2011年01月31日(月) 「母がイエスに向かって、『ぶどう酒がありません』と言った」ヨハネ2:3
「母がイエスに向かって、『ぶどう酒がありません』と言った」ヨハネ2:3
カナの結婚式で、ぶどう酒がきれた。当時の結婚式における、ぶどう酒とは大切 なもので、途中できれてしまうなど、主催者側の大失態だ。大きな恥であり、せ っかくの喜びの結婚式が台無しになってしまう。非常事態であり、そこにいたマ リヤは、主イエスにストレートに率直に「ぶどう酒がありません」と求めた。 ここで学ぶ事ができる。無いものは無いと、はっきり「ありません」と認める事 は良いことだ。「自分にありません」と認めるところから、解決が始まる。「愛 がありません」「喜びがありません」有る振りをするのでなく、無力を認める事 は祝福への第一歩だ。 マリヤは主に求めた。すると、主は「あなたはわたしと何の関係があるのか」と 一見冷ややかな応答だった。マリヤは、肉の母親として息子に頼むのではなく、 信仰者として、主として求める必要があった。主は御父の御心に歩んで行かれる からだ。そして、マリヤはイエスを主として、へりくだり必ず最善をして下さる と信じた。 だから、「わたしの時はまだ来ていません」と言われたに関わらず、手伝いの者 に「あの方の言われることを、何でもしてあげて下さい」と言った。自らの無力 を認めて、主に求めよう。そして、目の前の事態を主の手にお任せしよう。主は 素晴らしいみわざをして下さり、ご自身の栄光を現わされる。「ありません」、 自らの無力を知り、認める時こそ、弱さの中に恵みは十分、神を知る時だ。 ------------- この世で生きる力をこの世のものや自分の力に頼ろうとすると出来ないと恐れる。 無力は主に頼るチャンスだ。主よできません、主よ足りません、主よ平安を下さ いと、常に上から来る知恵、助けだけを頼りに生きていこう。
2011年01月30日(日) 「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き・・」詩編63:1
「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き・・」詩編63:1
誰しも皆、孤独を感じる事がある。親しい人々から離れた所で孤独を感じ、又、 大勢の人々に囲まれているまっただ中で孤独を感じる。しかし、孤独は良いもの だ。心を神に向けてくれる。時に、神は、私たちの注意を、一心に神に向けたい がために孤独を送られる。孤独は特別な神からのプレゼントだ。 この世の騒がしさから離れ、寂しさの中で、初めて真に心が神に向く。様々な関 心から離れ、神のみに向けられ、望みが神だけになる。神との幸いな深い交わり を経験する。人に裏切られ孤独だろうか。親しい人が去って孤独かも知れない。 主も十字架上で御父に捨てられ、ゲッセマネで孤独の中で祈られた。弟子達は我 先にと逃げ去った。孤独を知る理解者だ。主を捨てた弟子達への言葉が「わたし は決してあなたを離れず、あなたを捨てない」だ。主は決して見捨てられない。 特に人生のある時期に、主は孤独を送られる。世の喧噪から離れ、人の交わりか らも離れ、主にだけ心を向けさせるために。密な幸いな交わりに入れるために。 孤独が私たちを主のもとへ追いやってくれる。そうでなければ、人で満足してし まって主のもとへ行かない。 孤独が来た時、私たちは世の価値観とは違う。主からの特別のプレゼントと受け 取ろう。そして、主の御前に静まり、主と交わり、主で満たして頂こう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 環境的に、遠隔地で一人になった時、寂しくて孤独で、真に心が主を求め、出会 ったと、時々聞く。物質や見えるもので、心紛らわされ、ごまかされてしまう。 心を主だけに向けようと、状況や、環境を導かれる。御前にじっと静まろう。何 かが見えて来る。
2011年01月29日(土) 「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです」Tヨハネ2:9
「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです」Tヨハネ2:9
「光の中にとどまる」人は、決してつまずくことがない。人がつまずくのは、光 の中にとどまらないからだ。「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者 は、今もなお、やみの中にいる」 やみの中にいるしるしは、兄弟への憎しみ、批判、非難、悪口だ。兄弟を憎んで いるなら、私たちはやみの中にいる。幾ら、自分は光の中にいると主張しても、 御言葉がそう言っている。 逆に、兄弟を憎むのではなく、愛して行くなら、その人はやみの中ではなく、光 の中におり、真っ直ぐに歩んで行けると。霊的にダウンする時、人や環境のせい だと思う。嫌な相手、嫌な状況のために憂鬱で、喜びがなく、落ち込んでいると。 しかし、実際のところそれは原因ではなく、自分と主との関係に原因がある。問 題はあなたと主との関係にある。人や状況が、あなたと主との関係を遮断する事 など不可能だ。誰にも出来ない。 喜びが無いのは、神以外のものを求めるところから来ている。人から認められる こと、賞賛を求め、神抜きの、ただ人の愛を求めていたりする。心が神以外のも のに向いている時には、必ず不平や不満、競争心、敵対心、妬みが出て来る。や みの中にいるからだ。 問題が絡み合い、混乱してくる時、まず自分と主との関係に焦点を置こう。そこ がクリアになると、光の中だ。どんな状況でも、心は平安を経験し、物事が正し い位置に置かれてくる。 ・・・・・・・・・・・・・・ 「愛する事ができません。いや、そうでなく愛したくありません。大嫌いです」 と自分の本当の姿をはっきりと認め、主に告白しよう。正直に認める時、光の中 だ。常に光の中にとどまれる。主は向き合い導いて下さり、自分は変えられて行 く。
2011年01月28日(金) 「これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません」Uコリント2:10
「これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません」Uコリント2:10
