2011年03月31日(木)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20

悪魔の強力な策略は何だろう。「不平不満」は悪魔の隠しておきたい策略だ。日常を振り返るに、罪を犯す時、必ずそこに「不満」が隠れている。妬み、憎しみ、裁き・・どうだろう。アダムとエバは悪魔の巧妙さにひっかかった。「神は、あなたが神のようになり、善悪を知ることを知っている」あたかも神が人間を、隷属状態に置いておきたい、人は神になれるのに、神がそれを嫌い、阻止していると。不満に誘惑され、罪に進んだ。

それゆえ、神は繰り返し〃「感謝せよ」と言われている。勿論、毎日は良い事、楽しい事ばかりではない。しかし、信仰により「感謝」を献げて行ける。ある人が、職場で、正当に評価されていない不満が鬱積、爆発寸前で、辞表を叩きつけたい気分だった。しかし、御前に心を打ち広げ、怒りも悔しさも、感情を主にぶつけ、何もかもを主に告げて、聞いて頂いた。

すると、心落ち着き、平静になれ、信仰による選択をしたいと、「感謝」を選ぶ決心をした。「感謝せよ」の御言葉を反すうし続けた。現状は変わらないが、ずっと感謝し続けていると、主が自分を受け入れ、愛し、認めていて下さる現実が実感として迫って来た。

そして自分も怒りで、トゲで、人を傷つけ遠ざけていたのだとわからせて下さった。変わった自分に、周囲が好意的になった。心の奥に「不満」があるだろうか。主に告げて対処して頂こう。不満から喜びへと変えられる。
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すべてのこととは、良い事も悪い事も感謝して行くことだ。無いもにばかり数えあれも、これもないと感謝できないというサタンの声を退けよう。神様が、必要とするもの全てを与えて下さっていることを今もう一度信じ喜ぼう。


2011年03月30日(水)

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び・・」マタイ13:23


自分の軸は、神にあるだろうか、それとも自分にあるだろうか。神か、自分か、どちらに軸があるのか、日常生活の行動や考え方に、そのまま表れてくる。例えば、御言葉と自分の思いが、違った時はどうだろう。自分軸、自分を中心に置くなら、必ず御言葉を捨ててしまう。「そんな事言われても」「出来るはずがない」
「はなから無理」「人にどう思われるだろう」・・自分の思いが大切で、自分の思いを第一にして行く。

神視点にあり、神を中心に置くなら、わからない時は「この御言葉を教えて下さい。わかるように、どうか教えて下さい」と祈って行く。御言葉に従えるように、主に助けと導きを求めて行く。自分の御言葉への態度はどうだろう。自分が御言葉の上に立って、都合が良ければ取り入れて、不都合なら流してしまうだろうか。自我に触れて来る、痛い御言葉は、シャットアウトしてしまうだろうか。

又、御霊が時に「今、祈りなさい」と示される事がある。しかし、自分に中心軸があるなら「後で、祈ればいい」「今は祈る気にならない」「今は疲れているからいい」と余り意識もせずに、御霊の促しを無視してしまう。自分の日頃の態度はどうだろう。気づきから始まる。気づかない限りずっと信仰生活そのままだ。
一つ一つ御霊に従おう。その時、必ず変えられて行く。
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みことばに従おうとするから、従えない自分や、信仰を持って立つ時に与えられる神様からの力を知っていける。求めも、祈りの課題もまたそこから与えられる。素直に聞いたみことばを実践して行こう。


2011年03月29日(火)

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」ガラテヤ5:25


信仰生活、常に正反対の二つの思いが目の前に来る。例えば、人から批判された時、プライドが傷つき、肉は怒り、敵対心、復讐心がメラメラと湧き上がる。背後にサタンがたきつけて来ている。しかし、片方、御霊の思いも来る。いや、それではいけない。まず祈ろう。主のもとに告げて、主に対処して頂こう。敵をも愛せと言われている。しかし、肉は、怒りで、反撃がしたい。御霊は不用意に思慮無く、言葉を発するなら、取り返しがつかなくなると言われる。

これら二つの思いがある。これは私たちの選択だ。カインとアベルの献げ物の箇所で、カインの献げ物には目も留められなかった時に、怒りが湧き上がった。しかし、主は怒りを治めよと言われた。カインは憤りを治める事をせず、なされるがままに、飲み込まれて行った。その行き着く先はアベル殺害であった。

御霊は罪を示し、気づきを与えて下さる。それを無視して行くと、罪にコントロールされてしまう。神は私たちを愛しておられるので、軌道修正し、導いて下さる。日常生活で、様々な問題が起きるが、御霊は、私たちを御心の道へ導こうと、語り、導いて下さる。様々な気づきを与えて下さる。その示された気づきに従って行くことが祝福だ。肉とサタンはそれを妨害して来る。「わたしを呼べ」と言われる主に、助けを求めよう。そして、御霊の導きに従おう。御霊の実を結ぶ。
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肉に働くサタンの声を意識しているなら、逆に御霊の導きもはっきりと聞こえる。いつも感情がコントロールできなくなる自分の弱いところを見張ってみよう。必ず二つの声がする。主を呼び御霊の声に従おう。


2011年03月28日(月)

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」創世記3:12 

アダムは罪を犯したが、神はあわれんで、御声をかけられ、悔い改めのチャンスを与えられた。「あなたは・・食べたのか」と。「私は食べました。ごめんななさい」と言えば良かった。しかし、エバのせいにした。エバがくれたので、食べたと。「あなたが置かれたこの女」ましてや、私のそばに置いた神のせいだと。

エバは蛇のせいにした。私たちも、この罪の性質がある。私がこうなったのは、あの人のせい、この人のせい、環境のせい、社会のせい、これなら自分は被害者だ。自分はいっさい悪くない。すべて悪いのは他人と環境だ。しかし、これなら他者依存の人生であり、そこに自分が無い。そして、自分の心は依然と辛く苦しい。

ある人が、アル中の父親を憎んでいた。小さい時、父親は、飲んだくれては、暴れて、家族に暴力も振るった。家の中は滅茶苦茶だった。自分もよく殴られ、憎しみで心を頑なにして行った。しかし、主に出会い、祈っていた時に、父親は確かに悪いが、父親への憎しみは自分の罪だと示された。

相手が見た目にも悪いだけに、悪いのはどこまでも相手であり、自分の罪には全く気づかなかった。自分は善で、相手が悪いとしか見えなかった。自分の罪を心から悔い改めた時に、自分が癒された。変えられて、父親への長年の憎悪が溶かされて失せた。
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罪は人に、ではなく自分の問題として見て行こう。心に平和がなく苦しいのは、自分の内に気づかない罪があり、神様の示しかもしれない。自分の罪に気づいて、自分が赦されて行くなら、それが一番の恵みで祝福だ。


2011年03月27日(日)

