2012年11月30日(金)

「主はカインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか』」創世記4:6

カインは地の作物からささげものを献げ、アベルは羊の初子の最良のものを、自分自身で持って来た。アベルとそのささげ物に目を留められたが、カインのささげ物には目を留められなかった。この箇所には、その理由は記されていない。ヘブル書に「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえをささげ」「神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかしし」とある。

カインはひどく怒り、顔を伏せた。主はカインに「なぜ、顔を伏せているのか」と言われた。自分のプライドがひどく傷つけられたのかも知れない。主の不公平、不正に怒るなら、顔を伏せないで、顔を上げ、主に向かって問い、ヨブのように、又、ダビデのように、思いや感情をぶつけて行けば良い。もし、あなたが正しいのであれば、まっすぐに立っておれるではないかと。

正しくなければ、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを支配しようとしている。あなたは、治めなければならないと警告された。罪と戦い、又、執拗に誘惑して来るサタンと戦うためには、「顔を上げて」、主に頼らずして不可能だ。不満があれば、主にぶつけ、わからない事は、主に聞こう。怒りや、憎しみ、妬みをそのままにしていると、いつしかそれらに自分が支配されてしまい、それらを愛して行くようになってしまう。絶えず、主に助けを求め続けよう。
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自分を閉ざし顔を伏せ、自分の中に怒りも妬みも閉じこめるならサタンの声しか聞こえてこない。自分のありのままの思いで、まっすぐに主に向かおう。絶えず主にありのままの自分を献げ、助けを求めるなら主が守り導いて下さる。


2012年11月29日(木)

「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった」ルカ22:3



ユダは、祭司長たちと、どのようにして主を引き渡そうかと相談した。主に口づけしようとして近づき、それが合図であった。そして主は捕まった。ユダは目前に繰り広げられる事態に驚き、慌て、後悔した。しかし、祭司長たちに「私たちの知ったことか。自分で始末せよ」と言われ、銀貨を投げ、首をつった。

主はユダを弟子に選び、裏切る事がわかっていても、足を洗い、へりくだり、愛し通された。ユダが裏切るために近づいた時も「友よ。何のために来たのですか」と、「友よ」と最後まで、愛を示し、悔い改めの機会を与えられた。しかし、ユダは主を裏切った。どんなに愛されても、その愛を拒否することができる。私たちをロボットに造られなかった。自由意志をどこまでも尊重される。自由に愛することができ、自由に拒むことができる。主はその選択を受け入れられる。

「悪魔はすでにユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」サタンはまずユダの心に思いを入れた。サタンは欲望の権化だ。「欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをする」欲望を遂げようと、盗み、姦淫、殺人と罪を犯させる。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている・・それを治めるべきである」「悪魔に機会を与えないようにしなさい」

ユダは、思い通りでない主への失望と怒りが、サタンに機会を与えて行ってしまった。私たちも、赦せない思いや、怒り、妬み、憎しみでサタンに機会を与えてしまっていないか。そのまま主のもとに持って行こう。主は豊かに赦して下さり、サタンの足場を崩して下さる。
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御霊に導かれることも、サタンに引かれて行くこともどちらも自由意志だ。勝手な思い込みや、自己中心の不平や不満がサタンに煽られてしまう前に主に告げ、悔い改めよう。罪の結実から守られる。


2012年11月28日(水)

「『まず行って、私の父を葬ることを許してください』・・『死人たちに彼らの死人たちを葬らせなさい・・』」ルカ9:59


この人は、主に「わたしについて来なさい」と言われた時に、「まず、父を葬ることを許して下さい」と答えた。今、葬儀を出すという意味でなく、いつか将来、父親を看取り、葬儀を出したあかつきには、主に従うということだ。従うには従うが、優先順位の問題で、こちらの方を優先したい。従うことの無期延期のようだ。すると主は「死人たちに、死人たちを葬らせよ」と答えられた。

死人たちというのは、霊的に死んでいる人々で、未信者の人々にでもできることは、彼らに任せなさい。しかし、私たちにしかできない事がある。「イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐに向けられ」主は十字架を見据えられ、エルサレムへの旅が始まり、神の国を宣べ伝える事が急務となっていた。「手を鋤につけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくない」。

二頭の牛に鋤を引かせ、畑を耕すのに、真っ直ぐに耕すには前を向いている必要がある。後ろを見るなら、くねくね曲がってしまい後ろを見る農夫などいない。主のために生きようとしながら、古いものに、しがらみに縛られ、足を引っ張られていないだろうか。主が第二、第三、最後になっていないか。主を第一にしてこそ、周囲の人々も救いを得る。主を第一にするためには、日々御霊に導かれ、主の愛に触れ、心が平安と喜びに満たされることだ。そこが一番大切だ。
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周囲は圧倒的に未信者で、ともすれば漠然と信仰生活を送ってしまう。前進を妨げる後ろのものを振り返らず、日々主を知っている者として主を証していきたい。


2012年11月27日(火)

「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」ヤコブ3:15    


           
主の御心を求めようとする時に、主は御言葉を与えて導かれる。そこにサタンも妨害しようと働いて来る。主とサタン、どちらの声も聞こえて来る。主がサタンの試みを受けるために、荒野に行かれた時、サタンは「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じよ」と誘惑して来た。つまり、主が空腹になられたので、この石をパンに変えて食べようかと思われた。

サタンは、心の「思い」となって誘惑して来る。その誘惑に対し、御言葉で「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」と退けられた。私たちが神の声とサタンの声を見分けようとする時に、もし心に、悔い改めていない罪があるなら、妬みや憎しみをそのままにしているなら、そこにサタンの足場を与え、サタンの声を、神の声と間違ってしまう。

「もし心の中に苦い妬みと敵対心があるなら・・真理に逆らって偽ることになる」「妬みと敵対心のあるところには、秩序の乱れとあらゆる邪悪な行ないがある」邪悪な思いの色メガネをかけたまま、識別しようとするなら必ず間違ってしまう。

