2012年12月31日(月) 「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」申命記8:16
「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」申命記8:16
モーセは「荒野の40年間の全行程を覚えていなければならない」と言った。この全行程とは、荒野の40年の間イスラエルの民に、どのように関わって下さったかということだ。イスラエルの民は成人の男性だけで60万人いたから、女性や子供も含めると200万人はいただろうと言われている。 この膨大な数の人々を40年間も、何も無い荒野で養うというのは、まさに主の奇跡だ。「この40年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」とあり、荒野で、強い日射しや砂ぼこりの中を歩いて行くが、着物はすり切れることなく、足もはれることがなかったと。主の暖かい愛と配慮、守りと助けがあったからだ。 そして、毎日、天からマナが降り、うずらが飛んで来た。作物を育てる必要もなかった。40年のみわざだ。又、主は同時に「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない」と言われ、愛のゆえに、懲らしめ、訓練される。この1年も、主はどのように、あなたに関わって下さっただろう。 日毎に暖かい愛と配慮があり、必要が備えられ、そして、訓練があった事だろう。全行程を覚えているようにと。又、今、荒野にいるだろうか。厳しい状況だろうか。しかし雲の柱、火の柱によって民が前進したように、荒野でこそ、主が力強く共におられる。 ---------------- この一年、日々のことばの奉仕に預かれたことを心より感謝いたします。年始は4日から配信となります。よろしくお願いします。
2012年12月30日(日) 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣
ある人が、初めて教会へ来た時に、「義人はいない。ひと りもいない」「あなたは罪人です」との説明を受けた。正直、 カチンと来た。法に触れる罪を何ら犯してはいない。人一倍 真面目に生きて来たつもりだ。それがどうして?しかし、教 会で聖書の学びを続ける内に、聞いた言葉が、耳を離れず、 心に留まり、罪人ということを考え続けた。 様々な思いが巡る中で、今まで、全く考える事もなく、目に も留まらなかった、心の内側のことが見えて来た。自分は、 施設で、人々のために、身を粉にして一生懸命頑張っている と思っていた。周囲の皆にもそう思われていた。良い人であ り、皆に感謝されていた。しかし、心の内を見た時に、自分 が人に良い人だと思われたい、嫌われたくない、受け入れら れたい。それなら目の前の入所者の人々のためではなく、自 分のためではないか。 人々からの賞賛は心地良い。仕事も、自己実現のため、生き 甲斐のある仕事がしたいからだ。それなら自己満足ではない か。物腰は低く、決して外には出さないが、しかし、心の中 では人々を見下している自分、自分が正しいと常に思ってい る自分。御言葉を学ぶ中で、御霊の光が来て、自己中心、高 慢、プライド、虚栄心・・が示された。 御霊の光が無ければ、罪はわからない。誰だってしている。 こんな事、当然であり、何が悪いのかわからない。罪がわか ること自体が大きな恵みであり、御霊が力強く働いていて下 さる証拠だ。感謝なことだ。 ---------------- みんなしている、そんなことが罪かと思うようなことが罪だ と理解できるのは、決して自分発ではない。御霊の光を通し て日々教えられ、示されている。御霊の示しに敏感でおれま すように。
2012年12月29日(土) 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11
サタンの攻撃は、いつもうじうじと後ろ向きでネガティブだ。過去の事で、ずうっと責めて来る。あの時、ああしていれば・・、この時、こうしていなければ・・、もし、こうなって、ああなっていたら・・、思い出させては、くよくよと後悔させる。私たちは過去に、沢山の失敗をし、どれだけ気をつけていてもミスをし、罪を犯した。しかし、悔い改めた時、主の血潮によって完全に赦された。 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さない」。完全に赦されていて、主が思い出さないと言われるに関わらず、サタンは過去を掘り返して来る。 又、過去の恨みつらみはどうだろう。主に在って赦したに関わらず、サタンは吹き込んで来る。しかし、「キリストの御前で赦した」「これはサタンに欺かれないため、サタンの策略を知らないわけではない」サタンは策略を持って攻撃して来る。サタンに聞いて行くと、平安が失せて、赦し、赦された事も吹き飛んで、再びうじうじし始める。サタンの攻撃だ。 心は暗くなり、重苦しくなる。しかし、御言葉に立つ時、サタンは退かなくてはならない。主が荒野の誘惑で、「と書いてある」と御言葉によって、打ち勝たれたように。サタンに立ち向かうために、どうしても御言葉が大切だ。 サタンのもう一つの攻撃は、先の事を思い煩わせる事だ。恐れ、不安、心配に落ち込ませる。今、サタンの攻撃を受けていないか。 ------------------ 主により平安を受けているのに、なぜか心が後ろ向きで苦い思いの時、サタンだとすぐに気づけますように。弱い所に繰り返し来るサタンに立ち向かえる御言葉をいつも心に備えていよう。
2012年12月28日(金) 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」ヘブル4:15
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」ヘブル4:15
主は、同情し、あわれみ、思いやって下さる方だ。私たちが苦しい時、悲しい時、辛い時、黙って寄り添い、そのままの気持を受け止めて下さる。何と有難いことだろう。悩みの問題点を的確に把握し、バシッ!と解答を示す、そういう事ではなく黙って気持ちに寄り添って下さる。 ある人の経験だ。教会学校の一人の子供が、大変乱暴だった。わざと、皆をかき乱す事をする。関心を持って欲しいのはわかるが、度を過ぎる態度に、奉仕者は困り果てた。その事について祈っていた時に、家庭を訪ねてみる事を思いついた。祈って、その子供の家庭訪問をすると、母親と話ができ良い時を持てた。 その子供の不幸な成育歴、悲惨な現実に愕然とし、むしろその程度でおさまっている事が、不思議に思えた。奉仕者の気持ちが変わってしまった。その子への同情、愛情を感じ、見る目も変わった。すると、その子が段々目に見えて変わり、落ち着いて行った。 事情を知り、理解する事は、受け止めて行くことの助けとなる。 自分がもしその立場なら、自分なら耐えられないだろうと思う。 その時、偏見や独断から守られ、受け入れようとする心が芽生える。そして主は私たち自身の成育歴、境遇の何もかもをご存じで、理解し、愛し、受け止めていて下さる。 --------------- 失敗や弱さを実感する度に落ち込み自分を裁くが、主はまずその心に寄り添って下さる。なんと慰められることだろう。安易に人を裁く思いが来る時、主がかけて下さった憐れみを数えてみよう。
2012年12月27日(木) 「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」出エジプト14:14
「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」出エジプト14:14
