2012年08月31日(金)

「私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたり・・」Tテモテ6:3


   
「健全なことばと敬虔にかなう教えに同意しない人」がいるならその人は「高慢」になっているとある。つまり高慢とは、御言葉に同意しない事だと言っている。普段、無意識かも知れないが、どうだろう。御言葉を聞く時に、横から自分の思いが入って来る。

「でも・・」「だけど・・」「そんなわけない」「そんな事あるはずがない」「無理」「そんな事言ってたら、世の中渡って行けない」「そんな事できない」「ちょっと厳しすぎる」「私はそう思わない」「ん?」等々、御言葉と同時に、自分の思いが入り、自分のメガネに合わない言葉は捨ててしまう。


自分に都合の良い、メガネに適う言葉だけを受け入れる。それも、自分の都合の良いように受け取る。それが「高慢」だと言っている。その自分の肉に従って行くと、肉の実を刈り取る事になる。高慢になると何一つ悟らず、御言葉に反して行く。

神を疑い、人を疑い、人がああ言った、こう思っていると、言い争いを起こして行く。そして「そこから妬み、争い、そしり、悪意の疑りが生じ」絶え間ない紛争が起きる。「満ち足りる」ためには、まずこの高慢を悔い改める必要がある。自分は御言葉を額面通りに受け入れているか、同意しているか、へりくだって聞いているか、心を探って頂こう。満ち足りる心は御言葉を素直に受け入れるところから生まれる。
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主の言葉は生きていて、み言葉によって私達はいくらでも変えられ、成長することができる。み言葉を素直に受けとり従う決心をしよう。否定的な自分の思いに同意していれば、いつまでも主にある平安を経験できない。


2012年08月30日(木)

「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」マタイ20:15


主人は、早朝、9、12、3、5時に、労務者を雇った。早朝の者たちとは、「1デナリ」の契約をした。9時以降の者たちとは、契約しないで「相当のものを」と言った。そして、夕6時に賃金を支払うが、最後に来た者から順にした。1時間しか働かない者が、意外にも「1デナリ」、丸々1日分の賃金を貰った。

1時間で1デナリなら、早朝の者は、かなりの額を貰えると計算し予想した。しかし全員が等しく1デナリだった。そこで、早朝の者が不当だと文句を言った。しかし、1デナリの契約であり、主人は何も不当ではない。皆に同じようにしてやりたいと、主人の心だ。後の者が分不相応の扱いを受け、後の者が先になり、先の者が後になると。

神は働きに正比例ではなく、分を越えて遙かに良くして下さる「恵み」の世界を現された。実は早朝の者は大きな恵みを受けていた。早朝から報酬が約束され、夕刻には手に出来る。家で待つ妻子の喜ぶ姿を思い、1日平安に働けた。又、実は主人のために、朝早くから多くの時間働ける事は何と喜びだろう。これは恵みの世界だ。ここから離れると、不平不満、損得勘定になる。

私たちの主への態度はどうだろう。5時の者たちはどんなに不安の中にいただろう。この者たちを深く憐れまれた。主は気前の良い方であり、憐れみ深い方だ。この憐れみが、あなたにも注がれている。
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いつでも自分を9時からの者と重ね、どれだけ不相応の憐れみと恵みが自分に注がれているかを、すぐに忘れてしまう。そういう者が主と共に歩めている。この幸いな時間に感謝したい。


2012年08月29日(水)

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ」イザヤ54:1


ある人が、次から次へと問題が起こり、厳しい状況に陥った。なすすべも無く、苦悶の日々であった。そんな中、人々が去り、ことに信頼を置いていた人が去った事により、大変な打撃を受けた。心労から、身体にも変調をきたした。とうとう体調崩し、まさに窮地であった。意気消沈し、立ち上がる気力も無かった。どうする事もできず、何をどうしてよいかもわからなかった。ぼうっ〜と日を過ごしていた中、心に語りかけて来る主の御声を聞いた。

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。喜びの歌声をあげて叫べ」、自分に語りかけられている、主の御声だった。子を産まない不妊の女は、まさに自分であった。しかし、喜び歌え、喜び叫べと言われる。そんな状況ではないし、そんな気分ではないのだが・・しかし、はっきりと「喜び叫べ」と臨んで来る。「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし・・あなたは右と左にふえ拡がり」

神からの御声を聞いた時、状況と自分にしか向いていない目が、ふと神に向いた。視点が変えられた。沈んだ、無気力な心に、神を見上げる力が与えられた。ふっと顔を上げることができた。真っ暗な状況のまっただ中で、主を見上げ、感謝を献げて行こうと決心した。今、目の前は真っ暗な状況だろうか。「喜びの歌声をあげて叫べ」との語りかけを聞こう。
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真っ暗な状況も神様のご支配の中だ。納得できる理由などわからなくても、約束のみ言葉を握っていれば、心に不平はない。み言葉を受けとるために聖書を開こう。


2012年08月28日(火)

「あなたの神、主を心に据えなさい」申命記8:18


荒野でのイスラエルを見る時、何と身勝手な、自己中心なと思うだろうか。出エジプトに際して、絶体絶命の危機に、神の偉大な奇跡を経験した。目の前で、自分たちのために、海が分かれて助けられるなど、後にも先にも、何というみわざだろう。追っ手が迫り、身の危険が迫る中、どんなに喜びの大歓声であった事だろう。

輝かしい素晴らしい神の力を見た。しかし、こんな驚くべき奇跡を見たすぐ後で、荒野に入った途端、やれ水がない、食べ物がないと、ぶつぶつと不平不満噴出だ。少し前に神の偉大な力を見たばかりなのに、何という事だとイスラエルを見て思う。しかし、自分自身も、まさにこのイスラエルだ。順風満帆に、思い通りに行っている時だけの感謝で、少し状況が険しくなると、途端に神を認めない。

