2011年06月30日(木)

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル12:11

鷲の訓練の事をよく耳にするだろう。ひなを翼に乗せて高く上がり、高所からわざと落とす。地面に落下ギリギリ寸前に、親鷲はひなを自分の翼に乗せる。又、高く上り、落とす。この訓練によって、ひなが自力で飛べるようにして行く。同様に、主は私たちの信仰を訓練し、鍛えられる。信仰を少しづつ強め、成長させるためだ。私たちが、悩み、苦しみにぶつかり、必死に叫び祈る。その過程で、もうだめだと思う瞬間、神は翼に乗せて上に引き上げて下さる。

その繰り返しの中で、信仰を用い、信仰の翼は鍛えられ、強くなって行く。段々、問題が来ても対応して行け、御言葉を握って、困難の中でも大空へ舞い上がる。神が様々な訓練の中で信仰を強めて下さっている。信仰が強められるのは、苦しみや困難によってだ。

ある人が、これでもか、これでもかと厳しい試練が度重なった。まさに窮地だった。経済的困窮、親族からの不理解、迫害、仕事の悩み、健康上の問題、まさに四方八方からの圧迫で、もうどん底であり、暗黒の中だった。しかし、後に振り返った時、まさにその時こそが、信仰練られ、自らの信仰の土台が築かれた時だったと。苦しみの中で、夫婦の絆が強められ深められ、一つとされた。家族の一致が与えられた。その時代が無ければ、今の自分は無く、ただただ感謝しかないと。試練は喜ばしいものではなく、悲しいが、「後になると」必ず平安な豊かな実を結ぶ。
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さまざまな困難が前から来る度に、それを祈りに変え、みことばに置き換え背後にいつも共におられる神様を信じて、逃げず受け入れ乗り越える力を神様に求めていこう。


2011年06月29日(水)

「サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた」T歴代21:1


ダビデは、アモン人やペリシテ人との戦いに大勝利した。誘惑は苦しみの時ではなく、大勝利、大成功の後にやって来る。勝利に有頂天になり、油断している時にサタンにやられてしまう。成功の後こそ、心を引き締めていないといけない。ダビデはアモン人を滅ぼし、勝利した時に、バテシバとの姦淫の誘惑に陥った。

そして、今、勝利の後、又、誘惑が臨んだ。人口調査自体は別に罪ではない。ダビデの動機が問題であった。人は成功すると、その原因を自分の中に見つけようとする。仕事に、働きに、戦いに勝利する時、口では、神がと言うが、心では、自分の業績であるかのように、自分を誇ろうとしてしまう。サタンの誘惑だ。

ダビデが行った「剣を使う者」兵力調査は、神を誇るのではなく、軍事力を誇り、自分を誇ろうとする動機であった。兵力に頼り、この軍事力は自分の力だと誇る罪であった。イスラエルの勝利は、どこまでも神の御力、神の祝福によるものだ。軍事力ではなく、ダビデの力でもなかった。

それは傲慢であり、主を頼らない不信仰だ。主はダビデを愛しておられたので、このまま進む事を望まれず、取り扱われた。「私は・・大きな罪を犯しました」ダビデは悔い改めることができた。良きものはすべて上から来る。巧妙に誘惑して来るサタンを見張り、祈っていよう。
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苦しい時は神様を近く呼び続けるが、山場を越え祝福された後にサタンがやって来て祝福を奪われる経験をする。祝福があったならまず神様に感謝しよう。サタンにつられ肉で歩みはじめないよう気を引き締め祈っていよう。


2011年06月28日(火)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして・・」ピリピ2:6 



信仰を持って、何年たっても、プライドやメンツに生きてしまう。男性は仕事に野心を持ち、高いプライドを持っている。母親は子供によって、自分のプライドを満たそうとする。気づいていたら良いが、無意識の場合も多い。対人関係で敵対心や妬み、争いが起こるのは、双方のプライドとプライドがぶつかるからだ。

サウルは「アマレクを打ち、すべてのものを聖絶せよ」との主の命令に従わなかった。最も良いものを惜しみ、値打ちのないものだけを聖絶した。サムエルにその事を問い詰められると、主にいけにえを献げるためと、言い訳をした。言い訳をするところに、真の悔い改めはない。サウルは王位から退けられた。この時、神に従わなかったという重大な失敗を認め、悔い改めればよかった。

しかし、この時のサウルの心は「私の民と長老とイスラエルとの前で私の面目を立てて下さい」というものであった。彼の重大関心事は自らのメンツであった。私たちにも肉があるので、信仰に立ち、御言葉に立ち、主に焦点を合わせていなければ、体裁、メンツ、プライドが価値判断となってしまう。真逆の方向へ向かってしまう。悔い改めでなく、自分を守り、体面を守るために動いてしまう。ご自身を捨てられご自分を無にされた方に、目を注いでいよう。
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プライドは、御心と真逆を歩ませ、競い争い奪わせる。神なる主が、ご自分を無にされ救われていながら、自分は決して無に等しいと考えていない。いつもそんな自分であることを覚え、認めていたい。


2011年06月27日(月)

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」ルカ10:42    



          
マルタは、主のために忙しく立ち働き、料理の準備をした。マリヤは、主の足もとに座り、御言葉に聞き入っていた。マルタは余りの多忙に疲れて来て、不平不満愚痴が募る。そして、いら立ち、主に、妹に手伝うよう言うようにと指図をする。ここで問題なのは、自分が良いと思う事を、主のためにするのか、主が言われている事に従うのか、という事だ。

マルタは主の喜ばれる事でなく、主が喜ばれるであろうと、「自分が」思う事をした。自分の思いであった。マリヤはただ主の御心に従った。この違いだった。
「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」自分の思いで、いけにえを献げる事は、主の御心からはずれてしまう。この時、主は、まず主の語る言葉に耳を傾ける事を望まれた。

マルタもまず座って、御言葉を聞いて、立ち働くなら、周囲に関係無く、自分は
平安の中で感謝しつつ、主のために働けたであろう。私達はどうだろう。主のために、自分がして差し上げたいと思う事をどんどんしつつ、不平不満で一杯で、疲れ果てていないか。自分の思いと力でしている時は、必ず、していない人に腹を立て、裁く。そうであれば本末転倒であり、何をしているのかわからなくなる。マリヤのように、主が望んでおられる、主のお心に沿う事をして行けるように祈ろう。
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忙しく立ち動いているのに心は、ますます平安がなくなってパニックになる。そんな失敗をよくする。今、一番大切なことは何かを主に尋ねながら事にあたろう。いつも平安で明け渡した歩みへと導かれる。


