2010年10月31日(日)

「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから」Uサムエル16:11

人は、自らの非を認め、改めるということは、非常に難しいものである。決して
誤っていると思わないし、認めない。自分の行動を肯定して生きている。間違い
を認める事は痛みを伴うので、自分の内で、言い訳し、自己正当化する。

又、あいまいにし、神に向き、自分に向き合う事を決してしない。逃げて、避け
てしまう。ダビデ王が、息子アブシャロムの反逆に会い逃げる時、シムイがダビ
デに石を投げつけ、嘲り呪った。

家来たちがシムイの首を跳ねましょうかと言った時、その非難と呪いは、罪を犯
した自分に対してのものであるから、呪わせよと命じた。すべてを主に委ねて
「主は私の心をご覧になり、今日の彼の呪いに代えて、私に幸せを報いてくださ
る」と言っている。

ダビデは自分の罪をはっきりと認めている。そして、罪の結果である刈り取りを
受け入れている。蒔いたものは、必ず刈り取る。これに例外は無い。私たちは、
自分が蒔いたものを刈り取る。罪は完全に赦されるが、刈り取りをして行く事に
なる。

非常に痛く辛い。しかし、神の刈り取りを受け入れ、従って行く事こそ、一番の
祝福の道だ。ダビデは神の御前に悔い改めたので、神との関係が、まっすぐで正
しかった。それゆえ平安であった。神との関係が正しかったからこそ、自分への
非難や攻撃も受け止める事ができた。神と自分の正しい関係が第一だ。

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神と正しい関係にある時、人からどう言われようと、立っておれる。自分自身は
平安を与えられているからだ。ダビデは、シムイを放っておくよう、呪わせてお
くようにと言う事ができた。ダビデの平安を誰も奪う事は出来なかった。この平
安の中にいよう。


2010年10月30日(土)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3


ある人が、職場に嫌な相手がいた。しかし、クリスチャンなので、そう思う事は
非常にとがめを感じた。良いクリスチャンでありたい。だが、相手を見ると憎し
みが湧き上がった。でも、いけないと心で葛藤し、愛の行ないをしようと頑張っ
た。

礼儀正しく振る舞い、外側を繕った。しかし、頑張れば頑張るほど、ストレスは
大きく溜まって行った。悪口は、決して自分からは言わないが、同僚達の言う相
手への悪口、噂話に、しっかり心で同調して、ストレスを発散させていた。

一生懸命に努力するが、決して御霊の実、愛の実を結ぶ事はなかった。逆に内に
こもり、陰険、陰湿になって悪い実を結んで行った。これは内側の問題にきちん
と向き合わずに、外側ばかり良くしようとする事だ。内側が問題なのだ。

行ないを頑張るのでなく、まず、神の御前に、自らの裁く心、憎しみ、敵対心を
認め、告白する事だ。自分の罪に直面し、罪として認める事だ。それは自分と神
との関係であって、相手はいっさい関係がない。

自分と神との間の罪の問題を、主の血潮に拠り頼み、赦しを受け取り、神との正
しい関係になる時、癒されて行く。内側の罪を、外側の行ないでごまかしてはい
けない。ますます悪化する。まず自らの心のありのままを、神の前に向き合おう。

・・・・・・・・・・・・・・
愛さなければ、とがめが来るので、何とか頑張るが、内に平安は無い。自分が相
手を裁いているので、心が辛い。主との関係がすべてであり、まず相手を裁いた
事を悔い改める時、主と正しい関係になり、自分自身は平安になる。


2010年10月29日(金)

「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者・・」ヨブ1:8

ヨブはある日突然、何もかもを失ってしまった。持ち物を盗まれ、しもべ達は殺され、若者達は焼け死に、大風で家が倒壊し、子供達が全員死亡してしまった。又、ヨブ自身も身体中に悪性の腫瘍ができ苦しんだ。それは死を願うほどの苦痛だった。

ところが訪ねて来た友人達は「さあ、思い出せ。だれが罪がないのに滅びた者があるか」と、これらはヨブの罪のゆえの苦しみだと、傷口に更に塩を塗って苦しめた。罪を捨て、不正を捨てるなら、苦しみは去ると。しかし、神は最後に友人達を怒り、叱責された。「わたしについて真実を語らず」と。

ヨブ記を読むと、ヨブの罪の結果、様々な苦しみが来たのではない事がよくわかる。しかし、自分に苦しみが襲うと、因果応報と思ってしまうクリスチャンは多い。悪い事をした罰だと思う。あの事か、この事か、更に恐れと不安に陥る。私達の中に培われた、平穏無事が善で、痛み苦しみは悪との価値観だ。

祝福と痛みは相容れないのだ。しかし、神は信仰人生には、数多くの痛み苦しみが来ると言われる。苦しみや痛みは罪ではない。決して罰などではない。私達の益のためだ。それらを通して、どんなに神に近づけられた事だろう。

神に拠りすがり、忍耐が与えられ、信仰を強められ、神を新たに経験した。「うわさを聞いていたが、今、この目であなたを見た」と告白したヨブのように。
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神様を近く知る事もなく平穏無事に過ごしたとしても、心には多くの不安が来る。逆境も順境も全ての出来事のその上に神様を見ておれる事が一番の幸いだ。神様のご計画を私達の価値観で推し量らず最善を信じていよう。


2010年10月28日(木)

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」ヘブル6:1


「乳ばかり飲んでいる者は幼子」であり、乳とは「神のことばの初歩」だとある。幼子は固い食物を消化できないので、乳を飲む。生まれたばかりで、乳を飲むことは当然で正常だ。生まれてすぐに固い物を食べるなら、消化不良を起こし、胃腸を傷めて、むしろ害になる。

しかし、いつまでも大人になっても乳だけを飲んでいるなら異常事態だ。柔らかい乳のような言葉だけを求めるのが、霊的幼子だ。聞きたいのは神の愛だけで、義の教えや試練は聞きたくない。神に愛されている、それがすべてだ。しかし、神は厳しい訓練、鍛錬、砕き、聖化を備えておられる。

又、幼子は自己中心だ。自分中心に世界が回っている。自分の思い通りにならなければ泣きわめく。自分を通す。乳児は固い食物が食べられないように、従いたくない言葉は吐き出す。自分が受け入れられ、認められ、愛されたいばかりで、自分を捨てる事や、神の栄光など思いが至らない。何が神の御心で、神に喜ばれ
るのかがわからない。

