2011年12月31日(土)

「というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現われるからである」Uコリン ト12:9


ある青年が、主のために働きたいと召しに応じ、神学校で学んだ。卒業後、田舎
の小さな教会に遣わされた。主のために熱い志と、希望に燃えて、使命感で一杯
だった。主の教会を建て上げ、救霊に励みたいと、喜び持って働きについた。

何でもできると希望に溢れていた。しかし、因習が強く、閉鎖的な環境の中で、
宣教の非常な困難さに、ぶち当たった。更に、小さな教会の群れを、うまく導く
ことができない。人々との気持ちの行き違い、ズレに、悩み苦しんだ。聖書と神
学を学び、様々なノウハウを学び、豊かな知識を持っていた。

しかし、対人関係がうまく行かない。消耗するばかりで、どんどん落ち込んで行
った。何の結果も出ないばかりか、ますます悪くなっているように見える。懸命
に労し、頑張った。苦しい歳月の後、空回りし、燃え尽き症候群に陥ってしまっ
た。

自信満々で、何でもできると思っていた自分が、いかに弱く無力であるかを思い
知らされた。挫折し、行き詰まり、その無力のどん底で、真に主に出会った。全
く裁きも責めもされなかった。慈しみに満ちた、主の深い愛に包まれた。

自分を真に支えてくれるものは、自分の知恵、力、自信でなく、何があっても決
して変わらない、主のご愛である事を身をもって経験した。すべてを主に明け渡
して、深い安堵、平安に包まれた。再び立ち上がれて、今度は、自分の力でなく
御霊によって、平安の中で導かれて行った。

・・・・・・・・・・・・・・
主は、私たちの能力や力を求めておられない。逆だ。無力であり、何も出来ない
事を認める事を求めておられる。自分の力が打ち砕かれた時に、主に明け渡した
時に初めて、御霊の力を経験する。主が働かれる。御霊によって生きる事を体験
する。弱さこそが大きな恵みだ。


2011年12月30日(金)

「敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向い ていたからだ」民数記22:32



預言者バラムが、モアブ王バラクから、イスラエルの民を呪うように頼まれた。
バラク王はバラムに使者を送る。バラムは、神に御心を求めると、呪うな、行く
なと示され、その頼みを断った。ところが再度、今度は大勢の、位の高いつかさ
達を遣わし、多くの金銀を提供すると言われた。バラムは、金銀の満ちたバラク
の家を貰っても、主の言葉にそむく事はできないと言った。

しかし、バラムは心では、金銀の満ちたバラクの家が欲しかった。それゆえ、す
でに神から、「ノー」との示しに関わらず、「主が何かほかのことをお告げにな
るか、確かめ」てみると言う。バラムは口では、「ノー」だが、本心は「イエ
ス」だった。そして自分の心は決まっていた。

主の「彼らと共に行け。しかし、わたしが告げることだけを行なえ」との指示に
従い、出かけた。すると途上で、剣を持った主の使いが現れ、バラムの行く手に
立ちふさがった。ろばはよけた。しかし、バラムは、ろばを打った。抗議するろ
ばと言い争っていると、主がバラムの目を開かれ、剣を持つ主の使いが見えた。

主が「敵対して出て来たのはわたし」だと、反対方向へ向かっているからだと。
バラムは主の言葉に忠実ではなかった。私たちも、主の御心にそれている時、正
しい道に戻すために、道をふさがれる。今、もしこんな状況にあれば、立ちふさ
がれているのは、主であり、それは主の愛であり、計らいだ。
目の前で道がふさがれた時は、単に失望落胆だけでなく、主のお心を祈ってみよ
う。軌道修正されたり、又、深いご計画があり、別の更に良きものに行き着く。

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門を閉じたり開いたりされるのは主だ。反対へ向かっていると気づいている時も、
また気づかず走っている時でも主はそのご愛ゆえに行く手をふさがれる。私達は
目先の事しか見えない者だが何と力強い導き手に守られている事だろう。


2011年12月27日(火)

「あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎな い。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」伝道4:4



御言葉によると、人々の仕事をする動機は、成功欲望と人間同士の妬みだと言っ
ている。人の心の底にある根深い嫉妬心と、人への競争心が動機となり、強い力
で仕事へと駆り立て、どんなに過酷で重労働でもやってのけて行く。成功、地位、
名誉への野心が仕事へと駆り立てる。妬みが原動力だと、ソロモンも経験した。

しかし、それは風を追うように虚しく、決して心を真に満たしてはくれない。私
達の心の底にあるものは何だろう。あなたの動機はどうだろう。妬みと競争心、
野心だろうか。常に人との比較に生き、人に勝ちたいのだろうか。

神無しの世界ではそうかも知れない。それが動機となっていて、人々は競争心で
張り合って行くだろう。しかし、もしそうなら、動機が間違っているなら、人生
が虚しく終わると警告している。私達の働く動機は、神の栄光を現わすためであ
り、人ではなく、神を意識て行く。神のためだ。

神の賞賛でなく、人の賞賛を求めているだろうか。人の評価を求めて行く時、迷
路に迷い込む。本筋から迷い出る。誰の評価が欲しいのだろう。誰に認められた
いのだろう。人か神か。心を探ってみよう。神がいつも正しい位置に戻して下さ
るように。平安の場所に戻れるように。 
-------------

神様の喜ばれる歩みが出来るようにと、それだけを望み祈りながら暮らしている
ならどれだけ無駄なストレスから守られる事だろう。人間関係の難しさやわずら
わしさを感じる時、自分はいったい誰の賞賛が欲しいのか、立ち止って考えてみ
よう。★【配信スタッフの都合で、すみませんが2日お休みさせて頂きますm(_
_)m】
 


2011年12月26日(月)

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らい となさいました」創世記50:20



ヨセフは兄達の妬みと憎しみにより、エジプトへ売り飛ばされた。ダビデはサウ
ルに妬まれ命をつけ狙われ、何度か殺されかけた。主イエスも祭司長やパリサイ
人達に妬まれ、十字架へと追いやられた。それらは明確な悪意であった。私達も
それぞれの境遇で、人の妬みを受ける事がある。嫉妬ゆえのいじめや、攻撃を受
ける事もある。人の悪意により苦しい状況に陥る。