モーセに導かれたイスラエルの民は、とうとう出エジプトを果たした。しかし、窮地に陥ったため、出国を許可したパロだったが、命令を翻し、最強の追っ手を遣わした。エジプト軍えり抜きの戦車部隊と全戦車が迫って来た。後方から追っ手がどんどん迫り、目の前は紅海だ。前進も後退も出来ない。まさに断崖絶壁の窮地であり、絶体絶命であった。 しかし、主はこの事態の目的を「パロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わすため」と言われた。モーセが手を海の上に差し伸ばすと、海が陸地となり、水が分かれた。その真ん中を民は渡った。そして、手を伸ばすと、海がもとの状態に戻り、エジプトの全軍勢をおおった。「民はこの大いなる御力を見たので、主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた」、つまりこの瀬戸際の窮地は「神の栄光が現れるため」「民の信仰が強められるため」と言われた。 私たちも、窮地に立つ事がある。身動きの取れない状況に陥る。しかし、まず落ち着こう。「恐れるな」「しっかり信仰に立て」「わたしがあなたのために戦う」との御言葉に立とう。主は海の真ん中に道を造られた。道無き所に、道を造られる。神の栄光とは、神にしか出来ない事が起こり、それがまさに神である事がわかる事だ。今、目の前の問題があるなら、主があなたのために戦って下さる。信じていよう。 ------------ 窮地の時はまず祈ろう。主を仰ぐだけで心が落ち着き心を守って下さる。そして自分の思いで落ち込み焦るのではなく、主にしかできない奇しい御業を信じしっかり立っていよう。
2012年12月26日(水) 「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」マタイ1:23
「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」マタイ1:23
御使いが、すばらしい喜びの知らせ、「あなたがたのために救い主が生まれた」と伝えた。信仰生活の中で、どういう事が救いなのだろう。病気が治ることだろうか。どんな病気でも癒されることだろうか。それは確かに救われることであり、感謝なことだ。しかし、現実生活で、病気は次から次へと経験するし、又、すべての病気が完全に治るわけでもないことも知っている。 パウロも、願いに関わらず、とげは取り去られなかった。経済的困窮の中で、必要が満たされることも救いだ。しかし、パウロは豊かさと同様に、貧しさの中にいる道も知っていた。御心なら貧しさも通される。自分の思い通りでない、苦しい状況はどうだろう。状況が無くなることが救いなのだろうか。 ある人が、親が倒れ、障がいが残り、体調も悪く、親が以前とは全くの別人に感じた。大きな強い存在だった親だけに、ショックを受け、どうして良いかもわからなかった。出来ることも無いように思えた。ひたすら主に気持ちをあるがまま打ち明け、祈りに祈った。祈り続けている中で、良くなろうと、このままであろうと、何もかもが御手の中にあり、どうであれ、最善がなされると平安に満たされた。救いとは、どんな時も、どんな状況の中でも「インマヌエル」主が私たちと共におられる、ということだ。 ------------- すぐにはわからなくても、渦中の中で思わぬ助けが与えられたり慰め励ましで心が暖かくなっていたり。私達は孤軍奮闘しているように見えても、常に主が共にいて、どのような中でも主の恵みを受けることができる。
2012年12月25日(火) 「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」ルカ2:7
「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」ルカ2:7
ローマの皇帝アウグストが、税金徴収の基礎となる人口調査を命じたために、それぞれ故郷へ帰って登録する事になり、多くの人々が繰り出した。そのため混雑していて、マリヤとヨセフのために、一つの部屋も無かった。臨月のマリヤに譲ってくれる人も無かった。救い主の誕生が、大々的な歓迎の中で迎えられたのではなかった。 人々は皆、自分の事で忙しく、無関心であった。むしろヘロデは、東方の博士たちから新しい王の誕生を耳にし、自分の地位が脅かされる事を恐れ、主の殺害計画を企てた。実際に2歳以下の子供を抹殺した。ヘロデが恐れるのはわかるが「エルサレム中の人も王と同様であった」。今の生活が一応成り立っているからには、乱されたくない、関わりたくない。ひたすら保身であった。 喜び迎えたのが、社会の最も底辺にいる、極めて貧しい羊飼いたちであった。そして彼らの仕事は非常に厳しい現実があった。その彼らに真っ先に救い主の誕生が知らされた。彼らは、飼い葉おけのみどりごを捜し当て、礼拝した。もし家畜小屋でなく、宮殿や普通の家でも、彼らは、見ることができなかったろう。「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」 彼らは喜びに満たされた。マリヤが「主は・・心の思いの高ぶっている者を追い散らし、低い者を高く引き上げ」と賛美した通りだ。光の中に住まわれる王の王、主の主が、へりくだって、人々に無視され、拒否された、このような中で生まれて下さった。 ------------- クリスマスおめでとうございます。主は弱い者に寄り添うために生まれて下さったことに感謝します。いつも自分の心の貧しさを知り、主の愛を素直に喜び、素直に罪を認め、主を求める者でありたい。
2012年12月24日(月) 「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」ルカ1:30
「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」ルカ1:30
マリヤは、御使いガブリエルから、突然の「受胎告知」を受けた。ヨセフと婚約中で喜びの中にいた時に。「おめでとう、恵まれた方・・」との御使いの言葉に、マリヤはひどく戸惑った。「あなたは男の子を産む」と。「どうしてそのような事が・・男の人を知りませんのに」とマリヤは率直に戸惑いの思いを御使いに向けた。婚約中に妊娠が知れたら、姦淫の罪で死刑だ。周囲にどんな目で見られるのか、家族親族への世間の目は、どうなるのだろう。何よりもヨセフは何と思うだろう。 しかし「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおう」と。恐れも不安も心配も、思い煩いも聖霊がおおわれる。「神に不可能は一つも無い」との言葉に、マリヤは、よくはわからなかったかも知れないが、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と、身を差し出し、応答した。マリヤの信仰だ。マリヤが望んだ事でも、選んだ事でもない。主が一方的にマリヤを選ばれた。 主は何でもおできになるが、しかし、私達の自由意志による応答により、神のわざを進められる。マリヤが応答した時に、聖霊により子を宿した。そして、マリヤは賛美した「本当にこれから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」。幾多の困難はあるかも知れないが、しかし、主に従う道は、最も幸せな道だ。 ------------- 主に不可能はないと主を信じ、人の知恵では計り知れない主のお導きに応答したマリヤの信仰に学びたい。恐れも不安もゆだね「おことばどおり、この身になりますように」の謙遜が、今日も語り継がれる。
