2013年03月31日(日) 「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に まとわれた・・弟子たちの足を洗って」ヨハネ13:4
「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に まとわれた・・弟子たちの足を洗って」ヨハネ13:4
当時、足を洗うという事は奴隷の役目だった。そのため、主が足を 洗おうとされた時、ペテロは驚いてそれを拒んだ。決して洗わない で下さいと。この頃は今と違い、サンダルのようなはき物で、足が 大変汚れた。彼はその自分の汚い足を洗ってもらうなどと、申し訳 ない、とんでもないと思ったのだ。 しかし、主は、それを拒むなら、主と何の関係も無くなると言われ た。私たちはどうだろう。内側の自分の汚い部分、醜い部分は誰に 見せたくないだろうか。知られたくない。隠したいし、入られたく ない。自分で何とかしようとするだろうか。 しかし、主に洗っていただかなければ、主と何の関係も無くなって しまう。そして、そこでこそ、主との関係が深められる。日々犯し てしまう罪を悔い改める時、主はきれいに洗って下さる。しもべと なって仕えて下さり、それは十字架の死にまで至った。 イスカリオテのユダが裏切る事も、ペテロが裏切る事も、弟子たち が見捨てて逃げる事も、すでに知っておられた。それらをわかった 上での愛だった。「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その 愛を残るところなく示された」。 私たちへの主の愛も、同様だ。正しいから、良い者だから、愛して 下さるのではない。醜くく、汚れて、自己中心、そんな事はすべて ご存じの上での愛だ。何という愛だろう。日々汚れた足を、十字架 の血潮で洗っていただく時、主との関係が深められて行く。 ・・・・・・・・・・・・・ どんなに醜く、どんなに自己中心か「そんな事はとっくにわかって いるよ、わかっていて愛している」と言われる主に、日々の生活で 汚れる足を洗っていただこう。それによって更に愛する主との関係 が深められて行く。
2013年03月30日(土) 「すべての懲らしめは・・悲しく思われるものですが、後になると、 これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル 12:11
「すべての懲らしめは・・悲しく思われるものですが、後になると、 これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル 12:11
信仰を持つという事で、人々は勘違いをする。信仰を持てば、悩み の無い人生、問題の無い人生が約束されると。順風満帆な一生を期 待する。神が愛なら、苦しい事を与えるはずがない。苦しみは悪で あり、愛と苦痛が対極にあり、リンクしない。 人間がどんなに酷いものでも、神が愛であるなら、悩みの無い人生 を与えるべきと考える。そうでない神は必要無い。しかし、まこと の主は、聖書全巻を通して、試練があり、苦しみがあると言ってい る。 「それは、あなたがたを苦しめて、あなたがたを試み・・」「キリス トのための苦しみをも賜った」「あなたがたを試みるためにあなた がたの間に燃えさかる火の試練」のように。しかし、それを通して 「平安な義の実を結ばせる」と。 試練は実を結ばせるためだと。試練により、人は自分の本当の姿を 見せられる。「あなたの心のうちにあるものを知るため」だと。ど んなに無力で、弱い者かを思い知らされる。心の底にあるプライド や妬み、虚栄心・・試練の中で初めて知る。 それらを認めて行く時、解放されて行く。又、何に依存しているの だろう。普段気づかない事に、気づかせられる。富か、人か、仕事 だろうか。目に見えるものから、神依存に変えられる時だ。神に拠 りすがって行く時に、平安を経験する。ありのままの心の内をまず 主に、言い表そう。そこから導かれて行く。 ・・・・・・・・・・・・ 試練は嬉しくなく、「悲しい」が、それは「訓練」であり、「後 に」「実を結ぶ」。「ご自分の聖さにあずからせ」るためだと。今、 目の前にある試練を、逃げずに、受け入れられるよう祈ろう。向き 合う時、乗り越えさせて行って下さる。
2013年03月29日(金) 「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら・・まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23
「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら・・まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23
ある人が、対人関係において失敗した。不用意な言葉で、友人を傷つけてしまった。周囲にも嫌な思いをさせ、それは自我から出た事であり、自らが引き起こした罪だった。御霊により、自らの罪を認めて、相手に謝罪するよう示された。自分の愚かさを認める事、そして謝る事はプライドが傷つく恥ずかしい事であり、絶対にしたくない事であった。 しかし、それは紛れもなく自らの罪であり、傷つけた相手、嫌な思いをさせた一人一人に謝る決心をした。赦してもらえなくても、仕方の無い事だ。しかし、勇気を出して謝罪した時、当の相手は、快く赦してくれた。他の人々も同様だった。その時、赦される事の喜びと平安を経験し、心が満ち満ちた。 この御言葉によると、「兄弟に恨まれる」事について言っている。自分が恨んでいるのではない。相手が恨んでいる事について、こちらが謝罪するようにと言っている。それは、自分に非が無いか、落ち度は無いか、相手の側に立って考える態度だ。肉の性質は、何か争い事が起きると、自分を正当化し、相手のせいにしたい。相手から謝って来るならまだしも、こちらから謝るなどとんでもない事だ。 しかし、そうしている限り、自分の恨みつらみ、怒りはどうにもならない。自分の方にも非があるなら、こちらから謝れば、平安が戻り、心は喜びで満たされると。双方でわだかまりがあるなら、必ず解決する事が必要で、最重要だ。今、心に浮かぶぎくしゃくしている関係は無いか。自分の方から行動を起こそう。大きな祝福を経験する。 ----------- 自分ではなく相手の思い、相手の感情はどうかを問いながら、その問題を見ていく事が御心と教えられる。人との関係が崩れる時に、神様との関係もへだたりができてしまう。和解へと祈ろう。
2013年03月28日(木) 「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください」詩篇141:3
「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください」詩篇141:3
舌を制御することは難しいと言っている。いや、誰にも出来ないことだと。更にじっとしていない悪であり、死の毒に満ちていると。舌は両刃の剣だ。人を傷つけ、殺し、神の御名を辱める。又、それは人を生かし、建て上げ、神を賛美し、神の栄光を現わす。その舌が御霊に支配され、導かれることは大切だ。まず、語る言葉は「真実」だろうか。噂であり、事実かどうか不明、単なる推測で語る言葉は無いだろうか。 そしてそれは、もし真実であっても、語る必要のある言葉だろうか。真実なら、何でもかんでも語ればよいのではない。語る必要の無い言葉がある。真実であっても、人を傷つける言葉は語ってはならない。御霊は意味もなく、人を傷つけることはされない。又、同時に、もし御霊が導かれるなら「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」ともあり、率直に忠告すべき場合がある。 その言葉は、人を建て上げるだろうか。有益だろうか。それとも自分の欲求不満、愚痴、いら立ちを人にぶつけて、人に負わせているだろうか。又、その言葉に偏見は無いだろうか。そして最も大切な事は、その言葉に愛があるだろうか。「・・愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じ」。「心に満ちていることを口が話す」口より以前に、心が御霊に支配されるよう祈ろう。舌が、神の恵みを語るために用いられる。 ------------------- 口に出した後で、あの言葉で相手を不愉快にさせてしまったのではないだろうかと不安になる事がある。口に出す前によく心を吟味し、語る必要のある言葉かどうか、御霊の助けを受けて語りたい。
