2010年11月30日(火)

「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」箴言20:24


オリンピックや各種試合、入試や就職試験は、どんなに緊張するだろう。平素これ以上出来ないほどの準備をしても、その成果が確実に表れるとは限らない。当日の体調や、精神状態、不意の状況が起きるかも知れない。オリンピックなど、極度の緊張からミスが出て、本番で実力が発揮出来ない選手も少なくない。

練習量や、自分の精神力、自分の力だけではどうにもならない事を見せられる。人の歩みは、まさに主によって定められる。主と共に歩み、そこに主を認める事のできる私達は何と幸いだろう。

私たちの進学、就職、転勤等の進路、目の前に起こる出来事、状況、それらはすべて主が定めて下さったものだ。それを、主が定められたものと受け取る時、揺るがない平安と確信を持って進むことができる。

又、今後も、主は私たちの手を取って、御心の道へと導いて下さる。その妨げになるのが、自分の肉の思いだ。自分の欲望があり、その思いは非常に強い。自分の歩みは、自分で決めたいのだ。思い通りにしたい。自分のプランがあり、どうしても手放す事が出来ない。強い自我がある。

神は、あなたに、すでに最善の道を用意しておられる。自分のプランを明け渡す時に、幸せの道へと導かれる。握って放せないなら「放せません」と、まず自らの状態を認めて祈ろう。出来ませんと祈る時、出来るようにして下さる。
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なぜ、何で?と思い煩ったり当惑する時、自分のプランを練り保とうとしていないか。神様の定められた道はその時は、無理、不可能にしか見えないかもしれないがそのままの思いを打ち明けながら一歩でも神様の喜ばれる道に歩を進めよう。


2010年11月29日(月)

「わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます」ヨハネ14:27



私たちの信仰生活で、不安や思い煩いはどこから来るのだろう。神から目を離して、悩み、問題に焦点を合わせる事による。問題だけに、心が占領されてしまい、目の前の問題でいっぱいになり、支配されてしまう。がんじがらめにされてしまい、恐れと不安で、心はコントロール不能状態に陥る。

海上歩行の箇所で、ペテロが、主を見つめている間は、波と風の湖の上を歩けた。奇跡だ。「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけた」問題を見た途端、恐くなり、不安になり、落ち込んで行く。私たちも日常生活でいつも経験する。

主と御言葉を見つめている時は、どんなに厳しい、苦しい状況の中でも不思議に平安でおれる。しかし、問題に目を向けた途端、ブクブクと沈んでしまう。心は不安と恐れで一杯になり、苦しくなり、ネガティブな思いに、どんどん落ち込んで行く。

そんな時、神がどのようなお方かをしっかり考える事が大切だ。「空の鳥を見よ」「野のゆりを見よ」と言われる主は、鳥を養うことのできる神、ゆりを装うことのできる神を、見よと言っておられる。

問題を見るのでなく、解決を持っておられる神に目を向けよと。悩みの中で、私たちの焦点をどこに合わせるかが大事だ。問題を見続けているその目を御言葉に転じよう。信仰を向ける時、必ず心に主の平安が臨む。恐れが消えて、主が必ず良くして下さるとの希望が生じる。今、何を見ているだろう。
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問題にのみに思いが傾く時、聖書を開くと心に深い平安が臨み、いるべき所に戻ってきたと安堵する。私達は主がどんなお方か知っている。目に見える所は強烈ですぐに翻弄される弱い者だが、助け手であり平安を下さる主を私達は知っている。


2010年11月28日(日)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」マタイ5:3


謙遜とは、本当は自分には力があるが、それを人に見せびらかさない、という事
ではない。本音で自分は無力だと思っている事だ。取税人は真に自分の罪深さが
わかっていた。それゆえ、パリサイ人のように、人と比べる事など思いも及ばな
い。ただただ、神に赦しを求めた。神の前の自分を見ていた。そして彼は赦され
た。

モーセは40才の時に、自分の力で、同胞を救うために立ち上がった。しかし、
失敗し、荒野に逃れ、羊飼いとして40年の歳月を過ごした後、召し出された。40
年前と違い、老人になり、かつての栄光も栄華も何も無く、真に自らの無力を思
い知ったモーセは「私はいったい何者なのでしょう」と尻込みした。神に説得さ
れ、押し出された。

主の一番弟子であったペテロは、いつでも前面に出て、時に調子に乗り、出しゃ
ばってしまう自信家であった。しかし、目の前で大漁の奇跡を見た時に「わたし
から離れて下さい。わたしは罪深い者」とへりくだった。そして、主を3度否ん
だ後、大泣きして悔い改め、自らの徹底無力を知った。

心の貧しい者は幸い、自分の心底無力を知る人こそが、大いに祝福された幸いな
者だ。自分を誇らず、自分に頼らず、頼れず、主に拠り頼み、拠りすがって行く
からだ。砕かれて、無力を知って行く歩みこそが、実は最大の祝福だ。

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自分の弱さを知り、自分の無力を知る者が、幸いだと言われる。この世の価値観
と正反対だ。この世では強い事が良い事であり、弱みは決して見せてはならない。
弱さを認め、あるがままでおれる時、突っ張る必要が無く、その歩みは楽しく喜
びがある。


2010年11月27日(土)

「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです」ヨハネ13:17


この地上の信仰生活で、祝福された人生を送るかどうかのキイは、「行ない」
にある。岩の上に家を建てるとは、御言葉を聞くだけでなく、聞いた御言葉を
「実行する」事であった。

いかに御言葉を生きるかという事であるが、しかし、私たちは幾ら頑張っても、
御言葉を実行する力は無い。あなたも経験しただろうか。パウロが「私は、自分
でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっている」と
告白している。

「善をしたいという願いがあるのに、それを実行することがない」と。御言葉は
「聖なるものであり、正しく、良いもの」だ。御言葉は「霊的なもの」、しかし、
「私は罪ある人間であり」肉だ。だから、肉で霊をどうにも出来ない。

自分には行なう力は無いし「自分の肉の内に善は住んでいない」。では、どうす
れば良いのか。「私は、ほんとうにみじめな人間です」とパウロが叫んだように、
自分には不可能、自分は完全無力であることを認めることだ。

そして、自分には出来ないのだから、神に拠り頼んで行く。自分を明け渡して、
頼んで行く時に、肉でなく、御霊が働いて成し遂げて下さる。御言葉は霊である
から、霊である御霊がされるなら可能だ。実行させて下さる。

