2013年02月28日(木)

「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになったのですか」詩篇13:1

「主よ。いつまでですか」ダビデは苦しみを、率直にそのまま訴えている。この苦しみは、いつまで続くのかと。「私に答えて下さい」と。ここには、「いつまで〜」が4度も出て来る。ぎりぎりの瀬戸際であった事だろう。私たちは、順風満帆の時には、神に愛されている、祝福されている、守られていると思える。受験は合格、畑は豊作、商売繁盛、家族は健康、それなら祝福、感謝と思える。

しかし、受験不合格、畑は不作、リストラ、倒産、家族のけがや病気の場合はどうだろう。祝福されていない、愛されていない、守られていないのだろうか。しかし御言葉によると、訓練は神の愛だ。「主はその愛する者を懲らしめ」愛し、受け入れているからこそ、むちを加えると。愛する我が子として扱っていると。

懲らしめが無いほうが心配だ。私生児かも知れない。先が見えない中で、信仰が鍛えられ、成長する時だ。私たちも今「主よ、いつまで」の状況だろうか。対人関係の悩み、経済的苦境・・。そのままの気持ちをダビデのように、弱さをさらけ出し、主に告げよう。

主ご自身もゲッセマネで、弟子に弱さを隠されていない。悲しみの余り死ぬほどで、一緒にいて欲しいと。私たちも弱いまま、率直に祈れる。祈りの後ダビデは「救いを喜びます。主に歌を歌います。主が豊かにあしらわれたゆえ」と大きな喜びと平安に変えられている。
----------------
苦しみの間中、その時々のつぶやきや不安や恐れを祈ろう。主に忘れ去られていると感じるのは、自分の感情でふさがり煮詰まっているからなのかもしれない。主と交わりながら試練をやり過ごそう。


2013年02月27日(水)

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」詩篇34:18

 
今、目の前にやりにくい対人関係、又、難しい状況があるだろうか。信仰人生、成長するためには、自我が砕かれる必要がある。自我が砕かれる時は、非常に痛い。苦しく辛い。しかし砕かれるほどに平安と喜びが広がる。この自我を砕くために、主は取り扱われる。

目の前に、難しい人や状況を置かれる。あなたの前に、非難し、批判し、敵対して来る人、愛せない人、うまく対応できない苦手な相手を置かれる。私たちは、自分の力で、そこそこ親切にできる。思いやったり、配慮できる。しかし、愛してくれる相手に対してであり、「自分の敵を愛」する力は無い。お手上げだ。

私たちの反応はどうだろう。敵対して来る相手が悪いとしか見えない。相手の問題であり、相手のせいであり、自分に問題はない。しかし心は重く苦しい。自分は悪くないと思うが、平安は無い。相手の問題と思っているが、何も変わらない。それが続いて初めて、もしかして自分の問題であり、自分への訓練ではということに思いが至る。

自分にも相手に対する憎しみや裁く心がある。その時、「私を変えて下さい」との視点に変わり、その祈りは答えられる。主が働かれる。そして、訓練を受け入れ始めると、状況に関わらず、心に平安が広がって来る。主は私たちが砕かれた心を持つために、辛い事、苦しい事、を与えられる。変えられるためだ。砕かれたたましいは、ただ主に頼り、主に拠りすがる。
------------
自分が変わるしかないが相手しか見えなければ変われない。私に対する主の取り扱いと、背後の主を見れば、大きな慰めと恵みに変わる。誰が変わるより自分が変えられたいと祈っていこう。


2013年02月26日(火)

「女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです」ガラテヤ4:23


神はアブラハムに「あなたの子孫に、この地を与える」と言われた。天を見上げ、あなたの子孫はこの星のようになると。アブラハムとサラに子供を与えると約束された。しかし、待てども〃なかなか与えられなかった。どうなっているのか、そんな中、サラは考えた。あの御言葉は、もしかして自分が産むことではなくて、他の者によって与えられるのではないのか。

そこで自分の奴隷ハガルを夫に与えた。アブラハムは、自分の意志ではなく、サラの申し出であり、受け入れた。ハガルはみごもったが、高慢になり、子供のできないサラを見下げるようになった。主の取り扱いがあり、無事イシマエルを産んだが、うまく行かず、ハガルとイシマエルは家を出されることになって行く。

ここから学ぶことができる。サラは、御言葉は信じた。否定したのでも、捨てたのでもなかった。しかし、自分の思いを御言葉に入れ、自分の思いで解釈した。幾ら待っても約束の子供が与えられない。待ち続けるのではなく、考えられる方法を思い巡らし、子供を持つのは、奴隷によってだと結論した。

しかし、それは肉だ。肉の性質は、御言葉を自分の思いで、自分の都合の良いように、受け取ろうとして間違ってしまう。肉の思いは、御心を行なうことの邪魔をするので、御言葉を御言葉の通りに、その通りに受け取れるよう、助けを仰ごう。
-------------------
長く祈らされる場合など、待っているだけでは駄目かも知れないと、自分の性急な判断が邪魔をしてくる。それは、しっかりと御言葉に立っているのか、動く前によく祈ろう。


2013年02月25日(月)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3


私たちの内には、二つの道があり、御霊によって歩む道と、肉によって歩む道が両方混在している。そして私たちは選択できる。自由意志が与えられている。罪の性質を持っているが、御霊を宿す私たちは、御霊に従うことができる。パウロはローマ7章で、自分の力で、従って行き挫折している。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている」。「戒めが来た時、罪が生き、私は死んだ」と。

戒めが返って、死に導くものである事を痛いほどに経験する。自分の力で従おうとした途端、従えない。心が苦しく辛くなる。信仰生活で、皆、経験する。自分の内には善が住んでいないと思い知る。しかし、主は、自分の力では従うことができないことを教えたい。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となり・・」。

