2011年07月31日(日) 「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへ の大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」 詩編84:5
「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへ の大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」 詩編84:5
私たちの人生に、悲しい事や苦しい事、理不尽な事、理解出来ない事が起きる。 それは、未信者でも、クリスチャンでも関係無く同じように起きる。しかし、違 いがある。それは、神を信じる人は、どんな悲惨な事、どんな苦しい事の中にも、 神を認めて行くことだ。そのまっただ中に神がおられ、神の愛、慈しみ、助けが ある事を信じており、そして、それを実際に身をもって体験して行く。 神を信じない人は、どんな奇跡的な素晴らしい事があっても、そこに決して神を 認める事は無い。ただの偶然にすぎない。そこの相違だ。信じる人は何を見ても、 どんな出来事が起きても、そこに神を認め、神の愛を認める。 それゆえ、どんな問題や悩みが来たとしても、神を信じているから、深い涙の谷 であったも、そこを泉の湧く所とし、その中に神を見、神に出会って行く。 苦しみがあっても、その内にいい事もある、というような事でなく、涙の谷自体 が泉の湧く所となる。何をどうして良いかもわからない、まさにどん底で、慰め や平安の泉が湧き上がる。そのどん底に神がおられるからだ。信仰とはそういう 事だ。 もし、思い煩いや、不安、恐れ、不満、怒りで心がいっぱいなら、神が飛んでし まい、神以外のものを頼り、見ていないだろうか。どんな苦しみの中でも、そこ が、泉の湧く所として下さる。神がそこにおられるので、湧き上がる平安や、御 霊の喜びを経験する。シオンへの大路にある人、心が神に向いている人は、何と 幸いなことだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・ この世界では、苦しみや痛みは、マイナスの事でしかない。不遇であり、何とか 避けて、除けて、逃れたいものだ。しかし、負の出来事がマイナスでなく、泉の 湧く所されるとは、何とそこに救いがあり、希望があることだろう。新たに主に 出会える。
2011年07月30日(土) 「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから・・主 は、きょうののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」Uサムエ ル16:12
「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから・・主 は、きょうののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」Uサムエ ル16:12
シムイという男がダビデに石を投げつけ、ダビデを呪い、ウリヤ殺害の罪をのの しった。「血まみれの男、よこしまな者」と。部下が「首をはねさせて下さい」 と申し出たが、ダビデは、主が命じられたのだから、放っておけ、呪わせておけ と、部下に報復を許さなかった。 ダビデは、神から来たものと受け取った。神からの懲らしめ、訓練と受け止め、 甘んじて受けたのだ。「私の身から出た私の子さえ、私の命を狙っている」、シ ムイどころか、実子のアブシャロムすら自分に敵対して、歯向かっている。それ ゆえシムイの呪いも、神から出たものと受け入れた。 何とへりくだった心と態度だろう。「今日の呪いに代えて、幸せを報いて下さ る」、どのような悲惨な状況の中でも、状況を変えようともがくのでなく、神の 前に、正しい心で、神に適った心でいるなら、それをも主が良い事のために計っ て下さる。 ヨセフの「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための 計らい」とされた通りだ。相手の悪意すらも、あなたのために益として祝福と変 えて下さる。 状況を見て、即、反応するのでなく、神を見て、状況を見る時、神の介在のもと、 導かれて対応できる。神のお心に沿って行く時、どんな苦しく辛い状況でも、心 を主の平安で守って下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 目の前の事態が偶然でなく、運でなく、サタンにほんろうされているのでなく、 主から来たものと受け取る時に、違う目で見えて来る。主のご計画があり、意図 があり、み思いがある。そこを見て行く時、苦しい状況の中で心が守られ、変え られて行く。
2011年07月29日(金) 「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に十分にあります」マタイ6:34
「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に十分にあります」マタイ6:34
私たちには、明日の事は全く見えない。わからない。見えないので、不安に襲われてしまう。あの事は、この事は・・と考えても、見えないので、不安と思い煩いに支配されてしまう。そして、不安は不安を呼び、幾ら大丈夫だと思っても、得体の知れない不安感が、泉のごとく湧き上がって来る。あなたも経験があるだろうか。ネガティブ思考に取り込まれてしまう。それも最悪を想像してしまう。周囲から、大丈夫だからと慰められ励まされても、どうしてもだめなのだ。 自分でわかっているが、どうにもならない。主はそれもご存じで、この日、「今日」を考えてごらんと言っておられる。今、現在、何か不足があるか?常に、今日は必要が与えられている事に気づくようにと。その「今日」の連続が一生だ。果てしない明日を心配し恐れるより、今日、満たされている事に感謝してはどう だろう。 ある独り身の高齢の婦人は、「だれが心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」の御言葉が、心底入って来て心から納得できた。今日、飢えていない、身体が守られている。御言葉を見つめ、「今日」を心底感謝していると、喜びと更に感謝が溢れた。そして、今日こんなにも良くして下さっている主は、必ず将来の必要を与えて下さる。信じていると、不安、思い煩いが全く消え失せたと。明日は委ねて、今日、精一杯感謝して生きよう。 -------------- まだ来ない明日に恐れはあるけれど、心配して今日を過ごすより一日の感謝を数えてみよう。昨日思い煩っていても、違う新しい朝を今日も神様は与えて下さった。明日は委ねていよう。
2011年07月28日(木) 「わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『わたしは聞かない』と言った。わたしの声に聞き従わないということ、これが、若い頃からのあなたの生き方だった」エレミヤ22:21
「わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『わたしは聞かない』と言った。わたしの声に聞き従わないということ、これが、若い頃からのあなたの生き方だった」エレミヤ22:21
