2011年02月28日(月)

「すべての人が時と機会に出会うからだ」伝道9:11


信仰人生で「時」は大切だ。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」、すべてに「神の時」があるからだ。マリヤが、結婚のためにと少しづつ貯えた、何百万とも言われる高価なナルドの香油を、一滴も残さず主イエスに注ぎ尽くした。マリヤの持てるすべてを献げた。主が十字架にかかる前であった。

マリヤがこの行為をする事ができたのは、後にも先にも、この時だけであった。この時を逃しては、この行為は不可能だった。マリヤは主に葬りのためにと、献げる時を悟り、マリヤは機会を捕らえた。マリヤ一人が主の十字架の死を理解していて、自分に持てるすべてを献げきった。これはどんなに主をお慰めした事だろう。

この事は世界中に福音を宣べ伝えられる所で語りつがれると言われた通りだ。マリヤは、的確に、この「時」を捕らえた。そして、主への愛を献げ、愛を表すことができた。ザアカイは主を求めて木にまで登った。「丁度その時」主イエスと目と目が合った。この時を捕らえなかったなら、ザアカイはどうなっていただろう。

私たち一人一人にも、主は時と機会を与えておられる。その時と機会を逃さないでいたい。今、あなたの前に、主のために思いきった決断をする事柄があるだろうか。献げる事か、何かをする事だろうか。新しい環境に移る事だろうか。与えられた機会を逃さず、捕らえよう。主の栄光を拝する。
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すべての人にが時と機会を与えられているのだから、漫然と時を過ごすさず今日何をするべきか、示された事はいつすべきなのかを祈り見張っていよう。今日すべき導きなら躊躇せず神様を信じて行動に移そう。


2011年02月27日(日)

「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21


人は御言葉によって形造られて行く。御言葉は霊であり、いのちそのものだ。御
言葉が私たちの心の奥深くに響き、入り、その御言葉に従って行く時、私たちは
新たにされる。造り変えられる。豊かに実を結び、祝福にあずかる。

しかし、そのすぐ前に「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り」とある。心が耕
されていなければ、御言葉が根づく事が出来ない。心に潜む罪を悔い改め、捨て
去る必要がある。妨げているものに思い当たるだろうか。妬み、憎しみ、裁き、
偽り、思い煩い・・日毎に悔い改めよう。

そして、「素直に受け入れよ」とある。御言葉の前にへりくだって、受け入れる
ことが大切だ。自分の思いや、偏見が御言葉を受け入れる事を妨げてしまう。自
分流に受け取る。

ペテロは、主の言葉を自分の思いで聞き、主から「下がれ。サタン」と戒められ
た。自分の思いが御言葉を聞くことを妨げる。主が苦しみを受け、殺され、三日
目によみがえる事を言われた時に、「そんな事、起こるはずがない」と言った。

強い自分の思いが無いだろうか。都合良い言葉だけを聞いているだろうか。御言
葉はこう言うが「そんな事、無理」「自分になどできるはずがない」と、受け入
れないで、流してしまうだろうか。

まず、自分は素直に受け入れていないと気づく事から始まる。その時、祈りに持
って行くことができる。素直に受け入れていない事を認め、そうできるよう助け
を求めて祈ろう。その時、自分の中で何かが変わって行くのがわかる。そして、
約束の御言葉が実現して行く事を、目の当たりに見て行く。

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みことばを素直に受け入れているだろうか。自分の思いを優先して、みことばを
流していないだろうか。「みことばはわかるが、でも現実は・・」と言い訳をして
いないだろうか。素直に受け入れ、実践する時、更にはっきりと神を知って行く。


2011年02月26日(土)

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」ローマ8:2

「罪と死の原理」、原理とは「法則」の事だ。万有引力の法則が働いているので、
木からリンゴが落ちるように、物は必ず下に落ちる。法則とは例外がない。リン
ゴがジャンプして木にくっつく事はあり得ない。そして私達の内側には「罪と死
の原理」が働いている。

何か言われたなら、倍返しで言い返したい、思い通りにならないとイライラする、
自分の欲しいものを持つ人を妬む、嫌いな相手は憎む、心配事はどこまでも思い
煩う、否定的な思いが湧き、落ちて行く。これが「罪と死の原理」だ。木からリ
ンゴが下に落ちるように全く自然に働く。怒り、妬み、憎しみ、敵対心・・心の中
に渦巻く。

リンゴを落とさないためには、どうすれば良いか。途中で手で受け止めれば地に
落ちない。この手で受け止めるのが「いのちの御霊の原理」だ。引力の法則は働
いているが、受け止めるなら落ちない。つまり別の更に強い力が、同時に働くか
らだ。

以前の法則はそのままあるが、それよりも強い法則が働く時に解放される。それ
がいのちの御霊の原理であり、それが働く時、批判されても仕返しでなく、まず
祈ろうとする。思い通りにならなくとも、最善をして下さる主に委ねて平安でお
れる。困難は自分で何とかせず、神に頼り、委ねて行こうと思える。

私たちが御霊に頼って生きて行く時、このいのちの御霊の原理の中にいる。罪と
死の原理があるに関わらず、打ち勝って、解放されて生きて行ける。

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肉があり、すぐに思い煩い、イライラし、ネガティブな思いに落ち込んで行く。
しかし、御霊に拠り頼む時、反応が変えられる。思い煩いが祈りとされ、厳しい
状況の中でも、良くして下さると信じることができる。御霊に思いを集中してい
よう。


2011年02月25日(金)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14

「求めなさい。そうすれば与えられます」と神は、私たちに祈れと言われている。祈るなら、与えられて「あなたがたの喜びが満ち満ちたものとなる」と。神は求めを喜ばれ、求めに答えようと待っておられる。祈りは答えられる。ただ、あなたが願った、その通りにではないかも知れない。これをわきまえておく事は大切
だ。

祈りとは、自動販売機にお金を入れるなら、欲しいジュースが出てくるのではない。自販機ではない。又、祈り勝ちとばかりに、人よりも時間をかけて、ガンガン祈れば良いのではない。祈りの量をもって、神をねじ伏せるのではない。これなら御利益宗教と同じだ。自分中心に、神を利用して、自分の欲望、願望を満足させる手段となってしまう。

