2012年03月31日(土)

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪に まさる」Tサムエル15:22



サウル王は、「アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはなら
ない」との命令を受けていた。しかし、サウルはアガグ王を生かしておき、家畜
の最も良いものを惜しんで残し、つまらない、値打ちの無いものだけを聖絶した。

これに対し、サムエルは、主が喜ばれるのは、いけにえを献げることではなく、
御声に「聞き従うこと」だと言った。「聞き従うこと」が、いけにえよりまさる
と。「聞き従うこと」は、へりくだりがなければ出来ない。プライドが邪魔をし、
自我が立ちはだかる。

聞き従うことは、同時に自我を砕いて従うことであり、自分に死ぬことであり、
そうでなければ従えない。そして、それは自分を変えて行くことであり、自分を
変えるのは、自我にとって痛いことだ。だから、なかなか従えない。良い行ない
をして、取って代えてしまう。しかし、聞き従うことは、いけにえにまさり、耳
を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」

イザヤの時代にも、「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう・・も
うむなしい献げ物を携えて来るな」と民に言われた。「聞け、主のことばを」と。
主は、いけにえを献げる熱心ではなく、へりくだって心を主に向け、御声に聞き
従う事を喜ばれる。自らの生き方を改め、自分が変えられて行くことを喜ばれる。

・・・・・・・・・・・・・・
主に仕えるのだが、主のみ思いや、主の示しを無視して、自分の思い通りに仕え
ようとする肉がある。主に仕えないのではなく、仕えているのだが、どこまでも
自分の思いが中心になる。主は私に何を願っておられるのか、御声に真摯に耳を
傾けよう。


2012年03月30日(金)

「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」ヘブル12:15



ある人に、どうしても嫌で、赦すことのできない相手がいた。「苦い根」であった。それを思うと「苦く」、平安が無い。しかし、どうにも出来ず、悶々としていた。そんな中で、ある時突然、主がその事に触れられ、十字架の主がくっきり、はっきり、目の前に示された。主が自分にして下さった事が見せられた。命を捨てて愛して下さった、赦して下さった・・御霊が臨み、まさに実感としてわかり、涙が溢れて止まらなかった。悔い改めて、心からこの主に従いたいと願った。

その時、あんなに苦しんだ苦い根が消えた。平安の全く無かったその所に、平安が満ちた。その相手が、なぜそんなに嫌だったのか、わからないほど、どうも無くなった。私たちの心にも、雑草が根を張るごとく「苦い根」が無いだろうか。根というのは外側には表れない。見えずに隠れている。誰かに対する妬み、憎しみ、敵対心、恨み、怒り、赦せない思い・・心の深い所に巣くっていて、普段は潜んでいるが、何かが起きた時に、芽を出して、心の畑を無惨にズタズタに荒らす。

人の目には隠せるが、自分にはわかっている。この根を放っておくと、心の中深く張り巡らし、傷がどんどん深くなる。引き抜き、除去するのに、大きな痛みが伴う。今、そのまま主のもとへ行き、告白しよう。主が取り扱いきよめて下さる。恵みから落ちてしまう事のないように、絶えず心を見張っていよう。
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わずかな苦味が大きな悩みとなってしまわぬよう、なぜ平安がないのか、ざらつく感情はどこから来ているのか、ありのままの思いを祈ろう。主が教えて下さり、主がそこに働いて下さる。


2012年03月29日(木)

「供え物をささげようとしているとき、もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら・・まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23


ある人が、対人関係において失敗をしてしまった。仲間を深く傷つけてしまったのだ。不用意な、とげのある言葉であり、自己中心の罪ゆえだった。御霊に照らされ、肉による自分の罪であった事が、はっきりと示された。周りの人々にも嫌な思いをさせ、自らが引き起こした事だった。御霊は語りかけられた。悔い改めるよう、そして相手にも謝罪するよう示された。

自分の愚かさを認め、謝る事はプライドが傷つく事であり、恥ずかしい、絶対にしたくない、回避したい事であった。自我は拒むが、しかし、自らの罪であり、御霊は促され、迫られた。とうとう傷つけた相手、又、嫌な思いをさせた一人〃に謝る決心をした。赦してもらえなくても、仕方の無い事だ。しかし、勇気を出して、謝罪した時、当の相手は、快く赦してくれた。他の人々も同様だった。赦される事の喜びと平安に心が満ちた。天にも上るような喜びであった。

もし、赦しを拒否されたら、その人々と気まずくなり、その交わりが断たれるところだ。傷つけた自分自身も傷を持ったままだったろう。主は、悔い改めと謝罪を大いに祝福して下さり、赦されたばかりか、その当人とは大の仲良しになってしまった。あなたも、謝るべき相手があるだろうか。御霊の示しがあるなら、実行しよう。大きな祝福を経験する。
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御霊の促しを無視したままで、御前に祈ることは出来ない。主の前にまず平安でおれるよう、人との間に平和を保てるよう、謝るべき相手がいるなら、悔い改め心から謝れるように祈ろう。


2012年03月28日(水)

「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」マタイ12:28


神の国=神の支配だ。神がご支配しておられるのが、神の国だ。では、神の支配の中なら悩みや問題の無い、平安と喜びに満ちた状態だろうと思う。なぜそう思うのか。悩みや問題は、苦しみや葛藤をもたらすものであり、それは悪との価値観からだ。避けたい嫌なものだ。

神なら、人間に幸せをもたらすべきであり、幸せとは、苦しみや悲しみが無い状態、心に苦しみが無く、平安、喜びがある状態だ。だから、神は、私たちに悩みの無い状態を、もたらすはずと思っている。しかし、それは人間が勝手に思い込んでいる神観だ。人間の思う神は、自分にとって都合が良く、自分に幸せと利益をもたらしてくれる神だ。人間中心に考えると、そうなる。それゆえ、聖書の神もそうあって欲しいと思う。だから、神が支配する所なら、何の心配も悩みも無いはずだ。

しかし、断じてそうではない。神の支配は、私たちを拘束する強権支配、恐怖政治ではなく、又、何もかも私たちの願い通りになるものでもない。ご自分の独り子を殺され、罪も死も引き受けて下さった、無条件の、一方的な、犠牲的愛による支配だ。今、この愛のご支配の中に置かれている。だから、痛い辛い事も起きるが、忌むべきものでなく、愛なる神からであり、愛ゆえだ。ご計画があり、益となり、成長させられ、神を更に親しく知って行ける。必ず結果的に祝福となる。
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神と共に歩む神の支配の中に入れられているのだから、苦しみ、悩み、葛藤も全てがご計画で益となる。この世の見方で思い煩うことも多いが、古い価値観を捨てて神の栄光を拝して行こう。


2012年03月27日(火)

