2011年08月31日(水)

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」箴言29:25



信仰生活で「恐れ」が罠になることに気付かされる。誰しも幸せを願うが、どうなれば幸せなのだろう。この世では人からの賞賛、評価、人に認められる事だ。しかし、人の評価で、自分が幸せになったり、落ち込んだりするのは、いかがなものか。自分の幸せが、他人によって定められ、コントロールされている事になる。それこそ、人の目を気にし、人を恐れて罠にかかってしまう。

よくある事だが、対人関係で、合わない人が必ずいる。その人の言動や態度で、悪く思われているのではと、疑いが起こり、あれこれと考え、心暗くなる。しかし、相手が本当にそうなのか、自分の妄想なのかわからない。そこに巧みにサタンが乗じて来て、疑心暗鬼にする。そんな時の鍵は「主に信頼すること」だ。主に信頼して行く時、罠から逃れられる。人に振り回されずに、自分は主に従って行くことだ。

例えば相手が挨拶を返さずとも、自分は挨拶をして行く。人の目を恐れず、主に従い、自分のすべき事をして行く時、自分自身は心が守られ平安だ。又、人の顔色を見るなら、正しい事ができなくなる。自分だけ違う行動を取るなら、皆にどう思われるかと、恐れによって自分が制御されてしまう。しかし、そんな時「主を恐れることはいのちの泉。死のわなからのがれさせる」。主を見上げ、主に従う時、力と平安が与えられ、死の罠から逃れる事ができる。
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目の前に来る人の思惑や感情に敏感に反応し対処する知恵をずっと訓練させられて来たが、今は主の指針を持っている。主を見上げ、心がいつも主の御心の内にることを祈ろう。神の前にも人前にも聡明でこころ守られる道だ。


2011年08月30日(火)

「それで、サウルは主に伺ったが、主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかった」Tサムエル28:6

ペリシテがイスラエルと戦おうと陣を敷いた。サウルはそれを見て恐れわなないた。恐怖の余り主を求めたが、主からの答えは無かった。なぜ答えが無かったのか。サウルは神の言葉に従わずアマレクを聖絶しなかった。又、ダビデを殺害しようとし、ダビデに組したと沢山の祭司達を殺していた。罪を犯しながら悔い改めなかった。やり直せたに関わらず、悔い改めずに罪を重ねて行った。

サウルは神を拒み、神はもうサウルに答えられなかった。ペリシテの大軍に恐れをなした時、サウルは悔い改めの無いまま、神に助けを要求するほど高慢になっていた。その結果、霊媒に頼る事となり罪に更に罪を重ねて行った。主がサウルを去り、サウルの敵となられたこと、王位がダビデに移ること、サウルも息子たちも、イスラエルの陣営もペリシテの手に渡されること、それを聞くとサウルは「倒れて地上に棒のようになった」。

戦いの結果、息子達は殺され、サウルも死に、多くの民も死んだ。ダビデは対照的だ。彼も大罪を犯したが、悔い改めた。神の赦しを受け取り、信仰の生涯を全うした。私達も古い性質があり、弱さがあり罪を犯してしまう。しかし、主の十字架の血潮がある。罪を認め、悔い改めて歩む時、全く赦してきよめて下さる。「赦されている」ここに立つ時、やり直す事ができる。どんな時も、前に進んで行ける。
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くり返し失敗し罪を犯しながら生きて行く者でも、犯した罪に対して悔やみ、悲しみ二度とくり返したくないと祈る者でありたい。十字架を喜ぶと同時に、神を畏れ神に助けられて歩むしかないと、いつも覚えていたい。


2011年08月29日(月)

「主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました・・私もまた、この子を主にお渡しいたします」Tサムエル1:27


不妊のハンナの悩み、苦しみは深かった。主の前で、激しく泣き、長く祈り、その祈りはうめきとなった。祭司エリには、彼女が酔っているように見えた。しかし、ハンナはつのる憂いといら立ちで、主に心を注ぎ出していた。私たちも、余りの苦しみに、痛みに、何をどう祈ればよいかもわからない時がある。神にその心をそのまま注ぎ出せば良い。どう祈ってよいかわからない、その祈りを御霊が助けて下さる。

もし男の子が与えられるなら、主に献げると誓願を立てた。つまり、ハンナは自分自身を主に明け渡した。私たちは、主にあれが欲しいこれが欲しいと要求し、願うが、自分の大切なものは握りしめて、決して主に献げる事はしない。自分の思い、プラン、自分に属するもの・・そうであれば、神の御心を知る事ができない。ハンナは、何もかもを主に委ねた。自分の持てるものも、思い煩いも、将来も、自分の思いもすべてを明け渡した。

その時、エリから「安心して行きなさい・・神があなたの願ったその願いをかなえて下さるように」との言葉を受けた。その結果、ハンナは帰って食事ができた。「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」ハンナは、心すっきりし、すでに得たりの平安が与えられた。私たちも主に気持ちを訴え、聞いて頂こう。御霊が共に祈って下さる。そして、思い煩いを、自分自身を明け渡そう。
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問題が起きるとそれがなくなることだけを求めてしまう。解決を手にしてもまた次ぎの問題は来る。悶々と思い煩っている自分自身を主に丸ごと渡していこう。主の解決だけを待ち望む自分に変えられたい。


2011年08月28日(日)

「きょう、私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐したのをやめさせたあなた に、誉れがあるように」Tサムエル25:33 



信仰生活で、人に中傷され、理不尽な扱いを受ける時、怒りが湧き上がる。そん
な時どうすれば良いのか。自分で報復せずに、神の怒りに任せるのが最善だ。怒
りは罪ではないが、罪が誘発されやすい。「怒っても、罪を犯してはならない、
日が暮れるまで憤ったままでいてはならない」。

悪に対する正しい怒りがあるが、自我からの怒りは罪だ。ダビデは、ナバルが自
分を罵った事を耳にした時に、即、報復の行動を取る。しかし、ナバルの妻アビ
ガイルの機転、賢明な忠告により、自分で復讐して神の前に罪を犯す事を思いと
どまった。

怒りには、底に憎しみが潜み、周囲に害毒を流す。ナバルがダビデを罵った事は
神の許しのもとで起きた。ダビデが神視点に立ち、そこを見ていたなら、軽率な
行動に走る事は無かった。祈って、神に導かれて対応できたであろう。しかし、
この事で彼は学んだ。後にシムイに呪われた時、冷静に対処できた。

報復しようとする部下に「・・放っておけ。彼に呪わせよ。主が彼に命じられたの
だから」と言えた。愚かなナバルは神に打たれて死んだ。復讐は神がされる。
「復讐はわたしのする事である。わたしが報いる」と言われる。神の怒りに任せ
るべきだ。
更に、善をもって悪に打ち勝て、と言われる。侮辱をもって侮辱に報いず祝福を
与えよと。自分では不可能だ。しかし、主を仰ぎ、御霊の導きに一歩一歩従って
行く時、そのような者にされて行く。従うなら、変えられて行く。