「何で!こんな事が!」と神を責め、反抗的態度になる。要するに自分の求めは、神でなく、自分の都合、自分の思い通りになる人生だ。不都合になるや、心を屈折させ、自己憐憫に浸り、周囲に嫌な思いをさせる。自分の欲望と思いが心を占めているなら、信仰が成長して行かない。良い時はいいが、状況が悪化した途端、神を責める。

自分の感情、思い、欲に反応して生きるのでなく、主を心の王座に据え、一つ一御言葉に従って生きる事が大切だ。良い地へ導き入れようとしておられる。いつも不平不満の、平安の無い歩みではなく、状況でなく、主を仰ぎ見て、どんな時も感謝と喜びがある、その地へ導き入れて下さる。
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主を心に据えていなければ、目の前の生活にアップダウンさせられる。感情にいつまでも固執するのは辞めよう。辛さや悲しみはあってもそこで主を仰ぎ、今の状況も不安定な自分も全てを主にお任せし、主にあって喜び、今日を歩みたい。


2012年08月27日(月)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2



ある人が、強い願いがあり、「○○をかなえてくれたら、神がおられることを信じます」との祈りをした。ところが、その事は成らず、何も起こらなかった。しかし、その事についてよく考えた時に、神がなぜこんな自分勝手な祈りに答えなければならないのか、自分が間違っていると思えた。

私たちにも、あるかも知れない。神が自分の望み通りに、祈りに答えてくれたなら、神を信じよう。そうでなければ、信じない。これは不信仰だ。御言葉だけなら、信じ難いので、自分が納得できる証拠が欲しいと。そして、このようなら、主がどんなにみわざをして下さっていても、自分の思い通りでないなら、決して受け入れる事ができないし、認めない。

主と御言葉の上に、自分を置いていることになる。高慢な思いだ。自分の思いがあるばかりで、そこでは決して主が見えない。主は、私たちが欲しいものを、手に入れるための手段では無いし、幸せになるための手段でも無い。主は、私たちの思い通りには動かれない。

そうでなく、主と御言葉の下にへりくだって、自分の思いを捨てて、主のみこころを求めて、そのお心に従って行く時に、必ず喜びが来る。主の御心に叶う願いは、すでに叶えられているからだ。自分の思いでなく、主の御心が重要だ。「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する」。
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自分の強い思いがあればいつまで経っても生きておられる神を知ることは出来ない。御心だけが成り、それは私達にとって必ず最善のものであることを信じて祈っていこう。必ず主が強い思いを砕いて御心に応答できる者へとつくり変えて行って下さる。


2012年08月26日(日)

「これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知ら ないわけではありません」Uコリント2:10       

 

「私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、キリストの御前で赦した」とパ
ウロも言っている。人を赦さない心は、サタンに足場を与えてしまう。自らの心
を「怒り」「プライド」「憎しみ」「敵対心」「嫉妬」「高慢」へと開く事にな
り、心にそれらを招き入れる。サタンに足場を作らせる。

心に足場があるから、サタンは自在にあおって来て、増幅させて来る。人を赦さ
ない心は、サタンが動き回る場所を作り、機会を与える事になる。又、赦さない
心は、自分で牢獄に入り、自分を閉じこめる事になる。四六時中、心は苦しく、
がんじがらめで、解き放たれる事がない。

それだけでなく、憎しみは必ず増幅して行く。心はどんどん頑なになる。その事
で一杯で、常にその事を考えているから、更に思いは固められて行く。屈折し、
歪んだ性格を作り、否定的な人生にしてしまう。

赦さない心は、あなたの人格も人生も破壊させる。そうしたいだろうか。赦す事
を拒むなら、自らと神の関係も拒む事になる。神にまず、心をありのまま率直に
打ち明けよう。そこから始まる。祝福の入口だ。赦したくない心を祈りに持って
行こう。

人には出来ない事が、神には出来る。「私には赦せませんが感謝します。神様が
赦せるようにして下さるからです」と祈った人が赦せるようになった。祈りは必
ず答えられる。

・・・・・・・・・・・・・・・
赦すことほど難しい事はない。自分の力では到底出来ない。しかし、苦しくてた
まらない。だからこそ主がおられる。「赦せません。赦したくありません」と正
直な気持ちを祈って行こう。主が働かれ、御霊の力を与えて下さる。足場がある
と、サタンが動き回る事も心していよう。


2012年08月25日(土)

「神がハガルの目が開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に 水を満たし、少年に飲ませた」創世記21:19



イシマエルが生まれた後に、約束の子イサクが誕生した。するとイシマエルがイ
サクをからかい、いじめるようになった。それでサラは、イシマエルを追い出す
よう、アブラハムに要求した。アブラハムにとれば、両方共自分の子供なので、
非常に悩み苦しんだ。

しかし、神により導きを得て、母子を出した。二人は荒野をさまよった。食料も
水も尽きた。子供に何も与えてやれず、ただ死を待つだけだ。この悲惨な状況に、
どんなに心は辛く悲しく、嘆きと苦しみだったろう。絶望だ。ハガルは声を上げ
て泣いた。

その時、見捨てられていなかった。「神は少年の声を聞かれ」、はしための子も、
一つの国民とすると言われた。神の助けの手が伸べられた「神がハガルの目を開
かれたので、彼女は井戸を見つけた」子供に水を飲ませることができた。

その時、井戸が掘られたのでなく、そこにすでにあった。ハガルは井戸のすぐそ
ばにいた。そばに井戸があったに関わらず見えなかった。私たちも学ぶ事ができ
る。信仰人生で数々の困難に出くわすが、問題が問題なのではない。目が閉じて
いる事が、目が見えない事が問題なのだ。

ハガルが叫ぶと、神が目を開かれた。そして井戸を見出した。絶望、失望、不信
仰の中では何も見えない。真っ暗闇だ。問題の中で主に向こう。そこに光がある。
御言葉を与えられるよう祈ろう。主に向いた途端、目が開かれて、解決への糸口
を得る。

・・・・・・・・・・・
絶体絶命で、声を上げて泣くハガル。神は少年の声を聞かれた。主は決して見放
さず、見捨てられない。すでに井戸が備えられていた。私たちを絶対に見捨てら
れない。どんなに慰めと励ましを受けることだろう。主に向いて叫ぼう。


