2012年05月31日(木)

「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」マタイ11:6


信仰人生で、私たちがつまずくのは、どんな時だろう。よく考えると、「自分の」期待に、思いに、合わない時ではないか。とにかく「自分の」強い願い、思いがあり、それにそぐわない事で、つまずいていないか。自分に関係の無い事で、人はつまずく事はない。

「自分の」気持ちや、願いを、相手が受け止めてくれない時、「自分の」思い通りにならない時に、つまずいたと思う。そして、そんな神なら必要ないと、去ってしまう。「自分の」願いが叶えられないなら、用はない。偶像ならそうだろう。当時の、主の周囲にいる人々は、主を現世的、政治的指導者、絶対的権力を持つ王として、主を求めた。メシヤとして華々しく王位に着く事を。

しかし、現実的にはどうか。王になるはずの主が、当時、最悪の刑であり、極悪人がかかる十字架刑で死ぬなどと、到底受け入れられない。人々は自分たちの思いに合わない、主を捨てた。思い通りでなく、期待通りでなく、期待を裏切る主が腹立たしい。腹を立てた。

私たちもどうだろう。信仰人生が自分の思い通りに行かない、願いが叶えられない、その時につまづく。その時の軸が「自分」だ。自分の気持ち、自分の思い・・。その軸を神に変えてみよう。神のみ思いは?神のお心は?神はどう思っておられるのか。神を軸におき、その神に自分の心をそわせ、明け渡して行く。その時に、今までの世界とは違い、初めて神が見え、御心が見えて来る。
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自分の願いが強すぎると、願いに神を合わせたいとの思いに傾き、主のご計画もすでに備えられている祝福も何も見えない光のない毎日だ。すなおに神のみ思いを尋ね、自分の思いの外にある恵みを受け取ろう。


2012年05月30日(水)

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはべつの方を待つべきでしょうか」マタイ11:3



信仰生活の中で、神に対し、信仰に対し、心が揺らぐこと、わからない事、つまづいてしまう事が出て来るかも知れない。今も、あるだろうか。主は、その心の痛み、つまづきをご存じだ。愛し、慈しんで、目を留めていて下さる。そんな時は、どうすればよいのか。バプテスマのヨハネに学ぶことができる。

ヨハネは人々に、メシヤが自分の後から来られる。その方は、自分よりも優れた方であり、聖霊と火でバプテスマを授けられる、そして、麦と殻とをより分け、麦を倉に納め、殻は消えない火で焼き尽くされると告げた。それがヨハネのメシヤ像だった。神の義により、逆らう者たちを滅ぼし尽くす裁き主だった。ヨハネは厳しい裁きを伝え、悔い改めを説いた。メシヤがそれを成し遂げられると信じたので、自分の命を賭けた。

獄中で、そんなヨハネが弟子からキリストのみわざを聞いた。ヨハネが思い描いていたメシヤ像と、実際の主の姿が何か違う、一致しなかった。ヨハネが思い、期待したメシヤ像ではなかった。その時、ヨハネはどうしたのか。弟子を遣わし、直接、主に問うている。「おいでになるはずの方は、あなたですか、それとも別の方ですか」と。あなたは本当にメシヤなのかと直接尋ねている。

主は現実に起きている事実を示し、一つ一つが旧約預言の成就である事を示し答えられた。私たちも、あなたは本当に神なのかと、つまづいている事があれば、直接主に聞けばよい。主は答えて下さる。
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私達も自分の理想に神様を近づけ、自分の目線に引き下げてしまう。自分こそが神様の見ているように物事を見られるよう祈ろう。目が開かれ、神様の深い計画を知れますように。


2012年05月29日(火)

「また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます」コロサイ4:12



祈らないで、事を行ない、失敗した経験があるだろうか。祈る事なく、思いつきで、衝動買いをし、たいして欲しい物でも無かったと後悔する。祈らないで事を始めてしまい、途中で障害にぶつかり、結局止めてしまう。良い事だとしても、祈らないで、肉の思いで始めると中途で挫折してしまう。

ある人は祈らないまま、好条件のバイトに飛びついた。すると、余りの多忙さに、デボーションの時間も全く取れず、神が二の次で本末転倒になり、心身疲れ果て途中で辞めた。ある人は御心を求めずに、高額報酬の仕事に就き、激務で時間も取れず、身体も疲れ果て、全く教会へ行けなくなった。

ヨシュアがギブオンの住民達に騙され、盟約を結んだ箇所がある。彼らが計略を巡らし、変装し、遠くから来たと欺いた。実は自分達の中に住む近隣の者達であった。この時、対応するのに「主の指示を仰がなかった」。祈らずに、肉で判断すると誤ってしまう。私達も心して、祈りつつ、主の指示を仰ぎながら歩もう。

あの決定、この判断にいつも主を仰ごう。でなければ、結局、肉で始めた計画は中断してしまう。自分の好み、都合の良い道でなく、神が喜ばれる道、御心の道を求めよう。そしてその道が、結果的に自分に大きな喜びと平安をもたらしてくれる。主の指示を仰ごう。祈りの中で、御声を聞いて、御心を確信して行なってゆこう。
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飛びつかずにはいられない時は御心を聞きたくない思いも自分のうちにある。だからこそ、事々の前に神を認め、落ち着き祈り、しっかりと約束の御ことばに立って物事を始めて行かなければならない。


2012年05月28日(月)

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません」Tコリント10:13


ある人に厳しい試練が臨んだ。職場で辛く当たられ、体調を崩すまでに至ってしまった。相手の態度や言葉に傷つく。毎日が辛くてたまらず、その痛みを、主のもとへ持って行った。帰宅しては涙ながらに祈っていた。祈ると、心が落ち着き、何とか翌日も出勤できた。しかし、状況は悪く、心身共にギリギリになった。心がふさがれるようで、瀬戸際だった。

神様の慰めや励ましはわかるのだが、苦しくて、もう一歩も進めず、主の御前にしゃがみ込んだ。何もできず、ただ主の御前にいた。じっとそこにいると、自分の姿が見せられた。自らの心の底にある、相手への憎しみ、恨み、怒り・・。相手をひどく憎んでいた。自分は被害者であり、悪いのは相手であり、相手が悪いとしか見えなかった。しかし、紛れもなく自分は罪を犯していた。

主の御前に、自らの罪を悔い改めた。そして、今の状況も、自分自身も、すべて主にお委ねした。委ねきった時、主の御手にこの事態が移り、受け止めて頂いたと信じることができた。初めて、心の底からの安堵に満たされた。その時から、不思議に自分の見方が変えられた。辛く当たる相手にも何か問題があり、相手も苦しいのだろう。同情の思いが湧いた。しばらくして、部署替えの人事異動があり、驚いた。すべてが確かにご計画の中にあることを見せられた。主を知る経験であった。
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心が痛く傷つき、平安がない現実に出会う。自分の心は何に反応して平安を失っているのだろう。御前に出て叫び、主と語りまた考えてみよう。試練に直面して、そこから何かを知って必ず脱出することが出来る。


