2011年11月30日(水)

「私の霊は私のうちで衰え果て、私の心は私のうちでこわばりました・・昔の日々を思い出し・・御手のわざを静かに考えています」詩編143:4 

               
心が打ちひしがれ、ぼろぼろになる事がある。ダビデも心が衰え果てた。大きな困難に遭遇したり、ストレスが続き許容量オーバーになったり、又、対人関係で傷ついたり、問題に苦しんだりする時だ。こわばるとは、心が固くなって動かなくなってしまう事だ。心の余裕がなくなってしまう。

普段なら大した事の無いことが、心に余裕が無いので、受け入れられない。私たちも、様々な悩みに出会う時に、心がすさんで、ピリピリイライラし、とげとげしくなる。人の言葉や態度にネガティブな反応しか出来ない。又、それが自己嫌悪になり、ますます落ち込んで行く。

又、余りに大きな苦しみなら、心が沈み込んで、動かなくなってしまう。こんな時、ダビデがどうしたかが記されている。昔の日々を思い出し、神のなさったすべての事に思いを巡らし、神の御手のわざを静かに考えた。深い絶望感の中で、かつての神のみわざや祝福を思い返した。「静かに考えています」、私たちも、静かな時と場所が必要だ。

神に向き合い、自分の内を照らされ、神のことばをしっかりと全身で受け取る時だ。「あなたに向かって手を差し伸べ」祈りをささげている。静けさの中で、主と交わり、今までの恵みと祝福を思い巡らし、感謝をささげ、礼拝をささげる。その時、絶望に打ちひしがれていた心が新たにされ、引き上げられる。今までのみわざを静かに考えよう。どんなに多くの奇跡を経験して来た事だろう。
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後ろをふり向くと死の谷や荒野の道も、決して一人ではなく神様が共にいて導き守っていて下さった。そして結果はいつも祝福されていた。御手のわざを思い起こすと感謝と賛美しかない。


2011年11月29日(火)

「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15


二人の弟子は、主が復活されると、何度も聞いた。そしてその復活を見たという人の話も聞いた。が、尚かつ、信じたならとどまるべき地エルサレムを離れて、郷里エマオに向かった。主の復活を信じなかったからだ。二人の弟子達は目がさえぎられていた。

そんな二人のもとに主が来られ、二人のかたわらを歩かれた。しかし、かたわらの方が、主イエスだとは全くわからなかった。なぜなのか。御言葉によると「信じない、心の鈍い人たち」とある。彼らの不信仰が目をさえぎっていたと。復活を信じない彼らにとっては、主が死んでしまい、深い失望と落胆の中にあった。悲しみもあった。

私達も同様だ。失望の中にいる時、主が見えない。かたわらにおられる主が見えなくなる。「失望」とは、期待を主に向けない、主を見限った不信仰だ。不信仰は私達の心をふさぎ、ふたをしてしまい、主を全く見えなくする。又、「自己憐憫」は自分の殻にこもり、主を排除するので、ただ見えるのは自分だけだ。自分しか見えない。

又、「不安」も目がさえぎられる。思い煩いにおおわれ、心配の山だけが見えて、主が見えない。「多忙」も次から次へと来る目の前の事柄に心が捕らわれ、主を認める事をさせなくする。あなたも今、目がさえぎられているだろうか。障害物に気づき、悔い改めよう。今もあなたのかたわらに主がおられる。
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失望、落胆、不安・・一番辛い時に主は沈黙しておられるかのように思えるが、主がかたわらを歩み、支えて下さっていることを信じよう。目をふさいでいる心配の山も主はすべてご存知だ。


2011年11月28日(月)

「この世と調子を合わせてはいけません・・神のみこころは何か・・わきまえ知るために」ロマ12:2


信仰生活で、祈りと御言葉が大切、デボーション〃と、しょっ中言われるが、なぜ日々みことばが必要なのだろう。この世で生きている私達は、日毎にこの世の価値観に、凄まじい勢いで襲われ、さらされ、攻撃を受けているからだ。意識すると、すまいと凄まじい攻撃にさらされ、その影響下にいる。御言葉と、全く正反対の価値観だ。逆行している。

この世は地を目指し、自らの判断と知恵を根拠に、自分の栄光のために生きる。富、豊かさ、地位、名誉、人からの賞賛、それが栄光だ。生きる源であり、力だ。私達は天を目指している。御言葉を根拠に、神の御心を行なおうとし、神のために生きようとしている。私たちは天を目指し、天に宝を積むために生き、世はこの世での成功、世での楽しみ、世での自己実現を目指して生きる。

真逆だ。サタンは価値観の部分に影響を与え、巧妙に誘惑を仕掛ける。価値観さえ自分のものにすれば、いとも簡単に行動を操作できる。御言葉や祈りから離れると、クリスチャンもすぐに主から目が離れ、自分の損得、自分の賞賛、自分の欲望、自分の都合のために生きてしまう。

根深い古い性質があるからだ。御言葉がどう言うかでなく、自分の判断で都合の良いように行動する。御言葉はその自我や肉の判断に日々気づかせ、軌道修正してくれる。日々御言葉に触れ、御言葉によって自分の考え方が変えられて行く。そのために御言葉がどうしても必要だ。
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この世にあって、この世に同調しない生き方は本当に難しい。すぐに流されてしまう。朝ごとの祈りと御言葉により、しっかりとした基準、神さまに喜ばれる歩みとは何かを知り世に出よう。


2011年11月27日(日)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に 着けなさい」エペソ6:11



心にネガティブな、何か疑いや不信感が湧くなら、サタンの攻撃がある。よく心
を見張って、識別しよう。ある人が、新しく入社した職場で、同僚の人と親しく
なりたいと思った。慣れて来た頃に「今度、一緒に食事でもいかがですか」と声
をかけたが、返事が無い。

そのまま日にちも過ぎた。自分は親しくなりたいが、相手は別にそう思ってない
ようだ。何の交流も無いまま、心にネガティブな思いが湧いて来る。自分は避け
られているのではないか。もしや嫌われているのでは。段々こちらも相手を避け
るようになった。

デボーションをしていた時に、突然、サタンだと気づかされた。こんなネガティ
ブな思い、疑い、猜疑心は、サタンの吹き込みだと。ある事、無い事、サタンは
自由自在に心に入れて来る。否定的な思いをストップさせた。

