2012年01月31日(火)

「すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2 

    
                       
ある人が育児の中で、どうしても子供の欠点に目が行き、悪い所を矯正しよう〃とした。又、不足を補ってやりたくて、苦手な分野の習い事をさせる事に力を入れていた。いつも「ぶすっとした態度が改められ。素直な子になるよう。怠けないで勉強するよう。習い事をちゃんとするよう」ああなるように、こうなるようにと祈っていた。

ある時、御霊により気づかされた。子供に「ああなれ、こうなれ」と要求し続けている自分、つまり常に「お前は今のままではダメだ」と言い続けている事だと。子供にすれば、ずうっと自分は不十分。子供を変えよう、〃思い通りにしようとしている自分の自我に気づかされた。変わるきは子供でなく、親の思いを押しつけている自分自身であった。自分が一番の問題児であった。

心から悔い改め、一切家族への要求を止めた。そして、家族に感謝する事を始めた。妻を、子供を、家族が与えられている事の恵み、幸せな家庭がある事を感謝し始めた。そして、この愛する家族を幸せにするために、自分は何ができるかを祈り始めた。すると、家の中の空気が一変した。暖かい雰囲気が溢れ、皆がリラックスできるようになり、家庭がオアシスとされて行った。神の愛が家庭に臨んだ。

人を変えようとする時、そこに裁きと不満、トゲが存在し、愛が消える。しかし、感謝して行く時、そこに温もりと喜びが流れる。冷ややかなものがある時、苛立ちがある時、省みてみよう。相手を変えようとしていないか。変わるべきは、自分だ。
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生涯、自分が変えられて行くことだけが望みだ。神様の御心は私が主の御姿に似た者となること。心の一新によって変えられ続けて行きたい。


2012年01月30日(月)

「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」マタイ11:6


バプテスマのヨハネが、ヘロデ王にヘロデヤをめとるのは不法だと、はっきりと間違っていると指摘、その結果投獄された。ヨハネは正しい事をしたのであり、自らの投獄は理不尽であり、何の罪も犯していない。神は正義なる方、神の御前に正しく、誠実に歩んだのであり、主が、対処して下さるはずと思っていたのではないか。しかし、投獄後、幾日過ぎても何も起こらない。王国を打ち建てられ、王権を取られるのではないのか。牢獄の中で、孤独な状況にいるヨハネの思いは、どんなものであったろう。

それで弟子たちに「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、別の方〜」と問わせた。不信仰というより更に確信を深められたかった。主はその時に、弟子たちに「自分の聞いたり見たりしていることを」、つまり、あなた方が見た「事実」を告げよと言われた。「盲人が見」これは、救い主のしるしであり、明らかな預言の成就だ。そして主の語った言葉やわざが証しであると。主はヨハネを「来るべきエリヤ」「預言者よりすぐれた者」「ヨハネよりすぐれた人はいない」と認め、受け止めておられる。

裁き主をイメージしたヨハネ、主は十字架で贖いをし、罪を赦される救い主、赦し主であられた。私たちも自分の期待する主のイメージがあるかも知れない。ヨハネは直接主に問うた。私たちもわからない時は、そのまま直接主に、祈りにより問うて行こう。必ず霊的理解を助け、手を取って導いて下さる。
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神を信じていますと言いながら、自分の思いや願いにあわせた主をイメージし期待したり、疑問を持ったりと動揺してしまう。目先の事しかわからない私達は、全てをご存知の主に信頼し、導きに従って行こう。


2012年01月29日(日)

彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞 いた」使徒9:4

                            

神のためにと、正義だと信じ、クリスチャンを迫害し、投獄し、殺害に燃えてい
たサウロ。エルサレムだけでは気が済まず、どんどんダマスコまで追いかけた。
その時突然、天からの光が来て、彼は地に倒れた。

そして「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」「町に入りなさい・・告げ
られる」との声を聞く。地面から起きた時、目が見えなくなっていた。倒れた時
に、パウロは御声を聞いた。神が倒されて、御声を聞かせられた。

私たちは全力疾走している時、脇の事は見えない。神は御声をかけられているが、
私たちの側で気づかない。倒れた時、行き詰まった時、失敗した時に立ち止まる。
その時こそが、御声を聞く時だ。

パウロは3日間、目が見えなかった。それまでの価値観、神に対する理解や信仰、
行動が崩れ去った事だろう。打ち砕かれどん底に落とされた。神のための正義だ
と信じきっていた事が、実は恐ろしい罪だと知った。

それ以後、180度変えられたパウロは、何もかもを献げて、生涯主の御声に従
う人に変わった。私たちも時に、立ち止まらせられる。挫折して、行き詰まって、
何もどうにも出来ない状況に陥る。主の御手だ。

主を脇に置いて、自分の力で、自分の思い、自分のプランで突っ走っている時、
主が立ちはだかって下さる。何らかの挫折か、行き詰まりか、問題か。砕かれ、
御声を聞いて、歩む者に変えられる。結果的に大きな祝福とされる。
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パウロは地に倒された。そして主の御声が臨んだ。自分自身も、自己満足で突き
進んでいてわからず、気づかないかも知れない。挫折で、問題で、立ち止まらせ
て下さる事は大きな祝福だ。放っておかれたなら、間違った方向に向かってしま
う。


2012年01月28日(土)

「神のわざがこの人に現われるためです」ヨハネ9:3

 

当時、因果応報の考え方があったようだ。弟子たちの言葉によると、この人が生
まれつき盲目なのは、彼が罪を犯したからか、両親が罪を犯したからかと、勝手
に決めつけている。それに対して主は、彼でも、両親のせいでもない。神のわざ
が、彼に現れるた%8


2012年01月27日(金)

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」イザヤ55:8


信仰生活を長く歩むと、一つの事に気づく。それは信仰人生は、自分の思い通りにはならないという事だ。決して思い通りにならない。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なる」と、主が明確に言われている。自分が思っている事と、主の思いは、かなり異なる。しかし、肉の自分の思い通りになるより、遙かに素晴らしい、神の最善の道が用意されている。

念願の進路、進みたい道が閉ざされるなら、神の意志と受け止めよう。その所で、神のみ思いを尋ね、御心を求めよう。神は、あなたのために、遙かにふさわしい、良い道を備えて下さっている。結果的に、後に、それが最善であったと必ずわかる。病気の癒しを祈って、与えられない時は、その病を受け入れて行く事を学ばされる。様々な難しい対人関係は、良き訓練だ。目の前の相手を、神が置かれている。