御霊に従って歩む時、実行することができる。今、無力を感じているだろうか。
それなら大きな祝福の門口だ。主に拠り頼もう。みわざを見る。

・・・・・・・・・・・・・・・
いつも、「できません。助けて下さい」と自分の無力を認めた時に、主からの力
が臨む。「できません」と認める時に、不思議だが出来て行く。そして自分を誇
ることなく、主に栄光を帰する。「私を強くして下さる方によって、どんなこと
でもできるのです」


2010年11月26日(金)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


               
プライドは人間の高ぶり、自惚れから来る。そしてプライドは、他人のプライドと競い合う。プライドとは絶対的なものでなく、相対的なものだ。自分が持つものに決して満足せず、他人より多く持ち、他人より上である事に、優越感を感じて満足する。他人より上でなければならない。

だから常に「比較」があり、比較の上に成り立つ。相手が、自分より優位にいる事が許せない。負けとしか思えず、どうあってもライバルの上に立ちたい。対人関係の争いは、又、国家間の争いは、こんな人間のプライドに起因する。対抗心を燃やし敵意を抱く。

蛇が、アダムとエバへの誘惑に働いた事は有名だ。彼らのプライドを巧妙に狡猾にくすぐった。禁止には神の下心があり、神は、あなた方に、神のようになられるのが嫌だから、禁止していると。なぜ、神のようになったらいけないのか。自分たちだってなれる。サタンがプライドに挑んで来た結果、罪を犯してしまった。

罪の根源だ。その罪の性質が、私たちの内に今もある。自分を高くする。主は丁度その対極だ。神のあり方を捨てられた。ご自分を捨てられ、自分を主張されず、ご自分を低くされ、死にまで従い、十字架の死にまで従われた。ここにプライドからの救いがある。十字架に私のプライドは釘付けにされた。そこに立って従っ
て行こう。
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初対面では互いにへりくだれても、徐々に優劣をつけ比較しはかりはじめる。主が十字架でプライドを解放して下さっている。主に助けられ、自分を保とうとする時、気づけ放棄できますように。主のみこころの態度がそこに成りますように。


2010年11月25日(木)

「あなたがたがはわたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」ヨハネ15:3

私たちは信仰生活、何十年だろうか。主が心の中心に、生活の中心に、人生の中心におられるだろうか。行動や言動、判断の仕方、生活が、主がおられない人のようだろうか。これはどこが違うのだろう。その人に、キリストの言葉がとどまっているか、どうかによると記されている。

もし、キリストの言葉がとどまっているなら、その人の判断は、御言葉に基づいたものとなり、行動や言動も御言葉が土台となっている。そして生活を通して、価値観や発想を通して、神を現して行く。御言葉にとどまる事がなければ、自分の肉の判断であり、自分の思いであり、自分の感情で生きて行く。

自分が対応し、絶えず損得計算をして行く。神はどうかでなく、自分はどうかに基準がある。神の御心でなく、自分が好きか嫌いか、自分に都合がよいか、悪いかで判断し、物事を決定して行く。そこに聖霊を感じる事も、キリストの香りも無い。キリストの言葉が宿っていないので、喜びが無く、平安も無い。

私たちの言葉はどうだろう。その人が御言葉によって歩むなら、周囲はその人に聖霊を感じる。言葉にその人の内側が如実に現われ出る。噂話や悪口、中傷や、愚痴ばかりが出ているだろうか。神への感謝や賛美、自らの罪の悔い改め、神を崇める言葉が出るなら、御言葉にとどまっている実だ。

そして、御言葉にとどまる時、祈りが豊かに答えられて行く。「言葉がとどまるなら、何でも欲しいものを求めよ。あなたがたのために、それが叶えられる」
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神はどうかより、自分はどうかを先に考えてしまう。自分の栄光を自分らしさを周りに反映させながら生きているだけではないだろうか。御言葉を生きよう。御言葉にとどまり、自分の価値観を一つでも御言葉にかえて今日を生きよう。


2010年11月24日(水)

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう」詩編32:8


ある人が、航海途上、真っ暗な夜に、海峡を渡っていた。船長とデッキに立っていた時、船長に尋ねた。「こんなに暗い夜は、どうやって港に入ってゆくのですか?」船長はこう説明した。「あそこに三つの灯が見えるでしょう。あの三つが重なって一つに見えるようになったら、船が港の入り口に着いたいうことです」。

これは神の御心に適応できる。「神の御心を知るために、次の三つが一致する必要があり、待たなければならない。その三つは、祈りによる内なる平安、環境、御言葉だ。すなわち、心の中に平安が与えられ、環境の門が開かれ、そして神が御言葉により御心を示して下さるのを待つ。この三つが一致する事が必要で、一
致する時に行動を起こして行け」。

私達は、日々の生活の中で、主の御心を求め、悟ってゆくことが大切だ。三つの事柄を、吟味して行くために訓練が必要だ。日々実践して行く時、重要で大切な事柄の御心を悟って行ける。些細な事柄は、神が与えて下さった知性をもって、祈りの中で、常識を持って判断して行けば良い。祈りにより、判断が助けられる。

しかし、人生で重大な選択は、必ず明確な導きを示されるよう祈り、主のお心を悟ることが大切だ。そして、主は導きたいと願っておられるので、真剣に求めるなら、必ず示して下さる。
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御言葉にかなっているのか、祈っていて心に平安はあるか、環境はどうだろう。御心に従いたいとの思いで神様に問うなら必ず示してくださる。今日も神様の喜ばれる歩みが出来るように、心は焦るがまず一歩から御心を求めて祈ってみよう。


2010年11月23日(火)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」マタイ6:33



ある著者が「まだ世の中が動き出す前の、朝一番の静かな時を、少しの時間でもよいから、御言葉を読み、祈りに献げよ」と言っている。よく経験するところだが、あれを、これをしてから聖書を読もうとすると、この世の様々な対応で、思いが巡る。祈りに集中できず、御言葉が入って来ない。そして、次々と、なすべき事が浮かび、又、目の前にやって来て、引っ張られて行くと。

これを済ませて聖書を読もうと思うが、次々となすべき事が目の前に来る。背後でサタンが働いている。とにかくデボーションをさせたくなくて、サタンも必死だ。サタンに聞いて行くと、祈りの時が後回し、後回しになり、結局1日持てないまま終わってしまう。朝一番に、5分でもよいから始めてみよう。良い習慣が
培われて行く。

