2012年10月31日(水)

「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」ルカ15:31


財産を使い果たし、放蕩して戻った弟息子を、父親は大喜びで迎え、宴会を開いた。ここに兄息子が帰宅するが、この事態を耳にし、怒りで震えた。自分は今まで遊びもせず、我慢して、父のもとで懸命に働いて来た。それを好き放題して、金銭に困ると戻る、身勝手な弟のために宴会などと何事か。納得が行かない。怒りがおさまらない。遊びもせず、ずっと働いて来た自分は何なのか。

弟の帰還で、外側は真面目で忠実な、兄の本音があらわにされた。「戒めを破った事は一度も無い」兄は自分を正しいとする人であった。そして、その本音は弟と同じだった。「私には、友達と楽しめと・・」実は、世を楽しみたかった。「子山羊一匹もらっていない」その心は、不平不満でいっぱいだった。父の愛が全くわかっていなかった。父のすぐそばにいたが、弟と同じく、心は父を遠く離れていた。

激しい怒りで、喜びと楽しみの、宴会の家に入ろうともしない兄は、暗やみの中だ。しかし放蕩息子を、無条件の愛で迎えた父は、兄息子をも同じ愛で愛している。兄の反発した態度や言動を「いろいろとなだめてみた」、決して責めも、とがめもせず、受け入れている。そして、更に「私のものは、全部おまえのものだ」と。「いつもいっしょにいる」と。辛くしんどい思いで主に仕えているなら、まず今のままで、無条件で受け入れられ、愛されているところに立とう。
------------
放蕩三昧のあげく帰って来た弟は、悪のはびこる世で真の喜びを知らなかった。私たちは神の側でいつも交われ、心は満たされている。感謝しよう。ただの習慣になってしまわないように。


2012年10月30日(火)

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」Tヨハネ1:8


人は誰しも失敗する。しかし、主は豊かに赦して下さり、益として下さるとは何という恵みだろう。その失敗から学べばよい。だが、いつまでもたっても同じ失敗をするのは、問題だ。痛い思いをし、次に失敗をしないように、気をつけているに関わらず、同じ失敗を延々繰り返す。問題はどこにあるのだろう。真に自分が悪かったと、認識していないからではないか。

本音では「自分のせいではない。仕方がなかった。どうしようも無かった。相手だって悪い」むしろ自分は悪くない、被害者だと思っている。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちの内に無い」自らの罪を認めず、罪は無いと言うので、自分を欺いている事になり、それなら真理は自分の内にないという事になってしまう。

又、真に罪を理解せずに、形だけ認めたとしても、赦しにあずかれない。仮に、自分では赦されたと自分でなだめても、主の御前に告白していないので、罪の赦しは無く、平安も無い。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っている」。しかし罪を告白するなら、全き赦しがある。

罪は御霊によって初めてわかる。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」言い訳せず、弁解せず、自分を正当化せず、主の御前に立とう。告白するなら完全に赦される。そこから新しくされる。
---------
失敗から学べず、自分の罪をごまかしているなら失敗したことにも目をそらしてしまう。闇の中に入ってしまう。御霊によって罪が示されるということはなんと深い神様のご愛で、感謝なことだろう。


2012年10月29日(月)

「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません」ピリピ2:21


八百万の神があり、小さい時からずっと偶像を見て育って来た日本人は、祈りにしても、くどくどと、多く祈れば答えられると勘違いする。数珠を繰りながら唱えたり、経本を時間をかけて唱える姿を見るので、それが祈りだと潜在意識にあったりする。しかし、主は、「あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要はものを知っておられる」愛と慈しみの主だ。くどくどと祈る彼らの真似をするなと言われる。

又、偶像は、どこまでも、自分のための神だ。商売繁盛であり、家内安全、五穀豊穣、無病息災、交通安全・・。ああして欲しい、こうして欲しいと願い、もし願いが聞かれないなら、そんな神は払い下げだ。そして他の神へと向かう。願いがかなわないような神は必要無い。欲しいのは、ただただ自分の願いを叶えてくれて、都合の良いように動いてくれる神だ。つまりは、自分を中心に人生が回って欲しい。

人生途上で神に出会ったクリスチャンも、長年培われた自分軸の根深い価値観が底にある。神は、あくまでも自分のためであり、祈りですら神を利用していて、気づかない。肉の価値観には、神の栄光のために、などという発想は無い。しかし、そこに気づいて、認めて行く時に、変えられて行く。御霊からの気づきが大きな祝福だ。気づきから始まる。自分のためにしか生きる事のできない者が、神のために生きて行く者へと変えられて行く。これこそ奇跡であり、大きな感謝であり、喜びだ。
---------
神のために自分があることをまず求める事が大切だと教えられる。どこまでも自分を優先している時に必ず平安はなくなり心に示しがある。一つ一つ取り替えられた歩みに進みたい。


2012年10月28日(日)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互い に人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


職場、近隣、学校で経験あるだろうか。どうしても嫌な人と出くわ
す。大嫌いな相手が目の前に置かれる。「相手の性格が悪い!」相
手さえ変われば、自分の日々は天国になって、何もかも変わるのに。

なのに、嫌な相手が現れる。人生途上の「あいつ」だ。職場や住ま
いを変わったとしても、又「あいつ」が現れる。又、嫌な相手が出
て来る。相手が変わりさえすれば、こちらだって態度を変える気持
ちはあるのにと。

こちらから折れる事はプライドが許さない。相手を変えよう、環境
を変えようと苦闘をする。しかし、不毛の戦いだ。今も、あなたの
「あいつ」が目の前に置かれているだろうか。人間的視点で見るな
ら、相手が悪いとしか見えない。しかし、霊的視点で見るなら、主
の取り扱いであり、主から来たものだ。受け止めよう。

そして、相手を変える事は不可能であり、変えることができるのは、
自分だけだ。自分が砕かれて、変えられるなら、変えられた自分は、
次に同じ問題が来ても、乗り越えて行ける。

しかし、自分が変わらなければ、又、別の場所へ行っても、同じ問
題に出くわし、同じ反応をし、同じ失敗を繰り返して行く。自分を
卑しくし、死にまで、十字架の死にまで従われた主を見上げ、「へ
りくだって」「互いに人を自分よりもすぐれた者と思」って行く時
に、実際の行動となってゆく。

・・・・・・・・・・・・・・
目の前の相手は、主の取り扱いだ。自分の成長のためだ。自分が変
わらず、いつまでたっても同じ事を繰り返すのは虚しい。取り扱い
にあずかろう。そうするなら、次に同じ事態が来た時に、変えられ
ている自分を発見する。、


