2001年12月31日(月)

「悪魔・・のうちには真理がない彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい・・彼は偽り者であり、偽りの父」(ヨハネ8:44)

サタンは神にヨブを中傷した。「
いたずらに神を恐れましょうか」
祝福、見返りがあるから神に仕え
ているのであって、見返りが無い
なら仕えなどしないと。利己的な
動機で神に従っていると言った。
悪魔は私達にも同じ手口を用いる。
悪い動機を良い、良い動機を悪い
と錯覚混乱させる。特に自分の欲
望には巧妙に働きかけて来る。欲
望にぴったりそっているので、心
地よく見抜けない。欺かれてしま
う。悪魔の屁理屈を見抜き、神が
見ておられるように、物事を見る
事が出来るように祈れ。悪魔は偽
りを真理に見せかける。嘘を公然
と言う。聖霊の助けにより見抜い
て行けるよう。神の近く歩む事だ


2001年12月30日(日)

「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした」 (ヘブル11:40)

ヘブル書11章には、信仰に
よって成し遂げられた沢山の
功績が出て来る。しかし、全
部が全部100%良い結果だ
ったのだろうか。信仰によっ
て、成し遂げられたことで埋
められている。だが、後半で
は「釈放されることを願わな
いで拷問を受け」「嘲られ鞭
打たれ鎖につながれ、牢に
入れられ、石で打たれ、のこ
ぎりで切り殺され、苦しめら
れ、悩まされ・・」拷問を受け
殺された人々についても語
られている。苦難から助け
出さた人、助け出されず命
を取られた人が同時に記さ
れている。これは信仰によっ
て生きるなら、結果はどちら
も良いものだという事だ。結
果はどちらであっても、双方
良い証しを立てたのだ。どの
人も助けを祈り求めたに違
いない。しかし、パウロは願
いに関わらず、とげを取り去
られなかった。それを通して
更に神の栄光が現わされた。
信仰によって行動するなら、
どうであれ、良い結果だ。


2001年12月29日(土)

「わたしはあなたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14:17)

人が孤独を感じるのは、人里
離れた山の中というよりむし
ろ、繁華街の人混みの中や、
大勢の、人の集りの中でだった
りする。気持ちが通じる人が
全く見つけられない時に孤独
を感じる。愛する人を亡くし
た時や、職場の中で一人浮い
てしまった時、全く見知らぬ
土地に引っ越した時、孤独を
感じるだろう。あなたは全く
の独りぼっちだと感じた事は
あるか。もしそうなら、この
お方がおられる。主イエスは
約束して下さった。「わたし
は世の終りまでいつもあなた
がたと共にいます」「わたし
は決してあなたを離れず、ま
た、あなたを捨てない」神か
ら離れた場所はどこにもない。
人間の友達は必要だ。神は友
人を与え、人生を楽しませて
下さる。しかし、一番重要な
事は、どんな時にも、イエス
があなたと共にいて下さる事
だ。主がそばにいて下さるの
で、あなたは独りではない。
世の終りまで共にいて下さる
こと、これが神の最大の贈り
物だ。


2001年12月28日(金)

「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、私の口からことばを聞く時、わたしに代わって彼らに警告を与えよ」(エゼキエル33:7)


 時折、ニュース等で、欠陥商品
について耳にするだろう。
「このストーブは欠陥商品で、危険
ですので当社に返却願います」
自動車や電気器具や様々な商品で聞
いた事があるだろう。
これらは返却するなら、相当の対応
をしてくれるが、消費者にかかって
いる。もし、消費者がそのままにし
て対応しないなら、それはそのまま
だ。神の警告も同様だ。
全ての人の心と魂に警告がなされて
いる。「問題点を正さなければ、必
ず霊的な死が訪れます」神は罪を悔
い改め、神に立ち返るよう強く望ま
れ、預言者を通して警告を与え続け
られた。神の警告に従い、罪を悔い
改め、新しい心を得るなら、生きる
神のもとへ来るようにと。溢れるば
かりの赦しを用意して持っていると
応えるか、聞き従うか、全て私達の
側にかかっている。
神の愛は人生を変え、新しくする。