そんな時、相手が声をかけて来た。「やっと時間取れそうなので是非」と。相手
は全く友好的であり、何の悪い思いも無く、単に忙しく、又、あっさりした人で
あるとわかった。サタンは、疑い、不信感、猜疑心を吹き込み、疑心暗鬼にする
事を心得ていよう。

「私たちの兄弟の告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」黙12:1
0 サタンは周囲の人々を訴え、裁かせるようにする。ある事、無い事、妄想も
持って来る。敵の策略をよく見張り、祈っていよう。御霊が気づかせて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
サタンは私たちの「思い」のスクリーンに、自由自在に、ある事無い事描いて来
る。受け入れる事を拒否しなければ、心は疑心暗鬼になり、平安と喜びを失って
しまう。サタンの誘惑、攻撃に気づけるよう、朝毎に、御霊の助けを祈っていよ
う。


2011年11月26日(土)

「わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの 水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘 った」エレミヤ2:13

イスラエルが二つの悪を行なった。一つは、湧き水の泉である神を捨てたこと。
神に頼る事をしないで、自分の力で生きて行く。神に自らを、人生を委ねる事が
出来ない。神をそこまで信じる事が出来ないので、その結果、自分の判断、知恵、
自力で歩む。

神が悲しまれる悪だ。水が必要なのであれば、神に求めれば良い。神に祈れば良
い。神は湧き水の泉であり、与えたいと思っておられる。しかし、神に頼らず自
分で自分を守る。

二つ目に壊れた水ためを自分のために掘ったこと。神以外の「多くの水ため」を
求める。金銭、名声、地位、人からの賞賛・・偶像だ。心の満たしを求めるが、そ
れは「壊れた水ため」であり、幾ら水を溜めようとしても流れ出てしまう。決し
て心に満足を与えることはない。

富、地位、名声が、幸せを、喜びを、満足を与えてくれると懸命に水ためを掘る
が、一生満たされることはない。問題は、湧き水である神を捨ててしまったこと
だ。湧き水なら幾ら汲んでも〃尽きることがない。尽きざる喜びと平安が湧き上
がる。

私たちにとって「壊れた水ため」とは何だろう。ある人は仕事であり、金銭だと
示された。主のためにと事業を始めたはずが、いつの間にか経済的安定、お金の
事ばかりに支配されていたと。神の国と神の義をもう一度心に定めさせられた。
あなたの「壊れた水ため」は何だろう。

・・・・・・・・・・・・・
湧き水の泉である主、湧き水なら、底が尽きる事なく湧き上がる。どんな時にも
平安と喜びが湧き上がる。問題は湧き水である主を心底信じる事が出来ない、頼
る事が出来ないので、水ためを掘る。そこを認めてそこから始めよう。ありのま
まを祈る時、一歩〃導いて下さる。


2011年11月25日(金)

「あなたがしらがになっても、わたしは背負う・・わたしは背負って救い出そう」イザヤ46:4


この世の宗教、人間の作った神は、人が神を背負わなくてはならない。造った者が造られた者を運ばねばならない。偶像は人間の重荷となる。重いノルマで、人は安らぎどころか苦しむ事になる。慰めや希望を与えないばかりか、支える事もできない。

しかし、主は、私達を母の胎内にいる時から担い、生まれる前から運んで下さっている。そして年老いてもずっと背負い、私達の一生の責任を負って下さる。途中でだめになったからと、背負う事を止められたりしない。すでに担って下さっている。一生涯、年老いても何の心配も無い。又、心配事をも負って下さっている。「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主」の通りだ。

そして、私達が神に委ねるという事は、神が下さる環境が、自分の思いやプランと違っても、神を信じて受け入れて行くという事だ。自分の思い通りにならない事の方が多い。しかし、人生のすべての道筋において、そこに神を認めて行く時、神が備えて下さった、導かれた道を歩んで行ける。そこには必ず平安と喜びがあり、豊かな実を結んで行く。

神の道は、しばしば自分の思いとは違う。高くて深く、思いもよらない道の事がある。意に反しつつも、それを受け入れ歩んで行く時に、神が担い、運んで下さっている事を知る。
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いらいらしている時、自分のペース、自分のやり方で何もかも背負って疲れていないだろうか。自分で自分を背負い、環境も変えながら走っているこの世と同調しないで生きよう。


2011年11月24日(木)

「というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」Uコリント12:9


会えば愚痴を言い、口を開けば、不平不満という人がいるだろうか。そんな人はどんな環境にいても不満が出て来る。「あのうるさい嫌な上司さえいなければ」「何でこんなに忙しい、もっと時間があれば、〜〜できるのに」「相手さえもう少し配慮してくれれば、相手の言動が悪い」「身体が弱くさえなければ、もっと〜〜するのに」「もう少し経済的に余裕があれば」・・あれが無い、これが無いと、不足を捜し出しては不平を言う。

しかし、完璧な環境にいる人など一人もいない。状況のみを見るか、神に焦点を当てて、神を通して状況を見るかで、大きな違いが生じる。神に焦点を当てる時、神が見えて、この状況の中に、神が教えようとされていること、神のメッセージを探し出し、見い出す。そして、愚痴と不満に終始するのでなく、この中で、自分にできることをしようとして行ける。

なぜなら、神に依存しているのであって、状況には依存していないからだ。あなたはどちらに依存しているだろう。どんな時にも、恵みはあなたに十分だと言われる。主の力は、私たちの弱さの中に完全に現れる。弱さの中にこそ、主のみわざを見ることになる。そして神が「私たちの手のわざを確かなものにして」下さる。今の状況がどんなに悪くても、弱さの中に恵みは十分、主に期待しよう。
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完璧な状況、完璧な体力であれをして、これをして、ではなくどんな中でも神が不完全な者を通して何をして下さるかを見ていこう。弱さの中でこそ恵みに感謝し御名を賛美できる。


2011年11月23日(水)

「イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」ヨハネ8:9



パリサイ人たちが姦淫の場で、捕らえられた女性を、主のもとに連れて来た。主をためし、告発の理由を得るためであった。律法によると姦淫は石打ちの刑だ。石打ちにするなら、主の愛の教えに反してしまう。しかし見逃すなら、律法違反になってしまう。どちらになっても、パリサイ人には主を訴える理由となった。

明らかな悪意であり、主を陥れようとの目的であった。主は身をかがめ、指で地面に書いておられたが、問い続けて止めない彼らに「罪の無い者が、彼女に石を投げよ」と答えられた。女性に投げた石が、自分に返って来た。主の言葉で、自分の姿が映し出された。