周囲がすべて寛容で柔和な人々であれば、自分の本当の姿を知る事もない。又、どこで忍耐を学ぶのだろう。摩擦が生じる相手、イライラする相手、ぶつかる相手が置かれる。それらの人々により、自らの内にある短気、怒り、妬み、憎しみ、高ぶり、プライドがあぶり出される。以前からあったものであり、自分の姿だ。それを逃げても、必ず次の相手が現れる。砕かれ、きよめられるためだ。

強い願いがあり、祈っているがなかなか答えられない時、感触が無い時、「御心は何ですか」と自分の願いでなく、主の御心を尋ねてみよう。思い通りにならない様々を通して自分が変えられ、確かな成長が与えられる。
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クリスチャンの武器は成長だ。思い通りが最善と、自己中心に生きる道もあるだろうが何一つ変わらない。思い通りにならない時がチャンスと神様のご計画を思い、良き訓練と受け止めたい。


2012年01月26日(木)

「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっとあの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに」U列王5:3  

               

引き続き、ナアマンから学ぶに、他人の言葉に聞く耳をもつことの大切さだ。この時、ナアマンが、妻に告げたという召し使いの少女の言う事に、耳を傾けなかったらどうだろう。その後の、らい病からの全き癒し、そして、イスラエルの神が、まことの神であることを知る事もなかった。

又、エリシャの態度に怒って帰ろうとした時、しもべの進言を受け入れなかったらどうだったろう。やはり、癒される事は無かった。妻の言う事を聞かない夫、召使いやしもべの言う事など全く聞かない上司なら、奇跡を見る事はなかった。自分はわかっているとの高ぶった態度でなく、へりくだって、プライドを捨てて周囲に聞くことの大切さを教えられる。そこから神の祝福が流れ入る。

又、捕虜の少女はどうだろう。敵国に捕虜になっているのであり、その敵を憎むのではなく、主人に神を示し、救われる道を提示した。その主への愛と忠実は、ナアマンに、まことの神を知らせるために用いられた。又、私達には、らい病では無いが、妬み、プライド、貪欲、憎しみ・・罪や様々な病がある。

私たちには、ヨルダン川へ行く必要がなく、主の十字架の血潮がある。いつでもどんな時にも血潮によって、赦されきよめられる。らい病が消え、完全に癒されたように、主の血潮は罪を消し、癒しを与える。へりくだって主に拠り頼もう。
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主の福音を伝える態度を学ばされる。どうか主のもとに行き救われて欲しいと思うが、虚しい返事が帰ってくる場合も多い。先に救われた者としてへりくだり喜びと感謝を証できるよう続けて祈っていきたい。


2012年01月25日(水)

「私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに」U列王5:11 


王から重んじられ、勇士であり、戦勝〃で名を馳せていた将軍ナアマン。名誉も地位も持っていたが、彼にはどうにもできない苦悩があった。らい病に冒されていた。らい病は回復する見込みはなく、悪化の一途であり、どんな犠牲を払っても癒されたい。そんな時に、捕虜のユダヤ人である若い娘から、治してくれる預言者がいる事を聞いた。

エリシャは、ナアマンを訪ねるが、ナアマンは出て来る事もせず、使いの者にヨルダン川で7度身を洗うようにと。そうすれば癒されると告げさせる。ナアマンは憤り、立ち去る。エリシャが会いもしない事、手を置いて祈りの儀式が無かった事、ヨルダン川で身を浸すなどとんでもないと不満爆発だった。ナアマンのプライドがひどく傷ついた。エリシャに軽くあしらわれた事に、又、汚い川で皆の前で身を浸すなど、屈辱であった。そして、自分の思いと違う想定外の方法を、受け入れられなかった。

しかし、エリシャは癒される方法を明確に示している。しかるにナアマンにとっては、プライドや自分の思いと違う事の方が重要になっている。そのところに、しもべが進言した。去ろうとしていたナアマンは聞く耳を持ち、ヨルダン川で言われた通りにした。すると完全に癒された。私達も「プライド」や「自分の思い」が、主に従う事を妨げていないだろうか。大きな祝福を逃がしてしまう。
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神様は、いつも砕かれる者を癒され聖められる。よくなりたいかと御声をかけて下さる声に、従えない自我を明け渡し、祝福を受けよう。


2012年01月24日(火)

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです」マルコ4:20


種は御言葉で、土地は私たちの心だ。全く同じ神の言葉を聞いて、豊かに実を実らせる人々と、益を受けない人々がいる。心の問題だと御言葉は言う。私たちの心の態度はどうだろう。御言葉を聞く事は好きで、拒否する気は全く無いので、自分は御言葉をよく聞いていると思っている。幾らでも聞くが、右から左に、たいして心に留めないで、傍観者的に聞く。自分の事として聞かず、他人事なので心に刺さる事もなく、悔い改めに至る事がない。

その時、悪魔が種を奪って行くので、何も聞かなかったのと同じになる。心に何の痕跡も残さない。又、岩地に落ちるとは、感情的に深く感動し涙を流して聞く。しかし、心の中には、強固な自我という岩が存在し、それが邪魔をするので、根ざして行けない。それで、迫害や試練が来ると枯れてしまう。御言葉を涙して聞くだけでは、根ざす事ができない。

いばらは、御言葉を塞ぐ。せっかく伸びようとする芽を、塞いで枯らす。世の楽しみ、富への執着は、せっかく芽生えた信仰を塞ぐ。成長させない。心にしっかり握っているもの、心で愛する偶像は、神から私たちを離してしまう。自分は大丈夫と思っているが、いつしか一番大切なものを見失って行く。

信仰を保ちたければ、自らの状態をよく点検する事は大切だ。聞いた御声に従おう。主の愛から出ている御声だ。その時、必ず実を結んで行く。信仰生活で「実を結」んでいるなら、御言葉を正しく聞いたという事になる。
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自分の心の状態はどうだろう。御言葉の芽が成長し実を結ぶのを妨げているものは何だろう。聞いた御言葉を素直に自分の生活に適応させて行こう。従おうとするから、結実を妨げるものもまた見え、祈れる。


2012年01月23日(月)

「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って・・わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」ヨシュア1:2 


約束の地を、民に継がせること、これがヨシュアに与えられた使命であった。「強くあれ、雄々しくあれ」が、ヨシュアに求められていることだった。なぜなら、主が共におられ、先頭に立ち、戦い、導いて下さるからだ。ヨシュアの力で戦うのではない。力はすべて主から来るゆえ「強くあれ、雄々しくあれ」と。ヨシュアは偉大な指導者モーセをずっと見て来た。次は、自分が指導者として立つ段になり、どんなに戸惑い、不安であった事だろう。自分に出来るのだろうか。