2011年06月26日(日)

「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」詩編39:9


この詩編記者は、病の中にあり、余りの苦しみに「なぜですか、なぜ自分がこん
な目に、会わなければならないのか」との不満が鬱積していた。しかし、舌で罪
を犯してはいけないと、口に口輪をはめた。

しかし、黙していると、ストレスが更に内攻し、鬱屈し、今にも爆発しそうだっ
た。それを彼は人にでなく、神に向かってぶつけた。心の中の本音を吐き出し、
気持ちを正直にありのまま神に告げた。人生は、はかなく虚しいと。心の内をこ
とごとく吐き出した時、信仰が帰って来たのだ。

この虚しい人生での望みをかけられるのは何かと、見上げた時、その時に、神を
見い出した。「私の望み、それはあなたです」と。そして、本音を神にことごと
く告げた後、私は黙し、口を開かないと言っている。同じ、「口を開きません」
だが、最初の口輪をはめ、ストレスに陥ったのとは異なる。

「あなたがそうなさった」と、神を見い出し、すべてに神の計画がある事を認め、
それを受け入れ、何もかもを神に委ねた。私達も自分の気持ちを、悶々を、本音
をことごとく神に告げて初めて、神の計画を受け入れる事が出来る。

苦しい時、辛い時、心の思いを、何もかも、主に向かってすっかり吐き出そう。
主は受け止め、聞いて下さる。吐き出し切るなら、必ず心に平安が来る。そして
「あなたが、そうなさった」と受け入れる事が出来る。心が変えられる。

・・・・・・・・・・・・・・
様々な出来事が起きる。一つ一つに主の御手を認め、「あなたがそうなったから
です」と受け入れられたら、どんなに幸いであり、平安だろう。そのために、心
の内をことごとく、主に打ち明け、聞いて頂こう。


2011年06月25日(土)

「彼はますます『ダビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び立てた」マ ルコ10:47


バルテマイは、主に向かって「わたしをあわれんでください」と叫び、周囲に阻
止されても、叫び続けた。「わたしに何をしてほしいのか」との主の問いに「目
が見えるようになる事」だと願った。そして、主が目を開けて下さると信じてい
た。そう出来ない対象に、はなから願う事などしない。それを主は「あなたの信
仰」と言われた。

当時は現代のようでなく、盲目である事は、社会生活が極めて困難で、生ける屍
のような存在だった。乞食をして、人から恵んでもらって生きる、どんなに惨め
で哀れで、どんなにプライドが傷ついた事だろう。

しかし、彼は自分の人生に神が必要である事を認め、神の憐れみが無ければ生き
て行けない、惨めで哀れな者である事を認めた。プライドを捨てて、神に「憐れ
みが欲しい」と真正面から求めた。又、大勢の人々が見ている前で求めた。プラ
イドがあれば、憐れみを乞う事などできない。

ある人は、心の底では癒されたいのに、現状の惨めさをどうしても認める事がで
きず、ずっと目をそらせていたと。プライドゆえだったと。人は、なかなか自分
が惨めであることを、認める事ができない。へりくだりがなければできない。主
は求めに応えて、バルテマイを憐れんで下さった。無条件の愛を与えて下さった。

私たちを妨げているのは、プライドだろうか。それを捨てて、主に憐れみを求め
る時、癒しが与えられる。取税人は、自らの胸をたたいて「こんな罪人の私をあ
われんでください」との祈りが聞かれ、義と認められた。

「さあ行きなさい・・」との主の言葉に、見えるようにされ、どこでも好きな所に
行けた彼は、自らの自由意志で、喜んで主について行った。

・・・・・・・・・・・・・・
どんな最悪の状況の中でも、「主よ、あわれんで下さい」が言える。最後の最後
まで、「あわれんで下さい」が残されていて、あわれみにすがる事ができる。自
分が貧しい者であることを認めて、御前に出る時、神に会う事ができる。そして
喜びに満たされる。


2011年06月24日(金)

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」ヘブル11:6

                            
信仰は目には見えない。それは、物理的に耳には聞こえない。触れる事も感じる事も出来ない。日頃、慣れている五感では感じる事の出来ないものだ。私たちは信仰を感じたいと思う。そのため、しばしば、何とか五感で感じようとするが、決して感じることは出来ない。

そうでなく、神の語られた御言葉に立つことが「信仰」であり、五感では感じる事が出来ないが、御言葉に立って、つかむ事ができるものだ。第六の感覚だ。それによって、無いものを有るもののように呼ばれる方のみわざを体験する。そして、信仰が最も働き、大きく成長するのは「不可能」の土壌においてだ。

困難な状況ではなく、絶望的状況、全く可能性ゼロの状況においてだ。あなたも経験あるだろうか。今、可能性ゼロの状況なら感謝しよう。それこそが、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」場所だ。ラザロは死んだ上に、更にもう腐っていた。だめ押しだ。だめ押しのこの現状か、よみがえると言われた主の言葉か、どちらを選択するかだ。

常に目の前の状況か、御言葉か、自らの選択だ。そして、目に見える状況と御言葉が正反対だ。状況は、御言葉を否定するかのようだ。しかし、御言葉を信じるなら、神の奇跡を見る。奇跡が起きるのは、不可能の土壌だ。
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御言葉に立つからこそ、最も暗く絶望の死を前にしても死んでもよみがえると希望をもって今を生きられる。御言葉に立ち、目に見える状況、感情を越えて勝利しよう。


2011年06月23日(木)

「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように」ローマ11:36


    
「神から」発する事が重要だ。神から発するなら、神によって成り、神に至る。そして、神に栄光が帰される。しかし、もし「人から」発するなら、人によって成り、人に至る。神に至る事は決して無く、神に栄光が帰される事もない。目の前の計画は、神の御心により始まったのか、それとも、人の思いで始まったのかは重要だ。人の思い、肉の計画なら神に至る事も、神に栄光を帰される事も無い。

源が神であれば、そのプロセスも神、目的地も神だ。「だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか」私達がまず神に何かを与えて、神から受けるという事はあり得ない。まず私達が何かしたからという事には、いっさいよらない。「すべてのことが神から発し」とあるように、「自分が」祈ったから、事が成ったのではない。自分の功績にはよらない。そうであれば、自分から発し、自分によって成り、自分に栄光が帰される事になる。