2012年12月23日(日) 「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてくだ さい」詩篇25:4
「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてくだ さい」詩篇25:4
信仰と祈りにより孤児院を設立し、運営して行った、「孤児の父」 と言われたジョージ・ミューラー。彼が、神の御心を求めることに ついて、記していた。 「★まず最初に、どんな事柄であっても自分の願望ではなく、神に すべてを明け渡すことを求める。真実に主の御心に従いたいと熱望 するなら、どんな困難な状況でも克服出来る。90%の問題点がこ こにあり、御心のままにと明け渡す時、前に進んで行く。 ★神の御霊と、神の御心と、神の言葉の関連を熱心に追い求める。 聖霊の導きと御言葉は一体であり、神の言葉を無視して、聖霊の導 き知る事はできない。それなら自己妄想に陥ってしまう。又、誰で も聖霊の助けなしに、神に従う事も、人生の問題に挑戦する事も出 来ない。 ★そして、神の摂理の重要性を見る。その中で、神の言葉と聖霊が 明確に御心を示唆してくれる。そして、祈り、主が御心を正しく指 示して下さるようにお願いする。 ★御言葉を学ぶ中で、摂理を見て、熟慮の上に判断し、その上で平 安があるなら、御心だと知る。そして、他の問題も続けて提示し、 御心を求める祈る。」御心を求める際に、まず明け渡すなら9割方 解決だ。 どうしても明け渡せない、自分の思いがあるなら、明け渡せないこ とを認めて、そうできるよう、主に助けを求めて祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・ 信仰生活の中で、自分を明け渡すことが祝福であり、成長の秘訣だ と学ぶ。しかし、握っているものがあると、明け渡せない。自分で は出来ないので、「明け渡したくありません」と祈って行こう。そ の時、不思議に前に進んで行く。
2012年12月22日(土) 「サウルは『全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持っ て来なさい』と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた」 Tサムエル13:9
「サウルは『全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持っ て来なさい』と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた」 Tサムエル13:9
サウルは、サムエルに、自分がいけにえを献げるので、七日間待つ ようにと言われた。だが、その日になってもサムエルは来ない。強 敵ペリシテ人が戦いのために終結し、戦車三万、騎兵六千、それに 海辺の砂のように多い民だった。 兵士達は、命の危険に怯え、動揺し、恐怖が広がって行った。「震 えながら従っていた」兵士達は限界で、サウルのもとから逃走し始 めた。サウルは焦った。このままでは崩壊だ。サムエルが来る気配 はない。そのため自分でいけにえを献げた。 限界状況で、神が守られる事を示して、兵士の士気を高めようとし た。献げ終わったところに、サムエルが来た。サムエルはサウルを 厳しくとがめた。「愚かな事をした。あなたの王国は立たない。主 が命じられた事を守らなかった」。 しかし、敵は目の前だ。兵士達は怯えきって、逃げようとしている。 こうしなければ、軍は壊滅ではないかとサウルは判断した。しかし そういう問題ではなかった。祭司にしか、いけにえを献げることは できない。分を越えて、決してしてはならない事をした。一線を越 えた不敬罪だ。 民が逃げようとも、主を信じて待つべきであった。戦いを支配して いるのはどなただろう。ヨナタンは言った。大人数でも、小人数で も、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。勢力ではな い。主に従うべきであった。そして、それが信仰だ。今、焦る状況 にいるなら、じっと主を信じて、主を待とう。 ・・・・・・・・・・・ 自分の思いではなく、主に従う事を教えられる。サムエルは来ない、 民は動揺し逃走し始めている。見えるところだけを見るなら、今す ぐ何とかしなければと焦る。しかし、すべてを支配し全主権を持た れるのは主である事を覚えよう。
2012年12月21日(金) 「いばらの中に落ちるとは・・みことばを聞きはしたが・・この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならない」ルカ8:14
「いばらの中に落ちるとは・・みことばを聞きはしたが・・この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならない」ルカ8:14
ここでは、「みことばを聞きはした」と書かれている。岩の上に落ちた種と同じだ。「岩の上に落ちるとは・・聞いた時には喜んでみことばを受け入れるが」とあり、喜んでみことばを受け入れるが、試練になると身を引いてしまう。土の下には自我の強固な岩があって、根づかなかった。試練を与える主の主権、ご計画を認めず、受け入れない自我だ。その自我ゆえ、根ざせず枯れてしまう。 しかし、いばらの中に落ちる人は、従おうとしている人々だ。しかし、成長する途上で、同時にいばらも生えて来る。そのいばらの方がどんどん伸びて、いつしかみことばをふさいで行く。せっかく芽が出て、伸びようとしてるのに、いばらでさえぎられる。いばらとは、「世の心づかい」「富」「快楽」とある。 この世で生活する上の経済的なこと、仕事、家庭、健康などの心配、思い煩いだ。この思い煩いが大きくなると、みことばをふさぐ。思い煩いは一つ残らず主のもとにもって行こう。心配事と同時に、富への誘惑がある。富が将来を保障し、夢を実現させ、幸せを与えてくれると勘違いする。富を愛し富に頼るなら、みことばをふさいでしまう。又、心配事、富と共に、世の快楽、楽しいことに夢中になり、御言葉を聞きはしたが、ふさがれてしまう。これらの妨げを、主に明け渡して行く時、愛、喜び、平安の実を結ばせて下さる。 ---------- 自分の内には岩があり、すぐにいばらも生えて来る。御言葉を聞いて従って行こうとする時、主が心を良い地に耕して下さることを信じて、一つの御言葉を大切に受け取り、従って行きたい。
2012年12月20日(木) 「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」箴言27:5
「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」箴言27:5
あからさまに責めること、真っ直ぐに語ることは、大切だと言っている。御霊に示され、導かれるなら、相手にとって厳しい事も、はっきりと語る必要がある。相手には必ず痛い、傷つくことであり、触れられたくない所なので、その忠告によって、相手に嫌われるかも知れない。強い反発を受けるかも知れない。言わない方が楽だ。しかし、御霊の導きがあれば、従うことが必ず祝福となる。 ある人が、友人に忠告すべきである事を、御霊から示された。相手が傷つくのがわかるし、二人の関係はどうなるのか。したくない思いも来るが、御霊の促しは強く変わらない。決心して、祈って〃祈りを積み上げて、忠告した。案の定、相手は痛い所を突かれて、激怒した。相手は感情的になってしまい、喧嘩別れみたいになった。しかし、主を信じ、続けて祈っていた。すると、相手は時間がたつと、段々冷静になり、言われた事をよくよく考えた。自分自身を吟味した。 本当に言われた通りであり、主の砕きだと思った。そして、言えば嫌われる事がわかっていて、自分に忠告してくれた友人の愛を思った。有難いと思った。素直な気持ちになれた。すぐに電話し、心からの感謝を伝えた。誰かのために用いられるなら、御霊に従おう。又、逆に忠告を受けた時には、真摯に耳を傾けよう。それは、主から出ているのだから。 ----------- 祈りと共に与えられる助言は感謝だ。本当に愛を持って言いにくいことも言ってくれる。言われなければわからない事ばかりの中、何事も教えられ続ける者でいたい。