「あなたが王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」エステル4:14 


王をも巻き込んだ、ハマンの邪悪な企みにより、ユダヤ人は全滅の危機に陥った。この時、丁度エステルが王妃の立場にいた。前妃ワシュティが退けられ、新しい王妃に選ばれていたのだ。エステルの養育者であるモルデカイは、使いを遣わし、彼女に伝言した。この危急の事態を王に申し上げ、王にあわれみを求めるようにと。しかし、王妃と言えども、王に召されずに、王のもとへ行くなら死刑だ。

だが、エステルは、モルデカイの「あなたの今の地位はまさにこの時のためでは」との言葉により、命をかけて、王のもとへ行く事を決断する。そして、このエステルが用いられて、ユダヤ民族がハマンの悪巧みから救われた。ピッタリのタイミングでエステルがそこにおり、彼女自身も命がけで、自らの使命を果たした。

ヨナタンは、ダビデをどこまでもつけ狙う、父サウル王に進言した。ダビデの良いことを話し「王よ。あなたのしもべダビデについて罪を犯さないで下さい」王に向かって、どんなにか勇気が要ったろう。しかし、彼はその立場にいた。ダビデを深く愛し彼の事をよく知っていた。父サウル王にも一番近かった。

ヨナタンにしか出来ない事であり、彼だけが出来る事であった。彼は自分に出来る事をなし、使命を果たした。私たちも置かれた立場があり、あなたにしか出来ない、あなたにだけ出来る使命がある。御心を成し遂げて行けるよう祈ろう。
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今、この所で自分にしか出来ない神様の働きは何だろう。なぜここに、この状態の中に自分はいるのだろうとそのような目で今を見て行くなら、祈るべき事や次にするべき事に導かれていく。


2012年03月26日(月)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18 


救われた私たちは、主に従って行きたいと願う。しかし、自分の力で、主に従おうとすると、どうなるだろう。例えば、カチン!とくる事が起きると「主は柔和なお方」と、怒りをぐっと我慢し、抑え込むだろう。又、相手の言葉や態度にイライラすると、「忍耐しなければ」と、いら立ちを抑え、我慢しようとする。あちらでも、こちらでも、我慢を重ねる。

しかし、許容量を越えると、必ず爆発する。定期的に爆発しては、それまでの証しが台無しになってしまう。あなたも経験あるだろうか。我慢は、単に心に抑え込むだけなので、それが溜まると必ず大噴火する。主に従うとは、そういう事ではない。抑え込んで我慢する事ではない。それなら、表面を、取り繕うことだ。

クリスチャンである事は、フラストレーションのかたまりになってしまう。そうではなく、欲求不満を底に置いたまま、歯を食いしばって、我慢するのでなく、「我慢できません」「忍耐できません」「腹が立ちます!」と主に心のありのままを告げ、受け止められ、主から力を受けて、歩む生活だ。

まず、ありのままの自分をことごとく主に打ち明けよう。主は愛して受け止めて下さる。受け止めて下さる方がいるとは何という恵みだろう。何でも言える。その時、不思議に心平安になる。そして、御声に耳を傾けよう。主のみ思いを伝えて下さる。その御声に従おう。出来ないと正直に表明しているので、御霊が必ず助けて、働いて下さる。御霊の支配の中に置かれる。何という恵みだろう。
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信仰の薄い者であり、繰り返し失敗する者だから、主が私の手を捉え、支えて下さっている事が嬉しい。一人で頑張るなら、昨日できた事も今日には無理だ。出来ない自分を委ねる時に主からの力で歩みだせる。


2012年03月25日(日)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、 それをさげすまれません」詩編51:17



試験問題でミスしたり、面接で思わぬ失敗をしたり、又、仕事でミスしたりする。
人は誰も皆、失敗をする。どんなに注意していてもミスしてしまう。神ではなく、
人間であり、完全無欠ではないからだ。あなたも、過去に自分がしたとは信じら
れない失敗をしただろう。
失敗は必ずする。大切な事は、その失敗から「学ぶ」事だ。学べば良い。何度転
んでも立ち上がって、再び主に従って行くことだ。

ペテロは大失敗をした。自信満々で、自分は大丈夫、命をかけても主に従うとの
決心が、試みの前にもろくも崩れ去った。主を裏切ってしまった。しかし、見事
に回復され、諸教会のリーダーとして立てられ、主の証人として殉教した。ダビ
デも大きな失敗をした。しかしそれで終わったのではなかった。ダビデも罪赦さ
れ、回復させられた。そして記したあの詩篇から、私たちはどれほどの慰めを受
けることだろう。

私達も皆、信仰が試される。失敗してしまう。しかし、失敗で落胆し、絶望する
必要はない。どんな状態であれ、やり直す事ができる。悔い改めて、そこから学
ぼう。又、何度も〃、同じ失敗を繰り返して、落ち込んでいるだろうか。そんな
自分に失望落胆しているだろうか。

しかし、何度失敗しても、主は赦し続け、受け入れ続けて下さる。十字架で代わ
りにその裁きを受けて下さった。あなたを愛し、愛し続けて下さっている。悔い
た心をあわれんで下さる。その愛と赦しを受け取り続けよう。

・・・・・・・・・・・・・
主の愛は、私たちがどんなに醜く、汚れていて、ひどいものか、そういう事は何
もかもすべてわかった上での愛だ。ペテロに7度を70倍にするまで赦しなさい
と言われた主、その主ご自身が赦して下さらない事があろうか。豊かな赦しを受
け取ろう。


2012年03月24日(土)

「・・私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇 りましょう」Uコリント12:9

 

パウロは肉体のとげを取り除いて欲しいと、主に願った。これさえ無ければ、も
っと働けるのにと。しかし、主の答えは「ノー」だった。「わたしの恵みは、あ
なたに十分」と。その弱さの内に、神の力が現れると。私たちはどうだろう。

「弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難」が来た時にどうだろう。最初はとにかく排除
を願うかも知れない。それが前進を阻むものであり、辛い、嫌なものであり、苦
しめられるものであり、かせであるから除いて欲しい。自由にされたい、解放さ
れたい、逃れたいと思う。受け入れることが難しい。

一人〃形は違うが、目の前に置かれている。しかし、まさにそれこそが、自分を
へりくだらせるものだ。自らの砕きのためのものだ。パウロは、主の御声を聞い
たので、異なった受け止め方ができた。切に排除して欲しいものが、「大いに喜
んで弱さを誇る」と言えた。

そして「キリストのために、弱さ、侮辱・・に甘んじている」と言った。その中に
いる事を喜べて、受け入れる事ができた。その所こそが、主の力がおおう場であ
り、喜びと平安の場所、強められる場所、聖霊の喜びが湧く泉であることを知ら
されたからだ。