又、もし朝に持てなかった場合、今度は決して落ち込むのでなく、神の変わらない愛を覚えよう。持てなくても愛していて下さる。そこにもサタンが来る。そして、生活の優先順位はどうだろう。日々を振り返ってみよう。優先順位が狂うと、秩序が狂い、全体がギクシャクして来る。生活に実が結べない。喜びと平安が失
せ、何か心が満たされない。今一度、「神第一」に立て直す必要があるだろうか。「神第一」は祝福であり、霊的、物質的すべての必要が満たされる。
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朝一番にデボーションをのんびりと出来る日は、いつまで待っても来ないと思おう。まず第一にと、求めなければ引っ張られ流されてしまう。聖書を開き神様と交わる時を守ろう。落ち着いた豊かな一日がそこから与えられる。 


2010年11月22日(月)

「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます」エペソ5:13



ある人に、神学生時代の同期生である友人がいた。寝食を共にし、常に交わり、悩みの時の相談相手であり、喜びも苦しみも共にした。卒業後も、折々に交わっていた。様々語り合い、楽しい交わりであり、祝福であった。

ある時、彼の働きが大変賞賛を受けた。その時、心にざらつくものを感じた。嫌な思いであり、心苦しくなり、帰宅するや一人になり、主との交わりを持った。心の思いをすべて告げ、御霊に照らし出されるよう祈った。心を静めて、心を探っていた時、はっきり御霊が心の奥底に、「妬み」を示された。

それは初めからあったものだと気づかされた。普段は出ないが、以前から事あるごとに、ざらつきを感じていた。相手は親友であり、絶対に認めたくない感情であった。認めたくないので、無意識に封印し、薄々感じてはいたが、自分に向き合う事はなかった。避けていた。それゆえ認識する事はなかった。

主の御前に心から妬みを悔い改めた。すると、平安に満たされて、喜びが臨んだ。私たちも、認めたくない、触れたくない罪や弱さは、痛くて避けてしまう。しかし、それはずっとそこにある。認めようとしない限り、自分でごまかしてしまう。薄々感じている事を、主の御前に出そう。主が解決し、平安と喜びに
変えて下さる。
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明るみに引き出される時、主が心を変えどこまでも導いて下さる。平安がなくざらつく思いに気づいたら主に聖められるチャンスだ。そのままにして、また心の闇にしまい込まず主に告げながら光に歩もう。


2010年11月21日(日)

「主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる」詩篇29:10

台風の時に、暴風雨を経験するが、私達の信仰人生の中にも、大嵐が襲って来る。
その大嵐にどう対応するかで、落ち込みにも祝福にもなる。ダビデは、「主は、
大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着
いておられる」と賛美した。

大洪水は畑の作物も家も流して、壊してしまうが、人生に起きる大洪水も私たち
の生活を飲み尽くしてしまう。何もかもがズタズタに裂かれてしまうように感じ
る。もうだめだと思ってしまう。

しかし、主は、そんな大洪水の時に、御座に着かれたと記されている。大洪水の
時こそ、主が力強くみわざを現して下さる。主に叫ぼう。主は大洪水を通して、
私たちの苦しみや艱難や試練を通して、ご自身の力や愛や真実を実際に体験させ
て下さる。

大洪水によって、私たちの信仰、霊的生活に大きな転機や変化を起こして下さる。
主が神であり、すべての主権者であり、支配者であることを知ることになる。平
穏な時は、神に頼らずに、自分の道を歩んでしまうものだ。

あなたに今、大洪水が襲っているだろうか。大きな艱難、苦しみにあるだろうか。
砕きを受け入れて、その御前にへりくだろう。今こそ、御座に着かれた主、まこ
との神であり、王である主を、はっきりと知らせて下さる。祝福と変えられる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
時に、全くどうして良いかもわからず、立ちすくんでしまうような人生の大洪水
に襲われる。しかし、その時にこそ、神が神であられることを、力強く現して
下さる。大洪水の中で、主を信頼しよう。主権を持ってなすべき事を示し力強く
導いて下さる。


2010年11月20日(土)

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」ルカ10:42

マルタは目まぐるしく働き、目の前の事に心を奪われてしまっていた。もてなし
=家事、仕事、活動、奉仕等だ。又、それは神のための働きかも知れないが、労
働、わざがすべてになってしまい、主と御言葉を慕い求めることから離れて行っ
てしまう。

とにかく目先のことをこなす事に、一生懸命になり、何をしているのわからない
状態となり、本末転倒になってしまう。心が急いて、せかせか、イライラ、ピリ
ピリする。早く早くと、気が落ち着かず、それが高じると、周囲を裁いて行く。

自分があれもこれもと忙しく、イライラしてして、何もしていない人に腹が立っ
て仕方がない。責めてしまう。様々な事を思い煩い、心配し心が分割されてしま
う。どんなに主のために労したとしても、腹を立て、人を裁いていては何をして
いるのかわからない。

マリヤはどんなに忙しくとも、まず主の足もとに座った。御言葉に真剣に聞き入
り、最も必要な良い方を選んで行く。私たちは日々の歩みで、マルタにもマリヤ
にもなる。肉で歩んでいる時、どうだろう。心はイライラ、せかせかし、労しつ
つも、あれもこれも腹を立てている。

自分を正当化し、自分の目で判断して、心は裁きと怒りで一杯だ。御霊に満たさ
れて歩むためには、まず動き回る前に、主と交わり、祈りと御言葉で心が満たさ
れる必要がある。その時、主と一つに労し、平安があり、そして御霊の実を結ん
で行く。

・・・・・・・・・・・・・・・
肉で歩むと、些細な事にイライラし、自分の思い通りにならなければ、周囲を責
め裁く。だが、祈り、主に頼って歩む時、心は平安で喜びがあり、不思議に知恵
やアイデアが来る。結果も委ねられる。今日も主に拠り頼んで歩もう。


2010年11月19日(金)

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」ローマ8:6



聖書でいう「肉」とは、泥酔やギャンブルや、妬み、憎しみのようなストレートな悪だけではなく、神のために善をしようとする「肉」も含まれる。宗教的な肉であり、それは、生まれながらの古い性質を使って、神を喜ばせようと努力する。

