2013年01月31日(木)

「彼が目を上げて見ると、見よ。ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた」ヨシュア5:13 


モーセの後継者ヨシュアがリーダーとして立ち、約束の地カナンに入った。そしてエリコに近づき、これからエリコ陥落に向けて、民を率いて戦いが始まる。非常なプレッシャーと不安、恐れの中にいた事だろう。その時に一人の人が抜き身の剣を持って立った。

ヨシュアは驚き「私たちの味方か、敵か!」と問うた。自分を助けてくれるのか、それとも攻撃して来るのか。その人は敵でも味方でもなく「主の軍の将として来た」と言った。これはつまり、「あなたが軍の将ではなく、わたしが軍の将だ」と。

私達は、どうしても「自分」を中心に考えてしまう。「私の」信仰・・「私の」霊的生活・・「私の」奉仕・・、底が「私」なのだ。だから、「私の」味方か、敵かになる。しかし、そうではなく「主が」将であり、「主が」リーダーであり、その主の戦いを助けるのがヨシュアであり、私という事だ。

「私のための神」ではなく、「神のための私」だ。主が将でなく、自分が将となるので、あらゆる思い煩いと不安を背負う。「主が」将となりあなたの人生を導かれる。ヨシュアは伏し拝み「何を告げられるのですか」と問うた。私たちも、常に主に、何を告げられるのか、聞く事が大切だ。

主に「はきものを脱げ。聖なる地」だと言われ、ヨシュアは、はきものを脱いで、つまり自分を主に明け渡し、委ねた。そしてこの後、見事にエリコ陥落が成し遂げられ。自分の知恵や判断、力に頼らなかったからだった。
------------
問題の前で、決定権は握ったまま「主よ助けて下さい」と祈っている自分の姿を見せられる。主が主の方法で戦われる。明け渡せるよう、主の方法をよく悟れるよう祈ろう。


2013年01月30日(水)

「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」Tヨハネ2:17


ダビデは、水浴びするバテシバを見た時、心の内で、み言葉が響いただろう。「姦淫してはならない」。しかし、もう一つの声も聞こえた。「自分は王でありトップだ。妨げる者は誰もいない。誰にもわからなければよい」。こちらの声が勝って、従ってしまった。しかしバテシバは妊娠してしまう。

これを何とか隠ぺいする策を考えた。戦場から夫ウリヤを呼び戻し、ウリヤの子供という事にしようとするが、彼の忠実さゆえ失敗に終わる。次にはウリヤ殺害計画に至ってしまう。ウリヤに隊長への手紙を持たせ、戦場に返した。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残して退き、彼が死ぬようにせよ」と。ウリヤは死んだ。

ダビデはバテシバを妻として、男子が生まれた。「しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった」。主はすべてを見ておられた。二つの声がいつもある。どちらに聞き従うかで、結果は天と地の差になる。欲望にかられ、犯した罪を、おおい隠そうと、もはや歯止めがきかない。罪から罪へと進む。欲望は遂げるが、神との関係を損ない、失って行く。自分で、わからなくなって行く。

主が介入され、ナタンを遣わし、ダビデを悔い改めに導かれた。
幸せとは、自分の欲望を満たす事だと勘違いするが、真の幸せは、主のみ声に聞き従い、主の御心のために生きることにある。そこには何にも代えられない御霊の喜びがある。
--------------
御心か自分の欲望かどちらかを自分の意志で選んでいる。御霊の喜びを知り、聖められる機会を逃してしまわぬよう、その選択のチャンスに敏感でたい。


2013年01月29日(火)

「話が終わると、シモンに、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』と言われた」ルカ5:4


ペテロたちは夜通し漁をした。しかし一匹も獲れなかった。漁の網は重く、徹夜での漁で、身体は疲れ果てていた。その重い網を洗い、一刻も早く家に帰り、休みたかったろう。しかし、深みに漕ぎ出して、網を下ろせと言われる。自分はベテラン漁師であり、他のことはどうあれ、漁に関してはプロとの自負がある。先生は、立派な方で、愛や赦しや、神の国のことを教えて下さる方、だが、漁については素人であり、自分は専門であり、よく知っている。普通の人の反応だ。

自分の方がよく知っている事に関しては、他の人に、ああしろ、こうしろと言われても、なかなか聞けない。しかし、ペテロは、先生の言うことであり、魚などいるわけがないと思ったが、自分の経験もこの世界の常識も横において「先生、おことばどおり、網をおろしてみましょう」と答えた。すると、奇跡が起きた。いるはずの無い魚がいて、更に大漁だった。ペテロは、主の足もとにひれ伏して「主よ。私は、罪深い人間です」と言った。

ペテロは、従った時に、「先生」から「主」に変わった。私たちも、自分の思い、常識、経験を横に置いて、「でも、おことばどおり」従って行く時に、まことに主であることを知る。自分の思いや常識、過去の経験の浅瀬にいるなら、「深みに漕ぎ出して、網を下ろせ」と私たちにも言われる。
----------
浅瀬で漫然と繰り返していることはないだろうか。特に変える必要も感じていない生活の中の習慣であったり。深みに漕ぎ出す準備をもって、今朝はみ言葉を読んでみたい。


2013年01月28日(月)

「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練を思って耐え忍びなさいヘブル12:6」


父と兄をだまして、祝福を奪ったヤコブは、叔父ラバンのもとへ逃亡する。そこでラケルを愛し「ラケルのために7年間仕え」ると、ラバンに申し出た。「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうがよい」とラバンは承諾した。そして7年仕えたが、愛ゆえに数日のように思われた。ラバンは祝宴を開いて娘を与えた。ところが姉のレアであった。ラバンに騙されたのだ。

その怒りとショックで、ラバンに抗議すると、姉より先に妹を嫁がせる事はしない、あと7年働けばラケルを与えると言われた。狡猾なラバンは、14年間の無料の労働力を手にした。ヤコブには辛い苦しい期間だった。「この20年間、娘たちのために14年、ラバンのために6年間仕えて来た。昼は暑さに、夜は寒さに悩まされ、眠る事もできない」辛い日々だった。

