2012年04月30日(月)


「・・そのために私は、高ぶることがないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」Uコリント12:7

ギデオンの当時、イスラエルは絶えず侵略受け、苦しい状況であった。神はギデオンを立て、民を率いて、諸国と戦わせようとされた。呼びかけに三万二千人が集まった。しかし、相手は十三万五千人の大軍であり、圧倒的不利で、勝ち目はない。だが、神は不思議な事をされた。ギデオンに、兵士の数が多すぎるので、減らすように命じられ、最後にはたった三百人の兵士が残された。

その三百人で戦うや、ギデオンの大勝利に終わった。この時、神はギデオンに兵士を減らす理由として「大人数だと自分の手で自分を救ったと、自分を誇るから」と言われた。この戦いの勝利が人間ではなく、神の力によるものと明確にわかるよう、あえて兵士の数を減らされた。

私たちは、自分がもっと強ければと思うだろうか。しかし、もし強ければ、神の働きを自分が奪い、自分を誇り、自分の栄光にしてしまう。信仰的体験さえも、肉は誇る。パウロは、素晴らしい啓示を受けた。第三の天にまで引き上げられるという、まさに特別のものだった。パウロも、自分を誇る弱さがあり、それゆえ余りにも大きな特別な恵みに、高ぶる事がないように、とげが与えられたと言っている。

苦しく辛いとげであったが、それにより、高ぶりの罪から守られた。高ぶりからの守りは何と感謝な事だろう。そして更に素晴らしい啓示を受けた。「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と。この世では誇れるのは強さだが、私たちは弱さを誇れるとは何という恵みだろう。
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自分の知恵や経験に頼れない状況で、神様のご栄光が明確にわかる体験をする時、神様のもとに心底へりくだらされる。自分の弱さを知ることが大きな祝福であり神様に頼れることが幸せだ。


2012年04月29日(日)

「だから神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば・・これらのもの はすべて与えられます」マタイ6:33 

  

ハドソン・テーラーの証しを耳にした事があると思う。彼は医者の助手をしてい
た。その医師は給料を時々渡し忘れるので、その時には、言ってくれと言われた。
ところが彼はそういう事があれば、信仰の訓練とし、決して言わずに祈り、神か
ら答えを頂こうと考えた。

案の定、医師に忘れられた。段々食料も無くなり、残りが銀貨1枚になった。そ
の時に、貧しい子供が来た。母親が病気だ。手元には銀貨1枚しか無い。半分な
ら喜んで上げるが、1つしか無いので、あげられないと思った。

祈り始めたが「偽善者」との思いが来る。「祈りよりも、それを与えるべきだ」
と。出来ない自分に、神にのみ頼る信仰など無いと知り、惨めになった。しかし
結局は、子供に上げて、財布は空になった。

だが心は平安と喜びで満ちた。その日の夕飯は残り物を食べた。しかし、翌朝か
らはもう何もない。すると早朝に郵便が来た。封筒を開くと、彼が与えたお金の
数倍が入っていた。
そのお金が丁度無くなる頃、医師が給料の事を思い出してくれた。神は真実であ
り、生きて働いておられる。

「彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした」「正しい者が見捨てられ
たり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」ツァレハテのやもめは、飢
饉の中、最後の一握りの粉をエリヤに献げた。死を前にした、最後のギリギリの
ものを献げた、その時に、かめの粉は尽きず、つぼの油は無くならなかった。真
実な主が共におられる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
御言葉に従って行く時、主のみわざを見て、御言葉の真実を経験する。それを繰
り返す中で、信仰が強められて行く。御言葉に従ってみよう。主がどんなに真実
に答えて下さるかを、身をもって知って行く。目の前の導きに一歩従おう。


2012年04月28日(土)

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありませ ん」ヨハネ4:14



このサマリヤの女性は、暑い真っ昼間に水汲みに来ていた。普通は涼しい早朝や
夕方に水汲みをする。それは人目を避けての事だった。主は、そんな女性に飲み
水を求められた。
そして、やり取りの末、夫を呼ぶようにと言われた。彼女は決して触れられたく
ないデリケイトな部分であり、「夫はいない」と答える。すると主が、夫が5人
いたが、今いるのは夫ではないと真実を告げられた。

彼女は罪の生活をし、過去の傷を背負っていた。5回結婚し、5回離婚し、今は
同棲中だ。その過去と現在のため、人目を避け、隠れた、縛られた生活をしてい
た。近所の噂の的であり、好奇の目で見られ、人々から軽蔑されていた事だろう。

この罪の原因は、心の渇きにあった。彼女は愛を求め、男性が自分を幸せにして
くれ、心を満たしてくれると信じ、結婚を繰り返した。しかし、渇きは癒されず、
暗い過去に行く手もふさがれ、喜びも希望も持てないでいた。

主は、彼女の渇きを、心の空虚をご存じであり、彼女のために、サマリヤを通ら
れた。主は、決して渇く事のない、生ける水を与えられた。彼女は180度変えら
れ、人前に出て行き、主を伝えた。

彼女の心は解き放たれた。彼女に目を留められた主は、あなたに目を留めておら
れる。主に出会った経緯を振りかえる時、主のあわれみと慈しみに感謝が溢れる。
過去は赦され、癒される。心縛られていたものから自由にされる。

・・・・・・・・・・・・・・・
主は心の奧の渇きをご存じだ。彼女は、痛い傷に触れられた時に逃げなかった。
それゆえ赦され癒された。私たちにも、主は更に深い交わりに入れるために、妨
げているものを示される。逃げずに、主と向き合う時、更に親しく主を知って行
く。


2012年04月27日(金)

「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ」エレミヤ29:7


エレミヤの時代、イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされ、捕虜として連行された。しかし、そのアッシリヤは、バビロンによって滅ぼされた。バビロンはどんどん侵攻し、国々は滅ぼされ、とうとうユダ王国も、バビロンに捕囚の身となった。当時のユダは神から離れ、民は偶像礼拝に走り、堕落していた。預言者たちは、耳ざわりの良い、心地良い言葉だけを語り、平安が無いのに「平安、平安」と言っていた。

しかし、神の人であるエレミヤは真っ直ぐに語った。そのため苦しめられた。バビロン捕囚の最中、真っ暗な中で、エレミヤは神の言葉を語った。その捕囚は、一見「災い」としか見えないが、決して災いではなく「平安・将来・希望」のためのものだと。すぐに解放にはならないので、その地で落ち着いて、腰を据えて生活せよと、そして、敵であるその町の繁栄を祈れと。それは自分達の繁栄になると。