そうではなく、どこまでも「神から」発したみこころに、自分の願望や思いを沿わせて行き、自分を変えて行く、それがみこころに沿った祈りだ。人からのものは、成就する事がない。神から発しているかどうかが、非常に大切であり、そうであれば、必ず神ご自身が成就される。
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全ては神から発し、神によって成るのだから、祈りの中で高ぶりや「自分が」の思いを知り捨てていこう。謙遜に神様から与えられる御霊の養分を今日もたっぷり受けとり歩もう。


2011年06月22日(水)

「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」ヨシュア3:5



ヨシュアと民の前に、ヨルダン川の水がとうとうと流れ、溢れ返っていた。今、あなたの前に、ヨルダン川が、エリコの城壁が、大きな問題が、障害が立ちはだかっているだろうか。神はその問題を導いて下さる。まず、身をきよめよと言われる。身をきよめるとは、御霊に、よく心を探って頂いて、神の御心にかなわない罪を悔い改める事だ。

思い通りにしたい頑なな意志、赦そうとしない心、従おうとしない態度・・御霊に導かれるままに、まず神に告白しよう。エリコ攻略のために、主は不思議な方法を示された。町の回りを1度回り、7日目は7度回り、ときの声を上げる。不思議な方法だ。しかし、民がその通りに、言われた通りに、ただ従順に従った時、エリコの城壁は崩れ落ちた。人間の入る余地、人間的な力はいっさい無かった。

神の御力であり、神の奇跡であった。神に祈り、御声を聞いて、神の示される事に、その通りに、言われた通りに従うことだ。あなたの前にそびえ立っている、問題の城壁が崩れ落ちるのを見る。今、御霊に心を探って頂こう。身をきよめ、そして、御声に耳を傾け、従うべきみこころに従おう。何より従う事が大切だ。
その時、目の前の問題に、神が働かれ、神のみわざを見る。
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解決に神が働かれることをただ信じて、祈り続けよう。不思議な方法で神は事を成して下さる。御声がさやかに聞こえるよう、妨げている罪はないだろうか。悔い改め信じ従えますように。


2011年06月21日(火)

「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから」Uサムエル16:11


人が、自らの非を認めること、悔い改めることは、非常に難しい。罪の性質があり、プライドが妨げる。御霊の導きがなければできない。私たちは、自分が誤っていると思わないし、決して認めない。自分の行動を肯定して生きている。間違いを認める事、非常に痛い事なので、言い訳を探し、自己正当化する。

又、ごまかしてしまい、神に向き、自分に向き合う事をしない。逃げてしまう。ダビデ王が、息子アブシャロムの謀反に会い、逃げる時、シムイがダビデに石を投げつけ、呪った。家来たちがシムイの首を跳ねましょうと言った時、その非難は、罪を犯した自分に対してのものであるから、呪わせよと命じた。いっさいを主に委ねて「主は私の心をご覧になり、今日の彼の呪いに代えて、私に幸せを報いてくださる」と言っている。

ダビデは自分の罪をはっきりと認めた。そして、罪の結果である刈り取りを受け入れている。蒔いたものは、必ず刈り取る。これに例外は無い。私たちは、自分が蒔いたものを刈り取る。罪は完全に赦されるが、刈り取りはして行く事になる。非常に痛く辛い。

しかし、神の刈り取りを受け入れ、従って行く事こそ、一番の祝福の道だ。ダビデは神の御前に悔い改めたので、神との関係が、正しかった。それゆえ心は平安であった。神との関係が正しかったからこそ、自分への非難や攻撃も受け止める事ができた。神と自分の正しい関係が第一だ。その時、みこころを行なって行ける。
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神との関係を取り戻し、神の御心の中心に戻れたことが何より平安の源だ。刈り取りの辛さの中にも神は共にいて下さる。自分の間違いを謙遜に認める事からはじめよう。


2011年06月20日(月)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7


私達はとにかく心配する。目の前のあの事、この事、少し先の事、ずっと先の事・・まだ起こっていない事を、あれやこれや思い煩い、次々と心配の種は尽きない。しかし、状況から目を転じて、神に視線を向けるならどうだろう。神は出エジプト時の、前は海、後ろからはパロの追っ手の絶体絶命の時に、海を二つに分け、海の中に道をつけられた。

何も無い荒野では、天からマナを降らせ、岩から水を出された。行く手を阻む、ヨルダン川の水をせき止め、難攻不落のエリコの城壁を崩された。あの絶対的なバビロンを倒され、不滅と言われたローマ帝国も倒された。不可能は一つもない、その神が、あなたの事を心配して下さっている。何もいっさい思い煩うなと言われる。なぜ、あれこれいつも思い煩うのだろう。

問題が、問題なのではなく、その中で神を信頼しない事が、問題だ。目の前の困難を、繰り返し繰り返し煩い続け、問題のとりことなり、小さな問題をモンスターにしてしまう。自分で巨大な手に負えないものとしている。繰り返し、繰り返し、神を思い、見続けるなら、どんなに良いだろう。

今一度、目の前の問題をも支配されている神を覚えよう。そして「いっさい神にゆだねなさい」に従おう。受け取って下さる神に、その問題を、自分自身を神に明け渡そう。出来ないならそうできるように、祈ろう。
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なぜ思い煩うのだろう。平安がなくなり心が暗くなる時は、不安にさえぎられ神様が見えていない。すべての先を知って今を置いていて下さっている神様に、心配事を残らず告げて、平安を受けとろう。


2011年06月19日(日)

「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見 分ける感覚を訓練された人たちの物です」へブル5:14


私たち信仰者にとっても、自分の願いが叶うことは、嬉しい事であり心地よい。
願い通りのものが与えられるなら、どんなに幸せだろう。私たちも、辛い、苦し
い事態は避けたいし、逃げたい、好きではない。自らの思い通りの事柄は大歓迎
で、大喜びで、思いと異なる事柄はどうしても受け入れ難い。

しかし、その思い通りでない事態により、私たちは成長する。練られ、鍛えられ、
きよめられる。振り返る時、どうにもできない状況の中で、心の底から神を叫び
求めたのではないか。神に求め、拠りすがる事によって、一歩一歩成長して来た。