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自我に触れる怒りは、罪へと誘発されやすい。カッとなり、正しい判断が吹っ飛
んで、肉の言動、肉の行動へと走ってしまい、気づかない。冷静になって、後悔
することになる。まず、祈ろう。主にことごとく告げよう。そうするなら、御霊
がなすべき事も導いて下さる。


2011年08月27日(土)

「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれな い」エステル4:14


アハシュエロス王の時代。ユダヤ人モルデカイがハマンにひれ伏す事を拒否。怒
ったハマンはモルデカイと全ユダヤ人を滅ぼす法令を王の名で発布、全州に送付
された。

街は大混乱、モルデカイは、王妃である養女エステルに、王に憐れみを求めるよ
うにと伝える。しかし、王に召されないで内庭に入る者は死刑だ。ただし、王が
金の笏を差し伸ばせば、生きる事ができた。

そこで、エステルはモルデカイに、すべてのユダヤ人が三日三晩、断食して祈る
ように要請。その後、死を覚悟して王のもとへ行くと。人間の苦境、絶体絶命は
神のチャンスだ。神の全能の力が働く時だ。祈り、そして、祈りから立ち上がり、
行動を起こした。

祈った後、実際の行動に移る事は重要だ。エステルは王宮の内庭へ。すると、王
は金の勺を差し伸ばした。その夜、王は不眠のため年代記を読み、モルデカイに
栄誉、昇進を与える結果となる。そして、エステルの訴えによりハマンの悪巧み
が発覚。逆にハマンが滅び、エステルは用いられた。

これら一部始終に神が働かれた。エステルの王妃の地位。王のエステルへの好意。
王の不眠。年代記を読みモルデカイの手柄を発見・・。すべてピッタリの神の配剤
であった。

モルデカイがエステルを養女として引き取り、育てたこと、そのエステルが王妃
となったこと、その時にはわからなかった神の意図が今、明らかに。ユダヤ人の
救いのために、予め、エステルが置かれた。

ハマンの悪意をも、そこに神が働かれ、万事を益と変えられる。すべてがご計画
の内だ。民の祈り、エステルの死をも賭した勇気、献身を用い、神が民の救いを
成し遂げられた。

・・・・・・・・・・・・・・・
「もし、沈黙を守るなら、別の所から救いと助けが起ころう」、もし私たちが従
わないなら、別の人を用いて、神はご自身のわざを必ずや成し遂げられる。神が
用いて下さるのは、私たちの祝福のためだ。今、遣わされた場での主の呼びかけ
に応答しよう。大きなみわざを見る。


2011年08月26日(金)

「私に御心をとめ、私に答えてください。私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています。それは敵の叫びと、悪者の迫害のためです。彼らは私にわざわいを投げかけ、激しい怒りをもって私に恨みを抱いています」詩編55:1

ダビデが苦しみ、うめき、泣きわめいている姿を見る。ダビデを攻撃して来る敵の叫びと迫害。何も悪い事はしていないのに、敵の激しい怒りと恨みの対象となり、どうにもならない辛く、苦しい状況だ。だが、それを神に向けて訴え、祈り、叫んでいる。自分ではどうする事も出来ないので、ひたすら神に向かい、思いのたけをぶちまけ、願っている。この姿は幼子のようだ。

赤ん坊は自分でどうにも出来ないので、泣いて母親の助けを求める。自分の無力を知るからこそ、助けを求めている。そして「私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる」「私は嘆き、うめく。すると主は私の声を聞いてくださる」と。神は祈りを聞いて、答えて下さり、救い出して下さる。ダビデは、いつも神と親しく交わり、気持ちをことごとく打ち明け、心の内を知って頂いた。そして、神の愛の中に憩った。御翼の陰にかくまわれ、平安をいただいた。

苦しい状況に置かれた時、心が疲れ果てた時、なすすべなく行き詰まる時、私たちもダビデにならい、まずすべき事は、ことごとく苦しい思いを神に持って行く事だ。自分で何とかしようとせずに、まず神のもとへ行こう。人生で最大の苦境に陥った人々が口々に言う。気も狂いそうな苦しい状況の中で、心から主に呼ばわった時に、御翼の陰にかくまわれたと。この世のものではない、主の平安を経験したと。今、問題があるなら、まず主に告げよう。
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喜びがないなら喜びを、不安があれば慰め平安を下さいと祈ろう。必ず主からの答えを受け取る。小さな心の変化や環境のわずかな変化が主からの答えとわかるから大きな喜びに変わりまた光が見えてくる。


2011年08月25日(木)

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」ローマ8:9


ある人の証しだ。小さい時から、親の叱咤激励により、頑張って〃生きて来た。何でも懸命に頑張る事により、家庭でも学校でも、友人間でも評価を得て来た。「良い子」として、周囲に認められたくて必死だった。人に認められる事で自信となった。それが信仰者となった後も、気づかないまま同じ価値観で歩んでいた。

「良い子」が、「良いクリスチャン」に取って代わっただけで、懸命に頑張って、神と人の賞賛を得たい、評価を得て、認められたいと必死だった。とにかく自分に付加価値をつけて、何とか自信を保とうとした。しかし、それなら比較の上に立っているわけで、自分に優る人など、幾らでも出て来る。すると劣等感に落ち込んだ。又、どんなに頑張っても、律法を守り切る事は不可能だ。

喜んでいる振りをしていても、心の中では、自分はだめだ、だめだと、常に喜びも平安も無かった。自分の力で歩んでいて、気づかなかった。段々と、出来ない自分を見せられた。頑張るが出来ない。すると更に頑張ろうとする。しかし、律法を守る事は不可能だ。様々な事を通して砕かれ、自信を砕かれた。

そして、それが幸いであり、自分の弱さを心底認める事ができた。弱いままで、愛され受け入れられている事を初めて経験し、安堵と平安が心に広がった。今まで決して人に弱さを見せられなかったのに、人にも弱音を吐けるようになった。すると、信仰生活が楽しくなり、喜びに変えられた。
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肉に生きるなら、昨日まで喜んで頑張れても今日はくじけてしまうもろい者だ。御霊に生かされ、御霊の中にいる者とされている事実に固く立ち、足りないままで愛して下さる御神と共に歩んでいこう。


2011年08月24日(水)

「こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた」Tサムエル24:5


サウルが殺意に燃えて、追って来た時、ダビデ達は、ほら穴の奥に隠れていた。それを知らずに、サウルはそのほら穴で用をたした。もしこの時、見つかっていたなら、ダビデは殺されていただろう。しかし「サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった」の通り、神の主権において、神はダビデを守られた。その所で、サウルは眠ってしまった。

