2012年09月30日(日)

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して は、イエスはこのようなたとえを話された」ルカ18:9


パリサイ人は極めて宗教的であり、道徳的な人々だった。外側は、
人に害を加えるわけでなく、姦淫せず、断食し、よく祈り、十分の
一献金をしていた。外側、大変立派な人物だ。しかし、心では自分
を正しいとし、人を見下していた。人と比較して、自分を量ってい
た。神に対してでなく、どこまでも人に対しての自分だ。そこに神
は無い。

人と比べての自分がすべてだ。人より優ると優越感、人より劣ると
劣等感に陥る。生涯、優越感と劣等感の間を行き来する。このパリ
サイ人は、神の前にいると思っているが、見ているのは、ただ、人
だけだ。あの人より自分はまし、この人ほど悪くないと、常に、人
と比べて自分を量り、自分の正当性を保っていた。

取税人は、どう見ても明かな罪人だった。ローマ帝国の手先となり
同胞から税金を取り立て、私服を肥やしていた。そんな彼には、た
だ神と自分しかそこになく、人の事など思いも及ばなかった。真に
神に向き合う時、自分の本当の姿が見えるので、罪が見える。見え
るので、悔い改めることができる。そして完全に赦される。

視点が神でなく、人に向いているなら、自分の姿はいっさい見えず、
暗闇の中だ。だから自分を誇り、高ぶるばかりだ。この箇所により、
パリサイ人は、何とひどい。私はこのようなパリサイ人ではないこ
とを感謝しますという、自分がいる。
肉はどこまでも巧妙だ。神に向いて、光に照らされよう。そこにい
つも救いがあり、自分が変えられて行く。

..................................
主に向いて、御霊に導かれる時は、ただただ自分の姿が見えるばか
りだ。自分の罪が見えて、悔いくずおれる。そこに人はない。その
罪は赦され、きよめられ、心に平安があふれる。自分は喜びと平安
に満ちる。


2012年09月29日(土)

「『歩きながら、ふたりで話し合っているその話は、何のことですか。』すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった」ルカ24:17


エマオ途上の二人はどんな気持ちだったろう。とぼとぼと、足取り
も重く別に郷里に帰ったところで、何があるわけでもなし、失望と
落胆、うつろな心だったろう。現に主の復活が起きて、罪も死も飲
まれ素晴らしい勝利が輝いている、それが現実なのに、今それを手
に出来るのに、彼らは下を向き、空虚な、暗い重苦しい中にいた。

まさに「暗い顔つき」だ。私達の姿だろうか。思い煩いと不安と不
信仰の中にいるだろうか。よみがえりの主が、私達のかたわらにお
られるというのに。「目がさえぎられていて、イエスだとわからな
い」、御言葉を信じないという事だ。主のよみがえりを信じない。

不信仰の目には、主が見えない。しかし、主はそんな弟子の、私達
のかたわらを歩んで下さっている。それゆえ主は御言葉を説き明か
された。その御言葉に真剣に聞き入った時に、暗い落ち込んだ重い
心が「うちに燃えていた」。

失望落胆や疑いにある時、主の語って下さる御言葉に耳を傾ける事
だ。信仰は聞く事から始まり、聞く事は御言葉による。御言葉を受
け取る時、信仰が与えられる。振り返る時どうだろう。何度もダウ
ンするが、主が語られる御言葉によって、もう一度引き上げられた
のではないか。ダウンしている最中も、主は変わることなく、あな
たのかたわらにおられる。

..........................
エマオへの途上、主ご自身が近づいて、彼らと共に歩かれた。失望
落胆の時、暗い顔つきの時、私たちを引き上げようと、主が近づい
て、かたわらで語りかけられる。主のほうから近づいて下さるとは
何と大きな慰めだろう。何と感謝なことだろう。






2012年09月28日(金)

「四十歳になったころ、モーセはその兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました」使徒7:23


王子モーセは、40歳の時に虐げられている同胞を救おうとした。が、失敗した。地位、権力、富、人脈、何もかも持っていたに関わらず、出来なかった。パロに命を狙われ、ミデヤンの地に逃れた。エジプトでの栄華を極めた生活とは一変、何も無い荒野での遊牧民となった。地位も名誉も富もすべてを失い、ただの羊飼いとなった。そして結婚し家庭を持った。かつての栄華も幻のごとく、羊飼いで一生を終えるかと思われた頃、40年後、神の時が満ちた。主の御声が臨んだ。

「さあ、行きなさい。わたしはあなたを遣わそう」と。以前は自分で出て行ったが、今度は神が遣わされると。天と地の違いだ。ここから学べる。すべてに神の定めた「時」がある。その「神の時」より以前に幾ら動き回り、事を起こしても成就しない。「神の時」には、すべてが完璧に整えられている。モーセは荒涼たる荒野での40年が、主の取り扱いであった。モーセは砕かれた。

以前なら自分こそがふさわしい、自分以外に誰がとの思いであったろう。しかし、来る日も〃も羊を飼う40年の歳月、野心も失せ、家族があり、ここで生を終えるのも小さな幸せと思っただろうか。40年後の無力な年老いたモーセこそがふさわしいと。主の見る目は違う。40年をかけて器を整えられた。今、思うようにならなくとも、主のご計画の内にあり、主の時がある。だからこそ忍耐できる。
-------------
無力な者、最も小さな者と、自分を認めることができるまで、神様は私達をも待っていて下さる。神様のご愛と忍耐を思う。今思うようにならない事があるなら、自分の内の何かを整えられるための大切な時ではないだろうか。


2012年09月27日(木)

「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げ・・」詩篇37:34


私たちの信仰生活の中で、難しい事の一つが、「待つ」ことだと言われる。世の中ではスピードが求められる。今、すぐに欲しい。すぐに手に入れたい。すぐに知りたい。待てない。すぐに出て来るファーストフード、自販機でお金を入れると、すぐにジュースが出る。24時間営業のコンビニがあり、いつでも、即、欲しい物が手に入る。各自が携帯を持ち、リアルタイムでメールが行き交い、便利な時代だ。欲しいものが、すぐに持てるので、「待つ」ことは非常に難しい。

