2001年11月30日(金)

「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか」(詩篇13:1)


 すべての運動選手はスランプを経験する
野球選手はヒットが打てない。バスケット
の選手はフリースローが入らない。水泳の
選手は記録が伸びない。バットを替えたり
フォームを替えたり泳ぎ方を替えたり、様
々な工夫をする。成功のためなら何でもす
る。クリスチャンも霊的スランプを経験す
る。祈りが壁に向かっているように味気な
く神に届いていると思えない。
聖書を読んでも心に響かない。字ずらを追
っているだけ。落ち込んで思い悩む。
負け試合を戦っているように感じる。
ダビデでもそのようなスランプを経験し乗
り越えた。まず自らの状態を正直な心の内
を神に打ち明け、御前に打ち広げる事だ。
そしてダビデは神の恵みに拠り頼み「私の心
はあなたの救いを喜びます」と神を賛美した
スランプの中にいるなら、神に心の内を訴え
よ。逃れの道がある。神に拠り頼み賛美せよ
主は必ず新にして下さる。


2001年11月29日(木)

「アジアでみことばを語るのを禁じられたので、フリキヤ・ガラテヤの地方を通った」(使徒16:7)


パウロは小アジアで伝道しようとの思いを
持っていた。ところが、聖霊によって禁じ
られた。それで、ムシヤへ行き、ビテミヤ
へ行こうとした。すると、またしても禁じ
られたので、トロアスに行った。
そこで、マケドニヤに行くように命じられ
た。それらの事を通して人生は自分の思い
通りに行かないことを学んだのだ。
私達は物事が自分の思い通りに行かないと
失望落胆する。また、苦々しい思いを持ち
反抗的になる。しかし、そうなる必要はな
い。なぜなら神のご計画は常に最善であり
私達が次善に見えるものが、実は最善なの
だ。だから、自分の計画通りにならない時
も、歩み続ける事だ。面前でドアが閉じら
れたら、開かれているドアを通って行けば
良い。思い通りに行かない時、失望でなく
みこころを受け入れ、開かれたドアから入
り歩み続ける事、真の満足と平安を見い出
す。しばしば、神の思いは人の思いと異な
り、高い。


2001年11月28日(水)

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる」(マタイ28:20)


 ある男性の小さな頃の記憶だ。家族で山へ
キャンプに出かけた。テントを張り食事を作
り楽しい時を過ごしていた。
山の奥のほうへ父親と昆虫を取りに出かけた。
川もあり、夢中で遊んだ。ふと気づくと父親
が見えず恐怖と不安で、父親を捜し走った。
実は父親はすぐ後ろにいたのだ。
恐ろしくて焦って走り出したところ、父親が
追いついき抱き上げてくれた。
言葉に表わせない平安と安堵に包まれた。
時に私達もこのようだ。世にどっぷり浸かり
自分の事に夢中になって、神を忘れる。
現状からふっと顔を上げると迷子になってい
る。神の御顔が見えない。神から離れすぎて
しまった。しかし、その間中、神は共におら
れる。神は御手を差し延べておられ、私達を
強い御腕で抱き、導き返して下さる。
もう一度、神の御手の中の自分を見出し平安
に包まれる。あなたは今、神から離れている
と感じているか。
神は変わる事なく共におられる。


2001年11月27日(火)

「彼は・・その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので彼について行きます」(ヨハネ10:4)


