2010年12月31日(金)

「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです」Uコリント4:15



私たちにとって、マイナスの出来事や、都合の悪い事が起きると、例えば、病気やけが、リストラ、受験不合格、対人関係の悩み等、心が暗くなり、苦しくなり、どんどん落ち込んでしまう。そして「どうして、こんな事が、私に!」「なぜ?私なのか?」と驚き慌て、我が身の不幸を嘆き、他人が皆、幸せそうに見えて、自己憐憫に陥る。

しかし、心をよくよく探ると、なぜそう思うのか?そう思う事の裏に、順境は善、逆境は悪、との価値観が無いだろうか。その底の価値観こそが問題だ。神に無駄は一つも無く、一羽の雀さえ父の許しなしには地に落ちる事はない、すべてが量って与えられ、神から送られているものだ。

全主権と支配が神にあり、御手の中にある。神の価値観で捕らえる時、見方が変わる。それは悪ではなく、愛されていないからではなく、偶然でなく、不運なのではなく、サタンにほんろうされているのではない。神の御手から送られている。

その悩みと問題には、神の目的と意図があり、ご計画がある。その問題を通して、あなたへのメッセージがあり、教えたい事がある。そして、私たちをキリストに似る者に変えたい。そのためにどうしても必要ゆえに、問題が送られて来る。そこを受け取ろう。失望落胆でなく、屈折せず、自己憐憫に陥らず、何を教えようとして下さるのかを、祈り、求め、教えて頂こう。
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思い通りに行った時に感謝するばかりの毎日だったが、来年は少しでも思い通りにならない事を通し自己主張してやまない自分を認めて、愛を持って聖めんとしておられる神様をそこで見上げて行きたい。


2010年12月30日(木)

「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります」詩篇40:8


寒暖計の人生がある。外気温の通りに温度を表示する。寒ければ低温度、暑ければ高温度を表示する。つまり、気温の通りに反応する。人が親切であれば、親切に、優しければ、優しくする。相手が冷たければ、冷たく、攻撃されれば、仕返しをする。これは反応する生き方だ。これでは、自分の幸、不幸が、他人によっ
てコントロールされる事になる。

相手次第というであり、自分がまるで無い。ここ数日を振り返ってどうだろう。他人のあの言葉や、この態度で、自分がアップダウンしていないか。他人の評価で一喜一憂し、天にも上る心地になったり、暗く沈んだり。人が気になって、気になって仕方が無い。まず反応している自分に気づき、祈ろう。反応するのでな
く、御霊の導きに従う事を決心しよう。

ある人が、職場で自分に辛く当たる人がいた。挨拶しても無視された。しかし、反応ではなく、御霊に従って生きる事を決心していたので、相手に関係無く、自分は御霊に従い、挨拶をし続けた。ある時、その人の仕事で、間接的に助けられ、真に感謝だったので、その意を告げた。すると、相手に良心のとがめが、ありあ
りと感じられ、相手が変わった。その後、親しい友人となり、悩みを相談されるようになった。

反応するだけだろうか、もし、御霊に従うなら、自分から良いものが出て、あなたが周囲を変えて行く。
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私達の示すみこころの態度は相手によって、ころころと変わるものではない。呼応しそうな時、私達の内に書き記された御おしえ、また導きに気づけて、誰に対しても真に自由に振舞えますように。


2010年12月29日(水)

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」箴言19:21



信仰人生の中で、思いもかけず、目の前で道が閉ざされる事がある。今までの歩みで経験したし、これからも経験するだろう。自分はこの道が願いであり、自分にとって最善だと思うのだが、目の前で、神からの「ノー」を突き付けられる。
非常に厳しく感じるが、入学試験や、就職試験や、様々な事柄で経験する。

それで、自分の思いとは全く違った、思ってもみない方向へ向かう事になる。しかし、自分の思いとは違うので、失望落胆してしまう。「ノー」は、進路だけでなく、自分自身をも否定されたような気になってしまうかも知れない。しかし、神には、行き当たりばったりという事が、絶対に無い。

初めから、完全な計画を持っておられる。あなたの人生には、すでに神のご計画がある。あなたの思った道が、神の御心とされた道と違っていたのだ。環境を開き閉じしながら、神は、正しくあなたを御心の道へと導いておられる。人生の「ノー」を神のご意志として受け入れよう。必ず、別の道が用意されてあり、それは遙かに良い道だ。

その時はわからないが、振り返る時、パズルがつながり、神の道が最善であった事を知る。「ノー」で良かったと必ず思える。道が閉ざされた時、不信仰や自己憐憫でなく、神の御心と受け止めよう。その状況の中で、開かれた道を行けばよい。神は正しくあなたを御心へと導かれる。
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自分の計画しか心になければ、溢れるばかりに与えて下さっている日ごとの恵みを取りこぼしてしまう。門が閉じられたなら、神様のご計画と異なっている、別の道へ導かれていると期待し喜んでいたい。 


2010年12月28日(火)

「ここを去って東に向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ」1列王17:2


エリヤがアハブに雨が降らない事を宣言した後、神はケリテ川に行き、身を隠せと命じられた。アハブから守るためであり、神によって養われるためだ。カラスを遣わし食べ物を運ばせると。カラスに自分の命の糧がかかっているなど、何と心もとない不安な事だろう。カラスが食べ物を運ぶなどと普通は考えられない。

その次は、やもめ女を通して養うと。どんなに裕福な女性かと思うと、最後の粉で食事をして、今から死のうとしていると。貧しさの極みで、死にかけている人物であった。カラスに貧しいやもめ女、これらを通して、エリヤは自分の無力を思い知らされた事だろう。

カラスや、やもめ女に頼るのでなく、神の御言葉に、神の約束に頼る、神を信じることの訓練であった。「烏にそこであなたを養うように命じた」「やもめに命じて、あなたを養うようにしている」この約束の言葉を信じ、御言葉に立ったエリヤは、そこで御言葉の通りに養いを受けた。

烏を通して、やもめを通して、実際は神からの養いであった。信仰に立ったエリヤは、やもめ女に「恐れてはいけません・・主がこう仰せられる」と言えた。やもめ女も子供も飢饉のまっただ中で養われた。目に見える所が、どんなに心もとない状況であろうと、約束の言葉に立つ時、信じて行く時、神の約束の成就を
見る。
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神様の言葉と目の前の状況はいつも大きく違って見える。しかし神様の計画が成る。私達は疑わず目の前に現実を自分で判断せずただ神様の御約束を握って進んで行くだけだ。


2010年12月27日(月)