「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」創世記4:7



カインとアベルが献げ物をした。カインは地の作物を持って来て、アベルは最良
の初子の羊を持って来た。アベルとその献げ物を目に留められ、カインとその献
げ物には目に留められなかった。ヘブル書によると、アベルは「信仰によって」
献げていた。

カインは、神に認められなかった事にひどく怒った。主はその怒りを「治める」
ように言われた。が、そうしなかったので、憤りは弟アベルに向かい、妬みとな
って燃え上がり、ついに殺人にまで及んだ。「正しく行なったのであれば、受け
入れられる」のであり、カインは正しく献げていなかった。

神に聞き、悔い改め、献げ直せば良かった。ここで私達の日常について学ばせら
れる。人に認めて欲しくて、評価や、見返りを求めて行動する時、その報いが得
られないなら、不満が鬱屈し、怒りとなる。心が辛く苦しくなるのは、見返りを
求めるからであり、相手が感謝を返して来ないからではない。

相手の問題でなく、自分の心に裁きや怒りを生じさせたから、心が苦しい。人が
人に認められたい、評価されたいと求めるのは、その底は愛されたいからだ。そ
の解決は、まず人ではなく、神に向き、神の愛で心を満たして頂くことだ。

まず自分が満たされる時に初めて、人を愛して行ける。自分が満たされているの
で、人の幸せを妬むのではなく、心から願う者とされる。

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罪が戸口で待ち伏せているとある。罪の上に罪を重ねて行ってしまう。そして、
罪は、罪を犯した者を恋い慕っているとある。そこにサタンが強い力で働いて来
る。カインは殺人にまで至ってしまった。罪は恐ろしい。悔い改め〃主の血潮に
よる赦しを受け取ろう。


2011年03月26日(土)

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9


時々「どうせ私なんて」と否定的な人がいる。しかし、自分の欠点をちゃんと認
めているのではない。その証拠に、他人から「そうですね」などと言われようも
のなら大変だ。「自分なんてダメで」と言いつつ、本当は「自分は出来るのに、
自分を認めない周囲が悪い」と思っていたりする。

その歪みが対人関係をギクシャクさせ、周囲を退かせてしまう。人は欠点や不足
ゆえに不幸なのではない。それは誰にでもある。誰しも欠点だらけだ。その欠点
を認めない事が問題だ。プライドゆえ、余りにも痛くて認められない。だから、
弱みを決して人に見せたくない。

認めたくないので弱さを隠し、自分も無視する。認めない事、向き合わない事で、
ますます自分が辛くなる。無視しても事実は何も変わらない。欲求不満と苦しみ
が増すばかりだ。

まず、現実を認めることから始まる。自分の弱さを認めることが始まりだ。アル
コール依存症が治って行くのは、自分はアルコール依存症だと、正面から認めた
人々だと言われている。逃げたり、ごまかしていては何も変わらないし、始まら
ない。

認めて、受け入れた時、解決へと導かれる。解放され、自由にされ、これまで決
して見えなかった主の祝福が見えて来る。まず、そう出来ない事を主に告げて、
主の助けを求めて祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・・
この世の価値観が能力のある事、強い事が善であるので、弱さは負でありマイナ
スだ。だから、肉は認めたくない。弱さを隠して強くあろうとする。しかし、主
は弱いままで良いと言われる。何という安堵だろう。このまま主のもとへ行こう。


2011年03月25日(金)

「互いの栄誉は受けても、唯一の神の栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44


この世の価値観、自分の内の古い価値観に「比較」がある。これは根深い。この世は、神無しの世界なので、自分を量るためには「比較」しか無い。自分を確認する時に、人との「差異」で量るしか方法がない。その差異で、自分の価値を確認する。それで無意識にも絶えず人と比較しながら生きている。

信仰者も、今までの古い根深い価値観が残っているため、つい比較に走ってしまう。これは人に依存しているため、優位に立てば優越感、劣っていれば劣等感、この負のグルグルスパイラルにはまってしまう。そして、人依存なので、人に認められ、評価されたい、常に人目を意識し、外側を繕って生きている。そこに全
く平安は無い。

自分の内にも、その深い根がある事に、気づく事から始まる。人との差異で自分を量り、確認するのでなく、絶えず、御言葉を鏡として、御言葉に自分を照らし出され、確認して行くことが信仰者の生き方だ。神は私に何を求められ、何を喜ばれるのか、「神は、私に」を絶えず、祈りつつ求め、示され従って行く時に、根にある人依存の価値観が、神依存に変えられて行く。

日々、御言葉に向かい、自分を御霊に照らして頂こう。御霊は、人と比較している時に気づきを与えて下さる。気づけた事に感謝して、その目を横でなく上に向けよう。それを日々繰り返して行く中で、新しい価値観が培われて行く。
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心から平安を見い出すのは、人基準の価値観から解放されて神の前に一人でいる時だ。人の栄誉と神の栄誉の妥協点はないと覚え、どこにいても「神様は、私に」だけを求め、ぶれてもまたそこに立ち返りたい。


2011年03月24日(木)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18


御霊に導かれて、御霊の支配の中で生きる時、私たちは自由で、嬉しく、感謝がある。しかし、律法のもとで、肉に従って生きるなら、非常に辛く窮屈になる。しんどいばかりで苦しい。心に自由がなく、喜びがなく、心が重くふさがれて辛い。あの一タラントのしもべのように、常に神に要求されているように感じる。

神がひどい、恐い方で、蒔かないところから刈り取る厳しい方になってしまう。クルシミチャンだ。そこに感動も喜びも無い。今、あなたはどうだろう。しんどい信仰生活だろうか。辛くしんどいなら、御霊によく心探って頂こう。自分の力で頑張っているかも知れない。妬みや敵対心、怒りが湧き上がる時、これは良く
ない事と、自力で抑え込んでしまうだろうか。

抑え込んだものは、無くなるのでなく、ずっとそこにある。押し込んでいるだけだ。膿になりただれる。そしていつか爆発する。この時に、抑え込むのでなく「私は怒っています、妬んで、憎んでいます。」と一つ一つ、誰にも言えない思いを、主に告げる事が大切だ。隠さず、言い訳せず、ごまかさず、主の御前に言
い表して行くことだ。

そうすると、御霊は悔い改めに導き、心をきよめて、平安にして下さる。絶えず主を呼び、言い表わし、主を求めて行く時、その嫌な思いが消えて行く。思いが来た時、「主よ」と主を呼び求めよう。
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「出来ません、助けてください」と叫んで行くと出来ない自分の内に神様が働いて下さる。自分で出来ないその壁を御前に認め、祈り求める時に自由な御霊の導きの下に置かれ、安んじておれる。それを経験していこう。


2011年03月23日(水)

「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう」ピレモン15



ピレモンの奴隷オネシモは、主人のものを盗み、逃亡した。ローマで捕まり獄中にいた。そこでパウロに出会い、回心した。当時、主人には、逃亡奴隷を死刑にする権利があった。そのため、パウロはピレモンに執りなした。損害は自分が償うので、オネシモを赦して欲しいと。状況的にはそのようだが、神の視点に立つ
と、全く別の見方になる。

