2011年10月31日(月)

「自己中心や虚栄からすることなく・・自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」ピリピ2:3


信仰生活、対人関係の悩みをしばしば経験する。問題が起きた時に、ますます問題を根深くしてしまう事がある。それは、相手を変えよう〃とする時だ。すべての対人関係で言えるが、自分は正しいと思うので、間違っている相手を変えようとする。すると、誰しも人に変えられるのは、拒否反応が起こるわけで、相手は反発し、ますます頑なになる。争いになるばかりだ。

相手を変えようとして、相手が変わる事はない。どうすれば良いのか。相手を変えようとしない事だ。相手でなく、自分が変わろうとするなら、問題解決へと向かう。トラブルの多くは、自分自身、又、相手の人格的未熟さ、信仰的未熟さによる。未熟は未熟で良い。構わない。これから成長して行ける。しかし、問題は自分が未熟だと思っていない事だ。相手は未熟かも知れないが、自分の未熟さを認めない。認める以前に気づいていない。そこを認める時、問題解決の糸口を見出した事になる。

トラブルを通して、今まで見えていなかった自らの自己中心や高ぶり、虚栄心が見せられ、気づきが与えられる。生まれつきの性質の特徴は「自己中心」「虚栄」だ。「自己中心」は自分の利益を求め、まず「他人」でなく「自分」の損得を計算して動く。「虚栄」は「実質がないのに、見せかけを繕う」。御霊の気づきが何よりも感謝だ。へりくだって認めて行く時、自分が変えられて行く。
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いらいらさせられる相手ではなく、いらいらする自分をいつも見て行きたい。他の人を顧みられない自分ではないのか。神様の取り扱いはいつも益となり祝福だ。御前にへりくだりいつも自分を変えて下さいの態度でいたい。


2011年10月30日(日)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに・・あなたがたの願い事を神に知ってい ただきなさい」ピリピ4:6         


非常に心配な事、思い煩いが臨む時、どのように対処するだろう。ある人は不安
な事態に飲み込まれてしまい、ああなって、こうなってと、最悪のシナリオを描
き、真っ暗闇に落ち込んでしまう。

ある人は、考えると心が暗くなるので、快楽やアルコールに逃げてしまう。又、
矛先を人に向けて、人を責めて行ったり、人は皆幸せで、自分だけが不幸、自分
は可哀相と、自己憐憫に浸ったりする。

しかし、自分の心はますます辛く苦しくなるばかりだ。思い煩いとは、心を分割
するという意味がある。ああでもない、こうでもないとくよくよし、心が定まら
ず、心が分かたれて行く。不安の中で身動き取れず、平安と喜びを失ってしまう。

御言葉はこのような時の対処法を言っている。「思い煩うな」まず思い煩う事を
ストップして、「願い事を神に知っていただきなさい」。状況と自分を見ている
目を、そこから離し、神に向けて、ことごとく自分の気持ちを告げて行く。まず、
不安、恐れ、心配、そのままの気持ちを、思いを、隠さず、押し込めず、無い振
りをせず、神に告げよう。

そして、自分の願いを神に告げて行く。そのように実行する時、「人のすべての
考えにまさる神の平安」が心に臨むと。ありのままの気持ち、願いを神に告げ、
委ねる時、恐れと不安が去り、必ず平安を経験する。

・・・・・・・・・・・・・
主のもとに一つ一つの不安な事柄と自分の気持ちをもって行き、ことごとく告げ
よう。ダビデやハンナのように、気持を洗いざらい主にぶつけ、申し上げよう。
その時、目は状況でなく、主に向いていて、主の視点から恵みが見えて来る。


2011年10月29日(土)

「ほんとうに、自分の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、 死者をよみがえらせて下さる神により頼む者となるためでした」Uコリント1: 9



私たちは、なかなか自分の弱さを認められない。認めているつもりでも、全面無
力など決して認めたくない。少しぐらいの力を残しておきたい。少しぐらい自分
を認めて欲しい。どこまでも認められたいし、評価されたい。徹底無力など余り
にも惨めだ。

人に弱さを見せたくないし、知られたくない。プライドが邪魔をする。肉が頑張
るのは、自分の力で頑張るのは、評価されたいためだ。だから無力を認める事と
相反する事になる。しかし、無力でない人が神に頼る事は不可能だ。頼る必要性
が無い。信仰とは、神に頼る事だと、頭ではわかるが、頼ることは出来ない。

人は心底無力になった時、初めて神に頼る。自らをへりくだらせ、自分がいかに
無力であるかを知らせてくれるのは、苦しみしかない。パウロは、厳しい試練が
あり、耐えられないほどの圧迫を受け、命さえも危うくなり、その無力の中で、
自分に頼む事ができず、神に拠り頼むようにされたと。

肉にとって、無力とは忌むべきものだ。肉は、強くありたいし、人の上に立ちた
いし、人を支配したい。すべてをコントロールしていたい。しかし、信仰の世界
にあっては、無力を知る事こそ、大きな恵みだ。初めて神に頼ることを知る。そ
れゆえ主ご自身を知って行ける。何という祝福だろう。

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この世では強さが善であり、能力がある事が良い事だ。そのため古い価値観では、
弱さや無力は認めたくないし直視したくない。ふたをしておきたい。しかし、信
仰の世界は全く違う。弱さが善であり、弱さの中で初めて主を知る。弱さを受け
入れられるよう祈ろう。


2011年10月28日(金)

「なぜあなたは、兄弟の目のちりを目につけるが、自分の目の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3


「梁」とは屋根を支えるために、柱と柱の間に渡した横木であり、大きな頑丈な丸太だ。「ちり」は目にすら見えないほどの極めて小さなものだ。他人の極小のちりはよく見えるが、自分の目にある丸太は見えない。なぜあの巨大な丸太が見えないのか不思議だが、自分中心に自分のメガネをかけた判断をしているからだ。自分の色でしか見えなくなる。

だいたい相手を裁くのは、相手がどうのでなく、相手が自分の思い通りでない、期待通りでないからだと言われる。それなら自分が中心であり、自分のメガネにかなっていないゆえになる。そして、自分が絶対に正しいと思う時、闇の中に入る。

アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた時から、人は神によってでなく、自分で善悪を判断するようになった。そのため、自分の目が歪んでいたなら、自分の目に偏見があれば、その目で見るものはすべて歪んで見える。悪いのは相手で、自分は正しく、どこまでも自分を正当化して行く。人には厳しく、自分には甘くて寛容、善悪の物差しが自分中心だ。