祈りはすべて神に聞かれている。どんな小さな祈りも聞かれている。しかし、願った通りの答えではないかも知れない。自分の願望を神に押しつけるのではなく、祈りを通して、正しく神の御心を知る事ができる。これこそが素晴らしい祝福だ。自分では最適の願いと思っても、神から見るなら、的がずれているかも知れない。又、求める動機が間違っているかも知れない。又、まだ時期尚早かも知れない。又、御心にかなった祈りだが、祈り続ける事の訓練かも知れない。

祈る中で、神の正しい御心を知って行き、祈りを修正して下さる。常に最善をして下さる主は、あなたの祈りを聞き、御心なら願い通りに答え、そうでなければ、軌道修正し、更に良きものを与えて下さる。
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祈りながらも神様から与えられる答えを本当に待っているだろうか。求めた祈りに与えられる答えは、私達が望むよりはるかに良いものだ。祈りの中で神様と交わり御心がなりますようにと祈れるようになりたい。


2011年02月24日(木)

「ザアカイ・・きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」ルカ19:5


ザアカイはユダヤ人でありながら、ローマの手先として、同胞から搾取して私腹を肥やしていた。それでユダヤ人から毛嫌いされていた。遊女や殺人者ほどに、罪人と軽蔑されていた。そういう事が充分わかっていながら、尚、ザアカイは、取税人のトップにまで昇りつめた。富が自分に喜びを与え、幸せにしてくれると、信じたのだろうか。

又、脊が低かったザアカイは劣等感にさいなまれ、地位と富を得て、周囲に自分を認めさせたかっただろうか。しかし、大資産家にはなったものの、嫌われ者であり、疎外され、孤独で、寂しく、どんなに惨めであった事だろう。どうしても主を見たいと願った、ザアカイは虚しさで一杯だった。

そのザアカイを、主は名指しで呼ばれ、責めず、説教されず、あるがままを受け入れられた。ザアカイはその愛を受けて180度変わった。私たちも、人に認めて欲しくて、頑張っていないか。主に受け入れてもらおうと、あれもこれもしていないか。それなら恵みではなく律法の下にいる。必ず疲れて、不満が出て来る。

あなたの家に泊まる=あるがまま受け入れられている。そこから出発する時、喜びと平安のまっただ中だ。たまたまザアカイだったのでなく、ザアカイを選び、ザアカイでなければならなかった。そのように、あなたの名を呼んで愛していて下さっている。
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あるがままの自分を知らないのが自分かもしれない。御言葉も聞き、礼拝にも行きそこそこの自己肯定をして生きていないだろうか。ありのままの弱さ醜さを知って、そこを主に取り扱っていただきたい。


2011年02月23日(水)

「あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」創世記28:15


策略を用い、父と兄を欺いて、祝福を奪い取ったヤコブ。怒りに燃えた兄はヤコブを殺そうとする。身に危険が及び、母親が、ヤコブを叔父ラバンのもとへ送り出した。家族を離れ、追われるように遠くへ旅立った。夕暮れになり野宿だ。何も無い荒野で一人ぼっちだ。どんなに孤独で、寂しく、又、不安で、恐れで一杯
だった事だろう。先を考えても思い煩いばかりだ。

その時、主が立たれた。主はヤコブを責めず、非難もされない。アブラハムと同じ約束が語られた。「この地を子孫に与え、子孫は・・祝福される」と。そして「わたしはあなたと共にあり、この地に連れ戻す」「約束した事を成し遂げる」と。狡猾で自我が強いヤコブは、更に策略家のラバンのもとで、苦しい辛い訓練を受ける。神の配剤だ。

父と兄をだましたヤコブは、ラバンにだまされる。神は侮られる方ではない、蒔いたものを必ず刈り取る。しかし、尚もそんな中でも、自らの所有物を増やし続け、決して負けていないヤコブだ。神はそんなヤコブを知り、選ばれ、愛された。
愛するがゆえにヤコブを放さず、握り、取り扱われる。

主の約束通り、この地に連れ戻された時には、ヤコブは砕かれた別人だった。見事に造り変えられた。「神は成し遂げられる」。「わたしはあなたとともにおり」神は握った手を決して放されず、あなたをキリストに似たものに、主の器に造り変えられる。どんな中にいても、主にある希望がある。
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神様が私達を選んで下さった。自己中心で自我の塊であっても神様が愛し取り扱い必ず整えて下さる。失敗しても意欲が全くなえてしまう時も私達はなお神様の豊かなご計画の途上だ。


2011年02月22日(火)

「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかも知れない」エステル4:14

                    
         
エステルは父母に死別し、養父モルデカイに育てられた。彼女が、ワシュテイの代わりに王妃とされた。ハマンがユダヤ民族絶滅の陰謀を企てた時に、この新しい王妃エステルが「王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求め」たので、阻止された。

王妃の立場にあり、黙っていれば、命は助かり地位も安泰だ。しかし、彼女は同胞を救うため、「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」と、自らの命をかけて、王に同胞の救いを求めた。エステルを通して学べる。捕囚の民として異国で生まれたのも、抜擢されて王妃になったのも、この危機のためかも知れないと。

同胞を救うために、神の完全な配剤のもと、過去も現在も環境のすべてを支配し、今の場所に置かれた。私達も成育歴が、皆、異なる。しかし、どのようなものであれ、今に至るまでの過程は、神の摂理であり、完全なご計画だ。今、思い通りでない場所、困難な現実であっても、今の場で神の御心があり、深いご計画があ
る。あなたのなすべき使命がある。

エステルは困難な状況で、死を覚悟して、自分自身を全く神に明け渡した。危急の事態が起きた時、パニックなり、とにかく方策や解決手段を捜し回ってしまう。しかし、方法ではなく、神が全く明け渡した人を通して、ご自身のみわざをされる。今の場は、神が遣わされた場だ。神の視点に立ち、なすべき事を祈って行こう。
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今そこに置かれている現実は偶然ではなく神様の摂理の中だ。私たちは何が何だわからない事ばかりだが、神様に愛されている事、必ず良くして下さっている事を信じ、自分を神様に明け渡して行こう。