「上からの知恵は、第一に純真であり・・あわれみと良い実とに満ち・・みせかけのないもの」、心に妬みや敵対心の「苦い」ものがあるなら、悔い改め、さやかに主の御声が聞こえるように整えて頂こう。
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今聞いている心の声はどこから来たもだろうか。平安でない思いのままならサタンに利用されて行く。見せかけでなく、純真な主の御心と一致するために、苦い心の根を主に告げて行こう。


2012年11月26日(月)

「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります」ルカ9:50  




ヤイロの娘が危篤、瀕死状態にあった。一刻を争う。ヤイロは主の足もとにひれ伏して、家に来て娘を癒していただきたいと願った。必死であった。主は願いを聞き入れ、出向いたところ、そこに突然長血の女性に出会した。12年間長血を患い、苦しみと辛さ、悲しみのどん底にいた。女性が主の着物のふさに触ると、ただちに出血が止まった。奇跡が起きた。長血は汚れていて人前に出る事ができない。女性は隠れて、そのまま姿を消したかった事だろう。しかし主は「安心して行きなさい」と、身体だけでなく心の癒しも与えられた。

だが、その間、ヤイロはどんなに心急いたことだろう。居ても立ってもいられなかった事だろう。女性は12年間の持病、瀕死の娘の方が優先順位、先に思える。そこに決定的知らせが入った「お嬢さんは亡くなりました」。病気なら治り、もつれた人間関係なら修復の可能性がある。しかし、「死」だけは、何もかもを断ち切ってしまう。冷酷、厳粛な現実だ。何もかも崩れ去り、回復も修復も不可能であり、絶望だ。

しかし、その立ちはだかった現実を前に、主は「恐れないで、ただ信じなさい」「娘は直る」と御声をかけられた。信じて委ねよと。その言葉の通りに、娘は生き返らされた。私たちにも山となす心配事、思い煩いが次々と襲いかかる。しかし、死をも打ち破る力を持たれる主が「恐れないで、ただ信じなさい」と常に御声をかけて下さっている。「あなたがたは心を騒がしてはならない。神を信じ、またわたしを信じなさい」と。
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十字架により死に勝利され方が私達の主だ。もう駄目だと思う状況も瞬時に勝利させて下さる主が共にいてくださる。恐れないで信じていよう。


2012年11月25日(日)

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたに とどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい・・それ がかなえられます」ヨハネ15:7 

       
       
主と共に、主に従って歩む時に、「みことばにとどまる」ことが大
切だ。「みことばは、私の足のともしび」であり、進むべき道を示
してくれる。「あなたに罪を犯さないため、あなたのことばを心に
たくわえ」心にたくわえた御言葉は、私たちを罪から守ってくれる。

自分の道をきよく保つには「みことばに従ってそれを守ること」だ。
主はサタンの誘惑に、「・・と書いてある」と御言葉で立ち向かわれ
た。サタンは御言葉を前に、退かざるを得なかった。主は勝利され
た。

祈りと共に、サタンに対抗するにはどうしても御言葉が必要だ。霊
であり、いのちである御言葉は、御霊の剣だ。「御霊の与える剣で
ある、神のことばを受け取りなさい」霊の戦いにおける、強力な武
器であり、敵を刺し貫く。「すべての祈りと願いを用いて、どんな
時にも御霊によって祈れ」。

サタンは、様々な悩みや恐れ、不安、思い煩いで私たちを倒そうと
するが、祈りと御言葉が一つになる時、サタンは何も出来ない。又、
私たちの信仰生活の様々な局面において、判断基準は御言葉だろう
か。それとも自分の思い、自分の感情、自分の常識だろうか。

それなら自分の利得が必ず底にあり、そこには真の喜びと平安はな
い。又、そこには主の栄光、キリストの香りが無い。御言葉がとど
まっているなら、そこに御言葉による判断、決定があり、自我が砕
かれ、主の栄光が現されて行く。

・・・・・・・・・・・
御言葉と一致した願い、主のみ思いと一致した祈りが叶えられる。
いつも御言葉に触れていなければ、反対方向の願いを求めていて気
づかない。御言葉を聞き続けて行く時、主のみ思いを知る事ができ
る。そして祈りは叶えられる。御言葉を大切に聞いて行こう。


2012年11月24日(土)

「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わた しの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってくだ さい」マルコ14:36

  

「みこころのままに」との祈りは、私たちの意志を放げ捨てる事で
なく、私たちの意志と神の意志とが一つとなるために苦闘すること
だと、言われているが、祈りなくして、みこころのままにと委ねる
ことはできない。

それは諦めではなく、祈りに祈って、自らの意志を主の意志に合わ
せて行くことだ。受け入れ難い状況、事態に、直面した時には、祈
ろう。受け入れられないという、自分の感情や気持ちを覆い隠した
り、抑え込むのでなく、正直にありのまま、主の御前に告げよう。

受け入れたくない、そのままの思いをことごとく告げて、主と交わ
ろう。頭では「みこころがなりますよう」と思っているのだが、心
は「私の願いがなりますように」だと気づく。「受け入れられませ
ん」と気持ちを底の底まで十分に告げて行く時、主が働かれ、受け
入れられるようにして下さる。

主ご自身も「深く恐れもだえ」「悲しみのあまり死ぬほど」と、血
の汗を流して、正直な気持ちをそのままに「この杯をわたしから取
りのけて下さい」と祈られた。できれば十字架を回避したいと。

しかし「わたしの願うことではなく、みこころのように」と。そし
て「どうしても飲まずに済まされぬ杯でしたら、みこころの通り
に」と。祈りの中で、自分の願いを押し通すのでなく、主の御心に
思いが変えられ導かれて行く。まず、正直に思いを主に告げて祈ろ
う。
・・・・・・・・・・・・・・
心の底の思いを、ことごとく主に告げて、ぶつけない限り、「御心
成りますように」とは言えない。それ無しには、きれい事であり、
建前に過ぎない。「したく無い」「出来ない」「嫌です」と交わっ
て行く時、御心を受け止められるよう、自分が変えられる。


2012年11月23日(金)