 ひとりの教員一年目の女性が大変な
苦労の末、一学期を終えた。
夏休みは待ち望んだ宝だった。とにかく
静かな時間が欲しくて、休息したかった
それほどに、心身ともに疲れ切っていた
そんな時、教会で三週間にかけて開催さ
れる夏期バイブルスタディに出席しない
かの誘いを受けた。正直に言うと気が進
まなかった。ただ休みたかったのだ。
しかし、聖書セミナーに出席するべきだ
との聖霊の促しを感じていた。
神が導いておられるのを感じ、出席した。
それは素晴らしいものとなった。三週間
のセミナーので、今までの信仰生活を振
り返り、自分自身をしっかり点検する中
で、さまざまな心の傷もあらわにされ、
神のもとへ持ち出し、癒しを経験し平安
に包まれた。新学期へ向けて心を新たに
し力を与えて下さるための神のご計画で
あった。神は羊飼いでありすべての面で
ケアをして下さる。導きに従う時、何と
完璧な答えを得る事だろう。


2001年11月26日(月)

「あなたのしていることは良くありません。あなたもあなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます・・重すぎるのでひとりでできない」(出エジプト18:17)


モーセが膨大なイスラエルの民を率いて
砂漠を進んでいた時、様々な数え切れない
もめ事、不満、問題が起こって来た。
人々はモーセのもとへすべてを持って来た
モーセはその対応で疲れ果てていた。
舅が忠告を与えた。仕事を人に委ねて、何
でも自分でしない事だと。ある宣教師がこ
の事から教えられた。アフリカで、英語を
教える仕事をしながら、宣教活動を始めた
一人ぼっちで孤独だった。その近辺に幾つ
かの教会があり、牧師や教会員と知り合い
になった。しかし、自分は宣教師という立
場であり、自分の寂しさや孤独など誰にも
話せないと思い込んでいた。
だがそれは高慢な態度だっと気づかせられ
た。受ける事をしなかった事を。
助けが必要なら、それを求めてもよい事を
神は言っておられる。自分の限界を認めて
神に助を求めよ。神は力の源。


2001年11月26日(月)

『ところが、弟は答えて「行きたくありません」と言ったが、あとから悪かったと思って出かけた』(マタイ21:30)


 兄の方は「行きます」と言ったが行かなかった。
弟の方は「行きたくありません」と言ったけれど、
悪いと思い出かけた。どちらが良いか。
勿論、行かないと言ったけれど、行った弟だ。
口で幾ら良い事を言っても実行が伴わなければ
無意味だ。私達は口では「はい」と言いながら、
行ないでは「いいえ」と言っていないか。
導きを熱心に求めていると言いながら、その神
の導きを知るために、一人静かに聖書に向かう
のが面倒なのだ。答えは欲しいのだが、神の答
えを聞こうと、一人静まって祈る時間を取らな
い。言う事と行いが正比例しないのだ。
口に行動がまるで伴わない。実際に行動しなく
てはならない。求めたら、答えを得るために、
一人御言葉に聞き、祈る時間を取らなければな
らない。神は御言葉を聞く時間を捧げる人に語
って下さる。神の御前に時を提供せよ。
あなたは口と行ないが一つとなっているか。


2001年11月25日(日)

「私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私達の前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか」(ヘブル12:2)


 ある人がずっと生涯を通してジョギ
ングをして来た。年を重ねるにつれ、
辛くなった。年のせいだとずっと思っ
ていた。ところが、体重が少し減って
気づいた事がある。年のせいだけでな
く、余分な体重を抱えていたので、ジ
ョギングが辛くなっていたのだと。
パウロは、私達の信仰の旅をランニン
グだと言っている。
信仰の妨げになる余分なものを捨てな
さいと。信仰の馳せ場を走り抜くため
に、邪魔者、罪を捨てなくては、それ
が邪魔をして走れない。恐れ、高慢、
嫉妬、恨み、憎しみ、思い煩い、否定
的な気持ち、それらを捨て去る事が必
要だ。邪魔者を取り除くなら走り続け
る事ができる。前進と成長がないと感
じる時、邪魔者と障害物が無いか良く
探って行くべきだ。そ
れを除くために神の助けを祈れ。
信仰の旅路を導いて下さる神は熱心に
助けて下さる。


2001年11月22日(木)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:4)