もし、私たちが成長を望むなら、痛い事、苦しい事を逃げるな、避けるな、だ。
それによって、「良い物と悪い物を、見分ける感覚を訓練される」のだから。苦
しみの中で、あがき求める中で、御霊からのもの、悪魔からの誘惑、肉から湧き
上がる思い、これらのものが少しづつクリアにされて行く。

今までわからなかったものが鮮明に見えて来る。頭の理解でなく、「経験によっ
て」だ。あくまでも、経験を通してであり、経験が必要だ。経験が積み重ねられ
る中で、識別力が培われる。

様々な苦しみを通りながら、見分ける感覚が訓練されて、研がれて行く。もし、
霊的成長を願うなら困難から逃げてはならない。様々な「経験」は、霊的宝とな
る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
試練は苦しく、しんどいが、その中で様々な事を考える。御言葉は何と言ってい
るのか、主はどんなお方か、自分の内側が照らし出され、今までを振りかえる。
何を教えようとされているのか、真剣に考え求める。そんな中で霊的に訓練され
鍛えられる。


2011年06月18日(土)

「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Tテモテ6:6

貪欲とは、底無しの欲望だ。これで充分という事がない。持てば持つほど、更に
渇いて、もっと欲しくなる。貪欲はどこまで行っても、これで良いという事がな
く、悲惨だ。絶えず欲求不満状態だ。貪欲に陥っていないだろうか。

神が充分必要を与えて下さっているのに、いつも不満だらけで、何の感謝も無い。
そこには喜びも平安も無い。不満は、神が与えて下さっている祝福や恵みも全く
見えなくしてしまう。
そして、その不満は、人との比較から来る。比較すると、隣の人が羨ましくて仕
方がない。自分がみすぼらしく、惨めに見える。劣等感に陥り、更に心暗くなり、
落ち込む。

自分に無いものを持つ人を妬むようになる。人ばかりが良く見えて、自分に与え
られているものが全く見えない。主の祝福が何も見えず、又、認める事もしない
ので、せっかくの神様の恵みを台無しにしてしまう。人と比較して、自分はダメ
だと思っているなら、人から目を離し、神に目を向けよう。

神を見る時、どんなに多くのものが与えられているかに、気づかせられる。与え
られている一つ一つのものを感謝して行く時、神が与えて下さったものを大切に
できる。そして、神に信頼を置いて行くので、状況に振り回されず、心は平安だ。

私たちに起きる一つ一つの事は、神の御心による事であり、ご計画と意図があり、
自分に必要だから起きている。そこに主を認め、信じて行く時、すべての事につ
いて感謝できて、満ち足りる事ができる。

・・・・・・・・・・・・・・・
どんなに大変な状況の中でも、主を見上げ、主に委ねる時に、すっぽりと、主の
平安の中に入れられ、平安に包まれる事を経験する。状況は変わらないのに、自
分の心はまるで平安だ。心満ち足りている。


2011年06月17日(金)

「あなたに何を与えようか。願え・・善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください」T列王3:5


神はソロモンに、何でも与えるから、何が欲しいか、願えと言われた。その時に、民をさばくために善悪を判断できて、聞き分ける心を求めた。その求めは神の御心にかない、知恵と判断力を与えられた。それだけでなく、同時に富と誉れをも与えられた。ソロモンの願いが叶えられたのは、自己中心な欲望を求めたのではなく、神の御心にそっていたからだった。

「神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、これらのものはすべて与えられる」との御言葉の通りだ。自己中心でなく、神の心にそった求めは叶えられる。御心にそった求めができたのは、ソロモンが主を愛し、主を礼拝していたからだ。神を愛し、従おうとの心がある時、神の心にそった求めをして行く。

なぜなら、神を愛しているので、平素からの、主との地道な親しい交わりの積み重ねの中で、主のお心がわかって行く。そして、神の心にかなった願いは、必ず叶えられる。すぐ後に、二人の遊女がソロモンのもとに訴えて来た。どちらもが、子供を自分の子供だと主張した。ソロモンは、神からの素晴らしい知恵をもって、真の母親を言い当てた。

ソロモンの裁きは、神の知恵によって行われた。まさに彼に神の知恵が宿った事が証明された。私たちにも、「願え」と言われるなら、あなたは何を願うだろうか。
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神の御心の前に、自分の願いがあれやこれやと前に出る。感謝を持って、まず神の国とその義を先に祈り求めたい。必要なものはみな与えられるのだから。


2011年06月16日(木)

「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった」創世記19:26


余りにも堕落したソドムとゴモラを主は滅ぼそうとされた。アブラハムの執り成しにより、ロトと家族を救い出すために、御使いが使わされた。御使いはロトに家族を連れて逃げるようにと告げた。しかし、娘婿は冗談だと思い、信じなかった。一刻を争うので、妻と娘たちを連れて逃げるようにと促され、その時に「うしろを振り返ってはいけない」と言われた。しかし、ロトの妻は振り返った。

のために塩の柱になった。単に振り返っただけで、何で、塩の柱に?と思うかもしれない。しかしその事は、ロトの妻の本性を明らかにした。御使いは、はっきりと「うしろを振り返るな」と言った。しかし、彼女は従わなかった。従う事を拒否したのであり、神への不従順であった。そして、又、彼女はこの世への未練があり、後ろ髪を引かれた。愛情がそこにあり、世のものに執着した。心がそこにあり、宝があった。心がそこにあったので振り返った。

私たちはどうだろう。心の奥底では何を愛しているのだろう。又、過去の失敗や傷に執着していて、自己憐憫や不満で、あるいは赦せない思いで、後ろを振り返るばかりだろうか。振り返り続けているだろうか。主がそこから前に進ませようとして下さっている。振り返らないで、脱出し、主を見上げて前進しよう。
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捕らわれ強く執着させるものがあるなら、それを明らかにされ、主に渡せるよう祈ろう。目に見える過去の残像が偶像となり、主の用意してくださっている素晴らしい明日への望みを忘れさせてしまう。


2011年06月15日(水)

「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10


信仰生活で、様々な事態を経験する。対人関係のトラブル、経済的危機、健康の問題、別離、仕事の悩み・・色々な悩み、困難が目の前に起きる。しかし、どんな問題であれ、御父の許しなしに、起こる事は一つもない。それが自分の罪のゆえであっても、サタンのしわざであっても、御父の許しの中だ。