信仰生活においても、すぐに目に見える結果が欲しい。すぐに導きが知りたいし、すぐに祈りの答えが欲しい。祈りの答えが少し長引くと、もう信じる事ができない。思い煩いに陥り、不安と恐れにさいなまれる。目に見えないものを信じる事が難しい。主は少しづつ学習させて下さる。目に見えないものを信じて行く練習をさせて下さる。

なかなか答えが来ない祈りに対して、焦らずに、「待つ」練習をする事が必要だ。じっと待つ中で、主に思いが集中されて行く。焦点が主に向けられて行く。忍耐が培われる。待つことなしに忍耐はあり得ない。今、先が見えず、祈りの答えが見えないなら、じっと待とう。主を待ち望もう。自分で動き回らず、ただひたすら主を待とう。そうするなら必ず、主が動かれ、導きを与えて下さる。
------------
待てない自分の中に、どうしても欲しい答えがあったり、不信仰な自我があらわにされる。待たされる時も主の導きの中だ。主を待ち望もう。主の導きだけに従えるよう整えて下さる。


2012年09月26日(水)

「アビガイルはダビデを見るやいなや、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した」Tサムエル25:23


ダビデと部下は、羊を飼っている間、ナバルのしもべ達を守り、親切を尽くしていた。そこで祝いの時に、ナバルに手元にある物を与えて欲しいと申し出た。しかし、ナバルは「ダビデとは一体何者だ」と拒否し、侮辱で返した。善を悪で返したナバルにダビデは怒り、剣を取り出陣した。それを知った若者が、ナバルの妻アビガイルに、即、行動を起こすように告げた。

聞いたアビガイルは急遽、パン、ぶどう酒等、大量の贈り物を用意して、すぐにダビデのもとに詫びに出た。事態を悟った彼女の敏速な行動は、ダビデの皆殺しの報復をとどめた。時に、的確な判断と速やかな行動が必要だ。すぐに行動しなければ、手遅れになる。アビガイルは聡明であった。その聡明さは事態を理解し、率直に詫びた事にも表れる。

ダビデを前に、地に伏して「はしためのそむきの罪をお赦し下さい」と謝罪した。夫のせいにせず、へりくだって、妻としての責任を認めて、詫びた。そして、無駄に血を流さぬよう、感情的になり自分で復讐して、つまづきにならぬようにと進言した。神の祝福を失ってしまうと。

神を畏れるダビデは、我に返った。アビガイルの判断に感謝し、復讐を止めて下さった神をほめたたえた。「あなたの願いを受け入れた」と耳を傾けたダビデも聡明であった。私たちも御霊の判断を祈ろう。導きがあれば、敏速に行動に移そう。神の栄光を見る。
-----------
自分のすることがいつも安定を欠いているように思うが、神様の喜ばれる歩みをと意識しているなら、今、成すべき御霊の示しに敏感でいられるのではないか。成すべき判断や決定がいつも時にかなったものであります様に。


2012年09月25日(火)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」Tヨハネ1:9 


ダビデはバテシバとの姦淫とウリヤ殺害の罪を犯したが、自らは王であり、トップだ。その罪を隠ぺいした。人々の目からは、うまく隠せても、心に欺きがある時、まず自分の心に喜びと平安が失せ、気力も無くなり、重苦しく、心に「死」がしのびよる。自分の罪を見たくないので、言い訳や弁解に終始し、自分を正当化しようとする。罪を隠し、口をぬぐい、何もなかったかのように繕うのは、罪の性質だ。

罪を隠すために嘘をつく。そして、一度嘘をつくと、その嘘を隠すために、更に嘘を重ねる。最初は、嘘だと認識していたはずが、段々、何が真実であったのか、自分でもわからなくなる。どれが嘘で、どれが真実かがわからない。こうなると、聖霊の御声もわからなくなる。ダビデも、罪を隠そうとするほど、主の御手が重くのしかかって来た。苦しい葛藤の中で、「骨髄は、夏のひでりで乾ききった」。

そんな中、ナタンによって罪を指摘され、自らの罪を告白した。その瞬間、罪が赦された。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し」、ダビデが直接的に罪を犯したのは、バテシバとウリヤだった。しかし、それは神に対して犯した罪だと。その罪を悔い改める時、全き赦しを与えられるとは、何という恵みだろう。罪の赦しは、罪を「認める者」に与えられる。
-------------
人の前に罪を隠し通すことはダビデには出来ただろう。でも神の前に罪を犯しているからこそ苦しんだ。私達も日々、罪を犯しながら生きている。神の前に罪を犯したことを悲しみ、悔い、神によって赦される感謝をもって生きて行きたい。


2012年09月24日(月)

「イエスは弟子たちに『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われた」マルコ4:35


夕方になり、段々日も暮れて来る頃に、主はガリラヤ湖のこちらから、「向こう岸に渡ろう」と言われた。舟に乗り込むや、極度の疲労にあった主は、とものほうで熟睡された。その時に、大嵐に会い、弟子たちは右往左往、パニックに陥った。舟は波をかぶり、水がいっぱいになり、このまま行けば沈没だ。自分たちは溺れ死んでしまう。

しかし、主は、そんな大嵐の中、全き平安と安堵で、何の心配もなく眠り続けておられた。なぜか。「向こう岸へ渡ろう」との御言葉だった。御言葉は100%成就する。途中で何があろうと、必ず実現する。そして、主が乗られた舟が、沈む事などあり得ない。沈む事のほうが不可能だ。主が「黙れ、静まれ」と風をしかりつけた時に、湖は静まった。主と弟子たちは、向こう岸に渡り着いた。

ところで、今、あなたにも嵐が襲っているだろうか。対人関係の悩み、信仰上の問題、自我との戦い・・。主は、あなたに言われている「さあ、向こう岸へ渡ろう」と。何かを捨てる事、献げる事だろうか。誰かを赦す事か、あるいは、謝罪する事だろうか。新しい環境に進む事だろうか。一歩前進を備えておられる。自我を砕き、向こう岸へ渡ろう。波や、風をなぎにして下さる主が同船しておられる。あなたにとっての「向こう岸」は何だろう。
------------
目の前の問題や、弱い自分だけを見て勇気を失ってはいけない。主が向こう岸に渡ろうと言われたからには必ず渡れる。渡る意志をはっきろと主に告げ全てお任せして祈ろう。渡り切るまであきらめず、主だけを見て祈り続けよう。


