2012年02月29日(水)

「耳のある者は聞きなさい」マタイ13:9



ただ単に聞くのではなく、「聞き方に注意しなさい」と言われている。イスラエルの民は、モーセから神の言葉を聞いていた。しかし、聞いた御言葉も彼らには無益だったと。御言葉が「信仰によって結びつけられなかった」ためだった。モーセは神の言葉を語った。聞く側に問題があった。信仰に結びつける事が大切だ。

種蒔きのたとえで、種は御言葉で、土地は心だ。道ばたに落ちた種は土が固く、心に入らずサタンが来て御言葉を奪い去った。先入観や偏見があると御言葉が入らない。又、他人事として聞く態度だ。この御言葉はあの人に、この人にピッタリだと。自分の事として聞かないなら、素通りしている。すると、サタンが持ち去り、聞いている「つもり」だが、実は何一つ入っていない。

御言葉は「自分に」向けられている言葉として受け取らない限り、無益だ。自分の事として受け取る心が「良い地」だ。必ず結実する。岩の上に落ちた種は、喜んで受け入れるが、根が無い。根を張るのは地中だ。隠れた神との関係を培う事が大切だ。人目に見えない神との交わりの地道な生活が根だ。それが無いなら枯れてしまう。

いばらの中の種は、外部から伸びたいばらにふさがれた。外部のものによって成長が妨げられる。世の様々な事柄に心が奪われ、いつしか神が二の次になってしまう。自分はどんな「聞き方」をしているか、省みてみよう。御言葉に心を照らされ、聞いた御言葉に従って行こう。
--------------
御言葉にはいのちがある。聞くだけの者なら何も変わらない。今日、一つでも御言葉を自分の事として受け取り、自分自身を添わせ従ってみよう。御言葉により自分も、周囲も大きく変わって行く。


2012年02月28日(火)

「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」マタイ26:39

社寺仏閣での、多くの人々の祈りは「どうか、良いことがありますように」「家内安全」「交通安全」「商売繁盛」「無病息災」手を合わせてパンパンではないだろうか。「苦しみがありませんように」つまり試練に会いませんように、との願いだ。私たち信仰者にも、無意識にそういう思いがあるかもしれない。問題や苦しみは悪であり、安穏無事、問題と苦しみが無いことが善との、この世の価値観が根深く培われている。

しかし、信仰生活の中で、必ず問題に出くわす。大きな、小さな、悩みや苦しみが臨んで来る。「なぜ?」「なぜ?」との思いの中で、苦しみや辛さの中で、祈りつつ段々と、神のみ思いと、自分の思いが違うことに気づいて行く。自分が欲しいもの、望んでいるものと、主が自分に与えたいと思っておられるものが、異なる事に。

自分の思いが強いと、そこの所がなかなか気づけない。又、気づけても、しばしば受け入れられない。しかし、その所に焦点が合う時、神視点に立って、全く別の見方ができて、パズルが解けるように、今までの自分の人生をとらえることができる。

「私は」でなく「神は」に変えてみよう。神は、あなたに何を願っておられるのだろう。あれを、これをと、自分の願いをばかりを求めるのではなくて、神が私に与えたいと願っておられることに、視点を置き換えて、祈ってみよう。
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問題の中で、思っているほど自分は強くないのだと知らされ、自力から問題の只中におられる主に頼るよう、対応する自分自身が変えられ解放されて行った。神の御思いは、問題の解決ではなく私が変わる事にあった。感謝だ。


2012年02月27日(月)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩篇37:5



主のみこころを知るために、又、祈りに答えられるために、主に明け渡すこと、ゆだねることが大変重要だ。ある著者が著書の中で、こんな事を記していた。重病で非常な苦しみの中で、「主よ。癒して下さい」と必死に祈り、何度も〃祈り続けた。しかし、全く答えが無かった。主から何の応答もなく、もう疲れ果ててしまい、すべてを明け渡した。

そして「主よ。私には、なぜこのような事が起きるのか全く理解できません。しかし、もしあなたが、私の残りの生涯、私が病人でいることを望まれるのであれば、それでもかまいません。OKです。主よ。それはあなた次第です。とにかく、良くても、悪くても、私をあなたの御手の中に置きます。ただ、あなたに仕えさせて下さい」と祈った。その時に奇跡が起きて、癒されて行った。

主に委ねるとは、イエスでもノーでも、右でも左でも、白でも黒でも、癒されようと、癒されまいと、みこころのままでOKです、ということだ。その時に、主が来て下さり、みこころを成し遂げて下さる。こうでなければ嫌だ、これ以外の道は受け入れられない、との強い自分の思いがある時には、みこころは決してわからない。自分の思いを明け渡して行く時に、必ず前に進んで行ける。今、自分自身の状態はどうだろう。
-------------
病なら癒されたい、辛い時なら早く楽になりたい、欠乏なら満たしをと、祈りはいつも自分の願いが最優先になる。ゆずれない思いはそのままに祈るが、最後には、あなたの御心が成りますようにと、全て主にお渡しして祈りを終えたい。


2012年02月26日(日)

「『水がめに水を満たしなさい』彼らは水がめを縁までいっぱいにした」ヨハネ 2:7


結婚式の披露宴で、ぶどう酒が切れてしまった。当時の披露宴におけるぶどう酒
は重要なもので、途中で無くなる失態など、あってはならないもので、結婚式が
ぶち壊しであった。気づいたマリヤは、その事を主に告げた。「ぶどう酒があり
ません」。

マリヤは慌てて、立ち騒ぎ、動き回ったのでは無かった。ぶどう酒を買いに行っ
たのでもなく、周囲に相談したのでもなく、その困窮を、事態を率直にそのまま
主に告げた。又、その時、マリヤはどうこうして欲しいと言ったわけでなく、た
だ事実を告げただけだった。

主を絶対的に信頼していたので告げるだけで十分であった。私たちも「○○があ
りません」窮状をそのまま、まず主に告げよう。主は手伝いの者たちに、水がめ
に水を満たすように命じられた。

ぶどう酒が必要なのであって、水ではない。80〜120リットルの大きな水瓶、そ
れも6つに一杯にするようにと。大変な作業だ。この忙しい最中に、水など、な
ぜそんな事をしなければならないのか。しかし、手伝いの者たちは、理由もわか
らないが、言われた通りに従った。