しかし、自己中心の物差しは暗闇の中であり、それが間違っている事がわからない。自分の判断は絶対だと思い込む。あるいは自分は間違っているかも知れないとの、スタンスに立つ時、正しい道筋に立つ。御言葉が正しい物差しであり、御霊は導かれる。いつも御言葉の鏡に自分が照らされる時に、自分の梁に気づける。
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自分を裁く目と人を裁く目はずいぶん違う。御言葉によっていつも自分の中にあるものを示され、また吟味し正されたい。人の目の中のちりが見える時、特によく祈り、守られますように。


2011年10月27日(木)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11


悪魔は「策略」を練って来る。策略は隠しておくものだ。通り道に「罠」があると言ってしまえば、警戒されてしまう。普通は言わない。「悪魔の策略」とあるからには、相当の策略があるという事だ。警告されているのに、気にも留めず、のほほんと過ごしているだろうか。悪魔は私達の「感情」に訴える。「あんな事を言われて我慢する事はない。赦すべきではない」思いに来る度に、怒りが沸く。

感情をコントロール出来ない。ある人は、それで犯罪にまで至る。私達は感情はどうも出来なくても、意志で、神の御前で相手を赦しますと、祈る事ができる。怒りが沸く度に祈って行く。神は赦す事ができるようにして下さる。悪魔は私達の「感情」に働いて来る。覚えていよう。又、蛇がエバを誘惑した時、エバが善悪を知り、神のようになる事を、神は知っていると言った。つまり、神はそうなるのが嫌なのだと。神には下心があるのだと、エバを神への猜疑心と不服な思いへと誘った。

悪魔は「不服」で誘惑する。あなたが罪を犯した時の事を考えてみよう。そこに不満が無かったか。不満が来ると、いら立ちで、感謝も賛美も失せる。「何でこんな苦しみが?」「なぜ私にだけ?」最近失敗した状況はどうだろう。イライラ、悪い態度、その裏に不満な思いが無かったか。悪魔の策略だ。悪魔に気づき不満をストップして、捨てて、神に向き「感謝」を献げよう。悪魔は逃げ去り、恵みが見えて、感謝が更に増して来る。不満が感謝に変えられる。
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「感情」は御霊に従えないので、無防備ならサタンの誘惑には抵抗なくついて行く。目を覚まし、すでに与えられている神の武具をしっかり身に着け、絶えず働きかけてくるサタンの誘惑に備えていよう。


2011年10月26日(水)

「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」ピリピ2:16   

 
                   
私達は、ほとんど皆、無名の、普通の人間だ。有名人ではない。しかし、毎日の同じ事の繰り返しの中で、単調な同じ仕事の中で、信仰を実践して行く事ができる。そしてその中で、主の栄光を現わす者とされる。私たちの日々は、平凡であり、同じ事を繰り返す。サラリーマンは毎日、同じ駅まで歩き、同じ電車に乗り、会社へ出勤し同じ仕事をする。学生も同様であり、主婦も毎日掃除し、洗濯し、食事作りをする。

しかし、その繰り返しの中で、いのちの御言葉をしっかり握って、日々主と共に生きるなら、必ず周囲にキリストを現して行く事ができる。光を放って行く。あなたの置かれている場が、どんなに目立たない場所でも問題ない。仕事がどんな種類であれ、それも問題ない。今いる場所で、御言葉に忠実に従って行くなら、あなたが自分で輝くのでなく、「主が」あなたを輝かせられる。

又、その場がどんなに問題が多く、暗くても問題ない。暗ければ暗いほど、光は明るく輝く。環境の問題ではない。神がそこにあなたを置かれた。信仰とは、神の御心はいつも善いものであり、私たちにとって最善であると信じきることだ。目の前に起きる事が、見た目には苦しい事態、悲しい事、理解できない事であっても、神が善をして下さっており、背後の御手を信じることだ。その時に、その信仰は、必ずあなたを輝かせて行く。
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まわりの状況や目の前の人間関係に反応してしまうが、それでもいのちの御言葉に導かれ動いて行くなら変わらない光となって輝く。御言葉を蓄え、よく準備し十分に整えられて世に出て行きたい。


2011年10月25日(火)

「古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は造り主のかたちに似せられてますます新しくされ」コロサイ3:10 



古い人は、生まれつきの性質であり、神無しであり、自分の事しか考えない。人の賞賛、自分の栄光を求め、プライドは高く、虚栄に走る。又、心は数々の傷を持ち、歪められている。しかし、新しい人は、神から生まれ、神の性質を持つ自分であり、神を愛し、隣人を愛し、神に従おうとし、喜び、平安を持つ、神の子だ。この自分中心の古い人を脱ぎ捨てる事と、神の性質を持った新しい人を着る事が言われている。

大事な事は、古い人を「脱ぎ捨てる」ことだ。古い人の上に、新しい人を重ね着するのではない。着替える事であり、衣替えだ。新しい歩みは、古い価値観、この世の見方を捨てて〃行くことであり、そして、「キリストに聞き、キリストにあって教えられてゆく」ことだ。自己中心の考え方を捨てて、御言葉に従い、御言葉を生きて行く事だ。その場合、往々にして都合の良い、好きな御言葉、心地良い御言葉しか聞いていない。

「本当にキリストに聞き」とは痛い言葉、耳ざわりの悪い言葉をしっかり聞き、従う事だ。「古い人を脱ぎ捨て」とは、悔い改める事でもある。罪を示されるごとに悔い改め、主に従って行く、そうする時、変えられて行く。「人を欺く・・古い人」のごとく、古い人は都合の悪い事は隠ぺいしてしまう。表向きは、神に従っているようで、心の奧では自分を一番にしていたりする。御霊は心を探り、指し示して下さる。御霊に従い、絶えず悔い改め、脱ぎ捨てて行こう。
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重ね着は簡単に出来て同じように見えるが、古いままで新しいものを受け取れないことは、自分が一番よく知っている。主に似た新しい人の素晴らしさを知るために古い価値観を捨てて、捨てていこう。


2011年10月24日(月)

「もし、罪は無いと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」Tヨハネ1:8



私たちには、人を裁く誘惑が、しょっ中くる。あなたはどうだろう。相手との間がうまく行かない時、問題が生じたり、ぎくしゃくした時に、相手に対するその思いを、どうするだろう。こんな思いを持ってはいけない、こんな事を思うなどクリスチャンにあるまじき事と、その思いを心の奥に押し込めるだろうか。そして、抑えているのだから、相手を攻撃したり、爆発させないのだから、むしろ自分は良い者だと思っているかも知れない。

そのように抑え込んで行く時に、自分の本当の姿がわからなくなる。心の奧に押し込めて、表面上は、うまく繕うので、自分には何の問題も無いと、自分にごまかされてしまう。しかし実際は心の奧に、裁き、憎しみ、恨み、怒りが厳然と存在する。それらの気持ちを抑え込まないで、まず人にではなく、主にことごとく告げる事が大切だ。装う事をせず、そんな思いなど無い、良い人の振りもせず、心の思いをそのまま告げる。