私たちには、誰一人例外なく、主からの試練が臨む。試練とはテストだ。神は私たちをテストされる。「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主」とあるように、主は私たちを試される。それは、訓練し鍛え忍耐を与えるためだ。
順境の時にはわからないが、試練の時にその人の本性が表れ出る。苦しみに会った時に、本当の姿がわかる。

もし、自分の都合優先の信仰なら、そこで従う事を止める。しんどい目をしてまで、従って行くメリットは無い。ご利益が無いなら意味が無い。又、自分の思いが強ければ、思い通りでない事態に、反抗的になり、不平不満で一杯になる。本音が出て来る。自分が第一だ。普段、何も無い時には、自分の内側にあるものに気づいていない。

試練はそんな内側を明らかにし、本当の姿を見せてくれる。それは、私たちの成長のため、祝福のためだ。本当の姿を見ない限り、前進も成長も無い。自分の真の姿を認め、悔い改めて行く時、きよめられ成長して行く。
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起こる出来事を通して自分のわからなかった内面が表に出てくる。本当の姿は醜くて、自己中心であきれるばかりだ。それを主に告げ、どうか変えられますようにと祈ろう。その繰り返しを神様は祝して下さる。


2011年06月14日(火)

「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」ヨハネ21:17


ある人がデボーションをしようとし、御前に静まっていると、過去のひどい失敗、人を傷つけてしまった事が思い起こされた。すでに悔い改めてはいたが、心が痛んで仕方なかった。すると、丁度その日の、聖書日課の箇所が、主によるペテロの回復の箇所だった。一度ならず、三度も、主を否んで、裏切ってしまったペテロは、どんなに恥ずかしく、心痛めていたことだろう。

主は、3回ペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と問われて、ペテロに答えさせられた。そして「わたしの羊を飼うように」と。主はペテロに赦されていること、愛されていることを確かなものとして下さった。「なぜ、わたしを裏切ったのか」と責めておられず、ただ「わたしを愛しますか」と言われた。その言葉が、自分にも語りかけられて来て、慰めを受け、心平安にされた。

時に、私たちは、恥ずかしい失敗をする。ひどく落ち込み、もうダメだと思う。しかし、主は、成功、失敗は問われない。いつの場合も「わたしを愛しますか」と、これだけを問われる。ペテロは「あなたはいっさいのことをご存じです」と自分自身を委ねた。主は、あなたの軽率な失敗もご存じだ。そして、すべてを知っていて下さる主に、自分自身を委ねたらよい。任せる事ができるとは、何という平安だろう。
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やってしまった失敗から、再び信じ任せられる主を見上げられるとは何と幸いだろう。打ちのめされ、落ち込むのではなく、すべてをご存知の主に身を任せ、主と共に生きる道があるから。


2011年06月13日(月)

「山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない」ヨシュア17:18

ヨセフには、マナセとエフライム二人の息子がいた。ヤコブはこの孫たちに特別な祝福を与えた。ヨセフ族はマナセ族とエフライム族とに分けられ、特別な地域、そして広大な地域を割り当てられた。それなのにヨセフ族は不満で、ヨシュアに文句を言った。数の多い民になったので、もっと多くの土地を欲しいと思ったようだ。ここに見るように、豊かに恵まれているのに、満足できないで、もっと、もっと、と更に欲しくて、いつも不平不満を言う人々がいる。

その事にヨシュアは、数が多いなら、力もあるのだから、自分達で出て行って、新しい土地を切り開くようにと言う。すると「山地を切り開くのはしんどいから嫌だ、谷間はカナン人が住んでいて、鉄の戦車を持っているからだめだ、できない」と、うだうだと言い、嫌な事、しんどい事はせずに、ただもらう事ばかりを考えている。

それに対して、ヨシュアは、数が多くて、力があるのだから、山地をどんどん切り開いて行け。カナン人が鉄の戦車を持っているのであれば、あなたがたは戦い、追い払えと言った。私たちはどうだろう。何もしないで、文句と不満タラタラの生活だろうか。神が共におられるので、山地もあなたのものとせよ、と言っておられる。神が「せよ」と言われる事が目の前にあるだろうか。その事に一歩従う時、前に進める。主は更なる霊的祝福へと導き入れて下さる。
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同じ与えられた一日だ。「せよ」と示されていることがあることはなんと感謝なことか。足ぶみばかりしているなら、もっと能動的に動きだそう。一歩踏み出そう。


2011年06月12日(日)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を 身に着けなさい」エペソ6:11



心にネガティブな、歪んだ思いが、降って湧いたように起こる経験をする。それ
は、サタンが思いに吹き込んだ火矢だ。自分の肉から湧き上がった思いでなく、
外部から、サタンに吹き込まれた思いだ。よく見張って見分けよう。

ある人が、少しでも証しできればと、職場の人と近づきになりたいと思った。食
事でもと声をかけるが、全く乗って来る気配がない。素っ気ない感じで、こちら
は親しくなりたいと思っているのに、相手はそうでもなさそうだ。

段々、ネガティブな思いが沸々と心に湧いて来る。自分の事が嫌いなのでは?も
しかして避けられているのでは?何だかどんどん疑心暗鬼になって来る。そうい
う目で見ると、一つ一つの言動や行動がそのように見えて来る。それなら、こち
らも無理に親しくなる事はないと、心を閉じそうになる。

そんな時、残業の後、一緒にお茶をする機会があった。すると、相手は極めて好
意的で、ざっくばらんに互いの事を話し合え、楽しい交流であった。サタンだと
気づかされた。ある事を無い事に、無い事をある事とするサタンの策略。事実で
はない、ネガティブな「妄想」を吹き込んで来る。

あたかも事実であるように信じさせられてしまう。疑いや不信感には要注意だ。
サタンを見張っていよう。サタンがかんでいる。祈りがある時、気づくことがで
きる。サタンを識別できるように祈っていよう。

・・・・・・・・・・・・・・
無い事をある事のように、事実ではない妄想を吹き込んで来る敵が存在する。受
け入れて行くと妄想はどんどん膨らんで来る。ネガティブな思いの背後にサタン
が働いている。御霊が気づかせて下さる。策略を持って来る敵をわきまえ、今日
も祈っていよう。


2011年06月11日(土)

