2002年01月31日(木)

「さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました」(Uコリント7:5)


立派、優等生クリスチャンがいるかも
知れない。信仰的で、立派なのだが、
多くの人は彼らのそばにいると居心地
が悪い。何かあると、自分の弱さが言
いにくい。
信仰が足らないと責められそうだし、
もっと信ぜよと説教されそうだ。
パウロはどうか。万事うまく行ってい
る振りなどしない。自分の苦しみ悲し
みを率直に表現した。それゆえ人々は
ありのままにいて大丈夫だと安心でき
た。安らぎもなく苦しいと言った。
気落ちしていると言った。
苦しい経験や率直な気持ちを分かち合
う事によって更に周囲の人を助ける事
ができる。苦しみの時にキリストがど
のように必要を満たして下さるかを見
れば、彼らはよりキリストを信じるよ
うになる。ありのまま率直であれ。
人々は真実な神を見、神に信頼する事
を学ぶ。これ以上に大きな働きは無い。


2002年01月30日(水)

「神を信じなさい・・自分の言った通りになると信じるなら、そのとおりになります」(マルコ11:22)

問題に悩む時、よく思う。もっと
信仰があればと。しかし、信仰の
量の問題ではなく、実は信仰の
対象の問題なのだ。バスや電車
に何の疑いもなく乗る。目的地に
着くと、信じきっている。椅子に
何も考えず座る。椅子が支えて
くれると信じているのであって、
信仰の量ではない。信仰は椅子
にかかっている。信仰の正しい
対象が大切だ。しかし、しばしば
偉大な信仰を持った人をほめた
たえる。そうではなく、信仰する
対象の問題だ。神はどのような
お方なのか。信じるに足るお方
か、助ける事のできるお方か、
必要を満たす事が可能か。
もっともっと、神を意識せよ。そ
うすれば、私達はバスや椅子を
信じると同じくらい神を信じるだ
ろう。私達の信仰は小さいかも
知れない。しかし、対象が問題
で、その神は偉大だ!すべては
そのお方にかかっている。信頼
せよ。あなたの信仰は成長して
行く。信仰の量ではなく「神を」
が大切。








2002年01月29日(火)

「悪魔・・のうちには真理がない・・彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしている・・彼は偽り者であり、偽りの父」(ヨハネ8:44)


少年が重要な証人になった。弁護士は
「君のお父さんは何と言えばよいかを
君に教えたのだろう」「はい」と少年は
答えた。「何と教えたんだね」「父は
弁護士は僕の証言を混乱させようとす
るだろうけど、本当の事だけ話せば、
いつでも同じ事が言えるはずだと言い
ました」正直な人には隠すものが何も
無い。嘘をつくと、その嘘をつくため
に、別の嘘をつかねばならない。
結局嘘を嘘で上塗りし、嘘を重ねて行
く事になる。「偽りの証人は罰を免れ
ない。まやかしを吹聴する者も逃れら
れない」偽りはサタンの言葉だ。
自分の言葉に、自分の心に偽りが入り
込まないように私達は堅く見張ってい
なければならない。
嘘はその場を都合良く切り抜けられる
よう錯覚するが、行き止まりだ。
あなたの言葉が真実であれ。
隅々まで良く見張って唇に偽りを許す
な。それはサタンから来ているからだ。


2002年01月28日(月)

「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」(ヨブ40:8)


 ヨブは善良な人だった。
神を恐れ、貧しい人を助け良い事を
していた。しかし、彼は自分自身の
義を、良い人格をあまりに強調しす
ぎた。自分は正しいのにと、つぶや
いた。友人達がヨブにあるいは罪が
あるかも知れ無と告げると、身の潔
白を主張し続けた。
ついに全能者がヨブと面と向かって
言った「わたしはあなたに尋ねる。
わたしに示せ」神が語り終えられた
時、ヨブは言葉を失いへりくだった
自己義認は跡形なく消えた。
彼は自分が無知なまま語っていた事
を認めた。「それで私は自分をさげす
み、ちりと灰の中で悔い改めます」な
ぜこんな損失が、なぜこんな目に、
こんな苦しみにと思う時、罪の全く
ない神の御子があなたのために命を
捨てられた事を思い出そう。
あなたのつぶやきは止み、神への信頼
が新たにされる。