ダビデの部下は、今こそが神からのチャンス、千載一遇の機会と、ダビデにサウルを打つよう進言した。しかし、ダビデは「油注がれた方に対し、主の前に絶対にできない」とサウルの上着のすそをこっそり切り取った。そして、その事だけでも心を痛めた。部下を説得し、サウルを襲う事を許さなかった。ダビデは神を畏れ、神を信じ、信仰に立っていた。

サウルはダビデをつけ狙ったが、ダビデは決して攻撃をしなかった。そしてサウルに、ひれ伏し、わざわざ自分の非を詫びた。そして自分はずっと無実であり、この時にも手を下さなかった事を、認めて貰えるようお願いした。被害者が加害者を許し、へりくだって、お願いするという驚くべきダビデの姿だ。「サウルは声を上げて泣いた」が、この後もサウルの妬みは去らず、悪化の一路をたどった。しかし、暗闇が地をおおう時こそ「あなたの上には主が輝き」ひどい嫉妬、悪意、悪質な攻撃の中で、その信仰は、ますます輝きを増す。
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相手がどうであれ、神様が求めておられる態度で接して行きたい。神が立てられ与えられた家庭や学校、職場にあってお手上げの状態になる時、相手に流されず御霊にお任せする事ができますように。


2011年08月23日(火)

「ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいるということが知らされた。そこでサウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて・・ダビデとその部下を捜しに出かけた」Tサムエル24:1


サウル王は、最初は謙虚に神に仕え、民にも良く思われていた。ところがトップに立つと、謙虚さを忘れ、心は高慢になり、初心から離れて行った。部下のダビデは戦いに出るや、どんどん手柄を立てて戻る。民の人気はダビデに傾いて行った。女たちが笑いながら言った「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」との言葉に、プライドはひどく傷ついた。

怒りは燃え、妬みは憎しみへと増幅して行った。そして、憎しみは殺意へと発展して行く。もしサウルが信仰に立ち、神を見上げていたなら、それらの誘惑から守られ、心は平安であっただろう。自分が王位にいるのは、神による事であり、それは神の恵みであり、賜物であり、忠実で、優秀な良き部下が与えられているのであって、どんなにか感謝な事であったろう。信仰により、神視点で見るなら、感謝しかない。

しかし、サウルは神を仰ぎ、神に従うところから離れ、プライド、面目、人の目、虚栄心のとりことなり、屈折した感情は、妬みの対象であるダビデに向いた。その嫉妬は殺意となり、実際、ダビデに槍を投げて、突き刺そうとした。この時も、ダビデが荒野にいる事がわかると、何と三千人を引き連れて向かった。それも敵との戦いでは無く、一人の部下を倒すために。神から離れ、肉の感情に、思いに、欲望に振り回される、悲惨な姿を見せられる。へりくだり、すべての道に主を認め、主に従う時、道をまっすぐにして導いて下さる。主を認めよう。
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屈折した感情をそのままにしていれば御心から離れ、悲惨な結果へと暴走する。すぐに主に叫び、断ち切っていただこう。主の下にへりくだるなら嫉妬や疑いから正しく心を守られる。


2011年08月22日(月)

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」箴言14:12  



罪は苦いと思いがちだが、そうではない。罪には快楽がある。罪は苦いのでなく、甘く、楽しいのだ。快適で、心地良い。罪が苦ければ、誰も罪になど誘惑されないし、これほど多くの問題は起こらない。悪魔の策略だ。欺かれてしまう。肉に歩んでいながら、心地良いので、一見何の問題も無いし、快適なのだ。万事うまく行っている、大丈夫だと錯覚させる。実は、みこころに反していながら気づかない。

死の道が、人の目にはまっすぐに見えると、主は言われる。狡猾巧妙、一見まっすぐに見えるから要注意だ。自分の目には、まっすぐに見えているという事だ。しかし、悪魔にだまされて歩んで行くと、必ず悲惨な結果に行き着く。それは死の道だ。そして、蒔いたものは必ず刈り取る。蒔いたものに責任を取らねばならない。これは原則なので例外は無い。神から離れて、御心に反しているのに、別に問題なく、楽しいからいいではないかと言う人がいる。が、それは欺かれていて、悪魔の罠だ。後で思い知り、苦しい刈り取りをする事になる。

悪魔の策略は、人の目には、まっすぐで万事0K、うまく行っていると見える。もし、明らかに御言葉に反する道に行っているなら、幾ら楽しくても、心地良くても、方向変換しよう。そして、日々主と交わり、祈りの生活をしていよう。その時、間違うなら気づきが与えられる。
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罪が快適であるからこそ日々の気づきや、警戒がいっそう必要になる。快適にしているあのこと、このことは、神の目にまっすぐな道なのだろうか。大きく道を外れないよう、朝毎に聖書を開き、祈りながら確認して行きたい。


2011年08月21日(日)

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいと なさいました」創世記50:20


ヨセフは、兄たちの妬みと憎しみによって、つまり悪意によって、エジプトへの
隊商に売られてしまった。それは兄たちの明確な悪意であったが、結果的には、
その悪巧みを通して、ヨセフはエジプトの総理大臣となり、大飢饉の中、家族を
エジプトへ呼び寄せ、ヤコブの子孫のいのちを救うことになった。

「神はそれを良いことのための計らい」とされ「それは今日のようにして、多く
の人々を生かしておくため」であったと。神は、人の悪意すら用いて、良いこと
にされ、益と変えられる。それをも、ご自身のご計画のために用いられる。

パウロもユダヤ人たちの悪意により、囚人となってしまう。が、その悪巧みによ
り、結果的にどんどんローマへローマへと進められ、導かれる事となり、福音が
大きく広がる事になった。神は悪意すら用いて、ご計画を進めて行かれる。御心
を止めることは、誰にもできない。神の御心は、必ず成就されて行く。

ヨセフは理不尽な苦難だったことだろう。一人で異国の地に連れ去られ、どんな
に不安で孤独で恐怖だった事だろう。兄たちの仕打ちにどんな思いでいた事だろ
う。エジプトでは、主人の好意と信任を得たと思うや、無実の罪で牢獄へ。

しかし、苦しく辛い、悩みの炉を通りながら、ヨセフは砕かれ、練られ、整えら
れて行った。人の悪意は、信仰に立つ時、私たちに何の害も加える事が出来ない。
私たちを、更に主に近づけるばかりだ。

・・・・・・・・・・・・・・・
人の悪でさえ、主が介入され、良いことにして下さる。自らの失敗、過失をも益
として下さり、突如の事態をも、益と結果するようにして下さる。それも、それ
らすべてを、御子のかたちへと変えるように、愛、喜び、平安・・の実を結ぶよう
にされるとは、何たる恵み。


2011年08月20日(土)

