2011年05月31日(火)



「その人は高慢になっており、何一つ悟らず・・敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間ない紛争が生じる」Tテモテ6:4

高慢に陥ってしまうと、何一つ真理を悟れなくなると言っている。そればかりか、あらゆる事に疑いを持ち、そこから妬み、争い、悪意、猜疑心が生じると。それらは「高慢」から来るのであり、良いことは一つもない。対人関係の中に、高慢が入って来ると、プライドにこだわり、言葉にひっかかりが生じ、疑いが生まれ、不信感、疑心暗鬼になり、サタンの思うつぼだ。

そして、敬虔を利得の手段として行ってしまう。主のために、主を信頼してする、行ないのはずが、人の賞賛を得るために、自分を良い人に見せたいがための、行ないに変わってしまう。人に認められたい、人の評価を得たいという肉の思いで歩んでしまう。そうなると、人に目を移すと、そこに必ず高慢の根から生じる劣等感、優越感、妬み、争いに悩まされる。平安は失せ、人との競争になってしまう。

しかし「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道」とあり、御霊によって満たされていると、心に平安があり、人に認められること、人の評価を求める事の必要が無くなってしまう。その目は主を見ているからだ。主に明け渡して行くこと、御霊の導きに従って行くことによって、満ち足りた心が与えられる。
環境、状況に関わらず平安が臨む。神から離れて、自分で歩むことが高慢であり、自分で何とかしようとするので、そこに平安が無く、絶えず葛藤があり、争いが生じることになる。
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今のままで十分満ち足りていると思わせてくれるのは状況ではないと知ろう。自分の貧しさを知りありのままに主が必要を満たして下さると知っているから、いつも豊かに満ち足りておれる。


2011年05月30日(月)

「・・神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3

道の途中で、生まれつきの盲人に出会った。そこで弟子達は、主に質問した。なぜ盲目に生まれついたのかと。先祖の罪のためか、本人の罪かと。それに対して主は、本人でも、先祖の罪でもなく、神のわざが現れるためだと、答えられた。

私達は、試練の時、苦しみに会う時、すぐ「なぜ?」「どうして?」と問う。なぜかそうなってしまう。どこまでも「なぜ?」「なぜ?」と追求し、暗闇の中に迷い込む。しかし、答えが全く見つからない。ますます苦しくなって行く。あなたにも経験あるだろうか。そのような時には、率直に、正直に辛い気持ちを、主
に告げるのが良い。疑問、怒り、恐れ、不安、嘆き、悲しみ、心からの叫びを、主に告げるべきだ。

それが詩篇に記されている事だ。感情を抑え込むのではなく、ダビデのように率直に神に告げるべきだ。神はその感情を受け止めて下さる。それは信仰であり、なぜなら神を信じているからこそ、感情を吐露するのであって、信じていない相手に向かう事など決してない。そして、次に「なぜ?」から、この苦しみは「何のため?」と問いを変えてみよう。

何を教えようとされているのか。この事を通して、自分に何を得させたいのか。すると、光が射して来る。どうしてこんな事が?と思うような出来事が、「神の栄光が現れるため」と言われている。
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試練の後に必ず大きな祝福があることを知っていても渦中では様々な葛藤がある。その度に主に告げて行こう。祈りの中で主の御心に導かれて行く。そして試練の渦中も祝福となっていく。


2011年05月29日(日)

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」 Uコリント5:7



信仰とは何だろう。信仰とはこう言えるかも知れない。「目には何も見えず、耳
には何も聞こえず、手で触れるものも、つかめるものもいっさい無く、何も感じ
る事のできない、真っ暗な中で、御言葉を握って、御言葉に立つ」ことだ。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるの
です」。私達は、通常五感によって生きている。視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚
に頼って生きているので、これらからの情報を真実として受け取り、信じている。

しかし、「信仰」はこれらの五感ではいっさいわからない。感知できない、得ら
れない。霊の部分であり、領域が異なるのだ。五感で何も感じる事が出来ない、
真っ暗闇の中で、しかし、御言葉を握って、御言葉に立つ時、別の領域に、「霊
の領域」に立つ。

五感では感じる事が出来ない事をふまえておく事は大切だ。普通の日常生活は五
感に頼って生きているので、信仰も、どうしても感じようとしてしまう。どこま
でも五感に頼ってしまう。そして、感じなければ、信じられない。感覚に頼って
行くと、迷路に迷い込む。

主は「感じ」に依存するのでなく、主に頼るように、何の「感じ」も無い中で、
御言葉を信じて歩むように、訓練して下さる。まず感覚でなく、御言葉に根差し
ていよう。

・・・・・・・・・・・・・・
信仰を感じようとすると、迷路に迷い込んでしまう。感じる事ができないからだ。
常に五感で生きているので、それを用いてしまう。感じる事ができなければ不安
になる。しかし、感じることができなくても良いなら、安堵だ。御言葉を拠り所
に歩む事ができる。


2011年05月28日(土)

「主の山の上には備えがある」創世記22:14



アブラハムに最大の試練が臨んだ。最愛の息子イサクを全焼のいけにえとして献
げよというものだった。息子を殺すより、もう年老いた自分が死ぬ方が、どんな
に楽だったろう。

「それにイサクは約束の子では?」「イサクが死ねば、神の約束はどうなるの
か?」「これは本当に神の声なのか?」「聞き間違いではないのか?」25年間
祈りに祈って与えられた子だ。様々な思いが巡ったろう。しかし、アブラハムは
今までの神との深い交わりの中で、神への信頼と確信があった。これは確かに神
の御声であり、神からの示しだ。

「翌朝早く」ぐずぐずせずに、ただちにアブラハムは神の言われた通りに従った。
アブラハムはイサクを献げた。刀を振り上げイサクをほふろうとした瞬間、神は
止められた。そして、そこには、代わりのいけにえとして、雄羊が備えられてい
た。神に従う道には、必ず「主の山に備えがある」。必要を備えて下さっている。

今までこの事実をどれほど経験して来た事だろう。人生には時に理解できない事
が起こる。幾ら祈っても答えがわからない。しかし、そんな試練の中も、主の山
の上には備えがあると信じて歩むのだ。

この事を信じて試練を受け止めよう。今、厳しい試練の中にあるなら、又、理解
不能の状況の中にあるなら、まっ暗闇のトンネルの中で堅く信じよう。「主の山
の上には備えがある」。それゆえ、目の前の示されたみこころを行ってゆこう。