2001年12月27日(木)

「彼らの間で世の光として輝くためです」(ピリピ2:16)


 私達のほとんどは、無名で、
それほどの影響力はない。
能力や富み、社会を動かすよう
な地位もない。名前は新聞に載
ることも、テレビに出る事もな
い。出来る事は、毎日の決まり
きった単調な同じ事の繰り返し
の中で、信仰を実践する事だ。
平凡な、何の変化も無い毎日だ
ろう。しかし、キリストにあっ
て、キリストと共に、その単調
な、毎日を生きて行くなら、キ
リストに似た考えや態度、発想、
行為は知らず知らずの間に周囲
に大きな影響を与えて行くのだ
だから、目立たない立場にいて
も、単調な仕事であっても決し
て気にする必要はない。
今いる、その場所でイエスに従
い、イエスの命令を実行する事
だ。明るく聖い光を輝かせるよ
う、主は命じておられる。
小さなろうそくの火でも闇の中
では赤々と輝く。自分のいる片
隅でろうそくとなり、あなたの
灯を輝かせ。あなたの言葉、態
度、行為、考え方に周囲は関心
持って見ている。


2001年12月26日(水)

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです」(ピリピ3:12)

キリストのために生きる事の
厳しさに直面した事があるだ
ろう。あなたがけでは無い。
パウロも同じだった。アジア
でテモテと、耐えられないほ
どの圧迫を受け、ついには
死をも覚悟したと認めてい
る。しかし、この厳しい圧迫
を通して「自分自身をより
頼まず、神により頼む」こと
を学んだと。彼は「栄冠を得
るために目標目ざして一心
に走って」いた。昔、エレベ
スト登頂を試みた登山隊が
あった。吹雪やなだれをも
乗り越えて前進し、頂上手前
で最後のキャンプを張った。
そして、登頂に臨んだ。が、
彼らは帰ってこなかった。記
録にこう記されている。「最後
に確認された時点では、頂上
を目指していた」私達も神の
招きに応えて前進し続けよう。
そして、人生最後にこう言われ
たい。「最後に確認された時点
では、頂上を目指して前進して
いた」自分の力でなく、神に
より頼みつつ。




2001年12月25日(火)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)



クリスマスおめでとうございます。
御子を私達のために遣わして下さった
父なる神に心からの感謝をささげます
キリストには一つの罪も無かった。
一つの罪も無いキリストが、犯罪者の
かかる十字架につかれた。
これは正しい事だろうか。罪の無い者
が極悪人と共に十字架についておられ
る。正しいか否かについて言えば、キ
リストは完全に正しかった。
だとすれば十字架にかかる必要は無か
った。キリストが正しさを主張された
なら私達の救いは無かった。
永遠の滅びに向かったであろう。
キリストは完全に正しかったのに、
十字架につかれた。私達もキリストに
ならい、正しいに立つのではなく、常
に神のみこころに立てるように。
それは、十字架を負う事であり、自分
を捨てなければ、出来る事ではない。
神の喜ばれる事、神の望まれる事、神
のお心を歩んで行けるように。
自分に死んで、みこころを選び取れる
ように。


2001年12月24日(月)

「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」(Uコリント12:7)


 とげを感謝するのは、難しいことだ。
どんな時にも感謝するのは難しいことだ。
病に苦しみ、襲い来る痛みに苦しんでいる
時、不治の病に冒されているとわかった時
失業し、生活の糧のめどが失せた時、大切
な人間関係が崩れてしまった時・・こういう
時に感謝するのはなかなか難しい。しかし
パウロは自分が弱い時こそ、神はご自身の
力を現わして下さるので、弱さを感謝する
事を学んだ。キリストのために弱さに甘ん
じていると言った。
弱い時こそ、強くされるからだと。
信仰ある人は、自分の辛い体験を通して、
神が最善をなして下さると信じている。
ある盲目の説教者が言った「私はバラに感
謝していたが、とげについては一度も感
謝していなかった。とげの価値を教え、痛
みの小道を通って御元へ登った事を示して
下さい」主は最善の結果を与えて下さる。
御子に似た者に変えるため、主は働き続け
ておられる。