2002年01月27日(日)

「自分の宝は、天にたくわえなさい・・あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタイ6:20)

伝道していると、時々、天国へ行く
より地獄へ行っても、酒を飲んでい
たいと言う人々がいる。救われた
人々は天国へ行きたいと言う。だが、
この世を思う存分楽しみ、神のため
に何もしたがらない人々が、突然
天国へ行って、神との交わりを楽し
めるのだろうか。ダビデは、神との
交わりに渇き、神を慕い求めた。
私達はどれほど熱心に神との交わ
りを求めているだろうか。神をお喜
ばせしようと願ってるだろうか。
例え話で、ネコは天国へ生きたくない
と言った。なぜなら天国にはネズミが
いないから。行ってもつまらない。
面白くない。天国には罪がない。この
世にまみれていて、本当に天国へ行
きたいだろうか。神に近づけ。神を
慕い求め、出会いの備えをするのは
今だ。


2002年01月26日(土)

「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません」(ルカ6:43)

砂糖と塩のケースがあると、外
側から見るとわからない。時々
間違ってしまうぐらいだ。しか
し、中身は全く違う。食べると
すぐわかる。私達の人生も同様
だ。外側から見ていると、その
中身は本質は全くわからない。
その本質があらわになるのは、
その人がプレッシャーを受けた
時だ。普段はどうもないものが
突如の事態に遭遇した時、内面
深くにある本当のもの、本性が
現れる。その時の反応が私達の
本当の姿だ。人の口は心に満ち
ているものを話す。批判、悪口
非難された時、あなたの思い通
りにならない時、どう反応する
か。出て来るのは良いものか悪
いものか。神との交わりを日毎
に重ねて行く事により、神のお
心を現す反応となる。


2002年01月25日(金)

「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊い事に用いる器でも、またつまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないでしょうか」(ローマ9:21)


 焼き物の指導員が粘土の塊を美しい花瓶
に造って行く様子を見た。
自分でやってみると、粘土の塊がロクロの
上で、ぶれるのでうまくできないのだ。
キイポイントはロクロを回す人が手と腕を
しっかりさせる事だ。粘土は焼き物を造る
人の手に触れて行きながら中心部に置かれ
て行く。手は粘土の上で休んでいるのでは
なく、粘土を正しい位置に据えて行ってる
のだ。腕が粘土の回転に負けるなら粘土は
中心を離れてぐらつき、作品は対称性を失
う。これは神の愛に似ている。
神の愛が私達の抵抗、気分、恐れで変わる
事はない。神の愛は不変で不動だ。
神の一貫した聖い性質をあらわしている。
神の愛に触れ、私達の人生は変わる。
陶器師が粘土から焼き物を造るように神は
私達を形造られる。人生はロクロのように
混乱し回転するが神は確実に形造られる。


2002年01月24日(木)

『イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れる事はない」と言われた』(マタイ14:27)


 イエスが水の上を歩いて弟子達の
ところへ来られた。
彼等はそれを幽霊だと思って恐れた
いえすは「わたしだ」と安心させら
れた。ペテロは自分も水の上を歩い
て、主のところへ行きたいと言った
イエスはペテロに「来なさい」と言わ
れた。しかし、荒れ狂う風と波を見
て、ペテロは恐怖で沈み出した。
イエスはすぐに沈むペテロをつかん
で下さった。今日、私達もイエスの
元へ行きたい。主に従う事を妨げて
いるものは何か。地上の所有物、物
質的富み、人々の賞賛、名誉、地位、
あなたを船に縛り付けて話さないも
のを船においてイエスのもとに行く
ように求めておられる。
ペテロは船を出て踏み出した途端
波風を見て恐れ沈みかけた。
私達がイエスに求められた事をしよ
うと踏み出す時、イエスだけを見て
周囲の状況を見るべきでない。
イエスは「恐れるな」と言われ、人生
の水の上を歩く恵みと勇気を下さる