2012年10月27日(土)

「・・私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを 保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨ ハネ1:7



人間である以上、誰しも失敗する。あなたも失敗した事があるだろ
うか。ある人が手痛い大失敗をしてしまった。よく考えもせずした
罪の行為に、後悔しても、しきれなかった。自分としたことが、何
と愚かな事をしてしまったのだろう。

自分では無いと思いたい。しかし、御霊に示された。紛れもなく、
それが自分なのだと。愚かな者であり、実際そのような者なのだと。
高慢を砕かれた。欲望のままに歩んでしまう、自分がいかに罪深い
者であるかを知り、砕かれた。

主の十字架が、まさにこの自分のためだと知らされた。それまで、
罪人と言われてもピンと来なかった。むしろ心の中では、自分は良
い人間だと思っていた。しかし、自分が罪を好み、自然にしていれ
ば罪を犯し、又、罪を犯しても、罪がわからず平然としている罪深
さを知った。

過失を犯してしまったが、痛く辛い所を通ったが、初めて十字架が
自分のためであるとわかった。人前にも、隠しようのない事が益と
された。人に知られて恥ずかしく、プライドは砕かれ、へりくだら
された。もし、人目に隠しおおせたなら、懲りずに、次はバレない
ようにやろうと考えたに違いない。

バレた事が悪いのであって、バレさえしなければ問題無いと。どん
なに罪深い者であるかを、主は教えて下さる。罪を認めて悔い改め
よう。罪の深さと共に、主の赦しを知り、主の恵みがどんなに大き
いかを知る。

・・・・・・・・・・・・・
光の中にいたい。御霊が絶えず罪を示して下さる。悔い改め、その
罪は完全に赦される。罪を犯してしまうが、赦されて赦されて、更
に主のご愛を知って行ける。罪がわかる事が恵みであり感謝だ。暗
闇の中なら罪がわからない。


2012年10月26日(金)

「何でも神のみこころにかなった願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14  

「求めなさい。そうすれば与えられます」。主は「求めよ」と言っておられる。「与える」からと。自分の必要や、願いを主に祈ればよい。そのようにして、今まで沢山の願いが叶えられて来た。「そうすれば受ける。これはあなたの喜びが満ち満ちたものとなるため」の通り、そこに主との交わりが生じて大きな喜びを与えられて来た。主は、愛していて下さるので、願いを叶えて下さる。

しかし、2歳の子供が、料理するお母さんと同じ包丁を求めたらどうだろう。決して与えない。しかし、遊ぶためのオモチャならどうだろう。親は喜んで与えてやる。ヤコブとヨハネが主のもとに来て「私たちの頼み事をかなえていただきたい」と願った。それは主の栄光の御座で、一人は右に一人は左に座らせて欲しいというものだった。しかしそれは叶えられなかった。

他の弟子たちを出し抜いての求めは、自分の栄光、自分の誉れのためであり、自分の欲望であった。私たちの動機はどうだろう。何でも求めてよいが、それを与えるか、どうかは主の判断にかかっている。主の御心なら与えられるし、御心でないなら、どんなに願っても与えられない。

どうしても欲しいものを祈り求めるが、なかなか答えられない場合は、視点を変えて、主の御心は何ですかと、尋ね求めてみよう。神の御心にかなった祈りは必ず答えられるので、自分の祈りを、御心にかなったものへと、修正して行ける。そしてその祈りは、すでにかなえられたと知る。
-------------
神が与えて下さるのは私達の最善だ。聞かれない祈りを待ちながら主に尋ねてみよう。純粋に神の御心にかなう祈りだろうかと。祈りの中で御心を知り主の最善を受け取ろう。


2012年10月25日(木)

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります」ヤコブ3:14


対人関係で、いじめに会ったり、又、批判や非難、攻撃を受けると、憎しみや恨みが生じる。自分が被害者だと思えて、どうしても相手が悪いとしか見えない。絶対に許せないと思う。心に根深く巣くう憎しみや恨みは、非常に危険だ。自分自身の心を傷つけ、人生を壊してしまう。相手でなく、自分を苦しめる事になる。

四六時中、心は牢獄に縛られ、苦しみでがんじがらめだ。常に心は重く、暗い。そして、その憎しみは、人生の秩序を狂わせてしまう。「苦い、妬みと敵対心・・そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」。その憎しみ、恨みは、悪霊に属するものと言っている。

憎しみや妬み、恨みは悪霊からのものであり、サタン的な力がある。執念深い、陰湿な呪いのようなものが湧き上がる。憎しみを抱き続けると、自分でコントロールできない力に支配される事になる。まずそれに気づいて、主に拠り頼もう。自分ではどうにも出来ない。しかし、出来る事がある。道が備えられている。

自分の内にある憎しみや、恨み、妬みを認めて、主の十字架を仰ごう。そこに救いがある。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら・・その罪を赦し」主の御前に罪を悔い改めるなら、赦して下さる。そして「すべての悪から私たちをきよめて」下さる。
十字架に解決がある。告白しよう。主が平安に変えて下さる。
--------------
目の前の相手次第で妬みや敵対心はすぐに湧いて来る。地、肉の知恵は、自分自身を更に傷つけて行く。憎しみを主に手放し、主からの知恵を受け取ろう。


2012年10月24日(水)

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え・・」ヨハネ14:26


様々な人から「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」との証しを耳にする。あの苦しみゆえに、神に真に向き合えた、砕かれ、虚飾をはぎ取られた。余裕がある間は、自分をガードし、装い、繕っているが、試練により何もかもはぎ取られ、自分の本当の姿を自分が知れた。

ある婦人は、嫁ぎ先で、ずっと良い妻、良い嫁を保とうとし、懸命に家事をこなした。姑にも精一杯仕えた。しかし、外側はうまく繕っていたが、本当は同居が嫌でたまらなかった。それが本当の自分であった。日常生活の中で、行き違いがあり、段々どうにも出来ず、苦しさ募り、主の御前に祈った。そんな時、丁度、仕事の関係で、姑とは別に暮らす事になった。

しかし、心は重く複雑で、御前にありのままの気持を広げ、祈り続けた。その中で、光のごとく御霊に示された。姑にずっと好かれていないと感じ、受け入れてもらえないと思い、辛く思っていた。しかし、そうではなく、実は心を閉ざしていたのは、自分のほうであったと。自分が姑を決して受け入れてはいなかったのだと。自分の姿を見せられ、自分の頑なさを、主に悔い改めた。心がすっきり晴れた。その頑なさは、姑との関係以前に、主との関係を曇らせる事になっていたと気づかされた。
-------------
御霊によって目の前の一つ一つの選択を主の喜ばれる方へと導かれる。私達の内が曇っていたらその導きはぼやけてしまう。御霊の導きがどこにあるかいつも祈り従いたい。