2013年03月27日(水)
「私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに」ルツ1:21 飢饉の際に、エリメレクとナオミ夫婦は、異教の地モアブへと食糧を求めて移住した。そのモアブでエリメレクは死に、二人の息子はそれぞれ妻を迎えたが、息子たちも死んでしまった。やがて、故郷の飢饉が去り、神がパンを下さったと聞き、帰郷の決心をした。モアブの地から「帰ろうとした」つまり、神に立ち返ろうとした。 その時、嫁のルツがモアブへの帰郷を捨て、まだ見ぬ異国の地へ、ナオミと共に行く決心をした。それは、ナオミの背後のまことの神を見て、神に従う決心であった。故郷に戻ると、女たちが「まあ、ナオミではありませんか」と言うと、「私をマラ(苦しむ)と呼んで」と言った。ナオミは、家族の幸せのために、神から離れ、異教の地へ逃れた。 しかし、「私は満ち足りて出て行ったが、主は素手で帰された」と。主が私を辛い目に会わせられたと。ナオミは砕かれ、へりくだらされた。しかし、主に立ち返ったナオミには、ルツが与えられていて、神に従った二人には、すでに豊かな備えがあった。 ベツレヘムに着いたのが、丁度、時ピッタリに大麦の刈り入れの頃であった。まさにその「時」を導かれたのは、主であった。落ち穂拾いで、生活の糧が与えられた。そしてルツとボアズの結婚が備えられていて、素手で帰った手に、孫を抱く事になる。どんな時でも、いかなる場合であろうと、主に立ち返ることができる。そして主は豊かに祝福して下さる。 ---------- 素手となってはじめて主に立ち返れた。なんと感謝なことだろう。私達も両手に多くのものを持とうとし、繰り返し失敗するが、素手の自分に気づき、それこそが一番豊かだと、主の備えを喜びもって待ちのぞむ歩みに変えられて行きたい。
2013年03月26日(火) 「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた」創 世記22:1
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた」創 世記22:1
約束の子イサクを与えられて、喜びと幸せの中にいたアブラハムに 最大の試練が臨んだ。最愛の子イサクを全焼のいけにえとして献げ よというものだった。一瞬耳を疑ったかも知れない。 しかし、慣れ親しんだ愛する主の御声だ。間違うはずがない。神が 奇跡をもって与えて下さった我が子、それを取られるのだろうか。 だがイサクは約束の子であり、イサクから子孫が増え広がるはず だ。イサクか死んでしまえば、その約束はどうなるのか?様々な思 いが脳裏を駆け巡ったろう。しかし、アブラハムは今までの信仰人 生で、神への深い信頼と確信が培われていた。 アブラハムにはわかった。これは聞き間違いではなく、確かに神の 御声であり、示しだ。「神には、人を死者の中からよみがえらせる こともできると考えた」。アブラハムは神を信じた。それで「翌朝 早く」直ちに、彼は神に従った。 イサクと従者と共にモリヤの地に向かった。そして、イサクをいけ にえとし、刀を振り上げほふろうとした瞬間、神は制止された。そ こには、代わりに雄羊が備えられていた。神に従う道には、必ず 「主の山に備えがある」。 今までこの事実をどれほど経験して来た事だろう。私たちは苦しみ に会う。しかし、そんな試練の中も、主の山の上には必ず備えがあ る。この事を信じて試練を受け止めよう。今、厳しい試練の中なら、 まっ暗闇の中で信じよう。「主の山の上には備えがある」。それが 事実であることを経験して行く。 ・・・・・・・・・・・ 「試練に会わせられた」とあり、主は、試練を与えると言われてい る。痛い、苦しい事は誰しも嫌だが、そこを通って、身をもって主 を知り、主の山の上には必ず備えがあることを経験する。大きな祝 福を受けるので、後には、通って良かったと思える。
2013年03月25日(月) 「シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた」ル カ5:3
「シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた」ル カ5:3
一匹の獲物も無かったペテロは疲れ果て、早く帰宅して休みたかっ た事だろう。疲れていたペテロは、色々理由をつけて断ることも出 来た。しかし、ペテロは主の言われる通りに持ち舟を、陸から少し 漕ぎ出した。主は、その舟から群衆に向かって、語られた。自分の 持ち舟であり、仕方なく舟にいたペテロは御言葉を聞いていた。 話し終わった主は、深みに漕ぎ出して、網を下ろすよう言われた。 プロのベテラン漁師だ、今、下ろしても魚がいるわけがない。しか し御言葉を聞いたペテロの心に何か変化があり「でも、お言葉通り、 網を下ろしてみましょう」と指示に従った。 すると思いもよらない破格の祝福だった。驚くべき大漁だった。持 ち舟を出すよう頼まれた主は、実はペテロに御言葉を聞かせられた。 ペテロは主が話しておられるのに、網を洗っていた。持ち舟なので、 舟の中で御言葉を聞かざるを得ない状況に置かれた。私たちもどう だろう。御言葉を聞く機会を与えられ、心が変えられた事が、何度 もあった事だろう。 ペテロの思いと、主の言葉は正反対だった。ペテロの常識では、魚 はいない。しかし、主は漁をせよと言われる。私たちも目に見える ところ、自分の思い、常識と、御言葉が相反することがある。理解 できない時もある。その時は、どうすれば良いのか。 ペテロのように「でも、お言葉通り」、御言葉に従うことだ。「そ して、そのとおりにすると」沢山の魚で、網は破れそうになった。 今、思いと相反しても、御言葉のほうに従おう。思いを越えた祝福 が備えられている。 ・・・・・・・・・・・ 目に見えるところを見ると、又、自分の思いで量ると、「せよ」と 言われる事が、「どうして?」と理解できない時がある。「でも、 お言葉通り」に従ってみよう。そうする時、大きな主の祝福にあず かり、主を新たに経験して行く。
2013年03月24日(日) 「・・しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至 る食物のために働きなさい」ヨハネ6:24
「・・しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至 る食物のために働きなさい」ヨハネ6:24
主は、五つのパンと2匹の魚で、人々を満腹させるという奇跡をさ れた。その後、人々は主を捜し求めて、カペナウムまで来た。主は あなたがたが、わたしを捜しているのは、信仰を持ったからではな く、自分たちのお腹が満たされたからだと言われた。 それならパンを食べても又、お腹はすくので、飽き足らずに、次々 とずっと、奇跡を求め続けることになる。人々が主に求めているも のは、病気のいやし、パンを貰えること、目の前の問題の解決、そ んな目先の利益だった。 しかし、病気は癒されても、また病気になる。問題が解決されても、 また次の問題が来る。パンを与えられても、またお腹はすく。その 時には、必要が満たされても、時間がたてば消えてしまう。一時的 なものだ。 しかし、唯一朽ちないものがあり、それこそが、主が与えて下さる 食物だと。主は、「朽ちるものではなく、永遠のいのちに至る食物 を与える」と言われた。主は霊的なものを求めて生きることを願わ れた。 「わたしがいのちのパンであり、わたしを信じるなら、決して飢え ることも渇くこともない」と。主こそがいのちのパンであり、信仰 持って生きる時に、消えることのない喜び、平安、満足が与えられ ると。その主を信頼する時、必ず目に見える生活の必要も満たして 下さる。 ・・・・・・・・・・・・ 何を求めて、主のもとへ来ているのか、心探られる。パンをもらえ て満足するからだろうか。晴れの日も、雨の日も、好都合な時も、 不都合な時も、喜びの時も苦しみの時も、主を信じて生きて行く信 仰を与えられたい。