罪がわかったので、彼らはその場から逃げ去った。自分の姿を見た。しかし、主のもとから逃げた。姦淫の女性は、逃げずにそのままそこにいた。その時、主から全き赦しを受けた。「わたしもあなたを罪に定めません」。

私たちはどうだろう。御言葉に自分の姿を照らし出され、自分の罪を示される。認めるのは辛い。プライドが許さない。醜い姿を見るのは痛い。言い訳を探して、自分を正当化したい。自分のせいではない、相手が悪い、環境が悪いと。

しかし、逃げないで主のもとにとどまり、自らの罪を認めよう。その罪は赦され、造り変えられ、主の深い愛を知って行く。
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罪は認めても逃げていては何も変わらない。主のもとにとどまり主の赦しを受けよう。とどまり続ける努力をしよう。その中で主が御心に造り変え、豊かに養って下さる。


2011年11月22日(火)

「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして、今、ベニヤミンも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ」創世記42:36


ヤコブの身の上に、次から次へと問題が降りかかり、試練に次ぐ試練、なすすべもないというような状況だ。エジプトで食糧を買うために、ベニヤミンを連れて来るように言われていた。最愛の子ヨセフを失い、シメオンも失い、今また、目に入れても痛くないほど可愛いベニヤミンをも失おうとしている。

次々と大切なものが自分の手から取られて行く。一見、深い絶望と落胆だ。しかし「全能の神がその方に、あなた方をあわれませて下さるように・・私も、失うときには、失うのだ」、最初ベニヤミンを行かせる事を固く拒んでいたヤコブだが、ユダの説得に、ベニヤミンもシメオンも主に委ね、行かせる事を決心した。

主に委ねた結果、どうなったか。事態が静まり、物事が落ち着く先に、落ち着いてみると、何と、死んだはずの、あのヨセフが生きており、シメオンも無事、家族全員、餓死するところを、食糧は豊かに備えられており、家族皆で共に住めるという、何もかもが、夢のような事態に一変。

あなたも今、窮地で、四方どこを見ても真っ暗闇だろうか。しかし、神にはそこにご計画があり、「しようとしていること」ヨハネ6:6があられる。状況でなく、神を見上げて信じていよう。目に見えたなら、信仰は要らない。何も見えない中で、御言葉を信じ、主に委ねよう。
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先の見えない中で神様の摂理を信じ「必ず益」を見つめて行くことが私達には出来る。不安や恐れを主に告げながら真っ暗闇の窮地を信仰を使うよき訓練の時としたい。


2011年11月21日(月)

「ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた」T歴代21:1


人口調査は罪なのだろうか。国民の数や状況を知る事は、国家運営上必要だ。主が生まれた時に、ローマ皇帝アウグストも人口調査を命じている。これは住民から税金を取るためだった。ダビデがした調査の報告は「剣を使う者がイスラエルに110万、ユダに47万であった」とあり、何のための人口調査であったかが示されている。

つまり「徴兵可能な兵士、戦力を知るため」だった。ダビデは兵力を調べ、軍事力を把握しようとした。神よりも兵力に拠り頼んだことが罪であった。それはイスラエルにとっての戦いが「あなたがたの戦いでなく、神の戦い」であったからだ。神ご自身が戦われ、勝利を得られるのは神であった。

勝利は軍事力ではなく、神によって与えられる、人間の力で得るものではなかった。それゆえ、兵士の数を数えることは、神の力に拠り頼むのではなく、自分たちの力で、戦おうとの考えの現われであった。神に拠り頼まない高慢の罪であった。自らの力として軍事力を誇った。しかし、これまでの勝利は、全面的に神から与えられたものであった。

高慢により倒れた人は少なくない。しかしダビデは、自らの罪に気づき、心底悔い改め、主に委ねた。サタンは高慢に誘惑して来る。神の栄光を自分の栄光とし、慢心してしまうとサタンに誘い込まれてしまう。すべては神から与えられたものだ。
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根強い高ぶりの根はすぐに自分の栄光を数えて行く。サタンに用いられて気づく。神が見方でないなら勝利はない。恵みを絶えず数え感謝を献げていよう。


2011年11月20日(日)

「別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった」(マタイ13: 5)

種が土の薄い岩地に落ちた。岩地だが、薄い土があったので、そこに種が落ち、
すぐに芽を出した。しかし、ギラギラと照りつける太陽が昇ると、深く根を張っ
ていないため、強烈な日光で枯れてしまった。

この同じ太陽が、土中深く根を張った植物は、逆にぐんぐん生長させる事になる。
全く同じ一つのものが、一方は力強く生長させ、他方は枯らしてしまう。

試練も同様だ。それはある人には成長となり、主の愛、主の真実を知る時になり、
築き上げられる。しかし、別の人を枯らしてしまう。その違いは、私たちの態度
にある。逃げず、避けず、しっかりと試練を受け止めるなら、試練は私たちを損
なう事ができない。私たちを砕き、練り、きよめ、成長させるばかりだ。

しかし、心を屈折させ、すねて反抗するなら、試練を通して、何の良きものも受
け取る事ができず、それどころか、心が枯れて行く。試練で神を恨み、離れ去っ
た人々もいる。

しかし、振り返ると、試練により、量り知れない益を受けたのではないか。あの
時、この時、あの試練が無ければ、自分はどんなに高慢になり、恐ろしい事にな
っていただろうと。
試練が私たちをへりくだらせてくれる。そして高慢から守られる。試練を受け止
め、その中で主に従って行く事で、岩が、自我が、砕かれて行く。岩が砕かれ、
根差すことができ、実を結んで行く。

・・・・・・・・・・・・・・
最初から良い地は無い。自我でカチカチだ。開墾されたから、柔らかな素直な良
い地になった。主が、すきやくわで、頑固な固い心を耕して下さり、良い地に変
えられる。砕かれるなら、御言葉が心に入り、地中深く根差し、実を結んで行く
ことができる。


2011年11月19日(土)

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安・・」ガラテヤ5:22


私たちにとって、幸せとはどういうものだろう。自分の思い通りに、自分の好き
なように生きるなら、幸せで、充実感があると思うだろうか。人生が自分の願い
通りになり、自分のしたいようにできれば快適だと思う。しかし、それは勘違い
だ。決してそうではない。