私たちも苦悩の時、一番欲しい言葉は今すぐ問題解決、苦しみ悩みから解放されるというものだ。しかし、口先だけの励ましは、更に傷を深くする。全く思い通りでない、かせのような現状を受け入れる時、その中で神からの支え、励ましにより生きて行けるという事だ。現実をしっかり受け入れる事が大切だ。いつまでもそのままではなく、「70年の満ちる頃・・あなたがたを帰らせる」。現状を受け入れて、その中で神に従って行こう。そこに「平安」が約束されている。そして神の時に、そこから出して下さる。
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苦しみの時を長く通される事がある。よく祈らず御言葉にも触れる事なくいると、人間的な心地よい言葉に惑わされてしまう。そこでも繁栄を祈れと言われる。主だけが解放を与えて下さる方だ。主を見上げ主だけに平安を求めよう。


2012年04月26日(木)

「だれでも、神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」ヨハネ7:17

                
神の御声を聞いて従って行くのが、信仰生活であるが、神の御声が聞こえなくなる事がある。自分の思いで一杯な時は、強い自分の思いが、神の御声を妨げてしまう。自分の思いがあるばかりだ。又、神の御心がわかっても、神の計画よりも、自分の計画の方に心が占領されている時は、御声に従えない。

私たちは、祈りの中で、自由に自分の気持ちを、主に告げるべきだ。詩編記者は怒りも、悲しみも、苦しみも、嘆きも、何もかもを、正直な気持ちをぶつけている。又、心の願いを神に祈れと言われている。願いは神のもとへ持って行くとよい。それが神の御心と一致するなら、その願いは叶えられる。

しかし、すべての願いが叶うのではない。神はご自身の思いを持っておられるので、それが一致するとは限らない。その時は、痛いかも知れないが、自分の思いよりも遙かに高い神のみ思いがある事を受け入れて行く時だ。

主がゲッセマネの園で、「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られ、御父の御心を受け入れて行かれたように。自分の思いを捨てて、神のみ思いに従うなら、大きな祝福にあずかる。一つ一つ示される御心に、自分の計画を捨てて従う時、その時、主ご自身を知って行き主との関係が深められて行く。
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みこころを行おうとする時に、岩のように硬い自分の思いや従えない弱さを認識する。祈りながら御言葉に聞きながら明け渡すプロセスが喜びとなり祝福だ。御声を聞き分けて従って行きたい。


2012年04月25日(水)

「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう」詩編50:23


「感謝」は、神へのいけにえであり、神が喜ばれるものだ。感謝を献げる時、驚くべきみわざを見る。感謝は、砕かれたたましいが献げる事ができる。感謝する事は、現状を認める事であり、受け入れる事だ。砕かれた人がそうできる。反抗心があるなら感謝ができない。事態を受け入れる事ができず、不平不満、愚痴で一杯になる。感謝は、思い通りにならない状況にも、神の主権と支配を認め、神からのものと受け止めて行く。

無駄なものは一つもなく、一つ一つに神のご計画があり、意図があることを信じる。そして、夜の後に必ず朝が来ること、トンネルは必ず出ること、神が必ず良くして下さることを信じて行く。耐えられない試練は無く、脱出の道も備えられている。どんな時にも希望がある。それゆえ感謝を献げる。見えるところが夜であり、真っ暗であっても、主の愛に目を向け、必ず良くして下さることを信じるので、感謝する。

ある人が、親の介護で、全労力を取られているところに、子供が入院。病院に行く事すらままならなかった。そこに夫が倒れ、身動きも取れない状態だ。しかし、その時に感謝のいけにえを献げた。感謝する気分だから感謝するのでなく、信仰によっていけにえを献げて行った。その時、状況に関わらず、心に平安が溢れ、心の満たしを与えられた。幸せだから喜びに満ちるのでなく、どんな状況をも感謝して行く時、喜びが来て幸福感が来る。
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暗い現状であっても、そこにも必ず恵みがあり、必ず感謝できる日へと繋がって行く。今をご支配される神を信じ、先取りの感謝を献げよう。不安や恐れから守られ、心が神の平安に満たされて行く。


2012年04月24日(火)

「あなたがたの兄弟たちと戦ってはならない・・わたしがこうなるようにしむけたのだから」U歴代11:4


          
  
レハブアムは選抜戦闘員18万人を集め、王国を取り戻すためにイスラエルと戦おうとした。そこに、シェマヤに主の言葉があった。「上って行くな。あなたがたの兄弟たちと戦うな。各々自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしている」と。イスラエルがダビデの家にそむいたのは、神の主権と支配の下のことであると。それで自らの思いに固執せず、主の言葉に聞き従い、中止して引き返した。

「わたしがこうなるようにしむけた」。神から出た事であった。今、あなたに問題が起きているだろうか。「わたしがこうなるようにしむけた」。「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」神から来たものは受け入れよう。「彼らは主のことばに聞き従い、引き返した」従う時、大きな祝福とされて行く。

町々の防備を固め、食糧や武器を備蓄し、国をますます強め、北にいたレビ人達や民も戻って来て、王権が強固なものとなった。従わないなら、更なる問題と混乱を引き起こし、自分も大きな痛手を負う。今、もし問題があるなら「わたしがしむけたのだから」との主の御声を聞こう。教えようとされている事があり、成長のための訓練だ。必ず豊かな結実を見る。又、ハピーな事が臨んでいたら、それも主がしむけられたものであり、感謝しよう。
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主に「戦ってはならない」と言われている事は何だろう。思いを通したい欲、批判されれば言い訳は山ほど湧いてきて、また恵まれれば高ぶる。根強い自我に触れる時、主がしむけ気づかせて下さったとへりくだりたい。


2012年04月23日(月)

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」ヨブ1:21


ヨブは、ある日突然、若い者たちと家畜が襲われ、又、火事で死に、次には子供達全員が大風による家の倒壊で死んだ。子供達もしもべ達も財産も、何もかも一時に失った。その時、ヨブは上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏し礼拝して、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言った。

このところで、ある人が、自分は「主は与え」だけの信仰スタンスであり、とにかくもらう事、祝福を得ることだけしか考えておらず、「主は取られる」ということの発想も、受け入れ態勢も無いことに思いが至ったと。ヨブは、普段からその姿勢があったからこそ、この言葉がとっさに言えた。

ある人は、自転車が盗難に会った時に、ヨブに思いを巡らした。盗まれた事はショックであり、不便で困る事態であり、愛着もあり心痛いマイナスの出来事だ。しかし、「主は取られる」、主の御手の内の事であり、それを通して、所有物に対する自分の思いはどうなのかと、深く考えさせられた。そして、自分が執着しているものは何なのか、絶対に手放せなくて、主以上に大切になっているものは、心の偶像は・・、と心を探られた。