主の側では御声をかけ続けて下さっている。メッセージを毎週聞いているのに、なぜ自分の事として聞こえないのか。物理的には耳に聞こえているが、心の耳には入って来ない。聞きたくないのではなく、聞きはするが、心に御言葉の種が落ちる前に、悪魔に奪われて行く。別段、拒否する気は無いので、気づかない。右から左に流れて行く。なぜ聞こえないのか。 それを真剣に受け取るつもりがない、つまり、従うつもりが無。聞く事は好きで、良いお話と思うが、犠牲を払う気は無いから、心が受け取らない。受け取ったら困るという事になる。これらが無意識になされているので、気づかない。御言葉が心にぐいぐいと入り迫る時は、真剣に御言葉に向き、自分が聞き従おうとしている時だ。 どうであれ、御声に従い、自分が変わろうとの思いがある時、御言葉が心に強く響いて来る。そして、主の言っておられる事がわかる。種蒔きの例えの土地の通り、自分の側の心の態度は問題だ。心の奥では拒んでいたりする。無意識かも知れない。うすうす感じているかも知れない。あなたの心はどうだろう。実は聞こえては困るのだろうか。成長は気づきから始まる。気づきは御霊の働きだ。光が心に臨んでいる証拠だ。どんなに聞き従わなくても、今まで決して捨てないで、愛し慈しみ、抱き続けて下さった主を覚え、今こそ従おう。 ----------- 語りかけられた御言葉は恵みで感謝だ。痛くて自分では出来ない、今は都合が悪いと思うそのことも、そのまま祈りに持っていこう。主から何も受けない、交流の途絶えたままで良いだろうか。
2011年07月27日(水) 「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主」箴言17:3
「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主」箴言17:3
金や銀は、炉やるつぼに入れて、高温で溶かす。不純物を取り除き、純度を高めるためだ。溶けた金や銀からは、不純物が上に浮かび上がる。その不純物を除去する事によって純度の高い金と銀ができる。炉で溶かす度にその純度を増す。私達も同様で、試練の炉で不純物が溶かされて行く。炉で金が純化されるのと、同じように、私達の心をためされ、聖められて行く。 私達の人生で目の前に起きる出来事の、一つ一つすべての事は主から来る。偶然は一つもなく、今、目の前にある事態は、主からのものだ。その事柄の中に、主の意図と目的がある。目的があるのだから、無意味でなく、無駄は一つも無い。 だから常に希望がある。対人関係の苦しみ、経済的苦境、様々な困難という高温の炉を通して、私達は不純物が除去されて行く。練られ鍛えられ、成長する。 又、私たちの行ないの、背後にある隠れた動機が試される。動機の中に不純物が混じっているだろうか。何のために、この事、あの事をしたのか。その事をしている動機は何なのか。愛によるのか、自分の欲、自分の栄光、人かの賞賛、プライド、虚栄心、不純が試される。不純物に気づかせ、溶かして下さる。テストを通して、不純物を除去され、正直、真実、柔和へと変えて行って下さる。 ------------- 嫌な事、辛い事を出来るだけすり抜けていくのが世の知恵でも、私達は違う。意味を持って前から送られてくる。もっと能動的に迎え入れてみよう。何を気づかせて下さるのだろう。
2011年07月26日(火) 「・・自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24
「・・自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24
アダムとエバが、神から禁じられていた、善悪の知識の木から取って食べた事により、罪が入り、その結果「あなたがたが神のようになり」の誘惑通り、自分を神とするようになった。神を捨て、神を離れ、自分の判断と自分の力によって、生きる者となった。自分の力で、成果を上げ、自分が認められたい、評価されたい。これは今もある肉の性質だ。だから肉は、自分で頑張ろうとし、自分を誇りたい。自分の栄光のために生きて行く。 又、この自我は、自分を正当化する特徴がある。自らの罪、過失、失敗を人のせいにする。決して自分の過ちを認めない。神は悔い改めの機会を与えるために、「食べたのか」と問うて下さった。しかし、アダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにした。自我は人のせいにし、責任転嫁する。しかし、神の御言葉に聞き、御声に従って行く時に、そのような自分が変えられて行く。 御言葉に従う事が、自分を捨て、自分に死ぬ事だ。自分に死ぬから御言葉に従って行く。そうでなければ、自分の都合の良い時にだけ従い、都合の悪い時には従わない。「自分を捨て」の言葉など、すり抜けて行く。肉はどこまでも、「自己実現」「自己満足」・・だ。一歩〃御言葉に従う事により、自我が砕かれ、御霊の実を結んで行く。愛、喜び、平安、寛容・・、神を愛し、人を愛する者に変えられて行く。何という恵みだろう。まず、目の前に示されている御言葉に従おう。 ----------- 自分を捨てて、主の喜ばれる方へと少しずつでも歩み出そう。心に大きな平安と休息が来る。それは主の御約束だ。自分、自分と騒ぐより、静かに主について行こう。主について行くのだからその喜びや平安は決して私たちから離れない。
2011年07月25日(月) 「すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ローマ8:28
「すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ローマ8:28
信仰人生で、「なぜ?」「どうして?」という出来事が起こる。辛い、苦しい事態に、何がどうなっているのかわからない。苦しいばかりだ。しかし、エレミヤ29:11にあるように、神は私たちに決して災いを与えられない。それは、平安と将来と希望のためのものだとある。その渦中ではわからないが、ずっと後になった時に、パズルがつながるように、神のご計画を知ることになる。 「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」とあるように、すべての出来事に、神の支配と主権がある。「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」父のお許しなしに、何一つ起こらない。 理解を越えた、わけがわからない事態に遭遇する事があるけれど、ローマ8:28の通り、すべてを益とされる。そこに神が関与して下さる。しばしば自分を中心に置き、自分が思う通りの最善と勘違いするが、そうではない。神が私たちのために思われる最善だ。つまり、自分がこうなれば良いと思う最善ではなく、神が、備えて下さっている最善だ。 それは、しばしば自分の思いと違う。又、自分の弱さや失敗があったとしても、それよりも、更に強く働く神の力と導きがあるということだ。そして、その益は、自分がどんなに滅茶苦茶でも、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」との御子のかたちへと変えて下さる「益」だ。 ------------- 訳のわからない試練に立ち向っているのではない。答えは「益となる」だ。自分の思い通りの結果に縛られず、信仰を持って神にすべてを明け渡せたなら、神が問題の中心におられる事がはっきりと見えてくる。
2011年07月24日(日) 「・・神のみこころは何か・・何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか をわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2
「・・神のみこころは何か・・何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか をわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2