「主が彼に幻の中で、『アナニヤよ』と言われたので、『主よ。ここにおりま す』と答えた」使徒9:10



アナニヤという信徒が出てくる。彼は使徒ではないが、主に忠実な、従順な信仰
者だった。主に「アナニヤよ」と語りかけられた時、「主よ。ここにおります」
と答えている。普段から、「主よ。どうであってもお従いします」が、アナニヤ
の姿勢であり、主との親しい交わりの中に生きていた人だったろう。

何と、主はサウロのもとへ行くように命じられた。アナニヤは驚き、戸惑い、率
直に思いを告げた。サウロは、聖徒達を迫害し、次々と縛り上げ、死に渡した者
であり、そんな所へ行くなど、自分も殺されるかも知れない。あのサウロが、本
当に回心したのだろうか。

主は、そのアナニヤの問いに答えられ、「あの人はわたしの名を・・運ぶ、選びの
器」であり、大いに用いられて行く事を明かされる。アナニヤは命がけであった
ろうが、間違いの無い主の御声に、主を信じ、従順に従った。主の指示通りに、
サウロのもとに行き、彼の上に手を置いて、「兄弟サウロ・・」と祈った時に、サ
ウロは見えるようになった。

このアナニヤの尊い従順のゆえであった。そして、主はアナニヤが従うことを知
っておられた。「主イエスが、私を遣わされました」と、アナニヤは「神から遣
わされた」との自覚と確信を持っていた。

私たちはどうだろう。私たちもそれぞれの場に、主から遣わされている。それぞ
れの置かれた場で、「主よ、ここにおります」と主の御声に応答し、御心に従っ
て行く時、大きなみわざのために用いられる。今、主に従順をお献げしよう。

・・・・・・・・・・・・・・
「主よ。ここにおります」に立ち、今、なすべき事を示されていたなら、勇気を
持って一歩従おう。主のみわざがなされる。「主イエスが、私を遣わされまし
た」、自分の思いでなく、主に遣わされて生きるところに、真の平安と喜びがあ
る。


2011年08月19日(金)

「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」ルツ1:16



故郷モアブの地で夫を亡くしたルツは、故郷を去り、姑ナオミと共にベツレヘム
にやって来た。ナオミの向こうに、まことの神を見ていたゆえであった。信仰に
よる決断であった。弟嫁オルパは実家へ帰ったが、ルツは姑にすがりついていた。
ルツにとって、何の当ても無い異国の地、ただただ神に拠りすがって来た。それ
はルツの選択であった。

そんなルツに、すでに何もかもが備えられていた。丁度「大麦の刈り入れの始ま
った頃」であり、ルツはナオミとの生計のために、落ち穂拾いに出るが、それは
「はからずも」ボアズの畑であり、そして「ちょうどその時」に、ボアズがやっ
て来た。

すべてにピッタリのタイミングだ。ボアズはルツに親切に対応する。様子を見聞
きし、ナオミはルツとボアズとの結婚を考え、ルツに指示を与える。ルツはナオ
ミの指示に「おっしゃることはみないたします」と全面的に自分を明け渡す。

「姑が命じたすべての事をし」従順に従った。ボアズも結果をすべて主に委ね、
法的手順をきちんと踏む。そして自分で事を押し進めるのでなく、神の御心を待
った。

結果的に、神から二人は結婚を与えられた。オベデが生まれ、孫はエッサイ、ひ
孫はダビデだ。キリスト誕生の系図に入れられた。何と大きな栄誉だろう。ルツ
を通して、神に従う事の幸い、大きな祝福を見せられる。

・・・・・・・・・・・・・

ルツが、見知らぬ異国へ向かったのは、まことの神への信仰ゆえであった。大き
な決断であり、神にその身を委ね「その翼の下に避け所を求めて来た」。翼の下
に身を寄せる者を、どのように受け入れ、どんなに豊かに報いて下さるかを見せ
られる。


2011年08月18日(木)

「イエスは『来なさい』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩 いてイエスのほうに行った」マタイ14:29

海上歩行の箇所だ。嵐吹きすさぶ中、湖の上を歩いて来られた主に、「私に水の
上を歩いてここまで来いと、お命じになって下さい」と願った。ペテロは、主の
お言葉さえあれば、水の上を歩けると信じた。ペテロの信仰だ。

すると主は、「来なさい」と御声をかけられた。御声を聞いたペテロは、舟から
出て水の上を歩いた。普通に考えるなら、あり得ない事だ。人間が水の上を歩く
など不可能だ。しかし、ペテロは歩いた。

どうして歩けたのか。それは、「来なさい」という主の言葉があったからだ。ペ
テロは主の言葉ひとつあれば、できると信じていた。だからこそ「ここまで来い
と、お命じになって下さい」と言った。そして、その主の言葉に従ったので歩く
事ができた。

もし主の言葉が無ければ、ペテロが歩いたとしても、歩けずに沈んだ事だろう。
主の言葉があり、そこにペテロの信仰による従順が一つになった時に、奇跡は起
きた。私たちも、信仰人生は、この世で、水の上を歩くようなものだ。私たちの
確固たる基盤は、目に見えるものではなく、主の言葉だ。主の言葉によって生き
ている。

主の言葉に従って行く時、どんな困難な中でも、前進して行ける。主の言葉と、
あなたの従順がある時、そこに主のみわざが現れる。「来なさい」との御声を聞
いたなら、一歩踏み出そう。状況に関係無く、歩いて行ける。主のわざが現わさ
れる。

・・・・・・・・・・・・・
「来なさい」と御声をかけられる主は、日々の生活で、いのちの言葉を語りかけ
て下さる。主を信じ、御声に従ったペテロだけが、水の上を歩くという大きな奇
跡にあずかった。今、御声を聞いていたら、勇気を持って一歩踏み出そう。


2011年08月17日(水)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、 そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24



信仰者の生活は、信仰を持つ前と、どこが違うのか?何が変わったのか?日曜日
になると教会へ行き、聖書を読んだり、祈ったりする事だろうか。それも変わっ
たが、何かをする時に、その動機が変えられて行っている。

以前は自分中心に動き、動機は、あくまでも自分の損得であった。自分の利益に
なるか、損失になるかが判断基準であった。得にならない事などする理由がない
し、損失になる事などとんでもない。そんな事のために、時間も、労力も、富も
使いたいなどと思わない。

しかし、今、判断基準は自分の損得ではない。例え、自分の損失になっても、主
に従おうとしている。軸が自分から主に変わり、主のお心かどうかが判断基準だ。
そして、自分の利益にならなくとも、主の御心を行なおうとし、実際、行なう時、
心に何にも代えられない、御霊の平安と喜びを経験する。

以前は、自分の欲望を満たす事が幸せであり、喜びであり満足だった。そのため
に生きていた。しかし、その満足は一瞬であり、又、心は渇いた。アダムが罪を
選んだ結果、「神のようになり」の通り、自分が神となって生きて来た。