「私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、キリストの御前で赦した」とパウロも言っている。人を赦さない心は、サタンに足場を与えてしまう。自らの心を「怒り」「プライド」「憎しみ」「敵対心」「嫉妬」「高慢」へと開く事になり、心にそれらを招き入れてしまう。サタンに足場を作らせる。 心に足場があるから、サタンは自在にあおって来て、増幅させて来る。人を赦さない心は、サタンが動き回る場所を作り、機会を与える事になる。又、赦さない心は、自分で牢獄に入り、自分を閉じこめる事になる。四六時中、心は苦しく、がんじがらめで、解き放たれる事がない。それだけでなく、憎しみは必ず強くな り増大して行く。 心はどんどん頑なになる。その事で一杯で、常にその事を考えているから、更に思いは強固にされて行く。自分がそうしている。屈折し、歪んだ性格を作り、否定的な人生にしてしまう。赦さない心は、あなたの人格も人生も破壊させる。そうしたいだろうか。 赦す事を拒むなら、自らと神の関係も拒む事になる。神にまず、心をありのまま率直に打ち明けよう。そこから始まる。赦したくない心を祈りに持って行こう。人には出来ない事が、神には出来る。「赦せませんが感謝します。神様が赦せるようにして下さるからです」と祈った人が赦せるようになった。祈りは必ず答え られる。 ---------- 嫌な思い出、傷ついた過去の言葉などが自在にサタンに吹き込まれて来る。赦せないとの思いが来る時、それを押さえつけずその都度、神様に明け渡して行こう。一日中怒りと恨みで平安を乱されたまま過ごすなら、それはサタンを喜ばすだけだ。
2011年01月27日(木) 「しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから」創世記21:13
「しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから」創世記21:13
イシマエルの後、約束の子イサクが誕生した。するとイシマエルがイサクをから かい、いじめるようになり、サラは、イシマエルを追い出すよう、アブラハムに 要求した。アブラハムにとれば、両方共自分の子供なので、悩み苦しんだ。しか し、神により導きを得て、母子を出した。二人は荒野をさまよって、食料も水も 尽きた。子供に何も与えてやれず、ただ死を待つだけだ。 この悲惨な状況に、どんなに心は辛く悲しく、嘆きと苦しみだったろう。絶望だ。 ハガルは声を上げて泣いた。その時、決して見捨てられていなかった。「神は少 年の声を聞かれ」、はしための子も、一つの国民とすると言われた。神の助けの 手が伸べられた「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた」子供 に水を飲ませることができた。 その時、井戸が掘られたのでなく、そこに井戸はすでにあった。ハガルは井戸の すぐそばにいた。そばに井戸があったに関わらず見えなかった。私たちも学べる。 信仰人生で数々の困難に出くわすが、問題が問題なのではない。霊の目が閉じて いる事が、目が見えない事が問題なのだ。 ハガルが叫ぶと、神が目を開かれた。そして井戸を見出した。絶望、失望、不信 仰の中では何も見えない。真っ暗闇だ。問題の中で神に向こう。そこに光がある。 御言葉を与えられるよう祈ろう。神に向いた途端、目が開かれて、解決への糸口 を得る。 ------------- 逆境の中で主を見失ってしまう時が一番恐ろしい。そこに主がおられる。目を主 に向け、必ず助けがあり必要に応じて下さる導きに気づける。どんな状態であれ 神様に心が向く時、だんだんと光が見えてくる。
2011年01月26日(水) 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」創世記16:8
「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」創世記16:8
神の約束があるが、なかなか子供ができないサライは、奴隷ハガルにより、子供 を得ようと提案し、アブラハムはそれを受け入れた。ところが、ハガルはアブラ ハムの子供を宿した途端、高慢になり、サライを見下げた。 奴隷から侮辱されたサライは、怒りで、今度はサライがハガルをいじめた。余り にも辛く、ハガルは荒野に逃亡した。するとそこに主の使いが現われた。 「サライの女奴隷ハガル」とはっきりと、サライの奴隷である立場、現実を認識 させられた。 「どこから来て」高慢に陥った結果、サライのいじめに会い、その苦しみから逃 げているという現実を、見せられた。「女主人サライのもとから逃げている」と ハガルも認めた。「女主人のもとへ帰る」よう、「身を低くするよう」告げられ た。私たちへの言葉でもある。 問題から、環境から、状況から、苦しみの余り、とにかく何でもいいから逃げた い。その状況から出たい。それが救いだと思う。しかし、主は逃げても何の解決 も無いと言われる。そこを逃げても、自分自身は何も変わらないので、次の環境 で同じ事を繰り返す。 自らの傲慢ゆえ苦しみを招いたので、身を低くし、へりくだって仕えよと。私た ちも時として、逃げたいが、その所にとどまり、「へりくだれ」と言われる。 どうしてこうなったのかよく考えよと。その時、必ず豊かな祝福と成長がある。 ------------ 痛いところを見ないで逃げている限り同じ失敗を何処でも繰り返す。自分が変われ ることが祝福で一番の解決だ。御前にへりくだり、身を低くして神様にとどまり続 けよう。必ず変えられ成長を遂げた者に神様がして下さる。
2011年01月25日(火) 「イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われた」マルコ4:3
「イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われた」マルコ4:3
ガリラヤ湖は、すり鉢状で周囲は山に囲まれているため、突如の嵐が発生する。 この日、主は「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。その言葉に弟子達は舟を 出した。主は乗り込んだ途端、熟睡された。それほどの疲労であった。主が眠ら れた後、突如の嵐が起こった。凄まじい突風に舟は揺れ、まさに湖上で小さな舟 は木の葉のようだ。舟は波をかぶり、水で一杯になった。今にも浸水転覆だ。 プロ漁師ですら驚き慌て、身の危険を感じ、恐怖でパニックになった。しかし、 主はと言えば、この大騒動の間中、熟睡しておられた。大嵐に微塵も動じられる 事は無かった。弟子たちは舟に主がおられるのに、恐怖でパニックだ。主がおら れないのではなく、まさに目の前におられるのだ。 嵐に、状況に飲み込まれてしまい、主を前に置いて、尚、右往左往だ。私たちの 姿かも知れない。突如降りかかる困難に襲われると、動転し、問題に飲み込まれ てしまう。主は言われた「信仰がないのはどうしたことです」。嵐の中で熟睡し ておられる主と、恐怖で大混乱の弟子たちは対照的だ。 ここでの問題は何か。主は「信仰」だと言われた。「信仰」が問題だと。主は 「向こう岸へ渡ろう」と明言された。この御言葉がある以上、途上に何が起ころ うと100%向こう岸へ渡れる。そして「黙れ、静まれ」のひと言葉で、なぎに なった。あなたもこの状況だろうか。状況でなく、「主の言葉」に立っていよう。 「さあ、向こう岸へ渡ろう」、あなたにはどんな言葉をかけておられるだろう。 ------------ 「さあ渡ろう」と気合をいれ、主に喜ばれる歩みを今日もしようと頑張るが、肝 心な主が飛んでしまっている事がある。良い時も悪い時も生活の中で常に共に主 がいて下さる、委ねて渡ろう。