ラバンにだまされ苦しめられ、不当な扱いに辛い歳月。しかし、主に間違いは無い。これらすべて主の取り扱いであった。だまされる痛みに、父と兄にした事に思いが至ったろう。20年の労働も主からの厳しい訓練だった。「主はその愛する者を懲らしめ」主は、愛ゆえにヤコブ決して見捨てず、放さず、しっかり握っておられた。砕き、鍛錬された。「あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」。目の前の試練を、主の訓練と受け取ろう。
-----------
人生の折々に苦しい試練を神は送られる。何が悪かったのかと後ろ向きになる見方から、神のご計画のものと受け取ってみよう。試練の中で主を新しく知り、多くを学ぶことができる。


2013年01月27日(日)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改 めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」Uコリント 7:10



「後悔」と「悔い改め」は違うと言われている。「後悔」は自分の
失敗を悔やむのだが、罪を犯したことの「結果」が悪かった事を悔
やむばかりで、それだけだ。悪い結果を悲しむのは、世の悲しみだ。
そこに罪を捨てようとする気はない。それは死をもたらす。

主に向く事がなく、自分を中心に堂々巡りで、何の変化も無い。だ
から、同じ失敗を繰り返してしまう。しかし、「悔い改め」は、方
向変換だ。どこまでも自分軸に向かっている思いを、主に向け変え
ること、向きを変えることだ。

神のみこころに添った悲しみは、自分に向いていた目を、主に向け、
十字架を見上げる。そのため、悔い改めが与えられ、全き赦しが与
えられる。新たにされる。

イスカリオテのユダは、主を裏切ってしまった。主を引き渡した後、
自分のした事に恐ろしくなり、自責の念で苦しんだ。祭司長、長老
の所へ行き、銀貨30枚を返して「私は罪を犯した。罪のない人の
血を売ったりして」と言った。しかし「私たちの知ったことか。自
分で始末することだ。」と言われ、首をつった。自分で始末した。

世の悲しみは死をもたらす。ユダは主のもとへ行くべきであった。
方向変換し、主を見上げるなら、悔い改めることができた。自分に
向いている目を、主に向けよう。ペテロもダビデも、大きな罪を犯
したが、自らの罪を認めて、救いに至る悔い改めが与えられた。

・・・・・・・・・・・・
どんな時も、主のもとへ行き、主に頼ろう。罪を犯してしまった時、
自分で何とかしよとせずに、主のもとへ行こう。悔い改めが与えら
れ、全き赦しが与えられる。そして立ち上がらせて下さる。どんな
時にも主がおられる。


2013年01月26日(土)

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のように ふるいにかけることを願って聞き届けられました」ルカ22:31



ペテロが主を否定したことについて、ペテロ自身の弱さと共に、サ
タンの試みがあった。主の十字架が近づいた時、サタンはイスカリ
オテのユダに、主を売る思いを入れた。その通りにユダは主を裏切
った。次に、サタンは他の弟子たちを襲った。特にペテロを標的に
した。

主が言われている。「シモン・・サタンが、あなたがたを麦のように
ふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたし
は、あなたの信仰がなくならないように・・祈りました」と。「ふる
い」とは、穀物の中のごみや殻の不純物を分ける道具だ。サタンは
ペテロを試すために「ふるいにかける」ことを求めて聞き入れられ
た。

サタンは、その事で、ペテロの信仰はきれいに崩れ去ると思った。
主は、ふるいがペテロに必要だと思われ、許された。サタンは迫害
や剣でなく、女中や男の幾つかの言葉を使った。それで、ペテロは
見事に主を裏切ってしまったが、涙と共にすぐに立ち返った。

もし、主の祈りが無かったら、ペテロはどうなってしまっていた事
だろう。主は、ペテロの内にある不純物を取り除こうとされた。ペ
テロが「ふるいにかけられ」、大失敗を通して学んだ経験は、そこ
から立ち直る事で、多くの人々にとって祝福とされ、大きな力づけ
とされた。
私たちも試みは来るが、不純物が取り除かれる。そして主の執り成
しと、主の変わらない愛により堅く守られる。

・・・・・・・・・・・・
サタンの試みも許されるが、その背後に、主の支配と主権がある。
主はサタンをも利用して、私たちの砕き、訓練、成長のために用い
られる。失敗してしまうが、悔い改めるなら、失敗をも更に益とし
て下さる。何というあわれみだろう。いつも主の愛に包まれている。


2013年01月25日(金)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」ヨハネ6:33


主は、優先順位を定めておられる。日々の生活でどうだろう。生活の必要で思い煩っている時、不安でたまらない時、その時、主はあなたのどこにおられるだろう。主が抜けて、飛んでしまっていないだろうか。目の前の心配事でいっぱいになって、主を忘れている。ますます目の前の問題は大きくなり、恐れと不安に飲み込まれてしまう。生活が第一になり、主が後回しになっている。

主は、神を第一に軌道修正せよと言われる。そうすれば、主との交わりの中に平安と喜びが与えられ、それに加えて、生活の必要もすべて満たされると。主が後回しになると、忙しく懸命に働いているのに、必ず心に平安が失せ、イライラと腹を立て、心荒み、トゲが出て来る。又、心に喜びが無く、虚しくなる。そして何よりも、思い煩いでいっぱいになる。その思い煩いはどうにもならない。絶えず心でその事を反すうし、その事に捕らわれているので、その問題を自分でモンスターにしてしまう。

主を思い、御言葉を反すうするならどんなに良いだろう。平安な心で、主と共に問題に立ち向かえないので、解決どころか、更に問題をややこしくしてしまう。今、心に平安と喜びが無く、秩序が混乱していたら、優先順位を確認してみよう。主以外のもの、金銭、仕事、人、名誉、地位・・偶像が第一になっていないだろうか。
-----------
平安がなくなる時、主を忘れて、自分中心に動いていることに気づく。静まって神を神としもう一度祈ってみよう。自分の中にある優先しなくてもよいもの無駄なものを主は示して下さる。