「何でこんな事が・・」と、自分は悪くないのに、理不尽な苦しみを受ける事が
ある。窮地に立たされ悩み苦しむ。しかし、信仰の目は、状況でなく、そこにま
ず神を見る。神によって事態を見る。「主にあって無駄な事は何一つ無い」「神
は最善をされる」「万事益」「極みまで愛されている」そこに堅く立ち、神を信
じて行く。肉の目には、最善などと見えない。人の悪意が見えて、目の前は真っ
暗だ。しかし、全能の主は、別の道を開いて下さる。人の悪意すら、益と変え、
最善をされる。

ある人は、隣人に、言われ無き誹謗、中傷を受け、悩まされた。非常なる苦しみ
を通り、神に委ねつつ忍耐した。その試練の後、自分が大きく変えられた事に気
づいた。人が過度に気になって仕方無かった者が、その試練を通り、人が気にな
らなくなった。神のみわざに心から感謝した。神は人の悪意すら、あなたへの限
りない祝福のために用いられる。「何でこんな事が・・」の時こそ、神を信じて
いよう。みわざを見る。
---------
理不尽な人間関係の中では、相手の存在だけを大きく見てしまいがちだ。相手
に呼応し自分を見失わないよう神様だけを見ていよう。すべての問題の中に神
様の恵みが隠れている。苦しみは必ず恵みへと変えられる事を信じていよう。


2011年12月25日(日)

「さあ、ベツレヘムへ行って、主が私たちに知らせ下さったこの出来事を見て来 よう」ルカ2:15



野宿の羊飼いたちは、御使いから、救い主誕生の知らせを受けた。御言葉を聞い
た羊飼いたちは、「主が知らせて下さったこの出来事を見て来よう」と、実際に
出かけた。素直に御言葉を受け止め、応答した。行動を起こした。

すると、彼らは素晴らしい事実を目にした。そして、「全部御使いの話した通り
だった」ことを見て、「神を崇め、賛美しながら」帰って行った。彼らは、御言
葉を聞いた時、聞き流さず、無視せず、ないがしろにせず、御言葉を信じ応答し
た。その結果、主を崇め、主を賛美する事に至った。

私たちも、御言葉を信じて、実行して行く時に、「全部主の言われた通りだっ
た」と、御言葉が成就することを、実際に経験する。「あなたのおことばどおり、
この身になりますように」と自らの身を差し出したマリヤに、御言葉がその通り
に実現したように。祭司長や律法学者たちは、救い主誕生を知ったが、無視した。
エルサレムの人たちも聞いたが、彼らは行かなかった。

御言葉を聞いて、主に従う選択、又、拒否し、無視する選択ができる。「神の御
心を行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか・・わかる」。
心を開いて、御言葉を受け止め、従って行く者に、主はご自身を現される。御声
を聞いたなら、「知らせて下さったこの出来事を見て来よう」の通り、実際に従
おう。その結果、大きな喜びに満たされ、主を崇め、賛美することになる。

・・・・・・・・・・・・・・
「知らせて下さったこの出来事を見て来よう」、主の御声を聞き、御心示されて
いる事を、実際に従おう。行動に移そう。聞き流し、ないがしろにしているなら、
いつまでたっても、主を知る事が無い。目の前の御心を実行しよう。主を崇め、
喜びに溢れることになる。


2011年12月24日(土)

「御使いは・・マリヤに言った『おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにお られます』」ルカ1:28



「おめでとう」は「喜びなさい」だ。「喜べ。恵まれた人。主が共におられる」
と。しかし、マリヤは非常に戸惑った。更に御使いは「神から恵みを受けた。み
ごもって、男の子を産む。名をイエスとつけよ」と、救い主誕生を告げた。

マリアは、まだ男の人も知らないのに、どうして、と。マリヤの率直な質問に、
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおう。それゆえ、生ま
れる者は、聖なる者、神の子と呼ばれる」と答え「聖霊による」と。そして、神
にとって不可能は無いと。

その時、マリヤは「私は主のはしためです。お言葉とおり、この身になりますよ
うに」と、身を献げた。マリヤのこれから先はどうなるだろう。ヨセフはどう思
うのか。聖霊によりみごもったなどと、誰が信じられるだろう。姦淫罪は石打ち
の刑だ。それこそ死刑になるかも知れない。結婚は壊れ、夢見ていた将来の幸せ
は崩れ去ってしまう。

しかし、マリヤは御言葉を受け入れ、従う選択をした。「いと高き方があなたを
おおう」、御霊がマリヤの恐れ、不安や思い煩いをおおい、人々からの中傷や批
判、裁きや誤解から守り、おおうと。「この身になりますように」、私たちも、
私たちの身を献げることができる。

自分の思い通りでなく、思いとは大きく違う歩みかも知れないが、献げた一生は、
真に用いられた、恵まれた一生とされる。主が共におられる、それは、どんな状
況であろうと、御霊の喜びに満ちた歩みとされる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
主に示された御心に、自分自身を明け渡して従う時、聖霊がおおい、すべての行
程を導いて下さる。事は、聖霊による。主の導きは、困難に見えるかも知れない
が、私たちにとっても「恵まれた方、主があなたとともにおられます」であり、
大きな祝福とされる。


2011年12月23日(金)

「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であるこ とを知りました」T列王17:24


大飢饉の中、エリヤが主に示されて訪ねた、ツァレファテのやもめは、ひと握り
の粉と少しの油だけがあり、何とそれで最後の食事をし、死のうとしていた。そ
の目の前に、突然エリヤが現れて、非常識な、無理な要求をした。まず、私のた
めにパン菓子を作るようにと。そうするなら、飢饉が終わるまで、かめの粉は尽
きず、そのつぼの油は無くならないと。やもめはエリヤの言葉の通りにした。

すると不思議が起こり、飢饉の間中、粉と油は尽きず、息子に食べさせる事がで
き、自分も養われた。飢饉のまっただ中で、神により奇跡をもって養われた。
ところが、その後、息子が重病に陥り、死んでしまった。エリヤはその息子が生
き返るように、主に祈り、願った。主は、エリヤの願いを聞かれた。その息子は
生き返った。

その生き返った息子を、彼女に返した時に、彼女は、エリヤが神の人であり、エ
リヤの口にある主の言葉が真実であることを、今、知ったと言った。それ以前は、
まだよくわかっていなかったが、息子の死を通して、神の言葉が真実であると身
をもって知ったのだ。彼女の内で、信仰が確かなものとされた。大きな試練であ
ったが、主と主の言葉が真実である事を、真に知る素晴らしい恵みと祝福とされ
た。