2011年02月21日(月)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3



ピリピの教会で、ユオデヤとスントケは、共に主のために歩んでいたが、二人の間に問題が生じていた。それで主に在って一致するようにと、パウロは言っている。私たちの一致を妨げるものが「自己中心」と「虚栄」だと。

問題がある時、自分の中の自己中心、虚栄を自己吟味すべきだ。色々な問題が起きるが、自分に関係の無い事は、フェアで寛容でおれる。が、いざ自分の利害に直接関わって来るや、大変だ。神経過敏になり、自己防衛に入り、相手を責め、攻撃的になってしまう。これは「自己中心」によるものだ。

又、誰かの言葉が、自分のプライドや虚栄心、メンツに触れるやおおごとだ。プライドが傷つこうものなら、激怒で反撃に出るか、内攻して執念深く、恨み、憎み、復讐心を持つ。あなたの心にざらつく思い、苦い思いが出て来たら、自己中心、虚栄、プライドはないか、御霊によって心探って頂き、よく吟味しよう。

苦い根をそのままにしてはならない。その根は心に巣くって、どんどんはびこってしまう。すぐに十字架の血潮できよめて頂こう。罪の苦い根を、小さい内に、次々と根本から引き抜こう。心に平安が失せた時には、すぐ主のもとに静まり、御霊の照らしを祈ろう。赦されて平安が戻る。苦い根をはびこらせてはならない。
どんどん生長し、がんじがらめになり、命取りとなる。主に対処して頂こう。 
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自己満足でする行いは神様が折にふれれ気づかせて下さる。ざらつく思いが来たなら、いつまでもその中に浸っていてはいけない。神様に祈り、思いを識別させてもらおう。互いに主の愛で思いあえますように。


2011年02月20日(日)

「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」ヤコブ4:15                      

                               
私たちには、様々な思いが絶えず心に湧く。それが主からの思いとは限らない事
に要注意だ。地のものとは、この世の習慣や、この世の価値観だ。一見、善いも
のに、素晴らしいものに見える。ヒューマニズムは世界平和や人類愛をうたう。

しかし、あくまでも人間中心であり、神否定、神無用の価値観だ。そこに神は無
い。神無しで愛と平和の世界を作ろうと。人間愛賛歌で、一見麗しく、好ましい
ものだけに要注意だ。欺かれてしまう。

肉のものは、生まれつきの性質、罪の性質から湧き上がる欲望だ。肉の行いは、
不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ・・の類だ。
悪霊のものは、サタンが吹き込んで来る思いであり、サタン的な知恵であり、悪
霊達の動機は神への妬みだ。妬みは人間の性質に深く巣くっている。私達の心の
思いをよく見張って、神以外から来るこれらの思いをよく見分ける必要がある。

サタンは「思い」に働く。まず思いを吹き込み、思いから行動へと駆り立て、秩
序を乱して行く。サタンのする事は破壊だ。教会、家庭・・一致を乱す。秩序の
混乱には、必ずサタンがかんでいる。よく見張ろう。教会内に争いを引き起こし、
分裂させる。しかし、自分が正しいと思っているので気づかない。

神からの思いは下心がなく、見せかけなく純真だ。神以外からの思いに惑わされ
ていないか。今、問題と混乱があるなら、自らの思いを点検しよう。どこからの
知恵で突き進んでいるのだろう。地、肉、悪霊からの思いをよく見張ろう。御霊
は気づかせて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
心に湧く「思い」をよく見張ろう。サタンは、絶えず、神に逆行する思いを吹き
込んで来る。肉は、自分の願望、欲望と合致しているので、なかなか気づかない。
御霊が気づかせて下さるので、祈っていよう。サタン、肉の思いは拒否しよう。


2011年02月19日(土)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4



主は「求めよ」と言われている。祈りによって、今まで数え切れない願いが叶え
られた事だろう。願いが叶えられると嬉しい。しかし、願いが叶えられなかった
時はどうだろう。

「主が下さるもの」を喜びとしていたなら、願望が叶えられなければ、強い不満
を抱く。願っても与えてくれない主を責めて、心を屈折させる。御言葉は、「主
を」おのれの喜びとせよ、と言っている。「主が与えて下さるもの」「主が下さ
る祝福や恵み」ではない。

もし、与え主を求めているなら、願いが叶えられなくても、心平安でおれる。落
胆はない。なぜなら、願った物が与えられたから喜ぶのではなく、与え主である
主を喜ぶことを学んで行くからだ。そして、更に良いご計画があると信じられる。

10人のらい病人の内、9人はらい病が癒された事に大喜びし、その事だけが心を
占めて、癒し主は忘れ去ってしまう。私達も願い事だけが心を占めていて、欲し
いばかりで、与え主が眼中にないなら要注意だ。

ある働き人は、宣教の成果が出たら大喜びし、無ければ落胆した。人が救われれ
ば喜び、救われなければひどく失望する。その時に、これなら、伝道の成果を喜
びとしていて、主を喜びとしているのではない事に、気づかされた。成果ではな
く、主ご自身を喜びとして生きて行く事を教えられた。

主を喜びとする時、状況が、結果がどうであっても、変わる事のない、絶えざる
喜びがある。そして、主を喜びとする時、主に明け渡し、主のお心を求めるので、
願いは叶えられることになる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
主を喜びとしているのか、主が与えて下さるものを喜びとしているのか、心探ら
れる。主の下さる平安を喜びとしているかも知れない。しかし、主ご自身にしか
真の満足は無い。主ご自身を求め、喜んで行く時、自分に喜びが来て、幸せの中
で生きて行ける。


2011年02月18日(金)

「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」Tヨハネ3:17



時に、とてもじゃないが、好きになれない人がいるだろうか。いつも他人の悪口ばかり言う人、自分の自慢話ばかりの人、他人の批判をし、あら探しをする人、口を開けば不満と愚痴ざんまいの人・・。こちらが疲れてしまい、好きになるのは無理と思うかも知れない。