排除したいとげが、実は私たちをへりくだらせるものであり、主からの恵みだ。
それによって高慢から守られ、主の力におおわれる恵みを体験する。

・・・・・・・・・・・・・・・
この世では、強さが善で、弱さは悪との価値観だ。弱さを誇れば良いのだが、し
かし問題は、自分自身も根は同じ価値観で、強くありたいので、弱さを受け入れ
られないところにある。受け入れられないと、正直な気持ちを主に告げて行こう。
前に進んで行けて、必ず喜びにまで至らせて下さる。


2012年03月23日(金)

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」ヘブル12:7

イスラエルの民の、四十年に及ぶ荒野での生活は、訓練の時であった。「人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練される」。しかしその中で、「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」とあり、生活の必要を、すべて、何もかも主は満たして下さった。だが、民は、主の愛や配慮、助け、支えに関わらず、不平不満ばかりで、不信仰に陥り、従う事をしなかった。

私たちの信仰生活はどうだろう。私たちの価値観の中に、順境が祝福との考えが無いだろうか。祝福とはすべてがうまく行くこと、受験は合格が祝福、不合格は祝福されていない、畑は豊作が祝福、不作は祝福でない、健康が祝福で、ケガや病は祝福されていない・・根底に誤った価値観が無いだろうか。振り返ってみて、どうだろう。

真実な、真の霊的祝福は、むしろ負の事柄から来ていると、気づくのではないだろうか。挫折、思い通りに行かない事態、行き詰まり・・そこで、真に主に会い、主を知り、自分が砕かれ、変えられたのではなかったか。痛い事ではあったが、大きな霊的祝福とされた。悩みがなく、問題がなく、平穏無事が善、この価値観を変える必要がある。

でなければ、いつも喜んでいる事など不可能だ。すべての事に感謝する事もできず、喜びも平安も無い、常に不安な、思い煩いの一生に終わってしまう。すべては主の御手から来ていて、ご計画の内にあり、万事益とされる、その信仰に絶えず生きるなら、どんなに心安らかだろう。
---------------
自分の価値観を頼りに歩むなら、いつも不安定で思い煩いばかりだ。目の前から来ることは全て主からだと、問題を主に委ね、その意味を主から学ぼう。


2012年03月22日(木)

「『わたしに何をしてほしいのか』・・『目が見えるようになることです』」マルコ11:21


バルテマイは主に「あわれんで下さい」とあわれみを求め、「何をしてほしいのか」と問われた時に、「目を開けて欲しい」と願った。バルテマイを通して、教えられる。まずバルテマイは、自分の目が見えないこと、憐れんでもらわなければならない者である事を、認めた。

人間は、「認める」ことが非常に難しい。自分の本性、本当の姿、弱い、惨めな姿を認めることはなかなかできない。受け入れられない。逃げたり、避けたり、ごまかしたり、あいまいにしてしまう。痛いからだ。そして、自分で認められない時、人に弱みを知られたくない。人にも隠してしまう。すると、ずっと同じ所に止まったままで、変えられる事も成長も無い。信仰の成長は、ありのままの自分を認めることから始まる。認める時、主はそこで働かれ祝福し、成長が与えられて行く。

次に、どんなに弟子達に制止されても、ひるまず、人々の手前も構わず、大声で執拗に叫び立て、叫び続けた。主に呼ばれた時に、盲人として生活する上で、非常に大切な上着を捨てて、主のもとへ行った。もう上着は必要無い。癒して下さる事を信じきっていたからだ。

決して諦めない執拗な求めも、目を開けて下さると「信じた」からだった。そして、そうできない、力の無い相手に、まず求める事はない。主は彼の信仰を喜ばれ、求めに応えられた。目が見えない事を認めて、主に求める時、霊の目を開いて下さる。求めよう。
--------------
弱さや醜さは主がすべて知って下さっているのに「主よ憐れんで下さい」と認め求める事ができないなら主よ私の人生に関わらないで下さいと言っていることだ。主に向かって叫び、闇から光に一歩進もう。主は決して見捨てられない。


2012年03月21日(水)

「私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ」Tサムエル26:11

妬みのゆえにダビデをつけ狙うサウル。サウルが追って来た事を知り、ダビデは、夜にその陣営に向かった。するとサウルと将軍アブネルや兵士達も皆、熟睡していた。今こそサウル反撃の格好のチャンスだ。しかし、ダビデは決して手を下さなかった。その理由は、サウルが「主に油を注がれた王」であるからだった。

だが、同時にダビデ殺害を狙うサウルの行動は、主の御心に逆らうものである事も知っていた。その事について「主は生きておられる。主が、必ず彼を打たれる」と信じていたので、ダビデは裁きを主に委ねた。決して自分で復讐しようとはしなかった。そのしるしに、サウルの枕元にある槍と水差しを持ち帰った。「主が彼らを深い眠りに陥れられた」ので、皆、眠りこけていて全く気づかなかった。

すべての事は主の主権の下にあり、主は眠りすら支配される。やがて、サウルはダビデが二度までも、機会がありながら、自分に手を下さなかった事実を知る。そのダビデを、「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように」とサウルはとうとう祝福した。

人を憎み、敵対心を抱き、呪う時、憎む本人が一番苦しい。喜びも平安も無い。決して自分で復讐せずに、どこまでも主に委ねて行くダビデ、その命を、主が堅く守られた。「復讐はわたしのする・・わたしが報いをする」と言われる主に、裁きを委ねよう。
------------
自分の価値観で周囲の人の悪に対しあれこれ裁いてしまいがちだが、正しい報い、復讐は主にしか出来ない。自分のそういう感情を正しく裁かれる主に、委ねて行く事を学ぼう。


2012年03月20日(火)

「すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので・・その場で死んだ」Uサムエル6:7


ダビデがサウルに替わり、王位についた時に、神の箱をエルサレムに持ち帰ろうとした。その時に、アビナダブの子、ウザとアフヨがこの任に当たり、牛車を御した。その時に神の箱がひっくり返りそうになり、ウザが箱を押さえた。すると神の怒りが燃え上がり、ウザは打たれて死んだ。ウザにこのような事態が臨んだからには、何かの過失があった。

当時、神の箱は、アビナダブの家に運び込まれて、数十年を経ていた。置き去りにされ、忘れられていた。神の臨在の象徴である、聖なる神の箱がこんな形で置かれていた事が、当時の人々の霊的状態だった。又、神の箱は、移動に際しては、レビ人のケハテ族が、棒を通して、肩に担いで行くよう決められていた。

しかし、彼らはレビ人ではなかった。そして、ペリシテ人がしていたように、牛が引く牛車に乗せて運んだ。ケハテ族でさえ触れてはならなかった。神の定めた方法に無頓着であり、反していた。確かに、神の方法でなく、自分の方法で行なった不従順である、しかし「不敬の罪」「ウザによる割り込み」とある。