しかし、求められているのは、ヨシュアの才能や資質ではない。主が、ヨシュアを選ばれたのだから。主の選びがすべてだ。必要な力、知恵、判断、すべて主から来る。「わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいよう」この約束があるから、「強く、雄々しくあれ」と。主は事を行なわれる時に、まず人を召し出される。12弟子もそうだった。主は深い祈りによって、召し出され、その弟子たちに宣教に必要な力を与えられた。

彼らが宣教の資質と能力を持っていたから、選ばれたのではない。能力ゆえ選ばれたのではなく、主の御心による選びが先で、必要な能力は、添えて与えられる。今、もしあなたに、ヨシュアのように何かの導きが与えられ、不安と恐れがあるなら、主が選んで下さったことに立ち、必要な力はすべて与えられる事を信じて、従おう。
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主が選び、主がしっかりと私達を捉えて下さっているから必ず前進できる。示された導きに知恵がなければ知恵を、力がなければ力を、足りないものを主に求めよう。新しい力が生まれる。


2012年01月22日(日)

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」箴言 4:23                         


誰が自分の心を見張るのか。誰かが見張ってくれるのだろうか。そうではない、
自分が自分の心をしっかり見張らねばならない。自由意志が与えられており、神
もその自由意志を支配されない。あなたの心の態度は、あなたの自由な選択の結
果だ。神はあなたの態度をコントロール出来ないし、されない。どこまでも自由
であり、自由意志を尊重される。

次々と問題は起きる。対人関係の悩みが出て来る。環境を変えれば何とかなる、
職場を変われば・・、相手が変われば・・と思う。又、困難な事態が起きると、時間
を置けば何とかなる・・、環境、相手、時間の問題にしようとするが、そうではな
く、最大の問題は自分の心の態度だ。

苦難の人ヨセフは妬みにより、エジプトに売り飛ばされ、苛酷な苦しみに会う。
濡れ衣により投獄されるが、しかし、模範囚となり、監獄長に認められる。「主
はヨセフと共におられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた」。

神が働いてそのようにされた。しかし、そこに、ヨセフの神の御前に正しい態度
があった。環境、状況がどんなに悲惨であろうと、反抗的になるのでなく、無気
力になるのでなく、心屈折させず、真っ直ぐに神を見て行った。ヨセフは自らの
心を歪ませずに、ガードした。私たちも自分の心を見張っていよう。

・・・・・・・・・・・・・
普段、目に見える状況ばかりに目が向き、心を見張る事を忘れてしまう。心には
無防備なので、何でもかんでも入れる事を許してしまっている。いのちの泉をふ
さぐ否定的、不信仰な思いは阻止し捨て、愛や喜びが湧く泉を大切に見張ってい
よう。


2012年01月21日(土)

「だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているか らです」ヨハネ11:9



ラザロが病気になったとの知らせが、マルタ姉妹から入った。しかし、主は動か
れず、ラザロが死んでしまった後に、主は「ユダヤに行こう」と言われた。する
と弟子たちは、今、ユダヤに行くと石打ちに会い、殺されてしまうと。

その時に主は「昼間歩けばつまずくことはない」と言われた。わたしに従ってさ
えいれば大丈夫だと。状況の問題でなく、主の問題であり、御心の中にあるかど
うかが重要と。
つまり、主に従った歩み=昼間歩くことであり、従わない事が、夜歩くことだと。
「夜、歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです」主から目を離し
た途端、私たちは、すぐにつまずいてしまう。

この苦しみ、この悲しみは、「何で?」「どうして?」疑いや不安、恐れに襲わ
れる。暗闇に入り、つまずき倒れてしまう。しかし、主を見上げているなら、私
たちの内の光は輝き、明るい。どんなに暗い中でも、困難な中でも、前に歩んで
行ける。決してつまずくことがない。なぜなら、光を見ているからであり、光が
あるので歩める。

そして、主に従い、御心に従って行くと、私たちの内にいのちの光が輝く。状況
は最悪でも、心に御霊の喜びがあるので、前進して行ける。罪の性質は、暗闇を
愛してしまう。肉は自分の欲望を遂げ、思い通りにしたい。

今、岐路にいるなら、神の御 心を選択しよう。どんなに困難に見えても、「昼
間歩けばつまずくことはない」進んで行ける。神を見ているからだ。

・・・・・・・・・・・・
肉の性質は、主に従うより、自分の思い通りにしたい。好きなように生きて行き
たい。しかし、そこは暗闇だ。つまずいてしまう。主に従い、御心を歩む時、そ
こに光があり、全部を理解はできなくても平安がある。主の愛がある。


2012年01月20日(金)

「あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし・・彼はわたしの名のために一つの家を建て」Uサムエル7:12


ダビデは、主のためにと神殿建設を願った。しかし、その願いは退けられ、彼の子供が神殿建設を果たすとの御心が示された。「あなたの身から出る世継ぎの子を起こし、彼の王国を確立させる」、彼が家を建てると。次世代に委ねられており、彼の子がその王座を堅く立てると。ダビデが神殿建設をしたかったが、主からの答えは明確な「ノー」だった。時に、私たちも、このような状況に出会う。

自分の切なる願いが、はっきりと「ノー」と言われた時どうだろう。二つの態度が取れる。一つは、思い通りにならない事に、失望落胆して、やる気を失い、又、いじけてしまう。もう一つは、「ノー」を、主からのものと受け入れ、では、自分の思いでなく、主の御心が成し遂げられるために、自分はどう動けばよいのか、何をすべきかを考える。

ダビデは、主からの「ノー」を受け入れ、息子ソロモンが建設に当たるとの御心を知り、そのための準備に回った。これがダビデの信仰であり、素晴らしさであった。政治的、経済的安定がなければ、神殿建設は不可能だ。ダビデは諸外国の敵と戦い、政治的安定の基盤を築いて行った。「主は、行く先々で勝利を与えられた」御心に従うダビデに、主が連勝を与えられた。そして次々の膨大な金銀の戦勝品を、建設資金に献げた。自分の道が閉ざされた時、ダビデにならおう。主はすでに、自らの道と大きな祝福を備えて下さっている。
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「ノー」が神様からの答えだと受け取れることは大きな祝福だ。最善の道、神様のご計画は確かに別にあるのだから。日々の様々なことにいつも選択がある。御霊に歩ませて下さいと祈り、耳をすましていたい。