2012年08月24日(金)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


ある人が、職場でどうしても、うまく行かない相手がいた。話すと、意見が合わず、ギクシャクし、相手にトゲを感じる。段々、話す事も苦痛になり、その事を祈りに持って行った。すると、相手の欠点ばかりが目に付き、そういう見方しかしていない自分に気づいた。相手を嫌い、責め、裁いていた。相手にトゲを感じていたが、実はトゲを出していたのは自分だった。

丁度「高慢」についてのメッセージがあり、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」主の姿に、自分の高ぶり、自我、愛の無さを示された。悔い改め、へりくだる事を祈った。へりくだりたいと心を向けていた。そんな時、相手と仕事の事で話をしていた時、相手との関係が変化している事に気づいた。自分が変えられていた。

自分がへりくだろうとして祈る時に、主が対人関係に働かれる事を見せられた。柔和に対話でき、トゲが消えていた。こちらが心を開き、変わったので、相手も変わってしまった。対人関係は、どちらかが変わると変わる。悔い改めて、主に拠り頼む時、主はそこに働かれ、みわざをされる。あなたも今、へりくだるよう示されているだろうか。
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人はどこまでも自分が大切で自分、自分だ。自分でへりくだることは出来ない。自我を捨て、自分を低く出来るよう、主の道に従えるよう祈り求めたい。


2012年08月23日(木)

「イエスはご自分の肉体の垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」ヘブル10:20

私たちはどうだろう。何かを行なおうと決心するが、何度挫折した事だろう。聖書を読んだ方が良い事はわかるが、日々読もうとすると読めない。祈りが大切だとわかるが、幾度も失敗する。朝、バタバタしてつい御言葉と祈りをパスしてしまう。祈りが大切だと知らなくて、祈らないのではない。御言葉に従って生きる事の大切さを誰しも知っている。わかっているが、出来ない。

しかし、そこで落ち込んで、自分を責め、落胆するのでなく、だからこそ主が来て下さった事を覚えよう。もし自分の力で、日々完璧にデボーションができて、良い行ないができるなら、主は必要無いことになる。あなたも「ねばならない」で心が縛られているだろうか。主を信じて、休ませて頂くのでなく、返ってしんどくて苦しく、重荷であえいでいるだろうか。

ありのまま来なさいと言われているに関わらず、良い行ないで御前に出ようとするだろうか。祈りをし聖書を読み、御心に従っている事によって、大手を振って御前に出るだろうか。罪を犯すと、途端出られなくなる。こういう状態だろうか。これなら、主によってでなく、自分によって御前に出ている。

そうでなく、自分の状態に関係無く、イエスの血によって大胆に恐れなく、聖所に入る事ができる。今日も、今も、自分のわざによってでなく、主イエスゆえに、今のままで御前に受け入れられている。
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神様の恵みの十字架に、自分の何かを付け足すことはできない。昨日も今日も、いつでもありのままの自分で主に近づける道を与えて下さった神様に、ただ感謝だ。


2012年08月22日(水)

「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています」ピレモン11


オネシモは、ピレモンの奴隷であった。その彼が、主人のもとで盗みを働き、逃亡した。しかし、捕えられ投獄の身となったが、そこでパウロに出会う。パウロは主人ピレモンを知っていた。オネシモは、パウロに導かれ回心し、主イエスを信じた。

当時、逃亡奴隷は死刑であった。パウロは、オネシモが真に悔い改め、新生し、主にあって変えられた事を確認した。それで、ピレモンに手紙を書いて、オネシモを主に在る兄弟として、受け入れてくれるよう頼んだ。オネシモは、以前は役に立たない者であったが、彼の名の通り「有益な者」に変えられた。私たちも同様だ。

目の前で様々な困難が起きて、先が見えず、これが一体何になると、思う。無益であり、マイナスにしか見えない。それが「すべてのことを働かせて益」とされる方により、大いなる祝福と有益な事態へと変えられる。今、目の前は混乱状態だろうか、しかし、必ず豊かな益へと導かれて行く。

パウロは摂理信仰を持って、事態を見た。オネシモは主人を裏切り、逃亡したが、それを信仰のメガネで見る時、オネシモを有益な者として、永久に取り戻すために、一旦離されたのだと。私たちも信仰に立って、すべての事に神を認め、摂理を認める時、物事の見方が変えられる。失望する事態に遭遇した時は、神のご計画を認める時だ。信仰のメガネをかけて、見よう。
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自分を軸にして見るなら、いつでも思い通りの答えしか納得できない。起きる問題や、聞かれない祈りの中にも神様の摂理があり恵みは備えられている。更に良いもののためにとの信仰のメガネで全てを今を見ていこう。


2012年08月21日(火)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1

御言葉には、すべての事において、主が定められた「神の時」があると記されている。詩編には「私の時は、御手の中にあります」とある。ダビデは、サウル王に代わって、イスラエルの王となると示されていたが、その時は、知らされていなかった。ダビデは、サウルに追い回され、命をつけ狙われ、死と隣り合わせのような逃亡生活だった。

必ず、サウルの手から守られ、救出され、イスラエルの王位に着くことは定められていたが、いつその「時」が来るかは、全くわからなかった。ダビデは、その時を知ろうとするのでなく、「私の時は、御手の中にある」と、主にすべてを委ねた。

ヨセフも、神の時を待った。兄たちにエジプトへ売られ、しかし、そこで良い主人と出会い、家の管理を委ねられるが、主人の妻からの濡れ衣で、投獄される。そこでチャンス到来。献酌官長の夢を解き明かし、解放されると思いきや、しかしまだ「神の時」ではなかった。忘れ去られてしまい、尚も2年の忍耐の後、やがて「神の時」が来て、牢から出された。