2011年01月24日(月) 「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」Tヨハネ4:14
「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」Tヨハネ4:14
「カインのようであってはいけません」「カインになるな」と言われる。カインは、なぜアベル殺害に至ったのか。普通の兄弟けんかではなく、神への献げ物の 事だった。神への献げ物が、アベルだけは受け入れられ、カインは受け入れられ なかった。激しい怒りが湧いた。受け入れられないからには、何かが間違ってい たわけで、悔い改めて、正しく献げ直せば良かった。 しかし、そうはせず、その矛先がアベルへと向かい、アベルを嫉妬し、嫉妬は強 い憎しみに高じた。アベル殺害は、まずカインと神との関係に問題があった。 神との関係が最重要であり、すべての基だ。私たちも神の前に正しくない時、罪 の性質は人を妬む。 妬みは、誰にも根深く巣くう罪だ。祭司長たちが主を十字架につけたのも、サウ ルが自滅して行ったのも妬みだった。妬みから憎悪へ、そして殺人へと発展して 行く。しかし、新しく生まれた私たちは、すでに「死からいのちに移った」。 新しい性質は、神の性質であり、その性質は兄弟を愛して行く。愛さないのでは なく、愛して行こうとする。御霊を宿した人は、つまづいたり転んだりするが、 必ず愛そうとして行く。それが救われている「しるし」だと言われている。いつ も御前に悔い改め、主とクリアな正しい関係でいよう。その時、御霊によって、 必ず兄弟を愛して行ける。神は愛であるから。 ------------ 妬みや嫉妬の思いが来たなら熟成してしまわず、主により心を変えていただこう。 新しい性質を与えられ、主と共に歩める生き方が出来るようにされたのだから、 主だけを見つめ主の愛で愛して行こう。
2011年01月23日(日) 「私の助けは、天地を造られた主から来る」詩篇121:2
「私の助けは、天地を造られた主から来る」詩篇121:2
都上りの歌となっていて、エルサレムへ巡礼の旅に出る時のものだ。「山に向か って目を上げる」は、これから上って行くべき、困難な険しい山々だ。非常に切 実だ「私の助けはどこから来るのか」。 だいたい助けが来るのか。エルサレムは遙か彼方であり、幾つもの山々が行く手 を固く阻んでいるかに見える。当時の人々の旅は、今と全く違い、想像もできな いほど困難で危険なものであった。今のようにちょっと都へというわけに行かな い。 途中で病気になれば命を落とす。又、道中、身にどんな災いや危険があるや知れ ず、無事に帰れるかどうかもわからない。そんな中で何が助けになるのか。エル サレムへの都上りは、膨大な困難の山を前に「私の助けはどこから?」との問い となり「私の助けは、天地を造られた主から来る」と答えが来る。 計り知れない困難はあるが、その山々を造られたのは主だ。すべての状況も主が 御手で治めておられる。「助けは主から来る」私たちも今、行く手を阻む困難の 山々があるだろうか。 又、突如のアクシデントに出会す事がある。突然の病気、けが、経済的困窮、苦 しみの対人関係、又、誰にも言えない悩み・・まさに「私の助けはどこから来る のか」。 明確な答えがある。「天地を造られた主から来る」。主からの完璧な愛と配慮、 助けが臨む。目の前の事態を祈ろう。どう助けが来るか主に期待し、楽しみに待 とう。 ・・・・・・・・・・・・・ 「私の助けはどこから来るのだろうか」「天地を造られた主から来る」何と明確 な答えだろう。有難い。目の前のあの問題、この悩み・・助けは天地を造られた 主から来る!祈って行こう。御言葉通して、あらゆるものによって主は導き、指 針を示して下さる。
2011年01月22日(土) 「すべての事について感謝しなさい」Tテサロニケ5:18
「すべての事について感謝しなさい」Tテサロニケ5:18
劣等感に悩む人は多い。どこから劣等感が来るのか。「比較」に端を発する。人 と比較して、人より劣れば、劣等感になり、人より優れば、優越感となる。神無 しの世界では、自分を確認する手段が、目に見える「人」になってしまい、人と の差異で自分を量るので、どこまでも人との比較になってしまう。 しかし、クリスチャンはそこから解放され、自由にされ、人ではなく、神に対し て生きる者とされた。何という救いであり、恵みだろう。神はあなたを高価で尊 いと宣言され、唯一無比、かけがえのない者として造って下さった。だから人と 同じでありようが無い。 比較が無意味なのだ。古い価値観があり、どうしても比較に目が行く時に、上を 見上げて感謝するなら、心が守られる。自分に無いものを数えて、落胆し落ち込 むのでなく、有るもの、与えられているものを数えて、感謝するならどんなに有 益だろう。 自殺未遂で、両足と片手切断となり、指3本になった田原米子さんは、主に出会 った時、「指3本しか無い」が「指3本もある」に視点が変わり、人生が180 度変わってしまった。「しか無い」と「もある」は天と地ほどの違いだ。 米子さんは、全生活を主に頼り、具体的な知恵、方法、アイデアを主から直に頂 いて、生き生きと喜びの中で、生活して行った。大きな証しとされた。人と比べ て、あれも無い、これも無いと、無いものを数えて生きているだろうか。天を見 上げて一つ一つ感謝を献げよう。必ず心が変えられる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 古い価値観はどうしてもネガティブに傾いて行く。否定的にしか見えない。放っ ておくと、無いものを数えて行く。身体に古い価値観がなじんでいる。感謝する 事は、意識しないと出来ない。感謝するとは状況を受け入れる事、サタンの足場 を崩す。
2011年01月21日(金) 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」ローマ12:15
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」ローマ12:15
