2011年04月30日(土) 「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」創世記13:9
「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」創世記13:9
「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左 アブラハムとロトは行動を共にして来たが、持ち物が増え過ぎ、従者間に争いが 起こり、一緒に住む事が不可能になった。そのため、別れる事になり、その時に、 アブラハムは、ロトにまず好きな場所を選ばせた。 本来なら、目上であり、又、今までの繁栄は叔父のお陰であり、世話になった叔 父にへりくだって、譲るべきだった。しかるに、ロトは損得勘定で、全地を見渡 し、見たところ最も牧草の茂る潤った地を選んだ。ロトは神に祈ることも、叔父 を立てることもなかった。自分の事しかなく、見た目で判断した。しかしそれは 堕落したソドムとゴモラだった。 アブラハムは、所有権を神に明け渡していたので、ロトに譲る事ができた。すべ てを神の御前に置いた彼だが、結果的に神は「この地全部を与える」と言われた。 人生に岐路があり、重大は判断を迫られる時がある。その時、まず神に祈る事が 大切だ。自分の思いで決めてはならない。見た目で、損得勘定で決めたロトの結 末は破滅であり悲惨であった。 「人の目にはまっすぐに見える」が「その道の終わりは死の道である」。肉の目 には、自分の名誉、地位、賞賛、欲望が満たされる道がある。しかしその終わり は死だ。実を結ぶ事がない。ロトのように損得で判断せず、神の御心を選択しよ う。それが自分にとって幸せの道であり、周囲をも祝福して行く。 ・・・・・・・・・・・・ 目の前の事柄一つ一つに、どのように判断し、選択しているだろう。根にあるも のは、自分の都合、損得だろうか、それとも神の御心だろうか。死といのちに別 れてしまう。目の前の選択に、自分の思いでなく、主のお心を祈り求めて行きた い。
2011年04月29日(金) 「イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた」マルコ8:33
「イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた」マルコ8:33
12年長血を患っていた女性がいた。その間、次々と多くの医者にかかったが直らず、財産を使い果たしていた。12年は長い。どんなに恐れと不安にさいなまれ、苦しみと辛さの中にいた事だろう。必死になり、一生懸命あれこれと努力し、やってみただろう。しかし「何のかいもなく」、努力の成果なく「悪くなる一方」であった。すべての道が閉ざされ、もう絶望だった。 そんな時に主イエスの事を聞いた。着物にでも触ればきっと直ると信じ、主の着物に触った。すると触った途端、直った。主は「だれが触ったのか」と着物に触った人を捜された。人の心の中まで見抜かれる主は、誰が触ったのか、聞くまでもなくご存じであった。 しかし女性のために、主ご自身と接触するようにされた。そのまま帰れば、身体は癒えたが、残りの人生、主と何の関係も無く生きて行ったであろう。すると彼女は「ひれ伏し」「イエスに真実を余すところなく打ち明けた」。「安心して帰りなさい」何と癒しの言葉だろう。 12年間の苦しみ、悲しみ、傷、痛みが癒された。「すこやかでいなさい」心身癒され救いを受けた。私たちも主に自分の気持ち、悩み、苦しみを「余すところなく」打ち明けよう。「安心して帰りなさい」と主は癒して下さる。又、主は一刻を争うヤイロの娘へと向かう途上に対応された。一途に主を求める魂を、主は必ず顧みて下さる。 ------------- 主が必ず解決して下さり、その方法だけが最善と信じ、苦しみも辛さも余す所なく打ち明けよう。すべての道は閉ざされているようにしか見えず、あれこれ解決方法を探しているなら、一途に主にすがるしかないと心に決め、今日をすこやかに生きて行こう。
2011年04月28日(木) 「しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。神はみこころの欲するところを行われる」ヨブ23:13
「しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。神はみこころの欲するところを行われる」ヨブ23:13
ヨブは、10人の子供たちを失い、家財や家畜、しもべたち、すべての財産を失った。次にヨブ自身も、全身を悪性の腫物でおおわれ、極度の苦しみに会った。しかし、ヨブは、神が、ご自身が欲する事だけをされ、誰もそれを翻すことができないと信じていた。 神の欲するところは、しばしば私たちの思うところと大きく異なる。ある時は理解できず、納得が行かない事もある。神は、私たちがたとえ理解できなくても、従って行く者と訓練されるために、理解を越えた事態を送られる。「前へ進んでも、神はおられず、後ろに行っても神を認める事ができない」右に行っても左に行っても神がおられないと。 余りにも深い試練の中で、時に、どうしてこんな事がと、神がおられ、神は愛なのかと、思ってしまう。そのような状況の中で、「神は最善をされる」「神にはご計画がある」「益とされる」「希望がある」と尚も信じ従う者と変えられて行く。疑いや不安、恐れや思い煩いに襲われるだろう。サタンの火矢が飛び交う。 「しかし、神は、私の行く道を知っておられる」と信じることができる。神のみこころは一つであり、いかなる場合も神の御心だけが成る。自分の思い通りにならない時、願いと相反する時こそ、信仰が試され、練られ、成長へと導かれる時だ。 ------------- 思い通りにならない時に感謝できますように。この世の喜びも、悲しみも長くは続かないのは幸いだ。主の御心だけが成り揺るがない喜びを与えてくれるとの希望が持ってるから。
2011年04月27日(水) 「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」ヘブル10:35
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」ヘブル10:35
アブラムは、子孫が天の星のようになるとの、主の約束を与えられ信じていた。しかし、目に見えるところはなかなか成就しなかった。その頃は、夫婦に子供が無い場合、召使いに子供を産ませ、その子を跡継ぎにすることが、普通であった。それで、子供ができない中、この慣習にならって、サラが提案した。主が産めないようにしておられるのだから、女奴隷によって子供を持とうと。 アブラムは自分の言い出した事でなく、サライの申し出でもあったので受け入れた。女奴隷ハガルの所へ入った。しかし重大な事は、この時アブラムは祈らず、主の御心を求めなかった。これぞ自分の思いで、まさに肉で動いてしまった。肉は一見良い考えに思える。が、必ずや困難と問題を引き起こす。 ハガルは、子供のないサライを見下すようになった。ハガルはイシマエルを産んだ。イシマエルはアラブ人の先祖となり、今日のパレスチナ紛争に至っている。アブラムが人間的判断によって、良かれとの肉の行為は後々まで大変なトラブルとなった。アブラムが100歳になり、肉の力が、人間的力が完全に絶えた時に、イサクが天から与えられた。 今、あなたの状況はどうか。約束を待てずに、肉でで動くなら、イシマエルを産み出す事を覚えよう。肉の知恵と肉の力で決して動かず、約束を忍耐して待とう。神ご自身が働かれる。 --------------- 問題に神様が関与しておられるとわかっていても、いろんなが思いが心の中にやって来る。おりおりに御心を祈ろう。答えがないような忍耐の中でも、今、問題解決の途上なのでしょうかと尋ねてみよう。待つのは苦しいと訴えてみよう。