 一人の婦人が再就職のための職を捜
していた。色々な面接を受けたが、彼
女の技術や経験に及ばないところが必
ずあり、なかなかふさわしい職場がみ
つけられなかった。
三ヶ月過ぎてもまだ就職がなく、失望
落胆しそうだった。神は日毎の祈りを
聞いておられないのだろうか。
絶望的な気持ちで神に向かっていた。
希望を失いそうになり、見捨てられて
いる感じを抱きそうだった。
それでも祈り続け、探せるよう忍耐を
も祈った。そのすぐ後、良い仕事の申
し出が来た。驚き、その場にひざまづ
いて心から主に感謝した。
神はいつも私達の祈りを聞いていて下
さっている。心の奥の願いをご存じだ
自分の思い通りに得られなくても、私
達のために更に良い計画を持っておら
れると確信できる。一番ふさわしい時
まで待たねばならないかもしれないが
神は祈りに聞いて下さっている。
あなたの気持ちをご存じでおられる。


2001年11月21日(水)

『「あなたは、ユダヤ人の王ですか」イエスは答えられた。「あなたは自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたに私のことを話したのですか』(ヨハネ8:33)


 イエスを取り調べていたピラトは、
その中で言った。「あなたはユダヤ人
の王なのか?」イエスは質問された。
「あなたは自分でそのことを言ってい
るのか。他の人から聞いたからか」
つまり「ピラト、あなたは救い主を個
人的に求めているのか。それとも、人
から聞いた事に過ぎないのか」
この質問は、今日の私達にも関係があ
る。イエスはあなたに尋ねられる。
「あなたは本当に私を知りたいのか。
それとも、人が話すのを聞くだけで満
足なのか」イエスを知るとは、主との
個人的な関係であり、個人的な関係に
入る事だ。それは、私達が自分自身を
救い主に明け渡す事から始まる。
あなたの信仰は個人的に主との交わり
の中に生きているか。
イエスについて知るとは、間接的関係、
他人から聞いて知る事だ。あなたの信
仰は個人的なものか、それとも間接的
なものか。


2001年11月20日(火)

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Uテモテ3:2)


 ある女性の母親に、痴呆がやって来た
坂を転がるように進み、早かった。ほん
のついこの間まで、しっかりした気丈な
何でも自分でする母親だった。
彼女は若い頃に家を出ていて、彼女の両
親は遠くに住んでいた。
彼女の両親は旅行を繰り返しており、た
まに帰ってもゆっくりした時間など無か
った。福音や聖書、神の愛をきちんと話
す時が無かった。しかし、彼女はわかっ
ていた。彼女の心のうちの真の思いは、
両親に話しても拒否されるのではないか、
否定的に反応されるのではないかという
恐れだった。恐れのためその行動を控え
てしまったのだった。しかし、今、母親
は彼女が誰かさえわからない。
あらゆる機会を捕らえ、福音を語る事の
必要性を真に教えられた。遅すぎると言
う事の無い前に。誰かがあなたに福音を
語ってくれたから、あなたは救われた。
救われたことを後悔しているか。
この良き知らせを次ぎに語るチャンスを
与えられた人に決してその機会を逃すな。


2001年11月19日(月)

「神が私たちの見方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)


 「神に頼るクリスチャンは弱い、敗者だ。
自分の人生は自分の力で切り開くべき。
誰をも頼らず、頼るは自分のみ」これが強
者だとこの世から何度も聞いた事があるだ
ろう。しかし、そうではない。自分の無力
を認める事は決して恥ではない。
むしろ、自分の弱さを認める事が出来るの
は真に強い人だ。弱い人には出来ない。
自分の無力と限界を認めて、神に助を求め
る事は、この世で言う意味の弱い人には出
来ない。そして、問題を神に持って行く事
は、何もしない事ではない。はっきりした
行動だ。問題に対応する一番賢い行動だ。
そして、神は助けて下さる。必ず助けて下
さる。私たちは勝利者だ。神に不可能は無
い。神が味方なら、これらのすべての悩み
問題、困難に勝ち得て余りがある。
とにかく、自分の現実の姿を逃げずに避け
ずに真正面から見据える事は、弱い人には
決して出来ない。赦し受け入れて下さる神
にあって初めてできる。