2012年05月27日(日)

「お話ください。しもべは聞いております」Tサムエル3:10



「どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです」と言われた唯一の大
切な事は、マリヤがした「みことばに聞き入る」ことだった。マルタは奉仕をし
たが、マリヤは「良いほうを選んだ」と言われた。この箇所によると、ただ一つ
の大切な事は、奉仕する事、親切にする事でなく、御言葉を聞く事になる。御言
葉を聞いて、御霊に導かれた働きができる。

少年サムエルは、祭司エリのもとで、主に仕えていた。その頃は、主が語られる
事はほとんどなく、幻も示されなかった。人々は偶像に仕え、霊的暗黒時代と言
われている。そんな時に、主はサムエルを呼ばれた。「はい。ここにおります」
と答えた。エリに忠実に仕えていて、エリが呼んだと3度も勘違いした。

主が語られることもまだ知らず、エリから「主よ。お話下さい。しもべは聞いて
おります」と答えるよう教えられた。「はい。ここにおります」の姿勢が大切だ。
聞いて従う姿勢がない時、御言葉はわからない。聞こえて来ない。「従います」
の姿勢がある時に、御声がはっきりと聞こえて来る。

又、自分の都合の良い事は聞き、都合の悪い事は耳をふさいでしまいがちだ。し
かし、主の言葉をそのまま受け入れる事が大切だ。サムエルが聞いた言葉は、エ
リの家の裁きに関してであった。神の言葉は、自分に都合良い言葉、甘い言葉、
期待通りの言葉とは限らない。時には厳しい言葉だ。しかし、エリに伝えると、
エリは「その方は主だ」と認め、自らの罪の裁きを受け止めた。霊的暗黒時代に
主の語りかけが始まり、光が上った。

主の御声を聞く時、主と交わりを持つことができる。そして、語りかけに従って
行く時、主との個人的関係が深められて行く。苦しみの中でも、主との関係が深
められるなら喜びだ。まず聞かない限り、従うことができない。心を開いて、従
いますの態度で、御声に耳を傾けていよう。

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自分のこうなって欲しいという強い思い、経験や先入観は、御声を聞く事を妨げ
る。御声を聞く時に「主よ。お話下さい。私は聞いております。ここにおりま
す」と祈って聞こう。どんな苦しい中でも、御言葉が心にある時、生きて行ける。


2012年05月26日(土)

「主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、 水は甘くなった」 出エジプト15:25  


モーセと民は出エジプトを果たし、シュルの荒野を歩いたが、三日間炎天下で一
滴の水も無かった。民はのどが渇いて死にそうだった。人々の心は、嘆き、絶望
状態にあった。そんな時、マラで水を見つけて、大喜びしたが、何とその水は苦
くて飲めなかった。

それでそこを"マラ=苦いもの"と言った。人々は失望し、愚痴と不平不満で一杯
になり、モーセにつぶやいた。私たちもマラを経験する。順風の中で、突然の困
難、苦しみに遭遇する。失望落胆を経験する。しかし、出エジプトを与えられた
のは主であり、水の無い炎天下を通されたのも主であり、そこに苦い水を置かれ
たのも主だ。

「荒野で歩ませられた全行程」を覚えよと言われ、「あなたを苦しめて、あなた
を試み・・あなたの心の内にあるものを知るため」と。苦しめて、試みておられる
のは主であり、主はマラを通らせられ、普段は見えない心の底にある苦いものを、
あらわにされる。

一本の木によって水は甘くなった。主の十字架によって、その愛と赦しによって、
苦みが甘みに変えられる。心が変えられ、平安にされる。きよめられ、成長が与
えられて行く。その先に、エリム、12の水の泉と70本のなつめやしの木が備
えられていた。主はすべての行程をご計画と配慮をもって、私たちのために備え
られている。

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苦しい状況に遭遇すると、心から苦いものが出て来る。失望落胆、愚痴や不満・・。
主の十字架を見上げよう。この世的な反応、肉の反応をしていても何の平安も喜
びも無い。十字架に主の愛があり、希望があり、平安がある。絶えず十字架に立
ち返ろう。赦しがあり、平安の甘みに変えられる。


2012年05月25日(金)

「・・一人は、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」ルカ17:16

                             
十人のらい病人が、遠く離れた所に立って、声を張り上げて「どうぞ、あわれんで下さい」と言った。当時、らい病は、汚れた病気との事で隔離されていた。人々に近寄る事は許されず、「私は汚れた者です」と自分で言わなくてはならなかった。辛く苦しい病の上に、社会生活も閉ざされ、更に精神的苦痛も加わった。

主に大声を張り上げたのは、必死な思いであったろう。主は、祭司のもとへ行き、見せるように言われた。するとその途上で癒された。彼ら全員が癒されたが、一人だけが感謝のために主のもとへ戻り、あとの九人は行ったまま、帰って来なかった。完全に治り、社会復帰できて、自由に社会生活が送れる。生けるしかばねのようであった彼らから見れば、何と夢のような事だろう。普通の生活に戻り、主を忘れ、離れ去ってしまった。

彼らにとっては、飛び切りの幸運であり、そこに神は無かった。感謝するために戻った一人は、大声で神を誉め讃え、感謝と喜びで一杯だった。そこに神を認め、神を崇めた。彼だけに、新しい信仰の生涯が始まった。「あなたの信仰が、あなたを直したのです」彼は主の愛に出会い、主の愛の中を生きて行く人生が始まった。

何が大切なのだろう。病気が治る事だろうか。「インマヌエル、神が私たちとともにおられる」人生へと招いて下さっている。苦しみの時も喜びの時も、人生をこの方と共に歩める事が、私たちのこの上ない幸せだ。
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過ぎて行く一時の喜びでなく、主との出会いが本当の幸いだ。信仰を与えられ、どんな時にも平安と希望を主から溢れるばかりに受け取ることができる。変わらぬ喜びの人生へと変わって行く。


2012年05月24日(木)

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべての事を教え・・」ヨハネ14:26            

       
                  
ある父親が、子供のために祈る時、いつも「神様に従うよう。悪い言動や態度が変えられるよう。ちゃんと勉強するように」ああなれ、こうなれと祈っていて、ある時、気づかされた。子供に常に要求だけしている自分、それはつまり「お前は、今のままではダメだ」と言い続けている事だと。子供を認めることをせず、子供を理解しようともせず、ただ変えようとしているだけの自分に気づかされた。