すると、その水はぶどう酒に変えられた。従った者たちは、驚いた事だろう。世
話役は、主の奇跡により用意されたぶどう酒を味わったが、どこから来たかは知
らなかった。
私たちが主のみわざを、奇跡を見るのは、御言葉に従った時だ。御声を聞いて、
聞くだけでなく、従った時に、主の素晴らしい栄光を拝する。「従う」ことに目
を留め、今、わからずとも、示されている事に一歩踏み出して、従おう。

・・・・・・・・・・・・・・
振り返る時に、よくわからないながらも、主の示しに従った時に、素晴らしいみ
わざを見て来た。聞いて、そのままにするのでなく、御言葉を実行した時に、事
態が前に進んで行った。目の前の、御霊の示しに従おう。祝福にあずかる。


2012年02月25日(土)

「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし、主は人のたましいの値 うちをはかられる」箴言16:2



ある人が、対人関係において、自分は常にフェアであろうとして来たし、そうし
ていると信じていた。自分は人を決して偏見で見ていないし、そう見る人は間違
っていると思っていた。しかし、ある時、御霊に心の底を照らし出された。自分
の心の奥深くでは、自分はそんな人達のようではないと、優越感を持ち、そんな
人々を見下している事に気づかされた。

そして、決して表には出さないが、心では人を差別をしている醜い自分に気づか
された。まさにパリサイ人そのままであった。しかし、気づかなかった。神に反
抗し、敵対しているならわかりやすいが、表面的には、正しくあろうとし、神の
心にかなおうと、従おうとしているので、全く気づかない。

御言葉と御霊の光が臨む時、御言葉は鏡となり、私たちも、普段気づかない心の
奥底が見せられ、自分の本当の姿を知る。愕然とするが、主はそんな事はすでに
ご存じの上で愛して下さっている。主は知っておられるが、自分が自分の本当の
姿を知らない。

試練を、行き詰まりを通して、本来の姿を見せて下さる。余裕のある時は、幾ら
でも自分を繕えて、うまく見せられる。が、せっぱ詰まった時に、全く余裕の無
い時に現れる姿が、自らの本当の姿だ。「あの時は疲れていて」「相手がああい
う言い方をしなければ」という言い訳や弁解をせず、自分を正当化せず、その自
分を認めて行く時に、変えられて行く。そしてあるがまま愛されている、主のご
愛を知る。

・・・・・・・・・・・・
主に従っているつもりであり、御言葉を聞いているつもり、あえて逆らう思いは
無いので、「つもり」に隠され、自分の本当の姿がなかなかわからない。繕って
いる事にも気づかない。行き詰まりは祝福だ。落ち込む事なく、それを認めて行
く時に、成長へと導かれる。


2012年02月24日(金)

「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから・・主は、きょうののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」Uサムエル16:12


シムイがダビデに石を投げ、ダビデを呪い、ウリヤ殺害の罪を罵倒した。「血まみれの男、よこしまな者」と。「首をはねさせて下さい」という部下に、主が命じられたのだから、放っておけと、ダビデは報復を許さなかった。これは、神からの懲らしめ、神からの訓練と受け止め、甘んじて受け入れた。

「私の身から出た私の子さえ、私の命を狙っている」、シムイどころか、今や実子アブシャロムすら自分に歯向かっている。それゆえシムイの呪いも、神から出たものと受け取っている。何とへりくだった心と態度であり、信仰に生きていたことだろう。

主は「今日の呪いに代えて、幸せを報いて下さる」、どのような悲惨な状況の中でも、状況を変えようともがくのでなく、神の前に正しい心でいるなら、それをも主が良い事のために計って下さる。

ヨセフの「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らい」とされた通りだ。相手の悪意すらも、あなたのために益として祝福と変えて下さる。あなたの目の前のその事態を「神がされた」「神から出ている」と受け取る時、誰もあなたを損なう者はない。誰もあなたを害する事は出来ない。
あなたをキリストのかたちへと変え、成長させて行くばかりだ。
-----------
目の前の事態を変えるのではなく、神から出ていると受けとり、その状況の中で心をきちんと神に向けていよう。内から湧き出る怒りや憎しみから守られ「私に幸せを報いてくださる」の態度に変えて行って下さる。


2012年02月23日(木)

「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように』」ルカ1:38


「はしため」とは女奴隷だ。しもべであり、主人ではない。主人は御父だ。であるなら、奴隷は、主人に絶対服従だ。奴隷が、自分が納得したから、主人の言う事が信じられるから従うだろうか。しもべは、自分が理解できようが、できまいが、納得しようがすまいが、主人の言う事に従う。

マリヤは、自らをしもべだと言った。御使いの言葉を、すべて理解できたわけではないが、主が言われるのなら、従いますと応答した。自分自身も、自分の生涯も、結婚もヨセフも、何もかもを主に委ねた。この後、どうなるかわからない。深刻な、厳しい問題が立ちはだかっているだろう。

聖霊により妊ったなどと、ヨセフが信じられるわけがない。そうなら誰かの子供を妊った事になる。家族、周囲の者は何と言うだろう。結婚前に妊るなど死刑だ。様々な思いがあったろう。しかしマリヤは、まさに「この身に」と、自分自身を差し出して従った。

そしてエリサベツに会った時に、神を喜びたたえ、人々も「私をしあわせ者と思うでしょう」と言った。マリヤは喜びに溢れ、しあわせに満たされた。地位、能力、財のある女性ではなく、「主のはしため」とへりくだったマリヤを用いられた。私たちも御声を聞き、自らを明け渡して従う時に、主は素晴らしい栄光を現して下さる。
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悪い主人にさえ僕は従わなければならない。ましてや私達が従う神は、良きものしか与えられないのに先の先まで理解できてからと、いつまでも踏みとどまっていて、いいだろうか。マリアの素直で強い信仰に習いたい。


2012年02月22日(水)

「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない』」Uサムエル12:13

                  
 