2012年10月23日(火)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:3


ある人の証しだ。信仰を持つ以前の自分は、自分の本当の姿を正視する事なく、常に自分を実際以上の者に見ていた。周囲の者より優れた者とし、優越感に浸り、人を見下していた。しかし自分の勝手な思い込みで、まさに高慢そのものであった。そんな自分なので、人の良さを認める事ができない、認めるなら、自分の価値が下がる事になる。人生は勝ち負けであった。

だから、決して自分の弱さも認められない。認めたなら負けであり、弱みを人に知られるなら、自分が下位になる。負けになるので、弱みなど絶対に知られてはならない。自分の弱さは極力隠す事になる。しかし実際は本当に弱いもろい人間であったと。

優越感と劣等感は表裏一体であり、優越感に浸れば、必ず裏返しの劣等感に陥る事になる。優越感だけを感じる事は出来ない。劣等感から妬みで苦しむ。仕事で不振が続き、成果が出せず、精神的にも追い詰められ、心身ギリギリの状態になった。

そんな時、友人に誘われ教会へ足を運んだ。スポンジが水を吸い込むように、初めて聞く聖書の言葉が心に響き、しみ入った。わけがわからず涙が出た。主に出会い、初めて主の愛を知った。常に競争社会の中で、肩を張り、突っ張っていた自分は、生まれて初めて心の安堵、平安を経験した。繕ろう事も背伸びする事もなく、自分が自分でおれた。主の愛に包まれ、愛の中で憩えた。
-------------
神様は、私自身を高価で尊い者として今も愛して下さっている。この世の価値観を絶対視しなくていいのだ。なんと感謝で平安なことだろう。世の価値観に舞い戻っている時には早く気づけますように。


2012年10月22日(月)

「それは、あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ」ヨシュア3:4


モーセの後継者ヨシュアとイスラエルの民は、ヨルダン川の川岸まで来た。約束の地に入るために、これからヨルダン川を渡らねばならない。特にこの時期、水はとうとうと流れ、1年中でも最も水かさも増し、満水状態だ。橋も船も無い。何の手立ても無く、どうすれば良いのか。ヨシュアは主からの言葉を民に伝えた。神の契約の箱が先頭に進み、二千キュピトの距離をおいて、その後ろを進むように。そうすれば、今まで一度も通ったことの無い道であるが、行くべき道はわかると。

つまり、神の言葉に従って行けば、理解を越えた未知の地、全くの未経験の地でも前進して行ける。進む道がわかる。神の言葉の後について行けば良い。そうすればあの不可能に見えるヨルダン川を渡れたように、どんな困難な中も歩んで行ける。又、「祭司たちが、契約の箱をかつぎ、先頭に立って渡るように」と。そしてその通りに従うと「祭司たちの足が水際に浸った時、水は完全にせき止められ、民は渡った」。

大事な事は、水がせき止められたから、祭司たちは足を踏み入れたのではない。とうとうと勢いよく流れる中に、足を踏み入れ、浸した。溺れ死んで不思議はない状況だ。しかし、ヨシュアも祭司達も主を信じた。踏み出した時に水がせき止められ、奇跡が起きた。大事なのは主の言葉だ。何も見えない中で、必ず道があると信じて進む時に、目の前に道が開ける事を経験する。
------------
生きておられる主の言葉を信じて、実際に一歩踏み出さないと、私達の信仰は力にはならない。今日一日も主は私達のために主の道に進むよう招いておられる。


2012年10月21日(日)

「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じてい ます。ところで、あなたは何と言われますか」ヨハネ8:5


律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕まった女を連れて来て、
主を罠にはめようとした。そもそも男女共有罪なのに、女だけを連
れて来た。「主をためして、告発する理由を得るため」だった。

モーセの律法の通り、石打ちの刑に処するなら、当時はローマ帝国
の支配下にあり、ユダヤ人にその権限は無かった。ローマの法を破
る事になる。又、主の「愛しなさい」「赦しなさい」の教えはどう
なるのか。逆に、もし、主が赦すようにと言うなら、モーセの律法
に反する事になる。

すると主は、あれかこれかの、二つに一つでなく、驚くべき第三の
答えをされた。「あなたがたの内で罪の無い者が、石を投げよ」と。
律法学者、パリサイ人たちの想定外の答えだった。主を告発しよう
とした者が、自分たちが告発される事になった。彼らはそれを聞く
と、一人〃と出て行き、全員いなくなった。

石を投げる事ができなかったわけで、なぜ投げられないのか、その
自分自身の姿に向き合う事なく、主の前から逃げ去り、自分自身か
らも逃げた。しかし「女はそのままそこにいた」、女は逃げなかっ
た。

その彼女に主は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今
からは決して罪を犯してはならない」と。姦淫罪の全き赦しを与え
られた。自らの罪を認める時初めて、主の愛に触れ包まれる。主の
もとには救いと問題の解決がある。ごまかさず、逃げずに、主に向
き求めよう。

’’’’’’’’’’’’
「わたしもあなたを罪に定めない」との言葉を受け取り、どんなに
喜びと安堵に満ちただろう。自己正当化や言い訳でなく、自らの罪
を認めて行く時、罪が赦され、何よりも主のご愛や慈しみを体験す
る。


2012年10月20日(土)

「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかっ た」出エジプト15:23



モーセを指導者として、神に導かれたイスラエルの民は、エジプト
を脱出した。奇跡により、紅海を渡り、荒野に入った。偉大な奇跡
を見て、喜びの叫びを上げ、賛美をした。3日間、荒野を進み、マ
ラに来た。その間、水は無く、マラの水に大喜びした事だろう。

しかし、そのマラの水は苦くて飲めなかった。民は失望落胆し、指
導者モーセにぶつけ、つぶやいた。私たちもどうだろう。自分の思
うようにならない時、いら立ち、人を責めて、不満をぶつける。不
満をぶつけられたモーセは、自分で対応せず、主に祈った。

私たちも目の前に障害があり、思い通りに進まない時、人を責める
のでなく、主に叫ぼう。モーセに一本の木が示され、それを投げ入
れると、水は甘くなった。一つの偶然も無く、まさに主がマラを通
された。

私たちも失望を経験し、困難を通る。その意味はどこにあるのか
「それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を
守るかどうか、あなたの心の内にあるものを知るため」主は命令を
守るかどうか、心の内を明らかにするためと。