変わるべきは子供でなく、自分自身であった。自分が一番の問題児であった。心から悔い改めて、いっさい家族への要求を止めて、家族に感謝する事を始めた。妻を、子供を与えられている事、幸せな家庭が与えられている事を感謝し始めた。そして、この家族をより幸せにするために、自分は何ができるかを求めて祈り始めた。すると、家の中の空気が一変した。ピリピリ、ギクシャクした空気が流れていた家庭に、暖かい雰囲気が溢れ、和やかになり、皆がリラックスできるようになった。神の愛が家庭に臨んだ。

人を変えようとする時、そこに裁きや批判、不満が存在し、そこには神の愛が無い。しかし、感謝して行く時、そこに神が働かれ、温もりと喜びが流れる。何かいら立ちがある時、自らを振り返ってみよう。御霊が心の内側を照らし出して、導いて下さる。
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平安がないなら心を主に向けて主に尋ねる時だ。求めるなら主が教えて下さる。主が変えようと願っておられるのは私自身だということを心のざらつくごとに気づけますように。


2012年05月23日(水)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」イザヤ30:21


神は、「導きの主」であり、私たちを導いて下さる。そうでなければ、私たちはどう歩めば良いかわからない。その導きは、よく祈り、耳を澄ましていれば、御声が聞こえて来る。「これが道だ。これに歩め」と。デボーションの時に、又礼拝メッセージや学び会を通して、兄弟姉妹との交わりで、祈りの中で、生活の中で・・どの方法かはわからないが、主は必ず導いて下さる。

ただ、その示しが、自分の思い通りとは限らない。ある時は、自分の思いに反するかも知れない。自分はこうしたいのに、主はストップをかけ、別の道を示される。又、自分に敵対する人のために、祈ったり、愛の行ないをして行く事かも知れない。又、自分には困難と思われる、新しい進路や働きに就く事かも知れない。その示しに従う事によって、犠牲を払う必要が出て来るだろう。

しかし、必ずや大いなる祝福が待っている。だが、私たちはなかなか従おうとしない。約束の地を前に、カナンに斥候が出た時も、ヨシュアとカレブ以外は、おじけづいて、不信仰になり、従わなかった。神は導き、民は逆らう。イスラエルの歴史だ。神は私たちにも、繰り返し〃忍耐もって導かれる。今、何かを始める事、人を赦す事、和解する事、何かを献げる事・・何かの導きを受けているなら、従おう。豊かな祝福があり、主を新たに経験でき、必ず従って良かったと平安を経験する。
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御声をないがしろにせず、導きがあれば従えるように祈ってみよう。愛の行い、人との平和、悔い改めなど自分では決して出来ない正しい方向に導かれる声だ。祝福を信じ立ち上がり従おう。


2012年05月22日(火)

「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」使徒8:4

                        
サウロにとって、キリストを神と仰ぎ、救い主とする、クリスチャンはまさに天敵であった。ステパノの、死をも恐れない厳かな殉教に接し、激しい敵対心、憎しみを更に刺激され、抹殺の意を固くした。しかし、それは後にサウロの救いへとつながったのだ。ステパノの死により、更に迫害は激しさを増し、荒れ狂った。サウロは憎悪に燃えて、教会を次々と荒らし、家々に入って、容赦なく人々を引きずり出し、投獄して行った。

そのため信徒たちは四方へ追いやられ、散らされて行った。皆が、散りじりに、別れ別れになってしまった。では、この苛酷な迫害で、信徒たちは意気消沈して、気力を失い、教会は壊滅して行ったのか。そうではなかった。あちこちにバラバラになり、散らされた信徒たちは、何と「みことばを宣べながら、巡り歩いた」。彼らの心は燃やされていた。

結果的に見れば、この迫害による離散によって、返って福音が大々的に伝えられる事になった。信仰の火が消えるどころか、どんどん燃え上がり、福音は四方八方に拡大されて行った。迫害自体は大きな苦しみだ。私たちも信仰生活の中で、突如の事態が起きる。「どうして!」「なぜこんな苦しみが?」しかし、見えるところは真っ暗で、マイナスの要素しかないが、主には深いご計画がある。主を信じて忍耐し、主を待ち望もう。今の苦しみが、思わぬ展開となり、主の素晴らしいみわざを見ることになる。
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苦しみゆえに信仰はますます増し加えられ、主の助けだけを頼りに歩む喜びに満ちあふれた使徒たちのように、試練の中でも弱り果てず試練を通して神に近づこう。


2012年05月21日(月)

「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」マタイ25:25  

一タラント預かった者は地に埋めた。一タラントは六千デナリで、一デナリは一日の給料分であり、一日一万円なら六千万円だ。たったの一タラントと思うが、社長の留守に、六千万を任される社員というのは、よほどの信任があるのではないだろうか。しかし、彼は、主人に対する理解が間違っていた。

蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい人、要求ばかり突きつけ、奪うばかりの人、恐い人、こんな主人のために、何かをしたいなどと思わない。もし減らしでもしようなら、どんなひどい事になるかわからない。関わりたくない。そのまま返すなら、文句は無いだろう。申しつけられた通りに、ちゃんと預かっておきました。彼の心の内であった。主人の彼への愛も信任も期待も、何もわかってはいなかった。

パリサイ人、宗教指導者たちは、こと細かに、懸命に、熱心に律法を守っていた。罰が恐い、裁かれないように、必死に律法遵守の生活をしていた。私たちの神観はどうだろう。いつも要求され、追い立てられ、従わなくては、罰される恐い神だろうか。それなら喜びなどあり得ない。

独り子をも惜しまずに与えて下さった、それほどまでに愛して下さった。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」と言われた主は、あわれみの主ではないだろうか。「主人の喜びをともに喜んでくれ」が主の心だ。主の心は喜びだ。間違った神観があれば気づけるように。
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神様は私達を愛し信頼ているゆえに多くのもの与えて任せて下さっている。決して蒔かない所から刈り取るお方ではない。与えられた今日一日を感謝し、主と共に、一歩でも主が喜ばれる歩みをしたい。


2012年05月20日(日)

「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫ん でいる者の声です」ヨハネ1:23


バプテスマのヨハネが現われた時に、人々は「このヨハネがキリストか?」と思
った。しかし、ヨハネは、自分はキリストではないと、きっぱりと言いきった。
自分の役割は、人々が主を信じるための、道備えをする事であると。

「荒野で叫んでいる者の声」であり、その役割を果たす事によって、神の栄光を
現した。人は、自分に賞賛が向く時、どうだろう。人からの栄誉は大きな誘惑
であり、肉はその誘惑に勝つ事は難しい。そこにプライドや虚栄があり、自分が
栄光を奪ってしまう。

しかし、ヨハネは違っていた。へりくだった人物であり、人々の関心を、ただ〃
主に向けていた。弟子たちが、皆あの方のほうへ行くと、人気が主に移ることを
妬んだ時に「人は天から与えられるのでなければ、何も受ける事はできない」と
言った。

