2012年07月31日(火)

「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」T列王19:4

エリヤが、バアルの預言者450人アシェラ預言者400人と戦い、天から火を降らせるという、驚くべき奇跡を遂げた。怒ったイゼベルがエリヤの殺害命令を出した。極度の張り詰めた状況の後であり、身体的にも「イズレエルの入口までアハブの前を走った」エリヤは、精神的肉体的に極度の疲労にあった。又、エリヤは「ただ私だけが残った」と思い込んでいた。

しかし実際は、バアルにひざをかがめない七千人が残されていた。自分一人しかいないと、何もかもが自分にかかっているかのように錯覚し、押しつぶされてしまう。許容量オーバーとなったエリヤは恐れて逃げ、鬱状態に陥った。心身限界であり、死を願った。主はエリヤのこの危機にどう対応されただろう。

「死にたい」と言うエリヤを、主は一言も責められない。これは何と大きな慰めだろう。私たちも程度の差はあれ、仕事、家事育児、対人関係に、時に疲れ果てる。気力が失せ、もう天に帰りたいと思うほど落ち込む。しかし、そんな時、主は責めておられない。憐れみ同情して下さっている。主はエリヤをとがめず、いたわり、十分休ませ、食事を与え、元気づけられた。食べ、飲んで、眠らせられた。

まず休息を与えられる。極度のストレスで、正常な思考も出来ない状態なら、必要なものはまず何より休息だ。回復後、主は、エリヤに問いかけ、心の内の思いを語らせ、そのエリヤの思いの誤りを正された。そして、新たなる使命へと導かれた。
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疲れている時、落ち込んでいる時、心はどんどんネガティブな思考に傾き、恐ろしい孤独に襲われていく。私達は一人ではない、主の翼の下に身を避けよう。主は疲れ果てないよう、その羽で私達をおおって休息させてくださる。


2012年07月30日(月)

「妻も承知の上で、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」使徒5:2


アナニヤとサッピラは、持ち物を売り、代金の一部を残しておき、弟子たちのもとに持って来た。ペテロは聖霊によりそれを見抜き、それはサタンに心を奪われた行為であり、人を欺いたのではなく、神を欺いたのだと言った。この事でアナニヤとサッピラは裁かれ、息が絶えた。彼らのどこが間違っていたのか。何も言わず、足もとに置いただけではないのか。

しかし、それは神を畏れない行為であった。意識の中に神はなく、その心と行為を、神が見ておられるという認識が無かった。誰にもわかるまいとの態度であった。私たちはどうだろう。日々の生活で、主を意識しているだろうか。この事、あの事を誰が見ていなくとも、主が見ておられる。心の中の妬み、憎しみ、偽りをご存じだ。

彼らの関心の第一は人の目であった。神ではなく、人の評価であり、彼らが欲しいのは、人からの賞賛であった。人の賞賛を求めて行く時、サタンの罠にはまってしまう。そして、彼らは夫婦で結託していた。どちらもが、相手に注意する事なく、心合わせた確信犯だった。罪に対して鈍感になっていて、良心の呵責が無かった。ペテロがサッピラに「地所をこの値段で売ったのか」と問うた時に「いいえ一部です」と正直に答えれば良かった。別に一部でも構わない。又、献げなくても構わない。自由だと。私たちも、主の御前に正直でおれるよう祈ろう。
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主を畏れず歩み続けていると、自分の肉と目の前の人しか見えなくなり、人の評価で満足して行く。恐ろしいことだ。出来ないこと弱いことを認めながら、主の前には誠実にいたい。


2012年07月29日(日)

「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」マタイ 4:9



サタンがヨブのことを神に中傷して来た。というのは、主がサタンに「ヨブを見
たか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はいない」
と言われたからだ。それを受けてサタンは「ヨブはいたずらに神を恐れましょう
か」と。

サタン曰く、ヨブは自分にとって利益、見返りがあるから、神を恐れているのだ
と。でないければ従うはずがないと。神を信じる時に、どうだろう。多くの人は、
信仰を持つなら、自分にどんな利得があるかを考える。ご利益宗教であり、利得
が無いなら信心する意味がない。これが世の人の考えだ。

クリスチャンにも「信仰しているのに、何ら良い事がない」との、この世の価値
観、古い価値観が頭をもたげて来る。「何も良い事がないなら、信仰する理由が
ないではないか」この誘惑がクリスチャンにも臨む。肉は、この世の栄誉、賞賛、
繁栄を持つことを望む。古い性質には強い願望がある。

気づかずに、神を利用して、自己実現を果たそうとする。この世の栄光、自分の
誉れを求める事は、サタンを拝んで、手に入れることになってしまう。親子が愛
するのに、理由が必要だろうか。理由が生じる時、それは愛で無くなってしまう。

親子の間が利害関係なら、そこに愛は無い。主を愛するのは、利得があるからで
はない。真の親であり、父であるからだ。得るものがあるから礼拝するのでなく、
神が神であられるから礼拝する。

・・・・・・・・・・・・・・
クリスチャンも、この世の価値観、古い価値観が根深くあり、良いものをもらう
ために、自分に利益があるから信仰している。自分のための神だ。だが、そこに
真の御霊の喜びは無い。神のための自分、神の栄光を求めて生きる自分に、少し
づつ変えて成長させて行って下さる。そこに真の満ち溢れる喜びがある。


2012年07月28日(土)

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の 実を結ぶ人たちです」マルコ13:19



ある種は、道ばたに落ちたが、道ばたの心は、踏み固められて、固くなった心だ。
赦せない心や、恨みで固まった心、激しい憎しみや、強い怒り・・そのような心は、
カチカチに固まり、御言葉が入らない。主に対して心を閉ざしてしまっている。

種は御言葉だ。御言葉が心に入らない限り、事は始まらず、変えられて行くこと
がない。私たちに頑なな心の状態はないだろうか。主に取り扱っていただこう。
自分ではどうにもできないから固まっているのであり、まず祈りに持って行こう。
主が事を始めて下さる。

別の種は、土の薄い岩地に落ちた。種が地中に根差そうとすると、岩にぶつかっ
て根差せない。心に岩となって巣くう自己中心、プライド、体面、自我が妨害し
て、心の深くに御言葉が根差せない。心の奧では神を愛しているのでなく、自分
が一番だ。この岩が砕かれないと御言葉が根づけない。

又、別の種がいばらの中に落ちた。芽が出たが、周りからいばらが伸びてふさい
でしまった。御言葉に心を閉ざしているわけでなく、御言葉を聞きはするが、
「この世の心遣いと富の惑わし」が、せっかくの御言葉をふさいでしまう。