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」ルカ18:14


取税人とパリサイ人が、宮に来て祈った。祈りの言葉で、心の内が見えて来る。パリサイ人の意識は、ひたすら「人」に向けられるばかりであった。そこに神は無い。取税人は、人などそこに介在せず、ただ「神」だけを見上げていた。あるのは、神と自分の関係だけであり、神意識だけだ。

パリサイ人は、「神よ」と言いつつ、実は神ではなく、人に向かい、人に対する自己意識だけだ。人と自分のみだ。取税人は、神の前の自分を意識して、自らの罪を認めている。御霊に罪を示され、悔い改めを与えられる時、人が見えない。神と自分の間で、自らの罪が見えるだけだ。そして、その罪は主の血潮で、赦さ
れる。無罪放免とされる。

パリサイ人は人と比較して、自分を見る。自分の罪の基準が、人による。だから罪認識があり得ない。そして悔い改めも無い。このようにサタンは常に、人と自分を比較させる。

御言葉の光に自分を照らし出すのではなく、人との比較で、自分はどうなのかを見せる。サタンの誘惑であり、人より優るなら優越感、人より劣れば劣等感となる。真の罪認識に至る事がない。神に向かない限り、人は罪を知る事はできない。
罪が赦されるのは罪人だけだ。罪を人との比較で見ていないだろうか。
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御言葉に向かう時、自分がどれほど罪深いかがわかる。御霊の導きに従えない自分、自分の事しか考えていない自分がはっきりと示される。その中から神様!と叫ぶ祈りが出来る。誰に何を祈っているのかわからないような祈りは無意味だ。


2010年12月26日(日)

「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」Uコリント9:8

ある人の証しだ。ある礼拝で、心が恵まれて溢れて、主の愛が臨み、何かの形で
応えたいと、財布にあるものすべてを献金した。後のことは考えておらず、とに
かく献げたかった。心からの喜びを持って献げ、献げた時にも喜びに満たされた。

礼拝後、教会の人々と交わっていると、たまたま家が同じ方向の人がいて、車に
一緒にどうぞとの親切な申し出に驚いた。主の備えに、又、又、感謝が溢れた。

別の人は、経済的必要のある、一人の人の事を示された。御霊の強い促しを感じ、
自分の経済状態の事も脳裏をよぎるが、主を愛するゆえに従いたいと思った。導
きのままに、財布の中身を全額を、指定献金で献げて帰った。

すると、その帰り、何と財布を落としてしまったのだ。自分の欲望にでなく、御
霊に従えた事に心から感謝した。もし献げなかったなら、財布を紛失して終わり
だった。聖霊に導きに、促しに従う事を強く教えられた。

ある人は御霊の示しに関わらず、献金できず、ぐずぐずしていた。すると、病院
通いが続き、どんどん出費がかさんだ。日頃、健康がどんなに守られ、必要が満
たされているかに初めて思いが至った。
感謝がなく、恵みを当然としか思っていない態度を心から悔い改めた。何と溢れ
るばかりに主は、私たちに与えていて下さる事だろう。

・・・・・・・・・・・・・・
時間、労力、富、賜物を献げて行く時に、無くなるのではなく、更に与えられ、
増し加えられ、更に献げることができるように恵みを与えて下さる。そして、す
べての事に満ち足りる。心に平安満たされ、必要備えられ、感謝が溢れる。


2010年12月25日(土)

「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」マタイ2:3

長旅をし、エルサレムに到着した博士達は、ヘロデ王に会い、ユダヤ人の王の生
まれた場所を問うた。拝みに来たと。それを聞いて「ヘロデ王は恐れ惑った」。

なぜ、赤ん坊の誕生にヘロデが恐れたのか。それは「ユダヤ人の王」との言葉だ
った。王位を守るためなら、何でもする執念の人物だ。結局、新しい王を抹殺す
るために、2歳以下の子供を皆殺しにした。

そして恐れと不安を抱いたのがヘロデだけでなく、「エルサレム中の人も同様で
あった」。ヘロデの不安はわかるが、なぜ、エルサレム中の人々が不安なのか。
一応今の暮らしが成り立っている。新しい王が来て、秩序が乱れ、争いが起こり、
安泰な生活が乱される事への拒否反応だ。関わりたくない。

ヘロデは、学者達を集めて、キリストの出生地を問うた。彼らはベツレヘムと報
告した。その祭司長や学者達はメシヤが生まれたというのに、行く事もしない。

素晴らしい喜びの知らせに、保身に走るこれらの人々は、自分の生活を守るばか
りだ。博士達は遙か遠国から、命の危険を冒して、主を礼拝しにやって来た。羊
飼い達は幼子を捜し当て、神を崇め賛美で満たされた。

彼らは、メシヤを礼拝して大きな喜びに満たされた。保身は主を締め出してしま
う。博士達や羊飼い達のように、「素晴らしい喜び」に満たされたい。心の隅々
まで開いて、主をお迎えしたい。

・・・・・・・・・・・・
自分を守るばかりなら、結局、自分を守って終わりで、主を知ることはできない。
喜びが満ちることも、大海のような平安を知ることもない。「この上もなく喜ん
だ」博士たち、この「素晴らしい喜び」に満たされたい。従って行きたい。


2010年12月24日(金)

「あなたのおことばどおりこの身になりますように」ルカ1:38  

  
マリヤはナザレの田舎で暮らすごく平凡な女性だった。ヨセフと婚約中で大きな喜びの中にいた。結婚の夢を描いていただろう。突然の事態に「どうしてそんなことに・・」マリヤは、なぜ自分なのかと大きな戸惑い、恐れ、不安に襲われる。
これはマリヤが望んだ事でも、選んだ事でもない。神が一方的にマリヤを選ばれたのだ。

ヨセフはどうなるのか。聖霊によりみごもるなど、そんな唐突な事を誰が信じられるだろう。結婚は壊れてしまうだろう。人はどう思うだろう。それより姦淫は死刑だ。お言葉通りになるとは、死を意味する事になる。周囲に自己弁護も出来ない立場をマリヤは受け入れ、覚悟を決め、決意し、神に身を差し出した。
その身を献げきった。

私達はどうだろう。主のお言葉通りにではなく、私の言葉の通りにとばかりに、神に「ああして下さい、こうして下さい、あっちへ行って下さい、こっちへ来て下さい」とまるで主をしもべのようにしてしまう。しかし、「この身になりますように」と、自分の思いを捨て、自分の将来も献げ、自分を全く明け渡したのは、
マリヤの信仰だ。