アダムとエバがエデンの園で、罪を選び、罪を犯した時に「善悪を知るようになった」とあるが、悪と同時に善も知った。つまり、自分の力によって善をしようとする。しかし、善であっても、肉の力で行なうなら「肉にある者は神を喜ばせることはできません」となる。

私たちは御霊に導かれ、御霊の力によって初めて神に従い、仕えることができる。
そして、それが神に受け入れられる。クリスチャンとは、片っぱしから、どんどん善行をする人のことではない。「神は・・その良い行ないをもあらかじめ備えてくださった」とあるように、自分で考え出した善行を、次々とするのでなく、神が予め用意して下さった善行にあずかる。

つまり、御霊に導かれた行為を行なって行くのが、クリスチャン生活だ。自分の思い、自分の判断こそが肉であり、それは死であると。主との親しい交わりの生活をして行く時、御霊に導かれて行く。御霊にせよと言われた事に従って行く時、いのちに至り、周囲にも主の栄光を現して行く。しようとしている事を、まず主
に告げて、導きを求めて、よく祈ろう。
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思い浮かんだ示しが神様からのものか、肉からのものか。善いことならと躊躇なく動いてはいけないと教えられている。よく祈り、動機も吟味し、神様が望まれることだけを見極めて従いたい。


2010年11月18日(木)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください」詩編139:23

ある人が職場で、上司がワンマンでいつもピリピリし、緊張状態で、張り詰めていた。無理な事を押しつけられ、理不尽な扱いを受けた。とうとうストレスが身体にも来て、限界になり、会社を辞めた。しばらく休養したが、ふつふつと心に、こういう事態を招いた上司への、恨み、憎しみが湧き上がるのであった。どうに
もならなかった。人を憎んで、苦しいのは自分だ。

休養しているのに、心は牢獄にいるように、真っ暗で苦しかった。平安も喜びも無かった。しかし、悪いのは相手であり、自分は悪くないと、自己正当化し続けた。自分は被害者だと言い訳する。憎んで当然だと思いたい。しかし、全く平安は無い。悶々状態だ。

その苦しみは頂点に達し、もう何とかして欲しい。助けを求めて、主の御前に行った。御前で静まり、心の何もかもをさらけ出し、気持ちをぶつけた。その時、相手は相手として、自分が相手を憎む事は、その憎しみは、自分の罪であることを示された。

自らの罪を認め、涙ながらに悔い改めた時、心が軽くなった。憎しみから解放され、重苦しく、暗く、辛かった心に、平安と安堵が臨んだ。心癒された。自分が被害者だと思っている時は、その憎しみは正当化されて気づかない。悪いのは相手であり、自分は全く悪くないと。しかし、裁き、憎んでいる事は紛れもなく自
分の罪だと認める時、心解き放たれ、平安が戻る。
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憎みたいがために、何度も受けた傷を思い起こしては被害者意識を確かめ、囚われてしまう。解放されよう。人の罪はその人のもの。自分は今神様の前にどうあるかを交わりの中で尋ねていこう。主が解放して下さり慰めも主が与えて下さる。



2010年11月17日(水)

「絶えず祈りなさい」Tテサロニケ5:17



時間を取っての日々のデボーションは必要であり、大切であるのは、周知の事実だ。心を余すところなく打ち明け、主に聞いていただき、又、主の御声を聞く事は無くてはならないものだ。しかし、同時に、残る他の時間も、絶えず祈り心で生活することは祝福だ。生活の中で、常に、主と対話をすることができる。

ずうっと短い祈りを献げ続けることができる。道を歩きながら、食器を洗いながら、掃除しながら、頭を使わない雑用の時も、主と祈りで対話すると良い。生活を祈りで満たして行ける。悩みや困難が起きた時、まずその場で短い祈りを主に献げる。主はその問題と共におられる。

主は家庭にも、職場にも学校にも、どこにでも、あなたと共におられる。心の中で良い。絶えず主と対話して生活しよう。家事に育児に農作業に多忙で、時間の無い主婦は、どうしても必要な草刈りをしつつ、主との交わりの時とした。
作業終了時には、心が満たされ、喜びに溢れていた。

忙しいサラリーマンは、昼食後のしばしの時間を屋上で主と交わった。御霊に触れ、午後の時間は喜び持って仕事ができた。学生は通学途上の電車の中を祈りの時とした。時間を聖別して、じっくり主と交わる事は必要であり祝福だ。同時に、短い数々の祈り、主との対話を一日中できる。
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絶えず神様を意識して交わっているなら一日中心は平安に守られる。人に向かってつぶやいたりサタンの声を閉め出す事も出来る。絶えず祈ろう。そして自分の心の声を神様に聞いていただこう。


2010年11月16日(火)

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」箴言4:23



サタンは私たちの「思い」を攻撃して来る。イスカリオテのユダの思いに、主を裏切る「思い」を入れた。「悪魔はすでにユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが」の通りに。ユダは最初に、サタンが持ち込んだ、主を裏切る思いが「サタンの思い」である事に気づかなかった。受け入れてしまった。

朝起きた瞬間から、瞬間〃に、サタンからの悪い思い、火矢はすべての人に来るが、ユダは悔い改めずに、サタンからの「思い」を心の中で温め、「欲がはらむと罪を生み」の通りに妊娠させてしまった。サタンが吹き込む「思い」を受け入れ、はらんではならない。これに対抗する武器は御言葉だ。サタンが吹き入れる
思い、妬みや怒りや批判、それ自体は全く罪ではない。サタンが吹き込んでいるのであり、関係無い。

しかし、それを拒否せず、同意し心の中に受け入れ、妊娠させるなら罪となる。サタンが邪悪な思いを入れて来る時に、憎悪や裁きなら「他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい」により、拒絶する事だ。「思い」がその人を造り上げるので、神のみ思いで心を満たす必要がある。心を御言葉で満たし
て行く訓練が必要だ。

あなたは、普段の心の「思い」に目を留めているだろうか。「思い」が、自分を培い、形造り、その人独自の思考パタンとなる。思いを見張ろう。
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人を裁く思い、憎む思いは誰でもあるがその背後にサタンがいる。自分の心を御言葉で守ろう。苦い思い、破壊的な思いは御霊の導きとは全く違う。肉の欲求にぴったりの思いを入れてくるサタンに心を占領される前に気づき御言葉で勝利できますように。


2010年11月15日(月)