オネシモは悪事を働き、罪を犯した。それゆえ、ローマに逃亡する事になった。しかし、そこでパウロに出会えた。災いが益とされる。オネシモは悔い改め、主のものとされた。神の見方によるなら、オネシモがピレモンのもとを離れたのは、主にある愛する兄弟として、永久に取り戻すためとなる。神の見方で状況を、人
生を見て行くなら、どんなに救われるだろう。

ヨセフも同様だ。自分を妬み、悪意でひどい事をした兄たちに「あなたがたは悪を計ったが、神はそれを良いことのための計らいとされた」と言った。悪意をも神は最善への計らいとされる。先にヨセフをエジプトに送り、総理大臣とし、大飢饉の中、一族の命を救うようにされた。

どんな最悪の事態、状況をも、神は最善へと導かれる。今、深い悲しみ、苦しみ、辛さの中にあるなら、神を信じていよう。その苦しみから、必ず素晴らしい祝福へと導かれて行く。
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人の言葉や状況で不安になる時も、神様とみことばを見るなら必ず平安になる。神様はすべてご存知だから、みことばに踏みとどまり、今の恵みと先に来る恵みを喜んでいよう。


2011年03月22日(火)

「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか。それとも悪を行なうことなのか」マルコ3:4  


                   
主は、パリサイ人から、弟子達が安息日に、穂を摘んだと非難された。してはならない事をしたと。その後、主が安息日に会堂に入られると、そこに片手のなえた人がいた。パリサイ人は、主がその人を直すかどうかと、凝視した。それは、主を陥れるためであった。何という冷ややかな心だろう。

主を弾劾し、自分達を正当化するために、手のなえた人をも利用する。そして、その人が癒されるという、奇跡を見ても、何の感動もなく、すぐに主を殺す相談を始める。他人事ではない。他人の事はよく見えるのだが、自分の事はわからない。「自分は正しい」に立つ時、見えないまま、自分もまたパリサイ人になって
いる。その態度の原因を「その心のかたくななのを嘆き」と、心の頑なさによると言われた。

心は硬くなり、感覚が失せていた。愛や憐れみや同情に無感覚だ。それは主の殺害計画にまで発展して行く。なぜここまで頑なになったのか。自分を正当化し、心に生える苦い根を引き抜かず、はびこらせ育て上げてしまった。私たちにも苦い根は無いだろうか。

憎しみ、妬みの根は放っておくと、増幅して行き、殺意にまで発展する。実際、彼らは妬みで主を十字架につけた。一方、主は愛と憐れみで心が一杯であった。同じ「じっと見る」目が、何と対極にある事だろう。根にあるものに気づかされ、明け渡して行こう。主が愛とあわれみを注いで下さる。
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心のかたくなさゆえに正しものが正しく見えなくなっているなら、私達も十字架につける側に立って行ってしまう。思いをかたくなにしている苦い思いは主に明け渡し主が見られているように真っ直ぐに見ていこう。


2011年03月21日(月)

「妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」使徒5:2


信仰生活、年数を経ると、自然に聖書知識が増して行く。毎週〃礼拝に出席していると、それなりに知識が身について来る。最初は祈りも、皆と祈るのは、非常な緊張だったが、いつしかそれらしく祈れる。信仰生活を重ねるに従って、内側と外側にギャップができ、それが大きくなって来る。

実質は無いのに、どんどん聖書用語は増え、知識も増え、外側いっぱしの信仰者に装えてしまう。私達には、人に良く見られたい強い欲望があるので、人前を繕ってしまう。この誘惑に陥ると、信仰の致命傷になってしまう。最初は、わかっていながら、つい良く見られたくて、人前を取り繕ろってしまうが、その内に自
分が自分に騙されて、自分がわからなくなる。

最初は、意識した演技だったが、演技している方の自分が自分だと信じてしまう。特に霊的生活には、サタンが巧妙に狡猾に惑わして来るので、とにかく、主の御前に正直でいよう。アナニヤとサッピラの間違いは、装った事だった。自分が賞賛されたい、信仰深いと見られたい、虚栄から出ていた。

誕生したばかりの教会に、この致命的な偽りを放置するなら、内側から崩壊して行くので、主は対処された。自らもこの誘惑、この偽りに、よく心していよう。信仰が破船してしまう。人に良く見られたい欲を認め、「全部は無理です。献げられません。一部を持って来ました」とそれで良い。ありのままでいよう。そう
すれば、守られ、祝福される。
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内側の自分を知ることから始めたい。頭だけの知識、口先だけの信仰で霊的に満たされたふりをしていないか。私達も損の自分を放置するなら内側は空洞になる。求めは人にではなく真の神様にあるといつも覚えていたい。あのまま正直でいよう。


2011年03月20日(日)

「主のことばのとおり、上等の小麦粉・・大麦が売られた」U列王7:16



エリシャが、飢饉で人々が次々餓死する危急の折りに「主が仰せられる『明日、
小麦や大麦が売られるようになる』」と告げた。すると侍従が、「たとい、主が
天に窓を作られるにしても、そんな事があるだろうか」と言った。その時エリシ
ャは、あなたはそれを見るが、食べられないと預言した。

そんな時、サマリヤの門に四人のらい病人がいた。町は飢饉、どうせ自分達は死
ぬ。同じ死ぬなら、敵の陣営へ入ってみようじゃないか、食料があるかも知れな
いと敵地へ。敵の陣営では、神が大軍勢の騒ぎを聞かせ、襲撃に勘違いさせた。

アラムは驚き恐れ、慌て、陣営を置き去りにし逃亡した。そこには、山ほどの金
銀、溢れる食料があった。それを彼らは、王家に知らせた。王は信じなかったが、
偵察により事実を知った。すると、大勢が殺到し、その侍従は踏みつけられ死ん
だ。

預言通りになった。実際、溢れる食料を神は用意された。しかし、それを信じな
ければ、自分のものにはならない。現に溢れる食料があるのに、飢えて死ぬ事に
なる。私達はどうだろう。十字架の救い、神の愛、恵み、罪の赦し、義とされる
事・・、溢れる食料の中にいながら、信じなければ餓死するように、溢れる恵みの
中で、不信仰で餓死寸前ではないだろうか。

自分で恵みを阻止する、自分の姿ではないか。すでに莫大な食料が目の前にある。
信じようとしない、自分に気づく事から、祝福は始まる。そのままの姿を祈りに
もって行こう。

・・・・・・・・・・・・・・
信じようとしない時、現に目の前にあるものを受け取れない。それを自分のもの
とする事ができない。しかもそれは、溢れるばかりの祝福だ。楽しむ事ができな
い。しかし、信じる時に、そのまだ見ていないものを、自分の手にする事ができ
る。そして、自分で楽しむ事ができる。