私たちも、試練は必ず苦しいが、その苦しい試みの中で、主のことばが真実であ
ることを知ったと、言えるようにされる。それは苦しみは通るが、大きな恵みで
はないだろうか。
-------------
自分自身で対応しきれない試練が、神様の前でへりくだれる時となる。そこを通
らなければわからない神様との出逢いがあり生涯を通して神様を更に更に知って
行けることが私達の最大の祝福だ。


2011年12月22日(木)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのこと を心配してくださるからです」Tペテロ5:7


信仰生活の中で、大小様々な問題が起こり、悩みが生じる。御言葉にあるように、
「主は愛する者を懲らしめ、訓練を与えられる」それは「私たちの益のため、ご
自分の聖さにあずからせるため」そして、必ず平安の義の実を結ぶと。

又、目の前の美味しい草をあさって、道に迷いがちな私たちの視点を、主に向け、
主のもとに戻すために、悩みを送られる。私たちの益のためだ。
しかし、試練の時には、同時にサタンも強く働き、主から離そうとする。ネガテ
ィブな不信仰な思いへと誘惑する。神の愛を疑わせ、不信感を植え付けて来る。
心に心配、恐れ、不安を凄まじい勢いで入れて来る。

視点を状況と自分だけに置くように誘うので、神が見えなくなる。思い煩いの真
っ暗闇に引きこむ。その思い煩いは、現在の事から、先の事、遙か将来の事にま
で及び、最悪のシナリオをサタンは見せる。しかし、サタンとは思わず、自分が
思っているとしか思わないので、心は真っ暗になり落ち込むばかりだ。

主は、明日のことも心配するなと言われている。いっさい心配無用だと。今日一
日だけを考えて、なすべき事をすればよいと。思い煩いは、その今日すべき事す
ら、できないようにしてしまう。 このサタンの攻撃を受けていないか。目の前
のその事柄を、主が心配して下さっている。委ねよう。
------------
救われた日からも思い煩いは相変わらず続く。焦ったりおびえたり、すぐに平安
を奪われてしまうが、神様は私の明日を心配して下さるとストレートにこの御言
葉を信じる時、この世にない平安が来る。お委ねして歩んで行こう。


2011年12月21日(水)

「互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたが たもそうしなさい」コロサイ3:13


赦せない思いがあるだろうか。人を赦せない心ほど苦しいものはない。四六時中、
憎しみに支配され、がんじがらめ、まさしく牢獄の中だ。それも自分から牢獄に
入ることになる。逃れることができず、囚われの、拘束状態だ。人を赦すのは、
自分自身が牢獄から出るためだ。赦せない思いは、相手よりも、どんなに自分を
傷つけ、苦しめる事だろう。人を赦せず、苦しむのは相手ではなく、自分自身だ。
経験があるだろうか。

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを
赦しました」まず、自分に負いめのある人を赦している。だから、自分の負い目
も赦して下さいと。赦そうとする意志は大切だ。赦せないが、まずは赦そうとの
意志を向けない限り、何も始まらない。どうしても赦せない思い、赦すことの困
難さの中で、主の十字架の赦しが、この赦せない自分のためだと迫る。自分に
は出来ないが、主によって人を赦すことができる。

憎む相手に、自分の一生を支配されたいだろうか。来る日も〃も、心を支配され、
憎しみと恨みで、がんじがらめにされたいだろうか。憎む相手に、自分の人生を
支配される事を拒絶し、解放されよう。相手を赦す時に、牢獄から出て、自由の
身にされる。喜びが溢れ、平安に満ち、自分を取り戻すことが出来る。
-------------
赦せない!と思い出しては繰り返し憎む相手を攻撃して行くから、心の中は一日
中戦場のようだ。傷ついた心は主が全てご存知だ。憎しみから平安へと心を変え
られるように祈ろう。主がして下さる。


2011年12月20日(火)

「事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、 信じているあなたがたのうちに働いているのです」Tテサロニケ2:13



ある人が「御言葉を聞いてはいるが、自分には無理、とうてい実行できないと、
御言葉を過ぎ去らせてしまっていたと思う」と。無意識であり、考える事もなか
ったが、やっとそれに気づいたと。御言葉を読む時に、良いお話、ためになる話
程度に思っていて、「神の言葉」として受け取っていない。単に頭で知識として、
情報として聞いているだけだ。

しかし、御言葉を聞く事は嫌ではなく、拒否する気もないし、気づかない。罪と
言われても、誰でもしている事だし、罪人だと思うが、そこそこの罪人で、隣の
人よりはましだと思っている。種蒔きの例えの、固い土地であり、御言葉を流し
てしまっている。

又、御言葉は、今まで生きて来た価値観と正反対だ。例えばこの世では、所持金
が少なくなると支出を控える。だから献金も渋る事になる。しかし、御言葉は真
逆だ。豊かになるためには、もっと献げよと。少し蒔くなら、少し刈り取り、豊
かに蒔くなら豊かに刈り取るからだ。献げるほど豊かになると。

これは世の常識を越えていて、理解できない。この世は自己実現、自己啓発、自
己主張の社会だ。しかし、御言葉は自分に死に、へりくだれと言う。へりくだる
なら高められると。世は得る事が喜びであり、御言葉は捨てる事、与える事、献
げる事がいのちへの道だと言う。聞いた御言葉を、神の言葉として受け取り、信
仰に結びつけ、信じよう。その時、必ず実を結んで行く。神を経験して行く。
-------------
御言葉は神からのものだから生きて私達の内で働かれる。世の価値観の中で、今
日も流されず、また流されても戻って来れるのはいのちの御言葉を心に信じ受け
入れているからだ。宝のような御言葉を心に植え付け、蓄えていこう。


2011年12月19日(月)

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」Tサムエル1:10


エルカナには二人の妻があった。ハンナとペニンナだ。ペニンナには子供がいたが、ハンナには子供がいなかった。エルカナはハンナの方を愛していたようで、「彼女を憎むペニンナ」とあり、ペニンナの嫉妬は憎しみとなり、ハンナを「ひどく苛立たせるようにした」。不妊の悲しみの上に、ペニンナのいじめに苦しめられ、夫にわかってもらえない孤独、不妊は神に祝福されていないという迷信、周囲の目、神のみ思いもわからず、ハンナは押しつぶされそうだった。

その時に、ハンナは祈りのために立ち上がった。激しく泣き、長く、心を注ぎ出して祈った。感情も思いも何もかも主にぶつけた。主の御前に心を注ぎ出す祈りの中で、ハンナは変えられて行った。神と親しく、真に交わる中で、自分の願望を、自分自身を委ねて行くことができた。それで、「このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」と言えた。