例えば、富が自分を幸せにしてくれると信じ、富を得るが、幾ら得ても満足する
事が決して無い。富を持つなら、更に得たい。これは貪欲だ。貪欲は更に貪欲を
生み、とどまるところを知らない。金持ちが幾ら富を持っても決して満足しない
ように。欲望は、満たせば満たすほど、心は更に渇く。もっと欲しいと思う。

生きがいを求めて、次々とあらゆる事に手を出し、駆け巡る人を見るだろう。自
分を喜ばせ、自分の欲望を充足して行く人生はますます渇くばかりだ。問題は
「自分中心」にあるからだ。神を喜ばせ、神を第一にした人に、喜びが無かった
というためしが無い。

人は喉から手が出るほど喜びが欲しい。もし喜びが欲しいなら、自分を喜ばせる
事を止め、神の喜ばれる事を求める事だ。喜びは御霊の実だ。御霊の実は、御霊
に自分を明け渡して、従って行く時に与えられる。自分で得るのではなく、神に
従う時に、心は満たされる。そして、御霊に満たされる時に、渇きは止む。

・・・・・・・・・・・・・・
自分の欲望充足や自己実現が、喜びを与え、心を満たしてくれると勘違いする。
が、そうではない。自分を喜ばせる事は、心満たされないばかりか、ますます深
刻に渇いて行く。虚しさが募る。心の満たしは御霊による。自分を明け渡して、
主に従う時に、真の平安が来る。


2011年11月18日(金)

「肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があな たがたのうちに住んでおられるなら・・肉の中にではなく、御霊の中にいるので す」ローマ8:8



信仰生活で日々経験するところだが、常に目の前に二つの反応がある。御霊の反
応と、肉の反応だ。神は「祈りなさい」と言われるが、肉は「今でなくても、ま
た後で」と言う。神は「今、〜をしなさい」というが、肉は「今、したくない。
またいつか、したい時にすればいい」と言う。

神は「思い煩うな。祈りなさい」と言うが、肉は「自分で何とかしなければ」と
焦り、決して思い煩いを手放さず、どんどん落ち込み、最悪のシナリオを描いて
行く。傷つく言葉を言われた時はどうだろう。神は「まず祈れ。わたしを呼べ」
と言われる。しかし肉は「腹が立つ。すぐやり返せ。でなければ相手はつけ上が
る。言い返せば、スカッとする」と言う。

神は「すべての事について感謝しなさい」と言い、肉は「この状況で、感謝など
何で出来るのか」と言う。常に肉は御霊に逆らう。御言葉に聞き、導かれなけれ
ば、どこへ行くかわからない。自己中心に生きようとし、自我を通そうとする根
深い肉の性質が、自分の内にあることを踏まえて、御霊に拠り頼もう。

「わたしを呼べ」と言われる主に、絶えず絶えず拠り頼み、御言葉を握り、御言
葉に立つ時、神の喜ばれる選択をして行く事ができる。その一つ一つの選択を通
して、主が新しい人を培い、一歩一歩成長させて下さる。今日も祈りつつ歩もう。

・・・・・・・・・・・・・・・
新しい性質と古い性質、いつも自分の前に二つの反応がある。御霊の導きと肉の
反応だ。自分の、肉の思いが強い時、わかっていても、御霊の導きのほうを選べ
ない。選ばない自分がいる。そんな時、まず「出来ません」と主を呼ぼう。主は
祈りに答えて助けて下さる。


2011年11月17日(木)


「いちじくの木は花を咲かせず・・しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。 私の主、神は、私の力」ハバクク3:18

ラッキーな事があった時やハピーな時は嬉しく、誰でも喜べる。しかし、ハバククが喜んだのは、最悪の状況の中であった。作物は実りなく、何の収穫も無い、羊も牛も絶えた。何も無い状況で、完全な絶望状態の時であった。先も真っ暗だ。なぜ喜べたのか。「主にあって」「救いの神にあって」とあるように、環境、状況で喜んだのでなく、神にあって喜んだ。

私達も、現状が真っ暗であり、先も望みが無いように見えたとしても喜べる。神に焦点を当て続けるのだ。神はどんなお方かをよく考えよう。益とされる(ローマ8:28)平安と将来と希望の計画(エレミヤ29:11)しようとしている事をご存じ(ヨハネ6:6)ご自分の御子をさえ下さったお方(ローマ8:32)良くして下さらないわけがない。

状況を信じるのでなく、神を信じよう。状況から目を転じて「御言葉」を反すうし、凝視し続けよう。御言葉には霊といのちと力がある。御言葉により、恐れが平安に変わるのを経験する。今、目の前にある出来事に反応するのでなく、内側におられる御霊に、じっと耳を傾けていよう。

神の時があり、神のご計画がある。状況がどうであれ、「主にあって喜び勇み、救いの神にあって喜ぶ」ことを、神は喜ばれる。状況から目を離して、じっと御霊の声に耳を傾け、感謝を献げていよう。必ず主が導いて下さる。
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状況は真っ暗闇だが過ぎてみれば神様の御臨在はいつも身近で、また祝福されていた。その経験が次ぎの悩み苦しみの時にも、結果は喜びで溢れると先取りで感謝を献げていける。


2011年11月16日(水)

「彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った」T列王19:4


エリヤはバアルとの戦いで、極度のストレス状態にあり、心身消耗しきった後、次にはイゼベルから命をつけ狙われた。殺されるという恐怖におののいた。アハブとイゼベルは更に頑なになり、エリヤは、あれだけバアルと戦ったのに、何も変わらないとの深い挫折感に襲わた。性根尽きてしまい、もう何の気力も残っていなかった。許容量オーバーだ。そんな時、神に頼るのでなく、自分で自分を救うために逃れた。

時に、目の前が真っ暗になってしまう。恐れと不安に支配されてしまい、何をどうしてよいかもわからない。絶望状態だ。しかし、そのようなエリヤを、神は追いかけ、慈しみを現わされる。死を願うエリヤに、神は「そんな事でどうする」と責めることも、「もっと祈って、信仰持って」と叱ることもされず、食べ物を与え、休息を与えられた。エリヤには心身の休みが必要であった。神は休ませて下さる。しっかり食べさせて、ぐっすり眠らせられた。休みにより、力を得たエリヤは再び立ち上がる事ができた。