2001年12月23日(日)

「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています」(ヘブル4:13)


ロシアがまだソ連だった頃、伝道
者が聖書を運びに入ったところ、
尾行され、ホテルを出た間、荷物
が調べられていたと聞いた。もし、
あなたの全生活が監視されてい
たらどうだろう。全会話は盗聴さ
れ、行動は常に監視され、隠れ
る所が無かったらどうだろう。誰
もそのような監視下で暮らした事
は無いだろう。しかし、実は生活
のどんな瞬間にも神の前には裸
で、神にすべてを見られている。
神は私達の全生活を見ておられ
る。私達の言う事を聞き、する事
を見、私達の考えを知っておられ
る。アモスは警告している。悔い
改めを拒む者に隠れ場所は無い
と。神を拒否し、悔い改めを拒む
者は、神の裁きの前に立つ時、
逃れる事が出来ない。神はすべ
てを見、すべてを裁かれる。いつ
か、すべての人が神の御前に立
つ。神の前に立った時に、後悔
の無いように今日を生きよう。






2001年12月22日(土)

「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみも賜ったのです」(ピリピ1:29)

「しかり。わたしはすぐに来る」
と言われた主。「兄弟たち。主が
来られる時まで耐え忍びなさい」
イエスが再臨される、再び迎え
に来て下さると、心から信じて
いるなら、どのような苦しみの
中でも忍耐強くなれる。こお世
界では、不正がはびこり、正直
者が損をするかも知れない。し
かし、イエスが来てすべてを正
される。絶対的な正義が成し遂
げられる。これ以上の希望があ
るだろうか。農夫は希望を持っ
て種を蒔き、忍耐して収穫を
待ち望む。私達も農夫のような
希望を持って神の約束を、再臨
を待ち望もう。ある神学者が言
った。再臨の時、イエスに会っ
たら何と言いますかと聞かれ、
「あなたが本気だとわかってい
ました」と言うと答えた。この
世で良い人生を送れても、それ
はおまけであり、報酬ではない。
すべての報酬は天にある。困難
や試練、迫害は、この世にいる
限り割り当てられる。耐え忍べ。


2001年12月21日(金)

「だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい」(Tコリント10:24)


 誰しも、高速道路で渋滞だとイライラ
する事だろう。速く走りたいから、お金
を払っているのに、全く止まったままだ。
不満が募りイライラが爆発しそうになる。
横で妻が「きっと事故でもあたのよ」と言
った。車が走り出した時、車が大破した
残骸を見て、利己主義を恥じた。
「主よ。赦して下さい。事故に会った人達
と家族を助けて下さい」と祈った。
ヨナもそうだった。強い陽射しから守られ
るように、陰を作っていた、とうごまのつ
るが枯れた時、激怒した。
ところが、ニネベの町の人々が罪ゆえに滅
ぼされようとしている時に、それを気にも
かけなかった。私達はだれでも皆、自己中
心になりがちだ。
主から目を離して、自分勝手に生き始めた
途端、わがままに歩んでしまう。
自制心も寛容も愛も忘れて、自分を喜ばせ、
自分の損得を基準に歩んでしまう。
問題は心の中の自我であり利己主義だ。
古い性質だ。いつも主と共に歩み祈りなが
ら歩む事だ。


2001年12月20日(木)

「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ4:11)