2011年04月26日(火) 「彼は・・役に立たない者でしたが、今は・・役に立つ者となっています」ピレモン11
「彼は・・役に立たない者でしたが、今は・・役に立つ者となっています」ピレモン11
オネシモは、ピレモンの奴隷であったが、主人のものを盗み逃亡した。しかし、捕らえられ投獄、そこで主人ピレモンを知っていたパウロに出会う。オネシモはパウロに導かれ回心した。当時、逃亡奴隷は死刑だった。パウロは新生し、変えられたオネシモを確認し、ピレモンに主に在る兄弟として、受け入れてくれるよう手紙を書いた。 オネシモは彼の名の通り、無益な者が「有益な者」に180度変えられた。私たちの人生も同様だ。様々な事態が生じ、時にはその先が見えず、大きな不利益、負の事態にしか見えない事が、「万事を働かせて益」とされる方により、大いなる祝福とされる。今、何の益も見えず「これが一体何になる?」としか思えない事態が必ず豊かな祝福へと導かれて行く。信じよう。 又、パウロは摂理の信仰を持って、事態を見た。オネシモは主人を裏切って逃亡した。だが、信仰のメガネをかけて見る時、それはオネシモを永久に役立つ者として、取り戻すために一旦離されたのだと。私たちも信仰に立って、すべての事柄に神を認め、摂理を認める時、物事の見方が全く変えられる。ガッカリし、失 望落胆する時こそ、神のご計画を認める時だ。必ずその事態が有益なもの、大きな祝福とされる。今失望していたなら、信仰的見方に立とう。 -------------- 神の恵みは常に先行している。今何が起こっているのかわからない状態だろう。しかし神の大きなご計画の一部を生きていることを信じて、信仰に立ち委ねていこう。
2011年04月25日(月) 「自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない」箴言21:23
「自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない」箴言21:23
「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください」ともある。 口と舌を守る、口を見張る、くちびるの戸を守るという事は、口から発する言葉 に気をつけるようにとのことだ。そして「心に満ちていることを口が話す」「外 側から人に入ってくる物は、人を汚すことができない。人から出るもの。これが、 人を汚す」「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪 い物を取り出す」とあり、御言葉によると、人は心にあるものが、口から出る。 それゆえ、口自体でなく心が問題だ。心の倉が良いもので満ちているなら、その ような言葉が口から出て、心の倉が悪いものでいっぱいなら、そのように口から 出る。口から出る言葉は、その人の心にあるものだ。心に憎しみや妬み、敵対心 が潜んでいる時、隠していても、はしばしにそのような言葉が出て来る。日々、 主の交わりの中で、心を探って頂こう。 自己中心な思いにいる時、その口から出る言葉で、人を傷つけてしまう。良きに つけ悪しきにつけ、言葉は、その人の心を反映している。又、普段、私たちが発 する言葉を軽く考えてはいけない。「人はその口にするあらゆるむだなことばに ついて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」。 舌を制御する事は、誰一人不可能だ。だからこそその事をしっかり自覚して、日 々御霊の助けを拠り頼もう。そして、人を慰め、励まし、生かす言葉が、主を誉 め讃える言葉が出るように、心を変えて頂こう。 ----------------- 安易に口から出す言葉で人を傷つけ罪を犯してしまう。口から出す言葉にもっと 敏感になろう。感情的な思いが来た時は、黙し、心を主に向け祈り心の倉にある ものを変えて頂こう。
2011年04月24日(日) 「私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます」Tコリント12:23
「私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます」Tコリント12:23
ある人が、子供の頃からずっと自信を持てずに成長した。人と比較しては、落ち 込んでいた。恐れて人前に立てず、尻込みし、劣等感のかたまりであった。青年 になり、父親の仕事を手伝う事になった。父親のもとで、一生懸命に身を粉にし て働いた。段々仕事を覚え、身について行った。 積極的に仕事に関わり、アイデアを出し、新しい企画も担当するようになった。 少しづつ仕事に自信が持てた。何より父親が、そんな自分を喜んでくれている事 が嬉しかった。しかし、それさえも、心に深く巣くう劣等感の解決にはならなか った。 真の解決が来たのは、後に主イエスに出会い、キリストのからだである真理を知 った時だった。私たちはキリストのからだであり「それどころか、比較的弱いと 見られる器官がかえってなくてはならない」、目が手に向かい、頭が足に向かい、 あなたを必要としないという事ができない。 一人一人が頭、目、鼻、口、手、足・・として、神が一人一人をなくてはならな い、大切な、尊い者として、見ておられる事を知った。紛れもなく神が自分を必 要として下さっている。この事が救いとなり、目が開かれた時に、初めて自分が 変えられた。 人と比較する必要がない。卑下する事なく、等身大で、ありのままの自分で、神 に従って行けばよい。初めて真に喜びで満たされた。 ・・・・・・・・・・・・・・ 神視点に立つ時、御言葉によって物事を捕らえる時、私たちは変えられる。自分 の肉の価値観でなく、この世の価値観でなく、神様の価値観が心に入る。その時、 180度変えられる。御言葉を素直に受け入れ、信じて行きたい。
2011年04月23日(土) 「シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた」ルカ5:3
「シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた」ルカ5:3