2012年12月19日(水) 「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」Uサムエル16:13
「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」Uサムエル16:13
シムイという男がダビデに石を投げ、ダビデを呪い、ウリヤ殺害の罪を罵倒した。「血まみれの男、よこしまな者」と。「首をはねさせて下さい」という部下に「放っておけ。彼に呪わせよ。主が命じられたのだから」と、ダビデは報復を許さなかった。神からの懲らしめ、神からの訓練と受け止め、甘んじて受け入れたのだ。「私の身から出た私の子さえ、私の命を狙っている」、シムイどころか、今や実子のアブシャロムすら自分に敵対している。それゆえシムイの呪いも、神から出たものと受け取っている。 何とへりくだった心と態度だろう。ダビデは、肉の価値観ではなく、信仰によって生きていた。「今日の呪いに代えて、幸せを報いて下さる」、どのような悲惨な状況の中でも、状況を変えようともがくのでなく、神の前に、正しい心で、神に適った心でいるなら、それをも主が良い事のための計らいとして下さる。ヨセフの「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らい」とされた通りだ。 相手の悪意すらも、あなたのために益として祝福と変えて下さる。あなたの目の前のその事態を「神がされた」「神から出ている」と受け取る時、誰もあなたを損なう事はできず、誰もあなたを害する事は出来ない。あなたはキリストのかたちへと変えられつつ、成長して行くばかりだ。 ------------- 目の前から来る状況に肉のまま反応し、悪意の肉に染まってしまわず、神を軸として受け止め、御心にかなった態度で接して行きたい。人の価値観に反応しない主の香りを放って今日も歩もう。
2012年12月18日(火) 「神はバラムに言われた『あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ』民数記22:12
「神はバラムに言われた『あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ』民数記22:12
モアブの王バラクは、イスラエルがエモリ人にした事を見て、又、余りも多数であり、非常な恐れを抱いた。それで、バラムに、イスラエルを呪わせようとした。占いに通じたモアブの長老たちに、バラムに王のことづけを告げさせた。バラムは主が告げられた通りを、告げると答えた。主は、バラムに「共に行くな、呪ってはならない、その民は祝福されている」と言われた。 それを伝えると、彼らはバラク王のもとに帰った。すると、バラク王は、更に位の高い者を大勢遣わし、同じ事を願った。バラムは、主の御心がはっきりしているのに「何か他の事を告げられるか確かめよう」と言った。他に何を確かめる事があろう。問題は、示された御心に従うか、どうかだけだ。しかし、自分の内にすでに答えを持っているなら、その答えが出るまで、問い続けるだろう。 自分の欲望を成し遂げたくて、主の承認が欲しい。バラムが彼らと出かけると、主の怒りが燃え上がり、主の使いが、抜き身の剣を持って、道に立ちふさがった。「あなたの道がわたしとは反対を向いていたからだ」と。私たちはどうだろう。御心がわかっているのに、自分の欲しい答えを求めて、ぐずぐずしているだろうか。目の前に示されている御心に、信仰もって従おう。「示されている」事に従うことが大切だ。そこに豊かな祝福が待っている。 ------------- 御心がはっきりと示されている事は感謝で、それに素直に従いたいと思うが、素直に従いきれない強い思いの時もある。その時にすることは、主に従えるよう繰り返し祈ることだけだ。
2012年12月17日(月) 「ムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれらをお許しにならなかった」使徒16:7
「ムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれらをお許しにならなかった」使徒16:7
私たちが主の導きを、進路を求める時、「環境」をよく見て行くことは重要だ。パウロが二度も環境によって、行く手を阻まれた。「アジアでみことばを語る事を禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方を通った」ビテニヤに行こうとしたが、ストップがかかったので、トロアスに下った。東から来て、南も北も閉じられたので、西に向かった。阻止された理由は、神のご計画が、ヨーロッパ宣教にあったからだった。もし、御霊の阻止がなければ、違った方へ向かっていただろう。 私達にも神のご計画があり、時に行く手にストップをかけて導かれる。ある志があって、しかし門が開かれず、状況が整わないなら、それは神の御心ではないという事だ。入試類が、不合格なら神の御心でない。「ノー」が神からの答えであり、御心は別の道にある。更にふさわし道が備えられている。しばしば私達は、ストップがかけられると、導きを失ったと勘違いし、道に迷ってしまったような不安、心細さを感じる。 だが、そうでなく、そこが御心ではないという「導き」だ。次の導きを「待て」ばよい。環境の閉じ開きによって、導きを知る事ができる。門が開かれたなら、その方向に進んで行けばよい。御心の門は、目の前で、ひとりでに開いて行く。神が開かれる。自分でこじ開けるのではない。必ず目の前で門が、開かれて行く。御言葉、祈りによる平安共に、状況をよく見ていよう。 ------------- 神様は環境の全てを通して導かれる。それを信じておれるとは、なんと心守られることだろう。ある方向はストップであっても落ち込む必要はない。御心の環境へとまた望みをもち導きを待てる。
2012年12月16日(日) 「わたしのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の 家を建てた賢い人に比べることができます」マタイ7:24
「わたしのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の 家を建てた賢い人に比べることができます」マタイ7:24