主のみわざに割り込む事、人の手が主を支えよう、助けようとする罪だ。主にはご計画がある。配慮のつもりで、自分の独りよがりの善意で、自分の思いで、主のご計画に割り込んで、妨げてしまう。主にはしようとされている事がある。
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形式や習慣ではなく、常に主と共にあるご臨在を覚えて日々の信仰生活を送りたい。主のご計画に無頓着になり自分の思いが先立つ時には気づけ、悔い改め、主の御心の中を歩んで行けますように。


2012年03月19日(月)

「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」ルカ10:42


こんな記事があった。「私たちは聖書を読み、祈らなければと思う。しかし、今はその気分ではない。気分が乗らない時にするのは律法的だ、その気になったらしようと先延ばしにする。朝の時間は、すぐ過ぎる。次から次となすべき事が山積みだ。時間がある時にと思っていると、あっという間に昼だ。雑用、会うべき人々、次々起こる事態の対処、もう夕刻になり、夜は、ダラダラと見てしまうテレビ番組、今日も聖書を読む時間が無かった・・。

本当は時間があるのだ。どうしても必要な事はただ一つであり、次善の山のような物事に忙殺される。本末転倒になり、たましいがやせ衰えてしまう。ある人は仕事に追われ、時間が無いから、静まる時間が持てないと思っていた。時間さえあれば、ああ時間が欲しいと。そんなある時、突然の休暇が入った。しかし大喜びで遊びに、弾け、全く主との交わりを持たなかった。

その時、時間の問題でなく、自分自身の問題だと気づかされた。主との交わりを選ばない自分、その事を認めて、御前に出た時に、幸いな交わりの時が与えられた。なかなかデボーションが持てない時、選ぼうとしていない自分がいるかも知れない。自分を責めるのではなく、自分自身の姿を正直に認めて行く時、主が働かれ、上から与えられる。
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主との交わりは、意志を向けて守っていかなければすぐに奪われて行く。忙しい日も、いつでも時間がとれると思う朝も同じだ。主の前に静まり御霊の導きを受けるための時間を取ろう。


2012年03月18日(日)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いに よって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6



主は「思い煩うな」と言われる。ことごとく祈れと。そうするなら、人のすべて
の考えにまさる、神の平安が心と思いを守ると。「あすのための心配は無用」、
「ご自身の栄光の富をもって必要をすべて満たす」からと。「わたしは、世の終
わりまで、いつも、あなたがたとともにいる」、これらを、言葉の通りに、その
まま素直に信じたなら、どうだろう。何の心配も無いはずだ。

しかし、現実には、御言葉は吹き飛んで、恐れでいっぱいだろうか。御言葉半分、
心配半分だろうか。信仰は練習だ。目の前の危機、問題の一つ一つを具体的に祈
り求める時、主はその祈りに答えて下さる。主が確かに答えて下さることをを経
験し、その経験を積み重ねる事により、信頼が少しづつ増して来る。以前も答え
て下さった主は、今回も必ず答えて下さるはずだと。

ある人が、収入が全く無い経験を初めてした。主は必ず与えて下さると、周囲が
どんなに言っても、恐怖だった。祈りつつも、不安、恐れ、思い煩い・・そんな中、
主は驚くべき奇跡をされ、思いを遙かに越えて必要を与えて下さった。初めての
経験だった。物質的困窮を何度も〃通り、必ず満たされ、ついには「今回はどの
ように与えて下さるか、楽しみだ」にまで至った。

目の前の事態は、主との信頼関係が深められるための、練習だ。主への信頼が深
められて行く。泳法の立派な解説書を幾ら読んでも、実際に泳ぐ練習をしなけれ
ば泳げるようにならない。現実の問題の中で、祈り、信じて行こうとする中で、
信頼関係を築いて下さっている。

・・・・・・・・・・・・・・・
人間同士でも、信頼関係は、時間をかけながら、少しづつ培われて行く。通りす
がりの人を信じる事はできない。主から送られて来ている目の前の一つ一つの事
柄が、主との信頼関係が築かれ、深められて行くための機会だ。深められて行く
とは嬉しいことだ。


2012年03月17日(土)

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ 3:27 

                               
群衆の人気が、主イエスの登場により、ヨハネから、どんどんそちらへと移って
行った。ヨハネの弟子たちは「みなあの方のほうへ行きます」と、自分の師を思
うがゆえに、いらだち、妬み、寂しさを感じていた。

しかし、ヨハネは動じず、自分はキリストではないとはっきりと言明し、主が主
役の花婿で、自分は花婿の友人であり、花婿の声を聞いて喜びに満たされている
と言った。ヨハネは、人は関係なく、自分と主との間で、喜びをもって仕えてい
た。真に主に仕える者は喜びに満たされる。そこに満足がある。

そして、ヨハネは謙遜だった。人を見て、人と比較する時、必ず妬みが生じる。
妬みは比較から来る。優越感や劣等感を行ったり来たりする。同僚の昇進、学生
間の成績や人気、又、ライバルの成功など、心穏やかでいられない。プライドが
傷つくのだ。人の成功を、自分の失敗のように感じてしまう。人が誉められると
自分がけなされたように感じる。それらは高慢から生じる。

ヨハネはへりくだっていた。人の栄誉も成功も、与えられるものは、すべては天
からであり、神の御手を認めた。そして、神の与えて下さる自分の分に感謝し、
満足していた。そこには不平も不満もない。すべての事柄に、主の主権と支配を
認める時、そこにへりくだりがあり、心に感謝と平安が臨む。自分に与えられて
いるものに満足できる。

・・・・・・・・・・・・・・・
ヨハネは、すべての事に、主の主権を認めていた。すべては、地からでなく、人
からでなく、天から来る。それゆえ、主にすべてを委ねて、安んじていた。天の
支配を認めて、与えられるものに満足して行くなら、どんな中でも動く事のない
平安で満たされる。


2012年03月16日(金)

「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」マルコ5:35 


信仰を妨げるものとは何だろう。「遅かった」、「手遅れ」ということだ。もうダメだ。神の時と、私達の時はしばしば異なる。ヤイロは病の娘のために、主に家に来て頂くよう頼んだ。主はそれに応えられ、共に家へ向かった。その途上に、妨害が入り、中断を余儀なくされた。長血の女性が主のもとに来た事で、手間取ったのだ。

一刻を争うこの時に、ヤイロは気が気でなかったろう。するとそこに使いが来て、娘は亡くなったと告げた。遅かった、手遅れ、もうダメだと。しかし、主は即、「恐れないで、ただ信じていなさい」と、ヤイロに言葉をかけられた。