一匹の獲物も無かったペテロは疲れ果て、早く帰宅して休みたかったろう。主が御言葉を話しておられるのに、脊を向け、網を洗っていた。そのペテロに、主に、舟を少し出すよう言われた。ペテロは、先生の頼みという事で舟を出した。主は舟から岸の群衆に語られた。 ペテロは特等席だ、否応なく御言葉が耳に入る。話終わった主は、ペテロに、深みに出て漁をするようにと言われた。ペテロは徹夜で働きクタクタだった。プロが捕れなかったのに、素人に何がわかる。朝に魚などいるわけがない。又、網を洗い直す手間が・・。家に帰って寝たい。様々思いと違ったが「でも、お言葉通り」網を下ろした。すると大漁だった。 まず主が舟を少し出せとの言葉に、小さな一歩に従った。その次に、大きな一歩が来た。私たちも小さな一歩に忠実に従う事により、主は次々と従うべき事を示される。そして今まで味わった事のない破格の祝福を見る。今、些細な事でも示されているなら、「少し漕ぎ出せ」との御霊の指示に従おう。そこから次へと展開する。 又、あなたにとって「深みに漕ぎ出す」とは何だろう。信仰の一歩前進だろうか。浅瀬にいないで、一歩、前に踏み出す決心だろうか。又、主との交わりの深みへと招かれているか。又、今まで目を閉じて、触れないで来た、しかし薄々感じている、痛いその問題の解決の事だろうか。 ----------- 主を信じ救われた後は、示しに応答しながらその中で個人的に主を知り、破格の祝福を経験して行く。今、主が語ってくださることをよく悟れて、少しでも深みに漕ぎ出して行きたい。
2011年04月22日(金) 「このおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いは、あなたがたの戦いでなく、神の戦いであるから」U歴20:15
「このおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いは、あなたがたの戦いでなく、神の戦いであるから」U歴20:15
ユダ王国が、アモン、モアブ、セイルの大軍に攻められて、絶体絶命の窮地に陥った。ヨシャパテ王はこのおびただしい大軍に無力であり、どうすればよいかわからないと告白している。しかし、主の霊によりヤハジエルが「恐れるな、気落ちするな、この戦いは神の戦い、主が共にいる。あす、彼らに向かって出陣せよ」と告げた。ヨシャパテは主を信じ、前進するよう励ました。 その時、歌う者たちが軍の先頭に立って「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と感謝の賛美をした。戦う前に、すでに得たりと感謝した。すると、主は伏兵を設けて、攻めて来た、敵の大軍を襲わせたので「彼らは打ち負かされた」。敵の死体が野に転がっていて、逃れた者は一人もいなかった。神が奇跡を起こされ、大勝利した。 出陣となった時、現実には、敵は、おびただしい大軍だ。人間的に見るなら絶対に勝ち目はない。恐怖で、おののきひるんでしまう。しかし、主を信じ、賛美の声を上げた時に奇跡が起きた。「地のすべての王国が、神がイスラエルの敵と戦われたと・・聞いた時、神の恐れが彼らの上に臨んだ」。今、あなたの前に大き な問題が立ちはだかっているか。 神の戦いだ。逃げないで、避けないで、主を信じて、感謝を献げ、主の示された通りに従おう。すでに伏兵が備えられており、勝利を見る。主によって必ず乗り越えて行ける。 ---------------- 自分の力を見たらひるむが、どんな問題も神様がともに戦って下さるとの信仰をもって臨む時、私達は力を得る。すでに勝利だ。予想をはるかに超えた神様の栄光を見よう。
2011年04月21日(木) 「悪魔に機会を与えないようにしなさい」エペソ4:27
「悪魔に機会を与えないようにしなさい」エペソ4:27
悪魔は、常に私たちの心に、足場を得ようと隙を伺い、狙っている。カインは憤りによって、悪魔に足場を与えてしまった。悔い改めて、罪を治めるべきであった。しかしそうせずに、カインは罪に飲み込まれ、支配され、アベルを殺してしまった。 サウル王は妬みにより、悪魔に足場を与え、捕らわれてしまった。妬みを悔い改め、捨てることをせず、悪魔に機会を与え続けてしまった。ダビデは、高ぶりにより人口調査の罪を犯した。戦勝〃で、心高ぶっていた。人口調査により、神の栄光ではなく、自らの力を誇りたかった。その心に乗じて、サタンが誘惑して来 た。部下ヨアブが、神に反逆する行為であると阻止するが、ダビデは聞かず、この事で神の怒りを招き、イスラエルに災いをもたらす事になった。 悪魔は、カインに、サウルに、主に忠実であったダビデにさえ巧妙に働いて動かした。私たちはよく自分の心を見張り、守る必要がある。又、悪魔の常套手段は「疑い」を起こす事だ。「疑い」を起こせば成功だ。「神は本当に愛してくれているのか」「守ってくれるのか」「必要が与えられるのか」・・悪魔の仕業だ。 信仰の足元がぐらついてしまう。対人関係に「疑い」を起こし、不信感を植え付け、疑心暗鬼にさせる。赦さない心は、悪魔に足場を与える。赦し合おう。今、悪魔の攻撃が来ていないか。心を見張ろう。サタンの策略に気づけるよう祈っていよう。 --------------- 足場を与える心の思いを判別できそこで祈れるよう、御言葉をよく読み、よく陥る失敗のパターンを覚えておこう。高ぶり、妬み、自己保身、思い煩いなど自分にある弱さは、サタンではなく神様が正しく導いて下さる。
2011年04月20日(水) 「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:24
「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:24
主は、五つのパンと2匹の魚で人々を満腹させるという奇跡をされた。それで群衆は、主を王にかつぎ上げようとした。しかし、主は、大勢の群衆が自分の後を追いかけ回すのは、パンゆえだと言われた。奇跡に、霊的な恵みを見て、この方こそ主キリストと信じたゆえでなく、求めていたのはパンであり、更なるパンで 満たされたい。自分の願望を満たすためにつき従っていると。 満腹とは、自分の欲望が満たされる事であり、自己充足、自己実現だ。肉の喜び、肉の満足だけであり、そこに主や永遠の恵みを見る事はない。主は祈りに答えて下さる。求めよと言われる。そして必要を満たして下さる。しかし、気をつけないと、私たちの祈りは、ひたすら自分の欲望充足だけに向かう。欲望を満たす手 段となってしまう。そして、願望が叶えられず、思い通りにならないと、主のもとを離れ去る。利用価値が無いからだ。 主は、そんな私たちをあわれみ、正しく導くために、時に、思い通りでない答えを与えられる。よく自分自身を吟味させ、動機を探らせ、省みさせて下さる。「ノー」の答えがあり、すぐに叶えられない祈りがある。その中で心を深く探り、取り扱い、御心に適った者へと変え、成長させて下さる。思い通りにならない状 況は大きな恵みだ。 ------------ なぜ祈りは聞かれないのだろうと祈り続ける中で、自分の動機も鮮明になり祈りが変わってくる。ただ一番良い時に、一番良いものを神様が下さる。それを期待して待ち望もう。ノーの答えも感謝だ。
2011年04月19日(火) 「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」ルカ22:32
「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」ルカ22:32