2012年01月19日(木)

「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」詩篇119:57


主に従うためには、御心に従おうとの意識的、選択が必要だ。オートマチックではない。没人格、没個性になるわけではない。足が勝手に動いて行くのではない。意識して、御霊の導きの方を選択し、御霊に拠り頼んで行かなくてはならない。主に拠り頼む必要がある。神が、勝手に私たちを操って従わされるのではない。それなら操り人形であり、ロボットだ。

また、神が代わりに、私たちの意志を無視して、されることもない。決して、私たちの意志を侵害される事はない。詩編記者は自分の道を顧みた。私たちはどうだろう。日々の生活を、自分自身を顧みることは大切だ。日々の忙しさに、流されてしまっているだろうか。主との交わりから遠ざかってしまっているか。何かの示しをなおざりにし、引き延ばし、ぐずぐずしているか。

記者は、主のさとしの方へ「足を向け」た。祈ったのでなく、実際に行動した。今、はっきりと、主の御心がわかっているなら、自分の足を向ける事、具体的に従う事が大切だ。実行しよう。「急いで、ためらわずに」とあるように、ぐずぐずしていると、必ず実行できなくなってしまう。いつしか、御霊の促しが消えてしまう。大きな祝福を逃してしまう。今日、足を向けて、主の仰せを実行しよう。
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主のさとしがわかっているのにぐずぐずしているだろうか。成すべきことがハッキリしているなら迷わず意志を向けよう。次ぎの一歩、その次の一歩は今は見えなくても止まっていてはいけない。恐れず実行しよう。


2012年01月18日(水)

「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前には、だれが立ちはだかることができよう」箴言27:4


憤りや怒りも、かなり悲惨だが、妬みは誰もどうにも出来ない、手に負えないものと言っている。妬みはそれほどの、強烈な破壊的力を持つものだ。そして、それは誰の心にもあり、又、自分の内にありながら、気づいていない厄介なものだ。カインは献げ物で、アベルを妬み、殺害にまで至った。ヨセフは父親の偏愛により、兄弟たちの激しい妬みを買った。サウルは、女たちから賞賛を受けるダビデを妬み、それは狂気へと高じて行った。

兄息子は、放蕩三昧をして尚も父から愛情もって迎えられる弟を妬み、怒りで震えた。主は祭司長たちに妬まれ、妬みのゆえに引き渡された。ぶどう園の早朝の労働者も5時の労働者を妬んだ。「あらゆる労苦と仕事の成功は、人間同士の妬みによる」とある。妬みは強烈なエネルギーとなり、様々な分野に成功を収めさせる。しかし、それは虚しいと。

あなた自身のあの行動、この言動、その動機に「妬み」はなかったか。隠れた競争心、張り合いが見え隠れしないか。その「妬み」はどこから来ているのか。心よく探り、主に取り去って頂くよう、祈ろう。祈りは答えられる。祈るなら、主は取り去って下さる。そして、主を見上げ、神の愛と慈しみ、賜物が、自分にも溢れるばかりに注がれていることに、目が開かれ、気づかせて下さる。御霊によって、妬みから解き放たれて行く。
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主を十字架につけたのも激しい妬みからだ。相手が正しく、麗しく、良ければ良いほど妬むから解決は自分にしかない。妬みを覚えたらすぐに認めて、大きな罪を犯す前に主に渡そう。


2012年01月17日(火)

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから」詩編143:10


神の導きを求める時に、一番大事な事が、まず自分の意志を、神に明け渡すことだ。これがネックになっていて、神の導きを求めるが、なかなかわからない。自分の意志が決まっているなら、まず、示されたとしても、自分の心が受け入れない。自分の思いと異なるものは、排除してしまう。無意識にそうしてしまうので、気づかない。白でも、黒でも、右でも、左でも、自分の思いでなく、主の御心に従いますと、明け渡す時、問題は解決して、前に進む。

心がその状態になった時、祈りの中で神の御声に耳を澄ましていると、神の御声が聞こえて来る。それはデボーションであったり、礼拝メッセージであったり、学び会の時であったり、心に臨んで来る。導きが、御言葉に矛盾する事は、決してない。そして、次に状況に目を留める。環境を通して導かれる。例えば、受験や就職試験で、不合格なら、はっきり御心ではない。他に更にふさわしい御心の道が備えられている。

目の前で、門を、開き閉じしながら、神は導かれる。そして、祈り続けて、心に平安があるかどうかを見る。一抹の不安があるなら、事を急がないで、更に祈り続ける方が良い。その道が御心なら、不安を取り去り、平安を与えて下さる。御言葉、心の平安、開かれた環境、この三つが一直線に揃ったなら、ゴーサインだ。その時は、前進すべきだ。
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神様の導きがわかるまで、心も環境も整えられるまで、答えを急がず祈り続けよう。行く道も退くべき道も、神様の確信を受けとってからだ。迷わずに歩める道があるとはなんと力強いことだろう。


2012年01月16日(月)

「全地はあなたの前にあるではないか。・・もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」創世記13:9


アブラハムは、飢饉に会い、肉の知恵、手段によりエジプトに下った。そこで妻を妹と偽り、危険な目に会った。アブラハムは失敗から学んだ事だろう。再びベテルに来て、祭壇を築き主の御名によって祈った。ロトとは、互いの所有物が増え過ぎて同行困難となり別れる時が来た。

アブラハムハは全所有権を手放して、ロトの前に置き、まずロトに好きな所を選ばせた。ロトは、これだけの繁栄に浴した叔父への恩、目上の者への敬意、そういったものもなく、どこが自分に得で、より有利かで頭が一杯だった。見た目で欲で判断し、肥沃な潤っている地を選んだ。祈る事も、神の御心を求める事もなく、自分で選んだ地は、結果的に破滅の地であった。ロトはすべてを失った。

しかし、その地を選び取ったのは、ロト自身であった。自らの選択であった。全所有権を神に明け渡したアブラハムは、結局、全地を所有することになった。私たちの選択はどうだろう。選択のその時に、神を見上げ、神の御心を求める事を、普段から培っておく必要がある。ロトの目の前には、世の麗しい繁栄が広がっていた。アブラハムの目の前には、神と神の約束が広がっていた。私たちの目の前には何が広がっていて、何を見ているだろうか。
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目には素晴らしく見えても、そこが御心の中心でなければ何の値打もない。頭ではよくわかっていても、物質的な利があれば、その選択は揺らいでしまう。それは自分自身の選択か、御心をあおいでのことか、よく祈り吟味して進もう。