そして、一本の木は主の十字架であり、その赦しは、どんな苦い思
いをも、平安に変えてくれる。失望、憎しみ、妬み、敵対心・・苦い
ものを、主の十字架のもとへ持って行こう。主の苦しみと痛みを仰
ぐ時、十字架だけが、苦みを甘みに変えてくれる。
........................
どんな苦しみも、主の十字架は甘みに変えてくれる。人が愛せずに
苦しい時、十字架の赦しと主の助けにより、人を祝福する者に変え
られる。喜びと平安に満ちて、甘くなる。主に叫ぼう。奇跡のみわ
ざを経験する。


2012年10月19日(金)

「私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」コロサイ1:29


「神は、御心のままに、あなたがたの内に働いて志を立てさせ、事を行なわせて下さる」とあるように、御心の志を与え、事を行わせるのは、神だ。すべての主導が神にある。しかし、私たちは何もしないのではなく、事を行なうのは自分自身だ。そして、それは、キリストの力が内に働くのであって、肉の力の頑張りではない。

必要な力は、主から来る。祈って何もしないのでなく、祈りつつ奮闘する。例えば、ピアノを習得する時、ただ祈っていれば、習得できるのではない。祈りと共に、日々、地道な基本からの練習を積み重ねなければならない。そうして行く時、ピアノを演奏できるようになる。語学やスポーツの習得も同様だ。練習しなければ、どうにもならない。そして、その習得する力を、主が与えて下さる。練習し続ける事ができるのも、祈りによる。

又、ある時は、自分に出来る事が何も無い場合がある。例えば、経済的必要は「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」が御心だが、事情があり、仕事が出来ない場合は、主は天から必要を必ず与えて下さる。祈ればよい。今、主から志が与えられているだろうか。内に力強く働くキリストの力によって、労苦しながら、事を成し遂げて行くことができる。「勤勉に怠らず」主に仕えて行くなら、主が成就させて下さり、豊かな実を結ぶことができる。喜びが与えられる。
------------
主の導きと助けを信じ、私は今何をすれば良いか、委ねられた事をして行きたいと意志を向けるなら、主のために出来ることは必ず示して下さる。豊かな実を結んでいこう。


2012年10月18日(木)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」箴言3:6


聖書の中に、偶然は無い。人間的に見る偶然は、すべて神の必然だ。ルツ記で、故郷に戻るナオミとルツに、主の大きなあわれみと慈しみが備えられていた。帰郷が丁度「大麦の刈り入れの始まった頃」だった。ナオミとの生計のため、ルツが落ち穂拾いを始めたその畑が、図らずもボアズの畑であり、丁度その時、所有者のボアズがやって来て、懸命に働くルツに目を留めた。「その翼の下に避け所を求めて来た」ナオミとルツへの主からの備えであり、素晴らしい祝福であった。少し「時」がずれていたなら、後に続くみわざは無かった。神の必然であった。

又、エステル記では、ハマンの悪巧みにより、ユダヤ民族絶滅の危機に陥った。丁度その時、エステルが王妃の地位にいた。エステルは、王を宴会に招き、王に危機の救いを願おうとした、丁度その前夜、王は眠れず、年代記を読ませ、モルデカイの手柄を知った。そして、翌日宴会の席で、ハマンの陰謀を知らされた。王はエステルの願いにより、ユダヤ民族に救いの手を延べた。

「私の時は、御手の中にあります」の通り、私たちのすべての時は、主の御手の中にある。偶然は一つもなく、一つ一つの状況がご計画の中だ。それゆえ「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」。環境に、不平不満、愚痴でなく、そこに主を「認める」ことだ。そうするなら、主が見えて、「主はあなたの道をまっすぐにされる」私たちの成長がある。
-------------
目の前に来る状況の一つ一つが今はわからなくても主のご計画の内で「図らずも」の備えの中を生きている。恐れや不安、愚痴より、その意味や目的を主に問い続けて歩んで行きたい。


2012年10月17日(水)

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」箴言19:21


人の心には、多くの思いがあり、プランがある。次から次へと、思いは湧き上がる。あれをしよう、これをしなくては、あれも、これもした方が良いのでは・・と。すれば良いこと、良い行ないは山のようにある。必要は、数限りない。しかし、その事は、本当に主のみこころなのか。今、自分が最優先にすべき事なのか。よく祈り、考えてみよう。

多くの良いプランを思いつくが、それが良い事だけに、祈りもせずに、進めて行ってしまう。しかし、良い行ないが、最優先すべき御心だとは限らない。主は、沢山の必要が目の前にあった。大勢の群衆は次から次へと、ひっきりなしに、主のもとに来る、目まぐるしい状況であった。しかし、主は、際限の無い必要に応じられたのではなく、御心を行なわれた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」。

そして、「主のはかりごとだけが成る」、御心を行なってゆくことが大切だ。よく主の御前に静まって、祈り、際限の無い良い行ないではなくて、主の御心を求め、示され、行ってゆこう。多くの良い行ないが、邪魔をしてしまっているかも知れない。「私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えて下さった」、善行を何でもかんでもするのではなく、主が備えて下さった良い行いにあずかってゆくのが信仰生活だ。
--------------
あれもこれもと手際よくできればと祈り、良いことの全てが主の御心と思ってしまう。マルタのようだ。主が今日、私のために備えて下さっている良い行いは何だろう。動き出す前によく祈ってみよう。


2012年10月16日(火)

「喜ぶ者といっしょに喜び・・」ローマ12:15


「『作り笑い』はできるが、『作り喜び』はできない」と言われている。笑顔は作れるし、内側がどうであっても、外側は幾らでも繕えてしまう。笑顔は自分で作れるが、喜びは自分で作ることはできない。幾ら喜んでいる振りをし、装えても、心に喜びがあるか、無いかは、自分がよく知っている。わかっている。

ある人が、友人と一緒に受験して、友人は合格、自分は不合格だった。失望落胆で、落ち込み、心は真っ暗だった。再度、浪人生活を思うと、更に心は重く沈んだ。しばらくは起き上がる力も無かった。そして、どうしても友人の合格を素直に喜べなかった。羨ましくてたまらず、妬ましい。でも、心に喜び無く、苦しく辛い。

ある人は、子供が身体を壊し、入院、先の見えない療養生活を送る中、同世代の子供達が就職し、楽しそうに社会生活を送る姿を気持ちが沈んで、見たくなかった。喜べなかった。彼らは喜べない、人を祝福できない自分の姿をはっきりと、主の御前に認めた。「喜べません。でも、このままで良いはずはない。助けて下さい」、主にありのままの気持ちを告げて行った時、心が変えられた。