賢い人も愚かな人も、どちらも御言葉を聞いている。賢い人は「こ とばを聞いて、それを行なう」。愚かな人は「ことばを聞いて、そ れを行わない」。愚かな人は御言葉を聞かないのではなく、聞いて いる。 礼拝で御言葉を喜んで聞き、聖書を学ぶクリスチャンだ。御言葉 を拒否し反抗しているなら、自分でも自覚できるが、喜んで聞いて いるので、自分で気がつかない。御言葉を聞いて、それで満足して しまう。聞いて、理解した気になってしまい、そこで終わる。 「さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう・・彼らはあなた の言葉を聞く。しかし実行しようとはしない。口では恋をする者で あるが、彼らの心は利得を追っている」 聞くだけで行なわないなら、自分の生まれつきの顔を鏡で見るよう だと。自分をながめて立ち去ると、すぐに忘れてしまう。御言葉を 聞いて忘れてしまい、実になることがない。真理の言葉は行なう時 に初めて、実を結んで行く。 有難い御言葉を聞いて、良かった〃で、終わりだろうか。すぐに忘 れてしまうと。順境時は良いが、試練が来た時に立ち行けず、倒れ てしまう。実行して行く時に、御言葉が血となり肉となり、どんな 嵐が来ても倒れない。聞いた言葉を一心に見つめて離れないなら、 事を実行して行けると。行なえるよう、助けを求めて祈ろう。 ・・・・・・・・・ 真理の解き明かしを聞いて「恵まれた」で、満足して終わっていな いだろうか。語られた御言葉を実行しようとする時、御霊の助けが 臨む。しかし、「したくない」「できない」なら、まず正直に主に 言い表そう。不思議に心が変えられる。
2012年12月15日(土) 「・・肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです・・自 分のしたいと思うことをすることができないのです」ガラテヤ5: 17
「・・肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです・・自 分のしたいと思うことをすることができないのです」ガラテヤ5: 17
私たちには、新しい性質と古い性質がある。主に従おうとする新し い性質と、それを阻み、自分を中心に生きようとする古い性質があ る。二つの性質は絶えずあらがう。 主は「〜〜をするように」と示されるが、肉は「う〜ん。好きだっ たらしよう」「嫌だったらしなくてよいのでは」「今は都合悪い」 「面倒だ」と思う。「今、祈るように」と御霊の促しを感じるが、 肉は「今は疲れている」「祈る気がしない」「時間が無い」「また 後で祈ろう」と言う。ずるずると御声を流してしまい、従わない。 「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう」「この二つは 互いに対立していて、あなたは自分のしたい事ができない」、御言 葉の通りだ。新しい性質は御心に従おうとするが、肉は逆らう。 「そんな事をして、何の得になる」「時間と労力の犠牲を払う事 はしんどい」「したくない」・・。 どうすれば従えるのか。「御霊によって歩みなさい」そうすれば、 肉の欲望を満足させることはないと。肉の思いをそのままにして、 流されるのではなく、「したくありません」と、まず主に向かい、 祈ることだ。 「面倒です」「犠牲は嫌です」と気持ちをそのまま祈る。そこで、 主と交わりが生じ、「したくないが、助けて下さい」と、自分を明 け渡して行く時、御霊の実際的な助けが臨む。不思議に御心を行な えるようになる。 ・・・・・・・・・・・・・ 絶えず二つの性質が葛藤する。新しい性質に御霊が働きかけ、肉に サタンが働き、どちらもが引っ張る。いつも二つの思いがある。そ れ自体で悩む必要は無い。意志を向けた方が結実して行く。行なう 力は無いが、そこに御霊が働かれる。まず気持ちをあるがまま告げ る事から始まる。
2012年12月14日(金) 「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3
弟子たちが、主に、彼が盲目に生まれついたのは、この人か、両親が罪を犯したのかと問うた。私たちには、根深い因果応報の価値観が巣くっている。善い事をすれば報いがあり、悪い事をすればバチが当たる。無意識に、その見方に立って、起こる物事を見ていたりする。ここから犯人捜しが始まる。 私たちも、ふと思いが来ないだろうか。不都合な事が起こると、 「今日は祈ってないからか」「最近、聖書を読んでいないからか」「あの事をサボッたからか」、あの事の、この事の、バチかと思う。しかし、この価値観なら、逆にうまく行けば、自分の行ないが良いから、最近はよく祈って聖書を読んでいるから、人に親切にしたから、ということになる。 これなら、すべては自分の行ないによる事になり、行ないでアップダウンし、それでは平安など、どこの世界の話かになる。私たちは、「何で、何で」と、あのせい、このせいと、どこかに落とし所をつけたくて、犯人捜しをするが、主は、彼のでも、両親のせいでもない、「神のわざがこの人に現れるため」と言われた。 彼自身も、誰のせいと考えて来た事だろう。恨みや苦い思いもあったろう。しかし、主に、全く責められる事がなかった。ましてや、神のわざ、神の栄光が現れるなどと、彼にとってどんなに光栄な事だったろう。あなたにも、目の前の辛い出来事が、神のわざが現れるためと言っておられる。 ----------- 自分の側の状態で自分の信仰を支えているかのように思うことがある。喜び、平安がなくなってしまう。神様からの一方的な恵みと、御約束を何度もかみしめよう。
2012年12月13日(木) 「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」マタイ18:35
「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」マタイ18:35
私たちの人生の大きな苦しみの一つに、「赦せない」心がある。赦せないことほど辛く、苦しいものはない。人生が真っ暗になってしまう。どんなに楽しく過ごしていても、その事が頭をよぎった途端、心は辛く、重苦しくなる。心がその事で一杯になり、楽しみがぶち壊しになる。ペテロが何度まで赦すべきかと、主に問うた時に、7度を70倍するまでと言われ、主は、王としもべの話をされた。 6000億の借金をどうやっても払えないしもべを、王はあわれんで、赦し免除してやった。そのしもべが100万貸していた仲間を赦さず、牢に投げ入れた。それを聞いた王は怒って、そのしもべを借金全額返済まで投獄した。赦さない心は、牢獄の中だ。獄につながれ、自由がなく暗闇の中で、がんじがらめだ。苦しいのは相手ではなく、自分だ。主は、獄から出して下さる。しかし、自分の側の意志と決意が必要だ。罪の性質は、赦せないのではなく、赦したくない。 主は赦せるようにして下さるが、そうして欲しくない。頑なな自我がある。「自分にはどうにもできません」と主の御前に出よう。相手は変わらない。幾ら相手を避けて、相手から逃げても、次の環境で、同じく別の相手がいる。自分が変わることがみこころだ。主は心を変えて、自由にして下さる。「できません」と主に祈ろう。 ------------ 赦したくないために、いつまでも受けた傷を確認しているより解放されよう。主を十字架につける程の自分の罪を神様は赦して下さった。赦せない心が主により取り扱われ、自由になろう。
2012年12月12日(水) 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」ピリピ2:13
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」ピリピ2:13