2011年03月19日(土)

「恐れないで、ただ信じていなさい」マルコ5:36       



私たちも信仰人生で経験するだろうか。「もう手遅れだ」「もう何もかも終わり
だ」ヤイロは死に瀕する娘を、何とか主に助けて頂きたくて、必死の思いで願っ
た。念願叶い、主が足を運んで下さる途上に、邪魔が入った。

そこに、突然長血の女性が現われて、行く手がさえぎられた。主は彼女に対応さ
れた。ヤイロの心はどんなに急いただろう。一刻を争うのに、どんなにやきもき
し、焦った事だろう。愛する娘が絶体絶命の瀬戸際だ。そして、主は、目の前を
女性を癒され、御声をかけておられた時に、使いが来て、娘が亡くなったと告げ
た。

もう手遅れた。今や先生に来てもらう必要は無くなったと。その時、主は間髪を
入れず「恐れないで、ただ信じていなさい」と言葉をかけられた。手遅れではな
い。すべての「時」は主の主権の中にあり、完全な支配の中にある。

「時」も「生き死に」も支配しておられるのは主だ。見えるところでなく「恐れ
るな」「ただ信ぜよ」との御言葉に立つ時、信じた通りになって行く。そして、
受け入れるべき言葉と、聞き流すべき言葉がある。

「お嬢さんは亡くなった。なぜ先生を煩わせる事があろうか」の不信仰な言葉は、
聞き流すべきだ。何でもかんでも、聞いてはならない。肉、サタンの言葉、聞き
流すべき言葉は、受け入れず、流そう。

・・・・・・・・・・・・
くずおれそうな時、不安と恐れの最悪の状態の中で、主は御声をかけて下さる。
いのちの御言葉を与えて下さる。「恐れないで、ただ信じていなさい」に立って
いよう。そして、思い煩いの言葉、サタンの語りかけを拒否し、無視しよう。


2011年03月18日(金)

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声を上げて叫べ」イザヤ54:1




この当時、神の民であるイスラエルは、不信仰に陥り、偶像礼拝をするようになっていた。北王国の首都サマリヤ、南王国の首都エルサレムが敵に滅ぼされ、国土は荒廃し、城壁は崩れ、神殿は破壊された。人々は、バビロンに捕囚となった。王も、指導者も、国土も、家も、所有物もすべて失った。

そんな時に、イザヤが「不妊の女よ。喜び歌え・・喜びの歌声をあげて叫べ」と語った。「私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか」が民の思いであり、悲しみと嘆きであった。神が与えて下さった素晴らしい恵み、祝福を見ながら、神を足げにして、神に背き、偶像に走り、自分勝手に歩んだ。

何度も悔い改めの呼びかけ、機会を与えて下さったに関わらず、心を頑なにした。今や「みもとに帰らせて・・私たちの日を昔のように新しくしてください」であった。私たちも民と同様かも知れない。「ああ、昔は良かった。あの時に帰れたら・・」現状は苦しみの日々であり、先も見えない。いつまでこうなのか。

しかし主が「喜び歌え。喜び叫べ」と言われるのは「不妊の女」に対してだ。「夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多い」と。目の前に失望落胆しか無い現状、辛い状況、自分の内の無力、弱さ、そのまっただ中で「喜び叫べと」。大いなる祝福が待ち受けている。すべてを益とし、最善をして下さる主がおられ、愛し、慈しんで下さっている。その主が良くして下さることを信じて行こう。
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苦しみの中でなぜ喜べるのか、それは神が言われるからだ。今日も生かされ与えられている命は神からのもの。その恵みに目を留め、御心を力強く歩もう。


2011年03月17日(木)

「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』とあなたがたの神は仰せられる」イザヤ40:1

イスラエルは、彼らを通して諸国民が救われるよう、選びの民とされた。しかし、約束の地に入れられ、生活が豊かになると「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と高ぶった。神は、何度も警告された。「主があなたに富を築き上げる力を与えられ」たのだ。その事を忘れるなと。

人は、順調な日々には、神を忘れる。恵みを忘れ、高慢になって自分の力で生きて行く。何もかもが、当然になり、恵みは当り前となり、感謝が失せる。こんな時、神は愛ゆえに、試練を送られる。もし、放っておかれたなら、それこそ滅んでしまう。民もバビロン捕囚という試練を送られた。砕きであった。

エルサレムがバビロンによって滅ぼされ、国土を失い、家を失った。異国への捕囚の身となり、苦難の中に入れられた。歳月を経て、一世は亡くなり、次の時代になった頃、人々はそれなりに暮らしが成り立っているが、かつての信仰心は失せ、何を拠り所に生きて行けば良いのか、心は空虚で穴が開いていた。

そんな時に、諦め果てていた、祖国帰還のメッセージが語られた。労苦は終わり、咎は償われ、二倍の報いが来たと。慰めの時が来たと。私たちも目の前の状況がどんなに暗く、望み無く見えても、必ず夜の後に朝は来る。トンネルは必ず出る。
解放される。永遠に立つ、神のことばによって生きるという、真の慰めが与えられているとは、何という幸いだろう。
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このような状況の中でイザヤ書のみことばは何と心強いことだろう。目を高く上げて主を見上げていよう。問題は山積で心は落ち着かずにいるけれど、主が寄りそい、慰め、今も支えていて下さることを思い、不安の淵から立ちかえろう。


2011年03月16日(水)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6


ネガティブな事ばかりを探し出し、思い煩っている人がいる。思い煩いが無い状態だと、不安に陥るので、次々と思い煩いを自分で探し出して来る。思い煩っていると安心する。そんなバカなと思うが、まさにそれは自分の事だという人が時々いる。それならまるで、神がおられないかのようになってしまう。

又、あれが無い、これが無い、こうで、ああで無い、あれがあれば良いのにと、無いものばかりに目が行き、数えて、絶えず不平不満の人々がいる。決して、神の恵みや祝福を見ようとしない。マイナス面のみを見て、自己憐憫に浸り、人は皆幸せで、自分は可哀相と嘆く。

神に視点を向けるなら、どんなに見方が変わるだろう。喜びと平安を経験して行ける。又、別の人は、自分に都合の悪い事には、いっさい見向きもせず、ふたをして、封印する。都合の良い御言葉だけを受け入れ、自分の心が刺される、痛い、都合の悪い御言葉は決して聞かずに、耳をふさぐ。これなら成長して行く事が決
して無い。何十年信仰生活をしていても、変えられる事がない。

主が私たちに望んでおられる事は、人生の喜び、苦しみ、悲しみにおいて、嬉しい時も辛い時も、痛みの時も、すべての事に神を認めて、主権を認めて行く事だ。
その神を信じる事だ。その時、道をまっすぐにして導いて下さる。つまり心を正しい位置に置いて下さり、神が見える。「すべての事について感謝」して行く。
それゆえ、どんな状況の中でも、心は平安にされる。
-----------
その時々の感情が基準ではない。自分の気力では、喜ぶことも感謝もできない状況でも、主がおられる。いつも主を認め約束のみことばを握り今日も平安に守られますように。


