2012年06月30日(土)

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」ルカ19:10



当時、民はローマ帝国へ高額の税金を納めていた。その徴税にはユダヤ人が当た
り、ローマへ納める額以上に取り立てて、私腹を肥やしていた。つまり同胞から
搾取していたため、同胞に裏切り者として軽蔑され、嫌われていた。

わかっていて、そのような職業に就いたザアカイは、取税人の頭に上りつめ、資
産家になり、求めていた地位も富も得た。しかし、それらは決して心を満たして
はくれず、孤独で寂しく、虚しい日々であった。

ザアカイは、真に心を満たしてくれるものを求めていた。主に会いたい一心で、
あの貪欲なザアカイが、自分を忘れ、主を求めて、木にまで登った。すると主は
「ザアカイ。降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まる」と、ザアカイの
心のすべてをご存じで、名を呼ばれ、罪人のザアカイを裁かず、責めず、受け入
れられた。

「あなたの家に泊まる」、あるがまま受け入れている愛であり、最大限の信頼だ。
「失われた人を捜して救うために来た」と言われたが、失われたザアカイを、捜
して救うために来られた。ザアカイが悔い改めたからでなく、主が来て下さった
から、ザアカイは自分自身の姿に気づくことができた。罪を知り、悔い改めるこ
とができた。

心から悔いて、財産の半分を貧しい人に施し、だまし取った物は4倍にして返す
と言った。富がいのちであったザアカイは、富の執着から解き放たれ、主がいの
ちとなった。主の愛に包まれ、虚しさが喜びに変えられ、生き生きと生きて行け
るようにされた。同じように、主はあなたの名を呼んで下さり、あなたの人生を
共に生きて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
主はザアカイの心の内を知っておられた。主は、主を切に求める心を見ておられ
る。主を求める心には、必ず応えて下さる。主が私を捜して下さったから、主に
出会えた。何と嬉しいことだろう。更に深く親しく主を知る日々でありたい。


2012年06月29日(金)

「ヨナは、主のみ顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った」ヨナ1:3


ヨナは、ニネベに行けとの神の命令が、嫌で不満だった。ニネベとはイスラエルを脅かすアッシリヤの首都であり、そのニネベが神の裁きに会い、滅びる事を願っていた。なぜあの宿敵のもとへ行かねばならないのか。すると、丁度そこに渡りに舟、反対行きの船があった。それで、好都合とばかりに、それに乗って逃れた。嫌な事は避ける事が出来たが、結局それは、主の御顔を避けてしまう事になる。

しかし主は、何もかもをご存じだ。「あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます」信仰生活には時として、したく無い事、避けたい事があるものだ。肉は逃れてしまいたい。しかし、生活のすべての事は、神の配剤の中にあり、必要ゆえに与えられている。それを通して、主は私たちを鍛錬し、聖め、成長させたいと願っておられる。

プライド、虚栄心、頑なな自我を砕き、御霊の実を結ばせようとのご計画がある。頑固な自我は、どこまでも自分の思い通りにしたい。放っておかれると、自分の欲望に沿って、自分の好きなように生きてしまう。逃げるなら、霊的な成長を逃してしまう。今、目の前に、逃れたい事態があるだろうか。

ヨナは自分中心にしか見ていないため、神のお心がわからなかった。しかし、自らの自我に気づき、悔い改めた時に、間に合う主の器として用いられた。目の前の状況から逃げて、主の御顔を避けるだろうか、それとも向き合って、主に従うだろうか。
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自分の選んだ事だけしていたい、その時だけ主に向き合えばいい、の自分中心の信仰では何も変わらない。いつも問題は目の前に来る。主と共に立ち向えるチャンスだ。感謝して受け取り従って行こう。


2012年06月28日(木)

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」民数記13:30


モーセは、約束の地カナンに12人の斥候を送って、偵察させた。10人は、カナンの地は、乳と蜜の良い地だが、民は強く、町は大きく、城壁を持ち、上って行けないと言った。しかし、ヨシュアとカレブは、主が共におられるなら占領できる、上って行こうと言った。彼らは私たちのえじきとなり、彼らの守りは取り去られていると。だが、民は恐れ大声で叫び、夜通し泣き、エジプトへ帰ろうと言った。

全く同じものを見て、不信仰の目には恐怖、不安、難攻不落、不可能の大砦しか見えない。だが、信仰の目には、可能、占領できる、自分たちの餌食だと見える。彼らがいた地からカナンまでは、ほんの少しの距離だった。しかし、つぶやいた民たちは、この後40年間、荒野をさまよう事になった。彼らは神の言葉を聞いた。しかし、み言葉がそれを聞いた人たちに、信仰によって結びつけられなかった。

結局、不信仰のゆえに、カナンには入れずに、荒野で死に絶えてしまった。主が約束を与え、素晴らしい祝福を用意して下さっていても、もし、私たちが信じて、従わなければ、それを手にする事はできない。彼らが不信仰にならずに、信じて従っていたなら、素晴らしい乳と蜜の流れる地に入れたであろうに。御言葉に立ち、神を信頼したヨシュアとカレブと新しい世代が、約束の地カナンに入って行った。
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目の前の状況と、み言葉にはいつも大きなギャップがある。どちらを見ているだろう。神様がすでに備えていて下さる祝福から目をそらさず「必ずそれができるから」とのみ言葉に立ち、恐れず確かなものとして実現させて行こう。


2012年06月27日(水)

「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」マルコ14:8

                   
いつも主の足もとに座して、全身で御言葉に聞き入っていたマリヤは、これから主が贖いのために、自らの罪のために十字架にかかられる事を悟っていた。それゆえ、マリヤは主のために、自分に出来うる限りの、精一杯の事をした。今まで取っておいた非常に高価な香油を惜しげもなく注ぎ出した。それは女性が、結婚の時のためにと、少しづつ貯えるものだった。

マリヤにとって非常に貴重な大切なものであり、それを献げることは、マリヤの主への心からの愛だった。献げ物とは、主への愛の具体的な表われだ。今、自分に出来る事をすれば良い。自分になしうる感謝を精一杯表わせばよい。私達はよく思う。もっとお金があれば献げられるのに、もっと時間があれば、状況と環境が変わればもっと何かできるのに・・。