今、あなたにも導きが臨んでいるだろうか。マリヤと同様、神はあなたを選び、あなたにより神のわざを成そうとしておられる。特別にあなたを選ばれた。この身になりますようにと、信仰によりお献げしよう。
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あれが出来てから、もう少し状態が整ってからと思うが御霊の促し、導きが一番価値のあるものだ。おことばどおりにこの身になりますようにと、主に自分自身を明け渡し、信仰を持って素直に献げよう。


2010年12月23日(木)

「私の赦したことは・・キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです」Uコリント2:10



人をどうしても赦せなくて、苦しんだ経験があるだろうか。人を赦さなければ、自分から牢獄に入る事になる。四六時中、牢獄の中であり、その人が目の前にいようといまいと、心は憎しみで、がんじがらめだ。苦しいのは相手ではなく、まさに自分自身だ。心暗く、平安無く、悶々状態だ。自分自身のために、人を赦す
ことはどうしても必要だ。

人を赦すことは、人生の主導権を自分に取り返す事だ。なぜなら、憎んでいる相手に、自分自身と自分の全生活をコントロールされてしまっている。主導権を渡してしまっている。繰り返し、繰り返し嫌な相手を思うので、憎悪は更に増幅し強固になり、やがてモンスターになって行く。悪循環そのものだ。

その背後にいるサタンの思うつぼであり、サタンにほんろうされてしまっている。あなたが赦す事によって、サタンを拒否し、相手があなたの人生に割り込む事を拒否する事になる。あなた自身が解放される。そうしたくないだろうか。

赦さない心からは、何も生まれない。赦したくない事を、ありのまま主に告げて、主の助けを求めよう。赦しますとの意志を向けて行く事は大切だ。まず自分を赦して下さっている主の十字架に目を向けよう。十字架から赦しが流れ出ている。まずあなたが赦されている事を、深く受け取る時、必ず人を赦す事ができる。
主が助けて下さる。赦された人が、人を赦して行く。
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自分のために赦せない思いを主に告げ、苦々しい思いから一刻も早く解放されよう。繰り返し思い出すたびに、背後のサタンにノーと言い、主に委ねたことを感謝していよう。主が守って下さる。


2010年12月22日(水)

「しかし、私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」詩篇73:28  


詩篇記者は、悪者が栄えるのを見て、つまずいた。「何で?」彼らは楽しそうで、豊かで肥え太っていて、何の苦しみもなさそうだ。悪者はいつまでも安らかで、富を増している。それに引き換え、自分は惨めで、苦しみばかりで、何のよい事もない。歩みは滑るばかりだと。

どういう事か、どうして神を信じない者が栄えるのかと。不満で悶々だ。その彼が、神の聖所に入り、光が与えられた。実は彼の不満や妬みや愚痴や、様々な悩みの原因は、神の近くにいなかったことによると悟ったのだ。

本当の問題は、不本意な事態や様々な状況ではなく、自分と神との関係だった。それが信仰にとって根本的な問題だ。私たちも同様だ。愚痴や不平で悶々状態の時、イラだつ時、本当の問題はその状況でなく、自分と神との関係だ。

神から離れているから、平安無く喜び無く、心が荒んでイライラしている。妬みで一杯になる。それに反して、神と親しい交わりにいる時、状況がいかに波風逆巻いても、大嵐の中でも、心は平安に守られる。

神の近くにいる事が幸せであり、問題が問題でなくなる。一番大切な事は、神と自分の関係だ。今、自分はどうだろう。神から離れているなら、すぐに立ち返ろう。平安と喜びが戻る。そして、状況に関係なく、御翼の陰で幸せを感じることができる。
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目の前の状況は不満やストレスを感じさせるものばかりでも、心が神様の側に留まっているなら、いつでも御霊の慰めや励まし導きを受けながら生活して行ける。人とは違う自分だけの神様から来る喜びがあり平安がある。それが本当に幸せだ。


2010年12月21日(火)

「この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです」ガラテヤ5:17



生まれつきの肉、古い性質と、御霊による新しい性質の二つが、同時に存在する。二つの性質はそれぞれが強く引っ張る。いつも体験しているところだ。助けが必要なのでは?との相手に「助けなくては」と思い、もう一方は「いや、面倒に巻き込まれたくない。時間が無い。自分の事で大変だ。無理だ」と思う。

二つの思いが臨む。肉と御霊を意識していなければ、自然のままなら、ほとんど肉に従ってしまう。肉に流されて気づかない。肉の声に説得されてしまい、神の祝福を逃してしまい、御霊の実を結ぶ機会を失う。

先週一週間を振り返るとどうだろう。様々な御霊の導きに気づかないままだろうか。そう言えばあの時と、思い当たるだろうか。御霊の導きが来た時に「無理」「出来ない」と流してしまわず、そこで「出来ません」と祈ろう。

「出来ませんから、助けて下さい」と、主のもとへ持って行こう。その時に、主が働かれ、自分ではない、主のみわざを経験する。「出来ません」と無力を認め、助けを求めて祈ると、出来るようにされる。

ある人は、相手の苦しい結果は、自業自得じゃないかと、裁く思いで祈りも出来なかった。「どうしても祈れません」と祈り、助けを求めた。その時、自分がもしその立場ならとの、思いが与えられた。涙が溢れて止まらず、相手への同情で一杯にされた。真剣に執り成している自分に、御霊を感じた。
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自分のしたいと思うことが出来ないから自己嫌悪し恥ずかしく思う。しかし恥ずかしく思えたことも感謝だ。神様に助けを求め祈れる。神様から受けなければ何も出来ないし、またその力を与えて下さるのを待ち望める。


2010年12月20日(月)

「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた」創世記22:1


アブラハムに与えられた、まさに神からの試練であった。神は試練を与えられる。ひとり子イサクを、全焼のいけにえとして献げよと、神が本当に言われたのか?神との交わりに生きているアブラハムにはわかった。間違い無く神であり、神からの命令だ。

どんなに苦悩の一晩であったろう。最愛の息子だ。それも神が賜った将来に繋がる約束の子だ。最愛のイサクが死んでしまう・・それにイサクから子孫が繁栄するという約束はどうなるのか?・・しかし、アブラハムは、神を信じ、神にはイサクをよみがえらせる事ができると信じた。

彼は「翌朝早く」神の命令に従った。「早く」というのは真理だ。主の命令には、「早く」速やかに、すぐに従うのが良い。早く従えば従うほど、従いやすい。グズグズ遅らせるなら、そこにサタンに機会を与え、正当な言い訳や口実や理由が幾らで次から次へと湧き上がる。その内、サタンに説得されてしまい、必ずや
従えなくなる。