様々な障害や人間の妨げに関わらず、神の時には、みわざが成されて行く。神の時が来たなら、誰も止める事ができない。今まで全く動かなかった事態が、驚くばかりに、動いて行く。あなたも経験した事があるだろう。何事にも定まった時期がある。今、祈っている事にも、時がある。主を信じて、待ち続けよう。
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この日のために祈っていたのだと、美しい神様の時を目の当たりに拝し、賛美と感謝に満たされる事がある。今日か明日かわからなくても、神様の時を信じ期待し、その時をしっかり見つめ今日も祈ろう。


2012年08月20日(月)

「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」マタイ26:39


私たちは、信仰生活の中で、主の御心を求める。「御心を示して下さい」と、切に祈る。しかし、心の底では、しっかり自分のプランが決まっていたらどうだろう。どうあっても自分のしたい事があって、それ以外の選択肢は考えられない。そのような状態で御心を求めた時に、どうだろう。心が定まっているので、それ以外の御言葉は無意識に排除してしまう。

この「無意識」が問題だ。意識して排除するなら、自分でわかっているので、とがめが来るが、無意識なので、とがめも無い。自分の都合の良い御言葉しか、心に留まらない事になる。これなら御心を間違ってしまう。主のお心を知るためには、自分の思い、願望を一旦、明け渡すことだ。特に、強い願望がある時には、主観が強くなり、無意識に都合の良い御言葉を取ってしまう。それゆえ、右でも左でも、白でも黒でも御心のままでOKですと、自分自身を明け渡し、委ねよう。

私の願いを横に置いて、主は私に何を願っておられるのか、その視点に立って、尋ね求めよう。主も「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」と祈られた。私の願いがあり、その願いをお献げする事ができる。その時、主の御心へと導かれる。
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どこまでも自分にこだわっていては御心はわからない。自分の強い思いも正直に御父に打ち明け、白でも黒でも御心のままにと祈っていこう。祈りの中で強い思いを砕いて下さる。


2012年08月19日(日)

「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエス はすべての人を知っておられたからであり」ヨハネ2:24


多くの人々が主を求めて、主を追い回しているのは、主ご自身を求めではなかっ
た。「パンを食べて満腹した」の通りに、主がされる奇跡を求めて、自分の願望
を満たしてもらうために、後をついていた。ただ、自分の欲望が満たされたいが
ためだった。

私たちの信仰が、自分が中心に回るなら、自分の願いが満たされている間は、主
につき従う。つまり、自分の思いと合致している間は良いが、思い通りにならな
い途端、離れ去る。従う意味がないからだ。群衆がそうであり、ユダがそうだっ
た。

ユダは、主がローマ帝国を倒して、主の王国を築くと思い込んでいた。それが主
は十字架へと向かわれ、自分の思いと違うとわかった時に、主を見限った。私た
ちは、何のために、主に従っているのだろう。パンのため、自分の利益のためだ
ろうか。それなら、自分に不利益になった途端、従うことをやめる。

軸が自分なので、自分に損か得かで動く。損になるのに、何のための信仰かとい
う事になる。主は信頼に足る信仰を探しておられ、信頼できる信仰に、ご自分を
任せようとしておられる。

つまり、主を自分の得のために利用するのでなく、主が神であるゆえに、どうれ
あろうと従って行こうとしている人に、ご自身を現される。その人は、どんなに
自分に損失になろうと、試練の中も、苦しい中も主に従って行く。何があっても、
どんな時も、従って行く。

・・・・・・・・・・・・
どこまでも自分軸で、自分に益か不利益か、得か損かで、御心も量ってしまう。
それなら一生、主との深い喜び溢れる交わりや、大海のような平安、安堵を経験
する事がない。「自分中心です。損得です」から祈り始める時、主と真に触れて
行く。御霊が導いて下さる。


2012年08月18日(土)

「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたを のろうのを聞かないためだ」伝道7:21



有名な寓話がある。ある親子がロバを連れて旅をしていた。通行人が言った。
「せっかくロバを連れているのに、誰も乗っていないなんて!」父親は「そう
だ」と思い、息子を乗せた。すると通行人が言った。「何と親不孝な息子だ。自
分がロバに乗って、父親を歩かせるなどと」。

そう言われた息子は降りて、父親をロバに乗せた。別の通行人が「何てひどい父
親だ。自分がロバに乗って、息子を歩かせるなど」。それで、親子でロバに乗っ
た。すると今度は、「何とひどい!あんなロバに、2人も乗るなんて」。

親子はどうして良いかわらず、2人でロバをかついだ。人を気にして生きると、
どこに向かうかわからない。羅針盤を失った船のようだ。私たちが気にするのは、
人の言葉でなく、「神の言葉」だ。主はどう思っておられるのか。御言葉と人の
言葉と、どちらが行動する時の基盤になっているだろう。

又、人のことばの中には、のろいがある、とある。相手が意識的にせよ、無意識
的にせよ、あなたを意味もなく傷つける言葉を、心に入れてはならない。
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ・・詩と賛美と霊の歌
とにより、感謝にあふれて心から神に 向かって歌いなさい」御言葉を一心に心
を留めて行く時、感謝と賛美が溢れ、他人ののろいに心煩わされ、振り回される
事から守られる。

又、自分自身も、人に向かって語るなら、人を傷つけ問題が起こるような事は、
人に向けず、主に語り、主に聞いて頂こう。

・・・・・・・・・・・・
人の言葉で、思い煩ったり、悩んだり、不安になったり、恐れたりがどんなに多
い事だろう。「いちいち心に留めるな」と主が言われる。今日一日、御言葉を心
に思い、反すうし、何度も何度も思い続けてみよう。喜びが溢れて来る事を経験
する。


2012年08月17日(金)

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」ヨハネ15:9



エデンの園で、アダムとエバは、どの木からも思いのまま食べて良い、しかし、善悪の知識の木からだけは、食べてはいけないと命令されていた。すべての木は食べて良く、たった一本の木だけだった。だが、サタンは悪意を持って巧妙な言い方をして来た。「どんな木からも食べてはならないと、神は本当に言われたのか」と。