自分は徹底的に、従えない事を知り、主がどうしても必要な事を心底知らされる。信仰によってのみ、戒めを行なうことができる。クリスチャンになって、さあ、これから聖書を読んで、祈り、良い行ないをするぞ!と思う。これがガラテヤ人たちが陥った間違いであり、御霊で始まったのに、肉によって完成しようとしたことだ。自分の力でしようとした。「できません」と祈り、御霊に委ね、明け渡して行くことだ。その時、御霊ができるようにして下さる。
---------
肉によっては、とうてい完成しない不完全な私たちを神は良しとして下さっている。「できません」と行き詰るたびに、神にそれを明け渡し、神の恵みと祝福をどこまでも信じていこう。


2013年02月24日(日)

「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。 それで、そこはマラと呼ばれた」出エジプト15:2 3


エジプトを出たイスラエルの民が、荒野に入って3日目にマラとい
う地に着いた。荒野を歩いて、水は無く、民は、喉が渇きカラカラ
であった。マラで、水に大喜びし、飛びついたが、その水は苦くて
飲めなかった。

民は不平不満で一杯になって、モーセに食ってかかった。モーセは
主に向かい祈った。すると、一本の木を示され、その木を投げ入れ
ると、水は甘くなった。あなたも、心が苦みで一杯になる時がある
だろうか。

消えない憎しみや妬み、敵対心、不平不満、心が辛さでいっぱいだ
ろうか。その時の解決は、一本の木である十字架だ。十字架から、
赦しと平安が流れ出る。主の赦しによってのみ、憎しみや妬みが消
え去る。

又、過去の失敗、過失はどうだろう。罪のとがめに縛られて、がん
じがらめだろうか。そこから絶えず、苦い思いが泉のように湧き上
がり、心が苦しくてたまらない。この解決にも、一本の木、十字架
が備えられている。

主の十字架の血潮によって、過去の罪は完全に赦され、罪責感から
も解き放たれる。赦された平安で満たして下さる。あなたにも心に
苦みがあるなら、一本の木、十字架を投げ入れよう。心の苦みが、
平安と喜びの甘い水に変えられる。そして、苦みが湧き上がる度に、十字架の血潮で、赦し、きょめて頂こう。

・・・・・・・・・・・
苦い水が、十字架によって甘くされる。憎しみ、妬み、怒り、不満
の苦いものが、十字架のもとで平安と喜びに変えられる。愛の無い
苦い心に、愛が与えられる。十字架をじっと見上げる時、不満が消
えて行く。


2013年02月23日(土)

「なぜ、あなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目 の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3



「さばくな」と主は言われる。では、「裁判」も、いっさいの「裁
き」はいけないのだろうか。しかしそれは違う。主は、「何が正し
いかを判断せよ」とも命じておられる。善悪の判断をするようにと。

又、聖なるものと汚れたものを見分け、何もかも信じるのでなく、
偽預言者を見分けよと。又、兄弟が罪を犯したなら、まず二人のと
ころで責めよと、罪を正す事を命じている。主が「さばくな」と言
われたのは、御言葉の基準でなく、自分のメガネで、自分の偏見や
独断で裁いてはならないという事だ。

それは自分のメガネに合わない相手を、中傷し批判することであり、
自己中心な裁きであり、私たちも陥りやすい過ちだ。裁く相手は、
だいたい自分と同じものを持っている。自分の中の嫌な、受け入れ
がたいものを相手に見る。

それが裁きや批判となる。自分の内にあるものだ。大きな丸太が目
の中にあれば、何一つ見えない。人の微少のちりなど、見えるはず
がない。目にちりが入るなら、鋭い痛みがある。丸太の入った目で、
そのちりを取ろうとするなら、見えないので、逆に更に痛みをひど
くする。

まず自分の丸太を取り除くことが必要だ。御霊に示されて、自らの
内側にあるものを悔い改める時、丸太が除かれる。目が見えて、相
手のちりがはっきり見える。ちりを除く助けのために用いられる。

・・・・・・・・・・・
人の欠点や足らない所はよく見える。しかし、自分のそれは見えな
い。相手にちりを見つける、自分の目に梁があると主は言っておら
れる。あるかも知れないでなく、あると。御霊の光の中で、自分の
姿をくまなく照らして頂こう。


2013年02月22日(金)

「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」創世記32:28


ヤコブの生涯は山あり谷あり、波瀾万丈であった。兄と父をだまし、裏切り、兄の激しい怒りに身の危険を感じ、家におれなくなった。逃亡し、遠く身を寄せた叔父の家では、妻をめとる時に、叔父に欺かれた。だましたヤコブはだまされ、蒔いたものを刈り取る事になった。辛く苦しい労働を耐え、ついに神に示され帰郷の時を迎えた。

だました兄との再会は、恐怖以外の何ものでも無かった。家族皆殺しにされるのでは。祈って、全力で備えるが恐れがどうにもならない。神が関与された。ヤボクの渡しで、神と格闘した。神がそんなヤコブのもものつがいを打ち、砕かれた。ヤコブはイスラエルに変えられた。びっこになったヤコブは、杖が無ければ歩けない。自分の力と知恵で突き進んで来たヤコブが、神に全面的に頼る者に変えられた。

狡猾で、自我が強く、問題の多いヤコブであったが、しかしこの苦しみが無ければ、ヤコブは砕かれることもなく、信仰の成長も無かった。私たちにも、信仰生活で、様々な問題、悩みが臨む。祈るが、なかなか道が開かれないことも経験する。全く思い通りに物事は進まない。行き詰まる。しかし、それらが実は大きな祝福であり、信仰の新たな局面へと導かれる。この苦しみを通して何を教えようとされているのか、主に求めよう。心が解かれ自由にされて行く。
---------
ふり返ってみれば、全く思い通りに行かないことで行き詰まり、全てを主に渡すしか術がないことを学んだ。目の前の問題は砕きの御手と受け止めて行きたい。