極度の緊張状態が続いたり、過労の時は、とにかくまず休息が必要である事を覚えよう。状況も正しく判断できず、ネガティブにしか受け取れなくなる。神はエリヤに御声を聞かせ、間違った情報を正し、再び使命を与えられた。主は愛し、慈しんで下さっている。どんな時も、受け止めて下さる。ありのままで主の前に出よう。歩むべき道を示し、導いて下さる。
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エリヤでさえも恐れネガティブな思いやまた狭量な思考に襲われた。いつも元気で走り続けられる日ばかりではない。弱いと認める事は大切だ。疲れたらゆっくり休もう。


2011年11月15日(火)

「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」イザヤ55:7



ベツレヘムが飢饉に見舞われた。エリメレク一家は、神の約束の地にとどまって、危機を乗り越えるか、飢饉の心配なく、食物が豊かにある隣国モアブに移り住むか、二つの選択肢が目の前にあった。結果的に、一家はモアブ移住を選択し、神の約束の地を離れてしまった。飢饉から脱し、最初は快適な豊かさを楽しんだ。
しかし、長くは続かず、夫と二人の息子が死んでしまった。どんなに辛かっただろう。

神の約束の地を離れ、家族の幸せを求めて、モアブに移ったはずが、苦しい辛い刈り取りをする事になった。やがて故郷が豊作になった事も聞き、約束の地に、神のもとに帰ろうと、帰国の決心をする。嫁のルツもナオミの背後に真の神を見て、その神に従うべく、ナオミと行動を共にする。

帰郷すると、女たちは「まあ、ナオミでは」と言い、ナオミは「私をナオミと呼ばないで、マラ(苦しむの意味)と呼ぶように」と言った。「全能者が私をひどい苦しみに会わせた・・満ち足りて出て行ったが、主は私を素手で帰された。主は私を卑しくし・・辛い目に会わせられた」と。

しかし、それは自らの選択の結果であった。だが、神に立ち返ったナオミは大いに祝福された。ルツとボアズの結婚により、家は再興、「素手で帰された」と言ったその手で、孫を抱くことになり、その孫からダビデが出ることになる。神のあわれみは尽きる事がない。豊かに赦し祝福して下さる。
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失敗したと気づいたらすぐに立ち返ればいい。そこにまた主の備えがある。今日一日、神様から離れてしまったと思える日にも、私達のすることは、ただ帰るだけだ。


2011年11月14日(月)

「主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください・・救いは主にあります」詩編3:7



ダビデはバテシバとの罪があった。姦淫の罪と、彼女の夫ウリヤを殺害した罪だ。その罪は、悔い改めによって完全に赦されたが、しかし、蒔いたものを刈り取らねばならなかった。実子アブシャロムが自分に歯向かい、謀反を起こした。ダビデにとって痛い、非常に苦しい、辛い事であった。自分の子供が自分に敵対して来るとは。彼は、反撃し、武力により鎮圧しようと思えば出来た。

しかし、彼はそうせずに、主に委ねて、自分が去り、アブシャロムから逃げる道を選んだ。祭司ツァドクとエブヤタルも、契約の箱をもってエルサレムを出ようとしたが、ダビデが止めた。理由は「主の恵みにかなうならば、私を連れ戻して下さるだろうし、もしそうでなくても、主が私に良いようにして下さる」。いっさいを、自分自身を主にお委ねした。

ダビデは、罪を犯す以前の、信仰によって歩むダビデだ。自分で自分を守ろうとせず、自分に関する事をすべて主に委ねている。そして、武力で立ち向かうのでなく、神に祈り、神に求めている。「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる」。私達も問題が起こる時、なすべき事は、自分の知恵や自分の力で動かず、主に呼ばわり、祈る事だ。まず主に祈ろう。
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主に祈り、約束の御言葉を握って事にあたろう。感情はたえず右往左往するが主の支えがあれば御心のままに委ねて歩める。祈ろう。


2011年11月13日(日)

「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈 りを受け入れられる」詩編6:9 



ダビデはサウル王に妬まれ、憎まれ、命をつけ狙われる。間一髪で命を落とすか
と思えた場面もあった。又、敵からも、自分の息子アブシャロムからさえも狙わ
れ、病にも陥り、心身ボロボロの、崖っぷちの大変な苦しみの状況だった。

ダビデは神の心にかなった人だった。信仰者になると悩みが無くなるのではない。
問題は必ずやって来る。私達は苦しみの余り、とにかくその目の前の問題が去る
事を必死に願う。しかし、苦しみの時こそ、神が神であられる事を身をもって知
って行く時だ。

ダビデは「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、なすすべなく泣い
て泣いて嘆いた。その嘆きをそのまま主に持って行った。苦しみの中でこそ、神
との深い交わりに入れられる。「主よいつまでですか、あなたは」と、ありのま
まの気持ちを、率直に正直に神にぶつけている。

順境の時には決して経験出来ない事だ。自分で何とかしようともがき、走り回る
のではなく、問題をすべて神に持ち出そう。自分で当たると空回りするばかりだ。
ますます落ち込み、心は暗くなり、不安、恐れ、思い煩いに沈んで行く。

心を注ぎ出し、気持ちを神に告げ、神に全体重をかけて寄りかかろう。辛さと苦
しみの中でこそ、神との近い交わりを経験する。心からの叫び、切なる願いを神
は受け止めて下さる。祈りは聞かれる。

・・・・・・・・・・・・・・
主は、どんな小さな祈りにも耳を傾けて下さっている。聞いて下さっている。私
たちの気持ちをありのまま受け止め、御心に従って、答えて下さる。自分で何と
かせず、動き回らず、まず主のもとへ行こう。ことごとくを主に告げよう。


2011年11月12日(土)

「わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あな たをこの地に連れ戻そう」創世記28:15


ヤコブは、母の胎内にいた時、兄と争い、出生時には、兄を押しのけようと、兄
のかかとをつかんだ。彼はずる賢く、欲深く、様々な手立てを練り、人に対応し
た。自己中心で、考えるのは自分の利得であった。

祝福を奪うために、父と兄を欺いた。その結果、兄は激怒、ヤコブは家におれな
くなり、遠く叔父の家に身を寄せた。そして叔父ラバンは、ヤコブより更に狡猾
な人間であり、娘との結婚の事で、ヤコブが騙されるはめになった。
最初に姉のレアを与えられ、ラケルと結婚するために、結局14年間の厳しい労働
をした。ラバンのもとで、辛く苦しい労働の20年を耐えることになる。

父と兄を騙した事が思われただろうか。やがて、自分の息子たちにも騙され、自
らの蒔いたものを刈り取って行く。ヤコブは厳しい訓練を受け、歩んだ道のりは、
険しい苦難の生涯であった。しかし、神はヤコブを愛され、堅く握り、決して放
さず、砕き、造り変えられた。