天とは人の手の及ばない所であり、神の主権と支配であり、ヨハネはそれを認め
て、応答して生きた。ヨハネは「荒野で叫ぶ者の声」として、自分の役割と使命
をしっかり受け止めていた。だから、ぶれなかった。

主を見つめ、ひたすら自分に与えられた御心を行なうこと、忠実に歩むこと、そ
こに喜びを見い出していた。ヨハネには大きな喜びがあった。なぜなら、「あの
方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と、自分のために生きたのでは
なく、主のために生きたのだから。

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人はそれぞれ天から与えられた分があり、ヨハネはそれに忠実に生き、自らの分
を果たした。揺らぐことがなかった。それぞれに与えられた分がある。どんなに
願っても、与えられないものもある。そこに主を認めて生きることに、真の幸せ
があり、心は満ち足りる。


2012年05月19日(土)

「私たちの格闘は血肉に対するものでなく、主権、力、この暗やみの世界の支配 者たち・・悪霊に対するものです」エペソ6:12



日々のデボーションはどうだろう。朝起きるや、1日のスケジュールで頭が一杯
だろうか。又、まず思い煩いで心暗くなるだろうか。朝一から、思いの火矢を
次々吹き込んで来るサタンのしわざだ。
祈ろうとし、聖書を読もうとすると、その前にあれをし、これをしなくちゃと
次々と思いが湧く。それが的確に来る。

ある婦人が、静思の時を持とうとすると、まず犬の散歩を済ませてしまおう。そ
の方が落ち着いて出来る。時間が勿体ないので、能率良く洗濯機を回して出た。
帰宅すると洗濯が仕上がっている。干さなくちゃ。ついでだから片付けも済ませ
てしまおう。その方がゆっくり主と交われる。

次々なすべき事が浮かぶ。聖書を読もうとすると「あ、ゴミ出さなくちゃ」「あ、
あの連絡忘れていた」それがまた極めて的確なのだ。すぐ昼になり、昼食準備、
片付けついでに、夕食下ごしらえをすると効率良い。電話がかかり長話になって
しまった。朝刊が来たと思うと、すぐ夕刊が来る。次々と目の前の事をしつつ、
結局デボーションは持てなかった。そして、ついに背後のサタンに気づかされた。

又、祈り、聖書を読み始めるや、眠気に襲われる。それまでは全く眠気など無か
ったのに。突然なぜ??これほどの妨害が霊の敵から来る事を覚えよう。又、逆
に、祈りを持てなかったと、とがめに攻撃して来るサタンも覚えよう。

デボーションができたから愛して下さるのでなく、出来ようと出来まいとあなた
を愛していて下さる。主の愛は変わらない。あらゆる方面から攻撃して来るサタ
ンを覚えよう。

・・・・・・・・・・・・・・
サタンは「思い」を持って来るので、自分が思っているとしか思わない。だまさ
れてしまう。御霊の思いと敵の思いが、絶えず来ていることを覚えよう。サタン
は祈りと御言葉をことさら嫌うようだ。祈りさえ無ければ、幾ら働かれても良い
ようだ。


2012年05月18日(金)

「というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」Uコリント12:9


ある人の証しだ。職場の付き合いで悩んだ。飲み会がしょっ中あるのだ。時間的にも身体的にも苦痛であり、しかし参加していた。何となく、参加せざるを得ない雰囲気で、渋々だった。連日、深夜まで続き、もう限界だった。それなら断ればと思うが、断れないのが自分の弱さだった。「ノー」が言えない。ある日、祈りの中で、そんなズルズルベッタリの、中途半端な自分の姿が見えた。

人ばかりを恐れて、主に従っていない事に気づかされた。人にどう思われるかが気になり、神も信仰も吹っ飛んでしまっていた。ただただ、人に嫌われたくなくて、人におもねっている自分に気づかされた。「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる」。人を恐れている自分、しかし、主に信頼するなら守られるとの言葉に励まされ、現状をことごとく主に告げ、助けを求めて祈った。

主のもとへ持って行くと、心に平安が臨んだ。あれほど人が気になって仕方が無かったのに、心が変えられて、自分は自分と思えるようになった。そして、断ることができた。尚かつ、仕事も、対人関係も守られた。「ノー」が言えない自分が変えられ事が、何よりも神のみわざであった。弱いまま、主に頼る時、恵みは十分で弱さの中にこそ、御力を現して下さる。
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心底、御力に頼れるかどうかが問われている。自分で自分を守ろうとせず、信仰により完全に主の助けを期待し、祈り求めるなら弱さのうちに無限の可能性がある。


2012年05月17日(木)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」ヨハネ9:3 


この世は、因果応報の価値観であり、私たちもずっとその価値観で生きて来て、根深いものがある。何か不都合な事、悪い事が起こると、バチが当たったと思ってしまう。何か悪い事をした結果であり、何だろうかと考える。当時のユダヤ社会でも、そのような考え方があり、弟子たちが、生まれつき目の見えない人を見た時も、そのように反応した。

盲目に生まれた原因は、「誰が罪を犯したのか。この人か、その両親か」と。弟子たちはその事の「原因」に視点があり、原因追及に走った。しかし主は、原因ではなく、「目的」に目を向けられ「罪のゆえではない、神のわざが現れるため」と答えられた。そして、つばで泥を作り、盲人の目に塗って、シロアムの池で洗うように言われた。言われた通りに従うと、彼は見えるようになった。

結果的に、彼は目が見えないままで、シロアムの池まで行ったわけであり、簡単な事ではなかったろう。目に泥を塗られ、まして見えない身で、シロアムの池までとは、「何でこんな事を?」と思いそうだが、理屈を越えて、最後まで従順に従った。そしていやされた。従順はへりくだりだ。高ぶっていては従えない。私たちも、病気、けが、リストラ、経済的困窮、対人関係のもつれ・・様々な問題を通るが、どんなに苦しい事、辛い事があっても、それはその人を通して、神の素晴らしさが現わされる機会なのだと。最後まで従おう。
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そんなことでいいのだろうかと御言葉通りに従えない思いがやって来る。不幸の原因を追究し、理屈で納得したいが、ただ御言葉の通りだ。信じて従った者が主の栄光を拝する。


2012年05月16日(水)

「突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた」使徒9:4

      
サウロは、神の御心であり、正しい事だと信じ込んで、クリスチャンを捕らえ、殺害の意に燃えていた。エルサレムだけでは気が済まず、ダマスコまで追いかけた。その時突然、天からの光が来て、彼は地に倒れた。そして、主の御声を聞いた。「なぜ、わたしを迫害するのか」と。地面から起きた時、目が見えなくなっていた。