「主は、『見よ。彼は荷物の間に隠れている』と言われた」Tサムエル10:2 2


イスラエルの民は、他国のように、自分たちも王が欲しいと訴えた。主は、「彼
らを治めているこのわたしを退けた」と指摘。サムエルの警告に関わらず、強い
民の求めに、神はサウルを王として与えられた。
主の霊が下され、当初、サウルは主に従い、素晴らしく用いられていた。しかし、
徐々に保身、自らのメンツ、自分の栄光へと、道をはずして行ってしまった。サ
ウルの生涯から様々学べる。

父の雌ロバを探す箇所で、サムエルの事を知らず、霊的な事柄に疎かったようだ
が、しかし、最初は良かった。一国の王が選ばれたその時、荷物の間に隠れて
いた。皆より、肩から上だけ脊の高いサウルが、その大きな身体をかがめて隠れ
た。
「私はイスラエル部族のうちの最も小さいベニヤミン人・・つまらないもの、どう
してこのような事を言われるのですか」と言ったサウルは、自分は小さな者であ
ると自覚し、イスラエルの王などと、大勢の民を見た時に、戸惑い、尻込みした。

ある婦人が重要なポストに抜擢された。大きな責任が伴い、自らの能力、体力や
家庭の事、辞退する理由は様々見つかった。自分では荷が重すぎ、断りたかった。
しかし、まず主の御心を求めようと祈った。夫は「やってみたらいいよ。家の事
は出来る限り協力するよ」との賛成の言葉。環境に何の問題もなく、開かれてい
た。

丁度デボーションで、サウルが召しに関わらず、戸惑い尻込みしているこの箇所
が自分と重なった。主からものなら受けようとの決心与えられ、主に拠り頼み受
諾した。その結果、今まで自分も知らなかった、自らの賜物を知り、自分らしく
能力が発揮できて、神の栄光現され、周囲に仕える事ができた。自分自身も喜び
が与えられた。

・・・・・・・・・・・・・
目の前の事態に、自分には出来ないと思っても、まず主の御心を求めよう。導き
を受けたなら、従おう。主は必要な力を与えて下さる。今、尻込みしてるなら、
信仰によって受け取ろう。今まで知らなかった主の力を経験し、一歩成長させて
下さる。


2011年06月10日(金)

「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」イザヤ48:10


銀を精錬し、炉で溶かして、不純物を取り除く。高温の、熱い炉の中で溶かさなければ、不純物は除去できない。私たちも、内にある不純物を除去するために主は「悩みの炉」で試すと言われている。その悩みの炉の中で、自分の弱さや内側のものがあらわにされる。不純物が浮き彫りにされる。それは、私たちの不純物を取り除き、聖めるためだ。そのために試みを通される。

不平不満が噴出し、愚痴が出てイライラし、反抗的になり、感情のコントロール不能になるかも知れない。そんな自分の弱さを自分自身が知る。しかし、耐えられない試みは無い。必ず耐えられる試練であり、脱出の道も備えられている。信仰人生で、出会う一つ一つの試練は、すべて乗り越えられると。許容量オーバーの試練には会わせられない。これは主の約束だ。

しかし、その試みの中で、正しい態度が必要だ。屈折したり、逃げたり、意気消沈するのでなく、神からのものと、信仰持って受け取る事だ。自分の思い通りにならないし、自分の思いとは全く違うかも知れないが、神が自分のために最善と思われる事を、必ず成し遂げて下さる。肝心なのは、自分の思う最善でなく、神が自分のために思って下さる最善だ。神に不可能は一つもない。神は最善のご計画をして下さる。そして、自分は、忍耐から練られた品性が生み出され(ローマ5:4)変えられて行く。
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試練を上手く避けて通る事もできるが、それでは自分は何一つ変わらない。神が必ず益となると約束された試みだ。信仰を持って受け入れ、変えようとしておられる自分になれるよう、祈り明け渡していこう。


2011年06月09日(木)

「『わたしは・・心砕かれて、へりくだった人と共に住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすため』」イザヤ57:15


ダビデは姦淫と殺人の罪を犯し、その後に、その罪を認め、徹底的に悔い改めた。そこに頑なさは無く、弁解、言い訳、自己正当化、責任転嫁をする事も無かった。ダビデは砕かれた。神の御前だけでなく、人の前からも逃げなかった。恥ずべき罪が明らかになり、メンツ丸つぶれであり、プライドも粉々に砕かれた。しかし、悔い改めた瞬間、主の赦しを受け取った。ダビデは赦された。

詩編で「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」と告白している。神は、悔い改めを尊んで下さる。サウルも罪を犯した。アマレクを打ち、すべてのものを聖絶せよとの、神の命令を受けながら、従わずに、最も良いものを惜しんで取っておいた。その事で、サムエルの指摘を受けた時に、不従順を認める事なく、言い訳をし、民のせいにした。「民が惜しんだ」「民が取って来た」と。

そして形だけの悔い改めをするが、実は、自分の面目を保つためであった。サウルはダビデと違い、砕かれることがなかった。そのサウルは退けられてしまった。「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」。ダビデとサウルは対照をなす。罪を犯してしまうがその時に、逃げずに、人や環境のせい
にせず、言い訳せず、認めて悔い改める時に、主の大いなるあわれみが臨み来る。変わらない主の愛を経験する。
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罪を犯し神様の前に悔い改める時、あれやこれやと言い訳が出てしまう。100%自分が悪いですとは、なかなか言えない。罪を罪としダビデのように神の前に畏れ深く罪を悔いて行きたい。


2011年06月08日(水)

「神のことばは生きていて、力があり・・」ヘブル4:12


ある牧師が、若い時から懸命に働き続け、もう退任が間近になっていた。赴任先の教会で、信徒の成長のために、出来うる限りの事をし、労していた。根が真面目であり、一生懸命だった。そんな時、教会内で分裂が起こり、ごっそり信徒が出てしまった。大きなショックであり、引退を目前に、今までの自分の人生は何だったのかと、落ち込み、燃え尽き症候群に陥り、鬱になってしまった。何の力も出ず、聖書を読む事も、祈る事も出来なくなった。

ぼお〜と、日を過ごしていた。何をする力も湧いて来なかった。そんな時、子供が聖書セミナーに参加し、恵まれて帰って来た。しかし、自分は心が動かず、どうにもならなかった。デボーションを子供が勧めてくれた。その気にもならなかったが、恵まれ喜んでいる子供を見ていて、祈る気力もないが、聖書の一つでも開いてみようかと、パラパラと見ていた。