2002年01月23日(水)

「私は、自分の信じて来た方をよく知っている」(Uテモテ1:12)

「自分の信じて来た方を」と「自
分の信じて来た方のこと」は
意味が違う。ある人が臨終の
時に、聖書を読んでもらい、「
信じて来た方のこと」との読み
間違いを訂正した。なぜなら、
個人的に深く主を知っている
事を明らかにしたかったのだ。
キリストご自身を知っている事
と、キリストという人のわざを
正しく理解している事とは別だ。
ある老齢の牧師は多くの死の
淵にある人々と接して来た。
恐怖から、喜びまで色々な人
を見て来た。クリスチャンでも
ある人々の死は、印象的で
勝利を得たものだった。
死に際して落ち着いて平安に
満ちた人々は、イエスと深い
個人的関係を持っている人々
だ。彼らは率直に「私は自分
の信じて来た方をよく知って
いる」と言う事が出来る。私達
は御言葉を通して主を知り、
聖霊の導きに従う事によって
イエスと、より親密になる。あな
たは個人的に主を知っている
か。


2002年01月22日(火)

「あなたは、若い時の情欲を避け・・義と愛と平和を追い求めなさい」(Uテモテ2:22)


 ある船員が、誰も絶対望まない状況
に自分がいる事に気づいた。
覚めと一緒に泳いでいたのだ。
彼の仕事ののろさに怒り爆発の船長は
彼を海中に投げ込んだのだ。
不運な男は大変なスピードで泳ぎ、船
に引き上げられた。この事は信者であ
る私が直面している危険を思い起こさ
せられる。私達の至る所に、不敬虔な
者達が泳いでいる状況に、自分が投げ
込まれている事に気づく。
それはパーティーであったり会議であ
ったり、寮や職場であったりする。
誘惑は抗い難いもののように思える。
危険の真っ只中だ。「さめと一緒に泳
いでいる」のだ。そんな時、最善の選
択は誘惑を避け、正しいものを選択
する事だ。物理的にその場や状況から
速やかにさる事かもしれない。
(創39:12)
どのようであれ、神の助と守りを呼び
求める必要がある。
さめの餌食とならないために。
罪から逃げるなら、罪に陥る事はない


2002年01月21日(月)

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いてただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:22)


 若い頃、また信じた初心の頃は
色々な神学的な問題に時間を使う
ものだ。
「選びについて」や「聖なる神が
創造された悪の根源」などのよう
な。クリスチャン人生が長くなる
ほど、自分は何もわかっていない
知ってはいないとわかるものだ。
そして、限りある人間が永遠なる
ものを完全に理解する力など無い
事を悟る。
一番重要な事は、神学知識を多く
得る事で無く、神がはっきり語っ
ておられる事を実行する事だ。
それによって神が望んでおられる
ような者に変えられて行く。
神の御ことばを日々読むことが必
要だ。それは神の御心だ。
なぜならそれを通して神の御心を
知る。そして、それを知るのは神
を愛し従うため。
「みことばを実行する」事を最優
先にせよ。もし、私達がそのよう
に生きるなら、どんなに私達は変
わる事だろう。神を愛するとは、
神の戒めに従うことだ。


2002年01月20日(日)

「マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かなかった」(ルカ10:40)