しかし、どうだろう。今、献げないのに、もしそうなれば献げるのだろうか。2レプタ献げた貧しいやもめは模範だ。人々から見れば、ほんの僅かなお金だが、主は誰よりも多くを献げたと言われた。今、自分に出来ることは何だろう。自分にできることを、主への愛を込めて、心からお献げしよう。献金でも何かの働きでも、今、自分に出来る事をすればよい。できない事ではなく、出来ることで良い。祈ってみよう。御霊は導いて下さる。そして主はそれを受け取って下さる。
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献げる物も神がすでに備えていて下さっている。今の自分にも献げられるものはないか、また、献げますから与えて下さいとも祈ってみよう。あふれるばかりの祝福を注ぐと神は言われている。


2012年06月26日(火)

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」Tペテロ2:2


信仰生活において、御言葉は力であり、行く道を照らしてくれる光だ。「みことばの乳を慕い求めなさい」とあるように、祈りは呼吸であり、御言葉は乳だ。祈りと御言葉は、無くてはならないものだ。なぜ、日毎に、御言葉が必要なのか。この世で生きている私達は、日毎にこの世の価値観にさらされ、激しい攻撃を受けているからだ。

意識するとすまいと、凄まじい影響下にいる。全く正反対の価値観だ。この世は地を目指し、自らの判断と自らの力、知恵を根拠に、自分の栄光のために生きる。私達は天を目指し、御言葉を根拠に、神の御心を行ない、神のために生きようとする。サタンは、私たちの価値観の部分に影響を与え、巧妙に誘惑を仕掛けて来る。価値観にさえ働けば、簡単に行動を操作できる。

人はまず思考があって、価値観があって、行動があるからだ。御言葉や祈りから離れると、クリスチャンもすぐに古い性質、肉の価値観で行動してしまう。自分の損得、自分の賞賛、自分の欲望、自分中心に、自分の都合のために生きてしまう。生まれつきの性質だ。御言葉によらずに、自分の思い、判断で行動してしまう。

御言葉は、自我や肉の判断に日々気づかせてくれる。軌道修正される。日々御言葉を聞き、御言葉によって自分の考え方が正され、御言葉による価値観が培われて行く。
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御言葉を通して神の声を聞いていなければ、漠然とした人の思惑や自分の内からの声で、すぐに古い価値観に舞い戻ってしまう。弱い者だ。繰り返し御言葉を慕い求め、よく備えて確かな歩みをしよう。


2012年06月25日(月)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4



ある婦人が、どうしても赤ちゃんが欲しかった。必死に祈って〃切なる祈りを献げ続けた。どうしても欲しい、強烈な願望がどうにもならず、いつしか与え主よりも、与えて欲しいものに重きが行っていた。ある時、このまま行けば、願いさえ叶えられれば、何でもよい、偶像でも構わない、とまでなって行く事に愕然とした。主の御前にへりくだり、ひれ伏すどころか、主の恵みをもぎ取ろうとの、恐ろしい態度である自分に気づかされた。

高慢を示され、恐ろしさに震え、涙ながらに悔い改めた。その時、赦しと主からの全き平安を頂いた。主にすべて明け渡し、心平安に満ち、もう与えられずとも良いと、心の底から思えた。心が解き放たれた。しかし幸せな日々の中で、主は奇しい導きを下さり、養子の道が開かれた。大きな喜びを与えられ、主に心から感謝していると、更に驚くべきことに妊娠が与えられた。

私たちは、「何を」喜びとして、日々生活しているだろうか。人は、自分に満足を与えてくれるものを追い求める。「富」が幸せを与えてくれると思うなら、時間、労力を駆使して富を得る。「仕事」「名誉」「地位」「人からの賞賛」なら同じように、時間、労力を一途に、その事のために費やして行く。建前は「主」だが、本音は何だろう。自分の願望を第一にでなく、主を第一にして行く時、喜びが来て、主のお心にそって求めて行く。それは御心にかなった願いであり、叶えられることになる。
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自分の意のままに願い、祈り求めて自分視点の神様しか見ていないなら、いつも満たされない思いが残る。神様からの喜び、幸い、満足は自分の満足とは無関係だ。強固な願いを手放せることから祈ってみよう。


2012年06月24日(日)

「私に立ち向かう者が多くいます・・しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、 私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です」詩編3:3 

   
                     
ダビデはバテシバと姦淫の罪を犯した。罪は真実に赦されるが、蒔いたものは刈
り取ることになる、ダビデも刈り取りがあった。実子アブシャロムが自分に敵対
し、謀反を起こしたのだ。自分の子供が、自分を攻撃し、歯向かって来るなど、
それはダビデにとって、心引き裂かれるような、非常に痛い、辛い事であった。

彼は、そのアブシャロムを、武力により鎮圧しようと思えば出来たが、我が子と
戦うことをせず、すべてを主に委ねて、自分が離れ去り、逃げる道を選んだ。そ
してひたすら逃げ回った。

祭司ツァドクとエブヤタルも、契約の箱をもってエルサレムを出ようとしたが、
ダビデが止めた。理由は、「主の恵みにかなうならば、私を連れ戻して下さるだ
ろうし、もしそうでなくても、主が私に良いようにして下さる」。

ダビデは、罪を犯す以前の、信仰によって歩むダビデだ。自分で自分を守ろうと
せず、自分に関する事をすべて主に委ねている。主のなさるままで良いと。命を
主に預けている。

そして、決して武力で立ち向かわず、神を頼り、よりすがり、神に切に祈り、神
に求めている。「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答
えてくださる」。私達は問題が起こる時、どうだろう。パニックになって動転し、
まず何とかしなければと立ち騒ぎ、動き回るだろうか。自分で動かず、まず第一
に主に呼ばわろう。

・・・・・・・・・・・・・・
立ちはだかる問題や恐れがある。「しかし、主よ」と呼ばわろう。自分で何とか
しようとせず、まず主のもとに持って行こう。主が前面にある盾だけでなく、回
りを囲む盾となり守って下さる。失望落胆、意気消沈でなく、かしらを高く上げ
て下さる。今、「しかし、主よ」と祈ろう。


2012年06月23日(土)

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」箴言 14:12


人間的な目に、まっすぐに見える道がある。肉には、まっすぐに=正しく、良い
ようにしか見えない。この道が絶対に良い、この方法は最善だ、としか思えない
から要注意だ。

又、罪には快楽がある。罪は苦しく辛いのではなく、快適で楽しいのだ。そうで
なければ、誰も罪になど誘惑されないし、これほど多くの問題は起こらない。

悪魔は策略をもって攻撃して来ている。肉に歩んでいながら、心地良いので、見
たところ問題は無く、順調であり、幸せに思える。万事うまく行っていると、錯
覚させる。みこころに反していながら、気づかない。しかし、悪魔にだまされて
歩んで行くと、必ず悲惨な結果に行き着く。それは死の道だ。