「怒ってます」「恨んでます」「腹が立ちます」ありのまま、主に申し上げる時に、自分の思いを自分で知る。自分がどう思い、どう感じているのかを、自分ではっきりと認識できる。そのまま認めて告白して行く時、その罪は赦される。抑え込まずにことごとく、主に思いも、感情も告げて行こう。
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クリスチャンになったからといって自動的に良い人、問題のない人に成るわけではない。直面する自分の苦い思いをすぐに主に告げ知って頂こう。自分の罪に警戒しいつも主の前に認めておれることがクリスチャンの幸いだ。


2011年10月23日(日)

「何も思い煩わないで・・願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人の すべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを・・守ってくれます」 ピリピ4:6



思い煩いが来たなら、具体的に一つ一つを神に告げよと、言っている。「あなた
の願い事を神に知っていただけ」、とにかく神に知って頂いて、その思い煩いを、
神に委ねることだ。神にその問題を渡してしまったわけで、後は、神が御心をし
て下さる。それゆえ、委ねて安堵しておればよい。

主は、受け取って、あなたにとっての最善をして下さる。しばしばここで間違う
が、自分が思う最善ではなくて、神が私たちのために思われる最善だ。だから自
分の思い通りに事が運ぶとは限らない。しかし、間違いなくあなたの最善になる。

そして、「感謝をもって」告げるようにとある。「感謝」の心で願うということ
は、御心を受け入れることだ。自分に都合の良い、思い通りの結果でなく、主が
良いと思われる結果でOKですということだ。主は、主が良いと思われる事を成し
て下さる。そうする時、状況は変わらないままだとしても、心に平安が来る。つ
まり、心が平安になると約 束している。

祈るなら、問題が、即、解決し、状況がすぐ変わるとは言っておらず、心と思い
が平安に守られると約束している。どんな厳しい状況であろうと、心は平安にな
る。多くの人が経験するところだ。苦しい状況のまっただ中で、主に明け渡して、
任せる時、不思議な平安に満たされる。

・・・・・・・・・・・・・・・
思い煩いが臨む時に、感謝を持って一つ一つ主に告げて、知って頂くことが主の
方法だ。自分の思いの中で、どうにかしようとするなら、思いが戦場であり、更
にサタンの思うつぼとなる。はっきりと一つ一つ主に告げよう。そうするなら、
心に変化を経験する。


2011年10月22日(土)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し 合いなさい」コロサイ3:13

           
    
ある人に、ある時、嫌がらせの無言電話が続いた。最初は気にしなかったが、余
りに続くと、精神的にまいって来た。段々、普段の対人関係を考えると、相手が
特定できるようになって来た。

平常からの言葉や態度を思うと、他にはいない。嫌がらせを思う時、普段からの
傷つけられる言動と共に、赦せない思いで一杯になった。赦せない思いは、自分
自身が辛く苦しい。しかし、赦せない、憎しみが湧き上がる。その内に、環境的
に相手と関わる事が無くなり、顔を合わす事はなくなった。が、憎しみは無くな
らなかった。

心にはっきりと存在し、暗い重苦しい思いに支配された。多忙な日々に、目の前
の事に心が奪われている間は考えないが、何もしていない時は、よみがえっては
心が暗く苦しくなった。真っ暗闇の牢獄だった。楽しい時も、楽しくなく、ずっ
と囚われているようだった。

主のもとへ行き、祈った。心の苦しみをありのまま打ち明け、助けを求めた。解
放されたかった。主に助けられて、従いたい気持ちを告げた。すると、赦すよう
にと語られた。自分はできない、したくないが、でも、感情は置いて、意志で
「赦します」と決心し、応答した。

すると、心の重苦しさが消えて、心が平安になった。楽になった。御霊の喜びが
来た。心から感謝が溢れた。その後、何とその相手から「申し訳なかった」との
謝罪が来た。

・・・・・・・・・・・・・・・
赦せない心は自分が苦しい。自分で牢獄に入り、囚人状態だ。楽しい時にも頭を
よぎるや、暗闇に落ち込む。「サタンに欺かれないためです」赦せない心は、サ
タンの足場になり、その罪から更に他の罪へと発展して行く。祈って主の助けを
仰ごう。


2011年10月21日(金)

「その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです」ヘブル4:2


ある人が、厳しい経済状態にあった。支払いの必要があり、祈りに祈るが、支払い期日はどんどん迫って来る。しかし、与えられない。尚も、祈り続けるが、与えられず、不安が募り、恐れとなって来る。どうすれば良いのか。更に祈り続けるが、与えられない。しかし、主は「思い煩うな」「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たす」と言われる。

主は言うのだが、不安でたまらない。焦りと思い煩いで一杯だ。心が落ち込んで行く。そんな時、知人から電話があった。主から示されたので、献げものを振り込んだとの事だった。それは、すべての必要が満たされる額であった。与えられた事に大喜びし、心から感謝した。

しかし、その時にふっと、知人からの送金を、まだ目で見たわけではない。しかし、送金したという言葉を信じている。まだ見てはいないが、言葉を信じている。そして大喜びしている。それに引き替え、主の御言葉はどうだろう。主は「思い煩うな」「満たす」と言われるに関わらず、まだ目に見えないので、信じることができない。

人の言葉は信じることができるのに、主の御言葉は信じられない。自分の不信仰を示され、悔い改めた。主は信仰を喜ばれる。まず、信じられないなら、その事を主に正直に告げて、主に助けて頂こう。
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聞いて満足するだけでその気になっているのではなく、自分のいのちとして受け取っているだろうか。なぜ疑うのかと主は言われる。御言葉を信じ踏みとどまろう。


2011年10月20日(木)

「彼は生まれつきの足のなえた人で、歩いたことがなかった・・パウロの話すことに耳を傾けていた」使徒14:8


ルステラに、生まれながらの足なえの男性がいて、一度も歩いた事がなかった。パウロが御言葉を語っていた時に、その人が丁度そこに座っていて、耳を傾けていた。彼は自分の足に関して、何も、どうする事もできなかった。どうやっても歩く事は不可能だ。自分自身に全く望みを置けない、完全無力の状態だった。

自分で何もする事ができない。だからこそ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」とのパウロの言葉にすがった。すがれた。彼にはこの言葉しかなかった。すべての望みを置いて信じて賭けた。この言葉がすべてだった。自分が完全に無力だからこそ、そうできた。その言葉に拠り頼んだ。その信仰に、神の力が働き奇跡が起きた。かつて一度も歩いた事のない彼が、飛び上がり歩き出した。