2013年03月23日(土) 「それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東 のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた」創世記14:1 1
「それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東 のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた」創世記14:1 1
アブラハムとロトは行動を共にして来たが、双方の持ち物が増え過 ぎ、従者間でもめて、争いになった。一緒に住む事が無理であり、 別れる事になった。その時に、アブラハムは、ロトにまず好きな場 所を選ばせた。本来なら、目上であり、又、世話になった叔父にへ りくだって、ロトが譲るべきだった。 しかしそれはアブラムの信仰だった。神が祝福して下さるので、ど んな地であれ、問題無い。神が与えて下さる地が最善と信じている ので、まず甥に選ばせる事ができた。神に対する信頼があったから だ。しかるに、ロトは損得勘定で、全地を見渡し、見たところ最も 牧草の茂る潤った、牧畜に適した地を選んだ。 ロトの判断基準は、肉の目に見えるところであった。自分に利する ところであり、信仰や神の言葉ではなかった。神に祈ることも、導 きを求めることも、又、叔父を立てることもなかった。見た目で判 断したその地は、堕落したソドムとゴモラだった。 アブラハムは、所有権をすべて神に明け渡していたので、ロトに譲 る事ができた。すべてを神の御前に置いたが、結果的に神は「この 地全部を与える」と言われた。 人生に岐路があり、重大な判断を迫られる時がある。その時、まず 神に祈ろう。肉の自分の思いで決めてはならない。肉の判断で決め たロトの結末は悲惨だった。「人の目にはまっすぐに見える」が 「その道の終わりは死の道である」。 肉の目には、自分の名誉、地位、人からの賞賛、欲望が満たされる 道がある。しかしその終わりは死だ。いつも祈って、神に頼り、神 の御心を選択しよう。それが自分にとって最善の道だ。 ・・・・・・・・・・・・ 目に見えるところで判断してしまわず、とにかくまず祈ろう。祈っ て主の導きを求めよう。主はその祈りに答えて、判断を導いて下さ る。人生の一歩一歩を、主と共に歩む喜びにあずかれる。
2013年03月22日(金) 「イエスは、そのことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた『恐れないで、ただ信じていなさい』」マルコ5:36
「イエスは、そのことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた『恐れないで、ただ信じていなさい』」マルコ5:36
ヤイロが、主のもとに来て、ひれ伏して、娘のいやしを願った。死にかけている娘のために必死であった。主がヤイロの願いに答えて、出かけられたところに、突然の邪魔が入った。そこに、長血の女性が現われて、主の着物にさわった。すると血の源が枯れて、ひどい痛みが直った。主は平安を与えようと女性に対応された。 ヤイロはどんなに心急いた事だろう。一刻を争う。娘が死んでしまう。早く、早くと、どんなにか心焦ったろう。そんな時に、使いが着いて、「あなたのお嬢さんは亡くなりました」と告げた。ヤイロにとって凍りつくような言葉だ。もう手遅れだ。今や先生に来てもらう必要は無いと。しかし、女性に対応している間も、主はちゃんとヤイロを心にかけておられた。娘の死の知らせが来た時も、間髪を入れず「恐れないで、ただ信じていなさい」と主の言葉を与えられた。「恐れるな」「信ぜよ」と。 私たちも、目の前に、問題が、山のように立ちはだかっているだろうか。どうにもならず、絶体絶命だと思えるだろうか。しかし、すでに死に打ち勝たれた主だ。「娘は死んだ。もう先生を煩わすことはない」主はその言葉を聞き流して、「恐れないで、ただ信じておれ」と言われた。どちらを信じるかが問題だ。目の前の状況だろうか、それとも主ご自身と主の言葉だろうか。 ---------- 襲ってくる不安や心配、恐怖に無抵抗で「ただ信じる」ことできない。そんな自分と戦い、見えるところではなく、まだ見えない主の最善を一瞬、一瞬選んで、ただ信じる所に立ちたい。
2013年03月21日(木) 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」詩篇55:22
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」詩篇55:22
ダビデは、苦しい状況にあった。「私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています・・悪者の迫害のためです」心はもだえ、死の恐怖に襲われていると言っている。この状況から逃げたいが、逃げられずに窮地であった。迫害も厳しいが、更にダビデを苦しめたのは、同輩や親友の自分への裏切りだった。「私をそしる者が敵ではない、それなら忍べた、そうではなく、私の同輩、私の友、私の親友のお前が」。 ダビデは、苦しい自分の気持ちを、心の状態をそのまま言い表している。私たちも、苦しみの中で、自己憐憫に陥るのでなく、気持ちを素直に、主に言い表して行こう。「恐れ、おののき、戦慄が私を包んだ」。ダビデは、苦しみから逃げたい思いもそのまま告げている。「鳩のように翼があったら、飛び去って休むのに。のがれ場に急ぎたい」と。率直に、死の恐怖、孤独感、心裂かれる痛み、行き詰まり、それらを認めた時、ダビデは上を見上げた。 自らの行き詰まり、厳しい状況の中で、「主にゆだねる」というところへ導かれて行った。問題を主に明け渡し委ねる時、事態が導かれて行く。委ねる事がかぎだ。悶々として、苦しむのは、委ねられない時だ。問題に押しつぶされそうになり、且つ、主も見えなくなってしまう。明け渡せるように、主に助けを求めよう。「主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」のだから。 -------------- 夕、朝、真昼、嘆きやうめきを、ダビデは主に祈り、訴えて行く時、主はたましいを平和のうちに贖いだしてくださると言う。主が聞いていて、平安を返して下さるからだ。くりかえし祈り委ねていこう。
2013年03月20日(水) 「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます」マタイ11:29
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます」マタイ11:29