あなたも経験あるだろう。大きな祝福があればあるほど、サタンは必ず妨害して来る事をわきまえよう。ぐずぐずし、従う事が遅れれば遅れるほど、従う事に大きなエネルギーが要り、結局、従えなくなってしまう。

もし、あなたが今この状態なら、目の前の導きに、すぐにきっぱり従おう。従うなら、主の山の上に備えありの、大きな主のみわざを経験する。
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御霊の導きだと確信したらサタンを振り切るためにもすぐに従おう。ぐずぐず後ろを振り向いていたら何の展開もない。従いますの意思を献げたなら、後のことは神様が守り整えて下さる。


2010年12月19日(日)

「いやいやながらでなく、強いられてでもなく・・神は喜んで与える人を愛してくださいます」Uコリント9:7

献げることは大きな祝福だ。この祝福を奪うためにサタンは必ず妨害して来る。
誰しも自我があり、執着心があり、所有欲のため、なかなか献げられない。

ある人は「贈り物を前もって用意すること」5´を示されていた。銀行で下ろそ
うと思うが、多忙で後回しなり、時を逸してしまった。礼拝で手持ちを献げるよ
う、御霊の促しを感じたが、渋った。すると帰路で車のトラブルに会い数万の出
費をした。

ある時も、御霊からの愛の示しに関わらず、家計の不安をあおるサタンの声に耳
を貸した。献げられなかった帰途、交通違反で罰金に。神を感じ、放っておかれ
ない、神の取り扱いが、ご愛が心から嬉しかった。喜んで献げるように変えて下
さった。

別の人は困窮のため祈り求めていると、逆に献げるよう示され、示しに従い信仰
によって大胆に献げた。すると、思いもかけない所からすべての必要額が与えら
れ満たされた。身をもって従う事の祝福を知った。

肉は1から10まで自分の事だけを考え、自分の損得で動く。絶対に損はしたく
ない。献げるより、得る事に喜びを感じる。しかし、新しい人は損得でなく、神
の御心が判断基準だ。例え、損になっても、神に従い、御言葉に従う。そして喜
びが与えられ、大いなる祝福を刈り取る。

献げる時、又、何か御心を行なおうとする時、必ずサタンが自我に働き、妨害し
て来る事を覚えよう。御霊の示しに、信仰により従う時、新たに主の愛を知り、
喜び満ちる。そして更に与えられる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
富、労力、時間、賜物を献げようとする時、必ずサタンが妨害して来る。祝福
と喜びに入らせたくない。このサタンの妨害をわきまえ、示された御心を一つ
一つ行なって行こう。行なう時に祝福され、それは更なる祝福に展開し続いて行
く。


2010年12月18日(土)

「わたしは人からの栄誉は受けません」ヨハネ5:41



私たちは、誰しも人に認められたい、評価されたい欲求がある。小さな子供は、
いつも親に「見て」「見て」と注目を集める。私たちの、人に認めて欲しいとい
う欲求は根深いものがある。そのため、人の評価を得られない時に、大きなスト
レスとなる。

この部分に、サタンは巧妙に、狡猾につけ込み、誘惑して来る。主が荒野で誘惑
を受けられた時に、サタンは、神殿の頂から身を投げるように誘惑した。御使い
が助けに来て、皆の前で、ヒーローになれると。世界の注目の的になり、人気を
博した上で、人々を救えばいいではないかと。人々は大喝采だと。

人々から注目を浴びる快感は大きな誘惑だ。誰しも、人の前で良い格好したいし、
賞賛を受けたい。主イエスにも来た誘惑だ。私たちの心に、サタンのこの誘惑が
来た時に、御霊が気づかせて下さるように。人の評価を求めるところから、神の
歓心より人の歓心を得ようと、方向がずれる。

そこに、虚栄心、プライド、優越感や劣等感が、むくむくと頭を出してくる。そ
して常に人が気になる。神から目を離すと「比較」の中でしか自分を量れないの
で、人が基準にならざるを得ない。その中で劣等感と優越感にがんじがらめにな
る。
主に焦点を合わせる時、自由にされる。まず、人の賞賛を求めている自分に、気
づくことから始まる。

・・・・・・・・・・・・・
神無しでは、自分を量るためには人しか無い。人との比較による差異でしか量り
ようがない。主から目を離した途端、人が目に入り、そこから方向違いに陥り、
平安が失せる。「あなたは、わたしに従いなさい」横でなく縦に目を上げて今日
も従おう。


2010年12月17日(金)

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」ヘブル4:16


ある人が、多忙な日々を過ごしていた。早朝出勤の深夜帰宅で、次々とこなさなければならない業務に追われ、心身クタクタになりながら、少しづつ、神が後回しになって行った。その内、何とか持っていた祈りの時間も失せて行った。これではいけないと思いつつ、目の前の状況に流されて行っていた。

段々自分の思い、自分の知恵で歩むようになり、御言葉も心に響いて来なかった。悪循環になり、ますますイライラ、ピリピリして、思い通りにならない周囲をさばいて行った。仕事も更に忙しく、心に余裕がなく、しんどくてたまらなかった。余りに心が苦しくなり、聖書を開いた。しかし、文字を追うばかりで、全く心に入って来なかった。祈ってもみたが、心が集中できず、何の変化も無かった。

心重く、渇いて次の聖日に礼拝に行った。その時、賛美の十字架の歌詞が、ぐいぐい迫り、心にしみた。何もかも捨てられた主、十字架の死にまで従われた主、主のその犠牲の愛、真実が、乾ききったスポンジが水を吸い込むように、心にしみて来て、メッセージの一言一言に心が溶かされ、満たされて行った。

真実なる主は、苦しみから祈った、あの小さな祈りを確かに聞かれたのだ。その祈りに答えて下さった。どんな小さな祈りも聞かれている。主のもとに行き、心の内を告げよう。
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いくらでも神様との交わりは後回しにできるから朝から動き回ってしまう。しかし霊の部分は渇いていて、祈らなければ、との御霊様の促しを感じるだろう。神様の御前に黙し祈る時を守ろう。朝毎に必要な力と恵みで新たにされる。


2010年12月16日(木)

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」ローマ7:24


ある女性が結婚後、嫁姑問題にぶち当たった。夫との関係も、思っていた以上に考え方、価値観や嗜好、習慣の違い、ありとあらゆるものが違っていて、悶々状態となって行った。夫の仕事が多忙で、語り合う時間もなく、イライラが募るばかりで、不平不満で一杯になり、相手を裁き、責める。

自分の非を決して認めたくない強い自我に苦しむ日々、そんな自分に自己嫌悪にも陥る。主の御前に赦しを求めるが、そのしりから相手を責め立てる思いが湧き上がる。苦しみの数年を経て、疲れ果ててしまい、もう限界で、これ以上やって行けない状態になった。