サウロにとって根底からくつがえされる、衝撃的な出来事だったろう。それから3日間、盲目の状態に置かれ、飲食もせず、真っ暗闇の中で、サウロは今までの事を考え、今、目の前に起きた事を考え、先を考え、祈りに祈った事だろう。サウロは「地に倒れた」時に、主の御声を聞いた。主が倒されて、聞かせられた。

私たちは全力疾走の時、周囲の事は見えない。行き詰まった時、失敗した時に立ち止まる。私たちにも、主は、立ち止まらせたいがために、挫折や失敗、行き詰まりを通される。そこには主のご計画があり、大きな祝福へとつながって行く。又、今、暗黒状態なら、主は祈らせたいと思っておられる。

立ち止まって、自らを振り返り、現在の状況を見据え、先について、祈りに祈ろう。「そこで、彼は祈っています」サウロは祈っていた時に、アナニヤが遣わされた。そして、「目からうろこのような物が落ち」て、再び見えるようにされた。私たちも、行き詰まりの暗黒を通った後、神がはっきりと、見えるようにして下さる。
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昨日と同じ歩みを主が止められる。再び歩き出すために何が必要なのか、何が要らないのか、何処へ行けばいいのか。行き詰まりは更に深みに漕ぎ出す祝福へのチャンスだ。


2012年05月15日(火)

「しかし、私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」詩篇73:28


詩篇の記者は、悪者が富を増し、安らかそうであり、栄えるのを見て、落ち込んだ。彼らは楽しそうで、豊かで肥え太っていて、あぶらぎっていて、何の苦しみも無なさそうだ。それに引き換え、自分は惨めで、苦しみばかりで、何のよい事もない。この足はたわみそうで、歩みは滑るばかりだと。どうして神を信じない者が栄えるのかと。

しかし、それは「私が誇り高ぶる者を妬んだ」自らの妬みから来ていて、そして、その妬みは、人との比較の中にいるから起きるのであり、神ではなく、人を見ていた。信仰生活で、平安や喜びが失せるのは、状況の問題ではなく、神以外のものが心を占め、重きを置き、第一になっているからだ。その底に、富への欲望や、又、人からの賞賛を求め、それを愛する心がある。

それが人への羨望になって出る。それは、神に焦点が合っていないからであり、様々な不満や愚痴、イライラでいっぱいになる。心に喜びがなく、虚しい。彼は聖所に入った時に、光が来た。心すさみ、悶々状態の原因は、目の前の状況ではなく、神と自分の関係にあると悟った。神から離れているから、平安が無いのだと。

今、平安が無いなら、目の前の問題のためと思うかも知れないが、それは関係が無い。心が、神以外の所にあるゆえだ。逆に、どんな困難な中でも、神との親しい交わりにいるなら、心は不思議な平安に守られる。
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自分と神との間に何を置いているのか、心が落ち着かず苦しい時は、何かがずれている。御前に祈りそれが何から来ているのか尋ねてみよう。示されたなら委ね、また新しい思いで、御側近くに歩もう。


2012年05月14日(月)

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」Tサムエル1:10

                          
エルカナには、ハンナとペニンナの二人の妻がいた。ペニンナには子供がいたが、ハンナにはいなかった。ペニンナは、夫がハンナの方を愛している事に嫉妬していた。そのためペニンナはハンナをいじめた。ハンナは不妊という、その急所を攻撃され、ハンナの苦しみ、悲しみ、辛さは頂点に達した。ハンナは主の御前に出て、心を注ぎ出し、激しく泣いた。

唇が動くだけで、声が聞こえないので、祭司エリは、彼女が酔っていると思った。彼女が気持ちの、何もかもを主に打ち明け、感情もぶつけ、泣いて訴えた後、祭司から「安心して行きなさい。あなたの願ったその願いをかなえて下さるように」との言葉を受けた。その時、彼女は変わった。もう以前のようではなかった。

私たちも、辛い、苦しい時は、泣いて訴えるとよい。気持ちも、感情も、何もかも受け止めて下さるお方だ。人に言えば「愚痴」が、神に向けると「祈り」となる。心の悲しみ、苦しみ、不安も恐れも、何もかも訴えて、委ねて行く時、心がすっきりし、平安にされる。主が受け止めて下さるからだ。

ハンナの胎を閉ざされたのは主であり、深いご計画があった。当時の堕落した霊的暗黒時代を導くサムエルを、祈りにより産み出そうとされた。そのためにハンナが用いられた。あなたの今の苦しみにも、主のご計画と御心がある。その苦しみから、必ず大きな祝福が産み出される。
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長引く苦しみに弱り果てないよう、時々の胸の内を、神様に吐き出して行こう。人に言うと愚痴になるものが神に向けると「祈り」になる・・なんと心強くそして幸いな方法だろう。


2012年05月13日(日)

「あなたはわたしの名のために家を建ててはならない・・多くの血を流してきたか らである。見よ。あなたにひとり子が生まれる・・彼がわたしの名のために家を建 てる」T歴代22:8



ダビデは、主のために、神殿建設を願った。しかし、その願いは退けられ、身か
ら出る世継ぎの子が建設するとの、御心が示された。神殿建設は、次世代に委ね
られており、そして、その者が一つの家を建て、主がその王座を堅く立てると。

ダビデは神殿建設を望んだが、主からの答えは「ノー」だった。私たちもこのよ
うな事を経験する。自分の心からの願いに「ノー」が突きつけられたなら、どう
だろう。

二つの反応ができる。一つは、思い通りにならない事に、やる気が失せ、又、反
抗的態度になるかも知れない。もう一つは、「ノー」を受け入れ、では、主の御
心が成し遂げられるために、自分は何をすべきかに焦点を当てる。

ダビデは、「ノー」を受け入れ、息子ソロモンが建設するとの御心を知り、その
ための準備に回った。これがダビデの信仰であり、素晴らしさであった。政治的、
経済的な安定がなければ、神殿建設は不可能だ。そのためにダビデは諸外国の敵
と戦い、着々と基盤を築いて行った。

「主は、行く先々で勝利を与えられた」御心に従うダビデに、主が連勝を与えら
れた。そしてダビデは、次々と膨大な戦勝品を、建設資金として主に献げて行っ
た。自分の道が閉ざされた時、ダビデにならおう。自分に与えられた御心がある。
それに従おう。主はすでに大きな祝福を備えていて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
ダビデの思いとは違ったが、息子ソロモンにより神殿建設がなされるとの恵みを
受けた。自分の願いは「ノー」であり、御心が自分の思いと違う所にあることが
ある。その時に、ノーを受け入れ、では、御名が崇められるために、自分はどう
動けば良いかを、主に問うて行こう。主の栄光のために用いられる事になる。


2012年05月12日(土)

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らい となさいました」創世記50:20



ヨセフは、人の悪でさえ、神は、良いことにして下さったと言った。人が邪悪な
思いで、私たちに悪を計ったとしても、それすら主が介入され、良いこととして
下さる。それなら、本当は恐れる事は無いのではないか。

