2011年09月30日(金)

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます」ローマ8:5


私たちクリスチャンには、二つの性質がある。新しい性質と古い性質があり、二重人格だ。主を信じる以前は、新しい性質は存在せず、古い性質のみだ。主は古い性質をそのまま置いておられる。この世にいる間、この新しい性質と古い性質の葛藤によって、信仰者として成長して行く。霊と肉の戦いを日毎に経験する。

いつも「ネガティブ」と「ポジティブ」の二つの面がある。「肉」と「霊」だ。「肉」の眼鏡をかけて見て行くと、絶えず自分が軸になり、自分を中心として見る。自分にとっての利益、自分の喜び、自分の楽しみ、自分への賞賛、人が自分をどう見るか、人の自分へ評価、視点がそこに定まり、自分軸にぐるぐる回る。自分の力に頼るので、思い煩い、不安、恐れにもどおっと落ち込む。古い性質だ。

「霊」の眼鏡をかけると、御言葉に向き、主を中心に考える。主の御心は何か、主は何を喜ばれるのか、主はこの富を、時間をどう使われるのか、主の栄光を求め、主が崇められる事を喜ぶ。そこに真の平安と喜びがある。これは新しい性質だ。

これは二つのチャンネルのようだ。テレビのリモコンで、今見ている画面から、チャンネルを変えると、画面が切り替わる。「肉」にチャンネルがある時は、即、「霊」に切り替えよう。主に向き、御言葉に向く時、我に返る。神視点で目の前の状況を見て行こう。
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「肉」の気分をいつまでも放任せず、気づいたなら「霊」にスイッチしよう。自分軸から来る古い価値観は決して満足しない。御言葉による主からの新しい支配へと明け渡そう。


2011年09月29日(木)

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが非難されるところのない純真な者となり・・」ピリピ2:

           
日常の中で、私達の身に様々な事態が起きる。予定外の時間が取られ、労力が取られ、出費が出る、又、人からの誤解や、批判、非難があり、又、トラブルに巻き込まれるかも知れない。ここで、状況だけを見るなら、目の前の問題に飲み込まれて、ネガティブになり、幾らでも落ち込んで行く。

しかし、私たちは信仰の目で見る必要がある。状況を見るのでなく、目の前の出来事に神を見て行く。起こる一つ一つは、神の主権によるものだ。人からではなく、神の御手から送られて来ている。背後に、神の主権がある。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」。その状況に、主を認める時、見方が変わる。

辛く、苦しく、痛い出来事であるが、この中で、主は何を教えようとされているのか、何に気づかせたいのか、主からのメッセージがある。その中で、示される事に従って行く時、自分自身が変えられて行く。つぶやかずに、疑わずに、御手からのものと受け止め、受け入れて行く時に、状況は変わらずとも、心に平安が臨む。

どのような重い状況の中でも、御翼の陰があり、世のものではない「主の平安」を経験する。目の前の事態を、つぶやかず、疑わず、受け止めて、主の示しに従おう。「彼らの間で、世の光として輝くためです」。
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主は常に背後にいて真っ直ぐに進めるよう捕らえて下さっている。つぶやきはどこから来ているのだろう。主に尋ね、不信仰から主に満たされた平安に変えられて主の光を世に証しして行きたい。


2011年09月28日(水)

「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」出エジプト3:5 



モーセは、エジプトで王子として育ち、あらゆる学問を身につけ、有能であり、言葉にもわざにも力があった。40才の時、イスラエルを救おうと、虐げるエジプト人を殺し、同胞を助けるが受け入れられず、ミデヤンへ逃亡する事となった。自力で事を行おうとして失敗した。ミデヤンの地で妻を得、二人の子供を持ち、舅に仕え、荒野で羊飼いとして40年の歳月を過ごす。

栄華に包まれ、スポットライトを浴びていた王子が、無名の一介の羊飼だ。日々何もない荒野で羊を飼う何の変化も無い生活。かつて王子の身では、まるで落ちぶれた、人生の無残な敗北者だ。しかし、ここにこそ神の計画があった。モーセの力が砕かれ尽くした時こそが、神の時、到来だ。40才の意気軒昂な時でなく、80才のモーセを神は召し出された。

何も無い荒野で、実は、モーセは神により着実に訓練され、整えられていたのだ。今度は、神がエジプトへ遣わすために。神の時と方法がある。あなたは今、荒野だろうか。それなら、神はあなたを、次なる働きのために整えておられる。

今の場で神に従順に従い、神を待ち望もう。又、あなたは何らかの働きに召し出されているか。神のあなたへの時であり、ご計画だ。信仰もって受け止め、従おう。常に、今立っている場所が、神の聖なる地だ。
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人知を越えて今ここに置かれている。見えるところは荒野のようであっても神様の支えの中にあることを信じて最善をしよう。そこに神様の恵みが注がれている。


2011年09月27日(火)

「主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った」Uサムエル12:1


ダビデはバテシバとの姦淫、ウリヤ殺害の罪を犯し、口をつぐんでいた。王であるゆえ、誰も何も言わない。しかし、主は何もかもを見ておられた。「ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった」。神の選びの器であるダビデ、神は愛するダビデの目を覚まさせる必要があった。主はそのために預言者ナタンを送られた。

ナタンは、どんなに勇気の要った事だろう。ダビデはすでにウリヤを殺している。もし気にくわなければ、同じように、即、殺されても不思議はない。相手は王だ。絶対権力者であり、怒りを買い、その場で打ち首になるかも知れない。誰にも知られず、闇に葬られて終わりだ。そんな大変な務めを、ナタンは神から仰せつかった。

「主がナタンを遣わされたので」しかし、この大役に、ナタンは神からの使命として従った。「主が遣わされた」、ナタンはこの確信に立っていた。主が遣わされたなら、主によって成し遂げられる。事を行なうのは自分の知恵、力でなく、主ご自身だ。ナタンは例え話をもって、ダビデに語り、はっきりと罪を指摘した。

ダビデは即座に、罪を悔い改めた。単に罪を裁き、責めるのでなく、主の御心は悔い改めに導くことだ。私たちも、もし誰かのために、主から遣わされたなら従おう。又、自分に、助言し忠告してくれる人に耳を傾けよう。あなたに、人を遣わしておられるのは、主だ。
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主にあって一つとされている兄弟姉妹の言葉は祈りの積まれた言葉だ。聞くにしても語るにしても自分をよく吟味し、よく祈り自分の思いを聖められて対処できますように。