主に従おうとするのだが、この世にも心が惹かれ、欲望を満足させたくて、肉的
なものも同時に求めてしまう。そうすると御言葉が塞がれてしまう。御言葉を聞
き、受け入れ、従って行く時に、必ず実を結ぶ。主は実を結ばせたいと願ってお
られる。何かの妨げがあれば、御霊に示され、従い、一歩一歩導かれて行こう。

・・・・・・・・・・・・・・
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」この実を、又、証し
の実を結ばせるために、救って下さった。嬉しいことで、いつも希望がある。種
が芽吹き生長する。私たちも、何か成長をふさいでいるものは無いか、心探って
頂こう。


2012年07月27日(金)


「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33

ある人が、神学校を卒業して、牧師となり、地方の小さな教会に赴任することになった。まだ少人数であり、経済的に大変で、主が「だから、こう祈りなさい」マタイ6:7と言われた通りに、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」6:11と日々に祈り続けた。少しの貯えを切りくずしながらの生活、とうとう底をついた。どっと思い煩いと不安に押しつぶされそうになる。

そんな時「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず・・けれども天の父が養っていて下さる」「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい」、心配するな、「明日のための心配は無用」と強く語りかけられた。この主に、丸ごと信頼し、命も主に委ねようと、今一度決心した。すると、知人から電話がかかり、事業主の知り合いが、バイトしてくれる人を探しているが、どうかとの打診だった。

祈っていたところへの要請であり、主の導きと受けた。まだ教会が少人数の数年間、丁度良いように必要が満たされた。主に身を預け、信頼して行く者を必ず責任持って養って下さることを、身をもって知った体験であった。襲いかかって来る思い煩いは、凄まじい力があり、自分ではどうにも出来ない。主の対処法は「神の国とその義とをまず第一に求め」る事だ。今、必要な事は、神を第一 にして、委ねて行くことだろうか。
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日々、恐れや心配があるが、神様のご支配を認めて、まず祈りに持っていこう。祈りは聞かれている。良い時に良いものが与えられる。自分の限界を超え思い煩わず、神様に信頼していよう。


2012年07月26日(木)

「神よ。私を探り・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:24


ある人が、成育歴の中で父親とのあつれきがあり、父親を憎んでいた。確かに様々な理由があった。父親のせいであり、父親が悪いとしか思えなかった。どうしても赦すことができず、憎しみは増幅するばかりで、苦しくて〃たまらなかった。苦しみの余り、主のもとに行き、心の内を洗いざらい告げて、告白した。

その時に、御霊に教えられた。確かに父親に問題があり、父親によって多くの傷を受け、辛い思いをした。しかし、それは父親自身の罪なのであり、「赦さないこと」「憎んでいること」「恨んでいること」は、どれだけ言い訳しても自分の罪なのだと。父親が悪いとしか見えなくて、父親が悪いから自分はこんなに辛く苦しい。そうでなく、自分が憎しみ、恨みという罪を、主に対して犯しているから苦しいのだと。

自分の罪が全く見えなかった。相手のせいとしか思えないので、解決がなく、悶々状態であった。相手に関係無く、自分の罪を罪として認めて悔い改めた。その時、心の中の苦しみが消えて行った。自分の罪が赦された喜びを経験し、平安に包まれた。

しばしば、相手に確かに非がある時に、どう見ても相手が悪いとしか見えない。相手のせいで、自分は辛くて苦しいのだと。しかし、平安が無い状態は、自分の心の問題だ。自分と主との関係が問題であり、相手は関係がない。主との間で平安が無いということだ。罪が妨げている。悔い改める時、平安が戻る。御霊は信仰の歩みを矯正しながら、御心の道へと導いて下さる。
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相手に非があると思うからこそ自分の罪に気づかず憎み、恨みの罪は光に現れない。相手を見ず、自分自身の罪を悔い改め、心が相手を攻撃して行きそうな時、主に助けを祈ろう。


2012年07月25日(水)

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです・・金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦情をもって自分を刺し通し」Tテモテ6:10


金銭が悪の根のように思ってしまい、すべてを献げたら良いのか、そうすれば神に近づけるのか、と考える人々がいる。しかし、そうではない。金銭を持っているかどうかは問題でない。金銭自体は全然悪ではない。無色だ。金銭ではなく、金銭を「愛すること」があらゆる悪の根だと言っている。

金銭に執着すること、神ではなく、金銭を頼り、金銭を第一にすることが間違っていると。又、特にサタンが金銭を用いて誘惑してくる事に注意が必要だ。サタンは、私たちの心を、神にではなく金銭に向けさせようとする。富が大きな安心をもたらし、人生の幸せをもたらし、夢を実現させ、生活を保障してくれると、錯覚させる。

巧妙なサタンの罠にはまると、金銭に捕らわれ、様々な欲におびき寄せられ、信仰から迷い出てしまうようになる。神ではなく、富に頼るようになる。非常な苦痛をもって自分を刺し通すと。「今、持っている倍の富さえあれば」と思うのがサタンの惑わしだ。

倍持ったとしても、決して満足しない。更に欲しくなるし、更に持たないと安心が無い。そんな富に望みを置くのでなく、むしろすべての物を「豊かに与えて楽しませて下さる神」に望みを置くようにと。

神は豊かに与えて下さる、そして私たちに楽しみも与えて下さる。与えられた富を、人の益のために、良い行ないに用いるようにと。「惜しまずに施し、喜んで分け与えるように」それが富が神に喜ばれ、生かされて用いられる道だ。自分自身の金銭のあり方を、御霊に探って頂こう。主に心が在るように。
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お金が無いとなると不安だが、幾らあれば安心なのかはそれぞれに違う。豊かに与えて下さる神を知っている者として、神と同列に金銭にも頼りをおいている思いがあるなら、改めていこう。


2012年07月24日(火)

「根を張らないで、しばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」マルコ4:17


「御言葉を聞くと、すぐに喜んで受ける」そして、従おうとするが続かないで、つまずいてしまうとある。今の私たちには、偶像の強い地域で、のけ者にされる事はあるかも知れないが、初代教会のように、即、投獄や身の危険、命にかかわるというような迫害はない。しかし、御言葉に従って行く上の困難は経験する。

「これからは家族や隣人を愛して行こう」「証しのために熱心に仕事をして行きたい」「嘘はつかないでいたい」「怠惰な生活を止めて勤勉になりたい」「すぐに怒るので、自制したい」・・様々な決心をして、信仰生活を始める。しかし、薄い土の下に、強固な岩である自我がある。岩のために根が下へ張って行けない。

自我が邪魔をして、御言葉を行なう事ができない。つまずいてしまうとは、行なう事は無理と、主に従う事を止めてしまうことだ。主の助けを信頼して、従おうとするのではなく、困難があれば、途中で止めてしまう。自我が勝ってしまう。岩にぶち当たって、根が、根差せずに枯れてしまう。