・・・・・・・・・・・・・・・
自分の最も大事なものを、主に献げて行った時に、もっともっと大事なものを知
る。主ご自身を知って行く。主に従う時、献げる時に、必要な力、必要な助け、
必要なものが、すでに備えられている事を経験する。目の前の示しに従えるよう
祈ろう。


2011年05月27日(金)

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで・・ちりと灰の中で悔い改めます」ヨブ42:5

 

        
   
ヨブに極めて厳しい試練が臨んだ。正しく生きて来たのに、何でこんな目に会うのか。理不尽さに、思いきり不満を神にぶつける。私など生まれなかった方がよかった、なぜ、こんな苦しみを受けないといけないのか。何も悪い事などしていないのに、「なぜ?」「どうして?」その答えが欲しい。

ヨブ記の最後の箇所で、ずっと沈黙を保たれていた神が、口を開かれる。が、「なぜ?」には、神は答えられなかった。「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか?」と逆にヨブに次々と問いかけられる。ヨブは答えられず、黙り込んでしまう。ヨブの「なぜ?」の問いには答えられなかったが、ヨブは、
神の語りかけに納得する。

神への不平も不満も捨て去って、神の前にひれ伏す。なぜヨブは変わったのか。「今、この目であなたを見」たからだ。神は説明を与えられたのでなく、ヨブにご自身を現して下さった。何という恵みだろう。私達は辛い苦しい状況の中で、理由を論理的に説明されたとして、それで生きて行けるのだろうか。

しかし、神にまみえるならどうだろう。神を見て、私たちの霊が、神の臨在に触れるなら、どんな苦しい中でも、心は満たされて生きて行ける。神との生きた交わりの中で、平安と喜びを与えられ、神の愛を信頼して生きて行ける。
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どんな状況にあっても神を近くに覚え霊の交わりをする時、いつも喜びと力が内から湧き上がって来る。なぜ?の具体的な答えはなくても、求め尋ねて行くなら、必ず神様はご自身を現され、これが答えと教えられ、それは納得できる。


2011年05月26日(木)

「あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました。それで、あなたの足跡を見た者はありません」詩篇77:19

モーセがイスラエル人を導いて出エジプトを果たし、海辺で宿営していた時、パロの軍隊が追跡して来た。みるみる内にそのパロの軍勢は追いついて来た。前は海で、後ろからは追っ手という、絶体絶命の危機だ。イスラエルの民は恐怖で、神に叫び、モーセに文句を言った。奴隷の苦難から救い出されたにも関わらず、エジプトから連れ出したりして、一体何という事をしてくれたのかと、不平不満をぶちまけた。

その時、神は奇跡をされ、海の中に道を造られた。そして、安全に無事に民は紅海を渡った。あなたは今、断崖絶壁にいるだろうか、絶体絶命か、神は必ずあなたのために、道の無い所に道を造られる。その道は隠されていて見えない。しかし、信仰持って前進すると、道がくっきりと目の前に現れて来る。民のために、海が目の前で分かたれ、道が備えられていたように。

ある人は進路において経験した。受験が全部失敗してしまい、すべての希望が断たれ落ち込んだ。真っ暗闇だ。どうすれば良いのか、祈りに祈った。その時に、紅海が分けられたように、目の前に突然道ができて、留学の道が開かれた。思いを遙かに越えた恵みだった。

ある人は経済的苦境で、進級を断念しようとした時、ある方面からの突然のサポートが与えられた。あなたも振り返る時、あれやこれや、海の中に、主が造られた道を通された事だろう。これからも主は、道無き所に道を造り、私たちを安全に導いて下さる。私たちは前進して行ける。
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深い水の底を通らされる時、自分の弱さ貧しさに気づきへりくだらされる。自分の思った道は閉ざされるが神がおられる。いつも神が道を備えていて下さった。


2011年05月25日(水)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Tテモテ6:6



私達は自分の思い通りに、自分のしたい事をして生きる事が、幸せであり、充実感があると思っている。この世の価値観はそうであり、自己実現を目指す。そのように勘違いするが、決してそうではない。貪欲は更に貪欲を生み、とどまるところを知らない。貪欲とは、決してこれで充分という事がなく、どれだけ得ても満足する事が無い。

それは欲望であり、心の問題だ。貪欲は悲惨だ。金持ちが幾ら富を得ても決して満足しないように、欲望は満たせば満たすほど、更に渇いて行く。決して満たされる事がない。生きがいを求めて駆け巡る人を見るだろう。仕事が、趣味が、人が、名誉や地位が、あれが、これが自分を満たしてくれるのではと、次々と手
をつけて行くのだが、心は決して満たされる事がない。

自分の欲望を満たそうとする人生は、満たされないどころか、ますます渇くばかりだ。問題は「自分中心」にある。神を喜ばせ、神を第一した人に、喜びが無かったという事を聞いた事がない。人は喉から手が出るほど「愛」や「喜び」や「平安」が欲しい。もし本当に喜びが欲しいなら、自分を喜ばせる事を止め、神を求
め、神の喜ばれる事を求める事だ。

そうすれば必ず自分に喜びが来る。喜びは御霊の実だ。御霊に自分を明け渡して、従って行く時に与えられる実だ。自分で獲得するのではなく、神に従う時に与えられる。
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自分を満足させるものに限りはなく、探しても見つからない。永遠に欲求は満たされない。肉の渇きを覚える時、霊も渇いていないだろか。御言葉を補充し上から来る喜び、平安を求めてみよう。


2011年05月24日(火)

「いつも喜んでいなさい」Tテサロニケ5:16 


             
主は「いつも喜んでいなさい」と言われるが、私達は何を喜んでいるだろうか。神の下さる祝福、神の与えて下さるものを喜んでいるか。それは確かに嬉しい。しかし、いつも、与えられるものにだけ目を留めているなら、もし、それが与えられない場合はどうだろう。必ず不平不満、欲求不満に陥る。そして、神を責めて行く。

自分の思い通り、願い通りにならなければ、神に反抗し、神を疑ってかかる。すぐに不信感を抱く。今まで何度も経験あるだろうか。あなたがいつも目を留めているのは、何だろう。神の下さる祝福であり、与えられる「もの」だろうか。
それなら、どこまでも祝福を追うばかりで、どれだけ与えられても決して満足する事はない。欲望というものは決して満たされる事はない。更に渇いて行く。

それは与え主である神ご自身を求めていないからだ。私達が喜ぶのは、祝福ではなく、祝福の与え主である神だ。もし、神ご自身を喜んで行くなら、自分の思い通りにならなくても、又、もし願ったものが与えられなくても、失望する事は無い。決してない。与えられるものでなく、神ご自身を見ているし、信じているからだ。