2012年09月23日(日)

「あなたのおことばどおりこの身になりますように」ルカ1:38

    

マリヤはナザレの田舎で暮らすごく平凡な女性だった。ヨセフと婚約中で喜びの
中にいた。「男の子を産みます」という突然の事態に「どうしてそんなこと
に・・」マリヤは、なぜ自分なのかと大きな戸惑い、恐れ、不安に襲われる。これ
はマリヤが望んだ事でも、選んだ事でもない。神が一方的にマリヤを選ばれたの
だ。

そして「あなたは、神から恵みを受けたのです」と、この事態は神からの恵みだ
と。御使いとのやりとりの末、「神にとって不可能なことは一つもありません」
との言葉により、マリヤは決意し、「この身になりますように」と神に身を差し
出した。

マリヤの信仰だ。その結果、マリヤは結婚していないに関わらず、主を宿すこと
ができた。マリヤの計画、マリヤの思い、努力ではなく、一方的な神のご計画、
神の御心、聖霊の力により、子供を宿した。これを恵みと言う。

今、あなたの目の前に、何らかの御心が示されているだろうか。マリヤに何もか
もが備えられていたように、あなたが御心に進むなら、すべての必要はすでに用
意されている。

「喜びなさい。恵まれた方、主が共におられる。あなたは神から恵みを受けたの
です」。神のあなたへの御心は、あなたへの恵みだ。今、一歩進むように導かれ
ているなら、マリヤのように、「お言葉とおりにこの身になりますように」とへ
りくだって、献げて行こう。

・・・・・・・・・・・・・
主に示される御心の一つ一つは、一見、非常に困難に思えることもあるが、実は
大きな恵みだ。「おめでとう恵まれた方」「あなたは、神から恵みを受けたので
す」。受け入れ、従って行く時、御霊が成し遂げられる。又、そのプロセスの中
で、主ご自身を知って行ける。


2012年09月22日(土)

「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりも やみを愛した。その行ないが悪かったからである」ヨハネ3:19



時に、信仰から離れる人々を、見聞きする。「対人関係で問題が起きた」「人に
つまずいた」「神につまずいた」など様々言うが、しかし、御言葉によると「悪
いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光の
ほうに来ない」とあり、光のほうに来ないのは、「自分の行ないが悪い」、自分
の内に悪があるからだと。

悪があるから、光を避け、光から逃げると。「しかし、真理を行なう者は、光の
ほうに来る」。主を信じる時、御霊に導かれて行く。御霊に導かれた歩みの中で、
正直になりたいと願う。真理を行なうとは、正直になることだ。

自分の罪に気づいた時、弁解、言い訳をしたくなる。「状況が状況だったから」
「相手だって悪い」「疲れていたから」と、自分を正当化したい。誰しも自分の
罪を認めたくない。罪を認める事は痛い。しかし、そうするなら光を拒んで行く。
それはやみの中だ。

しかし、どんなに痛くても、正直に罪を認める事は、光に来ることだ。「憎んで
います」「妬んでいます」「偽りました」「従いたくありません」と正直に、自
分の姿を認める時、主の血潮によって、赦され、平安にされる。光に来るなら、
更に光で罪が照らされ、赦され、きよめられて行く。そして、更に、正直に歩む
ようにされて行く。

・・・・・・・・・・・・
主だけを見て、どんな中でも主に従いたいと願う者を、人がつまずかせる事はで
きない。誰も出来ない。その人は光の中にいるので、絶えず自分が見える。自分
の姿を正直に認め、主との関係が正しいので、平安がある。対人関係でつまずく
自分にプライドが潜んでいたりする。


2012年09月21日(金)

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」伝道7:14     

   
                          
人生には必ず「順境」があり、そして「逆境」がある。主がそのようにされるのであり、どちらも主が与えられると。しかし、この世では異なる。「逆境」を恐れ、逆境にならないために、信心する。家内安全、商売繁盛、無病息災、安産祈願・・、悪い事が起こらないための宗教だ。信心していて、悪い事が起こるなら、何のための信心かと世の人は言う。信心している意味がないと。どこまでも自分が中心で、自分の利益のための神だ。

しかし、逆境が、神のなさる事であるのなら、必ず良いものだ。そこには主の目的と意図があり、計画がある。主は逆境を通して私たちを練り、きよめ、造り上げて下さる。成長させて下さる。後の日に「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言わせて下さる。何という恵みだろう。「あなたのおきてを学んだ」と。「逆境」が神から来ているのであれば、私たちに恐れはない。

「後の事をわからせないため」と、後の事は、御手の中に伏せておられる。もし、いつ病気になるか、失業するか、いつ死ぬか、予めわかったらどうだろう。自分や家族の死ぬ日がわかっていたら?主は告げられない。いつも、どんな時も、主を見上げ、主に信頼して、平安に歩むためだ。先の事は、主に委ねて生きる時、常に平安の中に守られる。
-----------
どんなに思い煩おうと、私達には明日を知ることは許されていない。逆境の日も順境の日と同じように、神が量って与えて下さったと信じて受けよう。不安は消える。主に信頼し、御霊にはげまされて今の一日を歩もう。


2012年09月20日(木)

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」箴言19:21


人には、多くのプランがある。あれをしたい、これをしよう、様々な思いがある。「しかし主のはかりごとだけが成る」の通り、御心だけが成る。ある人が、主のためにと、あれこれ考え、計画し、実行していったが、全く道が開かれない。身動きが取れなかった。真に、主の計り事だけが成ることを実感させられと。

「国々の民の計画をむなしくされる」肉の計画、自分から出た思いは成らない。「神から発し」たものだけが「神によって成り、神に至る」。「御心の計画は代々に至る」。ヨセフは兄達たちの妬みを買い、隊商に売られ異国の地へ。孤独、不安はどんなものだったろう。しかし、そこで忠実に仕え、主人に全財産を任せられた。「主が共におられたので」が鍵だ。これは主による事であった。