「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」マタイ15:27


「主よ。ダビデの子よ」と、悪霊につかれた娘の救いを、彼女は本気で、一心に主に叫び求めた。主は、心から叫び求める願いに、必ず答えて下さるのではないか。私たちはそう思う。しかし、主は一言も答えられない。切なる、必死の求めに全く沈黙されたままだった。

そこに弟子たちがイライラし、うるさがり、不満を言って来たので「イスラエル以外には遣わされていない」と言われた。彼女はその言葉で悟った。自分はダビデの子ではない。異邦人であり、ダビデの子よ、という資格はない。それで、ただ「主よ」と、更にへりくだり、「ひれ伏して」助けを願った。

身を投げ出し、徹底的にへりくだり、ひれ伏した。それは、主の答えを引き出した。しかし答えは「子供たちのパンを小犬に投げてやれない」だった。それは彼女への試しであり、小犬と認めて、尚も求めて来るかどうかを見られた。彼女は「主よ。そのとおりです」と小犬だと認めた。

なかなか認められないものだ。普通、自分では「いえいえ私などは」と言うが、人から「その通り」などと言われたら、カチンと来るものだ。彼女には信仰があった。小犬でも、豊かな食卓からのパンくずはもらえる。恵みと慈しみの主だと信じきっていた。主はその信仰を立派だと驚かれ、喜ばれた。願い通りになるよ
うにと、娘は癒された。
--------------
主よ、そのとおりの者です、しかし、あなたしか助けて下さる方はありませんと何処まで主の前にへりくだり、あきらめずに求めよう。本気で主の助け、導き、慰めを求める者に、主はご自分をはっきりと現して答えを下さる。


2010年11月14日(日)

「助け主・・聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」ヨハネ14:26


御霊は、私たちの内に住み、信仰生活を導いて下さる。慰めや励ましを与え、進
むべき道を示し、平安を与えたり、取ったりして、日々の生活を導き助けて下さ
る。御霊が解き明かして下さる事により、御言葉を悟る事ができて、神の御心が
わかる。

御霊によらなければ、何一つ悟れない。神の御声がいのちをもったものとして聞
け、理解できるのも御霊による。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益も
もたらしません」人間的なものは、霊の理解においていっさい役立たない。

御霊は私たちの内に志を与え、願いを与え、事を行わせて下さる。肉の思いか御
霊からのものか、よく祈って識別する事が大切だ。特に強い願望には、自らの主
観が入り込む事も多いからだ。

その志は、「御言葉と合致するか」「神の栄光が現れるか」「自己中心な欲望で
はないか」「動機は愛か」「他の人の徳を高めるか、つまづきにならないか」
「平安があるか」等で、試すことができる。

不安があるなら、その不安の旨を主に告げ、不安が無くなるまで、祈り続けるこ
とだ。御心なら、その不安を解決し、必ず平安が与えられる。

御霊は主イエスを証しし、主がどのようなお方であるかを教え、又、主のお心を
教えて下さる。日々の生活で御霊の導きによく目を向けていよう。御霊はあなた
を力強く導いておられる。

・・・・・・・・・・・・
御霊が常に共におられ、信仰生活を導いておられるとは、何と平安で感謝な事だ
ろう。御言葉を思い起こさせ、心に印象与え、環境を閉じ開きしながら、御心の
道へと導いて下さる。今日1日祈り心で、御霊の導きを悟れるように。


2010年11月13日(土)

「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません」Tサムエル8:19

イスラエルの民が、神の御心に逆らって、サムエルに王を求めた。民が「どうし
ても」と要求した時、主は、民の言う事を聞き入れよと言われた。それは、サム
エルを退けたのではなく、神を退けたのだと。

民は王を求めて、神に反逆し、神を退けた。神はサムエルに彼らに厳しく警告し、
王の権利を告げよと言われた。しかし、それでも尚、民は「どうしても王がなく
てはならない」と言い張った。すると、神は、王を立てよと言われた。

時に、自分が肉で計画した事がうまく行く。思い通りに、画策通りになる時に、
これは神が成功させて下さったと思う。神が認めて下さったのだと勘違いするが、
それは大きな誤解だ。神が、何がなんでも、どうしても行くと言い張る私たちに、
自分の道を行く事を許されただけだ。

どれだけ警告しても、私たちが頑固に聞かない時、神は思う道に行かせられる。
そして、自分がした事の結果を刈り取らせられる。苦しい刈り取りになる。しか
し、神のあわれみは更に深く、尚もその刈り取りを訓練とし、祝福とし、学ばせ
られる。

自我を通すことが、いかに痛い事であり、愚かであるかを身をもって知る。蒔い
たものは刈り取る事になる。今、自分の道に行こうとしているなら、又、神に祈
らずに進もうとしているなら、とどまって祈ろう。方向変換して御霊に従おう。
御霊に従う事がどれほど祝福であり、平安な喜びの道かを知る事になる。

・・・・・・・・・・・・
肉は、その時は自分の思い通りになり快適だが、肉の選択の痛さ苦さを後になっ
て必ず知る。何度も経験する。常に目の前に二つの道があり、御霊を選択出来る
よう祈ろう。愛、喜び、平安の実を結んで行く。そこには潤いと温もり、安堵が
ある。


2010年11月12日(金)

「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます」ルカ9:57


3種類の主に従おうとする人々が出て来る。一人目は、神に全面的に従います、何でもし、どこへなりとも行きますと言った。しかし、主は狐には穴、空の鳥には巣があるが、安心して住める家さえ無いと言われた。厳しい苦労があり、大きな犠牲が伴う。喜びと同時に苦しみもあり、それなりの覚悟と決心が必要だ。
中途半端な気持ちで、楽な道だと思っていれば、こんなはずではないと、すぐに挫折する。

二人目は、神からの明確な示しがあるに関わらず、ぐずぐずしている。優柔不断であり、従おうとは思うが、その前にあれこれをしてと、結局従う事の無期延期だ。最終的には従わないまま終わる。御霊の示しに、即、従わないで、常に言い訳や弁解をし、結局従わない人々だ。

三人目は、主に従おうと思い、心を定め、決心していた。しかし、前進しようとしながら、後ろを振り返る人だ。捨てたつもりのものに未練タラタラだ。断ち切る事が出来ない。その未練は神の国にふさわしくないと言われたが、捨てるべきものへの執着がどうしても断ち切れない。結局従えないまま終わる。