2013年02月21日(木)

「主が彼に幻の中で、『アナニヤよ』と言われたので、『主よ。ここにおります』と答えた」使徒9:10


アナニヤは、神から指示を受けた。サウロのもとへ行き、彼の上に手を置いて、再び見えるように祈れと。その命令を受けたアナニヤはどうだったろう。サウルとは自分たちの親族、同胞を迫害し、捕らえ、殺害していた人物だ。その彼のもとへ行き、祝福を祈れというのだ。感情的には非常に厳しい事だったかも知れない。だいたい本当に回心したのか。あのサウルが回心などするのか。罠があるかも知れない。自分の身にも危険が及び、殺されるかも知れない。

いろんな思いが巡ったことだろう。しかしアナニヤは、普段から主を第一にして、従順に従って来た人だったに違いない。主がこのような大任を授けられるとは。「羊はその声を聞き分けます」「彼の声を知っているので、彼について行きます」。アナニヤには、主の御声がわかり、「アナニヤよ」と呼ばれた時に、「主よ。ここにおります」と主のみこころを行なう用意ができていた。

主に率直に思いを申し上げ、しかし、主が「行きなさい」と言われた時、「そこでアナニヤは出かけて行っ」た。従順に従った。サウロは再び見えるようになり、聖霊に満たされた。アナニヤは尊い働きのために用いられた。主もアナニヤに任せる事がおできになった。私たちも目の前の小さな示しに従って行く時、少しづつ従順が訓練される。「主よ。ここにおります」と、今、目の前のその示しに従おう。
----------
感情はアップダウンしても、御心に従おうとすると、主が確かな働きへと導いて下さる。今、することは何か、それだけを確実に成して行けるよう祈ろう。


2013年02月20日(水)

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27


バプテスマのヨハネの弟子たちが、人々が主イエスの方へと行くのを見て、やっかんだ。皆の関心と人気が、自分たちの師から離れて行くことを寂しく、又妬ましく思った。しかし、ヨハネはへりくだっていた。神の主権と支配を認め、それを受け入れて満足していたので、全く動じる事が無かった。それで、「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできない」と言えた。

自分に与えられた分をわきまえていた。私たちにも一人一人に、神から与えられた分がある。皆、異なる。それぞれ遣わされた場で、それぞれの働きがある。与えられている賜物も異なる。ヨハネの弟子たちが、自分の師と主を比較したように、私たちも自分と隣の人を比較してしまう。比較するなら必ず劣等感、もしくは優越感に陥る。人との差異で自分を量るからだ。人が基準となる。

比較なので、自分が相手より劣るなら劣等感、相手より上だと思うなら優越感だ。しかし、相手が変わるだけでアップダウンし、自分は全く同じ自分であり、何一つ変わらない。虚しい、愚かな、何の実も無い生き方になってしまう。神を知らなければ、人との比較しか自分を量るすべがない。

しかし、主に在るなら解き放たれる。主が与えて下さるもので、満ち足りる事ができる。主との交わりにより平安にされるからだ。「比較しています」と祈ろう、導いて下さる。
------------------
人も自分の思いもいっさい無縁の、天から与えられるものだけに関心を持って歩んで行けるだろうか。神が今日すべきこととして示して下さることを忠実に成し遂げたい。


2013年02月19日(火)

「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。あなたがたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」使徒5:4


教会はどんどん成長した。御霊が力強く働いていた。大きな恵みが、そのすべての者の上にあったので、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、誰一人その持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」。そんな時、バルナバが畑を売って、その代金を持って来た。人々はバルナバを賞賛した。それを見たアナニヤとサッピラも自分の持ち物を売って代金を持って来た。しかし、一部を自分たちのために取り、全部の振りをした。ペテロに見抜かれ、その時、倒れて息が絶えた。その後、知らないで来たサッピラも、欺こうとしてその場で亡くなった。

彼らは人の目が一番の関心事であった。人から認められる事、賞賛される事を求めた。素晴らしいクリスチャンと言われたい。私たちにもあるだろうか。人からの賞賛を動機に動いてしまう。又、夫婦で一致して皆を欺いた。どちらかが止める事もできた。しかし、彼らは罪に対して鈍くなっていた。

世の価値観なら、外側の行為だけで、心の中の事など問題にされない。心で何を思おうと、動機も全く見える事はない。だが、すべてを見ておられる神を意識する事が無かった。「もともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由」、一部なら一部で構わない。一部ですと感謝して献げよう。主は喜んで下さる。正直でいよう。神が成長させて下さる。
---------
欺きを通す過程で何度も御霊からの促しがあっただろう。結果だけを評価される世にあっても、ただ神だけを恐れ、誠実な信仰を成長させたい。


2013年02月18日(月)

「・・わたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」創世記22:2

「神はアブラハムを試練に会わせられた」とあり、ひとり子イサクを、モリヤの山の上で全焼のいけにえとして献げるよう言われた。神からの「試練」であった。目に入れても痛くない最愛の我が子であり、イサクから子孫が増え広がるのであり、アブラハムには理解できなかったろう。しかし「翌朝早く」若い者たちを伴い3日かけてモリヤに出かけた。

彼は悶々と苦しみ、心に戦いがあったろう。本当に主が言われたのか。自分の聞き間違いではないか。しかし、今まで慣れ親しんで来た主のみ声に間違いはない。羊はその声を聞き分ける。彼は、神はイサクをよみがえらせる事ができると信じた。若い者たちに「ろばと一緒にここに残れ。私と子どもは礼拝して、あなたがたのところに戻って来る」と言った。イサクと共に「戻って来る」と堅く信じていた。アブラハムの信仰だ。