2013年01月24日(木)

「すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:18


すべてのことについて感謝することにより、大いなる祝福、主のみわざを見る。それは、まず、感謝するには、自分の力にギブアップするからだ。問題解決に、自分の知恵も力も役立たないことを認め、自分の無力を認める。心砕かれていなければ、感謝することはできない。

問題にぶつかると、自我は、頑なであり、不平と不満でいっぱいになる。又、逆境に感謝するということは、主の主権と主の摂理を認めることになる。目の前の困難が偶然ではなく、不運なのではなく、主のご計画の内であり、主が目的あって送られたものだと、認めることになる。そして、すべてが益となることを信じる。

ある人が、会社が倒産し、蓄えもほとんど無く、突如の経済的苦境に立たされた。家族を抱え、必死に職を探し回るが、無い。祈りながら、尚も探しに探すが職が無かった。その内、蓄えも底をついて「祈っているが与えられず、どうして良いかわかりません。次の礼拝メッセージの御言葉を御心と受け止めます。語って下さい」と1週間祈り続けた。その御言葉が「すべての事について感謝しなさい」だった。

それが祈りの答えと受け取り「まだ職が与えられていないことを感謝します」と祈った。すると不思議が起こり、不安と恐れがあった心に、平安が満ち溢れた。まだ与えられていないのに、心がすっかり平安になった。その後、やがて職が与えられた。
----------
感謝できない時に「感謝します!」と言うと、心はすぐに主に向き、不安から守られる。今は感謝できないけれど「感謝します!」だ。まだ受けていない祝福を思い、主から来る万事は益を信じていよう。


2013年01月23日(水)

「イエスは言われた『それを、ここに持って来なさい』」マタイ14:18




男だけでも5千人の人々が、熱心に主の言葉に耳を傾けていた。弟子たちは、時刻も時刻であり、解散させて各自で食事をするようにさせて下さいと言った。人が考える常識的な判断であった。しかし主は「あなたがたで、上げなさい」と言われた。ヨハネによると、どこからパンを調達したら良いかと、ピリポに問われた。

ピリポは、所持金と人数を計算し「足りません」無理との答えを出した。アンデレは、パン5つと魚2つを持つ少年を探し出したが、余りにも僅かで「それが何になりましょう」が答えだった。ああ、だめだとの思い。しかし主は弟子を「ためして」とあり、「ご自分では、しようとしていることを知っておられた」。

主は、最初から5つのパンと2匹の魚しか無いことをご存じであり、弟子たちをためされた。主の答えは「それを、ここに持って来なさい」だった。主は受け取り、天を見上げて、祝福された。すると、5つのパンと2匹の魚から、奇跡が起こり、全員が満腹した。主は「それを、ここに持って来なさい」目の前の困難を、自分で何とかするのでなく、主のもとに持って来るようにと。「ここには〜ほかありません」僅かなものに失望するのでなく、それを持てるものを、主に差し出すなら、驚くべきみわざをされる。
--------
わずかなもの、足りないもの、こんなものが何になろうと思う。主に持って行かなければ消えてしまうようなものを、主が用いて下さる。測り知れないご計画と栄光のみわざを経験していこう。


2013年01月22日(火)

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8


ある女性の証しだ。小さい時から、頑張りに頑張って勉強し、親に言われるままに習い事もし、優等生で過ごして来た。周囲からも常に褒められ、自分でも、何ごとにも真面目な良い子、頑張る立派な人間だと思っていた。ある時、友人に教会に誘われ、嫌でなかったので一緒に行った。聖書から「罪」ということを教えられるが、一向にわからなかった。自分は良い子であり、皆にも良い子と言われ、非行になど走った事はない。しかし、友人との交流は楽しく、教会に続けて通っていた。

ある時、放蕩息子の箇所の学びだった。だが、その放蕩息子ではなく、兄息子が、自分の事を言っていて、そのまま自分に重なることに愕然とした。弟を軽蔑し、見下し、それを受け入れる父親に不満爆発。誰にも見せない自分の姿だった。顔ではニコニコ振る舞いながら、実は出来ない子を見下し、軽蔑していた。自分は正しく、立派であり、心の中で、不良たちを裁いていた。心の中は、常に満たされておらず、怒りや不平不満でいっぱいだった。

突然、御霊の強い光によって自分の姿があらわにされた。初めて罪がわかった。心底自分は罪人であった。いつも聞いていた主の十字架が、まさに自分のためであると迫り、心からの悔い改めが与えられた。御霊が働かれ、罪につき、十字架につき、わかるように教えて下さる。
-----------
御霊によらなければ、誰もが生まれたままの人間だ。自分の罪がわかり主の十字架は私のためであったと悟れ、そして祈りへ向かわせて下さるのも、すべて内に生きていて下さる御霊の導きだ。


2013年01月21日(月)

「主は、私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」創世記16:2


アブラハムに、主は、「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」「星を数えることができるなら、数えなさい」「あなたの子孫はこのようになる」と言われた。しかし、実際なかなか子供が与えられなかった。そんな時にサラは考えた。これは自分ではなく、女奴隷によって子供を持つのだと。主が言われたのは、そういう事なんだと。それで、奴隷ハガルによって子供を得ることを、アブラハムに提案した。

アブラハムは、サラの申し出であり受け入れた。そしてハガルはみごもった。しかし、秩序が乱れると、必ず問題が起きる。ハガルは、不妊の女主人を見下すようになり、サラは、そんなハガルに怒り、いじめた。ハガルは辛さの余り逃亡するが、主が関与され、女主人のもとへ帰り、イシマエルを産んだ。主の約束を待てないで、肉で、イシマエルを産み出してしまった。