幼児性は無いだろうか。すべての人が大人へと成長する事が神の御心だ。自分の都合に御言葉を合わせるのではなく、御言葉に自分を合わせ、自分を従わせて行くことだ。自分を砕いて御言葉に従う時、自分が変えられて行く。必ず一歩一歩成長して行く。
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従おうとする時の肉との葛藤や砕きを避けて、いつも喉越しの良い乳のようなみ言葉だけを食べていては、経験により良い物と悪い物を見分ける大人への成長はない。初歩の信仰から成熟した大人の信仰へ進みたい。


2010年10月27日(水)

「彼らは信仰によって、国々を制服し、正しいことを行ない・・また、ほかの人たちは・・拷問を受け、石で打たれ、牢に入れられ・・」ヘブル11:33


ある人々には、奇跡がなされた。ししの口がふさがれ、炎の中にいながら焼かれず、剣の刃から守られ、戦争をすればどんどん勝利し、死人がよみがえらせられた。しかし、別の人々は、拷問を受け、牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で殺され、奇跡は起きず死んで行った。

同じ信仰の勇者にこれらの人々が記されている。ある人は奇跡で命が救われ、別の人は殉教して行った。これは神が全主権を持たれ、御心を行われるという事だ。どちらの結果も、神の栄光のためだ。ある人が病を患い、経済的にも困窮し、今日の糧にも困る状況だった。神にお委ねし、ただ神に頼り、祈り求めた。

ところが奇跡は何もなく、更に窮状が続いた。祈りが積まれるが、病気が治るとか、お金が与えられるとかは、何も起きずどん底になって行った。しかし、そんなどん底で、不思議な事に、心に感謝が溢れ、喜びが満ち溢れた。それは自分ではなく、御霊からのものだった。状況はどん底なのに、内側から感謝が溢れるの
だ。

最悪の中で、感謝と喜びに満ちている彼の姿に、周囲の人々は信仰に火がつき、リバイブされて行った。ある人はそんな彼により、生涯の信仰が定められ、牧師となって行った。神はご自身の望む通りに御心をされる。どうであれ与えられた状況で、主に従おう。周囲にも神の栄光が現される。
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何の実もないとしか見えなくても、神は必ず最善をなして下さっている。今はその途上だと期待と希望をもって歩もう。目に見えない約束を握りしっかりと立っているか、それだけがいつも問われる。


2010年10月26日(火)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16


神がもうひとつよくわからない、何かが足らない、内に満ちていない、神を信じているはずなのに、心は虚しい。何か喜びがない、平安もよくわからない。心に「おおい」がかかっている。何だか神がよく見えない。何か心に薄い幕がかかっていて、神と自分の間をさえぎっているように感じる。

そのおおいは、「主に向く」時に、取り除かれる。「おおい」とは何だろう。エバがエデンの園で、蛇の誘惑を受けた時、神を捨て、自分が神となり、自分の力と判断と知恵で生きて行く事を選んだ。神中心でなく、その「自分中心」がおおいとなって妨げて、神が見えない。自分のために、自分の力で、自分の思い
通りに生きて行こうとする途端に、神が見えなくなる。

又、状況や、目に見える所だけを見ている時、状況がおおいとなって、神が見えない。主を見るためにも、自らの心のおおいを知るためにも、御霊の助けが必要だ。自分ではどうにも出来ない。まず、主に向けるよう、御霊の助けを求めて祈ろう。御霊は妨げているものを明らかにし、示して下さる。

自分自身が心の王座に座り、自己中心が神を見えなくしているのか、状況に飲み込まれて、神が見えないのか。あなたも、心に幕がかかっているように感じるなら、まずその事を祈ろう。主を呼ぶことから始まる。その心はすでに主に向いている。御霊が助け導いて下さる。
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確信もなくぼんやりしたままなら、そのままにせず主に祈ろう。自分にとらわれ、はっきりと主が見えていないとの気づきは感謝だ。主に向くなら主との正しい関係だ。主の十字架の恵みを見上げていよう。


2010年10月25日(月)

「『あなたの手にあるそれは何か』彼は答えた。『杖です』」出エジプト4:2


出エジプトのリーダーとして、「今、行け。あなたをパロのもとに遣わす」との神の言葉に、モーセはどんなに驚き、困惑した事だろう。「今さら何を?」かつて40歳の時に、彼は自信に満ち溢れ、イスラエルを救うのは自分とばかりに、勇み立ったが、拒絶され、ミデアンの地へ逃亡。40年の遊牧生活を経て80歳になっていた。

かつての野心も名誉心も独善的な正義感も失せ、羊を飼う歳月、家庭も持ち、平穏な日々に小さな幸せも感じていただろう。このまま静かに穏やかに人生を全うしたい。それに今やエジプトでの地位も力も何も無い。一介の年老いた羊飼いに何が出来よう。尻込みするモーセを、神もそれは承知だとばかりに、説得して行かれる。そして、羊飼いの杖を「それを地に投げよ」と言われ、地に投げると蛇になった。

次に「その尾をつかめ」と。荒野でモーセは蛇の恐ろしさを知り、尾をつかむ事がどんなに危険かを知っていた。神の命令に従い、信仰によってその尾をつかんだ。するとそれは杖になった。神の杖とされていた。その杖を手に取り、しるしを行なうよう言われた。

モーセは、神の杖を持ち、エジプトへ帰った。羊飼いの杖を神の杖として用いられるのだ。それは特別なものでなく、普段モーセが使っていた古びた杖だ。神は、すでにあなたの手にあるものを用いられる。一旦地に投げたように、それを献げる時、きよめて神の栄光のために用いて下さる。「あなたの手にあるそれは何か」
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もう少しあれが出来てから、これがあればと神様に自分を献げていく事に尻込みしていないだろうか。今手にあるもので十分と言われる。それ以上いらないとはなんと感謝な事だろう。信仰によって素直に差し出す心を神様が祝して下さる。


2010年10月24日(日)

「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです」ヨハネ7:6

「兄弟たちもイエスを信じていなかった」とある。兄弟達こそ毎日、主を見てい
た人たちだ。御言葉を聞き、様々な奇跡を目の当たりに見た。弟子たちより、更
に身近かにいた兄弟たちこそ、一番主を信じたはずでは、と思うがそうではない。