ダビデは王であり、最高権力者であった。ダビデの罪をあからさまに責める預言者ナタンを、即、打ち首にする事もできた。ウリヤを殺害したように。しかし、ダビデはそのような事をしなかった。ダビデは、神のことばの下にへりくだった。だから自分の罪を認めた。

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」。預言者ナタンによる、神のことばは、ダビデの内面を、本当の姿を映し出した。ダビデは、隠しおおしていた罪が明らかにされた。その時に、アダムやエバのように、バテシバのせいにしなかった。責任転嫁をせず、言い逃れをせず自らの罪を認めた。その時に、神のあわれみを受け、赦しが臨んだ。

私たちも、御ことばに向かう時に初めて、自分の本当の姿が見せられる。御ことばは鏡であり、自らの姿を映し出してくれる。私たちも、なかなか自分の醜さ、汚れ、罪を認めたくない。状況が、人がどうのと、言い訳する。「疲れていたから」「相手が悪いから」と自分の非を認めない。

様々な理由をつけて、正当化している自分の姿を見せられる。ダビデは罪を認め、心から悔い改めた。砕かれ、へりくだった心を持って、自ら蒔いたものの刈り取りをも受け入れ、その後の生涯を歩んだ。
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罪を犯したら真っ直ぐに神のもとに行き、悔い改めて赦していただこう。言い訳や責任転嫁をしても、神からの赦しを受けなければ決して心の痛みは消えない。真の赦しを受けダビデのようにそこからまた歩み出そう。


2012年02月21日(火)


「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じると いうことを、あなたがたは知っているからです」ヤコブ1:2 

「忍耐」は「我慢」のように思い、混同してしまうが、忍耐と我慢は異なる。我慢は、とにかく苦しみが去るように〃と願い、ただひたすら去る事を待つだけだ。消極的であり、そこに希望が持てない。忍耐とは、積極的な意味があり、神が必ず良くして下さると、信じることだ。この事が必ず益となり、祝福となると信じて、苦しみの中で主を待ち望むことであり、そこには希望がある。

「信仰が試されると、忍耐が生じる」とあり、この忍耐は、信仰の試練から生まれる。もし、あなたの親友が、待ち合わせの時間に遅れたなら、どうだろう。嘘をつかれた、裏切られたと思うだろうか。決して思わない。何か急な事情ができたと思うのではないか。これは親友との間に信頼関係があるからだ。

主に対してはどうだろう。今、苦しいが、主は必ず良くして下さると、待ち望み続けること、ここに「忍耐が」生まれ、それが、私たちの信仰を成長させてくれる。この苦しみを、主は良くして下さると信じる、すると、必ずそうして下さる。この繰り返しの中で、主への信頼が深められて行く。

信仰が試される事によって、主との間が深められて行くとは、何と恵みだろう。今、試みにあるなら、主との信頼関係が深められるためだ。主にありのまま、正直に気持ちをぶつけたらよい。主に祈り、主からの御声を聞こう。「忍耐が生じることを、あなたは知っている」から。
----------
主が必ず良くしてくれるので、主の解決を期待して待とうとの神への信頼は、試練の中にあっても深い心の平安、安堵で心も守られる。さまざまな試練を通る度に右往左往する恐れから、信仰による忍耐、品性へと成長して行きたい。


2012年02月20日(月)

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の 徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」エペソ4:29



言葉でトラブルを起こした事があるだろうか。普段、言葉に気を留める事が余り
無いかも知れない。日々何とも思わず、言いたい事を言い、ベラベラ喋っていた
りする。しかし、悪い言葉は、「いっさい」、全く、言ってはいけないとある。

又、悪い言葉でなければ、ベラベラ喋りまくってよいのではなく、「必要」な時
に「人の徳を養う」言葉を話せとある。語る言葉は、まず真実である必要がある。
嘘では無いが、事実ではない、自分の主観をプラスした灰色の言葉が無いだろう
か。

又、事実でさえあれば、何でも話してよいのではない。知っている事の何もかも
を、他人に話す必要はない。愚かな事になる。その事は、その場で、話す必要が
あるだろうか、誰かを傷つけないか、相手に益となるか、もし、そうでなければ、
話す必要はない。

「互いに悪口を言い合ってはいけません」「また、だれをもそしらず・・」悪口は、
その場にいない当事者をひどく傷つける。口にしてはならない。そして、「愛を
もって真理を語り・・」、語る時に、「愛」があるだろうか。特に、人への叱責、
注意は、幾ら正論でも、愛がなければ、相手の心に決して届かない。「愛がない
なら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」。

まず、自分の悶々の思い、気持ちの何もかもを主に持って行こう。まず自分が主
に聞いてもらい、ありのまま受け止めてもらう時に、心に御霊の喜びと平安が来
る。その平安から流れ出る言葉は、聞く人に恵みを与える。

・・・・・・・・・・・・・・
「心に満ちていることを口が話す」口が話すのは心にあることであり、口ではな
く心の問題だ。幾ら良くないと、悪い言葉を我慢していても、心にあれば必ず出
る。まず、心のもやもやを何もかも主に持って行き、平安と交換して頂こう。


2012年02月19日(日)

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をか たくなにしてはならない」ヘブル3:15


モーセはカナンに12人の斥候を遣わし、その報告を聞いた。10人は民は強く、
巨人達もいて、城壁は大きい、攻め上れないと恐れた。それを聞いたイスラエル
の民達は恐れて怯え、不信仰に陥った。

神が与えると言われた約束の地にも関わらず、エジプトで死んでいたらよかった
と、不平不満で一杯でエジプトに帰ろうとまで言い出した。主は「いつまで信じ
ないのか、わたしを侮るのか」と、つぶやいた民達は荒野で滅びると告げられた。

すると、それを聞いた民達は、「罪を犯した。とにかく言われた所へ行こう」と
カナンへ上って行く。モーセは、主が共におられないから、行ってはならないと
止めたにも関わらず、上って行き敗北する。

行けと言われれば行かず、行くなと言われれば行く。自分の思いがあるばかりで、
御声に従わない。民の姿は自らの姿かも知れない。神に従うために「時」がある。
時を逸しては、もう遅い。後から従おうとしても、もう従えない。