痛いが、「主は取られる」事を通して、様々な霊的な恵みへと導かれる。握りしめているものに気づかせ、真の平安、喜び、自由へと導いて下さる。
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主は取られまた主は苦しみも与えられるが、主と苦しみを共にし、マイナスの中でしかわかり得なかった多くの恵みを知る。主が取られる時も、主の御名はほむべきかな。


2012年04月22日(日)

「主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、 水は甘くなった」出エジプト15:25



イスラエルの民は、出エジプトを果たし、偉大な主のみわざを喜び、賛美し、約
束の地を目指したが、主は荒野に導かれた。荒野で三日間歩くが水が無く、又、
マラで見つけた水は、苦くて飲めなかった。「主は・・その所で彼を試みられた」。
主は試みを通される。

民はモーセにいら立ちをぶつけ、つぶやいた。そこに何の解決も無い。私たちも
どうだろう。自分の思い通りに事が進まない時、イライラし、怒り、周囲を責め、
不平不満をぶつけるだろうか。つい三日前の主への賛美、喜びは?そして、不満
をぶつけられたモーセはどうしただろう。

「モーセは主に叫んだ」。モーセは民に対応したのでなく、まず主に叫んだ。民
の不平を主のもとに持って行き、祈った。主はモーセの祈りに答えて、一本の木
を示された。それを苦い水に投げ入れると、その水は甘くなった。この一本の木
は主の十字架の型と言われている。

主は私たちが、失望落胆、怒り、不平不満・・の、苦い水に遭遇するたびに、十字
架を示される。十字架によって、苦みが甘みに変えられる。そのマラから、少し
先にエリムがあった。エリムは、素晴らしい癒しと祝福の地であった。不満、つ
ぶやき、文句・・苦い水を十字架ので変えられ、エリムに着くことができる。「わ
たしは主、あなたをいやす者である」。

・・・・・・・・・・・・・・・
問題が起きた時、自分で何とかしようとせず、人に当たってぶつけず、第一に主
に持って行こう。今、問題があるなら、自分で思い煩わず、すぐ主のもとに行こ
う。そして、主の十字架をじっと見上げる時、不平不満が感謝に。失望が希望に
変えられる。


2012年04月21日(土)

「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あ なたがたとともにいる主の救いを見よ・・出陣せよ。主はあなたがたとともにおら れる」U歴20:17



ユダ王国が、アモン、モアブ、セイルの大軍に攻められ、絶体絶命の窮地に陥っ
た。ヨシャパテ王はこの大軍勢に完全無力であり、どうすればよいかわからない
と告白している。

しかし、ヤハジエルが「恐れるな、気落ちするな、この戦いは神の戦い、主が共
にいる。明日出陣せよ」と告げた。それでヨシャパテは主を信じ、翌朝、民に前
進するよう告げ、その時に、まず歌う者たちが軍の先頭に立って、「主に感謝せ
よ。その恵みはとこしえまで」と賛美をした。

戦う前に、すでに得たりと感謝した。すると、主は伏兵を設け、ユダに攻めて来
た、敵の大軍を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。逃れた者は一人もいなか
った。神が奇跡をされ、大勝利した。

いざ出陣となったが、しかし、現実には、敵は、おびただしい大軍だ。人間的に
は絶対に勝ち目はない。恐怖で、ひるんでしまう。しかし、主を信じ、賛美の声
を上げた時に、奇跡が起きた。「地のすべての王国が、神がイスラエルの敵と戦
われたと・・神の恐れが彼らの上に臨んだ」。

今、あなたの前に、大きな問題が立ちはだかっているか。「おびただしい大軍に
当たる力はありません」しかし、「恐れるな。気落ちするな」、これは主の戦い
であり、主が共におられる。必ず主が事に当たって下さる事を信じ、感謝を献げ
よう。従おう。伏兵が備えられていて、必ず乗り越えて行ける。

・・・・・・・・・・・・・
「おびただしい大軍」、どうにも出来ないほどの問題、状況が目前にあるだろう
か。余りの無力に心がなえてしまう。しかし「恐れるな、気落ちするな、主の戦
い」だと言われる。状況から目を離し、主を見て、御言葉を見て、感謝を献げよ
う。主は働かれ、約束通りになる。


2012年04月20日(金)

「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い 時に、あなたがたを高くしてくださるためです」Tペテロ5:6


ダビデは、姦淫と殺人という大罪を犯してしまった。しかし、神から遣わされた、
預言者ナタンから罪の指摘を受けた時に、真っ直ぐに罪を認めて、悔い改めた。
へりくだる心があったゆえだった。責任転嫁も言い訳もしなかった。

サウルから命をつけ狙われ、逃げ回っていた時も、サウルに忠誠を尽くし続けた。
逃げ回る中で、まさにサウル殺害の千載一遇のチャンスがあった。部下は、今こ
そ神が与えられたチャンスであり、神が敵を渡されたと、ダビデに進言した。し
かし、ダビデは、サウル王は、主が油注がれた王であり、手を下す事など絶対に
できないと拒んだ。

サウルを王と立てている主を認め、主を畏れ、御前にへりくだり、主がそのよう
に成就されると、主を待ち望み続けた。もし、自分でサウルを倒して、自分で王
位を手に入れたなら、どうして主が与えて下さった王位だと信じることができよ
う。そして、ダビデは、そのように「神の時に」、神によって王位につけられた。
ダビデ自身は何もしなかった。

私たちもどうだろう。もし自分の画策で物事を動かし、自分の力で、自分の思い
通りのものを手に入れて行くなら、神から与えられたなどと、誰が信じる事がで
きよう。自分が信じることができない。自分でしているのだから。

神の御前にへりくだるとは、自分で動く事をせず、事を成される神を待ち望み、
神に従って行くことだ。

・・・・・・・・・・・・
ダビデは、今こそサウルを倒す、神からのチャンスと、部下の勧めに関わらず、
自分で事を起こさなかった。主を信じていたので、主に委ねた。目の前の事柄を
自分で画策しようとせずに、全面的に主に委ねよう。主のみわざを見る。


2012年04月19日(木)

「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。 明らかにされたものはみな、光だからです」エペソ5:13


ある人が、庭掃除をしていた時に、主の取り扱いにあずかったと証しした。ほこ
りまみれ、土まみれになり、懸命に庭の隅々まで掃除をし、草刈りをしていた。
その時に、自分のこの姿を、人に見せたいという思いが湧いた。何と働き者の素
晴らしいご主人、良い人に見られたい、褒められたい。古い性質は、自分が崇め
られる事、賞賛される事を求める。