それだけでなく、蒔いたものは必ず刈り取ることになる。蒔いたものに責任を取
らねばならない。これは原則なので例外は無い。神から離れて、御心に反してい
るのに、楽しいのは、それは欺かれていて、悪魔の罠だ。後で、苦しい刈り取り
をする事になる。

もし、明らかに御言葉に反する道に行っているなら、幾ら楽しくても、心地良く
ても、方向変換しよう。又、大豊作で倉を幾つも建てた金持ちは、何もかもが順
調で、快適で、何の問題もなく、順風満帆であった。「何年分も何の心配もない。
さあ、飲んで食べて楽しもう」。
しかし、その夜、彼の命は取られた。人の目には、まっすぐで万事0K、うまく
行っていると見えても、神中心でなければ、何の実もないことになる。「心を尽
くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな」。

・・・・・・・・・・・・・・・
道を選ぶ時に、「自分は正しい」に立って選ぶと、その道はまっすぐに見えてし
まう。この道こそが絶対だとしか見えない。自分の肉の目には見えないからやっ
かいだ。自分に頼らず、主に拠り頼もう。祈って、主に頼って選択しよう。


2012年06月22日(金)

「帰って来てください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください」詩編6:4

 
ダビデはサウルに妬みのゆえに、命をつけ狙われ、逃げ回った。更に自分の息子にも歯向かわれ、攻撃されるという、心裂かれる苦しみ、辛さの中で、更に病にも陥っていた。もう心身共に絶体絶命の大変な苦境だ。ダビデは神に愛され、神のみ心にかなった人だった。

信仰者になると、悩みや問題が無くなるのではない。問題、試練は必ず来る。私達は余りにも苦しくて、とにかく何でもいいから、その問題が去ってくれるようにと願う。しかし、苦しみの中でこそ、神が、まことに神であられる事を、身をもって知って行く。ダビデは「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、なすすべなく、何の手立てもなく、ただただ御前で泣いて泣いて嘆いた。

苦しみの中でこそ、主を心の底からあがき求め、深い交わりの中に入れられる。主に拠りすがり、苦しみの時が、主と一番近い。「私は衰えています」「恐れおののいています」「主よいつまでですか、あなたは」と、「この苦しみはいつまで続くのか」と、ありのままの、率直な気持ちを神にぶつけている。

順境の時には決して経験出来ない。自分で何とかしようともがき、走り回るのではなく、問題をすべて神に打ち明け、持ち出そう。率直な気持をぶつけたダビデは、「主は泣く声を聞かれた」「「切なる願いを聞かれた」「祈りを受け入れられる」と平安に変えられている。主にことごとく打ち明け、聞いて頂こう。
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心の中の混沌とした思いを主に祈りの中で打ち明けて行くと、答えはわからなくても悩みをお預けした安堵が来る。「あなたの恵みのゆえに、私をお救いください」と拠り頼めるお方が私達にはいる。


2012年06月21日(木)


「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4:4

いつも不平不満を言っている人がいるだろうか。そんな人はどのような状況にいても不満が出て来る。「あの嫌な相手さえいなければ」「あの人が、この人が、ああしてくれない、こうしてくれない・・」「忙しい。時間が無い・・」「元気でさえあれば、自分は身体が弱い・・」「ああでない、こうでない」自分の思うようにならない状況に、絶えずつぶやく。

しかし、完璧な環境にいる人など一人もいない。皆、不具合いな何かを抱えている。人生は自分の思い通りにはならない。状況だけを見るか、神に焦点を当てて、状況を見るかで、天と地ほどに変わる。状況と自分を見ているなら、全く神が見えず、主からの恵みや祝福が一つも見えない。暗闇で、ネガティブに傾き、不満ばかりになる。神か、状況か、どちらを見ているかだ。

「喜びなさい」というのは選択だ。状況でなく、「主にあって」喜ぶことができる。ハピーな事があるから喜ぶのでなく、「喜びなさい」の御言葉を選択し、そこに立つから喜びが来る。いつも不満だらけの人は、自分が不満を選んでいる。どんな時にも、「状況にあって」でなく「主にあって」喜ぶことができる。

そして、主に焦点を当てる時、不平不満、文句でなく、この最悪の状況の中で、自分に出来る事をして行こうとする。前に進んで行くことができる。どこまでも神に依存しているのであって、状況には依存していないからだ。あなたは何に依存しているだろう。
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自分のうちに主がおられることを覚えよう。状況の中に独りでいるのではない。状況だけが見える時には主を呼べる。主にあって喜ぼう。主にあって感謝を数えてみよう。


2012年06月20日(水)

「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう」箴言27:4


信仰者には二つの性質があり、新しい性質と、古い性質がある。皆、生まれつきの性質、肉の部分がある。そして、誰しも持ってしまうものが「妬み」だ。妬みの性質は根深い。自分に無いものを、又、自分が欲しいものを持っている相手を羨む。しかし、心の底にある妬みを認めたくないために、相手の欠点をあげつらい、自分がこういう思いを持つのは相手が悪いせいと、自分を正当化する。

相手を批判し、難くせをつける、その動機の多くは、隠れた「妬み」だ。シーソーのように、人が誉められ高く上げられると、自分が下がり、けなされたように感じてしまう。他人によって、自分が上がったり下がったりするはずもなく、他人と自分は全く関係ないのだが、比較が入ると、やっかみが生じる。

人は、自分の中の自分で認めたくない心は押し込め、ふたをしてしまう事が出来る。それゆえ自分では、妬みに全く気づいて無い場合がある。心にザラッとしたものを感じる時には要注意だ。底にある妬みは、理由づけして正当化して相手への攻撃となり争いとなって行く。御霊の光のみが、心の奧にあるものを照らし出し、気づきを与えてくれる。光に出されたものは、どのようであれ祈りに持って行ける。そして、祈るならば、問題解決へと導かれる。
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相手が良ければ良いほど沸き起こる妬みは、自分で最も認めたくない感情だ。巧みに正当化して行く自分に気づけ、主の前に認めていこう。妬みから解放され、自分自身を生きていけるよう祈ろう。


2012年06月19日(火)


「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くかを知らないで、出て行きました」ヘブル11:8

アブラハムに「生まれ故郷、父の家を出て、示す地に行け」との、神からの示しが臨んだ。自らの生まれ故郷を離れ、父の家を出る事は、大変な決断のいる事だった。全く先が見えない中で、居心地の良い、平穏な、安定した自分の居場所を出ることは勇気が要っただろう。