2011年09月26日(月)

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」ルカ5:4


その日、ペテロは夜通し漁をした。夜を徹して働き、一匹の魚も捕れず、ぐったり疲れ果てていただろう。網を洗い、もう早く家に帰り、眠りたかった事だろう。私たちも経験する。一生懸命に、精魂込めてやったのに、何の結果も出ない。うまく行かない。空回りのようだ。力尽きてしまう。ガッカリし、意気消沈し、自分はだめだと思う。気力が失せてしまう。

そんな時に、ペテロは主から少し漕ぎ出すよう頼まれた。少しぐらいならと、引き受けた。そして、その次に、深みに漕ぎ出して、漁をするように言われた。プロの漁師であるペテロは、今頃、魚なんているわけがないと思うが、しかし、主が「網をおろして魚を取りなさい」と言われるので、主が言われるならと、「でも、おことばどおり網をおろしてみましょう」と、もう一度昨夜と同じように網をおろした。

すると、舟が沈みそうなほど大漁だった。主は昨夜の不漁もご存じであった。その時も見守って下さっていた。私たちの結果の出ない、失意の時も共にいて下さり、「網をおろして魚をとりなさい」もう一度同じ事をするようにと招かれる。している事は見た目には同じだが、御言葉により、御言葉に従って行なう時に、主のみわざを見る。意気消沈している私たちに、御声をかけて下さる。その御声に従おう。
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自分の経験に頼み、主の導きに素直に従えない不信仰も、また失敗も主はご存知の上で深みに漕ぎ出すように声をかけられる。素直に従い、思いをはるかに越えた主のみわざを拝そう。従う者だけが栄光を見るのだから。


2011年09月25日(日)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました」Tヨハネ4:10


初めの愛とは、信じた当初の愛という意味でなく、まず神が、私たちを愛して下さった愛のことだ。私たちが、神を愛する愛ではなく、又、人を愛する愛ではない。まず初めに神だ。この順序が狂うと愛せない。愛する事がしんどくなり、重荷になる。御言葉を行なうことは、辛い重荷であり、苦痛になる。しんどいばかりで、油の切れた機械のようだ。まず受ける事が大切だ。

神を、人を愛する前に、十分に神の愛を受け取ることが必要だ。「私達は愛しています。神がまず私たちを愛して下さったから」神がまず無条件で、犠牲愛で、一方的な愛で愛して下さった。ザアカイは、虚しい、暗い満たされない心で、木にまで登って、必死に主を求めた。その時、「ザアカイ」と名を呼ばれ、「あなたの家に泊まる」と。まず罪を責められ、戒められるのでなく、罪人のザアカイを全面的に受け入れて下さった。主の無条件の愛を受けた。

その時、ザアカイに真の悔い改めが起こり、行ないとなって表れた。自分のためだけに生きて来たザアカイが、財産の半分を貧しい人に施すという、人を顧みる心が生まれた。騙し取った物も償った。愛するとは何かをする以前に、まず関係であり、主との関係だ。愛の関係、信頼関係が生じて初めて、愛の行ないへと進んで行く。
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神が主の十字架により私達を愛して下さった。私達の拠って立つ所は神がまず愛して下さっていることだ。立派に生きている時も、醜く失敗する時でも変わらず愛して下さっている。この神の愛を生涯かけて知っていこう。


2011年09月24日(土)

「あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富 を任せるでしょう」ルカ16:11


主人の財産管理を任されていた管理人が、乱費していた。事が発覚し、解雇を言
い渡され、会計報告を出せと言われた。自分の失職を目の前に、対応策を考えた。
そして、債務者を次々呼んで、減額処置にした。そうすれば、解雇された時、彼
らが何とか自分に有利に計ってくれると踏んだのだ。

すると、主人はこの抜け目のなさをほめた。主はこのように「不正の富」で自分
のために友を作れと言われた。ここで「不正の富」というのは、不正をし、違法
による悪事で得た富の事ではなく、「この世の富」という意味だ。「不正」=
「この世」の意味であり、この世の富を、忠実に、御心通りに使って、天に宝を
積めという事だ。

この世にいる間に、この世の富を使って、来るべき天に投資ができる。天に帰っ
た時に報いを受け、まことの富を任せられる。神からこの世で任せられた富を賢
く、主の御心にそって用いるようにとの教えだ。

所有者でなく、管理人は報告を出さねばならない。所有者なら自分の物であるの
で、提出する必要はない。しかし、管理人は主人に報告義務がある。私たちも、
この世で任されている富は、主からあずかった管理すべきものであって、所有で
はない。それゆえ主人に喜ばれるよう、御心を問いながら使う責任がある。

富は容易に偶像になる。富に執着し振り回され、富の奴隷になってしまう。富が
人の生活を永遠に保証するかのように錯覚させられ、だまされてしまう。神と富
に仕えるなと言われたのでなく、仕える事は不可能だと言われた。富は支配され
るべきものでなく、管理すべきものだ。

主のお心にそって、この世のものを用いるなら、天に宝を積むことができる。そ
れは大きな報いと祝福とされる。

・・・・・・・・・・・・・
任されている富を、自分のためだけに使うのでなく、天への備えのために使える
ように、御心を求め、祈りつつ管理して行こう。天に宝を積む機会は、今しかな
い。今一度任されているものを点検、吟味し、賢く用いて行けるよう、まず祈り
から始めよう。


2011年09月23日(金)

「この女は自分にできることをしたのです」マルコ14:8


マリヤは香油を、主の頭に注いだ。その香油は300デナリで、1デナリが労働者1日分の給料であり、10ヶ月分だ。大変高価な物であった。すると弟子達は、貧しい人々に施せたのにとマリヤを非難し憤慨した。しかし、主は、マリヤのその行為の意味をわかっておられた。「わたしのために、りっぱなことをしてくれた」埋葬の準備にと前もって油を塗った。それが、主に油を塗ることの出来る最後の時であった。

その後、主は十字架へと向かわれた。そして、週の初めの日の明け方、主のご遺体に香料を塗るために、何人かの女性が墓に行ったが、もう主は復活されて、誰も塗ることができなかった。まさにマリヤが塗ったナルドの香油が最後だった。それはどんなに主をお慰めした事だろう。マリヤは結婚の準備でもある大切な香油は無くしてしまったが、その犠牲の大きな分、心が主に向かった。