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」ヤコブ4:1


対人関係で、ぎくしゃくしたり、争いが起きてしまう。それが国家間になると戦争になる。あの人の悪い態度が、この人の批判的な言動がと、国家間であれば人種問題、経済問題と、外側の原因捜しをするが、主はそうではないと言われる。「あなたがたの中で戦う欲望が原因」争いの原因は自分の内側にあり、自己中心の「欲望」にあると。

内側から湧き上がる物欲、貪欲、自己中心、わがまま、妬み、そねみ、敵対心、憎しみ・・が問題であり、それが争いを引き起こしている。「欲しがっても自分のものにならないと人殺しをする」何かを手に入れたい、欲しいと思うと実力行使に及ぶ。何が何でも手に入れようとする。そして、私たちは争う時には、自分を正当化して、相手のあれが、これが悪いと思う。相手が悪いとしか見えない。

しかし、裏に別の動機が隠れていると。「うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったり」とあり、その底に、羨望、妬みがある。相手が持つ地位、名誉かも知れない。才能や人気かも知れない。争いの底に、妬みがあるとは、自分では気づかない。争いは「あなたの欲望が原因」と言われる、主に向き合い、心探って頂こう。そして「願いなさい」と言われる主に、愛していて下さるので、思いを越えて豊かに施して下さる主に、願い、主により与えて頂こう。
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少し頑張れば手に入るものは、主に求めないで自分で取りに行き、人も欲しがるなら、争いになるかもしれない。そのような欲望がある。自分の欲望や願いには必ず主に介在して頂きたい。


2012年11月22日(木)

「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」創世記3:10」

     
エデンの園で、アダムとエバは罪を犯した。その後、園で主の御声を聞いた時に、主の御声を避け、身を隠した。罪の結果であった。何のへだも無い自由な喜びと楽しみの交わりにあった主を避け、隠れるようになる。アダムとエバも互いに、身をおおい、隠し合うようになった。そんな彼らに、悔い改めの機会を与えるために、主は「どこにいるのか」「食べてはならないと命じておいた木から食べたのか」と御声をかけられた。

「私がが食べました。ごめんなさい」と言えたなら、どんなに良かったろう。アダムはエバのせいにし、更にはエバを与えた神のせいにした。エバも蛇のせいにし、そして蛇を造ったのは誰かという事になる。自らの自我の姿が重なる。人が悪い、環境が悪い、自分は被害者であり、悪くない。主は愛ゆえに、悔い改めに導こうとされる。主が示される、自らの罪を認めないなら、主を嘘つきにしてしまう。

「もし罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とする。神のみことばは私たちのうちにない」最も恐ろしい事になってしまう。「光の中を歩んでいるなら」=正直に罪を認めるなら「互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめる」。悔い改めるなら、どんな罪も赦される。悪いのは周囲で、自分は被害者にしていないか。罪を認める時、赦しを受け、平安に満ち、喜びと主の愛への感謝に溢れる。
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口には出さなくても自分を正当化する言い訳なら幾らでも思いつく。神の前にも言い訳をし、罪を犯していない振りをするなら、いつか自分自身が欺かれ、御声を聞いても、御言葉を読んでも、すべて人ごとになってしまう。


2012年11月21日(水)

「パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。主がモーセを通して言われたとおりである」出エジプト9:35


パロは様々な難に苦しめられると、「お前たちを行かせる」と言い、又、苦難が止み、落ち着くと、「行かせない」と言い、又、難が来ると「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。お前たちを行かせよう」と言う。「私は罪を犯した。祈ってくれ」とまで言い、一見、悔い改めに見えるが、モーセの祈りで、事がおさまると、又、心頑なになり、強情になる。

口ではそのように言うが、心の底では思ってはいない事の表われだ。王であり、最高権力者であり、何もかもが自分の思い通りに、自分を中心に思うがままに回って来たパロにとって、主の奇跡、みわざは、単に脅しに過ぎなかった。脅しが無くなれば、何の問題も無い。だから何も変わらず、同じように元に戻る。主の奇跡のみわざが、主ご自身を知り、主のご愛や真実を知るに至ることに、全くならなかった。私たちはどうだろう。

ただ単に災難であり、とにかく苦しみが去りさえすれば良いのだろうか。それならパロと変わりがない。「わたしが主であることを、あなたがたが知るためである」。様々な問題は、神が主であることを知るために送られている。それは、主ご自身を知る時であり、又、自分の内側が照らされる時だ。悔い改めがあるかも知れない。きよめられ、一段階成長の時だ。又、主のご愛を体験する時だ。
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目の前のことを通して主はいつも教えようとされている。その問題を通っているの自分にしか分からないことだ。ただ早く過ぎれば良いと思うが、主が与えて下さる成長の時と見つめて行けますように。


2012年11月20日(火)

「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」ヘブル10:22



邪悪な良心とは、主の十字架の血潮だけでは、心が満足できないため、そこに行ないをプラスする。つまり、自分の善行によって、受け入れてもらおう、愛されようとすることだ。主の愛を得ようとして、受け入れてもらいたくてする奉仕や献げものなら、人間の力によるものであり、それは主の十字架を無意味にしてしまうものだ。

「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」の通りだ。主はいたずらに死なれたことになってしまう。良心のとがめが辛くて、嫌で、良心のとがめを無くしたくて、追われるように、奉仕や献げものや伝道をしているだろうか。そうなら、それは「邪悪な良心」だと言っている。何か良いことをして、良心をなだめたい。とがめを消してしまいたい。

例えば、悪い態度をとり、良心のとがめを感じると、親切な行ないで返して、自分の内でチャラにする。何か良い事をして、良心をなだめて、とがめを消そうとする。これは全く御霊から来る平安ではない。主の血潮のみが、私たちの良心のとがめを消し去ることができる。御父へのなだめの供え物であり、とがめをきれいに取り去る。平安を与えられ、真心から神に近づくことができるようにされる。主の血潮以外のものがあるなら、きよめていただこう。主の血潮にのみ拠り頼もう。
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まわりに良い証しをと思うあまり必要以上に高いハードルを自分で決め、失敗を素直に認められないのかもしれない。良かれと思ってする行いは神様と繋がっているだろうか。よくわきまえられますように。