生まれつきの私たちは、人の喜びを喜べない。自我があり、自己中心な存在だからだ。自分の心をごまかさず、逃げずにそのような者である事を、認めて行く時に初めて、御霊の働きにあずかり、自分が確かに変えられて行く。心が平安にされ、自分にも、自分のための祝福を、喜びを備えられていると信じることができる。悲しみが喜びに変えられることを体験する。
-------------
泣く者と一緒に泣けても、共に喜ぶことばなかなかできない。すぐに神様に心を向けて行こう。喜べない自分の醜さに気づきを与え、取り扱って下さる神様の愛と恵みにまず心からの喜びが生まれる。


2012年10月15日(月)

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」Tヨハネ1:8


私たちは、なかなか自分の罪は認めることが難しい。例えば、対人関係で、人を憎んでいる時に、自分が憎むのは、相手のひどい言動と態度のせいだと思う。相手は確かにひどいので、そうとしか見えない。相手に傷つけられたから、憎んでいるのであって、傷つけた相手が悪い。自分は悪くない。自分は被害者だ。

相手がそういう態度に出なければ、自分は憎みはしないので、相手が悪いとしか見えない。しかし、これは自分を正当化して、自分を欺いている。なぜなら、相手がどうであれ、自分は、主の御前に「憎む」という罪を犯しているのだから。それは、自分の罪だ。自分の罪として認め、悔い改める時、平安が戻り、苦い気持ちから解放される。

しかし、認めたくないものであり、それなら、罪はないと言うなら、自分を欺く事になり、真理は私たちのうちに無いと、主は言われる。相手が悪いとしか、見えないかも知れない。しかし、心の内はどうだろう。怒りがあり、裁きがあり、苦々しい思いで、平安が無い。心は苦しく、辛い。

しかし、相手のせいで自分は苦しいのだと、堂々巡りしている。
そのままの気持ち、思いを正直に祈ろう。「相手が悪いとしか思えません」「自分の罪など認められません」「しかし、苦しいです。この事を導いて下さい」と。主は祈りを受け止め、義の道へと導いて下さる。
--------------
憎みたくないので許せるようにと主に明け渡しを祈っていた事がある。祈っても憎しみは去らず、祈り続けている中で、自分が相手を傷つけていた部分もあるとはっきり示された。憎しみだと思っていたのは、罪責の痛みだった事に気づかされ、心から悔い改めることができた。本当の問題は自分の罪だ。


2012年10月14日(日)

「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれ が立ちはだかることができよう」箴言27:4



「妬み」は誰しもが経験する悩みだ。憤りと怒りは残忍なものだが、
妬みはもっと酷いと言っている。ある人が、同期で入った同僚の営
業成績が、いつも自分より上で、周囲からの賞賛の的である事に、
強い妬みを抱いていた。しかし苦しいのは相手でなく、本人であり、
心が辛く、常に苦しく、がんじがらめだ。

サウル王もダビデを激しく妬んだ。女たちが歌い踊った「サウは千
を打ち、ダビデは万を打った」その歓声を聞いて、サウルは激怒し、
ダビデに嫉妬し、それは根深い憎しみとなり、ダビデを攻撃し、抹
殺しようとつけ狙った。妬みは殺人にまで及んでしまう、恐ろしい
罪だ。

しかし、ダビデはサウル王に何一つ悪い事をしていない。むしろ忠
実で有能な素晴らしい部下であり、一心にサウルに仕えていた。妬
みのとりこになってしまうと、何も見えなくなる。ダビデがどんな
に自分に良くし、仕えてくれているかも、主の祝福がいっさい見え
ない。盲目になってしまう。

妄想の中で、相手を疑い、悪意を抱き、ますます主から離れて行き、
愛、喜び、平安を閉め出す。妬みは人生を台無しにしてしまう。上
記の男性は、妬みを主の御前に心底悔い改めた。そして、主に従い
たいと、相手の祝福を祈った。ますます彼の営業成績が上がるよう
にと。

すると、自分の心に御霊の平安が来て、苦しみから解放された。自
分の力では絶対に出来なかった「喜ぶ者といっしょに喜び・・」の御
言葉が自分の身に成就された。何にも代えられない喜びに溢れた。
そのままで主のもとへ行こう。主が解決へと導いて下さる。

’’’’’’’’’’
人を祝福できないことは自分が苦しい。平安も喜びも無く、心は重
く虚しい。祝福できたなら、どんなに幸せだろう。それを阻む自我
が問題だ。主に洗いざらい心の内を告げよう。必ず主は解決へと導
いて下さる。


2012年10月13日(土)

「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪 な行ないがあるからです」ヤコブ3:16


妬みとは、自分が持ちたいと強く願っているものが、自分には無く
て、それを他人が持っている時、苦々しく思うことだ。自分が持た
ないものを、持っている人を羨み、憎しみへと高じて行く。

敵対心は、自分が持っているもので、人と張り合う時に、生じるも
のだ。カインとアベルが、それぞれ献げ物を献げた。アベルの献げ
物は受け入れられ、カインの献げ物は退けられた。カインは激しく
怒った。

その時、主は「あなたが正しく行ったのであれば受け入れられる」
と言われ、つまりは、カインは、何かが間違っていた。その間違い
を、主に問うて、正しく献げ直せば良かった。しかし、怒りが、退
けられた主に向くのではなく、何とアベルに向かった。

主に受け入れられたアベルを妬み、憎んだ。妬みは増幅し、殺人へ
と発展した。「カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した」。ま
さしく「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆ
る邪悪な行ないがあるからです」の通りに。

私たちも妬みや敵対心が動機で、行動する時、古い価値観の中にい
る。新生しているが、価値観が変わっていない。地に属する知恵は、
苦い妬みと敵対心だが、主からのものは、上からの知恵であり、純
真で、あわれみと良い実に満ちている。正反対だ。

上からの知恵を求めよう。カインはアベルに向かわず、主に向かえ
ば良かった。方向が違った。私たちは、何よりもまず主に向き合お
う。自らの心の状態をことごとく主に打ち明けよう。そうするなら、
主は、どのような状態であれ、解決へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
妬みや敵対心を認めて、主のもとへ行こう。自分ではどうにも出来
ない。人には出来ない。主が救い出して下さる。まず第一に、主を
呼び、主に向かおう。そして悔い改めて〃歩もう。「人にはできな
いことが、神にはできるのです」。心を変えて下さる。


2012年10月12日(金)