だから、思い通りにならなくても、自分にとって更に良い道を備えて下さっていると信じて行く。あなたの信仰態度はどうだろう。弟息子のように、父ではなく、父の財産を貰って、父のもとを離れて行くだろうか。何を喜んでいるのだろう。心を探ってみよう。
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上手く行けば祝福、そうでなくても御心と我慢する。天から降ってくるものをただ文句言わずに受け取るだけで、与え主ご自身に目が向いていないと気づかされる。神ご自身を喜び交わりを感謝して生きるなら毎日が祝福であり喜びの連続だ。


2011年05月23日(月)

『「パンはどれぐらいありますか」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です」』マルコ6:38

「パンはどれぐらいあるか・・彼らは確かめて」、どれほどあるかを"確かめる"ことは大切だ。まず現状はどうか。はっきりと確かめる事を求められる。自分の真実のありのままの状態を知って、現状を主にそのまま持って行く事ができる。主はありのままを用いて下さるが、必ず現状を認めさせられる。

「できません」「ありません」「弱さがあります」「少しできます」「少し持っています」能力や持っているものが僅かでも構わない。そのまま主のもとへ持って行くことだ。ヨハネは「小さい」魚を二匹と言っている。小さくて構わない。こんなものが何になろう、何の足しになろう、無いも同然、あっても仕方がないと思うだろうか。

「少しの〜がある」それを主のもとへ携えて、お献げしよう。主は「小さな」ものを用いて、どんなに大きなみわざをされかに驚くばかりだ。小さいからこそ、逆に主の素晴らしさが現される。自分が握っているなら、そのままで終わりだ。しかし、主に献げるなら、どんな小さなものでも、主は大いに祝福して下さり、周囲の人々の満腹のために用いて下さる。

家庭で、学校で職場で、祝福の器とされる。あなたの手にある「小さな」ものを、主に献げよう。こんなものが何に・・と思うそれを、主は受け取り、主の栄光のために、用いて下さる。
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よけいな劣等感や言い訳を抜きにして、自分の持っているもの、持っていないものを確かめ知ろう。そこから主に信頼しお任せしよう。あるものを献げ、主が豊かに満たして下さる栄光を待とう。


2011年05月22日(日)

「あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました・・私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました」詩編30:11

ある人が、若くして伝道者に召された。神学校を卒業し、田舎の小さな教会に赴
任した。聖書や神学を学び、頭は知識でいっぱいで、理想に燃え、若い人々がそ
うであるように、希望と自信に満ちていた。

主に喜ばれる教会を建て上げたいと心は燃えて、何でもできると思った。しかし、
へき地の小さな教会の中で、現実と思いは大きく食い違い、悩みと困惑の日々で
あった。対人関係がうまく行かず、空回りした。又、閉鎖的な地で、新来者は皆
無に等しかった。

後で思えば、非常に忍耐を要する働きである事を理解しておらず、結果ばかりを
求め、ますます落ち込んで行った。聖書の知識は溢れるばかりにあるのに、目の
前の人を導く事ができない。悩み、苦しみ、悶々の挙げ句に、とうとう燃え尽き
症候群に陥ってしまった。鬱になりかけていた。

自分がいかに無力であるかを初めて、思い知った。砕かれた。行き詰まり、もう
一歩も進めない状態であった。だが、そのどん底で、真に主に出会った。慈しみ
の主は、責める事も裁く事もされていなかった。深い愛と慈しみに包まれた。

自分を真に支えてくれるものは、自信でも、自分の力、知恵、方法でもなく、ど
んな時にも決して変わる事のない、主の愛である事を初めて知らされた。その主
の愛の御手に、身を任せきった時、かつて経験した事のない深い安堵、大海のよ
うな平安に包まれた。苦しみ、不安、煩い、焦り、不満が、感謝と喜びに変えら
れた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
信仰人生、様々な主からの取り扱いがあるが、いつも嘆きを踊りに変えて来て下
さった。苦しみ、辛さ、しんどさを通り、砕きは痛いが、肉の、自我の喜びでは
ない、御霊の喜びを経験させて下さった。これからも嘆きを踊りに変えて下さる
主が共におられる。


2011年05月21日(土)

「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、従順であり、またあわれみと良い実に満ち・・」ヤコブ3:17 

神は私たちに御声をかけられ、語りかけて導かれる。そうであれば、サタンも同
じ事をする。サタンも語りかけて誘惑して来る。それは神から私たちを離すため
だ。主は荒野でサタンの誘惑に会われた。サタンは御父から離そうと、しかけて
来る。

主は荒野で二つの声を聞かれた。神の御声とサタンの声だ。私たちも御父の御心
を求めようとする時、神の御声とサタンの声がある事に要注意だ。よくわきまえ
ていよう。でなければ、二つの声を間違ってしまう。

特に御心を求める時に、まず大切な事は、よく心を静めて、御霊に心を探って頂
いて、罪があれば、必ず悔い改めることだ。特に、妬みや憎しみ、裁き、敵対心
の苦いものをそのままにしていると、サタンの声を神の声と信じ込んでしまう。

肉が混じって来るので、混線して、わからなくなってしまう。罪が見えなくして
しまう。邪悪な思いをそのままにしておくと、サタンの声と神の御声がわからな
くなる。あなたの心に苦い根がないか、思いや行動に邪悪なものがないか、よく
御霊の光に探って頂こう。

一つ一つ言い表わすなら、その罪を赦し、すべての悪からきよめて下さる。きよ
められて、御心を求める時、神の御声がさやかに聞こえて来る。上からのものは
純真、平和、寛容、温順・・あわれみと良い実に満ちている。苦いものは、上か
らのものではない。いつも悔い改めて御霊の導きに従おう。上からのものに満た
される。

・・・・・・・・・・・・・・・
主からのものは、あわれみと良い実に満ちている。まず自分自身をあわれんで下
さっていることをしっかり受け取りろう。苦い根を持ったままでは、巧妙な肉に
欺かれて、御霊の導きを間違ってしまう。一つ一つ悔い改める時、光の中を歩ま
せて下さる。


2011年05月20日(金)

「あなたがたの内に住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」ローマ8:11


心の内から、相手を憎む思い、裁く思い、敵対心や怒りが出て来た時はどうするだろう。クリスチャンなら、激しい憎悪が湧くが、同時に憎んではいけないとの思いが出て来るだろう。「裁いてはいけない」「敵対心や怒りは罪」との思いが出て来る。そんな時はどうするだろう。思いを抑え込んでいるか、心の奥に押し込めるか。そして、それで良しとしているだろうか。