どの木からも自由に食べて良い、一本だけ禁止されたのを、すべてが禁止かのような、思わせぶりな言い方をした。そして暗に、神はお前たちを愛してなどいるのではない。善悪を知るようになられるのが嫌なのだと、何か下心があるような物言いをした。悪魔はここでも見るように、神は愛ではないと執拗に暗示して来る。もろに神の愛を否定して来る。

試練の時は、苦しみを与える神は愛ではない。神が愛なら苦しめなどするはずがない。悪魔の語りかけに耳を傾けて行く時に、その通りだと同意してしまう。その思いの目で状況を見る時に、神が愛だと思えなくなる。又、この上に成育歴や、古い人による根深い価値観が加わるので、神は愛ではないと欺かれてしまう。

こんな時こそ、見た感じや、思いに騙されないで、「信仰による価値観」に立つことだ。「神は愛」だと言われる。自分の感覚でなく、御言葉を選択し、そこに立ち続けることを選択する。その時、神視点に立ち、信仰によって、神が愛であることが見えて来る。
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問題が起これば誰しもパニックになりサタンの煽りにつぶされそうになる。問題に立ち向っている兄弟姉妹が隣にいないだろうか。神の愛、神の守り、哀れみ、全ての神の御約束に立っておれるよう、祈り励まそう。


2012年08月16日(木)

「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた」ヨハネ6:21


嵐の中、暗闇の中、湖上を歩いて来られる主を見て、弟子たちは驚き、恐れた。ぼうっと向こうから来るものが、幽霊に見えた。主は「わたしだ。恐れることはない」と御声をかけられ、弟子たちは主を舟に迎えた。「そして、舟に乗り込まれると、風が止んだ」。主が舟に乗り込まれた時に、嵐は止んだ。

私たちが、心を開いて、事態の中に主を迎え入れることが大切だ。弟子たちは目的地にほどなく着いた。この実地訓練を通して、主は弟子たちに教えようとされた。私たちも様々な悩みや苦しみ、困難に遭遇するが、その苦しみの中に主を迎える時、ほどなく目的の地に着く事になる。

ある人が経済的苦境に直面し、不安で不安でたまらず、恐れで一杯になった。その時に、御言葉を思い出し、弟子たちが主を舟に迎えた時に、岸に着いた。自分はこの苦境の中に主をお迎えしていなかった。今、この事態にあなたをお迎えしますと祈った。主に委ねた時に、心がすう〜っと平安になった。主がおられるから、大丈夫だと思えた。あの不安の嵐が嘘のように、心がなぎになってしまった。そして、不思議な方法で経済的必要は満たされた。

心を開いて、主を迎え入れることが大切だ。今、目の前に問題の嵐が来ているだろうか。自分で何とかしようと、焦り、もがいていないか。自分でどうにかしようとする事を止めて、主にお委ねできるよう祈ろう。
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生活の中で起きてくる心配事や恐れを一つ一つ主に祈り、波、風の中に主をお迎えしよう。私達も日々の信仰を試す実地訓練に、主と共に勝利でき、大きな祝福となりますように。


2012年08月15日(水)

「わたしは人からの栄誉は受けません。ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません」ヨハネ5:41

私たちの、生まれながらの性質は、神の言葉に従わない。従いたくない。自然体で行くと、思い通りに肉の好きなように生きて行く。それがフィットして心地良い。「偽りを捨て・・真実を語れ」との御言葉があるが、「うそも方便、うそをついた方が対人関係うまく行くからいい」と、自分の思いを取り、神の言葉を捨ててしまう。神の言葉は都合が悪いからだ。

例えば、はっきりと信仰に立たねばならない時に、この場では、あいまいにしておいた方が、角が立たなくて良い。対人関係がうまく行くと、カメレオンのように、自分を変えて、その場に合わせてしまう。しかし、結局、後で窮地に陥ってしまう事になる。そして、御言葉でなく、人に合わせると、その中にいる限り、肉の安心感がある。人の間で、うまく事が運べばそれでいい、一見、うまくやって行けるように見えるので、余計、神の言葉を受け取りにくくする。

又、それは人前を繕い、人に良く見せようとする。ありのままの姿でなく、人前に演技する。神の言葉でなく、人にどう見えるかで生きて行くので、ますます自分で、本当の自分がわからなくなる。そして、それは自分の栄誉のために生きるので、神を愛する事から離れて行く。自分はどうだろう。御霊から示され、常に御言葉に従うよう軌道修正して行けるように。
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人の評価や賞賛を気にし、簡単に感情は流される。世から出たものにも、しっかり望みを置いている者だと認め、流されず神の御心を求め行う者になりたい。いつも変わらない神の愛と平安に守られていよう。


2012年08月12日(日)

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全 うされるためなのです」ローマ8:4



ある人が、神学校に入学して、学びを始めたが、様々な事でギクシャクした。若
く、物事に批判的であり、対人関係もうまく行かなかった。自分は正しいと思っ
ているので、相手がおかしいとしか見えなかった。どこまでも自分は正しいと思
うので、ますます独善的になった。あらゆる事に反抗的であり、しかし、平安は
全く無かった。

そんな状態が続き、心が苦しくてたまらず、主の御前に祈った。静まり、祈って
いた時に、「なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたに
とって痛いことだ」との御言葉が臨んだ。御言葉に向き合う中で、自分の姿が見
せられた。

周囲を見下し、自分こそが正しいと思っている高慢な自分、思い通りにならない
状況を人のせいにし、恨みや憎しみを募らせて、攻撃的になっている自分。初め
て光の中で、自分の姿を見せられ、強烈な自我を示され、心から悔い改めた。砕
きを経験した。

その時から、周囲の人を愛して行く者に、自分が変えられて行った。「自由を与
えられるために召されたのです。その自由を肉の働く機会としないで、愛をもっ
て互いに仕えなさい」。愛をもって仕えて行くことを教えられた。