主によって心満たされ、後悔の無いすがすがしい確信が深められた。献げる事の意味を知り、祝福を味わい、生涯主に献げて生きた。「時と機会」を逃してはならない。マリヤはなぜその「時」が的確にわかったのか。御言葉に耳を澄ましていたからだ。私たちも主をお喜ばせするために、御心を知るためにも、日々御言葉に耳を傾ける事がどうしても必要だ。耳を澄ますなら、主の御声が聞こえて来る。そして、自分に出来る事をする機会を知る。
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時と機会を取り逃がしてしまわないよう、御言葉に聞き、今なすべきことを教えて下さいの態度で一日をはじめたい。自分に出来ること主の喜ばれる道を御霊様が必ず今日も導いて下さる。


2011年09月22日(木)

「彼女は声を上げて泣いた。神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った・・」創世記21:16


アブラハムとサラは、神から、子供を授けるとの約束を受けていたにも関わらず、時を待てないで、奴隷ハガルによって、イシマエルを得た。その後、神の約束は成就し、イサクが生まれた。やがて、イシマエルがイサクをからかい、いじめるようになった。見かねたサラはイシマエルを追い出すように、夫に要求した。

アブラハムにとればイシマエルも実子であり、非常に悩んだ。しかし、神の示しにより、ハガルとイシマエルを出した。二人は荒野をさまよい、食料は失せ、水も一滴も無くなった。二人して死を待つだけだ。この悲惨な状況に、どんなに辛く悲しく絶望だったろう。ハガルは声を上げて泣いた。その時、神は見捨てておられなかった。絶望の叫びを聞かれた。

「神がハガルの目を開かれたので」水のある井戸を見つけ、子供に飲ませる事ができた。その時に井戸が掘られたのでなく、すでにそこにあった。彼女は井戸のすぐそばにいた。井戸があったに関わらず見えなかった。私たちも、信仰人生で数々の問題に出くわすが、問題が問題なのではない。目が閉じている事、見えないことが問題だ。

ハガルは目が開いた途端、井戸を見出した。思い煩い、不安、不信仰の中では目がさえぎられて見えない。問題の中で神に向こう。そこに光がある。今の状況の中で、御言葉を与えられるよう祈ろう。神に向くや、確かな導きへの糸口を得る。
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望みが全くないように思う自分の心が目を塞ぎ、目先の事も見えなくなってしまう。井戸の備えはすでにある。不安でいっぱいの時は、神に叫び、信仰の目でしっかり神を見よう。


2011年09月21日(水)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6


ある人が、コンタクトレンズを落としてしまった。かがみ込んで、一帯を懸命に捜した。見つける事が出来るようにと祈りつつ、捜すが、幾ら捜しても見つからない。ふと「すべての事について感謝しなさい」が浮かんで来て、又、出費のかさむ不都合な出来事だが、この事も感謝しますと祈った。そして、すべてにご計画を持って下さっている事を覚え、これだけ捜しても無いのだから、これも御心、次の行動に移ろうと思えた。

店に行って、新しいレンズを購入する事にした。片方のレンズを見せると、ひどく劣化していて、このまま使っていたなら、目を傷めるところだと判明した。ずっと見えにくいと感じていたのはそのせいだった。目が守られたことに、心から感謝した。私たちの日常には、様々な事態が起きる。一羽の雀さえ、父のお許し無しには地に落ちない。

目の前の出来事の一つ一つは、父の御手の中で起きている。信仰者にとって、偶然は一つもないし、運命にほんろうされているのではない。すべては愛なるご計画の中だ。だから、すべての事について感謝できる。そして、感謝すると、自分の心が、ネガティブ思考から守られる。感謝して、感謝して行くと、どんな状況であろうと、心に不思議な平安が宿り、何をすればよいかが見えて来る。
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思い通りに行かない時に「思い通りでないことを感謝します」と目の前のことをみこころへと明け渡して行きたい。ただ主だけが先のことをご存知で、感謝するうちにそれが益だと気づかせて下さる。


2011年09月20日(火)

「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」Tヨハネ4:14  

          
「カインのようであってはいけません」カインになるなと言われる。カインは、なぜ実の弟アベルを殺してしまったのか。単なる兄弟けんかではなく、神への献げ物の事だった。アベルの献げ物は受け入れられ、カインのものは受け入れられなかった。カインは激しく怒った。正しい神が、受け入れられないからには、何かが間違っていたので、そこで悔い改めて、献げ直せば問題はなかった。

ところが、神に向き合い、悔い改めるのでなく、アベルへの嫉妬へと向かった。嫉妬は激しい憎しみに増幅して行った。この事は、カインと神との関係の問題であった。神と自分との関係が最重要であり基だ。私たちも神の前に正しくない時、罪の性質は人を妬んで行く。妬みは、誰にも根深く巣くう罪だ。祭司長たちが主を十字架につけたのも妬みであり、サウルが自滅して行ったのも妬みだった。妬みから憎悪、殺人へと発展して行く。

しかし、新しく生まれた私たちは、すでに「死からいのちに移った」。新しい性質は、人を愛して行こうとする。愛する時、平安と喜びが心に満ちる。それは神の性質だ。愛さない時、心が苦しくてたまらず、神に助けを求める。つまづいたり転んだりはするが、愛そうとして行く。それが救われているしるしだ。いつも悔い改め、主とクリアな関係でいよう。その時、自分の力でなく、御霊によって兄弟を愛して行ける。
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嫉妬や妬みは、相手の問題でなくいつも自分の問題だ。古い自分が肉のままに留まろうとしても、神様の前に正直に立っていたい。必ず真実に悔い改めることが出来る。


2011年09月19日(月)

「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにして あるから」ルカ19:5


ある人は、いつも自分が嫌いだった。もっと自分に魅力があったなら、もっと人
を楽しませる事ができななら、器量が良くて、性格が良がかったら・・皆に愛さ
れるのに。こんな自分だからダメだ。何の魅力も無く、何の取り柄もない、暗い
自分、自分の嫌な所ばかりが目についた。

自分で自分を何とかしようとするが、どうにも出来なかった。器量の悪い自分が
ますます嫌になる。近づいて来てくれる人に、本心でない突っ張った態度を取っ
てしまう。当然相手は戸惑い、どうしていいかわからず、離れて行ってしまう。