ある人が祈りのリスとを作り、
毎日祈る事を決心した。そ
れはとても祝福された。それ
ゆえ、更に続けるよう心強め
られた。ところが、段々教会
の奉仕や家の事で忙しくなっ
て来た。祈る時間が減り、僅
かしか執り成しが出来なくな
った。これはサタンの良いも
のを選んで、最善を捨てると
いう罠に陥ってしまったのだ。
自分はマルタのように奉仕
に忙しくしてキリストを無視し
ている事に気づかされた。
幾つかの良い事を止めて
最善のために時間を作る
必要があった。神を礼拝し、
賛美し、人々のために執り
成す必要があった。祈り
が特権である代わりに義務
となっても、それも「気が落ち
つかない」ものになってし
まう。マリヤは良い方を選
んだ。あなたが優先してい
るものは何だろう。神に
奉仕するのが忙し過ぎて
神を無視していないだろ
うか。主と交わり、主と共に
過ごして初めて、主のお心
が持てる。


2002年01月19日(土)

「苦い根が芽を出して悩ましたり、あこれによって多くの人が汚されたりすることのないように」(ヘブル12:15)

数年前、通信衛星の制御装置が
故障したため、地球から離れて
行ってしまった。その途端四千
万のポケベルが通信不能になり
ラジオ、テレビも影響を受けた。
もし、あなたや私が神から離れ
るなら、どれほどの人が影響を
受けるだろうか。自分の影響の
及ぶ範囲を理解している人は、
ほとんどないが、神への私達の
従順は重要だ。教会、この世、
家庭において私達はそれぞれ
役割があるからだ。「毒草や
苦よもぎを生じる根があって
はならない」と言われた。あ
なたはどうか。あなたの位置
からはずれていないか。神か
ら離れていないか。神に立ち
返れ。あなたの決断によって
あなたに関わるどれほど多く
の人生が影響を受ける事か。
あなたの生活に苦い根はない
か。不平不満、反抗、批判、
敵対心、愚痴はないか。周囲
に害毒を流して行く。告白
する罪はないか。


2002年01月18日(金)

「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました」(マルコ12:43)


 時々、様々な慈善が新聞の地方
覧をにぎわす。資産家が数億円の
寄付をしたとか。それは社会に対
して良いことだ。神はある人達を
富ませ、他の人々に恩恵を施すよ
うにしておられる。
しかし、億万長者なら、数億円の
寄付は一部だ。聖書は別の意味の
大きな献げ物を記している。
イエスは貧しいやもめが宮の献金
箱に二枚の効果を投げ入れた事を
見られた。そして、評価された。
これは莫大な献げ物だった。
主は、彼女はどの人よりも沢山献
げたと言われた。金持ちは有り余
る中から献げたが、この女は乏し
い中からあるだけ全部を投げ入れ
た。ここで重要な事は、人が献金
する額よりも、その献げ物の背後
にある「犠牲」なのだ。主が見て
おられるのは「犠牲」だ。
もし、私の献げ物をイエスが犠牲
の原則によって評価されたらどう
だろうか。イエスが真に見られる
のは、額ではなく私達の献げる態
度と犠牲だ。


2002年01月17日(木)

「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17:18)


 賛美歌の歌詞にある。「この世は
私の住まいではない。私はただ通り
過ぎるだけ」神は私達に新天新地を
約束して下さっている。
クリスチャンは最終的な住まいに行
く途中で、この世を通り過ぎている
というのが正しい。
この地上は我家ではない。
私達の我家は天の御国だ。魚が浜辺
に打ち上げられあえいでいる姿を目
にするが、魚はおるべき所である水
中に戻さなければ幸せではない。
私達も不完全な世のために造られた
のではないから、本来の場所天国に
行くまで幸せではない。
この世は私達の最終的住まいではな
いが、ただ通り過ぎる以上の事をす
べきだ。クリスチャンである私達が
この社会に影響を与えるため、私達
の内に私達を通して力強く働く聖霊
が来られた。私達は主がされた様に
人に仕えるべきだ。この世で神に仕
える事は、真の住まいへ帰るための
完全な準備だ。天が楽しみになれば
なるほど、この世に執着しない。


2002年01月16日(水)

「私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです」   (詩篇139:14)