民達は斥候が戻って来た時に、自分の思いでなく、信仰に立つべきであった。神
の約束に立ち、神を信じカナンへ入って行くべきであった。後悔するが、時すで
に遅し。主の御声は愛だ。愛による語りかけだ。主の愛に応答し、従って行く時、
更に主の愛を知る。
あなたも今、示しを受けているだろうか。御声に従おう。一歩踏み出す時、更に
神の愛を経験して行く。

・・・・・・・・・・・・・・・
主の導きがある時には、導きと共に、必要な力が与えられる。導きに従ってみよ
う。必ず成し遂げる事ができる。又、御心に従う時には、必ずサタンが来る。行
わせまいと妨げる事も覚えよう。主の愛による御声が、かけらえているとは嬉し
い事だ。従おう。


2012年02月18日(土)

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をか たくなにしてはならない」ヘブル3:15


モーセはカナンに12人の斥候を遣わし、その報告を聞いた。10人は民は強く、
巨人達もいて、城壁は大きい、攻め上れないと恐れた。それを聞いたイスラエル
の民達は恐れて怯え、不信仰に陥った。

神が与えると言われた約束の地にも関わらず、エジプトで死んでいたらよかった
と、不平不満で一杯でエジプトに帰ろうとまで言い出した。主は「いつまで信じ
ないのか、わたしを侮るのか」と、つぶやいた民達は荒野で滅びると告げられた。

すると、それを聞いた民達は、「罪を犯した。とにかく言われた所へ行こう」と
カナンへ上って行く。モーセは、主が共におられないから、行ってはならないと
止めたにも関わらず、上って行き敗北する。

行けと言われれば行かず、行くなと言われれば行く。自分の思いがあるばかりで、
御声に従わない。民の姿は自らの姿かも知れない。神に従うために「時」がある。
時を逸しては、もう遅い。後から従おうとしても、もう従えない。

民達は斥候が戻って来た時に、自分の思いでなく、信仰に立つべきであった。神
の約束に立ち、神を信じカナンへ入って行くべきであった。後悔するが、時すで
に遅し。主の御声は愛だ。愛による語りかけだ。主の愛に応答し、従って行く時、
更に主の愛を知る。
あなたも今、示しを受けているだろうか。御声に従おう。一歩踏み出す時、更に
神の愛を経験して行く。

・・・・・・・・・・・・・・・
主の導きがある時には、導きと共に、必要な力が与えられる。導きに従ってみよ
う。必ず成し遂げる事ができる。又、御心に従う時には、必ずサタンが来る。行
わせまいと妨げる事も覚えよう。主の愛による御声が、かけられているとは嬉し
い事だ。従おう。


2012年02月17日(金)

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」マタイ19:26


若い金持ちの役人が、主のもとに来た。そして「永遠のいのちを得るためには、どんな良い事をしたらよいのか」と問うた。主はその青年を導くべく、戒めを守るようにと。彼は守っている、まだ何が足らないかと答えた。すると主は、持ち物を売り払って、貧しい人々に施すようにと。

大変な金持ちであった彼は、これを聞くと、主のもとを去ってしまった。人は、富が命であり、富が神であり、富に頼っている。富が幸せを与え、富が将来を保障してくれると信じている。偶像だ。その富に頼ることを止めて、神に頼るなど、人にはできないと言っている。不可能だと。

「だれも、ふたりの主人に仕えることはできない」「神にも仕え、富にも仕えることはできない」宝のある所に心があり、宝と心はピッタリと一つであり、富が宝であれば、心はそこにある。神には無い。それゆえ、その心は喜びがなく、虚しく、心配と不安、思い煩いは消える事がない。

富への信頼を止めて、神に信頼する事は、人にはできない。しかし、「神にはどんなことでもできます」。富ではなく、神に頼って生きることは、人間のわざでは不可能であり、奇跡だ。あるがまま主のもとへ行き、できない事を認め、主の助けを仰ごう。どんな事でもできる主が、「神の国とその義をまず第一に求め」ることができるよう助けて下さる。
-----------
神以外の物を宝としていくつも持っている。捨てることなど自分ではできない。しかし自分には期待できなくても、神様に期待する事はできる。できないとあきらめて去るのではなく、主がその力を与えて下さることを信じよう。


2012年02月16日(木)

「ここにすわって いても死んでしまう・・もし彼らが私たちを生かしておいてくれるなら、私たちは生きのびられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ」U列王7:4

飢饉で人々が餓死して行く中、らい病人たちは、このままなら、自分たちも死ぬことがはっきりしている。アラムの陣営に行けば、食糧にありつけるかも知れない。だが、殺されるかも知れない。しかし、ここにいても死ぬだけなのだから、殺されるかも知れないが、行ってみようではないかと言い合った。

そして決心して一歩を踏み出した時、主が働かれたのだ。そこには誰もいなかった。主がアラムの陣営に、戦車の音、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、敵の攻撃と勘違いし、恐怖に襲われ、何もかもを置き去りにして、命からがら逃げ去っていた。全く何もしないで、溢れる豊かな糧にありつけた。神によって与えられた。

このらい病人たちから、私たちも、信仰によって一歩踏み出すことを教えられる。そして、自分の無力を知る時にこそ、信仰による一歩を踏み出せる。主に信頼して一歩を踏み出してみようではないかと。

自分自身や、自分の生涯を、目の前の事態を、主に明け渡すことは恐れがあるかも知れない。しかし、自分の力で歩みを続けたところで、何の実も無い。信仰による一歩を踏み出してみよう。彼らは溢れる食糧や金銀を、何度も〃も持ち出しても、持ちきれなかったように、そこに、思いを越えた破格の祝福が備えられている。
---------
このままとどまっていてもしょうがない、、神様を信じて踏み出してみよう・・の声は必ず神様に届き、孤独で無力なようでいて、すでに無限の力によって守らている。天の窓は開かれる。祝福と導きを信じ恐れず踏み出そう。


2012年02月15日(水)

「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」ルカ18:13


主は、私たちをあわれんで下さる。しかし、あわれみを求めるには、へりくだった心が必要だ。へりくだっていなければ、あわれみを求めることは出来ない。私たちは、何かマイナスの出来事が生じると、自分はなんと不幸せでかわいそうと、人からの関心、思いやり、同情を求める。