姑との確執、夫と喧嘩ばかりの日々、もう結婚生活を続ける事ができないところまで、追い込まれた。「主よ、助けて下さい。この結婚を明け渡します。自分自身を、もうどうにもできません」とギブアップした。その時初めて、今までも理解していると思っていた主の十字架が、真に自分の事として迫った。

罪しか犯す事ができない自分だからこそ、十字架がある事がわかり、心底からの悔い改めが与えられ、今まで味わった事のない平安と喜びに満たされた。祈りながらも、ずっと自分で何とかしようとして、もがいていた事に気づかされた。どん底こそが、実は、真に主に出会う最大の恵みの場所だった。
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自分でどうにかしようともがいているうちに、自分がどうしようもない者だと気づく。罪しか犯せない者だと認められたぶんだけ十字架の救いの感謝は深くなる。罪示され、赦され十字架を知っていこう。


2010年12月15日(水)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり・・将来と希望を与えるためのものだ」エレミヤ29:11


バビロン捕囚は、その事態だけを見れば絶望でしか無かった。しかし、結果的に見れば、神の民は捕囚により、悔い改め、神に立ち返る事ができ、信仰の回復がなされた。70年後にエルサレムに帰還させるとの、神の約束も成就された事になる。

「あなたがたのために立てている計画」・・バビロン補囚が「神の計画」だと言われる。見えるところは落胆、絶望、挫折、混乱であったが、神にとっては平安と将来と希望のための計画であった。

刺繍の裏は、糸がぐじゃぐじゃだ。神は、私たちにとっては不都合、混乱、行き詰まり、何でこんな事が?の事態を起こされ、神の意図される方向へ導かれる。そしてそれは、「あなたのため」の計画だと言われる。綿密に図って立てられた、あなたの益と将来のための出来事だと。

刺繍の表は着々と綺麗な模様に完成している。目の前の事は痛い、苦しい事態だが、実はあなたのための最善がなされている。痛い、辛い所を通って初めて、真に神に出会う。人は自我の強固な殻におおわれている。痛みや苦しみによって、その自我の殻が砕かれる。

高慢すら自分でわからず、認識できず、何の問題も無いと思っている。苦しみの中で初めて、自分の姿を知る。何を教えて下さりたいのか、主に祈ろう。主のお心に触れる時、愛がわかる。そして心に平安が臨む。
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苦しい状況の中でも何度も不思議に守られてきた。不平不満を言いながらも、その度に神様は近くにおられた。困難の中で神様のご計画を見つめることが出来ますように。最善を信じ神様の平安が今日もありますように。


2010年12月14日(火)

「すべてのことを働かせて益としてくださる・・なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」ローマ8:28

                   
ある人が念願の海外留学となり、皆に見送られ、喜び勇んで出発した。ところが翌年、不意の事態が発生、書類上の不手際でこれ以上滞在不可能と発覚した。不覚のミスであり、交渉したが、どう手を尽くしても許可が下りなかった。主の御心で来たのに、なぜ?こんな事に?納得行かず、悶々状態で、祈りに祈った。

その時、帰りたくないのは、主の御心など建前で、実は人にどう見られるか、何と言われるか、笑われ、プライドが傷つくからだとわかった。人の目が一番の問題であり、人を恐れている自分に気づかされた。のこのこ帰る自分が惨めで恥ずかしい。結局、自分、自分と、自分の事だけであった。

主の御心などと、たいそうな事を言いながら、実は自分の欲望、自分を貫こうとする自我、自己中心しか無い事を見せられた。主の御前に悔い改めた。赦しを受け取り、平安が満ちた。心すっきりした。状況は変わらないのに心に喜びが来た。自分の自我が、欲が、自分を苦しめていた。帰国を心安らかに決意できた。

すると、その直後、事態を知った現地の知人達が動いてくれ、公機関を走り回り、掛け合い、書類を整えてくれた。すると何と滞在許可が下りたのだった。主は起こる出来事を通して、心の内を照らし、お心に適う者へと変え、成長を与えて下さる。問題が問題なのでなく、いつも何かを教えようとされている。
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自分の内がいつも主にあって平和であるなら、どれだけ楽に全ての出来事を受け入れられるだろう。嫌な事は避け、自分のプランを持って物事を通そうとするとたちまち平安は無くなりギクシャクする。主に問うていこう。


2010年12月13日(月)

「主はその愛する子を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」へブル12:6



ある人が、家族や親族に重荷を持ち、福音を伝え証しをしていた。どうしても救われて欲しい一念だったが、熱心になればなるほど、けむたがられ、親族からは拒否反応が出た。妹にも話せば話すほど、心頑なになり、心を閉じてしまい、「お姉さんの信仰は嫌」と言われてしまった。やがて、家を出て、
仕事に就いた。しかし、その仕事はうまく行かず、失敗に終わった。対人関係でも苦しみ、深い傷を負った。

何もかも失い、行き詰まり、一旦家に戻った。家族としばし生活を共にしたが、妹が「お姉さん変わった。今のお姉さん好き」と言った。語る言葉に、耳を傾けて聞いてくれた。以前の自分が、いかに高慢で、鼻持ちならぬ者であったかを思い知らされた。

口には出さないが、自分は聖い、あなた方のような罪人ではないとの立ち位置で、上から見下す、まさにパリサイ人そのものであった。試練を通して、砕かれた。試練は、決して嬉しいものではなく、痛くて悲しい。苦しみは耐え難く辛い。しかし、自分で自分を砕くことはできない。

主が苦しみを通し、砕いて下さる事は感謝しかない。彼女は、痛みを通った事で、妹と心触れ合えた事が、何より嬉しかった。「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。それであなたのおきてを学びました」試練は痛いが、大きな祝福へと導かれる。「私たちの益のため・・ご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」。聖められ、成長が与えられる。
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必ず苦しみ試練を通されると覚悟し、そこを通って御子の形に変えられ益とされることを見つめていよう。試練を通し神に出会い主の十字架も知った。思い通りの喜びより信仰によって喜んで行こう。


2010年12月12日(日)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13


私たちは新しい性質と、生まれつきの古い性質がある。御霊に導かれて生きる時、
平安と喜びの中で、生き生きと生きて行ける。だが、古い性質、肉に従って行く
と、途端に信仰生活がしんどくなる。油の切れた機械のごとく、重く、苦しくな
り喜びは失せる。