私達も自らの徹底無力を知る時が、信じる時だ。何の方策も無く、何もどうにも出来ない。信じるしか道がない。その時に初めて信仰が働く。自分の力、方法に頼っている限り、自分を信頼している限り、神への信仰は無い。幾ら御言葉があっても、必ず自分の力、方法でやって行く。そこに信仰の入る余地はない。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を任せて行く事だ。ゆえに、自らの無力を知る事が大きな祝福であり、幸いだ。無力に落ち込む事など無い。
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万策つき自分の力でできないと一つ一つ知って行くことは本当に祝福だ。真に主に頼れる。そして些細なことにも真っ直ぐに主のもとに行けるよう信仰の根が張る。


2011年10月19日(水)

「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった」マタイ18:33


王がしもべに6000億を貸していた。清算の時が来たが、しもべは返済不能で、懇願するので、王はかわいそうに思い、赦し、借金の6000億を全額免除にした。そのしもべが、自分に100万の借金がある仲間に出会った。彼も返済できず、懇願した。返すから、少し待ってくれと。しかし、しもべは赦さず、仲間を牢に投げ入れた。心を痛めた他の仲間たちは、事の次第を王に報告した。すると、王は怒って、しもべが借金を全額返すまで投獄した。

せっかく免除された借金が、自分に負債のある者を赦さなかったばっかりに、又、返って来た。免除された6000億は、そのままでなく、王が肩代わりし、その負債を負う事になるのだ。何という王のあわれみだろう。測り知れない莫大なあわれみを受けているのに、人をあわれむ事ができない。どこまでも自己中心で、これが人間の姿であり、罪の性質だ。

自分はあわれまれて赦されているのに、人を赦す事ができない。恨みと憎しみを持ったまま生きて行くか。そうではなく、憎しみの牢獄から解放されて、神に喜ばれる道、栄光が現される道へ向かうか。岐路に立っているだろうか。
自分にはできない。しかし、神には不可能は無い。神は赦す力を与えて下さる。このままか、新たに信仰に前進するのか。あなたの選択だ。まず赦せない自分自身の姿を認めて、主に助けを求めて祈ろう。
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主のゆえに罪赦され、今立っておれることに感謝しよう。同じように、あの人のためにも、この人のためにも主は死なれた。赦す方を選ぼう。


2011年10月18日(火)

「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」詩編105:19


神から約束をもらい、私たちの願いやビジョンが主の御心であったとしても、即、スムーズに成就するのでなく、試練を通りながら、試されながら、実現して行くと言っている。今までも経験した事だろう。御心に従ってるのに、何で??うまく行かないのか?と驚き怪しむが、従う中で悩みや苦しみを通る。

御心を行なうなら、神に従っているのだから、当然、何もかもがスムーズに、順風満帆に行くはずと思っていないだろうか。それで、問題に出くわすと、戸惑い、怪しみ、これは御心では無かったのかと思ってしまう。しかし、御心を間違ったのではなく、成就するまでに、紆余曲折がある。主の約束は、「試し」となって私たちに臨む。

忍耐を試されるし、又、私たちの心に潜んでいて、普段は現れることなく、気づかない様々なものを見せられる。霊に憑かれた息子の父親が、主のもとに来た時に、「できるものなら、と言うのか、信じる者にはどんなことでもできる」と言われ「不信仰な私をお助け下さい」と叫んだ。不信仰を認めて、主に助けを求めた時に、息子はいやされた。

ヨセフは約束与えられながら、幾多の厳しい試練を通り、患難が忍耐を生み、忍耐が練られた品性を生み、造り変えられて行った。きよめられて行った。主は私たちを訓練される。練られ、信仰を成長させながら、御言葉を成就される。その時、神の栄光が素晴らしく現れる。
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ゴーのサインが出ても自動的に目的の場所まで行けない。躓く度に主の取り扱いを受けることが感謝だ。性急な結果を求めるより、途上で主に教えられ、砕かれ変わりながら多くの恵みを受け目的の地まで行こう。


2011年10月17日(月)

「エサウは言った『私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった』」創世記27:36


年老いたイサクはエサウに祝福を与えようと、獲物の料理を持って来るようにと言った。それを聞いた妻リベカは、弟ヤコブのほうにその祝福をと画策した。視力の衰えているイサクを欺き、エサウの振りをし、ヤコブは祝福を奪い取った。そこにエサウが戻り、事の次第を知った。イサクは激しく身震いし、エサウは大声で泣き叫んだ。企みを知ったエサウは怒りでヤコブを殺そうとした。それで逃亡し、叔父の所へ身を寄せるはめになった。家族が皆傷つけ合い、バラバラで、家庭崩壊だ。

どこに問題があったのか。イサクは「兄が弟に仕える」との神の御心が示されているに関わらず、自らの肉の思いで兄エサウを偏愛した。リベカはヤコブを溺愛し、神を信じ、神の主権のもと、神がされる事を待ち望むのでなく、肉で、自分の欲と力で画策し祝福を奪った。ヤコブも神の計画を信じ、委ねるのでなく、母に言われるままに父を欺き、自力で奪い取った。エサウは長子の権利を豆の煮物と引き換えた。「長子の権利を売った俗悪な者」とあり、彼は長子の権利を軽んじた。

皆が神を仰ぎ、神に従うのではなく、自己中心に、肉の欲と思いで動いた。夫婦、親子、兄弟が、ぐちゃぐちゃだ。神は大きなご計画の中で、これらすべてを益として行って下さったが、しかし、ここで学べる。肉で、自分の思いで動くのでなく、神の主権を認めて、神を待ち望み、委ねて歩む事がいかに大切であり、祝福であるかを。
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神の御心を無視し自分の思いで押し進めて行っても、いつかは崩れ破滅する。神が私達一人一人にご計画を持っていて下さりそして、全てのことを成し遂げて下さるとはなんと感謝なことだろう。


2011年10月16日(日)

「そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見える ようになった」マルコ8:25 

 

人々が盲人を連れて来て、主に癒して下さるよう頼んだ。主は盲人の目につばを
つけ、両手を彼に当てられた。最初、彼は、人が見える、木のように見えると言
った。鮮明には見えず、人が木のように、ぼんやりとしか見えなかった。

そこで、主がもう一度、両手を目に当てられた。彼が見つめていると、すっかり
直り、すべてのものが見えるようになった。主に直接触れていただいた時に、は
っきりと見えるようになった。

ある人が自分だけ不幸、自分にだけ次から次へと苦しみがと、殻にこもり自己憐
憫に陥っていた。そんな時は、自分の事しか見ていない。自分を中心にしか物事
が見えない。神に視点が向かないので、自分と状況だけを見て、心を屈折させる。
主の恵みになど全く気づかない。しかし、喜びも平安もなく、このままでは余り
に苦しいので、主に助けを求めた。

目を、自分自身と状況から離して、主を見上げた時に、はっきりと主が見え、状
況が見えた。周囲から多くの励ましや慰めを受けていた事、主がその人々を通し
て、愛を現して下さっていた事、主がずっと一緒にいて支えて下さっていた慈し
みが見えた。心が変えられ、感謝が湧き上がった。