「エリヤはアハブに言った『・・私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう』」T列王17:1


エリヤは、主から命令を受け、アハブ王のもとへ行き、ここ2,3年は雨が降らないと告げた。この事は大変勇気が要り、信仰に立った行動であった事だろう。様々な思いが巡った事だろう。王の怒りに触れ、ただでは済まない、即座に殺されるかも知れない。しかし、エリヤは一歩を踏み出し、主の命令に従った。

すると、次のような「主のことばがあった」の通り、一つ従うと、次の明確な導きが臨んだ。それは「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ」と。その川の水を飲め、烏が食物を運んで来るからと。「それで、彼は行って、主の言葉のとおりにした」。主から導きが臨み、エリヤは、又、次のその言葉の通りに従った。すると、主の言われた通りに、烏が朝夕に、肉とパンを運んで来た。

貪欲な烏が食物など運ぶはずがない。主の奇跡だった。「そこであなたを養う」ケリテ川でエリヤは養われた。主の御心に従うなら、必ず「そこで」御心の場所で、奇跡をもってでも養われる。ケリテ川が枯れると、また「主のことばがあった」」。一人のやもめに命じて、養うようにしていると。

一歩従うと、次の導きが臨む。一歩従うことが大切だ。次へと展開して行く。今、あなたにも主からの示しがあるだろうか。御言葉が心に迫っているだろうか。御霊は助けて下さる。祈って、一歩踏み出そう。
-------
先の先までわかって動くなら信仰はいらない。今導かれていることを信仰を持って従ってみよう。そうやって一歩ずつ目の前にひらかれる主の展開を経験をして行こう。更に信仰が深くなって行く。


2012年10月11日(木)

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す・・」ローマ5:3

御言葉によると、どんなに苦しい厳しい試練であろうと、必ず希望へと至る。試練が忍耐を生じ、忍耐が品性を生み、品性が希望を生み出すと。患難は主から来る。その患難が、主のかたちへと私たちの人格を練り上げ、最後は喜びへと、希望へと至る。患難は大きな祝福だと。

しかし、世の価値観では、患難は、不幸であり、不運であり、悪だ。それゆえ、どうしてもネガティブに捕らえてしまう。避けたいものであり、受け入れ難いものだ。そのため、患難が主からのものであり、良きものという信仰に歩むには、人生の目的が、しっかりと主の目的と合致している必要がある。

でなければ、試練が来る度に、「何で、何で」と不平不満、反発、自己憐憫、自己防衛に陥る。本音は何だろう。安穏な生活だろうか。人に良く見られたい、幸せが欲しい、富を得たい、又は自己実現だろうか。家内安全、無病息災、商売繁盛か。それなら、患難を喜ぶことは決して出来ないし、患難に希望を見い出す事もない。

私たちの生きる目的は、主の目的と合致しているだろうか。私たちは試練の度に、鍛錬され、成長が与えられ、キリストのかたちに変えられて行く。聖霊によって注がれた神の愛によって、患難さえも喜んで行ける。患難をも喜べるのは、御霊による。自分の力ではなく、自分から出たものではなく、御霊によって与えられるものだ。
------------
患難の時に、これが忍耐を生み出すとの御言葉を本気で信じてみよう。痛い、悲しい、悔しいとその時々に肉の対応ではない御霊による導きの助けがある。導きに従って患難を主と共に抜けて行きたい。


2012年10月10日(水)

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」Tサムエル1:10


ハンナの心の痛みは尋常ではなかった。子供が与えられない悲しみ、苦悩に加えて、その気持ちを逆なでし、攻撃し、傷つけようとするペニンナの存在があり、又、夫エルカナには彼女の気持ちを理解してもらえなかった。当時、不妊は神の祝福が無いという迷信があり、周囲にもそういう目で見られ、その事が更に深い苦悶となった。

そんな悲しみ、苦しみ、孤独という苦境に立ったハンナが、突破口を見い出した。それは、主に何もかも吐き出すことだった。感情も、思いも、気持ちの何もかもを、主の御前に注ぎ出した。ハンナは心の底を吐き出す事で、主と深い交わりを得、問題を主に委ねきり、平安を得た。その顔は変わってしまった。帰って、食事ができた。

主は、気持ちを正直に、ありのまま、赤裸々に告げる祈りを喜んで受け止めて下さる。それは、主を頼り、信頼しているしるしだからだ。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」の通りだ。

思い煩いを主に告げ、気持ちを告げ、願い事を主に知っていただく時、「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。そうするなら、状況はどうであれ、心が平安に満たされると。感情も、思いも、主に持って行こう。
--------------
人に向かって言えば愚痴や悪口になることも、主に向かって告げるなら祈りになる。主が心配し何ものにも勝る平安を下さる。問題を受け入れることも、解決を委ねることも祈らずにはできない。


2012年10月09日(火)

「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです」詩編102:17

ある人が就職先を求めていた。厳しい中だが、どうしても生計のために必要だ。面接に行くと、次々と断られた。段々と焦りが出て来る。仕事が無ければ、生活が成り立たない。もう何でも良いと、仕事が与えられるように祈った。そんな中も面接の度に断られ、現状は厳しく瀬戸際まで追い込まれた。主に拠りすがり祈りに祈った。心底祈らされた。

そんな時、一つの面接先が開かれた。すると、履歴書を見、面接をしたその会社の社長が「自分もあなたと同じ境遇で育った。ここで頑張りなさい」と採用になった。まさに主からのものだった。「彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした」。

全能の主には、不可能は事は一つもない。この詩篇の作者には、食事も忘れるほどの悲しみ、苦しみがあり、骨と皮がくっつくほど、やせ衰えた。彼の人生は夕方の影が伸びて行き、闇になって行くようであり、青菜のようにしおれてゆくと。だが、「しかし、主よ」と続く。

悲惨な状況に関わらず、状況でなく、主に目を向ける。主は「とこしえに御座に着き、立ち上がり、あわれんで下さる」方と。しばしば、痛い、苦しい経験を通ることにより、主に目を向けさせられる。そして窮地の切なる祈りに答えて下さる。悩みの時には、祈ろう。決してその祈りをないがしろにされない。
--------------
その栄光の豊かさに従い、御霊により私達を強くして下さる主に、辛い思いのすべてを告げよう。主の側より動かず、じっと聞いて下さる主に祈り続けよう。


2012年10月08日(月)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2


試練にある時、不安や恐れ、思い煩いに襲われる。人はどうしてもネガティブ思考に向かう。悲観的に考えてしまう。しかし主は、その時こそ忍耐が生まれるから、その忍耐を働かせるようにと言われる。忍耐とは、じっとただ我慢する消極的な事ではなく、主は必ず良くして下さると信じる、もっと積極的なことだ。