人は皆、失敗をするものだ。どんなに注意していても、人間である限りミスしてしまう。完全無欠ではないからだ。あなたも信じられない失敗をした事があるだろう。大切な事は、その失敗から「学ぶ」事だ。学べば良いのだ。何度転んでも立ち上がって、再び、主に従って行くことだ。 人生には、転んで、つまずいて倒れてしまう事がある。深い挫折を通る。つまずいた事の無い人はいないだろう。主は時に、人がつまずく事を許され、深い海の底を通される。しかし、必ずや、立ち直らせて下さる。ペテロは、取り返しのつかないような大失敗をした。自分は大丈夫、命をかけても主に従うという決心が、試みの前にもろくも崩れ去った。 主を否定してしまったのだ。しかし、見事に回復され、後に力強い主の証人とされ、殉教した。ダビデも姦淫と殺人という大失敗をした。しかし、それで人生が終わったのではなかった。ダビデも罪赦され回復させられた。私達も皆、信仰が試される。時に失敗してしまう。自分に絶望し、無力を思い知らされる。 だからこそ、自力では生きて行けず、主に拠りすがるしかない事を身をもって知る。それこそが「立ち直った」という事だ。自分の力が砕きに砕かれて、初めて兄弟たちのために、間に合う器として用いられる。主は失敗をも、挫折をも益として、建て直し、建て上げて行って下さる。 -------------- 滑り台のように登ってはすべりと繰り返す失敗に、自分はどもまで行っても無力な者だと心底知る。でもそこから主の十字架を見上げればいい。支えて下さる主の存在だけに頼ることが一番の幸いだと経験から言える。人を慰めるために用いられたら失敗も感謝だ。
2011年04月18日(月) 「この女は自分にできることをしたのです」マルコ14:8
「この女は自分にできることをしたのです」マルコ14:8
マリヤは香油を、主の頭に注いだ。その香油は300デナリで、1デナリが労働者1日分の給料であり、10ヶ月分だ。大変高価な物であった。すると弟子達は、貧しい人々に施せたのにとマリヤを非難し憤慨した。しかし、主は、マリヤのその行為の意味をわかっておられた。 「わたしのために、りっぱなことをしてくれた」埋葬の準備にと前もって油を塗った。それが、主に油を塗ることの出来る最後の時であった。その後、主は十字架へと向かわれた。そして、週の初めの日の明け方、主のご遺体に香料を塗るために、何人かの女性が墓に行ったが、もう主は復活されて、誰も塗ることができ なかった。まさにマリヤが塗ったナルドの香油が最後だった。それはどんなに主をお慰めした事だろう。 マリヤは結婚の準備でもある大切な香油は無くしてしまったが、その犠牲の大きな分、心が主に向かった。主によって心満たされ、後悔の無いすがすがしい確信が深められた。献げる事の意味を知り、祝福を味わい、生涯主に献げて生きた。 「時と機会」を逃してはならない。 マリヤはなぜその「時」が的確にわかったのか。御言葉に耳を澄ましていたからだ。私たちも主をお喜ばせするために、御心を知るためにも、日々御言葉に耳を傾ける事がどうしても必要だ。耳を澄ますなら、主の御声が聞こえて来る。そして、自分に出来る事をする機会を知る。 -------------- 今何をするべきか、今の状況をどう受け取れば良いのか、聞かなければわからない事ばかりの中で、常に尋ねれば教えてくださる神様がおられることは何と感謝なか。今自分にできることを今日聞いて行こう。
2011年04月17日(日) 「私たちは、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて・・競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」ヘブル12:1
「私たちは、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて・・競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」ヘブル12:1
競走をする時には、不必要な物はいっさい身につけない。ずっしり重いリュック をかついで走るだろうか。又、足もとに、からまりつくものがあればどうだろう。 前にすら進めない。競争どころではない。走ろうとすると、からまりついて来る。 前進を阻止される、執拗にまとわりついて来る罪は何だろう。金持ちの青年は、 主のもとに来ながら、からみつく富の誘惑を捨てられないで、富ではなく、主を 捨ててしまった。最高権力を持つダビデには、強い異性への誘惑が執拗にまとわ りついていた。それをきっぱり捨てなかったので、トップであったがゆえに、思 いのままに罪を犯してしまった。 罪をきっぱり捨てなければ、逆に罪に飲み込まれてしまう。常に襲い来る誘惑は 何だろう。きっぱり捨て去る事、悔い改める事が大切だ。でなければ、常にまと わりついて前進不可能だ。重荷があるだろうか。家族からの反対、職場や学校で の信仰ゆえの辛い思い、又、様々な責任が重荷となってかぶさって来る。 それを重荷としては「捨て」、主からのくびきとして、新たに受け取ることだ。 その時、主が負って下さる。辛い苦しい重荷ではなく、主のくびきだ。それは、 負いやすくて軽い。しっかり負うなら平安で心地良い。主のもとに重荷を下ろす 時、平安が臨み、心が癒される。あなたにからみつくものは何だろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分が負っている不必要な思い煩い、不安、恐れを捨て去ろう。前に進む事がで きない。あいまいにし、いい加減にごまかしてしまっている罪も、悔い改めて、 きっぱり捨て去ろう。重荷とまとわりつく罪を処分する時、前に進め、成長して 行ける。
2011年04月16日(土) 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩編119:10 5
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩編119:10 5
あなたが、心が痛くなる時、辛くなり、重苦しくなる時、その時、あなたの心に は何があるだろう。よく心を探ってみると、人から言われた言葉に傷ついていた り、そこから思い煩いや不安、恐れが来たりして、心が動揺している。 人の言葉に左右され、振り回されていないだろうか。誰かのあの言葉、このひと 言。それでプライドが傷ついたり、思い煩い、不安になり落ち込んだり・・。人 の言葉が心の中で重きを占めているからだ。 神第一ではなく、人が第一になっていないだろうか。神がどう見られるかでなく、 人にどう思われるか、人の評価、人の称賛、人の目が気になって仕方がない。そ れなら絶えず人の言葉で自分がコントロールされてしまい、アップダウンを繰り 返す。自分がまるで無いことになる。 どうだろう。自分が今、心辛く苦しいのは、神の言葉を第一にせず、主を見上げ ていないからではないだろうか。御言葉をしっかり握り、御言葉に立つ時、心の 不安、恐れは消えて行く。状況がどうこうでなく、御言葉に立っていないこと、 御言葉に目を留めていないことが問題だ。 そこに気づくと、平安が戻る。状況や人を、神を通して見、御言葉を通して見て 行く時、「すべての事について感謝しなさい」の通り、すべての事について感謝 して行ける。神はすべてを益とされ、祝福として下さるからだ。 ・・・・・・・・・・・・・・ いつも心に平安が失せる時は、主から、御言葉から目を離し、状況や自分を見て いる。御言葉に目を転じる時に平安が戻る。御言葉に思いを集中し握りしめてい よう。「すべての事に感謝」する時、状況同じ中で心に平安が臨む。どのように 良くして下さるか楽しみになる。