サラは、主の語られた言葉をそのまま受け取らずに、自分の思いで受け取った。自分の思いで解釈して、行動を起こした。そこで間違ってしまった。自分の思いで、御言葉を読み取るなら、御心からそれて、間違いを犯してしまう。都合の良い御言葉を取り出して、都合の良い解釈をし、導きだと誤ってしまう。御霊は拠り頼む者を助けて下さる。祈りをもって、御霊に頼りつつ、御声に耳を傾けよう。御霊は正しく導いて下さる。
-------------
状況を見ると主も主の御約束も遠く感じる事がある。不安や焦りでいっぱいになると、すぐにサタンの声も聞こえて来る。主に祈り、主に告げながら、御霊の導きを識別していこう。


2013年01月20日(日)

「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼 を永久に取り戻すためであったのでしょう」ピレモン15



オネシモは、ピレモンの奴隷であった。主人のもとで盗みを働き逃
亡した。しかし、捕らえられ投獄、そこでパウロに出会う。パウロ
はオネシモの主人ピレモンを知っていた。オネシモは、パウロに導
かれ回心し、主イエスを信じた。

当時、逃亡奴隷は死刑であった。パウロは、オネシモが新生し変え
られた事を確認し、ピレモンに主に在る兄弟として、オネシモを受
け入れてくれるよう手紙を書いて頼んだ。オネシモは彼の名の通り、
無益な者が「有益な者」に変えられた。

私たちの人生も同様だ。様々な事態が生じ、時にはその先が見えず、
大きな不利益、マイナスにしか見えない事態が、「すべてのことを
働かせて益」とされる方により、大いなる祝福と豊かな結果へと変
えられる。

今、グチャグチャで、何が何だかわからない、「これが一体何にな
る?」としか思えない事が、必ず豊かな益へと導かれて行く。又、
パウロは摂理の信仰を持って、事態を見た。オネシモは主人を裏切
って逃亡した。が、それを信仰のメガネで見る時、オネシモを役立
つ者として、永久に取り戻すために一旦離されたのだと。

私たちも信仰に立って、すべての事柄に神を認め、摂理を認める時、
物事の見方が全く変えられる。失望落胆する事態に遭遇した時は、
神のご計画を認める時だ。今、失望していたら、摂理とご計画を見、
信仰的見方に立とう。
・・・・・・・・・・・・・
神の摂理を認め、信仰のメガネをかけて、事態を見る時、どんなに
希望があるだろう。そこに神の愛があり、意図があり、ご計画があ
る。神は最善をして下さる。どんな中でも、主は良くして下さると
信じて行ける。


2013年01月19日(土)

「何事にも定まった時期あり・・生まれるに時があり、死ぬのに時が ある・・」伝道3:2



日々の生活で、様々なことが、ありとあらゆることが起きる。人が
生まれ、死に、作物を植え、収穫し、対人関係にひびが入り、又、
新たな友人ができる。泣いたり、笑ったり、嘆いたり、喜んだり、
得たり、失ったり、憎んだり、愛したり、争ったり、和解したり・・。

様々な日常が営まれている。これらすべてに、絶妙の「時」がある。
そして、これら人の営みには、人のコントロールでどうこうできな
い、人の手を超えた力が働いている。「時」を手中におさめ、支配
しておられるのは神であり、すべてが摂理のもとにある。

人の目には理解できず、わけわからず、苦しいばかりの状況におい
ても、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と後にわ
かる。その渦中では「人は、神が行なわれるみわざを、初めから終
わりまで見きわめることができない」ために、意味がわからない。

しかし、神は愛であり、愛の御手で、時にかなって美しく整えられ
ている。ただただ神との関係で、自分の人生を見て行く時、結果的
に「美しい」。そこに大きな感動がある。

「何事にも定まった時期があり・・時がある」。主の主権のもと、す
べての事に定められた時があり、回避しようとしても、神の時は来
る。その神の定められた時を認めて、その「神の時」に、主に従っ
て行く時に、主の栄光が現われる。

・・・・・・・・・・・・
完璧な「神の時」がある事を覚えよう。神の時が満ちなければ、何
一つ動かない。微動だにしない。しかし、神の時が満ちるなら、状
況が、物事がひとりでに動いて行く。不思議なほどだ。神の時を待
ち、その時には御心に従おう。


2013年01月18日(金)

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」箴言4:23



庭に種を蒔いて、花を咲かせた経験があるだろう。水をやり、生えて来る雑草を抜き、手入れをする。水をやらなければ、放っておけば枯れてしまう。種蒔きのたとえも同じようだ。私たちのケアが必要だ。心に蒔かれた種である御言葉を、枯れてしまわないよう水をやり続ける。つまり、御言葉をしっかり受け取り、聞くだけでなく、実行することが大切だ。でなければ枯れてしまう。

又、いばらの雑草が生えて来るなら、引き抜かなくてはならない。御言葉をふさいでしまう。様々ないばらが伸びて来る。それは、名誉、地位、人からの賞賛、評価を求める・・この世の煩い、又、富の強い誘惑など、主より心が奪われてしまう様々ないばらが伸びて来る。そのままにしておくと、伸びてからまり、がんじがらめにふさがれてしまう。主より第一になっているものがあるなら、優先順位が違っているなら、気づけるように。

又、苦い根の雑草はどうだろう。妬みや憎しみ、敵対心・・、伸びない内に、きっぱり引き抜こう。御霊は助けて下さる。「苦い根があります」「引き抜けません」「自我が捨てたくない」ありのままを祈って行く時、御霊によって捨てることができる。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」。力の限り心を見張り、ケアしよう。いのちの泉がこれから湧くのだから。
--------------
毎日健康に良いことを意識して行うように、心も意志をもって、良いものを蓄え、悪いものには敏感になり主に明け渡せるよう、強い求めを持って御言葉を読んでいこう。


2013年01月17日(木)

「彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった」マルコ3:1 

  
                  