しかし、聖書にはどこを見ても、一言も相手を好きになれとは書いていない。「好きになれ」でなく「愛しなさい」と言っている。愛する事は、好きになる事ではない。好きにならなくとも、愛することはできる。だから、聖書の御言葉は実行できる。聖書の中の「愛」はすべて「意志的愛」だ。

浮き沈みの激しい感情的な愛ではない。愛するというと、感情を連想してしまうが、そうではなく、意志で愛することだ。感情はコントロールできない。しかし、意志はコントロール出来る。そう造られている。日々の生活の中で、困っている兄弟がいるなら、自分に出来る事をし、自分の持っているものを与えることだ。

自分に出来ることをすればよい。それが愛するという事だ。現実の人生では、命を捨てるほどの大きな事は、よほどでないと起こらない。困っている目の前の人に、あわれみの心を閉ざさない事、自分に出来ることを行なう事、それなら出来るのではないだろうか。今、目の前に、御霊に示されている事があれば、具体的
に行ないをもって、愛する事を実践しよう。神は「あなたは兄弟を愛した」と言って下さる。そして心安らかにおらせて下さる。
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今、その場で祈る事はできる。健康の守りや病の回復、また示された事を実際にして行けるよう祈れる。感情でなく意志ならどんな人間関係の中にも心を閉ざさず愛していけるかもしれない。


2011年02月17日(木)

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、、あなたがたにすべてのことを教え」ヨハネ14:26


ある人が献身して、会社員として働き、職場で、教会で、喜びを持って神に仕えていた。そんな時、上司から、管理職に強く推挙したが、ダメだったとの言葉を聞いた。その時、心の動揺を隠せなかった。自分は、主のために生きたいと願い、立身出世など全く考えてないと思っていた。しかし、いざその場になると、自分
の内に強い野心がある事を知り愕然とした。

何も無い時は、自分でもわからなかったが、本音では、同僚に絶対に遅れをとりたくない。地位、肩書きを求めている自分を知った。心の内の何もかもを、主の御前に打ち明け、悔い改め、今一度自分自身を献げた。その時に、主からの深い平安が臨んだ。もう何にも代えられない平安だった。どうであれ、主を第一にし
て生きて行きたいと思った。しばらくして、突然の管理職の命を受けた。何もかもご存じの主が、動機を聖めて下さったと感じた。

ある人は、主のために熱心に教会で奉仕をしていた。主のためにと思っていたが、ある時、御霊に動機を照らされ、主のためでも何でもなく、実は人と張り合っている自分の姿を見せられた。虚栄心、プライドであり、自我だった。心底悔い改め、その奉仕から身を引こうと思った。その時、その奉仕に関する依頼が来て、
主のあわれみを覚えさせられ、心新たに、今度は主のためにあずかれた。御霊は私たちの心を照らし、聖め、正しい道へと導いて下さる。
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私達の内にいつもおられる御霊は、祈りに応えられる助け主だ。間違いを教えられ、軌道を修正してくださるから、私達は聖さや平和を願って歩める。御霊の声を信じ聞き従おう。


2011年02月16日(水)

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」エペソ4:26 

   
「怒れ、しかし罪を犯すな」という意味だ。怒りがすべて罪なのではない。正しい怒りがある。主はパリサイ人の偽善に怒り、神殿が商売の場とされている事に怒られた。悪や罪を憎まなくては、神を愛する事は出来ない。神を愛するとは罪を憎む事だ。怒りに二種類あり、正しい怒りと自我から出る怒りがある。

怒りはどう対処すればよいのか。まず自分の怒りを認める事だ。怒っていない振りをしてはいけない。怒っているのに、クリスチャンなのだから、怒りは良くない事と、抑え込み、怒っていない振りをする。自分の怒りを認めない事が往々にしてある。とにかく怒っている事実を認める事だ。自分の怒りを抑え込む事も、爆発させる事もよくない。

感情的なままで人に対応すると、コントロール不能な言葉や態度で相手を深く傷つけ、自分も傷つき、必ず後悔する。まず主に向かおう。その怒りを主に打ち明けよう。御前に静まり、気持ちをことごとく告げる。そしてその怒りの原因を考えてみる。なぜ怒っているのか。自我に、プライドに触れるからか。自分の何に触れるのか。名誉、メンツが損なわれるのか。又は神のため、人のための怒りなのか。

その怒りは、主との交わりの中で、解決に導かれて行く。主と交わる事が大切だ。怒りを放っておき、日暮れまで持っていると、悪魔が足場を得て、些細事が激しい憎しみや恨みにどんどん増幅して行く。主と交わるなら、怒りを捨てる事、赦し赦される事、又必要なら、相手との和解、具体的に導いて下さる。
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怒りを内包しているとサタンはそれを破壊へと導く。人に告げず、溜め込まず、すぐに思いを主に告げよう。肉の怒りなら主が変えてくださる。主に委ねよう。


2011年02月15日(火)

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう、必ずそれができるから」民数記13:30


モーセの導きのもと、イスラエルは出エジプトを果たした。そして、カナンに向かった。その時に、12人の斥候がカナンの地を偵察した。彼らは戻って来て、10人は「無理、不可能だ」と言い、2人は「大丈夫だ、占領できる」と言った。10人は、現地の民は自分達より強い、民は脊が高く、自分達はいなごのようで
あり、自分達は敗北する。上れないと言った。

全会衆は、10人の言う事が妥当に見え、そちらについた。大声で泣き明かし、エジプトに帰ろうと言い出した。まるごと不信仰に陥った。斥候12人は全く同じものを見た。だが、カレブとヨシュアは、なぜ「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずできる」と言えたのか。

その根拠は自分達の判断、思いではなく、神が、その地を与えると言われたからだ。信じたカレブとヨシュアは約束の地に入り、民は皆、荒野で滅ぼされてしまった。何が信仰であり、何が不信仰なのか。カレブとヨシュアは見える所でなく、現状でなく、神と神の語られた御言葉を見た。