結果的に、手を下す瞬間に主が止められ、イサクの代わりの子羊が備えられていた。私たちも、時に一番大切なものを献げるよう、求められることがあるかも知れない。それは知らず知らず偶像になってしまっているものかも知れない。自分の生きがいとしているものであり、それは一見罪ではないので、気づかない。しかし、示された時に従うことにより、主との関係がより深められ、主が近くされる。
----------------
優先順位の最初はまず神だと信じているが実は二番目のものが優位を占めていることはないだろうか。アブラハムのように私たちは二番目にと思っているものを神に献げることができるだろうか。




2013年02月17日(日)

「どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立 ててください」Tサムエル8:5



イスラエルの民は、他国民のように、自分たちにもどうしても王が
欲しいと要求した。それはサムエルの気に入らなかった。民は、主
の御心に反する事を知った上で、警告に関わらず、尚も求めた。そ
の時、主は与えられた。

そこで選ばれたのがサウル王であった。最初は忠実であったが、や
がてダビデの登場で、人々の関心がダビデに移った時に、本来の姿
が現れた。女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と
歌うのを聞き、ダビデへの激しい妬みに燃えた。

サウルは、その嫉妬心が高じて、憎しみとなり、殺意へと向かった。
実際にダビデ殺害を試みる。どんな時にも悔い改め、主に助けを求
めれば良かったのだが、そうしないサウルから、主の霊は離れた。
民は王を欲しがり、サウルは人の評価、栄誉、人の賞賛を欲しがっ
た。

そして、サウルに命をつけ狙われ、恐れ、苦しんだダビデであった
が、ダビデもバテシバを欲しがった。姦淫の罪を犯し、更に夫ウリ
ヤ殺害の罪を重ねた。ダビデはその罪を隠ぺいするが、主がナタン
を遣わし、ナタンによって断罪した時に、ダビデは真に悔い改めた。

各々が御心に反するものを欲しがり、厳しい刈り取りに至った。肉
の欲望は悲惨な結果を生む。主が各自に備えておられる御心を求め
て歩むなら、どんなに祝福だろう。そこには主の愛があり、主の愛
を更に豊かに知って行ける。最善のご計画があり、主と一つになっ
て歩める。どんなに祝福に満ちた人生だろう。

・・・・・・・・・・・
自分が、欲しがっているものは何だろう?自分の欲望が叶うなら、
自分の心は満たされ、幸せになれると思うが、そうではない。どこ
まで行っても満足と喜びは無い。主が喜ばれること、主の御心を求
めて行く時に、私たちの心は喜びと安堵に満ちる。


2013年02月16日(土)

「主はサムエルに仰せられた。『彼らの言うことを聞き、彼らにひ とりの王を立てよ』」Tサムエル8:22 

      

イスラエルの民が、サムエルに王を求めた。他の国民のように自分
たちも王が欲しいと。それは、主の御心ではなかった。民が「どう
しても」と要求した時、主は、要求を聞き入れよと言われた。それ
は、サムエルを退けたのではなく神を退けたのだと。

主はサムエルに彼らに厳しく警告し、王の権利を告げるようにと。
しかし、それでも民は、どうしても王が欲しいと言い張った。する
と主は、王を立てよと言われた。
時に、自分が肉で計画した事がうまく行く。思い通りに、画策通り
になる時に、これは神が成功させて下さった、神が認めて下さった
のだと思うが、それは大きな誤解だ。

神がどうしても行くという私たちに、自分の道を行く事を許された
だけだ。どれだけ警告しても、私たちが頑なに聞かない時、神は願
う通りの道を行かせられる。決して強要されない。そして、蒔いた
種を刈り取らせられる。辛い、苦しい刈り取りになる。その刈り取
りを訓練とし、学ばせられる。

自我を通すことが、いかに愚かであるかを身をもって知る。蒔いた
ものは必ず刈り取る。今、自分の道に行こうとしているなら、又、
主に祈らずに進もうとしているなら、立ち止まって祈ろう。方向変
換して御霊に従おう。御霊に従う事がどれほど祝福であり、平安な
喜びの道かを知る。

・・・・・・・・・・・・
主の警告にも関わらず、どうしても我が道を行くという時、行かせ
られる。しかし、苦しい刈り取りをする事になる。肉の欲望を満た
すところに、本当の満足と幸せは無い。御霊の導きに従えるよう祈
ろう。素晴らしい平安と喜びの刈り取りをする事になる。


2013年02月15日(金)

「・・しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」ルカ22:32


ペテロは主を3回否定し、呪いをかけて誓ってまで否んだ。主を裏切り、取り返しのつかない事をしてしまった、後悔してもしきれない。皆が、主を捨てても、自分だけは大丈夫と豪語した。自信満々のペテロだった。それはサタンの悪意あるふるいだった。主が、サタンの試みを許された結果だった。

逆に見れば、サタンは働くが、主の許しの中でしか働けない。主はご存じだったが、ペテロは自分がいかに弱いかを知らなかった。ペテロの自信は、肉の自信であり自分の力に頼ったものだ。その自信はもろくも砕け散った。主はペテロの何もかもをご存じの上で、ペテロを後の教会指導者に決めておられた。そのためペテロを取り扱われた。

もはや自分の力に頼る事のないように、主はペテロの急所を砕かれた。しかし主はペテロの「信仰がなくならないよう」祈っておられた。サタンは信仰を無くそうとするが、主ご自身が「信仰」を堅く守られる。あなたも取り返しのつかない失敗をしただろうか。ペテロは号泣した。あなたも打ちのめされ、もう立ち上がれないと思ったろうか。