原罪ゆえ、自分軸にしか考えられない者が、主のお心を求めている事自体が奇跡
だ。真の喜びと幸せは、自分を捨て、御心を行なって行くところにある。

・・・・・・・・・・・・・・
善い事をしても自分のためであり、自分の損得でしか、生きる事ができない肉な
る者が、自分の損になっても、主の喜ばれる事を、御心を行おうとしている。全
く自分の利益にならない事を、しようとする事自体が、主のみわざであり、そこ
に真の喜びを見い出す。


2011年08月16日(火)

「ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で、私に奇しい恵みを施されまし た」詩篇31:21

私たちは信仰生活の中で、時に瀬戸際、絶体絶命、非常なる困難に出会す。なす
すべなく、どうして良いかわからない。前にも後ろにも、右にも左にも進めない。
お手上げ状態だ。しかし、その時こそが、行き詰まりこそが、神のチャンスだ。

何の手立ても無い中で、生きて働いておられる神に出会う。絶体絶命の「包囲さ
れた町の中で」神の奇しい恵みを受け取る。ある女性は、女手一つで子供達を育
てていた。経済的困窮にあり、そんな中、車が故障した。生活上どうしても不可
欠であり、数十万の見積もりだった。手元にお金は無く、なすすべなく泣いてい
た。祈っていると、丁度そんな時、その車種の欠陥が発覚。すべて無料で修理が
なされた。

ある婦人は、離婚を通り、気が狂いそうなほどの、苦しみと辛さであり、涙が止
まらなかった。何をどうして良いのかもわからなかった。ただ主に拠りすがるば
かりであった。しかし、主は「包囲された町の中で」奇跡をされ、御翼の陰にか
くまって下さった。

そこは全き平安の場所だった。外側、荒れ狂う暴雨風であったが、主の隠れ場は、
恐れも不安も何もなく、平安に満ち満ちていた。世のものではない、「主の平
安」を下さった。主は御心なら状況を変えて答えて下さる。又、そうでないなら、
心を変えて、同じ状況の中で、全き平安を与えて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
絶体絶命の時には、そこに奇しい恵みが備えられている。状況でなく、その恵み
の視点に立って見ていよう。これまでも奇しい恵みを体験して来た。これから先
も、同じように導いて下さる。今、包囲された町の中なら、奇しい恵みを施して
下さる。そこを見つめていよう。


2011年08月15日(月)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのこと を心配してくださるからです」Tペテロ5:7


信仰とは、神を信頼することだ。しかし、私たちは、しょっ中思い煩う。「信頼
する」の反対は「信頼しない、不信仰」だが、「思い煩い」は、まさに「信頼す
る」という事に敵する事だ。思い煩いは、神を無視し、神に背を向けて、自分一
人で悩みを握りしめ、悶々としている状態だ。

神も、神に背を向けている者をどうにもできない。思い煩いとは心が分割する事
で、あれやこれやと心が裂かれ、ちぢに乱れ、不安と恐れでコントロール不能に
陥ってしまう。負のシナリオを描き、それはどこまでもエスカレートして行く。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがたのこ
とを心配してくださる」 神が心配して下さるのだから、自分で思い煩うな、と。
あなたの、今、目の前にある、紛れもなくその問題を、神が心配して下さると。
だから心配することを止めて、神に任せよと。

心配を「止める」事が必要だ。止める事を選択する。意識してストップをかける。
そして、神が、どのようにして下さるのか期待する。ある人が初めての経済的苦
境に陥った。常に定期的収入があり、無収入状態を経験した事がない。恐れと不
安で悶々の中、祈りに持って行くと見事に答えられ、全必要が満たされた。

次々と必ず100%満たし続けて下さったので、同じ状況が起きた時に、今回はど
のように与えて下さるか楽しみに思えると。「心配して下さる」神に、その心配
を委ねて、期待していよう。

・・・・・・・・・・・・・・
主が心配して下さることを、真剣に本気で考えてみよう。だから、何も思い煩う
な、心配するなと言われる。抽象的にでなく、目の前のその問題を、主に告げ、
自らの気持をことごとく告げて行こう。委ねられなかったら、その事をも主に告
げて助けを仰ごう。


2011年08月14日(日)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ローマ8:28



私たちの信仰人生で、どのようなマイナスの事態が起ころうと、そこに神がわざ
をなされ、私たちのために益として下さる。それが、他者からの攻撃であったと
しても、又、自分の過失、失敗により招いてしまった悩みや問題であっても、そ
こで悔い改める時に、神が働かれ、それらをも良いことに造り変えて下さる。

ヨセフの兄たちは、妬みが憎しみに増幅し、殺意を抱いてヨセフに事を行なった。
そこにあったのは明確な悪意であった。しかし、ヨセフは「あなたがたは、私に
悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」と言
った。あなたがたは悪を計ったと、邪悪な計略を直視し、且つヨセフは兄たちを
赦すことができた。

そして「神はあなたがたのいのちを救うために、先にわたしを遣わされた」と言
った。あなたがたの命を救うために、神がヨセフを先に遣わされたのだと。神は
不思議な方法で私たちの人生を導かれる。一見悪い事の中に良き計らいを見い出
す。

時々、神は、私たちに困難を通ることを許される。 あなたが神を信じ、神に仕
え、神の御心を行ない、正しく生きていたとしても、 問題が生じたり、様々な
困難があなたに襲いかかって来る。

しかし、神はあなたの人生を完全な御手で治めておられる。神は悪いものからさ
え、良いものを生み出される。今、前の前にあるその悩み、苦しみを、神は私た
ちのために良いこととなるようにされる。どこまでも救いと希望がある。自分で
何とかしようとしていないだろうか。そうでなく、神に委ねていよう。

・・・・・・・・・・・・
人からの悪意すら、主はそれを良いことの計らいとされる。すべてが御手の中に
あり、主権と支配の中にあることを覚える時、負の出来事の中でも、心は平安に
守られる。目の前の問題にも、主のご計画がある。状況でなく、その主を見てい
よう。


2011年08月13日(土)

「そうすれば、神のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4:7


私たちは問題が起きた時、まずどうするだろう。パニックになり、とにかく何とかしなければと、動き回るだろうか。自分の力と知恵を駆使して、目の前の問題を、何とか解決しようと試み、頑張る。 あれやこれやと、実際に行動し、やってみるが、しかし、心はどうだろう。思い煩いと不安で、心暗く、重苦しい。つまり、平安が無い。心がしんどく、思い煩いは深まるばかりだ。

そんな中、自分の力で、何とかしようとしている事に気づかせられる。目の前の問題から目を離し、主を見上げる時に、いつも耳にしている御言葉が響いて来る。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」「何も思い煩わないで・・願い事を神に知っていただきなさい」「思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるから」。