10人の斥候は、目に見える所、現状と困難だけを見た。ここが違った。神を通して状況を見るか、状況だけを見て神が飛んでしまうか、の違いだ。あなたは今、御言葉を見ているか、困難な状況を見ているか、どちらだろう。
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ネガティブな思いが来る時、視点を御言葉に置こう。どんな時にも神様の約束から現状を見よう。その時に心の領域が闇から光に変わる。神様に感謝し喜び力がわき、目に見える生活が変わる。


2011年02月14日(月)

「その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです」ヘブル4:2

イスラエルは不信仰のゆえに、神の約束された地カナンに入る事が出来なかった。約束の地へ導き入れるとの、主の言葉を聞いたのに、心を頑なにしたのだ。「もし御声を聞くならば・・心を頑なにしてはならない」のように、御声を聞いたなら、信仰によって結びつける必要がある。語られた御言葉をいい加減にして放っておくなら、ないがしろにしているなら、自分の心も頑なになって行く。

そして、自分に与えられた素晴らしい御心が成就する事がない。聞いた御言葉は無益になってしまう。聞いた御言葉、語られた御言葉をしっかり受け取って、堅く握って、それを信じて、その実現を主に期待して行く必要がある。実現の感謝を、期待を、一心に主に向けて行くのだ。精一杯期待して行く。

その約束を握りしめ、日々主に約束を感謝して行く。神の御心に適う願いは、聞いて下さる。「願う事を神が聞いて下さると知れば、神に願ったその事は、すでに叶えられたと知るのです」。御心の時が来れば、目に見える形で実現する。

しかし、もうすでに現在所有している。それゆえ感謝を献げよう。語られた御言葉を信仰に結びつけなければ、自分が無益にしてしまう。神が語られたなら、神が成就して下さる。イスラエルは不信仰のゆえに、乳と蜜の流れる地に入る事が出来なかった。私達は、そうではなく御言葉を信仰に結びつけよう。
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必ず神様が実現して行って下さる。与えられた約束の御言葉を心の芯とし、見つめ、しっかり握っていよう。不安な状況、不完全な自分を見るとどこへ向かっているかわからなくなるが、すでに得た!と信仰を持って御言葉を見つめていよう。


2011年02月13日(日)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラテヤ6:7

神は完全に罪を赦して下さる。二度と思い出す事なく無罪放免にして下さる。し
かし、だからと言って、罪を犯してはならない。決して恵みを放縦に変えてはな
らない。どうせ赦してもらえると、簡単に、安易に罪を犯してはいけない。

警察沙汰を起こした子供は、施設で、厳しい矯正訓練を受ける。その親は、迷惑
をかけた人々に謝罪し、破損には弁償金を支払い、あらゆる償いをして回る。そ
のように、傷害事件を起こした時、主の御前に悔い改めるなら、完全に主は赦し
て下さる、しかし、法律上の刑罰を免れる事はできない。法に即して罰を受ける。

又、憎しみや妬み、敵対心で人を傷つけてしまったなら、悔い改めにより、主は
赦して下さる。しかし、一度壊れてしまった信頼関係を、再度築き上げるには、
膨大な労力と時間が要る。罪のもたらす傷や害は、私たちが思っている以上に大
きい。

罪の結果は、自分だけにとどまらず、家族や周囲をも巻き込み、多大の傷を負わ
せてしまう。決して罪を軽く見てはならないし、もてあそんではならない。罪に
飲み込まれてしまう。

サタンは狡猾で、あなたの弱点を的確に知っている。サタンは誘惑するが、罪を
犯したなら責任は自分にある。肉にではなく、御霊に蒔いて行こう。御霊の声に
耳を傾け、御霊は導かれる。その導きに従おう。そうするなら、豊かに御霊の実
を刈り取る。周囲にも神の栄光を現して行く。

・・・・・・・・・・・・・
御霊と肉が目の前にあり、どちらもが引っ張る。御霊に蒔いて行けるように祈っ
ていよう。明け渡して行こう。もし肉に蒔いたしまったなら、悔い改めて、へり
くだって刈り取ろう。尚も益として、訓練として、成長に導いて下さる。あわれ
みは尽きない。


2011年02月12日(土)

「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」Tヨハネ4:20

それぞれの仲間内、志を同じくする者には、モットー、目標がある。私たちのモ
ットーとは何だろう。「イエス・キリストは主である」。この言葉は、いかなる
場合にも力を発揮する。

思い煩いで心が一杯になる時どうだろう。「イエス・キリストは主である」を見
つめ続けるなら、思い煩いは消え、信仰が湧く。失望と落ち込みが来た時「イエ
ス・キリストは主である」により引き上げられる。対人関係で悩みやトラブルが
生じた時、自我は強く、敵対心、憎しみ、恨み、怒りで悶々となる。

その時も「イエス・キリストは主である」で、自分から主に目を転ずる時、自己
軸から神に軸が転換される。神によって、御言葉によって事態を物事を見る目に
変えられる。自己中心の煮詰まりから解かれる。このギクシャクした対人関係、
あの種々の問題、それらの中で、どのように考え、行動して行けば、イエスを主
として行けるのか。

どうして行けば、主の栄光が現れるのか、どうすれば、主が喜ばれるのか、そこ
に立つ時、今まで決して見なかったものが見えて来る。イエスを主として行く時、
聖霊はそこで働かれる。具体的になすべき事が示され、導かれる。

兄弟に対して、疑い、不信感を抱く時、サタンと肉の思うがままにされてはなら
ない。そこで「イエスは・キリストは主である」に立とう。自分の自我に気づか
され、プライド、妬み、自己防衛、自己憐憫、自分の欲に気づかされ、主と兄弟
と一つ心にされる。

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「私たちの兄弟たちの告発者」サタンは絶えず、周囲の人々を訴え、裁かせよう
とする。肉はサタンの誘惑に乗り、人を憎み、妬み、平安を失ってしまう。自分
視点を、主に持って行く時、気づきが与えられる。主に祈り頼ることができ、主
の喜ばれる選択に目が行く。


2011年02月11日(金)

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30


バプテスマのヨハネは、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」との通り、人々を主イエスに導くために、悔い改めを説き、バプテスマを授けていた。主もこのヨハネからバプテスマを受けられた。ヨハネは、主を「世の罪を取り除く神の小羊」と示した。