ゴルフボールの表目に、でこぼこ
がついているのを知っているか。
一見、何か欠陥のように見える。
一体何のためにあるのだろうか。
正しく窪みをつけると、2倍飛ぶ
そうだ。欠陥に見える窪みが実
は遠くに飛ばす事ができるのだ。
皆、自分が生まれつきこうでなけ
ればいいのにという、肉体的特
徴があるだろう。神の目的によ
って主権的ご計画のもとに、こ
の不完全があるとは見当もつ
かない。しかし、神は「あなた
が私の内臓を造り」「あなたの
目は胎児の私を見られた」方だ。
もし私達が自分の肉体的不完
全さをご計画の一部と受け入れ
る事ができたら、人生の前途は
どんなに違うだろう。私達が嫌
っている不完全なでこぼこが、
神に栄光を帰するものとなる。
創造者は私達から最善を引き
出される。織り手は金や銀の
糸が必要なように、暗い糸も
必要だ。


2002年01月15日(火)

「妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになる」(Tペテロ3:1)


 キリストを信じる私達は世
に対する証人とされている。
必ずしも容易な事ではない。
侮辱されたり、不親切にされ
たり敵対されたり嘲笑された
りする。そのような時こそ、
私達の行動と態度が最も効果
的な証しになり得るのだ。
私達自身や仲間のクリスチャ
ンが主を信じるゆえに苦しみ
を受けると、自己憐憫に陥り
やすい。しかし、私達がこの
世界にいる目的は神の絶なる
愛の証人、言葉と行ないにお
ける大胆な福音の使者となる
事である。私達は主を証しす
るためにこの世界にいるので
あって、問題の無い人生を送
るためではない。
私達は神に従う者である。
だから、どんなに困難であろ
うと、キリストのため、他の
人々のため私達は忍耐しなけ
ればならない。
屈する事無く証しし続けなけ
ればならない。敬虔な行いを
し続けなければならない。
人々が私達を傷つける時も柔
和であり、神ご自身を人々が
見れるよう。


2002年01月14日(月)

「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富みを持って、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:19)


 牢獄にいるパウロの必要を満たすため
ピリピの人々が惜しみなく献げた献げ物
をパウロは受け取った。
その時にパウロがピリピの人々へ記した
言葉だった。
ある人がこの御言葉をわかりやすく置き
換えた。
「私の神<銀行>は、キリスト・イエスに
ある<のサイン入りの>ご自身の栄光の富
み<資本金>をもって、あなたがたの必要
<額の小切手>をすべて満たして下さいま
す」
私達が受け取る有効な小切手を「信仰とい
うサイン」によって裏書するだけで、それ
は完全に支払われる。
私達はパウロのように貧しくても富んでい
ても満足するつもりでいる限り勇気を持っ
て惜しみない物となる事ができる。
その時に初めて、豊かで惜しみない神に私
達が献げ過ぎる事はできないことを悟るだ
ろう。神は私達に惜しみなく与えて下さっ
たから、私達は人々に惜しみなく与える事
ができる。


2002年01月13日(日)

「器官は多くありますが、からだは一つなのです」(Tコリント12:20)

ある本にこんな事が書いてある。
「100台のピアノが全て同じ音叉で調
律されたなら、自動的にお互いに同じ
音に調律されている。その100台の
ピアノは互いに合わせられてはいない
が、すべてが個々に従わなければな
らない別の基準によって、完全に一
致している。だから共に集まっている
100人の礼拝者が神から目を離し
て必死になって、一致しようとする
よりも、一人一人が目をキリストに
向ける方が互いがより近くなる」
これはクリスチャンの一致の秘訣だ。
私達がキリストに思いを集中させれ
ばさせるほど、キリストに従う者と
して互いに引きつけられ、互いの
相違など取るに足らないものになる。
私達は必ず皆違う。相違があって
当然で、且つ一致がある。あなたは
他のクリスチャン達と一致を感じ
ているか。その前にあなたはまず
キリストと「調和」しているか。一致
のある交わりは天国のようだ。