 罪の中に「貪欲」がある。
必要が与えられているのにもっと欲しい。
その欲望は尽きる事が無い。
持てば持つほどに欲しくなる。十分と感
じる事はなさそうだ。
欲望の満足が「幸福」を与えてくれると
勘違いする。しかし、欲しいものを手に
入れても、満足できない。幸せではない
漠然とした満たされない心。
それは決してなくならないのだ。パウロ
は常に満ち足りていた。満服でも空腹で
も満足していた。
「乏しいからこう言うのではありません
私は、どんな境遇にあっても満ち足りる
ことを学びました・・私は、私を強くして
下さる方によって、どんなことでもでき
る」真の満足は主から来る。主からしか
来ない。秘訣はイエスだ。物でも境遇で
もなく、主のご臨在が心を満真に満たす
のだ。主の愛が私達の心に満ち足りた充
足感を与えるのだ。答えは主にある。
あなたの満足度はどうか?満ち足りてい
るか?主を求めよ。


2001年12月19日(水)

「罪人たちの道を歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ」(箴言4:14)

子供達がローラーボードで遊
ぶ時、大きな石や大きな障害
物には、よく気をつける。失
敗するのは、ほとんど小石だ。
大きな障害物を警戒し、気を
とられている間に、見逃して
しまうからだ。人生も信仰生
活も同じだ。大きな罪や大き
な問題はよく警戒する。とこ
ろが、小さな罪に油断して、
足をすくわれてしまう。これ
ぐらいという些細な罪こそ問
題だ。ちょっとした不機嫌な
態度、ちょっとした人を傷つ
ける言葉、怒り、周囲への愛
の無い態度、こんな事ぐらい
些細な事と思ってしまうが、
神にとってはどの罪も深刻だ。
アナニヤとサッピラは一部の
献げ物を差し出し、全財産か
の振りをした。その欺きのゆ
えに命を取られてしまった。
ウザは神の箱に手を振れ、即
座に命を取られた。小さな事
と見える罪は大きな傾倒の原
因になる。小石に十分気をつ
けよ。罪を侮ってはならない。


2001年12月18日(火)

「心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気をふさぐ」(箴言15:13)


 生まれつき楽天的な人だけが、明る
い人生を送るのだろうか。
それとも、楽観主義は学べば身につく
のだろうか。
沢山のハウツーものの書物が出ている
プラス思考が記されている。否定より
も肯定的に考えたり行動するのはよい
事だ。しかし、御言葉は真の喜びは神
から来る、それは心の底から湧き上が
ると言っている。
心にある喜びは顔に現われる。箴言に
は、心に楽しみのある人は、毎日が宴
会であるとある。内側が幸せなら、自
然に外側に現われる。いつも心に喜び
を持つためにはどうすれば良いのか。
神に感謝するのは良い事だ。
どんな状況であろうと、神は全てを益
にしてくれるお方、感謝して献げてい
く時、あなたは変えられる。
パウロは牢獄で賛美した。状況ではな
く、主を見上げて感謝しよう。
その信仰を主は喜ばれる。あなたの心
にも平安が支配する事を経験するだろう。


2001年12月17日(月)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(コロサイ4:4)


 鉄の混じった砂から、鉄だけを取り
出すにはどうしたらよいか。
一つは手に砂を突っ込み捜す。
もう一つは砂の中に磁石を入れて動か
す。すると鉄がついて来る。
不平不満だらけの心は砂の中に突っ込
んだ手のように、神の愛を見つける事
が出来ない。しかし、感謝で一杯の心
は、磁石が鉄を引き寄せたように、数
え切れない祝福を人生の中で見つけ出
す。人は人生で様々な選択をするが、
感謝を選択するか、不平不満を選択す
るかは、私達の人生を、生き方を左右
する。自分を正直に探る時、私達は、
どちらを選択しているだろう。
もし、不平不満を選択していたら、ど
んな祝福も見つける事が出来ない。
溢れるばかりの祝福が存在するが見出
す事が出来ないのだ。しかし、感謝を
選択するなら、祝福が大きな束となっ
て、あなたをおおう。
数え切れない祝福を見つける。あなた
はどちらを選択するか。不平か感謝か。