次には、無実の罪で投獄に。しかしそこでも「主が共におられ、監獄長の心にかない」全囚人の管理を任された。やがて出獄かと思いきや、献酌官長との約束は忘れられ、尚も2年が過ぎた。神の時は何と長い。結果的に2年だが、その渦中では、どんなに試された事だろう。

最終的に総理大臣となり、飢饉からヤコブ達を救う事になる。命を救うための神の計画であった。ヨセフにも自分のプランがあったろう。しかし、神の計画を歩み、信仰も品性も練られ、使命を全うできた。肉の計画は虚しい。神のプランの道は永遠に至る。神の御心に従って歩めるよう祈ろう。
-------------
肉のプランに執着していると御心がわからない。今、自分は、どの部分を歩ませられているのだろう。長い主のご計画の中を主と共に、御心の中心を歩んでいけるよう祈ろう。


2012年09月19日(水)

「悪人どもの道にはいるな。悪人たちの道を歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ」箴言4:14


罪には一時の快楽がある。罪は楽しい。もし、罪が苦いものであれば、こんなにも罪の問題は起こらない。人は簡単に罪に陥ってしまう。罪は心地良く、甘い。サタンは私たちを誘惑し、惑わす。「食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする・・いかにも好ましい」罪を素晴らしい、魅力的な、麗しいものに見せて欺く。

サタンの言葉を受け入れて行くと、そうしか見えなくなる。エバが蛇の「決して死なない」「神のようになり、善悪を知るようになる」一つ〃の言葉に耳を傾けると「そこで女が見ると、その木は」良いものに見えた。もう行動に移る事は時間の問題だった。「それで女はその実を取って食べ」た。

サタンは罪を良いものに見せる。罪は快適であり、欺かれていて気づかない。サタンの巧妙な策略だ。良いものに見せるので、御心をそれていながら気づかない。何の問題もなく、人生うまく行っていると、ハピーだと思っている。しかし、御言葉は、はっきりと言う。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる。肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取ると。

これは原則であり、必ずそのようになる。御霊のために蒔くなら、御霊から永遠の命を刈り取る。とにかく神から離そう〃と、誘惑し、攻撃して来るサタンに心していよう。サタンに聞いてはならない。罪とわかっていて、戯れ、もて遊んではならない。自分のほうが飲み込まれてしまう。拒否し、避け、退けよう。
-------------
苦しい罪なら近づかないが、自分にぴったりの魅力的な罪だから惹きつけられる。それは神から少しだけ離れてやってみたい自己実現だろうか。たいしたことないとのサタンの声をすぐに主に渡していこう。


2012年09月16日(日)

「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そ こはマラと呼ばれた」出エジプト15:23


イスラエルの民がエジプトを出て、紅海を渡り、三日間荒野を歩いた。水が無か
った。マラに来たが、そこの水は苦くて飲めなかった。すると、民はモーセに不
平不満をぶつけた。「何を飲めば良いのか!」と。「モーセは主に叫んだ」、
モーセは、民の不満に対応する前に、まず主に祈った。

その時、一本の木を示されたので、水に投げた。すると水は甘くなった。民は偉
大な奇跡により、出エジプトを果たしたすぐ後、荒野で出くわしたのは苦い水だ
った。私たちも「マラ」に遭遇する。順調に日々を送っている中で、突如、「マ
ラ」に出くわす。経済的困窮、対人関係の悩み、仕事上の失敗・・。

主が与えたものであり、主が解決して下さる。モーセは、民の不平に対応せず、
まず主に祈った。祈った時に解決方法を示された。私たちも問題が来た時に、動
く前に、何よりもまず「祈り」が一番だ。祈りにより、主が解決の糸口を与えら
れる。

まず主に叫ぼう。又、一本の木とは主の十字架であり、主ご自身だ。困難な問題
の中に、主が来て下さると、苦きが、甘いものに変わる。

ある人は、対人関係で、赦せない思いに苦しんだ。自分が辛く苦しくてたまらな
い。主のもとに行き、心の内を洗いざらい告げ、自分では不可能であり、しかし、
この「マラ」を助けて欲しいと、叫んだ。祈る中で心に奇跡が起き、相手が良く
してくれた一つ〃が思われた。そして赦す事ができた。

・・・・・・・・・・・・・・
心の苦みはどうすることもできない。憎しみ、敵対心、裁き、妬み・・自分では
どうにもならない。一本の木、十字架のもとへ行く時、必ず変えられる。御霊の
力により、奇跡が起きる。赦し、感謝、平安に心が変えられる。


2012年09月15日(土)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」詩篇 55:22


ここ詩編55篇で、記者は、仲の良かった友から裏切られ、胸も張り裂けんばか
りに苦しんでいる。苦しみも喜びも共にして来た同輩である、親友が自分を攻撃
して来る。それも最も恐ろしい敵となって立ち向かって来る。いかばかりの悩み、
苦しみ、恐怖だろう。

又、敵の迫害もあり、「私の心は、内にもだえ、死の恐怖が、私を襲っている。
恐れとおののきが私に臨み、戦慄が私を包んだ」とあるがままの、おびえた心の
状態をそのまま告げている。荒野へ逃げたいと、その荒野こそが私の逃れ場と。

自分で何とかしようとせずに、まず主にあるがままの心をことごとく吐き出し、
告げる事が大切だ。その祈りに主は答えて下さる。私たちも、不安、恐れ、煩悶、
思い煩い、すべてをありのまま、主の前に吐き出す事が、どうしても必要だ。

主はそれらを受け止めて下さる。「私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくだ
さった」著者は、主に受け止められ、救われた。「夕、朝、真昼、私は嘆き、う
めく」通りに、ことごとく吐き出す時に「主は私の声を聞いてくださる」祈りが
聞かれているという、心奧深くに確信を得た。

主の救いを経験し、はっきり主との交わりを得た著者は「重荷を主にゆだねよ。
主は心配していて下さるから」と確信持って言えた。著者のように「私は苦しん
で、心にうめき、泣きわめいています」と、そのままの気持を告げて行こう。