2002年01月12日(土)

「外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から取り除きなさい」(Tコリント5:13)

ある米国軍人が姦淫罪で軍法
会議にかけられた。懲戒免職と
懲役三ケ月が宣言された。軍法
会議は、ふさわしくない行為には
断固とした処置を取るべきだと
結論づけた。教会も同様だ。
キリストの御名を汚す教会員が
いるなら、断固とした処置を取る
べきだ。これはその人のためで
あり、教会のためでもある。
クリスチャンが罪を犯し続けキ
リストの名声に泥を塗ってしま
っているのに、そのままにして
おくのは、真実の愛ではない。
教会は、クリスチャンは自己
責任の所在を明確にすべき
だと教える必要がある。クリス
チャンが神から離れ、罪を選
ぶ時、教会は彼が戻るよう
愛を込めて訓戒すべきだ。
もし、人を処罰しなければな
らない立場にあるなら、謙遜
と勇気、愛を持って出きるよ
う助けを祈れ。自分に厳しく
あれ。そうすれば、他人の手
を煩わさない。


2002年01月11日(金)

「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行く」(申命記32:11)


 親鷲がひなに飛ぶことを教える
様子が描かれている。
親鷲はひなを巣から落とす。
ひなは急降下で落下する。
地面にたたきつけられる前に親鷲
は、ひなの下に入って捕まえ、羽
の間に乗せて巣につれ帰る。
これを何度も繰り返してひなは飛
ぶ事を覚える。このひなのように
モーセは長年の羊飼いから、民の
指導者へと召し出された。
ペテロは安定した職業から離れイ
エスについて行くように示された
パウロはイエスに敵対する人生か
らイエスに従う完全に新しい人生
へと招き入れられた。
あなたの巣は何だろうか。
「自己満足」だろうか。
御言葉と祈りの静思の時を通して
また、礼拝でのメッセージを通し
て、神はあなたの自己満足の巣を
打ち破り、新しい領域へと羽ばた
かせて下さる。あなたを新しい使
命へと呼び出しておられるだろう
か。巣から出て、その導きに従え
大空へかけ上がる事ができる。


2002年01月10日(木)

「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある」(箴言13:10)

多くの人は忠告が好きでない。実際
は忠告を必要としているのだが。そ
れに引きかえ忠告する側の人は多い。
しかし、忠告される事は嫌う。忠告
を熱心に受けようとする人は少ない。
ある店が「あなたのご意見を心待ち
にしています」と大々的に宣伝した。
自社の製品をより良くしたい熱意が
伝わって来た。私達はどうだろう。
自分の弱さや欠点を知り、よりキリ
ストに似た者と成長したいとの熱意
があるか。欠点の指摘を素直に受け
取れるだろうか。それとも自己防衛
自己弁護、自己憐憫に逃げ込むか。
最近忠告してくれた人がいたか。そ
の時の態度はどうだったか。もし、
素直に喜んで受けるなら、知恵はあ
なたとともにある。


2002年01月09日(水)

「『どうぞ、彼の目を開いて見えるようにしてください』主がその若い者の目を開かれたので」(U列王6:17)

召使いが、外に出ると馬と戦車
の軍隊がその町を包囲していた。
敵が夜の内にその町を包囲した
のだ。逃げ道も無いのを見て、
エリシャは、召使の目を開いて
下さるようにと、静かに神に
祈った。直ちに召使は天の軍勢
が彼らを取り囲んで守っている
のを見た。私達は試練や問題に
襲われる時、召使と同様におび
えて絶望するかも知れない。
その時にこそ、エリシャの祈りを覚
えよう。「主よ、私達の目を開い
て見せて下さい」神は臨在によ
って私達を堅く守り、見放す事も
見捨てる事も決してされないと
約束して下さっている。あなた
は絶対絶命に陥った事がある
か。もう一歩も進めない状況
にあるか。その時の祈りは、
環境を変えるようにではなく、
試練が取り除かれるようにで
もなく、一番の祈りは「私の目
を開いて下さい」だ。試練のま
っただ中で、神を見、神を信頼
する事を学ぶだろう。