私たちは、主のみこころを行ないたいと願う。主は、私たちの内に働いて志を立てさせて下さる。御心にかなった思いを与えて、私たちを導かれる。主は思いを与えられるが、自分の思いも湧き上がる。主からの思いか、自分の欲による願望か、必ず祈りが必要だ。でなければ、自分の欲望や、自分に都合の良いことを、主の御心と勘違いしてしまう。見分けるために、その思いは御言葉の原則に合致しているかは、大切だ。御言葉と矛盾する導きは決して無い。 御言葉に反していないか、そして、それは主の栄光が現れるか、周囲の人の徳を高め、祝福となるか。大きな事柄は、時間をかけるとよくわかる。自分の思いなら、しばらくは続くが、長くは続かない。御心でない思いは消えてしまう。祈り続けることができない。しかし、主からの思い、志は、時間を経ても変わらない。成し遂げられるまで、思いがあって、祈り続けることができる。 突発的に、ああすれば、こうすればと、良いアイデア、善なる思いが湧くが、翌日消えてしまっているなら、主からの思いではない。又、良い思いが湧き、祈るが、翌日その祈りも忘れてしまっているなら、自分の思いだ。主は「志を立てさせ」て下さると、同時に「事を行わせて下さる」。行なう力は、主から来る。主からの志なら、私たちを用いて、主が成し遂げて下さる。 ------------- こころに浮かんだアイデアは御心かどうか、時間をかけて祈って見つめて行こう。御心ならやり遂げる力も必ず与えて下さる。これは御心だとひらめいても祈り続けられない志がなんと多かったことか。
2012年12月11日(火) 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:15
「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:15
イスラエルの民は、多くの奇跡を目の当たりに見て、神の言葉を聞いていた。にも関わらず、心が頑なであった。出エジプトという、偉大な奇跡を見たのに、荒野に出た途端、食べ物が無いと愚痴を言い「あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしている」とつぶやいた。エジプトで死んでいたら良かったのにとまで言った。 愛なる主が、必要を必ず備えて下さる事を信じない。主が、民を愛して、マナを天から降らせ、水を湧き出させても、どれだけ奇跡を見ても、斥候達の言う事に怯え、エジプトに帰ろうと、神を信じる事が無かった。いつも疑い、不満だけで、最後まで神を信頼しようとしなかった。何という忘恩、何という事だと思うが、イスラエルの姿は自分自身の姿だ。御声を聞いても、ないがしろにし、真剣に受け止めない。 又、自分の思いが強く、従おうとしない。これが心を頑なにすることだ。それを続けると、どんどん心が固くなる。いつしか石のようになり、感覚が失せ、悔い改める事もできなくなる。せっかくエジプトを出たのに、心を頑なにした民は約束の地に入れなかった。御声を聞いた時に、心を開いて受け止め、主の示しに従おう。御声を聞けること自体が、大きな恵みなのだから。今、目の前に示されている事に一歩踏み出そう。そうするなら、何にも代えられない平安と喜びを経験する。 ------------- 今日、御声を聞くには、御声を聞こうとする心の状態に整えられることが大切だ。毎朝のデボーションで主に向かい耕された心で御言葉に向かおう。
2012年12月10日(月) 「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった」マルコ4:39
「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった」マルコ4:39
主は弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。弟子たちは自分たちがそう思ったのではなく、主から発した事であった。主の指示に従ったなら、嵐に会った。「おぼれて死にそう」と、湖に慣れたベテラン漁師たちが、身に危険を覚えるほどの暴風雨であった。この場合、主に従わずに、岸にとどまっておれば、嵐に会わなかった。 私たちは、主の御心に従う中で、嵐に会う。御心に従わないからでなく、従ったから試練に会った。試練は悪ではない。試練は私たちを訓練し、信仰を成長させてくれる。試練が無いなら成長はない。パニックになった弟子たちは「死にそうなのに、何とも思われないのか」と、眠っている主を起こした。私たちも、嵐に会うこのような状況があるだろうか。 こんなに苦しいのに、主は何とも思われないのか。「この病気を何とか」「突然のリストラ、主は何とも思われないのか」「この対人関係の苦しみを主は平気なのか」。すぐにこの嵐を何とかして欲しい。しかし、起き上がった主は、風を叱りつけられた。すると、風はやみ、大なぎになった。自然界を支配されている、神そのものである主イエス。その主が共にいるのに、どうして恐がるのか。 「信仰が無いのはどうしたことです」。今、嵐に会っているだろうか。結果的に、この時、弟子たちは、主に従ったゆえに、主が自然界をも支配する神であることを知る事になった。私たちも嵐の中で、主を新たに知って行ける。 ------------- 主に従う中で主が乗り越えさせて下さることを経験するのは、大きな祝福だ。嵐の中にも主はおられ風が凪に変わることがわかり、黙々と仕えて働いた僕は、水がぶどう酒に変わる奇跡を拝した。
2012年12月09日(日) 「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝く ためです」ピリピ2:16
「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝く ためです」ピリピ2:16
「すべてのことを、つぶやかず、疑わすに行ないなさい」とある。 すべてのこととは、主に従うこと、主のみこころを行うことだ。主 が示して下さるみこころを、つぶやかず、疑わずに、「はい」と応 えて行くことだ。 そうする時、主は御心を行なうための力を与え、すべての必要を満 たして下さり、そして「いのちのことばをしっかり握って、彼らの 間で世の光として輝く」ようにして下さる。 しかし、「つぶやかず、疑わずに行ないなさい」とあるからには、 みこころを行なおうする時に、「つぶやき」と「疑い」が出て来る。 「しなくてもよいのではないか」「自分がする必要があるのだろう か」ああでもない、こうでもないと、理屈が出て来る。 そんな心の奧を探ると、みこころを行なおうとしておらず、自分の 思い、自分の願いを成し遂げたいと思っている。主の栄光ではなく、 自己中心な思いに気づく。そんな時、自分の姿を認めて、「自分に はできません」とそのまま祈ろう。 「主よ、助けて下さい」と祈って行くなら、主が従えるように助け て下さる。そして、御言葉に従って行く時、主が、私たちを世の光 として輝かせて下さる。今、示されていることがあるだろうか。つ ぶやかず、理屈を言わず、「はい」と従ってみよう。豊かな祝福を 経験する。 ・・・・・・・・・・・ みこころを示され、行なおうとする時に、必ずサタンが妨害して来 る。ぐずぐずさせる。ぐずぐずしていると、しなくても良いのでは との囁きに、心が萎えて来る。目の前の示しに、意志を向けてつぶ やかず、疑わず行なえるよう、祈ろう。
2012年12月08日(土) 「それで、戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知 ったとき、彼を追うことをやめ・・ところが、ひとりの兵士が何げな く弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた」T 列王22:33
「それで、戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知 ったとき、彼を追うことをやめ・・ところが、ひとりの兵士が何げな く弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた」T 列王22:33