試練を受け止めて、主を仰ぎ、「最善をして下さる」「このトンネルは必ず出る」「愛していて下さる」と信じて行こうとする時に、ネガティブに向かう自分が変えられて、平安が与えられる。そして、その中で、霊的成長を遂げて行くと。つまり、霊的成長は、自分が変えられて行くことにある。

例えば、対人関係で、相手とギクシャクする、合わないと思う場合、相手の悪い態度のせいと思っているが、実は、自を変えたくないからではないか。相手を憎み、敵対心を抱き、苦しい状況が続くのは、自分は被害者だと思い、自分を固く守っているからだ。相手が悪くて、自分は正しいと思っている限り、自分が変えられることはない。

そうではなく、へりくだって行こうとする時、自分が変えられる。自我や、プライドが邪魔するだろうか。しかし、へりくだるなら、遙かに良きもの、「平安」を手にする。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」相手を自分よりすぐれた者と思い、主の御前にへりくだって行く時に、自分自身が、御霊の働きにより、変えられて行く。
--------
状況の中で、主が必ず益として下さる、主は私に今、何を望んでおられるのかを尋ねていこう。弱ってしまう心や、相手を責めて行く感情に流されてない平安をいつも私達は主から受けることができる。


2012年10月07日(日)

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに 与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから です」ローマ5:5



今の世は、希望が持てない時代だ。人々は、希望は失望に終わるも
のと思っている。歳を重ねるほど、希望のはかなさを経験する。
「失望に終わることのない希望」など考えられない。

片や、私たちも、自分の思い通りにならない経験を何度もしたので
はないか。この進路に進みたいと願うが、目の前で閉ざされる。プ
ランを練って始めたつもりが、途中でどういうわけか頓挫してしま
う。この事がしたいのに、どうしても道が開かれない。

又、突然の不意の出来事に「どうしてこんな事が」と、全くわけが
わからない。数々の思い通りにならない事態を通る。しかし、どう
だろう。振り返ってみる時に、自分の強い願いが叶わない時には、
もう先が無く、真っ暗に感じてしまうが、年月を経る時に、叶わな
くて良かったと思える。これで良かったのだと。

願い通りになれば、全く別の方向に進んでいて、今の恵みや祝福、
幸せは無かったと。試みを通して、主との深い交わりを得、祈りを
知り、真に御言葉の力を味わった。そして、人生、自分の思い通り
ではなく、主の思い通りに歩んでいる事の確信は、何と喜びだろう。

希望は失望に終わる事がない。それは、神の愛が注がれているから
だ。だから、深い悲しみや、痛みの中に、尚も希望を見い出して行
ける。患難を喜べるのも、神の愛のゆえだ。この神の愛があなたの
心に注がれている。

・・・・・・・・・・・・
思い通りにならかった事を通って、そこでこそ主の深いご愛や配慮、
慈しみを知った。痛みを通して、順風の時には決して味わえない、
主との深い交わりを経験した。主を味わった。主の愛があった。こ
れは何にも代えられない、代えたくない恵みだ。この事のゆえに通
って良かったと、心から思える。


2012年10月06日(土)

「施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをす る偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」 マタイ6:2

               

主は「人に見せるために人前で善行をするな」と言われた。右手の
している事を左手に知られるな、施しが隠れているように。自分の
善行を人に知らせてはならないと。

しかし同時に「あなたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたの良
い行ないを見て、天におられる父を崇めるようにせよ」とも言われ
た。「あなたがたは世界の光であり、山の上にある町は隠れる事が
できない」と。良い行ないを見せるようにと。

これはどう違うのか。この問題は、動機がどうかだ。自分が賞賛を
受け、自分を喜ばせるために、自己満足のためにしているのか、そ
れとも、神のために、神を喜ばせようとしているのかだ。自分の賞
賛のためにする善は偽善であり、パリサイ人の善行がそうだった。

人の前で自分を正しいとし、人の間で崇められる者は、神の前で憎
まれ、嫌われると主が言われた。人前でなく、神の御前で生きる事、
人の目でなく、神の目を意識して生きる事が言われている。

誰しも、人に良く思われたい。人に好かれたい。嫌われたくない。
人前で体裁を繕い、人目を気にして生きている。目に見えない神よ
りも、目に見える人に、良く思われたい。罪の性質だ。

つまりは、この世のほうが重要であり、主をないがしろにする事に
なる。サタンの誘惑だ。主の御前で生きることは、信仰によるので
あり、御霊による。
まず、自分の本当の姿はどうだろう。人にほめられ、崇められたい
のだろうか。実際の姿を認める時、いつも血潮の赦しがある。御霊
は助けて、心を正しく導いて下さる。主の評価だけを求めて行く時、
真の平安と自由を経験する。

・・・・・・・・・・・
人は目に見えるので、目に見える人の評価や賞賛を求め、目に見え
るものによって生きてしまう。目に見えるものがすべてであり、大
切だと、サタンにだまされてしまう。その時、目に見えない主や、
永遠が飛んでしまう。いつも御言葉が立ち返らせてくれる。


2012年10月05日(金)

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」マタイ16:23


ペテロは「あなたがたは、わたしをだれだと言うか」との主の問いに、「生ける神の御子キリスト」と正しい立派な答えをした。しかし、その後、主が十字架と復活の事を話されると、ペテロは主をいさめた。「そんな事が、あなたに起こるはずがない」と。主の十字架を「そんなこと」と言い、「起こるはずがない」と。

主はそれを「サタン」といさめられた。主は、十字架を否定して、挑んで来る敵を見破られた。ペテロにすれば、主の事を思い、主のために言ったつもりだ。しかし、それは、人間的な思い、肉の価値観であり、サタンの思いと合致し、神のみ思いと正反対のものであった。本人は良いと思い、正しいと思ってする事が、結果的にサタンに導かれていて、罪を犯すことになる。

本人は主のためであり、正しいと思っているだけに、ストレートな罪よりやっかいだ。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。サタンに欺かれ、肉の思いに進む時は、主の事を忘れている時だ。目に見えない主が飛んで、目に見える人と、世の事に夢中になり、心が奪われている時だ。肉に流されてしまう。

又、人からの賞賛、人からの愛、人からの誉れで心を満たそうとする時、サタンにだまされてしまう。主からの誉れより、人からよく思われたいとの強い肉の思いに引っ張られる。サタンは狡猾だ。御霊により肉の価値観、サタンの攻撃に気づかせられるよう、祈っていよう。
-----------
一見、良いと思われる事は、よくよく考えず行動に移しがちだ。
動機は自己満足や人の前に生きるためではないだろうか。神の前に生きているのか、いつも吟味してみよう。