2001年12月16日(日)

「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(ピリピ3:8)

私達は損失の中で、生ける
まことの神を見い出す。大きな
損失は、キリストが私達にとっ
て、現実のお方となる状況を
生み出す。それは自分では
どうする事も出来ない、何を
なすすべもない無力な状況だ。
そのような状況は、パウロに
救いをもたらした。彼はダマス
コへの途上で、神によって打
たれた。目が見えなくなった。
それによって今までの自らの
力で積み上げて来たものが
無意味である事に気づいた。
それは律法を守る事であり、
熱心さであり、先祖から受け
継いだもの・・。しかし、その
損失の後に、イエスを救い主
だと個人的に知る事が出来た。
それは自らの無力を深く感じ
たからこそであった。あなた
にも、大きな損失があるか。
神はその破片を拾い集め、
かつて夢見ていたより、遥
かに良いものを築き上げて
下さる。


2001年12月15日(土)

「イエスは弟子たちが、漕ぎあぐねているのをご覧になった」(マルコ6:48)


イエスは、強いて弟子達を舟
に乗り込ませられた後、祈る
ために山に行かれた。そして、
そこでずっと天の御父と交わ
り祈っておられた。しかし、
弟子達のことを忘れたわけで
はなかった。彼は弟子達を
見続けておられた。強風で
逆巻く波に舟が飲み込まれ
そうになるを見ておられた。
そしてそこに来られて、恐
れを静められた。主はすぐ後
に嵐が来るとわかっておられ
て、湖に弟子達を送り出さ
れた。そして、その様子を
見守っておられた。主は私達
がもがいている時に、見て
おられ、必要な時に助け出
して下さるのだ。ある青年
が、医師から癌を告げられ
た時、この真理に大きく慰
められた。嵐が迫っている
のがわかったが、彼の救い
主がじっと見守っていて下
さり、彼がもがく時はいつ
でも助け出そうと待ち構え
ていて下さるのだ。あなた
は困難に直面しているか。
決して忘れるな。イエスは
舟を見ておられる。あなた
の悲しみも痛みもじっと見
ておられる。


2001年12月14日(金)

「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです〉(マタイ7:25)


 心地良い木漏れ日の中、森を散策して
いた親子がいた。ふと見ると、大きな美
しい木が地面に倒れてしまっていた。
その木をしげしげと見て、根が極めて小
さく浅い事に気づいた。
あんなに小さな根で、どうやって養分を
吸収していたのか不思議なほどだった。
背の高い大きな木を支えきれず、倒れて
当然に思えた。
神がこの事を通して語っておられる事を
悟った。根が貧弱なままでも、そのまま
上に伸びて、他の高い木々と共に立って
いることは簡単だ。何も無ければそれで
良い。しかし、試練は強風が吹きつける
時だ。逆境に会う時、根を深く下ろして
いなければ必ず倒れてしまう。
順境の時は良いが、試練が来た時、根の
ない信仰生活は倒れてしまう。
立って行けない。あなたの信仰生活は根
を深くしっかりと下ろしているか。
神との毎日毎日の地道な地道な交わりの
積み重ねだ。これにより試練の時も絶対
に倒れない。


2001年12月13日(木)

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい>(エペソ4:29)


 斜め向かいの家が廃屋で壊される事になり、
解体作業が始まった。重機が来て、見る見る
うちに解体された。屋根がはぎとられ、外枠
や柱がどんどん壊されていった。
あっという間に片付けも済みきれいな更地に
なってしまった。驚くばかりの早さだった。
建て上げるためにどれだけの時間と労力がか
けられた事だろう。壊すのは簡単だ。
対人関係も同様だ。建て上げるためには、多
大の時間、努力、労力が要る。
お互いの信頼関係を築くには多くの時間が必
要だ。時間をかけて理解しあい心を開いて行
く。しかし、ちょっとした愛のない一言、
偽り、きつい言葉、悪い態度が、長年築いて
来た信頼関係を壊してしまう。
そしてそれは一瞬にだ。破壊的な言葉を口か
ら出すな。言葉がでる源である心が問題なの
だ。心にある事を口が語る。必ず心にある。
その心がきよめられるように。