単に自分の願望を満たすためでなく、主の栄光のためにと、思いが変えられ導かれて行った。祭司エリから「安心して行きなさい」との言葉により、確証を得て、全き平安を得た。「彼女の顔はもはや以前のようではなかった」。ハンナは委ねきることができ、信じきった。すでに得たりと心安らかにされた。今、目の前の問題を、祈りに持って行こう。心の思いを何もかも注ぎ出し、真剣に祈ろう。
------------
祈りの中で自分中心の求めが御心がなりますようにと変えられ整えられて行く。目の前の問題を信仰を持って祈り続けよう。そして神様のあわれみと導きを待ち続けよう。


2011年12月18日(日)

「『さあ来て、朝の食事をしなさい』弟子たちは主であることを知っていたので、 だれも『あなたはどなたですか』とあえて尋ねる者はいなかった」ヨハネ20: 12  



復活された主は「ガリラヤに行きなさい。そこでわたしに会える」と言われ、そ
れで弟子たちはガリラヤへ行った。しかし、心は重く、空虚であり、なすすべな
く、ペテロは漁に出ると言い、他の弟子たちも従った。

しかし、何も捕れなかった。夜明けに、誰かが岸辺に立ち「舟の右側に網を下ろ
せ」と言った。半信半疑で言われるままに網を下ろした。すると、網が引き上げ
られないほどの大漁だった。ヨハネが、はっと「主です」と気づいた。ペテロは
飛び込んで、主のもとへ泳いだ。

陸地に上がると、主が魚とパンの朝の食事を用意して下さっていた。漁の前のう
つろな重苦しい、暗い雰囲気とは一転し、温かい静けさで満ちていた。目の前に
おられるのが、主であると、皆、知っていたからだ。

炭火を見て、ペテロは主を裏切った傷がうずいた事だろう。主はペテロに「あな
たはこの人たち以上に、わたしを愛しますか」と言われた。以前のペテロなら自
信満々で「勿論ですとも」と言っただろう。しかし、砕かれたペテロは「私があ
なたを愛することはあなたがご存じです」が精一杯の答えであり、これが彼の真
実であった。

主は三度問われ、ペテロは三度答えた。主は、このやりとりで、ペテロの心の傷
を癒して行かれた。主はペテロを回復され、「羊を飼いなさい」と再度、主はペ
テロに使命を与えられた。主の愛は、何があろうと、どんなに失敗しても、変わ
ることがない。主のもとにとどまろう。

・・・・・・・・・・・・・
生まれつきの価値観では、この何があっても決して変わらない愛や、無条件の愛
がわからない。この世には無いからだ。いつも赦され、回復させられ、あるがま
ま受け止められて今がある。この変わらない主の愛に包まれている事を、今日も
感謝しよう。


2011年12月17日(土)

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによ って、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6


  
日常生活で、次々と問題がやって来る。心配、不安、悩みは尽きない。主はその
不安の解決法を教えて下さる。とても簡単だ。「何も思い煩わないで、一つ〃目
の前の問題について、祈れ」と。「思い煩う事をストップして、祈れ」と。「そ
の問題を主に明け渡せ」と。非常に単純で簡単だ。

しかし、どうだろう。これをしないで、心配と不安で、くよくよと思い煩うのが
現状だろうか。主は、渡せと言われるのに、自分が握っていて、自分で何とかし
ようと思う。が、それがどうにも出来ないので、思い煩い、心は苦しく、落ち込
み、悶々状態だ。

自分で何とかしようとしている事が問題だ。だから思い煩う。主は「何も」思い
煩うなと言われる。その重荷を、主に一つ〃打ち明け、手放してしまうようにと。
主に頼るようにと。
ある人が将来を考えると、どっと大きな不安に襲われた。その思いが来ると心暗
くなり、重苦しくなった。すると、将来ではなく、今この時、平安も喜びも失せ、
心沈み、すべき事ができず、周囲にも何の証しにもならない。

その事に気づかされた。そして「心配したからといって、自分のいのちを少しで
も延ばすこと」が不可能である事が、心にしっかり入り、わかり、思い煩いを止
めようと決心した。主に委ねた時に「そうすれば、人のすべての考えにまさる神
の平安」が心に広がり、御言葉を実感し、神を経験した。

・・・・・・・・・・・・・
自分の力で何とかしようとしているから、すべてが自分の肩にかかって来て、思
い煩うことになる。それを主は、渡すようにと言って下さっている。受け取って
下さって、最善をして下さる。一つ一つきっぱり主に渡して行こう。


2011年12月16日(金)

「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません・・家に帰ってみると、しもべはよくなっていた」ルカ7:9


百人隊長は立場上、権威というものをよく知っていた。自分が命令するなら、自分の言葉通りに部下は動く。それゆえ主イエスの権威を認めていた。来ていただくに及ばず、ただお言葉をいただけば十分だと言った。主を信じるとは、その権威に裏打ちされた御言葉を信じる事だ。状況に関係なく、神の言葉が成就して行く。

私達はどうだろう。主の主権と権威を、真剣に信じ、認めているだろうか。自分の思い通りに、事が進むなら、神を認めるのだが、自分の思い通りでないと、「何で?神様はひどい、なぜ?」と、ひがんだり、反抗したり、文句だらけだ。都合の良い時だけ、神の主権を認め、都合が悪くなると、手の平を返したような態度になる。これは神中心でなく、自分中心の信仰だ。神の栄光や神の御思いに中心があるのでなく、自分の思いに中心がある。私達はどうだろう。

又、百人隊長は謙遜だった。主を「私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と、自分には資格が無いと、どこまでもへりくだった。人々は、人間的見方で評価するが、百人隊長は神の御前には、人間の功績や行ないなど、何の役にも立たないと知っていた。しかし、資格の無い者の願いを、主はあわれみ、受け止め癒して下さると信じた。御言葉を頂けるなら「そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」。その信仰に驚かれ、賞賛された。
--------------
神様は自分の都合に合わせるお守りではなく、どこまでも従うべきお方だ。神様の主権と権威の前に謙遜にへりくだり信仰を持って祈り続けよう。


2011年12月15日(木)

「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います」エレミヤ42:6


                    
         
民は、エレミヤに、神の御声に聞き従うと言いながら、この国にとどまれとの示しに従わなかった。良くても悪くても全面的に従うと言いつつ、実は、エジプトへ逃げる事をすでに決めていて、その認め印が欲しかった。私達はどうだろう。御声に従うので、御心を求めると言いつつ、実は心では自分の願望、すでに決めた事が確固としてある。