本当は親しくなりたいのに、相手を傷つけ自分も傷つく。そんな悪循環にいた時、
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まる」との御言
葉を聞いた。ザアカイの名を呼ばれ、孤独で寂しい虚しい心の内を、知っておら
れた事、ザアカイを決して裁かず、責めず、「あなたの家に泊まる」と受け入れ
られた事を知った。

あなたの家に泊まるとは、あるがまま受け入れているとの愛だ。ザアカイは私腹
を肥やし、罪を犯していた。主ご自身の赦しの愛に触れた時、ザアカイは心底悔
い改めた。そして、人に施したいとの愛が流れ出た。今まで決して貧しい人の事
など、心に無かったのに。

ザアカイは変えられた。ザアカイと自分が重なり、主の愛を知った。主は私たち
の心の状態、虚しさも孤独も、渇きを何もかもをご存じだ。

・・・・・・・・・・・・・・・
今日も、名前を呼び、受け止め、愛して下さっている主のまなざしがある。まず
このまま受け入れて下さっているから、悔い改めることができる。醜い心の内を
何もかもご存じの上で、主のほうから愛して下さった、今日もこの愛にとどまろ
う。


2011年09月18日(日)

「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なので す」創世記45:8


父親から特別扱いされたヨセフは、兄たちから妬まれ、妬みは憎しみとなり、奴
隷として隊商に売られてしまった。遠くエジプトに追いやられるという理不尽な
仕打ちを受けた。エジプトの地で、奴隷として仕えた主人に認められ、信任を受
け、何もかも任されるが、主人の妻による言いがかりで、牢獄へ。奴隷から更に
悪い囚人となった。

そこで10年を経た後、パロの夢を解き明かし、一転、総理大臣に。そんな中、深
刻な飢饉は広がり、エジプトに穀物があると聞き、兄たちは買いにやって来た。
兄たちにはヨセフだとわからなかったが、ヨセフは一目でわかった。以前の事が
あり、兄たちを試すヨセフ。
その結果、以前自分を奴隷に売った兄のユダが、今、目の前で、ベニヤミンの身
代わりになると言う。自分が奴隷となるから、ベニヤミンを老いた父のもとへ帰
して欲しいと。

このユダを見た時に、ヨセフはもう自分を抑えきれずに号泣した。そして自分は
ヨセフだと名乗った。ユダをここまで変えた神の奇跡を見て、ヨセフは兄たちに
売られたのでなく、神が自分をエジプトに派遣したのだと言った。赦しと愛が湧
き上がった。それは、あなたがたの命を救うためと。

この悲しみ、あの苦しみ、パズルのピース片だけを見ていたらわからないが、す
べてが埋まって、神のご計画が現れた時、言いようのない喜びが湧き上がる。

・・・・・・・・・・・・
それぞれに色々な境遇がある。今、苦しい状況だが、「私をここに遣わしたのは、
神」と言われる。偶然でなく、運命でなく、サタンにほんろうされているのなく、
神の深いご計画だと。目的と意図を持っておられる。神に視点を置こう。


2011年09月17日(土)

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか」詩篇1 21:1  

       
都上りの歌となっていて、エルサレムへ巡礼の旅に出る時のものだ。「山に向か
って目を上げる」は、これから登って行かねばならない、困難な難しい山々だ。
エルサレムは遙か彼方であり、幾つもの山々が行く手を阻んでいるかに見える。

当時の人々の旅は、今では想像もできないほど困難で危険なものであった。今の
ように、ちょっと都へというわけに行かない。旅の途中で病気になれば命にかか
わる。又、強盗等、身にどんな危険があるやも知れず、無事に帰れるかどうかも
わからない。そのような中で何が助けになるのか。

エルサレムへの都上りは、膨大な困難を前に「私の助けはどこから?」との問い
になり「私の助けは、天地を造られた主から来る」と答えが来る。計り知れない
困難はあるが、その山を造られたのは主だ。すべての状況も主の御手の内だ。

「助けは主から来る」私たちも今、行く手を阻む困難の山があるだろうか。又、
突如のアクシデントに見舞われる。突然の病気、けが、事故。経済的困窮、苦し
い対人関係、又、誰にも言えない悩み・・まさに「私の助けはどこから来るの
か」状態だ。そこに明確な答えがある。「主から来る」。

主からの完璧な愛と配慮、助けが臨む。それは天地を造られた主であり、すべて
を支配しておられる方だ。目の前の事態を祈ろう。どのように助けが来るか主に
期待し、楽しみに待とう。

・・・・・・・・・・・・・・・
どうにもできない問題、悩みが立ちはだかる時、「私の助けはどこから来るのだ
ろうか」状態のまっただ中で、「私の助けは天地を造られた主から来る」。主か
ら来ると断言している。状況でなく、困難をも支配しておられる主を見上げよう。


2011年09月16日(金)

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」Uペテロ5:5



ある人が、職場で、やりにくい嫌な相手がいた。話すと、どうしてもギクシャクしてしまう。相手にトゲを感じ、段々、話すことも苦痛になり、自分の心も重苦しく、その事を祈り始めていた。祈っていると、相手の短所、嫌な所ばかりに目が行き、そういう見方しかしていない自分に気づいた。相手を嫌い、裁いていた。相手にトゲを感じていたが、実はトゲを出していたのは自分だった。

丁度「高慢」についての学びがあり、「ご自分を無にして、仕え者の姿をとり」「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」キリストの姿に、自らの高慢、自己中心、愛の無さを示された。悔い改め、へりくだりたいと、その事に心を向けて祈っていた。そんな時、仕事の事で相手と話をしていた時、自分が変えられている事に気づいた。

和やかに普通に話ができ、相手を嫌い、裁く思いが消えていた。自分がへりくだろうとして祈る時、主が働かれる事を見せられた。こちらが心を開くと、相手も変わってしまった。どちらかが変わると変わる。又、例え相手が変わらなくても、自分の心は平安にされる。悔い改めて主に拠り頼む時、主は働かれる。常に相手のために祈るので、愛が与えられ、その苦手な相手が、仲の良い相手に変わってしまった。
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自分に良くしてくれる人しか愛せない自分だ。裁く思いが沸き起こる時にその裁くものさしを自分に向けてみよう。自分の内にある梁に主が気づきを与えて下さる。


2011年09月15日(木)