約束の通りに、「この地に連れ戻」され、子孫を増やされた。主の約束は見事に
成就した。生涯を通して、ヤコブは御手に握られ、練られ鍛えられ、きよめられ
た。人を押しのけ、自我の強いヤコブが、へりくだった柔和な者と変えられた。
自分がどうであれ、主は私たちを変えて下さる。愛をもって臨まれ、キリストの
かたちへと造り変えて下さる。

・・・・・・・・・・・・
私たちが真実でなくても、主は常に真実であられる。ヤコブがどうであれ、主は
ご自身の主権を持って約束を成就される。私達にも同様だ。私達がどんなに不十
分でも、私達の弱さも何もかもを知った上で、どこまでも恵み、あわれみ、誠実
を尽くし続けて下さる。


2011年11月11日(金)

「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」詩編39:9

この詩編記者は、病にあり、苦しみの中で「なぜですか、なぜこんな目に会うのか」との不満が鬱積していた。しかし、舌で罪を犯してはいけないと、口に口輪をはめた。しかし、黙していると、ストレスが更に内攻し、鬱積し爆発しそうだった。それを彼は人にでなく、神にぶつけた。心の中の本音を吐き出し、気持ちを神に告げた。人生は、はかなく虚しいと。

心の内をことごとく吐き出した時、信仰が帰って来た。この虚しい人生で、望みをかけられるのは何かと、見上げた時、神を見い出した。「私の望み、それはあなたです」と。そして本音を神にことごとく告げた後、私は黙し、口を開かないと言っている。同じ、口を開かないだが、最初の口輪をはめ、ストレスに陥ったのとは異なる。「あなたがそうなさった」と、主がこの身の上に起こされたと、益とされ、ご計画がある事を認め、それを信仰により受け入れ、服した。

目の前の事態や状況、境遇を、神からのものと、受け入れることが、「私は黙し、口を開きません」ということになる。神のご計画を信じるからだ。必ず自分のために益とされる。周囲は皆、幸せそう、自分だけどうして?と、自己憐憫に陥るのでなく、「あなたがそうなさった」と受け入れて行こう。そうできるよう祈ろう。その時に、神の愛を知ることになる。
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心に鬱積するものがある時、心落ち着かず誰かに聞いてもらいたくなるが人に向かわず口を閉じよう。この状況を支配しておられるお方が正しい答えを持っておられる。口を開かず祈り心で過ごそう。


2011年11月10日(木)

「私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り」ネヘミヤ1:6


ネヘミヤはハナニから、エルサレムの城壁が崩され、門は火で焼き払われた状態である事を聞いた。深く悲しみ、断食して神に祈った。祈りの中で、重荷が増し加わる中、4ヶ月後、王の前に出た。しおれた悲しい顔つきであり、それを見た王は、ネヘミヤに尋ねて来た。心に何か悲しみがあるに違いないと。この時、ネヘミヤは、王に率直に心の内を話した。すると、王の方から「何を願うのか」と聞いて来た。王はネヘミヤの心の重荷を察した。そこで、ネヘミヤはユダの地へ送って再建させて欲しいと願った。王は願いを聞き入れ、快く送り出してくれた。

ここで学ぶ事ができる。ネヘミヤはまずエルサレムの現状を聞いて知った。私たちの信仰生活も同様だ。現状を、目の前の問題を正しく知る事によって重荷が与えられる。まず現実を知らない限り、重荷の持ちようがない。具体的にそれを祈りに持って行く時、更に重荷が与えられる。ネヘミヤは重荷が増し加えられ、何かをしたいと思った。

その願いは答えられ、神により、環境が目の前に次々と開かれて行った。そして、すべての必要が備えられて行った。私達もまず現状を正しく認識するところから重荷が生じ、祈りによって更にその重荷が深められ、具体的に行動するように導かれる。あなたにも主が見せておられる重荷があるだろか。祈りに持って行き、示された事を行なおう。
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正しい情報、より細かな現状を知った上で祈って行くと重荷が増し加えられ焦点を定めた力強い祈りに変えられて行く。具体的な示しに気づけまた行えるよう祈りに持っていける。


2011年11月09日(水)

「わたしのことばにとどまるなら・・わたしの弟子です。そして、真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:31


人々は信仰によって、 したい事ができなくなって窮屈になり、束縛されるのではと恐れている。しかし主は、そうではないと言われ、御言葉は、あなたがたを自由にすると言う。ここでは、主を「信じたユダヤ人」に語られている。信じた人々が、真に主の弟子であるかは「わたしの言葉にとどまる」かどうかでわかると。

このユダヤ人たちは、あなたがたは自由になるとの言葉に、誰の奴隷になった事もないと、主の言葉に反発した。彼らのプライドが傷ついた。「罪を行っている者はみな、罪の奴隷」と言われた時に、自分たちは罪を犯しているなどと全く思っていなかった。何も主に頼らなくても、すでにアブラハムを父としており救われていると。自分たちは、初めから自由だと。

彼らにとって、主の言葉は誇りをひどく傷つけるものだった。更に、主は「あなたがたは、わたしを殺そうとしている」と言われた。実は、彼らは決して自由ではなかった。しかしそれにさえ気づいていない。主の言葉を否定するほど盲目だった。「わたしの言葉に耳を傾けない」「それは神から出た者ではない」からと。

神から出た者は必ず神の言葉にとどまる。そして罪から救われ、罪の束縛から自由にされる。憎しみ、妬み、敵対心から自由にされて行く。私たちもどうだろう。良い人間であり、人よりはましと思っている時、主の言葉にとどまる事を妨げることになる。
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主の御言葉を受け流す時、主により新たにされ、解放される事を妨げる何かが自分の内にある。認め悔い改め、今朝聞いた御言葉のひとつを素直に受け入れ、とどまり続けたい。


2011年11月08日(火)

「今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」創世記45:8 


                        
ヨセフは兄たちに妬まれ憎まれ、隊商に売られ、異国の地エジプトへ。ヨセフはどんな思いであったろう。しかし「主が共におられたので」そこで主人の好意を得、信頼され、重んじられた。だが主人の妻によって陥れられ、無実の罪で監獄に。異国の地で、奴隷より更に悪い囚人となった。投獄の身になり、それも濡れ衣であり、自分は悪い事はしていない。ヨセフの心はいかばりだったろう。