ある人が子供の頃、近所の人たちや周囲の人から、「良い子だねえ」と言われて いた。自分では、よくわからなかったが、悪い気はせず、良い子であろうと頑張 り、自分でも良い子だと思っていた。そんな自分が大きくなり、本当の自分の姿 が映し出されたのが、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさ い」だった。 良い子であるはずの自分が、決して出来ない事であった。それどころか、人の喜 ばしい事柄に、羨ましく妬みを感じてしまう自分、悲しむ人と共に悲しむ事など 出来ない、むしろ自分の幸せに安堵してしまう自分、心に潜む罪の現実を見せら れた。真に罪の奴隷であることを知り、主に拠り頼む者とされた。 ある人は、入試に不合格であった。がっくりと失望落胆し、力を落とし心沈んだ。 その時、友人は合格だと知った。が、どうしても素直に喜べない。心悶々状態に 陥った。祝福など出来ない。でも、自分はクリスチャンであり、このままでいい はずはない、との思いが来る。あるがままの状態を正直に、自分はできません、 しかし助けて下さいと、祈った。 祈った後、主に喜ばれる道を選びたいとの思いで、極めて簡単な祝福メールを送 った。すると不思議に心が平安になった。すると、不合格の自分がそうした事に、 思いを越えて相手は喜んでくれ、感動したと、言ってくれて、その行為は証しと された。 --------------- 自分の状況がどうであれ、共に喜び、共に悲しむ事など肉には出来ない。自分が 神様といつも繋がっていることを覚え、素直に共感できない時は祈り、神様から の愛を受けて、喜ばれる御旨を選択できるよう助けてもらおう。
2011年01月20日(木) 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」Tペテロ5:5
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」Tペテロ5:5
ある人が、職場でどうしても、うまく行かない相手がいた。話すと、意見が合わず、ギクシャクし、相手にトゲを感じる。段々、話す事も苦痛になり、その事を祈りに持って行った。すると、相手の欠点ばかりが目に付き、そういう見方しかしていない自分に気づいた。相手を嫌い、責め、裁いていた。相手にトゲを感じ ていたが、実はトゲを出していたのは自分だった。 丁度「高慢」についてのメッセージがあり、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」主の姿に、自分の高ぶり、自我、愛の無さを示された。悔い改め、へりくだる事を祈った。へりくだりたいと心を向けていた。 そんな時、相手と仕事の事で話をしていた時、相手との関係が変化している事に気づいた。自分が変えられた。自分がへりくだろうとして祈る時に、主が対人関係に働かれる事を見せられた。柔和に対話でき、トゲが消えていた。 こちらが心を開き変わったので、相手も変わってしまった。対人関係は、どちらかが変わると変わる。悔い改めて、主に拠り頼む時、主はそこに働かれ、みわざをされる。あなたも今、へりくだれと示されているだろうか。 -------------- 主がご自分を無にし卑しくして十字架につかれ私達は赦された。その主に似た者になるよう自我を手放し柔和になれるよう祈ろう。主に従って行く歩みは証しとなり対人関係も主が変えて下さる。
2011年01月19日(水) 「・・この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14
「・・この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14
この主人は、早朝、9、12、3、5時に労務者を雇った。早朝の者たちとは、きちんと「1デナリ」の契約をした。9時以降は、契約しないで「相当のものを」と言った。そして、夕6時に賃金を支払うが、最後に来た者順にした。1時間しか働かない者が、意外にも「1デナリ」、丸々1日分を貰った。1時間で1 デナリなら、早朝の者はかなりの額を貰えると予想した。 しかし全員が1デナリ。そこで、早朝の者が不当だと文句を言った。しかし、1デナリの契約であり、主人は何も不当ではない。皆に同じようにしてやりたいと、主人の心だ。後の者が分不相応の扱いを受け、後の者が先になり、先の者が後になると。 神は働きに正比例ではなく、分を越えて遙かに良くして下さる「恵み」の世界を現された。実は早朝の者は、形の違う大きな恵みを受けていた。早朝から報酬が確約され、夕刻には糧が手に出来る。家で待つ妻子の喜ぶ姿を思い、1日心平安に働けたのだ。又、主人のために多く働ける事は喜びではないか。 ここから離れると、多く働く者ほど当然とばかりに要求する。私たちの奉仕の態度はどうだろう。5時まで立っていた人々は、家族を思いどんなに不安の中にいた事だろう。この最後の人々を深く憐れまれた。主はこれほど気前の良い方であり、憐れみ深い方だ。このような憐れみが、あなたにも注がれている。 -------------- 自分が最後の者であるなら、どれ程深く感謝し、喜んで恵みを受け取って帰ったことだろう。いつも自分が最後の者だと覚えていたい。恵みを正当な報酬として受け取ろうと待っている者ではないだろうか。
2011年01月18日(火) 「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」Tヨハネ1:8
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」Tヨハネ1:8
ある人が、生い立ちからの事情と経緯があり、父親に心を開けず、拒み、憎んでいた。そうなる幾多の理由があり、自分は被害者であり、父親が悪いとしか思えなかった。どうしても父親を赦すことができず、苦しい状態が続いた。 しかし、ある時、御霊に示された。父親自身に確かに間違いがあり、問題があり、多くの傷も受けたが、それは父親の問題なのであり、「憎んでいること、赦さないこと」は、どんなに言い訳したとしても自分の問題であり、それは自分の罪なのだと。自分の罪がはっきりと見せられた。 それで、それを認めて、告白し、神の御前に父を憎む罪を悔い改めた。ありのままを祈った。その時、心の中の苦しい大きな石のかたまりが溶けて行った。あれほどの憎しみが無くなった。 よく私たちは、自分が被害者だと思う時、相手が悪いとしか見えない。どう見ても自分は間違っておらず、相手が悪いとしか見えないので、出口が無い。しかし、相手を裁き、憎み、報復したいと思う自分も、実は罪を犯している。その罪ゆえに、平安が無く、心はますます苦しくなる。 しかし、自分の罪は見えず、どこまでも相手が悪いせいとしか見えない。暗闇の中だ。相手にも非があるにせよ、それは相手と神との関係だ。自分はどうだろう。自分も相手でなく、神との関係において、自分の責任を負う。 ------------ 人が悪いから憎み、人がいい加減だと裁く。そんな者だが神様の前に自分はどうか、それだけを見ていたい。人が平安を乱すのではなく真理からそれた時、心の平安は乱され自分の罪が示されていると覚えたい。
2011年01月17日(月) 「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」マタイ11:30
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」マタイ11:30