「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです」マルコ8:35

こんな民話がある。広大な土地があり、日の出から日没までに、自分の足で歩いた所が、全部自分の土地になるというのだ。しかし条件が日沈までに出発点に戻るというもの。貧しい農夫は狂気し、日の出と共に喜び勇んで歩き出した。嬉しくて〃あの土地も、この土地もと欲が出る。もっと〃と懸命に歩き続けた。太陽が西に傾く事に気づき、これはいけないと出発地点に戻り始めた。

急がねば、何もかもが水の泡だ。どんどん太陽は西に。農夫は死に物狂いで走り、走り、走り続けた。心臓がつぶれそうなほど走った。そして、息絶え絶えに戻った農夫はその場で力尽き、倒れ、死んでしまった。これは実は悪魔の誘惑であったという話だ。自分の欲望に駆られ、ひた走る生き方はついに身を滅ぼしてしまう。

「命を救おうとする」=自分の利益を得たい、金持ちになりたいとは、単に富ではない。有名になり、人の上に立ちたい、人からの賞賛が欲しい、地位と名誉を持ち、人を支配したいという欲望だ。肉の欲望を遂げようとする時、自分自身を失ってしまう。

人も神さえも、自分の利得のために利用して行き、それが自分にとってどう利益があるのか、でしか見えなくなってしまう。そんな自分に気づき、献げて行く時、自分の利得でなく、神の御心、神の栄光を優先する者に変えられて行く。そして、実際、神の栄光が現される。
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こんなことして何になろう、これは時間の無駄ではないのか。そう先を見越して物事をより分けてしまっている。自分の利益優先だ。自分を全く脇におき、神様から発した思いで目の前の事に対処して行きたい。


2011年09月14日(水)

「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか」Uサムエル9:8


メフィボシェテはヨナタンの子供であり、サウル王の孫であった。だいたい前王の一族は皆殺しにされた。いつ反乱を起こすかわからない危険のためだった。まして、サウルはダビデ殺害に燃えて、ダビデは命をつけ狙われ、何度も殺されそうになった。メフィボシェテはそれもわかっていて、ダビデに殺されても当然であり、隠れて身を潜めていた。

しかし、ダビデはサウルの王子でありながら、自分を守り、命を助けてくれた親友ヨナタンとの約束を果たしたいと、メフィボシェテを王宮に招き入れた。サウルの土地をすべて返し、王宮で生活し、他の王子と同様に、自分と共に食事をするよう言った。「私の食卓で食事をしてよい」とは家族の一人とするという事だ。

サウルの子孫であり、更に両足が不自由で、王のために何の役にも立たないメフィボシェテは、何で自分が?殺されて当然の、何の資格も無い自分が?余りの戸惑いで驚いた。このメフィボシェテは、私たちの姿だ。

御父に敵対し、罪を犯し、「罪の支払う報酬は死」であり、永遠に滅んで当然の私たちが、ただ御子の十字架の贖いのゆえに、無罪放免とされ、永遠に神の子とされる。そして主の食卓で食事ができる者とされ、豊かな交わりの中に入れられた。彼は「いつも王の食卓で食事をした」通り、私たちもいつも主の食卓で溢れる恵みと祝福を味わおう。
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罪しか犯せない者が招かれて行った主のもとは、全ての備えと罪の赦しがあった。何という深いご愛と恵みだろう。主の備えられた食卓で主と交わりの祈りをし、いのちのパンをいつまでも豊かに受けていける。


2011年09月13日(火)

「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです」マルコ7:15


我が国では、「性善説」であり、外側から入るものが、人を汚すと思われている。環境が、成育歴が、社会が悪いから、非行に走り、犯罪を犯すと。だから、環境、社会が良くなれば、人間は良くなるのであり、悪いものを取り除くのが教育だと。しかし、聖書は真反対のことを言う。人は生まれながらの罪人であり、罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯す。幼い子供は嘘をつく。親は嘘をつくように教えた事は一度もない。しかし、子供は必ず嘘をつく。

「義人はいない。ひとりもいない」外側ではなく、環境でなく、人の内側から出て来るものが人を汚す。様々な悩み、争い、衝突、それらは環境の問題ではない。それに関与する人の心から、内側から出て来る問題だ。心に原因があり、心から出る「罪」が人を汚す。罪による。主の十字架の血潮が、その罪を赦し、きよめてくれる。

又、外側から、私たちに入るもの、それが人の悪意や侮辱であれ、私たちを汚すことはできない。自分から出るものだけが、自分を汚す。つまり、人は私たちに何もできない。人の悪意に対して、敵対心や憎悪で反応するなら、罪を犯し、汚す事になる。しかし、主に愛されている事に堅く立ち、その侮辱を憎しみで返さなければ、人は私たちを汚すことはできない。
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外側から来るものではなく自分の内の罪が自分を汚し自分を傷つける。また人を傷つけて行く。心から沸き起こる罪を自分のものと認め、拒否し、主にしっかり付く方を選択しよう。


2011年09月12日(月)

「何も思い煩わないで・・願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が・・心と思いを守ってくれます」ピリピ4:7


ある人が、ハードな仕事で早朝出勤、深夜帰宅が続いた。仕事量多く、又、プロジェクトが思うように進まず、対人関係においても多大なストレスが重なった。とうとう許容量オーバーとなり、疲れで倒れ、入院静養になった。余りにも忙しく、神が飛んだ状態の日々だった。しばらくして、ひと息つくと、仕事が気になって〃仕方がない。イベントまでにどうあっても出社しなくてはならない。即、退院と思うが、医師に止められる。

思い煩いに襲われ、そんな頃、やっと神に心を向けることができた。久し振りに聖書を開き、心を静めて祈った。何の邪魔もない、静かな時間に、今の心の焦り、心配、煩い、すべての思いを一つ一つ神に打ち明けた。神から離れ、自分中心に自分の思いで生活していた事に気づかされた。御言葉の通りに、神に願い事を告げ委ねて行くと、不思議に、不安、恐れ、思い煩いが、スーッとおさまって行った。自分が勝手に作り出した妄想の煩いであると気づかされた。

仕事も御心のままにと、委ねきった時、心の隅々まで平安で満たされた。心がすっきりした。もう期日までに退院できても、できなくても良いと思えた。どうであれ、主は最善をして下さると。その直後、身体は回復し、イベント前に退院の許可が出たのだった。
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なぜ思い煩っているのだろう。自分の望む解決に固執しているのか、また神様の力強い御手を忘れているのだろうか。心配事を神様に渡してしまえるように祈ろう。心配事の一つ一つを神様の思いと力を頼り、解決できるよう心新たにして下さる。