神の「時」がある。すべてが主の御手の内、主に遅延は決して無い。ラザロの時も、主は時を待たれた。時が満ちるまで断固動かれず、そして、死んだラザロをよみがえらせる事により、主の栄光を現わされた。遅れではない。それは主の定められた「時」であり、栄光のためだ。主が語られた御言葉を握っていよう。「恐れないで、ただ信じていなさい」の言葉にすがりつき、そこに立つことだ。

そして世の言葉「なぜ、この上先生を煩わすことがありましょう」を聞き流すべきだ。否定的な言葉から不信仰、疑い、不安、恐れが生じる。世の言葉、肉の言葉、サタンの語りかけを拒否しよう。聞く言葉と聞き流すべき言葉がある。
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私を十字架で救って下さった主を、自分の勝手な量りによってあきらめ、悩みや問題から主を締め出して「自分で対処します」の冷ややかな態度をとる事がある。どんなに長く困難な解決に見えても、ただ信じ、主にのみすがっていたい。


2012年03月15日(木)

「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44


誰しも、人に評価されたい、認められたい根深い欲求がある。ある人が、自分が一生懸命仕事を頑張るのは、人の評価を得たいがためであり、それが恐れにまでなっている事に気づかされた。時に、仕事上でミスがあった時には、残業や、休日出勤をして人に知られないようにミスに対応、とにかく失敗を人に知られたくなかった。非常なストレスであった。

ある人は、人の評価を恐れて、へつらってしまう事に気づかされた。人の意見に決して反論せず、同調してしまうのは、人に嫌われたくないからだと。私たちはどうだろう。神の評価と人の評価、どちらに生きているだろうか。サウル王は「アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ」と命令されていた。

ところが命令に従わず、最上の物を惜しんで残し、どうでもよいものだけを聖絶した。この事をサムエルに問い詰められると、民がそのようにしたと、民のせいにし、言い訳した。この事でサウルは王位から退けられるが、尚も、民の前で面目を立てて欲しいと願う。

人々の目を気にし、人の評価を恐れた。私たちも、人の目を気にし、世間体を気にする根深い、肉の性質がある。しかし「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」。人は正しく評価できない。不完全な人間の評価に振り回される必要はない。何を恐れ、何を気にしているのか、よく気づけるように。
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神も御言葉も信じているのに、目の前の人の評価も自分のうちで大きな比重を占めてしまう。人の目に映る自分に重きをおき、神の目や御言葉が二番手、三番手になっているなら祈り、正しい所に立とう。


2012年03月14日(水)

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます」ヨハネ10:3


羊は、羊飼いの声を聞き分ける。しかし、巷には、様々な「声」がある。主の御声があり、サタンが語りかける声もある。自分の肉から湧き上がる声があり、人の声がある。色々な「声」が混線している。サタンは神の御声を真似て、光の御使いに変装する。神からの御声と錯覚させる。そのため、どこからの「声」なのか、根源がどこなのか、識別する必要がある。

主の御声を確かめるためには、それは御言葉と合っているかを見る必要がある。聖書全般を通して、主のお心に反していないか。もし「苦み」があるなら、それは主からのものではない。「苦いねたみと敵対心があるなら・・そのような知恵は上から来たものではなく・・地、肉、悪霊に属するもの」とある。

又、次に、その声は心に平安を与えるかどうかで判別できる。主からの御声は、心にいのちと平安を与える。その声で、心が暗くなり、落ち込み、不安、思い煩い、焦燥、怒り、苦しみが生じるなら、主以外の声だ。又、わけもなく急かすものも、主からではない。主は不安を与え、急かすのではなく、平安与え、導かれる。

又、その声と「環境」を照らし合わせると良い。主からの御声は、状況も、必ずそのように導かれて行く。そこに矛盾はない。主の御声を聞き分けるために、自分の思いや願望を明け渡すよう示される事があるが、聞き従って行く時に、豊かないのちへと導かれる。
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聞き分ける羊のように、主の御声に対する求めがあるだろうか。いらいらし苦しくなる時は、他の声を聞いていないか、何か間違っていないかと御前に行き、主からの御声を静まり聞こう。


2012年03月13日(火)

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え・・」ヨハネ14:26

色メガネをかけるなら、景色がその色に見える。もし、自分の偏見や思い込み、独断の色メガネで見ているなら、目の前の事態がそのようにしか見えない。ありのままの景色を見るためにはどうすればよいか。色メガネをはずす事だ。風景の問題でなく、自分の偏った、間違った見方が問題だ。

ある人が対人関係でトラブルが起きたが、どうしても、相手が悪いとしか思えなかった。自分は被害者であって、悪くなどない。しかし、心に喜びと平安が無い。心は辛くて、重苦しく、暗いままだ。余りに苦しいので、主の御前に出て、あれやこれやと心の内を打ち明け、祈っていた。その時、御霊は示して下さった。

自分は被害者だと思っているので、自分を正しいとしていて、全く気づかなかったが、相手を憎み、敵対心を抱き、裁いている。そこに愛のかけらも無かった。これは自分の罪であり、主に対して罪を犯しているので、心に平安が無く、苦しいことを。相手は関係無く、自分は自分の罪として、御前に悔い改めた。

その時、平安が戻り、心が安堵で満たされた。この平安は何ものにも代えられないものだった。被害者だと思う陰に、憎しみや妬み、高慢が潜んでいて気づかない。御霊は、私たちを照らし、気づきを与え、信仰生活を導いて下さる。
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自分のメガネで見たものを御霊によって濾過され、捨てるべきもの、変えるべき所をいつも教えられる。主にとどまり御霊の導きを意識して、御霊に頼っているならいつも主が平安へと導き返して下さる。


2012年03月12日(月)

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」マタイ6:21

あなたの「宝」とは、富、金銭に限らず、名誉、地位、能力、人の評価、称賛等、その人にとって無くてはならぬ、非常に大切なものの事だ。命ほどに大事なものだ。そして、財産、富、栄誉、地位、称賛、能力、それ自体は何も悪いものではない。罪でも悪でもない。しかし、主は、それらを「宝」とするな、拠り所とし、執着し、人生の判断基準とするな、と言われる。

「自分の宝は、天にたくわえなさい」地上のものに執着せずに、神に望みを置き、天国とそこでの素晴らしい報いに望みを置くようにと。その理由は「虫とさびで、きず物になり」地上の宝は、虫やさびで、だめになり、朽ちてしまう。高価な衣服が虫に食われた経験があるだろう。地の物は虚しい。

又、「盗人が穴をあけて盗み」名誉、地位、賞賛は永遠ではない。富も持って死ねない。永遠のためには何の価値もない。そして「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」これは重大だ。宝が地上のものであれば、心は地に縛りつけられたままだ。決して天に、神に向く事はない。