それらを抑え込んでいるなら、いずれ必ず爆発する。それらは押し込めているだけで、そこに厳然と存在する。妬みをその場で抑えても、すぐに出て来る。大切な事は抑え込む事でなく、神の御前に「裁いています。憎んでいます。妬んでいます」と正直に認め、告白する事、神に持って行くことだ。

「神様・・」と神に呼ばわり、その場で思いを告白するなら、その思いは、すうーと消えて行く。又、御霊の促しや、御心が示された時、「無理」「自分には出来ない」「したくない」とその促しを無視し、流してしまっていないか。すると御霊の導きがそこで止まり、平安が失せ、霊的に鈍くなってしまう。あいまいに、ごまかしてしまうのが「肉」だ。その時に、「無理だと思っています」とそのままを神に告げることだ。「できない、したくない」と神に持って行く。すると神が、できるように助けて下さる。
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憎む思い、恐れる思いや怠惰な思い、いろんな肉の声を一日中聞いている。どうかそれを祈りに変えて行けますように。そして御霊によって何の実もない死の思いが主に喜ばれる生きた実となりますように。


2011年05月19日(木)

「『あなたののろわれたいちじくの木が枯れました』イエスは答えて言われた『神を信じなさい』」マルコ11:21

当時、道に生えた野生のいちじくは自由に食べていた。主がいちじくを食べようとしたのに、実がなかったので、腹を立て、木を枯らしたということではない。いちじくはイスラエルの象徴であった。「この良いいちじくのように、わたしは、良くするために彼らに目をかけ」と。

「葉のほかに何もない」というのは、ユダヤ人への嘆きだった。ユダヤ人の宗教指導者たちが、神が遣わしたメシヤを受け入れない事への警告であり、さばきであった。細かい儀式は、ぎちぎちと執り行うが、その心は神から離れている。枝葉末節にとらわれ大切なものを見失っている。形式はあるが中身がない。葉ばかり茂って実がない。祈りの家が強盗の巣になっている。生きた信仰がない事を教えようとされた。

それゆえ、実を結ぶ信仰について語られた。私たちはどうだろう。実を結んでいるだろうか。変えられて行っているか。実を結ぶために、まず「神を信じなさい」。山とは不動のものだ。動くわけがない。しかし、信じるなら山が動く。主にとり不可能は一つもない。今あなたに必要なものは「信じること」だろうか。

次に「祈ること」理屈でなく、とにかく生活の目の前の一つ一つを主に祈ってみよう。祈りの中で自分が変えられ、実を結んで行く。そして「赦すこと」赦さない心が実を結ぶ事は不可能だ。具体的に赦すべき人を御霊が促しておられるか。
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自分には出来なくても神には出来る。変わりたいとの態度で祈る者の側に神はおられ、必ず頑なな者を変えて行って下さる。外側だけ整え、内側は枯れてないだろうか。内側を整えられたい。確かな木に繋がり養分を余すところなく注いでいただこう。


2011年05月18日(水)

「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」ローマ12:19


私たちの中にある罪の性質は、悪に、悪で仕返しをしようとする。攻撃されたら、報復する。何か言われたなら、言い返すと、すっきりする。悪口や批判をされると、倍返しをしたいと思う。でなければおさまらない。しかし、この復讐は、ますます怒りを増幅させ、互いの間を裂き、破壊し、憎悪や敵対心の連鎖を生み、やられたら、やり返し、とどまる事がない。行き着く先は死だ。これは誰しも経験がある。

人への恨みや憎しみは相手でなく、自分自身が苦しい。心が辛くて、片時も平安がない。時々報道で、事件の被害者を見る。いかばかりの苦しみと痛みの中かと、その激しい憎悪と敵意で歪んだ表情は、その人自身の心をも壊してしまい、人生を破滅させるのではと思わせられてしまう。神は、自分で復讐をするな、と言わ
れる。神の怒りに任せよと。復讐は神のされることであり、神が正しく裁かれると。神は必ず正しい裁きを下される。

憎しみと敵意は、ただちに信仰者から平安を奪う。あなたも人を憎んで、苦しい悶々状態を経験した事があるだろう。それは牢獄の中だ。なぜ平安が失せるのか。神に対して、人を憎むという罪を犯したからだ。相手はあなたに、何をする事もできない。あなたから平安を奪う事はできない。「人から出るものが、人を汚す」自分の罪を認める時、心に平安が戻る。誰もそれを奪うことができない。
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言い返したい、すっきりしたいと肉は思う。言い返せなければまた、情けない自分と自己憐憫にも襲われる。憎しみの思いが来たならすぐに相手から目をそらし、自分が罪を犯さないように主に告げよう。すべて告げよう。


2011年05月17日(火)

「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」マタイ11:6

バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の不法を、間違いをはっきりと指摘した。その結果、投獄された。ヨハネは、自分は正しい事をしたのであり、神は正義なる方、投獄は理不尽であり、自分は何の罪も犯していない。神の御前に誠実に歩んだのであり、主が、何らかの対処をして下さるはずと思っていただろう。しかし、投獄されて、幾日過ぎても、何の音沙汰もない。何も起こらない。

イスラエルの王国を打ち立てられ、王権を取られるのではないのか。牢獄の中でヨハネの思いは、どんなものであったろう。それで、弟子たちに「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも〜」と問わせた。主はその時に、弟子たちに「自分の聞いたり見たりしていることを報告せよ」、つまり、目の前の「事実」を告げなさいと言われた。

「盲人が見、足なえが歩き〜」これは、救い主が来た時の預言だ。ヨハネが自分でわからない限り、わからない。つまり、人に幾ら説得されても、自分で受け取とうとしない限りわからない。自分で御言葉を真剣に受け止め、真摯に向き合う時に、御霊の助けにより、真理がわかるようにされる。

私たちも心に自分の思いや偏見があれば、神が見えず、物事が正しく捕らえられない。自分の先入観や判断を退けて行く時に、神が見えて、御心がはっきり見えて来る。目の前のこの事に、神を見、過去のあの事にも神が見えて来る。
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固い価値観が妨げとなり、つまずきとなっているなら、そこを示されるよう祈ろう。頑張って頑張ってと自分で立てている信仰だろうか。目の前の主を真っ直ぐに素直に見られますように。


2011年05月16日(月)

「これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました」ルカ7:30

          
天国から最も遠いと言われていた、罪深い取税人たちが、ヨハネのバプテスマを受けた。それは神に従い、神を認めるという事だった。最も信仰深いと言われていたパリサイ人、律法学者たちはヨハネのメッセージを受け入れず、バプテスマを受けなかった。神を認めないということだ。

直に主の御言葉を聞き、奇跡を見ても、尚且つ主を拒んだ。どこに問題があったのか。それは彼らの心であった。心が頑なであった。自分のメガネでしか物を見ない。人は誰しも、自分の都合の良いように、物事を見て、聞く。独断と偏見があるが、それが強く、自分のメガネにかなわないなら決して信じない。固い土地は御言葉をはじき返してしまう。

自分のメガネを正しいとする時、御言葉の入る余地はない。自分はどうだろう。偏見で物を見ていないか。又、パリサイ人たちは、外側は戒めを守っていたが、心が無かった。そこに愛とあわれみは無く、本質的には何も行なってはいなかった。戒めを行ない得ない、自分を知り、悔い改めることが、大きな恵みのただ中であり、そこに神の力が働く。

御言葉の下に自分を置き、へりくだって主に頼る時、心は大海のような平安で満ちる。恵みの世界は、何とパリサイ人の世界と異なることだろう。喜びと安堵でいっぱいの、別次元だ。
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自分の経験や知識に満足してしまったなら、大切な御言葉を自分のこととして受け止められなくなってしまう。謙遜になり毎日読むひとつひとつの御言葉や御霊の導きを素直に受け取り、従って行きたい。


2011年05月15日(日)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6

男だけで五千人、女子供を入れると倍にもなる、大勢の人々を前に、主はピリポ
を試された。「食べる物がない、どうしようか」と。ピリポは、手持ちと目の前
の必要を計算をした。答えは「ノー・不可能」だった。

アンデレも、主は何かして下さると思ったから、何か持っている人を探し出した。
しかし、こんなに大勢に、この小さな弁当では、何になろう。焼け石に水だ。だ
めだと思う。大勢の群衆に、食べ物が無い、手持ちも無い。しかし、このような
状況で、主はすでに「しようとしている事」があられた。

これは何と心強い事だろう。あなたが今、このような状況なら、主はすでに方策
を持っておられる。しようとする事があられる。私たちには「方策」ではなく、
「信仰」を求めておられる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできませ
ん」主が喜ばれるのは「信仰」だ。信仰を献げよう。

そして、「小さな」ものを用いて下さる。五つのパンと「小さい」魚を二匹だ。
今、新しい歩みに招かれているか。新しい環境、仕事、奉仕・・自分は小さな者だ
と思うなら、主はその「小さな」者をこそ用いられる。

「イエスはパンを取り、小さい魚も同じようにして」主の手に握られる時、大き
な祝福として、主が用いられる。人々は満腹する。一番肝心な事は、その「小さ
な」ものが主の手にあるかどうかだ。

・・・・・・・・・・・・・・・
しばしば、こんな小さなものが何になろうと思う。大きな必要に対して、焼け石
に水だ。あっても無くても同じように感じてしまう。しかし、そうではない。小
さなものを、主が用いて、大きなみわざをされる。主の手の中にある事が肝心だ。


2011年05月14日(土)

「彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み・・私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです」詩篇109:3 




ダビデは、自らの真実な心を向けた相手になじられ、愛するに関わらず、憎悪で
攻撃されるという辛い経験をした。サウル王やアブシャロムによる迫害かと言わ
れている。どんなに苦悩であったろう。愛や真心は必ず通じると思いたいが、そ
うでない場合もあるという事だ。

その場合はどうすれば良いかを、ダビデを通して学ぶ事ができる。誠意と愛をも
って接した人々が、敵対し、歯向かって来る。邪悪な口と、欺きの口と、偽りの
舌をもって、憎しみの言葉で取り囲み、罵り、なじって来る。苦しい状況だ。ま
さに、人間の神に対する態度そのものだ。

しかし、神は、神に敵対する者を更に追いかけ、愛し続け、御子まで殺して下さ
った。その御子を私達はどう扱ったか。神の愛すら通じないのであれば、罪人で
ある人間同士の愛が通じなくとも不思議はない。主は十字架上で、人々の罵りに
対してどうされたか。人々の赦しを、御父に祈られた。

ダビデも同じだ。「私は祈るばかりです」。相手に復讐するのでなく、神に、心
の内の何もかもを赤裸々に打ち明け、神に知って頂くことができる。神に心の内
を叫んだダビデは、この後、賛美と感謝へと変えられて行く。

今、もしこんな苦しみの中にいるなら、答えは「私は祈るばかりです」。神に心
の何もかもを打ち明け、聞いて頂こう。平安に変えられる。

・・・・・・・・・・・・・
苦しみも悲しみも、思い煩いも、人に言えば愚痴になるが、主に言えば、祈りと
なる。心の内の何もかもを、打ち明け、聞いていただこう。今、目の前のその思
い煩いを、心配事を主に告げよう。主が受け止めて下さったとの、平安と安堵に
変えられる。


2011年05月13日(金)

「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」ルカ7:50


一人の女性がいて、「不道徳な女、罪深い女」と言われていた。確かにそのような生活をしていた。しかし、その女性が主イエスに出会い、罪赦され、彼女は大きく変わった。だが、人々の偏見の目は、そのような彼女を認めなかった。ある時、主が、シモンの家に招かれている事を知り、香油のつぼを持って、シモンの家に行った。皆の目は、案の定、軽蔑の目であり、冷ややかであった。しかし、主への愛は押さえきれず、主の後ろへ行き、足もとに立ち、涙で主の足をぬらし、自分の髪でぬぐい、口づけして、香油を塗った。

主の足は、汚れていた。普通なら、客人の足をまずきれいに洗うのが習慣であり、汚れたままであるはずがないことだった。だが、それを見た人々は、顔をしかめた。しかし、主は女性の愛を、心を受け取られ、彼女に「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言され、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」との言葉をかけられた。

「安心して行きなさい」何と幸いな言葉だろう。何の恐れも心配も無い、いっさい無い、安心しなさい。何という安堵だろう。もし、罪を持ったままなら、傷があるままなら、どうして安心などできるだろう。すべての罪が赦され、傷が癒されたなら、心底の安堵が隅々にまで広がる。あなたにはこの安心があるだろうか。
あなたにも「安心して行きなさい」と語って下さっている。
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誰よりも多く罪を赦されたと感じ、誰よりも多く愛されていると自覚できるのは何と幸いな事だろう。世界中でただ一人であるかのように私を愛してくれている主を私も心を尽し愛して行きたい。