・・・・・・・・・・・・・・
神に呼ばわることが大切だ。嘆きも、うめきも、不安も、心配も、思い煩いの何
もかも、主に告げよう。「主は、私を救って下さる」本心をあるがまま告げて行
く時、救われる。心がすっきりし、重荷をおろし、安堵が来る。状況は何も変わ
らなくても、心に平安が来て、主の不思議を経験する。


2012年09月14日(金)

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」イザヤ55:8



私たちは、今まで生きて来て、様々な人生経験を持つ。その経験から、あるところまでは、こうすればうまく行き、こうすれば失敗するとわかる。親が子供に、良かれと思い、ああしろ、こうしろと、うるさく口出しするのは、ある程度、自分の経験でわかるからだ。しかし、時に、主の言葉は、その私たちの経験と真逆のことを語りかけて来る。

例えば、経済的に困窮して来た時には、経験によるなら、とにかく支出を抑えて、収入を増やす事が鉄則だ。まず、献金を渋るかも知れない。ところが御言葉は真っ向から正反対の事を言う。更に献げよと。そうするなら豊かになり、増やされると。経験による知識はそんな事があろうかと思う。しかし、理解できなくても、語られた御言葉に従う時、実際に思わぬ所から豊かに与えられて、主の言われた事が本当であり、真実だと驚く。


主の言葉と自分の経験が異なる時、大丈夫なのだろうか、うまく行くのだろうかと、不安になる。「立ち返って、静かに」「恐れないで、ただ信じていなさい」に、事を起こさなくて、自分が動かなくて、信じているだけで、本当に大丈夫なのかと。
しかし、理解できなくても、自分の経験と合わなくても、従う時に、大きなみわざを見る。主は私たちの理解を越えている。自分の経験による知識だけで生きるなら、主を知ることが無い。御声に従ってみよう。
---------------
神様を信じているつもりでも実際は、信仰と自分の価値観の二本立てで歩んでいることが、問題に出会うとはっきり示される。「神の道は異なる」だから信じて従えますようにと祈るところからはじめたい。


2012年09月13日(木)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6


信仰生活の中で、様々な試練に会う。そんな時、不平不満でいっぱいになるだろうか。「何で、こんな事になるのか」「神が愛なら、どうしてこんな状況を許されるのか」「何で、何で」・・。試練は主から来るが、試練の時は、同時にサタンも強く働く。主から離そうとし、不信仰に陥らせようとする、その事を覚えていよう。

「神が愛ならこんな事にならない、愛されてなどいないんだよ」とささやいてくるサタンに耳を貸してはならない。「行く所どこにおいても」どんな状況であろうと、「主を認めよ」。主を認めて行く時に、サタンの足場を崩してしまう。ヨセフは、激しいアップダウンの人生であった。隊商に売られ異国の地に、しかしそこで一転、主人から信任受け、全財産を任されるほどに。しかし、又もや順境から一転、無実の罪で、奴隷以下の囚人に。しかし、又又一転総理大臣に。


ヨセフは父親から引き離され、頼るものが何もない中で、主だけが頼りで、主に拠り頼み、信仰が培われて行ったのではないか。波瀾万丈の人生の中で、アップの時もダウンの時も、良い時も悪い時も、苦しみの時、困難の時も、そこに「主を認めて」行った。砕きの御手も認め、だからこそ、ヨセフは祝福され、豊かな実を結んで行った。「どこにおいても、主を認めよ」そうすれば、道をまっすぐにして導いて下さる。今、目の前の出来事に、主を認める必要があるだろうか。
---------------
いつでも、どこにおいても自分の限界を認めよう。主のご支配の中でゆだねて行く時に、アップダウンの道に主が臨在される確信を与えられる。知恵のない者、力のない者で本当に感謝だ。


2012年09月11日(火)

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33


主は、神の国とその義とをまず第一に求めるようにと、言われた。そうするなら、神の国と義を与えられ、それに加えて、生活の必要もすべて与えられると。これをよく逆にしてしまう。子供が菓子についている、おまけが欲しくて、菓子を買いあさり、おまけを集め、大喜びし、菓子など見向きもしない。

私たちはどうだろう。「それに加えて与えられるもの」を、求めて必死になっていないだろうか。生活の必要のため、又、それ以上の、より豊かな生活のために、欲しいものを目の色を変えて追い求める。本末転倒で、与え主のことは見向きもしない。名誉や地位、人からの賞賛も欲しくて懸命に求めるのだが、主ご自身を求める事は無い。

おまけが欲しくて菓子を買う子供のようだろうか。神の国は、神の支配のことであり、主のご愛による支配に心を向けて行くことだ。神の下さるものではなく、神ご自身に心を向けて行くことが大切だ。その時に初めて、思い煩いも心配も解決して行く。「何を食べるか、飲むか、着るか、心配するのはやめなさい」。

主を求めないで、「それに加えて与えられるもの」を求めて行くなら、人生最後まで、思い煩いから解放される事はない。的がずれていないだろうか。主を第一にして行く時、「あすの心配は無用」であり、その日〃の労苦により、達成感、充足感を与えられ、喜び持って生きて行ける。
----------------
神のご支配を認め、神のご支配を求めて行くなら、自分でまだ来ない先の日々を思い煩うことから守られる。あれが欲しい、あれをしようと自分の明日を支配しするのをやめよう。神の与えて下さる明日は完全だ。


2012年09月10日(月)

「ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです」ヘブル4:2 

 
イスラエルは、主が乳と蜜の地カナンに導くと約束して下さったのに、入る事が出来なかった。それは不信仰のゆえだった。導き入れるとの、主の言葉を聞きながら、心を頑なにしたためだ。「もし御声を聞くならば・・心を頑なにしてはならない」のように、御声を聞くなら信仰をもって、受け入れる必要がある。語られた御言葉をないがしろにしているなら、そのままでなく、自分の心も固くなり、ますます頑なになって行く。

私たちはどのように聞いているだろう。主が御言葉を語られた時も、聞く人の心は様々であった。素直に受け入れる人、単なる好奇心だけの人、反抗的な人、傍観者として、他人事のように聞き流す人・・。又、石地のように、喜んで聞くが、自我にぶつかると、自分の思いのほうを通して行くだろうか。そんな心が耕される必要がある。頑なな心が砕かれる時、素直にされる。砕きは祝福だ。御声を聞く時、主の言葉を、その通りにそのまま受け止め、信じて行く事が信仰だ。