2011年03月15日(火)

「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」ルカ6:37


ある人が「赦さないなら、その人からずっと何かを求め続けているのであって、その人に永久に縛られてしまう」と言ったが、赦さない事は、相手に求めることになり、生涯、その相手に、自分の人生のコントロールを許す事になる。相手を憎むなら、憎しみの奴隷となり、結局、一生、相手に拘束され続けることになる。
苦しむのは相手ではなく、自分だ。

憎み続ける事は、心がどんなに辛く苦しい事だろう。いつも心が縛られ、一人相撲であり、真っ暗闇の中だ。「赦しなさい」は相手のためでなく、自分のためだ。自分を縄目から解き、自分を解放する事になる。赦さない心は、自分をがんじがらめにする。

ある人が、他人にコントロールされる一生はもう嫌で、自由になりたいと決心した。御前に祈り、赦しを意志で選択した。今、憎んでいる人、赦せない人、傷つけられた人・・具体的に一人一人「赦します」と祈った。その時「赦しなさい。
そうすれば、自分も赦されます」を、身をもって体験した。

人を赦す事によって、自分自身が、神から赦されていること、受け入れられていること、深く慈しまれ、愛されていることを、頭の理解でなく、御霊によって知った。大きな平安に包まれた。人を赦すゆえに、自分が赦されている事を知る一瞬であった。人を赦さないなら、自分が赦されていることが、どうしてわかるだ
ろう。御前に祈ることから始めよう。
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赦すことが正しい。正しいとわかっていても憎しみや恨みを容易に肉は捨てられない。主の十字架の土台に立って主に頼ろう。思いをうち明け祈ろう。主が受けた傷を慰めて、励ましてくださり必ず憎しみから解放して下さる。


2011年03月14日(月)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4


主は、私達の願うものを与えて下さる。しかし、何でもかんでも与えて下さるのではない。小さな子供は、料理する母親の真似をしたがる。その子が、包丁を欲しがるからといって、決して与えたりはしない。私たちは、どうしても欲しいと願うが、持つに、時期尚早なものもある。持ったがゆえに、高慢になって、返っ
て破滅するかも知れない。

又、自分の願いを叶えてもらいたいがために、主を自分の喜びとするのではない。それなら自分の欲望のために、神を利用する事になる。自分の人生の主として、主を崇め、主を喜びとして行こうとするなら、日々の生活で、主を第一として行く。その心は、自分の私利私欲ではなく、主に喜ばれたいと願い、主の喜ばれる
事を求めて行く。主の御心を一心に求めるので、必然的に主の心にかなった願いであり、叶えられることになる。

私たちは自我が強く、自分の強い思いがあり、自分の利得を追い、欲を遂げたいものだ。肉は、自分の事でいっぱいだ。自分を喜ばせたい。自分が満足し、自分が賞賛を受けたい。心の奥底を探る時、「誰もみな、自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません」に行き当たる。しかし、そこから祝福が始まる。自己中心を認め、自らの無力を認めて行く時に、主を喜ぶ者へと変えられて行く。御霊によってそのようにされ、主をおのれの喜びとする思いが与えられる。
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私達の喜びや頼りとするものは揺れ動き、崩れ去るものではない。今こそ動かない主の十字架にすがり主を喜びとし、主のご愛を少しでも周囲に具体的に現していこう。


2011年03月13日(日)

「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」創世記3:13


アダムとエバは、神のようになりたいと、神に従わない事を選択し、罪を犯した。
その結果は、目が開かれ、神を恐れ、避けて隠れた。神は彼らに悔い改めの機会
を与えられた。「あなたは・・食べたのか」と問うて下さった。チャンスであり
「ごめんなさい。私は食べました」と言えば良かった。

しかしアダムは「この女が」と責任転嫁し言い訳した。更に「あなたが・・置かれ
た」と神のせいにまでした。エバを置いた神が悪いと。恐るべき罪の性質であり、
自分の内にもあるものだ。ダビデは罪を犯したが、いっさいの言い訳をせず悔い
改めた。それで主のあわれみが臨んだ。

ある人が、仕事に忙しかった。デボーションが出来ないのは、時間が無いからと
思い込んでいた。時間さえあれば、時間が欲しいと。そんな時、数日の休暇が取
れた。しかし、自分の好きなように時間を使い、結局デボーションはしなかった。
その時に初めて、時間の問題でなく、自分の心の頑なさの問題であると教えられ、
悔い改めた。

ある人は、お金があれば献げられるのに、収入が少ないと嘆いていた。ある時、
予定外の収入があった。その時、予備にと弁解し貯えにし、決して献げはしなか
った。お金の問題で無く、惜しいのだ。

「献げたくありません。私はけちです」と認めるなら変えられる。何に対しても
言い訳をしているなら、一生そのままだ。自らはどうだろう。言い訳が無いだろ
うか。いっさいの言い訳を一度止めてみよう。自分が見えて来る。

・・・・・・・・・・・・・・・
言い訳、弁解をしようとするなら、幾らでも出て来る。どうにでも言える。自分
を正当化しようとする罪の性質だ。言い訳している自分に気づき、言い訳を止め
て、自分の姿を認めよう。主の赦しを経験し、恵みにおおわれる。喜びと平安が
来る。


2011年03月12日(土)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1


すべての事に「神の時」がある。すべてに「神の最高のタイミングがある」。あ
る事を行ないたいと思う時、どうだろう。その事に、心に非常に強い願いがある
のに、どうしてもしたいと願うのに、環境が全く開かれない。願いはあるが、状
況が整わず、道が開かれない。

又、同じ事に対して、環境が何の問題もなく開かれているのだが、自分の内に、
特に強い願いが無い。どうしてもとの思いが無い。そんな事を経験するだろうか。

神の時、最高のタイミングの時は、環境が開かれていて、尚且つ心も備えられて
いる。その神の時は、最善の時だ。大切な事は、神の時が来たなら、ぐずぐずせ
ず、迷わず、ためらわずに前進する事だ。神の素晴らしいみわざを見る。

そして、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とある。「美しい」
という言葉は、主観だ。それは感銘を受けて、心が動かされることだ。美しい景
色や、美しい音楽に、感動するように、つまり、神の時になされた事は、心に響
く。心にしみ渡り、深い感動がある。何と嬉しい事だろう。

それゆえ、今、神の時を待つように導かれているなら、忍耐し、期待して、神を
待ち望もう。神の時が満ちない限り、決して成就する事はない。だから焦っても
仕方がない。腹をくくって、待とう。主を信じていよう。その時、状況は全く変
わらなくても、心は必ず平安に守られる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
神は、主権を持って、神の時を定めておられる。神の約束が、なかなか成就しな
いで待っているなら、神に間違いは無い。美しい時があり、その神の時に成就し
て下さる。約束の実現を待とう。又、示されている事があれば、すぐに従おう。
3:1