「律法の全体は、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという一語をもって
全うされるのです」「御霊によって歩みなさい」。主は、私たちの自我を砕いて、
御霊に満たされて歩む者へと導いて下さる。御霊によって歩む時、自分の力でな
く、御霊が助けて、愛せるようにして行って下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
自分の力、肉の力では、従うことが出来ないという事を知らされる。「出来ませ
ん」と認めて行く時に、御霊の助けが来る。自分の力で出来なかった事が、御霊
によって成し遂げられて行くことを経験する。
★申し訳ありませんが、明日からスタッフが出ますので、2日間お休みさせて頂
きますm(_ _)m


2012年08月11日(土)

「彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからで ある」マルコ6:51



湖の上を歩いて、弟子たちのもとに来られた主を「幽霊だと思い、叫び声をあげ
た」「みなイエスを見ておびえてしまったからである」なぜ、主が幽霊だと思っ
たのだろう。「その心は堅く閉じていたからである」とある。心が堅く閉じてい
たからだと。

主を見ても、主だとわからなかった。認識できなかった。まず、主が湖の上を歩
くなどと、発想も、考えもなかった。「彼らの心中の驚きは非常なものであっ
た」なぜ主が湖の上を歩くはずがないと思ったのか。弟子たちは、主は偉い先生
だが、人間だとしか思っていなかった。

主を正しく認識していなければ、間違って認識していれば、助けを受けることが
できない。主を小さく見積もってしまうなら、様々な目の前の問題に、「これは
難しいだろう」「これは助けてもらうのは無理」と決めつけ、不信仰の暗闇に落
ち込んでしまう。

嵐に飲み込まれ、沈み込んでしまう。不信仰は主の力を制限する。私たちはどう
だろう。この程度なら、主も可能だろうが、こんなに難しければだめだと、自分
で判断し、思い込みがないか。「いくら主でもこれは無理」との思いが心の底に
無いか。

それこそが心が「堅く閉じている」状態だ。それなら、主が助けに近づかれても、
主を恐がり、怯えてしまう。自分が主の上に立ち、判断している事に気づこう。
主に心を開く時、全能の主が、かたわらにおられる事に気づく。問題に主を迎え
る時、風がやむ。心に平安が臨む。

・・・・・・・・・・・・
自分でも気がつかないが、「この問題は、主にも無理、どうにもならない」と無
意識に思っていると、信仰でなく、不信仰なので、主を閉め出してしまう。心を
固くし閉じている自分に気づこう。そのままを主に告げ、問題に主に来て頂こう。
主に渡して行くと、次の展開を見て行く。


2012年08月10日(金)

「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7:7


主は、切に求める者に、答えて下さる。そして、ご自身の御心を示して下さる。「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」と言われる主に、どんな時にも、諦めずに求め続けよう。田原米子さんの証しがある。生きる気力を失い、自殺を図り、身体に障がいを負った。そんな時、宣教師と伝道に来た青年田原さんと出会った。その後、米子さんは主を信じ、やがて、田原さんから結婚の思いを告げられた。

しかし、片足義足で、手は片方しかなく、3本の指しか残っていない。この身体で、助け手となれるのか。結婚生活ができるのか。様々な不安や恐れの中、とにかく、この結婚が主の御心かどうかを、二人で真剣に祈った。祈りに祈っていた時に、米子さんに御言葉が与えられた。「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえて下さいます」。

それが、全く同じ日に、田原さんにも同じ言葉が与えられた。別々に祈っていた中での出来事だったので、二人は主の御心を確信して、結婚を決心した。主は求めに答えて、御心を示して下さる。人生の重要な局面においては、真剣に導きを求めよう。主は答えて下さる。祈りを積んで行くと、これは神にしかできないというような事が見せられる。そして、主の御心を知ることができる。
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求め祈り主から受け取る答えは、何があっても揺らがず自分の中でいつまでも確かな礎となっている。何事も主を通して求めて行こう。そして本当に必要なものを受け取ろう。


2012年08月09日(木)

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」ガラテヤ5:25


御霊に導かれて歩むには、まず、御言葉が大切だ。主は御言葉に反した導きをされる事は決して無い。御霊の導きと、御言葉は合致している。御言葉と相反する導きは無い。御霊は、御言葉を通して語りかけられる。大切な局面では、御言葉が与えられるよう祈ろう。又、御霊は環境、状況を通して、御心を示される。それは御霊の働きだ。

パウロの一行がアジアで御言葉を語る事を禁じられ、ムシヤに面した所に来た時、ビテニヤの方へ行こうとしたが、それも禁じられた。そこでムシヤを通り、トロアスに下った。そこで幻を通してマケドニヤへ行く事を確信した。あちこちと進路を止められる事により、残った道へと進んだ。状況により、御霊が導かれるということだ。

私たちの状況をよく見ていよう。御心の進路は開かれるが、御心でないなら、道は必ず閉ざされる。状況により、御霊の導きを知ることができる。自分の思いが強い時には、気づかぬまま、自分の主観に飲み込まれてしまうかも知れない。信頼できる導き手の助言を求める事は有益だ。彼らの様々な経験を通っている。一緒に祈ってもらうと良い。

御心は一つであり、御心なら御霊の一致があるはずだ。「神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」。御霊の導きには、混乱ではなく、必ず御霊の美しい秩序がある。そしてそこには平安がある。御霊は私たちを御心へと導かれる。
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肉はいろいろ考えるが、御霊の導きを求めひとつ心で祈っているなら、御言葉、状況から一致したひとつの道が見えてくる。共に祈っている誰もが主による確かな導きを受ける。迷っているなら御霊の導きを共に祈ってもらおう。


2012年08月07日(火)

「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと・・そのようなことを心に留めなさい」ピリピ4:8

少し離れた所で、2、3人が喋っていて、こちらを見ている。そんな時、どうだろう。「私の悪口を言っているのでは」と思うだろうか。出勤して挨拶が無かった時、「何か嫌われる事をしたのか」「変に思われてるのでは」、家族の帰りが遅いと「何か事故では」だいたい人は悲観的に、悪い方へ考えると言われている。