そこでも「主は共におられ」ヨセフは模範囚となり、監獄長の心にかない重用された。絶望的な状況の中で、「共におられる主」を信じて、ヨセフはその場〃で、自分にできるベストを尽くして生きて行った。目の前に起きている出来事と状況に、主の主権と御手を信じたから、主に委ねる事ができた。結果的に、神の摂理のゆえに、先にヨセフがエジプトに遣わされ、飢饉からヤコブ一族を救うことになる。

こういう事だったのかとパズルが埋まる時、神の深いご計画が見えて神の栄光が現れる。ヨセフは、兄達への憎しみや責めを越えて「私をここに遣わしたのは神」と信仰に立つ事ができた。兄たちの悪巧みでなく、信仰により背後の神を見ていた。目の前の状況を、神のメガネで見てみよう。意図があり目的があり、計画があり、必ずパズルが繋がり、「私をここに遣わしたのは、神」とわかるようになる。
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神のご計画の目的や意味は何だろうとの思いで、今の状況を見て行くなら、落ち込んだり傷つくことから守られる。意味のないことなどないのだから。今わからなくても最善を期待し先を待ちのぞもう。


2011年11月07日(月)

「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」マタイ6:22


「からだのあかりは、あなたの目」とある。光は目から入る。それゆえ「あなたの目」が問題だ。心の目は、どこを見てるだろう。光であるお方、主に焦点を当てて、主をしっかりと見ているなら、それが健全な目であり、そうするなら、あなたの全身が明るく、輝いて行くと。

あなたの思考、判断、言動、プラン、それらが主に導かれて行き、輝く。そして、主の光の中で見る目は、見せかけでなく、見栄でない、本当の姿を見て行く。事実をありのままに見て、受け止めて行く。

逆に、その目が暗ければ、全身が暗い。光が無いということは、主を見ていないことだ。現実には光があるが、光なる主から目を離し、人を見、自分を見、状況を見ていると、暗い目になってしまう。人との比較から、羨望、妬みが出て来て、優越感と劣等感にさいなまれる。泥沼に落ち込んで行く。

自我の目で見て行くなら、自分の独断と偏見で人を見て、裁いて行くことになる。又、偏った目は物事を、正しく、事実を正確に見ることができない。自分の主観で、人を偏り見る。そこから誤ったそしり、悪意の疑りが生じ、平安無くし、自分が苦しくなる。

今、あなたの目は明るいだろうか。平安で喜びがあり信仰的見方か。もし暗い目で平安と喜びが無いなら、目を主に向けよう。御霊の光が射し、光があると見えるので、悔い改めが与えられる。全身が明るくなって行き、御霊の喜びが来る。
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状況に応じ光と闇に翻弄される世にあって、私達には信仰の目がある。どんな時も御霊の光のもとで受け止め、苦しい中でも主を見上げ平安と喜びの光を放てることはなんという幸いか。


2011年11月06日(日)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなこ とはありません」ガラテヤ5:16



御霊に導かれて、御霊の支配の中で生きる時、私たちは自由で、喜びがあり、感
謝がある。しかし、律法のもとで、肉に従って生きるなら、信仰生活は、非常に
窮屈になる。重い荷をずっしり背負うように苦しい。心に自由がなく、塞がれる。

常に神に要求されていると感じる。一タラント預かったしもべのように、神が過
酷な方で、蒔かないところから刈り取る、厳しい方だと思う。主が恐ろしい方に
なり、主に従う事が辛い事になる。そこに喜びなど全く無い。

今、私たちはどうだろう。辛い信仰生活だろうか。苦しくしんどいなら、どこか
がおかしい。自力で頑張っているかも知れない。妬みや憎しみ、怒りが湧き上が
る時、これは良くない事と、心に抑え込むだろうか。抑え込んだものは、無くな
るのでなく、ずっとそこにある。許容量越えると、いつか爆発する。

これは良くない思いと、抑え込むのでなく、「怒っています、妬んでいます、憎
んでいます。誰にも言えないこの思いを、あなたはご存じです」と一つ一つ、主
に告げる事が大切だ。隠さず、ごまかさず、無いことにせず、主に言い表して行
く。

その時、主が助けて下さる。絶えず主を呼び、言い表わし悔い改め、助けを求め
て行く時、その思いが消えて行く。思いが来た時、「主よ」と主を呼び求めよう。

・・・・・・・・・・・・・・・
建前でなく、心底の本音を主に告げた時に、心からの平安を経験する。受け入れ
られていて、主とひとつだと思える。本当の自分ではないきれい事を言っていて
も、それは自分では無いのだから、主もどうする事もお出来にならない。底の気
持ちを主に告げて行こう。


2011年11月05日(土)

「彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうかじっと見ていた。イエスを訴えるためであった」マルコ3:2 


                   
安息日に弟子達が、麦畑を通りがけに穂を摘んだ。その事で、主がパリサイ人から非難を受けられた。その後、会堂に入られた、その時、そこに片手のなえた人がいた。パリサイ人の視線は、片手のなえた人にじっと注がれた。しかし、それは主を陥れようと、主を訴えるためであった。手のなえた人をも利用する、何と冷淡な心だろう。自分達を正当化するための手段であり、一片の憐れみも、同情もない。その手のなえた人が癒された、大いなるみわざを見ても、何の感動もなく、主を葬り去る相談を始めるのだ。

他人事ではない。形は違っても、「自分は正しい」に立つ時、自分もパリサイ人になっている。主は、そのような態度の原因を「その心の頑ななのを嘆き」と、心の頑なさによると言われた。彼らの心は感覚が無くなっていた。愛や憐れみに無感覚だ。そうなれば主を殺す計画にまで発展して行く。なぜここまで頑なになったのか。心に生える苦い根を抜く事をせず、はびこらせるままにし、育て上げてしまった。

私たちの心にも苦い根が巣くっていないか。憎しみ、妬みの根はどんどん育ち、殺意にまで熟してしまう。実際、彼らは妬みのゆえに主を十字架につけ、殺害して行った。一方、主は、愛と憐れみの心で一杯であった。同じ「じっと見る」目が何と対極にある事だろう。苦い根を、即、抜き取るとは、悔い改める事だ。
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自分が間違っていないと思う時、憐れみのない上からの視線を相手に向けがちだ。苦い思いがざらつく時、謙遜になり主と同じまなざしを向けられるよう祈ろう。


2011年11月04日(金)