主はあなたを、主の器として用いるために、その所を通された。あなたを砕くためであり、弱点を取り扱われ、間に合う器に造り変えるためであった。サタンは試みるが、尚も主はそれを、信仰を堅くするために用いられる。
---------------------
自分の弱さや醜さを思い知る時、それは主からの取り扱いの時だ。もう自分に頼っては一歩も歩めないと知れる。主の執り成しにただ感謝だ。


2013年02月14日(木)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13


新しく生まれた私たちは、神の御霊によって歩む道と、生まれつきの肉による歩みの両方が、内にある。新生する以前は肉の性質だけであったが、御霊に従おうとする新しい性質があり、この二つの性質が、内側で葛藤する。これ自体は正常であり、良いものだ。私たちは、自由意志が与えられていて、どちらにでも従うことができる。

この時に、御霊の思いに従えばよいのだが、様々な思いが混在し、混線して惑わされる。サタンが思いの火矢を吹き込んで来る。これは朝起きた時から、夜寝るまで、ずっと思いの火矢が飛んで来る。外から来るのだが、自分の思いとして来るので、自分が思っているしか見えない。

又、自分の内側から湧き上がる肉の思いがある。自分の欲望だ。又、常識や他の人からの思いも来る。御霊の思いに従う時に、心に平安があり、御霊の実を結んで行く。その他の思いに従う時、平安が失せ、害毒を流してしまう。例えば、相手の言動に腹が立った時に、肉の思いは「今、一言言えばすっきりするぞ!」「言い返せ!」と来る。又、言わないで抑えたとしても、不機嫌な態度になる。

御霊の思いは「今、主に祈れ!」だ。御霊に従い「助けて下さい」と、即祈る時に、心が守られ、悪い言動や態度から守られる。御霊の助けが臨む。絶えず肉の思いもあるので、日々御霊に聞いて、導きに従って歩もう。
-------------
絶えず刺激に反応する肉のまま生きることも出来るが、そうではない、主に助けられ御霊に従う道もある。御心によって歩んで行きたい。


2013年02月12日(火)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16


私たちは日々の歩みの中で、罪を犯したくないが、弱いので、どうしても罪を犯してしまう。すると、平安が無くなり、心がめいって、暗くなる。そんな時「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」の御言葉に立ち、「ごめんなさい」と主に悔い改めると、心がすうっーと楽になり、再び平安が戻る。自分の罪を認めると、不思議に心に安心感が来て、再び元気になる。

御霊が絶えず導いて下さっているので、そこに立ち返ると、喜びが戻る。失敗した時に、「同じ失敗ばかりして、成長が全く無い。自分はだめ人間であり、だめだ、だめだ」との思いが来るだろうか。肉に働いて来るサタンからの思いであり、そこに落ち込んでいる時は、肉にいるので、主を見上げればよい。「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれ・・主は御霊です。そして、御霊のあるところには自由があります」。

主に向く時、自分の力で頑張ろうとしていた事に気づかされ、肩の力が抜ける。委ねればよい事に気づく。悶々が消え、喜びが来る。主が心配して下さっている。何も、いっさい思い煩うな、と言われる。この主に委ねる時に、心が楽になり、平安が戻り、歩んで行ける。「御霊によって歩みなさい」。それが解決であり、そうすれば、肉の欲望を満足させることが無いと。絶えず、御霊の助けを祈りながら歩む時、確かな助けを経験する。
-----------
行き詰まり主を仰ぐ時、主が共にいてくださる事も、この事態も
必ず益に導かれるとの思いが来る。教えて下さるのは御霊様だ。
今日も主に喜ばれる歩みができますように。


2013年02月11日(月)

「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください」詩篇51:6



ある医師が、極めて厳しい状況にある患者から、心の悩みの相談を受けた。その時にその医師は率直に「ごめんなさい。自分にはわかりません。何も言って上げる事ができませんが」と話した。うまくごまかしたり、繕ったり、適当にあしらったりせず、正直に自らの無力を認めた、その医師は誠実だった。

主は常に私たちを助けよう、助けたいと願い、待ち構えておられる。しかし、私たちの態度が問題だ。主の御前に、正直である事を喜ばれる。主に対して正直で、真実で、ありのままでありさえすれば、主はどんな状態でも導いて下さる。どんなに自分で酷い状態だと思っても、正直でさえあれば、主は必ず導かれる。「あなたは心のうちの真実を喜ばれます」自分の内にあるものを、ありのまま認める事を喜ばれる。

その反対が、まやかしだ。「わたしは彼らを贖おうとするが、彼らはわたしにまやかしを言う」自分を繕い、ごまかしてしまう。良い人の仮面をつけて神の前に出る。本音と建前があり、弱さを神の前でも、人の前でも認めない。しかし、ありのままを認めて行く時、御霊の光に照らされる。光は心の隅々まで照らし出し、二面性のない、裏表の無い人格を形造る。私たちはどうだろう。主が贖おうとされるのに、ごまかしを言っているだろうか。
-----------
誰に言えなくとも、主に向かい本音の交わりをしているなら、いつでも光の中に居られる。迷ったら主が導き返して下さることがわかるからだ。歩みは遅くても主に導かれている歩みをしたい。


2013年02月10日(日)

「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」エステル4 :16                           

  
ユダヤ民族に、皆殺しの深刻な危機が訪れた。ハマンの悪巧みであ
った。その時、丁度王妃であったエステルに、伯父のモルデカイは、
王にあわれみを求めるよう伝えた。王妃であるエステルだけが出来
ることであり、エステルでなければ出来ない事であった。