2012年11月19日(月)

「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』ルカ7:13    



やもめである母親の一人息子が、死んでかつぎ出されるところに、主は遭遇された。やもめの上に、たった一人の息子を失うとは、母親は、どん底の悲しみ、絶望であったろう。死だけは容赦なく立ちはだかり、後戻りも回復も不可能だ。何もかもが打ち砕かれてしまった状況だ。当時のやもめは、社会的に厳しい状況にあり、唯一頼りであった息子、そして生き甲斐であった息子を失うとは。

心引き裂かれる、はらわた裂かれる思いだったろう。生きる望み、支えが無くなってしまった。泣き続けていた。そこに、主が「泣かなくてもよい」と御声をかけられた。「かわいそうに思い」「深い同情をよせられ」「憐れまれ」とあり、強烈な同情だ。腹の底からの憐れみが湧き出で、溢れ出て、主は青年を癒された。

母親から頼まれてではなく、一方的に主の溢れ出る憐れみによってであった。「青年よ。起きなさい」の言葉で、青年は生き返った。主は口先でなく、「深い同情」と共に「力」を持っておられる。「泣かなくてもよい」はその通りに実現し成就した。同じ主が、今、悲しみのどん底に、絶望にある私たちに、腹の底からの同情を寄せていて下さる。

そして、主の御口から出る言葉は、私たちの心に奇跡を起こし、揺るぎない「平安」をもたらす。「彼を母親に返された」取り返し不能、完全に失ってしまった状況に、決定的解決を与えられた。この同じ主が、今、あなたの目の前におられる。
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辛い問題に遭遇した時、信仰を持っているのだから平安に、と自分を納得させようとするが、思い煩い、落ち込んでいる私達を、まず「かわいそうに」と主は深い同情を寄せて下さる。ありのままで主に向いておられるとは、なんと幸いだろう。


2012年11月18日(日)

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分 の心で自分を窮屈にしているのです」Uコリント6:12


「自分で自分を窮屈にする」と言っている。窮屈とは、心にゆとり
なく、狭くして行くことだ。それは人からされるのでなく、自分で
していると。

それは、自分の間違い、罪を認めず、そのままにしていると、心が
固くなり、閉ざされて行くことだ。心が閉ざされると、御言葉が入
らなくなり、ネガティブな思い、肉の思いで心が支配されてしまう。

「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた
知性と仲たがいする」の通りで、自分の思いにだけ向かう。肉は、
罪を決して認めようとはしない。

例えば、人から指摘を受けた時はどうだろう。ムッとし、カチンと
来るだろうか。又、即、弁解や言い訳が出るだろうか。そこに何か
が潜んでいるということだ。

又、人が賞賛された時はどうだろう。ザラつく心があるだろうか。
心に何かを感じる時、それは、そこに何か認めたくないものがある。
妬みや、プライド、虚栄だろうか。心探ってみよう。もし心に何も
無ければ、ザラつきはない。平安だ。

ある人が、親友が褒められる時、心がザラッとする事に気づいた。
その心を、気持ちをあるがまま、主に祈った。すると自分の心の奧
に妬みを示された。最初からあったものだが、相手は親友であり、
決して認めたくない。無意識にも、無い事にして、おおい隠してい
たものだった。
主の御前に心底悔い改めた。心がすっきりして、平安になった。内
側を光で照らし、自分で窮屈にしている心を自由にして下さる。主
に心の内を告げよう。
・・・・・・・・・・
うすうす気づいている事があるなら、主の御前に出て、心の内を打
ち開けよう。うすうす気づいているのは、向き合って認めたくない
のかも知れない。プライドに触れるのか、虚栄心か、主は取り扱い、
辛い心を解き放って下さる。


2012年11月17日(土)

「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒が ありません』と言った」ヨハネ2:4



カナで婚礼があり、そこに主も弟子たちもマリヤも出席していた。
その喜びの婚礼の最中に、ぶどう酒が無くなった。マリヤがその事
に気づいた。その時に、何よりも先に、主に「ぶどう酒がありませ
ん」と告げた。

マリヤは自分の思い、知恵で何とかしようとせずに、まず自分が動
き、何かをするのではなく、主のもとへ行き、告げた。私たちはど
うだろう。ぶどう酒が無くなるという、突発事態が起きた時に、ど
うするだろう。それは経済的問題か、健康上の問題か、対人関係の
悩みか、何かの苦境か・・突然、ぶどう酒が無くなってしまうという
事態を経験する。

そこで、主に拠り頼ませたいと思っておられる。「立ち返って静か
にすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなた
がたは力を得る」むしろ、主に頼らせたいがために、ぶどう酒を止
められる。自分で何とかしようとせず、まず、主のもとへ行くこと、
主に頼ることを学ばせたい。

「しかし、あなたがたは、これを望まなかった」「いや、私たちは
馬に乗って逃げよう」「早馬に乗って」と。私たちは、すぐ自分の
思いと自分の力で対応、解決しようとして、失敗する。パニックに
なり、主が飛んでしまう。
マリヤのように、すぐに「ぶどう酒がありません」と主に告げよう。
主が解決に導き、その中で、主を経験し、味わい、溢れる恵みで満
たして下さる。
・・・・・・・・・・
突発事態が起きた時に、何とかしなければ、早く解決しなければと、
自分が立ち上がり、頭を巡らして、動いてしまう。立ち返って静か
にする事、まず祈る事を、事態の度に練習を重ねて行こう。主が動
かれる事を経験する。★体調不調に沢山のお励ましメールを有難う
ございました。心から感謝致します。お一人〃に主の祝福をお祈り
致しております。


2012年11月16日(金)

「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」詩編62:8


ダビデは、王であり絶対権力を持つサウルに、絶えず追われたいた。命をつけ狙われ、実際、槍をダビデ目がけて、投げつけられた事もあり、どんなに恐怖で不安だったろう。絶えず死と隣り合わせだ。しかし、ダビデは、サウル王を倒すチャンスが目の前にあったのに、決して手にかける事はしなかった。「私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ」と。そして「私があなたの命を大切にしたように、主は私の命を大切にして、すべての苦しみから私を救い出して下さる」と、どこまでも信仰に立ち、御心の中に立った。