すべての事に「神の時」がある。すべてに「神の最高のタイミングがある」。あ
る事を行ないたいと思う時、どうだろう。その事に、心に非常に強い願いがある
のに、どうしてもしたいと願うのに、環境が全く開かれない。願いはあるが、状
況が整わず、道が開かれない。

又、同じ事に対して、環境が何の問題もなく開かれているのだが、自分の内に、
特に強い願いが無い。どうしてもとの思いが無い。そんな事を経験するだろうか。

神の時、最高のタイミングの時は、環境が開かれていて、尚且つ心も備えられて
いる。その神の時は、最善の時だ。大切な事は、神の時が来たなら、ぐずぐずせ
ず、迷わず、ためらわずに前進する事だ。神の素晴らしいみわざを見る。

そして、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とある。「美しい」
という言葉は、主観だ。それは感銘を受けて、心が動かされることだ。美しい景
色や、美しい音楽に、感動するように、つまり、神の時になされた事は、心に響
く。心にしみ渡り、深い感動がある。何と嬉しい事だろう。

それゆえ、今、神の時を待つように導かれているなら、忍耐し、期待して、神を
待ち望もう。神の時が満ちない限り、決して成就する事はない。だから焦っても
仕方がない。腹をくくって、待とう。主を信じていよう。その時、状況は全く変
わらなくても、心は必ず平安に守られる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
神は、主権を持って、神の時を定めておられる。神の約束が、なかなか成就しな
いで待っているなら、神に間違いは無い。美しい時があり、その神の時に成就し
て下さる。約束の実現を待とう。又、示されている事があれば、すぐに従おう。


2011年03月11日(金)

「なぜ・・ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか」ヨシュア17:14



ヨセフ族は、カナンで、広大な相続地を受け取ったにも関わらず、それらでは不足で満足できない、もっと欲しいと不満を訴える。恵みを充分に与えられているのに、不平不満しかない。恵まれているのに、どうだろう。自らの状態だろうか。
誰が見ても充分なのに、自分には不足で、不満足だ。私たちの信仰生活も同様だ。

恵みを見ようとしないなら、何の感謝も無い。どんなに恵まれていても、自分の心は常に欲求不満だ。主が言われたように「感謝する」事は大切だ。感謝を献げて行く時初めて、恵みを恵みとして受け取れる。感謝が無いならいつも不服で、与えられているものの、大切さ、尊さ、かけがえのなさに気づけず、大切にでき
ない。又、それを生かして行く事ができない。恵みをドブに捨ててしまっている。

感謝して行く時、初めて恵みを恵みとして認識できる。感謝の思いが強い時、それを大切にできる。生かそうとする。一つ一つの恵みを大切にしているだろうか。
家族はどうだろう。主が与えて下さっている夫や妻、親や子、友人はどうだろう。余りに身近過ぎて、当然過ぎて、恵みがわからない。大切にしているだろうか。それとも不満だらけだろうか。

与えられた時間、働き、賜物、境遇、人々・・今一度、与えられているものに感謝し、受け取り直し、大切にして行こう。神は感謝する者に、更に感謝すべき事を与えられる。恵みが更に見えて来る。
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不平は言わなくても今あるもので満足しよう、我慢しようの気持ちがある。一歩踏み出しもっと積極的に喜んでみたい。神様が選び与え身のまわりに置いて下さっている一つ一つのものがとても大きな感謝に変わって行く。


2011年03月10日(木)

「キリストの中に根ざし・・あふれるばかりに感謝しなさい」コロサイ2:7


サタンは、何の考えもなく攻めて来ない。徹底した策を練り挑んで来る。策略とは、普通伏せていて、隠しておいて明かさないものだ。「サタンの策略」と明かされているからには、相当の策略があるという事だ。エバが蛇に誘惑された時に、蛇は、エバの目が開け、善悪を知り、神のようになることを、神は知ってい
ると言った。つまり、神には下心があり、そうさせたくないから、禁じているのだと疑いを起こさせ、不服な思いに、不信感に誘惑した。

サタンは私たちにも不満を持って誘惑する。不満は常に大きな誘惑だ。あなたが罪を犯した時の事を振り返ってみよう。そこに不満が無かったか。罪の裏に不満が見え隠れする。不平不満で心が支配されてしまうと、感謝も賛美もきれいに失せ、恵みが消えてしまう。不満と感謝は同居しない。最近失敗した状況を振り返ってみよう。

対人関係においてギクシャクした事、家庭、学校、職場での問題、イライラして怒りを自制できなかった事、きつい言葉、悪い態度、その裏に不満が無かったか。
不満はサタンの策略だ。不満という餌で、罪に誘われてしまう。即、喜びと平安を失ってしまう。敵の攻撃である事をしっかりわきまえよう。

「神に従い、悪魔に立ち向かえ」そうすれば、悪魔は逃げ去る。心に不満が頭をもたげるなら、すぐサタンに気づこう。サタンに立ち向かい、神に感謝を献げよう。感謝は力だ。神が働かれ、サタンは逃げ去り、不満が感謝に変えられ、ますます感謝が増える。
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感謝する度に心は神様に向く。永遠のいのちが与えられ、今日も守られ神様と共にある喜びにとどまっていられる。一日に一つでも感謝を数えていこう。当たり前の生活に感謝は生まれない。


2011年03月09日(水)

「あるサマリヤ人が・・彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて・・」ルカ10:34

良きサマリヤ人の動機は「同情」であった。それ以外の何の下心も無かった。憐れみとは、かわいそうに思う心プラス行動だ。単に感情的、感傷的な同情でなく、行ないが伴っている。彼は、目の前の苦しんでいる、助けを必要とする人に自分に出来る事をした。避ける事をせず、「近寄って」ぶどう酒は消毒に、オリーブ油は薬として惜しげもなく使った。

自分の家畜を使い、自分の予定を急きょ変更し、宿に同行し、一泊し親身に介護の上、費用も全額負担した。至れり尽くせりだ。愛するとは犠牲を払う事だ。自らの金銭、労力、時間を突然の必要のために、彼は惜しまずに犠牲を払った。犠牲を払わずに愛する事は出来ない。そして、彼はきちんと自分の仕事をするために出て行った。自分の仕事をし、再び帰りにお世話をした。自分の責任を放って、世話するのではない。