こんな話がある。一羽の鳥がいた。あらゆる事に、不平不満だらけで、いつも周 囲の鳥たちに、当たり、腹立ちをぶつけていたが、引っ越しを始めた。「この山 は嫌だ。面白くない。周囲は不親切だし、いい事が何もない」と。 しかし、実は、愚痴と不満ばかりで、周囲には当たり散らす鳥に、周囲は迷惑で、 段々相手にしなくなったのだった。自業自得であった。しかし、常に不満の原因 を、環境や周囲にしか見ようとしない鳥は、嫌な環境を変える事にしたのだ。 そんな時、別の鳥が言った「あなたが変わらないなら、どこへ引っ越しても同じ ですよ」。私たちはどうだろう。何か嫌な問題があると、環境のせいにし、相手 のせいにし、引っ越しが解決手段だろうか。人のせいにしていたなら、自分と向 き合わなくて済む。親が悪い、夫が、妻が悪い、社会が悪い、学校が悪い。 しかし、どこへ行ったとしても、又、同じ問題にぶつかる。嫌な人はどこにでも いる。常に同じ問題を繰り返すことになる。自分が変わっていないからだ。環境 のせいにし、人のせいにして終わりでなく、主のもとへ問題を携えて、取り扱っ て頂こう。 目の前の問題に対し、祈りつつ、示される通りに御声に従って行く時、自分が変 えられる。変えられた自分は、次に同じ問題が来た時に、乗り越えて行ける。対 処して行ける。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分とちゃんと向き合う時に初めて、御言葉を鏡に、問題点が見えて来る。御霊 が働いて下さる。向き合わない限り、何年、何十年たっても何も見えず、そのま まだ。本当の姿が見えて初めて、変えられて行く。主が変えて下さる。今まで経 験した事のない大きな恵みと祝福にあずかる。
2011年07月23日(土) 「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」イザヤ40 :8
「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」イザヤ40 :8
対人関係により、心が辛くなり、苦しくなる事があるだろうか。人からのちょっ とした「ことば」が、ひどく気になったり、不安になったり、又、もろに責めら れたり、批判される事もあるかも知れない。心暗くなり、落ち込み、立ち上がれ なくなってしまう。もし、自分の側に、非があるなら、悔い改めること、謝るこ とが必要だ。 しかし、もしそうでないなら、原点に立ち返って、御言葉に目を向けて行こう。 心が沈み、落ち込むのは、自分の中で「人のことば」が第一になって、最重要と しているからではないか。神の言葉と、人の言葉と、どちらに重きを置いている のだろう。神の言葉でなく、人の言葉に左右され、振り回されていた事に気づく 時、平安が戻る。 「神のことば」に目を向け、受け取り、握っていよう。御言葉を通して、人から の言葉、又、目の前の状況を見る時に、「すべての事について感謝しなさい」の 通り、神が見えて、恵みが見えて、感謝になって来る。「人はみな草のようで、 その栄えは、みな草の花のようだ」自分の思いや、人の言葉は、草のようだと言 っている。それらは枯れる。 この世のものは何もかも変わる。思想も、流行も変わり、政治も、人の心も変わ る。確かなものは一つもない。しかし、「神のことば」は、とこしえに立つ。一 つだけ変わらない、確かなものは、神ご自身であり、神のことばだ。 もし、今、心が辛かったり、苦しかったりするなら、その中で、何に目を向けて いるだろう。視点を人や状況や自分でなく、「神のことば」に向けよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ とこしえに立つ、神のことばに従う歩みだけが、虚しくない、確かな歩みだ。何 もかもが移ろい行き、変わって行く。神の真理なることばに従う時、それは天に 繋がり、又、その一歩は次に展開して行き、実を結ぶ。今、目の前に示されてい る「神のことば」に従おう。
2011年07月22日(金) 「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」ヘブル12:15
「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」ヘブル12:15
る人には、どうしても嫌で、赦すことのできない相手がいた。「苦い根」であった。祈るのだが、しかし、どうにも出来ず、悶々としていた。そんな中で、ある時突然、主がその事に触れられ、十字架の主がくっきりはっきり、目の前に示された。主が自分にして下さった事が見せられた。命を捨てて愛して下さった、赦して下さった・・頭の理解でなく、御霊が臨み、心に触れられ、涙が溢れて止まらなかった。悔い改めて、心からこの主に従いたいと思った。 その時、あんなに苦しんだ苦い根が消えた。平安の無かったその所に、平安が満ちた。その相手が、なぜそんなに嫌だったのか、わからないほど、どうも無くなった。私たちの心にも、雑草が根を張るごとく「苦い根」が無いだろうか。根というのは外側には表れない。見えずに隠れている。誰かに対する妬み、憎しみ、敵対心、恨み、怒り・・それらは心の深い所に巣くっていて、何かが起きた時に、芽を出して、心の畑を無惨にズタズタに荒らしてしまう。 人の目には隠せるが、自分にはわかっている。この根を放っておくと、心中深く張り巡らし、傷がどんどん深くなる。引き抜き、除去するのに、大きな痛みが伴う。そのまま主のもとへ行き、告白しよう。主が取り扱いきよめて下さる。恵みから落ちてしまう事のないように、絶えず心を見張っていよう。 ------------- 苦い根とは、すぐに関わりを絶ちたい。ざらっとした思いで平安がない時は、そのままにしないですぐに主に告げ、思いの底にある根を見極め、認めて行こう。まっすぐな歩みが妨げられないように。
2011年07月21日(木) 「供え物をささげようとしているとき、もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら・・まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23
「供え物をささげようとしているとき、もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら・・まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23
ある人が、サークルの、対人関係において大失敗をした。仲間をひどく傷つけてしまったのだ。不用意な発言であり、しかし、はっきりと根にある自己中心の罪ゆえだった。肉による事であり、自分の罪であった。周辺の人々にも嫌な思いをさせ、すべて自らが引き起こした事だった。御霊は語りかけられ、その罪の恐ろしさを示され、悔い改め、謝罪するよう言われた。 自分の愚かさ、失態を認め、謝る事はプライドが傷つく事であり、恥ずかしい、したくない事であった。自我はしたくないが、しかし、自らの罪であり、御霊は迫られた。促され、逃れる事ができず、御霊に従いたいと、傷つけた相手、嫌な思いをさせた一人一人に謝る決心をした。赦してもらえなくても、仕方の無い事だ。しかし、勇気を出して、思いきって謝罪した時、当の相手は、快く赦してくれた。他の人々も同様だった。 赦される事の喜びに心が溢れた。平安が満ちて、天にも上るような喜びであった。もし、赦しを拒否されたら、その人々との交わりも断たれ、その交わりから出なくてはならなかった。傷つけた自分自身も傷を持ったままだったろう。神は謝罪を大いに祝福して下さり、その当人とは仲良しになってしまった。あなたも、謝るべき相手があるだろうか。御霊の示しがあるなら、実行しよう。大きな祝福を経験する。 -------------- 謝らず、曖昧にしてごまかす事も出来るが、謝る事により主の香りをはなつ事も私達には出来る。和解の勇気も、祝福も神様が与えてくださるから、御霊の促しに従う方を選ぼう。