2002年01月08日(火)

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)


 ある婦人が女手一つで小さな
二人の子供を育てて来た。
並大抵の事ではなかった。子供
の反抗期も通った。失望、落胆
拒絶、失敗、多くの苦しみを通
り忍耐が必要だった。
しかし、ここを通らなければ決
して得られない忍耐、知恵、強
さを与えられた。子供達は成人
したが、問題が無くなったわけ
ではない。しばしば重荷と問題
に苦しむ。しかし、これらの苦
難の歳月を通して知った事は、
神は愛であると言う事だった。
神の尽きる事の無い哀れみだっ
た。この歳月を通して無条件に
子供を愛する事、神に委ねる事
を学んだ。今もう定年になりリ
タイヤした。人生を振り返る時
自分が望んだ様には決してなら
なかった。しかし、
神のみこころが成し遂げられた
この歳月を通して神の深い愛に
触れ、神ご自身を親しく知れた
今、全き平安の中にいる。
朝日の中におられ、夕日の中に
おられ、神の愛と配慮は日々満
ち満ちている。神は愛だ。


2002年01月07日(月)

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)


 私達の多くは多忙な毎日を過ごし
ている。生計を立てるために働かな
ければならない。
子供を育て、家庭を維持しなくては
ならない。趣味の時間、友人達との
有益な楽しい時間も求めている。
あなたの現状はどうだろうか。
あまりに多忙すぎて、心の平安を破
壊するほどのものなのか。
無理なペースで追われているか。
祈りの時も持てないほどならペース
ダウンが必要、あなたの生活の見直
しが必要だ。愛の中にとどまれ。
イエスは常に御父のみこころを行わ
れた。必要のために行動されたので
はない。必要のために働いて行くな
ら、必要は際限無く身動きすら取れ
なくなるだろう。必要ではなく、
神のみこころを行え。主の愛の静け
さの中にとどまる時間はどうしても
無くてはならないものだ。


2002年01月06日(日)

「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手を支えておられるからだ」(詩篇37:24)

あなたは試練の厳しさに絶望的
になった事があるだろうか。もう
倒れてしまうと思った事があった
かも知れない。あなたは高齢者
の補助をした事があるか。ケア
をする時、足元のおぼつかない
人々をしっかりと全身で支える。
もし転びかけたら、あなたの腕
や胸でしっかりと支えるだろう。
小さな子供の手を引いた経験
があるか。何事もなく歩いてい
る時は軽く握り、もし子供が石
につまづきかけたら、転ばない
ように強く握るだろう。神は全く
同じ事をあなたにして下さって
いる。常に御手で守られてお
り、バランスを崩しそうな時は
力を入れて支えて下さる。だか
ら、まっさかさまに倒れる事は
無いのだ。霊的アップダウン
や弱さもご存じだ。私達が倒
れる事なく歩めるよう、神は共
におられる。「そこでもあなた
の御手が私を導き、あなたの
右の手が私を捕らえます」
私達は倒れない。


2002年01月05日(土)

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ」(詩篇23:2)


特別に忙しい時を経験する事
がある。農作業をする人々は
収穫期には猫の手も借りた
いほどの忙しさだ。何時果てる
ともない多忙だ。製品を作る
人々は納期前になると心せき
経理の仕事なら決算前、年度
末は徹夜もあるだろう。主婦
は子供の世話、きりの無い家
事に追われる。仕事で疲れ
果てていたある人は、遠方
の仕事の時、車の中で祈り
始めた。余りの多忙に神と
の交わりを持てないでいた
のだ。自らの祈りのリスト
に従って祈り始め、次々
に祈り、そして恵みを数え
感謝を献げて行った。
そうしていると、神が共に
おられるのを感じた。心
に喜びが来た。神に触れ
たのだ。帰路はひたすら
神を思い、瞑想し黙想
した。さわやかな気持ち
で家路に着いた。どこで
でも祈れ。