ヨハネの弟子たちは「みなあの方のほうへ行く」と、自分達の師から、主イエスに人気が移って行く事を、寂しく思い妬んだ。しかし、ヨハネは違った。皆が主イエスに従うことを心から喜んだ。悔い改めを説いたヨハネは、真に悔い改めた、へりくだった人であった。そのような人は、自分が認められなくても、軽くあしらわれても動揺しない。

妬んだり、攻撃的になったり、自己憐憫に陥らない。人の評価に関心が無いからだ。「ヨハネがキリストか?」と人々に思われ、パリサイ人はそれを聞きに人を遣わしたほどだ。このような大きな評価を受けるなら、幾らでも自分に栄光を帰せる。しかし、ヨハネはキリストではないと明言し、あの方は盛んになられ、自分は衰えなければならないと言った。

私たちの人生の目標は一つ。自分が衰えて行くことだ。自我が砕かれて、自分に死んで行く事。私たちはどれほど主に似ているだろう。似ていないなら、あの方ではなく、自分が盛んであり、自分が主になっている。
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嬉しかったり悲しかったり、その感情は何処から来ているのだろう。自分を通さず主が自分の中に盛んになって行くことを望んでいるだろうか。自分に死んで行こう。


2011年02月10日(木)

「あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」Tペテロ2:11 


「肉の欲を遠ざけよ」と言われている。それはたましいに戦いを挑んで来ると。軽く見て、侮ってはならない。凄まじい力がある。それゆえ「その場から離れること」「避けること」は大切だ。夕暮れ時に起き上がったダビデは、屋上を歩いていると、バテシバが、からだを洗っているのが見えた。ダビデにとって誘惑となった。ダビデは情欲を拒否するために、すぐにその場を離れるべきであった。

その場をすぐ離れ、自分を遠ざけたなら、守られたであろう誘惑に、自分から、身を委ねて行ってしまった。更に積極的に人をやって、その女性の身元を調べさせた。ウリヤの妻だとわかっても、もう肉欲はどうにもならなかった。自制もきかず、罪を犯してしまった。この時、ダビデは勝利を重ねていた。

サタンの誘惑は厳しい試練の最中ではなく、成功を収めた時、順調に物事が進んでいる時に来ると言われている。心の緊張、警戒心が失せ、油断し、心にスキがある時だ。サタンが誘惑をもって、弱い所に襲って来る。祈って見張っていよう。

「近づかないこと」「逃げること」「避けること」は大切だ。それによって罪から守られる。アルコールに弱ければ、酒屋に足を向けないこと、店に入らないこと、自分は大丈夫だと思い、酒屋に近づいて失敗する。自分は大丈夫との過信が命取りになる。今、避けるよう、離れるよう、言われている事があるだろうか。
主に従おう。
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自分の肉の弱さを知っているからこそ「近づかない」「逃げる」「避ける」のだ。大丈夫と思っているのが一番危ない。戦いをいどまれている事をいつも覚えて、ゆだねられた良いものを御霊によって守っていただこう。


2011年02月09日(水)

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」ローマ12:10


神は、私たち一人一人をそれぞれ使命と目的を与えて創造された。同じ指紋が一つも無いように、同じ人間は一人もいない。だから、比較することが出来ない。比較が不可能なのだ。私たちが霊的にダウンする原因は、多くが他者との比較から来ている。誰かと比較し、自分の方が優っていれば、優越感に浸り、自己満足
する。しかし、高慢に陥っている。そして、相手より劣っていれば、劣等感に落ち込む。恐れ、不安から、ストレスを引き起こし、心が沈み、暗くなる。

優越感と劣等感を行ったり来たりする。他者と比較しなければ済む事なのだが、どうしても比較してしまう。その苦しみから解放されるためには、まず自分の内にあるものを、ごまかさず、隠さず、逃げずにしっかり見て行く事が大切だ。
それが紛れもなく自分ですと、自分の惨めな姿を認めて行く時、癒し主が、癒して下さる。

しかし、古い人は強く、肉は邪魔をし、余りにも惨めで、自分の姿を認める事ができない。プライドが許さない。しかし、惨めで、哀れで、裸である自分の姿を正直に告白する時、主は癒して、解き放って下さる。癒された自分は、ありのままの自分を受け止める事ができる。そして、他者と競争するのでなく、張り合う
のでなく、へりくだって、仕えて行く事ができる。他者を愛して行ける。自分の本当の姿に向き合う事から、御霊による解放が始まる。
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自分のうちに何も良いものがないことを認め、自分以上の者であろうとする時に気づけ謙遜になれますように。自分の経験や知識を誰よりも優先しようとする時、御霊に耳を傾けることが出来ますように。


2011年02月08日(火)

「敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間ない紛争が生じるのです。しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Tテモテ6:5


「敬虔を利得の手段」とするということは、神様のためにする行ないを、人に褒められるためにすることだ。人からの賞賛を得るために、良い行ないをする。人から認められたい、評価されたい一心だ。それに反し、「満ち足りる心を伴う敬虔」とは、心が御霊によって満たされているので、人からの賞賛や、評価、人によって満たされる必要がない。

自らの心は、何によって満たされているだろう。人からの賞賛、評価で心を満たそうとすると、絶え間のない紛争が生じる。絶えず人の目を気にし、自分が少しでも高く評価されようとするので、低められたと感じるや、傷つけた相手を憎み、反撃し、争いを引き起こす。人が自分をどう見ているかが、すべてであり、それが気になって仕方がない。

そのため疑心暗鬼になる。評価されているか、どうかがいつも不安だ。心に平安が無く、不安定で、揺れ動く。プライドが高いので、些細な事で傷つき、不幸の原因を相手と環境のせいにする。しかし、そこに何の解決もない。満ち足りる心は、御霊から来る。