その時「お願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」の言葉が心に入って来た。自分の今の状態をすべて何もかも「知っておられる」事を思った。そして「だから、こう祈りなさい・・御名があがめられますように」が心にドーンと入った。

こんな挫折し、失敗の、無力な者を通して、主の御名が崇められるようにして下さると。その時、心に希望が湧き上がり、新しい力が臨んだ。立ち上がる事ができた。退任までの間、精一杯仕えたいとの新たなる気力が与えられた。
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神は御言葉を通し、愛や慰めや、私達のたましいを中心から支え整えようと呼びかけて下さる。聖書を開く気力もない時もあるだろう。でもつらい時には最初に御言葉を聞こう。愛をもって神は語って下さる。


2011年06月07日(火)

「その聞いたみことばも彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです」ヘブル4:2


イスラエルの民は、約束の地カナンに入るために、エジプトを出たに関わらず、不信仰ゆえに40年間荒野をさまよった。そのあげく、カナンに入れずに、20歳以上の者達は皆、荒野で滅んでしまった。何のために、エジプトを出たのかわからない。ヨシュアとカレブと新世代だけが、約束の地に入った。

民達はエジプトでの災害の奇跡と紅海が真二つに分かれた、偉大な奇跡を見た。又、何も無い荒野で水が湧き、マナやうずらが降るを見た。雲の柱や様々な奇跡を見た。だが神を信じないで、カナンに入る事を拒んだ。それらの民達を教訓とするようにと私たちに警告されている。

彼らは神の言葉を聞いていた。乳の蜜の流れる地へ入れるという良き知らせを聞いていた。しかし、その聞いた言葉が「信仰によって」結びつけられなかった。カナンの強敵について聞いた時に、状況を信じて、敵の力を信じて、神を信じる事が出来なかった。せっかく苦難のエジプトから、神は脱出させて下さったのに、神への信仰がなく、不信仰のゆえに、荒野で死に絶えてしまった。

神の御声を聞いて従って行くことは厳粛な事だ。どっちでも良い、いい加減な事ではない。私達は御声をどう聞いているだろう。幾ら奇跡を見ても、神を信じようとしなければ、荒野の民と同じになってしまう。不信仰なら、自らの不信仰を認めて、神に助けを仰ごう。神は信仰を与えて下さる。
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ひとつの御言葉が心に深く入り従いたいという思いが与えられる。神様の御声を聞いたのだ。導きをいい加減にせず、その御言葉を大切に信仰を持って聞き、従えるよう祈っていこう。


2011年06月06日(月)

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした」創世記50:20 


ヨセフは、父ヤコブから特別に可愛がられ、兄たちの妬みを買った。妬みは憎悪となり、兄たちはヨセフを殺そうとした。しかし丁度そこに、エジプトへ向かう隊商が通ったので、ヨセフを隊商に売り飛ばした。一人、異国の地へと売られたヨセフはどんな思いであったろう。だが、ヨセフはそこで信仰によって生きた。
主を頼り、エジプトで主人のもとで忠実に働いた。無実の罪で投獄という試練も通りながら、ヨセフは苦しみにより訓練され、練り鍛えられ、きよめられて行った。

17才の時に、奴隷としてエジプトに来たヨセフは、30才の時にはその地で総理大臣に任命された。「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が・・かれを高く上げられるからだ」。結局、飢饉の中、一族はヨセフによって救われた。

ヨセフは神の摂理を信じていた。それは、自分がどんな事態に遭遇し、どんな状況に陥ろうとも、それが、人からではなく、神から来ていると、信仰の目で見ていた。「あなたの行く所、どこにおいても主を認めよ」すべての道で、主を認めた。人は悪意で攻撃して来るかも知れない。しかし、主は、人の悪意ですら、良いことのための計らいとされる。この主を信じ、従って行こう。
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悪意の攻撃だけに捕らわれ目がさえぎられないよう、失望しないよう、すべてにご計画を持っておられる主を仰ぎ見ていよう。苦しい今の時も無駄にはならず、必ず益としてくださる。


2011年06月05日(日)

「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねた みにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」伝道4:4  

      
ここでは、人間社会の様々な分野、仕事での成功は、人の心にある「妬み」を原
動力に、妬みをバネにして、成し遂げられていると言っている。妬みには、大き
な力がある。私たち人間の一番奥底に、「妬み」が存在し、これは誰しもに根深
くある。

普段、私たちの行動の「動機」は何だろう。ここ数日間の事を考えてみると、な
ぜ、あのように行動したのか。あの言動の「動機」は?あの事、この事、それは
何に突き動かされたのだろう。ライバルへの妬みか、勝ちたいとの競争心か、も
し動機が妬みや競争心であれば、それは虚しいと言っている。

一見何かを成し遂げたとしても、実がなく、平安や喜びがない。風をつかもうと
するように虚しいと言っている。ある人が職場で良い仕事が出来た。職場に良き
貢献となり、皆からも褒められ、感謝された。うまく出来た事に自分でも満足し
た。

しかし、心の奥で、何かが違うとの感覚があり、平安が無い。主の御前に静まり、
祈り、御霊に心を探って頂いた。心広げて、主と交わっていると、根にあるも
のが、実はライバルへの競争心であり、優りたい、勝ちたいとの思いだった。

そのために良い仕事がしたい。主への感謝、主の栄光などで無く、うまく行けば、
自分を誇り、優越感に浸り、自分、自分しか無かった。主の御前に心から悔い改
めた。主の平安が戻った。心がざらつく時、御霊に心を探って頂こう。間違いを
示し、平安へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
仕事や奉仕の動機が、どうだろう。競争心、野心、自己実現、自己満足であれば、
実を結ぶことがなく、天に宝を積むことがない。普段、無意識でわからない。御
霊による気づきから、すべての祝福が始まる。実を結ぶ働きへと変えられる。


2011年06月04日(土)

「すべての事について感謝しなさい」Tテサロニケ5:18



ある本にこんな内容があった。サタンが倉庫を持ち、人々の心に蒔く「種」が
色々保管されていた。一番大量にあった種は何だろう。それは「失望」という種
だった。この種が一番多くの実を結ばせると。この種が一番効果的で、簡単に
人々を神から離せる。これを蒔きさえすれば、後は放っておいても勝手に育つ。