2011年09月11日(日)

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘 れるな」詩篇103:2


心配症だろうか。まだ起きてもいない先の事を、ああなったら、こうなったらと
思い煩っているだろうか。主は「何も思い煩うな」、いっさい思い煩うなと、言
っておられるに関わらず、くよくよと思い煩ってしまう。

「思い煩い」と「平安」は絶対に同居しない。思い煩う途端、心は暗くなり、落
ち込み、沈み込み、今、目の前のする必要のある事柄をする気力が奪われる。又、
私たちは、だいたい失ったものを数え、無いものを数え上げる。あれが無い、こ
れが無い、あれもこれも出来ていない・・心はネガティブに落ち込んで行く。

主は、上を見上げて、主をほめたたえよ、すべての事について感謝せよ、と言わ
れる。失ったものを数えるのでなく、今、与えられているものを感謝するなら、
どんなに心が引き上げられるだろう。そして、主が良くして下さった一つ一つを
思い出し、尚も思い出し、数えて、数え上げて感謝する時、自分が変えられる。

今の状況を感謝する事は、主の支配を認めることであり、今の状況を受け入れる
ことであり、サタンの足場を崩してしまう。主はそこに力強く働かれる。環境を
変えるのでなく、目の前の相手を変えるのでなく、自分が変えられて行く。感謝
を献げて行く時、不思議が起きる。状況は変わらないが、心が平安にされて行く。
心に安堵が臨む。

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ネガティブで落ち込んでいる時は、全く感謝からかけ離れている。ますます否定
的なものしか見えず、祝福が全く見えない。目の前の一つ一つを感謝する事に目
を向け、意志を向けて行くと、視点が変わる。そして、祝福が見えて来る。


2011年09月10日(土)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、そ の罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」Tヨハネ1:9

 
             
神は、主の十字架の贖いゆえに、すべての罪を赦して下さる。「御子イエスの血
はすべての罪から私たちをきよめます」。すべての罪の解決はすでに備えられて
いる。大きな罪、小さな罪、真っ黒な罪、灰色の罪、すべての罪が赦される。但
し、「もし自分の罪を言い表わすなら」だ。罪を言い表わすとは、自分がした事
であり、その通りであると認めることだ。

しかし、なかなか自分の罪を素直に認めることができない。難しい。例えば、人
を憎み、裁いているとして、幾らでも理由づけて、自分を正当化できてしまう。
悪いのは相手であり、どうしても相手が悪いとしか思えない。相手の非だけが見
えて、自分が「憎んでいる」「裁いている」という事実に目が向かない。

しかし、相手がどうであれ、自分が憎んでいるという事は自分の罪だ。そこを認
める必要がある。認める時に、赦され、癒される。しかし、相手のせいにし、自
我はどこまでも認めたくないものだ。そこにプライドが巣くい、強固な自我があ
る。「認めたくありません。認められるよう助けて下さい」と祈って行く時、必
ず主の助けが臨む。

相手は、相手と神の関係であり、もし罪を犯していたなら、その責任を問われる。
しかし、自分は自分と神との関係において責任を負う。責任を取ることが悔い改
めることだ。赦しと癒しが自分のものとなり、平安が戻る。

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人は関係がない。どこまでも自分と主との関係だけだ。自分と主との間に問題が
無ければ、どんな厳しい状況の中でも、自分自身は平安だ。もし、自分と主との
間に障害があれば、平安が無い。悔い改めて、悔い改めて、いつも平安を頂いて
歩めることの幸い。


2011年09月09日(金)

「ダビデの行ったことは、主のみこころをそこなった」Uサムエル11:27


イスラエル全軍が戦っている最中に、王ダビデはエルサレムにいて、夕暮れに床から起き出すような生活をしていた。すきと油断がある時に、サタンはつけ込んで来る。バテシバを通して、サタンの誘惑がダビデに臨んだ。ダビデはとっさに主を仰ぎ、誘惑を拒否すべきだった。しかし、欲望に負けてバテシバと罪を犯してしまった。バテシバの妊娠がわかると、夫ウリヤの子供にしようと画策したが失敗し、次の策略で、ウリヤを戦死させる。罪に罪を重ねてしまった。

ずっと理不尽に命をつけ狙われたサウル王を、決して殺さなかったダビデだが、忠実な何の落ち度も無い部下を殺してしまった。自分は王であり、トップであり、誰も何も言う者などいない。自らの罪を隠ぺいした。人前に隠しおおせたと思ったが、何もかも一部始終を神は見ておられた。「思い違いをしてはいけない。神は侮られるような方ではない」人は蒔いた種を刈り取る事になる。

預言者ナタンを通して、ダビデの罪は日の下にあばかれた。ダビデの素晴らしいところは、いっさいの言い訳、弁解をしないことだった。バテシバのせいにしなかった。「私は主に対して罪を犯した」と自らの罪を率直に認めた。人々の手前、王が罪を認めるとは容易でない。しかし、その瞬間、赦しが臨んだ。「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった」。ダビデに心底の平安と安堵が戻った。何ものにも代えられない平安だ。私たちもいつでも主のもとに赦しがある。
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いかに自分の罪には甘く言い訳なら山のように出てくる者か。罪を示されたなら弁解せずに主と罪に向き合おう。悔い改め、罪の力の強さを覚え主の守りをいつも祈っていよう。


2011年09月08日(木)

「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11


私たちは、日々主と交わり祈りをする。主は祈るよう勧められ、祈りに答えると約束されている。「求めよ。そうすれば与えられる」と。しかし、今までの信仰生活の中で、祈りが答えられなかった経験があるだろう。それらは良い経験であり、祈りをよく学べる時であり、祈りにおいて成長して行ける時だ。祈りは学校だと言われている。一段階〃学んで行くものだと。

赤ん坊がすぐに歩けないのと同様、すぐに祈れるようにはならない。時間をかけながら、主が身につけて行って下さる。答えられないその祈りは、主が聞いて下さったが、「ノー」が答えだ。つまりちゃんと答えて下さっていて、主の意志は愛をもって「ノー」いう事だ。しかし、「イエス」の答えしか眼中に無いなら、主の「ノー」を受け取れない。いたずらに意気消沈し、失望落胆してしまう。