しかし、だからと言って、主の御前に「こんな罪人の私をあわれんでください」とあわれみを求めるとは限らない。なぜなら、自分の惨めさ、弱さを認めることは別だからだ。プライドが許さない。そこまで弱くはない、まだ自分で何とかできると思っていたい。それを認めるのは、余りにも惨めだと思っている。だから、尚も自分の力に頼っている。

しかし、神のあわれみは、尽きることがなく、それは朝ごとに新しい。無力感を感じる時に初めて、自分には力があると思っていたことを知る。主が、取り扱いを通して、試練を通して、自分がいかに無力であるかを教えて下さる。自らの無力を知る事こそが、実は大きな祝福だ。

その時、「主よ、あわれんで下さい」との叫びが出る。そして、又、自分の強い自我、どうしようも無い頑なさを知る時には、「主よ、あわれんで下さい」と祈ることができる。そして、主はその祈りに答えて、豊かにあわれんで下さる。
---------
本当の自分の無力さに気づかず、少々のストレスもまだあの人よりまし、あの時よりましと頑張り続けるなら、信仰生活どんどんぶれて行く。神様の前に自分の罪も弱さも醜さも認めて、へりくだり尽きないあわれみを受けよう。


2012年02月14日(火)

「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12


パリサイ人と取税人の祈りがある。取税人は、「こんな罪人の私をあわれんで下さい」と、そこには、神と自分だけしかなかった。神の前の自分を見て、罪を認識できた。だから罪が赦された。そこに人はなかった。しかし、パリサイ人は、神と自分でなく、人と自分だけであった。

「他の人々のように」「この取税人のようでない事を」そこには人だけで、神はない。必然的に罪の赦しも無い。私たちもどうだろう。自分がどういう状態であるのかを、「人との比較」で量って、確認しているだろうか。

私たちは無意識に人との比較の中で自分を見ている。人が基盤になっていて気づかない。これは、自分が劣ると、劣等感で落ち込む。暗くなり、自分を見失い、自分で何とか自分を作ろうとする。「人を恐れると罠にかかる」。罠にはまっている。

又、自分が優ると優越感に浸り、人を見下す。又、人と人の比較もある。子供同士を比べたり、隣の主人、妻、親と比べたり・・。人は皆、創造主から違って造られていて、違っていて良い。違っているから補い合える。

人に自分を照らし量るのでなく、御言葉に自分を照らし、自分の真の姿を御霊に見せて頂く事が大切だ。「知恵のないこと」とあり、愚かだとわかるのだが、どうしても古い性質は比較してしまう。主に向いておれるよう、祈っていよう。
------------
人との比較や、人の中での自分を確認しては大きなストレスを感じたりする。そんな「知恵のないこと」はもうやめよう。心が主に向いていなければ、今の自分も、御心も導きも判らなくなってしまう。


2012年02月13日(月)

「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」出エジプト14:14


奇跡の出エジプトを経験し、荒野に出たイスラエルの民に、大きな試練が臨んだ。絶体絶命の危機だ。エジプト軍の戦車部隊が追って来たのだ。前は紅海、後ろは追っ手。前にも後ろにも進めない。まさに断崖絶壁の窮地であった。しかし、主はこの事態の目的を「わたしの栄光を現わす」ため、「民は大いなる御力を見たので、主・・を信じた」、つまり「神の栄光が現れるため」「民の信仰が強められるため」と言われた。

私たちも信仰人生の中で、絶体絶命の窮地に立つ事がある。前にも後ろにも進めず、もうどうして良いかわからない、身動きの取れない状況に陥る。しかし、とにかくまず落ち着こう。「恐れるな」「しっかり信仰に立て」「わたしが戦う」との言葉を受け取ろう。神は海の真ん中に道を造られる。道無き所に、道ができて、絶体絶命の事態を力強く導かれる。

民はエジプトの追っ手から奇跡をもって救われた。耐えられない試練は無い。神の栄光とは、「神にしか出来ない事態が起こり、それがまさに神である事がわかる」ことだ。あなたも、今、窮地にあるだろうか。試練が臨んでいるか。「恐れるな」「信仰に立て」「わたしが戦う」に立とう。そして祈ろう。必ず神の導きが臨み、神の栄光を拝する。窮地は神の機会、今窮地なら、神の栄光が現されるチャンスだ。主が戦って下さる。
------------
神にしか出来ない事態が起こり、そしてその解決がまさしく神であったと、ただ、
ただ御名を崇め、感謝を献げるしかないという経験、その経験の一つ一つが、また神の力に支えられて生きる力強い信仰生活へと続いて行く。


2012年02月12日(日)

「しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、わたしのところに持 って来なさい」T列王17:13



飢饉の時に、エリヤは主から示された通りに、ケリテ川へ。そのケリテ川が枯れ
た時、次にエリヤは、シドンのツァレファテへ行くように告げられた。そこで、
飢饉の中、やもめ女に命じて養うと。

主の言葉に従い、その町へ行くと、やもめ女に出会った。そこで彼女に水とパン
を求めた。すると、彼女の悲惨な状況が発覚した。資産家などではなく、最後の
一握りの粉でパンを作り、母子で、最後の食事をして死のうとしているという、
何という状況だろう。

目の前の人物は、人を養うどころか、今にも飢え死にしようとしている状況だ。
しかし、助けを求めなければならない。人間的に考えるなら、その最後のパンを
自分にくれとは、どうして言えよう。しかし、エリヤは目に見えるところでなく、
情でも、思いでもなく、信仰に立ち、ただ御言葉に従った。

まず自分にパンを作り、その後に、あなた方のために作るようにと。そうするな
ら、飢饉が終わるまで、粉は尽きず油は無くならないと。人の思いや情は、神の
みわざを妨げる。彼女はエリヤの言葉に従った。

すると、母子は飢饉のまっただ中で、かめの粉は尽きず、豊かに養われた。それ
は母子のためでもあった。神を第一にして従う時、栄光を見る。自分の思いや情、
見えるところが真逆であっても、神の言葉を選択し、信仰によって従おう。その
時、主が責任を取って下さる。今、示されている事があるなら、従おう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
人間的な思いや、常識、人情でなく、御言葉に従うことを教えられる。又、御言
葉に従おうとする時、様々な肉の思いが交錯し、妨害してくる。背後にサタンが
従わせまいと強く働く。しかし、御言葉に従う時、すべてが秩序立って、主の栄
光へと導かれる。