流されるままなら、ネガティブ思考へとどんどん向かう。そんな時、不安や恐れをかき消そう、かき消そうと、もがくと、余計に、はまり込んで行き、最悪のシナリオが出来上がる。不眠の時に、「眠らなくちゃ〃」と焦ったり、又、不眠の事を考え出すと、ますます眠れなくなる時のようだ。もがけば、もがくほど、更に落ち込んで行く。

そんな時、「真実なこと」「誉れあること」「正しいこと」「清いこと」「愛すべきこと」「評判の良いこと」「徳と言われること」「称賛に値すること」に心を留め、目を向けて行くことだ。ネガティブな思いを無くそうと頑張るのでなく、積極的な御心にかなった思いを心に招き入れ、その思いで満たして行く。その時に、自然にネガティブな思いが消え去る。

「主のおしえを喜びとし、昼も夜も口ずさむ」とあるように、御言葉を口ずさむ、賛美する、祈る、恵みを数える、感謝する。それを行ってゆく時に、心に喜びと平安が来る。
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感情的にはどうであっても、御心に叶った思いで満たし心を守られよう。落ち込みやすい状況になると、感情から主へ目を移そう。砦となるみ言葉を口ずさみ主の平安を取り戻そう。


2012年08月06日(月)

「ヘロデがヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである・・非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」マルコ6:20



ヘロデは、ヨハネを正しい人と恐れ、保護していたのに、殺してしまった。なぜなのか。「王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、人々の手前もあって」とあり、ヘロデは、自分はヨハネを正しいと知りながら、人目を気にして、人の手前、ヨハネを殺してしまった。

ヨハネの 語る神の言葉を聞いていながら、自分の立場を守り、周囲に体面を保つために、ヨハネを抹殺してしまう。ヘロデは、ただ神の言葉に喜んで耳を傾けるだけで、応答し、悔い改める事がなかった。又、神の言葉に自らを従わせ、方向変換するという事をしなかった。ヘロデには権力があり、娘の願いを退けることができた。にも関わらず、娘の言う事に従ってしまった。

ヘロデは、人々の前に、自分を守り、神を恐れず、人を恐れた。めんつを取り繕うことが最優先であった。私たちはどうだろう。他人の目に、自分が思う以上に拘束されているものだ。人への恐れのゆえに、事を誤って行く。それは神の言葉に喜んで耳を傾けていながらも、御言葉に従うことをさせない。

人への恐れは、内側に根深く培われている。まず気づきから始まる。ヘロデはヨハネの言葉を喜んで聞いていた。しかし悔い改める事は全く無かった。御言葉を喜んで聞いてはいても、御霊の示しに従わないなら、実を結ぶことがない。実を結ぶために、目の前の一歩に従う事が必要だ。
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人との摩擦を恐れ、いい加減に対応していると、望んでもいない結果、御霊の導きや御言葉とは違う所に連れて行かれてしまう。意識して御霊の促しを聞き、忠実に従って行こう。


2012年08月05日(日)

「主の指示をあおがなかった。ヨシュアが彼らと和を講じ、彼らを生かして・・」 ヨシュア9:14     

                
ギブオン人が、そのままではイスラエルに受け入れて貰えないので、計略を巡ら
した。変装し、ボロボロの格好をし、古びた物を持ち、遠国から来たと偽った。
そして、身を低くし、盟約を結んでくれるよう頼んだ。

ヨシュアが和を講じた3日後、実は彼らが近くの者で、自分たちの中に住んでい
る事を知った。だまされた事を知ったが、主にかけて誓ったゆえに、彼らに触れ
ることは出来なかった。その誤った判断をした時に「主の指示をあおがなかっ
た」。

祈らないで、御父と相談する事なく、勝手に判断してしまった事による失敗だっ
た。主の指示が無いのに行動して、大きな失敗をしてしまった。祈らないで事を
行なってしまい、悩みを招いてしまう。度々経験する事だ。自分の知恵や感覚に
頼ることの愚かさを学ぶ。

今、目の前の問題に、御言葉はどう言っているのか、主の御心は何か、祈って尋
ね求めよう。主の指示を仰ごう。肉で判断すると、欺かれてしまう。あなたも失
敗があるだろうか。しかし、その後が大切だ。全会衆はその事で、不平を鳴らし
た。だが、ヨシュアは、主にかけて誓った誓いのゆえに、彼らを生かしておく道
を選んだ。

失敗の上に失敗を重ねる事をしなかった。刈り取りをしつつ、主を仰ぎ、主に従
う道を選んだのだ。私たちも、失敗しても、そこで主から離れるのでなく、主を
見上げよう。十字架の血潮により、どんな時にも赦しが備えられている。悔い改
めて、従って行く時、主は、失敗をも尚も益として、祝福へと変えて行って下さ
る。

・・・・・・・・・・・
祈らずに、自分で判断し、行動して失敗することを経験する。その結果、痛い刈
り取りをする事になり、その度に祈ることの大切さ、主に頼る事の大切さを、身
をもって知る。サタンはそれらを奪い去るように働く。心して、主を仰ごう。


2012年08月04日(土)

「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじ ています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」Uコリント12 :10 

                         

主は「求めよ。そうすれば、与えられる」と、だから祈れと言われる。祈りを喜
んで下さる。そして、どんな小さな祈りも聞いていて下さる。ただ、時に、私た
ちの思いと、神のみ思いが大きく異なる。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり・・わたしの思いは、あなたがたの
思いよりも高い」の通りに。主のみ思いは遙かに高く深い。私たちには、自分の
強い願いがあり、願いの通りに叶えて欲しい。

しかし、主のみ思いは異なる。例えば、もし病になれば、病がいやされる事が、
祈りの答えだと思ってしまう。しかし、もし、病がそのままであっても、喜びと
平安を与えられ、感謝に溢れた人生を、生き生きと送れるようにされる、それが
答えであるかも知れない。