2011年04月15日(金) 「私の赦したことは、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです」Uコリント2:10
「私の赦したことは、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです」Uコリント2:10
誰かを赦せない思いがあるだろうか。その思いをずうっと抱いたまま、心が暗く重く、苦しいだろうか。ある人は、瀬戸際の時に、助けの手を延べてくれなかった親族に不満を抱き、裁く思い、憎しみに囚われ、交流も絶っていた。その事を思う度に、赦せない気持ちが強くなり、怒りが湧いた。更に憎しみが増幅して行った。これは、否定的な思いを抱き続けると、それは更に強くなって行き、どんどん大きくなる。自分で要塞を作り上げてしまう。 小さなちょっとした不満だったのが、憎しみに憎しみを上塗りして行き、モンスターにして行ってしまう。その人の何もかもが嫌になる。しかし、これは自分でそうしている。自分で些細なものを巨大なものにし、自分で自分をがんじがらめにし、自分で自分を苦しめて行く。あなたにも経験あるだろうか。 サタンがそこに足場を得るので、自在に働いて来る。サタンに付け入る隙を与えてしまい、やがて頭は憎しみと否定的妄想で一杯になる。自分でサタンを招き入れている。いつも言われるように、赦しは自分のためだ。赦さないなら、ずっと牢獄の中だ。相手を赦す時、自分は牢獄から出る。自由にされ、解放され、喜びと平安に満たされる。相手のためでなく自分のためだ。そして、サタンの足場を粉砕するためだ。 ------------- 赦せない思いはサタンに用いられ、サタンと会話しながら、更に怒りはあおられて行く。すぐに赦せるように祈り、背後にいるサタンを退けよう。怒りの闇から主が解放して下さり、光の中へ出て行ける。
2011年04月14日(木) 「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます」ローマ8:5
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます」ローマ8:5
新生したクリスチャンには二つの性質がある。新しい性質と、生まれつきの古い性質だ。未信者の時は古い性質のみだが、新生した者には、神を喜び、神に従おうとする新しい性質がある。しかし、古い性質はまだ残っているので、ずっとそちらに従えば、何十年信仰生活を送っていても、肉のクリスチャンのままだ。つまり、怒りや嫉妬、憎しみ、敵対心が心に渦巻いている。 又、御霊に従おうとしているクリスチャンも、妬みや貪欲、敵対心に動かされる、これは肉にいる時であり、肉に従うと、そうなる。御霊に従う時は、神の潤いや温もりを現して行くが、同じ人が肉に従うと、きつい言葉や怒り、イライラした態度が出て来る。これでもクリスチャンかという状態になる。 同じ人が御霊に従う時と、肉にある時は別人のようだ。自分の内に、不平不満、愚痴、思い煩い、裁き等が出ている時は、肉に歩んでいる事になる。つまり、その時は自分の力で、自分の思いに従って歩んでいる。主を見上げ「自分にはできません。従うことができません」とありのままを祈る事が大切だ。その時、自分ではなく、御霊が助けて下さって、御霊の中へと導いて下さる。 御霊の中にいると、喜びと平安が湧き出で、神をお喜ばせしたいとの気持ちになる。このどちらもが自分の中にあり、絶えず御霊に明け渡し、従って行く時、御霊の歩みへと導かれる。 --------------- 肉の思いのおもむくままにされるのか、気づいて「神様!」と祈るか。毎日、一瞬一瞬が選択だ。肉の自分は怒りや妬み、失望落胆が渦巻く中であっても、神様に助けられ御霊の中を平安に力強く歩む道を知っている。
2011年04月13日(水) 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道の書3:11
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道の書3:11
あなたも、物事が自分の思い通りに行かない事を経験するだろうか。今までも信仰人生は、決して自分の思い通りにはならなかった。又、突然、不意の事態が起こるのでは、と不安に駆られるだろうか。又、どんなに祈っても、苦しい状況が何も変わらず、全く動かない。祈りが聞かれているのだろうかと、思うこともあ るかも知れない。それは、自分サイドで、自分のタイムテーブルで物事を見ているからだ。 神には神のみ思いがあり、時間表があり、定まった「神の時」がある。それは遅くも早くもない。完璧なピッタリの神の時だ。私たちは待つ事が苦手で困難だ。 しばしば待ち切れない。そのため自分で突き進んでしまう。サウルは、神の時を待てなかった。サムエルの指示に従わずに、祭司ではないのに、自分がいけにえを献げた。神を畏れぬ、越権行為であった。この罪のために、サウルは王位から退けられてしまった。 しかし、この時「ちょうど彼がいけにえをささげ終わった時」サムエルが現れた。もうちょっとだけ待てば良かった。私たちへの教訓だ。神は最善の時をすでに備えておられる。神の定めの時期があり、すべてに時がある。「神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐」。待ちくたびれて、自 分で動くなら、祝福を失う。今しばし忍耐して待ち望もう。時が満ちる時には、思いを越えて突然に事がどんどん動き始める。 -------------- 私の時は御手の中にあり・・だ。思うようにならず煮つまっているだろうか。神の時を信仰をもって待とう。時も、チャンスも自分が上手く生かさなくてはと焦る時はみこころの時がどうかを祈ろう。
2011年04月12日(火) 「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7
あなたも経験あるだろうか。神に従い、御心を行なおうとすると、必ず悪魔からの妨害が来る。御心行なおうとすると、したくない心が出て来る。「しなくてもいいのでは」「面倒くさい」サタンの囁きが来る。環境的にも、妨げが入る。 祈ろうとするとどうだろう。何か心が重くなる。「今祈らなくてもよい。後で」との思いが来る。怒り、憎しみ、妬みが思い出され、足を引っ張られる。したい事が次々と浮かび、思いがそらされ、実際に行動に移って行く。祈る前はどうもなかったのに、突然眠気が来る。答えられるはずがない、祈っても無駄との思いが湧き、祈る気力が失せる。 聖書を読もうとする時も、しかりだ。別の思いが幾らでも湧き、思いがさまよう。別の事を考えているので、うわの空で、何を読んだかわからない。読むのを諦めてしまう。読み出すと眠気に襲われる。御言葉の意味がわからず、すぐに止めてしまう。他の本なら幾らでも読めるのに、聖書が読めない。 礼拝中も同様だ。思いがさまよい、御言葉が入らないままだ。眠くなる。すべて悪魔のしわざだ。対人関係で問題を起こす。妄想を吹き込み、疑いや不信感を入れ、分裂を生じさせる。又、怠惰にずるずると時間を無駄にさせる。今、攻撃を受けているだろうか。悪魔に気づけるように!識別できるよう祈っていよう。 ----------- 神に従おうとする時に巧妙なサタンの攻撃にあっている。失敗し自己嫌悪も持って来て落ち込ませる。サタンは必ず来る!と警戒し打ち勝つための御言葉を用意し、きっぱりとノーと言おう。