2012年10月04日(木)

「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30

ヨハネの弟子たちは、今まで、自分の師に向いていた皆の関心が、主イエスの方に向かって行く事を寂しく思い、妬ましく思った。皆の人気がどんどん主の方へ移って行く。師を思うゆえに、「みな、あの方のほうへ行きます」と訴える。しかし、ヨハネは「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができない」と、神の主権を認めて、自らのおるべき場所に、満足しきっていた。

地位も名誉も、人からの人気や賞賛も、すべては天の配剤だと。
与えられたもので満ち足りていた。自分は花婿の友人であり、花婿が栄誉を受けることを喜ぶと。ヨハネは、自分が衰え、主イエスが栄えることを心から喜んだ。私たちの信仰人生には、時に、不測の事態が起きて、受け入れがたいような事が起こる。自分にとって不都合であり、嬉しくない事柄だ。

そんな時は、どう受け止めればよいのか。この世界を治めておられるのは神であり、完全な主権を持って支配しておられる。私たちを取り巻く状況も、すべて神のご計画による。偶然ではなく、不運なのではなく、たまたまそうなったのではない。完璧なご計画の内だ。人の思いと神の思いは大きく異なる。

時に自分の思う道が閉ざされる事がある。そんな時、人を妬んだり、寂しい思いがする。しかし、そこに神を認め、ご計画と受け止めて行く時、その中で、神の深い愛や配慮、取り扱いを真に経験して行く。そこでしか知れない主を経験して行く。
-----------
自分の思いは際限なく溢れてくる。自分の満足ばかりを求めそうになる時「私は衰えなければなりません」の祈りを繰り返ししたい。神の深い愛のご計画を認めその下に満ちたりた心で安んじていよう。


2012年10月03日(水)

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」イザヤ55:9 


私たちは、自分の思いがあり、「これが絶対!」「これが最善!」と思う。それで、そのように進み、思ったように行なう。しかし、事態が思い通りにならない。あなたも経験あるだろうか。主のみ思いは異なっている。主のみ思いは遙かに高く、深く、そして、主はずっと先を見通しておられる。

私たちは、ほんの先の事すら見えない。見えるのは目の前の事だけだ。そして、自分軸に立って見ている「これが最善」であり「これが絶対」だ。だから、主の視点と大きく違っている。又、この世の価値観や常識に立っているかも知れない。

信仰人生、自分の思い通りにならない事を、繰り返し、繰り返し学ばされる。自分の思い描いた進路が閉ざされる事は、痛くて、辛い。しかし、主はその気持ちも知っていて下さり、心の中の悶々も知っていて下さる。「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。私の思いを遠くから読み取られます」私たちのすべてを知り、愛していて下さる。

そして、極みまで愛して下さっているからこそ、主の目から見た、真の最善をして下さっている。今もし、目の前に自分の思いと違う状況があるなら、主のみ思いとして受け取ろう。頭ではわかるが、受け入れられなければ、そうできるよう祈ろう。思いを超えた結実を見る。
----------------
自分にとっての最善なら世の人でも簡単に喜べる。思いもよらない出来事にも、いつもと変わらず主にあって平安に立っていたい。状況に左右されて生きることより、主の最善を信じていたい。


2012年10月02日(火)

「この日は主が設けられた日である。この日を楽しみ、喜ぼう」詩篇118:24


あなたにとって、この日は、どんな日だろう?仕事で重大な取引きのある日、行楽に出る楽しい日、大事な試験のある日・・色々な日があるが、1日、1日は、自然に巡って来るのではなく、主が設けられている。そして、今日の、この1日は主による1日だ。主が設けられたからには、この1日に、意味があり、目的があり、そして、良いお方は、私たちのために最善をして下さる。

この1日は、不安な、恐ろしいものが待ち構えているのでなく、主の御手の内にある、完璧なご計画の中の一場面だ。それゆえ、主に委ねるなら、安心して、この日を喜び楽しむことができる。なぜなら、何が起きようと、主がご計画をもって、送っておられる出来事であり、それは私たちのためであり、愛に満ちていて、そして万事益であるからだ。主が設けて下さったこの1日を、楽しもう。

ある人が交通事故に会い、大手術がなされ、生死をさまよい、九死に一生を得た。死んでも当然であったところ、命を取りとめた。日数をかけ、回復し、普通の生活に戻れた。奇跡であった。その日以来、朝起きた時に、生かされている、その恵みに、心の底からの感謝が溢れた。生かされている1日〃が奇跡であり、感動であり、喜びとされた。この日が当たり前に巡って来たのではない。「主が設けられた」と受け取る時、この1日は、主に出会う1日となる。この日を楽しみ、喜ぼう。
--------------
主が設け、主より与えられた今日を喜び歩んでいこう。主のご臨在の中で今日、何を示してくださるだろう。たましいがまた新しくされる。


2012年10月01日(月)

「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない、その心は堅固で恐れることなく・・」詩篇112:7


人は、悪い知らせを恐れる。悪い知らせは、人生途上で襲いかかる、どう猛なライオンのようだ。恐怖を感じる。世の人々は、そのような悪い事が起こらないようにと宗教に入り、信心する。ひたすら波風の無い順調な生活を願っている。ある人は、嬉しい、幸せな事が続くと、大きな不安に襲われると言った。

このような喜びが続くはずがない、今に、必ず悪い事が起きる。その喜びの最中に、心底喜ぶ事ができず、不安でたまらないと。
私たちの恐れや不安のほとんどは、まだ起きていない事に関する事だと言われている。先の事は全く見えないので、ネガティブにとらえてしまう。このような事態になっても「恐れず」「その心はゆるがない」とある。

そして次の節には「その心は堅固で恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる」と。そうならどんなに平安で、幸せだろう。どうしたらそうなれるのだろう。「主に信頼して」とあるように、「主に信頼する」ことが答えであり、それ以外にない。自分の力によって、肉の努力によって、頑張って、踏ん張って、物事に動じない、強い心を持つのではない。

状況を知り、支配し、敵すら御手の内にあり、支配しておられる、すべての権威を持つ主を信頼するところから、平安は来る。詩編112の始めには、「ハレルヤ。幸いな事よ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は」とある。不安定な、揺れ動き、変わり行く状況に目を留めるのでなく、「その仰せ」永遠に不変の御言葉に目を留めて行く時に、平安の中に守られる。
-------------
弱い私が踏ん張るのなら、毎日恐れと不安はやって来る。主から目を離させようとする問題の中にあって、ただ一日一日を主に信頼して、支えられて歩むだけだ。足ること学べるし、喜ぶことができる。