この世は、目に見えるもの、手でつかむ事のできるものを確かなものとする。私たちは、目に見えないが、御言葉を真実なもの、確かなものとする。そして、その語られた御言葉を、行なってゆくことが大切だ。実行して行く時に、初めて御言葉が身につき、そして豊かな実を結んで行く。私たちはどうだろう。ただ聞いて、通り過ぎているだけだろうか。心して受け止め、目の前の御声に従おう。
-------------
目に見えるものと、神の御言葉はいつも全く違う。御言葉を自分に語られた神の言葉として信じきろうとしなければ、何一つ固い自我は変わらず、同じ問題にいつも苦しむ。今日も目に見える生活の中で、神の言葉を疑わず信じて従おう。


2012年09月09日(日)

「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません」Tヨハネ 2:10   


兄弟を愛する者は、「光の中にとどまる」人であり、決してつまずくことがない、
とある。人がつまずくのは、光の中にとどまらないゆえとなる。「光の中にいる
と言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいる」闇の中にい
るしるしは、兄弟への敵対心、憎しみ、さばき、非難、悪口だ。

兄弟への憎しみがあるなら、私たちはやみの中にいる。幾ら、自分は光の中にい
ると言っても、御言葉がそう告げている。逆に、兄弟を愛しているなら、その人
は闇の中ではなく、光の中におり、真っ直ぐに歩んで行けると。

自分が苦しく、辛くなる時、相手や状況のせいだと思う。腹が立つ相手、又、苦
しい状況のために辛くて、落ち込んでいると。しかし、実はそれは原因ではなく、
自分と主との関係が原因だ。問題はあなたと主との関係だ。人や状況が、あなた
と主との関係をさえぎる事など不可能だ。

喜びと平安が無いのは、神以外のものを求めるところから来ている。目が神以外
のものに向いている。人の愛を求め、人に認められる事、人の評価、賞賛を求め
ている。心が神以外のものに向くなら、必ず不平不満、妬み、競争心が出て来る。

闇の中にいるからだ。心が暗く、苦しくなる時、まず自分と主との関係に目を向
けよう。そこが平安になると、光の中だ。状況がどうであれ、つまずく事なく、
まっすぐに歩んで行ける。

・・・・・・・・・・・・・・
罪を悔い改めて、悔い改めて歩む時、赦され、ずっと光の中にとどまることがで
きる。人や状況は自分に何もできない。どんな状況の中でも、主との関係が正し
いなら、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」主の平安が与えら
れる。


2012年09月08日(土)

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」ローマ12:15



泣く者といっしょに泣くのは、日常生活でも経験する事がある。映画を観て感情
移入して泣く。余りにも悲惨な報道にも、同情やあわれみの気持ちが出て来る。
又、泣く者と共に泣くのは、自分が優位に立っている事なので、まだ出来やすい
と言われている。肉にでもできるのだ。
しかし、これは御言葉の言っていることではない。御霊の導きによるものでは無
く、相手の慰めにはならない。御霊に導かれない限り、何一つできない。

そして、喜ぶ者といっしょに喜ぶことが、非常に難しいと言われている。肉には、
根深い妬みの性質があるからだ。どうしても比較で人を見てしまい、シーソーの
ように感じ、誰かが賞められたなら、自分がけなされたと思ってしまう。

誰かに幸せな事があるなら、羨ましさで一杯になる。同期の者が、先に出世した
らどうだろう。素直に喜べるだろうか。妬みが出て来てしまう。ある人が友人が
合格で、自分が不合格だった時に、複雑な思いで、どうしても喜べなかった。

心重く平安は無い。主の御心は喜ぶ者と一緒に喜ぶことだ。「喜ぶ事ができませ
ん」と正直に祈った。すると、自分には出来ないが、意志を向けて、主に喜ばれ
る選択をしたいと、思いが変わった。そして、意志で祝福の言葉を伝えた。

すると、相手は非常に驚き、その事をことのほか喜んでくれた。相手は自分には
出来ないと言い、それは良い証しとされた。自分にはできないと、まず主に祈ろ
う。人にできない事が、主にはできる。

・・・・・・・・・・・・・
御言葉は、御霊によらなければ実行できない。どんなに頑張っても不可能だ。
「出来ません」「無理です」と、自らの姿を認めて、助けを求めて祈ろう。御霊
の働きにより、御言葉を実行させて下さる。自分の力でない、御霊の力を経験す
る。


2012年09月07日(金)

「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである」出エジプト3:12

80歳になったモーセは、神により、エジプトからイスラエルの民を解放する指導者として、召し出された。しかし、モーセは尻込みした。以前、若い時に失敗した経験があったゆえに、今さら自分に何ができようか、自分にできる事など何もないと思っていた。「彼らは私を信じず、私の声に耳を傾けない」と。

そんなモーセに、主は数々の奇跡を見せて、この働きは、神の力によるものである事を示し、促された。しかし、モーセは尚も、「私はことばの人ではありません。私は口が重く、舌が重い」と、うまく話す事などできないと弁解した。自分がいかに無力であるかを訴え続けた。

すると、主は「だれが人に口をつけたのか・・それはこのわたし、主ではないか」「わたしがあなたの口とともにあって、言うべきことを教えよう」と。あなたの口が重くとも、そのままで良い。わたしが教えるのだから。わたしは、弱いあなたをそのまま用いる事ができると。

用いるお方は、全能の主である。この働きは、わたしの働きだと、主は言われる。召し出されたからには、必要な力、知恵、導きを与えて下さる。大事な事は、何にもかもご存じの上で、主が、主のご意志で、モーセを選ばれたということだ。「わたしはあなたとともにいる」と。もし、あなたも今、新しい導きを受けているなら、すべての必要と力は主から来る。信仰もって従い、一歩を踏み出そう。
-------------
私達に献げるものが十分に備わってから従うのではなく、献げる心があれば、弱いままで新しい豊かな地に入っていける。主を信じてこのままの自分を献げよう。