自らの高ぶりと自己中心を認め、明け渡すなら、御霊は力強く導かれる。御霊の導きに一歩〃従って行く時、御霊に支配されて行く。従って行く時、御霊の喜びが心に臨む。状況に関係無く、自分には心に満足がある。状況や人がどうであれ、自分は主によって幸せであり、平安に歩める。この平安は何にも代えられない。
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私達はいつも誰かから価値を認められたい者だ。それを人から得ようとするから迷い疲れる。人の評価で満足する所を認め、今も変わらず価値のある者として見て下さっている神様に感謝し平安を受けよう。


2011年02月07日(月)

「その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり・・」Tテモテ6:4


「健全なことばと敬虔にかなう教えに同意しない人」がいるならその人は「高慢」になっているとある。高慢とは、御言葉に同意しない事だと言っている。普段、余り意識ないが、どうだろう。御言葉を聞く時に、自分の思いが入って来る。「でも・・」「そんな事はできない」「無理」「そんな事言ってたら、世の中や
って行けない」「ちょっと厳しすぎるんじゃない」「そう思わない」等々、

御言葉と同時に、自分の思いが来て、自分の思いの方を取り、自分のメガネに適わない言葉は捨ててしまう。自分に都合の良言葉だけを受け入れる。それも、自分の都合の良いように受け取る。それが高慢だと言っている。その自分の肉に従って行くと、肉の実を刈り取る事になる。高慢になると、何一つ悟らず、御言葉
に反して行く。神を疑い、人を疑い、人がああ言った、こう思っていると、言い争いを起こして行く。

人との比較に生きているので、人の幸いを妬み、祝福出来ない。人を裁き、そしり、そこには決して平安と喜びがない。「満ち足りる」ためには、まずこの高慢を悔い改める必要がある。自分は御言葉をその通りに受け入れているだろうか、同意しているだろうか、へりくだって聞いているだろうか、御霊に心を探って頂
こう。満ち足りる心は、御言葉を素直に受け入れるところから生まれる。
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出来ない、受け入れられない、変わりたくないと御言葉に対しての思いが来たなら素直に神様に告げよう。向き合う事になる。簡単に右から左に流してしまわず謙遜に御言葉に向き合おう。


2011年02月06日(日)

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩編119:105

船の航海は羅針盤を頼り、飛行機は計器を頼って飛行する。それを人間の視覚だ
けに頼って航行したらどうなるだろう。嵐の中や雲の中で、視界がゼロになると、
どの方向に向けば良いかわからず、事故を起こし、沈没、墜落してしまう。

車の計器無視はどうだろう。赤ランプ点滅を、大丈夫、〃と走行していると、ガ
ス欠で停止し、オイル切れで車をダメにしてしまう。これは私たちの信仰生活に
も言える事だ。

自分の感覚に頼っている限り、すぐに思い煩い、不安、恐れ、心配で心が一杯に
なる。視覚に頼って操縦するので、的がはずれて行くのだ。羅針盤や計器に沿う
事が大切だ。それが御言葉であり、「私の足のともしび、私の道の光」だ。

進むべき道がわからない時、御言葉が照らしてくれ、正しい道に導いてくれる。
道案内だ。御言葉でなく、視覚で進むなら迷路に迷い込む。どこへ向かっている
かもわからない。

又、心が悶々状態であり、怒りや不平不満で一杯な時、座礁状態だ。暗礁に乗り
上げ、身動きがとれない。どこが原因なのか、なぜ座礁したのか、御霊に心を探
っていただこう。視点が違っているはずだ。

御言葉で判断せずに、物事を自分の思いで判断し、見ていないだろうか。すると
不満と思い煩いになる。御言葉に立ち、どんな状況でも「すべてについて感謝」
に立って行く時、感謝が生まれて来る。自分の思いから目を離し、今一度御言葉
に立とう。

・・・・・・・・・・・・・・・
視点の違いで天地ほど違って来る。「状況と自分の思い」に立つと、ネガティブ
にしか見えず、落ち込んで行くばかりだ。そして自分が正しいと思っているから
暗闇の中だ。神を見上げ、御言葉に立つと、状況が違って見える。ご計画があり、
意図があり、そこに神の愛がある。


2011年02月05日(土)

「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」マタイ4:10

自分は「何のために」信仰しているだろう。もし信仰が、自分が求めている何か
を得る「手段」なら、自分の欲しいものを手にしたなら、もう信仰は不要になる。

又、もし手段であるなら、何が何でも欲しいのなら、別に他の手段でも良い事に
なる。サタンは「私を礼拝するなら、すべてを与えよう」と言った。「欲しいも
のを何でも上げるよ」と、そのサタンの誘惑に乗ってしまう。目的のものを得た
いだけであり、誰がくれようと構わない。

しかし、主にとっては、御父を礼拝する事は、何かを得る手段でなく「目的」で
あられた。もし信仰が、より良い人生、より高尚な生活、人格者になる事、自己
実現のための手段なら、神が自分の思い通り、期待通りに動いてくれなかったら、
遅かれ早かれ失望する。

神の愛を疑い、離れ去る。形だけ礼拝はしていても、心には何の喜びもない。実
質、得るものが何も無いのだから。しかし、神を神として信じ、神を崇め、何を
得ようと得まいと、神との交わりを目的として歩むなら、何があっても平安と喜
びを失う事はない。そして神を愛して行く。

「何のために」信仰しているだろう。「何もかも捨てて従いました。ついては、
何がいただけるでしょうか」どこまでも自分の利益のためだろうか。神を愛する
ためだろうか。どうであれ神は私たちを変わらずあるがまま愛して下さっている。
神がまず愛して下さった、その初めの愛にいつも帰ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・
富、地位、人の賞賛、自己実現・・神でなく、それらを第一に拝めと、サタンは自
らの姿を隠し、そういう形で誘惑をしかけて来る。それを手にしたら幸せになれ
ると。サタンの偽りであり、本当の喜びと平安は、神を神として崇めて行くとこ
ろにある。


2011年02月04日(金)

「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました」詩編40:6


いけにえが形だけのものに、なってしまう事がある。牛をちゃんと献げたのだから良し、OK、すべき事はしたの態度だ。こちらサイドでは、すべき事をしたのだから、祈りが答えられてしかるべき、答えられないのは、神の方が間違っている、という事になってしまう。