私たちはどうだろう。疲れていないだろうか。誠実に生きようとすれば、するほど、様々な疲れがのしかかってくる。対人関係か、仕事上の疲れか、経済問題の疲れか、今も重いものを負って、心がつぶれそうだろうか。そんな私たちに、主は、「わたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげます」と招いて下さっている。何と有難い事だろう。休ませて下さるとは。 更に、主のくびきを負って学ぶなら「たましいに安らぎが来る」と。私たちが一番欲しいのは、この「たましいの安らぎ」ではないだろうか。疲れ果てた時に、最も欲しいものは、たましいの安堵、いやしだ。この世には幾多の楽しみ、快楽がある。それは気を紛らわせてくれる。又、飲酒のように、一時深刻な状態を忘れさせてくれるものがある。しかしそれは、うわべだけのものであり、一瞬忘れさせるだけで、何の解決にもならない。問題はそのままで、快楽の後は、更に虚しさが増すばかりだ。 主は全く違うことを言われた。紛らわせたり逃げたりするのでなく、「わたしのくびきを負え」と。主のくびきは「負いやすく」「荷は軽い」と。主のくびきを負うとは、主に従って行くことだ。主と歩調を合わせて歩み、主と同じ視点で見て行く。目の前に与えられたものを受け入れ、負って行くなら、主から学んで行く事ができる。主から教えられて行く時に、たましいに平安が臨む。 ----------- 自分の経験や知恵で対処しようとすると問題が来る度に、その中で疲れ消耗する。主に結果を委ね、主に尋ね、主の方法で対処できるよう問題の中で主から学んで行きたい。
2013年03月19日(火) 「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです」民数記13:27
「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです」民数記13:27
カナン偵察のために12人の斥候が遣わされた。その時にヨシュアとカレブは、乳と蜜が流れている地、「ぜひとも上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができる」と言った。他の10人は「攻め上れない。あの民は私たちより強い。自分たちはいなごのようだ」と言った。不信仰は伝染する。民は大泣きし、エジプトへ帰ろうと言い出した。全く同じものを見て、「必ず出来る」と言う者と「絶対に出来ない」と言う者に分かれる。 私たちはどうだろう。何かにつけて「だめ」「できない」「そんなの絶対無理」との態度だろうか。そこにいるのが楽で心地良いのかも知れない。安穏だと、甘んじてしまっているだろうか。自分が変わるにはエネルギーが要る。ある人は、どうしてもネガティブな思考パタン、価値観が消えず、自分はだめ人間と思っているので、とにかく否定的思考を選択していた。御言葉を読んでも心が苦しくなる。否定的な心で読み取ってしまう事に気づかされた。 愛されている、慈しまれているという言葉は全く受け取れずに、 「〜せよ」「〜ねばならない」という言葉は刺さって来る。責められているようで、心が辛くなる。愛を受け止める心が、養い育てられておらず、主に受け入れられている事が、受け入れられなかった。その事に気づけた事が感謝で、あるがままを主に告げ、自分の根深い価値観が御言葉と替えられるよう祈ることができた。祈りに持って行くなら、必ず答えられる。一つ一つ気づける事が、御霊の働きであり、そこから成長して行ける。 ------------- じっとしているのは楽だ。失敗も悔い改めもせずにすむ。悲観的な考えに慣らされていないだろうか。愛ある神様の最善を信じて積極的に信仰を用いていこう。そして新しい年度に力強く歩を進めたい。
2013年03月18日(月) 「神は仰せられた。『わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである』」出エジプト3:12
「神は仰せられた。『わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである』」出エジプト3:12
人生の大きな且つ難しい課題に進む時、どうだろう。誰しも不安や恐れや戸惑いを覚えることだろう。モーセは、突然、神から「パロのもとに遣わすから、虐げられ苦しんでいるイスラエルの民をエジプトから連れ出せ」と言われた。唐突で、驚いたであろうモーセは、まず「私はいったい何者なのでしょう」と神に申し上げる。なぜ、自分がそのようなとんでもない事をしなければならないのか。 もう老齢になり、羊飼いである自分にはそんな力は無い。そして以前、若い時に、民を救おうとして、手痛い失敗をしている。更に、今の自分には、地位も権力も富も人脈も何も無い。何ができよう。しかし、主は恐れ戸惑うモーセに「わたしはあなたとともにいる」これがあなたのための「しるし」であると、明確な保証を下さった。 「わたしがあなたを遣わすのだ」と神からの召しだ。これ以上何が必要だろう。「・・神から発し、神によって成り、神に至る」。神から発した事は、必ず神によって成就し、神に至る。自分から発した事は、神によって成ることも、神に至る事もない。 以前のモーセが思い立った民の救済は、自分から発した事であった。しかし、今や神から来た事だ。この後のモーセの働きを見る時、まさに神ご自身の働きを見る。私たちの人生もこの神が共にいて下さる。そして導きが来た時には、恐れはあっても従おう。「わたしはあなたとともにいる」と約束して下さっている。 ---------- 自分で立ち動き何度も失敗しても、また神様は用いて下さる。恐れは常にあるが「わたしはあなたとともにいる」の御約束の言葉を握っていよう。御心は必ず成就される。
2013年03月17日(日) 「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れ て、隠れました」創世記3:10
「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れ て、隠れました」創世記3:10
アダムとエバがエデンの園で、サタンから誘惑を受け、善悪の知識 の木から実を取って食べた。それは、神から食べるなと命じられて いた。「必ず死ぬ」と。罪を犯した結果、霊が死に、神から離れた。 彼らは、神の御顔を避けて、身を隠した。罪は、神と人をしゃ断し てしまう。 「ふたりの目は開かれ」とあるが、開かれた結果、「いちじくの葉 をづづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」。夫婦二人し かいないのに、夫婦で違いに、隠し合うようになった。善悪を知る 目は、愛し合い、信頼し合い、思いやり合うのでなく、責め合い、 裁き合い、疑いの目となった。又、自分の本当の姿があらわにされ る。それで、神に対して恐れて隠れた。 神は、悔い改めの機会を与えようとされた。「あなたは、食べては ならない、と命じておいた木から食べたのか」。食べた事を認めて、 「ごめんなさい。食べました」と言うべきであった。しかし「この 女がくれたので、私は食べた」と、エバに責任転嫁し、エバのせい にする。まさに、罪の性質そのものだ。エバも同じく、蛇が私を惑 わしたと、蛇のせいにした。 ましてや「あなたが私のそばに置かれたこの女」と、神のせいにま でする。これが自分自身の内にもある罪の性質だ。もはや、神が見 ておられるように見ることができない。自分が王座に座り、自分の 目で見る。 主は常に悔い改めの機会を与え、悔い改めに導いて下さる。悔い改 めて、いつも主との交わりの中に生きる時、隠れる必要がない。喜 びと安堵、平安と感謝の中で生きて行ける。何と幸いな事だろう。 ・・・・・・・・・・・・ 「あなたはどこにいるのか」と問うて下さっている。神と距離があ るなら、今すぐ立ち返ろう。「・・食べたのか」と悔い改めのチャン スを与えて下さっている。恐れを閉め出す、愛と赦しが豊かに備え られている。
2013年03月16日(土) 「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなた方を赦して くださいます」マタイ6:14
「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなた方を赦して くださいます」マタイ6:14