ヨセフが、兄たちの悪巧みにより、エジプトに売られた時、「主がヨセフととも
におられたので」主人に愛され、厚意を得た。しかし、一転、無実の罪で投獄に
なってしまう。奴隷より更に悪い囚人の身だ。だが、その牢獄でも、「主はヨセ
フとともにおられ」監獄長の心に適うようにされ、囚人を世話を任された。

そして、「主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくだ
さった」。時に、状況がどんどん悪い方に向かう事を経験する。人間的に見るな
ら、主は一体どこにおられるのか、共におられないのではと思ってしまう。しか
し、「主はヨセフとともにおられた」。

私たちも同様であり、マイナスの事態が起きる時、はっきりと「主がともにおら
れる」のだ。すべての事が、主の御手の中にあり、主の主権と支配の中にあると
は、何と安心なことだろう。「永遠の腕が下に」、そして、そのような中で、主
に信頼して行く時、八方ふさがりの、最悪の状況だとしても、それを良いものに
変えて行って下さる。主を信じ、そこに立っていよう。

・・・・・・・・・・・・・
病気、リストラ、経済的困窮 別離・・一見マイナスの事態が起きた時、主がとも
におられないように感じ、見捨てられたように思ってしまう。しかし、確かに
「主は共におられ」て、良いことにして下さる。愚痴と不満で終わるなら、同じ
事の繰り返しだ。今回は信じてみよう。


2012年05月11日(金)

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:15


主の御言葉を聞き、導きを受けながら、それを無視したり、なおざりにしたり、ぐずぐずし続けていると、そのままの状態がキープされるのでなく、段々、心が頑なになって行ってしまう。又、良心にとがめを感じているのに、悔い改めたり、道を正さないなら、心は固くなると警告している。良心の声を無視し続けると、いつしか良心の声が聞こえなくなる。三角形の形をしたものが、心の中にあるとして、その角が心に当たるので、心にとがめや痛みが生じる。

しかし、それが回り続けると、角が取れて丸くなる。そうすると、心にとがめや痛みを感じなくなる。それは恐ろしい状態だ。対人関係でも、いつも忙しくて、又、聞く気がなくて、相手の言うことに耳を傾けなければ、相手はいつしか話すことを止めてしまう。全く話さなくなる。良心もそのように機能を停止してしまう。すると、心が頑なになり、主の戒めや命令も、全く何とも思わなくなってしまう。

聞こえると困る、都合の悪い御言葉は、聞こえない事にしていないだろうか。パウロが、アテネで御言葉を語った時に、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った人々は、二度と聞く機会が無かったかも知れない。「またいつか」という気持が無いだろうか。「きょう」と、主は言われる。従うべきことがあれば、「きょう」ただちに従おう。機会を逸する事のないように。
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御言葉や導きを聞いた「きょう」が出発点だ。悔い改めるよう促して下さる声をきちんと受け取り、従って行かなければ自分では何も変われない。自分に語られた御言葉の力を信じよう。


2012年05月10日(木)

「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」詩篇119:57


神に従うためには、御心に従おうとの意識的、選択が必要だ。オートマチックではない。没人格、没個性、没意志になるわけではない。夢遊病者のように、勝手に従って行けるのではない。意識して、御霊の導きの方を選択し、御霊に拠り頼んで行かなくてはならない。主に拠り頼む必要がある。神が、勝手に私たちを操って従わされるのではない。それなら操り人形であり、ロボットだ。また、神が代わりに、私たちの意志を無視して、されることもない。

詩編記者は自分の道を顧みた。私たちはどうだろう。日々の生活を、自分自身を顧みることは大切だ。日々の忙しさに、流されてしまっているだろうか。主との交わりから遠ざかってしまっているか。何かの示しをなおざりにし、ないがしろにし、引き延ばし、ぐずぐずしているか。記者は、主のさとしの方へ「足を向け」た。祈ったのでなく、実際に行動した。

今、はっきりと、主の御心に、自分の足を向けるよう、具体的に従うように導かれているなら、実行しよう。「急いで、ためらわずに」とあるように、ぐずぐずしていると、必ずできなくなってしまう。いつしか、御霊の促しが消えてしまう。大きな祝福を逃してしまう。今日、足を向けて、主の仰せを実行しよう。
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神に従うためには決心がいる。無意識に心のおもむくままで肉には歩めても、御霊の促しに従うには、その足を具体的に向けなければならない。導きがあるならためらわず実行しようと心も足も向けよう。


2012年05月09日(水)

「恐れないで、ただ信じていなさい」マルコ5:36


会堂管理者ヤイロが、瀕死の状態の娘のために、主に助けを求めた。それで主が一緒に行かれる途中に、長血の女性が割って入った。危篤であり、一刻を争うところに、邪魔が入り、ヤイロの心は、気が気ではなかったろう。彼女が主により癒された時、使いが来て娘の死を告げた。それゆえ、もう主に来て頂く必要はないと。

ヤイロの心は、どんなものであったろう。絶望が襲おうとする瞬間に、主は御声をかけられた。「恐れないで、ただ信じていなさい」と。別訳では「主はその話している言葉を聞き流して」、「主はその言葉に注意を払わず、心に留めず」となっている。不信仰な言葉は、聞き流す必要がある。心に入れてはならない。信仰の言葉である、御言葉を心に入れて、不信仰な言葉は聞かずに、シャットアウトすることだ。

不信仰の言葉を入れると、不安、恐れ、疑心暗鬼に支配され、不信仰に侵食されて行ってしまう。又、不信仰を招く事柄に「もうだめだ、遅かった」という状況がある。しかし、「神の時」がすべてだ。家に着くと、人々は大泣きし、取り乱していた。娘は知らせ通り、すでに死んでいた。目の前の動かすことのできない現実であった。

しかし主は、「死んだのではない、眠っている」と言われた。人々は嘲笑った。主の言葉が理性に合わないからだ。しかし、主の言葉通りに、娘は生き返った。どの言葉を受け入れ、どの言葉を聞き流すか、私たちの心が守られるために、大切だ。
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否定的な声が内からも外からも聞こえて来ると、目の前は真っ暗に見えてくる。信仰がなければ聞いて行く声のように、目の前の見えるものように成って行ってしまう。恐れないでただ信じていよう。


2012年05月08日(火)

「わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」ヨハネ10:14


思い煩いは、自分が、自分の力で何とかしようと思っているところから生じる。それが、どうにもできないので、思い煩うことになる。どうしてよいかわからない。この経済的苦境、あの対人関係、その目の前の状況、また先の事等・・自分の力量を越えている。それゆえ思い煩う。その底に、真の「安心感」が必要だ。