今の私達も一つ間違うと、献げるべきものを献げ、するべき事をしたのだから、神は私の願いを聞くべき、願いが聞かれないのは納得が行かない、という態度になってしまう。神との関係が、対等の商売上の取引関係だ。しかし、決してそうではない。神とは取引でなく信頼関係だ。

神にすべてをお委ねして、神が良いお方であり、最善をして下さる事を、信じて行く関係だ。そこに信頼がある。そして、神が喜ばれるのは、開かれた耳、聞こうとする耳だ。御心を聞いて従おうとする心だ。

礼拝に出てはいるが、身体だけ、形だけ、御言葉を物理的に聞いているが、実は決して心の耳では聞いていない。自分の都合の良い言葉だけ聞いて、あとはシャットアウトだ。少しでも自我に触れて来ようものなら、即、心を閉じる。

もし、こういう状態であり、耳がふさがっているなら、神にありのまま、聞く耳がありませんと向かおう。神こそが、耳を開いて下さるお方だ。正直に自分の状態を認めて、神に向かう時、必ず答えて下さり、耳を開いて下さる。
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いくら御言葉を目で追っても心に入って来ない時がある。聞かない、聞けない心の態度が問題だ。何が耳をふさいでいるのだろうか、それも神様に問いながら型通りのささげ物ではなく神様と真の交わりに入ろう。


2011年02月03日(木)

「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」詩編39:9


この詩編記者は、病にあり、苦しみの中で「なぜですか、どうしてこんな目に会うのか」との不満が鬱積していた。しかし、舌で罪を犯してはいけないと、口に口輪をはめた。しかし、黙していると、ストレスが更に高じて内攻し、鬱積し爆発しそうだった。

それを、彼は人にでなく、神にそのままぶつけた。心の中の本音を吐き出し、気持ちの洗いざらいを神に告げた。人生は、はかなく虚しいと。心の内をことごとく吐き出した時に、信仰が帰って来たのだ。この虚しい人生での望みをかけられるのは何かと、見上げた時に、神を見い出した。

「私の望み、それはあなたです」と。そして、本音を神にことごとく告げた後、私は黙し、口を開かないと言っている。同じ、口を開かないだが、最初の口輪をはめ、ストレスに陥ったのとは全く異なる。「あなたがそうなさった」と、すべてに神の主権を認め、神のご計画がある事を認め、それを受け入れ、すべてを神の御手に委ねたのだ。

心の内を、自らの気持ちをことごとく神にさらけ出したゆえに、御手から来たものを、受け入れることができた。ここで学ぶ事ができる。私達も自らの奥底の気持ちを、本音をことごとく神に告げて、初めて、神のご計画を受け入れる事が出来る。あなたもことごとくを神に告げよう。
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言葉で失敗するより、静まり口を開かないよう訓練しよう。心のなかでサタンも会話に加わって来る。神様に語ろう。不満、不安、気がかりな事、すべて言ってしまおう。神様からの答えを待つ忍耐も与えられる。


2011年02月02日(水)

「彼らは世におりますが・・あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください」ヨハネ17:11


私たちは世にあって、世で生活しているが、世の者ではない。しかし、世から隔離、断絶するのではない。だからと言って、世にどっぷり浸かるのでもない。私たちは、この世にあって、この世の人々と同じように生活する。しかし、その原理が異なっている。私たちは「神の言葉」が、自分を動かす原理だ。

この世の原理でなく、御言葉がどこまでも基準だ。御言葉の価値観で生きて行く。だから、この世にいるが、世とは違っている。主が御父に祈られた。「真理によって彼らを聖め別って下さい。あなたの御言葉は真理です」。御言葉が真理だ。

自分の内に根本的、根源的原則が必要だ。確固たるものが無いと、特に日本人である私たちは、周囲と同じである事が良い事であり、同じだと安心する。真理なる御言葉に基づいて、思考し、判断し、行動しなければ、周囲に同調し、世に飲み込まれてしまう。

日本には米軍基地や大使館がある。日本国内だが、そこは本国の法律下にある。同様に、私たちはこの世にいながら、御言葉が支配する神の領域にいる。この世と接触を断つのではない。人々を愛し、人々に仕え、交流し、証しをして行く。しかし埋没して飲み込まれてはならない。真理の御言葉に従って行く時、御霊が
助け、正しく導いて下さる。
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私達は人の目には見えない霊的な部分を持っている。絶えず祈り、御言葉を求めて内なる人の声に耳傾けその信仰で、この地上での生活を勝利し輝いて歩んでいこう。


2011年02月01日(火)

「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり・・火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」イザヤ43:2


ある夫婦が、親の認知症が進み、自宅介護はもはや無理であり、医師からも入院を勧められた。しかし、親を最後まで、家で見届け、看取る事を願った。もう家族も認識できない状態だった。実際、介護は決して甘くはなかった。非常に厳しい現実であり、火のような試練であった。朝毎に、夫婦で手を取り合い、涙ながらに祈った。祈り、頼らなければ、一日たりとも過ごせなかった。

主に頼み「明日の事は、明日が心配する」の通り、今日一日だけを考え、一日一日を過ごして行った。厳しい日々であったが、しかし、火の中、水の中に共におられる主を、まさに日ごとに体験させられた。一日一日が火の中、水の中であった。自分達だけでない事を実感できた。

試練は、非常に苦しく辛かったが、試練と共に脱出の道を備えられる主は、主の臨在という恵みを備えて下さった。主がすぐそばにおられた。その昔、王の立てた金の像を拝まない、シャデラク、メシャク、アベデネゴの三人は火の炉に投げ込まれ、七倍炉を熱くされた。しかし、何の害も受けず、もう一人がそこに共に
いた。

その炉に、主イエスが共におられたのだ。今、あなたは厳しい試みの中いるか。火の中に、まさに主が共におられる。炎はあなたに燃えつかない。今、状況でなく、共におられる主を覚えよう。
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先の見えない試練に恐怖を覚えるが、今日の一日を主と共に乗り越えよう。主を忘れ怒りながら、嫌々ながらなら今日はできても、明日はできない。主が力を下さる。主に励まされ力をいただき、今日を歩み始めよう。