自分の家族を放っておいて、人の世話をするのはおかしい。まず主から自分に与えられた責任は果たすべきで、尚且つ、助けを必要とする人に、自分に出来る事をして行くことだ。御霊が導き助けて下さる。今、御霊の示しがあれば「近寄って」、従おう。祭司とレビ人は保身のために、関わりたくなくて、その場を逃げ
た。「自分の家畜に乗せて」自らの何かを献げて、仕える事を、今、示されているなら従おう。「こういう人は、その行ないによって、祝福されます」の通り、豊かな実を刈り取る。
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自分の愛せる人を愛するのはたやすくても、自我から一歩出て隣人に近寄り愛することは難しい。主が私達に注いで下さった犠牲の愛を、少しでも職場や身の回りの人々に行為として注いでいこう。主が助けて下さる。


2011年03月08日(火)

「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」ピリピ3:13


忘れるべきものと、忘れてはならないものがある。神が今に至るまでに与えて下さった祝福、恵み、教えて下さった事、良くして下さった事は決して忘れてはならない。「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」の通りに。忘れてはならない。しかし、忘れるべきものがある。過去の罪、失敗、罪責感で、今もさ
いなまれているなら、それは間違っている。

その罪を悔い改めたなら、神は完全に赦し、二度と思い出されない。忘れると言われる。神が忘れて下さるのだから、赦しを受け取り、前進すべきだ。例え、失敗したとしても、人生そのものに失敗したのではない。誰しも失敗する。弱さゆえに必ず失敗する。失敗しない人は一人もいない。転んで再度立ち上がるべきだ。失敗から学ぶことが大切だ。学べば良い。

アブラハムも何度も失敗し、イサクもヤコブもモーセもダビデも皆失敗した。しかし、彼らはヘブル11章の信仰の人々に名を連ねている。モーセは自力で民を救おうとし失敗した。荒野での40年を通して、砕かれ整えられ、出エジプトのリーダーとして用いられた。ダビデも大罪を犯したが、真摯に悔い改め、赦された。
ダビデの詩篇から受ける慰めと益は測り知れない。私たちは赦しを受け取り、後ろの否定的なものをいっさい「忘れ」、前進しよう。
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過去の罪や失敗をもって来ては意気消沈させるサタンを振り切り、赦しをしっかりと受け取り今日を喜んで生きていこう。それが明日に繋がる。神様の恵みでいっぱいの前を向いて進もう。


2011年03月07日(月)

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33


ある人が仕事は忙しく、早朝出勤、深夜帰宅で、一日のほとんどの時間を職場で
過ごし、仕事に打ち込んでいた。そんな中で、自分と主との関係を顧みる時に、
自分にとっては、以前も今もずっと仕事が第一で、主が第一でないと感じていた。
何かが違い、しっくり来なかった。そんな時に、一人の男性と交わっていて、彼
の言葉が心に迫って来た。

彼は、主を第一に生きて行きたい、主が職場に遣わされたので、仕事を通して主
に仕え、人々に仕え、主を証しして行きたいと話した。主が彼を通して語りかけ
られた。御前に祈り、心探られ、自分も主を第一にと決心した時、心のもやもや
が去り、心がすっきりした。自分を明け渡して、主を心に据えて生きて行きたい
と祈った。その時から、自分が変わった。

今までと同様に、様々な問題が起きるが、イライラせず、不満、愚痴でなく、ま
ず祈るようにされた。そして、その状況に主を認め、主のご計画がある事、最善
をして下さる事、益とされる事を信じ、心に平安が与えられた。大きな変化に驚
いた。不況の中、会社自体が揺れに揺れて、倒産寸前まで行ったが、祈りに祈る
中で、どうなっても、主が必ず良くして下さると、平安に満たされていた。

以前の自分なら大パニックのところだ。そして、会社は守られた。主に自分を明
け渡す時、人生の大嵐の真っただ中で、心が平安に守られる事を初めて経験し、
主を誉め讃えた。
-----------
主を信じていても日々の生活の中で主を忘れ、みことばや御心を離れて生活してる
ことはないだろうか。主を第一としそこから生活をしていこう。世の価値観から心
を守られる。主の知恵と平安の中で今週も主の光を放って歩もう。


2011年03月06日(日)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3

私たちが一番試されるのは、他から批判されたり、間違いを指摘されたり、非を
攻撃されたりした時だろうか。感情的になってしまい、怒りをあらわにし、応戦
してしまうか。それとも、へりくだって、受け止める事ができるだろうか。

箴言には「叱責」が知恵につながり、大きな祝福となり、いのちの道へと導かれ
ると、様々な箇所がある。
「叱責を聞き入れる者は思慮を得る」「知恵のある子は父の訓戒に従い、あざけ
る者は叱責を聞かない」「叱責を大事にする者はほめられる」「愚か者は自分の
父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる」「訓戒を大事にする者はい
のちへの道にあり、叱責を捨てる者は迷い出る」

その批判を自らの成長へと向けることができる。パリサイ人の際立った点は、自
らを正しいとした事だった。私たちも、古い性質は、肉は、常に「自分は正し
い」に立っている。喧嘩、争いの原因は、自分は正しいという事にある。

夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、対人関係での問題、争い、すべてここにある。肉は、必ず
正しいのは自分だと思っている。この落とし穴にはまらないためには、人を見る
のでなく、絶えず御言葉の鏡に向かい、御霊に自分を照らし出して頂くことだ。
御前にへりくだっているなら、示し出して下さる。そして、必ず成長へと導いて
下さる。

・・・・・・・・・・・・・・
へりくだる事ができない自分の姿を認めて、「へりくだれません」と祈ろう。へ
りくだれない者のために、神のあり方を捨て、ご自分を無にして、十字架の死に
まで従って下さった方がおられる。「へりくだれない者をあわれんで下さい」と
祈ろう。


2011年03月05日(土)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを・・」ローマ8:28


ある人が、まとまった当座の費用が必要になり、すぐ返せると、深く考えずに、
気軽に金融機関から借金をしてしまった。ところが諸事情重なり、それが返済で
きず、恥ずかしい思いをし、周囲に迷惑をかけ、刈り取りをする事になった。

自分の失敗であった。物心共に痛い思いをし、その後悔と痛みの中で、心を深く
探られた。祈らずに行動してしまったこと、そして「あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」という事を、頭ではよくわかっていた
が、信じる事ができていない自分、だから主に委ねることができずに、自分で行
動してしまったこと、そんな事が示され、心から悔い改めた。

その時に、主に祈り、主に頼っていたなら、必ず必要を与えて下さってであろう
事もわかった。悔い改め、心底主に頼った時に、返済の必要を、思わぬところか
ら与えて行って下さったのだ。主のあわれみにより、無事に完済できた。

痛い失敗をしたが、しかし、失敗を通して、身をもって学ばせられ、深く教えら
れた。頭では御言葉をわかったつもりでいるが、「つもり」であり、実際ではな
いこと、心では受け入れてはいないことがよくわかった。
現実の状況、問題の中で、自分の本当の姿を明らかにされたことが感謝だった。
その時から、自分が変えられて行った。