貪欲は底がない。幾ら持っても足らない。満ち足りるという事がない。逆に言えば、心を神に置きたければ、あなたの宝を・・時間、富、労力を、神に献げて行けばよい。そうすれば、必然的にそこに心があることになる。心は宝のある、天に、神に向いて行く。
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天に携え持っていけるのは、神からの賞賛を受けるものだけだ。この世の価値観に影響されやすいから、最大の関心事やよりどころが何処にあるのかと吟味してみよう。今は見えていないが神からの報いに心を向けよう。


2012年03月11日(日)

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを 認めさせます」ヨハネ16:8        

              
 
ある人が、過重労働の中、仕事の重圧にストレスは溜まり、とうとう心身に限界
をきたした。食欲無く、眠れなくなり、睡眠薬に頼るようになった。非常な恐れ
や不安、孤独感に襲われ、診察を受けた結果、しばらく休職となった。そんな時、
知人に誘われ、行ってみようと思えて、教会へ足を運んだ。

そこでの賛美の歌、祈り、聖書、何もかもが生まれて初めてで、戸惑ったが、し
かし、カラカラに渇ききったスポンジが水を吸い込むように、どんどん心にしみ
渡って行った。何かしら不思議な安堵感があった。それで通うようになった。

しかし、余りにも苦しかったので、何でもよい、ただただ、わらにもすがりたい
だけだった。自分の「罪」が、何もわかってはいなかった。ある日、「自分はだ
めな人間」と言った時に「それは感謝ですよ」と、だからこそ、神の力を知れる
と言われ、カチン!と来たのだ。

だめ人間だと、他人から同意された事に激しい怒りが湧いた。口先では言うが、
自分は絶対に思ってなどいない。その時、自分のプライドがあらわにされた。自
分の力で生きて来て、人一倍高いプライドがあり、そのプライドが神を認めさせ
なかった。

神など必要無い。まさに自分が神であり、恐るべき自分の高慢を見せられた。御
霊の光であった。人より優位に立ちたい、人に勝ちたい、認められたい、今まで
の人生そのためにだけ、生きて来たとわかった。罪を認め、心から悔い改めた時、
大海のような平安に包まれた。

・・・・・・・・・・・・・・
御霊が、自分の本当の姿を見せて下さる。御霊によらなければ、自分の姿は何一
つわからない。色々な出来事の中で、普段は全く見えない、底に潜む様々なもの
に気づかせ、光のもとに出し、信仰人生を自由に、自由に、喜びに満ちたものに
して行って下さる。


2012年03月10日(土)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願 うからです」ヤコブ4:3



なかなか答えられない祈りがあるだろうか。動機を探ることは有益だ。主は私た
ちの祈りを軌道修正しながら、御心にかなった祈りへと導いて下さる。強い願い
があり、どうしても欲しいものがあるだろうか。

ただ、その願いが自分の肉の欲望から出ていないか。それを得ることで、自分が
賞賛を浴び、自分が栄光を奪い、ますます高ぶって行くなら、主は私たちを愛す
るゆえに、与えることを控えられる。今、あなたの、強い願望、どうしても欲し
いものについてはどうだろう。

果たしてそれが本当に自分に必要なのかどうか、それを、神に聞く事ができるな
ら、「欲望」の誘惑から守られる。欲望は際限がない。底無しだ。持つなら、更
に渇き、ますます欲しくなる。欲しいものと必要なものは異なる。自分の欲望に
従って、次々と求めて行くなら、いつしか欲望のとりこになってしまう。

今、欲しいものがあるなら、自分に必要なものかどうかを、神に祈ろう。そうす
るなら、サタンの誘惑の足場を砕いてしまう。そして、もしそれがあなたに真に
必要なものなら、神はどのようにしてでも与えて下さる。

ある人は、一見正当な求めが、神の名のもとに、実は自我によるものであると示
された。自分の賞賛のため、自分の栄光のためだとわかり、悔い改め、明け渡し
た。もう持たなくてもよいと、心底思えたその時に、思いもよらず、天から与え
られた。心の動機をきよめて下さる。求めているものが正しく良いものであって
も、動機が間違っている場合がある。御霊に心探って頂こう。

・・・・・・・・・・・・・・・
主は動機を見ておられる。何のために、それをしているのだろう。主のためと言
いつつ、実は自己満足のため、自己実現、自分の評価を得たいがため。しかし、
主の変わる事のない愛に包まれ、きよめて行って下さるとは、何と有難いことだ
ろう。


2012年03月09日(金)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」Uコリント12:9


パウロは、大いに喜んで、自らの弱さを誇ると言った。初めてこの御言葉に触れた時に、不思議に聞こえただろうか。この世の価値観では、強いことが良い事、善であり、弱さは劣った事であり、悪だ。だから、頑張って弱さを克服し、強さに変えようと努力する。弱さは欠点であり、あってはならない事なので、人前に自分の弱さは恥であり、恐れとなる。そのため、決して知られたくないし、誰にも見せたくない。

多くの人はそのように生きている。だから弱さを何とかしたいと思っている。弱さは足かせであり、重荷であり、取り除きたいもの、解放されたいものだ。パウロにも弱さがあり、それを除いて欲しいと切に願った。そして繰り返された切なる祈りの中で、パウロは「わたしの恵みはあなたに十分。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れる」との御声を聞いた。

主に取り扱われ、パウロは初めて、大いに喜んで弱さを誇ると言えた。とげが除かれる事でなく、「私は、弱さに甘んじている」と、その中にいる事を喜べた。そして「高ぶることがないようにと、一つのとげを与えられ」、とげは、自らをへりくだらせるものであり、とげを受け入れることにより、高ぶりから守られる。
弱さ、侮辱、苦痛・・を甘んじて受け入れる事が、私たちを恐るべき高慢から守ってくれる。
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弱さを認め、それを信仰による強さに変えられるよう様々に取り扱われる。弱さ、足りなさの中に主がおられ「わたしの恵みは、あなたに十分である」と今日も私達を励まして下さる。


2012年03月08日(木)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」マタイ6:34


私たちは、よく思い煩ってしまう。主は「明日のことを思い煩うな」と言われた。明日の計画、備えをするなと言われたのでなく「思い煩うな」と言われた。人は、自分の力量を越えた事に関して思い煩う。明日の事は、人間にはいっさいわからない。又、人は見えるものによって、安心を得ようとするので、目に見えない事について思い煩う。

しかし、主は「あすのことは、あすが心配する」と言われ、明日は、明日が心配するから、今日心配しなくてよいと。明日の事は自分の限度を越えていることだ。明日を思い煩うことで、今日を、今の貴重な時間をつぶしてしまう。今日なすべき事が行なえない。生き生きと、主を喜び、感謝し、主を証しするための今日を、暗い、沈んだ、平安と喜びのない一日にしてしまう。思い煩いほど、生きる力を奪うものはない。