2012年02月11日(土)

「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」マタイ15 :28


娘が悪霊につかれた女性が、主のもとに来て、助けを求めて叫んだ。この母親に
は娘の窮状を前に、何のすべも無かった。もしかして、偶像のもとへも行ってみ
たかも知れない。しかし、最愛の娘はどうにもならず、絶体絶命であり、お手上
げであった。

その時に初めて、人は叫ぶ。何の方策も無くなった時に、人は砕かれて、心底か
らの助けを求め、叫びとなる。まだまだ可能性のある間なら、叫びは出て来ない
し、解決を求めて、あちこちひたすら走り回るだろう。まだ自分の力を信じてい
る間は、主に叫ぶ事も、ひれ伏す事も無い。

心がどん底まで低くされた時に、「あわれんで下さい」が出て来る。しかし、そ
んな母親に対して、主は一言もお答えにならなかった。そればかりか、「イスラ
エル以外には遣わされていない」との一見冷たい対応だった。だが、彼女は決し
て諦めず、主の前から去る事なく、尚もひれ伏して、主を求めた。

「子どもたちのパンを小犬にやれない」との答えに、「その通りです」とへりく
だった。そして、子犬でも、食卓から落ちるパンくずは頂けると、粘り強く求め
た。主が必ずあわれんで下さると信じたからだ。

主は彼女の信仰をりっぱだと賞賛され、娘は癒された。結局は、主の一見冷たい
沈黙、拒否は、彼女の信仰を引き出すためであった。主の対応で、彼女の信仰が
更に引き出され、主は立派な信仰と賞賛された。主はどこまでも憐れみの主だ。
あわれんでいて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・
主の沈黙すらも愛であり、婦人を正しく導かれた。心からの切なる叫びを引き出
された。求めても得られないと思えば、人は、はなから求めない。絶体絶命の中
で、いただけると信じた。決して諦めず、どこまでも粘りしがみつく信仰を主は
喜ばれた。


2012年02月10日(金)

「高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ・・紛争が生じる」Tテモテ6:4

           
御言葉によると、高慢になった人は、何一つ悟らないとある。そして、神と人に疑いをかける。信じようとせず、心を開こうとしない。又、誰、それがどうした、こう言ったと、ことばの争いをする。絶えず人を見ていて、人と比較するので、そこから妬み、競争心、敵対心が起こる。

そして、妬みを持つと、人の幸せを喜ぶ事ができない。受け入れる事ができない。プライドが高いので、自分が上に立っているので、聞く耳がなく、何かにつけて人と争う。自分が正しいので、人が間違っている事になり、人をそしる。

同じく上に立つ権威に従わない。へりくだりが無いからだ。人を信じようとせずに、悪意の疑りを人に向ける。こうなら、絶え間のない紛争が当然になってしまう。これらすべて、「高慢」の罪から来ている。

心に平安や喜びが無い時、高慢の罪に陥っていないか。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」美の極みと言われた、明けの明星が、神のようになろうと、霊的に高ぶったため、天から地に落とされ、悪魔になった。

悪魔とは、高ぶりの化身だ。高ぶりがある時、主からの祝福を受けることができない。へりくだるとは、悔い改めることだ。自分も間違う者だ。神の恵みによって今がある。まず主の御前にへりくだる時、人への対応が変えられる。そして、実を結ぶ者とされる。
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おごり高ぶり、思い上がり、全てを判断できると思う者は、人に害を与えても、自分は何一つ大切なことを悟れない。恐ろしいことだ。表に出さなくても常に高慢の罪を抱えている。気づけたなら悔い改め、謙遜に神様の前にいよう。


2012年02月09日(木)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3 


ピリピ教会には、不一致の問題があった。「ユウオデヤとスントケ・・あなたがたは、主にあって一致して下さい」と。ピリピ教会には、外部からの反対者からの迫害もあった。そのためにどうしても一致が必要であった。そして、「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがある」ので、だから、一致を保ち、志を一つにして行くようにと。

教会の一致を妨げるものが、「自己中心」と「虚栄」だ。そして、一致に必要なものが「へりくだり」だ。それは「互いに人を自分よりもすぐれた者と思う」ことだ。私たちは皆、自分のメガネを持ち、自分の物差しを持っている。これが自己中心であり、自分の思いに固執する。そして、自分の益だけを求める。

これが妨げるため、相手の本当の姿を、正しく見ることができない。これを捨てる時に、初めて相手の立場に立ち、理解して行くことができる。「虚栄」とはプライドであり、自分が特別な人間だと認められたい。主のへりくだりと対極をなす。へりくだりとは、「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ということだ。

主は、神であられたのに、神の栄光、特権を何もかも捨てられて、ご自分を捨てて、無にして、来て下さった。そして、死にまで、十字架の死にまで従われた。自分には出来ない事を認め、聖霊に導かれる時、主の心を心として歩ませて下さる。
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自己中心とプライドを保ったままでの一致は不可能だ。家庭や職場で「何事でも自己中心や虚栄からすることなく・・」の御言葉を歩もうとする時、中心はいつも自分であると気づかされる。


2012年02月08日(水)

「キリストは・・ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」Tペテロ2:23


職場で、理不尽な、不当な扱いを受けて、苦しんでいる人がいた。ある人が慰め、励まそうと、「辛かったですねえ」と声をかけた。すると、その人は、「はい、こんなに祈った事はありません。自分は正しいのにと、悔しさで一杯の時、主の十字架が迫りました。

完全に正しい方が、十字架にかかる必要の無い方が、十字架で苦しまれ、命を捨てられた事に、目が開かれました。自分の姿が見えました。そして、主にお委ねしました。今、心は全く平安なんです。神様がおられなかったら、もうどうなっていたかわかりません。感謝しかありません」と答えた。