そうではなく「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられる」ことが主の御心だ。従う事を止めるのでなく、「できません。助けて下さい」と、一つ一つ目の前の事柄について、主に拠り頼んで行く時、御霊の助けがある。そして、自我が砕かれながら「善行のうちに実を結ぶ」者とされる。一歩一歩従う時、実を結ぶ人生にされる。
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根を張る力がない弱さをしっかりと認めて、あきらめず主に頼り、結実の喜びを味わおう。御霊の助けの経験や、硬い岩が砕かれて行くことを楽しみに、聞いた御言葉を受け入れ守ろう。


2012年07月23日(月)

「みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです」マルコ4:15


御言葉の力を知っているのは、私たちよりサタンであり、それゆえ御言葉を聞くと、「すぐ」サタンが来ると。そして、心に蒔かれた御言葉を「持ち去ってしまう」と。「すぐ」に来るサタン。このサタンの妨害をわきまえておく事は大切だ。

現実問題、実際問題として、サタンは今も働いている。救いを得させないためであり、又、信仰者たちの成長を奪うためだ。種である御言葉が心に根ざすと、結実して行く。それを阻止するためには、種である御言葉を持ち去る事だ。種が無ければ、実を結ぶ事は無い。サタンはそれをよく知っている。サタンのこの攻撃を見張っていよう。

御言葉をどのように聞いているだろう。他の事を考えながら聞くなら、右から左へとすり抜けて行く。「思い」に働くサタンは、メッセージを聞く最中にも、デボーションの最中にも、あれやこれやと「思い」を吹き込み、妨害する。御言葉を聞けないようにする。又、聞きたくない、耳に痛い御言葉なら、耳をふさいでいるだろうか。薄々気づいている、その御言葉こそが、聞くべき必要な言葉であり、信仰生命が守られ、大きな成長への鍵だ。

又、傍観者のように聞いているだろうか。自分には関係が無いので、心に留まらない。主は「よく聞きなさい」と言われた。メッセージもデボーションでも、祈りつつ自分に語られた言葉として聞く、それに徹して聞いて行く時、必ず語られる。妨害するサタンの存在を覚え、祈って御言葉を聞こう。
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み言葉が根付かないのはどうしてだろう。どうせいばらでいっぱいだ、すぐに駄目になるだろう、の声を聞く。する前からサタンの勝利だ。サタンから来ている声を自分の声にしないでいのちのみ言葉を守ろう。み言葉に従う時に主が良い地にしてくれる。


2012年07月22日(日)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」 ガラテヤ5:18



御言葉には、様々な戒めがある。「憎むな」「妬むな」「愛しなさい」「赦しな
さい」・・。主に従うために、戒めを守らねばならないと、形だけ守ったとしても、
信仰生活は窮屈になる。

「愛さねばならない」「赦さねばならない」「祈らねばならない」となり、「〜
しなければならない」「〜してはだめ」でがんじがらめになり、苦しく、辛い、
しんどいだけの信仰生活になり、信仰が重荷になってしまう。

オイルの切れた機械のようだ。信仰を持ったばかりに、辛い、疲れる人生になる。
これは御霊によらずに、自分の力で行なっているからだ。ガソリンの無い車を自
分で、押しているようだ。

「御霊によって歩みなさい」とあるように、御霊に導かれて歩むと全く変わる。
「祈らねばならない」でなく「祈りたい」に変わり、「喜ばなくてはならない」
でなく、自然に内から喜びが溢れて来る。

主に受け入れられるために、愛されるために、あの事、この事をするのではなく、
すでに受け入れられているから、愛されているから、こうしたい、ああしたい、
と変わる。この転換は御霊が与えて下さる。歩みがしんどいなら、もっと努力が
必要なのではない。頑張り過ぎて、疲れ果てている。

自分が、自分がと、頑張っていて、御霊を締め出している。自分を明け渡して、
御霊の助けを求めよう。そうすればオイルを差した機械、ガソリン満タンの車の
ように、スムーズに信仰生活が進む。

・・・・・・・・・・・・・・
「その命令は重荷とはなりません」とあり、自分が守るのでなく、御霊が助けて
下さる。「御霊によって」だ。御霊によるなら「ねばならない」の下にはいない。
そこには喜びがあり、感謝がある。自らの状態をあるがまま告げよう。御霊は導
いて下さる。、


2012年07月21日(土)

「『サムエル。サムエル』と呼ばれた・・『お話ください。しもべは聞いておりま す』と申し上げた」Tサムエル3:10



少年サムエルは、主から呼ばれ、二度「はい、ここにおります」と答え、エリの
もとに行った。「私をお呼びになったので」と。それは、エリに呼ばれたと思っ
たからだった。三度目に呼ばれた時に、エリは主が呼んでおられると悟り、「主
よ。お話ください。しもべは聞いております」と答えるようにと告げた。

次に主に呼ばれた時に、エリに教えられた通りに答えた。すると、エリの家の裁
きについて告げられた。非常に言いにくい事であったが、エリに聞かれた時に、
何も隠さず、すべてを話した。

サムエルには、「主よ。お語ください。お従いします」との態度と姿勢があった。
その時、主は御心を示して下さる。「従います」が重要だ。私たちはどうだろう。
好きな事はするが、嫌な事はしたくない。ましてや、都合悪い事は決してしたく
ないだろうか。

自分に都合の良い事だけを聞きたいという、肉の強い思いがある。自分が願って
いる通りに示して欲しい。御心求めながら、実は、自分の思いは定まっている。
もしそうなら、主がどんなに語りかけておられても、聞こえない。

「○○を赦すように」「和解しなさい」又、「罪から離れるように」の御声はど
うだろう。無視してしまっているだろうか。もし、従うつもりがないなら、御声
が聞こえない、というより自分でシャットアウトしてしまう。サムエルのように
「お従いします」の姿勢で、主に向こう。

・・・・・・・・・・・・・・
主の御声が遠い時、よく自らの態度を探ってみよう。従いたくない思いがあるか
も知れない。語られては困る、言葉があるかも知れない。祈りつつ心の内を御霊
に照らされ、従いますの態度に整えていただこう。その時、御声が聞こえて来る。


2012年07月20日(金)

「お子さまが生きておられる時は断食して泣かれたのに、お子さまがなくなられると、起き上がり、食事をなさるとは」Uサムエル12:21


ダビデは、病気の我が子が癒されるように、断食して祈り、主に求め続けたが、願いは叶わなかった。子供は死んでしまったのだ。普通なら、どんなに心痛み、悲しみに沈み、失望落胆する事だろう。こんなに祈ったのに、何でと。しかし、ダビデはそうではなかった。我が子の死を知ったダビデは、身体を洗い、着物を着替え、主の宮に行き、主に礼拝を献げたのだ。そして、自分の家に帰り、食事をとった。