2001年12月12日(水)

「女預言者のアンナという人がいた。非常に年をとっていた・・夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた」(ルカ2:36)

90才代の独身女性がいた。
まだ身の回りの事は何とかで
きる。こうやっておれるのが
不思議だと感じていた。御言
葉通りに、明日を思い煩わず、
今日の1日を行きようと、決
心していた。生活の最低限を
毎日祈りをもって行った。買
物、食事作り、洗濯掃除・・。
そして、一番大きな仕事は、
執り成しの祈りだ。家族、友
人、近所の人々、教会の牧師、
兄弟姉妹達、救霊の働き、諸
活動、国内海外宣教師のため、
病気の人々、試練にある人々、
リストに従って毎日執り成し
続けている。これが最大の仕
事だ。残された命のある間、
この働きを全うしたいと願っ
ている。


2001年12月11日(火)

「こうして、民は・・大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである」(ネヘミヤ8:12)


 長い間教会員である一人の婦人が友人
から聞かれた「あなたは何を信じているの
教えてよ。」すると、彼女は「よくわから
ないから、教会に来て。牧師に尋ねてくれ
る?」と答えた。
バビロン捕囚から戻り、エルサレムとその
周辺に再び住み始めたユダヤ人も同じよう
に自分達の信仰についてほとんどわかって
いなかった。
しかし、エズラが律法を読み、レビ人達が
解き明かしたと時人々は熱心に真剣に耳を
傾けた。神の言葉は深い認在感をもたらし
た。彼らは教えられた事を理解したのだ。
あいまいな信仰では、決して私達は喜びに
満たされない。真理の御言葉によって私達
の心が変えられる。
御言葉をはっきりと聞き、知識を得て、そ
れに従う時喜びが与えられる。
真理が信仰を生み出し、信仰が行いを生み
出していく。神の御言葉を理解することが
必要。


2001年12月10日(月)

「願ってもうけるられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」(ヤコブ4:3)


 祈りをこのように考えている人はいないか。
神社でパンパンと拍手を打って、勝手気ままに
思いのまま祈るように自己中心に祈る。
すると神はあらゆる願い事を叶えてくれる。
自分の都合の良い神だと思っている人がいる。
違反がうまく見つからないように祈る人もいる
このような自己中心な祈りは答えられない。
自分達の人生をできるだけ楽しいものにするた
めに神がいると思っているようだ。
人生の障害物を取り除き、苦しみを軽くし、必
要を与え、そのための神なのだ。私達を造られた
神、主権をもち、すべてを支配しておられる神、
この神を侮辱する事だ。
ヤコブは利己的な祈りは「世の友となり」「神に適す
る」事だと言っている。私達の祈りを良く調べてみ
よう。利己的な祈りはないか。
悪い動機の祈りは無いか。間違っていたら、祈り
を変えるべきだ。


2001年12月09日(日)

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる・・もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(黙示21:3)

私達が天国で受ける栄光を
聖書で少し知らせてくれてい
る。もはや悲しみも苦しみも、
叫びもない、何もかもが新し
くなる世界。ちょっと考えてみ
るだけでも圧倒されてしまう。
永遠の喜びと楽しみに満ち
た世界だ。麗しい主が共に
おられるのだ。何と輝かしい
喜びだろう。以前奴隷商人
で神を信じ有名な「驚くばか
りの恵みなりき」を作詞した
ジョン・ニュートンがこんな事
を言った「天国に行ったら、
3つの驚きに出会うだろう。
1は、会うと思わなかった人
に会う事、2は、会うと思って
いた人に会えない事、3の一
番大きな驚きは自分がそこ
にいる事」この最大の恵みを
思う時、ただ感謝するばかり
だ。いつか必ずこの地上の
命は死を迎える。しかし、天
の御国で目覚めるとは、何
たる喜びだろう。あなたは天
への備えができているか。
そして、天に宝を積む信仰
生活を送っているか。備え
は万端か。