それを保証し、後押ししてくれる都合の良い御言葉を探し出す。自らの願望が強いと、そうしていて気づかない。結局、自分の考え通りに行ない、自分の思いを遂げ、無残にも失敗する。ユダにとどまれば、バビロンに殺されるのではと、民は不安と恐怖におののいていた。神が救い出すと語られたにも関わらず、それを信じないで、御声に従う事なく安易な方へ進んだ。

私達も、自分の欲望の声に従うのは心地良いし、楽だ。それにひきかえ、神の御声は時として厳しい。しかし、自分の都合に御言葉を合わせると、民のように不信仰に陥り、神に反逆して行く。私たちも簡単に「はい、主の御声に聞き従います」と言うだろうか。しかし、本心はどうだろう。祈りが必要で大切だ。

自分の願望、強い肉の思いがあり、聞き従いたくない本心を認め、主に従えるように祈ろう。その時、主が働かれ、助け、御声に聞き従うことができるようにして下さる。
------------
良くても悪くても従うとはなかなか言えない。従えない、従うのは恐いと、そこから主に渡していこう。従う気もなく御言葉を読み飛ばしている不信仰を今朝は示され、また御言葉に誠実に向き合う思いを与えられ感謝だ。


2011年12月14日(水)

「イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。『恐れないで、ただ信じていなさい』」マルコ5:36         

        
     
ヤイロが、最愛の娘が死にかけであり、必死な思いで、主のもとへ来てひれ伏した。どうか家に来て、娘の上に手を置いて癒して頂きたいと願った。主は、一緒に出かけて下さった。ヤイロは、一刻も早く、主をお連れしたい。娘は今にも死んでしまう。気が気でない。しかし、一刻の猶予もない、そんな時に長血の女性が現れて、主は対応され、手間取ってしまった。

何でこんな時に、心は焦り、早く、早く、早くお連れしなければ、その時間がどんなに長く感じられただろう・・。その時に、家から使いの者が来て、娘は亡くなったと告げた。もう先生を煩わすことはないと。もう手遅れだと。ヤイロはどうだったろう。茫然自失。心が停止してしまったのではないか。何がどうなったのか、混乱し、考える事もできなかったのでは。その瞬間、主がヤイロに御言葉を与えられた。「恐れないで、ただ信じていなさい」。

別訳では、「イエスは、その話している言葉を聞き流して」とある。主は、使いの者の言葉を聞き流された。私たちも、何もかも心に入れてはならない。対人関係、仕事、経済問題に関して「もうだめだ」「手遅れだ」「不可能だ」、ネガティブな言葉、不信仰な言葉は聞き流し、無視しなければならない。主の言葉「恐れないで、ただ信じていなさい」、状況でなく、人の言葉でなく、主の言葉をしっかり受け入れ、握り、信じて行く時、御言葉の通りに成し遂げられる。
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もう駄目、不可能だ、と思う場面で「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われる主の言葉を真っ先に受け取れますように。恐れから情緒は不安定になり、嫌な言葉ばかりが騒がしく耳に入るけれど、それを自分のものとしてはいけない。


2011年12月13日(火)

「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか・・あなたがたの現状をよく考えよ」ハガイ1:4


主は、ハガイを通して民に語られた。主の宮が廃墟となっているのに、自分達は板張りの家に住んでいてよいのか。現状をよく考えよと。多く蒔いても少ししか収穫がなく、食べても飲んでも飽き足らず、幾ら稼いでも穴の開いた袋に入れるだけで、貧しく、生活が満たされる事がないと。多くの収穫を期待しても、僅かしかないと。「わたしはそれを吹き飛ばした」と。それが「わたし」による事だと。

天は露を降らさず、地は産物を産出しない。神がストップをかけておられる。なぜなら、神を顧みず、ただただ自分の事だけに奔走してしたからだと。神は何かを告げたいがために、時に祝福を差し控えられる。神を忘れ、自分を喜ばせるだけの生活にある時、収穫が無く、事態がうまく行かないようにされる。立ち止まって考えさせるためだ。行く道をふさがれる。それは神の愛だ。放っておかれる方が悲惨で、どうなってしまうかわからない。

ある人が、御言葉を聞いた時、「本当にそうだ」と思わされた。最初は主を第一に、主のために生きたいと願っていたに関わらず、いつの間にか、主が第二、第三となり、仕事、職場、家族の方が先になり、自分の生活の事ばかりに心を向け、走り回っている。その事に気づかされた。今一度、主の前にひざまずいて、光の中を喜びと平安の中を歩みたいと。第一のものを、第一にして行こう。
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神の事を後回しにし、いったんこの世の生活に目を向けるなら一日中でも関わりあわなければならない。気忙しいこの季節は特別に神様との交わりを密にし、示された事を第一とし心平安に過ごして行きたい。


2011年12月12日(月)

「しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい」T列王17:13


ケリテ川が枯れた時に、次に、やもめ女のもとへ行くように命じられた。飢饉はどんどん拡大し、イスラエル全土だけでなく、シドンにまで達していた。「そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養う」。エリヤはどうだったろう。カラスの次は、異邦人の女性に養ってもらうなど、プライドが砕かれることだったろう。

しかし、へりくだって、主の言葉に従った。養われるというので、どんな資産家と思いきや、そのやもめは、もう、かめに一握りの粉と、つぼに少しの油とで、子供と最後の食事をして、死のうとしていた。人間的に考えたなら、その死ぬ前の食事を、まず私の所へ、などととても言えない。何と非常識なと。しかし、エリヤは信仰に立った。神を信じた。そうするなら、飢饉が終わるまで、かめの粉は尽きず、つぼの油は無くならないと。

そのやもめは、エリヤの言う通りに従った。すると、主の言葉の通りに奇跡が起こり、大飢饉のまっただ中で、やもめと子供は養われ、命が救われた。神のみわざは、神の言葉の通りに、その通りに従うところに現れる。それは一見、この世的価値観からすると、理解できない事があるかも知れない。しかし従う時に、神を経験して行く。エリヤは信じる事、へりくだる事、従う事の訓練を経て、この後、カルメル山で450人のバアルの預言者400人のアシェラの預言者と戦うことになる。
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神の栄光としか考えられない御わざの経験が次ぎの信仰へと結び付けられる。神にしか頼れないギリギリの状態に置かれる時、この神への信仰の経験だけを握って暗いトンネルから抜け出よう。