家来達は驚いた。子供が生きている間は、断食をして泣いて祈ったのに、亡くなると、起き上がり食事をするとはと。ダビデが、断食して祈ったのは、もしかすると主のあわれみで、子供が助かるかも知れないと思ったからであり、死んだなら、自分は子供のもとへ行くだろうが、子供はもうこちらへは戻って来ないと。ダビデの主への信仰だった。

私たちの日々はどうだろう。自分の願いは願いとして、主に熱心に祈るべきだ。しかし、もしその願いが、主の御心で無かったなら「ノー」の答えとして、受け入れられるよう祈ろう。ダビデは主からの「ノー」を受け入れた。時として、強い願いであっても、御心に叶わないことがある。「ノー」の答えは、嬉しくないし、悲しく痛い。しかし、今はわからないが。私たちへの最善の答えだ。受け入れられないなら、そう出来るよう祈ろう。主は助けて下さる。道が閉ざされかたのように感じるが、霊的には一段階成長が与えられる。
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ノーと御心が示されたのなら辛いけれど、閉ざされた事実を受け入れられるようまた新たな気持ちで向きを変え、今から歩んで行く勇気も与えられるよう祈ろう。


2012年07月19日(木)

「人の望むものは、人の変わらぬ愛である・・」箴言19:22



私たちは誰しも、人の目が気になる。他人の評価を気にする。心の底に人に認められたい、受け入れて欲しい、つまり愛されたい、との強い願望があるからだ。私たちは生まれつき人の愛が欲しい。愛し、愛されたい。これは普段、認識していないが、自分が思っている以上に強い。

愛されたいから、人に認められたくて、人の目を気にする。そして、嫌われたくないので、好かれたいので、人の顔色ばかりを見て、「ノー」が言えなくなる。良い人として振る舞うので、本当の自分を生きる事ができない。うまく演技して生きてしまう。対人関係で、なぜ傷ついたかと心を探ると、人に認められ、褒められたい、良い人に見られたい、それが根深くあり、そこに触れ、それが得られなくて、傷ついていないだろうか。

しかし、「鼻で息をする人間・・そんな者に、何の値打ちがあるか」との言葉通り、人によって自分が決められるのは間違っている。人に依存している事になる。心が傷つく時に、心暗くなり沈む時に、それはどこから来ているのか考えてみよう。根深い人依存が原因だろうか。人に受け入れて欲しいばかりだろうか。

しかし、鼻で息をする人間は、いつか息が止むことになる。そんな有限な人間に頼るなと主は言われている。頼るべきは主であり、まさに決して変わる事の無い愛は、主にしか無い。人依存を神依存に変えられるよう、祈って行こう。
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人の反応を恐れ人依存になると、些細な事で一喜一憂してしまう。人の顔色により変化するのはやめよう。変わらぬ愛で守り導いて下さる神を見つめ、御心にかなった対応を尋ねながら神によって立とう。


2012年07月18日(水)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32

信仰にとって、大敵の一つが「失望落胆」だと言われている。心が失望してしまっている時には、主が見えない。心がふさがれて、主が全く見えなくなる。郷里のエマオに向かっていた弟子たちは、失望落胆、絶望の中にいた。主は弟子たちに、何度も〃十字架にかかって死に、三日目によみがえると告げられた。しかし、弟子たちは、主がローマ帝国を倒して、地上に王国を建てられ、王になると思い込んでいた。

それが、一番惨めで残酷な、辱めの十字架刑で死んでしまわれた。自分たちの切なる希望、期待が粉々に砕かれた。失望と空虚により、信仰の目がさえぎられ、不信仰に陥っていた。私たちもどうだろう。事態が自分の思い通りにならない時、自分の思いとは違う現実を突き付けられた時、受け入れる事ができない。そこで主と自分の間がさえぎられてしまう。

対人関係に悩みに悩んで、別の職場を求めている時に「忍耐せよ、今の状況でなければ得られない学びがある」と言われると、辛くて受け入れがたい。しかし、そんな失望落胆にいた弟子たちが、変えられた。暗く重く沈んだ心が、引き上げられて行ったのだ。

心が赤々と燃やされ、喜びが出て来た。何でそうなったのか。主の語られる言葉に、一心に耳を傾けて行った時に、「信仰」がよみがえって来た。私たちも厳しい現実を前に、今一度、一心に御言葉に耳を傾けてみよう。御霊は働き、信仰の灯を点じて下さる。
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聖書を開きみ言葉を読むと、目の前の状況が神様の支配の中にあるとの信仰に引き戻され、自分の思いを神様に委ねて行くことが出来る。失望落胆で気持ちの重い時、み言葉を聞こう。御霊様が慰め励まして下さる。


2012年07月17日(火)

「それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう」民数記22:19

モアブの王バラクがバラムを招こうと使者を遣わした。それは、イスラエル人に恐怖を抱いたバラクが、バラムに彼らを呪うよう要請するためだった。しかし、バラムは神の御心がはっきりとわかっていた。「彼らと一緒に行ってはならない。民を呪ってもいけない。その民は祝福されているからだ」と。

バラムがその事を伝えると、バラクは、更に多くの使者を遣わした。するとバラムは「主が、私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう」と言った。主の御心がはっきりしているのに、それ以上何を確かめる事があろう。目の前の問題は従うかどうかだけだ。「従う」ことが、御心でありなすべき事だ。

私達も同じ事をしていないだろうか。つまりは、本心は、神の御心を求めているのではなく、自分に都合の良い答えが欲しい。様々な偶像を巡っている人がいた。自分の求めている答えをくれる人に行き着くまで、巡り歩いた。答えがすでに決まっていて、しかし、誰かの承認が欲しい。私達もしばしば、答えを求めているのでなく、承認を求めているだろうか。

しかし、いつでもどんな時でも、主の御前に悔い改め、助けを求めることができる。聖霊は、私たちの自らの状態に気づかせて下さる。あなたも御心を示されているのに、尚もぐずぐずして、何か他のお告げと求めているだろうか。その示された御心に信仰もって従おう。「前進せよ」。
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御心がわかっているのに従いたくない思いが勝り、どちらにも中途半端で前進できないという経験をする。決断するための承認が欲しいが、それも間違っていると薄々感じているのではないだろうか。従う力が与えられるように祈ろう。


2012年07月16日(月)

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」マタイ19:26

主に在る信仰者は、皆、主に忠実に歩みたい、御言葉を行ってゆきたいと願っているのではないだろうか。しかし、すぐに、何もかもできるわけではない事も経験する。頭では行なおうと思うが、なかなか思うように行かない。でも、そんな中から、一つづつでも、祈って行ったらどうだろう。