イスラエル王アハブは、ラモテ・ギルアデをアラムから取り返そう と、ユダ王ヨシャパテを誘った。ヨシャパテはアハブの申し出に乗 り、主の言葉を聞くよう要請した。アハブが伺いを立てると、預言 者たちは、上って行くようにと口を揃えて言った。 しかし、ミカヤだけは正反対の預言をした。アハブが悪霊に惑わさ れている事、殺される事を告げた。アハブとヨシャパテはアラムと 戦う事になり、アハブは巧く逃れようと、ヨシャパテに王の服を着 せ、自分は変装した。 敵をごまかし、ヨシャパテを狙わせ、自分は助かろうとした。しか し、アラム王の命令は、アハブを狙えだった。敵は、ヨシャパテを アハブと間違ったが、ヨシャパテが、主に助けを叫び求めた時、敵 は彼を追わずに引き返したのだ。神の関与だ。 そして兵士が、「何げなく」放った矢が、何とアハブに刺さり、彼 は死んだ。彼はアハブを殺そうと意図したのではない。アハブを狙 ったのではない。神の介入だった。ミカヤの預言が成就し、神の御 心が実現した。 人がどう知恵を巡らし、計略しようと、神の御心だけが成る。主を 差し置いて、自分の知恵や方策に頼っていないだろうか。主がご自 身の御心を成し遂げられるなら、人生も自分自身も、主に信頼し、 委ねることが最善ではないだろうか。 ・・・・・・・・・・・ 「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成 る」。様々な思いがあるが、主の御心だけが成る。主権は主にある。 その大きな愛の主権に委ねるなら、逆に、深い安堵ではないだろう か。
2012年12月07日(金) 「『あなたはどなたですか』・・彼は告白して否まず、『私はキリストではありません』と言明した」ヨハネ1:20
「『あなたはどなたですか』・・彼は告白して否まず、『私はキリストではありません』と言明した」ヨハネ1:20
ユダヤ人たちが、祭司長やレビ人を遣わし「あなたはどなたか」と問わせた。バプテスマのヨハネが、キリストか?と思った人々がいた。しかし、ヨハネは、自分はキリストではないと、明言した。彼は人々が主を信じるために、道を整え、主のもとに導くという、自分の役割をよく理解していた。その使命を果たす事で、主の栄光を現わした。 謙遜とは、自分の位置と役割を心得ることだ。ヨハネは、自分をわきまえていたので、自分の立ち位置を守り、そして、自分の役割に心から満足していた。人は、自分に賞賛が向く時、どうしても、栄光を自分が奪ってしまう。人からの賞賛は大きな誘惑であり、肉はその誘惑に勝てない。しかしヨハネは、弟子たちが、主に嫉妬心を抱いた時に「人は天から与えられるのでなければ、何も受ける事はできない。主は盛んになられ、自分は衰えなければならない」と言った。 人が、自分より大いに用いられていたら、どうだろう。妬みの誘惑が来るだろうか。しかし、ヨハネは主が盛んになられ、自分が衰えることを受け入れていた。自分の使命を成し遂げる事に、喜びを見い出していたからだ。なぜなら、ヨハネは主に愛され、「ヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」と主から認められていた。私たちもすでに主から愛され、認められている。それゆえ、自分の場で自分の役割を果たして行くこと、そこから喜びと満足が来る。 ------------ 神様は愛と慈しみを持って私を見ていて下さる。羨望や妬みで人を見てしまいそうな時、愛されている自分に感謝し、自分にしか出来ない事に思いを向けたい。
2012年12月06日(木) 「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」Tテサロニケ2:13
「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」Tテサロニケ2:13
エデンの園で、主が「善悪の知識の木からは取って食べてはならない・・必ず死ぬ」と言われたが、サタンはエバに「それを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになる」と言った。エバは、「神のようになる」との言葉に誘惑され、その思いが入って木の実を見ると、食べるによく、目に慕わしく、いかにも好ましかった。そうしか見えなくなった。その結果、木の実を食べた。 しかし、神のようになっただろうか。決してそうではなかった。善悪は知ったが、実行する力は無い。平安と喜びの中で生きていたのが、不安と思い煩いと苦しみに身を置くようになった。サタンの欺きであった。このようにサタンは、私たちが御言葉を聞く時に、ささやきかけてくる。例えば「受けるよりも与えるほうが幸いである」と読むと、「そんな事があろうか。与えるよりも、受けるほうがよいに決まっている」世の価値観では、与えると持ち分が減る。 しかし御言葉は言う「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ・・」、サタンは言う「そんなわけがない」と、御言葉をそのまま受け入れないように、妨害して来る。不信仰に誘惑する。自分の思い、世の価値観で生きるように仕向ける。御言葉と共に、サタンのささやきに気づくだろうか。主の御声の方に聞き、従おう。生きて働く御言葉の力を経験する。 -------- 自分の価値観が根強くあるが、御言葉に賭けて従う意志を向けよう。主が助けて下さる。御言葉を素直に受け入れ、古い価値観を御言葉に置きかえて行こう。
2012年12月05日(水) 「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」箴言29:25
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」箴言29:25
私たちはどんな時に、幸せになったり、落ち込んだりするだろう。他の人の態度や言葉、自分がどのように評価されているかによって、幸福な気分になったり、心が暗くなり、沈んだりしていないだろうか。そうなら、自分の幸せが他人によって左右されている事になり、他人次第という事になる。 もし、人にちょっと批判されたなら、ひどく心乱され、敵対心を抱いてしまう。人に反応して、人によって生きている事になる。「人の語る言葉にいちいち心を留めてはならない」人の評価に価値を置いているから、人を恐れる。まず、そんな自分を認めて、人の言葉や態度で、一喜一憂する事を止めて、自分のなすべき事を忠実に行なってゆくことだ。 隣人が変わった人で、挨拶しても、全く挨拶を返さない人なら、自分は自分で、相手がどうであれ、挨拶をし続けることだ。無視されたとしても、気持ち良く挨拶をし続ける。その時、いつか相手が変わって挨拶をしてくれるか、あるいは変わらないままか、それはわからない。しかし、自分自身は確実に変えられている。人を恐れずに、主の御心を行なう者へと。人依存で、人に振り回されるのでなく、自分の足で歩んで行ける。人ではなく主に、御言葉に反応して生きる者と変えられて行く。 ------------- 目に見える人の反応に動揺しそれが思い煩いになる。恐れる必要のないものを恐れていないだろうか。動揺はしても、主が側におられる。この御言葉を心にたくわえ、今日一日を歩もう。
2012年12月04日(火) 「求めなさい。そうすれば受けるのです・・」ヨハネ16:24
「求めなさい。そうすれば受けるのです・・」ヨハネ16:24