「労苦はその日その日に十分あります」の通り、今日一日の御心があり、なすべき事がある。そして「今日」の分は負う事ができる。「今」の時を、精一杯生きるようにと。そのために、大切な事は、思い煩いを主に委ねることだ。ことごとく内にある感情も気持も主に聞いて頂こう。何もかも洗いざらい告げる時に、委ねることができる。「明日」を委ねて、「今」、主を信頼して、平安に歩むならどんなにいいだろう。
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まだ来ない明日を思い煩い、また明日になると明日を煩うなら永遠に神様から与えられた大切な今日を精一杯生きていない事になる。明日の事はお委ねし、与えられた今日を喜ぼう。


2012年03月07日(水)

「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく・・このわたしを退けたのだから」Tサムエル8:7


サムエルの息子たちが、「父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた」。それで、民は後継者にと、他国のようにと王を求めた。しかし、民はこの時に祈るべきであった。主に導きを求めることなく、自分たちの思いで、肉の判断、肉の求めをした。

主は、サムエルを通して、人間の王の権利を示し、「あなたがたは王の奴隷となる」と厳しく警告された。しかし、それにも関わらず、自分たちの思いを主張した時、主は王を与えられた。肉の判断は、後に肉の実を刈り取ることになる。主は民が願った通りに、外見的にも素晴らしい人物を選ばれた。若い美しい男性で、彼より美しい者はおらず、誰よりも背も高かった。容姿端麗であり、彼らの願い通りの王だ。

サムエルはサウルに油を注ぎ、王に立てた。サウルに主の霊が激しく下り、預言を始めた。ただ、人間的には良い人物であるが、霊的資質には問題があった。ダビデのような主との個人的親しい関係、主を畏れ、主を愛し、悔い改め、従う、そのような主への心が見られない。権力の座に座った時に、その弱さが少しづつ現れ、芽吹き、高ぶって行ってしまった。

サウル自身にも王がいて、ひれ伏し、従う者である事を忘れ、欲しいままに振る舞って行った。自分の思いを押し通すのではなく、主が何を願っておられるのか、その視点に絶えず立つことの大切さを学ぶ。
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強い思いが先立つ時、主を退け自分で動いてしまう。主はいつも警告していて下さっている。肉で動きイライラしている時、軸がぶれていないか傲慢になっていないか、交わりの中で主の御心を聞いていこう。


2012年03月06日(火)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2


私たちの日常は、洪水のように言葉が氾濫し、溢れている。テレビやラジオ、新聞、雑誌、ネットから、ありとあらゆる言葉が流れ出て来る。溢れる言葉に囲まれ、さらされて生活している。では、言葉の洪水の中から、私たちはどの言葉を聞いているのだろう?自分はクリスチャンなのだから、地の言葉ではなく、神の言葉を聞いていると思っているだろうか。

しかし、ここで問題は、聞き方だ。どんな態度で聞いているだろう。聖書の中から、自分の好きな言葉、都合の良い言葉だけを選び取り、痛い言葉、罪を指摘される言葉、都合の悪い言葉は流してしまう。それなら、主が主なのではなく、自分が人生の主人であり、自分の都合で、御言葉を取ったり捨てたりする事になる。

自分が、御言葉の下にへりくだるのではなく、御言葉の上に立って、選り好みしていると、いつしか、御言葉を御言葉として聞けなくなってしまう。主の御声がわからなくなる。そして、ことばを聞くことの飢饉となってしまう。御言葉が無くなるのではなく、御言葉は常にあるのだが、自分の側で受け取れなくなってし
まう。

「主のことばを聞くことの飢饉」となり、「主のことばを探し求める。しかし、これを見いだせない」御言葉を見いだせなくなってしまう。愛して下さっている主からのことばを、へりくだって受け取ろう。痛い言葉こそが、自分に語られている必要な言葉、聞いて従おう。「わたしが目を留める者は」のごとく、そこに主の慈しみ目が留められている。
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御言葉の下に、従う心で身を置こう。内から外からの声に惑わされず、へりくだり自分だけに語られる主の声を、ひとつひとつ受けていかなければ、見い出せない鈍き者になってしまう。


2012年03月05日(月)

「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな・・主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」エレミヤ4:3

「いばらの中に種を蒔くな」とあるように、豊かな結実のためには、開拓された、よく耕された地に種を蒔く必要がある。いばらの中に蒔いても、豊かな実を結ぶことはできない。私たちの心の状態はどうだろう。主に対して心開かれているかどうかだ。

「いばらの中に種を蒔くな」とは、「あなたがたの忌むべき物を、わたしの前から除け」いうことだ。私たちの心から、主以外のものに向かう、様々な雑草を引き抜けと言われている。種蒔きのたとえの、いばらの地は、富の欲望や快楽、世の心遣いで、せっかくの芽をふさいでしまった。生活の中で、主から心を引き離
すものを取り除くことが必要だ。再び世のものを追いかけてしまうなら、自分自身が主から離れてしまう。

又、エレミヤは「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」と言った。当時のユダヤ人は外的な割礼というしるしに安んじ、それを誇っていた。そうではなく、主が求められるのは、内面的な割礼だ。頑なな心、従おうとしない、どこまでも自分を通そうとする固い心を取り除くことだ。

イスラエルは砕きのために、バビロン捕囚を通された。試練の恵みを通される。自分でどうにも出来ない頑なな心が、試練によって砕かれる。非常に痛いが、苦しみを通して、荒地の岩の心を、柔らかい心に耕して下さる。放っておかれたら、どうなった事だろう。必ず「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした」と言えるようになる。
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主の取り扱いにより、主にのみ拠り頼めるよう砕き耕されるのは感謝な事だ。雑草やいばらで心を思うままにしてはいないだろうか。主とともに歩む平安と豊かな祝福を味わい生きよう。


2012年03月04日(日)

「・・毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従 って歩むかどうかを、試みるためである」出エジプト16:4

    
   
主の偉大な奇跡により、出エジプトを果たしたイスラエルの民。「主に向かって
歌え。主は輝かしくも勝利を収められ」と主を讃え、喜びを謳歌した。そして荒
野に出て3日間歩いた途端、「水が無い」とのつぶやきに変わった。次に食べ物
が無いと不平不満をモーセにぶつけた。

エジプトで死んだ方が良かったとまで言いつつ。主はそれに答えられ、天からマ
ナを降らせ、夕にはうずらの大群を降らせられた。このマナは1日分だけと命じ
られていた。従わずに朝まで残しておくと、虫がつき腐った。朝ごとに各自食べ
る分だけ集め、残ったものは、日が高くなると熱くなり溶けた。