ある人が、メッセージを聞き、御言葉を読み、教えられる事が沢山あるが、御言葉を実行となると、つまづいてしまう。どうしても出来ない。そんな経過の中で、御言葉を聞くが、自分には実行は無理と、はなから諦めてしまっている自分に気づかされた。自分のそんな肉の思いの方が強くて、祈る事すらしていなかった。
その事実に気づかされた時に、このままでは何も変わらないし、これから先も変わらない。それからは、とにかく、まず祈ることを始めた。

出来ないからこそ、祈りがある。即、できるわけではないが、まず地道に祈り続けて行く中で、時間をかけながら、主の方法や力を見せられた。1ヶ月2ヶ月と忍耐持って祈り続ける中で、内側の思いが変えられる経験や、どうしても出来なかった事が、気がつくと出来ていたり、祈りの力と共に、御霊の力を知った。

あなたも、はなから無理との発想が無いか。それをまず祈りに持って行こう。忍耐持って祈る時、主は祈りに答え、必ず一つ二つと行わせて行って下さる。
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自力ではとうてい出来ないけれど、御言葉は人事ではなく、自分の事として聞き、従って行きたいと祈ろう。それは必ず必要な行程であり、主ご自身をさらに新しく知れる。無理だと避けず、御言葉に向き合いたい。


2012年07月15日(日)

「すると彼は言った。『いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ』」 ヨシュア5:14


ヨルダン渡渉を果たしたヨシュアは、エリコを前にして、不安がよぎったかも知
れない。そんな時に、目を上げると一人の人が抜き身の剣を手に持ち、前に立っ
ていた。今にも戦おうとの状態だ。ヨシュアは、思わず「敵か味方か」と問うた。

相手は、敵とも味方とも言わず、「主の軍の将」と答えた。敵でないなら、味方
ではと思うが、同等ではなく、ヨシュアの上に立ち、導くリーダーだと。先立っ
て導いて下さるお方がいる。

ヨシュアは地に伏し「何を告げられるのですか」と尋ねると、「足のはきものを
脱げ」と言われた。自分の思いや考え、方法、力を明け渡して、導きに従えとい
うことだ。私たちも、今、目の前に立ちはだかっている城壁があるだろうか。難
攻不落の問題があるだろうか。

自分の知恵や力でどうこうせず、地に伏して、足のはきものを脱ごう。事態を、
自分自身を、主にお委ねしよう。「ヨシュアはそのようにした」、ヨシュアが主
の言われる通りにした時に、目の前のエリコ陥落の方法が示された。

町の回りを6日間、1度回り、7人の祭司が箱の前を行き、7日目に7度回り、
祭司達が角笛を吹き、民は大声でときの声を上げよという、不思議な方法だった。

しかし、その通りに従うと「城壁がくずれ落ちた」。問題に対し、軍の将として
主を認め、自らを明け渡し、示された事に従おう。その時、その問題を乗り越え
て行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・
私たちに難問題が起こる度に、主が「主の軍の将」として、「今、来た」と目の
前に来て下さるとは、何と力強い感謝なことだろう。目の前の問題を導いて下さ
る。自分の思いを明け渡して、主の御声を聞き、御霊の導きに従おう。主のみわ
ざを見る。


2012年07月14日(土)

「神は、昼は雲をもって、彼らを導き、夜は、夜通し炎の光で彼らを導いた」詩 篇78:14


主は私たちを導かれる。導きがなければ、どう進んでよいかわからない。主は導
きの主だ。私たちの歩みを一歩一歩導かれる。主の導きを求める時、「環境」を
よく見ることは大切だ。

パウロが二度も環境を通して、行く手を阻まれ、導かれたことは有名だ。アジア
で御言葉を語る事を禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方を通った。そして、
ビテニヤに行こうとしたが阻止され、そこでトロアスに下った。

結果的にヨーロッパ宣教という、主の大きなご計画があった。もし神の阻止がな
ければどうだろう。違う方向へ向かっていただろう。私達一人一人にもご計画が
あり、行く手にストップをかけて導かれる。これは、更なる素晴らしい導き、別
の大きな計画があるという事だ。

入試や就職試験、不合格なら、それは神のストップであり、御心でないという事
であり、御心は、別にあるという事だ。しかし、阻止となると導きを失ったと勘
違いし、不安になる。導きが無くなる事は決して無い。道が自分の思いと異なる
という導きだ。次の示しを待てばよい。

又、「ノー」を通して、他の何にも代えられない取り扱いにあずかり、霊的成長
とされる。御心の門は、自分で開くのではなく、必ず主が開かれる。目の前で、
門がひとりでに開かれて行く。開かれた門から入ればよい。環境と共に、御言葉
と、祈りの中での平安に目を留めて、導きにあずかって行こ

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信仰人生を主は導かれる。だが時に自分の思いと主の思いが異なる。自分の思い
通りではない。自我は、自分の思い通りにならなければ、イラ立ち、落胆する。
しかし、主は、確かな良い道へ、主の栄光の現れる道へと導かれる。最善をして
下さる。そう信じる時、心は平安だ



2012年07月13日(金)

「イスラエルの王はヨシャパテに言った『私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着ていてください』」T列王22:30


イスラエル王アハブは、ラモテ・ギルアデをアラムから取り返そうと、ユダ王ヨシャパテを誘った。ヨシャパテはアハブの申し出に、主の言葉を聞くよう要請した。アハブは預言者400人を集め、伺いを立てると、彼らは「上って行くように」と口を揃えて言った。しかし、預言者ミカヤは正反対の預言をした。アハブが悪霊に惑わされている事、殺される事を告げた。

二人の王は、アラムと戦う事になった。アハブは逃れようと巧妙に、自分は変装した。敵を欺き、自分は助かろうとした。しかし、アラム王の命令は、アハブだけを狙えというものだった。敵は、ヨシャパテをイスラエル王と間違ったが、彼が祈った時、敵は彼を追うのを止め、引き返したのだ。神の関与だ。そして一人の兵士が、「何げなく」放った矢が、何とアハブに刺さり「王の胸当てと草摺の間を射抜いた」彼は死んだ。

兵士は、別にアハブを殺そうとしたのではない。まさに神が関与し、事を成された。ミカヤの預言は成就した。偶然は存在しない。神の完全な主権と支配をここに見る。人がどう画策しようと神の御心が成就する。厳粛な事だ。それゆえ、私達の人生も日々の生活も、主に委ねよう。主に明け渡す時に、私達一人一人への
最善のご計画を一つ違わず、人生に成し遂げて下さる。
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先の先まで心配し思い煩わなくても、神様を信頼してお任せすれば良いのだとこの箇所から学ぼう。自分の限界を知り、限界を超えてまで画策するのは徒労だ。明け渡してしまおう。