2001年12月08日(土)

「すべての悲しむ者を慰め・・悲しみの代わりに喜びの油を憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」(イザヤ61:2)


会衆賛美が流れ、皆が賛美し
ていた。「涙のせきくる時イエ
スに話せイエスに話せ」「悲し
み憂いあればイエスに話せよ」
一人の女性が涙が止まらなく
なり悲しみにおおわれた。問
題を抱えていた結婚生活が
破局を迎えたのだ。信仰の
ゆえに立っていたが、悲しみ
に身を委ねてよいと、神が言
って下さっているようだった。
悲しみが心の奥底から湧き
上がってくるようだった。心を
主にお委ねした。悲しみと痛
みがどんなに深いかをご存
じで、主がその心を吐き出
させて下さるように感じた。
主は心の傷ついた者を癒し
悲しむ者を慰めるためにお
られる。ここに癒しと慰めが
ある。イエスが共におられ
て、力となり、助けとなって
下さる。あなたの心の底に
ある痛みと悲しみのすべて
をイエスのもとに出させて
下さる。そこから癒しがくる。
あなたの痛みと悲しみは癒
される。イエスが痛みを受け
取り平安を与えて下さる。




2001年12月07日(金)

「彼女は声をあげて泣いた・・神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた」(創世記21:19)


 気温が40度もある砂漠を観光旅行
していた女性、そよ風が吹いて心地い
いのだが、頭がくらくらする。
ぐったりして体力がないように感じら
れ、気力も失せて来る。
自分自身でも気づかないまま脱水症状
に陥っていたのだ。数杯の氷水ですぐ
に快復したが、ハガルもベエルシバの
荒野をさ迷い歩いた時、身体が弱って
いた。息子が死ぬのを見たくないと、
息子を潅木の木の下に置き自分は離れ
た。この時、ハガルはどんなに恐怖で
不安で、心細かった事だろう。
神は二人を憐れみ水を与えられた。
彼らの体力はすぐに回復し、力を取り
戻した。ハガルはこの時、神の憐れみ
に希望をも心に宿した。その時、荒野
はもう恐怖と不安の所では無くなった
新しい家になったのだ。私達も心弱り、
不安に怯える時、神は答えて下さる、
そして私達に同じ状況の新しい見方を
与えて下さる。
砂漠の状況の中でいのちの水を与えて
下さる。


2001年12月06日(木)

 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め・・・」(イザヤ41:10)


 ある婦人は幼い娘に、夜寝る前に、いつも
聖書絵本を読み、手を握ってお祈りして寝か
せていた。その日も、パジャマに着替えさせ
歯磨きをさせ、絵本を読んでお祈りした。
しかし、娘はぐずった。ぬいぐるみを側にお
いてやった。それでもだめで、少しいらいら
し「どうして欲しいの」と聞いた。
「怖いからずっとママに一緒にいて欲しい」と
いった。母親は娘の手を握り寝つくまで、そ
ばにいてやった。私達の主がして下さってい
るのもこういう事だ。
私達が恐れ、不安になり、怯える時、私が一
緒にいるから大丈夫だ、と。
少年が夜遅く家の庭の物置に物を取りに行く
のが、恐ろしくて怯えて行けなかった。
幾ら大丈夫だと言われても足がすくんでだめ
だった。その彼が、父親の「父さんが一緒に行
ってやろう」の一言で力が湧き上った。
私達の主はいつも一緒にいて下さる。


2001年12月05日(水)

「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがならせず、オリーブの木も実りがなし、私は主にあって喜び勇み」(ハバクク3:1)