そんな時、どうすればよいのか。「もし、御霊によって、からだの行ないを殺す
なら、生きる」。怒り、妬み、敵対心が心に起きて来た時に、どうするだろう。
怒りはいけない事、妬み、憎しみは罪と、自分の力で抑えつけ、我慢しているだ
ろうか。

その我慢をずっと続けると、近い内に必ず爆発する。ある婦人は、主の御心であ
るから、夫に仕えようと、良い証しになるようにと、相手の態度や言葉でイラつ
くのをひたすら我慢して、仕える。

すると、必ず定期的に不満が爆発してしまい、元も子もなくなってしまう。自分
の力で、肉で我慢している事に気づかせられる。そうではなく、自らの怒りや不
平不満を、無い振りをせず、又、ごまかさず、自己弁護せず、一つ一つ認めるこ
とだ。

洗いざらい主に申し上げ、自分で抑え込んだり、何とかする事を止め「自分には
できません」と認め、助けを求め、頼って行くことだ。その時、御霊の助けを経
験する。自分にはできない事が、御霊によってできるようにされる。御霊によっ
て生きることを実地体験して行く。

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我慢は、肉の力による。抑え込むだけで、そこに溜まって行く。溜まって許容量
オーバーになると必ず爆発する。「腹が立ちます」「イライラします」とあるが
ままを認めて、主に助けを求めて行く時、必ず導かれて行く。平安にされて行く。


2010年12月11日(土)

「主よ。あなたの決めておられるように、私を生かしてください」詩編119:149


ある人がダイエットしていた。ケーキ店に近づいた時、こんな祈りをした。
「主よ、ケーキを買う事が御心でしたら、駐車場が空いていますように。御心で
なければ空いていませんように」ケーキ店に来ると駐車場が空いていた。

笑い話のようだが、これに近い事を私達もしていないだろうか。自分のプランを
しっかり決めていて、主よ、御心示したまえと祈る。しかし心ではすでに決まっ
ている。
決まっているなら、無意識にそれに反する御言葉は排除する。目に留まらない。
わかってするなら、とがめも来るが、無意識なので自分でも気づかない。自分に
都合の良い御言葉を取ってしまう。

間違いに進まないためには、自分の願望を一旦、主に明け渡すことだ。主のもと
に置く時、それが真に主からのものであれば、返って来るし、そうで無ければ戻
らない。戻らないなら、その方が私たちにとって良いのだ。

もし、主からのものであれば、揺るがない平安と共に返って来る。そして、確信
を与えられて前進して行ける。私たちの祈りは、「私はこうしたい」「私はああ
したい」だろうか。

発想を転換して「主は」私に何を願っておられるのか、「主は」私に何を求めて
おられるのか、じっくりと祈りの中で聞いてみよう。それこそ御心にかなった主
の喜ばれる祈りだ。その祈りは必ず聞かれる。

・・・・・・・・・・・・・・・
しばしば「私の決めているように、私を生かして下さい」の祈りになってしまう。
又、「ああして下さい、こうして下さい」ばかりになる。主は、私に何を求めて
おられるのか、の視点に立って、主に聞く祈りをしてみよう。


2010年12月10日(金)

「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ」Tサムエル8:22

イスラエルの民がサムエルに王を求めた。しかし、これは御心にそれた事だった。サムエルは主に祈ると、主は「民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、このわたしを退けたのだから」と言われた。

主に示された通り、サムエルは民に厳しく警告し、王の権利を告げた。自分たちの王ゆえに、助けを求めても、その日、主はあなた方に答えて下さらないと。しかし、民はサムエルの言う事を聞かず、どうしてもと、王を求めた。

その時、主は、彼らの言う事を聞き、一人の王を立てよとサムエルに言われた。時々、自分の肉でした事、又、計画が成功するように見える事がある。その時の間違いが、これは神が認めて下さったと勘違いする事だ。しかし、そうではない。

後に、苦しい刈り取りをする事になる。私たちが頑固な意志で、どうしても行くと聞かないので、神が許されたに過ぎない。その結果が、苦しい訓練となって返って来る。「あなたがたは王を求めて、主の御心を大いに損なった」民は王に苦しめられ、懲らしめを受けた。

自分の都合の良い御心は、実は自己中心なわがままだ。主は懲らしめられる。そして、その懲らしめこそが、神の深い愛であることを知る。尚も主の憐れみは深く、訓練を通して、練り、造り変えて行って下さる。
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祈り求めて行く中で、正しい求めであるかそうでないかを神様に聞いて行き、自分の思いをそがれ、砕かれ、神様の下さる良いものだけを受けます、の態度で祈って行きたい。


2010年12月09日(木)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6


信仰生活で、時に認めがたい事態にぶつかる。嫌な相手と遭遇する。近隣、職場、学校、親族であったり、様々だ。どうにかして避けようとする。会いたくないので、環境を変えるだろうか。どうしても嫌なら、職場を変えたり、引っ越したりする。しかし、その移った先で、又、同じような相手に出会うのだ。

更に環境を変える。だが、同じ事が起こる。経験者がいるかも知れない。何度も同じ事を繰り返し、長年かかり、やっと相手でなく、環境でなく、自分の問題だと気づく。気づけば良いほうだ。気づかないままだと、相手が悪いとしか見えない。しかし、自分の問題だと気づけた時、光があり、神に焦点が合ったという事
になる。

状況は同じなのに、深い安堵感に包まれる。「羊のようにさまよっていたが、自分のたましいの牧者のもとに帰った」感覚だ。平安で心が満ちる。状況しか見えていなかった目が、神を見ている。本当の問題は自分の高慢だ。

人を赦そうとしない頑なな心であり、自分の内にも、実は妬みや虚栄やプライドがある。相手が悪いに、すり替わるので全く見えない。そこに主を認める時、本当の問題が見える。解決が来る。ある人がバイト先を転々としていたが、目が開かれた時に止んだ。一つ所で、様々な主の訓練を、学びを受け、自分が変えられ、喜びと成長が与えられている。
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他人と、自分と現状しか見ていなければ問題に溺れてしまう。問題を通して主が何を教えて下さっているのか、共にいてくださる主に問うていこう。自分変えられ主が今の道を整えて下さる。


2010年12月08日(水)

「ちょうど彼が全焼のいけにをささげ終わったとき、サムエルがやって来た・・『あなたは、なんということをしたのか』」Tサムエル13:10

サムエルはサウルに、自分が、いけにえを献げるので、到着するまで七日間待つよう告げた。しかし七日を経ても、サムエルは来ない。兵士達は、敵の圧迫に動揺し、不安と恐怖が、まんえんして行った。兵達はサウルのもとから逃走し始めた。サウルは焦った。このままでは軍は崩壊だ。サウルが来る気配はない。