祈りが聞かれるとは、自分の願い通りになる事とは限らない。ある人が、自分に
は不都合な状態であり、厳しいマイナス状況だった。最初は状況が変えられるよ
うにと熱心に祈り続けたが、全く変わらなかった。
もし、このままの方が主の栄光が現れるなら、このままで良いです、御心のまま
にと祈りを変えた。その結果、状況は同じだが、御霊の平安と喜びに満たされた。

どうであれ、私たちの目標は、私たちの一生を通して、神の栄光が現れることだ。
パウロはトゲが取り去られるよう、真剣に、熱心に祈ったが、主は、それがある
方が、より栄光が現れると言われた。

ある人はトゲが取り去られ、ある人はそのまま残される。どちらも結局は、神の
栄光のためだ。主が与えて下さるものを、受け入れられるよう祈ろう。そこに、
この世の喜びではない、御霊の喜びを経験する。

・・・・・・・・・・・・・
信仰人生は、自分の思い通りではない事を、よく経験する。「〜こうなれば、万
事うまく行くのに」と思うが、主のみ思いはしばしば違う。遙かに高いご計画を
持っておられる。今、目の前の現状を受け入れられるように、祈ることが、御心
かも知れない。


2012年08月03日(金)

「イエスは・・ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちは主を信じた」ヨハネ2:11


カナの結婚式で、主は、水をぶどう酒に変える奇跡をされた。その時に、手伝いの者たちに80〜120リットルの水がめ6ヶに、水を汲ませた。手伝いの者たちは、なぜ水を汲むのか、何の意味があるのかわからないまま、主が言われるので、言われた通りに水を汲んだ事だろう。まさにその水がぶどう酒に変えられた。

世話役や結婚式に出席している人々は、何もわからないまま、知らないまま上等のぶどう酒を味わい、楽しんだ。そこに神を認めることは無い。しかし、弟子たちは違った。それが主のみわざと知っていたので、「それで、弟子たちはイエスを信じた」。

主は日々、私たちの日常生活の中で、みわざをなされ、働いておられる。しかし、主を認めなければ、それは偶然であり、たまたまそうなったのであり、運が良かったのであり、主に感謝することなど無い。私たちはどうだろう。日々、主のご愛や配慮を認めることなく、起きる一つ一つの出来事を偶然として、流していれば、世話役や人々と同じだ。

そうでなく、この1日は主から来ていて、主から家族が与えられ、仕事が与えられていて、状況、環境も主の御手の中だ。当然ではなく、当たり前ではなく、主からのものだ。そこに焦点を当てて、この1日を見る時に、弟子たちのように、主のみわざを認めることができ、感謝が溢れ、更に主を信頼して行くことになる。
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誰が水をぶどう酒に変えたか知っていたことが、水を汲んだ者達への大きな報いと恵みだ。私達も日々、主が全てに関わって下さることを知っている。感謝して生きていこう。


2012年08月02日(木)

「彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです」詩編5:9



人を賞めることと、へつらいの違いは、難しい。判断には、御霊の導きが必要だ。へつらいには、個人的な肉の欲望があり、そこには罠がある。人はもとより、自分自身も、相手をほめているつもりが、実は、自己中心な欲を満たすために、自分の利益のために、人にへつらっている事がないだろうか。

自分自身にも肉の性質があるからだ。そして、自分のへつらいは、なかなか自分でも気づく事ができないものだ。この世では、自分の地位につながる、出世のための処世訓だったりする。余りにも普通であり、意識にも上らないかも知れない。しかし、そこには真実がない。

当時、ダビデの周囲にも、気に入られたいと、へつらう者どもが群れをなしていた。へつらいの言葉は虚しい。そのような関係は利得で成り立っている利害関係であり、自分に得るものが無くなるや、消えて無くなってしまう。

ダビデは、「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし」と、朝明けに、真実な主と真実な交わりにより、心の内をことごとく告げ、絶えず心新たにされた。日々の主との交わりにより、「へつらい」から守られ、「口に真実」が置かれる。「御霊の実は・・誠実です」誠実の実を結ばせて下さる。又、人からのへつらいも見分けさせて下さる。
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何気なく相手に言っている言葉も、自分を有利にするためならへつらいだ。朝、御言葉を読み祈るために時間をとりたい。主との交わりで心を満たされ、主の守りをうけ、自分を自分で守らず誠実に真実だけが語れるよう祈りたい。


2012年08月01日(水)

「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」マタイ15:27

カナン人女性が、主に、助けを叫び求めた。「主よ。ダビデの子よ・・娘がひどく悪霊に取りつかれている」と。しかし、主は、無言であった。余りにも叫び求める母親に、弟子たちが閉口し、何とかしてくれるようにと願ったほどだ。そんな必死な母親に、主は「イスラエル以外には遣わされていない」と冷淡にも見える応答をされた。女性は異邦人であり、ダビデの子よ、と言う立場にはない。

主は正しい道筋に導いておられた。しかし女性は、尚もひれ伏し助けを求めた。すると主は「子どもたちのパンを小犬にやれない」と断られた。実は、主は彼女の信仰を試しておられたのだ。それに対し彼女は「主よ。その通りです」と認めた。怒りもすねもせず、不信仰に陥ることもせず、自分は異邦人であり、資格のない現実を、まさにその通りだと、へりくだってまっすぐに認めた。

しかし、そこで引き下がるのでなく、更に求めた。「小犬でも食卓から落ちるパンくずはいただく」と。女性は、与えられるはずのない救いだが、主はあわれみのお方と信じた。それゆえ主にすがりついた。主は、ここに拒否されても〃、尚も求める「信仰」を見られた。主はその信仰を賞賛され「あなたの信仰は立派です。願い通りになるように」と、娘は完全に癒された。「へりくだり」を教えられる。そして自らの立場を認め、しかし、まっすぐに、主は良くして下さると、尚も主を信じて行く「信仰」を教えられる。
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願いが叶わなければ次を求めて去って行くのではなく、主にのみ救いがあるとの強い確信で、どこまでもへりくだり主に叫びながらついて行こう。主は見ていて下さり、聞いていて下さる。