御言葉を一つ一つ握りしめ、心に深く思い、見つめる時、見えない世界に、主に目が転じて行く。そうだ、委ねなくては、と思えて来る。自らの気持ちや思い煩いをことごとく、主に持って行く時に、不思議を経験する。状況は何も変わらないのに、心が平安になるのだ。この平安は何ものにも代えられない。あなたの目の前の事を、気持ちを、祈りによって主に告げよう。心が変えられる。
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心配しないで私に渡しなさいと神は言われている。先の事がわからないのはなんと恵みか。心配なことを打ち明け、主の平安をいただき主の最善を信じ、心が静かに変わる。


2011年08月12日(金)

「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」創世記4:7


カインとアベルが献げ物を持って来た。アベルの献げ物は受け入れられ、カインの物は受け入れられなかった。その時、受け入れられなかったカインは激怒した。しかし、神は「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる」と言われ、御言葉によると、問題はカインの側にあり、正しく行っていなかった。「正しく行なったのであれば、まっすぐ立っておればよい」とある。

神の御前に、動機と行為が正しければ、心に不安が無い。心平安であり、まっすぐに立っておれる。私たちの日常生活も同様だ。動機が正しければ、心にやましいところが無ければ、立っておれる。カインは自らを省みる事なく、受け入れてくれない神が悪い、問題だとばかりに怒った。そして、その矛先を、神に受け入れられたアベルに向け、激しく嫉妬し憎んだ。

「正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せし」罪はあなたを支配してしまう。「それを治めるべきである」、罪を悔い改めることだ。でなければ、その罪に飲み込まれ、支配されてしまう。罪を侮ってはいけない。それが罪の恐ろしさだ。アベル殺害後も「アベルはどこにいるのか」と神は、尚もカインに悔い改めのチャンスを下さった。神へのいけにえは、砕かれた、悔いた心だ。神はそれを喜んで受け入れて下さる。そして完全な赦しを与えて下さる。
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罪はいつで私達を恋い慕って待っている。恐ろしい現実だ。にわかに沸き起こる怒りや苦い思いをすぐに主に告げ祈ろう。罪に束縛され、罪を結実させることのないよう繰り返し悔い改め捨て去ろう。


2011年08月11日(木)

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです」Uコリント6:12



パウロは、コリントの人々への愛情ゆえに、肉の行ないを戒めた。しかし、人々は、パウロに対して心を閉ざしていたために、受け取れなかった。人々が心を開きさえすれば、パウロの愛がわかったはずだ。私たちは、自分で自分の心を狭めて行く。人から狭められるのでなく、自分で狭めて行く。自分の罪を認めなかったり、御霊の導きを無視したり、なおざりにしたり、御霊の促しを拒み続けると、心が固くなってしまう。

すると、ますます人にも耳を傾ける事ができなくなり、自我の殻にとじこもり、批判、非難、攻撃的になり、誰も自分をわかってくれないとの自己憐憫に陥る。前向き、信仰的な心の態度が失せ、心を屈折させて行く。ネガティブな思いに支配されてしまう。そうすると、分裂や不一致を引き起こして行く。

救いに至る悔い改めへと導かれるには、必ず自分の「罪」に、向き合わなくてはならない。しかし、人は自分の非を認めたくない。人に悩みの相談をするのも、解決のためではなく、自分の気持ちに同意して欲しい。気持ちを楽にしたいだけだ。しかし御言葉は、真の解決を与えるために、真実を明らかにする。
だが、自分の真の姿は見たくない、余りにも痛い。だから耳を閉じる。しかし平安と喜びへの道は心を開くことだ。どんなに痛くても耳を傾け、御霊の導きに従う事だ。自分で心を窮屈にしていないだろうか。
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見たくない罪や弱さも御言葉により光が当てられ認めるところから解放されて行く。心を閉ざし、全てをそのままにしながら窮屈にあれこれと思い煩うのは、やめよう。


2011年08月10日(水)

「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばには、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21


私たちは、御言葉によって形造られて行く。御言葉は霊であり、いのちそのものだ。御言葉が私たちの心の奥深くに響き、入る時、私たちは変えられて行く。又、信仰生活の中で、数々の試練に会う。その時に、武器となるのが御言葉だ。恐れたり、思い煩う必要無く、サタンに御言葉で立ち向かう事ができる。私たちには「御霊の与える剣」が与えられている。何と感謝な事だろう。

いずれの場合にも、大切な事が、御言葉を「すなおに」受け入れるということだ。「すなおに」というのは、心が開かれた状態だ。自由な自発的意志で、進んで御言葉を受け入れようとする態度だ。「従って行きます」の態度だ。そんな開かれた心に、御言葉が根づいて、私たちを変えて行ってくれる。神は私たちを自由意志を持つ者として、創造された。私たちの人格を尊重される。それゆえ決して強制される事は無い。

御言葉を受け入れるか、否かは、私たちの自由意志に委ねておられる。私たちの態度は、このどちらかしかない。拒否しているつもりは無いが、自分に都合の良い御言葉だけ取っていないか。自我に触れて来る都合の悪い御言葉は、ふたをしてしまう。実は、痛い、除けたい御言葉こそが、自分に最も必要な言葉であり、向き合って行く時、自分が変えられ、心が解放され、大きく成長して行く。
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神の御言葉は等しく与えられているのに、その御言葉にかける私達の信仰はどうだろう。すなおに信じて御言葉を生きる時に、またひとつ新しく主を知れ、自分が大きく変えられて行く事に期待しているだろうか。


2011年08月09日(火)

「私も、失うときには、失うのだ」創世記43:14



エジプトで総理大臣になったヨセフのもとへ、食糧を求めて、兄弟達がやって来た。以前、ひどい事をした兄弟達だった。ヨセフはシメオンを人質にして、ベニヤミンを連れて来るようにと言い、食糧を持たせて帰らせる。やがて、その食糧は尽きた。再度食糧入手のために、どうしてもヨセフのもとへ行かなくてはならない。ヤコブは、ベニヤミンを手放す事を渋り続けていた。しかし、シメオンが捕らわれたままであり、食糧もどうしても必要で、ベニヤミンを連れて行くしかない。

ヤコブはヨセフを失い、ベニヤミンを更に偏愛していたのかも知れない。ベニヤミンもシメオンも必ず連れて戻るとの、ユダの強い説得により、ヤコブは心動かされ、決心する。「私も失う時には、失うのだ」と。これは、ヤコブが、神にいっさいを明け渡した信仰の言葉だ。ヨブが「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言った。そのように、主は取られるが、また、与えることもできる。すべては、主の御手の中であり、主のお心のままにとの信頼だ。

ヤコブは、ヨセフを失い、ラケルも死別し、シメオンは人質に、最愛のベニヤミンまで失うかも知れない。しかし、失うまいと、固く握りしめて放さなかったベニヤミンを神に渡した時に、ベニヤミンを再び得て、思いもよらなかったヨセフまで取り戻し、もう一度家族一つにされ、飢饉の中、命をも救われた。今、あなたの堅く握りしめているものを、明け渡すよう示されているだろうか。
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手放す先にある祝福を見つめて、神が明け渡すよう言われているものを手放せるように祈ろう。失うときには、失うのだと何があっても御心の中にいる幸いを覚えを平安を生きよう。