彼らは主を信じなかった。心の目が開いていないなら、どんな奇跡を見ても、神
を認めることはない。しかし兄弟たちも主のよみがえりの後、主を信じ弟子とさ
れた。

「わたしの時」とは、主の十字架の救いを成就する時だが、主にとってすべてに
「時」があった。神の時に従って生きられた。「あなたがたの時はいつでも来て
いる」とは、時は自分の所有物とばかりに、自分の自由きままに、好きなように
使っているということだ。

神の時というものは存在せず、自分の思った時が時であり、自分の意のままだ。
そこには「自分の時」があるだけで、「神の時」が見えない。神がどんなにみわ
ざをしておられても、見えない。神と共に生きる生き生きとした喜びも感動もな
い。

目が開かれるように、神を認めることができるように、祈ろう。日々の日常の中
に、神の「時」を見い出させて下さる。あの出来事、この出会い、この事とあの
事の関連の中に、丁度ピッタリのタイミングで働いておられる、神に出会う。喜
びが溢れる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
神を見上げ、「神の時」がある事をわきまえよう。神の時をじっと待つ必要があ
るかも知れない。それは「神の時」であり、「自分の時」ではない。「自分の
時」だけに目が行っていないだろうか。厳粛に神の時があり、委ねておれるとは
何と平安だろう。


2010年10月23日(土)

「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」T列王17:16



ケリテ川が枯れた時、エリヤは、主からシドンのツァレファテへ行くように告げ
られた。そこで、やもめ女に命じて養うと。主の言葉に従い、その町へ行くと、
やもめ女に出会った。そこで、彼女に水とパンを求めた。

すると、驚くべき悲惨な状況にあった。彼女は資産家などではなく、最後の一握
りの粉でパンを作り、母子で、最後の食事をして死のうとしているという、極度
に貧しいやもめであった。

エリヤは何と思っただろう。目の前の人物は、人を養う事など不可能な状態だ。
しかし助けを求めなければならない。何という状況だろう。人間的に考えるなら、
その最後のパンを自分にくれとは、とても言えない。

しかし、エリヤは見える状況でなく、情でもなく、自分の思いでもなく、御言葉
に従った。ただただ、主に従った。まず私に小さなパンを作り、その後にあなた
方のために作るようにと。そうするなら、飢饉が終わるまで、粉は尽きず油は無
くならないと。

人の思いや情は、神のみわざを妨げる。エリヤは御言葉に立ち、彼女はその言葉
に従った。すると、奇跡が起こり、やもめ女と子供は飢饉の間中、豊かに養われ
る事になった。

神を第一にする時、みわざを見る。自分の思いや情、見えるところが反対方向を
向いていても、神の言葉を選択し、従おう。その時、神が全責任を取って下さる。

・・・・・・・・・・・・
時に、自分の思いや感情、又、常識と、御言葉が相反する事がある。自分の思い
の方が良いように思える。それで御言葉を退けてしまう。しかし、見える所がど
うであれ、御言葉のほうに従う時、神の奇跡を見る。御声のほうを選択し従おう。


2010年10月22日(金)

「それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」ヨハネ9:39


「見える」と言うから「罪は残る」と言っている。安息日に病気の手当をする事は、仕事と見なされ、パリサイ人達は、主が律法を守らないと断罪した。「神から出たのではない。なぜなら安息日を守らない」と。彼らは神の言葉でなく、人の言い伝えを重んじ、それゆえ神の言葉が見えず、わからない。

主は「わたしはさばきのために来た。見えない者が見えるように、見える者が盲目に」と言われた。主に対してどのような態度を取るかが、結果的に裁きとなってしまう。主を受け入れるなら、永遠の命に。主を拒むなら、闇にとどまる事になる。すると、「私たちも盲目なのか」と聞いた。

「私たちは見えているのだから、盲目であるわけがない」と。自分たちはアブラハムの子孫であり、旧約聖書をよく知っていて従っている、よく見えていると。それに対して主は、自分にはわからない、自分には見えないと言えたなら、見えるようになる道筋にある。大きな恵みの中にある。

しかし、よくわかっていると思っているから、それこそが盲目状態なのだと。私たちも、自分はよくわかっていると思った時点で、成長はストップだ。実際は何もわかっていない、成長途上の者だ。わかっていませんと、絶えずへりくだる時、ずっと見せ続けて下さり、どこまでも成長して行ける。
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わかっていない事がわからないのは悲劇だ。何も教えられないのだから。神に対する求めも渇きもない。私達も見えているようで見えない者だ。事毎に主に求め主から受け、少しでも成長していきたい。


2010年10月21日(木)

「そのようなものは・・謙遜とか・・のゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」コロサイ3:23 


謙遜は、単なる自己卑下ではない。「ことさらに自己卑下を・・肉の思いによっていたずらに誇り」。自己卑下は肉のものであり、それは謙遜でなく、高ぶりだ。神の御前で、神に対してではなく、人前で、人に対してのものだ。自分をよく見せようとの肉であり、又、自己満足だ。パリサイ人も会堂や通りで施しをし、
通りの四つ角に立って祈った。

しかし、人に見せるためであり、肉の謙遜であった。肉の謙遜は、賢いもののように見えるが、肉のほしいままな欲望に、何のききめもない。主は謙遜であられた。その謙遜は、死にまで従い、十字架の死にまで従われた。主の謙遜は、従順にあらわされている。どこまでも御父に従順であられた。

謙遜とは、主に「はい」と言うことだ。主の御心に「はい」と従うことだ。自分の思いが強いと、なかなか従えない。自分のプランや自分の思いの方がどう見ても良いと思えるので、自分の道を行ってしまう。しかし、それは自分が主の上に立ち、判断していることだ。

又、謙遜は、悩みのまっただ中で、主を信じて、主に委ねて行く。主の力強い御手の下にへりくだるとは、思い煩いをいっさい主に委ねる事だ。神が心配し、責任を取って下さる。今、主は、あなたに「はい」を求めておられるだろうか。
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人前を誇っている自我がある限り、答えを握っている思いがある限り、真実に主だけに頼り、主の守りを信じ「はい」と言うことは出来ない。自分では何も出来ない、自分のプランも御心ならばと、一つづつ肉を主に渡して行きたい。


2010年10月20日(水)

「彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた」U歴代16:12



アサ王は最初はよく主に従った。偶像を除き、主の祭壇を新しくした。アサ王の心は主と一つであった。しかし、アサとイスラエル王バシャとの間に戦いがあり、バシャによりラマという所が奪われた。包囲状態となり、その時に、アサ王はアラム王ベン・ハダデに同盟を求めた。前回、クシュ人が100万の軍勢と100万の戦
車で攻めて来た時には、主に拠り頼み、主により勝利を経験したに関わらず、財宝を提供してアラムに頼った。