2011年05月12日(木)

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」マルコ5:34


12年もの間、長血を患っていた女性がいた。その間、多くの医者にかかったが直らず、財産を使い果たしていた。長い間、日々どんなに恐れと不安にさいなまれ、苦しみと辛さの中にいた事だろう。必死に、懸命にあれこれと努力し、やってみた事だろう。しかし「何のかいもなく」、努力の成果なく「悪くなる一方」であった。更に悪化し、すべての道が閉ざされ、絶望だった。

そんな時に主イエスの事を聞いた。必死な思いであり、着物にでも触ればきっと直ると信じ、主の着物に触った。すると触った途端、癒された。主は「だれが触ったのか」と触った人物を捜された。人の心の中まで見抜かれる主は、誰が触ったのか、聞くまでもなくご存じであったろう。しかし女性のために、女性が主ご自身と接触するようにされた。

そのまま帰ってしまえば、身体は癒えたが、残りの人生、主と何の関係も無く生きて行くことになる。すると彼女は「ひれ伏し」「イエスに真実を余すところなく打ち明けた」。「安心して帰りなさい」との宣言を受け、12年間の苦しみ、悲しみ、傷、痛みが癒された。「すこやかでいなさい」心身癒され救いを受けた。

「安心して」何という心身貫く安堵だろう。私たちも主に自分の気持ち、悩み、苦しみを「余すところなく」隠さずに打ち明けよう。主は癒して下さる。又、主は一刻を争うヤイロの娘へと向かう途上に、女性に対応された。熱心に一途に主を求める魂を、主は必ず顧みて下さる。
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病が癒されるだけが救いではなく、主に委ね頼る信仰が与えられたから、どんな中でも今のままで幸せですと心の内から喜ぶことが出来る。主との交わりを感謝し、今日もすこやかに過ごそう。


2011年05月10日(火)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5  



ある人が、祈りに祈り、導きを確信して、神学校に入学した。経済的必要は、主が必ず与えて下さると確信しての、入学だった。最初は貯えで間に合っていたが、様々な思いもよらぬ不意の入り用があり、途中で、貯えが尽きてしまった。次の学年に進級する時に、とうとう授業料も払えなくなった。やむを得ずの退学になってしまう。必要のために必死に祈り続けた。祈ったが与えられず、奨学金の道も開かれなかった。

「導きを信じて、遠くから来たのに、なぜ?与えて下さい」と、尚も祈ったが、与えられなかった。祈りに祈った結果なので、これが神の御心と受け止め、引き揚げようと思った。もう何のすべもなく、自分自身も将来も明け渡して、今後の事も主に委ねた。すると、それまで不安や、いら立ちや様々な思いでいっぱいだったが、その時、心がすうっーと、なぎになり、平安になった。そして、そのすぐ後だった。自分宛に無名の献金が届いている事を知らされた。

授業料と生活費に必要な額だった。その事を通して、その人は教えられた。祈る事は祈るのだが、自分の力で、御心を行なおうとしていた。委ねる意味も頭でしか、わかってはいなかった。窮地の取り扱いを通して、初めて委ねることの意味、実際を知った。今、あなたにも委ねる事を教えて下さっているだろうか。
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窮地の場で祈っていても、ただ思い通りに自分を守ろうと祈っているのかもしれない。神様は気づかせて下さる。自分の方法や策を捨て明け渡し、へりくだり、お任せしよう。主が成し遂げてくださる。


2011年05月09日(金)

「あなたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36




アブラムは、子孫が天の星のようになると、主に告げられ、その約束を信じていた。しかし、幾ら年月を経ても、なかなか成就しない。当時は、夫婦に子供が無い場合は、召使いにより跡継ぎを得ることが普通であった。そのため、子供が得られない状況に、この慣習にならってサラが提案した。主が産めないようにしておられるのだから、女奴隷によって子供を持とうと。

アブラムは自分の言い出した事でなく、サライの申し出という事もあり、女奴隷ハガルにもとに入った。しかし、重大な事は、この時アブラムは祈らず、主の御心を求めなかった事だ。サラの言葉により、自分の思いで、肉で行動してしまった。肉は、一見良い考えに見えるが、必ず大きな問題を引き起こす。ハガルは、子供のないサラを見下すようになった。ハガルはイシマエルを産んだ。

イシマエルはアラブ人の先祖となり、今日のパレスチナ紛争に至っている。アブラムが肉の判断によって、良かれと行なった肉の行動は後々まで大きなトラブルとなった。アブラムが100歳の時に、肉が、人間的力が絶えた時に、イサクが与えられた。今、あなたの状況はどうだろう。神の約束を待てず、自分で動くなら、イシマエルを産み出す事を覚えよう。肉の知恵と肉の力で動かず、神が動かれる時を、約束を忍耐して待ち続けよう。
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神様の約束を忍耐して待つことは、本当に難しい。弱い自分が肉で右往左往してしまう。神様に委ね、期待し待つことができるよう祈り、一番良い時に良いものを与えて下さる日まで忍耐を学ぼう。


2011年05月08日(日)

「ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので」創世記32:25

ヤコブは父と兄を欺き、兄の祝福を横取りし、兄は激怒。家におれなくなり、叔
父ラバンのもとへ逃亡するはめになる。ラバンのもとで神からの厳しい苦しい訓
練を受ける。結婚の事で欺かれ、辛い重労働に従事し、やがて二十年を経て、神
の時が来た。主から帰郷を告げられた。

兄エサウとの再会は、どんなに恐怖であり、不安であり思い煩いであったろう。
兄が、四百人を引き連れて来ると聞き、皆殺しにされるのでは、恐怖が身体を貫
く。贈り物でなだめようと画策し、知恵を巡らせ、あらゆる手を打つ。しもべ達
や家族を先に進ませ、自分は一番後にとセッティグした。

出来る事は何もかもし尽くしたが、しかし、恐怖と不安がどうにもならなかった。
ヤコブを通して見る事ができる。人間の恐怖や、不安は、人の知恵と力によって
は、どうにもならないものだという事を。

何としてでも、策を練り上げて、必死に自分で自分を守ろうとしたヤコブに、神
が臨まれた。一人残ったヤコブに神の方から格闘された。神が勝てないほどの、
余りにも強いヤコブに、そのもものつがいを打たれた。ラバンの家での苦しみに
も、尚も砕かれない、頑なな自我を砕かれた。