2011年12月11日(日)

ケリテ川のほとに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わ たしは烏に、そこであなたを養うように命じた」T列王17:3



神はエリヤに、ケリテ川のほとに身を隠せと命じられた。アハブの追っ手からか
くまうためだった。言われた通りに、エリヤはケリテ川の畔に逃れた。カラスに
「養わせると言われたが、そんな事があり得るのだろうか。実際ゴミ捨て場に群

り、荒らし、食べも物を貪る、貪欲なカラスが、食べ物など運んで来るのだろう
か。

それは取りも直さず、神がエリヤを養うとの意味だった。チョロチョロと水が流
れ、段々と日増しに枯れて行くケリテ川の畔で、自分にはどうにも出来ない、何
も無い所で、エリヤは自分の無力を知り、徹底的に神ご自身に拠り頼むという信
仰の訓練を受けた。ひでりの中で、序々に川の水も干上がって来る。どんなに不
安で、心細い事だろう。

ケリテ川のほとりと命じられているので、水を求めて探し回る事もできず、かと
言って、もう水は枯れて来た。このままでは死んでしまう。エリヤがした事は、
ひたすら、主からの、次の言葉を待つ事だった。主を待ち望むことだった。私た
ちも、ただただ主の言葉を待ち、又、主を待ち望む状況に置かれているだろうか。

動き回るのでなく、自分で何かをするのでなく、じっとひたすら主の言葉を待と
う。「すると、彼に次のような主のことばがあった。シドンのツァレハテに行
き・・」必ず、主からの次の言葉、導きが臨む。待ち続けよう。主は、待つ力を養
っていて下さる。

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問題に直面した時、まず自分で動き回らず、じっと主を待とう。主の言葉を待ち、
主の導きを待とう。自分の知恵、判断、思いで動くなら、主を脇に置いたまま、
主を離れてしまう。じっと主を待とう。「すると、次のような主の言葉があっ
た」と、主の導きが臨んで来る。


2011年12月10日(土)

「そこで、ナアマンは・・神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸し た。すると、彼のからだは元どおりになって・・」U列王5:14


アラムの将軍ナアマンは、名誉も地位も人々からの尊敬も得ていたが、深い苦悩
があった。らい病に冒されていた。妻の侍女から預言者エリシャの事を聞き、藁
にもすがる思いで、エリシャを訪ねる。すると、エリシャは、会う事もせず、使
者にヨルダン川で7回、身を洗うようにと伝えさせた。

ナアマンはひどくプライドを傷つけられた。将軍自らが訪ねているのに、会う事
もせず、軽く扱われた事に。ましてやヨルダン川で身を洗えなどとプライドが許
さない。癒しの荘厳な儀式を思い描いていたのか、怒って帰途についた。

自分の思う方法で、事が運ばれるべき、神が答えるべきとの思いだ。自分の思い
通りでなければ不満で、神をも従わせようとする。しかし、そこでナアマンはし
もべの進言を受けた。難しい事を言われたなら、プライドが保てたが、余りにも
簡単で、汚い川で、人目にさらされる状況に耐えられないと。

ナアマンはしもべの言う事に、耳を傾けた。それは、神視点へと向いて行った。
プライドを捨てて、自分の思いも置いて、エリシャの言葉に従った。すると、完
全に癒された。癒しを受け取るために、プライドと自分の思いが邪魔をした。私
たちもどうだろう。今、プライドと自分の考えに固執していないだろうか。大き
な祝福を逃してしまう。へりくだって、従う時、みわざを見る。

・・・・・・・・・・・・・・・・
御言葉に従うことは、へりくだることだ。へりくだり無しに御言葉に従えない。
その通りに行なったナアマンは癒された。御言葉と同時に、自分の思い、経験、
プライドが忍び寄り、従う事を妨げる。へりくだって従う時、大きなわざを見る。


2011年12月09日(金)

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」ルカ8:48


この女性は12年間も出血が止まらない状態で、どんなにか苦しみの中にあった事だろう。12年は長い。律法によると不浄であり、礼拝にも出れず、宗教的にも社会的にも疎外されていた。経済的にも治療に財産を使い果たし、無一文となり、これから先どうすればよいのか、何の望みもなく、絶望であり、ぼろぼろであったろう。ぎりぎりの瀬戸際で、救いを求めていた。

そんな時、主の噂を聞き、せめて主の着物にでも触れば必ず直ると思った。必死であった。病気の身体で、大勢がひしめく中で、どんなにか大変であったろう。しかし諦めず、何とか近づき、触った瞬間、ひどい痛みが直った事を感じた。誰にも知られずに、隠れてその場を去りたかったが、主が「触ったのは誰か」と問われた。

後方で紛れ潜んでいたが、隠しきれないと思い、震えながら進み出た。「イエスの前に出」たのだ。どんなに勇気を奮い起こした事だろう。「すべての民の前で」イエスに触った理由と、癒された次第を話した。自分を卑しめ、こそこそと暗さの中に身を潜めていたのが、主に導かれ、従う事により光の中へと入れられた。

心の内の、今までのあるがままを告白できた。その事によって心も癒された。主は「あなたの信仰が」と信仰を認め「安心して行きなさい」と、もう恐れも怯える事もない、全き平安を下さった。長きに渡って、深く傷ついた心をも癒して下さった。主のもとへ行こう。
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思い煩いや問題の度に、主に一歩近づき、ありのままを余すところなく打ち明けていると「安心して行きなさい」と主が御声をかけて下さる。心の底は何に頼っていたのかと不信仰な自分を示され、また信仰を与えられ感謝して歩める。


2011年12月08日(木)

「それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たあなたの息子のためには、肥えた子牛を・・」ルカ15:30


家出し、行方不明になっていた弟が、無事に戻って来たのだが、兄は父親のようではなかった。家に近づくと、笑い声が聞こえ、パーティの楽しげな様子が見えた。勝手に出て行き、放蕩三昧をして、戻った弟のための宴会などと、納得が行かない。怒りが湧き上がった。実の弟に対して「帰って来たあなたの息子」と冷淡な態度だ。

放蕩した弟の帰還によって、兄の心の奥に潜む思いがあらわになった。家に入ろうともしない兄に、父親が出て来てなだめた。すると、自分がどんなに忠実で正しいかを訴えた。「長年の間、仕え、一度も戒めを破った事はない」と。そして正当に報われていないとの不満。「子山羊一匹貰った事がない」と。しかし「わたしのものは全部お前のものだ」が、父の心だ。「友達と楽しめと」とあり、実は自分も同じように世の快楽を楽しみたかった。