2011年07月20日(水) 「彼は恐れて立ち、自分のちのちを救うために立ち去った」T列王19:3
「彼は恐れて立ち、自分のちのちを救うために立ち去った」T列王19:3
バアルとの壮絶な戦いの後、エリヤを憎むイゼベルが、明日までにエリヤを殺すと宣言した。心身消耗し果て、力尽きていたエリヤは、恐怖に怯えた。あの戦いは何だったのか、無駄だったではないか・・、失望と挫折感に襲われた。しかし、それは事実ではなかった。自分の屈曲した思いで事態を見る時、見誤ってしまう。 エリヤは「私だけが残った」と言うが、しかし、神は七千人も残しておられた。歪んだ思い込みをしてしまう。あれほど厳然と勇敢にバアルに立ち向かった信仰の人エリヤが、恐れ怯えて逃げ出した。 「自分の命を救うため」とあり、自分を守ろうとする途端、恐怖と不安、思い煩いに支配される。自分で自分を救わねばならず、それは自分の能力を超えているので、パニックだ。私達も平安失せ、思い煩いと恐れに捕らわれるのは、自分で自分を守ろうとしている時だ。ただただ問題から逃げたいが、しかし、逃げても何の解決もない。逃げると、そんな自分にますます落ち込む事になる。 結局、主は、エリヤに十分な休息を与え、回復させ、御前に立たせられた。そして、新しい使命を与えられた。今、失望落胆しているだろうか。恐れがあるか。 自分で自分を守ろうとせず、又、逃げずに、神の御前に立とう。余す所なく気持ちをぶつけて良いのだ。神は御声をかけ、同じように私達も導いて下さる。回復は神との交わりから来る。 ------------ 自分しか見えなくなった時、私達は弱い。自分の解決法や対策は悲観的で、ますます弱り消耗するばかりだ。だから絶えず神様の力強い御手を覚えるためにも、み言葉と祈りの時間を持ち落ち着こう。
2011年07月19日(火) 「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」ルカ19:5
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」ルカ19:5
ある人が、ザアカイに大変親しみを感じたと証しした。自分も、脊が低かった事で、非常な劣等感があり、ザアカイも劣等感で悩んだのではないかと。ザアカイは、心に屈折があったのだろうか。あえて敵であるローマの手先になるような、取税人の仕事に就いた。そこで、かしらにまで昇りつめた。能力があり、仕事は 良くできた。しかし、出来れば出来るほど、同族ユダヤ人からは嫌われる事になる。友人もおらず、話すのは仕事仲間ぐらいだったろう。 富は自分に幸せをもたらしはしなかった。財産はあったが、孤独で、惨めで、寂しく、喜びなく、虚しく、将来に何の希望も持てなかった。日常に楽しいと思う事など、あっただろうか。人に相手にされないザアカイは、心の底では、人々との心の交流を渇き求めていたのかも知れない。主が、取税人を、人目をも全く気にせず、暖かく受け入れ、食事を共にされる事、そんな愛深い主の噂を、耳にしていただろう。 一目、主に会いたいと、彼は恥も外聞も無く、イチジク桑の木に登った。が、主の方から声をかけられた。「ザアカイ、あなたの家に泊まる」と。ザアカイの存在、心の内、背景、何もかもご存じの主が、セッティングされた状況であった。 ザアカイは大喜びで応答した。同様に、主は、あなたの心の孤独、寂しさ、これまでの歩み、すべてをご存じの上で、受け入れ、向き合って下さっている。 ------------ この世でたった一人であるかのように私を知り、いつも見守って下さる主がおられる。それは孤独に感じる時も、人中で賑やかな時も何も変わらない。何とありがたいことだろう。今日も主を見つめ主と語ろう。
2011年07月18日(月) 「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18
「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18
私たちは、主に従って行きたいと思う。しかし、主に従う事を、自分の力でやろうとすると、どうなるだろう。例えば、腹の立つ事態に遭遇すると、「主は柔和なお方、主のようでなければ」と、怒りをぐっと我慢するだろう。又、相手の態度にイライラすると、「主は忍耐のお方、忍耐しなくては」と、いら立ちを封じ込めて、我慢しようとする。あちらでも、こちらでも、我慢を重ねる。 しかし、我慢は許容量を越えると、必ず爆発する。定期的に爆発しては、それまでの証しが台無しになる。あなたも経験あるだろうか。我慢する事は、心の底に抑え込むだけなので、溜まると大噴火する。主に従うとは、抑え込んで我慢する事ではない。それなら、表面を、外側を取り繕うだけになる。クリスチャンである事は、フラストレーションのかたまりになってしまう。 そうではなく、抑え込み、歯を食いしばって頑張り、じっと我慢するのでなく、「我慢できません」「忍耐できません」「腹が立ちます。助けて下さい」と主に心の内をありのまま告げ、受け止められ、主から力を受けて、歩む生活だ。まず、そのままの自分を、主にことごとく打ち明けよう。主は喜んで受け止めて下さる。そして、御声に耳を傾けよう。主のみ思いを伝えて下さる。その御声に従おう。出来ないと認め、表明し、助けを求めているので、御霊が働かれ必ず助けて下さる。 --------------- 素直に従えない胸の内を我慢する前に、主に祈り、直面している問題に主の関与を求めよう。祈る中で主が語られ、心が整えられて行く。心は平安に次ぎの一歩を示される。
2011年07月17日(日) 「見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の 目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちり を除くことができます」マタイ7:4
「見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の 目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちり を除くことができます」マタイ7:4
私達は自分の欠点は見えないが、人の欠点はすぐ目につく。よく見える。そのた め、すぐに相手を責めてさばく。しかし、裁くのは相手の欠点というよりも、だ いたいは、相手が自分の思い通りにならないから、裁いているのではないだろう か。 自分の思いで相手を見ていないか。皆、それぞれ自分の物差しがある。自分の思 いがあり、それが梁だ。「自分の物差し」というメガネをかけて見るので、歪ん で見える。まっすぐにありのままに、見る事が出来ない。そして、物差し同士が ぶつかる。 自分に偏見は無いか。自分の目は歪んでいないか。もしかして「自分の見方が間 違っていないか?」に立ってみよう。「自分は正しい」に立つ時、それが梁とな り、全く見えなくなる。 相手の目から、ちりを除く作業は、御霊に導かれない限り不可能だ。目はデリケ イトで敏感、ちょっと触れられてもすぐ閉じる。心も、土足で入ろうとするや、 瞬時に固く閉じる。まず自分の、自己義、独善、偏見の梁を除いて、自分も間違 う者であり、失敗する者である事をわきまえよう。 その時、御霊に導かれ、はっきり見えて、相手のちりを除くために、神が用いら れる。梁がある自分の目には、相手が正しく見えていない。御霊の光に照らされ、 自分の梁に気づかされ、自分の梁を取り除けることから始めよう。 ・・・・・・・・・・・・・ 「自分の目に梁がある」と言われる。歪んだ見方をしていないか、偏見は無いか、 自分の見方が間違っていないか、御霊様に探って頂こう。御霊の光に照らされて、 自分が正されて、御霊の愛の中で、兄弟の目からちりを除くために用いられる。