2012年07月12日(木)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩編119:71


ある人に、厳しい試練が臨んだ。突如の事で理解もできず、辛さと悲しみの中を通った。しかし、しばらくして、その人の口から「あれは、あれで良かったと、心底思えるんです」との言葉が出た。「良かった」と言える。それは何と幸いなことだろう。理屈では理解できないが、霊の中では納得できる、そして平安に満たされている。不思議な感覚だ。主から十分な慰めを受け、霊において主を知る経験だった。理屈を超越して、心に納得が行ってしまうのだ。

又、ある高齢者は「若い時にはわからなかった事が、この歳になって初めてわかります」と。「痛みや苦しみを通り、『なぜ?なぜ?』でしたが、今、パズルが埋められるように、解き明かされ、あの時のあれが、これにつながりと、見せられます。あの苦難は、恐るべき高慢から守られるためであったと、答えがわかります。あの取り扱いが無ければ、高慢なまま、どんなに恐ろしい事になっていたか、今の自分は無いです。ただただ感謝しかありません」。

まさに「わたしがしていることは、今はあなたがたにはわからないが、あとでわかるようになります」の通りだ。試練の渦中は、ただただ痛くて、辛いばかりだ。しかし、信じていよう。今はわからないが、深いご計画があると。他の何によってもだめで、苦しみによってしか、学べないことがある。
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苦しみや痛みは喜ばしいものではないが、神以外に頼りとしていたものを示され、痛い取り扱いによって捨て去れたなら大きな恵みだ。自分では出来ない取り扱いを受け取り、日々新しく、ますます主を知って行きたい。


2012年07月11日(水)

「『あなたがたは分を越えている・・なぜ、あなたがたは集会の上に立つのか』モーセはこれを聞いてひれ伏した」民数記16:3


「コラの反乱」と言われている。コラと共謀者達が250人の人々と共に、モーセとアロンの権威に反逆した。「全会衆は皆聖なる者なのに、なぜあなた達が上に立つのか、分を越えている」と。モーセはこれを聞き、自分で対応せず、御前にひれ伏し、祈った。すると、神ご自身が出て、決着をつけられた。

コラは全会衆をも扇動して、二人に反逆させようとしたが、主がはっきりと聖なることを現された。地面が割れ、反逆する人々は飲み込まれ、神が裁きをされた。その後、神は明白なしるしを与えられた。12部族に1本づつ杖を持たせ、神が選ぶ者の杖は芽を出すというものであり、アロンの杖が芽をふき、アーモンドの実を結んだ。神ご自身が民の不平を静められた。

私達も量り与えられた、分をわきまえる事は大切だ。人の思い、自分の思いではなく、神が、一人一人に与えられた分がある。各自の立場や役割は、聖なる神からのものだ。分を越えていたのは、コラと共謀者の方であった。今いる場所で、他の人々への羨望や自己憐憫はないか。

他の立場や役割への妬みは恐ろしい罪へと発展して行く。妬みから邪悪な行ないが生まれる。今の境遇に置かれたのは、神だ。「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」のが悪魔だ。分をわきまえ、今の場を、主からのものと受け入れる時、主はその所であなたを祝福して、必ず用いられる。
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人知を越えて神が今のポジションを与えられている。自分の賜物を感謝し、遣わされた場所で仕えていこう。信じて遣わされた所に神の恵みが注がれている。


2012年07月10日(火)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2



謙遜とは、単に腰を低くすることではない。物腰は低いが、心は幾らでも高慢であり得る。謙遜とは、主の言葉を言葉通りに受け取る事であり、高慢とは御言葉を受け入れない事だ。見せかけの謙遜は御言葉を否定する。

神があなたを愛していると言われても「いいえ、私みたいな者が愛されるはずがない」と御言葉を否定してしまう。あなたの罪は全面的に赦された、無罪放免と聞いても「いいや、どうしてそんな事が、私は罪だらけ」と信じない。義とされて、今や義人と聞くと「絶対にそんな事は無い」と自分の思いを信じている。

神はすべての必要を満たすと言われても、「そんな事、無理」と思い煩い続ける。生涯を導くと言われても、決して受け取らずに恐れと不安の暗闇にいる。神とその言葉を信じないことは高慢だ。それは神を認めない事になる。

又、優越感は人を上から見下すので、見るからに高慢だと思えるが、劣等感も同じであり、高慢だ。神の評価、神の見方を受け入れないで、人と比較して、自分が自分の評価を決めている。

神の言葉をどう聞いているだろう。納得の行くものは受け入れ、そうでなければ捨ててしまう。それは自分を神の上に置いている事になる。「へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者」へりくだりとは、神の言葉を、神からのものと受け入れることだ。そのまま素直に受け入れることができなければ、それを主に告げて、そうできるよう祈ろう。助けて下さる。
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み言葉を聞いても自分の生き方を全く変えようとしないのは、神の支配が自分の生活全てに及ぶことを認めてない恐ろしい高慢だ。み言葉を自分の上に置き、変われないと神に助け求める者と、変わるつもりがなく腰だけ低い者、一見、似ているが神はご存知だ。


2012年07月09日(月)

「ハンナは立ち上がった・・彼女は主に祈って、激しく泣いた」Tサムエル1:9


当時は霊的指導者がおらず、人々は悪に走り、道徳的にもひどく堕落し、霊的な暗黒時代であった。人々は主に従わずに、自分の目に正しいと見える事を行ない、肉の思うままに、わがままに生きていた。神はこの暗黒の中で霊的指導者を起こそうとされた。そのためにハンナを選ばれた。

そのハンナは悲しみと苦しみに打ちひしがれた女性だった。不妊であったが、当時不妊は神の呪いとの迷信があり、周囲からもそう見られ、その苦しみは尋常ではなかった。又、それはハンナを憎むペニンナからのいじめの標的となった。神に祝福されていないのだろうか?神の御心がわからず苦悶の日々であった。ハンナの痛みは頂点に達し、それを祈りにもって行った。

主の御前に行き、激しく泣きじゃくり祈った。なりふり構わず心を注ぎ出した。悲しみ、辛さ、人々の目、ペニンナのいじめ、夫にも理解されない孤独、神の御心がわからない苦しみ、神はどう思っておられるのか。それらをことごとく神に訴え、告げた。そして「安心して行きなさい・・願った願いを叶えて下さるように」との祭司の言葉に、神に受け止められた確証を得た。

全き平安を得、彼女は180度変わり、表情はすがすがしく、食事を摂る事ができた。ハンナの産みの苦しみの祈りにより、サムエルが生まれた。苦しみを祈りに持って行こう。大きな祝福が備えられている。
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ありのままを注ぎだし自分の問題の全てを主に聞いていただこう。素直な求めを主に注ぎだし、そして主のご支配に任せられるよう祈ろう。答えはすぐではなくても、主はいつも近くに共にいて下さる。


2012年07月08日(日)

「それはあなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたを幸せにするためで あった」申命記8:16