パリサイ人から、主は、麦畑を通った弟子達が、安息日に穂を摘んだと非難された。主は安息日は人間のために設けられたのであり、人間が安息日のために造られたのではないと言われた。その後、主が安息日に会堂に入られると、そこに片手のなえた人がいた。パリサイ人は、主が安息日に、その人を直すかどうかと、じっと見た。それは、主を陥れるためであった。何という冷淡な心だろう。

主を訴え、自分達を正当化するために、手のなえた人を利用する。その手のなえた人が癒されるという奇跡を見ても、何の感動もなく、主を殺す相談を始める。何ということだろう。しかし「自分は正しい」に立つ時、自分もまたパリサイ人になっている。その態度の原因を「その心のかたくななのを嘆き」と、心の頑なさによると言われた。

心は頑なになり、感覚が失せていた。愛や憐れみや同情に無感覚だ。それは主の殺害計画にまで発展して行く。なぜここまで頑なになったのか。自分を正当化し、心に生える苦い根を引き抜かず、はびこらせ育て上げてしまった。あなたにも苦い根は無いか。憎しみ、妬みの根は放っておくと殺意に増幅する。実際、彼らは妬みで主を十字架につけた。一方、主は愛と憐れみで心が一杯であった。同じ「じっと見る」目が何と違う事だろう。根にあるものに気づかされ、明け渡して行こう。
------------
頑なな心は目を曇らせ、見るべき主の恵みもご愛も御心も見えなくさせる。苦い根は熟成させずに主に持って行き、いつも柔らかい心で御霊に身を委ねて行こう。


2013年01月16日(水)

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」ガラテヤ5:25


日々の生活で経験するところだが、御霊に導かれて、御霊の支配の中で生きる時、私たちは自由で、喜びがあり、感謝がある。しかし、律法のもとで、肉に従って生きるなら、途端に辛く苦しく窮屈になる。「〜ねばならない」に陥って、「今のままでは、だめだ、だめだ」「もっと頑張らねば」、平安も喜びも失せて、心しんどく苦しいばかりだ。自由がなく心が重くふさがれるようだ。

あの一タラントのしもべのように、常に神に要求されているように感じる。神がひどい、恐い方で、蒔かないところから、刈り取る非常に厳しい方になってしまう。そこには感動も喜びも無い。今、どうだろう。重苦しい信仰生活だろうか。辛いなら、御霊によく心探って頂こう。自分の力で頑張っているかも知れない。自分でしているなら、必ず辛い。

例えば、妬みや敵対心、怒りが湧き上がる時、これは良くない事と、自力で心の奧に抑え込むだろうか。抑え込んだものは、無くなるのでなく、ずっとそこにある。膿んでただれる。そしていつか爆発する。この時に、抑え込まず「私は怒っています、妬んで、憎んでいます。」と一つ一つ、人に言えない思いを、主に告げる事が大切だ。

隠さず、言い訳せず、ごまかさず、主の御前に認めて、言い表して行くことだ。そうすると、御霊は悔い改めに導き、平安にして下さる。絶えず主を呼び、言い表わして行く時、嫌な思いが消えて行く事を経験する。絶えず主を呼び求めよう。
-------
ねばならない、ねばならないと、奴隷のように自ら選んでやらない行為を主は喜ばれるだろうか。「できません」と心を主に向けたなら、御霊の導きの中へと主が変換させて下さる。


2013年01月15日(火)

「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」コロサイ3:13


赦せない心ほど、辛く苦しいものはない。どんなに楽しい時も、赦せない人がいるなら、その事が心浮かぶと、心が暗くなる。重苦しく、辛い。その相手が前にいようといまいと関係無い。結局、ずっと牢獄の中だ。閉じこめられたままだ。どんなに楽しい時も、心は暗くなってしまう。結局、自分の人生が赦せない相手によって、コントロールされる事になる。永久に縛られてしまう。そこから出るには、相手を赦すことだ。

相手を赦すのは、自分のためだ。自分が牢獄から解放されるためだ。「主があなたを赦してくださったように」、自分が人を赦すためには、自分が、主からいかに赦されているかを知ることだ。あの大きな罪、誰にも知られたくない罪、恥ずかしい罪、面目無い罪・・主は完全に赦し、無罪放免にして下さったのではなかったか。二度と思い出さないと言って下さった。どんなに有難く感謝な事だろう。

赦すことが出来ないなら、正直に「赦せません、赦したくありません」と主に告げ、助けを求めよう。御霊の働きによって赦せるようにして下さる。しかし、赦しは選択であり、決意だ。
赦したくないが、赦すことを選択することであり、自分にはできないが、そうしようと決意することだ。無力の中に、御霊が働かれ、御霊の力によって赦せるようにされる。
-----------
赦せず相手を攻撃する思いも、外には出さなくても醜い罪だ。自分勝手な私達がいかに主に無限に赦され、無限に愛されているだろう。怒りが来る時、主の愛を思い起こそう。


2013年01月14日(月)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい・・しかし、人は神が行われるわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」伝道3:11  



 主のみわざは、時にかなって美しい。「かなう」とは「ぴったり合う」「適合する」「丁度当てはまる」であり「時にかなって」とは「ちょうど良い時」「ピッタリな時」「ジャストタイミング」だ。「美しい」とは。「調和がとれていて快適に感じられるさま」であり、「人に感銘、感動を与えるさま」だ。

主のみわざはピッタリのタイミングで、秩序と調和があり、人に感動を与える。ハマンにより、ユダヤ人絶滅の悪巧みがなされた際、そこにピッタリのタイミングでエステルがいた。王に願うとは、エステルだけにしか、他の誰もできないことだった。そしてエステルは命がけで従順に従った。自分にできることをした。結果ユダヤ人は救われた。

飢饉のため祖国を離れたナオミが、帰国を決意した時、ルツも従った。それが丁度、大麦の刈り入れの時期だった。落ち穂拾いという生活の手段が備えられていた。又、その場が、はからずもボアズの畑であった。ボアズの畑を選んだわけではない。たまたま足を踏み入れた畑だった。そして丁度その時、ボアズが姿を見せた。