2001年11月17日(土)

『サムエルはサウルに言った「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった』(Tサムエル13:14)

サウルは犠牲をささげることによって、
神に栄光を帰していると考えた。彼は
行為が重要だと考えた。しかし、サム
エルはサウルに犠牲を献げることによ
って神の命令を守らなかった、愚かだ
と言った。神は行為ではなく、関係を
見ておられる。一番大切なものが良い
行いではなく、神との関係である事を
言っている。クリスチャンになったか
らには、良い行い、善行、善行と突っ
走る傾向があるが、大切な事は神がそ
の良い行ないをせよと、言われたら行
なうという事だ。神の示しもないのに
どんどん善行をして行くのではない。
行為でなく、常に神との正しい関係が
一番大事だ。神が動けと言われれば動
き、とどまれと言われればとどまる。
それが一番肝心だ。神との関係と同時
に、人との関係も大切だ。関係を育ん
で行く中で、真に愛する事が出来る。
関係は行為よりも大切。


2001年11月16日(金)

「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく絶えて実を結ばせるのです」(ルカ8:15)



 田舎に移り住み、広い土地を持った
男性が、趣味で園芸を始めた。
ところがどんなに世話が大変か、初め
て思い知った。毎日のように注意を払
わなくてはならない。雨が続いたり、
数日外出すると、雑草がはびこりひど
い状態になる。片時も油断できない。
虫の手入れも怠る事ができない。
良い果を得るためには最後まで気を抜
けず、戦いだった。
イエスはこれらすべての事をご存知だ
った。種をついばむ鳥、根を枯らそう
と伸びてくるいばら・・。私達の霊的
な旅にも成長を妨げて来るものが一杯
ある。私達の偏見や思いこみ、また問
題や悩みかもしれない。
また誘惑も来る。しかし庭に手をまめ
にかける事によって立派な果を得る事
ができるように、私達も地道なまめな、
作業が必要だ。
日々の地道な神との交わり。


2001年11月15日(木)

「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」(ヨブ2:10)


 ヨブは大切なものをほとんどすべて失った。
息子や娘達、家畜類・・・ヨブの全身に痛みを
伴う強い腫れ物が吹き出した。どうして、こう
いう事になるのか、ヨブはこんなひどい目に会
うような事をした覚えは何も無い。
ヨブは沢山の疑問を神に出し、答えを求めた。
ヨブは「神が私を殺しても、それでも私は神に
信頼している」と断言した。苦痛のただなかに
ヨブは神への信仰にすがりついていた。
ある青年は身体障害者だった。毎日痛みの中で
生きている。何をするにも大変な努力が必要だ。
彼はクリスチャンだ。
神との関係は唯一の彼の拠り所だ。彼は毎日の
苦痛の中で「神が私を殺しても、私は神を信頼
します」と言う。天国と健康体に憧れている。
しかし、神が望まれる限り、喜んで生き続ける
つもりだ。私達も暗い谷間に出会うかもしれな
い。その日、大事なのは神への信頼だけだ。
それを築くのは将来の試練の時でなく、今日だ。


2001年11月14日(水)

「わたしがあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかった」(エレミヤ7:13)