別の婦人は、パン作りが得意だった。主のためにそれを用いられたいと願ってい
た。朝からパン作りに精を出し、美味しいパンが出来上がった。隣家に差し上げ
ようと、そのパンを届けたところ、大変喜ばれた。

しかし、家に戻った途端、すうっーと心から平安が失せた。何でだろうと、主の
御前に静まり、祈った。すると、隣家へ持って行ったのは、こんなに上手にパン
を作る「私」、「私」は何と素晴らしいと、自分を誇るためであったことを示さ
れた。

肉の性質には、根深い自己中心性がある。自分を誇ろうとする。神の栄光でなく、
自分の栄光を求める。アダムとエバが蛇から受けた誘惑が「あなたがたが神のよ
うになり」であり、「自分が」崇められ、「自分が」賞賛を受けたい。

御霊は、そんな肉の姿を照らし出し、気づかせて下さる。気づけたのは、御霊の
光によるのであり、光があるのは、神に出会った事であり、大きな祝福だ。成長
は、御霊による気づきから始まる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
自分でも知らない心の内を、御霊が見せて下さる。心の奧にあるプライドや虚栄
心、高ぶりを見せられ、気づきを与えられる。明らかにされたものはみな、光と
あり、救いがある。信仰人生、御霊の光により、気づかせられ〃、成長させて下
さる。


2012年04月18日(水)

「ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた」T列王22:34 

イスラエル王アハブは、ラモテ・ギルアデをアラムから取り返そうと、ユダ王ヨシャパテを誘った。ヨシャパテはアハブの申し出に乗り、主の言葉を聞くよう要請した。アハブは預言者400人を集め、伺いを立てると、彼らは、上って行くようにと口を揃えて言った。しかし、預言者ミカヤは正反対の預言をした。そしてアハブが悪霊に惑わされている事、殺される事を告げた。

アハブとヨシャパテはアラムと戦う事になり、アハブは自分は巧く助かろうと、ヨシャパテに王の服を着せ、自分は変装した。敵をごまかし、自分だけ逃れようとした。しかし、アラム王の命令はイスラエル王アハブだけを狙えというものだった。敵が、ヨシャパテをイスラエル王に違いないと、戦おうとした時、ヨシャパテは祈った。すると敵は引き返した。

神の関与だ。そして一人の兵士が、何げなく放った矢が、何とアハブに的中し、彼は傷を負い死んだ。別に彼はアハブを殺そうとしたのではない。神が働かれた。ミカヤの預言が成就した。神の完璧な主権と支配を見る。人がどう画策しようと、神の御心が成就する。厳粛な事だ。それゆえ、神に日々の生活も、人生も、自分自身も委ねよう。その時、あなたへの最善のご計画を一つ違わず、成し遂げて下さる。そして、平安に守られる。
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神様の完璧な主権とご支配の中に生かされているのに、恐れや不安から逃れようと自分の計画を押し通してしまう。私達は無力で先は見えない。だからこそ神様の時とご計画の下にへりくだっていたい。


2012年04月17日(火)

「・・あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」創世記28:15 

ヤコブは兄エサウをだまし、祝福を奪い取り、兄の怒りを買い、家を出る。独りで、何も無い荒野で日が暮れた。今後の不安や恐れ、寂しさ、孤独感にさいなまれた事だろう。そんな窮地で、神に出会う。「わたしが共にあり、守り、この地に連れ戻す」との約束を得る。実際、神はヤコブを握り、放さず、導かれる。

叔父ラバンのもとに居候する事になるが、この叔父がしたたかであり、訓練を受ける事になる。ラバンに騙され、レアとラケルという二人の妻のために14年の労働、更に6年、計20年の厳しく辛い労働をする。騙したヤコブは騙され、苦く辛い訓練だ。やがて神の時が来て、ラバンのもとから去る。故郷に帰るわけだが、自分のして来た事ゆえ、エサウに会うのが恐怖だ。殺されるのではないか。

肉の知恵で策略を練り、対応するが、不安と恐怖がどうにもならない。ヤコブの問題は、兄との再会だけでなく、「人を押しのける者」という根本的な性質、強固な自我、エゴ、自己中心という罪にあった。とうとう神が、ヤボクの渡しで、ヤコブを捕らえ、粉々に砕かれる。

ももを打たれ、自分の足では立てず、杖に寄りかかった。肉の知恵と力で生きて来たヤコブが、全面的に神に拠りすがる者に変えられた。「あなたの名はもうヤコブでなくイスラエルだ」とされた。神ご自身がどこまでも追いかけ、導き、神の約束を成し遂げられる。
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ヤコブの失敗から、肉の知恵に何の良いものもない事がわかる。私達も神様の大
きなご計画を待てず自分の策を労し、愚かな失敗をする弱さがあることを覚え、
神様のご計画に自分自身をそわせ、委ねていけるように祈ろう。


2012年04月16日(月)

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33


「明日のことについて、思い煩うな、心配無用」と言っておられる。これは、将来について準備したり、考えたりしてはいけないという事ではない。それは必要だ。しかし、不安や思い煩いは、いっさい必要無いと。私たちの心配は、「もし〜」から来ていないだろうか。もし、ああなったら、もし、こうなったら、「もし病気になったら」「もしリストラになったら」「もし経済的に困窮したら」幾つもの「もし〜」で思い煩い、恐れている。

しかし、主は語って下さる「空の鳥を見よ、野の花を見よ」あなたがたの天の父がすべての必要をご存じで、養っていて下さるのだと。又、目の前の事柄の思い煩いもあるかも知れない。仕事の問題や、対人関係の思い煩いだ。なぜ、人は思い煩うのだろう。自分の思い込みによっていないか。それも悲観的思い込みだ。

明日はこうなり、将来はこのようになりと思い込んでしまう。又、仕事の問題、対人関係の悩みを、ネガティブに、悪い方に考え、ああでもない、こうでもないと、心が分割、分裂してしまう。思い煩いとは心が分裂することだ。分裂状態から、一つに心が定まる事が必要だ。

それが「神の国とその義とをまず第一に求めよ」だ。主の支配を求め、自分を主に委ねて行く時、あれこれの思い煩いから心が守られる。神第一の歩みをして行く時に、「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」生活の必要はすべて与えられる。
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神と共に生きているその現実が私達の幸せだ。思い煩いは祈りに変え、強い自分のプランを主に委ねながら、最善の明日を信じ、喜びの今日を生きよう。