くびきとは、平板に穴を二つ開けて、二頭の家畜の頭部をその穴に入れ、同じ方向へ進ませるものだ。あちこち別の方向へ向かず、同方向へ進むので、人が御する事ができて、農作業に役立つ。「負いやすく」は「身体にフィットして快適、心地良いこと」だ。 くびきはその穴にしっかり首を入れると、快適で心地良いが、それを拒否し、嫌がり、抵抗すると、首が締め付けられる。自分で、自分の首を絞める事になる。自分の思い通りに、歩もうとする者には、そのくびきは自らを締め付け、苦痛で、辛い、嫌なものとなる。無ければよいもの、自分を阻止するものでしかない。 あなたにとって、くびきはどちらだろう。自分に与えられたくびきをしっかり受け入れる時、そのくびきは、むしろ平安と主にある喜びをもたらしてくれる。しかし、受け入れようとしない時、それはあなたを苦しめる。ただ辛くて痛いだけだ。どうしても受け入れ難いものなら、祈ろう。神が助けて、受け入れられるにして下さる。 あなたにとって目の前の状況だろうか。今の役割か、部署か、又、対人関係だろうか。嫌で嫌で、受け入れられないなら、平安が無く、喜び無く、悶々状態で苦しいばかりだ。心砕いて、受け入れて行く時、全く同じ状況の中で、心は解放され、自由にされ、安堵と平安を経験する。あるがままを主に告げよう。受け入れられるよう、助けて下さる。 ---------------------- 自分ひとりで負うのではなくくびきの隣には主が共にいて下さる。重くて負いきれないと抗うのではなく、主と共にしっかりと負い、主と語りながら主と同じ方向に歩んでいこう。
2011年01月16日(日) 「私はあの子のところへ行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」Uサムエル12:23
「私はあの子のところへ行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」Uサムエル12:23
ダビデは姦淫の上に殺人の罪を犯し、罪に罪を重ねた。王の地位ゆえ、その罪を 隠ぺいし握りつぶした。しかし、神が遣わされたナタンの指摘により、王位に関 わらず、罪を認めて告白した。 「私は・・罪を犯した」。その罪は赦された。主も又、罪を見過ごして下さった。 罪は赦されるが、しかし、罪には刈り取りがあり、蒔いたものは必ず刈り取る。 「あなたに生まれた子は必ず死ぬ」。バテシバが産んだ子供が病気になった。 ダビデは祈り、断食し、一晩中地に伏した。ひたすらその子の癒しを祈りに祈っ た。しかし叶わず、その子供は死んでしまった。ダビデはそれを聞いた時、怒り、 わめき、呪い、嘆いたりしなかった。起きて身体を洗い、身に油を塗り着替え、 宮へ入り礼拝した。 御名を崇めたのだ。ダビデは切なる願いに、「ノー」であった時、それを受け入 れた。私たちも、ノーが答えである時、それを受け入れる事を教えられる。ノー は嬉しくないが、時に、ノーの答えがある。 パウロが肉体のとげを除いて欲しいと懇願した時、答えは「ノー」だった。とげ があった方が、より神の栄光と力が現わされ、神の臨在をもって弱さをおおうと。 私たちも「ノー」の答えが来た時、受け入れられるよう祈ろう。それに遙かに優 る神のご計画があるからだ。 ・・・・・・・・・・・・・ ダビデは心からの願いを願いとして祈り、しかし、ノーの答えが来た時に、受け 入れた。時に、自分の強い願いに関わらず、明確にノーの答えがある。もし、受 け入れられないなら、正直にありのままの気持ちを伝え、受け入れられるよう、 祈ろう。
2011年01月14日(金) 「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」ピリピ3:19
「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」ピリピ3:19
クリスチャンがしばしば、この通りであることを、御霊に気づかせられる。ある人は、神を求め、神に従いたいと思い、そのように歩んでいるつもりであった。しかし、生活の中で、祈りが自分の願い通りに叶えられなかったり、物事が自分の思い通りに行かないなら、不平不満と失望で心が一杯になった。 どうしても欲しいものが得られなければ、欲求不満で、神を責め、神に対して怒りを持つ。与えてくれない神、自分にいじわるな神と。そんな中で、心深く探られ、自分が本当に求めていたものは、生活の安定であり、自分の思い通りになる人生であり、自分に心地良い歩みであり、自分が栄光を得る事であり、すべてに おいて自分が納得する事であると照らされた。 どこまでも、「自分」「自分」であり、自分中心であり、自分の欲望であり、神に従ってなどおらず、自分の腹が神であり、パウロが涙をもって示す、十字架の敵として歩んでいるのが自分であると、気づきを与えられた。本当に求めているのは、地上のことだけであると。 自分の真の姿を見せられた。しかし、そのような自分を、キリストの姿へと変える事の出来るお方であり、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えて行って下さる。何と感謝なことだろう。御霊は心照らしながら、導かれる。 ------------- 覆い隠している真の自分を神様は見せてくださる。差し出すものも自分の栄光のためであったり。主が教え示して下さるとおりの者だ。それを主が捕らえ変えて下さるから感謝だ。
2011年01月13日(木) 「イエスはご自分の肉体の垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」ヘブル10:20
「イエスはご自分の肉体の垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」ヘブル10:20
私たちはどうだろう。何かを行おうと決心するが、何度挫折した事だろう。聖書を読んだ方が良い事はわかるが、日々読もうとすると読めない。祈りが大切だとわかるが、何度も失敗する。朝、バタバタして、つい御言葉と祈りをパスしてしまう。 祈りが大切だと知らなくて、祈らないのではない。御言葉に従って生きる事の大切さを誰しも知っている。わかっているが、出来ない。しかし、そこで落ち込んで、自分を責め、落胆するのでなく、だからこそ主が来て下さった事を覚えよう。 もし自分の力で、日々完璧にデボーションができて、良い行ないができるなら、主は必要無いことになる。あなたも「ねばならない」で、心が縛られているだろうか。主を信じて、休ませて頂くのでなく、返ってしんどくて苦しく、重荷であえいでいるだろうか。ありのまま来なさいと言われているに関わらず、良い行な いで御前に出ようとするか。 祈りをし聖書を読み、御心に従っている事によって、大手を振って御前に出るだろうか。罪を犯すと、途端出られなくなる。こういう状態だろうか。これなら、主によってでなく、自分によって御前に出ている。そうでなく、自分の状態に関係無く、イエスの血によって大胆に恐れなく、聖所に入る事ができる。今日も、 今のこの瞬間も、自分のわざによってでなく、主イエスゆえに、今のままで御前に受け入れられている。 ----------------- 助けを必要として「主よ」と拠り頼んでいるつもりが、いつの間にか自分で立てた信仰に縛られている。落胆する時、しんどい時、まだまだ出来るはずと自分に頼っている事に気づけ、助けを求めて主を仰ぎたい。