主がはっきりと、「あなたを苦しめ」「あなたを試み」ると言っておられる。ち
ょっと苦しい事が臨むと「なぜ?」「私にばかりで、人は皆幸せなのに」「神様
は不公平」と不平不満、つぶやきが出て来るが、試練によってでないと、得られ
ないものがある。

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました」、肉の性質は、頑固で強情
であり、相手を責め、人のせいにし、何と自分を正当化し、自らの非を認めない
者だろう。しかし、苦しみにより砕かれて、自分の無力を知り、自分の力に頼れ
ず神に追いやられる。

なすすべなく、神にしか頼れないところにまで追い込まれる。その時、初めて拠
り頼む事の意味を知る。涙の谷を過ぎる時も、そこが泉の湧く所となる。神に出
会う。

すべての人は試練に会う。思い通りに行かないから試練であるが、その時に、環
境や人のせいにし、愚痴と不満で苦しみに飲まれて行く事もできる。又、訓練、
鍛錬として受け止める事もできる。心を屈折させるのも、心素直にするのも、自
らの選択だ。

「心素直にできません」「飲み込まれそうです」とありのまま、祈って行こう。
「ついには、あなたを幸せにするため」、訓練として受け入れるなら、測り知れ
ない益を得る。御霊の実を結ぶ。その時は痛いが、後に「苦しみにあったことは、
私にとって幸せでした」と必ず言える。苦しみは私達を、神に近づけてくれる。

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今、試練の中なら、「ついには、あなたなを幸せにするため」「苦しみにあった
ことは幸せでした」と言えるように、して下さることを見つめていよう。今は苦
しく辛いが、幸せにし、必ず平安と喜びへと導かれる。希望がある。そこに立っ
ていよう。


2012年07月07日(土)

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけして もてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」箴言27:5 



時に、真っ直ぐに、はっきりと語ることは大切であり、御心だ。言いにくい厳し
い事も、もし御霊に示されるなら、明確に、相手に語る必要がある場合がある。
人は、何となく気づいている触れられたくない所を指摘されると、怒るものだ。
腹を立てる。痛いからだ。本質を突かれると、非常に痛い。

主は、人を砕き、造り変えるために、時に人の言葉を用いられる。忠告を素直に
受け入れて、それを相手を通して語られている、神からのものと、受け入れるな
ら、その人は変えられて行く。

ある人が、主に在る友に忠告するように、御霊から示された。そのままでは道を
それてしまう。しかし、聞き入れられるのだろうか。間違いなく相手には痛い。
祈って、祈って、祈りを積んだ上で、その友の間違っている点を指摘した。する
と、案の定、相手にとれば非常に痛い急所であり、受け入れられず、激怒した。
その反応も予想できたので、続けて祈っていた。

しかし翌日、感謝の連絡を受けた。痛くて腹を立てていたが、やはりその言葉を
ずっと考えた。そういう事を言うと相手に嫌われる事がわかっていて、尚且つ言
ってくれた、その真実と愛情に思いが至った。主の御前に悔い改め、軌道修正で
きた。友に感謝でならなかった。御霊が導かれるなら、従おう。又、逆に、忠告
を受けたなら聞く耳を持とう。

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御霊から自分自身に示される警告は、愛によるものだ。愛でなければ放っておか
れる。御霊に示されたなら、悔い改めよう。又、時に人を用いられる。間違いを
指摘されたなら、へりくだって、心よく探り受け止めよう。成長へと導かれる。


2012年07月06日(金)

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」マタイ14:27



主は弟子たちを舟に乗せて、先に向こう岸へ行かせられた。しかし、弟子たちは湖で嵐に会う。彼らは漁師であり、いつも経験している事だ。そのプロのベテラン漁師が、身の危険を感じるほどの大嵐であった。死ぬかもしれない恐怖、困難、苦しみの中でもがいていた弟子たちのもとに、主が近づかれた。弟子たちは驚き、幽霊と間違い怯えるが、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と。

「わたしである」「わたしがいる」と。だから「恐れるな」と。この嵐のまっただ中に、「わたしがいる」、この事がわかれば、問題は解決する。だが、どうだろう。逆に、私たちは、嵐の中でパニックになり、主が吹っ飛んでしまう。又、問題が大き過ぎて、あるいは、悲しみが大き過ぎて、主が見えなくなってしまう。主ではなく、目の前に立ちはだかった問題ばかりを見てしまう。

又、対人関係で、敵対して来る人で心が占領されてしまい、主が見えない。しかし、主はここにおられ、「わたしだ」と、目の前のその問題の、悩みの、まっただ中に、おられる。今、悩み、問題のために、主を見失っているだろうか。問題に飲み込まれ、思い煩いと不安、恐れの中にいるだろうか。問題を見ている目を、「わたしだ」と、目の前におられる主に転じよう。問題の中に、主に来ていただく時に、「ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ」。風が止む。心に平安が臨む。
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クリスチャンは環境を恐れるか神様を恐れるかのどちらかだ。環境を見て人を見て恐れている時は神様を忘れいている。パニックの中にも、わたしだ、恐れることはないと言われる主を覚えよう。


2012年07月05日(木)

「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった」ヨハネの福音書21:4

主を裏切った後、ガリラヤに戻ったペテロと弟子たちは、心は重く、虚しく、沈んでいただろう。もう一度網を取り、以前のなりわいである漁をする。しかし、一匹も捕れない。心には深い痛みと失望感、挫折感。夜明け頃、岸辺に立った見知らぬ人から「子どもたちよ。食べる物がありませんね」との声が聞こえた。

声の主は、誰かはわからないまま、「はい、ありません」と、正直にありのまま答えた。その答えを受けて、直ちに「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます」との声。岸辺からのその声に従い、網を打った。すると網を引き上げられないほどの大漁だった。

以前、同じような経験をした。その光景と合致した。ヨハネは、瞬間「主です」と悟った。途端、ペテロは主に会いたい一心で、湖に飛び込んだ。陸地に上がると主がおられ、魚とパンが用意されていた。そして、ペテロを取り扱われた。

「なぜ、裏切ったのか」と、ペテロの裏切りについて、一言も言われない。三回の裏切りは、「わたしを愛しますか」の三回の問いかけにより、深い傷をがおおわれ、癒された。主の打ち傷によって、罪が赦され、癒された。

悲しみ悔いる者を、赦し、癒される、主の慈しみと深いご愛を見せられる。ペテロは主のご愛により回復された。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせる。弟子たちへの慈しみとご愛は、私たちへも同様に注がれている。
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主が見えない事はなんと不安なことか。思い煩いや、くり返す失敗、また受けた傷で主の光がさえぎられてしまうかもしれない。そんな時こそ、慈しみ深い主を仰ぎ、ありのままの自分で慰めを祈ろう。