2011年04月11日(月) 「その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた」創世記32:25
「その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた」創世記32:25
ヤコブは、兄と父をだまして、欲しいものを手に入れる、非常にずる賢い人物であった。しかし、神は、自我の強いヤコブを愛しておられた。その強い自己中心を砕くために、神はヤコブを訓練された。神はヤコブのすべてをご存じであり、更に狡猾な叔父ラバンのもとにヤコブを置かれた。 私たちの目の前の対人関係は、すべて完全な主のご計画だ。対人関係を通して、私たちを砕かれる。別の環境に逃げたとしても、同じことで有り、又、そこで、似たような相手に出会う。兄をだましたヤコブは、ラバンにだまされる。ラケルのために7年働いたが、レアを与えられ、更に7年働く事になる。辛い厳しい歳 月であり、刈り取りであった。 ラバンのもとで辛い訓練を受ける。やがて神の時が来て、帰郷するよう示される。神のご計画はラバンさえも阻止できない。兄エサウの怒りを恐れて足がすくみ、恐怖で震えた。皆殺しになるかも知れない。一人残ったヤボクの渡しで、夜明けまで御使いと格闘し、もものつがいをはずされた。一番の急所だ。強烈な自我が 砕かれた。もう自力では歩けず杖にすがった。神に頼らなければ一歩も歩めない。 砕かれたヤコブは、全く変えられた。末尾で怯えていたヤコブが、先頭きって兄に会いに進んだ。兄はすでにヤコブを赦していた。一番強い自我のあり所を、主は取り扱って下さる。その時、何もかもが変えられる。 -------------- 前に置かれた人を通して自分が変えられなければならない。受け入れられない人を受け入られるようにか、またへりくだり優しく出来るようにか。神様が砕き学ばせたい所はどこだろう。神様により私達は変われる。
2011年04月10日(日) 「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは。雄羊の脂肪にまさる」Tサムエル15:22
「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは。雄羊の脂肪にまさる」Tサムエル15:22
サムエルはサウルに、自分が着くまで、7日間待つようにと命じた。自分がいけ にえを献げるからと。そして、その7日間が過ぎたが、サムエルが来ない。民の 状況はと言えば、サウルから離れて行こうとしている。 それを見て焦り、サウルは自分で全焼のいけにえを献げた。そこにサムエルが到 着した。サウルが主の命令を守らなかった事を告げた。 又、アマレクを打ちすべてのものを聖絶せよ、と命令を受けた時も、最も良いも のを惜しみ、どうでもよいものだけを聖絶した。そして、民が惜しんだのだと、 民のせいにした。 サウルのこれらの問題は何なのか。いけにえを献げるかどうか、聖絶するかどう か、外側の行動の問題以前に、御言葉にあるように「あなたが主のことばを退け た」「聞き従うことは、いけにえにまさり」彼の態度が、主に聞き従わないとい うことだ。ここが問題だった。 私たちはどうだろう。神はこう言うが、この状況ではこっちの方が良い、神は言 うが、しかし・・と、自分の思いが強く、自分の思いで行動するだろうか。大切な 事は、どんな善をするかでなく、主の御声を聞いて、従うことだ。 今もし、御声をなおざりにして、自分の思いで進んでいるなら、立ち止まろう。 御声を聞き、従おう。豊かな祝福はそこから来る。 ・・・・・・・・・・・・・・・ サウルの間違いは、御言葉でなく、自分の思いを行なった事だった。民が離れて 行こうと、どうなろうと、サムエルを待つべきであった。良いと思う自分の思い でなく、御言葉にとどまろう。御声に従おう。
2011年04月09日(土) 「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばはあなたがのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21
「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばはあなたがのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21
「すなおに」御言葉を受け入れるようにと、主は言われる。「すなお」とはへり くだった心だ。高慢やプライドの対極だ。「どうぞ私に教えて下さい」との、謙 遜な心であり、教えられやすい心だ。 へりくだっていなければ、御言葉を受け入れることはできない。自分の思い、価 値観が御言葉と対立する。「そんな事、無理」「できるはずが無い」「そんな事 していたら、この世は渡れない」・・様々な肉の思いが妨げ、自分を通し、御言葉 を流して、捨ててしまう。 結局、自分が御言葉の上に立って、判断している事になる。御言葉が植えつけら れ、御言葉に従うことによって、たましいが救われ、成長して行く。御言葉をす なおに聞く以外に、すべがない。 問題の時、悩みの時、御言葉が心に臨むと、救いが来る。解決が来る。もし、仮 りに状況が変わらなくとも、心に全き平安が臨む。それゆえ、すなおな心が重要 であり、主は心を耕して下さるために、試練を送られる。すきやくわで、硬い、 頑固な心を耕して、柔らかい土地にして下さる。 自我が砕かれ、柔らかい心にされる時、御言葉が入り、従うようになる。私たち も救われてから、今に至るまで、あの試練やこの試練、様々な試みにより、頑な な心が砕かれ、少しづつすなおにされて来た。懲らしめは主の愛であり、憐れみ だ。これからも訓練として、受け止めよう。ますます心柔らかくされるためだ。 ・・・・・・・・・・・・・ 御言葉を素直に受け入れる時に、どんな状況の中でも、救われる。もし状況が変 わらなくても、心に平安が臨むし、自分が変えられて行く。御言葉を受け入れる 事を阻む心に気づけるように。素直でない事を気づく事から始まる。
2011年04月08日(金) 「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」伝道7:14
「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」伝道7:14