2011年01月12日(水) 「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」ローマ8:29
「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」ローマ8:29
私たちは自我が強く、自分の思い通りに生きて行きたい。それゆえ自分の思い、考えに固執する。強い思いがあり、それは自分自身であり、手放す事が出来ない。そのため自分が変わる事が困難だ。 自我を砕くために、自分を変えるために、主が用いられるのが、目の前に起きている事態であり、状況だ。つまり、私たちを変えたいがために、悩み、問題、ストレス、嫌な事、辛い事が起きている。それの見方を間違うと、神を責め、文句を言い、反抗的になる。 一羽の雀も父の許しなしに地に落ちる事はないように、父の許可なしには、私たちに何一つ来ない。目の前の問題に目を奪われずに、その背後の神に目を向けよう。どういうふうにそれが起きたとしても、大事な事は、神は私たちを砕き、変えるために、それを用いられるという事だ。 問題が解決されて、無くなったとしても、自分が変わっていなければ、同じ問題が来た時に、全く同じ事を繰り返す。落ち込んだり、無気力になったり、無視したり、又は反抗的態度になったりする。そんな自分を変えようとしておられる。 そこを見ないで、問題だけに目を奪われるなら、的はずれになる。目の前の状況は神のご計画であり、神が変えようとしておられる所をよく悟れて、御霊によって、キリストの似姿に変えて頂こう。その視点に立って問題を受け取ろう。 ------------ 人にはそれぞれに、神様のご計画により砕きの御手が臨む。それを払いのけてしまっていないだろうか。自分が変わることが問題の解決であり、万事が益と見てみよう。祈りも行動もまた変わって行く。
2011年01月11日(火) 「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした」使徒16:10
「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした」使徒16:10
パウロがアジアで宣教しようとしたら、聖霊に止められた。それでビテニヤへ行こうとすると、又、止められた。それでトロアスに下った時「マケドニヤへ渡って来て私たちを助けて下さい」との幻を見た。この幻を見た時、パウロは確信した。マケドニヤ行きが導きであり、神が招いておられる!と。 パウロは「確信した」ので「ただちに」マケドニアに向かった。ここで学ぶ事ができる。神は環境を用いて、御心でない道を閉じられる。もしこの聖霊の阻止が無ければ、パウロは御心に反する方向へ向かっていた。 私たちが願っていた進路が閉ざされた時、落胆し、落ち込む。しかし、それは神があなたのために、もっと良い遙かにふさわしい道を備えていて下さるという事だ。又、「確信した」とあり、御心を求める中で、祈り続けるなら、神は「確信」を与えて下さる。 今、御心だと感じていて、今一歩前進を躊躇させるものがあるなら、「確信」を求めよう。「確信する」事によって、前に歩を踏み出すことができる。そして、主からの確信が来たなら、「ただちに」行動に移そう。 この時、パウロが「マケドニヤに行こうか、どうしようか、止めようか」とぐずぐずしていたらどうだろう。これはヨーロッパ宣教という画期的な重大な御心であった。もし、あなたが御心を確信したなら、必要な事は、ぐずぐずせずに「ただちに」実行することだ。 -------------- 門が閉じられたのは神様からの示しだ。最善への新しい道が開かれている。神様のみこころは何かと尋ねながら自分の考えに捕らわれず、喜び期待して方向を変換をしよう。
2011年01月10日(月) 「蛇が一番狡猾であった。『・・と神は、ほんとうに言われたのですか』」創世記3:1
「蛇が一番狡猾であった。『・・と神は、ほんとうに言われたのですか』」創世記3:1
サタンは「試みる者」と言われ、そして「一番狡猾」だ。サタンが常に使う手段 は「疑い」だ。エデンで、サタンはエバを誘惑するのに「神は、ほんとうに言わ れたのですか」とささやいた。 「神は、言われたのですか」まず神を認めている。神を認めて近づいて来た。無 神論者や敵対者が近づいて来たなら、警戒し、それ相応に対応する。しかし、神 を前面に出して話して来たので油断し、対話を始めてしまった。 そして、サタンの攻撃が「本当に?」だった。神が言われたのはいいですよ。 「でも、本当に?」心に疑いを起こさせる。「語られた御言葉は本当に?」「そ の約束は本当?」疑いが入ると確信が揺らぎ、土台がグラグラ揺らぐ。 「神は本当に愛してくれているのか?」「本当に?」神は愛していると言われた。 御言葉の真理に反するものは、すべてサタンからだ。今、あなたの心にもささや きかけているか「本当に?」。 狡猾な敵に気づこう。対人関係にもサタンが働く。疑いを心に吹き込み、不信感 を入れて来るなら、即、一致を乱す事ができる。心を疑心暗鬼にする。疑いの目 で互いに見て行くと、些細な事にまで不信感が生じ、ひびが入り、分裂して行く。 サタンは背後でほくそ笑んでいる。今、サタンの攻撃が来ていないか、よく見張 ろう。 ------------- サタンの嘘に気づくために本物の御言葉を心にしっかりと蓄えてよう。真理は何 なのか、私たちに対する神様の御約束はどんなものなのか。御言葉によって背後 のサタンをきっぱりと追い払おう。
2011年01月09日(日) 「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう」ピレモン15
「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう」ピレモン15
オネシモは、ピレモンの奴隷であった。主人のもとで盗みを働き逃亡。しかし、 捕らえられ投獄、そこでパウロに出会う。パウロは主人ピレモンを知っていたオ ネシモは、パウロに導かれ回心し、主イエスを信じた。 当時、逃亡奴隷は死刑であった。パウロは新生し、変えられたオネシモを確認し、 主に在る兄弟として、受け入れてくれるようピレモンに手紙を書いて頼んだ。オ ネシモは彼の名の通り、無益な者が「有益な者」に変えられた。 私たちの人生も同様だ。様々な事態が生じ、時にはその先が見えず、大きな不利 益、マイナスにしか見えない事態が、「すべてのことを働かせて益」とされる方 により、大いなる祝福と豊かな結果へと変えられる。 今、グチャグチャで、「これが一体何になる?」としか思えない事が、必ず豊か な益へと導かれて行く。又、パウロは摂理の信仰を持って、事態を見た。オネシ モは主人を裏切って逃亡したのだが、それを信仰のメガネをかけて見る時、オネ シモを役立つ者として、永久に取り戻すために、一旦離されたのだと。 私たちも信仰に立って、すべての事柄に神を認め、摂理を認める時、物事の見方 が全く変えられる。失望落胆する事態に遭遇した時は、神のご計画を「認める」 時だ。今失望していたら、摂理とご計画を見、信仰的見方に立とう。 ・・・・・・・・・・・・・ どうしてこんな事が、何がどうなっているのかわからない、グチャグチャな事態 が、しばらくの時を経ると、パズルが埋まるように繋がって来る。今、起きてい る事に、ご計画と意図がある。信じて、主を待ち望もう。忍耐の時かも知れない。