又、どのような困難があるや知れず、一歩を踏み出すことの恐れ、不安、故郷を去ることの寂しさ、孤独感があったろう。しかし、アブラハムは、主がお告げになった通りに「出かけた」。聞くだけでなく、御声に従い、実際に、主からの御言葉を行動に移した。アブラハムの信仰であった。その結果、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれ、ヘブル11章の信仰の人々に名を連ね、平安な老年を迎え、長寿を全うして死んだ。

「長寿を全う」とは、「満ち足りた生涯」であったということだ。あなたも、主から何かの新しい出発、前進の語りかけを受けているだろうか。御声を聞くなら、一歩を踏み出し従う事が大切だ。それより以前に、彼の父親テラもカナンの地を目指し、ウルから出たが、途中のカランで住みついてしまい、そこで一生を終えた。途中で止めてしまったのだ。

私達はどうだろう。主が大きな祝福へと導いておられるのに、ちゅうちょし、尻込みしているだろうか。居心地の良い今の場を手放せないでいるか。主は大きな喜びと祝福の地へ導こうとされている。主の御声に従おう。
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神の導きがあったなら最善と信じて従うべきだ。安全を確認し、害がないと納得してから出て行くなら信仰はいらない。ちゅうちょし尻込みをして、導きの声がかき消えた苦い経験はないだろうか。


2012年06月18日(月)

「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」使徒13:52

この世の幸せの価値観は、自分の思い通りになること、自分の欲望が遂げられること、自分のしたいように生きることだ。それが幸せだ。信仰の歩みを始めても、その価値観が根深くあるので、自分の願いが叶うこと、自分の思い通りになることが喜びで、充足感が得られると勘違いする。そのため、自分の欲望を満たすことを追い求める。

しかし、決してそうではない。心の喜び、平安はそこからは来ない。そこには無い。貪欲とは、底の無い欲望だ。これで十分ということがない。貪欲は更に貪欲を生み、とどまるところを知らない。金持ちが幾ら富を持っても決して満足しないように、欲望は満たせば満たすほど、更に渇く。生きがいを求めて次々と駆け巡る人を見るだろう。

自分を喜ばせ、自分の欲望を充足して行く人生はますます渇くばかりだ。真の喜び、御霊の喜びや平安を得ることがない。問題は「自分中心」にあるからだ。人は、誰しも喉から手が出るほど「喜び」「心の満足」が欲しい。もし喜びが欲しいなら、自分を喜ばせる事を止め、神が喜ばれる事を求める事だ。

「神中心」「神第一」にする時に、喜びが心に湧き上がる。喜びは御霊の実だ。御霊の実は、御霊に自分を明け渡して、従って行く時に与えられる実だ。自分で得るのではなく、神に従う時に与えられるものだ。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安・・」。
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自分を喜ばせようとしてなお渇き続ける。虚しい努力には何の実もない。神から与えられる満足に心を向けてみよう。御霊の促しに明け渡して行くところには、神から与えられる喜びと実りの豊かさがある。


2012年06月17日(日)

「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7:7



祈りは学校だと言われている。私達は自然によく祈れるようになるのではない。
祈りは実践を通して、教えられて行くものであり、身につくものだからだ。自分
の祈りをよく顧みると、その場限りのいい加減な祈り、気まぐれな祈り、自己中
心な祈り、思いつきの衝動的な祈り・・そんなものも多い。

神がすぐに答えずに、祈り続けさせられるのは、一体自分が何を求めているのか、
自分の本当の願いは何なのかを、心の底にあるものを、自分自身をわからせて下
さるためだ。衝動的な祈りは、翌日にはもう忘れてしまっている。真に求めてい
るものではないからだ。

本当に求めているもの、心からの願いは、祈り続ける事が出来る。時間に耐え得
る。どちらでも良いものは、少し長引くと、もう祈り続ける事が出来ない。自分
の祈りを振り返る時、よくわかるかも知れない。神が答えを差し控え、祈り続け
させられるのは、自分自身の祈りをよく吟味させるためだ。

何が本当に必要で大事なのか、何が自分の願いなのかを、自分で理解して行く。
祈りにより、神と向き合う中で、自分を知り、自分の思いを知り、神のみ思いを
知り、神ご自身を知って行く。

信仰が祈りにより、一歩〃成長して行く。自らの日々の祈りを今一度点検してみ
よう。そして、主に心を開いて、主と向き合い続けよう。その中から、御心にか
なった祈りを体験的に見い出して行く。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
主は、どんな祈りも聞いて下さっている。ただ、御心にかなった祈りだけが、叶
えられる。そのため、主は祈りを導いて下さって、主のお心にかなうように、軌
道修正して下さる。その事を祈りの中で経験する。祈りを続けよう。多くの事を
学ばせて下さる。


2012年06月16日(土)

「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊に よって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:1 3



この地上の信仰生活で、祝福された人生を送るために、主に従うこと、つまり御
心を「行なう」ことが大切だ。岩の上に家を建てるとは、御言葉を聞くだけでな
く、聞いた御言葉を実行する事であった。いかに御言葉を生きるかという事であ
るが、しかし、私たちは幾ら頑張っても、御言葉を実行する力は無い。

あなたも経験しただろうか。パウロが「私は、自分でしたいと思う善を行なわな
いで、かえって、したくない悪を行なっている」と告白している。「善をしたい
という願いがあるのに、それを実行することがない」と。御言葉は「聖なるもの
であり、正しく、良いもの」だ。

御言葉は「霊的なものであり」、しかし、「私は罪ある人間であり」肉だ。だか
ら、肉で霊をどうにも出来ない。では、どうすれば良いのか。「私は、ほんとう
にみじめな人間です」とパウロが叫んだように、自分には出来ない、自分は無力
であることを認めることだ。

そして、自分には出来ないのだから、神に拠り頼んで行く。自分を明け渡して、
頼んで行く時に、肉でなく、御霊が働いて成し遂げて下さる。御言葉は霊である
から、霊である御霊がなされるなら可能だ。

御霊が実行させて下さる。御霊に従って歩む時、出来ないのでなく実行すること
が出来る。今、無力を感じているだろうか。それなら大きな祝福の門口だ。主に
拠り頼もう。主のみわざを見る。