2012年01月15日(日)

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ 3:27


ヨハネの弟子は、今まで師のヨハネにあった、皆の関心と人気が主イエスに向か
った事をひどく妬んだ。師びいきのゆえだ。しかし、ヨハネは違った。「人は天
から与えられるのでなければ、何も受けることはできない」と、すべての主権が
神にあることを認めていた。

神が与えて下さるものを受けるだけだと。他の人にもっと人気と関心が集まるな
ら、それも主のなさる事であり、自分がどうこう言う事ではない。ヨハネは自分
に与えられた場所、地位、立場、能力をわきまえ、すべてにおいて満足していた。
「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」。

私たちはどうだろう。誰かが成功すれば、褒められれば、業績を上げたなら・・心
がさわつくだろうか。与えられた境遇、地位、立場、能力に、主を認めて、受け
入れる時、そして、それに感謝し、満足する時、私たちの心は、平安に守られる。

「あなたの行く所、どこにおいても主を認めよ」あれが無い、これが無い、ああ
であれば、こうであれば良いのに・・と、今の境遇に不満一杯だろうか。視点を天
に向け、神に置き換えよう。神が与えて下さった境遇であり、そこにおいて、主
からの使命があり、豊かな祝福が備えられている。

主を認めて行く時、見方が変わる。そこに御霊の働きがあり、不満が感謝に変え
られ、与えられているものを感謝し、満足できる。その時、どのような境遇であ
れ、自分自身には幸福感がある。何と幸いだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・
人間的に見るなら、あれが無い、これが無いだが、そこに主を仰ぎ、主の視点か
ら見て、主がそのようにしておられると受け取る時、自分が変わる。心が変えら
れる。そこに信仰があり、御霊の働きがあるので平安が来る。満足が来る。


2012年01月14日(土)

「私の時は、御手の中にあります」詩篇31:15



主は完璧なスケジュールを持っておられる。すべての「時」が主の支配の内であ
るので、人生の喜び、悲しみ、苦しみ・・「何事にも定まった時期があり」それぞ
れの「時」をしっかり受け入れて、生きて行く事が大切だ。それこそが成長とさ
れる。

ダビデは出口も見えないような「壊れた器のようになり」「命を取ろうと図ら
れ」「四方八方みな恐怖」という苦難の時に、この時が、神の「御手の中」にあ
る事を見た。そして、これらは、神の「時」に導かれ回復して行った。

ヨセフも、彼の「時」が来る事を、予め夢で見せられていたが、紆余曲折により、
様々な「時」を通った。兄達に妬まれエジプトに売られ、主人の信頼を得るが、
その妻からの濡れ衣により投獄される。そこで、よく仕え、模範囚となり、その
中で献酌官長の夢を解き明かし、今こそ出獄の「時」と思いきや、更に、2年の
「時」を忍耐し、待たねばならなかった。

やがて、王の信任を得、総理大臣に任命されることになる。ついに、神が予め示
しておられたヨセフの「時」が成就する。そして、神の定めた「時」は、誰も、
何ものも阻止することができない。

私たちの「時」も、主の御手の中にある。それは愛と慈しみの御手だ。主の約束
を、まだか〃と待ち望んでいるだろうか。すでに「時」は定められている。焦ら
ず、主を信頼し続けていよう。

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状況だけを見ると、主から目がそれるので、思い煩いと不安だ。しかし、主を仰
ぐと、約束実現の時は「主の御手の中にある」。何と感謝で平安な事だろう。じ
っと待ち望む時が無ければ、信仰も忍耐も養われようがない。待つ時も、すべて
の時が幸いな「御手の中にある時」だ。


2012年01月13日(金)

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」マタイ19:26


主のもとに、一人の青年が来た。資産家であり、名誉も地位もあり、人々からの尊敬も受けていた。律法を守ろうとし、真面目に生きて来た。しかし、何かが足らなかった。すべてを持っているのに、心に満たしたが無かった。外見幸せを絵に描いたような彼だったが、その心には虚しさがあった。そのため、永遠のいのちを得るために何をすればよいかと、主に問うた。

何もかも持っているのに、何かが足らない。主は十戒の戒めを教えられた。しかし、戒めは守っている、何がまだ必要なのかと答えた。すると主は、持ち物を売り払い、貧しい人に与えよと言われた。自分の富、自分の力、自分の思い、自分のプライド、そういうものを捨てて、わたしに従えと。すると青年は顔を曇らせ悲しんで主のもとを去った。

「悲しん」でとあり、怒ったのではなく、反発したのでもなく、そう出来たらよいだろうが、自分には出来ないことがわかっていた。肉には強い力があり、捨てることができない。富も、名誉も、地位も、自分の力も、プライドも決して捨てることができない。どうにもできない。主はそれをご存じだ。「それは人にはできないことです」。

自我は強い。しかし、主には救いがある。「神にはどんなことでもできます」。主に求める時、主が従えるようにして下さる。青年は主のもとを去ったが、私たちは主に「できません。助けて下さい」と求めよう。
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自分だけを見ていたら悲しんで立ち去るしかない私達だが、主がおられる。主に助けられたなら、自分の思いをはるかに越えて前進できる。私には出来なくても主がおられる。今日も喜んで歩んでいこう。


2012年01月12日(木)

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」マタイ14:27


弟子たちは、湖で向かい風に漕ぎあぐねて、立ち往生、悪戦苦闘していた。困難のゆえに、前に進めずに、四苦八苦している状況だ。私たちも、悩みや問題に、どうしてよいかわからず、方策尽きて、行き詰まってしまう。主は「ひとりで山にのぼられ」弟子たちのために祈っておられた。いつも私たちのために執りなしていて下さる。そして、パニックになっている「彼らのところへ行かれ」、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と御声をかけられた。

私たちも恐れでいっぱいだ。目の前の状況を恐れ、人を恐れ、将来の事を恐れ・・そんな私たちにも御声をかけて下さっている。「恐れることはない」。なぜ、恐れるのだろう。それは、常に変わることなくともにいて下さる、主を見失ってしまうからだ。一緒にいて下さるのにわからない。凄まじい状況に飲み込まれると、状況しか見えない。神が見えなくなる。心騒がせ、おじ惑ってしまう。