ある男性が目に支障を感じて眼科
へ行った。視力が弱っている事が
わかった。白内障の人と同程度と
言われた。肉体に視力も問題だが
もっと問題なのは霊的視力につい
てだ。霊的視力が劣っていないか。
弱っていないか。私達は神との交
わりの生活を離れた途端、無感覚
な者になって行く。霊的無感覚だ。
神との交わりの必要に無感覚。周
囲の人の悩みや気持ちを感じ取れ
ないほどに無感覚。自己中心で自
分の気持ちにだけ捕えられていて、
伴侶の気持ちに、傷に無感覚。神
から離れると、すぐに無感覚に陥
ってしまう。眼科で作ってくれる
新しい眼鏡は視力を回復する。し
かし、私達の霊的視力を回復させ
るものは、神との交わり以外には
無い。静かな時間を取り、神の御
前に心を静め、神の臨在を覚え、
神と交わる事だ。霊的視力が回復
される。イエスの目を通して、自
分の世界を見、人々の痛みに敏感
になる。


2001年11月13日(火)

「さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう」(出エジプト4:12)


 聖書の中に、モーセが興味深い人物として登場し
てくる。モーセはエジプトの王家で育てられたが、
自分がヘブル人の血筋である事を忘れなかった。
ある日、仲間のヘブル人を守るために立ちあがり、
その時にエジプト人を殺してしまった。
モーセは遠い地に逃れ、そこで妻をめとり、子を与
えられ、羊飼いとして住み着いた。
しかし、神はモーセのために特別な計画を持ってお
られた。モーセは口べたである事を理由に神の召し
を避けようとしたが、神は「私はあなたと共にいる」
との約束を与えられた。神が共におられ、口にあっ
て言うべき事を授けると。
神がモーセに共にいると約束された通り、モーセは
神の力によりイスラエルの民をエジプトから導き出
した。神の民として神が私達と共におられると約束
された事を忘れてはならない。
もし、その仕事が神から命じられたものであれば、
「私はあなたと共にいる」という保証がある。


2001年11月12日(月)

「私の時は、御手の中にあります」(詩篇1:15)



 1日は24時間あり、1週間は168時間
あり、1年は8736時間ある。
私達すべてに公平に平等に与えられている。
これらの時間を毎日どう使うかによって、有
益に、また、無駄にしてしまう。
と同時に、これらの時間はどんな意味を持つ
のだろうか。それぞれの時間が、神の愛です
でに満たされているとすればどうだろうか。
私達はすべての時を、神との関係という視点
で見る。神の時というのは、私達への神の途
切れる事のない現われ、神の絶える事の無い
みわざの的を得た時である。
毎日をこのような視点から見るなら、神が与
えて下さった日々の取り扱いを、しっかり受
け取るようにされるはずだ。
神は日毎に、時を定めて今この時でなければ
ならない必要な霊的な学びを与えておられる
神があなたのために量って与えておられる訓
練を見失う事がないように、日毎にこの時を
受け取る事が大切だ。神の「時」がある。


2001年11月11日(日)

「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」(ルカ15:10)

イエスの短い公生涯において、イエスは
よく一人の人を相手に教えたり癒された
りした。多くの時間を一人の人を対象に
割かれた。多くの群集に囲まれる事は
しょっ中であったが、一人に向き合う事
を大切にされた。忙し過ぎて一人のた
めに時間が取れないと言う事は無かっ
た。炎天下に井戸の水を汲みに来た
サマリヤの女性を待ち構えて話され
た。夜にイエスに会いに来たニコデ
モに対応され、救いの必要性を話さ
れた。いちじく桑に登ったザアカイ
に語りかけ、その家に泊まられた。
又、屋根を破って、天井から降ろされ
た罪人を癒された。イエスは一人
一人に目を留め、慈しまれた。
イエスの事を一対一で、証しする事
を軽くみてはいけない。個人的な
証しは非常に重要である。一人の
ために時間を献げ、労力を献げ、
愛を献げて労する事は神のみこころ。


2001年11月10日(土)

「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう」 (エレミヤ13:23)