そのため自分でいけにえを献げた。神の軍勢であり、神が守られる事を示して、兵士の士気を高めるために。そこにサムエルが到着した。サムエルはサウルを厳しくとがめた。「愚かな事をした。あなたの王国は立たない。主が命じられた事を守らなかった」。

遅れたサムエルが悪いのではないか。敵はどんどん侵攻して来る。兵士達は怯えて逃げ去ろうとしている。こうしなければ軍は壊滅だと、サウルは判断した。しかし、そういう問題ではない。軍を支配し、敵を支配しているのはどなたであるのか。

ヨナタンは言った「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」人数、勢力の問題ではない。断固、神に従うべきであった。そして、祭司にしか、いけにえを献げることはできない。分を越えて、してはならない事をした。越権行為だ。

神を信じて待つべきであった。それが信仰だ。今、目の前の状況で、焦ったり動揺しているだろうか。じっと神を信じて、神を待ち望もう。神の時に、神が動かれる。
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神様のルール秩序を越えて、自分が守り行動しようとするからうろたえ動揺する。外側だけ整えようとの誘惑も来る。焦らず信じて待とう。待ちますと祈ろう。必ず神様の平安と時に叶った解決が臨むから。


2010年12月07日(火)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく・・自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」ピリピ2:3


中世は天動説だった。惑星の軌道が膨大に複雑で理解不能だった。地動説を打ち立てたのがコペルニクスだ。天動説は地球を中心にして天体の動きを見ていた。だから理解出来なかった。しかし、地動説は、地球は太陽の周囲を回る小惑星だ。地球が宇宙の中心なのではない。そうすると、すっきりし説明がついた。

私たちの信仰生活はどうだろう。自分中心の価値観が、悩みと問題を生み、対人関係ではトラブって、ギクシャクし、あちこちで頭をぶつける。自らが問題を引き起こしている。まさに地動説だ。自分中心に世界が回っていると思い、又、周囲を動かそうとする。

そこにあつれきが生じる。うまく行かないと、相手が悪いと信じて疑わない。あの人、この人さえいなければ、人生快適なのに。しかし、相手はいっさい関係なく、問題は自分であり、自分の問題だ。自分中心の思考パタンだ。

相手のせいと信じて疑わないが、実は相手は関係ない。自分の心の状態の責任は、自分にある。まず自分の問題だと認めよう。相手がどうであれ、反応しているのは自分であるからだ。

キリスト中心に据える時、見方が変わる。相手しか見えなかったのが、御霊の光に照らされて、自らの高慢、自己愛、利己心、嫉妬心、愛の無さが見えて来る。そして、自由にされ、平安にされる。
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いつも同じような事でイライラさせられ躓いていないだろうか。イライラさせられているのではなくイライラしているのだ。自己中心に感じてしまい、その気分に呼応しそうになる時「主よ助けて下さい」と主を呼ぶことができますように。


2010年12月06日(月)

「しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである」ヨハネ3:21 


信仰生活の中で、御霊により、私たちの心を照らし出され、自分の罪、弱さや醜さ、汚さを見せられる。自分の罪や弱さを見るのは痛い。見たくないし、決して認めたくない。そこに触れられるや、逃げてしまう。見たくないものは、心の引き出しにしまい込み、触れない。無い事にしてしまう。それで事足れりとし、放
っておいたりする。

しかし、主は、私たちを真実に愛して下さっているので、私たちを真に自由にし、解放するために、その一つ一つを御霊の光のもとに、引き出される。考えまいと押し込めていたもの、無意識下にあるものがあらわにされる。高慢やプライド、虚栄、貪欲、偽り、欺瞞、自己愛、内にあるドロドロの醜いものが出されると、
心は痛くて辛い。

自分はそんなにひどい人間ではない。良い人でいたい。その痛みから逃れたい。そのために言い訳、繕い、理由付けをする。自分を正当化する。そうすれば痛みから逃げられる。偽りの平安に逃げ込む。それが世が与える平安、肉の平安だ。

しかし、光からも逃げる事になり、暗闇だ。真の平安を得る道がある。照らし出される時に、いっさいの自己弁護も言い訳も止める事だ。それが私ですと、御霊の示しに同意する事だ。そして悔い改めるなら、十字架から平安が流れ出て来る。主の平安を経験する。
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言い訳、自己弁護をしようと思えば、なんでも正しくしてしまえる。正当化しながら自我を更に硬くして行く。何の問題もないふりで自分が欺かれてしまわないよう、失敗も、弱さも全部自分だと認め、主に委ね光の中に留まっていよう。


2010年12月05日(日)

「山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない」ヨシュア17:18

ヨセフ族が、リーダーのヨシュアに自分達には「なぜただ一つの割り当て地しか
ないのか」と不満を言った時、ヨシュアは森に上り、敵と戦い、自分で土地を切
り開けと言った。
実際は広大な土地を与えられている。だのに不満しかない。そしてカナン人を追
い払わないで、きちんと占領しないので、カナン人も彼らの地に住み通した。

与えられた地を占領せよと神は言われ、私たちはしっかり占領する必要がある。
余りにも恵みが大き過ぎて、その恵みがわからない、価値に気づかない。それゆ
え、しっかりそれを受け取り生かして行く事をしない。ましてや不満は尽きる所
知らず貪欲に流されて行くばかりだ。

私たちはどうだろう。何の求めも労苦もなく降って与えられると、当然であり、
その有り難みが全くわからない。だから、それを心から感謝して生かして行く事
が出来ない。私たちもそうだろうか。
与えられている大きな恵みに何の感謝もなく、どこまでも不満ばかり、満足が無
いので、もっともっと、と欲望に支配され、更に所有を増やそうとする。

方向違いであり、これは心の問題だ。恵みがわかると、神が与えて下さったもの
を尊び、大切にし、保ち、生かそうとする。それが占領するという事だ。一つ一
つに感謝が溢れる。

今ある恵みはすべて神が与えて下さったもの。まず感謝の無い態度を悔い改めよ
う。今一度しっかり神の与えて下さっているものに目を向け、受け取り直そう。

・・・・・・・・・・・・・
感謝が失せると、肉が出て来て不満タラタラだ。与えられているものの、有り難
みが、かけがえのない、大切さがわからない。見えない。今一度、一つ一つ感謝
を献げよう。喜びが来て、決して当たり前でなく、神の大きなご愛だと見えて来
る。


2010年12月04日(土)

「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」マルコ11:24                 

信じて祈る時、願いが叶えられると、素晴らしい約束を与えて下さっている。し
かし次が続く。「だれかに対して恨み事があったら赦してやりなさい。そうすれ
ば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」