自分一人で人生を歩んでいるのではない。自分は羊であり、自分には羊飼いがいる。その羊飼いは、絶えず慈しみのまなざしで、自分を見つめ、あらゆる配慮をなし、世話をし、食べ物と水を与え、病気から守り、狼から、あらゆる危険から身体を張って、守って下さる。「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。

絶えず愛され、見守られている。そこから安堵感、安らぎが来る。羊飼いは、羊に病気や、けがはないか、傷はないか、痛みはないか、常にチェックする。そして何かあるなら対処する。もしあなたの過去に歪んだ傷があるなら、主こそ癒し主だ。「心の傷ついた者を癒すために、わたしを遣わされた」主は傷を癒すために来て下さった。「心が傷んでいます」とそのまま主に告げよう。

「わたしのものを知っています」、心の隅々まで知り尽くしておられる主が、良くして下さる。良い羊飼いが、絶えず愛のまなざしを注いで下さっていることを、覚えよう。
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主が共にいて下さっている。これ以上の平安はない。主が知っていて下さるように、私達も主を知っているのだからこの方を信頼し、この方にあってお委ねした人生を歩んでいこう。


2012年05月07日(月)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6


今も心配事があるだろうか。次々と問題は起きて、心配事を抱える。親子、夫婦、家族の問題、対人関係の悩み、仕事、進路、経済的問題、様々な悩みで思い煩う。しかし、主は「思い煩うな」と言われる。何も思い煩うなと。心配無用と。なぜ無用なのか。思い煩ったところで何一つ変わらないし、何をも成し遂げない。

「誰が心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことができるか」の通りだ。心が真っ暗になり、落ち込む事で、何かを変える事ができるのか。思い煩いは有害無益だ。又、思い煩いは、実際より、物事を巨人のように大きくしてしまう。冷静に対処するなら、乗り越えて行ける事態が、恐れで、パニックに陥ってしまう。

カナン視察の後、ヨシュアとカレブは、大丈夫だ、占領できる、前進しようと言ったが、民は恐れて怯えて、泣き伏した。その心配事は、絶えず脳裏に浮かび、それを受け入れ続けていると、不安と恐れの要塞を築き、それを尚も強固にし、モンスターにしてしまう。自分がそうしている。モンスターにはとても打ち勝てず、不信仰に陥る。

しかし、それは現実、実際とは異なる。想像上のモンスターであり、自らが描く最悪のシナリオは成ったためしがない。「あらゆる場合に」「祈りと願い事によって」その不安、あの思い煩い、この恐れ、主に知って頂き、主に渡そう。ことごとくを、主に告げよう。「そうすれば」神の平安が心に臨む。
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不安や心配が心に来たら、すぐに祈りに持って行こう。神に告げて行く中で、思い煩いは徐々に薄れ、神の平安に変えられる。思い煩いの声はまたすぐに来るが、いつまでも会話しないよう、すぐに主に渡そう。


2012年05月06日(日)

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属する ことをひたすら考えます」ローマ8:5  

          

]「肉的なこと」とは、どんなものだろう。自己中心的な考え、ネガティブな考
え、妬み、憎しみ、貪欲のような肉の欲望だとは想像がつく。しかし、もし礼拝
に忠実に出席し、沢山の奉仕をしていても、自分がほめられたいため、認められ
たいがためなら、「肉的なこと」だ。
肉に従うことは、自分がどうやったら認められるか、栄光を受けるかを絶えず考
える。

又、「御霊に属すること」とは、御霊からくる思いであり、絶えず御霊と共に歩
むことを、祈り、考えている。自分を捨てて、御霊の示しを求めている。主とひ
とつであり、そこには喜びと平安があり、感謝がある。

私たちは自分の思いを、コントロールすることは、なかなか困難だ。思いはちぢ
に乱れ、あちらこちらにさまよう。どうすれば良いのか。御霊に自分の心を明け
渡して、支配していただくことだ。その時、御霊が正しく導いて下さる。

ある人々は、信仰生活が喜びであり、幸福感をもって、歩んでいる。又、そうで
なく、愚痴と不満で一杯の人々もいる。どこが違うのか。いつも喜びのある人は、
御霊に目を向け、ひたすら考えている人であり、愚痴だらけの人は、愚痴に目を
向けている人だ。

環境は関係がない。環境が原因ではない。その人が思いをどこにつけるかだ。い
つも恵みを数え感謝している人は、幸せだ。何に目を留め、何を考えているかで、
生き方が決まる。
「現在の状況は難しいが、主は必ず良くして下さる、信じていよう」これは御霊
による思いだ。肉の思いと御霊の思い、いつもどちらの思いで生きているだろう。

・・・・・・・・・・・・・・
自分の思い通りに歩みたいという肉の思いを、そのまま認めて、御霊の助けを仰
ごう。主を思い、御心を尋ね求めて歩めるよう祈ろう。思いはあちこちさまよい、
コントロール不能だ。自分では出来ないが、御霊が絶えず助けて下さる。


2012年05月05日(土)

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」ヨハネ12:24


私たちには二つの性質があり、新しい性質は主の御心を行なおうとし、古い性質
である肉は、御心かどうかでなく、自分の損得を考える。自分の益にならないこ
とに、時間、労力、富は使いたくない。犠牲を払うことを、肉は嫌がり、したく
ない。回避するための弁解と言い訳は幾らでも出てくる。つまり「地に落ちて
死」にたくない。

ある婦人が、クリスマスの夜のイベントを皆で、計画していた際に、自宅はどう
かとの打診に、とっさに言ってしまった。「その日は仕事」と。実は、家の片づ
けや準備が面倒だったので、パスしたかった。そしてその当日、特別忙しくて、
遅くまで残業となり、「クリスマスなのに」と文句が出そうになった時、ハッと、
主が教えて下さった。

犠牲を払うのがいとい、とっさに出してしまった言葉、それが嘘にならないよう、
主が仕事を与えて下さったのだと。本当に「神様ごめんなさい」で、主のあわれ
みと優しさに、主を感じつつ、心温められて仕事が仕上げられたと。

麦は地に落ちて、芽が出て、花が咲き、実が実るが、麦自身は地中で死んで、そ
の結実を見ることができない。しかし、豊かな実がなる。肉は犠牲をいとう。そ
して、見返りを求めるものだ。人の評価が欲しいし、感謝が欲しい。今、何かの
犠牲を払うことを、主から求められているなら、従ってみよう。

主に従う人生は何が違うのだろう。自分中心から神中心に変わることだ。自分の
好きなように人生を生きるなら、一粒のままで終わる。しかし、自分の思いを捨
て、主の御心に従うなら、必ず豊かな実を結ぶ。

・・・・・・・・・・・・・
肉は自己を軸に生きようとする。自分を中心に考える。メリットが無ければ意味
がない。御霊の導きは神中心だ。自分の損得でなく、主の御心はどうかを考える。
自我は強く、「できません」と祈って行く時に、主の助けを経験して行く。