律法を犯した人々を罰っする神は不
公平だろうか。罪に対して寛容であ
るべきか。刑務所の男は、盗みが止
められないと言う。止められないか
らと、又、厄介になるだろうと言う。
神が裁き主だとは思ってもいない。
アルコール依存症の人は、自分のせ
いではないと言う。同性愛者は生ま
れつきで直らないと言う。人はその
行動が確かに変えられないだろう。
しかし、その理由は、変えたくない
のだ。問題の本質はここだ。変わり
たいと思っていない。だから、神が
裁かれる時、それは完全に正しいの
だ。あなたは罪から解放される。
自分の罪深さと無力さを神の前に
認めよ。聖霊により頼め。神はあな
たの心を変え、あなたを変え、誘惑
に勝たせて下さる。神に不可能は
無い。あなた自身を神に委ねよ。
神はあなたの不可能を可能にして
下さる。


2001年11月09日(金)

 「この女は、自分にできることをしたのです」(マルコ14:8)

 
 マリヤとヨセフも幼子イエスを主に
献げるためにエルサレムに来た。
・・定められたところに従って犠牲を献
げるためであった。レビ記にはん祭の
ために子羊を、罪祭にために鳩を携え
て行く事を命じている。しかし、もし
両親が貧しい場合は、子羊の変わりに
鳩を献げればよい事になっていた。
ヨセフとマリヤは子羊をさ献げる余裕
が無く鳩を献げた。私達も貧しく神の
前に出る。私達も最上のものには手が
届かないので、神に最上のいけにえを
献げる事はできない。私達にできる全
ての事は、自分の持っているものを献
げる事だ。マリヤは最上の香油を自分
にできる事として献げた。
ヨセフとマリヤは鳩を自分にできる事
として献げた。神は、すでに最上の神
の子羊を私達のためにいけにえにされ
た。それゆえ、私達が持っているもの
を献げる時、常に十分に受け入れて下
さるあなたのできる事をし、あなたの
持っているものを献げよ。神は受け取
って下さる。


2001年11月08日(木)

 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。・・地の果てにまで、私の証人となります」(使徒1:8)

 
 一人の婦人が父を無くした後、衣類の
ほとんどを慈善団体へ寄付した。
しかし、父親のお気に入りだった手袋だ
けは、そばに取っておいたのだった。
その婦人が物事が思うように進まず失望
落胆し、気力もうせ、憂鬱な気分でいた
時だった。ふと、引き出しを開け、父親
の手袋を出してみた。
いつもの父親は彼女の行き詰まる時、困
難の時、助けの手を延べてくれた。
その手袋を手に取り、何気なく手袋に手
を通してみた。すると、力無くそこにあ
った手袋が手を入れると、力を帯びたか
のように自由に手の思いのままに動き、
手袋は命を得たようであった。
その時、彼女は神から光を受けたように
感じた。自分は空の手袋。
聖霊様がその中に豊かに宿られる時、
手袋は聖霊様の思いのままに力を帯びて
生き生きと動く。自らに必要なのは聖霊
の満たしだった。自らを神に献げる決心
をし祈りをした。


2001年11月07日(水)

「ほら、冬は過ぎ去り、歌の季節がやって来た。わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って出ておいで。私に顔を見せておくれ」(雅歌2:11)


春は、冷たい厳しい冬の後に、ひときわ
感動的だ。花々が咲き乱れ、小鳥がさえ
ずり、よみがえったように生き生きした
光景が周囲に広がる。冬眠の後、春に
はいのちがよみがえる。あなたは、霊
的な冬を経験した事があるだろうか。
寒々とした風が心に忍びより、心の中
は空洞で、からからで隙間風が吹き
抜けるよう。そんな状態を経験した事
があるか。告白されない罪を持った
ままの状態である時、しばしば経験
する。罪を眠らせておくと、冬はいっそ
う厳しく冷たく、闇は深いものとなる。
あなたの罪は、あなたと神の間を
遮断し、神を遠ざけた神は御子イエ
スを遣わして下さり、罪の罰をなす
りつけられた。あなたのその罪は
身代わりにキリストが罰を受けて下
さった。あなたはその罪を犯した
のは自分ですと、告白しなければな
らない。神の愛に満ちた赦しを経験
するだろう。新しいいのちがもたら
される。