行動にも、言動にも出さずに抑え込んで、外側良いように装っていたが、実は本音は弟と同じだった。弟より、もっと重症であったかも知れない。しかし、父親はそんな兄息子をそのまま受け止め、弟息子と同様に、全く責めも裁きもしていない。その態度は愛と慈しみに満ちていた。兄息子を受け入れ、「おまえはいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と。私たちも兄のようだろうか。しかし神は弟と同様に、無条件の愛で、愛して下さっている。
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兄は御父の近くにいながら最も遠く離れた失われた羊だったのかもしれない。自分の心の底があらわになり新しく御父と出会えたのだろうか。私達も生涯を通して日ごとに新しくされ御父と出会って、出会って、生きて行きたい。


2011年12月07日(水)

「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」ルカ15:20


弟息子は、父親のもとにいるのが窮屈で、自分の思い通りに、好きなように生きたかった。父親に相続財産を要求し、「遠い国に旅立ち」「放蕩して湯水のように財産を使い」「遊女におぼれて身代を食いつぶした」。誰にも邪魔されず、気ままに生きた結果、どうなったか。父親からもらった財産をすべて使い果たした。食べるにも困り、豚の番人をするが、誰一人彼を顧みてくれる者もいなかった。

富がある間は、群がっていた人々も、皆、去ってしまった。誰からの愛も無かった。心身ボロボロになり、すべてを失い、どうしようも無くなった時に、我に返った。飢えと孤独、人生のどん底まで落ちて、惨めな豚小屋で、父のもとに帰る決心をした。人間は、どん底にまで落ちなければ、神を求めないようだ。悔い改めて神に立ち返った時、「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言われ、父なる神は、大喜びされた。

走り寄って、抱き、口づけされた。失った財産の事もいっさい無く、又、放蕩を責めることも全く無かった。一番良い着物、指輪、靴を用意し、豪華なご馳走を作って、息子の帰宅を喜んだ。神に立ち返ることを、神はこんなにも、ただただ喜んで下さる。この世に目が奪われ、神から離れたとしても、いつでも神に立ち返ろう。こんなにも喜んで下さるのだから。
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御父のもとは窮屈で不自由だろうか。良い人間でなければいられない所だろうか。私が正しいから御父は私を愛して下さるのではない。いつでも赦そうとして待っていて下さるお方の愛は一方的に注がれている。


2011年12月06日(火)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」ヤコブ1:22


信仰者にとって、御言葉は大切と聞くので、御言葉を聞こうとするし、喜んで聞く人は多い。うなずきながら聞く。聞く事は嫌では無いので、幾らでも聞く。しかし、聞いた事で、わかった、理解したと勘違いしてしまう。頭の理解だけで、自分がわかったと欺かれ、実行するところまで進まないで、終わってしまう。

ある人が言った「最近初めて気づいた。御言葉を聞く時に、同時に思いが入り込む。『そんな事は無理、出来ない』その思いにより、意識しないままずっと、御言葉を流してしまっていた。否定的な思いにずっと妨害されていて、全く気づかなかった」サタンが肉と一緒になって働いて来る。「はなから無理」と、普段意識もせず、御言葉を読みつつ流してしまっている。

あなたはどうだろう。その時に流さないで「私には出来ませんが、あなたには可能です。従えるよう助けて下さい」と祈る事ができる。"人にはできない事が、神にはできる"実際に、神は御言葉を行なえるように、助けて下さる。聞いた御言葉を実行する時に初めて、頭でなく、身につく。自分が変えられる。
神を経験する。

御言葉を聞く時に、肉の様々な思いにより、流されていないだろうか。又、今、示されている御言葉があるだろうか。その御言葉を実行しよう。語られた御言葉と共に、行なう力が与えられている。その示しに一歩従おう。
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御言葉を行いにより経験したことは大きな力となるのに、出来るはずがない・・との声が聞こえる。神に近づける事を妨害するサタンの声に惑わされず、素直に従おう。


2011年12月05日(月)

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなっ た助けを受けるために、大胆に恵みの御坐に近づこうではありませんか」ヘブル 4:16



新生して以来、私たちは古い性質と新しい性質が、いつも戦っている。霊と肉の
戦いにあり、再臨の時に私達のからだは変えられる。それまで私達に肉の弱さが
ある事を主はご存じだ。この肉体は往々にして、疲れ果てるし、病気にもなる。

主は肉体をとって地上に来られたので、この事をわかって下さっている。主は、
あなたの弱さをご存じだ。良き理解者だ。そして、主のゆえにいつでも恵みの御
坐に行く事ができる。

私達は力と勢いに溢れている時は、主のために働き、主に近いと感じる。逆に弱
さを覚え、無力の時は、主を遠く感じる事が無いだろうか。「お前のような役に
立たない者はだめだ」サタンの声が聞こえて来そうだ。「何度同じ失敗を繰り返
すのか」「成長していない、やっぱりだめだ」その声に乗ってしまうと、ますま
す主から離れる。

御言葉はどう言っているだろう。恵みの御坐に近づける根源は「あわれみを受
け」「恵みをいただいて」とあり、「あわれみ」と「恵み」だ。自分の功績には
いっさいよらない。主からの一方的な愛顧であり、プレゼントだ。主のあわれみ
と恵みがあるので、どんなに破れ果てた状態でも、御前に行ける。

これを信じるなら、「聞いたみことばが信仰によって結びつけられ」どんな状態
でも恵みの御坐に行く。そして新たにされる。御言葉を信じて、絶えず恵みの御
座へ行こう。

・・・・・・・・・・・・・・
肉の性質は、絶えず自分で何とかしようとする。主に頼らない。失敗した時も、
自分でどうにかしようとし、主に頼らないで、ますます主を離れてしまう。あわ
れみを受け、恵みを頂いている。いつも大胆に主の御座に行こう。主の血潮のゆ
えに絶えず受け入れられている。


2011年12月04日(日)

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押し つけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう」ル カ6:38



ある宣教師が、母国からのサポートが、ある時、非常に少なかった。出来る限り
の節約をしたが、決まった支払いもあり、極めて生活が困難になった。必要が与
えられるよう祈り続けていたが、更に状況は厳しくなって来た。