赦す事を強調されている。赦さない心は、祈りを妨げるので聞かれないと。神が
あなたを赦して下さったのだから、恨み事のある相手を赦しなさいと。私たちは、
しょっ中、失敗する。しかし神は豊かに赦して下さっている。

罪を犯さないのではなく、罪は犯すが、赦されて生きている。それゆえ、私たち
も赦すべきだと。まず恨み事や、憎しみや赦さない心があると、祈れなくなる。
神と私たちの間に、へだたりができてしまう。すると、確信もった祈りができな
くなる。あなたも経験あるだろうか。

ある人が、切実な必要があり、神の御前に出て祈っていた。しかし、祈り続ける
が与えられない。すると祈りの中で、ある人に対し、恨みと敵意、苦々しい思い
を根に持ち続けている事を示された。これが祈りを妨げている事がわかり、悔い
改めた。

その後、見事に祈りが答えられた。赦さない心は、祈りを遮断してしまう。祈り
の答えを受け取るために、密かな恨み、赦さない心がないかどうか、御霊に探っ
て頂こう。妨げが取り除かれる時、平安が来て、すでに受けたと信じる事ができ、
その通りの答えを得る。

・・・・・・・・・・・・・・
赦せない心が奥底にあるなら、無視せず、無いことにせず、まずそれを認め、祈
ろう。祈りにもって行く時、必ず解決に導かれて行く。神が働かれ、みわざをさ
れる。自分には出来ないが、主が、赦せるように必ずして下さる。


2010年12月03日(金)

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」Tヨハネ3:16


主は真の「愛」を表わし、実行して下さった。十字架で、私のためにご自分の命を捨てて下さった。「それによって私たちは愛を知った」。自分を犠牲にする愛、自分中心でなく、他者中心の愛、見返りを求め無い愛、真の愛を知った。

自分の愛はどうだろう。他者を愛したとして、応答が無ければどうだろう。これだけしてやっているのに感謝が無いと、怒りが湧き、恨みとなるだろうか。内心、応報を求め、見返りを求めている。という事は、自分の思いを押しつけ、相手に応答を強いる事だ。

これは相手への愛のつもりだが、実は自己愛だ。相手を愛しているのではなく、自分を愛している。自分を捨てるどころか、自分をどこまでも通して行く、強い自我だ。一見、相手に与え、愛しているように見えるだけに、わからない。

相手は何となく苦痛を感じる。そこに争いが生じ、傷つけ合うが、なぜかといぶかる。しかし、これは親子間、夫婦間、友人間で見られることだ。相手を愛していると言いつつ、実は中心は自分だ。

人間の愛はここ止まりだ。つまり、与えるだけの愛は無いということだ。自我がありどうにもならない。ここから救い出すために、主は十字架で死んで下さった。古い人はそこで一緒に死んだ。

自己愛、自己中心を認め、心底愛が無い事を認める時、御霊の愛が注がれる。自らの状態を認める時、御霊の愛が与えられ、通り良き管として下さる。
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肉の私達の限界を越えた愛を神様が与えて下さる。自己満足ではない他者中心の愛が無いことを認めて、それを豊かに与えて下さる主に求めて行く所からはじめよう。


2010年12月02日(木)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」マタイ5:3


私たちは、自分は貧しい事は貧しいが、それほど貧しくないと思いたい。「貧しい」という言葉が、余り良い響きでなく、心にひっかかり、認めたくないのかも知れない。しかし、内側をよく探るとどうだろう。突き詰めるなら、心底、他人に同情するなど出来るのだろうか。

他人より自分の事で一杯だ。人の喜びを、喜ぶ事ができない。入試に一方が合格したらどうだろう。妬みが生じてしまう。幸せな人を見ると、本当に喜べるのだろうか。羨ましくて仕方がない。引きかえ自分はと、自己憐憫に陥る。

他人の事に真に関われない冷淡さが、心にある。普段、考える事なく、突き詰めないだけで、漠然と、あいまいに通過している。自分は良い人であり、愛が無いなどと認めたくない。そんなに酷い人間ではないと思いたい。だから、あえて見ずに避けて逃げている。

無意識にそうしているので、気づく事も無い。しかし、霊の成長は、必ず現状を「認める」事から始まる。冷淡で、愛が無い、嫉妬深い、プライドの高い自分。痛いが、破れ果てた真の自分の姿を認める時に初めて、変えられて行く。

自分がいかに貧しく惨めかを知る時に、真に十字架を経験して行く。その度に新たに主に出会い、「幸い」=「羨ましいほど幸せで祝福」である事がわかる。無い所に、神は溢れるまでに注ぎ、満たして下さる。貧しいと知る事が最大の祝福だ。
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無いと認めれば溢れるまでに満たされる、神様が恵んで下さる方法はなんとシンプルで真実なのだろう。自分の内にあると思っているものを手放し、貧しい者であると御前にいつも認めている事がどれほど平安で心強いかを味わい知りたい。


2010年12月01日(水)

「・・神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3


弟子たちは盲目の人を見て「誰のせいか、先祖か、本人か」と盲目の原因、理由を過去に言及した。因果応報の考え方だ。二千年前だけでなく、今も、人々の価値観は同じようだ。立て続けに悪い事が起こればどうだろう。病気、けが、入試不合格、リストラと家族に次々起きたなら、世では確実にお祓い騒動だ。

因果応報の価値観は、古い性質にしっくり来る。犯人探しをし、突き止めようとする。そうすれば納得が行くのだ。得心する。しかし、何の解決も無い。落ち込み、諦めるしかない。主は、全く別の次元の答えを言われた「神のわざがこの人に現れるため」と。これを聞いた盲人はどんなに嬉しかっただろう。

今まで、人々の心無い言葉にどんなに傷つき、苦しんだ事だろう。主は過去ではなく、未来の事を言われた。これから神の栄光が現れると。私たちにも培われた価値観が根深く無いだろうか。一見、負の事が起きると、何で?あれが悪かったのか?この人のせいか?罰か、報いか?よぎるだろうか。

それは肉の思いであり、主は、今、目の前に起きている悩み、問題、それは主の栄光が現れるためであり、それを通して、主の素晴らしさを現すと言われる。何と嬉しい事だろう。苦しみに目的があり意味がある。「神の栄光が現れる」そこに立っていよう。
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常にやって来る問題の中でその背後の神様を見て、信仰にとどまり続けるなら、それだけで私達は光を放つ。すべてに意味があり神から与えられたものだ。主が最善をされているとの確信を持ち続けたい。