2001年11月06日(火)

「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」(詩篇37:7)


 主を待ち望むとは、風邪で病院へ行き
医者に診てもらい正しい治療がなされる
のを待つ、ように思うかもしれない。
この聖句の「待つ」は、「出産する女性のよ
うな痛み」という意味の言葉から由来して
いる。静まって神を待つ人々は、強い、激
しい痛みの中で、信じて、神を期待するの
だ。ダビデは悩みの中で危険の中で、苦し
みの中で、神と交わりを持った。
心の内のすべてを神に打ち明けた。
ダビデは、苦しい状況の中で、痛みを感じ
ながら神を期待していた。神は、私達があ
りのままの心を持って神の御前に来る事を
喜ばれる。傷ついていない振りをする事を
求めておられない。
あなたの痛みをそのまま神のみもとへ持っ
て行け。神はその痛みを受け取って、取り
扱って下さる。私達自身が自分の痛みを知
っている。それを認める時に、私達は神を
信頼して行くことを学ぶ。
あなたはきれい事の中にいるか。自分自身
のありのままの姿を持って神の御前に行け。


2001年11月05日(月)

 「私たちに、自分の日を正しく数えることを教えてください」(詩篇90:12)

 
 「夕暮れ時」人生の晩年を私達はどう迎える
のだろうか。バラ色の晩年だろうか。
それとも、苦渋に満ちた後悔と絶望の晩年だろ
うか。これを決定するのは、若い時からの、そ
して今のあなたの生き方だ。ある人が言った。
「私がどんな老人になるのか。この問いに対す
る答えは、今、私がどんな人物かに大きく依存
している」と。
一人の老人がガンに犯され、大変な苦しみの中
で全身が弱っていた。あまりの苦痛にうめいて
いたが、それは必ず神への賛美と変わっていっ
た。若い時に神への感謝を身につけるなら、
歳とってからも変わる事はない。
私達がどんな人物かを決定するのは「態度」だ。
態度の問題だ。あなたの「態度」はどうだろう
か。人生におけるあなたの態度はどうか。
あなたの態度は神への感謝だろうか。あなたの
晩年は、あなた今日の選択にかかっている。


2001年11月04日(日)

「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」(マタイ17:2)

ペテロは主イエスの御姿が変わり、
光輝かれた崇高な姿を目の当たりに
した。しかし、その素晴らしさをほめ
たたえるのでなく、エリヤ、モーセ
イエスのために三つの幕屋を建て
たいと言った。ペテロは肉の目で見
ているが、理解してはいない。神の
天からの御声を聞いた時、ペテロ
と仲間達は非常に恐がった。イエス
は恐がる事はないと、優しく励まし
見た事を理解させようとされた。
ペテロは今までずっとイエスを見て
いたが、今回はより深い意味をわ
からせられた。私達も同様だ。私
達はペテロが見たような変貌を見る
事はないが、神が目を開いて下さる
なら、周囲の人々、起こる出来事、
様々な事態の中で、キリストの御顔
を見る事ができる。神は私達と共に
おられ、私達の目を開き、キリスト
をよくわからせ、又、私達を変えよ
うと力強く働いておられる。一つ
一つの起こる出来事に神は働いて
おられる。


2001年11月03日(土)

「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚き怪しむことなく」(Tペテロ4:12)