ベン・ハダデは町々を打ち、ラマを打ち取り、ユダ側に要塞を作った。戦いは勝利し、大成功だった。しかし、預言者ハナニは「あなたは主に拠り頼まなかった・・今から数々の戦いに巻き込まれる」と告げた。神は間違っている時に、人を遣わし警告される。表面的に見れば、大成功をおさめたが、主の御心からは外れ
ていた。私達も外側、うまく行っているかに見えるが、主の御心からそれている
時がある。

アサは重い病気にかかった。その時にも彼は「主を求めないで医者を求めた」。そして死んでしまった。的はずれに向かった。罪を悔い改めないなら、どんどん的をはずれてしまう。私達も、危機的状況に際して、主に頼らずに、人に頼っているだろうか。神ではなく肉の手段に頼っていないか。誰しも、目に見えるもの
に頼る弱さがある。今、あなたはどうだろう。主に拠り頼もう。
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全て主により与えられている事を忘れると高ぶりの誘惑が来る。主に尋ね、従う事から離れて内も外側も平安が無くなる。目に見える答えを求めず、すぐに主に立ち返ろう。御心の所にいる事が一番の安全、平安だ。


2010年10月19日(火)

「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」ルカ17:18



10人のらい病人が、主のもとに来た。当時、らい病は汚れた病気との事で、近寄る事は許されず、「私は汚れた者です」と自分で言わなくてはならなかった。病気の苦しみの上に、社会生活の道は閉ざされ、精神的な苦痛があった。主のもとへ来たのは必死な思いであったろう。大声で「どうぞ、あわれんで下さい」と叫
んだ。主はあわれんで、彼らを癒された。癒された10人の内、1人だけが主のもとへ戻り、あとの9人は帰らなかった。

病気が完全に治り、社会に復帰できて、自由に社会生活が送れる。生けるしかばねのようであった彼らから見れば、何と夢のような事だろう。9人は、何とラッキー、万々歳、良かったと、大喜びで世へ帰ってしまった。彼らにとっては飛び切りの幸運であり、偶然の事態であった。そこに神は無かった。

感謝するために戻った1人は、神への感謝と賛美と喜びで一杯だった。そこに神を認め、神を崇めたのだ。一人彼だけに、新しい信仰の人生が始まった。「あなたの信仰が、あなたを直したのです」神の愛に出会い、神の愛の中を生きて行く人生だ。何が肝心なのだろう。病気が治る事だろうか。「世の終わりまでいつも
あなたと共にいる」その幸いな喜びの人生へと招いて下さっている。いつも主と共に生きて行ける事の何という幸い。
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病気が治り、一次的な苦労が消えるだけが幸せではなく、神様に出会いその愛やいつくしみに触れながらこの先、永遠に生きて行ける人生が与えられた。その事が最大の喜びだ。その喜び恵みを、今日も味わいながら歩もう。


2010年10月18日(月)

「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」エステル4:14



エステルの物語は不思議だ。一つ一つの出来事がパズルのようにつながって行く。王妃ワシュティが退けられた後、エステルが王妃とされた。ハマンのユダヤ人への悪巧みをモルデカイが知った。モルデカイはエステルに王にあわれみを求めるよう伝えた。エステルの宴会への誘いを王は受け入れた。

その夜、王はたまたま眠れなかった。それで年代記を読んだ。そこでたまたまモルデカイの功績を知った。王はモルデカイに栄誉を与えようとした。王はエステルの願いに耳を傾け聞き入れた。どの一つが欠けても、結果が全く違ったであろう。ハマンの悪巧みは成し就げられ、ユダヤ人は虐殺されただろう。

ここに完璧に状況を支配しておられる摂理の神を見る。ルツの物語もしかりだ。ルツがナオミについて帰国したのが、丁度大麦の刈り入れの時だった。生計のため落ち穂拾いを始めると、ボアズの畑であった。又、丁度その時、ボアズがやって来た。

私達には偶然は存在しない。一つ違わず神の導きであり、神の配剤だ。神の配慮が私達の生活に張り巡らされている。過去を考える時、あの時も、この時も、時ピッタリの不思議な取り計らいを見い出す。完璧な御手の支配の中にある事を覚える時、思い煩いはいっさい不要だ。神のご計画がなされている。
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明日の事は見えないけれど神様の摂理の中で生かされている。目に見えないけど今を感謝し、満足し、必ず益とするご計画の中に置かれている事を忘れず、今日、示されたことに一歩従って行こう。


2010年10月17日(日)

「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ・・私は生きのびるだろう」創世記12:13

アブラハムは、自分の妻サラを「私の妹です」と、エジプトとゲラルにおいて、
1度ではなく、2度も嘘を言い、騙したと記されている。普通の書物であれば、
都合の悪い事は隠す。

しかし、聖書はアブラハムの失敗を決して隠ぺいせず、事実をありのままに記し
ている。信仰の父アブラハムも、スーパーマンではなく、完璧な聖人でなく、私
たちと全く同じ弱さを持った人間であった事がわかる。

私たちと同じように失敗し、しかも、その失敗を繰り返している。又、イサクが
与えられる約束があるに関わらず、神の時を待てずに、人間的な思いで、女奴隷
ハガルにより、イシマエルを産み出してしまった。

アブラハムの失敗に関わらず、神はアブラハムをそのつど立ち返らせ、アブラハ
ムに約束を成就された。約束通りにイサクが与えられ、神はアブラハムを大いに
祝福された。ヘブル11章の信仰の人々に名を連ねている。

私たちは失敗する。何度も失敗し、又、弱さゆえに同じ失敗を繰り返してしまう。
だからと言って、神は決して捨てられない。約束も使命も変えられる事はない。
私たちの弱さをご存じだ。ご存じの上で愛して下さっている。

自分はだめだと思ってしまうが、だめなのではない。主の十字架による豊かな赦
しが備えられている。どんな時も赦されて、尚も赦されて、生きて行ける。今す
ぐ、主のもとへ行こう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
失敗しない人はいない。人間である限り、必ず失敗する。7度を70倍にして赦
しなさいと言われた主が、同じように赦して下さらない事があろうか。何度失敗
しても、十字架の赦しを受け取り、感謝して、感謝して、前に進んで行こう。


2010年10月16日(土)

「というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」Uコリント12:9



ある人が神学校を卒業して、若くして牧師になった。志に燃えて、田舎の小さな
教会へと赴任した。それからの歩みは、全く思うように行かなかった。こんなは
ずでは無かった。働きは思いように進まず、数年で宣教活動に挫折した。

小さな群れを牧会する事ができない。問題に次ぐ問題で、更に問題は悪化の一途
をたどり、満々であった自信は見事に打ち砕かれた。何もどうにも出来ない、無
力な働き人である事に打ちのめされた。

とうとう行き詰まってしまい、失望落胆、脱力感におおわれ、もう牧師を辞めよ
うと思った。それまでの人生で経験した事のない苦しみの中で、もうだめだと思
った。ところが、そのどん底で、まさに主に出会った。

「神の賜物と召命とは変わることがない」。自分の力で、知恵で、突き進んでい
た自分の姿を見せられた。自分には出来ると思っていた。その高慢を砕かれた。
自分の無力を思い知らされた時、神のご愛のふところに抱かれている自分を見た。

自分が自分を支えるのでなく、神の愛が自分を支えていた事を知らされた。自分
はどうであろうと、決して変わらずに愛して下さっている神のご愛に触れた。砕
きは神の愛だ。自分でやっている間は、神がわからない。神を脇に押しやって、
自分が奮闘しているのだから。無力になった時、初めて神がわかる。挫折は大い
なる祝福だ。
・・・・・・・・・・・・・・
この世の、肉の、価値観は、出来る事が良い事なので、どうしても頑張ってしま
う。しかし、神の価値観は真逆で、無力が幸いだ。砕かれて自らの無力を知った
時に、神に出会う。弱くて良いとは何という平安、安堵だろう。


2010年10月15日(金)

「・・彼はそのもものためにびっこをひいていた」創世記32:31


ヤコブは、兄エサウから、煮物と引き換えに長子の権利を奪った。次に父を騙して祝福をも奪った。怒った兄の殺意のため、家にいる事ができなくなり、叔父ラバンのもとへ逃亡。その途上のベテルで、神に出会い、神の「あなたと共にあり、あなたがどこへ行ってもあなたを守り、この地に連れ戻す」との約束を受けた。

そして、ラバンのもとで、辛く苦しい20年の訓練の歳月を経て、神の示しにより帰郷の時を迎えた。ずる賢く、計算高く、人を騙し、押しのけるヤコブの性質は、狡猾なラバンのもとで苦難を経ても、何も変わらなかった。自我は強固だ。

だました兄の怒りを恐れて、怯え、あらゆる策を講じて、難を免れようとした。しかし、殺されるかも知れない、非常なる恐怖だけはどうにもならなかった。ヤボクの渡しで、一人で夜を過ごした時、神が臨まれ、ヤコブは神と格闘した。もものつがいをはずされ、びっこになった。杖が無ければ歩けない。ヤコブは全面
的に砕かれて、神に頼らなければ歩めないものにされた。

それこそが大いなる祝福であり、ヤコブからイスラエル=神の王子と変えられた。神は信仰人生でこの格闘を、砕きを備えておられる。それは親子、夫婦問題、対人関係の苦しみ、経済的苦境、健康の問題かも知れない。あなたの格闘は何だろう。神はそれを通してあなたを砕かれ、大いに祝福しようとしておられる。
------------
痛い苦しい格闘をしているのはなぜか、手放せない、神様にお任せできないで自分で握っているものが、自分を苦しめている。ヤコブのように砕かれ神様にしか頼る術がなくなる時、神様の祝福が臨みどんな中でも平安で、強く生きられる。


2010年10月14日(木)

「神の聖霊を悲しませてはいけません」エペソ4:20



御霊によって歩むとは、御霊に導かれ、御霊の満たしを受けつつ歩むことだ。すべて主を信じる者には、御霊が内住されている。御霊は信仰生活を教え、指し示し、具体的に導いて下さる。間違いの無い、確かな、導き手だ。信仰生活とは、日常生活の大きな事、小さな事、些細な事に至るまで、御霊に教えられ、示され、
導かれて歩む歩みだ。

日常の行動において「今、これをしなさい」と示されているのに「今は面倒だ。又、後で、出来る時に」と後回し、後回しにしていないか。「今、主との交わりを持て」との促しに「いや、疲れているのだからいい。休まなくては」御霊の示しなら、即、従う時、どんなに潤いと平安に満ちた幸いな交わりが与えられる事
だろう。みすみす恵みを逃してしまう。この良くない習慣は止めなければと、示されながら、「これくらいは」と押し切ってしまうか。

「きつい言葉、不機嫌な態度を謝りなさい」「優しい言葉をかけなさい」との示しもあるだろう。そんな御霊の示しや促しを無視する事は、御霊を悲しませる。
ないがしろにし、無視し続けると御霊を消すことになってしまう。御霊の声に敏感であろう。特に、罪は御霊を悲しませる。悔い改めよう。人を傷つけてしまったあの言葉、この態度、気づかされたなら、即、神に人に謝ろう。今、御霊の示
しがあるなら、従おう。
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御霊の導きの声に全く委ねて行動すると、心は平安で、そこに神様の栄光が現れるといった経験をする。御霊様は、いつも語りかけ導いて下さるが強く押し返す力もまた湧いてくる。御霊様の声を聞いたなら、その声に祈りつつ従って行きたい。


2010年10月13日(水)

「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14


ぶどう園の主人は働き人を募集した。早朝から5時まで5回も募った。最後の者など、もう仕事になどならない。主人は、彼らに最後までチャンスを与えたかったに違いない。最後の人々は怠けていたのではなく、仕事を求めていたが無かった。今日の糧が無い事を不安に思い、思い煩いながら、待っていた事だろう。

これは主人のあわれみであり、愛だ。夕方になり、主人は最後の者から順に、賃金を払うように言った。最初の者から払うなら何の問題も無かった。貰った順に去って行くからだ。それなら喜んで感謝して満ち足りて、最初の者達は帰ったであろう。ところがあえて、逆にし、皆に支払われた賃金を見届ける事になった。

最初から12時間暑さの中で働いた者と、1時間だけの者が同額である事に、不満と怒り噴出だ。どんなに働きたくても、雇われないなら働けない。主人が雇ってくれ、働けたこと、朝一番からその日の糧が約束されていて、何の不安も恐れもなく、安心して働けたこと、そんな恵みと感謝が見えず、すべて吹っ飛んだ。