エステルは、時ピッタリにその立場にいた。「あなたがこの王国に
来たのは、もしかすると、この時のためであるかも知れない」と。
しかし、エステルも命がけであった。召されないで王のもとに行く
なら死刑だ。

だが、彼女は決心した。皆に断食の祈りを要請した。法令に反して
でも、王のもとへ行くと。死ななければならないのなら、死ぬと。
エステルは、王に救いを求め、結果的に、ユダヤ民族がハマンの悪
い計略から救われた。

このところから学ぶ事ができる。環境や、境遇は、神から来ている。
エステルが王妃として選ばれたことも、神のご計画によることだ。
私たち一人一人も神によって、それぞれの場所に置かれている。そ
して、その位置にいる、あなたにしか出来ないことがある。他の
人々には出来ないことだ。

エステルは、極めて困難な厳しい状況で、死をも覚悟して、自分自
身を明け渡した。主はそのエステルを用いて、民を絶体絶命の危機
的状況から見事に救われた。「ユダヤ人にとって、それは光と、喜
びと、楽しみと、栄誉であった」。遣わされたその所で、主に明け
渡した人を用いて、主は大きなみわざをされる。

・・・・・・・・・・・
今いる場所は主から来ている。場所の問題ではない。その所で、自
分自身を明け渡すかどうかが問題だ。でなければ、場所を転々とす
る事になる。明け渡した人を、主は用いて下さる。まず「明け渡せ
ません」との祈りから始めよう。


2013年02月09日(土)

「彼は言った。『主よ。私は信じます』そして彼はイエスを拝し た」ヨハネ9:38       


主は、地面につばきをして、泥を作り、その泥を盲人の目に塗り、
シロアムの池で洗うように言われた。シロアムの池はエルサレムの
町から1キロほどだそうだが、目の見えない人が行くのは大変な事
だ。もし初めての道なら、どんなに困難な事だろう。更に池は下っ
て行かねばならない。

「そこで、彼は行って、洗った」とあるが、いい加減な気持ちでは、
決して出来ない事だ。はなから、そんな事があるものかと信じない
なら、行かないだろう。しかし、彼はその通りにした時に、見える
ようになった。

ここからが問題で、パリサイ人達が、安息日に癒したと主を批判し、
彼も連行され尋問された。彼が、パリサイ人たちにありのまま話す
と、彼らは主を信じない。しかしながら、見えるようにされたとの
事実を否定する事も出来ない。

パリサイ人達に「あの人を何だと思うのか」と聞かれ、彼は「預言
者」だと答えた。主が誰なのか、よく知らなかったが、神に遣わさ
れた人でなければ、盲人の目を開く事など不可能だと思った。

更に、彼らは両親を呼び出して、本当に生まれつき盲人なのかと確
かめた。再度彼を呼び出し、主が罪人である事を認めるよう迫った。
が、彼は盲目であったのが、今は見えという事実に、神から出てい
なければ、そんな事は不可能だと言い切った。

会堂から追放された彼に、主がご自身を現わされた。彼は「主よ。
私は信じます」と信じる者にされた。そして主を礼拝した。霊の目
が開かれ、本当の救いを得た。これこそが、まさに神の栄光であっ
た。
・・・・・・・・・・・・・
主がぼんやりとしかわからなくても、主の言葉に一つ一つ従ってみ
よう。その時一歩一歩と、信仰を確かなものとして下さる。「彼は
行って洗った」従わない限り何も始まらない。今、目の前に示され
ている一歩に従おう。「主よ。私は信じます」に導かれる。


2013年02月08日(金)

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた」ヨハネ9:1

弟子たちが主に質問した。「彼が盲目であるのは、誰が罪を犯したからか、この人か、両親か」。主は「この人でも、両親でもない」と答えられた。では、何のせいなのか。それには答えられず、「神のわざがこの人に現れるため」と言われた。本人、親のせいでなく、どこかに原因が有る無しでなく、神の栄光が現われるためと。

古いこの世の価値観があり、何か苦しい事、負の事態が起こると、バチが当たったと思う。無意識に自分の素行と結びつけて考える。あの事、この事が悪かったのか。どの罪の結果なのか。そして、「何で?」「〃」と、心がおさまらず、犯人捜しをする。しかし、そこに何の救いも解決もない。何も生まれない。

又、もし、仮りに本人が罪を犯したとしても、悔い改めるなら、主の血潮のゆえに、全き赦しを受けることができる。そして親の罪の責任を子に問われる事は無い。「父親が子供のために殺されてはならない。子供が父親のために殺されてはならない」。その苦しみは、神のわざを経験するためだと。どんなに救われる事だろう。その事が益とされ祝福とされる。そこに絶望でなく希望がある。

今、目の前の試練は、祝福のためだ。「何を教えて下さるためですか」と祈って行こう。これらは、まず「主が盲人を見られた」ことから始まった。主は、あなたを愛し、慈しみ、絶えず目を留めていて下さる。
--------
主は私たちが試練の中で落ち込み思い煩っている弱さを見ていて下さっている。試練が問題でなく、その中で主を見失う事こえ試練だ。主を見つめ、主の解決を目の当たりに出来ることはなんという祝福だろう。


2013年02月07日(木)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべ ての武具を身につけなさい」エペソ6:11



「人はそれぞれの欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑される」と
あるように、誘惑は、外部から来るのでなく、私たちの内側から始
まる。サタンが、私たちの内側の欲望に誘惑の餌を投げかける。も
し、欲望が内側に無ければ、引かれることが無いので、誘惑になら
ない。

誘惑は、心の欲望から起きるのであって、状況からではない。エデ
ンの園で、サタンは、エバにまず疑いを起こさせた。「本当に?神
が言われたの?」、私たちにも同じように誘惑して来る。主がはっ
きり罪だと言われている事に対しても「本当に?この場合はいいん
じゃないの?」