まさに、主のなさることは時にかなっている。神に従い、故郷を捨て、異国の地に来たルツは、豊かに報いられ、ボアズとの結婚が備えられていた。すべての時に、ふさわしい事をされる。今はわからずとも、いつか必ず「美しい」ことが判明する。信じていよう。
---------
はからずしも全てに美しい神の摂理の中を生かされている。まだ見ることが赦されていないが、恵みと祝福の備えを見つめて、不安や恐れを主に委ねながら、今日の一日を歩んでいこう。


2013年01月13日(日)

「あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地を持っていてはなら ない。山地もあなたのものとしなければならない」ヨシュア17: 18


各部族がくじを引き、相続地が割り当てられた。しかしその地は、
戦って開拓して行かなければならない。ところがヨセフ族に不満が
起きた。 彼らは、主の祝福により数の多い民になったのに、一つ
のくじによる一つの割り当て地しか得ていないと。

「なぜ、ただ一つの割り当て地しか貰えないのか」自分たちは、大
部族なので、大きな土地を得なければならないと思った。するとヨ
シュアは山地を自分たちのものとせよと。すると彼らは、カナン人
は鉄の戦車を持ち、強いから無理だと。ヨシュアは、彼らが強いと
しても、戦って追い払い、勝ち取れと。

彼らの問題は、戦うことを恐れている事であった。戦って勝ち取ろ
うとはせずに、ただただ現状に不平不満タラタラだ。私たちはどう
だろう。主によって割り当て地が与えられている。

家族、仕事、対人関係、今の場所、賜物、能力・・。今の場にヨセフ
族のように不満だらけだろうか。強い鉄の戦車が立ちはだかり、難
しい状況、事態が様々あるかも知れない。今の環境が自分の描くも
のとは異なり、嫌でたまらないかも知れない。

しかし、ヨセフ族と同様に、私たちも主から与えられた地だ。主は、
それらを祈りつつ、御霊の示しに従い、主のために用い、栄光を現
わして行く事を願っておられる。
山地をもあなたものとしなければならない。信仰に立つ時、主が戦
って下さり、更に恵みを増し加えて下さる。自らの態度はどうだろ
う。
・・・・・・・・・・・・・・・
新年、何かの前進を語られているだろうか。自分にとっての前進は
何だろう。御心であれば、難しく見えても必ず与えられる。問題は、
そうしようとしない、面倒だと思う心、又、無理だと諦めている自
分の心だろうか。


2013年01月12日(土)

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだ けの者であってはいけません」ヤコブ1:22


聞いた御言葉を実行する時に、初めて豊かな実を結ぶ。御言葉を聞
くだけで、実行しないなら、「自分を欺いている」と言っている。
まず、聞き方が問題で、他人事のように聞いてしまっていないだろ
うか。自分の事として聞かない。あの人が聞けばよかったのに、こ
の人にぴったりだった・・。

種蒔きのたとえの、道ばたに落ちた種だ。自分に、語られた言葉と
して受け取らないので、決して心に入ることがない。又、この御言
葉はもう知っている、何度も聞いた、との態度で聞く時にも、心に
入らず、とどまることがない。サタンが種を取って行ってしまう。

私たちの聞き方はどうだろう。他のことを考えながら、他に思いを
巡らせながら、御言葉を聞いていても、右から左へと何も残らず流
れてしまう。何も入っていない。サタンの妨害だ。思いを吹きつけ、
御言葉を入れさせない。

よく祈って、自分の事として聞く時に、御霊の助けのもと、心に入
って来る。そして、聞くだけで実行しないなら、「生まれつきの顔
を鏡で見る人のよう」だと。鏡で自分の顔を見て立ち去ると、すぐ
に忘れてしまう。

御言葉は鏡であり、自分の本当の姿を映し出す。罪を示し、見えな
い心の動機を映し出す。しかし、そこで実行せずに立ち去ってしま
うと、すぐに忘れてしまう。そこで悔い改めることが、御言葉を実
行することであり、その時に、確実に成長して行く。

・・・・・・・・・・・・
自分の御言葉の聞き方はどうだろう。どんな態度で聞いているだろ
う。「実行します」との姿勢で聞く時に、初めて御声が聞こえて来
る。聞くだけ、又聞き方もあいまいな、いい加減な態度に気づく事
から成長が始まる。今年一歩成長して行きたい。


2013年01月11日(金)

「キリストは・・ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです」ピリピ2:6


ある人が職場で、皆の前で、上司にミスを注意された。しかし、実はそれは自分のミスではなく、先輩のミスであった。が、その場にいる先輩は、素知らぬ顔をしている。自分だとは言ってくれない。手元に証拠の書類もあり、自分じゃないと言いたい衝動にかられた。しかし、自分より上の人々ばかりであり、その場がおさまらないと感じ、「申し訳ありませんでした」と一言言うと、その場が、穏やかな良い空気でおさまった。本人にも、心に主の平安が満ちた。

ある人も経験した。サークルに入った場で、相手は自分が気に入らないようで、挨拶をしても返してもらえない。しかし、こちらはこちらとして挨拶をし続けていた。全く応答は無かった。自分が来た事で、相手の持ち場が微妙になる事を感じていた。そんな中、自分は無視され、そばにいた人には気持ち良く話し出した。その時にカチン!と来て、自我が爆発しそうになり、攻撃的な言葉が出そうになった。

瞬間心の中で「神様!」と叫んだ。すると、口から「ごめんなさい」との言葉が出た。「あなたの持ち場が変わってしまって」と。相手は「そんな事ないのよ」と、とんでもないと言い恐縮した。その時から普通に和やかな関係になった。主が、神のあり方を捨てられて、ご自分を無にされて、何もかも捨てて、十字架の死にまで従われたことを覚えよう。
----------
自分の正しさを言えば有利なようでも、心に平安はあるだろうか。主は罪を断罪されるために来られたのではなく、赦して下さるために十字架の道を歩まれた。少しでも主に習うよう歩んで行きたい。