私達の人生は問題の無い人生では
ない。神は私達の問題を取り去られ
ない。「火の試練」「非常に激しい耐
えられないほどの圧迫を受け」「自
分の心の中で死を覚悟」と聖書は
様々な苦しみを記している。病気や
怪我、経済的困難、倒産、事故、
色々な苦しみに出会う。極度の苦
痛は神の御顔を見えなくしてしま
う事がある。大き過ぎる苦しみは、
私達の思いや気力を呑み込んで
しまう。そんな時、私達は苦痛の
向こう側にあるものを見て、神は
ただ苦しめようとされているので
はなく、苦痛を通して神のみわざ
をされるのだと知れる。私達は
自分では絶対に苦痛を選ばない。
しかし、人生の中に苦痛は入って
来る。私達は苦痛の真っ只中で
神が私達を支えて下さっている
愛と力を示す事が出来る。「とこ
ろが神は、これほどの大きな死
の危険から私達を救い出して下
さいました」




2001年11月02日(金)

「ただ、この一時に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:13)


 私達が成長したいと願っている時に
後ろを振り返って、過去の失敗や過ち
をくよくよと後悔している事がしばし
ばある。人を傷つけてしまった事、取
り返しがつかないと思われる事、逃が
してしまったチャンス、壊れてしまっ
た対人関係、途中で挫折した計画、果
たせなかった夢・・違った結果を想像し
ては、悔やむ。
あの時、もう少しこうだったら、ああ
してたら・・心を曇らせ、暗く落ち込
ませてしまう。しかし、その事に捕ら
われて、現在の主にある喜びを奪われ
てしまう事は愚かだ。キリストの血潮
により過去の失敗は永遠に拭い去られ
た。古いものは過ぎ去り、新しくされ
た。全ては新しい。私達を後悔の人生
から解放し、前に向かって進ませてく
ださる。古い人生はあなたと共に過ぎ
去り、真に新しい人生がキリストと共
に来たのだ。


2001年11月01日(木)

  『主イエスご自身が「受けるより与えるほうが幸いである」と言われた』(使徒20:35)


 ある婦人が心身ともに疲れていた。
心に全く余裕の無いひどく忙しい一週間
を過ごした。身体も疲れていたし、心は
潤いが全くない、かさかさに乾いた無感
動な状態だった。成人の日曜学校に出た
が、心が定まらず集中できず、宙を浮い
ている状態で、御言葉を捕らえる事が出
来なかった。ぼや-っとしている間に終
わってしまった。今日は疲れ過ぎて頭が
回らない。もう帰った方が良いのではと
思いつつ礼拝堂へ向かった。
礼拝が始まるまでの間に、主にある友人
が突然悩みを話して来た。
彼女に聞いているうちに、突然神様を感
じた。彼女の顔が明るくなり、安堵の色
に変わった。婦人も心に活気がよみがえ
り、潤いが出てきて、新しくされるのを
感じた。婦人は自分の事だけに目を奪わ
れ、自分の事だけしか考えておらず、自
分の事で頭が一杯だった事に気づかされ
た。神様は自分を引き上げる為に、自己
中心に気づかせ、仕える機会を与えて下
さった。自分の事だけにかまけてないか


2001年11月24日(土)

『戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた』(ヨハネ20:26)


 イエスが十字架にかかり命を捨てられ、
よみがえられた後、弟子達に現われられた
弟子達はおびえていた。ユダヤ人達を恐れ
て、戸に鍵をかけていた。その夜、部屋に
満ちていたのは、恐れだった。
恐怖だった。その時イエスは弟子達の中に
立って「平安があるように」と言われた。
この時の状況を考えるならユダヤ人の指導
者達はそのままである。
キリストを十字架刑にしたローマ兵は町を
巡回していた。恐怖の状況はそのままだ。
では、この意味は何なのか。その時まで、
弟子達はイエスの死を見つめていた。
しかし、イエスが来られて彼らの真中に立
たれた時、弟子達は主の臨在を体験した。
状況の変化でなく、主の臨在が弟子達に平
安を持たらした。世界はあらゆる問題と悩
み困難に満ちている。これらが無くなる事
を約束しておられるのではなく、平安を約
束しておられる。平安は悩みが無い事では
なく、神の臨在。