主に従わせないよう、妨害してくる様々な誘惑、攻撃、かせがある。様々な方面から誘惑と攻撃がある事を踏まえ、従えるように祈ろう。主に従おうとする時、必ずサタンと肉の妨害が来る事を心していよう。
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主がついて来なさいと言われたら、クリスチャンだから絶対について行く、行くに決まっている、そう思うが結果はどうだろう。実は結べているだろうか。従いたいとの思いは神様からの賜物だ。肉とサタンに逆らい主につき従おう。


2010年11月11日(木)

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」ルカ8:48

                    
12年間もの間、長血を患った女性がいた。律法により不浄とされ、礼拝参加も許されなかった。長きの肉体的苦痛と共に、精神的、霊的苦しみ、又、経済的にも、あの医者この医者と、少しでも良いと聞けば駆けつけ、あらゆる医者にかかり財産使い尽くし、破綻状態だった。将来に何の希望もない。どんなに辛く苦し
い絶望状況だったろう。

主の着物にでも触れば、癒されるのではと求めた。それは断崖絶壁にある、必死の思いであり信仰であった。なぜなら、不浄ゆえ、まず他人に触れる事は不可能なはずであり、にも関わらず、そっと隠れて主に触れようとした、諦めない、屈しない信仰であった。もし信じなければ、最初から触りなどしない。

途端、癒された彼女は、密かに去ろうとした。しかし主は、「わたしにさわったのは誰か」と見渡され、捜され、もう隠しおおせないと悟った彼女は、進み出て、皆の前で、事の次第を話した。人の後ろに隠れ、人混み紛れ込み、おどおどしていた彼女が主の御前に、皆の前に出て語ったのだ。どんなに勇気の要った事だろ
う。
主は彼女をこのまま去らせず、彼女の口から信仰の告白を引き出そうとされた。なぜなら彼女には信仰があったからだ。彼女を光の中に出し、信仰告白させ、その信仰を確かなものとされた。私たちはどうだろう。今、あなたも何かの示しを受けているなら、その示しに応答しよう。 
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病を癒されて終わりではなく確かな信仰へと導かれた。私達も主に出会い、光の中に出され主とともに歩む人生を与えられた。主はいつも示して下さっている。その通りに恐れず主の前に出て行こう。       
                   


2010年11月10日(水)

「あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである」申命記8:7


荒野でのイスラエルを見る時、何と勝手な、自己中心なと思うだろうか。出エジプトに際して、絶体絶命の危機に、神の壮大な奇跡を見た。目の前で海が分かれて助けられるなど、後にも先にも、何という奇跡だろう。どんなに大歓声であった事だろう。輝かしい神の力を見た。

しかし、こんな驚異的な奇跡を見たすぐ後で、荒野に入った途端、やれ水がない、食べ物がないとぶつぶつと不平不満噴出だ。さっき神の力を見ただろう、何という事だとイスラエルを見て思う。しかし、自分自身もまさにこのイスラエルだ。順調に思い通りに行っている時だけの感謝で、少し状況が険しくなると、途端に神を否定する。

「何で!何で!」と神を責め、反発する。要するに自らの求めは、神でなく、自分の都合、自分に都合の良い人生だ。不都合になるや、心を屈折させ、自己憐憫に浸り、周囲に嫌な思いをさせる。自分の欲望と思いが王座を占めているなら、信仰が少しも成長しない。

良い時はいいが、状況が悪化した途端、神を責める。人と比較しては落ち込む。自分の感情、思い、欲でなく、主をあなたの心の王座に据え、御言葉に従って生きる事が大切だ。良い地へ導き入れようとしておられる。不満たらたらで無い、感謝と喜びと安らぎの地へ導き入れて下さる。
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逆境の時にこそ生きて働かれる神様に触れ、知って行けるのに、あれこれと自分の思いが重なり霊的な喜びや希望が失われる。何も見えなくなっても最善をされる神様のご計画は進行中だ。不満、失望が来るとすぐに神様だけに心を向けよう。


2010年11月09日(火)

「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり・・」マタイ7:9

主は人を「裁くな」と同時に、「見分けよ」と言われる。裁く事と、識別し、評価し、判断する事は別の事だ。犬や豚をきちんと見分けなければ、どうして真珠を投げるなとの主の命令に従えるだろう。

識別力を行使しなければ、犬や豚を判断する事は不可能だ。又「霊だからといってみな信じるな」と言われる。終末には、多くの偽預言者たちが現れる。何でもかんでも受け入れるのが愛ではない。霊を何でも信じてはならない。「鳩のように素直」で、且つ「蛇のようにさとく」あるべきだ。

では「裁き」はどうだろう。人を「裁いて」いる時は、自分の内に密かな優越感がある。上に立って、相手を見下している。そして自分は義であり善なのだ。又、相手の非や欠け、失敗に快感があるなら、それは肉であり、裁きだ。それは「裁いてはいけない」に違反している罪だ。肉は、妬み、敵対心の対象の失敗を
喜ぶものだ。

これは肉の性質だ。又、肉は批判が大好きだ。シーソーのように人を下げると自分が上がると錯覚する。虚しい罪だ。誰かに対する裁きがあるなら、悔い改めよう。そして、裁きと識別を区別して、光の御使いに偽装して来る、偽預言者、福音に敵対し、踏みにじって来る者を、ちゃんと見分けられるよう祈ろう。祈りが
大切だ。祈りによって識別を与えられる。
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自分の肉をまず神様に取り扱ってもらい、はっきり識別出来ますように。拒否し受け入れてはいけないものと、自分の罪のゆえに裁いているかもしれないもの。自分自身が神様によってよく見える者にしていただこう。


2010年11月08日(月)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」ヤコブ4:3


信仰生活の中で、時に、なかなか祈りが答えられない事を経験する。祈りは学校であり、祈りとは学んで行くものだ。最初からよく祈れるわけではない。実践の中で教えられて行く。祈りには原則があり、御心にかなう祈りだけが答えられる。

御心でない祈りは幾ら祈っても答えられない。つまり、御心にかなった祈りを知るために、祈るわけだ。祈りの中で、自らの祈りが軌道修正される。動機が正され、目的が正され、核心に導かれ、御心にかなう祈りが与えられて行く。又、祈りの中で、自分自身の姿が見せられ、砕かれ、整えられて行く。