・・・・・・・・・・・・・・・
「私の肉の内に善が住んでいない」とあり、善が住んでいないので、どうにもな
らない。肉に従うなら死=自分の力で行なうなら、出来ない。「できません」
「助けて下さい」と自分を明け渡して行く時に、御霊が働かれ、従って行ける。


2012年06月15日(金)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


プライドとは絶対的なものでなく、相対的だ。自分が持つものに満足せず、他人より多く持ち、他人より上である時に満足する。だから常に「比較」があり、競争相手が、自分より優位にいる事が許せない。勝ち負けの世界であり、どうあってもライバルの上に立ちたい。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と、女たちが笑いながら繰り返し歌った。

「サウルは千を打ち」だけなら問題無かったが、「ダビデが万」というのが気に入らない。比較された時にダビデを妬み、その妬みは憎しみとなり、殺意までに増幅した。対人関係の争いは、又、国家間の争いは、こんな人間のプライドに起因する。

蛇が、アダムとエバへの誘惑に働いた事は有名だ。彼らのプライドを巧妙にくすぐり誘惑した。善悪の知識の木の実を食べる事を禁止するには、何か神の下心があり、神は、神のようになられるのが嫌だから、禁止しているのだと。なぜいけないのか。自分たちだって神のようになれると、サタンがプライドに挑んで来た結果、罪を犯してしまった。

その罪の性質が、私たちの内にある。自己中心であり、自分を高くする。しかし、主は丁度その対極だ。ご自分を捨てられ、自分を主張されず、ご自分を低くされ、死にまで従い、十字架の死にまで従われた。ここにプライドからの救いがある。主と共にプライドは十字架に釘付けられた。そこに立って従って行こう。
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プライドはいつも誰かと競り合う。良いことも虚栄からとなっていないだろうか。人の評価が自分の高ぶりの心を満足させるなら、慎みと恐れを持って主の十字架を仰ごう。


2012年06月14日(木)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから、『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」イザヤ30:21


神は私たちに歩むべき道を示し、導いて下さる。御言葉を通し、状況を通し、心に平安を与える事により導かれる。しかし、気をつけなければならない。御心を求める時に「御心を示して下さい」と祈り、聖書をパッと開いて、その箇所の、たまたま目についた言葉を「示された!」という人がいるが、それは危険だ。聖書は占いの書ではない。

すべての言葉には前後関係があり、文脈があるので、それを無視して1節だけを取り出すと間違った方向に行く。異端がしかりだ。正反対の方向へ進む。人は主観が強いと、又、強い願望があると、御言葉を、自分の都合の良いように取り込んでしまう。どうしても人間は、肉の思いがあり、自分の都合に合わせて読み込
みたいものなのだ。そうすると誤ってしまう。御心を求める時は、よくよく祈ることが大切だ。

生活全般に耳を澄まし、御言葉を待つことだ。礼拝メッセージから、デボーションから、人々との交わりの中から、様々なものを通して、主は必ず語りかけて来られる。指導者の助言も参考にするとよい。経験があり有益だ。祈りつつ、御言葉を待ちつつ、状況をじっと見ていることだ。門が閉ざされたなら、それは御心でない。御心なら自分で開くのでなく、必ず環境が開かれる。門が開かれ、御言葉と平安与えられ、尚かつ祈るなら「確信」が与えられる。その時は、前進すべきだ。
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意欲もあり御言葉もあり、さぁこれからだと思った時、門が閉ざされてしまった。自分を過信し、見切り発車するのを神様が止められたのだとわかった。これが道だとの声をしっかり聞き逃さぬよう続けて祈りたい。



2012年06月13日(水)

「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩編33:11


人の心には多くの計画があるが、主の計り事だけが成るとの通り、信仰人生の中で思いもかけず、目の前で道が閉ざされる事がある。今まで経験したし、これからも経験するだろう。自分はこの道が最善だと思うのだが、目の前で、神からの「ノー」を突き付けられる。厳しく感じるが、進路や様々な事柄で経験する。そして、自分の思いとは違った、想定外の方向へ向かう事になる。

しかし、それは自分の思いとは違うので、落胆してしまう。「ノー」の答えは、自分自身をも否定されたような気になってしまうかも知れない。しかし、神には、行き当たりばったりという事が無い。初めから定められた、完全な計画を持っておられる。あなたの人生には、神のプランがあり、主権をもって関わって来られる。あなたの思いが、神の御心の道と違っていたのだ。

環境を開き閉じしながら、神は、正しくあなたを御心の道へと先導しておられる。人生の「ノー」を神のご意志として受け入れよう。別の道が用意されてあり、それは遙かに良い道だ。その時はわからないが、振り返る時、神の道が最善であった事を知る。あの時、「ノー」で良かったと必ず言える。

道が閉ざされた時、不信仰や自己憐憫に陥るのでなく、御心と受け止め、その中で、開かれた道を進めばよい。神は正しくあなたを導かれる。そして神のご計画があなたの生涯に実現する。
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自分の問題、自分の計画と、自分にこだわりすぎると、なぜ、どうしてと答えを自分の内に捜して行く。今、納得できなくても最善の神様の答え導きだと信じ、新たな導きに心を向けよう。


2012年06月12日(火)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ・・わきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2



寒暖計の人生がある。つまり、外気温の通りに反応する。人が親切であれば、親切、優しければ、優しくなる。相手が冷たければ、冷たく、攻撃されれば、仕返しをする。これは反応する生き方だ。これでは、自分の幸、不幸が、他人の手の中にあり、他人によってコントロールされる事になる。相手次第という事になり、自分が無い。

ここ数日を振り返ってどうだろう。他人のあの言葉やこの態度で、自分がアップダウンしていないか。他人の評価で一喜一憂し、天にも上る心地になったり、暗く沈んだり。人が気になって仕方が無い。ます反応している自分に気づき、祈ろう。反応して、引きずり回されるのでなく、御霊の導きに従う事を決心しよう。

ある人が、自分に辛く当たる人がいて、挨拶しても無視された。しかし、反応ではなく、御霊に従って生きる事を決心していたので、相手に関係無く、自分は挨拶をし続けた。反応でなく、自分の御心を行なって行った。そしてある時、その人に間接的に助けられたので、心からの感謝を告げた。

すると、相手の表情がさっと変わり、良心のとがめを感じているようだった。その後、親しい友人とされ、悩みを相談されるようになった。反応するだけだろうか、もし、あなたが御霊に従うなら、あなたが周囲に影響されるのでなく、あなたが周囲を変えて行く。
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人に呼応して生きる人生から、御言葉に呼応する人生へと変えられたのだから、すぐ反応する感情的は脇に置いて少し静まり御霊の導きはと、心整えてみよう。