2012年04月15日(日)

「アブラハムが目を上げて見ると・・一頭の雄羊がいた・・それを自分の子の代わり に、全焼のいけにえとしてささげた」創世記22:13   


アブラハムは、25年間神の約束を待ち続け、100歳の時に我が子イサクを得た。
非常に長い忍耐の結果だった。しかし完璧な人間でなく、スーパーマンでなく、
彼も私たちと同じ弱い人間であった。それゆえ数々の失敗があった。神の時を待
てずに、肉の手段でイシマエルを産み出してしまった。

しかし、ヘブル書で、アブラハムは信仰の人として賞賛を受けている。イサクを
献げるという、大試練が臨んだ時に、アブラハムは従順に従った。その彼に神は
「あなたが・・あなたの子、ひとり子を惜しまなかったから、確かにあなたを大い
に祝福し」と、神から祝福を受けた。

だが、簡単なものではなかったろう。25年待って与えられた、目に入れても痛
くない最愛の子だ。そして、このイサクから子孫が増え広がるのであり、この約
束はどうなるのか??イサクが山への途上で「いけにえの羊はどこに」と問うた
時、彼は「神が備えて下さる」と答えた。

彼はこの事において神を信頼した。しかし、そこにはいけには無く、我が子イサ
クをいけにえとし、刀を振り下ろす瞬間に、主は止められた。すると、そこにい
けにえの羊があった。これは彼も全く知らなかった事だ。私たちも一歩先は全く
見えず、明日の事もわからない。
しかし、神は知っておられる。一歩〃この神に信頼し、信じて委ねて歩む時、一
生涯の間、「主の山の上に備えあり」を経験して行く。

・・・・・・・・・・・・・・
主は、私たちの明日をすべてご存じの上で「何も思い煩うな」「心配無用」と言
われる。一歩一歩従って行く時に、必ず主の山の上に備えがあるからだ。生涯、
明日に主の愛を見て平安に包まれて歩むのと、思い煩いの暗黒に歩むのとどっち
が良いだろう。


2012年04月14日(土)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださ るということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5: 14                 


祈りは、自分の欲望実現の手段ではない。主の御心に適った祈りだけが答えられ
る。幾ら熱心にガンガン祈っても、自分の欲望であって、御心でないならそれは
叶わない。自分の願望まずありきで、何としても神をねじ伏せて、答えを獲得す
るのではなく、自分の願いを、主の御心に沿わせ、軌道修正して行くことが祈り
だ。

そして、御心に適った祈りは、必ず答えられるので、その祈りは成就する事にな
る。しかし祈らなければ、主の御心に適っているかどうかも、知ることができな
い。パウロはとげが与えられていた。それが無ければ、もっと主のために働ける
と、取り去って欲しいと願った。切なる徹底した祈りを献げた。

しかし、答えは「ノー」であり、その願いは聞き入れられなかった。が、パウロ
は切に祈り、主と交わる中で、別の答えが与えられた。主の恵みは十分で、「弱
さ」の内に、御力が完全に現わされるということだった。そのとげは無くならな
いが、しかし、そのとげがある限り、ずっと主の臨在でおおわれることになる。

もし、パウロがこの事を、祈りに持って行かなかったなら、どうだろう。とげを、
仕方が無いと諦め、ひたすら我慢したかも知れず、そこにある、主の大いなる恵
みを知らないままだったかも知れない。

私たちも祈る事によって、目の前に与えられた一つ〃の事柄を、受け入れられる
ようにされる。自分の心を主の御心に沿わせるよう変えられる。

・・・・・・・・・・・・・
実際に祈るから、祈りの中で、主が働かれ祈りを軌道修正して導いて下さる。ま
さに祈りの答えであり、大きな祝福だ。主のお心に触れ、主のみ思いを知れ、更
に深い御心にあずかれる。願望が叶う事は嬉しいが、より心満たされる喜びだ。


2012年04月13日(金)

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」ヨハネ15:16



ある人が仕事で行き詰まってしまった。暗礁に乗り上げ、壁に閉ざされ、何の方法も無いように思えた。しかしその事業は、主に祈り、主に導かれて始めた、新しい仕事であった。どうしてよいかわからなかった。自分の限界、自分の無力に打ちのめされた。主の御前に静まろうと、御前に行き、心を静め、そして、心の思いをことごとく打ち明けた。

御声を聞こうと、御言葉を読んでいた時に「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び・・任命したのです・・実を結び、実が残るため・・」の言葉が心に迫った。主がこの仕事に自分を選び、任命して下さったことが、新たにされた。自分が何とかしなければと、「自分が」「自分が」と頑張って力尽きた姿が見せられた。

「自分が選んだのでなく、主が選んで下さった」そこに平安と安堵が来て、その時、自分自身、状況、将来を今一度明け渡した。すると不思議な事に、思い煩いが失せた。とにかく、目の前の一つ一つを、主に従ってゆけばよいと思えて、気持ちが楽になった。祈りつつ、主が導かれる通りに従って行った。

その時、目の前の道が、開かれて行き、「主の山に備え」があることを一つ一つ体験した。今、もし行き詰まっているなら、あなたが神を選んだのではなく、神があなたを選ばれたことに立ち返ろう。
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主が御声をかけ呼び出して下さった。今行き詰っていても失望ぜず、迷わず、しっかりと主にすがっていよう。主が必ず希望も解決も与えて下さり突破できる。


2012年04月12日(木)

「施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする預言者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」マタイ6:2 


主は、「人に見せるために」人前で善行をするな、「人にほめられようと」施しをするなと言われた。祈る時に、「人に見られたくて」会堂や通りの四つ辻に立って祈るなら、報いをすでに受けており、主からの報いが無いと。人に知られないように施しをし、奥まった部屋で祈るなら報いて下さると。人の罪の性質は、どこまでも罪深い。根深い自己中心性があり、主のためにする良い行ないさえ、自分のために、自分を誇る手段にしてしまう。主のためにと思っているので、気づかない。

「偽善者たちのようであってはいけない」と繰り返し言われているが、偽善者とは「演技する者」で「俳優」という意味だ。この世の俳優を職業とする人々は、自分とは全く違う別人物を演じるわけだが、わかってその事をしている。しかし、パリサイ人たちは、自分は立派だと信じきっていた。自分が演技をしている者な
どと全く思っていない。