誰しも経験するが、赦しということが重要であり、大切だとわかる が、赦すことは非常に難しい。なかなか出来ない。ある人が「相手 を赦さないなら、その相手から何かを求め続けているのであり、そ の人に永久に縛られてしまう」と言ったが、赦さないという事は、 相手に求め続けることになってしまう。 生涯、その相手に自分の人生のコントロールを許す事になる。相手 を憎むなら、憎しみでがんじがらめとなり、自分でどうにもできな い憎しみの奴隷となり、結局、相手に拘束され続けることになる。 苦しむのは相手ではなく、どこまでも自分自身だ。 どんなに辛く苦しい事だろう。いつも心が縛られ、苦しく、暗闇の 中だ。「赦しなさい」は相手のためでなく、自分のためだ。自分を 縛りから解くことになり、自分を解放する事になる。赦さない心は、 自分をがんじがらめにする。 ある人が、他人にコントロールされる一生は嫌で、自由になりたい と思った。御前に祈り、赦しを意志で選択する事を決心した。今、 赦せない人、傷つけられた人・・具体的に一人一人「赦します」と祈 った。その時「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」を身 をもって体験した。 人を赦した時、自分自身が、神から赦されていること、受け入れら れていること、深く慈しまれ、愛されていることが身をもってわか った。人を赦さないなら、自分が赦されていることが、どうしてわ かるだろう。 ・・・・・・・・・・・・ 人を赦そうとする時、必ずできない自分を見い出す。どうしても出 来ない。だから主がおられる。「赦したくありません。助けて下さ い」と主のもとに行こう。主が赦せるようにして下さる。
2013年03月15日(金) 「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1
すべての事に「神の時」がある。苦しい試練の時もあり、すべてがスムーズに行く順風満帆の時もある。目の前に来る一つ一つの神の様々な時を、しっかり受け入れること、受け取ることが大切だ。順調な時だけを喜び、受け入れ、試練の時は、逃げているなら、更に大きな試練に遭遇することになる。 神には偶然は無い。目の前の出来事は、偶然に起きているのではない。又、運命ではない。運命にほんろうされているのでは無い。「雀の一羽でも、父のお許しなしには地に落ちることはありません」「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」。たった1羽の雀さえ、神の許しが無ければ地に落ちない。すべては神の支配と主権の中だ。目の前の問題も、父の主権のもとで起きている。神から来ているのであれば、必ず神がご計画もって導かれる。受け止めて従って行こう。 又、今、「待つ」ことを教えられているだろうか。「神の時」を待つことを訓練される。最善の時が備えられていて、神の時が来たなら、不思議なほどに、事が、すーっと進んで行く。門が目の前で開かれて行く。自分で開くのではなく、神が開かれる。焦らず、主を待とう。そして「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」。「神の時」に、神がなさるみわざには、美しさが、感動がある。 ------------- 全ての環境は神様の計らいだと少しふり返って見るとわからないだろうか。目の前の状況で感情は揺れるが、揺るがない神の時を生かされている。
2013年03月14日(木) 「あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのですヨハネ5:43」
「あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのですヨハネ5:43」
私たちは、人が気になるものだ。主を知る以前は、ずっと人との比較の中で生きて来た。人との差異で自分を量るしかなかったからだ。人との比較で自分を量る、根深い価値観があり、又、人には良く思われたい、人に嫌われたくない、良い人だと言われたい。人にどう思われるかで、生きて行くと、「ノー」が言えず、絶えず人に自分を合わせ、人の顔色を見て、人の評価が気になり、世間体が気になる。世間体にがんじがらめだ。 人から、良い人に見られたいばかりで、自分が無い。それなら神に従うことができないし、自分を生き生きと、生きて行くこともできない。喜びの無い、虚しい人生になってしまう。又、善行も主のためではなく、自己満足のためにしてしまうし、人からの栄誉を求めるためにしてしまう。人との関係より前に、神との関係が大切だ。人からどう思われるかでなく、主にどう思われるかを、常に意識し、上を見上げながら生きて行く時、解き放たれて行く。 横ではなく、上を仰ぎ見て、御言葉を行なって行くことが大切だ。示された御心を一つ一つ行なって行く時、自由にされて行く。人に良く見られたい、人依存の人生でなく、主に在って自立して行ける。その時、生きる喜びを感じることができる。実感し、生き生きと生きて行ける。 ------------ 長い間に培われた価値観で、人の目に合わせて生きてしまうなら、いつも恐れと不安や自己満足の連続だ。ぎくしゃくを感じるつど、主との関係を正し、人依存から自立した信仰生活へ歩みを進めよう。
2013年03月13日(水) 「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである」ルカ19:4
「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである」ルカ19:4
ある人が、自分が嫌で仕方が無かった。対人関係が難しくて、う まく人と接っする事ができない。いつも引っ込み思案で、本当は 楽しく交わりたいのに出来ない自分・・。暗い自分、もっと明る い性格なら・・人を楽しませることができたなら・人に好かれる のに。 しかし、プライドが人一倍高く、素直でないそんな自分が嫌で、 嫌な所ばかりが目につく。自己憐憫に陥り、せっかく近づいてく れる人にも、突っ張ってしまう。相手は戸惑い離れて行ってしま う。寂しさと孤独感、劣等感、心満たされず虚しさでいっぱいだ った。そんな時に、教会へ行き、ザアカイのメッセージを聞いた。 ザアカイと自分がそのまま重なった。主はザアカイの心のすべて をご存じで、初対面なのに「ザアカイ」と名を呼ばれ、「急いで 降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まる」と。家に泊ま るとは、丸ごとザアカイを受け入れていることだ。「この自分の 家に?」罪を犯しているザアカイは、驚いたことだろう。大喜び で主をお迎えした。主のご愛に触れて、ザアカイは悔い改めた。 そして主により注がれた愛は、ザアカイを変えてしまった。財産 の半分を貧しい人に施し、だました人には4倍にして返すと。施 しなど考えた事も無かったろう。主で心が満たされ、執着してい た富から解放された。その人は、その日のメッセージが自分のた めに語られていると感じ、主を信じた。心の底の渇きを主はご存 じだ。主は、求めに必ず答えて下さる。 ---------- ザアカイがザアカイのままで受け入れられたように。主は渇いた 心を決して見過ごさず大切に扱って下さる。私達よりも先に主が 私達に目をとめて下さっているからだ。
2013年03月12日(火) 「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」Tヨハネ3:14
「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」Tヨハネ3:14