2011年01月08日(土) 「・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」ヨハネ21:22
「・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」ヨハネ21:22
有名な例え話を聞いた事があるだろう。空を飛ぶ事、走り、水泳、木登りを訓練 する動物学校があった。うさぎは、走りは得意、しかし絶対に空を飛べないので、 ひどく落ち込んだ。リスは木登りは得意だが、やはり空を飛べない。劣等感にさ いなまれ、走りも自信が持てなくなった。 鷲は空を飛ぶ事が大得意、しかし他の事はうまく出来ず自分を責めていた。速く 走ろうとして足を痛めた。アヒルは水泳が得意、しかし空を飛べないので鷲を羨 み、落ち込んでいた。 これは、それぞれ全く違っているという事だ。それぞれの個性と良さ、得意分野 がある。それを他と比較し羨み、他のようになろうとするなら、自分に与えられ た賜物まで生かされないまま、自分を損ない、終わってしまう。 神は一人一人を「違って」造られた。他と違っていて良いのであり、違っていて 当然だ。比較するのでなく、自分に与えられた賜物を見い出し、神のために使っ て行く時、喜びと楽しみの中で、生き生きと生きて行ける。与えられた個性が12 0%見事に開花される。 隣を見て落ち込んでいないか。比較するなら必ず落ち込む。人を妬み羨むのは、 自分に最善をして下さっている神を信じないという事だ。無いものでなく、与え られているものに目を止め、主のために用いて行こう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 自分を見て、無いものばかりを、数えていないだろうか。あれが無い、これが無 い、それも無い、だからダメ・・主に目を転じて、与えられているものを数えてみ よう。あれも、これも、与えられている。感謝が溢れる。献げる時、聖めて、主 のために用いて下さる。
2011年01月07日(金) 「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12
「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12
私達は、古い性質があり、どうしても人目を気にしてしまう。古い価値観、この世の価値観は、ずっと人との比較の中で生きて来た。人の目に自分がどう映っているかを絶えず意識する。 神の御前でなく、人の目に映っている自分を生きてしまう。そのように生きていると、演技をする。絶えず「人の目に映る自分」を見ているので疲れてしまう。人によく見られようと、自分でない自分、自分以上の自分であろうとする。比較からは必ず優越感と劣等感が生まれる。 そこから競争意識による妬みが出て来る。自分が欲しいものを、所有している相手を妬む。解決の道は、比較を止める事だ。比較さえしなければ、優越感や劣等感、妬みから守られる。しかし、それが難しくて出来ない。 しかし、神が備えて下さった道がある。それは、比較する自分、人前に演技する自分、背伸びをしてよく見せようとする自分、ごまかす自分、それらを主の御前にへりくだってそのまま認めることだ。隠さず、欺かず、逃げずに、自分の本当の姿を、主に告白することだ。 そうする時、主は受け止めて、働いて下さる。みわざをして下さる。解き放たれて、自由にされて行く。正直に告白するなら、神は赦し、すべての悪からきよめて下さる。自分でどうにも出来ないが、神がして下さる。 ------------ 今日の一日は神様が私達一人一人に量って与えて下さっている尊い日だ。人との比較により自分を見失わないよう神様と自分だけの関係をしっかりと保っていよう。
2011年01月06日(木) 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません・・ですから、あわれみを受け、また恵みをいただいて・・大胆に恵みの御坐に」ヘブル5:16
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません・・ですから、あわれみを受け、また恵みをいただいて・・大胆に恵みの御坐に」ヘブル5:16
私達は天へ帰るまでは、古い性質と新しい性質が、いつも戦っている。霊と肉の戦いにあり、御霊が新しい性質に働きかけ、肉がサタンと結託し、どちらもが私たちを引っ張る。これが終わるのは、天に帰る時だ。 真の休息があり、安らぎが待っている。それまでは霊の戦いだ。そして私達に弱さがある事を主はご存じだ。あなたの弱さをわかっていて下さる。だからこそ、主を覚えて忍耐する事ができる。そして、主のゆえにいつでも恵みの御坐に行く事ができる。 私達は喜びと力を感じている時は、主のために働き、主に近いと感じ、逆に弱さを覚え無力でいる時は、主を遠く感じるだろうか。「お前のような者はだめだ、だめだ」サタンの執拗な声が聞こえて来る。ますます主から離れてしまう。 御言葉はどう言っているか。恵みの御坐に近づける根源は「あわれみを受け」「恵みをいただいて」、あわれみと恵みだ。自分の功績にいっさいよらない。一方的な愛顧であり、プレゼントだ。主のあわれみと恵みがあるから、どんなに破れた状態でも、御前に行く事が出来る。 これを信じるなら、「聞いたみことばが信仰によって結びつけられ」信仰によって、どんな状態でも恵みの御坐に行くはずだ。そして新たにされる。恵みの御座が用意されている。今すぐ行こう。 ---------- ありのままの自分でいつでも大胆に御前に出て行けるとは、何と感謝なことか。あれもこれも整ってからと思うのはサタンの欺きだ。天に帰るその日まで神様のあわれみと恵みを素直に受けて喜んで歩もう。
2011年01月05日(水) 「サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。」Tサムエル23:14
「サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。」Tサムエル23:14