2012年06月11日(月)

「そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた」1列王17:4


エリヤがアハブに雨が降らない事を宣言した後、神はケリテ川のほとりに身を隠せと命じられた。アハブから守り、又、飢饉の中、神によって養われるためだ。カラスが食べ物を運ぶと。カラスに自分の命の糧がかかっているなど、何と不安な事だろう。カラスが食物を運ぶなどと普通は考えられない。又、プライドも傷つく事だろう。そして、その次は、やもめ女を通して養うと。どんなに裕福な女性かと思うと、最後の粉で食事をして、今から死のうとしている、貧しさの極みで、死にかけている人物であった。

カラスに、貧しいやもめ女、これらを通して、エリヤは自分の無力を思い知らされた事だろう。カラスや、やもめ女に頼るのでなく、神の御言葉に、神の約束に頼る、神を信じることの訓練であった。ただただ主を信じ、御言葉の通りに従うと、まことに烏を通して養われ、又、やもめ女がエリヤの言葉に従う事を経験した。目に見えるところ、又、自分の思いでなく、約束の言葉を信じ、御言葉に立つ時、実際に養いを受けた。

エリヤはこの後、バアルの預言者とアシェラの預言者達、計850人と対決する事になる。そのための訓練であった。私たちも、主は信じることの訓練をし、鍛え、成長させて下さる。主の言われた通りに従う時、「私の仕えておられるイスラエルの神、主は生きておられる」を現実に体験する事になる。
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自分の力に頼れず、ただ神様の下に隠れ養い運ばれる体験は、神の御力を鮮やかに見せられる祝福の時だ。不安や恐れを自力から神様へと一つ一つ安心し渡せる信仰へと進ませてくださる。


2012年06月10日(日)

「私はいったい何者なのでしょう・・イスラエル人をエジプトから連れ出さなけれ ばならないとは」出エジプト3:11


モーセは王子である40才の時に、同胞の救出を志すが失敗し、荒野に逃亡。そ
こで羊飼いとしての40年の歳月が流れ、かつての栄光も栄華も地位も名誉もす
べて失い、徹底的に低くされた。しかし、そこからが神の始まりであった。

苦難、挫折、痛み・・は、実は大きな恵みだ。私たちは、惨めになる事を極力恐れ、
とにかく苦しみを避けたい。惨めさには耐えられない。だが、主が、器を形造ら
れるために、どうしてもその所を通される。ギブアップした、そこでこそ、真に
主に出会うからだ。無力になった80才のモーセを、主は「ふさわしい」と召し
出された。

人の思いと神の思いは大きく違う。「モーセ、モーセ」と柴の中から主は召し出
された。「火で燃えていたのに柴は焼き尽きなかった」。主による燃え尽きない
働きに。パロに遣わすので、民をエジプトから連れ出せ。今、行けと。以前の
モーセであれば、喜び勇んで自信満々で、この使命を引き受けた事だろう。

しかし、砕かれたモーセは戸惑い、尻込みした。「私はいったい何者なのでしょ
う」そのような、とんでも無い重大な任務にあずかるなどと。もうモーセには、
野心も力も、自信も、持てるものも何も無かった。まさにそのモーセを用いられ
た。

「わたしはあなたとともにいる」、「わたしがあなたを遣わすのだ」と。弱さ、
無力を感じているだろうか。しかし、主は、そんな私たちを用いられる。自らの
力ではなく、私たちが事をなすのではなく、主が成し遂げられるために。

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あらゆるものを持ち、自信満々であったモーセは失敗した後、何も無い荒野で
の40年を通して砕かれた。砕かれる時、自分が無くなったように、何も無いよ
うに感じるが、そうではなく、実は真の自分を生き生きと豊かに生きて行ける。


2012年06月09日(土)

「あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか 分けてくださらなかったのですか」ヨシュア17:14

   
  
カナンの地に入り、土地を分割した時に、ヨセフ族が、リーダーのヨシュアに不
満を言った。自分達には「なぜただ一つの割り当て地しかないのか」と。その時、
ヨシュアは取り合わず、では、欲しいのなら、森に上り、敵と戦い、自分で土地
を切り開けと言った。自分で行動せよと。
実際は相当な広さの土地を与えられている。しかし不満ばかりだ。又、カナン人
を追い払わず、きちんと占領しないので、カナン人も彼らの地に住み通した。

与えられた地を占領せよと神は言われ、私たちはしっかり占領する必要がある。
余りにも恵みが大き過ぎて、その恵みがわからない、価値に気づかない。それゆ
え、しっかりそれを受け取り生かして行く事ができない。ましてや不満は尽きる
所知らず、貪欲に流されて行くばかりだ。

私たちはどうだろう。何の求めも労苦もなく降って与えられると、もらって当然
であり、その有り難みがわからない。だから、それを心から感謝し、大切にして
生かして行く事が出来ない。私たちもそのような者だろうか。与えられた大きな
恵みに何の感謝もなく、不満ばかりで、満足が無いので、もっともっと所有しよ
うとする。

しかし、恵みがわかると、神が与えて下さったものを尊び、大切にし、保ち、生
かそうとする。それが占領するという事だ。感謝が溢れる。今ある恵みはすべて
神が与えて下さったもの。今一度しっかり神の与えて下さっているものに目を向
け、受け取り直そう。その時、更に恵みが増やされて行く。

・・・・・・・・・・・・・・・
私たちも今の場所、境遇、対人関係、持てるものは、主から与えられた割り当て
地だ。不満だろうか。しかし主が与えられたものだ。問題や難しい事も多々ある
が、必ず乗り越えて行ける。まずは今朝、与えられているものに、感謝を献げて
みよう。


2012年06月08日(金)

「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」マルコ11:24 

                
信じて祈る時、素晴らしい約束を与えて下さっている。しかし、次に続く言葉がある。「だれかに対して恨み事があったら赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」赦す事を強調されている。赦さない心は、祈りを妨げるので、祈りが聞かれなくなる。神があなたを赦して下さったのだから、恨み事のある相手を赦しなさいと。

私たちは、しょっ中、失敗する。しかし主は豊かに赦して下さっている。罪を犯さないのではなく、罪は犯してしまうが、赦されて赦されて生きている。それゆえ、私たちも赦すようにと。まず恨み事や憎しみ、赦せない心があると、祈れなくなる。神と私たちの間に、へだたりができてしまう。すると、確信もった祈りができない。