順境があり、逆境がある。神のなさること、とある。この世の宗教は順境だけを求める。家内安全、商売繁盛、無病息災・・、むしろ逆境が無いための信心だ。主は、願いを求めよと言われる。主に求めるのは良いことだ。しかし、自分の利益だけを願い続けていたらどうだろう。あれが欲しい、これが欲しい、ただそれだけなら、幼な子のままでストップだ。 子供から大人へと成長して行く時に「神の御心」を求めるようになる。あれをくれ、こうしてくれ、だけでなく、主は、主と共に労する人々を求めておられる。成長して行く時に、自分の願いでなく、主のお心ということに心が向き、御心のようにと明け渡して行くようになる。順境も逆境も、神のなさることであれば、無意味なものは無い。逆境も意味があり、目的がある。 そして、「後の事をわからせないため」とあり、主は、先の事を伏せておられる。これから病気になる、又は、想定外の収入がある・・等、将来の事は告げられない。占い師ではない。私たちに、先の事はいっさいわからない。それは主に信頼させるためだ。先が見えたなら、信仰は必要ない。見えない中で信頼するのが信仰だ。 逆境時には、早く何とかしたい、解決したい、苦しみを早く逃れたい、そんな思いで一杯になる。その背後にある主の思いに、神のなさる事に、なかなか思いが行かない。今、逆境にあれば、神がなさった事であり、神のみ思いに思いを向けよう。 ------------------ 逆境の中でしか知り得ない事が人それぞれにある。自分の本当の弱さを知るためであったり、そこでしか出会えない神を、また十字架の意味を知るためであったり。順境の日も逆境の日も神様からの賜物。生涯かけて神を知る道だ。
2011年04月07日(木) 「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません」Tコリント4:3
「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません」Tコリント4:3
ある人が長年第一線で、やり手でバリバリ働いていた。ところが、仕事に行き詰まり、そこに対人関係も絡み、体調を崩して止むなく退かねばならなくなった。その時に、ひどい落ち込みに陥った。仕事が出来ていた時は、自分が価値のある人間と思えていたが、出来なくなった時、自分の価値を認められなくなったのだ。 非常な苦しみであり、どうやっても受け入れ難い事であった。様々な弁解や言い訳で、自分を取り繕おうとするが、無駄だった。仕事上の大きな失敗を、人のせいにしようとしている自分、人を赦せない自分に苦しんだ。心が悶々状態で、苦しくてどうにもならず、主の御前に出た。 御前に静まり、何もかもをことごとく打ち明け、気持ちをぶつけ、心注ぎ出し祈った。十字架が迫った。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」その主の祈りが、紛れもなく自分のためである事が真にわかった。主の赦しの愛を全身に受け取った。そして、主は完全に赦して下 さっているのに、自分が自分を赦していない事を示された。 自分を赦せた時、人をも赦す事ができた。何が出来なくとも、このままの存在を受け入れて、愛し続けて下さっている主の愛に癒された。自分を裁く事を止めた時、人を裁く事も止んだ。 -------------- 自分を人を過信すると失敗の度に落ちこむ。無に等しい者として神が召して下さったことに感謝し人の判定、人の前にどうであるかから解放されよう。神の前に真実であるよう、ただそれだけを目指して歩もう。
2011年04月06日(水) 「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17
「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17
神は私たちを導かれる。でなければ、私たちはどう進めば良いかわからない。「導き」の主だ。その導きは、よくよく祈り、耳を澄ましていれば、御声が聞こえて来る。御言葉を読む時に、又、礼拝説教や学び会を通して、主に在る人々との交わりで、祈りの中で・・、どの方法かはわからないが、主は必ず導かれる。心しておく事は、その導きが自分の思い通りだとは限らない事だ。 ある時は、生まれつきの性質に反することを求められる。自分を非難し、自分に敵対する人のために、祈ったり、愛の行ないをして行く事かも知れない。又、自分には到底困難と思われる、新しい仕事や働きに就く事かも知れない。導きに従う事によって、重荷を負い、犠牲を払う必要が出て来るだろう。 しかし、その導きに従う時に、必ず大いなる祝福が臨む。だが、私たちはなかなか従わない。約束の地、カナンに斥候を出した時も、ヨシュアとカレブ以外は、恐しいとの理由で従わなかった。神は導き、民は逆らう。イスラエルの歴史だ。 神は私たちにも、繰り返し〃忍耐して導かれる。今、どうだろう。何かを始める事、人を赦す事、和解、何かを献げる事・・何らかの導きを受けているなら、従おう。豊かな祝福があり、主を新たに経験でき、必ず従って良かったと、大きな祝福と深い平安を経験する。 -------------- なかなか従えず、神の導きと自分の思いの妥協点を見つけようとし不自由に手も足も出ない経験をする。導きを聞いたなら、従えば祝福が待っている。全てをお任せして、神の導きに委ねよう。
2011年04月05日(火) 「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩篇33:10
「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩篇33:10
人には、自分の思いがあり、プランがある。しかし神にもプランがある。ヨセフの生涯に顕著に見られる。兄達たちの妬みを買い、隊商に売られ、思いもよらぬ異国の地へ。孤独、不安、心中いかばかりだったろう。しかし、そこで買い取られた主人に仕え、好意を得、全財産を任せられた。「主が共におられたので」は鍵だ。これは主による事であった。 しかし、又も苦難が臨み、無実の罪で投獄に。しかし、そこでも「主が共におられ、監獄長の心にかなうようにされ」模範囚となりすべての囚人の管理を任された。やがて出獄かと期待が膨らんだが、献酌官長との約束は忘れられ、又、2年が過ぎた。神の時は何と長いのだろう。結果的には2年だが、その渦中では、どんなに試され、忍耐が要った事だろう。最終的に総理大臣となり、飢饉の中、ヤコブや兄弟達の命を救う事になる。 ヨセフが売られて以来10数年だ。命を救うため、神が先にヨセフを送られた。ヨセフ自身にも自分のプランがあったろう。神のプランは想定外であったが、結果的に遙かに素晴らしいものであった。私達にも自分の人生計画がある。しかし、神の計画は、必ず遙かに素晴らしい。ヨセフは神の計画を歩み、信仰も品格も練り上げられ、使命を全うできた。自分の肉の計画は虚しい。神のプランの道は永遠に至る。残りの人生、自分を明け渡して、神のプランに歩めるよう祈ろう。 ------------- 許されて与えられている今日の恵みに目をとめ、今日も神のご計画のうちを歩んでいるのか、そして歩んで行ける様に祈りたい。今もっている計画は誰を喜ばせ、誰の栄光のためだろう。
2011年04月04日(月) 「舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた」マルコ4:37
「舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた」マルコ4:37