主人は約束をきちんと果たし、何の不当な事もしていない。「あなたの目には妬ましく思われるのですか」。私達もどうだろう。「自分の分を取る」のでなく「自分の分を忘れ」、自分が何様と思い上がってしまう時、すべてが当然の権利となり、奢り高ぶってしまう。道をそれる。すべてが恵みから始まったことに、今一度立ち返ろう。
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神様が与えて下さっている自分の分とは何か。それは当然の権利ではなく、神様からのあわれみといつくしみに溢れた恵みだ。赦されるはずのない者が赦され、神様と共に歩む人生へと招かれた。人は関係ない。自分にして下さってる事だけを見ていよう。


2010年10月12日(火)

「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない」詩篇112:7



深夜に突然電話が鳴ると、もしや悪い知らせと、不安になった事があるかも知れない。ペリシテにイスラエルが打ち負かされた時、神の箱は奪われ、祭司エリの二人の息子が死んだ。エリがその知らせを受けた時、道のそばの席から仰向けに落ち、倒れて首を折って死んだ。悪い知らせを聞く時に、パニックになり、立ち
上がれなくなってしまうものだ。

しかし、ヨブは、全財産を無くし、子供全員が死ぬという、悪い知らせを聞いた時にも、立っておれた。その心が神に堅く信頼していたからだ。私達も悪い知らせを受ける時に、心備えをしておく事は大切だ。まず、独り子を賜うほどに、愛していて下さる事を信じよう。神は必ずこの事態も働かせて、益として下さり、
私達にとって最善の事をして下さると、心に定めていよう。そして、耐えられない試練は無く、逃れの道も備えられている事を覚えよう。

状況がどんなに大嵐だとしても、主に信頼する者を、この世のものではない「主の平安」で心を守って下さる。決して不運なのではなく、すべての事は、神の支配の中にあり、神のご計画とプログラムの中である事を覚えよう。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた主を見て、今こそ信仰を働か
せよう。状況でなく、状況を支配しておられる主を仰ぎ見よう。
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試練は必ず来ると覚えていよう。試練が来たならいよいよ私の番だと、必ず良くして下さる神様のご計画が始まったと、心騒がせずしっかり立っていよう。パニックにならず落ち着いて待つなら、神様が導いて下さるのがわかる。


2010年10月11日(月)

「今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着くところは死です」ローマ6:21


ある家庭で、家族会議を始めた。自分では全くの正論だと思い、一人が意見を言った。父親がやはり正論だと思い、それに反対した。すると兄がそれに反論し、当事者の肩を持った。すると、母親が全く別の意見を言い出した。皆が自分こそが正しいと思っているので、どんどん言い合いはエスカレートして、やがて争いになった。

その場に全く関係の無い過去の事、別の問題などが飛び交い、収拾がつかなくなり、切り上げた。怒りや攻撃心やいら立ちで全く平安が無かった。皆が平安失せ、暗たんたる気持ちになった。その後、それぞれ冷静になり、考えた。各々が、神の御前に悔い改めを与えられ、互いに謝罪し合った。その時、自分の思いでなく、神の御思いは何かに、視点を向ける事が出来た。

御霊の導きを求め、相手の気持ちを思いやり、再度話し合った。すると、一つ思いにされ、一致して平安の内に事態の決定に導かれた。そこに平安と潤いが来た。御霊の支配があった。「肉の思いは死」の通り、自分の思いを通して行くと、そこには何の実も無い。皆無だ。暗たんたる気持ちだけが残る。「自分は正しい」
こそ、まさに肉の思いであり、その行き着く所は死だ。「御霊の思いはいのちと平安」、神に視点を向けよう。いつもいのちと平安に導かれる。
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自分が正しいと思う時こそ、相手を攻撃する事にためらいがなくなる。御言葉の通り、それは死の選択だ。いのちと平安の御霊の実を結ぶ事になるのか、肉が勢いづく時に気づけ立ち止れますように。 


2010年10月10日(日)

「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし、主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:2

ある人が、対人関係において、自分は常にフェアであろうとして来たし、そうし
ていると信じていた。自分は人を偏見で見ていないし、そう見る人は間違ってい
ると思っていた。

しかし、ある時、御霊に心を照らし出された。自分の心の奥深くでは、自分はそ
んな人達のようではないと、優越感を持ち、そんな人々を見下している事に気づ
かされた。又、表には出さないが、心では差別をしている醜い自分に気づかされ
た。まさにパリサイ人の姿そっくりそのままだった。

神に反抗しているなら、まだわかりやすいが、表面的には、正しくあろうとし、
神の心にかなおうと、従おうとしているので、返って全く気づかない。御言葉と
御霊の光が臨む時、私たちも、心の奥底が見せられ、自分の本当の姿を知る。

愕然とするが、神はそんな事はすでにご存じの上で、愛して下さっている。神は
知っておられるが、自分が自分の本当の姿を知らない。試練を通して、行き詰ま
りを通して、本来の姿を教え、見せて下さる。

余裕のある時は、幾らでも自分を作れて、うまく見せられるが、切羽詰まった試
練の時に、全く余裕の無い時に現れる姿が、自らの本性だ。言い訳や弁解せず、
自分を正当化せず、その自分を認めて行く時、自分が変えられて行く。成長は常
に、認めるところから始まる。

・・・・・・・・・・・・・・
自分では気づかない「動機」を、御霊は照らし出される。心がザラつく時、何か
ひっかかる時、心の底を御霊に探って頂こう。反抗しているつもりは無いので、
返ってわかりにくい。自己満足、自分の栄光はないか。主はきよめて下さる。


2010年10月09日(土)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦は、その日その日に、十分あります」マタイ6:34

極度の心配性で、常に思い煩いに悩まされている人は多い。ああなったら、こう
なったら、ああでもない、こうでもないと、先に起こるかも知れない事を想像し
て、不安になり落ち込む。不安材料をかき集め、まるで現実であるかのごとくに、
最悪のシナリオが出来上がる。

しかし、想像であり妄想だ。現実に実際に起きていないのだから、神も、そんな
架空のものをどうにも出来ない。思い煩いを選んでいる自分の問題だと気づける
ように。明日の事は、先の事は、私達にはいっさいわからない。誰にも何一つわ
からず、見えない。