そう出来たのは、ダビデが絶えず、主の御前に自分の心の何もかもを注ぎ出し、訴え、泣き、わめき、感情をぶつけたからだ。不安、思い煩い、怒り、苦しみ、悲しみ、愚痴、嘆き、不満、何もかもを主のもとに持って行った。建前、きれい事でなく本音を赤裸々に告げた。隠された底の気持ち、感情を主に受け止められる時、心が癒される。詩篇の様々な箇所で、まずダビデは主に気持を訴えている。

そしてその後、それらは賛美に変えられている。13篇では「主よいつまでですか。私を永久にお忘れになるのか、いつまで御顔を隠されるのか」「心には一日中悲しみが・・答えて下さい」と。しかし、「私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います」と賛美に変わる。心の底をことごとく注ぎ出そう。状況は変わらずとも、必ず心に平安が与えられる。
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心を注ぎだして祈ることで目はしっかり神様に向けられ、自我も祈りの中で砕かれて行く。祈りを通して目の前の状況から心が守られ御霊の支配の中に入っていける。


2012年11月15日(木)

「・・そのさとしを待ち望まなかった。彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」詩編106:14



イスラエルの民は、激しい自分中心の欲望にかられて、わがままに、自分勝手に主に願い求めた。しかし、主は彼らに、彼らの願った通りのものを与えられた。だが、彼らは、決して心満たされることはなかった。願ったものは得たが、心はやせ衰えて行った。

主は、民がどうしても欲しい、何があっても欲しいというものを与えられた。しかし、その結果は、欲しいものを得て、心は満足するはずなのに、そうではなく、平安無く、喜び無く、ますます虚しくなって行った。私たちも、これが絶対に欲しい、これを持つと絶対に自分は幸せになれる、満ち足りると思い、どうしても手に入れたいと願う。しかし、自分が幸せになると信じている、そのものが、真に自分を幸せにするのではない事に気づく。

自分はこれが絶対だと思うものが、自分にとって真に良いものだとは限らない。私の最善は、主がご存じだ。「彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった」さとしを待ち望まなかったとあり、自分が思うものは、真に自分のためになるとは限らないので、主のさとしを求めるのが良いのではないか。

日々、主のさとしを待ち、御霊が教えて下さること、語って下さる御言葉に耳を傾けて行く。そこに真の心の満足と平安がある。そして、自分が一番願っていたものは、欲しかったものは、主との交わりであったと気づく。
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あれがあれば、これもあればと思うが、単に欲しいものが与えられた時よりも、主の御心を知り、主が最善をと与えて下さったものを受け取った時は、主と共に生きているんだとの実感で心は真に満ち足りて行く。


2012年11月14日(水)

「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神』」ヨハネ20:28


弟子たちが隠れていた家に、よみがえりの主が、ご自身を現わされた。「平安があなたがたにあるように」と。「弟子たちは、主を見て喜んだ」。どんなに興奮し、嬉しかった事だろう。平安と喜びに満ち溢れた。しかし、トマスだけが、その場にいなかった。自分だけがなぜ?自分のいない時に?自分が不在だったわけだが、不満な思いだったかも知れない。

「私たちは主を見た」と喜ぶ弟子たちに「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」と言った。そして、八日後、トマスが一緒にいる、弟子たちの部屋に、再びご自身を現された。そのトマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」と、トマスが言ったそのままを言われた。

「決して信じない」に「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。トマスの心の内の思いを何もかもわかり、受け止められている主の愛に触れた。自分で見なければ、決して信じないと言った、そんな自分に、個人的に向き合って下さった主に、まるでトマスのために、現れて下さったような状況に、彼、指を釘後やわきに差し入れずに、「私の」主、「私の」神と、最高の信仰告白をした。
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主は世界中でたった一人しかいない者のように私を愛して下さっている。そのような主の愛にとり囲まれている事に、どれほど気づいているだろう。かたくなな者を尚も愛して下さる主と共に今日も歩める。


2012年11月13日(火)

「そこで彼らは、イエスに答えて、『わかりません』と言った」マルコ11:33


祭司長、律法学者、長老たちが、何の権威によっているのかと、主に詰め寄ると、主が逆に問いかけられた。「ヨハネのバプテスマは天からか、人からか」と。天からと言えば、なぜ信じないとなり、人からと言えば、群衆はヨハネを預言者だと思っているので、人からどう思われるかが恐い。どちらの側にも立たず、「わかりません」に逃げ込んだ。

結局、真理は何か、何が真実かということでなく、自分が、人にどう思われるか、自分の立場を守ることが判断基準であった。時々、祈っているのだが、主の導きが、御心が、なかなかわからないことがある。そんな時、この祭司長や律法学者のような態度がないか、心探ってみよう。態度をはっきりさせたくなくて、逃げていたい。あいまいのままにしておきたい。従って行くための犠牲を払いたくない。あっちにも、こっちにもいい顔をし、良く思われたい。どちらも欲しい。

しかし、時に、はっきり迫られる。「群衆なのか、主なのか」「人の評価か、神の評価か」。「わかりません」と逃げると、「わたしも・・話すまい」と言われた。「わかりません」と逃げないで、「人を恐れています」「中途半端です」「犠牲を払いたくないです」と、ありのままの姿を認めて、「でも、助けて下さい」と主の助けを求めよう。そうするなら、御心へと導いて下さる。
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御心を知ろうと御言葉を求めて聖書を読むが、尚も分からない、という経験をする。都合の良い御言葉を求めるあまり「わたしも・・話すまい」と主が言われているのを聞き逃しているのかもしれない。


2012年11月12日(月)

「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4:7

信仰生活で、様々な苦しい状況に陥り、悩む。経済的苦境、健康上の問題、また対人関係かも知れない。難しい人間関係に遭遇し「あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ」との御心を行なえない、愛せないことに悩む。どれだけ頑張っても、愛せないことを知る。心に平安と喜びがなく苦しい。