「互いに愛し合うべきであり、カインのようであってはいけません」カインのようになるなと言われる。カインは、弟アベルを殺害してしまった。なぜ殺害に至ったのか。それは、神への献げ物の事だった。カインとアベルが神に献げ物をしたが、アベルの献げ物は受け入れられ、カインの献げ物は退けられた。カインは激しい怒りで震えた。しかし「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる」、 何かが間違っていたわけで、悔い改めて、正しく献げ直すことができた。が、その激しい怒りの矛先がアベルへと向かい、アベルを妬み、その妬みは、憎しみへと増幅した。問題は、まずカインと神との関係にあった。神との関係が正しくなかったので、弟殺害という罪に向かってしまった。私たちはどうだろう。 新しく生まれた私たちは、すでに「死からいのちに移った」。新しい性質は、神の性質であり、その性質は兄弟を愛そうとする。愛さないのではなく、愛して行こうとする。しょっ中、つまづいたり転んだり挫折したりするが、御霊を宿した人は、必ず愛そうとして行く。それが救われている「しるし」だと言っている。いつも御前に悔い改め、悔い改めて、主とクリアな正しい関係でいよう。その時、愛が与えられて、御霊によって兄弟を愛して行ける。 ------------ 弟の祝福を素直に喜べないカインの悔しさは肉の内にはあるが、それでは駄目だとの御霊の促しも受ける。愛のなさや自我の醜い姿が示される事はなんと祝福だろう。素直に悔い改めて愛する力を受けられる。
2013年03月11日(月) 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」ヘブル12:6
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」ヘブル12:6
信仰人生になぜ試練があるのか。御言葉は、その理由を神の愛だと言っている。懲らしめは愛だと。子として愛し、受け入れているからだと。しかし、私たちの古い価値観、感覚とは相容れない。試練は苦しみと痛みを伴う。苦しみの中で、なかなかこれが愛と思えず、むしろ愛されていないのでは、見捨てられているのでは、と思ってしまう。しかしこの時に、自分の思い、自分の感覚にだまされてはならない。 自分の思い、感じ、でなく、神の御言葉のほうを信じ、御言葉に立つことが肝心だ。懲らしめは愛であり、懲らしめが無いなら、私生児であって本当の子ではない。子であるからこそ、訓練し、懲らしめると。訓練は痛いが、鍛えられて困難を乗り越える力が身につく。そして、砕かれることによって、聖められて行く。 「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」。試練は聖められて行くためだ。「受け入れるすべての子に、むちを加えられる」「訓練と思って耐え忍べ」 又、試練の時にこそ、人は真実な祈りをする。今までの生き方、考え方、又、自分の内側がすべて裸にされ、あらわになる。何に依存していたかを知る。余裕がある時には、きれい事でやって行けるが、試練の時は余裕がなく、体裁も何もなく、ひたすら主に拠りすがる。その心底からの叫びは聞かれる。そして親しく主と交わり、主を深く知って行ける。 ----------- 痛いだけで終わらせず、ふり返った時に全て益だったと言いたい。だから今の試練の中に主を認めていよう。裸の自分を知らされ、なおも聖めようとしていて下さる主に試練を通し近づいて行きたい。
2013年03月10日(日) 「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしな さい。あなたの罪は赦された』と言われた」マタイ9: 5
「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしな さい。あなたの罪は赦された』と言われた」マタイ9: 5
4人の友人が中風の人を床に寝かせたまま、主のもとへ運んで来た。 すると、主は彼らの信仰を見て、中風の人に「あなたの罪は赦され た」と言われた。 彼らは病気の癒しを求めて、主のもとに来たのであり、しかしそこ で聞いたのは、予想外の罪の赦しであった。「罪の赦しなどでなく て、病気を治して欲しい!」。そう言いたかったかも知れない。 そして罪の赦しの後「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさ い」と中風をいやされた。彼は起きて家に帰った。いやしを求めて 来たが、罪の赦しを与えられた。単に身体のいやしだけなら、又、 病気になるし、又、元気であっても、死後に罪のさばきがある。 しかし、私たちは、とにかく現実の生活を助けて欲しい。困難な問 題をすぐにでも取り除いて欲しい。人が望むものは、家内安全、商 売繁盛、無病息災、五穀豊穣だ、罪の赦しなどどうでもよいから、 目に見える必要が欲しい。むしろ、罪など触れられたくない。隠ぺ いしておきたい。 しかし、実は、根本的な問題は罪にある。私たちの苦しみの原因は 罪であり、目の前の問題が問題なのではない。病気さえ良くなれば、 仕事さえあれば、と思うが、そうではない。罪とは的はずれという 事であり、問題は、神から離れていることから起きている。 「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」罪が赦される 時、神との交わりが回復する。その時、主と自分の関係が正しくな り、主との親しい交わりの中で、目の前の問題が導かれて行く。す べての問題が益として、祝福へと導かれて行く。 ・・・・・・・・・・・ 問題が問題なのでなく、主との関係が第一であり、大切だ。どんな 問題であっても、主によって導かれ、乗り越えて行ける。心に平安 が与えられる。悔い改め〃、正直に主に向かい、主とへだての無い 関係でいたい。
2013年03月09日(土) 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまない だろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れ ない」イザヤ49:15
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまない だろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れ ない」イザヤ49:15
私たちには、主に従う中で、時に経験するだろうか。祈っても、状 況が何も変わらない。どれだけ祈っても、助けが全く見えて来ない。 どこへも進めず、何も、どうにもならない。愛されているのだろう か。ちゃんと見て下さっているのか。一人取り残されたように感じ る。 イスラエルも、苦難の状況があり「主は私を見捨てた、主は私を忘 れた」と言った。失望落胆し、意気消沈していた。しかし、そんな イスラエルを、主は励まされている。「女が自分の乳飲み子を忘れ ようか。胎の子をあわれまないだろうか」と。 そのように、決して愛する者を見捨てることは無いし、忘れ去るこ とも無い。そして「たとい女たちが忘れても、このわたしはあなた を忘れない」と。決して我が子を忘れることのない母親が、万一忘 れたとしても、このわたしは絶対に忘れないと。 私たちは、絶対に忘れられる事も、見捨てられる事も無い。よく病 院で、忙しい看護師さんが、絶対に忘れてはならない重要な事を、 水性マーカーで手のひらに書いている姿を見る。手は必ず目に触れ るからだ。 その文字は何度も消しては、書き直す。手を洗えば消えてしまう。 しかし、主は「手のひらにあなたを刻んだ」と言われる。刻んだも のは消しても絶対に消えない。それほどに強く堅く愛されている。 あなたは今、自分は忘れられているとの思いがあるだろうか。そう ではない。絶対に見捨てられず、忘れられていないことを、あなた をじっと見て下さっている事を覚えよう。 ・・・・・・・・・・・・ 素直に御言葉を受け入れるなら、どんなに喜びであり、安堵であり 嬉しい事だろう。御言葉をかみしめ、反すうし「決して忘れない、 手のひらにあなたを刻んだ」と言われるお方を見つめ続けよう。