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27


ヨハネへの人気と賞賛が、主イエスの登場により、どんどんそちらへと移って行った。ヨハネの弟子たちは「みなあの方のほうへ行きます」と、自分の師を思うがゆえに、いらだち、妬み、寂しさを感じていた。しかし、ヨハネは全く動じず、態度は立派だった。自分はキリストではないと言明し、主が花婿で、自分は花婿の友人であり、花婿の声を聞いて喜びに満たされていると。ヨハネは、人は関係なく、自分と主との間で、喜びをもって主に仕えていた。

真に主に仕える者は、喜びに満たされる。そして、ヨハネは謙遜だった。人を見て、人と比較するなら、優越感や劣等感に陥る。同期の同僚の昇進はどうだろう。学生間の成績や人気、又、ライバルの成功は?心穏やかでいられない。プライドが傷つくのだ。人の成功を、自分の失敗のように感じて、認められない。人が誉められると、自分がけなされたように感じる。まるでシーソーだ。相手が高められると、自分が低くなる。

それらは心に巣くう高慢から来る。ヨハネはへりくだっていた。人の誉れも成功も、天からのものであり、そこに神を認め、神の主権を認めた。そして、神が与えて下さるものに感謝し、心から満足した。そこには不平も不満もない。すべての事柄に、主の主権と支配を認める時、心に揺るぎない平安が臨む。へりくだった人に与えられる大きな恵みだ。
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へりくだり天の管から降りてくる自分の恵みだけを見ていよう。人の成功が苦い時、人の失敗を裁く時、いかに自分が高ぶっていたか自信満々であったかを知り悔い改めて行きたい。


2011年11月03日(木)

『「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です」』マルコ6:38 

   
「パンはどれぐらいあるか・・彼らは確かめて」とあるように、どれほどあるかを「確かめる」ことは大切だ。まず現状はどうなのか。はっきりと確かめる事を求められる。自分の真実のありのままの状態を知って、現状を主にそのまま持って行く事ができる。主はありのままを用いて下さるが、現状を認めさせられる。「〜ができません」「〜の弱さがあります」「〜が少しできます」「〜を少し持っています」能力や持っているものが僅かでも問題無い。そのまま主のもとへ持って行くことだ。

ヨハネは「小さい」魚を二匹と言っている。小さくて良い。こんなもの何になろう、何の足しになろう、無いも同然、こんなもの献げても仕方がないと思う。しかし「ほんの少しの〜がある」それをお献げしよう。主は「小さな」ものを用いて、どんなに大きなみわざをされかに驚くばかりだ。小さいからこそ、逆に主の素晴らしさが現れる。自分が握っているなら、それで終わる。

しかし、主のもとに持ち行くなら、どんなに小さなものでも、大いに祝福して下さり、周囲の人々を満腹させて下さる。家庭、学校、職場で、祝福の器とされる。「五つのパンと二匹の魚」は私たち自身だ。何もできない自分、しかし主に献げるなら、私たちの人生を用いて、人々への祝福とされる。自分自身にも御霊の喜びが溢れる。
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自分にあるものが、わずかでも主にあって出来るとの信仰に立って献げてみよう。わずかなもの、わずかな決心も主が豊かに大きく用いて下さることを経験しよう。


2011年11月02日(水)


「どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11

「悪い者でも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている」親は子供に決して悪い事をしない。愛する子供に良い物を与える。ましてや天の御父は、私たちの求めに、答えたいと思っておられる。何でも求めたらよい。しかし、神は「自分の子供に良い物を与える」「求める者たちに良い物を」と「良い物」を下さると記されている。自分が祈ったものが、その通りに、そのままではなく「良い物」と言われる。それは、願った物そのままかも知れないし、そうでないかも知れない。とにかく私たちにとって「良い物」なのだ。

願った通りに、与えられないと失望落胆しているなら、祈りの答えを見直してみよう。気づかないまま、違う形で答えられているかも知れない。1才児が母親が使っている包丁をねだっても、親は絶対に与えない。又、子供が桁違いの高価な物をねだったとしたら、もっと大きくなってから与えるだろう。持つにふさわしい「時」がある。又、与える事は可能だが、我慢や忍耐する事を学ばせたり、その子のために、教育的配慮から控える場合もある。

自分はこれこそが最善、最適、最も必要と思うが、神は完全にふさわしく与えて下さる。その主に委ねた方が良いのではないだろうか。自分の願いとは異なるかも知れないが、それは「良い物」なのだ。その時は理解できなくても、後に必ず豊かな実を見る。時に「良い物」が自分の思いと違うことを心得ていよう。そしてそこに神のお心を見い出す時、喜びが来て納得する。
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祈りの答えはみな良いものだ。祈りの答えから神のお心を見ていこう。思い通りに祈りが叶えられた喜びの時と同じ感謝の気持ちで、全ての祈りの答えをしっかりと受けとめよう。


2011年11月01日(火)

「・・ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」U列王5:14



勇者であり、次々と敵を倒し、王から地位と名誉を受け、特別待遇を受けて来たナアマンだったが、どうする事も出来ない悩みがあった。その軍服の下は、らい病に冒されていた。神はナアマンをあわれまれ、一人の捕虜の少女を備えられた。その少女により預言者エリシャの存在を知る。神がナアマンをエリシャのもとに導かれる。

エリシャは使いの者に伝言をことづけ、救いの方法を示した。しかし、挨拶にも出て来ないエリシャに、ナアマンのプライドはひどく傷つけられた。自分が軽く扱われたと言うことが怒りの原因だった。神の目から見るなら、らい病よりも、このプライドの方が問題であった。主はこのプライドを砕こうとされた。

私たちもどうだろう。プライドゆえに、素直に、主に聞き従えない問題があるだろうか。すでに導きを与えられているのに、へりくだる事ができない。そこに停止していて、そこから一歩も前に進めない。腹を立てたナアマンだが、しもべの進言に耳を傾け、受け入れた。

主より示された一歩に、へりくだって従った時に、全き癒しが与えられた。そして、ナアマンは「イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを」体験した。測り知れない恵みにあずかった。あなたも今、へりくだって、踏み出すべき一歩があるだろうか。プライドを脱ぎ捨て、その一歩に従おう。大きな祝福の展開へと導かれる。
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プライドが妨げとなり導きに素直に従えない事が多い。わかっていても出来ないから神様は取り扱って下さる。身を低くしヨルダン川に身を浸そう。七たびと言われる。