あなたも経験あるだろうか。ある人が、切実な必要があり、神の御前に出て祈っていた。しかし、祈り続けるが与えられない。すると祈りの中で、ある人に対し、恨みと敵意、苦々しい思いを根に持ち続けている事を示された。これが祈りを妨げている事がわかり、悔い改めて赦した。その後、見事に祈りが答えられた。

赦さない心は、祈りを遮断してしまう。祈りの答えを受け取るために、密かな恨み、赦さない心がないかどうか、御霊に探って頂こう。妨げが除かれる時、信じる事ができて、答えを得る。
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主が赦しなさいと言われているのに、赦さないまま自分の祈りだけしっかり祈っているのはどうだろう。赦せない思いを光の中に出して、真実に主との交わりに入ろう。主が赦せるようにして下さる。


2012年06月07日(木)



「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・」ピリピ2:6

ある牧師の証しだ。若い神学生の頃、学生たちと、ちょっとした事でトラブルになり、言い争いになってしまい、お互いに口もきかない状態になってしまった。怒りが湧き、赦せない思いは、心が苦しく、悶々の日々であった。腹が立って〃絶対に赦したくない。しかし、賛美を導いたり、メッセージの当番があり、回って来る。こんなままでメッセージ準備が出来るはずもなく、どうしようもなく、しかし腹立ちがおさまらない。とうとうせっぱ詰まり、主の御前に出て、あるがままを申し上げ、祈った。

怒り、赦せない思い、敵対心・・何もかもを打ち明け、じっと主の御前にいた。その時、主の十字架が目の前に浮かび上がり、罪の無い方が、自分の罪を負っておられ、自分のために何もかもを捨てられた。それにひき替え、自分はというと、自己主張、自己防衛、自己憐憫、自己正当化、どこまでも、ただ〃自分、自分・・。涙が溢れ、心から悔い改めた。心がすっきりし、赦されたことがわかった。

あんなに苦しい悶々状態であったのに、心が平安になってしまった。仲間に謝り、和解できた。喜びと平安をもって、奉仕にあずかれた。悶々状態に陥った時は、じっと十字架を仰ごう。「・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」主を見つめ続けよう。
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自分、自分と主張して躓くことも砕かれる事もないなら、人はどこまで傲慢になる事だろう。出っ張る度にこの御言葉に応答し、主の十字架の下に戻って行こう。


2012年06月06日(水)

「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」箴言20:24


オリンピック選手や、又、私たちの入試や就職試験等は、どんなに緊張するだろう。平素これ以上出来ないほどの準備をしても、その成果が確実に出せるとは限らない。当日の体調や、精神状態に大きく左右され、又、不意の状況が起こるかも知れない。オリンピックなど、余りの緊張からミスをし、本番で実力が発揮出来ない選手も少なくない。

練習量や、自分の精神力だけではどうにもならない事を目の当たりに見せられる。人の歩みは、まさに主によって定められる。主と共に歩み、そこに主を認める事のできる私達は何と幸いだろう。

私たちの進学、就職等の進路、目の前に起こる出来事、状況、それらはすべて主が定めて下さったものだ。それを、主が定められたものと受け入れる時、揺るぎない平安と確信を持って進むことができる。又、今後も、主は私たちの手を取り、御心の道へと導いて下さる。

それを妨げるのが、自分の肉の思いだ。自分の欲があり、その思いは非常に強い。自分の歩みは、自分で決めたい。自分のプランがあり、どうしても手放したくない。強い自我がある。神は、あなたに、すでに最善の道を用意しておられる。

自分のプランを明け渡す時に、幸せの道へと導かれる。握って放せないなら「放せません」と、まず自らの状態を認めて祈ろう。あるがまま、出来ませんと祈る時、出来るようにして下さる。
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主が与えて下さった人生だと受け取れなければ、人生は安心と不安の繰り返しだ。自分で切り開く人生はいつも安定しない。納得できない、わからない、不安です、けれど主よ平安を下さい!とすべてを祈り、委ねていよう。


2012年06月05日(火)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」マタイ5:3



謙遜とは、本当は自分には力があるが、それを人に見せびらかさない事ではない。
「いえいえ私などは」と腰を低くする事ではない。本音で自分は無力だと認めて
いる事だ。取税人は真に自分の罪深さがわかっていた。

それゆえ、パリサイ人のように、人と比べる事など思いも及ばない。人の事など
目にも入らない。ただただ、自分と神との関係だけがすべてであり、自分の罪だ
けが見えた。神に自らの赦しを求め、そして彼は完全に赦された。

モーセは40才の時に、自分の力で、同胞を救うために立ち上がった。しかし、失
敗し、荒野に逃れ、羊飼いとして40年の歳月を過ごした後、召し出された。40年
前と違い、老人になり、かつての栄光も力も富も人脈も何も無く、真に自らの無
力を思い知ったモーセは「私はいったい何者なのでしょう」と尻込みした。神に
説得され押し出された。

主の一番弟子であったペテロは、いつでも前面に出て、出しゃばってしまう、自
信家であった。しかし、目の前で大漁の奇跡を見た時に、「わたしから離れて下
さい。わたしは罪深い者」とへりくだった。そして、主を三度否んだ後、大泣き
して悔い改め、自らの徹底無力を思い知った。

心の貧しい者は幸い、自分の心底無力を知る人こそが、大いに祝福された幸いな
者だ。自分を誇らず、誇れず、自分に頼らず、頼れず、主に拠りすがって行くか
らだ。砕かれて、無力を知って行く歩みこそ、実は最大の祝福だ。

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神のようになりたいと、アダムは罪を選んだ。自分の内にある肉の性質は、自分
で生きて行こうとする。自分の知恵と力で突き進む。主はそれを砕いて下さる。
無力を教えられる。認めさせられる。しかし、初めて天の満ち満ちた恵みを経験
する。


2012年06月04日(月)

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」ルカ9:58


三種類の主に従おうとする人々が出て来る。一人目は、神に全面的に従います、何でもし、どこへなりとも行きますと言った。しかし、主は狐には穴、空の鳥には巣があるが、安心して住める家さえ無いと言われた。苦労があり、大きな犠牲が伴う。喜びと同時に苦難もあり、それなりの覚悟と決心が必要だ。中途半端な気持ちで、楽な道だと思っていれば、こんなはずではないと、すぐに挫折する。