2011年08月08日(月)

「神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた」出エジプト13:18



出エジプトに際し、神は民に、約束の地に導く時に、近道であるペリシテ人の国には行かせず、「荒野の道」へ向かわせられた。「民が戦いを見て、心が変わりエジプトに引き返すといけない」からであり、そこに神のご配慮があった。長年の奴隷生活であり、戦いの訓練など全く無い民が、ペリシテや敵との戦いが恐怖で引き返してしまうだろう。

私たちの価値観の中に、楽な道、平らな道、問題の無い道を好み、近道、迅速、早く到達する事、順調が善との思いがないだろうか。しんどい事、困難な事は出来れば除けて通りたい。しかし、神は近道ではなく、あえて荒野の道を通される。
神が困難な道を通されるのだ。神に不可能はなく、今すぐに、願っているものを一気に与えて下されば良いのに、延々時間がかかり、まさに遠回りさせられていると感じる状況がある。自分の思いやプランと全く違う道を歩ませられる。しかし、そこを通ってこそ、忍耐や信仰が培われ、神のご愛や真実を経験する。明け渡す事ができて行く。そこを通らずしてあり得ない。

そして、その通り道には、雲の柱火の柱が伴い、行くべき道が示される。荒野での灼熱の太陽から、雲の柱で守られ、夜の暗闇を火の柱が照らした。道中決して「民の前から離れなかった」。今、荒野なら神を信じ、従って歩もう。雲の柱、火の柱によって、行く道を示し、片時も離れず導いて下さる。
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なぜ遠回りの道なのか、なぜこの道なのかと自分にはわからない事ばかりでも、それは神の特別な配慮とご計画の道を通っている。一歩一歩の歩みの中で必ずご自身を現して下さるから安心して歩もう。


2011年08月07日(日)

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの 囚人たちも聞き入っていた」使徒16:25



パウロは、アジアで御言葉を語る事を禁じられ、ビテニヤの方へ行こうとすると、
それも止められ、南も北も阻止されるので、西に向かうとトロアスで「マケドニ
アに渡って来て、私たちを助けてください」との幻により、御霊の導きを確信し、
マケドニヤに渡った。

そして、ピリピの町へ行った。川岸の祈り場へ行き祈り、そこにいた女たちに宣
教した。その後、占いの霊に憑かれた女奴隷から、悪霊を追い出した。すると、
儲ける望みの無くなった主人たちに、訴えられて、捕らえられ、投獄されてしま
った。むち打たれ、暗い奥の牢へ監禁されてしまった。

御霊の示しに従ったのに、祈ったのに、問題が来て、苦しみがやって来た。こち
らに落ち度は無く、ましてや宣教のために来たのに、投獄だ。これでは、どうに
もならないではないか。しかし、神の計画は着々と前進していた。

牢獄で不平不満一つなく、祈り、賛美する彼らは、囚人たちに大きな証しとなっ
た。投獄を通して、結果的にそこの看守が救われ、何と全家族が救われたのだ。
そして、ピリピの教会の核となって行った。神に間違いは無い。

ちゃんと従ったのに、あんなに祈ったのに、どうしてこのように??との状況に
あるだろうか。今は全体像が見えないが、神はご自身のご計画を着々と進めてお
られる。神に間違いはない。信じていよう。困難な状況の中で、心を平安に守っ
て下さる。

・・・・・・・・・・・・・・
試練の渦中では、全体像が見えないので、わけがわからないが、今まで導いて下
さった主に、間違いは無い。後の日に、パズルがつながるように、教えようとし
て下さったことが、意図が見えて来る。主に望みをおいて、信じていたい。


2011年08月06日(土)

「アジアでみことばを語るのを禁じられたので、フリキヤ・ガラテヤの地方を通 った」使徒16:7


パウロは小アジアに前進しようとした時、聖霊によりストップがかかった。それ
でムシヤへ向かい、ビテニヤの方へ行こうとした。すると、またもや止められた。
そのため、又、別の方向、トロアスに行った。そこで、主のみこころであるマケ
ドニヤを示された。

それらのストップを通して、パウロは、神のみ思いは、自分の思いとは違う事を
学んだ。もし、聖霊の制止が無ければ、パウロは御心と異なった方向に進んでい
たことだろう。聖霊が進路を止めて下さるのは感謝なことだ。阻止によって、私
たちは正しく御心の道へと、軌道修正される。

私達はどうだろう。物事がとにかく自分の思い通りには行かなければ、失望落胆
し、ひどく落ち込むだろうか。無気力になるか。又、心に怒りが湧き、苦い思い
を持ち、心頑なにするだろうか。だが、神のご計画は常にベストであり、私達に
はベストでなくベターに見えるものが、実はベストなのだ。

ある人が願った受験進路が閉ざされた。なぜ??成績優秀であり、自分はトップ
クラスだ。不合格に愕然とし、がっくり落ち込んだ。そして、二番目の進路へと
進んだ。しかし、結果的に、その所で素晴らしく用いられ、周囲に救われる人々
が起こされ、豊かな実を結んで行った。

本人は、不合格の挫折によって砕かれ、自分がいかに高慢であったかに気づかさ
れた。目に見えて人柄が変わり、周囲の目から見ても、大きく成長した。そして
結局は願っていた道へとその先に導かれて行った。ベターに見えるものが、実は
ベストだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
目の前で進路が閉ざされると、がっくりしてしまう。自分の目には絶対に最善と
思えるので、落胆は激しい。しかし、別の開かれた道から進んで行くと、目の
前が広がって行き、まさに自分の思いでなく、主のみ思いが成し遂げられて行く
事を経験する。そして、その方が遙かに良かったと。


2011年08月05日(金)

「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ」Tサムエル8:22 

イスラエルの国は神によって治められていた。それゆえ、主は、民が、人間の王を欲した時に、「彼らを治めているこのわたしを退けた」と言われた。そして、王の権利を知らせよと言われ、サムエルはことごとく民に知らせた。息子は戦に取られ、娘たちは働かされ、畑は取り上げられ、自分の家来たちに与える・・自分たちの選んだ王のゆえに主に求めても、その日、主は答えて下さらないと。しかし、それでも尚かつ、民は、どうしても王が欲しいと言い張った。

その時、主は、彼らにひとりの王を立てよと答えられた。このところに、神が人間に与えられた自由意志を見せられる。人間が、神の警告を聞かずに、どうしてもしたいと主張し続けて、願うものは、神は願い通りにさせられるということを。神は私たちの自由意志を尊重される。決して、自由意志を曲げて、強制することをされない。どうしても願うものは与えられる事がある。