すると、そんな中、ある予定がキャンセルになり、そのための費用が浮いた。
「主よ、感謝します。これが答えだったのですね」と非常に喜んだ。そんな時、
ちょっとした急な入り用で、その費用がきれいに消えてしまった。ひどく落胆し、
「喜んだのに、主のこれはどういうことですか」と御心を尋ねて祈った。

すると、何と献げるように言われたのだ。もう無いのに、しかし確かに主がそう
言われるので、思いきって信仰によって献げた。すると、そのすぐ後、宣教師へ
の指定献金が献げられ、生活のすべての必要額がピッタリ満たされた。主を崇め、
感謝と喜びで満たされた。

イサクは飢饉の時に種を蒔いた。すると百倍の収穫を得た。飢饉の時など、収穫
どころか蒔いた種すら、全部失うのではと不安に襲われるだろう。経済的不安の
ある時に、恐れで献げられない。しかし、信仰によって献げる時に、百倍の収穫
を得る。

恐れて蒔かなければ、収穫も、神を知る喜びも無い。人は蒔いたものを刈り取る。
これに例外は無い。何のために生きているのだろう。貯えるためか、それとも神
の御声に従い、愛であり、全能であり、真理である神を親しく知って行くためだ
ろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・
肉は、与えると減ると思う。受けると増える。肉は貰う方が嬉しい。肉は常に損
得勘定で動く。自分に損か得か。自分に利益が無ければ意味が無い。この価値観
こそが世の、肉の価値観だ。主の価値観は真逆だ。与える事が幸いで、与えるな
ら更に増える。自らの価値観はどうだろう。


2011年12月03日(土)

「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい」ルツ3:18



ルツは神に従い、故郷を離れ、ナオミについて異国の地にやって来た。ナオミは、
そんな嫁ルツの今後について、よく祈り考えていた事だろう。ルツに目をかけて
くれているボアズは親類だ。立派で、誠実な人柄であり、ボアズこそがルツにふ
さわしいと考えた。

ナオミは、ルツに買い戻しを願い、ボアズの足もとに寝るように指示を与えた。
ルツは、姑ナオミの言う通りに従った。ボアズはルツに配慮を持って対応してく
れ、更に近い親戚がいるので、その人が権利を放棄するなら、自分が買い戻すと
応えた。

更に近い親類がいたが、ナオミは必ずボアズがルツを買い戻すこと、それが神の
みこころであり、成就することを信じた。だから、この事が、どうおさまるかわ
かるまで待つようにと、確信を持って言えた。背後に神が働かれることを信じた。
それゆえ、成り行きを見守っているようにと。

私たちも、神に示されたことをして、あとは神が成し遂げて下さることを待つよ
うな、状況に置かれる事がある。ルツはナオミに言われた事を、「私におっしゃ
ることはみないたします」と従順にその通りに従った。だからこそ、あとは神に
全面的に委ねることができた。

安息し、待てば良かった。そして、神は環境を支配し、ボアズが買い戻すように
された。示された事に従い、後は、主が成し遂げて下さるのを待とう。

・・・・・・・・・・・・・・
自分で計画し、自分で成し遂げるのではない。主のご計画があり、主が成し遂げ
られる。祈りの中で、示された事に従おう。「私におっしゃることはみないたし
ます」と。そして「この事がどうおさまるか、待っていよう」。主を待ち望もう。


2011年12月02日(金)

「イエスは彼らをじっと見て言われた『それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます』」マタイ19:26


主のもとに来た青年が、永遠のいのちを受けるために何をすればよいかと尋ねた。主は、十戒の戒めを守るよう教えられた。しかし、そのような事はみな守っていると答えた。すると主は、持ち物を売り払い、貧しい人に与えよと言われた。そうすれば天に宝を積むことになると。その時、青年は顔を曇らせ悲しんで、主のもとを去った。

十戒を守っていると言うが、守れるはずがない。十戒によって、どれだけ頑張っても守れないという事がわかるのであり、自分の罪深さを知る。それゆえ、律法は、私たちをキリストへ導くための養育係となる。又、もし彼が本当に戒めを守っているなら、「隣人をあなた自身のように愛せよ」に従い、すでに言われる前に貧しい人々に施していた。分け与えるなら、主は更に豊かに与えて下さったであろうに。

私達も手中に堅く握り締めるものによって、主から離れてしまう。私達にとっての富は、お金とは限らず、仕事、愛する人、名誉、地位、人からの賞賛、何か大切なものかも知れない。青年は一つ出来る事があった。それは「私にはできません」と主に助けを求める事であった。

人には出来ないが、主にはどんな事でも出来る。握っているものがあるなら、手放す事ができないと告白し、助けを求めよう。従えるよう助けて下さる。明け渡した時に、真の平安と喜びに満たして下さる。
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こんな事が出来る、あんな事もいつかやれると本当の自分を見ないで、主に頼らず無力な歩みをしていないだろうか。自分では出来ない、握って放せないと主に近づき打ち明けてみよう。主の目に映る自分はどんなだろう。


2011年12月01日(木)

「わたしの口から出るわたしのことば・・必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」イザヤ55:11

    
  
私達は、祈ろうと思うが、なかなか難しい。意志が強ければ、祈り続けられるのに、意志が弱いからだめだと思ったりする。しかし、人間の意志の力が物事を実現させるのではない。神の意志が物事を実現させる。だから、神の御心が大切だ。しばしば、主が望んでおられるのではと、自分が思う事を、神の御心と勘違いしてしまう。しかし、成就しないので、いぶかる。

ある人が、これぞ御心と思うが、決してうまく行かなかったと証しした。後にそれは、神の望む事ではなく、自分が、神のためにしたい事だったと気づかされた。自分の望みであった。自分が欲しい神の言葉でなく、神の口から出たことばが成就する。どうすればよいのか。

まず自分自身の意志を明け渡そう。自分の思いが、御心を知ることを妨げる。そして、神の言葉が臨んだなら、その御言葉から目を離さず、握っていよう。そのプロセスの中で経験する。

なかなか実現せずに、どこがどうなっているのか、これが一体どのように展開して行くのか、わけがわからない。遠回りに見えるかも知れないし、時間がかかるかも知れない。

しかし、神の言葉は必ず成就する。その言葉の通りになる。だから、すでに得ている事になる。アブラハムはイサク誕生を25年待った。神の時に、目に見える形で実現する。待っていよう。
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御心がなかなかわからないと自らの経験や人に尋ねてみたりする。しかし神に尋ねなければならない。この道に歩めとの答えがある。確信を握って歩めるのは何と幸いなことだろう。