二人目は、神からの明確な示しがあるに関わらず、ぐずぐずしている。優柔不断であり、従おうとは思うが、その前にあれこれをしてと、結局従う事の無期延期だ。最終的には従わないまま終わる。御霊の示しに、即、従わないで、常に言い訳や弁解をし、結局従わないまま終わる。

三人目は、主に従おうと思い、心を定め、決心していた。しかし、前進しようとしながら、後ろを振り返る。捨てたつもりのものに未練タラタラだ。断ち切る事が出来ない。その未練は神の国にふさわしくない、と言われたが、捨てるべきものへの執着がどうしても断ち切れない。結局従えないまま終わる。

主に従わせないよう、妨害してくる様々な誘惑、攻撃、かせがある。様々な方面から誘惑と攻撃がある事を踏まえ、従えるように祈ろう。主に従おうとする時、必ずサタンと肉の妨害が来る事を覚えていよう。
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主に従おうとする時、自分の利益や自分の理想、強い自我などで何もかも捨てて従えない自分を発見する。この先どうなる事かと不安も来るが、弱さも誘惑も妨害もその都度主に渡しながら、今日の一日を、まず従い歩もう。


2012年06月03日(日)

「あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからであ る」申命記8:7



荒野でのイスラエルを見る時、何と自分勝手で、自己中心なんだろうと思うだろ
うか。出エジプトの時に、絶体絶命の危機に、神の偉大な奇跡を見た。目の前で
海が二つに分かれて、救い出されるなど、後にも先にも何という奇跡だろう。ど
んなに大歓声が上がった事だろう。輝かしい神の力を見た。

しかし、こんな驚異的奇跡を見たすぐ後で、荒野に入った途端、やれ水がない、
食べ物がないと不平不満だ。ついさっき神の力を見ただろうに、何という事だと
イスラエルを見て思うだろうか。しかし、自分自身もまさにこのイスラエルだ。

事が、思い通りに行っている間だけの感謝で、少し状況が厳しくなると、途端に
「何で!何で!」と神を責め、反発する。自分の欲望と思いが王座を占めている
なら、いつまでたっても信仰が成長しない。

自分の感情、思い、欲でなく、主を心の王座に迎え、御言葉に従って生きる事が
大切だ。つまり、自分で人生を、自分の思いで様々な事をコントロールする事を
やめて、主に明け渡す時、良い地へと導き入れられる。

それは、あれが無い、これが無いの不平不満でなく、満ち足りた地だ「満ち足り
る心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」の通り、何よりも満ち足りる
心が与えられる。環境がどうであれ、心が満足できる。

自分で頑張って、自分の力で種をまき、水をやるのでなくーそれなら辛く苦しい。
良い地は、天の雨で潤っている、神の恵みによって、上から与えられて生きる歩
みだ。

・・・・・・・・・・・
自分の力で歩む時、重く、しんどい。しかし、御霊に導かれて歩む時、感謝があ
り、喜びがあり、感動がある。心が生き生きとしてくる。自分で種を蒔き、自分
の力で水をやっていたら、そのままのもとへ行き委ねよう。御霊に導かれて行く。


2012年06月02日(土)

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の 弱さを誇りましょう」Uコリント12:9



パウロは正しいと信じ、キリスト者を迫害していた。その非常なる熱心は神のた
めと思い込んでの事だった。突然の主の介入により、180度の方向転換となり、
命を賭けて宣教の生涯を全うした。

パウロは大使徒であり、第三の天にまで引き上げられるという、特別な恵みを受
けた人物だ。あらゆる面で秀でた人であり、信仰により何でも出来る人物のよう
に見える。ところがパウロには「とげ」が与えられていた。もっと主の働きがス
ムーズに出来るようにと、そのとげを除いて欲しいと祈りに祈った。切なる祈り
を献げた。

しかし、答えは「ノー」であり、「わたしの恵みは、あなたに十分である。わた
しの力は弱さの内に完全に現れるから」というものだった。この世の価値観と真
逆だ。この世では、強い事が良いこと、能力がある事、できる事が善であり、人
は強くなくてはならない。

弱さは忌むべきものであり、受け入れがたいものだ。しかし、主は、弱いことが
良いことで、弱さの中でしか、神の力は現れないと言われる。自分が弱い者であ
ることを認め、日々に、主に拠り頼んで行くことが、大きな祝福を受ける道であ
り、平安と喜びの日々を歩めることだと。

プライドが妨げるだろうか。自分の弱さを知り、主の御前に認めること、それが
信仰生活の秘訣だ。その時、主が重荷を負い、くびきを共に負って下さることを
経験できる。

・・・・・・・・・・・・・・
私たちにも「とげ」が与えられる。対人関係、経済的困窮、何かの悩み、そのと
げを、必ず取り除いて欲しい、去らせて欲しいと願う。誇る事などできない。
「これさえ無ければ」、しかし、そこでこそ主の力におおわれ、主ご自身を知れ
るとは何と恵みだろう。


2012年06月01日(金)

「シモン、シモン・・サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」ルカ22:32



ペテロは主が十字架にかかられる、一番肝心なところで主を否定し、裏切ってしまった。サタンのふるいの中でのことだった。裏切りなど大きな部類の罪であり、主に対して取り返しのつかない事をしてしまった、何という事をしてしまったのだろう。後悔してもしきれない。以前、他の者たちが皆、主を捨てても、自分だけは大丈夫と豪語した。自信満々だった。

主はペテロの弱さをご存じだったが、ペテロは自分を知らなかった。それは肉の自信であり、自力に頼ったものだ。その満々の自信はもろくも砕け散った。主はペテロの内面をご存じで、ペテロをご自身昇天後の、指導者として見据えておられた。そのためにペテロを取り扱われた。そこには主の祈りがあった。「あなたの信仰がなくならないように」と。

信仰がなくならないとは、失敗し、罪を犯すが、悔い改めに導いて下さるということだ。ペテロは悔い改め、赦された。そして自分に頼る事のないように、ペテロの一番の急所を砕かれた。あなたも失敗に打ちのめされ、落胆し、もう立ち上がれないと思ったろうか。主はあなたを御手の中の器として、用いるために、その試みを通された。あなたを砕くためであった。主のための有用な器に造り変え、整えるためであった。もう自分に頼らないように。失敗をも益として下さる。自分の力でなく、神に頼る者と変えられる。
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これでもクリスチャンかと落ち込んでしまうような大きな失敗、罪も経験するだろう。その時、主はペテロと同じように、私達の信仰がなくならないようにと祈って下さっている。信仰さえあれば、悔い改め、必ず益とされ再び立ち上がれる。