時に明確な「ノー」の答えがある。主の「ノー」を受け入れられるよう祈ろう。私たちの願いが、私たちにとって最善でないという事だ。主は更なる良いものを用意していて下さる。又、すべてに神の時がある。受けるに最も美しい時がある。与えて下さるが、まだ時期尚早で、「待て」が答えかも知れない。又、私たちの求める「動機」が間違っているので、正されたいのかも知れない。自己中心に求めるなら、自我が更に強固になってしまう。主は祈りを学ばせて下さっている。
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叶わぬ祈りも御父の答えと深い信頼を持って受け取ろう。どんな祈りにも耳を傾け聞いていて下さる。積みかさねる祈りか、方向を変えて祈るのか、答えを切に待ちながら成長して行きたい。


2011年09月07日(水)

「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった」ヨハネ21:4


主が十字架にかかる前に、兵士たちに捕らえられた時に、ペテロは3度も否み、主を裏切ってしまった。「全部の者がつまずいても、私は決してつまずかない。牢であろうと、死であろうと、覚悟はできている」と言ったペテロであった。又、弟子たちも、主を捨てて、一目散に逃げ去ってしまった。ペテロや弟子たちの心は、どんなものであったろう。挫折して、意気消沈、傷ついた心は深く痛んでいたろう。

今の場所で失敗し挫折したなら、私たちはどうするだろう。元いた所へ帰るのだろうか。ペテロと弟子たちは、捨てた網を再び取って、漁をした。しかし、何もとれなかった。どんなに虚しく、暗たんたる気持ちであったろう。その時、岸べから「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」と言う声が聞こえ。彼らはその声に従い、右側に網を下ろした。すると、網を引き上げる事ができないほどの大漁であった。

以前同じ光景があった事を思い出し、主だと気づいた。今、あなたも心が傷んでいるだろうか。自分に失望しているだろうか。何かの事で、後悔の念でいっぱいだろうか。そんな私たちの歩みの岸べに、主が立って下さっている。豊かに赦し、再び引き上げ、回復させ、立たせて下さる。いつも人生の岸べに、主は立っておられる。
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主が見えていない時がもっとも暗い。失望や挫折に心ふさがれて、いつも変わらず側におられる主に心が行かない。過去の失敗にとどまっているなら、心を主に向け、赦しを受け取り前に進もう。


2011年09月06日(火)

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています」ルカ11:41


あなたも多忙だろうか。しなければならない事が、次々と目の前にやって来る。マルタも、目の前の忙しさに心が奪われ、イライラし、心が混乱してしまった。主と弟子たちを家にお迎えした。その前には、家の隅々まで掃除し整えた事だろう。訪問客の足を洗い、対応し、食事の準備に手を取られた。主と弟子たちのために、美味しい食事をと、力が入り、一生懸命に料理した事だろう。誰かがしなくてはならない大切な事であった。

しかし、マルタは、接待のための忙しさに、目の前の事に心を取られ、あれもこれもと思い煩いで一杯だ。夕食の時刻も迫り、思うようにはかどらない。焦ってイライラしてしまった。主のためにしているのに、心煩わせ、イライラし腹を立て、本末転倒になってしまう。私たちも時に陥ってしまう。仕事や家事、あるいは教会での働きに、余りに忙し過ぎて、喜びや平安が奪われてしまっていないだろうか。

いら立ち、人を責め、裁く心が出て来たなら要注意だ。主のためにと言いつつ、何をしているのかわからない。ちょっと手を止めて、立ち止まって、主と交わろう。優先順位を正そう。少し静まって、主に心を向けて焦り苛立っている心を、そのまま主に告げよう。主の霊に触れる時、必ず心が新たにされる。喜びと平安が戻る。
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忙しい毎日で、目の前にあるものに祈りもなく取りかかってしまう失敗をよくする。一日の初めに祈り、今日委ねられたものをよく考え一日を歩みだしたい。あれもこれもする必要があるのだろうか。


2011年09月05日(月)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」エペソ6:12


心しておかなくてはならないのは、一生涯、私たちの敵は「血肉=人」ではなく、サタンが相手であることだ。人との戦いでは一切ない。そして、サタンの攻撃はどこに来るのか。それは、私たちの「思い」に来る。あなたの心の中の「思い」が戦場だ。朝起きた瞬間から、サタンは思いを吹き込んで来る。今朝はどんな思いが来ただろう。目覚めた途端、思い煩いのあの事が浮かんだろうか。

嫌な相手が浮かんだか、今日の仕事が駆け巡ったか、朝からうんざりだったろうか。気をつけなければ、サタンにほんろうされてしまう。これらの「思い」はサタンの吹き込む「火矢」(エペソ6:16)だ。火矢を止める事は出来ない。しかし受け入れない事は出来る。拒否し続ける。心から湧く「思い」について行ってはならない。否定的なものはサタンからだ。

又、「私たちの兄弟たちの告発者」黙示12:10であるサタンは、人を裁く思い、責める思い、罪に定める思いを持って来る。噂話や悪口、偽りをまき散らし、互いの間に不信感、疑いを起こさせる。疑心暗鬼にさせ、間を裂き、分裂を引き起こす。サタンのしわざだ。乗ってはならない。同士討ちをしていないか。否定的な思いのある所、そこにはサタンがかんでいる。祈っていよう。御霊により見分けさせて下さる。何より祈りによって気づかせて下さる。
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私達を苦しめて、傷つけるものは人ではなく、自分の内に来るサタンの声とそれに同調したい自我だ。御霊の導きの声をふさいで来るサタンと会話に早く気づけ、しっかりと主にとどまり続けられるように祈ろう。


2011年09月04日(日)

「サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口 を数えさせた」T歴代21:1


イスラエルには剣を使う者が110万人、ユダには剣を使う者47万人とあるよ
うに、人口調査は軍隊の力を調べるものだった。その動機が問題であった。ダビ
デは軍力を誇り、自分のものとし、その軍力が自分の力によるものと高ぶった。

勝利した時、成功した時、それを誇りたい思いが出て来る。サタンに誘われてと
あり、サタンは自分を誇らせるように誘惑して来る。しかし、ダビデが勝利を得
て来れたのは、すべて神によることだった。

ヨアブは、そんなダビデに「なぜ、罪過ある者となられるのですか」と人口調査
に反対した。それは罪だと。しかし、王はヨアブを説き伏せ、そして実行した時
に「王は、神の御心を損なった」。ダビデは罪を犯した。罪を犯すなら罰を受け
る。刈り取りをする事になる。