「向こう岸へ渡ろう」と言われた主の御言葉に従って、舟に乗ったなら、弟子たちは大嵐に会った。舟は波をかぶり、水で一杯とは、このままなら転覆してしまう。「溺れて死にそう」なほどの瀬戸際であり、恐怖であった。しかし、主は眠っておられる。何をどうすればよいのか、弟子たちは恐れに動揺し、パニックになった。 主は「信仰がないのは、どうしたことです」と言われた。ここでの問題は、不信仰だった。主が目の前に、共におられるのに、どう考えても、舟が転覆するはずがない。沈む事の方が不可能だ。しかし、弟子たちの頭には、主は飛んでしまっていた。私たちの姿だろうか。 不意の、想定外の事態に襲われた時に、頭真っ白で、主も飛んで、御言葉も飛んで、もう恐れと不安しかなく、頭混乱状態だ。しかし、主は大嵐の中で、熟睡しておられた。「向こう岸へ渡る」事が御心であり、その御言葉は100%成就する。天地がひっくり返っても、何がどうなっても、向こう岸へ渡れるのだ。 主は憩いと平安と安堵のまっただ中におられた。不安と恐れが来た時、主が同船しておられる事を覚えよう。そして、安心しきって、熟睡しておられる姿を覚えよう。どんな状況が来ても大丈夫だ。今、どこを見ているのだろう。嵐、舟、波、風、自分だろうか。主と御言葉に目を転じよう。安堵と全き平安が臨む。 ---------------- 御心を進んでいても波も風も来る。向かい風であっても主が共におられるので大丈夫だ。主には全てが想定内のこと。おじ惑う私たちの不信仰もだ。風が、波が、見えても恐れることはない。
2011年04月03日(日) 「そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた」マタイ22:11
「そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた」マタイ22:11
主は、天の御国をたとえで話された。王子のために結婚披露宴を設けた王は、神 のことだ。神はしもべを遣わし、招待しておいた客を呼びにやるが、彼らは来な かった。 畑に商売にと、自分のしたい事があり、そちらを優先し選択した。それだけでな く、神が遣わしたしもべ達を殺してしまった。何という事だろう。神の愛を踏み にじり、恵みを退けてしまう。 招待客に拒絶された神は、次にしもべを大通りに遣わし、出会った者を誰でも皆、 招いた。そのため、披露宴には大勢の人が集まった。通りで会った人、誰でも招 くので、老人も、若者も、取税人も、遊女も、貧しい人も、金持ちも、ホームレ スも、身体不調の人も、酔っ払いも、誰でも彼でも、「良い人も悪い人でも」皆、 招かれた。ユニークな披露宴だったろう。 その中に礼服を着ていない者が一人いた。この場合、礼服は、入り口で用意され た。大通りで出会う人々であり、礼服など持っていない。その神が備えた礼服を 拒否したという事だ。招待は拒まなかったが、礼服は拒んだ。違った目的で宴会 に来ていた。 礼服とは、御子の十字架の贖いだ。十字架で流された主の血潮は、義の衣として、 私たちに与えられる。「良い人も悪い人も」この義の衣を着る事によって、王の 主催した披露宴に出る事ができる。何かの功績で選ばれたのではない。義の衣を 着る=キリストを信じる人が、罪赦され、素晴らしい喜びと光栄の宴会にあずか る。 ・・・・・・・・・・・・・・ 神が無償で与えて下さる礼服を、拒否していないだろうか。自分の服の方が良い、 自分の服で大丈夫と。「さあ、食事の用意ができた。何もかも整った」と救いも 良い行ないも、主が与えて下さる。すべての良い贈り物は上から来る。受け取ろ う。
2011年04月02日(土) 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」ヨハネ4:13
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」ヨハネ4:13
人は何を喜びとして、生きているのだろう。自分の心を満たしてくれるものが、 喜びを与えてくれると感じている。心が満ち足りると、幸福感を感じるゆえかも 知れない。それゆえ、自分に満足感を与えてくれるものを、追い求めて行く。 「富」が自分に満足感を与え、幸せを与えてくれると思う人は、富を求め、名誉 や地位が、それなら、そのように求めて行く。「仕事、野心」に満足を求める人 は、仕事一筋の人生を送るだろう。「人からの称賛、評価」なら、そのような歩 みを、「恋愛」によって満たしを求めるなら、そのように時間や労力を使って行 く。 普段は余りに忙しく、流されて気づかないが、人は無意識にも、深い所にある自 らの価値観によって、そのように考え、行動し、結実させて行く。自分が何を喜 びとするかが、どのように生きて行くかにつながっている。 それが無意識に日常での、選択に及んでいる。自分の心の底を、今一度、御霊の 光の中で吟味し、自分は何を喜びとして、生きているのか、照らして頂こう。 その喜びを与えるものが罪でなく、合法的なものだとしても、主以外のものであ れば、それは偶像となり、心は、主から離れてしまう事になる。 「私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえ ましょう」主だけが心に真の満足を与えて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・ この世のものは、一瞬の快楽だ。真に心満たすものは無い。自分を喜ばせようと、 色々な事をするが、決して心満たされる事はない。そうではなく、主の喜ばれる ものを求めて行く時、自分に喜びがあり、満足がある。
2011年04月01日(金) 「・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現されることを求める私の切なる願いと望みに・・」ピリピ1:20
「・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現されることを求める私の切なる願いと望みに・・」ピリピ1:20
ヘロデ王は教会を迫害し、ヤコブを殺害したところ、それがユダヤ人に非常に気に入られたのを見て、次にはペテロに手を伸ばした。ペテロを捕らえ、投獄処刑しようとした。しかし、ペテロは、主が使わされた御使いによって、牢から救い出された。「教会は、彼のために、神に熱心に祈り続けていた」の通り、教会で はヤコブの時も、ペテロの時も同じように熱心に祈った。 そして、ヤコブは処刑され、ペテロは救い出された。なぜ?と思う。これは、ヤコブとペテロそれぞれに対する、神のご計画であり、召しだ。ヤコブは殉教によって、神の栄光を現わし、ペテロは更に福音宣教の任務が備えられており、それによって神の栄光を現わす事となる。ヘブル11章にも「ししの口をふさぎ、火の 勢いを消し、剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」ある人々は、奇跡に次ぐ奇跡によりどんどん進軍して行った。 そして同時にある人々は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏しくなり、苦しめられ」と、殉教して行った。結果的には、全く違うどちらもが「信仰によって」歩んだ。パウロは「わたしにとって生きることはキリスト」と言った。一人一人に備えられた神のご計画が全く違う。隣の人と 自分は違う。自分に与えられた人生、御心を全うする事が、一番の喜びの道だ。 --------------- いつでも、どんな場合でも主の栄光のために自分が用いられたらなんと幸いだろう。パウロのように自分を通して主の素晴らしさが現れる道を、フルに生かしきって歩みたい。