示されている御心についても「本当に?自分の思いではないの
か?」次にサタンは、エバに「決して死にません」と正反対の嘘を
堂々と言って来る。しかし、サタンに耳を傾けて行った時、欺かれ
てしまい、嘘が見抜けない。

「あなたは神のようになる」。エバにとり、大きな誘惑であった。
「手に入れると、幸せになれるよ」、心が引かれ、そこに向いてし
まうと、サタンの嘘にだまされ、行動に移ってしまう。

サタンの言葉を心に入れてしまうと、主が禁じられた木は、好まし
く魅力的なものにしか見えなかった。その結果、取って食べてしま
った。私たちもサタンに聞いて行くと、そのように見えてしまい、
行動に移ってしまう。霊の戦いは祈り無くして戦えない。祈りと御
言葉によって勝利して行ける。

・・・・・・・・・・・・
この世にいる間は、神から離そうと、巧妙に誘惑して来る、霊の敵
との霊の戦いだ。1日の始めに、サタンをよく識別できるよう祈っ
ていよう。自分の弱い所は、常に見張っていよう。必ずそこに繰り
返し〃誘惑が来る。その度にまず主を呼び、拠り頼もう。


2013年02月06日(水)

「『帰って行きなさい。あなたの息子は直っています』その人はイエスの言われたことばを信じて、帰途についた」ヨハネ4:50


主のもとに、カペナウムから王室の役人が訪れた。ヘロデ王の宮廷官吏であり、地位も名誉も財もあった、しかし、どうにも出来ない事態が起きた。息子が病で死にかけていた。どんな医者も直せなかった。主の噂を聞き、この方なら助けて下さるのではと、30キロの距離を必死の思いでやって来た。

息子の癒しを願うと、主は「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」と答えられた。「あなたがたは」であり、彼だけでなく周囲の人々への言葉でもあった。ただ奇跡を見て喜ぶのではなく、主が救い主であることを信じ、主に信頼することを求められた。役人は、続けて息子の癒しを願ったが、「主よ」に変わっていた。

それに応答して、主は「帰りなさい。あなたの息子は直っている」と言われた。すると、彼は、主が言われた言葉を信じて、帰途についた。彼にとり、息子が直る事だけが関心事であり、必死であり、信じる信じないなど、どうでも良いことだった。しかし、主は、主を信じる信仰へと彼を導かれた。

御言葉に従い帰って行くと、途中でしもべから息子が直った事を聞いた。御言葉を聞いた同時刻である事を知り、彼も彼の家族も皆信じた。息子の危機により、主は一家を主を信じる信仰へと導かれた。私たちも御言葉に従う時に、みわざを見る。そしてその度に信仰が強められて行く。示されて言葉に従おう。
------------
30キロの道のりを、み言葉だけでは安心できず「主よ一緒に来て下さい」と確かな結果を求める自分の不信仰をこの箇所で示される。様々な出来事を通し、主は信仰を強めて下さる。


2013年02月05日(火)

「『民はモーセにつぶやいて、私たちは何を飲んだらよいのですか』と言った」出エジプト15:24


イスラエルの民が、出エジプトの際に、神の偉大な奇跡を見た。紅海が目の前で、二つに分かれ、追っ手のエジプト軍から見事に救われた。主の全能の力を目の当たりに見て、驚くべき体験をした。ところが、この後どうだろう。彼らは荒野に入り、3日歩いた。だが、水が無かった。メラに着いたが、そこの水は苦くて飲めなかった。すると、民はモーセに向かいつぶやいた。私たちは、何を飲むのかと。

その時モーセは、つぶやいた民に対応するのでなく、主に向かって叫んだ。主に祈った時に、一本の木を示された。それを苦い水に投げ入れると、甘くなった。あの大奇跡を見て、まだたったの3日だ。そして、その間、主は昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、彼らを照らし、昼も夜も彼らを導かれた。雲の柱と火の柱は、民の前から離れることが無かった。あの偉大な奇跡を経験して、尚も雲の柱と火の柱で導かれながら、少し不都合が生じた途端、不平不満、愚痴、つぶやきだ。不信仰なイスラエルの姿は、自らの姿だろうか。

主は、苦い水を甘い水に変えて下さったし、そのように計画しておられた。主のご愛を信じ、主に信頼しておれたなら、どんなに良かったろう。感謝の無い心、感謝を忘れること、つぶやきは、主のお心を非常に痛める。「感謝」は、すべての出来事に、主を認め、主のご計画を認める。感謝は、主をお喜ばせする。
-----------
主の守りと恵みを山ほど経験していても、不都合なことにはすぐ肉が反応してしまう。つぶやきは主に告げ、ここに主がおられることを覚えたい。先取りの感謝へと変えて行きたい。


2013年02月04日(月)

「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」ヨシュア1:2

出エジプト後、40年間、荒野を旅をしたイスラエルの民は、とうとう約束の地カナンを目前にする所まで来た。モーセの死後、主は、新しい指導者ヨシュアを立てられた。そして「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしが・・与えようとしている地に行け」と命じられた。「あなたがたが足の裏で踏む所は・・モーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」と。

主は、その地をイスラエルに与えると約束しておられたが、実際に自分のものとするには、具体的な行動が必要だった。彼らは、その土地に進み入り、戦い、勝ち取って行かねばならなかった。ただ待っているだけで、祈っているだけで、もし行動する事が無ければ、それを所有することは出来ない。実際に入って行って、足の裏で踏む必要があった。