2011年07月16日(土) 「彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み・・私の愛への報いとして私をなじ ります。私は祈るばかりです」詩篇109:3
「彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み・・私の愛への報いとして私をなじ ります。私は祈るばかりです」詩篇109:3
ダビデは、辛く苦しい所を通った。それは、愛する者に、なじられ、攻撃され、 真実を向けた相手に、憎まれ、敵対されるという苦しい現実であった。サウル王 やアブシャロムによる迫害ではないかと言われている。いかばかりの苦悩であっ たろう。 誠意を尽くし、真心持って接するなら、必ず通じると思いたいが、そうでない場 合がある。そんな時はどうすれば良いかを、ダビデを通して学ぶ事ができる。誠 意を尽くし、愛情を注いだ人々が、歯向かい、攻撃して来る。 邪悪な口と、欺きの口と、偽りの舌をもって、憎しみの言葉で取り囲み、罵り、 なじって来る。何とも苦しい状況だ。まさに、人間の、神に対する態度そのもの だ。しかし、神は、神を捨て、神に敵対する者を更に追いかけ、御子まで殺して 下さった。その御子を私達はどう扱ったか。神の愛すら通じないのであれば、罪 人である人間同士の愛が通じなくとも不思議はない。 主は十字架上で、人々の罵りに対してどうされたか。人々の赦しを御父に祈られ た。ダビデも同じだ。「私は祈るばかりです」。相手を攻撃し、復讐するのでな く、主に心の内を打ち明け、叫び、主に知って頂くことができる。 主に心のすべてを叫び祈ったダビデは、この後、賛美と感謝へと変えられて行く。 今、苦しみの中にいるなら、答えは「私は祈るばかりです」。神に心の内をこと ごとく告げよう。 ・・・・・・・・・・・・ 時に、辛い、苦しい状況に直面する。又、対人関係においても、どうしても気持 が通じない時があるかも知れない。ますますこじれたりする。そんな場合の答え は「祈りばかりです」。主に気持を告げ、委ねよう。そこに主が働いて下さり、 御心を成し遂げて下さる。
2011年07月15日(金) 「ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ」民数記14:19
「ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ」民数記14:19
モーセはカナンに12人の斥候を送って、偵察させた。戻って来た12人中10人は、カナンの地は、乳と蜜が流れた良い地ではあるが、そこの民は強く、町は大きく、城壁を持ち、入っていく事は出来ないと言った。しかし、その時にヨシュアとカレブは、主が共におられるなら占領できる、上って行こうと信仰を表明した。だが、民は恐れ大声で叫び、夜通し泣き、又もやエジプトへ帰ろうと言った。 その時、ヨシュアとカレブは、彼らは私たちのえじきとなり、彼らの守りは取り去られている、と言った。全く同じものを見て、不信仰の目には恐怖と不安、難攻不落、不可能の大砦が立ちはだかっているとしか、見えない。だが、信仰の目には、主によって可能、占領できる、自分たちの餌食だと見える。彼らがいた場所からカナンまでは、ほんの少しの距離だった。 しかし、つぶやいた民たちは、この後40年間、荒野をさまよう事になった。そして、結局不信仰のゆえに、カナンには入れずに死に絶えてしまった。主が約束を与え、素晴らしい祝福を用意して下さっていても、もし、私たちが従わなければ、それを手にする事はできず、喜ぶ事ができない。彼らが不信仰にならずに、信じて、主に従っていたなら、乳と蜜の流れる地に入れただろうに。御言葉に立ち、神を信頼したヨシュアとカレブは、主の約束通り、乳と蜜の流れる地に入って行った。 ----------- 主の力強い御約束があっても恐れはある。しかし見えるところを頼りにして歩むなら、いつまでも前進できず、不安定な荒野での徒労だ。信仰を持って、神を信じ神に従い前進しよう。
2011年07月14日(木) 「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」ヨハネ8:9
「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」ヨハネ8:9
当時、姦淫は石打ちの刑であった。律法学者やパリサイ人が、姦淫の現場で捕えられた女を人々の真ん中に立たせ、さばきの座に引きずり出した。彼らは主を試して告発する理由を得ようとした。つまり、石打ちにすると言えば、愛を説いていながら、殺害を命じるのかと。もし、石打ちにしないと言えば、律法を守らないのかと、どっちに答えても主を告発できるようにした。 そんな企みに対して、主は、罪の無い者が最初に石を投げよ、と応答された。女を断罪した人々は、その投げた石が、自分に返って来た。彼らは自らの罪がわかったので、投げる事が出来ずに去った。しかし、彼らは主の前から逃げた。彼らは、はっきりと自分の姿を見た。これは天国への第一歩だ。しかし、逃げ去った。ところが女は、逃げなかった。そのままそこにとどまった。 その彼女は、主から全き赦しを受け取った。私達はどうだろう。日ごとに、御言葉に向かう時、自らの姿が映し出される。自分の罪が示される。自分の醜い、汚れた、自我にまみれた姿を見るのは痛い。プライドが非常に傷つく。認めたくない、触れずにふたをして置きたい。私達も逃げるだろうか。逃げないでとどまった女のように、映し出された本当の自分を認めよう。その時に、変えられて行く。何より主に触れられ、主の深い愛を知って行く。 ------------- 罪を罪と感じられることが感謝だ。示された自分の姿と向き合い、主がなぜ示してくださったかをそこから学ぼう。逃げるかとどまるか、その後の処し方で私達は大きく変わる。
2011年07月13日(水) 「あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私があなたのなすべき事を教えます」Tサムエル10:8
「あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私があなたのなすべき事を教えます」Tサムエル10:8
イスラエルの民が、神の警告にも関わらず、切に王を願った。そして、神が選ばれた王がサウルであった。サウルは、父親に心配りをし、人に敬意を払うような、穏やかな人物であった。が、霊的な事柄に対する資質はどうだったのだろう。サムエルの事も若者から聞いて初めて知ったようだ。サウルは、「待ちなさい」との神の命令を守ることができなかった。 「私が着くまで七日間、そこで待たなければならない。私がなすべき事を教える」とのサムエルから与えられた指示に従わなかった。サムエルを待たずに、自分で全焼のいけにえと和解のいけにを献げた。しかし、これは祭司にしか出来ない事柄であり、このところでも霊的資質に欠けていたようだ。この点が、後のダビデと大きく違った。サウルは、人を気にし、このままでは民が自分から離れ去ると思い、してはならない事をしてしまった。 しかし、状況がどうであれ、明確な主の言葉があり、どこまでも主を信頼し、待つべきであった。私たちもどうだろう。形は違っても、状況がどんどん自分にとって不利益な、都合悪い方向に進む時、主を待ち望む事は非常に難しい。待てずに、自分で何とかし、食い止めようとし、又、方向を変えようと対処してしまう。 しかし、肉の思いで、自分で動くのではなく、どこまでも御言葉にとどまり、主を信頼し、主を待つことを学ばせられる。 ----------- 御言葉を与えられているのに、忍耐できず自力で解決へと動き出し失敗する。そして何を見て、何を信じていたのかと反省する。動揺する時こそ、力ある主の御手の下にへりくだり主を待とう。