主は決して変わる事なく愛し、慈しみ、支え続けて下さっている。主に焦点が合
っていないと、その現実が見えない。状況や自分から目を離して、主を見つめよ
う。はっきりと見えるようにして下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
ぼんやりと見えていたのが、見つめていると、はっきり見えるようになった。主
を求めて、見つめて行く時に、主が働かれ、はっきり見えるように、恵みが見え
るようにして下さる。霊の目が開かれて、見えて行くのは奇跡であり、主のみわ
ざだ。


2011年10月15日(土)

「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」Uサムエル1 5:31


アヒトフェルはダビデの議官であったが、それがダビデの息子アブシャロムの謀
反に荷担しているとの知らせが来た。その時にダビデは祈った。ダビデがそう祈
ったのは、アヒトフェルが知恵に満ちた助言をするからだった。当時、その助言
は、人が、神の言葉を伺って得る言葉のようであり、ダビデにもそのように思わ
れた。

彼は、アブシャロムが、ダビデのそばめの所に入るなら、父に憎まれるような事
をしていると、従う民は、勇気を出すと。それでアブシャロムは全イスラエルの
前で、父のそばめ達の所に入った。これは、ダビデの姦淫の罪が赦されたが、厳
しい刈り取りであった。ダビデが罪を認め、赦された時の主の言葉が「白昼公然
と、あなたの妻達と寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしは
イスラエル全部の前で、太陽の前で、この事を行おう」であった。

続けてアヒトフェルは、作戦をアブシャロムに告げる。今夜、ダビデを襲い、王
だけを打ち殺し、すべての民を連れ戻すと。しかし、アブシャロムはフシャイの
意見も聞いた。フシャイはアヒトフェルの作戦に反対し、うまくダビデに良いよ
うに計った。そして、アブシャロムは、フシャイの作戦を取り入れた。

これは神がダビデの「アヒトフェルの助言を愚かなものにして下さい」の祈りの
答えだ。主が彼の巧妙な謀り事を、打ち壊そうと決めておられたからだ。私たち
も窮地に立つ時、まず祈ろう。祈りには、何よりも大きな力があり、神が働かれ
る。

・・・・・・・・・・・
何をどうすれば良いのか、わからない、そんな難題が目の前に来た時に、ダビデ
は祈った。どんな状況になろうと、「祈り」という最大の武器が与えられている。
サタンも巧妙に攻撃して来るが、主にはそれに優る知恵がある。自分でどうこう
せず、とにかくまず祈ろう。


2011年10月14日(金)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11 


サタンは、私たちの「思い、思考」に働いて来る。自分の頭に浮かぶ思いは、すべて自分が思っているのではなく、サタンも吹き込んで来る。識別して行かなければ、有ること無いこと、幾らでも自在に吹き込んで来る。無い事も吹き込むので、これを受け入れて行くと、妄想がどんどん膨らむ事になる。将来の事の思い煩いに、あり得ない最悪のシナリオを描いて来る。

又、人の言葉に、態度に、「疑い」を吹き込んで、疑心暗鬼にする。対人関係に争いと分裂を引き起こす。サタンのしわざだ。悪魔の「策略」というからには、はっきりと欺こうとの意図があるわけで、計画的だ。思いに浮かぶ何もかもを信じてはならない。

否定的な思い、心が暗くなる思い、落ち込んで行く思い、裁く思い、建て上げでなく、壊して行くもの、それらはサタンからだ。映画の映像のように、思いに映して来る。次々浮かんで来るものを、何もかも受け入れてはならない。次々と映像を送り込み、そして、自分が思っていると思わせる。そう思わせれば、サタンは大成功だ。

朝起きた瞬間から、次々思いという火矢を飛ばしている。気づけるように祈っていよう。自分の思いをよく見張ろう。心の平安を失うものは、サタンからの火矢だ。信仰の大盾のもと、受け入れずに、拒否し捨てよう。御霊が気づかせて下さる。祈っていよう。
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御霊の語りかけとは違う肉に心地よいサタンの声と仲良く会話していないだろうか。行き着く先がはっきり違う。いつも来る弱い所を見張り、神の武具により身を守ろう。


2011年10月13日(木)

「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」マタイ20:15


この箇所は、ペテロの質問への答えで語られている。それは「何もかも捨てて、従って来た。私たちは何がもらえるのか」だ。主はそれに答えて「先の者があとになり、あとの者が先になる」と言われた。金持ちの役人が、富を捨てられず、主のもとを去った出来事の後に続いている。それを見てペテロは、あの金持ちは去ったが、自分たちは全部捨てて従ったのだから、何をもらえるのかと。

それを受けて主はぶどう園の主人の話をされた。これは天の御国の価値観を言っていて、先の者があとになり、あとの者が先になる、この世の価値観と全く違い、真反対だ。労働時間の長さに従い、でなく、逆の順で賃金を払い出した。そしてすべて同額だ。この世ではあり得ない。この世なら秩序は狂い、混乱し、成り立たない。

天の御国は、この世の価値観と異なり、神の恵みが支配する世界だ。ペテロはすべてを捨てたからには、どんなに大きな報いがあるのかと、報酬を求めた。しかし、天の御国は、受けるに値しない者に与えられるプレゼントだ。そして「自分のものを自分の思うようにする」神の絶対的主権の世界だ。愛に満ちた「気前のいい」主人であり溢れるばかりに与えて下さるお方だ。ここでの主役は労務者でなく主人だ。神の御国は神が崇められ、神の栄光のための場所だ。これが御国の価値観である事を言っている。
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どこかに恵みを行いに対する報酬との思いがあり、その価値観が妨げとなって恵みを値踏みしていないだろうか。受け入れられる何物もない者にふりそそぐ恵みを素直に喜ぼう。


2011年10月12日(水)

「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」ヘブル12:8


信仰人生で様々な苦しみを経験する。神が共におられるのに、なぜ苦しみがあるのか。神はそれを、「主はその愛する者を懲らしめ」神の愛ゆえと言われている。しかし、私たちの生まれつきの価値観では、苦しみと愛が一致しない。重ならない。むしろ、苦しみと愛は対極にあるように感じてしまう。苦しみは悪であり、苦しみが無いことが、愛だと思ってしまう。

だから、愛されていないと感じてしまう。これは古い価値観であり、この世の価値観、肉の思いだ。試練、苦しみが臨む時、まずこの価値観に欺かれてはならない。サタンが持って来る自己憐憫や見捨てられ感に惑わされてはならない。「神はいじわるだ」「愛されているなら、なぜ?」「神が愛などと信じられない」このような思いを吹き込んで来る。