「求めよ」と主は言われ、私たちの願いを告げよと、言っておられる。経済的必要、進路のこと、健康のこと、何でも一つ一つ求めて行けば良い。主は、祈りに答えて、豊かに与えて下さる。子どもが魚を欲しいと言う時に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。卵が欲しいと言うのにさそりを与えるだろうか。親は子供に良いものを与える。ましてや、私たちの親である天の父は、与えて下さらないはずがない。 ただ、もし、小さな子供が、料理する母親を見て、自分も包丁が欲しいと願っても、親は決して与えない。愛する子供の願いであっても、危険であったり、益でないなら、親は与えない。それを持つ事により、ますます私たちが高ぶる事になるなら、主は愛ゆえに控えられる。又、すべてに「時」があり、持つにふさわしい時期が来たなら、与えて下さる。何でも自分の願いを、ありのまま求めてよいが、与える、与えないは、主が判断される事だ。 どうであれ、私たちの最善をして下さる。動機の事も言われている。「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願う」からと。ヤコブとヨハネが、主の栄光の座で、右と左に座らせて欲しいと願った。しかし、他の弟子たちを出し抜いて、自分の栄光、自分の利得のための願いは、答えられなかった。主に求めよう。祈りを軌道修正しながら、導いて下さる。 ------------- 求めの答えがノーであっても、また待ち続け、祈り続ける祈りでも神様は私達にわかるように御ちびて下さる。祈りの答えはすべて最善で、答えられない祈りの中の神様のみこころを聞こう。
2012年12月03日(月) 「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか」詩篇121:1
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか」詩篇121:1
エルサレムへ巡礼の旅に出る、都上りの歌とある。「山に向かって目を上げる」は、これから巡礼の旅に出るが、大きな困難と危険が横たわる、険しい山々だ。無事に行き着けるのか。切実な思いで「私の助けはどこから来るのだろうか」。エルサレムは遙か彼方であり、幾つもの山々が行く手を阻んでいるかに見える。 当時の旅は、今と違い想像もできないほど困難で危険なものであった。今のようにちょっと都へというわけに行かない。病気になれば一命に関わるし、どんな災難危険があるや知れず、予想不能だ。そんな中で何が助けになるのか。膨大な困難を前に「私の助けはどこから?」との問いに「私の助けは、天地を造られた主から来る」と明快な答えが臨む。計り知れない困難はあるが、その山々を造られたのは主だ。状況も主が御手で治めておられる。「助けは主から来る」。 ある人が証しした。カンニングの不正をしてしまい、とがめが来て、苦しくて苦しくてたまらなかった。誰にも言えずに悩んだあげく、教会に通い始めていた時で、神に心の内の苦しみを祈った。苦しみの山を前に、私の助けはどこから来るのかの御言葉が心にピッタリだった。「私の助けは、天地を造られた主から来る」が、苦しい心に、しっくりはまるかのように答えられた。主と共に対応して行けたと。あなたにも、今、難しい問題があるだろうか。その助けは「天地を造られた主から来る」。御前にことごとく告げ、導きを仰ごう。 ------------- 今日一日、どんな出来事の中にも主の守りがあるから感謝だ。私の助けはどこからか・・と山に向かって目を上げたくなる時、主がすぐ側におられることを覚えよう。
2012年12月02日(日) 「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたま しいを喜ばしてくださいますように」詩篇94:19
「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたま しいを喜ばしてくださいますように」詩篇94:19
私たちは、思い煩いが来た時に、どのように対処するだろう。逃げ るだろうか。その事を考えると落ち込むので、とにかく考えまいと する。しかし、問題は現にそこにあり、どうにもならず、先延ばし にするばかりだ。 又、問題自体を解決して、何とか早く問題を無くしてしまおうとす る。しかし、簡単になど解決つかず、ますます思い煩う事になる。 主の対処法は、ことごとく正直に感情も気持ちも、目の前の問題も、 主に告げよということだ。 「何も思い煩わないで・・願い事を主に知っていただきなさい」そう すれば、人のすべての考えにまさる神の平安が約束されている。 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い 煩いを知ってください」ハンナのように心を注ぎ出し、つのる憂い、 いらだちを主に告げて行く時に、主からの平安、慰めで心が満たさ れる。 信仰生活で、悩みや難しい問題が来る。しかし、それらの問題の中 で、気持ちも感情も何もかも主に告げて、主と交わる時に、更に深 い交わりへと導き入れられる。そこで実際に主からの慰めを受ける。 そして、後に、その苦しみを通って良かったと必ず思える。「苦し みに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言える。あなた の重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。 ・・・・・・・・・・ 問題から逃げるのではなく、それを主のもとへ持って行こう。「主 に知っていただきなさい」、心の奥底の思い、気持ちを余すところ なく告げるなら、「主に知っていただいた」。安堵が来る。主は最 善をして下さるので、平安に変えられる。
2012年12月01日(土) 人の忠告が素直に聞けない事自体、自分の内に自我がある証拠だ。 何に触れて痛いのだろう。考えてみよう。「自分は正しい」に立つ なら、暗闇の中だ。自分に見えていない事が、人には見えている。 人を通して主が語られる。聞く耳により、主は変えて行って下さる。
人の忠告が素直に聞けない事自体、自分の内に自我がある証拠だ。 何に触れて痛いのだろう。考えてみよう。「自分は正しい」に立つ なら、暗闇の中だ。自分に見えていない事が、人には見えている。 人を通して主が語られる。聞く耳により、主は変えて行って下さる。
「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を 聞き入れる」箴言12:15 「愚か者は自分の道を正しいと思う」とあり、自分の考えが人の考 えよりを正しいと思う時、必ず他人の助言や忠告を聞くことができ なくなる。自分が正しいのだから、人の意見など聞くに値しない。 自分は正しく、間違っているのは、常に他者になり、人を批判し、 非難する。外に出さなくても、心の中で裁くようになる。人を裁い ている時は、よく自分の内側を照らされると、自分に同じものがあ る。自分を映す鏡となっている。 主は自分自身を照らすために、その人を置いておられる。「知恵の ある者は忠告を聞き入れる」主は御声をかけて下さるし、又、人を 用いられる。 ある人が、軽はずみな冗談で、相手を笑いものにし、傷つけてしま った。相手は、「それは良くないよ」と、怒ってではなく、冷静に 真っ直ぐに忠告してくれた。その時に痛かったが、御霊を感じ、自 分でも素直に聞けて、謝った。 その後、祈りの中で「軽率に話して、人を剣で刺すような者がい る」、今までも数々、人を傷つけて来たことに気づかされ、悔い改 めた。真正面から忠告してくれた相手に、心から感謝した。忠告を 受けると、自我に触れ、プライドが傷つき、怒りが湧くという、肉 の反応が出がちだ。 又、どうしても痛いので、せっかく警告してくれる人に、距離を置 いてしまったりする。素直に「忠告を聞き入れる」なら、悔い改め ることもできるし、矯正され、新たにされ、成長して行ける。自分 自身に大きな益とされる。 ・・・・・・・・・・・・