2011年07月12日(火) 「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12
「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12
ある男性は仕事で業績を上げていた。早朝出勤、深夜帰宅で、人一倍働いた。厳しい営業の世界を生き抜き、自分には人より能力があり、仕事に必要な決断力、判断力があると自負し、自信があった。しかし、根本的に、人との比較の上に成り立っているため、自分より成績を上げる人が現れるや、優越感は途端に劣等感に変わった。自分がだめに思え、ひどく落ち込んだ。 そして、いつもこの優越感と劣等感の間をグルグル回っていた。自分が優位に立つと、自分を誇り、人を見下げ、人が優位に立つと、妬みや競争心が心に渦巻いた。心の中は醜さでドロドロであった。しかし、自分は全く同じ自分だ。何も変わらない。だのに、目の前の人によって、自分が上がったり下がったりする。よく考えれば、おかしな話だ。 この優越感と劣等感はなぜ起きるのか。御言葉は人との比較から来ると言う。自分の価値を人との比較で量るところから生じる。常に心が揺れ動く。平安が無い。優越感に浸りたいのは、劣等感があるからだ。劣等感は苦しい。だのに、なぜそこをグルグルするのか。それは、結局、神ではなく、自分を見続けているからだ。目を神に上げないなら、一生自分と横を見る事になる。目を上に向けて、自分をあるがまま受け入れて下さっている主に、あるがままの状態を打ち明けて行こう。導いて下さる。 ------------- 人が量る評価を気にすると自分で自分を裁き、無駄に傷ついていく。人の目より神様が見ていて下さる自分を信じ、今の自分を受け入れ自信を持って歩んでいこう。あるがままを受け入れて下さる神様に感謝だ。
2011年07月11日(月) 「主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた」創世記29:31
「主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた」創世記29:31
レアは、ずっと妹ラケルとの比較に生きてきたかも知れない。ヤコブとの結婚によって、ますます劣等感が強くなって行った。そんなレアを主は憐れまれた。それでレアの胎を開かれた。「ルベン」と名づけ、主が悩みをご覧になったと言った。ルベン誕生により、夫が今こそ自分を愛するだろうと思った。しかし、そうはならなかった。第二子のシメオン出産は「主は私がきらわれているのを聞かれて」とレアが神に祈った結果だった。そして次々と産み、最後はユダ「主をほめたたえよう」と名づけた。 レアは変えられて行った。これまでレアは、自分の容姿等をラケルと比較して劣等感にさいなまれ、また夫がラケルを愛していて、自分には気持ちが無いことで悩み苦しんでいた。しかし、主を見上げた時、変えられた。レアの女奴隷が男児を産んだ時は、アシュルと名づけ、レアは「なんとしあわせなこと。女たちは、私をしあわせ者と呼ぶでしょう」と言った。 私たちは何を学べるだろう。レアは劣等感の中で生きて来て、又、夫は妹ラケルを愛していて、夫の愛を求めても〃得られない境遇にいた。満たされない、不幸な、寂しい状況だ。そんな中で、レアは神に目を向け、神の愛に、憐れみに目を向けて行った。神は、レアの不幸な境遇を通して、ご自身に近づけて下さった。私たちの悩み、問題を通して、神の愛を知って行ける。 ----------- 人からの評価に目を向けず神様の真実な報いのみに望みを置く時に、神様は豊かに応えて下さる。レアの系図からイエス様はお生まれになった。
2011年07月10日(日) 「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30
自分がないがしろにされたり、忘れられたり、無視された時、心に何が湧き上が るだろう。自分が活躍した場を、位置を、人に明け渡さなければならない時、心 の内はどうだろう。 ある女性は職場で、機器を指導する立場にあり、余りにも多忙だった。そこへ丁 度、その事に熟練した人物が配属になった。それで彼女に任せて、荷が軽くなり 喜んだ。ところが段々、皆が自分より彼女と親しくなり、相談事を持ちかけてい る事に、妬みが湧いた。 ある学生は、クラブで部長をしていたが、体調を崩し、別の生徒に代わって貰っ た。すると人気がそちらに移り、同様に妬みに苦しんだ。その事により自分の罪 がわかった。 ヨハネの弟子たちは、皆の関心が師のヨハネから、主イエスに移って行く事を不 満に思った。しかし、ヨハネは、今までの主役の座を降り、主が盛んになられ、 皆の関心が主に移って行く事を喜んだ。それがヨハネの使命であることを自覚し ていた。 私たちはどうだろう。知らない内に、「自分が、自分が」と自我が出てしまう。 少し自分が無視されたり、忘れられると、怒ったり、ひがんだり、落ち込んだ り・・。 しかし、へりくだって、主の栄光に焦点を合わせる時、心は平安にされる。又、 他の人を生かして行こうとする時、主からの平安に心が守られる。そしてその時、 他の人の成功や賞賛を、喜ぶことができる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 生まれつきの肉は、常に「私が」「私が」だ。自分が中心であり、盛んになるの は自分だ。起こる様々な出来事を通して、砕かれて、主が盛んになられる。今、 目の前の出来事は、主が盛んになられ、私が衰えるためではないだろうか。
2011年07月09日(土) 「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい』」ヨハネ5: 8
「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい』」ヨハネ5: 8
38年間、病気で伏せっていた男性に、「イエスは彼が伏せっているのを見」主 のほうから、目を留められた。そして「よくなりたいか」と語りかけられた。彼 は、即、「よくなりたいです」と答えたのではなく、介助者がいないゆえにこの ままだと、人のせいにした。 確かに、実際、誰も助けてくれる人がいなかった。孤独な人生だったかも知れな い。何もかもご存じで、主は御声をかけられた。今までの状況も、心の状態もご 存じの上で「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じられた。38年間、人 のせいにし、他を責めつつ、自己憐憫、諦め・・そこはそこで、楽で、居心地良く なって来る。 そのような床を捨てて、起き上がって、歩み出せと言われた。「よくなりたい か」の主の言葉は、現状を照らし出した。御言葉により、一歩を踏み出さない限 り、癒しはない。彼は、御声を聞き、「よくなりたい」と受け入れ、信じたゆえ に、起きようと意志した。 すると、主から力が臨み、起き上がることができた。すぐに直って、床を取り上 げて歩き出した。私たちにも、「イエスは彼が伏せっているのを見」主のその慈 しみと愛のまなざしが注がれている。 私たちの弱さ、傷、病、罪をご存じで、「よくなりたいか」と御声をかけて下さ っている。自分にとって、ずっと依存していて、取り上げるべき「床」は何だろ う。一歩を踏み出そう。 ・・・・・・・・・・・・・ 何度やってもだめで、失敗を繰り返し、もはや諦めてしまっている、そんな状況 に、主は「よくなりたいか」と御声をかけて下さる。そして「よくなりたい」と いう心の奧の思いを、目覚めさせて下さる。主を信じる時、みわざを見る。