「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」「自分の敵を愛し」と言われるが、どうしてもできない。心は悶々状態だ。又、何かの深刻な状況が生じ、思い煩いで一杯かも知れない。こんな時はどうすれば良いのか。

まず、主のもとへ行き、心の内を余すところなく打ち明けることだ。感情も、気持ちも、思いも、何もかもを主にぶつけよう。心の痛み、苦しみ、悲しみが頂点に達した不妊のハンナは、「主に祈って、激しく泣いた」「長く祈って」「心を注ぎ出していた」「つのる憂いといらだちのため、今まで祈って」心の底の誰にも言えない思い、感情、気持ちをすべて洗いざらい告げた。

そして祭司から「安心して行きなさい。願いが叶えられるように」と言われ、ハンナはすっかり変わってしまった。平安と喜びに満たされた。泣いて食事をしようとしなかったのに、帰って食事をした。彼女の顔はもはや以前のようではなかった。苦しい気持ちを、感情を、まず主のもとに底の底まで赤裸々に告げよう。心が変えられて行き、感謝と平安へと導かれる。
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問題の度に自分で心配し、自分で自分を安心させる必要はもうないと主は言われる。主に持って行き、握っている問題を主にお任せできるように祈ろう。世の平安とは全く違う神の平安を経験する。


2012年11月11日(日)

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」ルカ1:28



マリヤに、突如、御使いガブリエルが現れ「おめでとう、恵まれた方・・」と語りかけた。突然の事に、マリヤが戸惑っていると、「あなたはみごもって、男の子を産みます・・」との言葉。驚いて「どうしてそのような事が・・」に「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおう」と。聖霊によってと答えられた。そして「神にとって不可能なことは一つもない」と。

マリヤが主を選んだのではなく、主がマリヤを一方的に選ばれた。そして用いようと計画された。主の主権によることだ。マリヤは、その時には、はっきりと明確な意味はわからなかっただろう。クリスチャンを迫害し、死に至らしめていたパウロが、突然、天からの光で地に倒され主の御声を聞いた時も、よくはわからなかっただろう。しかし、異邦人伝道者として、主の偉大な計画が備えられていた。

マリヤは、先の先までわかったわけではないが、「私は主のはしためです。おことばどおりこの身になりますように」と、自分を用いようとしてされているのであればと、身を委ねた。ヨセフも、結婚も、周囲の目も、自らの命も、主に任せた。そのマリヤは、大きな御心のために、主の栄光のために用いられた。

私たちの人生にも、主のご計画があり「主のはしためです。おことば通りこの身になりますように」と献げる人々を用いて下さる。「どうしてそのような事に」と足踏みしているだろうか。「神に不可能は無い」との言葉を信じて御心に一歩踏み出そう。
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御霊による導きが分かったなら、いと高き方の力を信じ身を委ねて行こう。御心の真ん中を歩み、主の栄光を表わすことが弱い私達にも出来る。


2012年11月09日(金)

「・・なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11

「求めなさい。そうすれば受ける」とあり、「祈れ、与えられる」と。しかし、祈っても〃、叶えられない祈りも経験したのではないだろうか。答えられない祈りについても、教えられている。

まず、御心にかなっていなければ、叶えられない。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はそれを聞いて下さる」とあり、御心にかなう願いだけが答えられる。良い願いだとしても、もし、今それを持って高慢になってしまうなら、滅びてしまう。それゆえ差し控えられる。神の答えは、常に今の状況、先の事、すべてを配慮の上で、与えて下さる最善のものだ。

又、主は与えて下さるが、まだ時でない場合がある。私たちはなかなか待てない。今すぐに答えが欲しい。すぐに手に入れたい。しかし、アブラハムはイサクのために25年待った。ヨセフも無実で投獄され、何年も忍耐した。答えを手にするのに、もっと〃待つ必要がある。だが「神の時」はすでに定まっていて、「もし、遅くなってもそれを待て。それは必ず来る。遅れることはない」。待ち望もう。

又、願ったものよりも、主が更に良いものを与えたい場合には、求めたそのものは与えられない。私たちはガッカリし失望落胆してしまうが、私たちの思いを越えた遙かに良いものを備えて下さっている。主が、私たちに下さるものは、常に私たちにとって「良いもの」だ。
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自分の祈りが御心に叶っているのかどうかわからないけれど、与えられるものは最善の時の最善の答えだ。なんと感謝なことか。ひとつひとつの祈りの中で神様はご自分の思いを教えて下さる。祈り続けよう。


2012年11月08日(木)

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが・・平安な義の実を結ばせます」ヘブル12:11


信仰生活の中で、様々な対人関係を経験する。非難されたり、傷つけられたり、理不尽な扱いを受けたりすると、赦せない思いが出て来る。赦さなければという思いと、どうしても赦せない思いが葛藤する。赦せない思いには、とがめが来て、平安が失せるので、心が苦しくてたまらない。実は、自らが憎むという罪を犯しているゆえに、心が煩悶し、平安が無い現状を、この苦しみは相手が悪いからだと思い込む。自分は苦しいので、更に相手を憎むことになる。

しかし、そうではなく、自分が憎んでいるという罪を認めて、主の御前に悔い改める時、平安が戻る。相手は全く関係がない。これら目の前に置かれている人は、神から来ている。神が置かれていて、私たちの訓練のためだ。「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」懲らしめ、訓練は、神の愛だ。目の前の人により、神は私たちを砕かれ、練られきよめられる。

「訓練と思って耐え忍びなさい」「聖さにあずからせられる」「平安な義の実を結ばせる」、厳しい、痛い、悲しい、辛い事により、「愛、喜び、平安、寛容、親切・・」の御霊の実を結ばせて下さる。今、辛い対人関係があるなら、「軽んじ」ないで、しかし「弱り果て」ずに、主からのものと受け止めよう。耐えられない試練は、はなから来ない。与えられない。脱出の道もある。主の御心を求めよう。
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苦い思いや辛い問題は、主に似るために通される訓練と受け取り、受け入れられない自分の心と向き合いたい。どこが変わればいいのだろう。主に問い主に明け渡して行きたい。