彼には言い分があり、正当な主張があり、権利があった事だろう。しかし、その人は信仰に立っていた。自分で自分を守ろうとせず、又、自分で状況を動かそうとせず、すべてを正しく導き、裁き、成し遂げられる主に任せたのだ。ダビデも、サウル王から不当な理不尽な扱いを受けた。サウルの激しい妬みにより、命をつけ狙われた。槍をダビデ目がけて投げつけられ、どこまでも追っ手をかけて追撃された。

ヨセフも、エジプトで主人から厚意を受けたが、その妻により、濡れ衣を着せられ、全く身に覚えの無い無実の罪で投獄された。しかし、ダビデもヨセフもそんな中で、反撃するので無く、御父に自らを委ねて行った。そして、主はふさわしい時にふさわしい解決を与えられた。
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正当な主張を理解されない悔しさや怒りは、祈りによって主に告げよう。正しく裁かれる方が、私達の燃える怒りを静め、信仰に導いて下さる。ののしられたら、ののしり返す勝ち負けの世界から心を平和に守って下さる。


2012年02月07日(火)

「隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を」U列王4:3


エリシャは預言者の集団を従えていたが、その内の一人が亡くなった。借金を残しており、貸し主が二人の子供を奴隷にしようとしていると、妻が訴えて来た。エリシャは「何をしてあげようか」と、家に何があるかと尋ねた。家の中には何も無く、油の壺一つしか無いとの答え。エリシャは、近所から空の器を借りて来るようにと言い、油をついで行くように言った。

彼女は、近所から多数の壺を集め、次々に油をついで行った。その一つだけの油の壺から、油は幾らついでも、無くならず、器の数の分だけ出て来た。そして、壺が無くなった時に油は止まった。それを売って、負債分を支払うようにと。神は、彼女の子供たちを守られた。空の器が満たされた。

神は虚しい、空の心を満たして下さるお方だ。私達は、空の心を様々なもので満たそうとする。仕事、趣味、名誉、地位、人からの賞賛・・しかし決して満たされない。神のもとへ、虚しい心を持って来る時に、聖霊で満たして下さる。神以外のもので満たそうとしても、心は虚しいままだ。

私たちも、他のもので満たそうとしていないだろうか。又、器に、余分なものが入っていないか。プライド、虚栄心、貪欲・・それなら、主は満たすことができない。それらを認めて、明け渡そう。「空の器をもってきなさい」。その時、聖霊で満たして下さる。
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神様が全てを満たして下さると知っていても神様も必要だが、あれがなければ、これもなければと依存しているものがあるだろう。今、何かを失って心虚しいと思っているなら喜ぼう。その空の自分を喜んで神様に献げ満たしていただこう。


2012年02月06日(月)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5


アダムがエデンの園で、罪を選んだ結果、私たちも原罪を持って生まれる事になった。その時のサタンの誘惑が「あなたが神のようになり・・」であり、神を捨てて、自分が神になるというものだった。自分で自分の人生を支配し、自分の思い通りに、好きなように生きて行く。

すべての人にその罪の根があり、クリスチャンも内側で、新しい人と古い人の葛藤が常にある。問題、悩みに出会わすと、心が重苦しく、辛いと感じる。それは悩みそれ自体が原因ではなく、自分で何とかしようとしているところにある。

どうにかしようとするが、どうにもならない。だから苦しい。問題は、それを、主に明け渡す事ができないことだ。主に委ねる事ができず、自分が握っている。それは自分がコントロールしたい、支配していたい。

私たちがイライラするのは、悶々とするのはどんな時だろう。目の前の事態が、物事が、相手が、自分の思い通りにならない時ではないだろうか。自分が事態を、相手を、支配しようとしているからだ。

思い通りにしようとする自分自身を主に明け渡し、事態を主に委ねる時に、平安を経験する。ギブアップし、委ねた時に、自分は平安になり、そして、不思議に全く動かなかった状況が、動いて行く事を見る。
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悩み思い煩う底には、思い通りの解決を望む自分がいる。神様の解決が痛いものであったらどうしよう、それが私のためであるとわかっていても、今はとても受け入れられないと悶々とする。その思いからまず祈りに持っていこう。


2012年02月05日(日)

「しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:21

 

「わたしは世の光です」と言われた主は、光として、この世に来られた。世を照
らし、「すべての人を照らすまことの光」は、私たちの人生を照らし、私たちの
心を照らし出される。

主が光であり、光が輝いているので、私たちは見ようとするなら、くまなく照ら
す光に、自分の姿が見え、心の内が見え、何をどうすればよいのかが見える。見
えるので、何をすべきかがわかる。光に自分が照らされている限り、問題無い。

罪が見えるので、悔い改めることができる。その罪は赦され、きよめられる。恵
みのまっただ中だ。もし、見ようとするならだ。そして、主は光の方に来ること
を望んでおられる。

問題は、光があるのに、光を避けて、見ようとしないことだ。見たくないがため
に目を閉じる。光があるに関わらず、自分が目を閉じるなら、真っ暗闇だ。光の
まっただ中にいて、自分で暗闇を作っている。真っ昼間に、目を閉じて、暗闇だ
と言ってるようなものだ。

目を閉じるなら、神が見えず、自分の姿も見えない。目を閉じるのは、自分に都
合が悪く、自分の思いを通したいためだ。だから、光から逃げている。しかし、
そこにあるのは暗闇だ。不平不満、怒り、思い煩い、憎しみ、妬みの世界だ。

この状態なら、逃げないで、目を開けて主に向き合おう。光に照らされ、悔い改
める事ができ、主の愛に包み込まれていることを知る。

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閉じている目を、開けばよいだけだ。しかし見たくない自分がいる。問題や自分
に向き合うなら、御霊が示しを与えて下さるので、悔い改めたり、祈ったりでき
る。悔い改めるなら赦され、祈りに持って行くなら、答えられる。解決の糸口が
見えて来る。


2012年02月04日(土)

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」ヨブ1:21



ヨブは、突然、子供たち全員を失い、家財や家畜、しもべたち、何もかもを失っ
た。そして、ヨブ自身にも、悪性の腫物でおおわれ、極度の苦痛が臨んだ。しか
し、「主は与え、主は取られる」と、ヨブはそれを神から来たものと受け止めた。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり・・」とあるように、神の思いは、
私たちの思いと大きく異なる。ある時は、私たちには理解できない。「どうして
このような事が?」「なぜ私に?」納得も行かない。しかし、神は、私たちがた
とえ理解できなくても、神を信頼して従って行く者と成長させるために、時に、
このような試練を送られる。