主は「朝ごとに」「各自」「食べる分だけ」と定められた。どうだろう。1日分
だけと言われても、密かに明日の分も、いや1週間先まで、集めるだけ集めてお
きたい・・もし、翌日降らなかったら?主を信じられなかったら、そうしてしまう。

主は、来る日も〃、荒野の40年間、毎日〃マナをもって養われた。これは自分
でなく、主によって生かされているという事実を叩き込もうとされた。「神が私
を生かして下さっている」「私は神により生かされている」これを心底知る時に、
思い煩いから解放される。

日々、様々な形で、神に信頼し、御声に従う訓練が、私たちにも臨んでいる。信
じようとしないなら、いつまでも主を知ることがない。御声に、言われた通りに
従ってみよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
御言葉を聞くだけで、御言葉に従うことが無ければ、いつまでたっても主を知る
事ができない。主が言われた通りに従ってみよう。その時、みわざを見、主がま
ことに真実であられ、どんなに愛されているかを経験的に知って行く。


2012年03月03日(土)

「イエスは、パンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやら れた・・小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた」ヨハネ6:1




主は、ご自分では、しようとしている事をご存じの上で、ピリポに「どこからパ
ンを買って来ようか」と問われた。ピリポは「200デナリのパンでは足りない」
と答えた。人間的、常識的判断では不可能だ。手元の金額と人々の入り用を算段
すると「足りません」が答えだった。

ところがアンデレは、何か食物を持っている者はいないかと、群衆の中を探し回
った。そして小さな弁当を持っている子供を連れて来た。それは五つのパンと二
匹の魚であった。これは、あるいは、主が何かして下さるのでは、と思ったのか
も知れない。「あるいは・・しかし、こんなに大勢では何になろう」主への期待と、
しかし、大勢過ぎて無理か・・の思いが行ったり来たりの状態だった。

だが、主はこの小さな信仰を用いて、この奇跡をされた。ここで学ぶ事ができる。
「足りない」との判断、答えは、自分を軸にした見方、視点に立っている。それ
を自分軸でなく、神を軸にした視点に変える事が必要だ。時間が無い、能力不足、
身体的に無理、費用も無い・・だからダメ、それはあくまでも自分視点であって、
主はどうなのか。

そして、5つのパンと2匹の魚、「それが何になりましょう」こんな微少のもの
が何になろう、あっても無くても同じ。「無理」、しかし、その僅かなもの、小
さなものを、主に献げるなら、主の奇跡の中に招き入れて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
主に献げる際に、富、時間、労力にせよ、「こんな僅かなものが何になろう。あ
っても無くても同じ。何の足しにもならない」との思いが来る。サタンの妨げだ。
その小さなものが、主の手に置かれるなら、奇跡が起きて、何倍にもされ、用い
られる。


2012年03月02日(金)

「主が彼に幻の中で、『アナニヤよ。』と言われたので、『主よ。ここにおりま す。』と答えた」使徒9:10


        
アナニヤはダマスコに住んでいた。当時、キリスト者は、激しい迫害の中、エル
サレムから方々に散らされ、国外にまで散らされた。しかし、それをユダヤ人た
ちは執拗に、徹底的に追った。青年サウロは、殺害の意に燃えて、大祭司にダマ
スコの諸会堂宛の手紙を書いてもらい、彼らをエルサレムに捕らえて来ようとし
ていた。その途上で、突然、天からの光を受けることになる。

一方、アナニヤは、迫り来る大変な危機に、必死に祈っていただろう。そんな時
に、「アナニヤよ」との御声を聞いた。どんなに心強かっただろう。しかし、そ
の主の言葉は、驚くべきものだった。迫害に迫害を重ねて来た、サウロに会いに
行くようにと。盲目になっている彼の開眼のために祈れと。

アナニヤはこの想定外の内容に、理解できず、彼は迫害者で・・と問うて行く。
主は、彼は選びの器であり、行けと答えられる。アナニヤはどうだったろう。
愛する人々、同胞を殺した相手だ。その相手の助けとなり、祈れと言われる。
あの迫害の鬼のようなサウロが、本当に回心したのだろうか。自分も殺されるか
も知れない。まさに命がけであったろう。それに本当に主の御声なのか。間違っ
て聞いているのでは?様々な思いがよぎったかも知れない。

しかし、アナニヤは従った。主はアナニヤをこのために選ばれたのであり、彼が
従うと知っておられた。彼は、常々ずっと、御声に耳を傾け、主との交わりの中
に生き、従い続けて来た弟子であった。それゆえ主の御声がわかり、従うことが
できた。私たちも日々の地道な交わりを大切にし、「主よ。ここにおります」と
答えよう。
------------
心をいつも主に向けて開き、御言葉や御霊の導きを聞いていよう。自分の強い思
い込みが、主の働きを妨げているかもしれない。いつでも応答していけるよう、
自分をまず脇に置き、主の御声を待とう。


2012年03月01日(木)

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのか らだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」ヤコブ4:1



なぜ争いや戦いがあるのか、その原因は、争いたい、戦いたいという「欲望」が
あるからだと言っている。対人関係で、相手と敵対関係になると、相手を憎み、
敵対心を抱き、悪口を言い、攻撃して行く。それが国と国の間になると、戦争に
なる。個人間であれ、国家間であれ、敵対関係があるのは、そこに争いたい、戦
いたい「欲望」がある。

そして、どのように原因である「欲望」が生まれるのか。「あなたがたは、ほし
がっても自分のものにならないと、人殺しをする。うらやんでも手に入れること
ができないと、争い戦う」とある。争いや戦いのもとは、自分の利得であり、そ
の欲しいものを、自分の力で、力づくで得ようとする。

又、相手を羨むこと、相手への妬みだと。争いや戦いの根に、嫉妬がある。自分
には無くて、相手が持っているものが羨ましくて仕方がない。それは相手が持つ
能力、名誉、地位、立場、人望かも知れない。自分には手にする事ができないの
でうらやみ、争い、戦う。しかし、得ることができない。ますます妬みのとりこ
になってしまう。

主は、願いがあるなら、「わたしに求めよ」と言っておられる。「あなたがたの
ものにならないのは、あなたがたが願わないからだ」と。祈り求めよと。人への
敵対心を持つ裏に、妬みがないだろうか。「愛する兄弟たち。だまされないよう
にしなさい。すべての良い贈り物・・完全な賜物は上から来る」のであり、そこ
に神を認めるべきであり、人に向かうのでなく、主に願って行くことが大切だ。
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ストレスを感じる人との関係は何が原因だろう。自分のどこを変えられるべきか
、なかなかわからない。よく自分を吟味し、よく祈り、自分の弱さや足りなさを
示して頂こう。そしてそこを主に満たしてもらおう。