「神はイスラエルを打たれた」。三つの中から選べと言われ、ダビデは、主の手
に陥らせて下さいと、3日間の疫病を選んだ。自分の罪ゆえに、多くの民が疫病
で死んで行くのはどんなに辛い事だったろう。ダビデは手痛い失敗をするが、し
かし悔い改め、主を見上げ立ち返って行った。そこがダビデとサウルの違いだっ
た。

ダビデも完全ではなく、様々な失敗があった。しかし、へりくだって悔い改め、
赦されて、再び立ち上がり、主を信頼して行った。サウルは悔い改める事なく、
罪を隠そうとし、責任転嫁し、言い訳に終始し、どこまでも自分のメンツを保
とうとした。
主が喜ばれるのは、砕かれた、悔いた心だ。どんな時にも、悔い改めるなら豊か
な赦しが備えられている。主のあわれみは深い。

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主のわざを、主が成し遂げられた事を、自分のものにし、自分を誇ってしまう。
主から与えられたものを、自分が所有し、固く握りしめてしまう。又、主の御力
に拠り頼むのでなく、自分の力で事を行なおうとする。サタンはそのところに巧
みに誘惑して来ることを覚え、祈っていよう。主が気づかせて下さるように。


2011年09月03日(土)

「彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである」  マルコ9:34


弟子たちは、主に「何を論じ合っていたのか」と聞かれて、答える事ができなか
った。「誰が一番か」と論じ合っていたからだった。弟子たち12人の中で、比
較し合っていた。自分の価値を決める基準が人であり、他者と比較して、自分の
価値を量り、優劣を決める。つまり、他人との比較が無ければ、自分の価値が量
れない。

神無しの世界では、人の間でしか、量りようがないからだ。つまりは比較の世界
にしか生きられない。弟子たちの間にも、そんな、世の価値観があった。人より
上に立ちたい、上であれば、自分が優っている事になる。そして、競争で負ける
なら、自分は劣っている事になる。より先を行き、上に立ち、勝ちたい。それが
自分の価値になるからだ。これが肉の思いだ。

しかし御言葉は言う「自分たちの間で自分を量ったり、比較しているのは知恵の
ないこと」と。相手に勝つと優越感に浸り、負けるなら劣等感に陥る。人により
自分の価値が左右され、振り回される。生涯この虚しいアップダウンを繰り返し
て、そこに何の平安も喜びも無い。

私たちは、他者ではなく、神によって自分の価値を量る。その神は「あなたは高
価で尊い」と言われる。人がクリスチャンになったから、自分もクリスチャンに
なったのではない。主と自分の関係だけに基づいて信仰が始まった。ここに比較
からの解決があり解放がある。

根深い比較の中にいる自分に気づく事から始まる。そんな自分を認めて、主の助
けを仰ごう。主は助けて下さる。「あなたは、わたしに従いなさい」と言われる
主に目を注ぎ続けよう。

・・・・・・・・・・・・・・・
この世の価値観は「人より上に」「誰が一番か」「自分は何番か」しかし、御言
葉の価値観は「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」
だ。へりくだった、一番低い所に主がおられる。へりくだる時、主とひとつだ。


2011年09月02日(金)

「サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない」Tサムエル27:1

サウル王に、つけ狙われていたダビデは、恐怖に支配され、いつかはサウルの手中に落ちて、殺されるに違いないと思った。そして、自分を救うべく考えに考え、その対応策として、ペリシテの地へ逃れることに思い至った。「ダビデは心の中で言った」とある。祈ったとは記されていない。ダビデは、どんな時も主に伺いを立てた。祈って、絶えず主に導きを求めて歩んで来た。しかし、ここでは祈らずに、自分の思いで決めた。恐怖と思い煩い、不安に飲み込まれてしまった。

ガテの王アキシュの所へ行った。自分の思いで進んだ結果、アキシュのもとで、嘘に嘘を重ねる事になり、更にアキシュと共に、同胞イスラエルと戦争するはめに陥ってしまう。サウルやヨナタンと戦わなければならない。しかし、そこに神が介入された。ペリシテの領主達が、ダビデが裏切るのではと、参戦させないように言って来た。アキシュはそれを受け入れ、ダビデは同胞との戦争を免れた。

最悪の事態から、神は守られた。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」。人を恐れる時、サタンの罠にかかってしまう。エリヤもイゼベルを恐れて逃亡。えにしだの木の陰で死を願った。人や状況や自分から、神に視点を移そう。神に信頼を寄せよう。サタンの罠から守られる。
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自分の感情が頼りなら心配は尽きず、サタンの声と自分の声しか耳に入らない。気づいたところから主に帰り、主を頼り、主に聞き確信もって平安に歩もう。


2011年09月01日(木)

「なぜ、ほかの女のようなふりをしているのですか」T列王14:6


ヤラベアム王は、子供が病気になった。そこで預言者アヒヤのもとに、妻を変装させて、子供がどうなるかを聞いてくるようにと遣わした。しかし、主はその変装の事を前もって、アヒヤに告げておられた。しかし、なぜ、王は妻を変装させる必要があったのか。それは、王が神に従わずに、神を離れていたからだった。自分のために、鋳物の像を造り、神の怒りを引き起こし、神を捨て去った。それで、自分を隠すために変装する必要があった。

私たちも都合の悪い時には、本当の自分を隠すだろうか。弱さを隠し、変装してしまう。弱みを見せたくない。しかし、弱く無い振りをする事は、自分でない他人に変装する事になる。「なぜ、ほかの女のようなふりをしているのか」。主の前に、正直に自分の本当の姿を認めることが、祝福の始まりだ。弱さを認めて行く時に、自分でない振りをする必要がなく、自由にされる。肩からプライドの荷が落ちて、楽になり、あるがままでおれる。信仰生活が生き生きと楽しくなる。

あなたはプライドゆえに、突っ張って、自分でない振りをして、苦しい信仰生活だろうか。まず変装していること、良い人の振りをしていることを認め、あるがままの姿を主に告げよう。その時、全面的に受け止められていて、どんなに愛されているかを知る。
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変装している自分に気づいているだろうか。我ながらがっかりする自分を知らされ受け入れながら、素のままで主に向かうことは祝福だ。ありのままで主に向かえるなら、祈りの課題もまた変わり、主がひとつひとつ古い自分から解放して下さる。