ここが大切で、苦しみを新しい価値観、神の価値観、信仰によって受け止め、そこから動かないことだ。神の価値観に立とう。「愛しているからこそ懲らしめる」「訓練し、聖くし、成長させる」。どんなにサタンが執拗に攻撃して来ても、受け入れないで、御言葉に立ち、神の愛にとどまろう。

拒否する者をサタンはどうにも出来ない。苦しみを通して、鍛錬され、わがままなだだっ子から自立した大人へと成長させて下さる。試練の中で心を屈折させる事を拒み、神の愛を信じて行こうとする時、恵みが見えて来る。これは選択だ。
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簡単に思い通りになる道ならすぐにそちらを選んでいる者だから避けられない困難が感謝となる。逃げないで神様だけに頼る幸いをそこで見よう。祈りながらでないと一歩も歩めない道は平安な道だ。


2011年10月11日(火)

「ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った」Uサムエル15:30


ダビデの息子アブシャロムは、民の心を奪い、父に謀反を起こす。実子が自分を攻撃するわけであり、その心労、心痛はいかばかりだろう。相手は愛する子供であり、それと戦う事になる。勝利するとは、つまり、息子を失うことになるわけだ。しかし、戦わなければ、自分が殺される。戦う事もできず、戦わないでいる事もできない。そこで、ダビデは戦わずして、逃げる事を選んだ。

逃げるしか方法は無く、又、それが最善の道であった。その苦悩、辛さ、悲しみはどんなものだったろう。敵国の敵ではなく、息子が、身内が襲って来るという。しかし、私たちも、信仰生活でこういう局面を体験する。対人関係において、信仰者である以上、戦うわけにはいかない。相手は容赦なく批判、非難、中傷をして来たとしても、ただ忍耐し、耐え忍ばなければならない時がある。

私たちは、主の十字架を仰ぎ見ることができる。十字架自体が何と理不尽だろう。罪の無い方が、罪となっておられる。私たちがつき従う道が、自分の正しさを主張する事でなく、主の十字架を負うことである事を学ばされる。そしてダビデは詩編で、あるがままの気持ちを痛み、悲しみ、嘆き、苦しみをすべて神に訴え、告げている。私たちも、どんな時にも避け所があり、御翼の陰があるとは何と幸いだろう。
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へりくだり人となり十字架の道を歩まれた主を思い、自分が正しい時こそが誘惑と人に反応せず主を呼ぼう。自己主張の道は虚しい。主に身を避けよう。


2011年10月10日(月)

「アブシャロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王には一度も会わなかった」Uサムエル14:28


その後、王の前に出られないアブシャロムは、ヨアブに仲立ちを頼もうと、二度使いを送るが、ヨアブは動かない。それでアブシャロムはヨアブの畑に火を放つ。自分の事しか考えられない。ヨアブは王に執り成し、ダビデは息子に会った。アブシャロムは王の前に出てひれ伏し、王は彼に口づけした。しかしそれは表面的な和解だけだった。何の解決も無かった。ダビデは、再び迎え入れた息子に裏切られて行く。

息子は巧妙に民に働きかけ、父ダビデに反乱を起こす。が、結果的にダビデの軍に破れ、アブシャロムは死ぬ事になる。アムノンを殺したアブシャロムを赦せなかった事で、結局息子を二人共亡くしてしまった。ダビデは表面上、息子を迎え入れ赦した形に見える。しかし、しばしば自分の心もそうかも知れない。

「主よ。赦して下さい。しかしこの心は見逃し、そっとしておいて下さい。このままでいたいのです」赦して欲しいのだが、赦したくない心は手放したくない。何とも矛盾しているが、肉の現実だ。息子の心もますます歪み頑なになって行ってしまった。罪は更に罪を生む。

ダビデは息子と戦えず、泣きながらひたすら逃げた。しかし、尚もすべてが主のご計画の中で、益とされ、悲しみ、痛み、苦しみが、ダビデの砕きと訓練とされて、ダビデは造り変えられて行った。主の愛は変わらず、主の憐れみは、どんな時も尽きることがない。
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赦せない・・は相手の問題ではなく自分の問題だ。屈折したままの行いは歪み次ぎの罪へと進んでしまう。主には正直であろう、そして赦せないところを明け渡し対処してただこう。


2011年10月09日(日)

「王は追放された者を戻しておられません・・どうか追放されている者を追放され たままにしておかないように」Uサムエル14:13


ヨアブは、テコアから知恵のある女を連れて来た。ダビデはアムノンの死をいつ
までも嘆き悲しみ、アムノンを殺害したアブシャロムを追放したままだった。ヨ
アブはその女を用いて、ダビデに何とかアブシャロムを戻させるよう画策する。

女は知恵のある事を言った。「私たちは必ず死ぬ者」だと。地面にこぼれた水は
もう決して集めることはできない。元には戻らない。死んでしまったアムノンは
もう戻っては来ない。しかしアブシャロムは生きている。彼まで失ってもいいの
かと。

「追放されたままにしておかないよう、ご計画をお立て下さい」アブシャロムを
何とか戻すよう、考えて欲しいと。女はダビデに言った「あなたさまには、神の
使いのような知恵があり」と。知恵とは、相手を赦すことであり、和解すること
だ。

ダビデはアブシャロムが戻る事は許すが、「私の顔を見ることはならぬ」と決し
て会おうとしなかった。「二年間、エルサレムに住んでいたが、王には一度も会
わなかった」とのアブシャロムの言葉の通りだ。この後も、父子の間に、もめ事
が起こって行く。子は父に謀反を起こす。ダビデは、悲しみと苦しみを更に重ね
る事になる。

赦せない心は、害を広げて行く。まず赦せない心を、主に持って行き、助けて頂
こう。「追放されたままに」している、赦せずに放置している事態は無いか。主
に助けを仰ごう。

・・・・・・・・・・・・・
赦せない心は、自分が苦しく辛い。ふたをしているものがあれば、そのまま主の
もとへ持って行こう。主が助けて、みわざをして下さる。そのために主がおられ
る。苦い心を、平安に変えて下さる。自由にして下さる。


2011年10月08日(土)

「母は手伝いの人たちに言った。『あの方が言われることを、何でもしてあげて ください』」ヨハネ2:5  

           

ガリラヤのカナで婚礼があり、主も弟子達も招かれていて、母マリヤもそこにい
た。その披露宴の途中で、ぶどう酒が無くなった。当時の結婚式にとって、ぶど
う酒は重大だ。結婚式では、上等なぶどう酒が振る舞われ、出席客は飲み放題で
あった。結婚式はそんな楽しみの時でもあった。

そのぶどう酒が途中で切れたとなれば、大失態であり、式は滅茶苦茶だ。当事者
の顔はつぶれ、後々まで語り継がれる事となったろう。無くなった事を知ったマ
リヤは、その重大な事態に、気が気でなく、まず主に告げた。主に何とかして欲
しいとの思いで。