私たちの信仰生活を導かれる御霊は、私たちの動機の部分を照らし出して、示し出して下さる。矯正しながら、それらを捨て去るように助け、正しく御心へと導いて下さる。人から認められたい思い、人からの誉れ、人からの賞賛を求める強い願望がある。まずそれを認める事から始まる。隠れた施し、善行、祈りは、隠れているので、人に見られず、ほめられる事も無い。しかし、主からの報いが来る。それらは天に繋がって行く大きな報いだ。
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歳とともに人前に良い振りが身に染み付いてくる。偽善かどうかさえ考えなくなる。ただ主からほめられることだけを見て行けるよう、今日一日、聖くない動機、自分の内の本当の関心事を示されるよう、主に求めて行きたい。


2012年04月11日(水)

「主の使いは彼女に言った。『あなたの女主人のもとに帰りなさい。そし て、彼女のもとで身を低くしなさい』」創世記16:9


アブラムに子供ができず、妻サライの申し出により、アブラムは女奴隷ハガルによって子供をもうけようとした。ハガルはみごもるが、神の秩序が混乱すると、必ず問題が生じる。ハガルが優越感ゆえ、女主人サライを見下げるようになった。サライはハガルにいじめで仕返しをし、ハガルは辛くて、荒野へ逃げた。すると、そこに主の使いが現われ、ハガルに語りかけた。

「どこから来て、どこへ行くのか」ハガルは「女主人サライのところから逃げているところ」だと答えた。すると「女主人のもとに帰り、身を低くする」よう言われた。ハガルはそれに従い、戻ってイシマエルを産んだ。主はこの女奴隷に目を留められ、顧みて、あなたの子孫を大いにふやすと約束された。

私たちもどうだろう。辛い、悲しい、苦しい状況下にいるだろうか。ハガルのように逃げ去りたいと思う。この相手から、この状況から逃げさえすれば、どんなに楽になるだろう。しかし、もしかしたら、今の辛い状況は、「身を低くする」ことの訓練の時かも知れない。へりくだるという事は、主の御声に耳を傾け、従うことだ。

又、目に見える、目の前の相手にも仕えることだ。人の忠告や助言にも、聞く耳を持つことだ。「身を低くする」ことを学ぶ時だろうか。へりくだる時、ちょうど良い時に、神が高めて下さる。
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自我はすぐに高ぶる方へ流れて行くが、目の前の人に具体的に仕える事によって
主の歩んだ道を学べる。仕えられる人より仕える者になろう。


2012年04月10日(火)

「母がイエスに向かって『ぶどう酒がありません』と言った」ヨハネ2:3

主が出席されたカナの結婚式で、披露宴の最中に、ぶどう酒が無くなってしまった。当時、結婚式のぶどう酒は重要なものであり、途中で無くなるなど、式が台無しになるほどの、大変な失態だ。母マリヤがこの緊急事態に気づき、主に何とかして欲しくて、「ぶどう酒がありません」と訴えた。マリヤは、この大ピンチに、自分で何とかしようとせず、まず走り回りもせず、ありのままを主に告げた。

私たちならどうだろう。パニックになり、主は吹っ飛んで、とにかく何とかしなければと、店に電話!早く!と、大慌てかもしれない。当時は、即、調達できるわけでなく、大きな問題であった。しかし、マリヤは、主に告げた後、委ねきった。何とかして下さると信じた。それゆえ「あの方の言われることを、何でもしてあげてください」と手伝いの者たちに言った。主に告げて、後は、主を信頼し、任せきった。主のみ思いの通りに、事を成して下さることを信じた。

私たちも「何も思い煩わないで、あらゆる場合に・・あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とある。心配事、思い煩い、恐れている事、いつもすべての時に、主にことごとく告げて、後は、お任せできる。主にことごとく心配事を告げるなら、平安と交換して下さる。主は、溢れるばかりの、それも上等のぶどう酒を備え、問題を解決して下さった。「わたしを呼べ」と言われる主のもとへ、まず最初に行こう。
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出会っている問題の中に主がおられることを忘れ、とりあえず動いてしまう。また、自分で動きながら祈っている。溢れるばかりの上等なぶどう酒、人知を越えた解決は主を呼ぶことから始まる。不信仰な者だといつも覚えていたい。


2012年04月09日(月)

「イエスは彼が伏せっているのを見・・彼に言われた『よくなりたいか』」ヨハネ5:6


主は、38年病気にかかっていた男性に、「よくなりたいか」と問われた。普通、答えは「はい、よくなりたいです」か「いいえ、よくなりたくありません」だが、彼の答えは違った。「池の中に私を入れてくれる人がいない」と自分に介助者が無く、「行きかけると、ほかの人が先に降りて行く」と、皆が我先にと自己中心で、だから自分はどうにもならないと嘆いた。38年の間、この状況で、介助者なく、伏せったままだと。「よくなりたい」との意欲も失せて、絶望の中にいた。

しかし、主はそんな彼に、人のせいにするな、言い訳するなと言われたのではなく、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われた。すると、彼は「すぐに直って、床を取り上げて歩き出した」。主は、彼の底にあった「よくなりたい」との思いを、引き出して下さった。彼は、その主の言葉を信じて、起きようとし、床を取り上げて歩こうとしたから、それが彼の身に成就した。

主は、あなたの前に立ち、あなたにも語っておられる。「よくなりたいか」と。いつも失敗して、何度やってもだめだった。これからもだめだろう。直るわけがないと、諦めてしまっているだろうか。 失望落胆している私たち一人一人に語って下さっている。主の語りかけに、耳を傾けて行く時に、「よくなりたい」との心の奧の思いに、今一度気づかせて下さる。
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よくして下さるのは主だ。主が「よくなりたいか」と問うて下さる。自分の努力や知恵やまた周囲の状況に期待できなくとも「よくなりたい」を主を頼り、主に真っ直ぐに応答していこう。


2012年04月08日(日)

「悪魔に機会を与えないようにしなさい」エペソ4:27



悪魔に「機会を与えるな」とある。機会を与えるのは自分自身だ。悪魔は私たち
の心に、足場を得ようと狙っている。カインは怒りにより、悪魔に足場を与えた。
悔い改めて、罪を治めるべきであった。しかし、カインはそうせずに、アベルを
殺してしまった。

サウル王は妬みにより、悪魔に足場を与えた。妬みを悔い改め、捨てる事をせず、
悪魔に機会を与え続けた。ダビデは、高ぶりにより人口調査の罪を犯した。勝利
に次ぐ勝利で、高ぶっていた。人口調査により自らの力を誇りたかった。神でな
く兵力に拠り頼むよう誘惑された結果だった。