エサウが襲って来ても、足で逃げる事が不可能になった。とうとう神に全面的に
拠りすがるほか、すべが無かった。まさに、これこそがヤコブの祝福であり勝利
であった。恐れと不安が消えたヤコブは、自らが先頭に立って、エサウと再会し
た。最後尾で怯えて震えていたヤコブが、全く変えられてしまった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
砕かれたヤコブは、自由になり、平安になり、恐れが消えた。自分もヤコブであ
り、自由にするために、主が立ちはだかって下さる。目の前に様々な事態が送ら
れて来る。砕きのためと焦点を当てると、主が見えて、平安が臨む。


2011年05月07日(土)

「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11

「神は何もしてくれない」と思っているだろうか。もしそうなら、それは私たち
が求めないからだと、御言葉は言う。「あなたがたのものにならないのは、あな
たがたが願わないからです」。神は求めに答えて下さるお方だ。「願え」と言わ
れている。「求めなさい。そうすれば与えられます」。

求めを喜ばれ、求めを待っておられる。私たちは求める必要がある。水道管に水
は満ちているが、蛇口をひねらなければ水は出ない。求める事は、蛇口をひねる
事だ。そして、求めて、与えられる時に、私たちは喜びが満ちるからだ。

しかし同時に、覚えるべき事は、神は私たちが求めたものを、その通りに与えら
れるとは限らない。小さな子が、料理する母親を見て、包丁をねだっても与えな
いし、又、配慮無く、高価な物を与えたりしない。調理出来る年齢に包丁を与え、
ふさわしい時期に高価な物を与える。親は、子供にとっての最善を考えて与える。

天の御父も同様だ。願った通りのものではなく、「良いもの」を与えて下さる。
「良いもの」だ。神は私たちよりも、私たちにとって、良いものをご存じだ。そ
のため、祈った結果、来たものをことごとく感謝することが祝福だ。神が下さる
ものは、常に「良いもの」、最善のものだからだ。

「求めなさい」には、「求め続けよ」の意味がある。すぐに答えが無いからと諦
めないで、祈り続けよう。忍耐持って祈る中で、心を探られ、動機を探られ、信
仰を探られ、神の御心にかなう祈りへと、祈りを軌道修正し、祈りを訓練して下
さる。

軌道修正された祈りを献げて行く時、御心にかなった祈りは100%叶えられる
ので、まだ見てはいないが、すでにその願いは叶えられた事になる。

・・・・・・・・・・・・・・
しばしば自分の思いと神のみ思いが違う。自分はこれが良いと思うが、主が下さ
るものは、遙かに良いものだ。ベストだ。自分の思いの中にいるなら、それが見
えずに不満と思い煩いばかりになる。自分視点から神視点に変えて待ち望もう。


2011年05月06日(金)

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」詩編119:130


ある人が、苦しい、厳しい状況に遭遇した。苦しい日々に、聖書を開く事も、祈る事も出来なかった。神がいる事はわかるが、自分は祝福されていないと思っていた。他の人々が幸福そうに見えて仕方無かった。心が滅入り、落ち込んだ。しかし、そんな中で、信仰にある人々が、あちこちからメールや手紙や声かけで、御言葉で励ましてくれた。

後で思えば、辛く苦しい中も、周囲が与えてくれた御言葉で生かされていた。感謝でならなかった。あの人やこの人が、同一の御言葉を贈ってくれた事に、主の強い御心を感じ取れた。この非常な試みの時に、御言葉が命であり、力であり、御言葉いよって生かされる事を初めて経験した。

ある人も、心身消耗しきる、非常に厳しい試練の中で、もう心身弱り果て、考える事もできず、祈る事もできなかった。気力も失せ、何もどうにもならなかった。しかし、心は沈む一方で、聖書を読む事もできず、御言葉を見ていた。ただ、見ていたという状態だった。しかし、驚くべき事に、その見ていた御言葉が、光を放ち、心にピッタリとはまり、自分の心の何もかもをご存じのように、解き明かされて行った。

今の状況が、腑に落ちたのだった。御言葉に御霊の光が注ぐ時、御言葉の意味がわかり、御霊は、御言葉と状況を一つにして今、起きている事を解き明かして下さる。その時、状況は厳しいが、心には喜びと賛美が来る。
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霊的に光のないところを歩む事もあるが、主の私達に対するご愛には何の変わりもない。私達が交わりを求めていなくても、御ことばが臨むとき、心に喜びと力がよみがえる。主の御側が一番の平安だと悟れる。


2011年05月05日(木)

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18:12


御言葉には、助言を聞く事について出て来る。自分は高慢かどうかを量れる事柄がある。それは、人の助言に耳を傾けられるかどうかだ。へりくだっている人の特徴は、誰からでも、教えを受ける事ができ、他者の意見を聞くことができるということだ。プライドがあると、人の言う事は決して聞けない。自分が正しいと思っているので、聞く耳はない。

又、高慢であれば、常に人と比較し、人と競争するので、絶対に自分の弱みは見せられない、見せたくない。どこまでも強い自分でありたいので、弱みを知られたくない。自分の弱点には触れさせまいとする。だから真からの交わりができない。本当の姿は見られたくないので、当たり障りのない、表面上の会話しかできなくなってしまう。弱みを隠したままでは、うわべの対人関係しか持てない。

しかし、まず主は、弱いままの、あるがままの私たちを愛し、すでに受け入れて下さっている。弱いまま受け入れられており、強くなる必要がない。しかし、自分のプライドが、自らの弱さを認めたくない。余りにも惨めで認められない。しかし、プライドを砕いてへりくだる時、自分が解き放たれる。弱いままで良いとは何と自由だろう。弱さを隠す必要がないので、対人関係が楽しくなり、生きる事が喜びとなる。人からの助言が素直に聞けるようになる。
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あるがままで、弱い自分をそのままで神の前にも人の前にも立っていたい。自己満足や高ぶりが、神と自分との関係やみことばとの調和を阻んでしまう。素直にありのまま、すこやかに生きよう。


2011年05月04日(水)

「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」ヨシュア3:5


今、あなたの前に、とうとうと流れるヨルダン川が、又、難攻不落のエリコの城壁が立ちはだかっているか。大きな難問題に悩まされているだろうか。神は解決へと導いて下さる。まず、「身をきよめよ」と言われる。御前に静まり、御霊に心を探って頂いて、御心にかなわない罪を悔い改めよう。

自分の思い通りにしたい頑固な意志、根深い赦さない心、不従順な心・・御霊に示されるままに、まず神に告白しよう。エリコと戦うために不思議な方法を神は示された。町の回りを1度回り、7日目は7度回り、ときの声を上げる。変わった不思議な方法だ。