しばしば、クリスチャンもご利益宗教になってしまう。自分を軸に置くために、
自分中心に物事を見てしまう。自分が理解できる、納得できる範囲でしか、信じ
ようとしない。納得するなら、わかるなら信じるが、そうでないなら信じない。
拒否してしまう。

神を、私たちの理解できる次元の事に引き下げてしまう事になる。理解できない
状況の中で初めて、信仰が試され、練られ、しかし、「神は愛であり」「最善を
され」「ご計画があり」「益とされる」と、信じる者と変えられて行く。主がそ
のように成長させて下さる。理解はできないが、しかし、主を信頼する者とされ
て行くなら何と幸いだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・
苦しい最中に、私たちが納得行くようにと、理由をことごとく説明されても、そ
れで試練を乗り越えられるのだろうか。厳しい試練の最中で、忍耐できるのは、
今、主が共におられるという信仰、主への信頼だ。試練の度にその信頼が強めら
れて行く。


2012年02月03日(金)

「また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます」コロサイ4:12


祈らないで、主を求めずに、事を行ってしまって、失敗した経験は無いだろうか。なりゆきで、高価な物を衝動買いし、欲しい物でも無かったと後悔したり、祈らないで思いつきで、活動を始めてしまい、途中で様々な障害にぶつかり、結局中止になってしまう。どんなに一見良い事でも、祈らないで、肉の思いで始めてしまうと、中途で挫折してしまう。

ある人は祈らないまま、目の前に来た高額のバイトに飛びついた。しかし、余りの多忙にデボーションの時間が失せ、どんどん神から離れ、本末転倒の生活を示され、途中で辞めた。ある人は御心を求めないまま、高額報酬の仕事に転職した結果、教会へ行けなくなってしまった。ヨシュアがギブオンの住民達に騙されて、盟約を結んだ箇所がある。ギブオン人達が計略を巡らし、変装し、遠くから来たと思わせ欺いた。実は自分達の中に住む近隣の者達であった。

この時、対応するのに「主の指示を仰がなかった」。主を見上げず、肉の思いで判断すると、道を間違ってしまう。私達も心しよう。日常生活、祈りつつ、主の指示を仰ぎながら歩もう。あの決定、この判断、主を仰ごう。でなければ、結局、肉で始めた計画は中途半端となり、蒔いたものを刈り取る事になる。主に祈り、平安与えられ、確信持って前進しよう。それは「主と一つ」に進める幸いな歩みだ。
--------------
大きな問題が起これば祈るが、日常の些細な中で常に神様を認め祈りながら生活しているだろうか。まず朝のはじめに神様に自分に頼りそうな時、知恵を求める事が出来るよう祈ろう。


2012年02月02日(木)

「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください」詩篇25:4


主は私たちのために、みこころを持っておられる。そのみこころを示して下さる。主に出会う前の私たちは、神無しの人生であり、自分のしたい事のみを考えて生きて来た。それは自分の肉であり、欲望であった。しかし、今は、主に喜ばれることは何で、主が私のために備えて下さっているものはと、主のみこころを求めて生きる歩みに変えられている。

私たちが、主に求めるなら「あなたの耳はうしろから、『これが道だ。これに歩め』ということばを聞く」とあるように、主は進むべき道を教えて下さる。どのように求めればよいのか。まず主とよく交わることだ。御前に静まり、心を探って頂き、もし主との間に妨げがあるなら、悔い改めたり、捨てたり、主との関係が平安であるようにする。

そして、自分の強い思いや、頑固な意志が、主のみこころを知る事を妨げるので、明け渡して行くことが大切だ。御言葉を求め、環境をよく見て行くことだ。又、しようとする事が主の栄光を現わすか、心に平安があるか、そんな事を考えつつ、尚も祈り、平安が変わらなければ、ゴーサインだ。もし、周囲の反対がある時は、更によく祈ってみよう。みこころであるが、時期を待つ必要があるのかも知れない。主がそんな事も教え導いて下さる。
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何処にも自分の道と神様の道のふたつの道がある。右に行くにも左に行くにも神様の小道を教えてくださいとの態度でいるなら、必ず主の喜ばれる道に進める。


2012年02月01日(水)



「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて・・彼らは打ち負かされた」U歴代20:22

ヨシャパテ王の時に、モアブとアモンが攻めて来た。ヨシャパテは窮地にあり、全国に断食を布告し、ただひたすら主を求め、祈った。無力であり、窮状を主に訴えた。すると、主はレビ人ヤハジエルを通して語られた。この戦いは神の戦いであり主が共にいるから恐れず出陣せよと。これを聞き、ヨシャパテはひれ伏して、礼拝し神を賛美した。

戦いの備えの全く無い、歌う者たちを、武装した者たちの前に出すなど、非常識と考えるのが、普通だ。しかし、歌う者たちが賛美をし、喜びの声、賛美の声をあげ始めた時、主は伏兵を設けて、奇跡を起こされた。戦わずして勝利してしまった。目の前で敵が同士討ちを始め、眺めているだけで大勝利となった。神の働きだった。この箇所から問題への対応を教えられる。

私たちが全くなすすべの無い状況に陥った時に、ひたすら主を求めることだ。目の前の窮状、問題だけを見ていると、私たちは圧倒され、飲み込まれ、落胆し、敗北してしまう。しかし、ヨシャパテのように、まずその問題を主の前に持ち出し、ひたすら主に訴え祈ることだ。

自分で何とかしようとせず、主にお委ねする。すると、主は答えて下さり、御言葉を送り、指針を与えて下さる。そして、感謝し、賛美して行く時、主が戦い、勝利を与えて下さる。信じていると、不思議に目の前で、問題が解決して行くのを見る。
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問題が起こるとまず戦いの備えをしようと身構えるが、問題も神様から来ていると見られる私達は幸いだ。解決もまた備えられていると知っている。主は終始側で戦って下さる。祈りつつ戦おう。