     ある農家が不作で大変な経済状態
だった。何とか作物がよく育つよ
うに願っていたが、その年は雨が
非常に少なく、数週間の干ばつが
続いた。かなりの作物が枯れてし
まった。農夫は雨を降らせて下さ
るよう、作物が守られるよう祈り
続けたが、干ばつが続いた。彼は
ますます悪化する状況に神を疑い
始めた。本当にみこころにかけて
いて下さるのか。本当に祈りを聞
いてくださるのか。この困窮を神
はどう思っておられるのか。神は
本当におられるのか、との思いに
まで行った時、神は御言葉を通し
て語って下さった。ハバククは何
もかも、すべてを失っても、私の
救いの神にあって喜ぶと言った。
はっと我に返り、神に焦点が合わ
されたのだった。信仰とは状況で
なく、どこまでも神と自分の関係
である事。その関係から離そうと
するサタンの誘惑であった。


2001年12月04日(火)

「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ:35)


 イエスが御父と過ごすためによく寂しい
所へ出て行かれ、一人の時間を持たれた。
一人の婦人はそうしたいと願っていたが、
なかなか難しかった。何とか持とうとする
が、義務になってしまい、味気ないものに
感じる事もしばしばだった。
神との交わりの時を持てたり持てなかった
りだった。彼女は聖書を読み祈る時間、神
と過ごす時間が義務ではなく喜びであれば
良いのにと思っていた。
ある時、可愛い一歳の姪が遊びに来ていた。
あまりに可愛くて抱きしめようとすると、
姪は逃げて行ってしまった。ちょっと抱い
て上げたいだけなのに、と思った時、神の
静かな御声が聞こえた気がした。
「私も同じだよ」と。「私もあなたを愛した。
私の愛の中にとどまりなさい」静思の時は、
私の愛を受ける時なのだよと。それ以来、
祈りの時が味気ない義務でなく、喜びに変
わった。神は私達と一緒に時を過ごす事を
願っておられる。



2001年12月03日(月)

「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27)


 カンボジアの宣教師の体験だ。真夜中に突然
庭の木々を切り裂く音が聞こえた。
驚いて見てみると、斧で木をめったぎりにし、
枝を切り裂き、折れた枝を呪っていた。恐ろし
い有様に震え、怯えた。次の日、調べて見ると
その男が宣教師を妬む人物から雇われたとわか
った。嫌がらせをしたかったのだ。
その人物を非難したい思いが湧き上ったが祈り
により神のもとそれらの思いを持っていった。
神は「あなたの敵を愛しなさい」と言われる。
宣教師夫妻は祈り、その人物を赦し、ケーキを
焼く事にした。そして彼を訪問した。
相手は仕返しに来たと身構えた。
ところが、ケーキを差し出すと男は力抜け座り
込んで泣き出した。自分は内戦で両親を殺され
人から親切にされたのは初めてだと言った。
自分の悪を詫び、その宣教師の信じている神に
ついて教えて欲しいと願った。


2001年12月02日(日)

「ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押さえた。牛がそれをひっくり返しそうになったから・・主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその不敬の罪のために打たれたので、その場で死んだ」(Uサムエル6:6)


 ウザは契約の箱が車から落ちそうだった
ので、止ようとして押さえた。
すると打たれて死んだ。一見大変厳しいよ
うに見える。しかし、神はこの契約の箱に
対してはっきりと指示を与えておられた。
触れられるのは祭司だけだった。
神の命令を無視するというのは小さな事で
はなかった。神はご自身が聖なる方である
事を示された。不従順と罪に対して、神が
怒りを発せられる事を表わしている。ウザ
の死は不敬行為であった。私達は神の威厳
に対して注意を払っているか。
礼拝や祈りにおいてどうか。神の御前に出
ることを意識し敬意を払っているか。
聖なる神は恵み深く憐れみ深い。しかし、
この方は焼き尽くす火だ。この恐るべき力
を恐れれば恐れるほど、神の愛を感謝する
ようになる。神への恐れのない者に神の恵
みはわからない。