部下ヨアブが、神への反逆だと止めに入るが、ダビデは聞かず、神の怒りを招き、
民に災いをもたらす事になった。悪魔は、カインにサウルに、忠実であったダビ
デにさえ巧妙に働いた。私たちは自分の心をしっかり見張り、守る必要がある。

又、悪魔は「疑い」を引き起こす。「神は愛してくれているのか」「守ってくれ
るのか」「必要を与えられるのか」悪魔の仕業だ。信仰の足元がぐらつく。対人
関係に「疑い」を起こし不信感を植え付ける。赦さない心は悪魔に足場を与える。

赦し合おう。今、悪魔の攻撃に会っていないか。機会を与えてしまっていないか。
心を見張ろう。サタンの策略に気づけるよう祈っていよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
サタンは、常に攻撃と誘惑の機会を狙っている。怒りを、日暮れを越えて持ち越
してしまうと、サタンに足場を与えてしまう。サタンは足場を得ると暗躍し、思
いを増幅させる。今の思いは、サタンにやられていないか。御霊の気づきが与え
られるよう祈っていよう。


2012年04月07日(土)

「だから、彼らのまねをしてはいけません・・父なる神は、あなたがたがお願いす る先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」マタイ6:8



パリサイ人たちは、会堂や通りの四つ角に立って祈った。しかし、それは「人に
見られたくて」自分がいかに敬虔であり、信仰深く、祈る者であるかを、人に見
せるための祈りだった。神を崇めるのではなく、自分を崇めるものだった。

「祈るときには、偽善者たちのようであってはならない」人に聞かせるために祈
るのは、肉であり、まさに偽善の祈りだ。自己顕示のために、祈りを人に聞かせ
る事とは逆に、人前で祈る事に尻込みする事がある。

人を意識し、自分を意識するので、人前で祈る事は恥ずかしい。実は、これも同
じく肉から出たものだ。又、異邦人のように同じ言葉を繰り返すな、と言われた。
言葉数が多ければ良いとばかりに、何時間も同じ言葉を唱える。異教ではよくあ
る事だ。これは根本的に違っていて、私たちと主とは、取引き関係でなく、信頼
関係で結ばれている間柄だ。

主は祈る前に、私たちの状況をすでにご存じだ。しかし、だから、祈らなくても
よいのでなく、「だからこそ」祈れと言っておられる。主は求めに答えられるか
らだ。すでに知っていて下さるからこそ、安心して求めることができる。

「自分の部屋に入り、戸をしめて」人ではなく、自分でもなく、神を意識して、
神に向き合う祈りだ。極みまで愛し慈しんで下さっている御父が、必ず答えて下
さると信頼して御前に行こう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
主が、私が祈る前に、私の必要を知っていて下さるとは、何と嬉しいことだろう。
実は、本当に必要なものを自分でわかっていないかも知れない。しかし、愛して
いて下さり、父である神は、祈りの中で最善へと導いて行って下さる。この信頼
の中で祈れることが幸いだ。


2012年04月06日(金)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがは死ぬのです。しかし、もし、御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13

          

信仰者だからといって、必ずしも品行方正なわけではない。つい、わがままに、自己中心になる。又、立派なノンクリスチャンが多々いる。優しく、穏やかで、善行に励む人々がいる。しかし、大事な事は、人の前に、人の間に、どうかではない。勿論、人との比較ではない。神の御前に、自らがどうかという事だ。一番大切な事は、神との関係であり、神の御前に生きたかどうかだ。

一見クリスチャンらしく見えずとも、もし、その人が神の御前に、生きているなら、御霊に導かれている。そして、主は、その生涯を通して、キリストに似た者と変えて行って下さる。パウロは「もし肉に従って生きるなら、死ぬ」と言っているが、肉に従って生きる事も、御霊に従って生きる事も、自らの選択だ。私たちが、事を行なう時に、その動機を主は見られる。

どんな動機から出た行動なのか。何に導かれてその事をしているのか。主のためなのか、自分のためなのか、主の栄光か、自分の賞賛、自分が褒められたいのか、自分のための行ないなら、霊的死だと。

「御霊によってからだの行ないを殺す」とは、自分の力で罪と戦うのではなく、御霊によって心を満たされる事が、肉の思いから解放されて行く道だと。御霊に自分を明け渡す時に、御霊が支配される。その時、御霊が働き、主を愛する心を下さる。
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心の一番奥深い思いや行いの動機が御霊によるものだろうか。何を見て生きているだろうか。神様に従って生きたいと思う者でありさえすれば、不必要なものは砕かれる。御霊が豊かに働いて下さる者になりたい。


2012年04月05日(木)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」イザヤ30:15

ある人が、父親からの店を継いで、商売をしていた。少しでも売り上げを伸ばそうと懸命に働いた。ところが、すぐそばに大きなスーバーが出来て、バッタリ客足が途絶え、店が全く振るわなくなり、やがて店を閉じる事になった。失望落胆した彼は、主の御心を求めて、又、今後の事について、真剣に祈り求めた。その時に、結果的に神学校へと導かれた。

主は彼の人生に計画を持たれ、働き人として召されていた。私たちの信仰人生で、時に、「どうしてこんな事が?」という事態が起きる。順調に進んでいた道が目の前で、突如閉ざされてしまう。どうしてよいかわからず、驚き慌て、パニックだ。思い煩い、不安に落ち込んでしまう。しかし、こんな時こそ、落ち着いて、主を見上げ、信頼しよう。御言葉を反すうしよう。

「ご自分では、しようとしていることを知っておられた」「あなたのために立てている計画をよく知っている・・災いではなく、平安と将来と希望のためのもの」「神がすべての事を働かせて益として下さる」この道が閉ざされたのは、あなたへの、更に大きな主のみわざのためだ。

あなたのために主のご計画がある。主に立ち返って、静かにすれば、救われる。「落ち着いて、信頼すれば、力を得る」主の御前に静まり、祈って行こう。主を信じて行こう。新たなる道が備えられている。
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問題があり目の前の事しか見えない中で、神様のご計画を信じ、期待して待つのは本当に難しいが、必ず次ぎのご計画につながっている。喧しい心の声を聞き流し平安を祈ろう。そして「これが道だ」の御声を待とう。


2012年04月04日(水)

「・・あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」ローマ8:11


主を信じて救われた時に、御霊が内住して下さった。そして、古い罪の性質もあるので、天国に帰るまで、肉と御霊が戦い、古い性質と新しい性質が葛藤し、主のかたちへと変えられ、成長して行く。日々に御霊の声に聞き、御霊に従い、御霊に導かれて歩む事が大切だ。