しかし、この種がある場所だけに絶対に効き目がない事を、サタンは認めた。幾
ら蒔いてもダメだった。「それはどこの場所か」に「感謝する心」とサタンは答
えた。「失望、落胆」が信仰者にとって、最大の敵だ。落ち込ませて、気力を失
わせてしまえば、大成功である事をサタンは知っている。

逆に「感謝」のある所、サタンは働けない。サタンは足場を崩してしまう。良い
事だけでなく、不都合な事も「すべての事について感謝」する事は力だ。一見
都合の悪い事は、悪い事ではない。そこから逆転、素晴らしい祝福に繋がってい
る。

ある人が苦しい辛い状況に、御霊から教えられ、「感謝しなさい」を実践した。
とにかく感謝して、状況は最悪だが、神を見上げ信仰による感謝を続けた。する
と、心に変化が起きた。「なぜ、こんな事が?」「なぜ、私に?」「主は助けら
れるのに、なぜ、助けてくれない?」の思いが消えた。

状況は変わらないが、心に静かな平安が臨んだ。やがてその事態は進展し、導か
れて行った。サタンの罠にはまらず、感謝を選ぼう。これは選択だ。

・・・・・・・・・・・・・・
感謝する時、みわざが起きる。状況と自分しか見ていない目が、主に向く。主に
向いた途端、自分が変えられる。御言葉が次々思い浮かび、ご計画がある事、益
とされる事、愛されている事、待ち望む事・・そちらに目が向き、我に返れて、現
状に主を認めて行ける。


2011年06月03日(金)

「こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました」ヘブル6:15


アブラハムは、主に見せられ、子孫が天の星のようになるとの、約束を信じていた。しかし、その約束は、なかなか実現しない。その当時は、夫婦に子供が無い場合は、召使いに子供を産ませその子を跡継ぎにすることが、普通であった。それで、幾ら待っても子供ができない中、この慣習にならい、サラが提案した。主が産めないようにしておられるのだから、女奴隷によって子供を持つようにと。

アブラムは自分の提案でなく、サラの申し出という事であり、女奴隷ハガルの所へ入った。しかし、重大な事は、この時アブラハムは祈らず、主の御心を求めなかった。自分の思いで、肉で動いてしまった。肉は一見一番妥当な良い考えに思える。それが最も良いとしか見えなくなる。が、必ずトラブルを引き起こす。

ハガルは、子供のないサラを見下すようになった。ハガルはイシマエルを産んだ。イシマエルはアラブ人の先祖となり、現在のパレスチナ紛争に至っている。アブラハムが肉の判断で、良かれと取った肉の行動は後々まで大きな問題となった。アブラハムが100歳の時に、肉が、人間的力が、完全に絶えた時に、イサクが与えられた。今、あなたの状況はどうだろう。神の約束を待てないで、自分で動き出すなら、イシマエルを産み出してしまう。肉で動かず、神の約束を、尚も主の約束を待ち望もう。
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祈りの答えをどれだけ期待し待っているだろう。苦しい環境から一刻も早く逃げ出したく肉の策に走るより神様の答えがどれほど素晴らしいか。本気で期待しているだろうか。


2011年06月02日(木)



「今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた」Tサムエル12:13  

民が王を求めた時、それはサムエルの気に入らなかった。が、主に祈ると「この事はあなたを退けたのでなく、このわたしを退けた」と言われ、「民の声を聞き入れよ」そして、「王の権利を継げよ」と言われた。示しの通りに従い、その結果、尚も王を求めて止まない民に、主は「一人の王を立てよ」と言われた。

その後、タイミングピッタリに主の導きが成し遂げられて行く。キシュの息子にサウルがいた。彼は、最も美しい男性で、誰よりも背が高かった。父キシュの雌ろばがいなくなり、父に頼まれ、雌ろばを捜しに出た。あちこち捜すが見つからず、帰ろうとした時に、連れの者の提案で、道を教える事の出来るサムエルを訪ねる事になる。途中で娘達に会い、その娘達が居場所を教えてくれる。

言われた通りに進むと、丁度ピッタリ、サムエルに出会えた。パズルに一つ一つのピースが埋まるように導かれて行く。一見偶然に見えるが、これは、神がサウルを王に立てようとのご計画であった。サムエルもサウルを君主とせよとの、神の命を受け、それを受け入れて従い、サウルを君主に立てた。

私たち一人〃にも主はご計画を持たれ、起こる出来事の一つ〃に働いておられる。そのピースを見分けて行けるように。そして、サムエルのように導きに従えるよう祈ろう。
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起こる一つ一つの事に主のご計画がある、それに気づけるよう、間に合うよう朝ごとに自分を献げ、主の役立つピースの一つになって行こう。


2011年06月01日(水)

「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」創世記13:9

アブラハムは、故郷を出て、約束の地へと立つ時に、甥のロトも伴った。やがて神の祝福ゆえ、家畜が増え、土地が狭すぎて、双方の使用人同士で、もめるようになった。解決策が必要になり、アブラハムはロトに提案した。別れる事、目前の広大な土地の選択権をロトに与える事、好きな土地を選ぶようにと。

争いとは、自分の利益を求める事から起こる。相手を優先すれば、自分が損をするとの考えだ。譲り合えば争いは起こらない。アブラハムは信仰に立った。すべてを神に明け渡し、委ねていたので、ロトに優先権を与える事ができた。アブラハムはどこまでも神を信頼していた。

ロトは、「目を上げて見渡すと」の通り、見えない神ではなく、自分の目で見た良い地、肥沃な地を選んだ。しかしその後、アブラハムに「さあ、目を上げて見渡しなさい」「この地全部を」「あなたとあなたの子孫に与える」と言われた。神に明け渡したアブラハムは、結局全部を得る事になる。

一見、相手に選択権を与え損をする道だが、自分を捨てる十字架の道、結局、大きな祝福を刈り取る。ロトは、叔父に譲る事もなく、判断基準に神はなく、祈りも無かった。ロトが住んだソドムは、罪の腐敗ゆえ滅ぼされ、財産はすべて失い、妻は塩の柱となり、娘達は後に罪を犯した。悲惨な結末となった。今、判断が必
要なら、心して祈ろう。自分の判断には欲が入り、目が曇る。主の御心を求めよう。
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私達はこの世にあって目に見えるところを信じやすく、また誘惑に負けやすい者だ。だからこそ、つまずかないよう行く道をいつも主に聞き、はっきりとした主の導きを確信しながら進んでいこう。