しかし、神を信じる私達は、明日に恐れと不安を見るのでなく、明日に、将来に
神の愛を見る。明日は、神の愛に包まれ、神のご計画の中にあり、神の御手の中
に堅く守られている。その事を心から信じる。見えない明日に、不安や恐怖では
なく、神の愛を見て、神の慈しみを信じる。これが信仰だ。

神の愛を信じて歩む時に、思い煩いの亡霊に惑わされない。そして、「神の国と
その義を第一に」神第一を心に据える事だ。自分を第一、神を第二、第三にする
事から、秩序が狂い、混乱し、思い煩いが生じる。
自分中心にするなら、不安と恐怖で、あらゆる事が思い煩いの種となる。自分で
自分を守らねばならないからだ。

神を第一にするなら、神が全責任を取って下さる。そこから平安と安堵と喜びが
来る。優先順位はどうなっているだろう。思い煩いではなく、明日に、神の愛を
信じよう。

・・・・・・・・・・・・・・
弟子たちは嵐の中、湖を歩いて来る主を「幽霊」だと思った。しかし、主だった。
明日は全く見えない。恐れと思い煩いの「幽霊」ではなく、「主」が向こうから
来て下さっている。向こうから来るものは、明日は、神の愛に包まれている。


2010年10月08日(金)

「そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。」ガラテヤ5:8


主に従い、御言葉に従おうとする時に、衝突して来るものがある。この世の価値観や、習慣、考え方だ。一見妥当に見え、常識的に見える。今まで叱咤激励の価値観の中で生きて来たので、自力で一生懸命に頑張るのが善であり、美徳だ。救われてまことの神に向き合うや、これまで以上に真面目に、忠実でなければと、
信仰生活とは厳しい修練だと思う。

自分の力で従うなら苦しいばかりだ。しかし苦労は美徳、苦しいのは当然、むしろ苦しいと安心感があったりする。修業している気になれる。特に日本人気質に合致する。これら世の価値観から来ている。

しかし、実は真理と真逆の方向に向かっている。それは神から出ていない。ここでは割礼の事が問題となっている。割礼によって義と認められようとするなら、恵みから落ちてしまっていると。何かをする事によって、神に認められようとする事は、もはや恵みではない。キリストから離れてしまっている。

信仰生活は、神に受け入れてもらうための苦しい修業でなく、すでに受け入れられ、100%の愛を受けているゆえに、喜んで、感謝して自由意志で神に従って行くものだ。「ねばならない」義務ではいっさいなく、「愛によって働く信仰」愛が動機であり、自発的な自由意志で仕えて行くものだ。そこには自由な喜びと平
安がある。
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「ねばならない」を重ね、自分で足固めし認めて貰おうとするのは美徳のようで、とても傲慢だ。神の恵みを無駄にしてはいけない。主の十字架により神の子とされ受け入れられているこの立場は変わらない。そこから今するべき事を見て行こう。


2010年10月06日(水)

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る」ヨハネ3:20

「人々はやみを愛した」とあり、人の古い性質は、罪を憎むのではなく、罪を愛する。肉とは、したくないが、罪を犯すのではなく、そうしたくて罪を犯している。誘惑に乗ってしまうのは、誘惑を拒絶するのでなく、本当はその誘惑の中にいたい。誘惑は甘くて心地良い。苦いなら誘惑になどならない。そこから出たくない。やみを愛する罪の性質だ。

ぎまんに陥らないために、「できない」のでなく「したくない」自分であると認める事。光でなく、やみを愛する古い性質が、自分の内にある事を認識しておく事は大切だ。又、自分は見える、わかっていると言う事は、光を拒む事になる。見えない事を決して認めない。

しかし、光を拒むなら暗闇の中で見えるのは自分だけだ。自己中心の世界の中で、絶対に自分は正しく、相手が悪いとしか見えない。真理を行なうとは、自分の罪を認める事だ。自分を正当化し、人を裁き、責める者である事を認める。その時、その人は光に出るので、神が見える。

光があり、神が見えるので、更に自分の姿がはっきりと見えて、悔い改める事ができる。全き赦しを与えられ、新しくされる。今、自分が正しいとしか見えないなら闇の中だ。光は、正しいと思っているあなたの真の姿を照らし出してくれる。神の前でのみ、本当の自分が見える。光は恵みだ。
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主が十字架で罪を赦して下さっているのだから、主の前に正直に生きよう。自分の内にある古い肉をしっかり愛している事、主のみこころより自分の思う結果が欲しくて委ねられない事、欠けのあるままの自分を認め、いつも光の中にいよう。


2010年10月05日(火)

「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたい・・私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか」マタイ20:2


主人は早朝6時から3時間おきに、労務者を雇った。夕5時に雇用の人々は1時間働いただけだった。しかし、主人は労働時間に関係無く、すべての人に同じ1デナリを支払った。早朝の人々は1デナリの賃金契約をし、それ以降は「相当のもの」と明確な契約は無かった。だから、主人は不当な事はいっさいしていない。

気前が良いなら、多く働いた自分達にはもっとくれてもよいとの不満だ。主人の心はあわれみだ。早朝の人は1日中希望と平安があった。1日働けば確実にそれ相当の賃金が入る。家に糧を持って帰れ、家族は喜ぶだろう。しかし、5時の人は、どんなに不安と思い煩い恐れの1日だったろう。家族にその日の糧が無い。
妻はどんなに落胆するだろう。どうすれば良いのだろう。不安は、いかばかりだったろう。主人は慈しみと憐れみで一杯だ。

主人のあわれみが現れた時、早朝の人々の妬みと怒りが露呈してしまった。肉は恵みに反発する。とんでも無い。パリサイ人は律法を忠実に行って来た。それが突然、行いは不要、信仰だけによる救いが来た時、反発し主を憎んだ。自分が否定されてしまうからだ。肉は行ないで認められたいし、評価されたい。自分の力
を捨てたくない。私達も恵みにより救われていながら、肉によって完成しようとしていないか。それなら十字架を否定してしまう事になる。
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私は何時から雇われた者だろう。ろくな働きも出来ないまま神のあわれみ恵みをただ受けている者ではないだろうか。もしそう思えないなら、その高慢な自分にも神のあわれみが注がれている事に感謝したい。


2010年10月04日(月)

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」箴言16:18


ダビデは王だった。最高権力を持ち、自分が一番上で、トップだ。何をしても誰も何も言う者なく、思いのままだ。権力に逆らうなら、どうなるかわからない。
周囲は本音をひた隠して黙し、ただへつらうばかりだ。自分の天下であり、どんなに居心地良い事だろう。