サウルは嫉妬のゆえに、ダビデを殺害しようと執拗に追いかける。ダビデはケイラの人々をペリシテ人の手から救った。しかし、サウルがそれを聞いて、ケイラに下り、ダビデを封じ込めようとした。ダビデはケイラの人々の裏切りを知り、神の示しにより再び荒野へ逃亡する。 ダビデが逃げた事を知り、サウルは討伐を止めた。「神が」決して、ダビデをサウルの手に渡されなかった。ダビデは逃亡を続けジフの荒野に潜伏する。 命をつけ狙われ、いつ殺されるかわからない、まさに死と隣り合わせの日々であり、恐怖であった。 サウルは一国の王であり、ダビデは僅か600人の部下がいるだけだ。比較にもならない。いざとなればサウルは国民全体を招集できる。その時、ヨナタンが、神の御名によってダビデを力づけた。 「恐れることはない。父の手があなたの身に及ぶことはない。あなたこそイスラエルの王となる」と。「神が」ダビデをサウルの手に渡すことなく守られると。ヨナタンは状況を見るのでなく、神を見、神の約束を見ていた。 王の息子が、ダビデにはっきりと、あなたこそ王で、自分は次に立つ者だと言った。立場と状況を見る時、いかにヨナタンが神を畏れ、神に従う者であるかがわかる。彼の信仰だ。「神の御名によって力づける」とは、神の約束と神の御心に基づいて、力づける事だ。状況がどうであれ、神の主権の中だ。 ------------ 行き詰る時、自分の判断で動こうとせず、そのままの状態を神様に差し出し導きを祈ろう。見るべきものに焦点をあわせ、窮状の中で与えられる恵みを待とう。
2011年01月04日(火) 「私の時は、御手の中にあります」詩編31:15
「私の時は、御手の中にあります」詩編31:15
御言葉によると、神の「時」があり、主も「時」を非常に重んじられた。「わたしの時がまだ満ちていないからです」「わたしの時はまだ来ていません」「見なさい。時が来ました」。私たちの信仰生活の中でも、何事においても「時」があ る。 自分では最も良い時と思っても、それが神の「時」でなければ、うまく事が運ばない。自分では一生懸命頑張るが、空回りし、ギクシャクし、実を結ぶ事がない。経験した事があるだろうか。あの時、この時、神の時で無かった・・とわかる。幾ら頑張っても物事が成就して行かなかった。 「すべての人が時と機会に出会う」しかし、同時に、神の時というものがある。その「時」を逃さずに、しっかり捕らえる必要がある。その神の時には、神の約束が見事に実現し、御心が成就して行く。神が特別に働かれ、状況が大きく動き、私たちは神の超自然のみわざを見る。 その前でも、その後でもなく、まさに「神の時」なのだ。そのためには、常に神に従おうとする心と態度で、スタンバイしておく事だ。神に従おうとの姿勢がある時にだけ、神の時がわかり、機会を捕らえ、生かす事ができる。常に、御心に従う心を定めて、大きく目と心を開いていよう。 ------------ 門は開き、心が整えられる美しい神の時がある。今の時も何かご計画の時かもしれないと時と御心に敏感になり備えていよう。
2011年01月03日(月) 「そのために私は高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」Uコリント12:7
「そのために私は高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」Uコリント12:7
あなたは日々に祈りをささげるだろう。神は私たちに「祈れ」と言っておられる。「求めよ、そうすれば与えられる」は神の約束だ。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからだ」と神は言われる。願えと言われ、求めを喜ばれる。それゆえ祈るが、幾ら祈っても叶えられないと感じるものがあるだろ うか。 祈りが全く答えられない。神に、聞かれているのだろうか?神はどんな小さな祈りも聞いておられる。しかし、答えられない祈りがある。私たちは答えられない祈りによって、御心を知れる。パウロは肉体に与えられたとげについて、熱心に真剣に除かれるように祈った。 これが無ければもっと神のための働きがスムーズに出来るのに、このゆえに妨げられると。しかし、神の答えは「ノー」であった。そしてその肉体のとげは、神から与えられたものであり、パウロが高慢にならないためという理由があった。 主もゲッセマネの園で祈られた。しかし、主の願いは「ノー」であった。祈りの中で、ご自分の祈りを変更し、御父の御心に自らをそわせて行かれた。叶えられない祈りがある。しかし、祈りを通して、自分の思い、願いとは異なる神の御心がある事を知る。それは何と感謝な事だろう。 そして御心に従う事ができる。叶えられない祈りを通して、神ご自身を知り、そのお心を知れる。もし祈りに感触が無ければ、あなたの祈りを変更する必要があるかも知れない。 ------------ 何のために祈りは叶えられないのか。叶えられない祈りを今一度、神様の答えと受け取り、御心を尋ねて行こう。自分の祈りが変えられ「御心がなりますように」と神様からの「ノー」を受け取って行きたい。
2011年01月02日(日) 「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」(Uコリント3:15)
「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」(Uコリント3:15)
ある人が、思春期の頃に、学校でいじめに会っていた。しかし、それを絶対に親 に言いたくないし、知られたくなかった。だから、一言も言わなかった。プライ ドからだった。いじめられている自分を認める事が余りにも惨めで、絶対に認め たくない。 それを知られるなど、更に惨めで、耐えられなかった。プライドゆえ、傷ついて いる事を受け入れる事も惨めで、傷ついていない振りをした。 しかし、主の御前では、そうであってはならない。主はあるがままの私たちを受 け止めて下さる。主の前で突っ張る事も、繕う事も、隠す事も必要がない。すで に裸のままの、惨めであわれな自分自身をご存じで、受け入れ愛して下さってい る。 プライドが認めたくない事、深く傷ついている事、惨めである事を認めよう。そ の時、心が癒され、主の平安が臨む。神は常に真実であられる。しかし、こちら が正直でなければ、交わりが成り立たない。 あるがままの私を受け入れて下さっているので、繕った私は本当の私ではないか らだ。神との交わりが何か実感が無いのは、自分が正直ではないゆえではないか。 ダビデは、命の危険が迫る苦悩の中で、恐怖、不安、思い煩い、惨めさも何もか もを神に告げた。不安でない振りをせず、気持ちを率直に、正直に神にぶつけ、 いつも平安に変えられた。プライドが自分を妨げているだろうか。 ・・・・・・・・・・・・・ 主が見ておられるように見せて下さる、自分の姿を認めた時に、自分が変えられ て行く。あるがまま正直に主に向かう時、必ず導かれて行く。振り返る時、何か が動き、打開策が見えて来るのは、いつも自分の姿を認めた時であった。
2011年01月