2012年11月07日(水)

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み・・」マルコ7:20


人間の罪は、外側の問題ではない。外側から来て、ウィルスのように身体に入るのではない。私たちの内側から、心の中から生じて、外側に出る。だから汚れや罪は心に宿る。「これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」の通りだ。外側は関係なく、自分の内側から出て来る。

アダムとエバの息子カインは、心の中から出て来る悪い思い、妬みや怒りに支配されて、飲み込まれて、弟アベルを殺してしまった。まず心の中から、内側から出て来る悪い考えが、殺人という行為に及んでしまった。これはカイン本人の問題であり、アベルは関係が無い。しかし、アベルの献げ物が神に受け入れられ、自分の献げ物が退けられたという、その事態しか見えず、心の内に湧き上がる、悪い考えに目が向かない。その怒りが外側のアベルに向いた。

私たちは、怒りや憎しみ、敵対心が出て来る時、その原因を外側にあるとしか思わない。そうとしか見えない。相手が悪いから、自分が憎んでいるとしか見えない。憎んでいる自分の罪にはいっさい目が向かず、相手のせいと、相手を責め続ける。そして心は苦しく平安が無い。実は、自分の問題を人のせいにしてしまっている。自分の問題であり、自分の罪であると受け止める時、主の十字架により、解決へと導かれる。答えがそこにある。心が解放され、自由にされる。
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外からの問題と必死で戦っている限り、次々とわいて来る内からの罪は見過ごされ増えて行く。そこにある自分の罪を主にしっかりと認めよう。主によって自分が変えられることが勝利だ。


2012年11月06日(火)

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです」詩編119:9


信仰生活で、サタンの誘惑が来た時には、主の御言葉、主の御心に思いをつけて行くことだ。そうするなら、誘惑に抵抗して行ける。主は、荒野でサタンの誘惑に会った時に「・・と書いてある」とだけ言われた。すると、サタンは、神の言葉によって退かねばならなかった。ダビデは、ダビデを妬んだサウル王に、命をつけ狙われた。何も悪い事をしていないのに、荒野に逃げ隠れ、非常な恐怖とおののきの中、生死をさまよった。

そんな中、サウルを討つ千載一遇のチャンスが訪れた。ダビデの部下は、サウルを殺させて欲しいと願った。今こそが、神の与えたチャンスと。しかしダビデは自分の損得、自分の都合ではなく、主の御心を第一にした。「主に油注がれた方に手を下すなど、絶対にできない」。主がサウルを打たれる、殺してはならないと。ダビデは罪を犯す事から守られた。

今、目の前で、自分を執拗に殺害しようとする相手を、打つ事が可能とは、どんなに誘惑だった事だろう。しかし、誘惑に乗らなかった。私たちが自分の道をきよく保つためには、御言葉に従うことだ。「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました」御言葉を、頭の知識でどうこうするのでなく、心深くに蓄えることが大切だ。

頭と心の違いを経験する。御霊に拠り頼み、御言葉を信じて行く時、誘惑に打ち勝てる。誘惑に対抗するには、「御言葉」が鍵で、従って行くことだ。その時、御霊の助けが臨む。
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自分の思いに来る誘惑に、観念的な思いでは絶対に勝てない。御言葉に立つために、いつも来る誘惑には打ち勝つための御言葉をいつも持っていよう。


2012年11月05日(月)

「マルタ、マルタ、あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことは・・一つだけです」ルカ10:41


マルタは、主をもてなすべく、ありとあらゆる準備をしていたが、余りの忙しさに、イライラピリピリして来た。一方、マリヤはというと、主の前でじっと座っている。マリヤは一心に主が語られる御言葉に耳を傾けていた。マルタは、何もしていないマリヤを見た時に、腹立ちと裁く思いが出て来る。主に訴え「妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのか」そして主に指図する。「私を手伝うように、妹におっしゃって下さい」と。

しかし主は、マリヤはどうしても必要な一つのものを選んでいる。彼女からそれを取り上げてはならないと、マリヤのしている事を認められた。マルタは主のための尊い奉仕をしていたが、いつしか、主のためではなく、自分の事でいっぱいになっていた。心は主にではなく、自分に向いていた。自分軸になるので、状況しか見えない。

目の前におられる主が見えなくなっていた。平安と喜びが失せ、焦り、いら立ち、思い煩いで一杯だった。「あなたは色々な事を心配して、気を使っています」。イライラする時、人も状況も関係無い。自分の問題だ。自分が主にとどまらずに、自分の思いと自分の力で動き回っている。平安が失せた時は、心のイライラ、怒り、焦り、思い煩いをそのまま、主のもとに行き、ことごとく告げよう。主の平安と交換して下さる。
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自分が納得できる事が一番で、主の御心は二の次、三の次ぎとなっていないだろうか。自分にとってどうしても必要なことは何か、平安がない時は主の元に行き主に尋ねてみよう。


2012年11月04日(日)

「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません」マタイ1 4:17



主の話を聞きに来た人々が、男だけで五千人の人々、女、子供を入
れると更にそれ以上だった。時刻ももう回って来た。その人々に対
してどうすれば良いのか。弟子たちの考えは「群衆を解散させ、め
いめいで食物を買うようにすればよい」だった。

これは、この状況において、普通の考えであり、良いプランであり、
常識かもしれない。しかし、主のお心は違った。「あなたがたで食
べ物を上げるように」。私たちも自分の思い、考えを脇に置いて、
主の御心を尋ね求める事を教えられる。でなければ方向を間違って
しまう。

弟子たちは、主にそう言われたが、手元にあったものは、五つのパ
ンと二匹の魚だけであった。「これしかありません」。私たちも目
の前の状況と自分だけを見て、判断する事がないだろうか。この難
問題に自分の能力では無理、山ほどの必要に自分に何が出来よう、
自分に持てるものなど焼け石に水だ。こんな微少のものは意味がな
い。