ある人がイベントの祈りにあるアイデアが浮かんだ。良い案であり御心を確信し、進めるがギクシャクして思うように行かない。皆の一致が得られない。祈りで得た案であり、更に祈るが、事は進まない。イラ立ちの中で、ある時祈っていて、自分の頑なな自我を示された。

確かに示された企画だが、意見を異にする人々に反発し対抗し、何が何でも遂げようとする、内に潜む強烈な「自我」に気づかされた。心から悔い改め、自分自身も企画も主に明け渡した。するとその後、不思議に、事が前に進みプロジェクトが組まれ実現して行った。祈りの答えと共に、私たち自身を造り変え、整え、
成長へと導いて下さる。
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祈りの中で自分を知り、御心を知れる。長い間、苦悶しながら祈り続け、ふと気づいたら楽になってることがある。自分の欲しい答えを握って祈り続けていた事が示され、答えを委ねていけた。祈りの中で砕かれ祈りが変わって行く。


2010年11月07日(日)

「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」ルカ22:32

ペテロは主を3回否定し、呪いをかけて誓ってまで否んだ。裏切りなど最も大き
な部類の罪だ。主に対して取り返しのつかない事をしてしまった、後悔してもし
きれない。
以前、他の者たちが、皆、主を捨てても、自分だけは大丈夫と豪語した。自信
満々だった。主はご存じだったが、ペテロは自分を知らなかった。それは肉の自
信であり、自力に頼ったものだ。その満々の自信はもろくも砕け散った。

主はペテロの内面をご存じで、ペテロをご自身昇天後の、教会指導者として見据
えておられた。そのため、ペテロを取り扱われた。もはやいっさい自分に頼る事
のないように、主はペテロの一番の弱点、急所を砕かれた。サタンのふるいを許
されたが、主ご自身が堅く守られた。

あなたも取り返しのつかない失敗をしただろうか。ペテロは号泣した。あなたも
失敗に打ちのめされ、失望落胆し、もう絶対に立ち上がれないと思ったろうか。
主はあなたを御手の中の器として、用いるために、そのところを通されたのだ。

あなたを砕くためであった。取り扱われたのはあなたの一番の弱点、急所のはず
だ。あなたを砕いて、主の間に合う、有用な器に造り変え、整えるためであった。
もう自分を誇らず、自分に頼らないように。砕かれる事は恵みだ。失敗をも益と
して下さる。自力でなく、神に頼る者と変えられる。

・・・・・・・・・・・・・・
数々の失敗をも、御手に引き取り、益として下さるとは、何という恵みだろう。
自分に頼るなら失敗する。片時も主を離れず、主に頼って〃歩むこと、それが喜
びであり、平安だ。そのような者に、造り変えて行って下さる事、それが感謝だ。


2010年11月06日(土)

「私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした・・確信したからである」使徒16:10

時に、神の御心を求める時、「御心を示して下さい」と祈り、聖書をパッと開い
て、偶然開いた箇所の、パッと目についた御言葉を取って「示された!」と言う
事を聞くが、それは危険だ。

聖書は占いの本ではない。すべての御言葉には前後関係があり、文脈があるので、
前後関係を全く無視して、1節だけを取り出すのは、間違った方向に行ってしま
う。異端がしかりだ。神の導きと正反対の方向へ進む。

人は主観が強いと、又、強い願いや思いがあると、御言葉を、自分の都合のよい
ように取り込んでしまう。どうしても、人間は、肉の思いがあり、自分の都合に
合わせて読み込みたいものなのだ。

そうすると御心を誤ってしまう。御心を求める時は、よくよく祈ることがまず大
切だ。日常生活全般に耳を澄まし、御言葉を待ち望むことだ。礼拝メッセージか
ら、デボーションから、信仰の人々との交わりの中から、様々なものを通して、
主は必ず語りかけて来られる。

指導者の助言も参考にするとよい。様々な経験を持っているので有益だ。祈りつ
つ、御言葉を待ちつつ、状況、環境をじっと見ていることだ。門が閉ざされたな
ら、それは御心でない。御心なら自分で開くのでなく、必ず環境が開かれる。

門が開かれ、御言葉と平安与えられ、尚かつ祈るなら「確信」が与えられる。そ
の時はぐずぐずせずに、即、立ち上がり行動に移し、前進すべきだ。あなたへの
御霊の導きは、今、待ち望めか、それとも前進せよだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・
大切な事ほど、よく祈り、耳を澄まし御声を聞こう。状況を見張り、不安がある
なら、時間をかけて祈り続けよう。御心なら必ずその不安を取り去り、平安にし
て下さる。確信が来たなら、祈りの座から立ち上がり実行しよう。祝福が待ち受
けている。


2010年11月05日(金)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ・・欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」ヤコブ1:14


ある人が自分の短気に悩んでいた。とにかく、何かあると、すぐ怒りが湧く。そして、カッーとなるともうだめで、収まらない。怒り噴出で、そばにいる家族に怒りをぶつけ、当たってしまう。周囲に嫌な思いをさせ、害毒を流す。自分も暗たんたる思いに落ち込み、常に反省するのだがどうしても直らない。この事で助
けを求めて祈っていた時に、気づかされた。

「怒る事をやめられない」のでなく「やめたくない」、そして「怒りをやめたくない」のでなく「怒りたい」のだと。「怒り」の欲望に誘惑の餌が来た時に、その欲望に待ってましたと、乗じて行く自分がいて、すでに怒ろうとしている自分がいる。サタンからの誘惑が来たその瞬間自分を引き渡している。

そんな自分の姿が見せられた。ここが問題で、ここからいつも繰り返す同じパタンに進む。本当は怒りたいのだ。私達のそれぞれの弱さ、誘惑も同様だ。妬み、貪欲、裁き、思い煩い、断ち切れない悪習慣・・誘惑が来た時に、自分を「引き渡す瞬間」がある。

罪を好み、罪を愛し、罪を犯し続けたい本当の自分の姿を認め、この瞬間に主に助けを求めよう。自力で断ち切る事は不可能だ。自分で何とかできると思い、何とかしている限り、主は働けない。無力を認める時に、主が助けの手を延べて下さる。
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自分の肉の欲や弱さを変えたいのかよく考えてみよう。変わりたいなのなら、裁いて当然だ、怒って当たり前・・とのサタンの誘惑が見える。くり返す失敗をよく見張りサタンの誘惑に引き渡さず主の導きに明け渡そう。


2010年11月04日(木)