今、目の前の厳しい状況に、不安と恐れでいっぱいだろうか。思い煩いしかないだろうか。主は「わたしがともにいる」と、「恐れるな」と言っておられる。主が舟に乗り込まれた途端、風が止んだ。状況でなく、主を見て、御言葉を心に受け取る時、心の嵐がおさまり、心に平安が臨む。
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誰もが恐れや不安で思い煩うが私達には「しっかりしなさい。わたしだ。」と言われる方を知っている。恐れや思い煩いをそのまま祈りに変えよう。必ず平安が臨む。


2012年01月11日(水)

「主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように」ルツ2:12

ユダの地に飢饉が到来し、エリメレクと妻ナオミはモアブの地に移住した。夫のエリメレクはそこで亡くなり、二人の息子、マフロンとキルヨンはモアブの女性と結婚した。それがオルパとルツだった。ナオミはほっと安堵したのも束の間、その二人の息子も亡くなってしまった。異国の地で、ナオミは、嫁ルツとオルパの三人で残された。ナオミは故郷に帰る決心をする。

最初は連れて帰ろうとするが、二人の事を思い、モアブの実家に帰るよう勧める。だが、ルツのどこまでも堅い決心は変わらず、姑ナオミについて行く。ルツにとれば、ユダは異国の、見知らぬ地であり、異教のモアブ人であり、どんなに厳しい状況だったろう。しかし、ルツの決心は揺るがなかった。それは、まことの神に従う決心であった。

この先の事は全くわからなかったけれど、神が最善をして下さると信じ、ナオミと生きて行こうとの決断だった。この世では、無病息災、商売繁盛、家内安全・・安全のための宗教だ。しかし、この時、ルツは苦難がわかっていて、神に従う道を選択した。神をどんなにお喜ばせした事だろう。「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」。

ルツは、この後の人生、大きな祝福に入れられる事になる。ボアズとの結婚が備えられており、子供が与えられ、そのひ孫はダビデであり、ルツ自身もイエス・キリストの系図の中に名を残すことになる。今、目の前に選択を迫られていたら、神の道を選ぼう。豊かな報いがある。
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ただナオミの神を信じて異国に付き従って行ったルツに神様は最善をして下さった。先は見えなく不安であっても、真実の神の元にいることが安全だ。ひとつひとつ背後で神がすべてを動かし導いて下さる。


2012年01月10日(火)

「というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである」Uコリント12:9


み言葉の言う「弱さ」と、この世の言う「弱さ」は違う。前者は、自分の限界を知り、認めているということであり、後者は、強さが善であり、弱さは悪という価値観だ。この世界は比較の中にあるので、人は比較の中で生きている。人より仕事ができない、勉強ができない、運動ができない、テキパキと処理できない、対人関係がうまくできない、そんな弱さは悪だ。

この世は競争社会ゆえ、それなら負け組になる。そのようなこの世の価値観の影響を受けると、できない自分、だめな自分、人の持つ幸せを持たない自分、人より劣る自分は敗北者となる。そんな自分を受け入れることができず、認めることができない。自分が自分を裁き、受け入れる事ができず、認められない。だから人も認めることができない。

又、自分の弱さが悪であり、人に受け入れて貰えないと思ってしまう。それゆえ、人に弱さを隠す。競争なので、弱さを見せると、負けになる。尊敬を失い、自分の価値が下がる、だから絶対に見せられない。自分で自分を縛り、窮屈にし、がんじがらめにしている。

しかし、御霊の世界は違う。神の力は「弱さ」の内にこそ、完全に現される。神の愛や、力や、恵み、神の支えや、助け、それらを弱さの中で体験する。身をもって知る。自分の弱さを認める時、御霊の自由の中に入れられ、解放される。
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自分の限界を認め、すべての助けは神から来るとの希望があるのが私達の強さだ。強さの源が周囲の人と違うので人と比べることは出来ない。弱さや無力は負ではないと現状の自分を認めてあげよう。そこから出発しよう。


2012年01月09日(月)

「私はキリストとともに十字架につけられました」ガラテヤ2:20


私たちは新生し、新しい性質を持つが、同時に古い肉の性質もある。この古い性質はこの世に生きている間、ずっと存在する。裁く思い、妬み、敵対心、怒り、思い煩い、争い、怠惰・・罪の性質だ。しかし、同時に、神に従おうとする新しい性質もある。私たちは「貪るな」と言われると、貪ってしまう。禁止されると、返って欲望が湧き上がる。「〜してはならない」「〜するな」と抑えつけると、返って肉が暴れ、ますますがんじがらめになり、罪を犯してしまう。

ある人が、玄関先の植木鉢が盗まれて困るので、「鉢を盗るな!」と貼り紙をすると、それが更に盗まれる事になったと。とうとう紙をはずした。何も考えていなかったのに、盗るなと言われれば、欲望が目を覚ます。罪の性質だ。これは抑えると更に暴れるので、誰もどうにも出来ない。そのために、主が十字架で命を捨てて下さった。

十字架は、罪の赦しのためであると同時に、この罪の性質を持つ古い人を、キリストと共に十字架につけるためであった。ここに救いがあり、「古い人がキリストとともに十字架につけられた」「自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」。この事実を信じ、御言葉に立って歩む時、自分が変えられて行くことを発見する。愛、喜び、平安・・の御霊の実を結んで行く。
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私は罪に無力でも、すでに主が古い私を十字架につけて下さっている。ネガティブな声に負けそうなとき、「古い私は十字架につけられている」そのために主の十字架があると、私ではなく主に信頼し勝利して行きたい。


2012年01月08日(日)

「だれでも、神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神か ら出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」ヨハネ7:17


             
神のみこころを知るために、神の御声に耳を澄まして、御声を聞いて従って行く
のが、信仰生活だ。しかし、神の御声が聞こえなくなる事がある。なぜ聞こえな
いのか。そこに強い自分の思いがあり、自分の思いで一杯な時は、神の御声が聞
こえない。御声を自分が妨げてしまう。

今、神の御声が聞こえないなら、自分の強い思いが無いか、心探ってみよう。又、
神の御心がわかっても、自分のプランで、心が一杯な時は、神の御声に従えない。
私たちは、祈りの中で、自由に自分の気持ちを、主に告げるべきだ。詩編記者は
怒り、悲しみ、苦しみ、嘆き、何もかもを、気持ちを主にぶつけている。その中
で、導かれて行く。

又、心の願いを告げよと言われている。願いは神に告げるべきだ。それが御心と
一致するなら、叶えられる。しかし、すべてが叶えられるのではない。神はご自
身の思いを持たれていて、それが私たちの願いと一致するとは限らない。その時
は、自分の思いよりも遙かに高い神の思いがある事を受け入れて行く時だ。