・・・・・・・・・・・・・・・
古い性質があり、弱さがあり、どうしても失敗してしまう。が、悔い改める時、
痛いが、その失敗を通して、自分の本当の姿を見せられる。そして変えられて行
く事が本当に有難く感謝だ。様々な「つもり」があり、現実の姿を見せて下さる。
そこが変えられるための出発点だ。


2011年03月04日(金)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして・・」ピリピ2:6

            
アダムとエバがエデンの園で罪を選択して以来、人はプライドで生きている。男
性は自分の仕事や地位に高いプライドを持ち、母親は子供に自分の夢を託し、子
供により自分のプライドを満たそうとする。様々な対人関係で、プライドとプラ
イドが衝突し、火花を散らし、争い、怒りや憎しみが湧き上がる。ある婦人はお
節介な隣人にいら立っていた。余りに立ち入って来るので、腹が立ち、争いそう
になった時に、主に祈った。

祈りの中で、主のへりくだりを示された。自らを省みる時、こちらにも悪い態度
があった。そして、相手から確かに助けも受けていた。それで、自らの態度を詫
びて、日頃の助けを感謝した。すると相手の態度が変わり、柔らかくなった。
良い交流ができ、そうこうしていると、悩みを打ち明けられ驚いた。御霊に従う
事の祝福を経験した。

プライドに生きると、決して心休まる時が無い。パリサイ人は徹底してプライド
に生きた人達だ。彼らの立派な行ないの動機は、愛ではなくプライドだった。
プライドでも立派な行ないが出来る。主はプライドとは無縁で、徹底して愛に生
きられた。様々な事態やトラブルが起きる。その中でプライドが砕かれ、へりく
だらされる。今、問題があるなら、そこにもプライドが潜んでいるだろうか。あ
るがままを、主に申し上げよう。取り扱って下さり、平安に、自由にして下さる。
--------------
プライドで動くならいつも一番でなければならい。視点を自分と人から主に向け
よう。主に似るように謙遜を与えられるように祈り、力も知恵も愛も全て神様か
ら受けて行こう。


2011年03月03日(木)

「なぜあなたは、兄弟の目のちりを目につけるが、自分の目の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3


「梁」とは屋根を支えるために、柱と柱の間に渡した横木で、大きな頑丈な丸太
だ。「ちり」は目にも見えないほどの極小のものだ。他人の極小のちりはよく見
えるが、自分の目にある丸太は見えない。なぜあの巨大な丸太が見えないのか不
思議だが、「自分」中心に「自分の」メガネをかけて見ているからだ。全く何も
見えなくなる。つまり、自分は正しいという事だ。

人は、誰も、自分は正しいと思っている。その「自分は正しい」のメガネで判断
するので、見えなくなる。自分に都合の良い善悪の判断になる。アダムとエバが
善悪の知識の木の実を食べた時から、人は神によってでなく、自分で善悪を判断
するようになった。そのため、自分の目が曇り、自分の目に偏見があれば、その
目で見るものはすべて歪んで見える。

悪いのは相手で、自分はどんどん正当化して行く。人には厳しく、自分には甘く
て寛容。善悪の物差しが自分中心だ。恐ろしいのは、それが間違っている事がわ
からない。正しいとしか見えない。あるいは自分はその状態ではないかと吟味し
てみよう。

へりくだるなら、御霊は必ず正しく導いて下さる。御言葉が正しい物差しだ。
御言葉の鏡に、まず自分が照らされ、正されて行く時、その時初めて、兄弟の
ちりを取るために用いられる。
-----------
人の欠点を見るとき、御言葉に照らしてみよう。自己肯定した上での裁きではな
いか、また同じ弱さ思った者として祈る事はできないのか。神様が教えて下さる。


2011年03月02日(水)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ」Uコリント7:10


モーセが、民をエジプトから出すために、パロと掛け合った。神の様々な超自然のみわざにより、苦痛が臨むと、パロは「私は罪を犯した、悪かった、私のために祈ってくれ」という悔い改めのような言葉を発する。が、その災いが鎮静化するや、すぐに再び頑固な姿に戻る。その繰り返しを見る。

これは、それらしき言葉を口では言うが、心の底では思ってはいないという事だ。悔い改めていない。真の悔い改めなら、必ず実を結ぶはずだ。神は「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」にしるしを行なわれる。しかし、パロにとっては、様々なしるしが、決して主を知ることにはならず、脅しみたいなもの
であった。だからその脅しが退けば、再び強情で頑なになった。

私たちはどうだろう。もし高慢になっていたなら、神はへりくだるように苦しみを送られる。これは神の愛であり、放っておかれる方が悲惨だ。しかし、その苦しみをパロのごとく単に脅しに取るなら、確かに悔い改め、反省し、自らを正すのだが、その苦しみが失せると、元に戻る。本当は自分が悪いとは思っていない。

成長が無く古い自分のままで、何も変わらない。真の悔い改めに至らないので、実を結ぶ事がない。しかし、御霊に導かれた真の悔い改めは必ず実を結んで行く。悔いくずおれた魂に、御霊は豊かな実を結ばせて下さる。御霊は罪を示し、悔い改めに導いて下さる。その御霊に従おう。その時、主のご愛を知る。
-------------
罪を示されたなら弱さや欠けを認め、謝りそこから向きを変えて生きなければならない。内側から新しく神様が変えてくださる。痛い状況だけ見て何度も謝り続けるより希望を持って今変わろう。


2011年03月01日(火)

「主の使いは彼に言った。『・・敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ・・』」民数記22:32


私たちは、痛い目に会う事、苦しみ、悩みは回避したい。苦しい目には会いたくない。又、問題が起きると、順調な歩みが阻止されてしまう。阻まれて、先に進めなくなってしまう。苦しみや悩みが、好きな人など誰もいない。痛くて辛い事態を、避けて通りたいと思う。何とか逃れたい。

しかし、神は、私たちを間違った方向へ進ませないために、行く手に障害物を置かれて、阻止される。私たちを立ち止まらせるためだ。不運だったのではなく、たまたまそうなったのではなく、まさに神の取り扱いだ。神がそうされた。偶然ではない、又、そこに関わっている相手を責めるのではなく、そこに神の取り扱いを認めることだ。

その状況の中で、神のメッセージを受け取ろう。何を教え、何に気づかせたいのか。今、あなたの行く手が阻まれているなら、状況を見るのでなく、まずそこに神を認めよう。神が立ちはだかっておられる。その道は御心に反しているのかも知れない。

神はバラムに「彼らと一緒に行ってはならない。その民を呪ってもいけない。祝福されているからだ」と言われたに関わらず、出て行った時に、主の使いが立ちはだかった。目の前の状況に神を認め、自分の思いでなく、神の御心を尋ね求めよう。必ず正しい祝福の道に導いて下さる。
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行ってはいけないと言われても自分の思いが勝り目がふさがれて進む時に神様が立ちはだかって気づかせて下さる。感謝だ。順調に行かない状況なら目がさえぎられていないか立ち止りよく祈ってみよう。