気が遠くなるほどの事態を前に、持てるものは余りにも僅かだ。し
かし、主がおられる事が飛んでしまっている。主に不可能は一つも
無い。「それを、ここに持って来なさい」その僅かなものを、主の
もとに渡すようにと。

自分自身を明け渡そう。こんな僅かなものが何になろう、と思って
いるだろうか。主は、献げられたものを受け取り、いかに祝福され
るかは、驚くばかりだ。

・・・・・・・・・・・・・
「こんなものが何になるのか」と思ってしまう僅かなもの、それを
「ここに持って来なさい」と言われている。自分が持っているなら
そのままで終わるが、主のもとに持って行く時、用いて下さって大
きく祝福して下さる。


2012年11月03日(土)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方 ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださ います」Tヨハネ1:9



「罪を言い表わすなら」とは、犯した罪をその通りですと、認める
ことだ。その通りですと認める告白するなら、神はその罪を赦して
下さる。しかし、肉は「その通りです」とは認めたくない。認める
のは痛くて、辛い。プライドに触れて来るからだ。どうしても言い
訳、弁解をして、自分を正当化したい。

こんな罪を犯してしまったのは、状況が悪かったから、相手が悪か
ったから、仕方が無かったと思いたい。肉は、何とかそこに持って
行きたい。自我は、どうあっても「ごめんなさい」だけは言いたく
ない。しかし、そうであれば、赦しを受けることができない。主の
愛に触れ、赦される喜びを知ることもない。

あるがままで主の御前に行けばよい。「認めることができません」
「いや、そうではなく、認めたく無い者です」「でも、認める事が
できるよう助けて下さい」、その祈りに主は答えて下さる。罪を認
めて悔い改める時、罪が赦される。主の十字架のゆえに、苦しい心
に平安が戻り、喜びが戻る。

バテシバとの姦淫とウリヤ殺害の罪を犯したダビデは「黙っていた
時には、1日中うめいて、骨々は疲れ果て」「御手が昼も夜も重く
のしかかり、骨髄は夏のひでりのように乾ききった」苦しみもだえ
た。

しかし、罪を主に告白した時、ダビデは赦された。主との関係が回
復されたダビデは「主にあって、喜び、楽しめ。喜びの声をあげ
よ」と。大きな喜びが戻った。もし、今、言い訳に終始し、逃げて
いるなら、自らの罪を認めよう。計り知れない安堵と喜び、大きな
祝福の中に入れられる。

・・・・・・・・・・・・・
罪を認め告白するなら、完全に赦されるというのは、何と驚くべき
恵みだろう。心底の安堵と喜びが戻る事を何度も〃経験する。プラ
イドが罪を認める事を妨げる。御霊が罪を示し、悔い改めを促して
下さるので、逃げずに従おう。赦される喜びを味わう。


2012年11月02日(金)

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」ヨハネ15:5


ある人が、短気に悩んでいた。とにかくすぐにカッとなる。怒りが噴き出す。もうイライラし出すと、止まらない、おさまらない。あれもこれもと連鎖して、腹が立って仕方がない。普段ならどうも無い事まで、些細な事にもカッカする。どうしても身近な家族に、甘えがあるので当たってしまう。当然のごとく害毒をまき散らしてしまう。しらけた、暗い、嫌な空気になる。冷静になると、自分も暗たんたる気持ちになり、自己嫌悪に陥る。反省を繰り返すのだが、直らない。

主に助けを求めて、主の御前にことごとく告げて祈った。その中でイライラする時、自分は猛烈に「怒りたい」と思っている事に気づかされた。怒りたくないのでなく、怒りたい。その一番自分の弱い所に、絶えずサタンの攻撃が来ている事を知らされた。そして、自分に余裕がある時は、つまり御霊に導かれている時は、同じ事でもイライラしないし、カッとしない事にも気づいた。

主と共に歩み、心に平安と喜びがある時は、短気にならない。余裕があって受け止める事ができる。状況や相手ではなく、問題は自分だと示された。主と交わり、御霊に導かれて歩む時、心に平安と喜びがあるので、主と共に対応できて、状況に、相手に反応するのでなく、流されるのでなく、意志をもって行動して行ける。御霊と共に歩む事、主にとどまる事が解決だと教えられた。
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苦しくなりイライラする時、主から離れ肉に歩んでいるかもしれない。私たちは主から離れては何も良いことは出来ない。主から離れている時に気づけますように。


2012年11月01日(木)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」ヤコブ1:14


「人はそれぞれ自分の欲に引かれ」とあり、人には欲望があり、強い欲求がある。主は、人を欲望を持つ者として創造されたので、欲望そのものは罪ではない。しかし、良いものだが、人間には罪の性質があるので、欲望に引かれ、おびき寄せられ、罪を犯すことになってしまう。「自分の欲」とあるように、外ではなく、内側に問題がある。

様々な問題が起こる時、周囲が悪い、相手が原因だと思いたいが、実は、相手の問題ではなく、「自分の欲に引かれ、おびき寄せられ」た結果だと。相手の悪い態度で、敵対心を抱き、憎しみが湧く時、どう見ても、相手が悪いとしか見えない。しかし、敵対心を抱き、憎むという罪を犯したのは自分だ。それを認めたくないので、相手のせいにしている事も多い。相手のせいにしている限り、欲望に引かれ、おびき寄せられている自分の姿が見えない。

サタンは、私たちの欲望に働きかけ、餌を投げかけ罪に誘惑する。しかし、サタンは、私たちに罪を犯させる事はできない。誘いかける事しかできない。その誘惑に乗って罪を犯してしまうのは、自分自身の選択であり、自分の責任となる。一人一人、欲のありかが異なる。強い欲があるところに誘惑が来る。名誉、地位、富、人からの賞賛、評価、自己実現、自分の一番強い欲は何だろう。それを認めて、祈って行く時、主によって守られる。
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私たちはどれだけ罪と戦っているだろう。問題の外側ではなく自分の内にある罪を意識し、サタンに煽られさらに大きな罪を犯す前に主に認め対処していただこう。