2012年09月06日(木)

「そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ」マタイ14:32




弟子たちが舟に乗り込み、向こう岸へ渡ろうとしていた時に、嵐に会った。舟は陸からもう離れていて、引き返す事もできず、湖で立ち往生だ。暗闇で、波と風に襲われ、どんなにか恐怖であったろう。そこに主が来られた。そして、ペテロと共に、主が舟に乗られると風がやんだ。「彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた」の通り、目的地に着いた。

この箇所で、主が舟に乗られると風が止んだ。つまり、問題の中で、心を開き主を受け入れる時、風がやみ平安が臨む。目の前に、問題が来る。その一つ〃に無意味なものはない。主が目的と意図を持ち送っておられる。何かを教えようとしておられ、その問題に主からのメッセージがあり、伝えたい事がある。そのために送られている。その問題を主からのものと、受け入れる時に、状況と自分だけを見ていた目が、主に移り、神視点で見える。平安が来て、教えようとしておられる事を悟れる。

ある人が、主のためにイベント準備中に、病に倒れ入院となった。「何で?この時に?こんな事に?」心がざわついた。心照らされ、自分がその祝福の場におれない事に、反抗的になっている姿を見せられた。悔い改め、状況を主からのものと受け入れた時に、すうっーと平安になった。そして祈りの奉仕を示され、病室で祈り、その祈りは見事に答えられ、イベントは大いに祝福された。
-------------
どんな状況の中でも主と共におれば、心は凪となると頭でわかっていても、まずは状況と心が一致してしまい、恐れや不安にのみ込まれそうになる。問題が起こるたびに、すぐに主のご計画を信じられるよう祈り、主と共にこの問題の中にると覚えよう。


2012年09月05日(水)

「イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである」出エジプト40:38


イスラエルの民は荒野にある間、雲の柱、火の柱をいつも見ていた。進む事にも、とどまる事にも、常に指示があり、雲と火により明確な導きがあった。いつも主を見、その導きを見ていた。「雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった」とあり、主が止まられる所で、しっかりとどまった。

私たちはどうだろう。止まる事が苦痛で、どんどん自分で旅を続けたいと思ってしまう。前進したいと思う。しかし、主がストップさせられている時は、主と共にとどまろう。そんな時こそが大切で、その所で主は様々な事を教えて下さる。無駄にとどめておられるのではない。御心があり、その中で学べる事がある。今、ストップがかかっていたら、じっと待とう。待つべき時には、自分で動かない事が大切だ。動き出したい誘惑と衝動が来るが、じっととどまろう。必ず主の時に、御心の時に、事は動いて行く。

ある人がなかなか道が開かれず、待ちくたびれて、自分が進みたい道に、合致する御言葉を勝手に取って来て、御心だと思い込もうとした。しかし、そんな事は、心の深い所に平安無く確信も無かった。そんな自分を明け渡し、右でも左でも御心のままにと、自分の好みでなく、ただ御心を示されるよう祈った。そしてどんなに時がかかろうと、御言葉が与えられるまで、静まって待とうと決心した。その時に初めて、心の平安を経験した。
-----------
前進したいとの強い思いをとどめて、じっと待つのは苦しい。しかし、私達の時は御手の中だ。確信のみ言葉を与えられるまで待とう。永遠かとも思える待つ時間も、すでに神の恵みの時だ。


2012年09月04日(火)

「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」U列王7:19

人々が飢饉で、次々餓死する非常事態だった。食物が全く無い中で、エリシャが主から示され「明日、小麦や大麦が売られるようになる」と告げた。すると侍従が、「主が天に窓を開かれても、そんな事があり得ようか」と言った。その時エリシャは、あなたはそれを見るが、食べられないと預言した。

そんな時、サマリヤの門に四人のらい病人がいた。町は飢饉、どうせ自分達は死ぬ。同じ死ぬなら、敵の陣営へ入ってみようじゃないか、食料があるかも知れないと。敵の陣営では、神が大軍勢の騒ぎを聞かせ、襲撃に勘違いさせた。アラムは驚き恐れ、慌て、陣営を置き去りにし逃亡した。そこには、山ほどの金銀、溢れる食料があった。彼らは、王家に知らせた。

王は信じなかったが、偵察により事実を知った。すると、その時に大勢が殺到し、その侍従は踏みつけられ死んだ。預言通りになった。実際、溢れる食料を神は用意された。しかし、それを信じなければ、自分のものにはならない。溢れる食料が目の前にあるのに、飢えて死ぬ事になる。

私達はどうだろう。十字架の救い、神の愛、恵み、罪の赦し、義とされる事・・、溢れる恵みの中で、不信仰で餓死寸前ではないだろうか。自分で恵みを阻止する、自分の姿ではないか。すでに莫大な食料が目の前にある。信じようとしない、自分に気づく事から、祝福は始まる。
------------
壁の向こう側に主の溢れるばかりの恵みが備えられているのに、目に見える現実と自分の思いだけにどうしても捕らわれてしまう。私達も侍従長を決して笑えない。状況の中で神を信頼して、み言葉の約束を選んでいこう。


2012年09月03日(月)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


ある人がクリスチャンとして、学校で証しを祈っていた。クラブの部長になり懸命にクラブ員のために労した。そんな中、体調崩し、入院となり、退院後もしばらく治療に通院する事に。皆に迷惑をかけるので、一旦部長を辞退し、代わってもらった。やがて、身体も回復し、活動に復帰できるようなった。

クラブに戻った時に、ザワつく自分の心を認めざるを得なかった。皆が、新しい部長と和気あいあいとやっていて、今まで自分の所に相談に来ていた人たちが、皆そちらに行っていた。こんなはずではない思いが出て来る。妬みと寂しさでいっぱいになり、孤独感で落ち込んだ。

何も無い時にはわからなかったが、自分は嫉妬深く、プライドが高く、虚栄心が強く、いかに自我が強いかを思い知らされた。それまでは自分は、他人を思いやれる、良い子だと信じ込んでいた。主の御前にことごとく打ち明け、悔い改めた。そして自分自身を明け渡した。その時、今まで感じた事のない、平安が心いっぱいに広がった。初めて真の平安を知った。