2013年03月08日(金) 「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」箴言14:4
「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」箴言14:4
牛や馬を使って、農業をしていた頃は、牛や馬を飼わなければなない。牛舎や馬小屋は汚れる。いつも掃除し、えさをやり、糞を片付けなければならない。毎日、毎日大変な作業だ。肉体労働であり、手がかかる。世話に骨が折れるが、しかし、牛や馬は、農作物の収穫のためには、どうしても必要不可欠だ。それによって収穫ができる。しばしば余りの大変さに、牛さえいなければと思うかも知れない。飼葉おけを汚したくなければ、牛や馬はいないほうが良い。 しかし、豊かな収穫が欲しければ、牛や馬は重要な存在だ。人の手だけでは、収穫に限りがある。同様に、私たちは、何かを成し遂げようとするなら、犠牲が必要とされる。手間ひまかかり、面倒で、煩雑なこともあり、様々な関わりが出て来るかもしれない。まさつが起き、問題も起きてくる。しかし、牛がいなければ、何の手間も、面倒なこともないが、収穫が全く期待できない。 そのように、私たちも人や物事と関わらなければ、喜びや感動や成長はない。安穏無事だけを願うなら、飼葉おけはきれいなままだが、豊かな収穫を得ることはない。喜びを味わうこともない。今、何かすべき事が示されているか。骨が折れ、手間がかかりそうだろうか。あるいは、対人関係の関わりだろうか。しかし、豊かな収穫が、祝福が備えられている。御心に従おう。 -------------------- 飼葉おけは綺麗なままだが、自分自身にも全く成長もなく変化もないならどうだろう。前から来る新しい関わりは、主が成長させ変えてくださるチャンスかもしれない。祈ってみよう。
2013年03月07日(木) 「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」ローマ8:9
「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」ローマ8:9
私たちの肉の性質は、寒暖計のごとく相手に反応する。相手が自分にしたように、自分も相手に対してする。つまり、敵対して来る相手には、敵対し、批判する相手を批判し、冷たい相手には、冷ややかだ。そして、親切な相手には親切で返し、愛してくれる相手は愛する。これでは相手に依存してしまっている。自分の行動が相手次第になり、相手に左右され、それでは自分が無い。又、自分が無いと、相手によって、シーソのように自分がアップダウンしてしまう。 ある人が、病気で入院していた。そこに、自分と同じ病状の若者が入って来た。辛い気持ちがわかるので、励ましたいと交わりを持った。幸いな交流が続いた。ところが日の経過と共に、若者は、どんどん回復して行った。自分は回復のめどは無い。その時、こんなはずではない気持ちが生じた。寂しさを感じ、羨望と、妬みが湧いた。彼の回復を、自分も願っていたのに、取り残されたように、寂しく妬ましくて喜べない。喜ぶ者と共に喜べない。自分の正直な姿だった。 人の幸せを喜べず、人が不幸だと安堵している自分。人が幸福になると、自分は惨めな気持ちになる。自分は変わらないのに、人によって幸せになったり、不幸になったりする。こんな虚しい人依存ではなく、御霊によって生きて行きたいと強く思った。主と交わり、心の内をすべて打ち明け、自分自身を明け渡した。心に平安が来た、自分はできないが、御霊が助けて下さるので、一つ一つ従って行こうと思えた。 ----------- 肉に反応してもその度に、変わらず導き返して下さる御霊の声を聞いて行きたい。ころころろ変わる相手の反応にあわせて不確かな歩みへと向かわぬよう、主しっかりと付いていよう。
2013年03月06日(水) 「人は言った。『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです』」創世記3:12
「人は言った。『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです』」創世記3:12
エデンの園で、サタンの誘惑により、最初の人アダムとエバは、神の命令に逆らって、罪を犯した。「神のようになり、善悪を知るようになる」と言われ、そうなりたいと、善悪の知識の木からとって食べた。その時、神から離れた。その結果、神の御顔を避けて身を隠した。 そんな彼らに、神は「あなたは、どこにいるのか」と問うて下さった。主の問いかけにより、初めて罪を認識できる。悔い改めの機会を、主のほうから与えて下さった。ところが、罪を認めず、自分は悪くない、この女が悪い。この女がくれたので、私は食べた。更には、この女を私のそばに置かれたのは、あなたであり、あなたが悪いと。 エバはエバで、私は悪くない、蛇が惑わしたのだから、惑わした蛇が悪いとした。責任転嫁、自己正当化、正しいのは常に自分だ。この罪の性質が、自分自身にもあり、日常生活、至る所に顔を出す。相手の言葉に自分が腹を立てると、自分を怒らせるような事を言う、相手が悪い。怒らせるような事を言わなければ、自分は怒らないのにと。しかし、怒っている自分の罪には気づかない。 ある人は、自分は被害者であり、相手が悪いとしか思えなかった。相手のせいで辛く苦しいと。しかし、御霊に示された。その相手を憎んでいる罪ゆえに、平安が無くて苦しいだと。その罪を悔い改めた時に、心に平安が戻った。主と自分の間の隔てが無くなったからだ。自分の問題である事に気づく時、解決が来る。 ----------- 全く自分が悪いと罪は認めやすいが、憎んで当然、惑わされても当然の状況であれば弱い。責任転嫁の準備がすぐに整う。主の前に自分の問題としての罪に気づけ、そして悔い改めていきたい。
2013年03月05日(火) 「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した」マタイ25:18
「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した」マタイ25:18
クリスチャンの神観は、信仰生活に大きく影響する。あの1タラントのしもべはどうだろう。彼の神観は、「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方・・私は怖くなり、あなたの1タラントを地の中に隠した」だった。このしもべは、いい加減な人ではない。むしろ真面目で、1タラントを絶対に減らす事はできないと考えた。 恐ろしい主人だ、減らしでもすれば、どういう事になるか。失敗を極度に恐れて、何もせず、地の中に埋めた。そのまま返せば文句は無いだろう。彼は主人を信頼していなかった。彼の主人観は、恐い厳しい人、絶えず要求され、奪い取られ、失敗や過失は許されない。失敗するならひどく罰っされる。怯えと恐れに支配されていた。そんな主人のために、何かをしたいなどと思わない。最低限すべき事は、きちんとするから、後はいっさい関わらないで欲しい。 これはパリサイ人そのものだ。律法を几帳面に守り、人からいっさい非難されないよう、真面目に生きる。しかし問題は、しもべを愛し信頼し、失敗のリスクも承知の上で、多額の富を預けてくれた主人の心を、知らなかったことだ。主人の心は、愛と慈しみでいっぱいであり、しもべと喜びを共にしたい。「良い忠実なしもべ」「僅かなものに忠実であったから」、主は失敗については言われない。忠実であることを見られる。タラントを忠実に精一杯用いて行こう。 -------- 愛されているがゆえに多くの賜物を今日も神様から与えられている。生活の全てが恵みの賜物だ。1タラントすら無事にお返し出来ないところも赦し、受け入れてまた豊かに与えられる。委ねられた賜物を喜んで忠実に用いていこう。