2012年05月04日(金)



「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから」ルツ3:18      

ナオミは、モアブの地から、自分についてベツレヘムに来た、嫁ルツの将来について祈り、よく考えた事だろう。ルツに良くしてくれる、誠実な人柄のボアズ、親戚でもあり、彼こそがふさわしいと考えた。それで、ナオミはボアズに買い戻しを願うよう、その方法をルツに指示し、ルツは姑の言う通りにした。すると彼は、更に近い親類がいるので、その人が権利を放棄するなら、自分が買い戻すと言った。

その時、ナオミは、結果を見る前に、必ずボアズがルツを買い戻す事、それが神の御心であり、そう成る事を信じた。それで、この結果が出るまで「待て」と確信持って言えた。神が働かれるから、ただじっと待つようにと。策を練るのでもなく、動くのでもなく、ただ待てと。人間的な動きを止めることだ。

私達はこれが大変難しい。事が起きると、自分を救うために、動き回り、走り回る。じっとしているより、その方が安心なのだ。目に見えない神を、ただ待ち望む事は難しい。又、それは、ただ単に、何もせず手をこまねいているのではなく、示された事はして、待つという意味だ。

ルツは自分のなすべき分を果たした。だからこそ、次にすべき事はそこで安息し、ただ神がされる事を、祈りの内に待てばよい。あなたにも、今なすべ事を果たし、後は、神を待ち望めと、言っておられるだろうか。
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神様がどんな約束をして下さっているか、その御心がわかったならじっと神様が働かれる時を信じてまとう。不安な思いはその都度祈り、待つ時もまた学ぼう。


2012年05月03日(木)

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままではいけません」エペソ4:26

カインとアベルの兄弟がそれぞれ献げ物をした。アベルの供え物は受け入れられ、カインのものは退けられた。なぜ、カインのものは目を留められなかったのか。理由自体は記されていないが、「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる」とあり、正しく行なっていなかった事がわかる。

しかし、カインは、自分は受け入れられず、なぜ、アベルだけが?妬みと怒りは憎しみへと増幅する。カインはアベルに非常な憎しみを抱く。最初から殺害を思い立ったのではなく、心の内に激しい怒りと憎悪を抱き続けていた。神はそれを見られて、「罪が門口に待ち伏せている。それを治めるように」と言われた。

カインはこの神の警告に関わらず、憎しみがエスカレートするのを制御しなかった。罪はどんな状況でも、自分を正当化させる。それが罪の性質だ。しかし、正当化して行くなら、罪に足をすくい取られ、がんじがらめにされる。この自己正当化が、罪をわからなくさせてしまう。

私たちはどうだろう。許せない気持ちを、どんどんエスカレートさせて行く時、それは憎悪となり、憎しみは相手を心の中で抹殺して行く。言い訳をし、理由付けをし、自分の罪を罪と認めないなら、感覚が無くなってしまう。心の中での殺人が、現実の殺人へとエスカレートする。怒りを認め、主に祈り、制御できるよう助けを求めよう。主は助けて下さる。
--------------
怒りや憎しみは治める決心をしなければくすぶり続け、やがて爆発する日が来る。日の暮れるまでに、その日捕らわれていた憎しみのにがい思いを主の前で解決しよう。


2012年05月02日(水)

「民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた」ヨシュア7:4


大きな祝福の後に大失敗をすると、よく言われている。ビッグイベントを無事終了したり、困難な問題が解決した時に、ふっと気が緩み、油断してしまう。その時にサタンの誘惑に乗ってしまう。戦いの最中は必死だが、勝利の後にこそ、特に気持ちを引き締める必要がある。

イスラエルはエリコ陥落に大成功した。勝利〃の進軍だった。それが小さな町アイに敗北した。人口も少なく、堅固な町でもなく、余裕の戦いのはずであった。しかし予期に反して、破れて逃げ帰った。この動揺は大きかった。奇跡のヨルダン渡渉をし、尚も続いてエリコの城壁が、目の前で崩壊するという大きな神のみわざを見て、当然このまま大勝利のはずだった。ところが突然の敗北で、「民の心はしなえ、水のようになった」。

なぜ?失敗し、敗北したのか。大奇跡を体験し、勝って当然であり、恵みを恵みとせず、神に頼らず、自分達の判断と力に頼った結果だった。高慢であった。私達も順調な時こそ、よく気をつける必要がある。そして、それと共に、アカンの罪が明らかにされた。聖絶すべき分捕り物を密かに自分のものとしていた。聖絶のものに手を出さない事、聖別されたものを主の宝物倉に持ち込む事を命令されていた。

アカンの罪は、すべてのイスラエル人に災いをもたらした。神様の怒りはアカンだけでなく、イスラエルに向かって燃え上がった。一人の罪が共同体全体に影響を及ぼした。私たちも内なる罪を対処せねばならない。どんな時も、十字架のもとに行ける。そして全き赦しを受け取れる。
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祝福の後にサタンが来る。感謝していた思いがイライラしたり、心の緩みに誘惑も来て少しずつ肉の歩みにずれて行く。大きな祝福は神様からのもの、感謝を忘れず、御名をほめたたえつつ歩もう。


2012年05月01日(火)

「しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません」Uコリント12:5 


パウロは強さではなく、弱さを誇った。み言葉の言う弱さとは、自分の限界を知り、認めているということだ。しかし、この世の言う弱さは違う。神無しのこの世界では、人は皆、比較の中で生きている。神と自分の関係性が無いので、横の人との比較で、人との差異でしか、自分を量りようがない。そのため比較の世界から逃れられない。常に比較していて、人より仕事が、勉強が、運動ができない、対人関係がうまくできない、そこから劣等感に落ち込んで行く。

劣等感があるので、優越感に浸りたい。高慢を根に、劣等感と優越感の間をグルグル回る虚しい人生になってしまう。そこから自由にして下さる。この世は、弱さは悪という価値観であり、そのような古い価値観の影響を受けると、できない自分、だめな自分、人の持つ幸せを持たない自分、人より劣る自分は敗北者であり、惨めであり、マイナスのものでしかない。

それゆえ、弱さは知られたくないものであり、どこまでも隠して生きる。競争なら、弱さを見せると負けだ。しかし、御霊の世界は真逆だ。弱さこそが恵みであり、神の力は弱さのうちに完全に現わされる。神の愛や、力や、恵み、神の支えや、助け、それらを弱さの中で初めて経験する。身をもって知れる。弱さを認めることが大切だ。パウロは自らの弱さを認め、受け入れた。今、必要な事は自らの弱さを認めることだろうか。
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いつでも神様助けて!と叫べることが感謝だ。自分の限界を知り無力を受け入れ明け渡せたなら結果はいつも神様の栄光。優劣を気にしている自分自身から解放されパウロのように弱さだけを誇りたい。