2002年01月04日(金)

『イエスは答えられた「あなたは、自分でその事を言っているのですか。それともほかの人が、あなたに私のことを話したのですか』(ヨハネ18:34)


 総督ピラトがイエスを取り調べの
最中尋ねた「あなたはユダヤ人の王
ですか」イエスは質問を持って答え
られた。「あなたは、自分でその事
を言っているのか、あなたが言うの
は自分の考えからか、それとも他の
人々があなたにそう言ったからか。
つまり、あなたは個人的に救い主を
求めているのか、それとも人から聞
いた事を言っているに過ぎないのか」
この問いは、私達にも関係がある。
あなたにもイエスは尋ねておられる。
「あなたは本当に私を知りたいのか。
それとも人から聞くだけで満足して
いるのか」イエスを知るとは、個人的
な関係だ。それはイエスとあなたとの
信頼関係だ。イエスを救い主と認め、
あなた自身を明け渡す事から生まれる
イエスについて知るのは他人から聞く
間接的関係だ。あなたは個人的に、
イエスを知っているか。


2002年01月03日(木)

「この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいけない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2:3)


 「待つ」ことは信仰生活で大切な
重要な事柄の一つである。
そして、誰もが知っているように
「待つ」事は最も難しい命令である
ハバククもそうだった。
イスラエルの危機について主に不
平を言うために、祈りの見張り所
に立った。主の答えは「待て」だ
った。待つ事は主が計画しておら
れる事に対し、また、私達がまだ
備えが出来ていな事に心構えする
ために必要だ。
イエスは昇天される時「エルサレ
ムにとどまって父の約束を待て」と
命令された。弟子達が将来の心構
えが出来ていない事を知っておら
れたためだ。弟子達は心を一つに
し、備えをした。
私達は待つ事を通して、心を構え
心の準備ができる。主が与えて下
さる素晴らしく良いものを、受け
取る準備だ。待つ間、私達は見え
なくても、神は私達のまっただ中
で働いておられる。


2002年01月02日(水)

「川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(イザヤ43:2)

ある男性が妻の病状を医師
から告げられた。痴呆の末
期であり、もう家での介護は
無理だから、入院させるよう
にと。しかし、愛する妻を最
期まで家で自分で介護した
かった。妻はもう夫も子供
達も認識出来なかった。
妻を家に連れて帰ったが、
試練の火は非常に厳しい
ものだった。しかし火の中
にも、水の中にも主が共に
おられた。一人でない事を
知り実感できた。イエスが
火の中で共に歩いて下さ
っていた。ネブカデネザル
は金の像を拝まない三人
を火の炉に投げ込み、七
倍炉を熱くした。しかし、
何の害も受けていない三
人の者と共にもう一人が
見えた。この七倍も熱い
炉の試練に、主イエスが
共にいて下さったのだ。
あなたの炉は七倍熱い
か。もう一人の者が共に
いて下さる。火の中を共
に歩いて下さっている。
火はあなたに燃えつか
ない。



2002年01月01日(火)

「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる」(ナホム1:7)

対人関係で悩んでいる人は
多いだろう。ある人も悩まされ
た。不愉快で無作法な人達に。
忍耐していたが、もう限界に感
じていた。こういう時にはどう
すればよいのか。まず、神が良
くして下さる事を信じよう。神に
心を集中させて信じよう。状況
がどんなにひどくても、この真理
は不変だ。そして、御言葉にど
っぷり浸かれ。御言葉に身を
浸し、反すうせよ。力が湧き上
がる。行う力が与えられる。「
敵が飢えたら食べさせ、渇いた
ら飲ませよ。彼の頭に燃える
炭火を積む事になる。善をも
って悪に打ち勝て」神があなた
と共におられ助けられる。