主がゲッセマネで、「わたしの願いではなく、みこころのとおりに」と祈られ、
御心を受け入れて行かれたように。自分の思いを捨てて、神のみ思いに従うなら、
大きな祝福にあずかる。御心に、自分の計画を捨てて従う時、主ご自身を知って
行き、主との関係が深められて行く。

・・・・・・・・・・・・・・
私たちは自由に願って良いが、すべてが叶えられるのでなく、神の御心だけが成
る。どんなに強い願いでも成らない事を通して、自分の願いを主の御心に合わせ
て行くことを学んで行く。そして、その御心が実は自分に最善であることを知る。


2012年01月07日(土)

「あなたがたの兄弟たちと戦ってはならない・・わたしがこうなるようにしむけた のだから」U歴代11:4


レハベアムはユダとベニヤミンの戦闘員18万人を集め、王国を取り戻すために
イスラエルと戦おうとした。そこに、神の人シマヤに主からの言葉があった。
「上って行くな。あなたがたの兄弟たちと戦ってはならない。おのおの自分の家
に帰れ。わたしがこうなるようにしているのだから」と。

イスラエルがダビデの家にそむいたのは、神の支配の下のことであると。それで、
人々は主の言葉に聞き従い、北王国への行軍を中止して引き返した。「わたしが
こうなるようにしむけた」。神から出たことであった。

今、あなたに問題が起きているだろうか。「わたしがこうなるようにしむけた」。
「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」神から来たも
のとして、しっかり受け入れよう。その問題が大きな祝福とされて行く。

神を無視して立ち向かい、戦って行くなら、更なる問題と混乱を引き起こし、秩
序を壊し、自分も大きな痛手を負う。今もし、厳しい試練にあるなら、それも
「わたしがしむけたのだから」との主の御心と受け止めよう。

私たちの益と祝福と成長のための訓練だ。反発や反抗するなら、逆方向に向かっ
てしまい、せっかくの祝福を受け損なってしまう。試練として、しっかり受け入
れる時、学びを得て、主を知り、自分を知り、成長して行ける。

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思い通りでない状況に、何とか自分の思いを進めようとするが、うまく行かない。
平安も無い。主の主権があり、「わたしがこうなるようにしむけた」との御心を
受け入れよう。受け入れられなければ、そうできるように祈ろう。


2012年01月06日(金)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6


対人関係に悩まされているだろうか。人生の悩みの多くの部分が対人関係だと言われている。近隣や職場に、難しい相手がいて思い悩み、振り回される。今、現に悩みの対人関係があるだろうか。目の前のこの問題は、運が悪かったのでなく、サタンにほんろうされているのではなく、神から来ている。まず、不運を嘆くのではなく、環境さえ変わればと思うのではなく、この問題に神を認めよう。

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」の通りだ。「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。紛れもなく、神が、目の前に問題の人を置かれている。それはあなたの祝福のためだ。主は目的と計画と意図をもって、あなたの前にその人を置かれた。沢山の事を学ばせて下さり、自分自身を変えて下さる。

ある人は、お節介な隣人が苦痛でたまらなかった。頼みもしないのに世話を焼かれる。そう思う自分も嫌で、自己嫌悪に陥ってしまう。その事をずっと祈り続けていた。ある時、とうとうキレて、取り返しのつかない言葉が爆発する瞬間、「神様!」と叫んだ。拠りすがった。その時、口から勝手に言葉が出た。「すみません。いつも色々して頂いて」。自分で驚いた。相手と良い関係になってしまい、相手が相談事を持って来たので、更に驚いた。主のみわざだった。今の状況に主を認めて、祈って行こう。主は計画と意図を持っておられる。大きな祝福が備えられている。
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主にはご計画があり今日もその問題の中におられる。ストレスを感じるのは何故か、またどう動けばいいのか、心が騒ぐ様々な局面で主に祈り尋ねて行こう。そして主のご計画の通りに成長をしていきたい。


2012年01月05日(木)

「主の山の上には備えがある」創世記22:14



アブラハムは、神の約束であるイサクを得るために、25年待ち続けた。待ちに待った。イサクを得たのは、アブラハム100歳、サラ90歳の時だった。長い〃忍耐の末だ。しかし、彼らも人間であり、私たちと同じ弱さを持ち、数々の失敗があった。余りにも子供を授かる気配が無いので、当時の習慣であった事もあり、女奴隷ハガルにより、イシマエルを産み出してしまった。しかし、アブラハムはヘブル11章で、信仰の人として名を連ね、賞賛を受けている。

愛するひとり子イサクを献げるようにという大きな試練が臨んだ時に、「翌朝早く」とあり、アブラハムは、従順に従った。その彼に神は「あなたが、このことをなし、あなたの子、ひとり子を惜しまなかったから、確かにあなたを大いに祝福し」と神から大いなる祝福を受けた。だが、非常に厳しい試みであった。25年も待った最愛の我が子だ。そして、このイサクから子孫が大いに増え広がる約束はどうなるのか。

イサクに「いけにえの羊はどこに」と聞いた時に、彼は「神が備えて下さる」と答えた。彼は全く神を信頼した。しかし、いよいよイサクをいけにえとし、刀を振り下ろすまさにその瞬間に、制止された。そして、そこには代わりの羊が用意されていた。これは彼も知らなかった事だ。私たちも先は見えず、明日の事はわからない。しかし、主はご存じだ。一歩〃この主に信頼して歩む時、絶えず「主の山の上に備え」を経験して行く。
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主がせよと言われる事がはっきりと示されているなら、疑いや恐れを信仰に変えて一歩従おう。主の山に日ごとの求めは豊かに備わっていて欠けは無い。主の祝福主の備えを見よう。


2012年01月04日(水)

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」箴言16:9


私たちは、自分の道を思い巡らし、神の御心を探り求めながら、プランを立てる。そして、行き当たりばったり、いい加減にではなく、しっかりと段取りし、計画実現のために行動して行く。それは神の喜ばれることだ。しかし、私たちは、御心を祈り求めて、これが最善と計画を練るが、尚かつ、その背後の主導権は、神にあるということだ。

だから、その計画を神に委ねておれば良い。その歩みを確かにするのは主であるから。自らの歩みを振り返る時、どうだろう。進路について、自分はこの道こそが最善では、と考えるが、時に、全く想定外の道に導かれることがある。ある人は、大学受験において、第一志望が神の御心と思っていたが、思いに反し、その門は閉ざされ、第二志望に合格した。しかし、そこで素晴らしい信仰の友が与えられ、聖書研究会を開き、自らも献身に導かれた。