喜びが来て、主を第一にして生きて行きたいと思った。自分自身が新たにされ、主に従いたいと思え、病も、これらすべての事も感謝できた。新部長の良き助けになり、支えて行きたいと心から思えた。何と心が変えられた事だろう。その事がまた感謝であった。
----------------
主がへりくだられたように自分も主に従って生きたいと思うとき、邪魔になる大きな自我がある。様々な取り扱いの中で主が示してくださる自我を逃げずに認め、主に渡し、主に習うものになりたい。


2012年09月02日(日)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇3 7:4:4



「主をおのれの喜びとせよ」とあるが、私たちは、何をおのれの喜びとしている
だろう。それは、心の底では、何を求めて生きているか、となってくる。自分の
願望、欲望が成し遂げられる事だろうか。欲しいものを手にすることが喜びだろ
うか。

ここでは自分の願望や、欲しいものでなく、「主を」となっている。私たちの心
の奧を真に満たすものは、この世の与えるものではなく、主ご自身であるからだ。
真の満足と、本当の幸福は、主ご自身からしか来ない。欲しいものを手にした時
に、一時的な喜びがあるかも知れない。しかし、それは続くものではない。

経験あるだろうか。ある人が少年の頃、ギターが欲しくて〃たまらなかった。父
親が誕生日の贈物にすると言い、もう胸ワクワクで、その日を指折り数えて待ち
に待った。当日は喜び絶頂で、心踊り、授業も頭に入らず飛んで帰った。待望の
ギターを手にした。その瞬間だった。サアーと心が冷めてしまい、願望も失せ
て虚しさで一杯になった。自分でもわけがわからなかった。

その数年後、彼は主に出会った。初めて、決して無くなる事のない、泉となって
湧き出る、御霊の喜びを経験した。真の喜びは、主のみから来る。そして、主の
下さるものでなく、主ご自身を第一に喜びとして行く時、主のお心にそって求め
て行く事になる。そのため、御心にかなった願いをする事になるので、叶えられ
て行く。

・・・・・・・・・・・・・
本音の喜びは何だろう。表向きでなく、本音は何を求めて生きているのだろう。
自分の願望、欲望が満たされるなら、幸せになれると勘違いするが、そうではな
い。どこまで行っても満たされない。自分の欲望満足でなく、主の満足を求めて
行く時、自分は満たされる。


2012年09月01日(土)

「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラテヤ6:7


神は完全に罪を赦して下さる。二度と思い出す事なく無罪放免にして下さる。し
かし、だからと言って赦されるのだからと、罪を犯してはならない。決して恵み
を放縦に変えてはならない。どうせ赦されると安易に罪を犯してはいけない。

非行に走り、犯罪を犯した子供は、施設で厳しい矯正訓練を受ける。その親は、
迷惑をかけた人々への謝罪に奔走し、破損した物品には弁償金を支払い、あらゆ
る償いをする。そのように、傷害事件を起こした時、主の御前に悔い改めるなら、
完全に主は赦して下さる。しかし、法律上の刑罰を免れる事はできない。法に即
して罰を受ける事になる。

又、憎しみや敵対心で人を傷つけてしまったなら、悔い改めにより、主は赦して
下さる。しかし、一度壊れてしまった信頼関係を、再び築き上げるには、膨大な
労力と時間が要る。罪のもたらす傷や害は、私たちが思っている以上に大きい。

罪の結果は、自分だけにとどまらず、家族や周囲をも巻き込んで、傷を負わせて
しまう。決して罪を軽く見てはならないし、故意に罪を犯してはならない。しか
し、もし弱さのゆえに罪を犯してしまったなら、悔い改めて、赦しを受け取り、
主と共に刈り取ろう。主は豊かに赦して下さる。赦されるとは何という嬉しい事
だろう。
そして、主のあわれみは尚も尽きず、主にあるなら、その刈り取りをも、更に訓
練とし、祝福とし、成長へと変えて行って下さる。何と至れり尽くせりの量り知
れない恵みだろう。

・・・・・・・・・・・・・・
「蒔き刈りの法則」だ。法則なので例外がない。人は蒔いたものを必ず刈り取る。
罪は完全に赦されるが、自分も周囲も痛みを負うことになる。だからこそ主に祈
って、頼って、今日も歩もう。罪から守られる。逆に御霊のために愛や寛容、親
切を蒔いて行く時、それも刈り取る。御霊のために蒔いて行こう。




2012年09月18日(火)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩編51:17


エデンの園で、アダムとエバは神が食べてはならないと命じられた、善悪の知識の木から取って食べた。罪を犯した。その結果、主の御声を聞いて身を隠した。主のほうから声をかけられ「あなたは・・食べたのか」と問われた。主は、悔い改めの機会を下さった。その時に、「はい、食べました。ごめんなさい」と言うことができた。

しかし、罪を認めず、アダムは「この女が、くれたので食べた」とエバのせいにし、更には「あなたが私のそばに置かれたこの女」と、エバを置いた主が悪いと。エバは「蛇が私を惑わした」と蛇に責任転嫁した。何ということだと思うが、私たちはどうだろう。

例えば、床に置かれていた、ガラスのコップを蹴飛ばしてしまった。そんな時、こんな所に置く者が悪いと、些細な事でも、責任転嫁してしまう。自分を正当化したい。誰かが置いたかも知れないが、現にけったのは自分である事を、まず認める必要がある。

自分がした事と認める時、次に進める。そして、何より心はまっすぐであり、平安だ。何にも代えられない。様々な問題が起きるが、環境のせい、人のせいにしているなら、問題は全く解決しない。自分の問題としてとらえ、向き合う事が解決への道だ。悔い改める必要があるなら、悔い改めて行く時に、主の赦しにあずかり、主の恵みを実感して行く。一歩一歩成長して行く。
-----------
この世では失敗や弱さは否認し、無かったことにして次に進んで行くのかもしれないが、私達は真逆の道を行く。罪や弱さ、不信仰をしっかり、そのような者ですと神の前に認め、悔い改めて、悔い改めて、自分自身が変えられて行く道を歩む。