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」箴言27:5


時に、真っ直ぐに語ることは大切であり御心だ。自分が言いたくない厳しい事も、御霊が導かれるなら、はっきりと相手に語る必要がある。相手には必ず痛い、聞きたくない、触れられたくない所なので、その忠告や警告、助言は相手に嫌われるかも知れないし、反発されるかも知れない。言わない方が楽だ。

しかし、御霊の促しがあれば、従うことが必ず祝福となる。「築き上げるためであって、倒すためではない」、神がされる事は、常に建て上げ、築き上げられる事だ。相手を築き上げるために、神はあなたを用いられる。忠告するように促されたなら、まずよく祈り執り成して、自分も同じ状況になればどうかとよく考えてみるべきだ。

単に罪を責めるだけでなく、自分にも弱さがあり、相手への同情と愛情が与えられる。愛が無ければ、その忠告は無意味で虚しい。やかましいどら、うるさいシンバルになってしまい、相手の心に届かない。又、逆の場合もある。忠告を受ける場合だ。

誰かが、間違いを指摘し忠告してくれる時、それは、人からではなく神からだ。素直に、謙虚に耳を傾け、警告を受け取ろう。自我、プライドには、痛烈な打撃かも知れないが、へりくだる者を神は高められる。力強い御手の下にへりくだろう。へりくだる者に必ず成長が与えられる。
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倒すためでなく築き立て上げるために相手に向かっているのか、良く祈り示されたなら主とともに口を開こう。対人関係の中で真実を言うのも聞くのも難しいが誠実で平和な心が自分にあるかに向き合ってみよう。


2010年11月03日(水)

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:15



イスラエルの民は、多くの奇跡を見て、神の言葉を聞いていたに関わらず、不信仰であり心が頑なであった。出エジプトの偉大な奇跡を見たのに、荒野に出た途端、食べ物が無いと不平不満をぶつけた。つまり、神が与えて下さる事を信じない。そして、天からのマナを見て、岩から湧く水を見ても、カナン偵察した斥候
達の言葉に怯え、あのエジプトに帰ろうと言った。

神のわざを見ても、神を信じる事が無かった。いつも疑い、不満だらけで、最後まで神を信頼する事が無かった。親から繰り返し注意された事がないか。余りにもひんぱんなので「耳にたこ」とばかりに、受け流した経験がないか。聞き流してしまって、心に入らない。反省も無く、ましてや言葉も真剣に受け止めない。

これが心を頑なにするという事だ。こうなると、物理的に耳には入っても、決して心には入らない。これが繰り返されると、そのままでなく、ますます心が固くなってしまう。すると、どんどん神に対する不信仰が固められて行く。心が石のように固くなると悔い改められなくなる。これらは自分でそうしてしまっている。

民が安息に入れなかったのは不信仰のゆえだ。神の言葉をいい加減に聞いているなら、悔い改めて真剣に向かおう。必ず恵まれ祝され自分が変えられて行く。
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度々聞いている御言葉もすぐに右から左へと受けては流してしまうことがある。御言葉は、世の闇の中で唯一照らしてくれている足もとのともしびだ。真剣に自分のものとして聞いていこう。


2010年11月02日(火)

「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから」ルツ3:1


ナオミの亡くなった息子の嫁ルツ、ナオミは自分について来てくれたルツの将来の事をよく考え、祈っていた事であろう。落ち穂拾いに出て、丁度ルツが出会ったボアズ。そのボアズは親類であり、ルツに目をかけ、好意を示してくれている。誠実な人柄であり、ルツの将来を託すのに、こんなにふさわしい人物はいない。

ナオミはルツに指示を与えた。ルツはナオミに言われた通りに従った。ボアズに買い戻しを願い、ボアズの足もとに寝たのだ。勇気が要っただろう。ナオミの言う事に、忠実に従った。するとボアズは、更に近い親類がいるので、もしその人が放棄するなら自分が買い戻すと言った。ナオミは、すべての障害を越えて、必
ずボアズがルツを買い戻す事、それが神の御心であり、成就する事を信じていた。

それで、この事がおさまるまで待てと、確信を持って言えた。神が働かれるから、見守って待っているようにと。立ち動く事をせず、ただじっとしておれと。人間的な動きを止めることだ。私達にはこれが非常に難しい。肉は必ず対処、対応し、盛んに動こうとする。その方が楽なのだ。

目に見えない神を、ただじっと待ち望む事は難しい。又それは、何もせず手をこまねいているのではなく、なすべき事はして待つという意味だ。ルツは自分の分を果たし、ナオミに言われた事をすべて果たした。だからこそ、次にすべき事はそこで安息し、委ねてただ神がされる事を、祈りの内に待てばよい。あなたにも、
今なすべ事を果たし、神を待てと言っておられるだろうか。
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動く時と、待つ時がある。不安のままでじっと待つのではなく、今は待つ時だとの示しがあるなら、しばらくの間、静かに神様が働きを始められるのを待っていよう。主の栄光の現れを希望をもって待とう。


2010年11月01日(月)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから、『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」イザヤ30:21


ある女性が、職場でチーフに抜擢された。能力を必要とされる立場であり、とても無理、できない、どう考えても役不足に思えた。とても出来ないと、自分は即座に断りたかったが、しかし、とにかくまず祈ろうと、主の御心を尋ね求めた。主の御前で、聖書を広げ、静まった。心を静め、この事について自分の思いをこ
とごとく打ち明けた。

仕事内容が難しく高度であることの不安、部下を持ち、人を使って行くことの不安、皆がついて来てくれるのか、本当にやって行けるのか、ああでもない、こうでもないと、心の内を打ち明け、十分に祈った。そして御言葉を読みつつ、御心を聞いて行くと、主から「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。たじろぐな。
わたしはあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」との言葉が臨んだ。

その時、あれほど思い煩いと恐れで一杯だった心が、すうっーと平安になった。恐れと不安が消えた。主が共にいて下さる確かな信仰を与えられ、受諾出来た。今、目の前に、恐れと不安の事態があるなら、思い煩っていないで、御前に座し、静まり、心の内をことごとく告げ、御声に耳を傾けよう。御心の道を示し、導い
て下さる。
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祈りはしても、主が守り導いて下さる確信を得て動いているだろうか。確かな導きを聞くための時間をとろう。不安や恐れで一杯の時こそ、落ち着いて御言葉を読み「これが道だ」との確信を待とう。