けないし、心の内で我慢し、抑えているのだから、むしろ自分は良い人だと思っている。これは信仰者になってからもあるかも知れない。

様々な罪の思いを抑え込む。外には出さない。だから、対人関係のトラブルは無い。そのため自分が自分に欺かれて、自分は良い人と錯覚してしまう。正直でないので、内側が混沌状態だが気づかない。御霊の促しや語りかけを無視しているので、その内、感じなくなり、わからなくなってしまう。これは最も恐ろしい状
態だ。

別の場合は、信仰者が罪な思いを持ってはいけないと抑え込む。抑え込むが、もぐら叩きのようにこっちから、あっちから出て来る。尚もそれをむりやり抑え込んでいると、許容量越えた時に必ず爆発する。信仰とはそうではない。自力で抑え込むのではなく、思っていない振りでごまかすのでもなく、又、弁解や言い訳
に終始するのでなく、それが自分の思いである事を、正直に認め、告白し、そのつど神に明け渡して行くことだ。それをずっと繰り返し続けて行く。

そうする時、常にありのままでおれて、且つ神は変えて行って下さる。「あくまでもそれを続けなさい」続けて行くことだ。自力でなく御霊によって、変えられて行っている自分を、必ず発見する。
--------------
自覚している罪していない罪、たくさんの罪を犯しながら生きているが、隠そうとすることが罪だ。神様は、それをご存知で赦そうと待っておられる。罪は告白し赦しを受けよう。示されていない罪や見ないふりをしている罪も示され、いつも神様と良い関係でおれますように。


2010年09月01日(水)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり」エレミヤ29:11


ユダヤの民にとって、バビロン捕囚は、国を追われ、捕らえられて行く事であり、状況だけを見るなら、絶望のどん底であり、暗黒であった。どんなに悲惨な事であったろう。それは艱難であり、苦しみであり、混乱であった。

しかし、結果的に見れば、それは将来と平安と希望であった。なぜなら、ユダヤの民は、捕囚の試練により悔い改めて神に立ち返れたからだ。厳しい辛い試練であったが、信仰を回復する事ができた。エレミヤの預言通り、70年後にエルサレムに帰還する事になる。神の大きな奇跡が成し遂げられる。

「あなたがたのために立てている計画」、バビロン捕囚は不運で起きた事でなく、人間のわざでもなく、神の御手による計画だと言われる。それも見えるところは絶望と大混乱に関わらず、将来と平安と希望のための計画だと。

縦糸と横糸が織りなされて、綺麗な素晴らしい織物が出来上がるように、神は艱難の中で、苦しみの中で練り込み、御霊と一つにして行って下さる。

私たちにも、突如の試練が降りかかる。ある日突然気がつくと、厳しい苦しい辛い事態に遭遇する。しかし、信仰人生で起こる一つ一つの出来事は、偶然でなく不運なのではなく、すべて神の綿密なるご計画だ。
----------------
すべての起こる事は神様からと認めて生きる事が信仰生活。この世でたった一人であるかのように、私を今も愛し導いておられる。どこかを削り、砕き、自分で生きる者から神様に頼る平安を与えるためのご計画だと、しっかり受け止めて生きて行きたい。