例えば、一日の始め、「デボーションを持とう」との声がする。しかし、別の声が聞こえる「時間が無い。早く用意をしなくては」「身体がだるい。祈る気分ではない」「また後でいいや」。対人関係で、カチンと来る状況が生じる。一つの声は「言い返せ。スカッとするぞ」別の声は「まず主に祈ろう」・・。

いつも御霊の声と肉の声、二つの声が聞こえる。そして私たちは、意識していなければ、ほとんど肉の声に従ってしまう。肉の思いの方が楽で、気持ちにフィットする。自然に感じる。だから、御霊に導かれ、恵みの中に生きる事ができず、いつも肉の歩みを繰り返してしまう。

又、妬みや敵対心があると、平安が無く、罪意識があるので、何とかしようとする。愛さなければならないと思う。愛そうとするが、絶対に愛することはできない。心は苦しくて辛い、悶々状態だ。どうする事もできない。御霊に導かれて生きるには、出来ない事を認めて、御霊に明け渡して行く時に、委ねる時に、御霊に導かれる。そして、御霊に導かれる時、愛する事ができる。解決は御霊に導かれる事だ。
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二つの声の葛藤の中で、御霊の声を選び、導かれるまま一歩踏み出せるならどんなに豊かな御霊の実を結ぶ人生だろう。肉の声のおもむくままではなく葛藤しよう。主が声をかけて下さったなら、従いたいと祈ろう。


2012年04月03日(火)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦は、その日その日に、十分あります」マタイ6:34


あなたも心配性だろうか。思い煩いに悩まされている人は多い。明日の事、将来の事を、ああなったら、こうなったらと、必ずネガティブに想像して心沈み重くなる。不安材料だけをかき集め、まるで現実かのように、リアルな最悪のシナリオが出来上がる。

しかしあくまでも妄想だ。現実に実際に起きていないのだから、主も、そんな架空のものをどうにも出来ない。自分が思い煩いを選んでいる。明日の事は、先の事は、私達にはいっさいわからない。誰にも何一つわからず、見えない。

しかし、神を信じる私達は、明日に恐怖と不安を見るのでなく、神の愛を見る。明日は、神の愛に包まれ、神のご計画の中にあり、神の御手の中に堅く守られている。その事を心から信じる。見えない明日に、得体の知れない恐れでなく、神を見て、神の慈しみを信じる。これが信仰だ。

神の愛を信じて歩む時に、思い煩いの亡霊に惑わされない。そして、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」神第一を心に据える事だ。自分を後回しにするから秩序が狂い、混乱し、思い煩いが生じる。自分中心にするなら、不安と恐怖で、あらゆる事が思い煩いの種となる。自分で自分を守らねばならないからだ。

神を第一にするなら、心がすっきりする。神が全責任を取って下さり、そこから平安と安堵が来る。あなたの優先順位はどうなっているだろう。明日に、先に、いつも神の愛を信じていよう。
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自分で自分を守る術しか知らない世は、不安で思い煩いに満ちているが、私達は、不安や恐れを祈りに変えられる。主を信じ、自分の想像もおよばない明日が備えられていることを希望をもって待とう。


2012年04月02日(月)

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:20

人々は「やみを愛した」とあり、人の古い罪の性質は、罪を憎むのではなく、罪を愛する。肉とは、したくないが、罪を犯すのではなく、罪を犯したい。誘惑に乗ってしまうのは、誘惑を拒絶するのでなく、本当はその誘惑の中にいたいからだ。誘惑は甘くて心地良い。それが苦くて辛いものなら、決して誘惑になどならない。余りにも心地良いので、そこから出たくない。闇を愛する罪の性質だ。

ぎまんに陥らないために、「できない」のでなく「したくない」自分であると認める事。光でなく、闇を愛する古い性質が、自分の内にある事を認識しておく事は大切だ。又、自分は見える、わかっていると言う事は、光を拒む事になる。見えない事を決して認めない。しかし、光を拒むなら、闇の中で見えるのは、自分だけだ。自分はどこまでも正しく、相手が悪いとしか見えない。

真理を行なうとは、自分の罪を認める事だ。自分を正当化し、人を裁き、責める者である事を認める。その時、その人は光に出るので、神が見える。光があり、神が見えるので、更に自分の姿がはっきりと見えて、悔い改める事ができる。全き赦しを受け取り、新しくされる。今、自分が正しいとしか見えないなら闇の中だ。光は、正しいと思っているあなたの真の姿を照らし出す。神の前でのみ本当の自分が見える。
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どこまでも自分を正当化したいし、高慢、高ぶりも実は心地よい。しかし、主がおられ、常に御言葉の光の中にまねいて下さり気づかされ、悔い改めてまた新しくされる朝は、なんと幸いなことか。光の中にとどまっていよう。


2012年04月01日(日)

「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈 りを受け入れられる」詩編6:9 



ダビデはサウル王の妬みを買い、サウルの嫉妬は憎しみとなり、ダビデは執拗に
命をつけ狙われる。実際、殺されかけ、その恐怖、不安はいかばかりであったろ
う。又、自分の実子からの謀反に会い、子供が歯向かって来るとは、どんなにか
心裂かれ苦悩であったろう。敵からも攻撃があり、病にも陥り、身も心もボロボ
ロの厳しい深刻な状況だ。

ダビデは神の心にかなった人だった。信仰者になると悩みが無くなるのではない。
問題は必ず来る。私達は苦しくて、とにかくその問題が去る事を願う。ただただ
逃れたい。しかし、苦しみの中でこそ、神が神であられる事を、身をもって知っ
て行く。

ダビデは「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、なすすべなく泣い
て泣いて嘆いた。苦しみの中でこそ、神との深い交わりに入れられる。それは苦
しみの中でしか得られない。

「主よ、いつまでですか、あなたは」と、正直な気持ちをありのままに、主にぶ
つけている。順境の時には決して経験出来ない。自分で何とかしようともがき、
走り回るのではなく、問題をすべて神に持ち出そう。自分で当たると空回りだ。

心を何もかもを注ぎ出し、苦しみ、悲しみ、辛さ、痛み、怒りを主に告げ、主に
寄りかかるのだ。神は受け止めて下さる。神との近い交わりを経験する。そして、
その祈りは聞かれる。神に叫び求める者は、平安に満たされて行く。

・・・・・・・・・・・・・
祈りを主は必ず聞いていて下さる。答えが自分の思い通りだとは限らないが、し
かし、どんな祈りもすべて聞いていて下さる。これは何という慰めだろう。気持
ちを受け止めて下さる。頭でぐるぐるせずに、その思いを主に告げよう。