これは、私たちの信仰生活も同様だ。主は、私たちに溢れるばかりの祝福を備えておられる。それを実際に、自分のものとするには、主を信じ、立ち上がって、前進しなくてはならない。行動が必要だ。その時、約束のものを持つことになる。今、あなたにとっても、主が与えようとしている地に「行け」と言われているだろうか。祈りの座から立ち上がって、実際に行動を起こす時だろうか。信仰もって歩み出そう。主の約束が現実のものとされる。
-----------
成すべき事が示されているなら、主にあって出来ると信じて立ち上がろう。進んで行かなければ、主の助けも備えも祝福も経験できない。今がその時なら、機会を逃さず踏み出そう。


2013年02月03日(日)

「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みこと ばに聞き入っていた」ルカ19:42



マルタは、主の訪問に大喜びで、大歓迎で、美味しい食事をと準備
に大わらわであった。マリヤも同じように、大歓迎で、主の足もと
に座り、御言葉に聞き入った。
段々時刻も迫って来る中、てんてこ舞いのマルタは、ついに不満が
爆発する。自分はこんなに忙しいのに、何もしていないマリヤに腹
が立つ。それを許している主にまで、腹立ちが向かうことになる。

ましてや、自分を手伝うようマリヤに言うようにと、主に指図まで
する。マルタはどこで間違ったのか。もてなしが悪いのではない。
誰かがしなければならない、必要で大切な奉仕だ。主はそのもてな
しを喜んで下さる。

しかし、マルタは、主をお喜ばせしたいと願ったが、それを自分の
思いで、自分の方法で行なった。自分の強い思いがあり、何もかも
を自分の思い通りにしたい。それなら、自分が主の上に立ってしま
っている。

私たちも、時々間違ってしまう。主に従おうとしているし、主を喜
ばせたいと思っているので、気づかないが、あくまでも、自分が良
かれと思う思いによってだ。それなら、自分中心に、主を喜ばせよ
うとし、自己満足になってしまう。

主は「どうしても必要なことは、一つだけ、マリヤはその良い方を
選んだ」と言われたが、「主に聞く」これが第一だ。自分の思いと
方法で、主のために働くのでなく、「主に聞いて」その通りに、従
うことが大切だ。

・・・・・・・・・・・
主がお喜びになる事と、主が喜ばれるであろうと、自分が思う事と
は別だ。自分の思いが上に立ってしまい、方向違いになってしまう。
主の言われる事によく耳を傾けて、その通りに従って行けるよう、
祈ろう。まず耳を傾けない限り、わからない。


2013年02月02日(土)

「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊で す」ヨハネ3:6



私たちは新しく生まれて、御霊によって生まれ、霊の人とされた。
しかし、新しい人と同時に、肉もまだ私たちの内にある。御霊に従
おうとすると、肉が邪魔をする。心に激しい葛藤が生じる。日々経
験するところで、常に戦いがある。

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考え、御霊に従う者は御霊に
属することをひたすら考える」とあり、思考により、生き方が変わ
って来ると言っている。

毎日の生活で、何を考えながら生きているだろう。自分のことばか
りだろうか。又、憎んだり、妬む相手、赦せない相手がいて、その
相手の事ばかり考えているだろうか。それとも、主のことを考え、
御言葉を思い、御心を絶えず求めているだろうか。

まず思考があって、行動があるので、その絶えず考えている事が、
行動になって出ることになる。罪を犯してしまう。普段、何を考え
ているかは重大で、その人を形造ってしまう。肉に対抗する力があ
るのは、御霊だけだ。御霊に明け渡して歩む時、自分の力ではなく、
御言葉に従えるようにされる。

御霊が助けて下さるから、肉はずっとそこに存在しているのだが、
肉ではなく、御霊に導かれた歩みができる。
ある人が、相手の言葉にカチン!と来て、攻撃的な言葉が出そうな
瞬間「主よ、助けて下さい!」と心の内で全身で拠り頼んだ。穏や
かな言葉が口から出て来て、御霊の助けに感謝した。御霊が共にお
られる。いつも拠り頼もう。
・・・・・・・・・・・・
「出来ません」と主に祈り、明け渡して行く時、不思議に出来なか
った事が、出来るようにされる。主が成し遂げて下さる事を、主の
みわざを経験する。自分の力では決して出来ない。認めて行く時に
不思議を経験する。


2013年02月01日(金)

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」マタイ19:19


ある人が、職場で、経歴があり、人々の指導に当たって来た。そんな中、体調を崩し、入院手術という事になり、しばらく休暇を取った。治療を終えて職場に復帰した時に、自分の代わりに、別の人が配属になっていた。忙しい職場であり、人手が必要だった。最初は、有難く感謝したが、しばらくすると、職員が皆、彼女の方に集まり、彼女を中心に仕事が回っている事を見て、こんなはずでは無い思いが湧いた。

妬ましく感じたのだ。自分はもう必要とされていないのではないか。どうして?自分のほうがベテランで、仕事がうまくできるのに。仕事をよく知っているのに、後から来た彼女が何で?嫉妬や怒りの感情で、心が辛くなった。顔にも態度にも出さないが心の内は悶々状態の、苦しい日々が続き、主の御前に静まった。

心を打ち明けて、妬みや怒りも認めて、祈った。苦しみから解放して下さいと祈った。「彼女の祝福を祈りなさい。彼女を祝福してあげなさい」という声が聞こえた。祝福できない、しかし苦しい。「祝福できません。でも、そうできるよう助けて下さい」と祈った。「できません、〃でも、助けて欲しい」と祈り続けていると、とうとう「彼女を祝福して下さい」と祈れた。その時、心が解放されて、平安と喜びで一杯になった。祈りが聞かれた。
----------
できないことをできないと主に助けを求めると、不思議に何かが変えられる。御霊の助けだ。主の言われる愛は自分にはないが、御霊の導きに素直に従いたい。