2012年07月04日(水)

「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」ヨハネ21:22



人は、心の内では自分に無いものを欲しがっている、と言われている。無いものねだりだ。肉はどうしてもネガティブに傾くので、無いものを意識し、持たないものに目が向いてしまう。あれが無い、これが無い・・。隣の芝生は青々と見え、人は幸せそうで、人を見ると羨ましくて仕方がない。「自分も、誰それのようであれば・・」と。自分とは異なった境遇や、才能や性格を羨んでしまう。

しかし、それなら現在の自分を否定することになる。「〜〜さんのようでない自分」はダメという事になり、そこに平安も、生きる喜びも無い。そうでなく、信仰に立つ時に「すべてのことが神から発し」となり、神が今の境遇に、今の場に、私たち一人一人を遣わされたと受け取って行く。遣わされたのは神だ。

それぞれの人生に神の深いご計画があり、目的がある。運命ではなく、偶然なのではなく、神の御心による。隣の人のようになろうとするのでなく、それぞれ置かれた場所で、主を見上げて、自分に与えられた主の御心を行なって行く、その時に、御霊の喜びを経験する。

他との比較は、培われた根深い、肉の価値観による。比較している時、御霊の気づきが与えられ、目を横から上に移そう。人のようになるために変わる必要はないが、主の似姿へと近づくためには、変えられて行く必要がある。「わたしに従いなさい」主を見上げ、一歩一歩従って行く時に、主のかたちへと変えて下さる。
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主のように変えられるのが私達の使命だ。人からの影響を受けやすいからこそ、主との関わりを強く求めていこう。主から目の前の成すべきことを受け取り、自分だけの一歩を歩もう。


2012年07月03日(火)

「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」ルカ18:11


パリサイ人と取税人が、祈るために宮に上った。祈りの言葉は、心の内を表わす。パリサイ人は、「立って、心の中でこんな祈りをした」とあり、「心の中で」祈ったので、声には出していない。その内容は、「他の人々のように」と、人と比較し、自分は悪い事はしていないし、律法を守っているというものだった。

しかし、心の中の罪はどうだろう。外側悪い事をしなくとも、妬み、憎しみ、そしり、情欲・・義人はいない。パリサイ人は、人と比較し、優越感に浸り、自分を誇る、自己満足だった。神よ、と言いながら、そこに神はなく独り事だった。

取税人は、人はそこに介在せず、人との比較は無く、ただ関心は「神」であり、神だけを見上げていた。神と自分の関係だけであり、神意識だけだ。取税人は、神の前の自分を意識するので、自らの罪が見えて、打ちひしがれ、罪を認めている。御霊に示されなければ、罪はわからない。御霊による悔い改めが与えられる時には、そこに人は見えない。ただただ神と自分の間で、自分の罪が見えるだけだ。そして、その罪は赦される。無罪放免とされる。

パリサイ人は人と比較して、自分を量る。自分の罪の基準が、人による。だから罪認識が無い。それゆえ悔い改めも無い。このようにサタンは、神から私たちを引き離すために、常に、人との比較に引っ張る。御言葉の光でなく、人との比較で、自分はどうなのかを見せる。目はどこに向いているだろう。主に向き、御言葉の鏡に向く時、御霊の光により自分が照らされる。
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目の前の人を基準に安心したり、焦ったりしてしまう。常に、生涯一人だけで、神の前に立っていることを忘れずにいよう。今日、神は何を私に示して下さるだろうかと、み言葉に丁寧に聞いていこう。


2012年07月02日(月)

「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36


当時のクリスチャンたちは、非常に厳しい状況にいた。信仰ゆえの迫害にあり、人々は捕らえられていて、苦しみを受け、命の危険すら迫っていた。主は何とかして下さらないのだろうか。主はどう思っておられるのだろう。そんな時、主からの言葉が「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません・・大きな報いをもたらす」というものだった。

「確信を投げ捨てるな」、大事な、とても大切なものを、自分の手で捨ててしまう事がある。忍耐できずに、諦めてしまったり、自分で責任を取らずに、人に責任転嫁し、人のせいにして、現実逃避したり。また「約束を信じて待つ」ことを、待ちきれずに投げ捨てたりという状況がないだろうか。

自らの熱心な祈りが、なかなか叶えられない、思い通りにならない。そんな時、失望落胆して、気力が失せてしまうだろうか。しかし、主は即答、即解決を与えられない。そして「確信を投げ捨てるな」と言われている。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない」確信は必ず実現すると。

忍耐は、じっと我慢することでなく、主が最善をして下さると期待することだ。約束は必ず成就すると信じることだ。「わたしの義人は信仰によって生きる」。今、まだ手にしていない約束があれば、投げ捨てずに、忍耐しよう。主を待とう。必ず「約束ものを手に入れる」。
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なぜ忍耐できるのか。それは希望があるからだ。必ず最善が来る、今はなくても、自分で時を計って焦ったり失望したりせず、神の時に期待しまとう。


2012年07月01日(日)

「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願 いました」Uコリント12:8



パウロは、肉体に一つの「とげ」が与えられたと言っている。これを取り去って
欲しいと、パウロは切に、主に祈った。これさえ無ければ、もっと主のために働
けるのにと思ったかも知れない。しかし、主の答えは「ノー」であった。とげが
あった方が、「キリストの力」におおわれ、主を更に深く経験して行けると。

主の御力は、弱さの中にこそ、完全に現れるからだと。私たちもどうだろう。こ
れをこうして欲しい、あの状況を変えて欲しいと、祈っても祈っても、幾ら祈っ
ても答えられない祈りがあるだろうか。全く状況が変わらない。

その時は、状況が変わるのではなく、その状況のまっただ中で、キリストの力を
知る時とされているのかも知れない。「とげを去らせて欲しい」、私たちは、こ
の苦しい状況さえ過ぎ去れば、幸せになれるのに、何とかして欲しい、あの人さ
えいなければ、人生バラ色なのに・・と思うだろうか。しかしそうではなく、その
中で、十分な主の恵みを味わう時とされる。

そして「信仰がためされると忍耐が生じる」、「患難さえも喜んでいます。それ
は、患難が忍耐を生み出し」の通り、忍耐が与えられ、それは忍耐が培われる時
とされる。その忍耐は「練られた品性を生み出」す。

主のかたちへと変えられて行く。祈りは答えられている。主の御心のままに、あ
る時は状況が変えられる事によって、又、状況が変えられなければ、心を変えて
乗り越えさせて下さる。
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苦しい時は、ただ苦しみが去る事を一心に願う。状況が変わる事を願う。しかし、
そんな時こそが、今まで知らなかった主を知る時であり、主の恵み、主の平安を
知る時だ。状況が全く変わらなければ、自分の心が変えられるよう祈ろう。