しかし、与えられた結果、やせ衰えると。「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」詩106:15自分の欲望を遂げてもやせ衰えて、虚しくなる。私たちを愛し慈しみ、最善を備えて下さっている神の御声に従い、神の警告に従うことが、自分にとって喜びと平安の道だ。
それは神の愛から出ているのだから。
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通って見なければわからない道なら通らされても、霊的な喜びが失せ、枯れて行く。したいことをする自由と、すべてのことに神を認め自分の思いを捨てる自由がある。神から来る喜びと平安ある道を選んでいきたい。


2011年08月04日(木)

「私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう」Tサムエル8:20  


                    
民たちは、「ほかのすべての国民のようになり」と言った。他国には王がいて敵に攻撃された時に、即、対応し守ってくれる。敵国ペリシテに悩まされている民は、王さえいればと思い、それが王を求めた理由だった。しかし、イスラエルは神から特別に選ばれた民だ。であるのに、異教の他国と同じようになりたいと願い、選民である事を捨ててしまっている。

主は以前に、もしあなたがたが、わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる、と言われた。私たちクリスチャンも「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命した」と言われている。もし世と同じようになる事を願い、世のものを欲して行くなら、道からそれて、実を結べなくなってしまう。

「行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため」、私たちが救われたのは、実を結ぶためだ。主に従って行く時、必ず実を結ばせて下さる。その実は御霊の実であり「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」、キリストのかたちに変えられる事だ。そして宣教の実だ。主に従う生涯を通して証しとされ、救われる人を起こして下さる。「ほかの国民のようになり」の誘惑が来ていないか。選ばれた主の民である事を覚えよう。
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私達はこの世にあって特別な存在だ。主を知り、御ことばを聞くことがでる。この世と同じようにの誘惑を振り切り、少しでも主に従い成長し、キリストの香りを放って行こう。主が執り成していて下さる。


2011年08月03日(水)

「そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った」Tサムエル8:6

                          
長老達が、自分たちに王が欲しいと、サムエルに言って来た。その理由は、サムエルが老齢である事、息子達は主の道を歩んでいない事、他国には王がいる事だった。彼らの言葉は「サムエルの気に入らなかった」。主が王であり、主が民を治めておられた。王を求める事は、それを拒否し、神の支配を拒む事だ。他国のように人間の王が立ち、人間の判断で治められる事を望んだ。

サムエルには受け入れ難い事だったが、即、反対せずに「そこでサムエルは主に祈った」。私たちもサムエルから学べる。対人関係で、気に入らない状況があったとしても、相手にくってかかるのでなく、自分を責めるのでなく、主に向かい主に持って行こう。祈りの答えは「民が言うとおりに、民の声を聞き入れよ」だった。しかし、主を退けた事になると。「厳しく警告して、王の権利を彼らに知らせよ」と。そして、王のゆえに助けを叫び求めても、主は答えられないと。

しかし、民は尚も王を求めた。民の王を求めた動機は不信仰であったが、主には深いご計画があり、それすら用いて、ご計画を成し遂げられて行く。この後、サウルが王に選ばれ、そしてダビデ王へと続いて行く。状況が、自分の思い、計画と違う時は、すべての思いや気持ちを、又、周囲の人の言葉をも「サムエルはそれを主の耳に入れた」何もかもを主に告げると良い。主は御心を示し主の道へと導いて下さる。
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すぐに自分の感情で納得したい者だし、またサタンもそう働きかけて来るが、まず先にするのは主に祈り尋ねる事だ。主の御心によって現実を見て行けるように主が目を開き変えて下さる。


2011年08月02日(火)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Tテモテ6:6



「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、愚かで、有害な多くの欲に陥る」とある。富を持っても、持っても、決して満足する事がない。飽くことなく、更に富を求める。これは富ではなく、「貪欲」という「欲望」に陥っているからだ。必要が満たされても、決して満足する事がない。果てしなく富を渇き求めて行く。どこまで行っても、これで良いという事がない。哀れで悲惨だ。

金持ちになりたがるとは、富だけではない。名誉、地位、人からの賞賛、野心、人の上に立ち、支配したいという欲望を遂げようとする事だ。ここに誘惑とわながあると。欲から欲へと陥り、それらに執着し、方向を間違ってしまう。信仰人生は、絶えず選択だ。「満ち足りる・満足」と「貪欲・もっと欲しい」という二つの道が、いつも目の前にある。肉の欲望を選ぶなら、貪欲に陥る。今の状況に「満足」を選択することこそ、大きな利益を受ける道だ。

「衣食があれば、満足すべきです」私たちは、何一つ持たないで来たし、何一つ持って出る事も出来ない。今、生かされている事、必要が与えられている事を「感謝」しよう。感謝して〃行くなら、心が満ち足りて行く。視点が神に向き、焦点が合うので、喜びが臨み、平安に満たされて行く。そして主との交わりにより満ち足りて、大きな利益を受ける。今の境遇、状況は神から来ている。
神視点に立ち、受け入れられるよう祈ろう。状況に神を認め、神に信頼して行く時どんな環境の中でも「満ち足りる」事が出来る。
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今、持っているものは全て、神様から与えて下さったもの。十分満足していると心から感謝しよう。そして今の私が幸せですと、いつも言えるように祈りたい。


2011年08月01日(月)

「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか」ミカ6:6


私達は、自分が犯した罪が赦されるために、何か必要なのだろうか。ミカは、どこまで行なえば受け入れてもらえるのかと言っている。何をもって御前に出たらよいのか。一歳の子牛を献げたらよいのか。いや、一頭でなく、数千の雄羊、数万の油が必要なのか。いや、それでも足らなくて、長子を献げなければならないのか。罪意識が強くなる時に、それを何とかしようとするなら、子供を殺すまでに行くと言っている。

とにかく犠牲が大きいほど、神に喜ばれるのではと考える。これは「邪悪な良心」だ。良心に邪悪なものがあるのかと、不思議な気がするが、邪悪な良心とは、神を認めない心だ。神のして下さった事を認めない。主の十字架により、何もかもが解決されている。すでに完了している。罪の赦しは成就されている。それを認
めないで、それでは足らないので、何かをしなければと思う心だ。つまり、完全に赦されている事を信じない。赦されるはずが無いと思っている。

信じないので、行ないを付け加えて受け取ろうとする。それなら子供をいけにえにするところにまで行き着く。供え物の大きさで、主の御前に立とうとする。そうでなく、主の犠牲により、無代価で、無償で、すでにいっさいのかたが付けられている。このプレゼントを、恵みを、感謝して受け取る事こそ、神の御心であり、喜ばれる事だ。その時、血の注ぎを受け、邪悪な良心がきよめられ、素直な心にされ、真心から神に近づける。
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主の十字架により私達と神との間を隔てる罪はもう完全に赦されている。主の血が流されないと赦されないほどの罪を神は洗って下さったのだから、あとは真っ直ぐに神に向かって近づいていこう。