しかし、民がその言われる通りに、ただその通りに従った時に、エリコの城壁は崩れ落ちた。いっさい人間的な力ではなく、何の関与も無かった。神の御力であり、神の一方的な奇跡であった。神の御声を聞いて、神の示される事に、その通りに従った結果、奇跡が起きた。

同様にするなら、あなたの前に立ちふさがっている、難題の城壁が崩れ落ちるのを見る。今、まず主の御前に静まろう。よく交わり、御霊に心をよく探って頂こう。悔い改めを示されている事柄は無いか。身をきよめて下さる。そして、御声に耳を傾け、指示を待ち、どのようであれ示される通りに従おう。その時、不思議をして下さる。
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何か事を行おうとする時、そこに自分の肉の聖くない何らかの思いがないか、主にだけ頼り、完全に主のご計画だけが成るよう、よく自分を吟味しよう。悔い改めや明け渡しを祈り、主の栄光だけを見つめて進もう。


2011年05月03日(火)

「このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ」創世記21:11




女奴隷ハガルから生まれたイシマエルが、イサクをからかっているのを見たサラ
は、「このはしためを、その子を追い出してください。このはしための子はわた
しの子イサクといっしょに、跡取りになるべきではありません」とアブラハムに
言った。

サラの嫉妬から出た言葉であったが、言い分は正当であった。しかし、イシマエ
ルもまた自分の実子であり、愛する息子であり、アブラハムは非常に苦悩した。
どうすれば良いのか。イシマエルを追い出す事は忍びない。苦しい状況だ。主の
みこころは何であり、どうする事が正しいのか、主に求めたろう。

「すると、神はアブラハムに仰せられた」主は答えを下さった。悩んではならな
い。サラが言う通りに聞き入れるようにと。しかし、イシマエルも、一つの国民
とする。あなたの子なのだからと。主からの、明確な示しがあったので、アブラ
ハムは従うことができた。

翌朝早く、パンと水の皮袋をハガルに与え、イシマエルと共に送り出した。荒野
をさまよい歩き、水が尽きた時、ハガルは子供が死ぬのを見たくないと、離れて
座り、声を上げて泣いた。しかし、神の使いから「あの子を大いなる国民とす
る」との励ましを受け、神により目が開かれると、ハガルはそこに井戸を見つけ
た。

「神が少年と共におられたので、彼は成長し」、神はイシマエルをも顧みられた。
悩みの時は、判断を主に求め、従おう。主は御心を示し、導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
どちらに動いたとしても、心が揺れて、どうしてよいかわからない時、主に祈り
求めよう。主はどうすればよいかを教えて下さる。そして、主から示しがある時、
確信もって、平安もって行動して行ける。主の御心が成される。悩んだ時は、ま
ずまず主を求めよう。


2011年05月02日(月)

「きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますように。あなたの判断が、ほめたたえられるように・・復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように」Tサムエル25:33


ダビデと部下は、ナバルのしもべ達に良くしていた。そこで祝いの時、ナバルに
手元にある物を与えてくれるよう申し出た。しかし、ナバルはそれを侮辱で返し
た。それでダビデは怒り、皆殺しにするために出陣した。

それを知った若者が、ナバルの妻アビガイルに、即、対処するように伝えた。聞
いたアビガイルは急ぎ、パン、ぶどう酒等、多大なる贈り物を用意して、ダビデ
のもとに詫びに出た。事態を悟った彼女の速やかな行動は、ダビデの報復をとど
める事となった。

時に、的確な判断と速やかな行動が必要だ。即、行動しなければ、手遅れになる。
アビガイルは聡明であった。その聡明さは率直に詫びた事にも表れる。ダビデを
見るや、地に伏して「このはしためのそむきの罪をお赦し下さい」と謝罪した。

夫のせいにせず、へりくだって、妻としての責任を認めた。そして、無駄に血を
流さないよう、感情的になり復讐して、つまづきにならないようにと進言した。
神の祝福を失ってしまうと。神を畏れるダビデは、そこで我に返った。アビガイ
ルは信仰によって事を行ない、彼女を通して、ダビデの復讐を止められたのは、
神であった。

彼女の言葉に耳を傾けたダビデもまた聡明であった。自制心を失い、怒りで行動
していたならどうなっていただろう。
目の前の事態に、肉の判断でなく、御霊の的確な判断を祈ろう。そして御霊の導
きがあれば、速やかに行動に移そう。神の栄光を見る。

・・・・・・・・・・・・・・・
逆上し、復讐しようとしていたダビデに、アビガイルを遣わされたのは、主であ
った。ダビデは罪から守られた。主は私たちにも、間違った方向へ向かないよう、
アビガイルを備えて下さっている。耳を傾ける時、大きな間違いから守られる。


2011年05月01日(日)

「私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした・・確信したからである」使徒16:10

        

パウロがアジアで宣教しようとした時、聖霊に止められた。それでビテニヤ方面
へ行こうとすると、又、止められた。そのため残された方角へと、押し出される
ように、トロアスに下った。その時に「マケドニヤへ渡って来て私たちを助けて
下さい」との幻を見た。

この幻を見た時、マケドニヤ行きが主の導きであり、主が招いておられる!と確
信した。パウロは「確信した」ので「ただちに」マケドニアに向かった。ここで
見る事ができる。神は環境を用いて、あちこちと御心でない道を閉じられる。

もしこの聖霊の阻止が無ければ、パウロは御心に反する方向へ向かってしまって
いた。私たちは願った進路が閉ざされる時、落胆する。しかし、落ち込む事は無
い。それは神があなたのために、遙かに素晴らしい、ふさわしい道を備えておら
れるという事だから。

又、「確信」は大切だ。御心を求める中で、祈り続けるなら、主は、御言葉、平
安、環境を通して「確信」を与えて下さる。自分の願望を遂げるために、神の後
押しを求めるなら、与えられないが、従う心があるなら、主は必ず導いて下さる。

そして、確信が来たなら「ただちに」行動に移そう。この時パウロが「行こうか、
どうしよう、やはり止めようか」とぐずぐずしていたらどうだろう。これはヨー
ロッパ宣教という画期的な重大な計画であった。もし、あなたが御心を確信した
なら、必要な事は「ただちに」実行することだ。

・・・・・・・・・・・・
従おうとする時、主は必ず導いて下さる。門を開き閉じして御心を示される。御
言葉に耳を澄まし、環境を見て、主の導きである確信を祈り求めよう。御心だと
確信したなら、ただちに実行しよう。サタンが必ず阻止しようと働いて来る。