2013年03月04日(月) 「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」ヤコブ1:3
「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」ヤコブ1:3
「忍耐」を表わす言葉には、「とどまる」との意味があるそうだ。つまり、忍耐とは、希望をもってとどまることだと。試練が来た時に、逃げないで、避けないで、その下にとどまる。辛いこと、苦しいことからは、誰しも逃げたい。何とかして逃れようとしてしまう。しかし、逃げずに、とにかくそこにとどまる時、主は忍耐を生み出して下さる。そして、私たちが願う「成長」が与えられる。 「信仰がためされると忍耐が生じるということを・・知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」とあり、「忍耐を完全に働かせなさい」と言われている。 ある人が、人に関わる事が多い仕事であった。そんな中、一人の相手からクレームが来て、文句を言われ、批判され、辛い厳しい状況だった。上司に相談すると、その相手には、誰が対応しても同じで、あなたの問題ではないと言われた。非常に苦しい状況だったが、自分の思いでなく、主の御心に従いたいと祈った。 主が教えたい事があると信じ、とにかく逃げないで、辛い事態に向き合って行こうと決心した。主に仕えるように、相手に仕えることを祈って行くと、いつしか辛さが消えて平安になった。そして、しばらくすると配置替えになった。だが、逃げなかった事で、大きな学びを得た。自分が変えられることを経験し、信仰に一歩前進が与えられた。 --------- 今の状態をそのまま見ると下向きになり落ち込んでしまう。そこから主を見て、主の約束を信じて祈ろう。希望をもって試練の中でとどまれる忍耐を祈ろう。
2013年03月03日(日) 「そのために私は、高ぶることがないようにと、肉体に一つのとげ を与えられました」Uコリント12:7
「そのために私は、高ぶることがないようにと、肉体に一つのとげ を与えられました」Uコリント12:7
パウロは、痛く、苦しいとげが与えられていた。主のために更に働 けるよう、その障害となる、とげが取られるように切に願った。し かし、この願いの答えは「ノー」であり、取られなかった。とげは そのまま残された。 このとげが与えられた目的は「高ぶらないように」だった。とげに より、高ぶることから守られ、主に拠り頼まざるを得ない、へりく だった歩みが与えられた。主に従う道は、下へ、下へと、へりくだ りの歩みだ。主はご自分を卑しくし、死にまで従い、十字架の死に まで従われた。 しかし、肉の性質は、これを避けて、逃れたい。肉は、上へ、上へ の道を歩みたい。求めるものは成功であり、人からの賞賛であり、 地位、名誉であり、評価され、認められることだ。これがまさに高 ぶりだ。私たちにも、とげが与えられているだろうか。 そのとげにより、高ぶりから守られるなら、何という恵みだろう。 それは病だろうか、様々な困窮か、難しい対人関係か。「この病さ え無ければ」「こんな生い立ちでさえ無ければ」「この環境でさえ なければ」「この相手さえいなければ」こんなに苦しむ事は無いの に・・。 「これを去らせて下さい」と、熱心に願っただろうか。除かれない 代わりに、主の大きな恵み、深いご愛、慈しみを知ることになる。 その弱さの中に恵みは十分であり、このとげが無ければ決して知る ことは無かった、そして高慢から守られた、と後に必ず言える。 ・・・・・・・・・・・ 「こうでさえ無ければ」こんなにしんどくないのに、「これがある ばかりに」辛い、というものがあるだろうか。そこでこそ、へりく だらされて、主を知って行ける。そして高慢から守られる。実は大 きな恵みだと知る。
2013年03月02日(土) 「・・自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いを もって、次々に教師たちを自分のために寄せ集め、真理から耳をそ むけ」Uテモテ3:3
「・・自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いを もって、次々に教師たちを自分のために寄せ集め、真理から耳をそ むけ」Uテモテ3:3
サムエルは「はい、ここにおります。主よ、お話ください」と、主 の御声に聞き入った。「はい、ここにおります」は、「何であれ、 おっしゃる事に、お従いします」のスタンスだ。サムエルはその姿 勢があったから、御声を聞くことができた。 私たちはどうだろう。自分に都合の良い事しか耳に入らないだろう か。人は、自分の聞きたい事だけを聞いている、と言われているが、 肉は、都合の悪い事は聞きたくないものだ。耳をふさぎスルー してしまう。ただただ、自分の願いを聞き届けて欲しい。願い通り になって欲しい。余りに願いが強いと、願望以外のものは、耳に入 らなくなってしまう。 そして、尚かつ自分は聞いているつもりなので、極めて要注意だ。 無意識に、自分の願望でもって御言葉を読み込んでしまう。そうな ると、御心と逆方向に向かう。まず自分自身を明け渡すことが大切 だ。もし思い通りでなくとも、受け取りますとの姿勢が大事だ。 その時、心が備えられ、御声が聞こえて来る。御心を知れる。又、 自分の甘い思いと違い、御言葉は時に非常に厳しい。「敵対する人 を、嫌いな人を愛しなさい」「あなたを傷つけた人を赦しなさい」 「ギクシャクしている相手と和解しなさい」。肉には、到底受け入 れられず、嫌な、したくない事だ。 しかし、弱さの中に恵みは十分、主が語って下さったからには、成 し遂げる力も共に与えて下さっている。御声を聞いたなら、すぐ従 おう。「必ずそれができるから」。 ・・・・・・・・・・・・ 肉の性質は、人生が自分の思い通りに、自分の都合の良いようにな って欲しいと願う。しかしその思いが強いと、自分の思いしか見え なくなってしまう。自分の思う最善と、主が思われる最善はしばし ば違う。一旦主に明け渡そう。その時、御心へと導かれる。
2013年03月01日(金) 「イエスは彼らに言われた。『水がめに水を満たしなさい。』彼らは水がめを縁までいっぱいにした」ヨハネ2:7
「イエスは彼らに言われた。『水がめに水を満たしなさい。』彼らは水がめを縁までいっぱいにした」ヨハネ2:7
カナで結婚式があった。宴会の途中で、ぶどう酒が切れた。当時、結婚式でのぶどう酒は、無くてならぬ重要な大切なものであった。それが途中で無くなるなど、主催者側の大失態であり、結婚式ぶち壊しの事態だった。すぐに察したマリヤが主に助けを求めた。そしてマリヤは、緊急事態を主に委ねた。すると、主は動かれ、手伝いの者たちに「水がめに水を満たしなさい」と言われた。 それは80〜120リットル入る水がめ6つだった。6つものかめに水を満たすのは大変な作業だ。しかし、主の言われた通りに、彼らは水を入れて行った。この場合、私たちは思うだろうか。「何で、水を汲むのか?」「ぶどう酒が必要なのに、水など入れてどうするのか?」「こんな事をしてどうなるのか?」戸惑いと疑問が来るかも知れない。だが、彼らは「水がめを縁までいっぱいにした」とあり、主の言葉の通りに、6つの水がめを縁まで満たした。適当に7分目8分目まで入れたのでなく、言われた通りに縁まで満たした。 尚も、主は、その水を入れた水がめを世話役の所へ持って行くようにと言われた。「え?水を持って行くのですか?」となりそうだが、「彼らは持って行った」。どこまでも従順で忠実だ。それは良いぶどう酒、上等のぶどう酒に変わっていた。時に、主の示しが、自分の思いや常識と違っても、その通りに従おう。その時、主の栄光を拝する。 ----------- 疑わず主に従った者だけが、水がぶどう酒に変わるという信じられない奇跡を拝する。その経験は私たちを更に信仰に進ませてくれる。疑わずつぶやかず主を信じ、従おう。