御言葉の通りだった。自分としは、自分の道を思い巡らしたが、主はその歩みを確かにして導かれた。人間であるので、これぞ御心と思うが、時に御心を間違うこともある。御心と思って進み出した道が、閉ざされることがある。主が主権をもって、軌道修正して下さる。主がどんな時にも、変わらない愛で、愛し、道を示し、歩みを確かなものにして下さる。平安を与え、導いて下さる。
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主に委ね、これが確信と歩んでいてもその途上で様々な出来事に遭遇する。思いも揺らぐがその道を確かなものにされるのは主だ。未だ体をなしてないように見える計画も働きも、背後にいる主に信頼し、今日も目の前の一歩を祈っていこう。


2012年01月03日(火)

「『あなたの手にあるそれは何か』彼は答えた。『杖です』」出エジプト4:2



出エジプトのリーダーとして、神が「今、行け。あなたをパロのもとに遣わす」
と言われた時、モーセの戸惑いは、いかばかりであったろう。今さら何を?この
80歳の羊飼いの身が?かつて血気盛んな40歳の時に、自分こそはと、自信に溢
れ、同胞イスラエルを救うべく事を起こした。

しかし、同胞の拒絶に会い、ミデアンの地へ逃亡。そこで遊牧生活40年を経て、
一介の羊飼いであり、かつての野心も、独りよがりの正義感も失せていた。家庭
も持ち、平穏な安定した日々に、それなりの幸せも感じていただろう。このまま
静かに人生を全うしたいと思っただろうか。

それに今やエジプトでの地位も力も人脈も何も無い。一介の年とった羊飼いに何
が出来よう。困惑し尻込みするモーセを、神もそれは承知だとばかりに、延々と
説得される。そして、羊飼いの杖を手に取り、しるしを行なうように言われた。

モーセは神に説得され、手に「神の杖」をもってエジプトへ戻る。仕事で使って
いた羊飼いの杖が、今や神の杖とされた。その杖により、神が力あるわざを行な
われる。「あなたの手にあるものは何か?」それは普段モーセが使っていた杖だ。

神は、すでに「あなたの手にあるもの」を用いられる。その手にあるものを、神
に渡そう。そうするなら、それを、神の栄光のために用いて下さる。あなたと手
にあるものを神に献げよう。それをきよめて、神と人のために大いに祝福して用
いられる。
・・・・・・・・・・・・・・
モーセが、普段、羊を飼うために使っていた杖を、主は奇跡を行なう杖として用
いられた。ごく普通の杖が、主に用いられたなら、大きな奇跡を成す道具となっ
た。力は、杖自体でなく主から来る。普通のものを用いて、主は特別な事をされ、
栄光を現される。


2012年01月02日(月)

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えるこ とを行なっていた」士師記21:25



サムエルの時に、イスラエルは王を求めた。他の国々のように、自分たちも王が
欲しいと。しかし、イスラエルの王は「主」だ。神ご自身だ。イスラエルの民の
した事は、主以外に、主を退けて、王を求めるという行為であった。主を捨てる
なら、必然的に、「めいめいが自分の目に正しいと見えること」を行なって行く
ことになる。

つまり、「正しいと見えること」、正しいことなのだが、「自分の目に」が問題
だ。主の目に正しいことでなく、自分が王になる。自分が基準になり、ルールに
なる。主のみ思い、御心から離れた生き方になって行く。

イスラエルの歴史はずっとそうだった。主を捨てて、偶像に仕えては、敵からの
圧迫に苦しみ、主に叫び求めて、救い出される。主に立ち返ったかと思えば、又、
すぐに偶像に仕える、そんな繰り返しだ。私たちはどうだろう。自分の目に正し
いと見える事に歩んでいるのだろうか。

神の御言葉に聞かず、御言葉と祈りによって判断せず、自分の思いで判断してい
るだろうか。又、御言葉に目を留めはするが、自分に都合の良い御言葉、心地良
い御言葉だけを選んでいないか。それは自分の目に正しいと見えることだ。

痛い御言葉が、自分を矯正し、自分を変え、建て上げてくれる、自分に必要な御
言葉だ。今、目の前に問題があるなら、自分の思い=自分の目に正しいと見える
ことがあるだろうが、御言葉に=主の目に正しいことに、従ってみよう。

・・・・・・・・・・・・・・
主を仰がず、自分の目に正しいと見える事に歩むと、主から離れてしまう。主の
判断と自分の判断は異なる。自分の判断は肉の判断であり、自分の都合の良い方
へ流される。まず祈ろう。主に拠り頼んで行く時、主の目に正しい道に導かれる。
そして、痛い御言葉を、なぜ痛いのか考えてみよう。


2012年01月01日(日)

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、 あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17  


父の御心にそって、人生を生きなければ、せっかくの人生が無駄になってしまう。
人生における御心を求め、導きを受け取り、従って行く事が信仰生活で重要な事
柄だ。多くの問題が自分の思いが強いため、御心を受け取り損ねてしまう。自分
の強い願望がさえぎってしまう。

主は導いて下さる。まず右でも左でも白でも黒でも、御心のままでOKですと自
分の思いを明け渡す時、9割方解決だ。御心は示される。よく祈りを積んで、御
言葉に向かい、状況をしっかり見張っていよう。指導者に助言を求める事は有益
だ。彼らの御言葉の知識と経験が、初心者を大きな間違いから守ってくれる。

よく目を開き、耳を澄ましていると、神が情報を送られる。多くの人が証しして
いる。導きを求めていた時に、時ピッタリに、その事に関する様々な情報が目の
前に来たと。ある人は伴侶が癌になり、何をどうすべきかを祈っていると、不思
議に様々な情報があちこちから集まり、なすべき事、入院手術がはっきり示され
たと。

原則として、一つの光を与えられた時、その光を歩み、示された事に従って行く
なら、その次になすべき事を示される。そのように一つ一つ示され前進して行け
る。人間の側に先はいっさい見えない。先を何もかもご存じである主に、先は委
ねて目の前に示されている一歩に従おう。

・・・・・・・・・・・・・
新しい1年、主は私たちに益になることを教え、私たちを歩むべき道に導くと、
言われている。自分の思いを明け渡して、主の導きを求めて歩もう。状況から、
御言葉から、助言から、様々な事を通して、主は語りかけ導いて下さる。