しかし、これほど恐ろしい危険な場所は無い。歯止め無く、いとも簡単に道を踏み外してしまう。ダビデは権力ゆえにバテシバを思いのままに出来た。そして、ウリヤ殺害という二重の大きな罪を犯してしまった。もし、権力の座にいなければ不可能な事だ。

長、リーダーの位置にいる者は、特別に気をつけなければ、へりくだって、わきまえ、畏れおののいて神に頼っていなければ、サタンの標的だ。サタンの思うままに餌食になってしまう。その地位を、立場を、「肉の働く機会としないで、愛をもって仕えなさい」の通りだ。

教会の責任持つ者が、信者になったばかりの者はいけない、高慢になり悪魔の罠に陥ると。人生で、順調に何もかもがうまく行っている時も同様に最も危険だ。
自分の力で成功したと錯覚し、慢心してしまう。人間は罪の性質があり、弱いので、悪魔の罠に陥り、罪を犯してしまう。成功すればするほど、ひたすらへりくだって、成功を与えて下さった神に感謝し、更に拠り頼もう。
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神様のあがないや恵みやから目を放すと自分ばかりが見えてくる。自分の力、自分の感覚で動き満足してしまう。全てのものに感謝し、いつも高ぶりやすい者で弱い者だと覚えていよう。


2010年10月03日(日)

「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから・・主は、きょうののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」Uサムエル16:12

シムイという男がダビデに石を投げ、ダビデを呪い、ウリヤ殺害の罪を罵倒した。
「血まみれの男、よこしまな者」と。「首をはねさせて下さい」という部下に、
主が命じられたのだから、放っておけと、ダビデは報復を許さなかった。

神からの懲らしめ、神からの訓練と受け止め、甘んじて受け入れたのだ。「私の
身から出た私の子さえ、私の命を狙っている」、シムイどころか、今や実子のア
ブシャロムすら自分に敵対している。それゆえシムイの呪いも、神から出たもの
と受け取っている。

何とへりくだった心と態度だろう。信仰に生きていたことだろう。「今日の呪い
に代えて、幸せを報いて下さる」、どのような悲惨な状況の中でも、状況を変え
ようともがくのでなく、神の前に、正しい心で、神に適った心でいるなら、それ
をも主が良い事のために計って下さる。

ヨセフの「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための
計らい」とされた通りだ。相手の悪意すらも、あなたのために益として祝福と変
えて下さる。

あなたの目の前のその事態を「神がされた」「神から出ている」と受け取る時、
誰もあなたを損なう者はない。誰もあなたを害する事は出来ない。あなたはキリ
ストのかたちへと変えられつつ、成長して行くばかりだ。

・・・・・・・・・・・・・・・
目の前の状況を見て、状況に振り回されるのでなく、神を見て、神に焦点を合わ
せる時、神のお心がわかり、どのような状況の中でも平安にされる。対人関係の
問題も、神から出ていると受け取り、受け入れる時に、御霊の平安が臨む。


2010年10月02日(土)

「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる」詩編6:9 

ダビデはサウル王に妬まれ、嫉妬は憎しみとなり、命をつけ狙われる。実際殺さ
れかけ、切迫した身の危険に、その恐怖、不安はいかばかりであったろう。又、
自分の実子からの謀反、敵対はどんなに心痛み、苦しい事であったろう。敵から
も攻撃があり、病にも陥り、身も心も絶体絶命の厳しい深刻な苦境だ。

ダビデは神の心にかなった人だった。信仰者になると悩みが無くなるのではない。
問題は必ず来る。私達は苦しくて、とにかくその問題が去る事を願う。ただただ
去って欲しい。しかし、苦しみの中でこそ、神が神であられる事を身をもって知
って行く。

ダビデは「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、なすすべなく泣い
て泣いて嘆いた。苦しみの中でこそ、神との深い交わりに入れられる。それは苦
しみの中でしか得られない。「主よいつまでですか、あなたは」と、ありのまま
の気持ちを神にぶつけている。順境の時には決して経験出来ない。

自分で何とかしようともがき、走り回るのではなく、問題をすべて神に持ち出そ
う。自分で当たると空回りだ。心を何もかもを注ぎ出し、苦しみ、悲しみ、辛さ、
痛み、怒りを神に告げ、神に寄りかかるのだ。神は受け止めて下さる。神との近
い交わりを経験する。そして、その祈りは聞かれる。

・・・・・・・・・・・・・・・
泣く声を聞かれ、切なる願いを聞いて下さる。苦しい時、辛い時、悲しい時、ま
ず主に告げ、訴えよう。感情をふつけ、気持ちもをことごとく打ち明けよう。自
分の本当の気持ちを正直に告げて行く時、環境はすぐに変わずとも、心は平安に
なる。


2010年10月01日(金)

「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」(詩篇37:7)



「主を待つ」とは、どんなイメージがあるだろう。店で並んで順番を待つとか、病院で呼ばれるのを待つ、又は、病気が回復するのを待つような、静かに、じっと待つという、穏やかな感覚で思うかもしれない。しかし、「待つ」とは、「女性が出産する時のような痛み」という意味がある。

主の御前に、静まり耐え忍んで主を待つとは、激しい苦痛の中で、神が良くして下さる事を信じて、期待し、期待し続けるのだ。ダビデは苦悩の中で、身に生死の危険が迫る中で、神と交わった。そして、心の内の何もかもを神に話した。
心の恐怖、不安、心配、思い煩い、何もかもを、心の底を主に打ち明け、そしてダビデは、深い痛みの中で神を期待した。

神は、常に正直な心を愛し、受け止めて下さる。神はダビデを受け止めて下さった。私達はどうだろう。現状を認めるのは、余りにも惨めで受け入れられず、傷ついていない振りをする。認めない。プライドが許さないのだ。しかし、決して振りをしてはいけない。逃げたり、避けたり、無視してはいけない。

自分が傷ついた事を認めない限り、癒しは無い。自分自身が正直に神に向かう時、神との間に信頼関係ができる。神は常に真実だが、こちらが真実に自分を表わさないゆえ、交わりが成り立たない。正直に気持ちを向ける時、神と交わりができて、神のお心を自分が知ることができる。
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私達は痛みの後に必ず神様からの思いを超えた祝福の答えがあることを知っている。痛みは依然としてあるが、やせ我慢するのではなく今の痛みを認知し神様に言っていこう。神様が必ず、時に応じた力を与えて下さる。