主の答えは「わたしの時はまだ来ていません」だった。しかし、マリヤは、主が
確かにこの事態を良きにして下さると信じた。それゆえ手伝いの人たちに「あの
方が言われることは、何でもしてあげてください」と告げた。マリヤは、その場
を、その事態を、主に明け渡した。

その時に、主は、手伝いの人たちに「水がめに水を満たしなさい」と言われ、彼
らは言われた通りに、縁まで水を満たした。そして世話役の所へ持って行くと、
その水はぶどう酒に変わっていた。それも上質のぶどう酒に。マリヤが主に明け
渡した時に、奇跡のわざが成された。

私たちも突如の事態に遭遇する。自分で何とかしようとせずに、主のもとへ行き、
主にお委ねしよう。主はその危機に、素晴らしいみわざをされ、ご自身の栄光を
現される。

・・・・・・・・・・・・・
目の前の問題を自分でどうこうせず、まず主のもとへ持って行こう。マリヤは主
が必ず良くして下さると信じた。だから周囲に言われる事をするように告げた。
主の言われた通りにすると、みわざがなされ、主の栄光が現わされた。主の言わ
れた通りに従おう。


2011年10月07日(金)

「互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」コロサイ3:13 


あなたも赦せない相手、赦せない心を経験した事があるだろう。怒りと恨み、憎しみ、妬み、敵対心は、相手でなく、自分自身をがんじがらめにする。四六時中、心は縛られ、重苦しく、楽しい時にも楽しめず、まさに牢獄だ。赦せない相手がいるのは、心が苦しく、辛い。喜びが無く、平安が無い。主はそこから、私たちを解放したいと願っておられる。喜びと平安と安堵の中に入れたいと。

コーリー・テン・ブームは、ユダヤ人をかくまったため、姉と共にドイツの強制収容所に送られた。毎日百人以上の人々が死んで行く中、やがて残忍な女看守により、姉も死んだ。書類上のミスで出所できたコーリーは、地獄のような収容所の中に、主がおられた事、主の愛を証しして回った。ドイツで講演した際に、ある人物を目にした時、心が凍り付いた。それは、収容所で、姉を虐待した女看守だった。

時間が止まり、全世界が真っ暗になったかのように感じた。「絶対に赦せない。無理です、出来ない」と思った。その時に「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」の御言葉が臨んだ。全身全霊が、御霊によって支配されたかのように感じた。ほんの一瞬が、長い〃時間に感じた。
瞬間、御言葉を受け入れ、その相手に手を延べた時、コーリーは驚くべき主の平安と喜びで満たされた。人を赦し、コーリー自身が解放され、癒された瞬間だった。
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人にはできないことを神様はして下さる。御霊の促しを信じて赦せないその思いを明け渡そう。辛い過去や憎い相手から自分自身が解放され真に自由にされる。


2011年10月06日(木)

「神はダビデをサウルの手に渡さなかった」Tサムエル23:14



人々の賞賛を受けるダビデを妬んだサウル、その妬みは憎しみへと増幅し、殺害の意に燃えて、執拗にダビデを追う。ある時、ダビデはケイラの人々をペリシテの手から救った。しかし、サウルがそれを耳にし、ケイラに下り、ダビデを封じ込めようとした。ダビデはケイラの人々が裏切る事を、神より告げられ、再び荒野へ逃亡する。

しかし、ダビデが逃げた事を知ると、サウルは討伐を止めた。サウルは執念深く追うが、神は決して、ダビデをサウルの手に渡されなかった。ダビデは荒野に潜伏する事になる。命をつけ狙われ、いつ殺されるかわからない、まさに死と隣り合わせの恐怖だ。サウルは一国の王であり、ダビデは僅か600人の部下がいるだ
けだ。いざとなればサウルは国民全体をも招集できる。

しかしその時、ヨナタンがダビデのもとへ来て「神の御名によってダビデを力づけた」。「恐れることはない。父の手があなたの身に及ぶことはない。あなたこそイスラエルの王となる」と。神がダビデをサウルの手に渡されないと。ヨナタンは状況でなく、神の約束を見ていた。

王の息子が、ダビデに、あなたこそ王で、自分は次に立つ者と言った。ヨナタンの信仰だ。「神の御名によって力づける」とは、神の約束と御心に基づき力づけることだ。神の御旨が成就する。どんな危機的状況であっても、すべては神の主権と支配の中だ。委ねて平安でいよう。
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見るべき所をしっかりと見て確信が与えられますように。そしてヨナタンのような素直な信仰で従い、神様のする事に間違いはないとの信仰の力づけが私達にも与えられますように。


2011年10月05日(水)

「私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです」詩編63:1


誰しも人生の中で、孤独を感じることがある。親しい人々から離れて住まう事があり、全く見知らぬ人々の中へ入る時がある。そんな時に孤独を感じるが、又、大勢の人々に囲まれている中で、ふと孤独感を抱いたりする。しかし、孤独は悪いものではない。むしろ良いものだ。それは私たちを神に近づけてくれる。

時に、神は私たちの注意を、ご自身に向けさせたいがために、孤独を送られる。孤独は、特別な神からのプレゼントだ。寂しさの中で、真に心が神に向く。神のみに向けられ、望みが神だけになる。主との深い交わりを経験する。人からの裏切りに会って孤独だろうか。親しい人が離れ去ったのだろうか。主も十字架上で御父に捨てられた。

又、ゲッセマネの園で弟子たちが居眠りする中、十字架に向かって、深い孤独の中で祈られた。そして、いざという時には、弟子達は我先にと逃げ去った。誰よりも孤独を知り、わかって下さる同伴者だ。主を見捨てた弟子たちへの言葉が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」。主は決してあなたを離れず、見捨てられない。

主は時に、孤独を送られる。世の騒がしさから離れ、人の交わりからも、しばし離れ、主にだけ心を向けさせるために、密な交わりに入れられるために。そうでないと、人で満足してしまって主のもとへは決して行かない。孤独が来た時、主からのプレゼントと受け取ろう。そして、主と交わり、主ご自身により満たして頂こう。
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孤独の静けさを通して神と深い交わりを持つことが出来る。望みが神だけになる経験は孤独の中でこそ養われ、その満たしは孤独を恐れないという大きな力になって残る。


2011年10月04日(火)

「・・鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」Uコリント3:18


「新生」は一瞬にして起こる。主を信じた瞬間に救われる。しかし、聖化は時間をかけて少しづつ変えられる。天国に行くまで、御子のかたちへと日々に変えられて行く。ピアノを弾けない人が、地道に練習を積む事によって弾けるようになる。そのように、霊的生活もアップダウンはあるが、しかし、アップダウンしながら、栄光から栄光へと、主のように変えられて行くのは、御言葉の約束だ。