2011年07月08日(金) 「立て、主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった」士師7:15
「立て、主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった」士師7:15
神が、ギデオンに勝利を下さったのは、不思議な方法だった。いなごのように大勢のミデヤン人やアマレク人に対して、ギデオンの兵力は32000人だ。しかし、それでもまだ多いと、最後にはたったの300人までに減らされた。その理由が、イスラエルが自分の手で自分を救ったと言い、神に向かって誇るといけないからと。神に栄光が帰されるためだ。そして武器も、角笛、からつぼ、たいまつだった。 300名の人々が一斉に角笛を鳴らし、からつぼを砕き、左手にたいまつを堅く握り、右手に角笛を握って、「主の剣、ギデオンの剣だ!」と叫んだ。ミデヤン人は驚き、動揺してしまった。角笛を吹き鳴らしている間に、主はミデヤン人の陣営全面に渡って、同士討ちが起こるようにされた。神の超自然の介入があり、神が奇跡をされた。 いなごのように大勢の敵に対して、味方はたったの300人だ。ギデオンはどうだったのだろう。「主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった」神はすでに勝利を約束して下さっている。そこに立ち、御言葉を握りしめ、あくまでも御言葉にとどまり、とどまり続ける事が大切だ。そして言われた通りに、従うことだ。現状を見るのでなく、神の約束を握り続け、信仰に立つ時、神が介入して下さる。人数でなく、人間的能力でなく、神によって勝利はもたされる。 ----------------- 戦いは自分の思いを成し遂げるためにではなく、主の御心をよく悟り、主が与えてくださる方法を守り、主にあって戦おう。問題が起こったら、すぐに主のもとに行き御心を尋ねよう。
2011年07月07日(木) 「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」士師17:6
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」士師17:6
エフライムにミカという人がいた。家は裕福であり、家に宮を持ち、後には祭司を雇うほどだった。ミカの母親が、銀千百枚が盗まれた時、盗んだ者を呪った。しかし、息子が盗んだ犯人と知るや一転、息子を祝福する。一貫性無く、自分の都合次第で、何でもありだ。ミカが銀を返した時、母親は、その銀を聖別して主に献げると言ったが、二百枚を献げただけで、何とその銀で彫像を作った。それがミカの母親だった。 ミカもミカで、自分の家に宮を作り、エポデを作り、自分の息子を祭司にしていた。そこに丁度レビ人が来たので、お金の力で、自分の家の祭司にした。レビ人も、お金に目がくらみ、ミカの要請を受け入れた。王が無い時、このように、偶像礼拝、秩序の乱れ、混乱、滅茶苦茶だ。「自分の目に正しいと見える」=「自分に都合の良い」だ。正義も、義も、御心も無く、ただ自分に都合の良いように、判断もその場〃で、コロコロ変えて行く。 そうなるのは、「王がない」ためだと。王が無い時に、自分中心、自分の都合、自分勝手に歩んで行く。主を自分の王座に、来ていただかないなら、自分自身も同じ状態だ。イスラエルのように、口では「神」、「主」と言いつつも、自分の都合のままにそれて行く。主を心の王座にお迎えし、主の御声に耳を澄ませ、主に従おう。 ---------------- 自分の目や感情ほど不確かなものは無いと知っていても、やはり朝毎に、真摯に主を心に据え、御言葉によりしっかりと一歩を指し示してもらわなければ、すぐに都合の良い判断に流れてしまう。今一度覚えたい。
2011年07月06日(水) 「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」コロサイ3:23
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」コロサイ3:23
周囲への配慮、親切、人々に仕える事は、主に喜ばれることだ。しかし、私たちが人々に仕える時、心はどうだろう。無意識にも報いを求め、見返りを求めてしまうだろうか。相手に犠牲を払って、もし感謝が無かったなら、心の内はどうだろう。そこから解放される道は一つ、キリストに仕えることだ。人にではなく、キリストに仕えるなら、人を愛する事ができる。時間や労力を、惜しみなく与えることが出来る。 人に時間や労力、必要を与えようとする時に、主を自分の前に置き、そして主に対してすることだ。そうするなら、主に仕えているのであり、相手から感謝が無くても、喜びもって平安に歩める。一つ一つの行為は、主に対してする事になるからだ。ある教会でのクリスマス、ある女性が持ち寄りにクッキーを焼いて持参した。ところが多忙な係の人に、そこに置いておいて下さいと言われ、見る事も、感謝も無く、せっかく時間をかけて作ったのにと腹を立てた。 しかし、その時に、自分は誰のために、何のために作ったのだろうと思わされた。主のために献げたのなら、人の感謝を求めるのは違う。どんな些細な奉仕でも、主に対して献げたなら、主が報いて下さる。そして、仕えている相手が主であるなら、私たちの心に喜びが湧く。 ------------- 喜びもなく物や人に仕えるのではなく、主を自分の前に置き、主が喜んで下さる、の思いで心をこめてやって行こう。人目につかない働き、影の働き人を主が見ておられる。
2011年07月05日(火) 「国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する」箴言28:2
「国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する」箴言28:2
多くの首長達がいる時、十人十色の意見があり、皆違う。バラバラだ。それぞれが自分の思いがあり、独自の見解がある。一致など、とてもじゃないが望めない。日常で経験する。夫婦、親子、家庭、職場、学校、近隣で、意見が衝突し、ぶつかり合う。何かをしようとする時、決めようとする時に、それぞれ独自の主張がある。結論はどこに行き着くのだろう。押しの強い人の意見か。決して譲らない頑固な人の意見が通るのか。多数決なのか。 教会内での分裂のもとは「私の気持ちはどうなるのか」だ。皆が、私の気持ち、私の気持ち、と言い出すなら、分裂必至だ。私の気持ちが無視された、私の気持ちが通らない、私、私・・。同じ事が、外側ではなく、私達の心の中でも起きる。様々な思いが起こる。イエス、ノー、相反する思いも出て来る。 心の中にも多くの首長達がいる。肉の思いだ。何をもって決定するのか。自分の好み、楽な道か、人から言われた道か。「分別と知識」神の言葉によって、「ひとりの人」主イエスによって決定して行く時、御心にかなった、いのちの道へ導かれる。様々な肉の意見や思いで混乱する時、分別と知識のある主のもとへ行き祈り、御声に耳を傾けよう。その時、どんなに人が多くとも必ず一致がある。首長たちに振り回されていないか。 ----------------- 騒がしい声が内から外から聞こえて来るが、最善の道へと導いて下さるのは主だ。その信仰に立ち、振り回されずどんな時も御心を求めて祈っていこう。自己中心や分裂や混乱や破壊に至る道は、神様からのものではない。