2013年01月10日(木)

「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」Uコリント12:8



「求めなさい。そうすれば与えられます」と、主は、祈ることを勧めておられる。「求めよ。そうすれば受ける。喜びが満ち満ちる」、祈れば、答えられ、そして、喜びが満ちるからと。答えられるから祈る。そして同時に、祈ることによって、主のお心が知れる。パウロは、身体にとげがあり、何らかの激痛があり苦しんだ。どうしてもいやして欲しい。とげを取り去ってもらえるよう、心底の願いを主に献げた。

しかし、主の答えは「ノー」であり、願いは聞き入れられなかった。そして、別の答えが与えられた。そのとげがあった方が、更に主に拠り頼むことができて、働きができて、主の臨在の中におれると。主の恵みは十分で、主の力は、弱さのうちに完全に現われると。人の弱さこそが、主の働かれる場であり、主の御力を体験すると。

人は強い事が善と思っているし、強ければ、主のためにより働けると思っている。しかし、主の御心は全く違っている。パウロは、とげのために祈ったからこそ、主の御心を知った。パウロが祈らなかったなら、この事もわからなかっただろう。主のお心に触れて、パウロは現状を受け止めることができ、大いに喜んで弱さを誇ろう、弱い時にこそ、強いのだからと言えた。祈りにより、願ったものを得ることができる。そして、願い通りではないが、更に高い主のお心を知ることができる。
----------
強い求めで祈る時、主は常に近く、いつも祈りの身構えでいる。これは幸いだ。健康の維持や豊かさの中では味わえない主からの慰めや答えを敏感に受け取ることができる。だから喜んでおれる。


2013年01月09日(水)

「祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである」ルカ19:47



祭司長、律法学者たちは、主を殺そうと狙っていた。主が「神を冒涜した、人間でありながら自分を神とする」と。しかし、本音は、主が来たことにより、自分たちの立場が危うくなるためだった。神のことなど、どうでもよく、自分たちの利得を守りたいだけであった。主の出現で、本来は悔い改め、真の信仰に立ち返る機会であったが、彼らは、自分たちにとって脅威であり、都合の悪い主を、抹殺しようと狙った。そして、この後、殺害計画を実行し始めて行くことになる。

彼らは、主が都合悪かったが、私たちの心はどうだろう。主を信じ、主を心に迎えている。しかし、心の中は、どうなっているだろう。主ではなく、自分が中心に座しているだろうか。主のための自分ではなくて、自分のための主だろうか。それなら、自分たちも同じだ。肉は、どこまでも自分が神であり、自分が王座に座り、自分の思い通りに生きたい。肉は、主に、王座に座られるのが嫌であり、都合悪いので拒む。

しかし、主は、この肉を十字架につけて下さった。その信仰に立ち、自らを、主に明け渡して歩む時に、御霊に導かれて、新しい歩み、主に従った歩みをして行ける。自分を守るために、自分を通すために、決して放せずに握りしめているものがあるだろうか。それを主に明け渡して行く時に、自分の利得のためでなく、御霊に導かれて生きる者に変えられて行く。
----------
明け渡せないものが示される度に、信仰のメッキがはがれて行く。主の御心に逆らい、はむかいはしなくても、上手く自我と共存し、安心してはいないだろうか。


2013年01月08日(火)

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32


ある人が、職場で、理不尽で身勝手な上司につまずいていた。いつしか嫌だという気持ちが積もり、恨みや憎しみになっていた。段々、出社が辛くて苦しい。どう見ても、身勝手でわがままな上司が悪いとしか見えず、心の苦しみは、上司のせい、上司が悪いから、自分は苦しいとしか思えない。しかし、職場にいても、いなくても、家にいても、心は辛く重く苦しい。とうとう苦しくてたまらず、主の御前に心をことごとく打ち明け、祈った。

御霊は心を探られ、自分の内に「苦い根が芽を出して悩まし・・」と、苦い根があることを示された。相手を憎み、恨んでいる。相手が悪いとしか思えなかったが、自分自身の内に憎しみがあり、罪を犯しているから、辛くて苦しいことに光が当てられた。それは自分の罪として認め、悔い改めた。その時、苦しかった心が解き放たれた。平安が訪れた。

ある人は、成育歴から、親との確執があり、ずっと赦せない思いで、親を恨んでいた。酒乱で、暴力を振るう親を心底憎んでいた。主の愛と赦しに出会った時に、自分が変えられた。そして、親に対する恨みや憎悪を、詫びたいと思った。親を赦し、自分も赦されたいと思った。涙の和解が実現した。憎しみにがんじがらめの心が自由にされ、解放され、喜びと平安に満たされた。憎しみ、恨み、赦せない心ほど、人を苦しめるものはない。
-----------
憎しみや恨みから目をそらしても根本的な解決がなければ、いつかまた憎しみの奴隷となる。憎んで行く自分の罪に気づき、主に告げ、自由な光の方へと歩みだそう。


2013年01月07日(月)

「そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった」マタイ20:9


収穫期のぶどう園で働くための、労務者が、早朝、9時、12時、3時、5時と順次雇われた。早朝の者だけ1日1デナリの契約がなされ、9時以降の者は「相当のもの」を出すからと。そして、1日の労働が終わった時に、5時の者から順に、それぞれ1デナリが支払われた。

1デナリは当時の1日分の給料だ。5時の者たちは驚いた事だろう。ほんの少ししか働いていないのに、丸々1日分貰えた。しかし、早朝の者は怒りがおさまらない。憤慨して、主人に文句をつけた。「1日中労苦と焼ける暑さを辛抱した」と。それが同じ賃金とは不公平だと。自分たちは辛く苦しかったと言ったが、別の面から見れば、早朝からきちんと1日分の報酬が確約されていた。賃金を家族に持って帰れる。家族の喜ぶ顔が浮かんだ事だろう。