振り返る時、確かに、変えられていないだろうか。不都合な事起こるが、主のご計画があり、万事益だと信じようとしている自分、最善以下はされないお方だから、感謝しようとする自分、色々な面で、確かに変えられている自分を発見する。又、それは、ある朝目覚めると、人を憎んでいた自分が、突然、愛に満ちた自分になっているという事ではない。

そうではなく、プロセスがあり、一歩〃御霊の導きに従う事により変えられて行く。一歩〃従う事が大切だ。ある人はどうしても愛せない相手の事を祈っていた。すると、電話するよう、御霊の促しを感じた。電話すらも嫌で、抵抗していたが、しかし心が苦しくてたまらず、示しに従った。すると重苦しさが消え、平安に包まれた。そして次々と示しに従うと、喜びが来て、良い関係にされた。このように、御霊に従う時に、少しづつ必ず変えて行って下さる。
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肉に従っても決して心の内に平安はないと気づき、争うより和解を祈れるようになった。確かに変えられている。いつも主を思い、御霊の促しを選びながら少しでも変わって行きたい。


2011年10月03日(月)

「神がすべてのことを働かせて益としてくださる・・なぜなら、神は・・御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」ローマ8:28


「祝福」というと、何を連想するだろう。嬉しい事、楽しい事、ラッキーな事、ハピーな事、受験合格、商売繁盛、無病息災、家内安全、つまり順風満帆、自分の思い通りになる事だろうか。自分の思考パタンに、そんな価値観が無いだろうか。しかし、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる」と主が言われるからには、自分の思いとはかなり異なるはずだ。

私たちには、誰しも「自分の思い」という固い強いものがある。これは自分軸に物事を考え、中心を、視点を、自分において判断する。だから自分中心だ。しかし、事態は神中心に展開する。だから、自分中心の物差しでは量れないし、わけがわからない。私たちの信仰人生の中で、主を信じ、御心に従いたいと、具体的に御心を求めて、歩む。その時に、祈った結果、もし、自分の願いや思いと異なる状況が来たなら、それは神からの答えだ。

それを主からと受け入れて、従って行く時、大きな、思いを越えた「祝福」にあずかる。人間は自分中心なので、神を幾らでも利用して生きて行く。どんな建前でも、口実であっても、肉は神を利用してしまう。しばしば経験する、自分の思いと神の御思いの「ずれ」、そここそが実は祝福だ。自分の利得ではない、神の御心に自分を合わせて、受け入れて行く、そこできよめられ、神中心、御子のかたちへと成長して行く。
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神はご自分の方法で私達を御子のかたちへと変えて行かれる。思い通りに行かない成り行きは、神の取り扱いの途上なのかもしれない。いま感謝できないことがあるならそれを感謝してみよう。


2011年10月02日(日)

「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷の ゆえに、あなたがたは、いやされたのです」Tペテロ2:24



ある父親の体験談だ。ある時、子供がいじめに会っているのではと思えた。持ち
物が壊れ、服が土だらけだったり、様子がおかしかった。その内、腹痛を訴え、
食欲失せ、身体に出て来た。そして不登校になった。

父親の価値観は能力にあり、出来る事が良い事、子供には良い成績を望み、普段
から要求して来ていた。子供は荒れて、怒りが父親に向かった。父のせいでこう
なった。溜まった怒りは爆発し、家庭内暴力となり、家の中は滅茶苦茶になり、
凄まじい様相を呈した。仕事も責任重く、重圧であり、仕事も家庭もせっぱ詰ま
っていた。

考えたくなくて、浴びるように飲酒した。家庭崩壊だった。このままでは、もう
何もどうにもならず、つてがあったので、藁にもすがるように、聖書カウンセリ
ングを受けた。
カウンセリングを重ねて行く内に、自分の姿が見えて来た。苦しみの余り、この
子がいなければとの思い、仕事しか頭になく、子供と対話した事が無い。気持を
思い量った事もなく、ただ自分の思いを押しつけて来たこと、愛情表現をした事
がないこと・・一つ一つが心に刺さり、心底悔い改めた。

主の十字架がまさに自分のためであり、この自分の罪が贖われて、赦されたとわ
かった。何より罪ある自分が、あるがまま受け入れられたことがわかった。自分
が赦されたことの、感謝に溢れた。子供にも心底詫びた。その時、父子間のわだ
かまりがきれいに失せて、子供も癒されて行った。

・・・・・・・・・・・・・・・
良かれと思い、正しいと思うが、肉で事を行なうと失敗してしまう。しかし、ど
んなに失敗しても、主の十字架があり、赦され、そして、やり直すことができる。
主の愛は変わることがなく、慈しみは絶えることがない。尚も益として下さると
は何というあわれみ。


2011年10月01日(土)

「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかな う教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており・・」Tテモテ6 :3   

                   
私たちは自分の高慢には気づかない。高慢とは、神の言葉に同意しない事だと言
っている。神の言葉を素直に聞かず、「でも・・」「でも・・」と言う。「・・でも、
自分はそう思わない」「・・でも、状況はそんなふうに見えない」「・・でも、不可
能」と受け入れない。「私はこう思う」と、自分の思いの方を取る。

「あなたは高価で尊い」と言われると「自分が嫌いで、そんな言葉、別世界に感
じる」と心の底では信じない。信じようともしない。頭をすり抜けて行く。「何
も思い煩わないで」と言われるが、同意せず、拒み、「そうは言っても・・」と思
い煩いをストップさせずに、心配を続ける。

御言葉を自分の都合の良いように聞く。その結果「その人は・・何一つ悟らず、疑
いをかけたり、ことばの争いをする病気にかかっている」と。「そこから、妬み、
争い、そしり、悪意の疑りが生じ」、肉の実を結んで行く。自分の都合良い御言
葉だけを、受け入れていないだろうか。

ある人が、いつも牧師に助言を求めるが、同じ失敗を繰り返していた。その人は
「はい、わかりました」と口では言うが、必ず御言葉でなく、自分の考えに従っ
て行った。口では同意するが、実際は自分の思い通りに行動する。そして、同じ
失敗を繰り返していた。実は自分の根本には、御言葉でなく、自分の考えが厳然
とあったと気づかされた。

都合の良い言葉だけを聞き、都合の悪い言葉を捨てるなら、高慢になっていると
神は言われる。頭では聞くが、それはそれで、実際は自分の思いで行動していな
いだろうか。御言葉に従う時、大きな祝福を経験する。

・・・・・・・・・・・・・
それはそれ、これはこれ、で、御言葉を聞いていないだろうか。建前と本音があ
り、実生活にリンクしない。実は「でも・・」が出ている事に気づきが与えられて、
素直に御言葉を聞き、従って行けるよう祈ろう。主のご愛や助けを実際に経験す
る。