2011年07月04日(月) 「こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て・・」ルツ1:22
「こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て・・」ルツ1:22
ユダ族のエリメレクは、飢饉のためベツレヘムを離れ、食糧を求めて、異教の地モアブに家族を連れて逃れる。しかしその地は「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して主の集会に、入る事はできない」と主が言われたモアブだった。その10年間に、彼は死に、二人の息子も死に、妻のナオミと二人の嫁が残される。 神の約束の地から離れた一家は、苦しみに会う事になる。家族の幸せのために、異教の地に移ったはずが、家族を失い、悲惨な結果になってしまった。ナオミは夫も息子達もいない今、故郷に帰る決心をする。途中で、二人の嫁に実家に帰るように強く勧めた。しかしルツは「あなたの神は私の神」と、ナオミと共に行く強い決意を告白した。 ルツは、ナオミを通してまことの神を見上げていた。ナオミは「私をナオミ(楽しみ)と呼ばずにマラ(苦しみ)と呼んで下さい」と言ったが、異国の地でどんなに苦労があった事だろう。厳しい刈り取りであったろう。何もかも失ってしまったかに見えた。しかし、そうでは無かった。帰国する際には、神を信じ、神に従い、姑を深く愛する嫁ルツが与えられていた。 ルツの信仰はナオミがモアブの地にありつつも、ナオミの信仰を受け継いだものだったろう。私たちも失敗する。肉で行動してしまう。しかし、神に立ち返る時、その失敗をも益として、尚も主のあわれみは尽きず、「ルツ」を与えて下さる。 ----------------- 苦労の刈り取りであっても、失敗したらそこから神様に立ち返ろう。いっさいの導きを神様にお任せし歩みはじめるなら、必ず私達にも「ルツ」を備えていて下さる。神様のあわれみと慈しみ尽きない。
2011年07月03日(日) 「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心 でその人を正してあげなさい」ガラテヤ6:1
「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心 でその人を正してあげなさい」ガラテヤ6:1
もし、あなたのそばに過ちに陥った人がいるなら、そのままにしておかないで、 その人を正してあげなさいと、主は言われる。「御霊の人であるあなたがたは」 とあり、その場合、大事な事は、自分自身が御霊に導かれている必要がある。 まずよく祈り、御霊の示し、御霊からの言葉を受け取ることが大切だ。その時、 御霊がこの事をさせて下さるという確信が与えられる。それゆえ心に平安が臨む。 平安をもって事に当たれる。そして自分もよく整えられ、「柔和な心で」愛をも って真理を語ることが大切だ。 ただ真理の剣で刺し貫いて、裁いて責めるのではなく、自分も罪人であり、同じ 状況になれば、罪を犯すや知れず、自分が相手の立場であるならとの思いやりを 持って語る。そうする時、御霊が働かれて、相手に間違いを示し、悔い改めの心 を与えて下さる。 ダビデを悔い改めに導いたナタンは、神から示され、神に従いその任に当たった。 彼は、ダビデの事を考え、ダビデにわかるように、ストレートでなくワンクッシ ョン置き、羊のたとえを用いて語った。ダビデはその話により自らの罪の重大さ がわかった。 わかった時、主の御前に心底悔い改めた。瞬間、罪の赦しが臨んだ。ナタンは用 いられ、神からの大任を果たした。私達もそのために用いられる。又、逆に人か らの忠告は、真摯に耳を傾けよう。間違いから守られる。 ・・・・・・・・・・・・・ よく祈って、自分がその立場ならどうかと考え、相手への愛と同情がある時に、 御霊に導かれた言葉は、相手の心に響く。愛が無いなら、正しい言葉も、相手に 届かない。うるさいシンバルだ。御霊に導かれて、事にあたろう。
2011年07月02日(土) 「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」Uサムエル12:13
「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」Uサムエル12:13
ダビデは、姦淫と殺人という二重の大罪を犯してしまった。バテシバとの姦淫をすぐに悔い改めたら良かったが、それを隠ぺいしようとし、夫であるウリヤ殺害にまで至った。犯してしまった事であり、時間を元に戻すことは不可能だ。自分は王であり、意のままであり、隠し続けていたが、神はナタンを遣わされた。 ナタンの指摘によって、ダビデは自分の罪として認めた。これはダビデの素晴らしいところであった。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを・・」と詩編51にあるように、私たちが罪を犯す時に、たとえ人に対して犯す罪であっても、それは神に対する罪だ。だから、やられたのだから、報復してもよいという事にはならない。報復するなら、神に罪を犯す事になる。 神は「わたしが報いをする」から報復するなと言われる。私たちが罪を犯す時、人に対しであっても、それは神に対して犯す罪であることをわきまえていよう。そして、「自分が」罪を犯したのであり、環境でも、他人のせいでもない。環境や人のせいにしている限り、自分は悪くないのであり、赦しを受け取る事は不可能だ。 なぜなら、十字架の血潮は「罪人」のためだけであるからだ。ダビデはバテシバのせいにしなかった。正面から自分の罪を認めて、赦しを受けた。もし、認めるなら、罪は完全に赦される。 ------------- 罪は神に対して犯しているとの認識なら、その言い訳など一つもないはずだ。さまざまな動機があり罪を犯してしまっても、しっかりと罪と認め神様に直ちに悔い改め赦しを受け取り、再び出直すべきだ。
2011年07月01日(金) 「あなたはわずかな物に忠実だったから・・主人の喜びをともに喜んでくれ」マタイ25:21
「あなたはわずかな物に忠実だったから・・主人の喜びをともに喜んでくれ」マタイ25:21
主人はしもべ達に、能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを与えた。そして、5タラントと2タラントの者が、それぞれ儲けて主人のもとに差し出した。しかし、ここで、主人は幾ら儲けたかに全く言及していない。額は言っていない。主人が言及したのは、その「忠実さ」であった。 「良い忠実なしもべ」「わずかな物に忠実だったから」と、忠実さを認めて誉めている。主人から預けられたものを用いて、精一杯仕える事を、主人は喜び、賞賛している。しもべが商売に失敗するかも知れない、主人にはそのリスクがあった。しかし、主人はそのリスクも承知の上で、しもべ達に財産を預けた。それはしもべ達を信頼しているからだ。 私たちは一人一人賜物を授けられ、主から、その大きな信頼を受けている。主人の愛、共に喜びたいと願われる心を知っているので、失敗を恐れず、与えられたもので精一杯、主人のために仕えたいと思う。任されたものは、一人一人皆違う。 境遇も立場も能力も違う。 そこで間違ってしまうのが、隣と比較し、劣等感に陥り、タラントを地に埋めてしまう事だ。他との比較でなく、与えられたものを、精一杯用いる事が大切だ。ただ主を見上げ、遣わされた場で「忠実に」仕えて行く時、劣等感から解放され、喜びが与えられ歩んで行ける。 ------------ 神様が自分だけに任せて下さった賜物は、神様のものだ。今日という日も自分だけに与えられ任された特別な日。土に埋めてしまわず主の喜ばれるような歩みをしていきたい。