又早朝から雇われたからには強健な人々だったかも知れない。ところが5時の人々はどうだろう。怠けていたのではなく、働きたいが、ずっと雇って貰えなかった。身体が弱そうだったのかも知れない。夕刻になるのにその日の糧が無い。家族はどんなに落胆するだろう。その心中の心細さ、不安、恐れを抱えて夕方まで過ごした事になる。

私たちも5時の者だ。罪ゆえに滅びて当然の者が、一方的な主のあわれみによって救いに入れられた。値しない者に、何と驚くべき恵み、一方的な厚意だろう。感謝しかない。
----------------
自分の思い通りの信仰生活が送れていると思う時、たかぶりと共に気分はすっかり早朝からの者になる。心細く、ふらふらと迷い、神様のあわれみに守られている者であることをいつも覚えていたい。


2013年01月06日(日)

「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありま すか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく 思われるのですか」マタイ20:15



これは「天の御国」のことを言っている。天の御国では、先の者が
後になり、後のも者が先になると。地の国から見ると反対だ。地上
の価値観は、先の者が先で、後の者は後だ。天の御国の価値観は、
この地上の価値観と全く異なる。何もかもが恵みによりおおわれ、
恵みに支配された世界だ。

地上は、報酬の世界だ。働いた分に比例して報いを得る。労働を提
供した分は、きっちりと受けたい。どうしても、この御国の価値観
とこの世の価値観が、くい違い、かみ合わない。この世の価値観で
は、働きにきちんと比例しない報酬に腹を立てる。

それはこの世では「正しい」ことだ。しかし、御国は「恵み」の世
界だ。そして、それはこの世では、経済活動が成り立たず、混乱に
なる。つまり、御国とこの世は、全く別ものだということだ。

主もちゃんとルールには乗っ取って、早朝の労務者と1デナリの約
束をされている。雇用契約をし、きちんと契約通り支払われた。そ
して、与えに、与えて下さる、溢れるばかりに気前の良い主は、他
の者にも良くしてやりたいと思われた。

肉の培われた根深い価値観があり、御国の価値観が受け入れ難い。
神の国が恵みの世界とは、何と嬉しいことだろう。実は、主の一方
的な恵みとあわれみによって、今、生かされていることに目が開か
れるように。
・・・・・・・・・・・・
主は、この世の「正しい」価値観とは違う「気前のいい」方だ。御
国は、恵みとあわれみの世界だ。このあわれみが自分にも豊かに注
がれているとは、驚くばかりだ。自分の底にある価値観が、御国の
価値観と異なる事に気づく事から、成長が始まる。


2013年01月05日(土)

「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝く ためです」ピリピ2:16           


「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい」とあるよ
うに、主が志を与えて下さった、そのみこころを行なおうとする時
に、つぶやき・理屈が出て来る。「ああでもない〜、こうでもない
〜」「ああすれば、こうなる」「こうすれば、ああなる〜」。

自分の立場、自分の損得に、払う犠牲に思いが及び、ちゅうちょし
てしまう。「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光
として輝くため」とあるように「いのちのことば」をしっかり握る
ことが大切で、「世の価値観や常識、自分の思い」を握っていたな
ら、いつまでたっても、主に従うことができない。この先もずっと
従えないままだ。

肉の価値観が邪魔をする。そして、頭ぐるぐると思い巡らしている
間に、サタンが来て、「しなくてもいいのでは」と囁き、反対の思
いを吹き込む。ぐずぐずしている間に、気力がなえて、どっちでも
良い事のように思えて来る。そして御心が行なえなくなる。

その背後に敵の攻撃、サタンの惑わしがある。みこころを行なわせ
ないように、サタンはあらゆる妨害をして来る。どうだろう。振り
返って、御霊の促しを受けた時に、どう応答しただろう。世の価値
観・理屈が出て来て、御心をふさいでしまっただろうか、ぐずぐず
して御心を逃してしまっただろうか。

「私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」の通り、
「いのちのことば」をしっかり握る時に、「急いで」「ためらわ
ず」行なうことができる。

・・・・・・・・・・・・・・
御言葉を握っていなければ、エバの時のように、サタンが妨害し、
自分の思いに立たせ、御言葉を否定して来た時に、立ちゆけない。
御心を行なう時には、必ずサタンの妨害があると踏まえて、祈りつ
つ御言葉を握って、実行して行こう。


2013年01月04日(金)

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばはあなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21

  
御言葉を行なうためには、まず御言葉を受け入れる必要があるが
汚れや悪があると、御言葉が入らない。御言葉をふさいでしまう
どうしても捨て去る必要がある。汚れや悪を悔い改めて〃行こう
十字架のゆえに、主は赦して下さる。

苦いものが心にあるなら、御言葉をさえぎってしまう。棚上げに
している、見過ごしている罪を悔い改めよう。それが主との正し
い関係になり、御言葉が植え付けられるために、心を耕す事にな
る。そして、デボーションや礼拝メッセージや色々な場で、語ら
れる御言葉を「すなおに」受け入れなさいと。

語られる言葉は、一点の誤りもない神の言葉だ。「そんな事でき
るわけがない」「どう考えても難しい」「無理だ」・・又、「理
解できない」と、自分の思いや価値観、常識で、御言葉をやり過
ごし、捨ててしまうなら、自分を神の上に置くことになってしま
う。思いや理屈や、常識でなく、御言葉をまず受け止めて、主に
向かおう。

素直に受け入れられないなら、その事を主に打ち明けよう。「難
しいです」「理解できませんが」と主に祈る時に、御霊が働かれ
助けられ、信じられるよう、実行できるようにされる。

自分が先に立ち、自分が判断し、無理だと決めつけていないだろ
か。素直に受け入れることを妨げていないだろうか。御言葉が受
入れられる時、平安、喜び、指針が来て、救いが与えられる。素
に受け入れよう。
--------------------
み言葉に聞き、それを素直に受け入れられるよう祈っていこう。
頭の知識でとどめ、受け入れない硬い自我も従おうとするから気
かされ、祈りの課題も与えられる。